NOVEL
剣の国の黒猫
38) 薄暗い部屋の中
薄暗い部屋の中、堅く閉ざされた雨戸の前でフェイは静かに立っていた。
朝のまだ冷たい空気を深く吸い込み、吐き出し。そして祈るように目を閉じると、薄い木製の雨戸を一息に押し開いた。
目蓋が赤く染まる。
パッと目を明けて飛び込んで来たのは、抜けるように青い空と山間から漏れる黄金色の光。
「よしっ! 快晴だ!」
満足そうに笑みをこぼすと、色付きはじめた町を見渡しながらグッと体を伸ばす。
空には申し訳程度の綿雲しか浮かんでいない。これなら、今日一日はさぞ気持ちのいい陽気で満たされることだろう。
いや、そうでなくては困る。なにせ今日は――
「クロフの結婚式だからな!」
フェイはこらえ切れずにそう叫ぶと、寝間着のラフな格好のまま部屋を出てリビングを通り、真っ直ぐに厨房へと入っていった。エルカに交渉して造ってもらった自慢の厨房だ。
「さて、と」
フェイは袖をまくり上げ、部屋の隅にある箱から乾燥した木屑を取り出し、それを石造りの小さな筒へ入れる。筒にやはり小さな蓋をかぶせるとその上に付いたハンドルをガチンガチンと回す。間をおかずに蓋を開いて木屑に息を吹き込むと、小さく火が灯った。それを釜戸の下で眠っている炭に放り投げ、脇の足踏みポンプを何度か踏み込む。
フェイの日課である、朝一番の火起こしだ。
炭が十分に燃え始めると、今度は水瓶に溜めた水をケトルで直接すくって釜戸の上に置いた。
それらの行動の目的はただ一つ、最高のベルリーフティーを淹れる事である。
「仕事の後の一杯も捨てがたいが、やっぱりモーニングティーは最高だよな」
うんうんと自分の言葉に頷きながら、湯が沸くまでの時間に外に出て顔を洗い口をゆすぐ。戻ってきた頃にはケトルがいつもどおり元気よく湯気をふいている。
まずは少量のお湯をポットに入れ、そのお湯をすぐにカップに注ぐ。これでポットとカップが温まったはずだ。
次いで茶葉をポットに適量投入し、浸る程度の湯を丁寧に注ぐと蓋をして丹念に蒸らす。蓋はしっかりと閉めたはずだが、それでもポットから漏れ出るベルリーフのかぐわしい香りが胸をどうしようもなく高鳴らせた。
そして、最後にポットへお湯を注ぎかける。注がれた湯がたちまち赤とも黄ともつかぬ液体に変わり、その中でベルリーフの小さく丸い葉がクルクルと踊る。
「綺麗だ……なんて美しい」
名残を惜しみながら蓋を閉じ、フェイは顔を上げた。
「おーい、エルカ! お茶が入ったぞ!」
店の奥に声をかけながら、フェイは料理用のナイフでパンとチーズを手早くスライスし、程よく炎の消えた炭火で軽くあぶる。
そうこうしていると、寝癖の残るエルカがあくびをかみ殺しながらリビングに現れ、店の隅に置かれたテーブルにつき、鼻をひくつかせた。
「……おお、いい匂いだな。まだ10日ほどしかた経っていないのに、ずいぶん懐かしい気がするよ」
「俺もだよ、エルカ。ここんところ、ゆっくりする暇なんかなかったもんな」
フェイは苦笑を浮かべながら、手際よくテーブルにパンとチーズを並べ、最後に豊潤な香りを放つお茶をカップに注ぐ。カップを染める液体は濃過ぎず、薄過ぎず、絶妙な加減に仕上がっているようだ。
エルカはカップを鼻先でくゆらせ、満足そうに口をつけた。
こうやって美味しそうに飲んでもらう事は、フェイにとって何よりの報酬だ。
「ああ……そう言えば、フェイ、傷はもう大丈夫なのか?」
突然尋ねるエルカに、フェイは絆創膏を貼ったあごをひとなですると、これくらい領主のゲンコツに比べたらなんでもないと笑う。しかし、エルカはゆっくりと首を振ってフェイの目を見つめた。
「違うよ。こっちの方だ」
そう言ってフェイの胸をトンと突いた。
あの日、砂漠でオルフェル率いる盗賊たちと戦った夜。
いきなり巨大な鉄の塊――ダンプと呼ばれる機械らしいが、それが突然現われ、セラが休戦を呼びかけた後、戦いは一気に終結したらしい。
らしいというのは、フェイは事もあろうにセラに再会した直後、気を失うように眠ってしまったのだ。思い返すだけで赤面ものだが、オルフェルやタタロンたちと戦わなきゃいけない状況は、予想以上に精神をすり減らしてしまったのだろう。
フェイは眠ったまま乗ってきた馬車でゼクス領まで護送され、エルカやコノハ、ルナ、そしてセラと一緒にゼクス領まで戻ってきたらしい。
そしてフェイが目を覚ましたのはまだ昨日であり、心の整理はさすがにまだ付いていない。誰か捕まったのか、今はそれすら分からない。でも、
「大丈夫だよ。いつまでもクヨクヨもしてられないし、それに今日は俺が盛り上げてやらなきゃな!」
そう言ってパンの上に柔らかくなったチーズをのせて豪快にかぶりつく。
しばらくフェイを見ていたエルカは、ふうと鼻で息を吐くと小さく頷いた。
