NOVEL
剣の国の黒猫
32) 降りしきる雨の中
降りしきる雨の中、タタロンは外套を傘代わりにして見張り小屋へと駆け込んだ。
オルフェルの居た小屋からわずか数百歩程度の距離だったが、あちこちに水溜りができており靴の中までぐっしょりと濡れていた。
苛立ち紛れに外套を壁へたたきつけると、はしごを昇って2階にある見張り台に出る。
そして、そこにいた小太りの男を見つけるや大声を上げた。
「くそ! ムカつくぜ! オルフェルの野郎が、いつまでも親字面しやがって!」
「タタロン、僕らはオルフェルに拾われたんだから、しょうがないよ……」
「うるせえよ、このクズノロが!」
グズノロと呼ばれた男は申し訳なさそうに首をすくめるが、それでもタタロンの気は治まらない。その団子鼻に指を付きつけ、見下すような視線で威圧する。
「だいたい精鋭だけ集められたこの作戦に、なんでグズノロが入ってるんだよ!」
「そんな事言われても……」
グズノロは怖くて目をあわせられないのか、きょろきょろと視線を左右に向ける。
そもそも、グズノロと言うのは本名でないのだが、今では誰もがそう呼ぶほど、この男は盗賊としての資質に欠けていた。
ただの気の弱い小男。盗賊とはとても見えない風貌を利用して、情報を集めるくらいしか出来ない。正真正銘のグズでノロマで、能力主義のタタロンが最も忌み嫌っている相手だった。
「ニルヒナならともかく、俺の足を引っ張るしか脳の無いヤツがエリートだって? 笑わせるぜ!」
タタロンは振り返り、見張り台からじっと外を見続けている女へ視線を移した。
「おい、ニルヒナ。お前もそう思うだろ?」
「私達が三人一組だからだ。無駄口を叩く前に監視をしろ」
ニルヒナと呼ばれた女は視線すら動かさずにこたえる。
ほんのりと浅黒い肌に髪は短く切ってあり、華奢な体を隠すようなダボついた服とズボンから、一見すると男のようにも見えた。
よく見ればまだ幼いと言って良いくらいの年齢だが、その鋭い視線は熟練した盗賊のようだった。
その視線を動かすことができなかったタタロンは、小さく舌打ちした。
「その三人一組が気にいらねえんだよ! 俺とニルヒナのコンビなら、絶対もっと上に行けるはずだろ?」
「お前と二人組なんて冗談じゃない。まだ狼と連れ添ったほうがマシだ」
「なっ――」
ばっさりと切り捨てられたタタロンは一瞬呆然としたものの、ニルヒナの言葉にいつも以上の棘がある原因に、すぐに思い当たった。
なぜならタタロンが苛立っているのも、まさに同じ理由だからだ。
「おい、ニルヒナ。お前が連れ添いたいのは狼じゃなくて――あの黒猫なんだろ?」
その途端、忠実に監視をこなしていた視線がタタロンへ向けられた。
「あいつはもう、私達となんの関係もない」
「分かってるならいい。だが、念のために言っておくぞ」
タタロンは水の溜まった靴をギョポギュポと言わせながら、ニルヒナに近づく。
その異様な雰囲気にニルヒナは一歩引いた。
「あの胸糞悪い偽善野郎は俺達を裏切りやがったんだ! 今は俺達を狩ろうとする猟犬で、おまけに公爵令嬢の婚約者だ。それだけは覚えておけ」
「っ――」
無表情だったニルヒナの顔が、一瞬だけ歪んだ。
それを見てタタロンはぐるりときびすを返し、事態を恐々と傍観していたグズノロに向けた。
「てめえもだ! 誰のせいでフェイが捕まって、敵に回ったと思ってるんだ? 少しは責任を感じて、次くらい役に立てよ! 分かったか、このグズ!」
「う、うん」
タタロンに胸をつかまれカクカクと頷くグズノロの向こうで、はしごを降りようとしているニルヒナが視界に入った。
「お、おい、ニルヒナ。どこへ行くんだ?」
「オルフェルのところ、状況報告よ」
「は? 定時報告にはまだ早いだろ?」
タタロンの不満のありそうな言葉に、ニルヒナは小さくため息をついた。
「雨で幾つかのかがり火が消えた。これじゃ暗くて見張りにならない。こんな事いちいち言わせないで、タタロン」
そう吐き捨てるように言うと、ニルヒナははしごを飛び降り、外套を手に1人雨の中へ飛び出した。
「グロスター王、夜分にお目通りを許可して頂き、ありがとうございます」
グロスター王は玉座に深々と座り、挨拶をしたリーガン達に小さく頷いた。
その顔色は見るからに悪い。
確かまだ60に満たない年齢のはずだが、既に80を超えた老人のように見える。目は灰色によどみ、よく見れば手先が小刻みに震えている。
ギロリ
グロスター王の顔をジッと凝視していた3人は、睨み返されて慌てて目線を下に向けた。
このままではいけないと、リーガンが3人を代表して一歩進み出る。
「王よ、既にお聞きとは思いますが、エドガー王子がゴルゴンに誘拐され――」
「なんだとっ!!」
