NOVEL
剣の国の黒猫
36) 濡れた砂
濡れた砂がブーツにまとわりつく。
足を踏み出すたび細かな砂が腿の裏へパチパチと当たり、それが虫のように張り付いてきて気持ちが悪かった。
フェイは肩越しにちらりと後ろを見る。数十歩ほど先に、タタロンとグズノロの二人が得物をむき出しにしたまま追っていた。
フェイの視線に気付いたのか、タタロンは顔を上げて怒鳴る。
「止まれ! 逃げても無駄だ!」
タタロンの声は幾分低くなっていたが、それでもふざけ合い、笑いあったあの頃の記憶をどうしようもなく呼び覚ます。
フェイは視線を真っ暗な砂漠へ戻すと、ひたすら前へ前へと足を踏み出した。
――このままずっと止まらなければ、俺は戦わなくて済むのだろうか
折れそうになる心を淡い希望にすがりながら、フェイはただ駆け続けた。
しかし、走り難い足場のせいで、息はすぐに切れていった。足は重くなり徐々に速度は落ちていく。もう長くは逃げられないだろう。
さらに、タタロンが鋭い指笛を間断なく吹き鳴らしていた。おそらく仲間を呼び、逃げ道を塞ごうとしているのだろうが、それはフェイにとって好都合だった。出来るだけ多くの盗賊達をひきつければ、それだけエルカ達が逃げ切れる確立が上がるはずなのだ。
――けど、その後はどうなる?
胸で問いかける不安に応えるように、腰に差したダガーが重く揺れた。
――俺は戦えるのか? 俺に、タタロンやグズノロが斬れるのか?
自分自身にそう問いかけた時、前方から何かが迫る気配を感じフェイは慌てて身を伏せた。
その直後、風を切る音が頭上を貫き、後方の地面にドッと小さな音をたてて突き立つ。
矢だ。深く突き立った矢が矢羽根だけを残して地面から飛び出ていた。とうとう追っ手が射程圏内にまで近づいたのだ。
フェイは起き上がりながらぐるりと見回すが、暗い上に砂漠の起伏が邪魔で射手がどこにいるのか分からない。しかし、先ほどの射撃から向こうはこちらが見えているはずだった。
キョン
夜風に紛れ、微かな射出音を肌に感じる。
考えるより早く右へ飛んでいた。
矢がチッと服をかすめ、さっきまでフェイのいた場所を貫く。
その正確な射撃に、冷や汗が背筋を伝った。
「よく避けたな、フェイ。だがここまでだぜ」
地に転がったフェイに息を吐かせる間もなく、背後からタタロンが襲い掛かる。
その手にある白刃を見た途端、フェイはまだ覚悟も定まらぬままダガーを引き抜いていた。
ジャリ
タタロンのショートソードを眼前で受け流し、耳障りな金属音と小さな火花が夜の闇に散る。
一撃目で仕損じたタタロンは、舌打ちを残して飛び下がった。そして、十分に距離を取ると低い姿勢で剣を構え直す。慎重で抜け目のないタタロンらしい戦い方だった。
「おい、グズノロ!」
タタロンの叫びにグズノロは黙って頷くと、フェイの背後へと回り込む。
挟まれる前に何とかしなくてはいけない――そう頭では分かっていたのだが、フェイはその場を動けず、右手に持ったダガーをゆっくりと下げた。
「やめろ、俺は戦いたくない!」
その言葉に、タタロンは表情を憤怒に染める。
「黙れよ! 相変わらず、お前の偽善には反吐が出るぜ!」
「違う、タタロン、俺は――」
「うっせえって言ってんだろ! この裏切り者が、ニルヒナまでたぶらかしやがって! 今更、お前が出てくるんじゃねえよっ!」
そう叫んで剣を突きつけるタタロンの目には、明らかな殺意があった。
肩越しに後ろを覗き見ても、グズノロが黙ったまま小刀を構えている。その表情に緊張や怯えはあっても、迷いはなかった。
そして、グズノロのさらに向こうに弓を構えた盗賊たちが小さく見えた。その数はエルカが予想していたよりも遥かに多く、40人は下らないだろう。
あまりに絶望的な状況に、フェイの頭から血の気が引いた。
――分かっていた事だろ。覚悟を決めろよ、リア=フェイロン!
