覇皇伝
第二章 北の友邦
第二章 北の友邦
1 ルシタニア訪問
帝国暦三三二年七月十九日。
「まもなく国境です」
「………うん」
白馬に揺られながら、フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザーは彼と並んで駒を進めている近衛騎士団長アミリア=ホーンの言葉に、気の無い返事を返した。
「いかがなされました?」
そんな皇帝の様子に、気遣わしげにアミリアは銀の瞳で皇帝の顔を覗き込んだ。
「………うん」
また、気の無い返事を返す皇帝。
その心ここにあらずと言った様子に、アミリアは形の良い眉を寄せて、
「疲れていらっしゃるなら、隊列を止めて休憩なさいますか?」
「え………いや、大丈夫だよ」
ようやく我に帰ったと言う風に、微笑むラインハルト。
黄金の輝きを持つ金髪に、海の色を湛える碧眼、白鎧の上に純白の戦衣を纏い、腰には豪奢な装飾の施された鞘に収められた精霊具、《覇皇剣-サナトゥス》を佩いている。
「左様ですか」
釈然としない様子ではあったが、アミリアは話しを切った。
間もなく、ラインハルトを守るようにして進む四千五百人は、フロレシア帝国とルシタニア連合王国の国境を越えて、ルシタニア王国領内に入った。
国境からすぐの村まで、ルシタニア側の迎えが来ており、ラインハルトの前で丁寧な口上を述べた後、列の先頭に立って、一同をルシタニアの王都スフィンへと案内し始めた。
馬上で揺られ、かすかな風に黄金の髪を揺らしながら、ラインハルトは出発前のシエナ=クリケットとの会話を思い出していた。
シエナはラインハルトの幼馴染であり、彼にとって恐らくもっとも大事な女性である。
銀色の髪に金色の瞳を持つ少女は出発を目前としたラインハルトに、心配そうに目を伏せながら話し掛けてきたのだ。
「いよいよルシタニア訪問ね、ライン」
「ああ、レオンに会うのも久しぶりだよ」
レオンとはレオンがフロレシアへの滞在を早々に切り上げて帰国して以来一ヶ月会っていない。
それほど長い時間離れていたわけではない―――異国に住んでいる割には―――が、それでも再会できると言う事にわくわくとする気持ちを抑えられないのは事実であるのだから仕方が無かった。あの褐色の肌に美しく輝く紅い瞳を持つ少年が自分と同じ思いでいるかどうか、それは不安の種ではあったが。
そんな気持ちを隠そうともせずに口にするラインハルトに、シエナの瞳は不安げに揺れた。
「ルシタニアの政情は今安定していないって兄さんに聞いたわ」
「………うん」
曖昧に頷く。
ルシタニア連合王国は群小王国の連合体だ。
その一角を担うルシタニア王国とドルク王国がルテティアと言う豊かな恵みを齎してくれる地を巡って対立している。
新しい問題ではなく、既に百年近くにも渡って続けられてきた対立ではある。
だが、現在はその緊張がピークに達していると言っても過言ではない。
気性の荒い国と言われるドルク王国ではあったが、今までそれでも武力行使に及ぶ事は無かった。
それが急に、軍事行動に出た。
国境を守備していたルシタニア軍は突如侵攻してきたドルク王国軍の前に敗退。
ルテティアはドルク王国の占拠する所となった。
ほんの、一ヶ月前の事だ。
それからと言うもの、両国の軍勢は対峙を続けている。
現在では病床にある父王ヨーゼフ=ルシタニアの名代として、フロレシアより帰国したレオン=ルシタニアがルシタニア王国軍の指揮を執っている。
「確かに危険だよ。でも―――」
諭すような口調で言うラインハルトだったが、シエナは微笑を浮かべて、
「でも、貴方は行くんでしょ?友人の助けになりたくて。友好国だから援軍を出すとか、そう言う事ではなく、一人の男として、一人の友人を助けたい、なぜなら、自分もその友人に助けられたから」
ずばりとラインハルトの言いたい事を先に言われてしまい、ラインハルトは苦笑を浮かべざるを得なかった。
「さすがはシエナ、僕の考えてる事なんてお見通しだね」
「勿論」
笑顔で言ったシエナが、真顔に戻って、
「でも心配。もしドルク王国と戦争にでもなってしまったら、貴方の周りには四千五百の兵しかいないんでしょ?それにドルク王国軍の指揮官はすごく強いと聞いたわ」
「ヴァルツ=リバーエンドか。僕も詳しい事は知らないけれど、そうらしいね。大丈夫、なんとかなる。ヨーゼフ王もレオンも戦争ではなく話し合いで解決しようとしてるみたいだし。僕が何とか仲介できれば良いんだけど。もし戦争になっても、国境には第三軍が居るんだよ。僕達ローデンスの者にとっては親しみのある第三軍が」
「そうね。出来れば私も一緒に行きたいけれど、駄目よね」
「シエナ………」
「だから、これを持っていって」
無理をしていると丸わかりな笑顔で、シエナは一体の神像を差し出した。
手に収まるような小さな、ロデン神像だった。
シエナは熱心なロデン教信者なのだ。
「ラインの身を守るように願を掛けたわ。きっと私の代わりにラインを守ってくれるわ」
