NOVEL
剣の国の黒猫
31) 陽が中天に登る頃
[注:今回、若干の不快感を抱く描写が入っています。
食事中に読むなどの危険行為は絶対に避けてください]
陽が中天に昇る頃、エルカはひたすら走り詰めだった馬車をようやく止めた。
午前中をフルに使ってバイスアルムを移動できたため、馬車はゼクス領と王都の中間地点まで進んでいた。南は果てしない荒野が続くだけだが、北にはツヴェルフ砂漠特有である薄茶色の地肌がハッキリと見えている。
「ルナ、ここでもう一回調査を頼む」
チョビ髭の御者が2頭の竜馬に水と干し肉を与えている間に、ルナは再び王子の場所を調べる事になった。
その結果、木の棒が示した方角はほぼ真北。
これは偶然ではなく、今朝ルナが出した方角とディアナから聞いた砂漠にあるオアシスの位置から、敵の潜伏先をエルカが予想した結果である。
エルカは皆を呼び、砂漠の一点を指し示した。
「やはり敵はこのオアシス付近に潜伏していたようだ。こここからはバイスアルムを降りてまっすぐ北進する。ただし、砂漠で馬車を使っては砂煙がたって目立ちすぎる。砂漠に入ったら馬車を降り、残りは徒歩で進むぞ」
「ねぇ、エルカ。馬車を降りてから目的地まではどれくらいなの?」
体力に自信が無いルナは不安そうな顔で尋ねた。
エルカは腕を組み、ざっくりと距離を見積もる。
「普通に歩けば日暮れまでには十分着くが、隠れて行くとなると日没とほぼ同時になるだろうな」
「半日も歩くの!? ……あの、馬車に残っちゃダメ?」
「すまない。奴らの拠点の目星は付いたが、そのどの建物に王子を隠しているのかが一番知りたいんだ」
「むー。じゃあ、帰ったらミルフィーナのケーキ食べ放題! それで手を打ちましょう」
「…………分かった。約束しよう」
頷いたエルカの顔は苦渋に歪んでいた。
ルナは超甘党であり、その別腹は3つを下らない。
かなりの散財を覚悟した悲痛の選択だった。
フェイ達がバイスアルムを降りた後、白い巨道にはしばらく人影がなかった。
王子誘拐だけでなく荷物をたっぷり積んだ馬車まで片っ端から襲われたのだから、いくら通商の要と言えど当然だろう。
しかし、陽がハッキリと傾きかけた頃、フェイたちが休憩した場所を一台の馬車が駆け抜けた。
馬車にはツヴァイ領主の家紋が掘り込まれており、当然その中にいる面々はツヴァイ領公子リーガン、アハト領公子コーディリア、ゼクス領公女セシリア、及びそれぞれのガーディアンであった。
一様に重い顔で黙り込んでいたが、その中にあってセラはひときわ緊迫した空気を漂わせていた。いや、それどころか真っ青な顔でうつむき、明らかに様子が変だ。
隣に座っていたリーガンが、その小さな背にそっと触れる。
「セシリア様、顔色が優れませんが大丈夫ですか?」
「だい、じょうぶ、です」
途切れ途切れの返事は、尋ねたリーガンをますます心配させた。
「このあたりで少し休みましょうか?」
「だめ、です。一刻も早く、王都に――うぷっ!」
セラは背筋をピンと張り、口元を押さえた。
一気に膨らむ頬を見て、リーガンはとなりにいたコーディリアを盾にしようと腕を引いたが、まるで岩のようにコーディアリアはビクともしない。
もうだめか――中央に座った事を天に恨みながらリーガンが諦めかけた時、セラの前に座っていたガラムがその懐から風のように革袋を取り出し、主人の手に押し付ける。
セラは噴火直前の口元にはその萎れた皮袋を思い切り押し当てた。
ぷぴぽ
いたく形容しがたい音が漏れるにつれ、その萎れていた革袋はごぽごぽと膨張し、妙に生々しいカエルの姿をあらわす。
「うわ……」
リーガンがうめき声を上げるほどカエルのディティールはある意味素晴らしい。
相当薄く弾力のある革で出来ているらしく、内容物が透けて見える仕様が憎らしいほどだ。
そのカエルの尻についた吹き出し口を器用に縛ったセラは、ふうとため息をついた。