フェイはダガーを逆手に構え、そう自分に言い聞かせた。
昔の仲間を殺したくない、そんな甘えた考えがこうやって自分に跳ね返ってきたのだ。悪人にも善人にもなれず、中途半端な偽善者にふさわしい末路だろう。かつて、オルフェルにきつく指摘されたフェイの甘さ。それが、とうとう命取りになっただけなのだ。
フェイに残されたできる事、それは少しでも生き延びてエルカたちの逃げる時間を稼ぐ事。その果てにならきっと死んでもいい、そう思えると信じてここまで来たはずだった。
しかし、ダガーを握る手はどうしようもなく小刻みに震え続ける。
――俺が死んだら、誰か泣いてくれるかな
ふと、そんな愚にも付かぬ考えが頭をよぎった。
次いで頭を過ぎったのは、あの泣き虫の少女だ。
こんな時になぜ思い出したのかは分からない。だが、セラならきっと、長い年月の先にも俺のことを覚えていてくれるような気がした。
――俺には、それで十分か
ふっと息を吐くと、じりじりと包囲の幅をせばめるタタロンとグズノロを見つめる。
そして、静かに重心を落とし、フェイは最後の時を待った。
完全な優位の状態にあっても、タタロンはなかなか襲ってこなかった。
慎重に油断無く仲間を待ち、フェイの周りを二重三重と取り囲んでいくのを満足そうに見ている。
「くそ、一人だけじゃねえか」
「タタロン、王子はどうしたんだ?」
「おいおい、こいつ、この人数相手にやろうって顔してるぜ! ゲハハハツッ!」
包囲した盗賊はまだ戦意を失っていないフェイを見るや、口々に嘲笑を浮かべる。
しかし、それは盗賊の一人が発した言葉によって一息に収束した。
「……おい待てよ、こいつあの黒猫だ」
盗賊たちは次々とフェイの顔を凝視し、押し黙ったところでタタロンが忌々しそうに仲間に告げた。
「そうだ。こいつが黒猫、リア=フェイロン。王子を逃がしたのもこいつだ」
その言葉に盗賊たちの目の色が変わり、口々に下卑た笑いを漏らす。
「こりゃいい! 賞金首がわざわざ出向いて来るなんてな! ゲハハッ!」
「おいおい、抜け駆けするなよ。誰が殺したって賞金は山分けだ。油断するなよ」
「ふん、俺たちを出し抜いて王子まで逃がした相手だ。誰が油断なんてするかよ!」
威勢よく叫んだその言葉を、タタロンは「それは違うな」とはっきり否定する。
盗賊たちが驚いて横目で見つめる中、タタロンは包囲から一歩踏み出しフェイを睨みつけた。
「こいつは実力で俺たちを出し抜いたんじゃない。王子をむざむざ逃がしたのは、俺たちの中に裏切り者がいたせいだ!」
そう言って、フェイを取り囲んでいる包囲の一点を剣先で指した。
「裏切り者の名はオルフェル! おい、あんただよ!」
盗賊たちはザワリと困惑の声を上げてオルフェルから離れる。
しかし、オルフェルは黙ったまま動じた風もなく、月明かりの下で手元の短剣をゆっくりと撫でていた。
「……本当かよ、オルフェル」
近くにいた誰かが唾を飲みながら尋ねると、オルフェルはため息を吐いて、逆に問いかける。
「てめえ、そんなガキの言う事を真に受けるのか?」
「い、いや、そんな訳ねえだろ。おい、タタロン! てめえ、こんな時に何を――」
「嘘じゃねえよ! そいつが現れて、王子を奪われてもオルフェルは何もしなかった! 仲間すらを呼ばなかったんだ! 裏でこいつと通じてやがったんだよ!」
その言葉にオルフェルはやれやれと肩をすくめる。