ラインハルトは笑顔を浮かべて、その小さな神像を受け取った。
「ありがとう、シエナ。君だと思って大事にするよ」
神像を懐に入れて微笑むラインハルトに、シエナも頬をやや赤く染めて、
「へ、変な事に使わないでよ」
「変な事って?」
「な、なんでもない」
「変な事って何さ」
「なんでもないって言ってるでしょ!ラインの馬鹿!」
くすり。
その後のシエナの狼狽振りを思い出して、思わずラインハルトは小さく笑い声を漏らしていた。
「いかがなされました?」
それを聞きとがめたらしいアミリアが怪訝そうに訊いて来る。
「―――いや、なんでもないよ、ちょっとした思い出し笑い」
「?」
きっとアミリアはこう思ったに違いない。人の話しも上の空で聞いていたかと思えば、いきなり思い出し笑いとは、奇妙な皇帝だ、と。
国境を通過して数時間。ラインハルト達はルシタニア王国王都スフィンの近くまで到達した。
街を見下ろせる丘の上で、最後の小休止を取りながら、ラインハルトは賛嘆の声を上げた。
「綺麗な街だね」
ちょうど夕刻だったために、白亜の城壁で囲まれ、整然と区画整理された街並みはオレンジ色に輝いていた。真円を描く街の中心部には高い尖塔をいくつも備えた城が偉容を誇り、東西南北に伸びた大通りは買い物をする主婦や家に帰る男達などで活況を呈していた。住宅街からは無数の炊飯の煙が上がり、長閑な印象を与える。フロレシア帝国の帝都ルーガに比べればその規模は遥かに小さな物であったが、誇るに十分値する価値を持つ街であった。その街の美しさに疲れも吹き飛び、自然と足運びも軽快になって、四千五百人はスフィンへの道を急いだ。とはいえ、さすがに四千五百人ものむさ苦しい者達が入れば宿探しだけでも大変なので、大部分は城壁の外に場所を借りて野営する事となった。
ラインハルトはアミリア=ホーン、カーン=オルベニー、オットー=セルバンの三人と三十人ほどの近衛騎士だけを引き連れて、スフィンの中へと入った。
城門を潜った瞬間、彼らは激烈な歓迎の歓声を浴びた。
彼らがレオンを迎えた時と同等か、或はそれ以上に、スフィンの人々は熱烈に彼らの事を歓迎してくれた。その歓迎に遂嬉しくなって、ラインハルトもカーンも、近衛騎士たちも満面の笑顔で手を振って歓声に答えながら、案内人について、王城へと向かったのだった。
時刻が時刻なだけに、スフィンの街は美味しそうな臭いで満ちていた。
ぐう。
その臭いに誘われて、ラインハルトの腹の虫がなる。
「陛下の腹の虫も、歓迎に答えておりますな」
カーンがからかう。
ラインハルトは赤面しつつ、なんとか反論しようとするが、
ぐぎゅるるるぅっ!!
その言葉は突如響いた巨大な音に、掻き消された。
全員の注目を浴びて、音の発生源たる腹を抑えたカーンが大口開けて笑った。
「はっはっは。どうやら俺の腹の虫は意地汚いようですな!」 「ここでならばまだしも、ヨーゼフ王に謁見している最中にだけは鳴らさないで頂きたい。食事を催促しているように聞こえる」
渋面でアミリアが注意するが、カーンは全く悪びれずに、
「こりゃ生理反応だからしかたねぇよ、アミリア」
「カーン、誰が私を呼び捨てにして良いといった?」
「なんだ?不服か?なら―――アミリアちゃん?うわ、気色悪いな」
「それは私の台詞だ!」
「じゃあ、マイ・ハニーか?」
「どうしてそうなる!」
「え………ダーリンが良いのか?」
「貴様、殺すぞ!?」
アミリアが《光輝の剣-ルメーダ》の柄に手を掛ける。
カーンは顔の前で手を振って、
「勘弁勘弁、俺はまだ死にたくないんだ」
「それにしても、二人はいつ仲良くなったんだい?」
ラインハルトは延々と口喧嘩を続ける二人を横目に見ながら、オットーに聞いた。
青い髪の青年士官は苦笑のような物を浮かべて、
「ルト=リューベン閣下の反乱が鎮圧したすぐ後からですね。まあ、カーンもシオン閣下やアレク閣下に比べれば大人しいけれどあれでも女垂らしですから」
「それにしてもアミリアとは………アミリアって、堅いって言う印象が強かったんだけどな」
「ええ。僕も意外に思っています。カーンの好みはどちらかと言えば大人しいタイプの女性だと思ってましたから」
二人がそんな会話をしている間にもカーン達の口喧嘩はさらに温度を上げて行き―――、
「ははは、アミリア、赤くなっちゃって、可愛いな。でも俺、女装に趣味無いんだ。御免な。だから、マイ・ハニーで勘弁―――」
「ふざけるなぁっ!!」
顔を林檎の如く真っ赤にし、頭頂部から湯気など噴出しながら、狂戦士と化したアミリアが《光輝の剣-ルメーダ》を引き抜き、振り下ろす。殺す気満々の、必殺の一撃。
だがそれをカーンは背中に背負っていた《風の槍斧―ヤーナス》で受け止める。
アミリアの精霊具、《光輝の剣-ルメーダ》とカーンの《風の槍斧―ヤーナス》がぶつかり合い、激しい火花が散る。
『互いに苦労はつきぬなぁ』
『照れ隠しのために振るわれたのではこちらも堪った物ではない』
《風の槍斧―ヤーナス》と《光輝の剣-ルメーダ》が互いに深々と溜息を吐く。