「……そうか、だが無理はするなよ。あと俺も行ってやりたかったんだが、事務処理が溜まってしまってね。悪いが、クロフにおめでとうと伝えてくれ」
「分かってるって。ごめんな、面倒ごとは全部押し付けて」
「なに、お互い様だよ」
エルカは微笑むとカップを軽く掲げた。
「忘れ物は、ないよな」
領主からふんだくった上質のシャツとスラックスを身に付け、フェイは何度目かになる荷物の確認をしていた。
式場はルナの働いている教会で、エルカーナからはそれほど時間がかからないのだが、楽しみのあまり早いと分かっていても、つい身支度を急いでしまったのだ。
そんなフェイの様子をベルリーフティをすすりながら見ていたエルカは、「そうだ」と懐から一枚の仮面を取り出した。
「フェイ、外に出る時はこれをつけていろ」
「……なんだ、これ。仮面?」
「そうだ。お前は既に有名人だからな。あまり騒がれたくないだろう?」
「で、でも、これはちょっと」
「大切な友人の結婚式に野次馬が入るかも知れんぞ。いいから付けておけ」
「うっ」
フェイは仮面を受け取ると渋々ながら顔につけて、裏で紐を結ぶ。
真っ白な仮面は木製らしく丈夫だが結構重い。しかも、たしかに顔は隠してくれるものの、上等のシャツとスラックスと白い仮面姿は、傍から見れば怪しさ大爆発である。
『でも文句は言えないか……よし、そろそろいってくるよ、エルカ!』
「ああ、素敵な式になるといいな」
『ああ!』
フェイは手を振って出て行く。
仮面の下の表情は分からなかったが、その下にあるのが幸せいっぱいの笑顔だと、エルカには十分すぎるほど分かっていた。
教会の会堂は花々やリボンで鮮やかに彩られていた。いつもの教会の厳粛な雰囲気が、それだけで華やかな式場に一転するのだから不思議だ。
フェイはまず、クロフの控え室になっている小部屋を覗く事にした。
懐かしい門をくぐり裏口から小部屋に入ると、衛視仲間に囲まれているクロフが真っ先に目に入る。からかわれているのだろうか、その困りながらも嬉しそうなクロフの横顔を見て、ずいぶんと久しぶりだと感じた。
フェイはクロフの背後からこっそりと近づき、後ろから声を掛ける。
『おい、クロフ』
「ん? ――うおわっ!」
クロフは振り替えるや、飛び上がるように立ち上がった。周りにいた連中も警戒するように一歩引く。
『ちょ、ちょっとまて! 俺だよ、俺!』
「……その声は、フェイか?」
『おうよ! 見て分からないか?』
「分かるかよ、くそっ! 変な仮面付けやがって!」
フェイとクロフは拳をガツガツと打ち合わせ、その様子に気を利かせたクロフの同僚の衛視たちが、静かに部屋を出て行く。
良い同僚達に恵まれたんだなと、フェイは人事ながら嬉しくなった。
「それにしてもまだ生きてたんだな。俺はまた、領主かコノハに撲殺されたかと」
『勝手に殺すなよ! お前が緊張して結婚宣誓を噛むのを見るまで死ね無いっての』
「うおお、怖い事を言うじゃないか」
クロフは顔を引きつらせた。どうやら本当に緊張しているらしいので、あまりつつき過ぎないようにしなければならないだろう。
「フェイ、それにしてもなんだよその仮面は? 密教にでもはまったのか?」
『違うわ! これが無いと町も歩けないんだよ……ったく』
「はずせはずせ。ここにはそんな野次馬はいないぞ」
フェイは頷いて仮面を外すと、クロフに満面の笑顔を見せた。
「おお、フェイ! なんて酷い顔に……」
「この顔は生まれつきだ! おめでとうくらい言わせろ!」
フェイはそう言ってクロフの胸元をゴツンと叩く。
この懐かしいじゃれ合いに、フェイはつい目元が潤みそうになった。
――そうだ、これが日常なんだ
不幸慣れしてしまったフェイは、その有り難さを強く噛み締めた。
クロフに別れを告げ、式場に入ると既に席はほとんど埋まっていた。
衛視であるクロフと、酒場の娘であるレンファが結婚するとなると、さすがに結婚の証人となりたいと思う人間は後を絶たないらしい。
シュバート国の結婚式は、二人で一本の剣を掲げ夫婦の宣誓をする。神と人に宣誓の証人となってもらい、証人となった人々は二人の行く道を祝福し、新しい仲間として歓迎するのだ。
しかし、これでは前で祝うことができない。少し長くクロフと話し込みすぎたかもしれない。
「フェイ! こっちこっち!」
困り果てていると前の方からコノハが手を振り、フェイを呼んでいた。助かったとばかりに隅の通路を通って前に向かう。
コノハは薄紅色のフォーマルドレスを着て、この間より少し控えめな化粧をしていた。そうは言ってもいつものコノハとは別人に思え、つい彼女を背負った時の事を思い出し、赤面する。
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