まるで相手にされていないような態度にタタロンはいきり立ち、唾を吐きながら叫び続けた。
「なら、証拠を見せろよ! 裏切っていないって証拠に、お前が今、ここで、フェイを殺せ!」
興奮に肩を上下させるタタロンを、オルフェルはじっと見つめる。
しばらくにらみ合った後、オルフェルはいいだろうと頷き、ゆっくり包囲の輪から進み出た。
そしてフェイの目の前に立ち、愛用の短剣を斜に構える。
「……オルフェル」
信じられないと首を振るフェイへ、オルフェルの体がぐらりと傾いた。
ざん、と近くで砂を強く踏む音がして、フェイは我に返り驚愕する。
触れるほどの距離に、オルフェルがいたのだ。
フェイは喉元に閃いた光を仰け反って避けようとしたが、あご先に熱い感触が走る。
たたらを踏むように下がりながらあごを手で拭うと、べったりと赤い色が手の甲に広がった。あと僅かでも避けるのが遅れていたら、間違いなく致命傷になっていたはずの一撃だ。
オルフェルは何事も無かったように短剣に付いた僅かな血を舌で舐め、再び斜に構える。その暗褐色の瞳からは何の意思も感じられない。ただ深い闇が、そこにあった。
そして、オルフェルは全くの無表情のまま口を開く。
「死ねよ、失敗作」
失敗作――その言葉はフェイの胸深くに突き刺さった。
「オルフェル!」
フェイは一声叫ぶとダガーを強く握り、オルフェルに駆けると横薙ぎに振るった。
しかし、余分な力が入っていたのだろう、オルフェルはその一撃を悠々と受け流す。
ただその一瞬、オルフェルの唇が緩んだ気がしたのは、気のせいなのだろうか?
その時、フェイの脳裏に一つの記憶が蘇る。
『フェイ、さっさとあきらめろ。そうすれば、お前は一生そのままだ』
それはいつだったのだろうか、何をしていた時だろうか、とにかくフェイは何かに挑戦していて、そしてあきらめかけていた。
そんな時、オルフェルは力尽きそうなフェイに向かってそう淡々と告げたのだ。
フェイの胸には泣きそうなほどの悔しさ沸き、歯を食い縛ってあきらめるものかと立ち上がり、結局それは上手く行かなかったのだけれど。
ただ、後になって気付いた。
オルフェルはフェイを見捨てるためにそう言ったのではない。不器用な彼が、精一杯背中を押してくれたのだ。
そして今、オルフェルの無表情は、あの時と良く似ていた。
――失敗作、か
フェイはオルフェルの短剣を弾きながら、その無表情な顔を見つめた。
おそらく、出来の悪い息子が戦えるよう、一番傷つく言葉を選んだのだろう。
そうだった。フェイの見上げていたオルフェルは、いつだってそんな不器用な形でしか、答えを出せない人間だった。
――オルフェルになら、俺は殺されても
甘美な誘惑が頭をかすめ、それに身を任せそうになった時――しかし、その声は夜空を裂いてフェイに届いた。
「フェイ!」
聞き覚えのある女の声。
それは盗賊たちの包囲の遥か外から響いてきて、フェイはハッと顔を上げた。
「コノハ?」
フェイは戦いの途中だというのに声のした方へと顔を向けた。
しかし、フェイだけではない。にやにやと観戦していた盗賊たちも、警戒した様子で声のした方角を注視する。
「フェイ!」
震えた、泣きそうな声だったが、それはやはりコノハだった。
月明かりに槍を構えたコノハが、砂漠の上を必死に駆けていた。
いや、コノハだけではない、そのすぐ背後にはエルカやディアナ、カシムの姿も見える。
「な、なんで……」