接触する事により、精霊達は己の意思を相手に伝達する事ができるのである。
ただし、強大な力を有するような精霊になると接触しなくても思念を飛ばす事ができる。
《覇皇剣-サナトゥス》が宝物庫でラインハルトに声を掛けたように。
そんな精霊同士の話し合いなどに構わず、主人達は剣をぶつけ合う。
「貴様だけは、貴様だけは私が殺す!」
まるで仇敵に対するかのような言葉を真っ赤になりながら喚くアミリアに、カーンは真剣そのものという真面目な顔つきで、
「おまえに殺されるなら、良いかもな」
「なっ………」
その言葉に、アミリアの顔が怒りとは別の感情によって真っ赤になる。
その瞬間、やや力が抜け、カーンが力任せに押してくる。
予想以上に近くにあるカーンの顔を見て、アミリアの思考が真っ白になる。
その時、カーンの表情から真剣な色が消え、代わりにへらっとした女垂らしな笑みを浮かべた。
「なぁんてな、冗談だ。人生、天寿を全うしてなんぼのもんよ」
アミリアは屈辱に顔を真っ赤にし、
「も、申し訳ありませぬ、陛下!私ともあろう者がこのような戯けたうつけの挑発に乗って、騎士たる節度を見失い、あまつさえ動揺してしまうなどとは!近衛騎士団長の重職にある者にあるまじき行為!先祖アザウェイにも申し訳が立ちませぬ!こ、この上は死を持って償いをさせていただきたく、自害いたします―――!!」
「ええ!?ちょ、ちょっと、待った!」
いきなり剣を腹に突きたてようとするアミリアに、ラインハルトの慌てた制止の声が飛ぶ。
だがアミリアは頑なに声を張り上げる。
「もはやおめおめと生きている事など出来ませぬ!なにとぞ、けじめを付けさせてください!このままでは姉様や妹達にも示しがつきませぬ!」
腹に剣を突き立てようとするアミリア。
ラインハルトはそれまで事態を傍観していた黒髪の護衛に向かって、
「ヴァン、彼女の剣を!」
「―――承知」
次の瞬間、ヴァンの姿が霞み、誰も反応できない間に、アミリアは剣を取り上げられていた。
皇帝の脇に姿を現したヴァンは、皇帝に《光輝の剣-ルメーダ》を渡す。
「い、いつの間に………」
驚愕するアミリア。他の面々も、驚きに目を瞠っていた。近衛騎士団長が反応できない相手がまさかこの世に居るとは。ラインハルトはその剣をアミリアに差し出しながら、優しく言う。
「こんな事で自害なんかしたら、余はアミリアのこと、恨むよ、これからの時代、余は皇帝として頑張らなくちゃいけないんだから、アミリアにも頑張ってもらわないと。一人で先に逝って楽しようたって、そうはいかないよ」
「陛下―――わかりました。このアミリア=ホーンの命、存分に御使いください」
「うん―――それにしても」
ラインハルトの顔に、悪戯っぽい笑顔が浮かぶ。彼は意味深にアミリアとカーンを見比べて、
「二人って、本当に仲良いよね」
「なっ!そんな事は―――」
「いやあ、やっぱわかります?そう、実は俺達愛し―――」
「だから貴様は殺す!」
「うわあ、駄目だって、アミリア!」
本来は止めに入らなければならない近衛騎士達はこの騒ぎをなぜか微笑ましく眺めていた。
「やれやれ………騒々しい集団だね、これ」
オットーは楽しそうに、ヴァンに話しかけた。
「…………」
ヴァンは答えなかった物の、そのエメラルドグリーンの瞳は少しだけ、緩んでいるように見えた。
騒々しく言い合いながら、一行はスフィン城の中へと入って行った。
2 義兄弟の契り
城の中は豪華な中にも何処となく質素さと謙虚さを感じた。
一つ一つは高価な品なのであろう物が置いてあるが、なんと言うか、必要最低限の物しか無いとも言える。そんなスフィン城の中を案内されて、一同は謁見の間へと通された。
そこもやはり質素で、ラインハルトをしてローデンスのクリケット伯爵館を思い出させた。
「よくぞいらっしゃって下さいました。全国民を代表して、歓迎の意を表させていただきます」
玉座ではなく、謁見の間の中ほどで彼らを迎えたのは褐色の肌に赤い瞳を持つ少年。
ルシタニア連合王国王子、レオン=ルシタニアその人であった。
くすんだ色の金髪と両耳の辺りだけにある緑色の飾り毛を揺らしながら、レオンは歩み寄ってきた。
ラインハルトも満面の笑顔で近づき、二人は再会の握手を交わした。
「やあ、レオン、久しぶり。元気だったかい?」
「はい。陛下は?」
「元気だよ」
レオンの背後には、彼の忠実なる臣下であるレフ=スタッカートも相変わらずの鋭い眼差しで直立している。ラインハルトは気さくな微笑をそのレフにも向けて、
「レフも久しぶり。また貴方の淹れる紅茶を飲ませてほしい。あれは本当に美味しかったからね」
「御望みとあらば」
視線をレオンに戻して、聞く。
「ヨーゼフ陛下の御容態は御悪いの?体調が優れないようならば、御挨拶はまたの機会にするけど」
「いえ、陛下。父は寝台から降りる事もままならないだけで、容態は安定しています。それに僕の義兄になる陛下に会いたがっています」
(寝台から降りられないって………それは容態が悪いと言うのでは?)
