NOVEL
剣の国の黒猫
22) 双月の庭園
双月の庭園は、ただの白い舞台からパーティ会場へと様相を一変させていた。いたるところに花々が飾られ、周囲を流れる水路にまでも花弁が浮かんでいる。
闇夜を照らす灯りとして用いられるのは三日月形の金の燭台。下弦に溜めた油を数本の芯が灯火に変え、上弦で琴のようにたれさがっている水晶が、その光を受けてキラキラと揺れていた。
そんな代物が惜しげもなくズラリと設置されており、まるで幻想の世界に迷い込んだかのようだ。
――なんて、贅沢な
それらの豪奢な装飾品をコノハは剣呑な目で睨んでいた。
確かに美しくはあるが、民の税がこんな物に使われているのだと考えると、自然と肩に力が入ってしまうのだ。
その肩に手がポンと置かれる。
振り向かなくとも、手の大きさから婚約者役のエルカであることはすぐに分かった。
「コノハ、そんな目で見ないでくれ。これは重要な外交、ゼクス領の財力を他領に見せつける必要があるんだ」
「……くだらない」
「そう思ってくれていい。ただ、公爵家の人間は受ける財の代わりに、自由と言う翼を失う事も覚えておいて欲しい」
「分かってる。公女様みたいな政治の道具になるなんて、いくら贅沢な暮らしが出来たってあたしはごめんよ」
「あたし――ではなく、この会場では私と言って欲しいな」
コノハは返事の代わりに苦笑を浮かべ、空を見上げた。
空の端はまだ明るかったが、日没はもう間もない。
――もう、始まるんだ
既に邸内への進入通路は確認しており、警備の配置もクロフの情報のままだった。
ただ、場内を動き回る侍女や執事達が予想より多い。
臨時で雇った者のようで、誤魔化しは聞くと思うが、これは注意しなくてはならないだろう。
「大丈夫だよ、コノハ。計画は今のところ順調だ。予定通り、パーティが始まってセシリアに皆の注目が集まった時、行動を開始する」
「近衛兵のアズマとか言う男が、五階の牢の鍵を持ってるのよね」
「そうだ。一応策は仕掛けてあるが、失敗した場合はそのアズマから鍵を強奪する。一番危険なポイントはここだろう。詰め所の位置は把握しているな?」
コノハはゆっくりと頷き、もう一度状況を確認するべく双月の庭園を見回した。
舞台を囲う水路のさらに外側には、ここが邸内だと忘れそうになる程の樹木や花々が静かに風にそよがれている。あそこは万一の時に身を隠す絶好の場所になるだろう。
一方、舞台の上には小さな銀造りのテーブルが次々に並べられており、その上に色鮮やかなオードブルが運ばれていた。料理を運ぶ侍女達に混じり貴族達も徐々に増えている。そのどれもが開宴が近いことを示していた。
コノハの背筋に今更ながら緊張の震えが走った時、ふと、貴族の一人と目が合う。
その貴族は浅黒い顔に映える白い歯をキラリと見せて笑うと、嬉しそうに手を振りながらこちらへやって来た。
「心配するな、私の知り合いだ」
隣から聞こえるエルカの声に、コノハは小さく頷き、一歩下がってなるべく目立たないように顔を伏せた。
「やあ、エルカーノ」
「お久しぶりです。ようこそいらっしゃいました、リーガン公子殿下」
「ああ、堅苦しいのは無しにしよう。僕らは立場はイーブンのはずだ」
「そう言ってもらえると肩の荷が下りるよ、リーガン」
「それより、そちらの美しい方は?」
話を振られたコノハは、思いっきり固まった。
頭が真っ白になり、言葉が何も出てこない。
そんなコノハの背に触れ、エルカはさりげなくフォローする。
「ああ、そんなに緊張しなくていいよ。彼は私の友人でツヴァイ領の公子リーガン。リーガン、こちらは婚約者のコノハです」
「お初にお目にかかります」
コノハは必死で笑顔を作り、ぎこちない会釈をしてみせた。
リーガンは海都ツヴァイの公子らしく真っ黒に日焼けしており、ざっくりとカットした灰色の髪といい、まさに海の男といった爽やかな印象の青年だった。
その眩しいばかりの歯をニッと見せ、人懐こく笑う。
「エルカーノ、君は果報者だな! こんな美人はツヴァイにだって見たことが無いぞ」
「ありがとう。だが今夜手を出すのはセシリアだけにしてもらいたいな」