呆然とするフェイを尻目に、フェイを囲んでいた盗賊たちが標的を変え、群狼のように駆け出した。
このままではすぐに戦闘が始まる。誰かが死ぬかもしれない。必死の思いで時間稼ぎしていたのに、これではまるで意味が無いではないか。
「みんな来るな! 俺は――」
フェイの叫びを、コノハの潤んだ声が一蹴した。
「このバカ! あたしはまだ、返事もしてないんだから!」
なんの事だ、とフェイは眉根を寄せるが、その鬼気迫る声には何故だか何も言い返すことが出来なかった。
次いで、エルカがなんでもないと言う様に、愛用の長剣をすらりと引き抜く。
「フェイ、勝手に死ぬなど私は許してないぞ! 今、エルカーナは人手が足りないんだ!」
「黒猫ちゃん、忘れたの? 砂漠の民は王子ではなく、あなたに命を懸けて協力すると言ったのよ」
ディアナは二本のシャムシールを手に、コノハを狙っていた射手に突っ込んでいく。その後ろには棒を手にしたカシムの姿もあった。
「……くそ、いったいなんだよ」
仲間が来てくれて、嬉しいと思う自分は確かにいた。
しかし、それ以上に、そのせいで誰が死ぬことなど耐えられない。
なんとかしたい。しかし、フェイはどうする事も出来ない自分の無力に打ちひしがれていた。
「フェイ、俺たちも始めるぞ」
「……オルフェル」
オルフェルはもう一度短剣を斜に構えると、やはり無表情のままつぶやくように言った。
「お前が死ねば、あいつらも無駄死にだ」
なぜ、そんな事を言う必要があるのだろうか。
しかしオルフェルの言葉は、確かに事実である。
フェイに残された選択は、目の前の師であり父であった人を殺す事だけなのだ。
歯を食い縛ってダガーを振るい、オルフェルの肩口を切り裂いた。
赤い血が散り、しかし痛んだのはフェイの心だった。
――こんなの、嫌だ
迷い、動きの鈍ったフェイの二の腕を、オルフェルの短剣が切り裂いた。
――嫌だ、嫌だっ、嫌だっ! 誰か、頼む、助けてくれ……
そして、フェイが泣きそうな顔で短剣を受け流した時だった。
「お、おい、あれは何だ!」
およそ場に似つかわしくない素っ頓狂な声が響いた。
足を踏み出すたび細かな砂が腿の裏へパチパチと当たり、それが虫のように張り付いてきて気持ちが悪かった。
フェイは肩越しにちらりと後ろを見る。数十歩ほど先に、タタロンとグズノロの二人が得物をむき出しにしたまま追っていた。
フェイの視線に気付いたのか、タタロンは顔を上げて怒鳴る。
「止まれ! 逃げても無駄だ!」
タタロンの声は幾分低くなっていたが、それでもふざけ合い、笑いあったあの頃の記憶をどうしようもなく呼び覚ます。
フェイは視線を真っ暗な砂漠へ戻すと、ひたすら前へ前へと足を踏み出した。
――このままずっと止まらなければ、俺は戦わなくて済むのだろうか
折れそうになる心を淡い希望にすがりながら、フェイはただ駆け続けた。
しかし、走り難い足場のせいで、息はすぐに切れていった。足は重くなり徐々に速度は落ちていく。もう長くは逃げられないだろう。
さらに、タタロンが鋭い指笛を間断なく吹き鳴らしていた。おそらく仲間を呼び、逃げ道を塞ごうとしているのだろうが、それはフェイにとって好都合だった。出来るだけ多くの盗賊達をひきつければ、それだけエルカ達が逃げ切れる確立が上がるはずなのだ。
――けど、その後はどうなる?
胸で問いかける不安に応えるように、腰に差したダガーが重く揺れた。
――俺は戦えるのか? 俺に、タタロンやグズノロが斬れるのか?