だが、相手が良いと言っている物をこちらが断るのもあれなので。
「わかった。宸襟を悩ませたくないから、僕だけで会いに行こう。連れは―――」
「私が御案内しましょう」
「じゃあ、お願いするね、レフ―――じゃあレオン」
「わかりました。こちらです」
アミリア達と別れ、ラインハルトはレオンの後に付いて行った。
護衛役であるヴァンだけは、ラインハルトの後を付いて行ったが。
国王ヨーゼフ=ルシタニアの居室は城の中心部、もっとも静かな場所にあった。
「御父上、ラインハルト陛下が到着なさいました」
「おお、これはこれは………お入りくだされ」
扉越しに掛けたレオンの言葉に、温和な声が返ってきた。
レオンが扉を開け、二人は部屋の中へと入って行った。
部屋の三分の一程を占める、ダブルどころかトリプルか或はカルテットぐらいの大きさの寝台の上に、枯れ枝のような老人が横になっていた。ベッドがとてつもなく大きいだけに、そこに横たわる小柄な老人の姿はさらに小さく見えてしまう。
ほとんど抜け落ちてしまったらしいくすんだ金髪に、赤い瞳、がさがさで、皺だらけの木の幹のような色をした肌、頬の肉は削げ落ち、眼窩は落ち窪んでいる。
どうやら本を読んでいたらしいが、その本を持つ両腕はラインハルトでも少し力を入れて握れば砕けてしまうのではないかと心配になるほど細かった。
(死期が近い………)
見る者をして、等しくその老王の姿はそう思わせるだろう。
「病ゆえ、このような見苦しい姿で相済まぬ」
「いえ。御体の加減はいかがですか?」
「見ての通り、死期が近づいておる。………ああ、遠慮なさらずお掛けくだされ」
視線で、寝台の傍の丸椅子を示して言ってくる。
死期が近いとは言いながら、まだまだその口調はしっかりとした物だった。
ラインハルトは椅子に腰を下ろしながら、
「死期が近いなどと何を弱気な事を言っておられるのですか」
「そうですよ、父上。国民皆が父上の回復を祈っています」
ラインハルトの言葉にレオンも口を添える。
ヨーゼフはかすかに唇を歪めた。
笑ったのだろうか。
「これ以上、わしが老骨に鞭打つ必要はあるまい。………ルシタニアには、レオン、おまえが居る。おまえならば、わしなどよりももっとこの国を良くしてくれるじゃろう。それに、おまえには得難き友人も居る」
ラインハルトとレオンは顔を見合わせて、揃って微笑を浮かべた。
レオンがヨーゼフの顔を覗き込むようにして、言う。
「陛下との義兄弟の契りを結ぶ儀を今ここで、父上の前で執り行ってよろしいですか?」
「レオン殿下の義兄となるのを見届けていただければ幸いです」
「なんと、義兄弟の誓いを………!それはありがたい話しです、ラインハルト殿、レオンはわしの自慢の息子じゃ。この国を安心して任せられる。じゃが、何分にもまだ若い。レオンには良き理解者となる親友が必要なんじゃ。………どうか、誓いを守り、レオンをよろしく御頼む申す」
「しかと承りました」
ラインハルトは席を立って、腰の剣を抜いた。
《覇皇剣-サナトゥス》の、真紅の輝きが迸る。
レオンも腰の剣を抜いた。
ラインハルトも始めてみるレオンの剣は、美しい蒼い刃であった。
にこりと笑ったレオンが剣の刃を撫でる。
「我がルシタニア王家に伝わる《水霊剣―ウォーガイスト》です」
「美しい剣だね」
「はい」
二人は頷き合い、相対して立った。互いに剣を胸の前で空に向けて構え、地面と垂直に立てる。
『我ら、この世に生を受けた日、生を受けた刻は違えども、願わくば死するときは同じ日、同じ刻であることを望まん』
宣誓し、両者の中間点で、両者の剣をクロスさせる。
澄んだ音色が王の寝室に木霊した。
この瞬間、フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザーとルシタニア連合王国王子レオン=ルシタニアは義兄弟となった。
若き義兄弟の姿を、ヨーゼフ王は穏やかな眼差しで見つめていた。
「ラインハルト殿」
「はい」
ヨーゼフの呼びかけに、ラインハルトは剣を鞘に戻し、再び椅子に腰を下ろした。
「何卒、何卒、このルシタニアとレオンを宜しくお頼み申す」
「確かに承知しました」
ヨーゼフは安堵したかのように何度も頷き、やがて、眠りに落ちた。
ラインハルトとレオンは静かに彼の部屋を退室した。
部屋の外で待っていたヴァンと合流し、ゆるゆると歩き出す。
「陛下、塔に登りませんか?」
「レオン、陛下は止してくれ。僕は君の兄なんだから」
ラインハルトの言葉に、レオンは嬉しそうに笑顔を浮かべて、頷いた。