「あはは、もちろんだとも。実は君の妹君に会うのもすごく楽しみなんだ。なにせ、いつここへ来ても顔すら見せない深窓の姫君だ。しかも、絶世の美しさだという噂がたえないときてる」
「噂は噂、過度な期待は禁物だよ」
「……ふむ、噂か。そういえばおかしな噂を聞いたよ」
リーガンの笑みが少し陰った。
「君の妹だが、既に婚約者がいるそうじゃないか。一体どういうことだ?」
「それは――」
エルカが適当にはぐらかそうとした時、それまで控えていたコノハがずいと一歩を踏み出した。
「そんな事、根も葉もない噂に過ぎません。ご安心を、リーガン様」
そして浮かべた冷笑にリーガンはゾクリと体を震わせる。
目が全く笑っていないのだ。
失言だったのかとリーガンは慌てて視線を宙に巡らせ、後退さった。
「そ、そうか、まぁ婚約者を決めるパーティで聞くことでは無かったね。じゃあ、僕はこれで失礼するよ」
そう言ってリーガンは足早に去っていった。
残されたコノハは、おそるおそるエルカを振り返って尋ねる。
「……あの、まずかった?」
「いや、とても助かったよ。感謝する」
そう言ってエルカは少し笑い、星の瞬きはじめた空を見上げた。
――さあ、もう少しの我慢だぞ。フェイ
ガラムが息を整えながら応接室に入った時、そこには不機嫌を絵に書いたようなゴリネルと、静かに苛立ちを隠す領主がいた。
――遅かったか
ガラムはさりげなく領主の後方へ控え、有事に備える。
「しかし、わしは確かに聞いたぞっ! 一人や二人ではない。何人もだ! しかも、リア=フェイロンを目撃した者までいたのだぞ!」
「そう言われましても、そのような男は存じませんな」
「いいのか? これを見ても同じことが言えるのか?」
ゴリネルは唾を吐き散らし、懐から一枚の紙を領主へと突きつけた。
先週、ガラムらが総力をあげて回収したはずのリア=フェイロンの張り紙だった。
――やはり、全ては回収できなかったか
おそらく張り紙を隠し持っていた領民がいたのだろう。
ガラムは申し訳ない気持ちで一杯になったが、当の領主は眉一つ動かさなかった。
「ああ、その張り紙ですか。恥ずかしい話ですが我が娘セシリアは妄想癖がありましてな、時折、そんな落書きをするのですよ」
「なっ――落書きだと! 何をバカな!」
「私も、娘の妄想癖には頭が痛めておったところです。しかし、我が娘が気に入らぬなら、このようなパーティに参加して頂くのも申し訳ない。どれ、将軍閣下のために別席でも設けましょうか?」
「……もういい、結構だ!」
ゴリネルは足を踏み鳴らし、応接間を出て行った。
嵐が去ったとガラムは安堵して肩を落とす。
「見事でした。領主公」
「ふん、あやつの魂胆など透けて見えるわ。我らの弱みを握り、このゼクス領の利権を奪うことに執着しておるだけだろう。全く吐き気がする」
「む、吐き気と言えば…………あっ! りょ、領主公、ひとつ気になることがございます」
ガラムが突如、顔を青く染めて領主の前でひざを着く。
冷徹な武人であるはずのガラムの動揺ぶりに、領主も眉をひそめた。
「気になることだと?」
「はい……セシリア様が、あの――いえ、まだ確かめた訳ではないのですが、その……」
「何だと言うのだ! 今が時間が無い事は、お前が一番分かっているはずだ。すぐさま申せ!」
「は、はい。では恐れながら申し上げます」
ガラムは深呼吸を一つして、敬愛する領主にその推察を語った。
「セシリア様は、身篭っておいでではないかと――」
日が完全に落ちても、まだ主役であるセラとラドクリフ公は一向に双月の庭園に現れない。
お陰でホスト役であるエルカとコノハの二人は、貴族達に延々と挨拶を繰り返すはめになっていた。
「こちらは、美都アハトのコーディリア公子です。コーディリア殿、こちらはコノハ、私の婚約者です」
「これはお美しい。お初にお目にかかります。コーディリアと申します」
「こ、こちらこそ」
公子、と言うからには男であるはずだ。声だってずいぶんと低い。
しかし、着ている服は間違いなく女物のドレスであり、顔の造形もコノハが見惚れるほど美しい。
女性と言われれば絶対に信じていただろう。
――美都アハト領、どんなところなんだろ?