グロスター王は玉座から文字通り飛び上がり、ひゅうひゅうと呼気を荒くした。
「き、聞いておりませんか? てっきりゴリネル将軍がこちらに報告に上がったとばかり……」
「おおお! エドガー!」
王は外面も無く叫び、頭を掻きむしった。
ここが荘厳な王座の間でなければ、狂人だと目に映ったことだろう。
「落ち着いてください、王! グロスター王!」
「く、来るなっ!」
駆け寄ろうとしたリーガンとコーディリアを、グロスター王は睨んで拒絶した。
その病的なまでの行動に二人の公子は顔を見合わせ、しかし、セラだけは狂乱した王の姿をじっと見つめていた。
やがて、グロスター王は疲れたように両手で顔を覆い、ため息混じりにつぶやいた。
「余は、ただの飾り物だ。誰もが余の命を狙う。味方など、もう誰もおらん。なんと滑稽な剣の王か……エドガーが、エドガーだけが、余の心の支えだったと言うのに! 神までが余を見捨てたのか!」
終いには立ち上がって叫び、それはまるで自らに呪詛をかけているような独白だった。
やがて、玉座に倒れこむように座ると、また一つ歳を重ねたように見えた。
リーガンは恐る恐る口を開く。
「王、我らはあなたの味方です。どうか、ゴルゴン討伐の王命を――」
その先にあった言葉を、王は沈うつなため息で止めた。
「――軍は、動かんよ。将軍にしか軍を動かせん。そして、ゴリネルは余の命など一切聞かぬ。しかるべき理由無くば罷免できぬのを良い事に、余を死人のように扱っておる」
コーディリアはもう一歩だけグロスター王ににじり寄り、平身低頭して懇願する。
「では王子救出に親衛隊をお貸し下さい。かの高名な蒼の騎士団なら十分に戦力になりましょうし、これに他の領も続くことが出来ます」
「……それで、エドガーが助かる保証がどこにある? 手薄になった城をゴルゴンが襲わぬ証拠はあるのか! なにより貴様が裏切らぬ証拠が、いったいどこにあると言うのだ!」
指を突きつけ、王は怒りに震えながら叫び散らした。
信頼の証拠などあるわけが無い。しかし、それでもリーガンとコーディリアは最後の抵抗を示すべく、もう一度頭を下げた。
「王よ、信じてください! 我がツヴァイ領は、建国以来一度も、王を裏切った事などありません! そしてそれは未来永劫変わりません!」
「我がアハト領も同じです! かつて王の威厳を損なうような詩を、一度として歌った事がありましょうか?」
「黙れ! 余に分からぬからと甘言を並べおって! 余はもう誰も信用せんぞ! 証拠が無いのなら即刻立ち去れ!」
血走った目で一喝するその様は、病的ですらあった。
あきらかな人間不信であり、二人が知らぬ間に城中の荒廃はここまで進んでいたのだ。
――これ以上の説得は、無理か
リーガンは王への説得をあきらめ、去るための一礼をしようとした。
その時だった。
「王様……これが、証拠です」
凛と澄んだ少女の声が玉座の間に響いた。
リーガンとコーディリアが慌てて顔を上げると、セラが二人の前に進み出ていた。
いや、前どころではない。王に触れるほどまで進み出て、そして、その右手を高らかに上げる。
パンッ
乾いた音が、玉座の間に響いた。
叩かれたグロスター王は呆然と頬をおさえ、エサを求める魚のように口をパクパクと開閉させる。
「セシリア様、なんて事をっ! 王に手を上げたものは死罪なのですよ!」
コーディリアは悲鳴のような叫び声をあげ、セラを取り押さえようと腰を上げ――その肩をリーガンに掴まれた。
「リーガン、何を――早く止めねば」
「いや。こうなった以上、任せてみよう。あの小さな姫君は、おそらく覚悟の上だ」
「しかし……いえ、そうですね」
コーディリアは肩から力を抜き、ゆっくりと頷いた。
「戦いの場は命を懸けた者にこそふさわしい。私達は、舞台を下りましょう」
頭を垂れた二人はゆっくりと一歩、後ろに下がった。
外套を頭上に掲げ、真っ暗な道をニルヒナはゆっくりと歩いていた。
走らねばもっと濡れると分かっていながら、それでも酷く現実感の無い感覚に襲われ、歩くことすらままならないほどだ。
――あの日も、雨だった
バシャバシャとはねる雨水と泥、暗い道、夕立の匂い。その全てが、ゼクス領の倉庫からゴルゴン本拠地へと出発したあの日を思い出させていた。
小さな防水シートを必死で頭に掲げ、オルフェルの持つ灯火だけを頼りに真っ暗な道を進み続けた、あの日を。
『フェイは、どうするの? もう少しで、鉱山から出てこれるんでしょう?』
何も答えぬオルフェルに、何度そう尋ねた事だろう。
それほど、あの時の自分はフェイに依存していたという事だ。
オルフェルが拾った10人目の孤児であるニルヒナは、一番の年下であった。その面倒を見ていたのがフェイだ。