「ほら、突っ立ってないで早く座る。後ろの邪魔でしょ」
フェイは頷いてコノハの隣に座り、その席が前から二列目だと言う事にようやく気が付く。なんと親族席のすぐ後ろなのだ。
「うわ、随分前だな……こんな前だと緊張するだろ。もう少し後ろに行かないか?」
「バカね、後ろに席なんてもう無いわよ。それにあんたが緊張してどうするのよ。緊張してるクロフをアタシたちが応援するのよ!」
コノハは真っ直ぐな視線でそう力説した。
少し前まで、コノハの事が良くわからないと思っていたフェイだが、その視線は初めて会った時と少しも変わらない。正義感とおせっかいに溢れた、昔から変わらないコノハの真っ直ぐな眼差しだ。
――すっかり、元通りになったんだな
フェイは微笑むと「そうだな」と小さく頷き、コノハの横で姿勢を正した。
やがて、時を告げる鐘が教会中に鳴り渡り、明かり取りの小窓をルナやシスター達がバタバタと閉めていく。
部屋が暗くなり、ただ一つ開かれた天窓から光が射し込んでいた。
光は式場の前方に設置された講壇に降り注ぎ、そこには装飾用の豪奢な剣が抜き身で横たえられている。全身に光を浴びた刃は、まばゆいばかりの銀光を周囲に撒き散らしていた。
暗くなったはずなのに、剣に反射する光でフェイは逆にまぶしく感じ、目を細める。
バタン
突然、後方の扉が開き、クロフがレンファの手を引いて現れた。
会衆が僅かにざわめくも、二人は雑音など聞こえないかのように静々と講壇前に向かって歩を進める。
ゼクス領の特色として、新郎新婦は必ず真っ白な衣装に身を包むというしきたりがある。クロフは暑いのを我慢して、輝くような白いサーコートを着込んでおり、レンファの着ているドレスも上から下まで真っ白であった。
「綺麗……」
コノハがうっとりとため息を吐いた。
確かに、レンファの着ているドレスは彼女を幾倍にも美しく見せていた。肩を出した大胆なドレス、スカートは腰の辺りから円状に広がっており、白い花を腰に巻いているような幻想的で可憐な衣装だ。
「クロフ、奮発したな」
フェイの独白を聞いたコノハが、フェイのつま先を容赦なく踏んだ。
「って、何するんだ」
「シッ! 雰囲気無くすような事言わないで」
――つま先踏まれた方が、雰囲気なくなるわ!
そう言い返そうとしたが、クロフのためにグッとこらえる。
カチャリ
講壇の前まで進んだクロフが右手で剣を取り、そこにレンファの左手が添えられる。
二人は支えあうように一本の剣を持つと、光射す方へと掲げた。
「神よ、御照覧あれ!」
クロフの宣誓が始まった。
「我は剣の民、アルター=クロフォード
何も持たずに生まれ、何も持たずに死する者
されどこの一瞬の生に、守る喜びを知る者なり
故に我は望む、二人が一本の剣とならんことを」
そしてクロフはレンファを見る。
その労わるような視線にレンファは小さく頷いた。
「我は剣の民、ラウォン=レンファ
母の胎から出でて、母なる大地に還る者
されどこの一瞬の生に、愛する喜びを知る者なり
故に我は願う、二人が一本の剣とならんことを」
「「神よ、我らの行く末を御照覧あれ!」」
宣誓の余韻が消え、会堂からは割れんばかりの拍手と歓声が沸きあがった。
その中を二人が手を取り、歩いて行く。
「やったな、おいっ! クロフ!」
「レンファ、おめでとう!」
祝福の拍手は、二人が見えなくなるまで、止む事は無かった。
「おおぉ、すごい御馳走だ!」
外に出ると、教会の庭が立食パーティの会場として生まれ変わっていた。その入り口ではクロフとレンファが、招待客一人一人に果実酒を注いでいる。
全ての招待客が入ると、クロフ自らの音頭で乾杯をし、パーティの盛り上がりは加速していった。
その中でいそいそと動き回るルナが、フェイの目に留まる。
「おーい、ルナ。大変だよな、神官見習なのに雑用ばっかりで」
「あぁ、フェイ……まぁね」
ルナは大量の皿を抱えて、少し憂鬱そうだった。
「どうしたんだよ。なんか元気ないぞ」
「いいのいいの、分不相応な事は諦めるの……それより、フェイ。今からクロフの友人代表の挨拶をやるんだけど、お願いしてもいい?」
「う……まぁ、やれと言われればやるけど。でも、俺なんかにできるかな?」
「大丈夫、フェイなら上手くできるって」
「お、おう!」
ルナに言われて、フェイはすぐにその気になった。男とはかくも単純なものである。
新郎新婦席の横に設置された小さな壇上に昇ると、フェイはケホンと咳き込んだ。
会衆の視線が集中する。
「えー、皆様。俺……ケホンッ、わたくし、クロフの友人で、リア=フェイロンと申します」
ドヨドヨと会場がざわめいた。フェイのこめかみがヒクつく。
――――なんだよ、その反応は。そこっ、黒猫とか言うなっ……いやいや、怒るな。クロフの大切な日なんだ。笑顔だ、笑顔!