物凄く小さな領だと聞いた事があるが、楽団や劇団の九割はアハト領に本拠があった。
それにこのような公子が許される領である。コノハは純粋に興味が湧いた。
「あの、コーディリア公子殿下、アハト領はどのような領なんでしょうか?」
「おお、良くぞ聞いてくれました!」
コーディリアは両手を天に突き出し、歓喜を全身で表現した。
まるで長きに待ち望んだ雨を神に感謝でもしているかのようだ。
「では、我が愛すべき故郷、アハトの物語をお聞かせしましょう。我がアハトはこの剣の国が建国した当初は、もちろん存在してなどいませんでした。しかし、二百年前、隣国ウォランとの戦争において……」
――しまったあああああ!
押してはいけないスイッチを押した事にコノハはようやく気付く。
延々と絶え間なく流れ続ける昔話に「はぁ」と適当に相槌を打ちながら後悔したが既に遅かった。
お陰でアハト領の壮大なる起源から工芸品の数々、美術史、アハト領出身の伝説の吟遊詩人のサーガまで、延々と聞くことになったのだ。
そんなコノハをエルカは早々に見捨てていた。
あの話好きに捕まっては、作戦準備もへったくれもなくなる。
それよりも今は補給だと、運ばれてくるオードブルを物色することにしたのだ。
『腹が減っては猫にも勝てぬ』である。
「……ん? 随分と魚が多いな」
好物である王都産のリブステーキが無いばかりか、内陸産の肉料理がほとんど無い。
久しぶりに最高級リブステーキを食べられるかと期待していただけに、エルカは少し消沈した。
しかたくなく、魚貝のバター焼きを皿に盛り、最後にレモンを絞る。
バターの風味が香ばしく、これはこれで美味そうだった。
――それにしても、これだけ露骨に肉類が無いとは、何かあったか?
その思案を遮るように、背後からポンと肩を叩かれた。
「や、エルカーノ」
「ああ、リーガンか。父上もセシリアも遅れてしまっているようで、申し訳ないね」
リーガンは「いやいや」と手で制し、塩釜焼きにされた白身魚の身をほぐし、皿に盛る。
最後にソースを掛けようとしてリーガンははたと手を止める。
「そう言えば、今日はエドガー王子も来る予定のはずだが、エルカーノは見ていないか?」
「いえ、まだ見てませんが……確かに遅いですね」
「そうか。いや、まだ幼い王子の事だ。きっとゼクス領の巨道商店がもの珍しくて道草を食っているのだろう」
「ええ。それに王子に婚約はまだ早いでしょうからね」
「あっはっは! 確かに女性より珍しい品々に目がいく年頃だろう。おっと、向こうでケント伯爵を待たせているのでね、失礼するよ」
リーガンが去った後も、エルカはテーブルを離れず思案にふけった。
――王都産の食材がない上にエドガー王子の遅延……王都との街道に何かあったか?
妙な胸騒ぎがエルカの胸中を過ぎるが、さりとて、今はフェイの救出こそ最優先事項である。
関係の無い余計な詮索は任務の遂行に支障をきたすと、エルカはその不安を胸の奥へ押し込んだ。
では、クエスト完遂のために今できる最良の事とは何か?