「すみません。一度吐くと、楽になるんです」
「……あの、それは一体何ですか?」
「ゲロゲロ袋のゲロちゃんです。ほら、かわいいでしょ」
そう言ってセラはタプンタプンとゲロちゃんを振り、うっすらと微笑んだ。
すぐ目の前でグロテスクなカエルが内容物ごとシェイクされ、リーガンは喉の奥を震わせる。
「あの、あまり振らないで頂きたい」
「あ、ごめんなさい。私ったら」
セラはぺこりと頭を下げると、ゲロちゃんをおもむろに窓枠へと釣り掛けた。
馬車の振動に合わせて、それはさらに生々しく動き出す。
「こうすると酔わないって、お父様が教えてくれたんです」
「どんな密教だ、それは!」
礼節を忘れて怒鳴りつけたリーガンの肩へ、コーディリアがぐったりともたれかかる。
「ごめんなさい、リーガン。アレ見てたら私も気持ちが……うぷっ」
「よせ、コーディリア! 気持ちは分かるが、お前も一応男だろ! 耐えろ! 耐えるんだ!」
しかし、コーディリアの不調を目ざとく見つけたセラは、ガラムからもう一つカエル袋を拝借し、青ざめたコーディリアの胸元に容赦なく押し付ける。
「あの、これ使ってください。沢山入るので男の人でも大丈夫です」
「うぷっ!」
コーディリアの顔がいっそう青ざめたが、セラは問答無用で萎れたゲロちゃんのお尻の穴をぐわっと広げる。
「ほら、このお尻の部分に口をしっかりつけて――」
「っっ!!」
……やがて、カエルが二匹仲良く吊り下げられ、王都に着くまでの間、タプンタプンと哀愁を誘ったと言う。
とうとう降り出したスコールを、砂漠は貪欲に吸い込んでいた。
砂漠で雨に降られるなど初対面で飛び掛ってくる猫ほどに珍しい。エルカだって予想していなかったことだ。
幸いだったのは、隠れて近づくために用意した砂漠用の薄革迷彩シートが、撥水油の塗りこまれた雨避けシートから作られていた事だろう。
ゴルゴンの隠れ家と思しき廃村を発見したフェイ達6人は、そこから少し離れた場所にシートを広げ、中に入って雨をしのいでいた。
しかし、シートは確かに雨を通さないものの、酷く蒸す。
その熱気の中心にいるのは、目を閉じ木の棒を静かに支えているルナだ。
小型の携帯ランプの明かりに顔の陰影が揺れ、その目がカッと見開かれた。
「神様、神様、本当に何度もすみません。これで最後です。尋ね人の名前はエドガー=グロスターさん、どっちにいますか? えいっ!」
木の棒が指した方向の先を正確にたどり、エルカはシートから顔を出すと目を細めた。
この距離ではもう精度の悪い地図などなんの役にも立たない、頼りになるのはルナの奇跡と自らの目だけである。
既に日は落ちかけ、雨雲が周囲を真っ暗にしているが、棒の示すずっと先にボンヤリと灯りが見えた。
「あの廃村に王子がいるのは間違いない。建物もほぼ特定できたぞ」
微笑んでシートの中に顔を戻したエルカに、ディアナはしなだれかかり、その耳元へささやくように尋ねる。
「ねぇ、敵は何人くらいだと思う?」
「そうだな、廃村の規模から考えて40……いや、30人程度か」
密着する美女にもエルカは顔色一つ変えずに答えた。
むしろ、それを間近で見ていたフェイ達の方が頬を染めるほどだ。
そんな中、ルナがおずおずと手を上げる。
「ねぇ、30人くらいなら、なんとかやっつけられる人数じゃない? 一度には無理でも、こっそりと奇襲とかすれば」
およそ神官見習いらしくないこの提案に、エルカとディアナは揃えて首を振った。
「あそこにいるのはゴルゴンの精鋭だと思った方がいい。同人数でも勝てる保証は無い」
「それに、王子を盾にとられちゃったら、私たちは一網打尽。いくら黒猫ちゃんが強くてもね」
「だからっ――」
「シッ! ここは廃村から死角になっているとはいえ、大きな音は禁物だ」
不満そうに口を閉じたフェイの肩にポンと手を置くと、エルカは携帯ランプを置いてある脇に廃村の略図を描いた。