ご飯が足りないと喚けば、いつだってフェイが食事を分けてくれた。寒いといえば毛布を奪い取り、いじめられれば当たり前のようにその名を叫んだ。
――なんて、嫌なガキだ
当時のニルヒナは勘違いしていた。3つも年上であるフェイが食事を分けるのは当然で、みな大人になれば、それくらいのことは出来るようになるのだと思っていたのだ。
しかし、現実は違った。フェイがいなくなり、それを嫌と言うほど思い知った。
叫べば助けてくれる人など、一部の幸せな者しかいない事を。
まして、自分も寒いのに毛布を譲る人が、腹が鳴っているのに食料を分ける人がそばに居るなど、どれだけの幸運を自分はむさぼっていたのか。
たとえ優しくする人間がいたとして、大抵の場合に下心があるなど、幸せを踏み潰してきた自分に知るよしもなかったのだ。
バシャ……
とうとう、ニルヒナの足が止まる。
進めなくなるような記憶を、掘り起こしてしまったからだ。
フェイがいなくなり、すっかり孤独になっていた自分に手をさし伸ばした男がいた。
砂漠で乾いた旅人のようだったニルヒナは、その手に飛びつきオルフェルから離れ……しかし、そこには絶望が待っていた。
どこかも分からぬ場所に閉じ込められ、生きているのか死んでいるのかすら分からなくなった後で、ようやくオルフェルに助け出された。
そしてようやく悟った。
自分がもう陽の下を歩けない人間なんだと言う事に。
利用価値がなくては、食い物にしかされない事も痛過ぎるほどに分かった。
喚けば助けてくれる人間は、もういない。自分が賢くなり、強くなり、騙す側、殺す側にならねばならないのだ。
それから、ニルヒナは必死で腕を磨き、騙し、殺した。
――なのに、今になって……
あのフェイが、同じ境遇のはずだったはずのフェイがゴルゴンを――ニルヒナのいるべき居場所を消そうとしており、それゆえにゼクス領の英雄になっていると言うのだ。
まともに生きることすら許されぬ自分と、公爵の娘とまで婚約したフェイ。
悔しいのか憎いのか、それとも別の感情なのか分からない。ただ、胸の奥が火の付いた棒でかき回されているように、落ち着かなかった。
――だめだ。任務を、こなさなくちゃ
ニルヒナは首を振ると、すっかり濡れて重くなった足を引きずり、オルフェルの小屋の前まで来た。
そして扉を開こうとした時――中からオルフェルの怒鳴り声が聞こえた。
「随分な挨拶だな! すっかり白犬どもの仲間か! フェイ!」
その言葉に、体がブルリと震えた。
すぐさま扉から離れると、暴れる胸を抑えつけ、小窓から中の様子を覗き見る。
まず目に入ったのは、ロープで椅子に縛り付けられたオルフェルだ。その状況にあって、いつもの余裕の笑みをわずかたりとも崩していない。
次に目にしたのは、それとは全く逆に青ざめた顔を晒していた――
「違う! 確かに白犬に友人はいるけど、でもオルフェル、俺は……そうだ! みんなは元気か?」
「みんな? ああ、あいつらならほとんど死んだよ。あと残ってるのは3人だけだ」
「なっ――」
フェイは殴られたように後ろへよろめいた。
その態度を見て、オルフェルは声を上げて笑う。
「なにショックを受けたようなフリをしてるんだ、この裏切り者が!」
「だ、だから違うんだ。俺は、みんなの事、本当の家族のように思ってて、それで、オルフェルの事も、親父みたいに……」
「それで殺しにきたってのか? いい根性になったじゃねえか」
フェイは手に持っていたダガーを慌ててテーブルに置き、泣きそうな顔で首を振った。
「ち、違う! 俺は、本当は、ゴルゴンに入りたいって、ずっと思ってて――い、今でも、その、オルフェルが口をきいてくれれば」
「……んだと」
そこで、オルフェルの声にはじめて怒気が混じった。
不敵な笑みを浮かべていた顔が一変して、その目に殺気が宿る。
「お前がゴルゴンに入る、だと? てめえの事は10年前に捨てたんだ。失敗作が寝言抜かすんじゃねえよ」
その言葉にとうとうフェイは顔を伏せ、肩を震わせた。
「ゼクス領の英雄を誰が仲間になんぞすると思う? なあ、黒猫さんよ」
それに答えず、フェイは机の上に転がっていた牢の鍵を無言で手に取った。
王子の閉じ込められた牢の前に進み……そこでもう一度オルフェルを振り返った。
「オルフェル、正直に答えて欲しい。16年前、フィーアを襲って食糧難を引き起こしたのは、本当にゴルゴンなのか?」
「ほう、少しは知恵がついたじゃないか。ビンゴだよ」
「……なあ、オルフェル。この誘拐も、本当にあんたがやったのか?」
「当たり前だろ。昔から言ったはずだぞ。俺は悪党だ、とな」
うつむいたまま、フェイは牢の扉を開け、中にいた王子を外に出してしまった。
――私は、いったい何をしている?