フェイはクエスト屋でつちかった作り笑いを顔に貼り付けると、幸せそうなクロフの顔を見た。
「まずはクロフ、結婚おめでとう! 思えば、クロフと出合ったのは8年前。巨道バイスアルムの片隅で幼きクロフ君が財布を盗まれて泣いている所を未だにハッキリ覚えています」
「あああ! お前、それをここで言うかっ!」
クロフの反応に会場がドッと沸いた。
これでフェイのイライラもあっという間に解消され、口にも油がのる。
「あの事のクロフは泣き虫で、そのくせやたらと負けん気が強くて、毎日のように喧嘩を吹っ掛けられました。倒しても倒しても毎日挑んできたのです。そして、忘れもしない三年前の夏の日、とうとう私はクロフに負けたのです。彼は初志貫徹、有言実行、愚直な男です。レンファは良い人を選んだと確信している次第です」
おおおっと会場がざわつき、「あの黒猫にか」と言うどよめきにクロフは得意そうに鼻の頭を掻いた。
この反応に気を良くしたフェイは、ここらで毒の効いたジョークでもと得意になって声のトーンを上げる。
「なんと言っても、あの短気で傍若無人で人の話を聴かないクソ領主に仕えているのです。その忍耐力は保証付きでしょう!」
シン
会場が静まり返った。
滑ったか、と思ったフェイは慌てて話を締めくくる。
「え、ええと、とにかくクロフ、レンファ、おめでとうっ! 末永くお幸せにっ!」
パチ……パチ……
まばらな乾いた拍手が響く。
その冷え切った空気にショックを受ける間もなく、ルナが引きつった顔で次の挨拶者を紹介した。
「では、続きまして上司代表……領主様」
「――は?」
壇上から離れようとしたフェイの肩が、背後からガシリと掴まれる。
振り返ると、ヤツがいた。
「小僧、宴席に戻るにはちょっと早くないか?」
「……はひ」
フェイはラマのように引かれ、再び壇上に引きずり戻された。むろん、クソ狭い段上に領主も一緒にいるのだ。
しかし、領主は異様な空気に包まれた会場を一切気にせず、朗々とクロフに挨拶を述べる。
「さて、紹介に預かったゼクス領主ラドクリフ公爵である。まずはクロフ、結婚おめでとう。貴殿の日頃からの功績を称えて、わしから一発芸を贈ろう」
「い、一発芸ですか?」
「うむ」
領主は嬉しそうに頷いた。
「人間花火だ」
領主はフェイの両肩を鷲掴みにすると、重力を無視するかのように上へ放り投げた。
しかし、当然ながら重力はあるわけで、フェイはすぐに落下する。
その先に見えるのは、ギリリと拳を引き絞る領主の姿であった。
「うおあああぁ! ちょ、ちょっとまっ――」
落ちてくるフェイに向って、領主公は渾身の一撃をもって答えた。
「たあまやああああああぁ!!」
ドゴォン
「おおお、これまたすごいな!」
「新記録だっ!」
「かーぎやーっ!」
すっかり酔いのまわった一部の衛視たちはヤンヤヤンヤと喝采を贈り、シスター達は小さく合掌する。
領主はパンパンと手をはたくと、満足そうに会場を見渡した。
「ありがとう、忠実な衛視諸君。さて、わしは職務に戻らねばならない。名残惜しいがさらばだ。クロフ、末永く幸せにな」
「あ、ありがとうございます」
クロフが引きつった顔で礼を述べた頃、
グシャ
ようやくフェイが落ちた。
朝のまだ冷たい空気を深く吸い込み、吐き出し。そして祈るように目を閉じると、薄い木製の雨戸を一息に押し開いた。
目蓋が赤く染まる。
パッと目を明けて飛び込んで来たのは、抜けるように青い空と山間から漏れる黄金色の光。
「よしっ! 快晴だ!」
満足そうに笑みをこぼすと、色付きはじめた町を見渡しながらグッと体を伸ばす。
空には申し訳程度の綿雲しか浮かんでいない。これなら、今日一日はさぞ気持ちのいい陽気で満たされることだろう。
いや、そうでなくては困る。なにせ今日は――
「クロフの結婚式だからな!」
フェイはこらえ切れずにそう叫ぶと、寝間着のラフな格好のまま部屋を出てリビングを通り、真っ直ぐに厨房へと入っていった。エルカに交渉して造ってもらった自慢の厨房だ。
「さて、と」
フェイは袖をまくり上げ、部屋の隅にある箱から乾燥した木屑を取り出し、それを石造りの小さな筒へ入れる。筒にやはり小さな蓋をかぶせるとその上に付いたハンドルをガチンガチンと回す。間をおかずに蓋を開いて木屑に息を吹き込むと、小さく火が灯った。それを釜戸の下で眠っている炭に放り投げ、脇の足踏みポンプを何度か踏み込む。