丸や四角の略図だが分かりやすく、なにより正確だ。
そして、最後に描いた四角の上に一つのチェックを加える。
「ルナの指した方角から、おそらくこの廃屋が怪しい。王子の確認を頼みたいが――フェイ、できるか?」
「お。おう。王子を確認するだけでいいんだな?」
「ああ、ゼクス領に帰ればゼクス領の救出部隊が飛んでくるはずだ。救出はそっちに任せよう」
「そいつはありがたい」
「危険だと感じたら迷わず退け、見つからない事が何より重要だ」
「分かってるって」
そう答えたフェイの肩を、エルカが掴んだ。
「フェイ、迷いは死を招くぞ。今だけは冷静に対処しろ」
「……分かったよ、店長」
まだ迷いがあった事などお見通しだったようだ。
フェイは肩をすくめると、次いで腰に掛けてあったボウガンを外し、ルナに渡した。
「音が鳴るからルナに預けておく。ルナに危険が行かないようにするけど、万一の時は使ってくれ。トリガーを引けば使えるようにしてあるから」
「つ、使わないわよ。だって私、神官見習いなんだし」
「万一の時だって」
フェイは渡したボウガンの代わりに、バッグから小さなサイズの薄革のシートを引っ張り出す。
ただの黒い防水革だが、用意してよかったと思う。目立たないだけで無く、濡れて動きが悪くならないためだ。
フェイの背中をエルカの大きな手がパンと叩く。
「進入するのにこの土砂降りは天の恵みだ。いつまで降るか分からんが、止むまでに頼む」
「了解、店長!」
フェイは薄革を広げ、頭上に被ると雨の中へ走り出そうとした。
「フェイ!」
呼び止めたのはコノハだった。
フェイは顔だけ振り返り、目で言葉の続きを促す。
「あの……ね、無事に帰れたら、フェイに、その、ちゃんと言いたい事があるの、だから――」
「ああ、報酬の相談ならエルカに頼むよ」
ドガッ
「いてっ! 何するんだよ、コノハ!」
「もういいっ! 早く行って! このバカッ!」
フェイは尻を擦りながら、ブツブツと出て行ったのだ。
「セシリア様、着きましたよ」
ウトウトと船を漕いでいたセラは、コーディリアの声にハッと顔を上げる。
いつの間にか窓の外は暗くなっており、遥か西の空だけがかすかに赤く染まっていた。
窓から身を乗り出して見回すと、城門の前でリーガンが門兵と話しており、その向こうには視界に入りきらないほど巨大な城がそびえ立っていた。
その全てが高純度のバイスレイトで出来ていると言われる白亜の城――
「シュバート城……」
「おや、セシリア様はここに来るのは初めてですか?」
「ええ。体が弱くて、建国三百年祭の時にも来る事が許されなくて」
「そうですか……あ、思い出しました! 三百年祭の時に始めてエルカーノ様を拝見したのでした。あの頃からエルカーノ様はたくましくて――キャッ!」
頬を染めて自分を抱きしめるコーディリアを見て、セラの前にいた三人のガーディアン達の顔がピクリと引きつった。
そして、セラが首をかしげたのと同時に、馬車の扉が勢いよく開いた。
「許可が下りた、馬車をここに預けて城に入るぞ」
セラ達を呼ぶリーガンの口調は、始めて会った時より随分と砕けていた。
これが本来の彼なのだろう。
ガラムに手を取ってもらい馬車から下りると、すぐさま門兵が馬車の収容にかかり――窓に吊り下げられたカエルを不思議そうに見た。
一人の門兵が、好奇心に負けてカエルに手を触れようとする。
「うかつに触るなっ! それは危険物だっ!」
触ろうとした門兵はリーガンの剣幕にビクリと直立すると、最敬礼をしながら尋ねる。
「き、危険物でありますかっ?」
「そうだ、中に恐ろしい危険物が詰まっている。絶対に天地無用だ。お尻を持って速やかに地中深くへ埋めよ」
門兵の顔が恐怖に歪んだが、その原因たるセラはそんな事に構ってなどいられない。
ただ、ギギギと音をたて開いていく巨大な門を一心に見つめていた。
――とうとう、ここまで来たんだ