ニルヒナは小窓から一歩も動けない自分を、まるで他人のように感じていた。
中に入りフェイを殺さねばならないと強く思っているのに、まったく体が動かないのだ。
目の前で起きている茶番も、背中を伝う雨の雫も、まるでタチの悪い夢のようだった。
「たとえオルフェルが『草』だったとしても、俺は感謝してる。絶対に恨んでなんかいない」
「うるせえよ! だからお前が嫌いなんだ! この偽善者め!」
「やめてくれ、オルフェル。俺はあんただけは殺したくない」
その言葉にオルフェルはゲハハと下品に笑う。
こんな笑い方、ニルヒナの記憶には無い笑い方だった。
「笑わせるな! お前が殺すだって? 無理だな、ああ無理だ。お前は悪党なんかに絶対になれねえ。俺が保証するぜ、リア=フェイロン!」
その言葉に、フェイは泣きそうな顔をした。
「その名前をくれたのは、オルフェル、あんただ」
「てめえの綺麗事は反吐が出るぜ! その偽善にだまされ続けたニルヒナも哀れだよな」
「ニルヒナが? どうかしたのか?」
「お前が甘やかしたあいつは、人を疑うことを覚えられなかった。そのせいで――」
バンッ!
弾けるように扉が開き、そこに一人の少女が立っていた。
衣服はすっかり体に張り付いており、その怒りに燃える目は、侵入者で裏切り者のフェイを通り越し、育ての親に向けられていた。
その目を見て、王子は「ひっ」と小さく悲鳴を上げテーブルの後ろに隠れる。
しかし、一方のフェイはテーブルの上のダガーを取ろうとして、そこで固まっていた。
「……ニルヒナ?」
懐かしい声に、ニルヒナは我に返った。
そして考える、自分が何をするためにここへ入ったのかを。
ニルヒナは逃げられないよう後ろ手に扉を閉め、足につけたベルトから2本のスローイングナイフを抜き取った。
「よせ、ニルヒナ。俺は……」
フェイの言葉を遮るように、ナイフを顔の横に構える。
「――お前は私の、敵だ」
しかし、ならばなぜ、自分は指笛を吹かないのだろうか。
吹けばこの雨音の中でも仲間を呼ぶことが出来るはずだ。
そうすればフェイを確実に捕らえ、殺すことが出来るのに。
「ニルヒナ、こんな事やめよう」
「うるさい! さっさとダガーを拾え。ぬるま湯で生きてきたお前に、私が負けるはずがない!」
そう言ってナイフを掴む手に力を込めるが、フェイはダガーへ手を伸ばすそぶりすらない。
――全く、変わってない
困ったような顔、優しげな瞳、確かに背は伸びているが雰囲気はあの時のままだった。
もし、敵でなく、ただ偶然に街中で出会っていたとしたら、剣を構えなくてもすんだのだろうか。
そして、こんな薄汚れた自分でも、抱きしめてくれただろうか。
ドンドン!
突然、背後から激しいノックの音がして、次いで怒鳴り声が飛び込んでくる。
「おーい、オルフェル! ニルヒナがこっちに来なかったか?」
タタロンの声だった。
ここで彼が入ってくれば、冷徹で懸命なタタロンは迷いなく指笛を吹くだろう。
そうなれば、フェイは間違いなく死ぬ。
むごたらしい死体にして、ゼクス領に送りつける事だって、今のゴルゴンなら平気でやるはずだ。
どうすればいい、どうすれば――頭が真っ白になった時だった。
「なんでもねぇよ! さっさと持ち場に戻れっ!」
怒鳴ったのはオルフェルだった。
ニルヒナとフェイは目を見開いてオルフェルを見つめる。
「……俺は自分の命が惜しいんでね。この状況なら俺を人質に取るしかないだろうが、あいつらは喜んで攻撃するからな」
オルフェルはいつもの不適な笑みを浮かべ、淡々と言う。
そして、その視線をナイフを構えたまま震えている少女に向けた。
「おい、ニルヒナ。分かっただろう」
耳の横でナイフがカチカチと音を立てている。
「もういい」
その言葉を聞いた瞬間、ナイフが手から零れ落ち、同時に涙が頬を伝った。
何人も殺してきたはずなのに、今更こんな涙など許されるはずも無いのに、それでも止められなかったのだ。
「オルフェル、ニルヒナ、やっぱり俺……」
「だまれよ。お前みたいな裏切り者の面、二度と見たくもねえ。さっさと失せろ」
オルフェルの厳しい叱責に、フェイは悲しそうに頷く。
そして、王子の手を引くと、顔を伏せているニルヒナの横を通り過ぎた。
「さよなら」
小さくつぶやくと、フェイはそのまま降りしきる雨と闇の中へ消えていった。
その姿が消えた場所を、ニルヒナはじっと見つめていた。
――もう二度と、会わなければいいのに
残ったのは救いようの無い悪党が二人と、冷たい雨の音。
「悪かったな、ニルヒナ。歳を取ると口が軽くなっていかん」
ニルヒナがハッとして視線を戻すと、手を縛られたままのオルフェルは椅子にもたれ、眠るように目を閉じていた。
まるで、夢の中にかつての日々を思い描いているかのように。