フェイの日課である、朝一番の火起こしだ。
炭が十分に燃え始めると、今度は水瓶に溜めた水をケトルで直接すくって釜戸の上に置いた。
それらの行動の目的はただ一つ、最高のベルリーフティーを淹れる事である。
「仕事の後の一杯も捨てがたいが、やっぱりモーニングティーは最高だよな」
うんうんと自分の言葉に頷きながら、湯が沸くまでの時間に外に出て顔を洗い口をゆすぐ。戻ってきた頃にはケトルがいつもどおり元気よく湯気をふいている。
まずは少量のお湯をポットに入れ、そのお湯をすぐにカップに注ぐ。これでポットとカップが温まったはずだ。
次いで茶葉をポットに適量投入し、浸る程度の湯を丁寧に注ぐと蓋をして丹念に蒸らす。蓋はしっかりと閉めたはずだが、それでもポットから漏れ出るベルリーフのかぐわしい香りが胸をどうしようもなく高鳴らせた。
そして、最後にポットへお湯を注ぎかける。注がれた湯がたちまち赤とも黄ともつかぬ液体に変わり、その中でベルリーフの小さく丸い葉がクルクルと踊る。
「綺麗だ……なんて美しい」
名残を惜しみながら蓋を閉じ、フェイは顔を上げた。
「おーい、エルカ! お茶が入ったぞ!」
店の奥に声をかけながら、フェイは料理用のナイフでパンとチーズを手早くスライスし、程よく炎の消えた炭火で軽くあぶる。
そうこうしていると、寝癖の残るエルカがあくびをかみ殺しながらリビングに現れ、店の隅に置かれたテーブルにつき、鼻をひくつかせた。
「……おお、いい匂いだな。まだ10日ほどしかた経っていないのに、ずいぶん懐かしい気がするよ」
「俺もだよ、エルカ。ここんところ、ゆっくりする暇なんかなかったもんな」
フェイは苦笑を浮かべながら、手際よくテーブルにパンとチーズを並べ、最後に豊潤な香りを放つお茶をカップに注ぐ。カップを染める液体は濃過ぎず、薄過ぎず、絶妙な加減に仕上がっているようだ。
エルカはカップを鼻先でくゆらせ、満足そうに口をつけた。
こうやって美味しそうに飲んでもらう事は、フェイにとって何よりの報酬だ。
「ああ……そう言えば、フェイ、傷はもう大丈夫なのか?」
突然尋ねるエルカに、フェイは絆創膏を貼ったあごをひとなですると、これくらい領主のゲンコツに比べたらなんでもないと笑う。しかし、エルカはゆっくりと首を振ってフェイの目を見つめた。
「違うよ。こっちの方だ」
そう言ってフェイの胸をトンと突いた。
あの日、砂漠でオルフェル率いる盗賊たちと戦った夜。
いきなり巨大な鉄の塊――ダンプと呼ばれる機械らしいが、それが突然現われ、セラが休戦を呼びかけた後、戦いは一気に終結したらしい。
らしいというのは、フェイは事もあろうにセラに再会した直後、気を失うように眠ってしまったのだ。思い返すだけで赤面ものだが、オルフェルやタタロンたちと戦わなきゃいけない状況は、予想以上に精神をすり減らしてしまったのだろう。
フェイは眠ったまま乗ってきた馬車でゼクス領まで護送され、エルカやコノハ、ルナ、そしてセラと一緒にゼクス領まで戻ってきたらしい。
そしてフェイが目を覚ましたのはまだ昨日であり、心の整理はさすがにまだ付いていない。誰か捕まったのか、今はそれすら分からない。でも、
「大丈夫だよ。いつまでもクヨクヨもしてられないし、それに今日は俺が盛り上げてやらなきゃな!」
そう言ってパンの上に柔らかくなったチーズをのせて豪快にかぶりつく。
しばらくフェイを見ていたエルカは、ふうと鼻で息を吐くと小さく頷いた。
「……そうか、だが無理はするなよ。あと俺も行ってやりたかったんだが、事務処理が溜まってしまってね。悪いが、クロフにおめでとうと伝えてくれ」
「分かってるって。ごめんな、面倒ごとは全部押し付けて」
「なに、お互い様だよ」
エルカは微笑むとカップを軽く掲げた。
「忘れ物は、ないよな」
領主からふんだくった上質のシャツとスラックスを身に付け、フェイは何度目かになる荷物の確認をしていた。
式場はルナの働いている教会で、エルカーナからはそれほど時間がかからないのだが、楽しみのあまり早いと分かっていても、つい身支度を急いでしまったのだ。
そんなフェイの様子をベルリーフティをすすりながら見ていたエルカは、「そうだ」と懐から一枚の仮面を取り出した。
「フェイ、外に出る時はこれをつけていろ」