もう、甘えも、間違いも、後悔も許されない。
ここが自分の戦場なのだ。
セラは深呼吸をすると、門に向けて一歩を踏み出した。
「オルフェル! おい、聞いてるのかっ!」
怒鳴り続ける男に、オルフェルは手をヒラヒラとさせて答えた。
「ああ、聞いてるさ。ちょっと考え事をしてただけだ。別にスコールくらい珍しくないだろう」
「珍しいさ、ここ一ヶ月は降らなかったんだ。何か嫌な予感がする」
「お前は昔からいつもそれだ、タタロン」
タタロンはオルフェルが育てた10人の中の1人。いつもネガティブな思考をバラまき、周囲を不安にさせている男だ。
ネガティブなのは悪いことじゃない。むしろいつだって最悪な状況を想定して動くべきだろう。しかし、何かにつけては「嫌な予感がする」と言っては仕事をサボっているのを知らないオルフェルではなかった。
「駄目だ。王子の番は俺がやる。お前は外、変更は無しだ」
「ちっ! いつまで経ってもガキ扱いかよ!」
ペッと唾を吐き捨てると、ドンドンと足を踏み鳴らしながらタタロンは廃屋を出て行った。
だからガキなんだよ――オルフェルはそうため息をつくと、机に広げた紙を覗き、口元を綻ばせる。
「お前はそっち側に行ったんだな……フェイ」
カタッ
雨音に紛れ、わずかではあるが意思のある音が外から聞こえた。
「誰だっ!?」
あの小窓の辺りだ――オルフェルは胸元から短刀を引き抜くと、壊れかかったドアを蹴り開け、外に出る。
「いない?」
小窓の前には猫一匹いなかった。
そんなはずは無い、確かに気配がしたのだ――オルフェルが首をぐるりと巡らそうとした瞬間、
バサッ
「上かっ!」
音だけで反応して短刀を頭上で一閃させる。
しかし、そこに手応えは無かった。あったのはただの黒い薄革だけ。
ピタリ
喉元にダガーの冷たい感触が吸い付いた。
「声を出さないでくれ、オルフェル」
「……フェイ、なのか」
二人の声は、豪雨の中に呆気なく消えた。
食事中に読むなどの危険行為は絶対に避けてください]
陽が中天に昇る頃、エルカはひたすら走り詰めだった馬車をようやく止めた。
午前中をフルに使ってバイスアルムを移動できたため、馬車はゼクス領と王都の中間地点まで進んでいた。南は果てしない荒野が続くだけだが、北にはツヴェルフ砂漠特有である薄茶色の地肌がハッキリと見えている。
「ルナ、ここでもう一回調査を頼む」
チョビ髭の御者が2頭の竜馬に水と干し肉を与えている間に、ルナは再び王子の場所を調べる事になった。
その結果、木の棒が示した方角はほぼ真北。
これは偶然ではなく、今朝ルナが出した方角とディアナから聞いた砂漠にあるオアシスの位置から、敵の潜伏先をエルカが予想した結果である。
エルカは皆を呼び、砂漠の一点を指し示した。
「やはり敵はこのオアシス付近に潜伏していたようだ。こここからはバイスアルムを降りてまっすぐ北進する。ただし、砂漠で馬車を使っては砂煙がたって目立ちすぎる。砂漠に入ったら馬車を降り、残りは徒歩で進むぞ」
「ねぇ、エルカ。馬車を降りてから目的地まではどれくらいなの?」
体力に自信が無いルナは不安そうな顔で尋ねた。
エルカは腕を組み、ざっくりと距離を見積もる。
「普通に歩けば日暮れまでには十分着くが、隠れて行くとなると日没とほぼ同時になるだろうな」
「半日も歩くの!? ……あの、馬車に残っちゃダメ?」
「すまない。奴らの拠点の目星は付いたが、そのどの建物に王子を隠しているのかが一番知りたいんだ」
「むー。じゃあ、帰ったらミルフィーナのケーキ食べ放題! それで手を打ちましょう」
「…………分かった。約束しよう」
頷いたエルカの顔は苦渋に歪んでいた。
ルナは超甘党であり、その別腹は3つを下らない。
かなりの散財を覚悟した悲痛の選択だった。
フェイ達がバイスアルムを降りた後、白い巨道にはしばらく人影がなかった。