「……フェイ、お前はこっちに来るんじゃねえよ」
小さくつぶやいたオルフェルの悪人面は、ニルヒナがかつて見た事も無い、満足そうな笑顔だった。
オルフェルの居た小屋からわずか数百歩程度の距離だったが、あちこちに水溜りができており靴の中までぐっしょりと濡れていた。
苛立ち紛れに外套を壁へたたきつけると、はしごを昇って2階にある見張り台に出る。
そして、そこにいた小太りの男を見つけるや大声を上げた。
「くそ! ムカつくぜ! オルフェルの野郎が、いつまでも親字面しやがって!」
「タタロン、僕らはオルフェルに拾われたんだから、しょうがないよ……」
「うるせえよ、このクズノロが!」
グズノロと呼ばれた男は申し訳なさそうに首をすくめるが、それでもタタロンの気は治まらない。その団子鼻に指を付きつけ、見下すような視線で威圧する。
「だいたい精鋭だけ集められたこの作戦に、なんでグズノロが入ってるんだよ!」
「そんな事言われても……」
グズノロは怖くて目をあわせられないのか、きょろきょろと視線を左右に向ける。
そもそも、グズノロと言うのは本名でないのだが、今では誰もがそう呼ぶほど、この男は盗賊としての資質に欠けていた。
ただの気の弱い小男。盗賊とはとても見えない風貌を利用して、情報を集めるくらいしか出来ない。正真正銘のグズでノロマで、能力主義のタタロンが最も忌み嫌っている相手だった。
「ニルヒナならともかく、俺の足を引っ張るしか脳の無いヤツがエリートだって? 笑わせるぜ!」
タタロンは振り返り、見張り台からじっと外を見続けている女へ視線を移した。
「おい、ニルヒナ。お前もそう思うだろ?」
「私達が三人一組だからだ。無駄口を叩く前に監視をしろ」
ニルヒナと呼ばれた女は視線すら動かさずにこたえる。
ほんのりと浅黒い肌に髪は短く切ってあり、華奢な体を隠すようなダボついた服とズボンから、一見すると男のようにも見えた。
よく見ればまだ幼いと言って良いくらいの年齢だが、その鋭い視線は熟練した盗賊のようだった。
その視線を動かすことができなかったタタロンは、小さく舌打ちした。
「その三人一組が気にいらねえんだよ! 俺とニルヒナのコンビなら、絶対もっと上に行けるはずだろ?」
「お前と二人組なんて冗談じゃない。まだ狼と連れ添ったほうがマシだ」
「なっ――」
ばっさりと切り捨てられたタタロンは一瞬呆然としたものの、ニルヒナの言葉にいつも以上の棘がある原因に、すぐに思い当たった。
なぜならタタロンが苛立っているのも、まさに同じ理由だからだ。
「おい、ニルヒナ。お前が連れ添いたいのは狼じゃなくて――あの黒猫なんだろ?」
その途端、忠実に監視をこなしていた視線がタタロンへ向けられた。
「あいつはもう、私達となんの関係もない」
「分かってるならいい。だが、念のために言っておくぞ」
タタロンは水の溜まった靴をギョポギュポと言わせながら、ニルヒナに近づく。
その異様な雰囲気にニルヒナは一歩引いた。
「あの胸糞悪い偽善野郎は俺達を裏切りやがったんだ! 今は俺達を狩ろうとする猟犬で、おまけに公爵令嬢の婚約者だ。それだけは覚えておけ」
「っ――」
無表情だったニルヒナの顔が、一瞬だけ歪んだ。
それを見てタタロンはぐるりときびすを返し、事態を恐々と傍観していたグズノロに向けた。
「てめえもだ! 誰のせいでフェイが捕まって、敵に回ったと思ってるんだ? 少しは責任を感じて、次くらい役に立てよ! 分かったか、このグズ!」
「う、うん」
タタロンに胸をつかまれカクカクと頷くグズノロの向こうで、はしごを降りようとしているニルヒナが視界に入った。
「お、おい、ニルヒナ。どこへ行くんだ?」
「オルフェルのところ、状況報告よ」
「は? 定時報告にはまだ早いだろ?」
タタロンの不満のありそうな言葉に、ニルヒナは小さくため息をついた。
「雨で幾つかのかがり火が消えた。これじゃ暗くて見張りにならない。こんな事いちいち言わせないで、タタロン」
そう吐き捨てるように言うと、ニルヒナははしごを飛び降り、外套を手に1人雨の中へ飛び出した。
「グロスター王、夜分にお目通りを許可して頂き、ありがとうございます」
グロスター王は玉座に深々と座り、挨拶をしたリーガン達に小さく頷いた。
その顔色は見るからに悪い。
確かまだ60に満たない年齢のはずだが、既に80を超えた老人のように見える。目は灰色によどみ、よく見れば手先が小刻みに震えている。
ギロリ
グロスター王の顔をジッと凝視していた3人は、睨み返されて慌てて目線を下に向けた。
このままではいけないと、リーガンが3人を代表して一歩進み出る。
「王よ、既にお聞きとは思いますが、エドガー王子がゴルゴンに誘拐され――」