「そうでしたね、兄上」
二人は見張り台を兼ねる大尖塔へと登った。
最上階からはかなり遠くまで見通す事が出来る。
「あっちが、ルテティアです」
レオンが西を指差す。
そちらの方角では今でも、十万ほどのドルク王国軍と十五万程のルシタニア王国軍が一触即発の緊張の中睨み合っているのだ。
誰も居ない尖塔の最上階と言うのは、こういった話しをするには絶好の場所であるかもしれない。
レオンもそう言うつもりでここにラインハルトを連れてきたのかもしれない。
「ドルク王国は会談には応じそうにも無いの?」
彼の質問に、レオンの顔にはっきりと苦渋の色が浮かんだ。
「ルシタニア王家は代々争いごとを避け、争いの種に対しては常に平和的解決を模索するということを続けてきました。だが、彼らは会談に応じない。ルテティアを不法占拠し、最近では砦の築城も始めている始末です」
「難しいね、平和的解決って言うのは―――」
「だとしても力での解決は難しいでしょう」
「と言うと?」
「ルシタニアはもう百年以上も戦争をしていないんです。普段の軍事訓練もほとんど形式的なものばかり。ずっとスタルナス帝国などと領土紛争を戦い抜いてきたドルク王国の精強な軍勢には全く歯が立たないんです。それに、国民も戦と言う物に慣れていない。遠い世界の出来事でしたから。今までは」
「そんなに―――」
思わず口をついて出そうになった言葉をラインハルトは慌てて呑み込んだ。
だが、レオンは悲しげな微笑を浮かべて、西の空を見上げた。
既に沈んでしまった太陽の、そのかすかな残照が、遠くに見える山脈の稜線を紅く染めている。
「ええ。ルシタニア軍はそれほど、弱いんです」
ラインハルトが呑み込んだ言葉を自分で口にして、レオンはその赤い瞳で、真摯にラインハルトを見つめた。
その瞳の中に苦悩と決意を秘め、そして、嘆願を含んで。
「武力による解決は必ず憎悪を生む。その憎悪は新たな騒乱を呼び、再び武力を求める。そして、新たな憎悪を生み出す。この無限の悪循環を断つには武力を用いない解決が一番です。だから、ルシタニアは講和で解決します。そこで兄上にお願いがあります」
「僕にできる事ならなんでもするよ」
「もし万が一、講和で決着が着かない場合は速やかにこの国を出てください」
「レオン………」
「兄上を危険な目には合わせられません。兄上はこのラスカーナ大陸を統一し、大陸全土を救う御方なんですから」
ラインハルトは穏やかな表情で、首を左右に振った。
「それは違うよ、レオン」
「陛下?」
「義弟一人を助ける事も出来ないで、大陸全ての人を助けるなんて事、できる訳無いじゃないか」
「陛下………」
「もし講和で解決できないのなら………僕達が戦うよ。憎悪の念はフロレシアが負う」
「そんな―――」
「力による解決は正しくないかもしれない。でも、それ以外に選択肢が無いのであれば、僕達支配者がするべき事は一つだ。それは、迷わない事」
「迷わない?」
「そう。国民のために、何が最も大切なのか。講和による解決に拘り、多くの者を死なすのか。力による解決に頼り、やはり、多くの者を死なすのか。どちらを選んだにせよ、正しくは無いのかもしれない。批判を受けるかもしれない。でも、選ぶときだけは迷っちゃ駄目なんだ。例え、後世の歴史家がなんと評そうとも、迷わず迅速に決断する事。それが支配者の責任なんだ。すごく難しいけれどね」
「わかりました。陛下。そのときは、僕も迷わずに決めたいと思います」
「うん。でも、決断の時が来るまでは大いに悩んで良いんだよ。そして、僕達の力が何らかの役に立つならば、いつでも声を掛けて欲しい。僕達は兄弟なんだから」
レオンは義兄となった二歳年上の皇帝の優しさに胸が一杯になるのを感じた。
満面の笑顔で、大きく頷く。
「はい!」
それから二人は晩餐を共にし、共に風呂に入り、夜が遅くなるまで語り、一つの寝台で眠った。
まるでそれは、本当の兄弟の如く。
翌日。
レオン=ルシタニア、ラインハルト=シーザーは馬の轡を並べて、スフィンの街を後にした。
途中で野営していたフロレシア軍と合流し、レオン=ルシタニア率いる六千のルシタニア軍とラインハルト=シーザーの率いる四千五百のフロレシア軍は一路西進。
ルテティア地方でドルク王国軍と対峙するルシタニア王国軍と合流した。
無数の幕舎が並ぶルシタニア軍の陣地のはずれに、フロレシア軍は陣を布いた。
ルシタニア軍の将校と共に陣内の視察に出かけたカーンが不機嫌そのものといった様子で、ラインハルトの幕舎に入ってきたのは、そろそろ夕餉と言う時刻であった。
「どうだった、カーン?」