王子誘拐だけでなく荷物をたっぷり積んだ馬車まで片っ端から襲われたのだから、いくら通商の要と言えど当然だろう。
しかし、陽がハッキリと傾きかけた頃、フェイたちが休憩した場所を一台の馬車が駆け抜けた。
馬車にはツヴァイ領主の家紋が掘り込まれており、当然その中にいる面々はツヴァイ領公子リーガン、アハト領公子コーディリア、ゼクス領公女セシリア、及びそれぞれのガーディアンであった。
一様に重い顔で黙り込んでいたが、その中にあってセラはひときわ緊迫した空気を漂わせていた。いや、それどころか真っ青な顔でうつむき、明らかに様子が変だ。
隣に座っていたリーガンが、その小さな背にそっと触れる。
「セシリア様、顔色が優れませんが大丈夫ですか?」
「だい、じょうぶ、です」
途切れ途切れの返事は、尋ねたリーガンをますます心配させた。
「このあたりで少し休みましょうか?」
「だめ、です。一刻も早く、王都に――うぷっ!」
セラは背筋をピンと張り、口元を押さえた。
一気に膨らむ頬を見て、リーガンはとなりにいたコーディリアを盾にしようと腕を引いたが、まるで岩のようにコーディアリアはビクともしない。
もうだめか――中央に座った事を天に恨みながらリーガンが諦めかけた時、セラの前に座っていたガラムがその懐から風のように革袋を取り出し、主人の手に押し付ける。
セラは噴火直前の口元にはその萎れた皮袋を思い切り押し当てた。
ぷぴぽ
いたく形容しがたい音が漏れるにつれ、その萎れていた革袋はごぽごぽと膨張し、妙に生々しいカエルの姿をあらわす。
「うわ……」
リーガンがうめき声を上げるほどカエルのディティールはある意味素晴らしい。
相当薄く弾力のある革で出来ているらしく、内容物が透けて見える仕様が憎らしいほどだ。
そのカエルの尻についた吹き出し口を器用に縛ったセラは、ふうとため息をついた。
「すみません。一度吐くと、楽になるんです」
「……あの、それは一体何ですか?」
「ゲロゲロ袋のゲロちゃんです。ほら、かわいいでしょ」
そう言ってセラはタプンタプンとゲロちゃんを振り、うっすらと微笑んだ。
すぐ目の前でグロテスクなカエルが内容物ごとシェイクされ、リーガンは喉の奥を震わせる。
「あの、あまり振らないで頂きたい」
「あ、ごめんなさい。私ったら」
セラはぺこりと頭を下げると、ゲロちゃんをおもむろに窓枠へと釣り掛けた。
馬車の振動に合わせて、それはさらに生々しく動き出す。
「こうすると酔わないって、お父様が教えてくれたんです」
「どんな密教だ、それは!」
礼節を忘れて怒鳴りつけたリーガンの肩へ、コーディリアがぐったりともたれかかる。
「ごめんなさい、リーガン。アレ見てたら私も気持ちが……うぷっ」
「よせ、コーディリア! 気持ちは分かるが、お前も一応男だろ! 耐えろ! 耐えるんだ!」
しかし、コーディリアの不調を目ざとく見つけたセラは、ガラムからもう一つカエル袋を拝借し、青ざめたコーディリアの胸元に容赦なく押し付ける。
「あの、これ使ってください。沢山入るので男の人でも大丈夫です」
「うぷっ!」
コーディリアの顔がいっそう青ざめたが、セラは問答無用で萎れたゲロちゃんのお尻の穴をぐわっと広げる。
「ほら、このお尻の部分に口をしっかりつけて――」
「っっ!!」
……やがて、カエルが二匹仲良く吊り下げられ、王都に着くまでの間、タプンタプンと哀愁を誘ったと言う。
とうとう降り出したスコールを、砂漠は貪欲に吸い込んでいた。
砂漠で雨に降られるなど初対面で飛び掛ってくる猫ほどに珍しい。エルカだって予想していなかったことだ。
幸いだったのは、隠れて近づくために用意した砂漠用の薄革迷彩シートが、撥水油の塗りこまれた雨避けシートから作られていた事だろう。
ゴルゴンの隠れ家と思しき廃村を発見したフェイ達6人は、そこから少し離れた場所にシートを広げ、中に入って雨をしのいでいた。
しかし、シートは確かに雨を通さないものの、酷く蒸す。