「なんだとっ!!」
グロスター王は玉座から文字通り飛び上がり、ひゅうひゅうと呼気を荒くした。
「き、聞いておりませんか? てっきりゴリネル将軍がこちらに報告に上がったとばかり……」
「おおお! エドガー!」
王は外面も無く叫び、頭を掻きむしった。
ここが荘厳な王座の間でなければ、狂人だと目に映ったことだろう。
「落ち着いてください、王! グロスター王!」
「く、来るなっ!」
駆け寄ろうとしたリーガンとコーディリアを、グロスター王は睨んで拒絶した。
その病的なまでの行動に二人の公子は顔を見合わせ、しかし、セラだけは狂乱した王の姿をじっと見つめていた。
やがて、グロスター王は疲れたように両手で顔を覆い、ため息混じりにつぶやいた。
「余は、ただの飾り物だ。誰もが余の命を狙う。味方など、もう誰もおらん。なんと滑稽な剣の王か……エドガーが、エドガーだけが、余の心の支えだったと言うのに! 神までが余を見捨てたのか!」
終いには立ち上がって叫び、それはまるで自らに呪詛をかけているような独白だった。
やがて、玉座に倒れこむように座ると、また一つ歳を重ねたように見えた。
リーガンは恐る恐る口を開く。
「王、我らはあなたの味方です。どうか、ゴルゴン討伐の王命を――」
その先にあった言葉を、王は沈うつなため息で止めた。
「――軍は、動かんよ。将軍にしか軍を動かせん。そして、ゴリネルは余の命など一切聞かぬ。しかるべき理由無くば罷免できぬのを良い事に、余を死人のように扱っておる」
コーディリアはもう一歩だけグロスター王ににじり寄り、平身低頭して懇願する。
「では王子救出に親衛隊をお貸し下さい。かの高名な蒼の騎士団なら十分に戦力になりましょうし、これに他の領も続くことが出来ます」
「……それで、エドガーが助かる保証がどこにある? 手薄になった城をゴルゴンが襲わぬ証拠はあるのか! なにより貴様が裏切らぬ証拠が、いったいどこにあると言うのだ!」
指を突きつけ、王は怒りに震えながら叫び散らした。
信頼の証拠などあるわけが無い。しかし、それでもリーガンとコーディリアは最後の抵抗を示すべく、もう一度頭を下げた。
「王よ、信じてください! 我がツヴァイ領は、建国以来一度も、王を裏切った事などありません! そしてそれは未来永劫変わりません!」
「我がアハト領も同じです! かつて王の威厳を損なうような詩を、一度として歌った事がありましょうか?」
「黙れ! 余に分からぬからと甘言を並べおって! 余はもう誰も信用せんぞ! 証拠が無いのなら即刻立ち去れ!」
血走った目で一喝するその様は、病的ですらあった。
あきらかな人間不信であり、二人が知らぬ間に城中の荒廃はここまで進んでいたのだ。
――これ以上の説得は、無理か
リーガンは王への説得をあきらめ、去るための一礼をしようとした。
その時だった。
「王様……これが、証拠です」
凛と澄んだ少女の声が玉座の間に響いた。
リーガンとコーディリアが慌てて顔を上げると、セラが二人の前に進み出ていた。
いや、前どころではない。王に触れるほどまで進み出て、そして、その右手を高らかに上げる。
パンッ
乾いた音が、玉座の間に響いた。
叩かれたグロスター王は呆然と頬をおさえ、エサを求める魚のように口をパクパクと開閉させる。
「セシリア様、なんて事をっ! 王に手を上げたものは死罪なのですよ!」
コーディリアは悲鳴のような叫び声をあげ、セラを取り押さえようと腰を上げ――その肩をリーガンに掴まれた。
「リーガン、何を――早く止めねば」
「いや。こうなった以上、任せてみよう。あの小さな姫君は、おそらく覚悟の上だ」
「しかし……いえ、そうですね」
コーディリアは肩から力を抜き、ゆっくりと頷いた。
「戦いの場は命を懸けた者にこそふさわしい。私達は、舞台を下りましょう」
頭を垂れた二人はゆっくりと一歩、後ろに下がった。
外套を頭上に掲げ、真っ暗な道をニルヒナはゆっくりと歩いていた。
走らねばもっと濡れると分かっていながら、それでも酷く現実感の無い感覚に襲われ、歩くことすらままならないほどだ。
――あの日も、雨だった
バシャバシャとはねる雨水と泥、暗い道、夕立の匂い。その全てが、ゼクス領の倉庫からゴルゴン本拠地へと出発したあの日を思い出させていた。
小さな防水シートを必死で頭に掲げ、オルフェルの持つ灯火だけを頼りに真っ暗な道を進み続けた、あの日を。
『フェイは、どうするの? もう少しで、鉱山から出てこれるんでしょう?』
何も答えぬオルフェルに、何度そう尋ねた事だろう。
それほど、あの時の自分はフェイに依存していたという事だ。
オルフェルが拾った10人目の孤児であるニルヒナは、一番の年下であった。その面倒を見ていたのがフェイだ。