ラインハルトが聞くと、カーンは地面の上に布かれた毛布の上に胡座をかいて、吐き捨てるように報告を始めた。
「ルシタニアの連中は戦争に関しちゃあ、素人同然ですぜ。陣の並べ方が滅茶苦茶だ。弓隊と槍隊の位置がぐちゃぐちゃになっていて、あれじゃまともに敵に矢を射掛ける事も出来ません。それに騎馬柵の作りも荒くて、しっかり地中に固定されてない。あれじゃ、体当たりの一発で薙ぎ倒されて、馬を止めるどころじゃない。それに貴族どもは戦争をピクニックだと勘違いしてやがる上に兵どもはいざとなれば逃げればいいと考えている始末、もっとも手におえねぇのは補給線確保の杜撰さだ。食料や矢玉が何の護衛もなしに積み上げられている上に、王都から食料なんかを運ぶ荷馬には護衛すらついていない。陛下、こう言っちゃあなんだが、たった四千五百じゃ、援軍にもならないと思う」
「う~ん………そんなに駄目?」
「ああ、ドルク王国の陣も遠望してきたが、向こうは慣れてる。砦の作りも頑丈そうだし、あの砦が完成したらルテティアを取り戻すのは至難の業になる。フロレシアの軍団を注ぎ込んでも長い時間が掛かるだろう。ルシタニアの連中には無理だ」
「そうか」
正直、ラインハルトも驚いた。
ルシタニアの将兵には何の緊迫感も無いのだ。
曰く、連中の目的はルテティアであり、別にルシタニア王国をどうこうするつもりはないのだろう、と。
それは楽観的過ぎるだろう。もしルテティア地方を想像以上に容易に手中にする事が出来れば、ドルク王国は当然次はルシタニア王国自体の乗っ取りを考えるだろう。
だが、長い間の平和にどっぷりと浸かったルシタニア貴族達は全くそのことに気付いていない。
ドルク王国が強固な砦を着々と作り、完成間近だと言うのに、全く意に介していないのだ。
もしドルク王国が攻撃を仕掛けてくれば、早晩ルシタニア軍は壊滅的被害を受けるだろう。
或は王国の存続すら危ぶまれるほどに。
「カーン、悪いけど今日の視察で君が気付いた事を報告書に纏めてくれないか?僕がレオンに渡す。会談を成功させるためにも、こちらを大きく見せる必要がある」
「書類仕事は苦手なんですがね………」
カーンが表情を歪める。そのカーンが幕舎を去っていくのを見送って、ラインハルトは呟いた。
「最悪、退路と補給路の確保だけはしておかないと………」
ルテティア地方を取られてもそれが即ルシタニア王国の滅亡に繋がると言う訳ではない。
この戦線で敗れようとも、後方に退いて戦線を敷き直す事は可能だ。
だが、このままでは、戦線を後方に後退させる事すらままならないかもしれない。
長い間、平和に侵されてきたルシタニア王国の貴族達が果たしてそのような危機的状況を認識できるのかどうか………。
百年掛けて培われてきた概念をそう簡単に叩き潰す事は出来ない。
だが、やらなければならない。
これはフロレシア帝国でも同じ事だ。フロレシア帝国の貴族達も己達が権力を握り、既得の権益を護る事しか頭に無い。自分達の国の事、或いはこのラスカーナ大陸の事、もしくはもっと身近にいる国民達の事など全く考えていない。そんな貴族達の考えをこれから変えていかなければならないのだ。
自国を変えるのに、まずは同盟国から。
3 ヴァルツ=リバーエンド
ヴァルツ=リバーエンド。
その名は一ヶ月前までルシタニア王国はおろか、ドルク王国内でも決して知られた名前ではなかった。
勿論全くの無名と言う訳ではない。
ドルク王国の一部隊指揮官としてスタルナス帝国との領土紛争にもたびたび従軍していた。
しかし、それらの戦闘においても別段彼が非凡な才能を示したと言う記録は無い。
可もなく不可もなく、大きな功績もない代わりに、大きな汚名もない。
中堅所の指揮官程度の器。それがドルク王国軍上層部の共通した彼の評価だった。
その彼が一躍名を人々に知らしめたのが、今回のルテティア紛争だった。
その最初期において、彼は僅か五千の獣機動部隊と呼ばれるドルク王国の特殊部隊を率いて、侵攻してきた。
迎え撃つルシタニア王国軍は二万。
数で四倍の彼らに油断が無かったわけではないだろう。
そして兵器・兵の質、訓練度、気構え………そのすべてにおいて獣機動部隊の方に分があったにしても、ヴァルツ=リバーエンドに率いられた獣機動部隊の勝ちっぷりには空恐ろしさすら感じる。
獣機動部隊が殺傷したルシタニア兵、一万三千余。
獣機動部隊が蒙った被害、零。
なんと獣機動部隊は一人も死者を出さず、四倍の相手を追い払ったのだ。
戦力の六割五分喪失は部隊の壊滅を意味する。