その熱気の中心にいるのは、目を閉じ木の棒を静かに支えているルナだ。
小型の携帯ランプの明かりに顔の陰影が揺れ、その目がカッと見開かれた。
「神様、神様、本当に何度もすみません。これで最後です。尋ね人の名前はエドガー=グロスターさん、どっちにいますか? えいっ!」
木の棒が指した方向の先を正確にたどり、エルカはシートから顔を出すと目を細めた。
この距離ではもう精度の悪い地図などなんの役にも立たない、頼りになるのはルナの奇跡と自らの目だけである。
既に日は落ちかけ、雨雲が周囲を真っ暗にしているが、棒の示すずっと先にボンヤリと灯りが見えた。
「あの廃村に王子がいるのは間違いない。建物もほぼ特定できたぞ」
微笑んでシートの中に顔を戻したエルカに、ディアナはしなだれかかり、その耳元へささやくように尋ねる。
「ねぇ、敵は何人くらいだと思う?」
「そうだな、廃村の規模から考えて40……いや、30人程度か」
密着する美女にもエルカは顔色一つ変えずに答えた。
むしろ、それを間近で見ていたフェイ達の方が頬を染めるほどだ。
そんな中、ルナがおずおずと手を上げる。
「ねぇ、30人くらいなら、なんとかやっつけられる人数じゃない? 一度には無理でも、こっそりと奇襲とかすれば」
およそ神官見習いらしくないこの提案に、エルカとディアナは揃えて首を振った。
「あそこにいるのはゴルゴンの精鋭だと思った方がいい。同人数でも勝てる保証は無い」
「それに、王子を盾にとられちゃったら、私たちは一網打尽。いくら黒猫ちゃんが強くてもね」
「だからっ――」
「シッ! ここは廃村から死角になっているとはいえ、大きな音は禁物だ」
不満そうに口を閉じたフェイの肩にポンと手を置くと、エルカは携帯ランプを置いてある脇に廃村の略図を描いた。
丸や四角の略図だが分かりやすく、なにより正確だ。
そして、最後に描いた四角の上に一つのチェックを加える。
「ルナの指した方角から、おそらくこの廃屋が怪しい。王子の確認を頼みたいが――フェイ、できるか?」
「お。おう。王子を確認するだけでいいんだな?」
「ああ、ゼクス領に帰ればゼクス領の救出部隊が飛んでくるはずだ。救出はそっちに任せよう」
「そいつはありがたい」
「危険だと感じたら迷わず退け、見つからない事が何より重要だ」
「分かってるって」
そう答えたフェイの肩を、エルカが掴んだ。
「フェイ、迷いは死を招くぞ。今だけは冷静に対処しろ」
「……分かったよ、店長」
まだ迷いがあった事などお見通しだったようだ。
フェイは肩をすくめると、次いで腰に掛けてあったボウガンを外し、ルナに渡した。
「音が鳴るからルナに預けておく。ルナに危険が行かないようにするけど、万一の時は使ってくれ。トリガーを引けば使えるようにしてあるから」
「つ、使わないわよ。だって私、神官見習いなんだし」
「万一の時だって」
フェイは渡したボウガンの代わりに、バッグから小さなサイズの薄革のシートを引っ張り出す。
ただの黒い防水革だが、用意してよかったと思う。目立たないだけで無く、濡れて動きが悪くならないためだ。
フェイの背中をエルカの大きな手がパンと叩く。
「進入するのにこの土砂降りは天の恵みだ。いつまで降るか分からんが、止むまでに頼む」
「了解、店長!」
フェイは薄革を広げ、頭上に被ると雨の中へ走り出そうとした。
「フェイ!」
呼び止めたのはコノハだった。
フェイは顔だけ振り返り、目で言葉の続きを促す。
「あの……ね、無事に帰れたら、フェイに、その、ちゃんと言いたい事があるの、だから――」
「ああ、報酬の相談ならエルカに頼むよ」
ドガッ
「いてっ! 何するんだよ、コノハ!」
「もういいっ! 早く行って! このバカッ!」
フェイは尻を擦りながら、ブツブツと出て行ったのだ。
「セシリア様、着きましたよ」
ウトウトと船を漕いでいたセラは、コーディリアの声にハッと顔を上げる。