「……なんだ、これ。仮面?」
「そうだ。お前は既に有名人だからな。あまり騒がれたくないだろう?」
「で、でも、これはちょっと」
「大切な友人の結婚式に野次馬が入るかも知れんぞ。いいから付けておけ」
「うっ」
フェイは仮面を受け取ると渋々ながら顔につけて、裏で紐を結ぶ。
真っ白な仮面は木製らしく丈夫だが結構重い。しかも、たしかに顔は隠してくれるものの、上等のシャツとスラックスと白い仮面姿は、傍から見れば怪しさ大爆発である。
『でも文句は言えないか……よし、そろそろいってくるよ、エルカ!』
「ああ、素敵な式になるといいな」
『ああ!』
フェイは手を振って出て行く。
仮面の下の表情は分からなかったが、その下にあるのが幸せいっぱいの笑顔だと、エルカには十分すぎるほど分かっていた。
教会の会堂は花々やリボンで鮮やかに彩られていた。いつもの教会の厳粛な雰囲気が、それだけで華やかな式場に一転するのだから不思議だ。
フェイはまず、クロフの控え室になっている小部屋を覗く事にした。
懐かしい門をくぐり裏口から小部屋に入ると、衛視仲間に囲まれているクロフが真っ先に目に入る。からかわれているのだろうか、その困りながらも嬉しそうなクロフの横顔を見て、ずいぶんと久しぶりだと感じた。
フェイはクロフの背後からこっそりと近づき、後ろから声を掛ける。
『おい、クロフ』
「ん? ――うおわっ!」
クロフは振り替えるや、飛び上がるように立ち上がった。周りにいた連中も警戒するように一歩引く。
『ちょ、ちょっとまて! 俺だよ、俺!』
「……その声は、フェイか?」
『おうよ! 見て分からないか?』
「分かるかよ、くそっ! 変な仮面付けやがって!」
フェイとクロフは拳をガツガツと打ち合わせ、その様子に気を利かせたクロフの同僚の衛視たちが、静かに部屋を出て行く。
良い同僚達に恵まれたんだなと、フェイは人事ながら嬉しくなった。
「それにしてもまだ生きてたんだな。俺はまた、領主かコノハに撲殺されたかと」
『勝手に殺すなよ! お前が緊張して結婚宣誓を噛むのを見るまで死ね無いっての』
「うおお、怖い事を言うじゃないか」
クロフは顔を引きつらせた。どうやら本当に緊張しているらしいので、あまりつつき過ぎないようにしなければならないだろう。
「フェイ、それにしてもなんだよその仮面は? 密教にでもはまったのか?」
『違うわ! これが無いと町も歩けないんだよ……ったく』
「はずせはずせ。ここにはそんな野次馬はいないぞ」
フェイは頷いて仮面を外すと、クロフに満面の笑顔を見せた。
「おお、フェイ! なんて酷い顔に……」
「この顔は生まれつきだ! おめでとうくらい言わせろ!」
フェイはそう言ってクロフの胸元をゴツンと叩く。
この懐かしいじゃれ合いに、フェイはつい目元が潤みそうになった。
――そうだ、これが日常なんだ
不幸慣れしてしまったフェイは、その有り難さを強く噛み締めた。
クロフに別れを告げ、式場に入ると既に席はほとんど埋まっていた。
衛視であるクロフと、酒場の娘であるレンファが結婚するとなると、さすがに結婚の証人となりたいと思う人間は後を絶たないらしい。
シュバート国の結婚式は、二人で一本の剣を掲げ夫婦の宣誓をする。神と人に宣誓の証人となってもらい、証人となった人々は二人の行く道を祝福し、新しい仲間として歓迎するのだ。
しかし、これでは前で祝うことができない。少し長くクロフと話し込みすぎたかもしれない。
「フェイ! こっちこっち!」
困り果てていると前の方からコノハが手を振り、フェイを呼んでいた。助かったとばかりに隅の通路を通って前に向かう。
コノハは薄紅色のフォーマルドレスを着て、この間より少し控えめな化粧をしていた。そうは言ってもいつものコノハとは別人に思え、つい彼女を背負った時の事を思い出し、赤面する。
「どうしたの?」
「な、なんでもない」
「ほら、突っ立ってないで早く座る。後ろの邪魔でしょ」
フェイは頷いてコノハの隣に座り、その席が前から二列目だと言う事にようやく気が付く。なんと親族席のすぐ後ろなのだ。
「うわ、随分前だな……こんな前だと緊張するだろ。もう少し後ろに行かないか?」
「バカね、後ろに席なんてもう無いわよ。それにあんたが緊張してどうするのよ。緊張してるクロフをアタシたちが応援するのよ!」