ルシタニア軍が続々と国境を越えるドルク王国軍部隊を抑えられず、ルテティア地方を奪取されたのは仕方がないであろう。
白髪の巨人。
生還したルシタニア兵は恐怖に強張った表情で、そう口にした。
勝てるはずが無い、あんな化け物に、勝てるわけ無い、と。
「―――報告によれば獣機動部隊は夜間、我が方が寝静まった所に急襲を掛けて来たそうです」
褐色の肌に、赤い瞳を持つ、くすんだ金髪の少年、レオン=ルシタニアが続ける。
「襲撃は南北から。時刻は午前二時過ぎ。至近距離まで接近し、火矢を放ち、鬨の声を上げながら暴れ狂い、多くの兵は武器を取ることも出来ずに殺され、武器を取る事の出来た者もたいした反撃も出来ず。その乱戦の最中、何人もの兵が月光を背に、巨大な漆黒の馬に跨った白髪の巨人の姿を見たと言っています。そして気付いた時には敵の姿は無かったようです。その時刻は明け方の五時頃」
「三時間で一万三千の被害、か」
カーンが鼻に皺を寄せて言う。
レオンの左右に座るルシタニアの将軍達がむっとした表情を取るが、カーンは意にも介さない。
レオンもちらりと彼の方を見ただけで、その視線をラインハルトに戻した。
彼らはルシタニア軍の陣地、一際大きな幕舎に集まって軍議を開いていたのだ。
フロレシア帝国側からはラインハルト、カーン、オットーが参加し、ラインハルトの背後には護衛のヴァンの姿もある。
アミリアは部隊に残って敵の奇襲に備えている。
「わかった。それで方針は―――和議優先だね?」
ラインハルトが確認するように問う。
レオンは躊躇いも無く答え、それから、微笑を浮かべた。
「昨日陛下に頂いた報告書は一晩掛けてじっくり拝見させていただきました」
「うん」
カーンに書かせた物だ。
書いた本人も興味ありげにレオンを見つめている。
「実に先見の明に優れていると思いました。というよりも我々の至らなさを心痛しました」
「だったら陣ぐらい敷きなおしたらどうだ?」
カーンの挑発するような言葉に、将軍の一人が表情を変えて机をドンと叩いた。
「無礼だろう!平民である貴様ごときが書いた報告書を殿下が御閲覧なさったことだけでも礼を申し述べるべきであろう!それに我らルシタニア軍は十五万の大軍勢、陣を敷きなおすといってもそうやすやすと出来るものでは無いわ!」
口角泡を飛ばして怒鳴る将軍。
オットーは赤毛の親友が切れはしないかと心配になって、ちらり、と様子を窺った。
カーンの唇は歪み、ぴくぴくと痙攣していた。
「笑うとは無礼にも程があるぞ!」
将軍がそのカーンの表情を見て、怒鳴る。
(違う………笑ってるんじゃない。切れてるんだ)
嘆息を一つ吐き出して、オットーは首を左右に振った。
単純な性格の彼は熱しやすく冷めやすい。
切れ易い代わりに、その怒りもすぐに冷める。
だが、そんな彼の心中で、腐敗した貴族に対する怒りだけは熾りのようにずっと低音で燻り続けているのだ。
この貴族の言動は、そんなカーンに油を注ぐような物だった。
「こりゃ荒れるな」
オットーが諦めたように呟いた直後、
どがんっ!!
突如響いた大音響に、その場に居るすべての者が息を呑む。
ただし、ヴァンとレフだけは大した反応も示さなかった。
カーンが拳をテーブルに振り下ろしたのだ。みしっとひびが走り、テーブルが真っ二つになる。
その拳の威力に、将軍の顔が蒼くなる。
「そんな事を言っていて、相手が襲ってきたらどうするんだ?」
その声は低く、抑えられていた。だが、それは彼の怒りが小さい事を意味しているわけではなく、むしろその逆、今彼の心の中は火山の火口の如く燃え滾っているのだ。
「わ、我々は戦争をしに来たのでは―――」
「無いと?無いっていいてぇのか?おっさん、あんたがいくら戦争じゃないなんて寝惚けた事言っていても俺は一向に構わんがな。連中はこれを戦争だと考えてるはずだぞ?だから連中は武力行使したんだろう?違うってのか?ん?あのヴァルツ=リバーエンドとか言う男が何を考えてるのか、あんたに分かるのか?」
「げ、下賎の者の考えなど分かるはず無かろう!」
「戦争に貴族も平民も関係あるかっ!」
貴族の将軍の言葉を掻き消すカーンの怒声が響いた。
「斬られれば貴族だろうが平民だろうが血噴出して死ぬんだよ!今のままじゃ、ルシタニアは終わりだ、ドルク王国には勝てねえよ、たとえうちの大将がどんだけ頑張ったってな」
「カーン、言い過ぎだよ」
ラインハルトが諌めるが、カーンは言葉を止めなかった。