いつの間にか窓の外は暗くなっており、遥か西の空だけがかすかに赤く染まっていた。
窓から身を乗り出して見回すと、城門の前でリーガンが門兵と話しており、その向こうには視界に入りきらないほど巨大な城がそびえ立っていた。
その全てが高純度のバイスレイトで出来ていると言われる白亜の城――
「シュバート城……」
「おや、セシリア様はここに来るのは初めてですか?」
「ええ。体が弱くて、建国三百年祭の時にも来る事が許されなくて」
「そうですか……あ、思い出しました! 三百年祭の時に始めてエルカーノ様を拝見したのでした。あの頃からエルカーノ様はたくましくて――キャッ!」
頬を染めて自分を抱きしめるコーディリアを見て、セラの前にいた三人のガーディアン達の顔がピクリと引きつった。
そして、セラが首をかしげたのと同時に、馬車の扉が勢いよく開いた。
「許可が下りた、馬車をここに預けて城に入るぞ」
セラ達を呼ぶリーガンの口調は、始めて会った時より随分と砕けていた。
これが本来の彼なのだろう。
ガラムに手を取ってもらい馬車から下りると、すぐさま門兵が馬車の収容にかかり――窓に吊り下げられたカエルを不思議そうに見た。
一人の門兵が、好奇心に負けてカエルに手を触れようとする。
「うかつに触るなっ! それは危険物だっ!」
触ろうとした門兵はリーガンの剣幕にビクリと直立すると、最敬礼をしながら尋ねる。
「き、危険物でありますかっ?」
「そうだ、中に恐ろしい危険物が詰まっている。絶対に天地無用だ。お尻を持って速やかに地中深くへ埋めよ」
門兵の顔が恐怖に歪んだが、その原因たるセラはそんな事に構ってなどいられない。
ただ、ギギギと音をたて開いていく巨大な門を一心に見つめていた。
――とうとう、ここまで来たんだ
もう、甘えも、間違いも、後悔も許されない。
ここが自分の戦場なのだ。
セラは深呼吸をすると、門に向けて一歩を踏み出した。
「オルフェル! おい、聞いてるのかっ!」
怒鳴り続ける男に、オルフェルは手をヒラヒラとさせて答えた。
「ああ、聞いてるさ。ちょっと考え事をしてただけだ。別にスコールくらい珍しくないだろう」
「珍しいさ、ここ一ヶ月は降らなかったんだ。何か嫌な予感がする」
「お前は昔からいつもそれだ、タタロン」
タタロンはオルフェルが育てた10人の中の1人。いつもネガティブな思考をバラまき、周囲を不安にさせている男だ。
ネガティブなのは悪いことじゃない。むしろいつだって最悪な状況を想定して動くべきだろう。しかし、何かにつけては「嫌な予感がする」と言っては仕事をサボっているのを知らないオルフェルではなかった。
「駄目だ。王子の番は俺がやる。お前は外、変更は無しだ」
「ちっ! いつまで経ってもガキ扱いかよ!」
ペッと唾を吐き捨てると、ドンドンと足を踏み鳴らしながらタタロンは廃屋を出て行った。
だからガキなんだよ――オルフェルはそうため息をつくと、机に広げた紙を覗き、口元を綻ばせる。
「お前はそっち側に行ったんだな……フェイ」
カタッ
雨音に紛れ、わずかではあるが意思のある音が外から聞こえた。
「誰だっ!?」
あの小窓の辺りだ――オルフェルは胸元から短刀を引き抜くと、壊れかかったドアを蹴り開け、外に出る。
「いない?」
小窓の前には猫一匹いなかった。
そんなはずは無い、確かに気配がしたのだ――オルフェルが首をぐるりと巡らそうとした瞬間、
バサッ
「上かっ!」
音だけで反応して短刀を頭上で一閃させる。
しかし、そこに手応えは無かった。あったのはただの黒い薄革だけ。
ピタリ
喉元にダガーの冷たい感触が吸い付いた。
「声を出さないでくれ、オルフェル」
「……フェイ、なのか」
二人の声は、豪雨の中に呆気なく消えた。
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