コノハは真っ直ぐな視線でそう力説した。
少し前まで、コノハの事が良くわからないと思っていたフェイだが、その視線は初めて会った時と少しも変わらない。正義感とおせっかいに溢れた、昔から変わらないコノハの真っ直ぐな眼差しだ。
――すっかり、元通りになったんだな
フェイは微笑むと「そうだな」と小さく頷き、コノハの横で姿勢を正した。
やがて、時を告げる鐘が教会中に鳴り渡り、明かり取りの小窓をルナやシスター達がバタバタと閉めていく。
部屋が暗くなり、ただ一つ開かれた天窓から光が射し込んでいた。
光は式場の前方に設置された講壇に降り注ぎ、そこには装飾用の豪奢な剣が抜き身で横たえられている。全身に光を浴びた刃は、まばゆいばかりの銀光を周囲に撒き散らしていた。
暗くなったはずなのに、剣に反射する光でフェイは逆にまぶしく感じ、目を細める。
バタン
突然、後方の扉が開き、クロフがレンファの手を引いて現れた。
会衆が僅かにざわめくも、二人は雑音など聞こえないかのように静々と講壇前に向かって歩を進める。
ゼクス領の特色として、新郎新婦は必ず真っ白な衣装に身を包むというしきたりがある。クロフは暑いのを我慢して、輝くような白いサーコートを着込んでおり、レンファの着ているドレスも上から下まで真っ白であった。
「綺麗……」
コノハがうっとりとため息を吐いた。
確かに、レンファの着ているドレスは彼女を幾倍にも美しく見せていた。肩を出した大胆なドレス、スカートは腰の辺りから円状に広がっており、白い花を腰に巻いているような幻想的で可憐な衣装だ。
「クロフ、奮発したな」
フェイの独白を聞いたコノハが、フェイのつま先を容赦なく踏んだ。
「って、何するんだ」
「シッ! 雰囲気無くすような事言わないで」
――つま先踏まれた方が、雰囲気なくなるわ!
そう言い返そうとしたが、クロフのためにグッとこらえる。
カチャリ
講壇の前まで進んだクロフが右手で剣を取り、そこにレンファの左手が添えられる。
二人は支えあうように一本の剣を持つと、光射す方へと掲げた。
「神よ、御照覧あれ!」
クロフの宣誓が始まった。
「我は剣の民、アルター=クロフォード
何も持たずに生まれ、何も持たずに死する者
されどこの一瞬の生に、守る喜びを知る者なり
故に我は望む、二人が一本の剣とならんことを」
そしてクロフはレンファを見る。
その労わるような視線にレンファは小さく頷いた。
「我は剣の民、ラウォン=レンファ
母の胎から出でて、母なる大地に還る者
されどこの一瞬の生に、愛する喜びを知る者なり
故に我は願う、二人が一本の剣とならんことを」
「「神よ、我らの行く末を御照覧あれ!」」
宣誓の余韻が消え、会堂からは割れんばかりの拍手と歓声が沸きあがった。
その中を二人が手を取り、歩いて行く。
「やったな、おいっ! クロフ!」
「レンファ、おめでとう!」
祝福の拍手は、二人が見えなくなるまで、止む事は無かった。
「おおぉ、すごい御馳走だ!」
外に出ると、教会の庭が立食パーティの会場として生まれ変わっていた。その入り口ではクロフとレンファが、招待客一人一人に果実酒を注いでいる。
全ての招待客が入ると、クロフ自らの音頭で乾杯をし、パーティの盛り上がりは加速していった。
その中でいそいそと動き回るルナが、フェイの目に留まる。
「おーい、ルナ。大変だよな、神官見習なのに雑用ばっかりで」
「あぁ、フェイ……まぁね」
ルナは大量の皿を抱えて、少し憂鬱そうだった。
「どうしたんだよ。なんか元気ないぞ」
「いいのいいの、分不相応な事は諦めるの……それより、フェイ。今からクロフの友人代表の挨拶をやるんだけど、お願いしてもいい?」
「う……まぁ、やれと言われればやるけど。でも、俺なんかにできるかな?」
「大丈夫、フェイなら上手くできるって」
「お、おう!」
ルナに言われて、フェイはすぐにその気になった。男とはかくも単純なものである。
新郎新婦席の横に設置された小さな壇上に昇ると、フェイはケホンと咳き込んだ。
会衆の視線が集中する。
「えー、皆様。俺……ケホンッ、わたくし、クロフの友人で、リア=フェイロンと申します」
ドヨドヨと会場がざわめいた。フェイのこめかみがヒクつく。
――――なんだよ、その反応は。そこっ、黒猫とか言うなっ……いやいや、怒るな。クロフの大切な日なんだ。笑顔だ、笑顔!