やはりそれは、食料の補給である。
エルカは一人納得し、魚貝のバター焼きにフォークを付き立てたのだった。
領邸と庭園の間にある休憩所で、セラは椅子に座りじっと待っていた。呼ばれるまでここで待機するよう、侍女から言われていたからだ。
もうすぐ父の挨拶があり、その後でセラは会場へ向かう。そして、そこで人々好奇の目に晒されなければならないのだ。
覚悟の上ではあるが、気持ちが悪くてしょうがなかった。
「……フェイ」
セラは誰にも聞かれないように小さく漏らすと、休憩所の壁を指でなぞる。
休憩所とはいえ、そこは大理石でできた堅固かつ豪華な小屋である。当然、その壁も大理石で造られており、その冷たい表面はセラの心をますます消沈させた。
「――セラ、少し、話がある」
突然かかった声に目を上げると、そこに父の鬼気迫った顔があった。
その脇に似たような表情のガラムもいる。
――また、良くない事かな
暗うつたる予感がしたが、それでもセラは了承の意を込めて小さく頷いた。
領主はいそいそとテーブルを挟んで娘の前に腰掛けると、祈るように両手を組んで慎重に言葉を選んだ。
「……セラ、その、昨夜から気持ちが悪いそうだな」
「はい」
「何度も吐いているとも聞いたぞ、本当か?」
「はい、大事な時に申し訳ありません」
「そうか……」
カタカタカタカタカタ
大理石で出来ているはずのテーブルが、小さく震えていた。
領主の両拳が硬く震えるにあわせ、休憩所に備え付けられているテーブルが、呼応するように振動しているのだ。
そこでようやく自身の動揺に気付いた領主は、両手を解くと深く深くため息を吐いた。
「いや、もういい。時間も無いことだし単刀直入に聞くぞ……セラ、あの男――リア=フェイロンと、やましいことはしていないか?」
「やましい、こと?」
小首をかしげて聞き返され、領主はゲフンと一つ咳払いをする。そして視線を宙に迷わせ、テーブルに向け、外に向け、ガラムに向け、最後にセラに戻したところでゴクリと唾を飲み込んだ。
迷っている時間など無い。聞くしかないのだ。
覚悟を決めた後、さらに心で三つ数えた後、父は決死の言葉を放った。
「子供が、できたのではないか?」
ガタンッ
セラは雷に打たれたように立ち上がり、その額に手を当てた。
心当たりがあるような娘の挙動に、領主の顔が一気に青ざめた。
一方、セラは昨日の夜の事を思い出していた。
――あの時の、キスで?
心臓が跳ね上がり、今までの重く暗かった気持ちは刹那の内にどこかへ飛んでいった。
そんなセラへすがるように領主は手を差し伸べる。
「セラ、まさかっ、まさかっ」
「私とフェイの、子供……」
「ち、違うと言ってくれ! セラ、頼む!」
セラは額に当てていた手を、ゆっくりとそのお腹へと落とす。
そして、頬を赤く染め、幸せそうにつぶやいた。
「――――うれしい」
その言葉に領主は、キレた。
闇夜を照らす灯りとして用いられるのは三日月形の金の燭台。下弦に溜めた油を数本の芯が灯火に変え、上弦で琴のようにたれさがっている水晶が、その光を受けてキラキラと揺れていた。
そんな代物が惜しげもなくズラリと設置されており、まるで幻想の世界に迷い込んだかのようだ。
――なんて、贅沢な
それらの豪奢な装飾品をコノハは剣呑な目で睨んでいた。
確かに美しくはあるが、民の税がこんな物に使われているのだと考えると、自然と肩に力が入ってしまうのだ。
その肩に手がポンと置かれる。
振り向かなくとも、手の大きさから婚約者役のエルカであることはすぐに分かった。
「コノハ、そんな目で見ないでくれ。これは重要な外交、ゼクス領の財力を他領に見せつける必要があるんだ」
「……くだらない」
「そう思ってくれていい。ただ、公爵家の人間は受ける財の代わりに、自由と言う翼を失う事も覚えておいて欲しい」
「分かってる。公女様みたいな政治の道具になるなんて、いくら贅沢な暮らしが出来たってあたしはごめんよ」
「あたし――ではなく、この会場では私と言って欲しいな」
コノハは返事の代わりに苦笑を浮かべ、空を見上げた。
空の端はまだ明るかったが、日没はもう間もない。
――もう、始まるんだ
既に邸内への進入通路は確認しており、警備の配置もクロフの情報のままだった。