ご飯が足りないと喚けば、いつだってフェイが食事を分けてくれた。寒いといえば毛布を奪い取り、いじめられれば当たり前のようにその名を叫んだ。
――なんて、嫌なガキだ
当時のニルヒナは勘違いしていた。3つも年上であるフェイが食事を分けるのは当然で、みな大人になれば、それくらいのことは出来るようになるのだと思っていたのだ。
しかし、現実は違った。フェイがいなくなり、それを嫌と言うほど思い知った。
叫べば助けてくれる人など、一部の幸せな者しかいない事を。
まして、自分も寒いのに毛布を譲る人が、腹が鳴っているのに食料を分ける人がそばに居るなど、どれだけの幸運を自分はむさぼっていたのか。
たとえ優しくする人間がいたとして、大抵の場合に下心があるなど、幸せを踏み潰してきた自分に知るよしもなかったのだ。
バシャ……
とうとう、ニルヒナの足が止まる。
進めなくなるような記憶を、掘り起こしてしまったからだ。
フェイがいなくなり、すっかり孤独になっていた自分に手をさし伸ばした男がいた。
砂漠で乾いた旅人のようだったニルヒナは、その手に飛びつきオルフェルから離れ……しかし、そこには絶望が待っていた。
どこかも分からぬ場所に閉じ込められ、生きているのか死んでいるのかすら分からなくなった後で、ようやくオルフェルに助け出された。
そしてようやく悟った。
自分がもう陽の下を歩けない人間なんだと言う事に。
利用価値がなくては、食い物にしかされない事も痛過ぎるほどに分かった。
喚けば助けてくれる人間は、もういない。自分が賢くなり、強くなり、騙す側、殺す側にならねばならないのだ。
それから、ニルヒナは必死で腕を磨き、騙し、殺した。
――なのに、今になって……
あのフェイが、同じ境遇のはずだったはずのフェイがゴルゴンを――ニルヒナのいるべき居場所を消そうとしており、それゆえにゼクス領の英雄になっていると言うのだ。
まともに生きることすら許されぬ自分と、公爵の娘とまで婚約したフェイ。
悔しいのか憎いのか、それとも別の感情なのか分からない。ただ、胸の奥が火の付いた棒でかき回されているように、落ち着かなかった。
――だめだ。任務を、こなさなくちゃ
ニルヒナは首を振ると、すっかり濡れて重くなった足を引きずり、オルフェルの小屋の前まで来た。
そして扉を開こうとした時――中からオルフェルの怒鳴り声が聞こえた。
「随分な挨拶だな! すっかり白犬どもの仲間か! フェイ!」
その言葉に、体がブルリと震えた。
すぐさま扉から離れると、暴れる胸を抑えつけ、小窓から中の様子を覗き見る。
まず目に入ったのは、ロープで椅子に縛り付けられたオルフェルだ。その状況にあって、いつもの余裕の笑みをわずかたりとも崩していない。
次に目にしたのは、それとは全く逆に青ざめた顔を晒していた――
「違う! 確かに白犬に友人はいるけど、でもオルフェル、俺は……そうだ! みんなは元気か?」
「みんな? ああ、あいつらならほとんど死んだよ。あと残ってるのは3人だけだ」
「なっ――」
フェイは殴られたように後ろへよろめいた。
その態度を見て、オルフェルは声を上げて笑う。
「なにショックを受けたようなフリをしてるんだ、この裏切り者が!」
「だ、だから違うんだ。俺は、みんなの事、本当の家族のように思ってて、それで、オルフェルの事も、親父みたいに……」
「それで殺しにきたってのか? いい根性になったじゃねえか」
フェイは手に持っていたダガーを慌ててテーブルに置き、泣きそうな顔で首を振った。
「ち、違う! 俺は、本当は、ゴルゴンに入りたいって、ずっと思ってて――い、今でも、その、オルフェルが口をきいてくれれば」
「……んだと」
そこで、オルフェルの声にはじめて怒気が混じった。
不敵な笑みを浮かべていた顔が一変して、その目に殺気が宿る。
「お前がゴルゴンに入る、だと? てめえの事は10年前に捨てたんだ。失敗作が寝言抜かすんじゃねえよ」
その言葉にとうとうフェイは顔を伏せ、肩を震わせた。
「ゼクス領の英雄を誰が仲間になんぞすると思う? なあ、黒猫さんよ」
それに答えず、フェイは机の上に転がっていた牢の鍵を無言で手に取った。
王子の閉じ込められた牢の前に進み……そこでもう一度オルフェルを振り返った。
「オルフェル、正直に答えて欲しい。16年前、フィーアを襲って食糧難を引き起こしたのは、本当にゴルゴンなのか?」
「ほう、少しは知恵がついたじゃないか。ビンゴだよ」
「……なあ、オルフェル。この誘拐も、本当にあんたがやったのか?」
「当たり前だろ。昔から言ったはずだぞ。俺は悪党だ、とな」
うつむいたまま、フェイは牢の扉を開け、中にいた王子を外に出してしまった。
――私は、いったい何をしている?