フェイはクエスト屋でつちかった作り笑いを顔に貼り付けると、幸せそうなクロフの顔を見た。
「まずはクロフ、結婚おめでとう! 思えば、クロフと出合ったのは8年前。巨道バイスアルムの片隅で幼きクロフ君が財布を盗まれて泣いている所を未だにハッキリ覚えています」
「あああ! お前、それをここで言うかっ!」
クロフの反応に会場がドッと沸いた。
これでフェイのイライラもあっという間に解消され、口にも油がのる。
「あの事のクロフは泣き虫で、そのくせやたらと負けん気が強くて、毎日のように喧嘩を吹っ掛けられました。倒しても倒しても毎日挑んできたのです。そして、忘れもしない三年前の夏の日、とうとう私はクロフに負けたのです。彼は初志貫徹、有言実行、愚直な男です。レンファは良い人を選んだと確信している次第です」
おおおっと会場がざわつき、「あの黒猫にか」と言うどよめきにクロフは得意そうに鼻の頭を掻いた。
この反応に気を良くしたフェイは、ここらで毒の効いたジョークでもと得意になって声のトーンを上げる。
「なんと言っても、あの短気で傍若無人で人の話を聴かないクソ領主に仕えているのです。その忍耐力は保証付きでしょう!」
シン
会場が静まり返った。
滑ったか、と思ったフェイは慌てて話を締めくくる。
「え、ええと、とにかくクロフ、レンファ、おめでとうっ! 末永くお幸せにっ!」
パチ……パチ……
まばらな乾いた拍手が響く。
その冷え切った空気にショックを受ける間もなく、ルナが引きつった顔で次の挨拶者を紹介した。
「では、続きまして上司代表……領主様」
「――は?」
壇上から離れようとしたフェイの肩が、背後からガシリと掴まれる。
振り返ると、ヤツがいた。
「小僧、宴席に戻るにはちょっと早くないか?」
「……はひ」
フェイはラマのように引かれ、再び壇上に引きずり戻された。むろん、クソ狭い段上に領主も一緒にいるのだ。
しかし、領主は異様な空気に包まれた会場を一切気にせず、朗々とクロフに挨拶を述べる。
「さて、紹介に預かったゼクス領主ラドクリフ公爵である。まずはクロフ、結婚おめでとう。貴殿の日頃からの功績を称えて、わしから一発芸を贈ろう」
「い、一発芸ですか?」
「うむ」
領主は嬉しそうに頷いた。
「人間花火だ」
領主はフェイの両肩を鷲掴みにすると、重力を無視するかのように上へ放り投げた。
しかし、当然ながら重力はあるわけで、フェイはすぐに落下する。
その先に見えるのは、ギリリと拳を引き絞る領主の姿であった。
「うおあああぁ! ちょ、ちょっとまっ――」
落ちてくるフェイに向って、領主公は渾身の一撃をもって答えた。
「たあまやああああああぁ!!」
ドゴォン
「おおお、これまたすごいな!」
「新記録だっ!」
「かーぎやーっ!」
すっかり酔いのまわった一部の衛視たちはヤンヤヤンヤと喝采を贈り、シスター達は小さく合掌する。
領主はパンパンと手をはたくと、満足そうに会場を見渡した。
「ありがとう、忠実な衛視諸君。さて、わしは職務に戻らねばならない。名残惜しいがさらばだ。クロフ、末永く幸せにな」
「あ、ありがとうございます」
クロフが引きつった顔で礼を述べた頃、
グシャ
ようやくフェイが落ちた。
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