ただ、場内を動き回る侍女や執事達が予想より多い。
臨時で雇った者のようで、誤魔化しは聞くと思うが、これは注意しなくてはならないだろう。
「大丈夫だよ、コノハ。計画は今のところ順調だ。予定通り、パーティが始まってセシリアに皆の注目が集まった時、行動を開始する」
「近衛兵のアズマとか言う男が、五階の牢の鍵を持ってるのよね」
「そうだ。一応策は仕掛けてあるが、失敗した場合はそのアズマから鍵を強奪する。一番危険なポイントはここだろう。詰め所の位置は把握しているな?」
コノハはゆっくりと頷き、もう一度状況を確認するべく双月の庭園を見回した。
舞台を囲う水路のさらに外側には、ここが邸内だと忘れそうになる程の樹木や花々が静かに風にそよがれている。あそこは万一の時に身を隠す絶好の場所になるだろう。
一方、舞台の上には小さな銀造りのテーブルが次々に並べられており、その上に色鮮やかなオードブルが運ばれていた。料理を運ぶ侍女達に混じり貴族達も徐々に増えている。そのどれもが開宴が近いことを示していた。
コノハの背筋に今更ながら緊張の震えが走った時、ふと、貴族の一人と目が合う。
その貴族は浅黒い顔に映える白い歯をキラリと見せて笑うと、嬉しそうに手を振りながらこちらへやって来た。
「心配するな、私の知り合いだ」
隣から聞こえるエルカの声に、コノハは小さく頷き、一歩下がってなるべく目立たないように顔を伏せた。
「やあ、エルカーノ」
「お久しぶりです。ようこそいらっしゃいました、リーガン公子殿下」
「ああ、堅苦しいのは無しにしよう。僕らは立場はイーブンのはずだ」
「そう言ってもらえると肩の荷が下りるよ、リーガン」
「それより、そちらの美しい方は?」
話を振られたコノハは、思いっきり固まった。
頭が真っ白になり、言葉が何も出てこない。
そんなコノハの背に触れ、エルカはさりげなくフォローする。
「ああ、そんなに緊張しなくていいよ。彼は私の友人でツヴァイ領の公子リーガン。リーガン、こちらは婚約者のコノハです」
「お初にお目にかかります」
コノハは必死で笑顔を作り、ぎこちない会釈をしてみせた。
リーガンは海都ツヴァイの公子らしく真っ黒に日焼けしており、ざっくりとカットした灰色の髪といい、まさに海の男といった爽やかな印象の青年だった。
その眩しいばかりの歯をニッと見せ、人懐こく笑う。
「エルカーノ、君は果報者だな! こんな美人はツヴァイにだって見たことが無いぞ」
「ありがとう。だが今夜手を出すのはセシリアだけにしてもらいたいな」
「あはは、もちろんだとも。実は君の妹君に会うのもすごく楽しみなんだ。なにせ、いつここへ来ても顔すら見せない深窓の姫君だ。しかも、絶世の美しさだという噂がたえないときてる」
「噂は噂、過度な期待は禁物だよ」
「……ふむ、噂か。そういえばおかしな噂を聞いたよ」
リーガンの笑みが少し陰った。
「君の妹だが、既に婚約者がいるそうじゃないか。一体どういうことだ?」
「それは――」
エルカが適当にはぐらかそうとした時、それまで控えていたコノハがずいと一歩を踏み出した。
「そんな事、根も葉もない噂に過ぎません。ご安心を、リーガン様」
そして浮かべた冷笑にリーガンはゾクリと体を震わせる。
目が全く笑っていないのだ。
失言だったのかとリーガンは慌てて視線を宙に巡らせ、後退さった。
「そ、そうか、まぁ婚約者を決めるパーティで聞くことでは無かったね。じゃあ、僕はこれで失礼するよ」
そう言ってリーガンは足早に去っていった。
残されたコノハは、おそるおそるエルカを振り返って尋ねる。
「……あの、まずかった?」
「いや、とても助かったよ。感謝する」
そう言ってエルカは少し笑い、星の瞬きはじめた空を見上げた。
――さあ、もう少しの我慢だぞ。フェイ
ガラムが息を整えながら応接室に入った時、そこには不機嫌を絵に書いたようなゴリネルと、静かに苛立ちを隠す領主がいた。
――遅かったか
ガラムはさりげなく領主の後方へ控え、有事に備える。
「しかし、わしは確かに聞いたぞっ! 一人や二人ではない。何人もだ! しかも、リア=フェイロンを目撃した者までいたのだぞ!」
「そう言われましても、そのような男は存じませんな」
「いいのか? これを見ても同じことが言えるのか?」