ニルヒナは小窓から一歩も動けない自分を、まるで他人のように感じていた。
中に入りフェイを殺さねばならないと強く思っているのに、まったく体が動かないのだ。
目の前で起きている茶番も、背中を伝う雨の雫も、まるでタチの悪い夢のようだった。
「たとえオルフェルが『草』だったとしても、俺は感謝してる。絶対に恨んでなんかいない」
「うるせえよ! だからお前が嫌いなんだ! この偽善者め!」
「やめてくれ、オルフェル。俺はあんただけは殺したくない」
その言葉にオルフェルはゲハハと下品に笑う。
こんな笑い方、ニルヒナの記憶には無い笑い方だった。
「笑わせるな! お前が殺すだって? 無理だな、ああ無理だ。お前は悪党なんかに絶対になれねえ。俺が保証するぜ、リア=フェイロン!」
その言葉に、フェイは泣きそうな顔をした。
「その名前をくれたのは、オルフェル、あんただ」
「てめえの綺麗事は反吐が出るぜ! その偽善にだまされ続けたニルヒナも哀れだよな」
「ニルヒナが? どうかしたのか?」
「お前が甘やかしたあいつは、人を疑うことを覚えられなかった。そのせいで――」
バンッ!
弾けるように扉が開き、そこに一人の少女が立っていた。
衣服はすっかり体に張り付いており、その怒りに燃える目は、侵入者で裏切り者のフェイを通り越し、育ての親に向けられていた。
その目を見て、王子は「ひっ」と小さく悲鳴を上げテーブルの後ろに隠れる。
しかし、一方のフェイはテーブルの上のダガーを取ろうとして、そこで固まっていた。
「……ニルヒナ?」
懐かしい声に、ニルヒナは我に返った。
そして考える、自分が何をするためにここへ入ったのかを。
ニルヒナは逃げられないよう後ろ手に扉を閉め、足につけたベルトから2本のスローイングナイフを抜き取った。
「よせ、ニルヒナ。俺は……」
フェイの言葉を遮るように、ナイフを顔の横に構える。
「――お前は私の、敵だ」
しかし、ならばなぜ、自分は指笛を吹かないのだろうか。
吹けばこの雨音の中でも仲間を呼ぶことが出来るはずだ。
そうすればフェイを確実に捕らえ、殺すことが出来るのに。
「ニルヒナ、こんな事やめよう」
「うるさい! さっさとダガーを拾え。ぬるま湯で生きてきたお前に、私が負けるはずがない!」
そう言ってナイフを掴む手に力を込めるが、フェイはダガーへ手を伸ばすそぶりすらない。
――全く、変わってない
困ったような顔、優しげな瞳、確かに背は伸びているが雰囲気はあの時のままだった。
もし、敵でなく、ただ偶然に街中で出会っていたとしたら、剣を構えなくてもすんだのだろうか。
そして、こんな薄汚れた自分でも、抱きしめてくれただろうか。
ドンドン!
突然、背後から激しいノックの音がして、次いで怒鳴り声が飛び込んでくる。
「おーい、オルフェル! ニルヒナがこっちに来なかったか?」
タタロンの声だった。
ここで彼が入ってくれば、冷徹で懸命なタタロンは迷いなく指笛を吹くだろう。
そうなれば、フェイは間違いなく死ぬ。
むごたらしい死体にして、ゼクス領に送りつける事だって、今のゴルゴンなら平気でやるはずだ。
どうすればいい、どうすれば――頭が真っ白になった時だった。
「なんでもねぇよ! さっさと持ち場に戻れっ!」
怒鳴ったのはオルフェルだった。
ニルヒナとフェイは目を見開いてオルフェルを見つめる。
「……俺は自分の命が惜しいんでね。この状況なら俺を人質に取るしかないだろうが、あいつらは喜んで攻撃するからな」
オルフェルはいつもの不適な笑みを浮かべ、淡々と言う。
そして、その視線をナイフを構えたまま震えている少女に向けた。
「おい、ニルヒナ。分かっただろう」
耳の横でナイフがカチカチと音を立てている。
「もういい」
その言葉を聞いた瞬間、ナイフが手から零れ落ち、同時に涙が頬を伝った。
何人も殺してきたはずなのに、今更こんな涙など許されるはずも無いのに、それでも止められなかったのだ。
「オルフェル、ニルヒナ、やっぱり俺……」
「だまれよ。お前みたいな裏切り者の面、二度と見たくもねえ。さっさと失せろ」
オルフェルの厳しい叱責に、フェイは悲しそうに頷く。
そして、王子の手を引くと、顔を伏せているニルヒナの横を通り過ぎた。
「さよなら」
小さくつぶやくと、フェイはそのまま降りしきる雨と闇の中へ消えていった。
その姿が消えた場所を、ニルヒナはじっと見つめていた。
――もう二度と、会わなければいいのに
残ったのは救いようの無い悪党が二人と、冷たい雨の音。
「悪かったな、ニルヒナ。歳を取ると口が軽くなっていかん」
ニルヒナがハッとして視線を戻すと、手を縛られたままのオルフェルは椅子にもたれ、眠るように目を閉じていた。
まるで、夢の中にかつての日々を思い描いているかのように。
「……フェイ、お前はこっちに来るんじゃねえよ」
小さくつぶやいたオルフェルの悪人面は、ニルヒナがかつて見た事も無い、満足そうな笑顔だった。
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