自分自身にそう問いかけた時、前方から何かが迫る気配を感じフェイは慌てて身を伏せた。
その直後、風を切る音が頭上を貫き、後方の地面にドッと小さな音をたてて突き立つ。
矢だ。深く突き立った矢が矢羽根だけを残して地面から飛び出ていた。とうとう追っ手が射程圏内にまで近づいたのだ。
フェイは起き上がりながらぐるりと見回すが、暗い上に砂漠の起伏が邪魔で射手がどこにいるのか分からない。しかし、先ほどの射撃から向こうはこちらが見えているはずだった。
キョン
夜風に紛れ、微かな射出音を肌に感じる。
考えるより早く右へ飛んでいた。
矢がチッと服をかすめ、さっきまでフェイのいた場所を貫く。
その正確な射撃に、冷や汗が背筋を伝った。
「よく避けたな、フェイ。だがここまでだぜ」
地に転がったフェイに息を吐かせる間もなく、背後からタタロンが襲い掛かる。
その手にある白刃を見た途端、フェイはまだ覚悟も定まらぬままダガーを引き抜いていた。
ジャリ
タタロンのショートソードを眼前で受け流し、耳障りな金属音と小さな火花が夜の闇に散る。
一撃目で仕損じたタタロンは、舌打ちを残して飛び下がった。そして、十分に距離を取ると低い姿勢で剣を構え直す。慎重で抜け目のないタタロンらしい戦い方だった。
「おい、グズノロ!」
タタロンの叫びにグズノロは黙って頷くと、フェイの背後へと回り込む。
挟まれる前に何とかしなくてはいけない――そう頭では分かっていたのだが、フェイはその場を動けず、右手に持ったダガーをゆっくりと下げた。
「やめろ、俺は戦いたくない!」
その言葉に、タタロンは表情を憤怒に染める。
「黙れよ! 相変わらず、お前の偽善には反吐が出るぜ!」
「違う、タタロン、俺は――」
「うっせえって言ってんだろ! この裏切り者が、ニルヒナまでたぶらかしやがって! 今更、お前が出てくるんじゃねえよっ!」
そう叫んで剣を突きつけるタタロンの目には、明らかな殺意があった。
肩越しに後ろを覗き見ても、グズノロが黙ったまま小刀を構えている。その表情に緊張や怯えはあっても、迷いはなかった。
そして、グズノロのさらに向こうに弓を構えた盗賊たちが小さく見えた。その数はエルカが予想していたよりも遥かに多く、40人は下らないだろう。
あまりに絶望的な状況に、フェイの頭から血の気が引いた。
――分かっていた事だろ。覚悟を決めろよ、リア=フェイロン!
フェイはダガーを逆手に構え、そう自分に言い聞かせた。
昔の仲間を殺したくない、そんな甘えた考えがこうやって自分に跳ね返ってきたのだ。悪人にも善人にもなれず、中途半端な偽善者にふさわしい末路だろう。かつて、オルフェルにきつく指摘されたフェイの甘さ。それが、とうとう命取りになっただけなのだ。
フェイに残されたできる事、それは少しでも生き延びてエルカたちの逃げる時間を稼ぐ事。その果てにならきっと死んでもいい、そう思えると信じてここまで来たはずだった。
しかし、ダガーを握る手はどうしようもなく小刻みに震え続ける。
――俺が死んだら、誰か泣いてくれるかな
ふと、そんな愚にも付かぬ考えが頭をよぎった。
次いで頭を過ぎったのは、あの泣き虫の少女だ。
こんな時になぜ思い出したのかは分からない。だが、セラならきっと、長い年月の先にも俺のことを覚えていてくれるような気がした。
――俺には、それで十分か
ふっと息を吐くと、じりじりと包囲の幅をせばめるタタロンとグズノロを見つめる。
そして、静かに重心を落とし、フェイは最後の時を待った。
完全な優位の状態にあっても、タタロンはなかなか襲ってこなかった。
慎重に油断無く仲間を待ち、フェイの周りを二重三重と取り囲んでいくのを満足そうに見ている。