ゴリネルは唾を吐き散らし、懐から一枚の紙を領主へと突きつけた。
先週、ガラムらが総力をあげて回収したはずのリア=フェイロンの張り紙だった。
――やはり、全ては回収できなかったか
おそらく張り紙を隠し持っていた領民がいたのだろう。
ガラムは申し訳ない気持ちで一杯になったが、当の領主は眉一つ動かさなかった。
「ああ、その張り紙ですか。恥ずかしい話ですが我が娘セシリアは妄想癖がありましてな、時折、そんな落書きをするのですよ」
「なっ――落書きだと! 何をバカな!」
「私も、娘の妄想癖には頭が痛めておったところです。しかし、我が娘が気に入らぬなら、このようなパーティに参加して頂くのも申し訳ない。どれ、将軍閣下のために別席でも設けましょうか?」
「……もういい、結構だ!」
ゴリネルは足を踏み鳴らし、応接間を出て行った。
嵐が去ったとガラムは安堵して肩を落とす。
「見事でした。領主公」
「ふん、あやつの魂胆など透けて見えるわ。我らの弱みを握り、このゼクス領の利権を奪うことに執着しておるだけだろう。全く吐き気がする」
「む、吐き気と言えば…………あっ! りょ、領主公、ひとつ気になることがございます」
ガラムが突如、顔を青く染めて領主の前でひざを着く。
冷徹な武人であるはずのガラムの動揺ぶりに、領主も眉をひそめた。
「気になることだと?」
「はい……セシリア様が、あの――いえ、まだ確かめた訳ではないのですが、その……」
「何だと言うのだ! 今が時間が無い事は、お前が一番分かっているはずだ。すぐさま申せ!」
「は、はい。では恐れながら申し上げます」
ガラムは深呼吸を一つして、敬愛する領主にその推察を語った。
「セシリア様は、身篭っておいでではないかと――」
日が完全に落ちても、まだ主役であるセラとラドクリフ公は一向に双月の庭園に現れない。
お陰でホスト役であるエルカとコノハの二人は、貴族達に延々と挨拶を繰り返すはめになっていた。
「こちらは、美都アハトのコーディリア公子です。コーディリア殿、こちらはコノハ、私の婚約者です」
「これはお美しい。お初にお目にかかります。コーディリアと申します」
「こ、こちらこそ」
公子、と言うからには男であるはずだ。声だってずいぶんと低い。
しかし、着ている服は間違いなく女物のドレスであり、顔の造形もコノハが見惚れるほど美しい。
女性と言われれば絶対に信じていただろう。
――美都アハト領、どんなところなんだろ?
物凄く小さな領だと聞いた事があるが、楽団や劇団の九割はアハト領に本拠があった。
それにこのような公子が許される領である。コノハは純粋に興味が湧いた。
「あの、コーディリア公子殿下、アハト領はどのような領なんでしょうか?」
「おお、良くぞ聞いてくれました!」
コーディリアは両手を天に突き出し、歓喜を全身で表現した。
まるで長きに待ち望んだ雨を神に感謝でもしているかのようだ。
「では、我が愛すべき故郷、アハトの物語をお聞かせしましょう。我がアハトはこの剣の国が建国した当初は、もちろん存在してなどいませんでした。しかし、二百年前、隣国ウォランとの戦争において……」
――しまったあああああ!
押してはいけないスイッチを押した事にコノハはようやく気付く。
延々と絶え間なく流れ続ける昔話に「はぁ」と適当に相槌を打ちながら後悔したが既に遅かった。
お陰でアハト領の壮大なる起源から工芸品の数々、美術史、アハト領出身の伝説の吟遊詩人のサーガまで、延々と聞くことになったのだ。
そんなコノハをエルカは早々に見捨てていた。
あの話好きに捕まっては、作戦準備もへったくれもなくなる。
それよりも今は補給だと、運ばれてくるオードブルを物色することにしたのだ。
『腹が減っては猫にも勝てぬ』である。
「……ん? 随分と魚が多いな」
好物である王都産のリブステーキが無いばかりか、内陸産の肉料理がほとんど無い。
久しぶりに最高級リブステーキを食べられるかと期待していただけに、エルカは少し消沈した。
しかたくなく、魚貝のバター焼きを皿に盛り、最後にレモンを絞る。
バターの風味が香ばしく、これはこれで美味そうだった。
――それにしても、これだけ露骨に肉類が無いとは、何かあったか?
その思案を遮るように、背後からポンと肩を叩かれた。
「や、エルカーノ」
「ああ、リーガンか。父上もセシリアも遅れてしまっているようで、申し訳ないね」
リーガンは「いやいや」と手で制し、塩釜焼きにされた白身魚の身をほぐし、皿に盛る。
最後にソースを掛けようとしてリーガンははたと手を止める。
「そう言えば、今日はエドガー王子も来る予定のはずだが、エルカーノは見ていないか?」
「いえ、まだ見てませんが……確かに遅いですね」
「そうか。いや、まだ幼い王子の事だ。きっとゼクス領の巨道商店がもの珍しくて道草を食っているのだろう」
「ええ。それに王子に婚約はまだ早いでしょうからね」
「あっはっは! 確かに女性より珍しい品々に目がいく年頃だろう。おっと、向こうでケント伯爵を待たせているのでね、失礼するよ」
リーガンが去った後も、エルカはテーブルを離れず思案にふけった。
――王都産の食材がない上にエドガー王子の遅延……王都との街道に何かあったか?
妙な胸騒ぎがエルカの胸中を過ぎるが、さりとて、今はフェイの救出こそ最優先事項である。
関係の無い余計な詮索は任務の遂行に支障をきたすと、エルカはその不安を胸の奥へ押し込んだ。
では、クエスト完遂のために今できる最良の事とは何か?
やはりそれは、食料の補給である。
エルカは一人納得し、魚貝のバター焼きにフォークを付き立てたのだった。
領邸と庭園の間にある休憩所で、セラは椅子に座りじっと待っていた。呼ばれるまでここで待機するよう、侍女から言われていたからだ。
もうすぐ父の挨拶があり、その後でセラは会場へ向かう。そして、そこで人々好奇の目に晒されなければならないのだ。
覚悟の上ではあるが、気持ちが悪くてしょうがなかった。
「……フェイ」
セラは誰にも聞かれないように小さく漏らすと、休憩所の壁を指でなぞる。
休憩所とはいえ、そこは大理石でできた堅固かつ豪華な小屋である。当然、その壁も大理石で造られており、その冷たい表面はセラの心をますます消沈させた。
「――セラ、少し、話がある」
突然かかった声に目を上げると、そこに父の鬼気迫った顔があった。
その脇に似たような表情のガラムもいる。
――また、良くない事かな
暗うつたる予感がしたが、それでもセラは了承の意を込めて小さく頷いた。
領主はいそいそとテーブルを挟んで娘の前に腰掛けると、祈るように両手を組んで慎重に言葉を選んだ。
「……セラ、その、昨夜から気持ちが悪いそうだな」
「はい」
「何度も吐いているとも聞いたぞ、本当か?」
「はい、大事な時に申し訳ありません」
「そうか……」
カタカタカタカタカタ
大理石で出来ているはずのテーブルが、小さく震えていた。
領主の両拳が硬く震えるにあわせ、休憩所に備え付けられているテーブルが、呼応するように振動しているのだ。
そこでようやく自身の動揺に気付いた領主は、両手を解くと深く深くため息を吐いた。
「いや、もういい。時間も無いことだし単刀直入に聞くぞ……セラ、あの男――リア=フェイロンと、やましいことはしていないか?」
「やましい、こと?」
小首をかしげて聞き返され、領主はゲフンと一つ咳払いをする。そして視線を宙に迷わせ、テーブルに向け、外に向け、ガラムに向け、最後にセラに戻したところでゴクリと唾を飲み込んだ。
迷っている時間など無い。聞くしかないのだ。
覚悟を決めた後、さらに心で三つ数えた後、父は決死の言葉を放った。
「子供が、できたのではないか?」
ガタンッ
セラは雷に打たれたように立ち上がり、その額に手を当てた。
心当たりがあるような娘の挙動に、領主の顔が一気に青ざめた。
一方、セラは昨日の夜の事を思い出していた。
――あの時の、キスで?
心臓が跳ね上がり、今までの重く暗かった気持ちは刹那の内にどこかへ飛んでいった。
そんなセラへすがるように領主は手を差し伸べる。
「セラ、まさかっ、まさかっ」
「私とフェイの、子供……」
「ち、違うと言ってくれ! セラ、頼む!」
セラは額に当てていた手を、ゆっくりとそのお腹へと落とす。
そして、頬を赤く染め、幸せそうにつぶやいた。
「――――うれしい」
その言葉に領主は、キレた。
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