「くそ、一人だけじゃねえか」
「タタロン、王子はどうしたんだ?」
「おいおい、こいつ、この人数相手にやろうって顔してるぜ! ゲハハハツッ!」
包囲した盗賊はまだ戦意を失っていないフェイを見るや、口々に嘲笑を浮かべる。
しかし、それは盗賊の一人が発した言葉によって一息に収束した。
「……おい待てよ、こいつあの黒猫だ」
盗賊たちは次々とフェイの顔を凝視し、押し黙ったところでタタロンが忌々しそうに仲間に告げた。
「そうだ。こいつが黒猫、リア=フェイロン。王子を逃がしたのもこいつだ」
その言葉に盗賊たちの目の色が変わり、口々に下卑た笑いを漏らす。
「こりゃいい! 賞金首がわざわざ出向いて来るなんてな! ゲハハッ!」
「おいおい、抜け駆けするなよ。誰が殺したって賞金は山分けだ。油断するなよ」
「ふん、俺たちを出し抜いて王子まで逃がした相手だ。誰が油断なんてするかよ!」
威勢よく叫んだその言葉を、タタロンは「それは違うな」とはっきり否定する。
盗賊たちが驚いて横目で見つめる中、タタロンは包囲から一歩踏み出しフェイを睨みつけた。
「こいつは実力で俺たちを出し抜いたんじゃない。王子をむざむざ逃がしたのは、俺たちの中に裏切り者がいたせいだ!」
そう言って、フェイを取り囲んでいる包囲の一点を剣先で指した。
「裏切り者の名はオルフェル! おい、あんただよ!」
盗賊たちはザワリと困惑の声を上げてオルフェルから離れる。
しかし、オルフェルは黙ったまま動じた風もなく、月明かりの下で手元の短剣をゆっくりと撫でていた。
「……本当かよ、オルフェル」
近くにいた誰かが唾を飲みながら尋ねると、オルフェルはため息を吐いて、逆に問いかける。
「てめえ、そんなガキの言う事を真に受けるのか?」
「い、いや、そんな訳ねえだろ。おい、タタロン! てめえ、こんな時に何を――」
「嘘じゃねえよ! そいつが現れて、王子を奪われてもオルフェルは何もしなかった! 仲間すらを呼ばなかったんだ! 裏でこいつと通じてやがったんだよ!」
その言葉にオルフェルはやれやれと肩をすくめる。
まるで相手にされていないような態度にタタロンはいきり立ち、唾を吐きながら叫び続けた。
「なら、証拠を見せろよ! 裏切っていないって証拠に、お前が今、ここで、フェイを殺せ!」
興奮に肩を上下させるタタロンを、オルフェルはじっと見つめる。
しばらくにらみ合った後、オルフェルはいいだろうと頷き、ゆっくり包囲の輪から進み出た。
そしてフェイの目の前に立ち、愛用の短剣を斜に構える。
「……オルフェル」
信じられないと首を振るフェイへ、オルフェルの体がぐらりと傾いた。
ざん、と近くで砂を強く踏む音がして、フェイは我に返り驚愕する。
触れるほどの距離に、オルフェルがいたのだ。
フェイは喉元に閃いた光を仰け反って避けようとしたが、あご先に熱い感触が走る。
たたらを踏むように下がりながらあごを手で拭うと、べったりと赤い色が手の甲に広がった。あと僅かでも避けるのが遅れていたら、間違いなく致命傷になっていたはずの一撃だ。
オルフェルは何事も無かったように短剣に付いた僅かな血を舌で舐め、再び斜に構える。その暗褐色の瞳からは何の意思も感じられない。ただ深い闇が、そこにあった。
そして、オルフェルは全くの無表情のまま口を開く。
「死ねよ、失敗作」
失敗作――その言葉はフェイの胸深くに突き刺さった。
「オルフェル!」
フェイは一声叫ぶとダガーを強く握り、オルフェルに駆けると横薙ぎに振るった。
しかし、余分な力が入っていたのだろう、オルフェルはその一撃を悠々と受け流す。
ただその一瞬、オルフェルの唇が緩んだ気がしたのは、気のせいなのだろうか?
その時、フェイの脳裏に一つの記憶が蘇る。
『フェイ、さっさとあきらめろ。そうすれば、お前は一生そのままだ』
それはいつだったのだろうか、何をしていた時だろうか、とにかくフェイは何かに挑戦していて、そしてあきらめかけていた。
そんな時、オルフェルは力尽きそうなフェイに向かってそう淡々と告げたのだ。
フェイの胸には泣きそうなほどの悔しさ沸き、歯を食い縛ってあきらめるものかと立ち上がり、結局それは上手く行かなかったのだけれど。
ただ、後になって気付いた。
オルフェルはフェイを見捨てるためにそう言ったのではない。不器用な彼が、精一杯背中を押してくれたのだ。
そして今、オルフェルの無表情は、あの時と良く似ていた。
――失敗作、か
フェイはオルフェルの短剣を弾きながら、その無表情な顔を見つめた。
おそらく、出来の悪い息子が戦えるよう、一番傷つく言葉を選んだのだろう。
そうだった。フェイの見上げていたオルフェルは、いつだってそんな不器用な形でしか、答えを出せない人間だった。
――オルフェルになら、俺は殺されても
甘美な誘惑が頭をかすめ、それに身を任せそうになった時――しかし、その声は夜空を裂いてフェイに届いた。
「フェイ!」
聞き覚えのある女の声。
それは盗賊たちの包囲の遥か外から響いてきて、フェイはハッと顔を上げた。
「コノハ?」
フェイは戦いの途中だというのに声のした方へと顔を向けた。
しかし、フェイだけではない。にやにやと観戦していた盗賊たちも、警戒した様子で声のした方角を注視する。
「フェイ!」
震えた、泣きそうな声だったが、それはやはりコノハだった。
月明かりに槍を構えたコノハが、砂漠の上を必死に駆けていた。
いや、コノハだけではない、そのすぐ背後にはエルカやディアナ、カシムの姿も見える。
「な、なんで……」
呆然とするフェイを尻目に、フェイを囲んでいた盗賊たちが標的を変え、群狼のように駆け出した。
このままではすぐに戦闘が始まる。誰かが死ぬかもしれない。必死の思いで時間稼ぎしていたのに、これではまるで意味が無いではないか。
「みんな来るな! 俺は――」
フェイの叫びを、コノハの潤んだ声が一蹴した。
「このバカ! あたしはまだ、返事もしてないんだから!」
なんの事だ、とフェイは眉根を寄せるが、その鬼気迫る声には何故だか何も言い返すことが出来なかった。
次いで、エルカがなんでもないと言う様に、愛用の長剣をすらりと引き抜く。
「フェイ、勝手に死ぬなど私は許してないぞ! 今、エルカーナは人手が足りないんだ!」
「黒猫ちゃん、忘れたの? 砂漠の民は王子ではなく、あなたに命を懸けて協力すると言ったのよ」
ディアナは二本のシャムシールを手に、コノハを狙っていた射手に突っ込んでいく。その後ろには棒を手にしたカシムの姿もあった。
「……くそ、いったいなんだよ」
仲間が来てくれて、嬉しいと思う自分は確かにいた。
しかし、それ以上に、そのせいで誰が死ぬことなど耐えられない。
なんとかしたい。しかし、フェイはどうする事も出来ない自分の無力に打ちひしがれていた。
「フェイ、俺たちも始めるぞ」
「……オルフェル」
オルフェルはもう一度短剣を斜に構えると、やはり無表情のままつぶやくように言った。
「お前が死ねば、あいつらも無駄死にだ」
なぜ、そんな事を言う必要があるのだろうか。
しかしオルフェルの言葉は、確かに事実である。
フェイに残された選択は、目の前の師であり父であった人を殺す事だけなのだ。
歯を食い縛ってダガーを振るい、オルフェルの肩口を切り裂いた。
赤い血が散り、しかし痛んだのはフェイの心だった。
――こんなの、嫌だ
迷い、動きの鈍ったフェイの二の腕を、オルフェルの短剣が切り裂いた。
――嫌だ、嫌だっ、嫌だっ! 誰か、頼む、助けてくれ……
そして、フェイが泣きそうな顔で短剣を受け流した時だった。
「お、おい、あれは何だ!」
およそ場に似つかわしくない素っ頓狂な声が響いた。
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