「和議だと?話し合えば分かるだと?確かに立派な思想だ。それを今まで守ってきたあんたらはすごいよ。だがな、だからって軍備を疎かにして良い訳ねえだろうが!化け物だ?どこが化け物だ。あんたらの部隊は斥候もろくに出さず、見張りも立てずに馬鹿みたいに眠りこけていた所に夜襲を仕掛けられて混乱して反撃も出来ずに右往左往してた所を撫で斬りにされただけだろうが!普段から訓練をしっかりとしていれば一万三千もの命を無為に失う事も無かったんだ!陣を敷きなおすのに時間が掛かるだと?甘えるな!貴様ら貴族の怠惰な生活が招いた結果だろうが!―――失礼する!」
鼻息も荒く言い放ち、カーンは幕舎を後にした。
(やれやれ………)
友を宥めるため、後を追って、オットーも一礼して出て行く。
将軍は額に浮き出た汗を懐紙で拭いながら、ふんと鼻を鳴らし、
「いかれとるな、まったく、貴族たるわしに向かってあのような暴言を吐くとは、非常識も甚だしい。これだから下賎な者の言動は野蛮だと言われるのだ。まるで獣ではないか」
「将軍」
静かな、それでも凛とした響きに将軍がレオンを振り返る。
するとそこには、美しいとすら言える微笑を浮かべた王子が居た。
「僕も彼と同じ意見です。どうやら我々は和平、会談、平和主義と言った言葉に甘えていたようですね」
「は―――殿下?あのような下賎な輩の言葉など間に受ける必要はありませぬぞ。ラインハルト皇帝陛下もあのような吼えるだけしか取り柄の無いような男は早々に切り捨てたがよろしかろう、なんなら同盟国のよしみでこのわたくし自らがあの蛆虫を剣の錆にして参りましょう」
「ああ。それは結構ですよ、将軍」
「はっはっは、御遠慮なさる必要はありません」
「将軍。一つ宜しいですか?」
ラインハルトはにこやかな声で聞いた。
その声がいつもよりも低い事に、果たしてこの場に居る何人の人間が気付いただろうか。
「はっなんでございましょうや?」
にこやかな笑みを浮かべて、将軍が聞く。
「もそっと近くへ」
皇帝が呼び寄せるのへ、ほくほくとした表情で近づいてくる将軍。
ラインハルトはその肩に手を置いて、
「僕は今、貴方に対して殺意を抱いている」
「は?」
「僕の国にも貴族と言う腐敗しきった、堕落した連中が居ましてね。彼らは無能なくせにまるで自分が国の支配者であるかのように振舞うんですよ。そして、善良な市民、能力あるものを蔑んで、こう言うんですよ―――「蛆虫」って。将軍、貴方さっき、カーンの事をなんて言いました?」
「は、あ、あの………」
将軍がだらだらと汗を掻く。
目の前に居る少年の顔は美しい微笑みを浮かべている。
肩を掴んでいる皇帝の力は決して強くは無い。振り払おうとすればいくらでも払えるだろう。
皇帝は華奢な体躯をしている、まだまだ貧弱な子供に過ぎないのだから。
だが、将軍は身動き一つ取れなかった。
彼を動けなくさせているのは腕力ではなく、皇帝と言う権力。
ラインハルトは急に怒りが醒めていくのを感じた。
この男を殴り飛ばそうと考えていたが、そうすれば自分は権力を背景に彼を殴った事になる。
それでは彼は貴族と同じ存在に堕落してしまう事になる。
「将軍。貴方の御名前を窺いましょうか」
「げ、ゲルムント=ビルバール侯爵と申します」
「なるほど、侯爵。では、貴方の祖国の友邦国の皇帝として貴方に尋ねたい」
「なんなりと」
「貴方はルシタニア王国王子、レオン=ルシタニア殿下に忠誠を誓うか?」
「も、勿論です!」
「そうか」
ラインハルトはようやく、将軍の肩から手を離した。
それから頭を下ろして、
「部下の無礼をお許し願いたい」
「へ………」
目を丸くする将軍。彼にとって権力者とは相手を見下す者だった。
だからこそ、貴族たる彼は平民を虫けらとして扱ってきたのだ。
だからこそ、彼は自分よりも遥か高みの権力を持つラインハルトに頭が上がらなかったのだ。
だと言うのに、そのラインハルトが自分に頭を下げている。
これは彼の常識では考えられない現象だった。
理解の限界を超えた現象に、思わず体が硬直してしまう。
「ゲルムント=ビルバール侯爵」
「はっ!」
レオンから掛けられた言葉に、侯爵は反射的に直立していた。
その彼の眼前まで近づいてきたレオンが、あのカーンとか言う男が書いた報告書の束を差し出した。
「今日中に、ここに書いてあるすべての事柄を始めて」
「す、全てですか!?」
「そう、全て」
「か、畏まりました」
敬礼し、侯爵は逃げるようにして幕舎を飛び出していった。
ラインハルトは頭を上げると、今度はレオンに向かって、頭を下げた。
「御免、勝手な事をして」
「良いんですよ、兄上―――あの赤髪の人も、兄上も正しい。間違っているのは僕たちのほうです。僕達は平和の上に胡座を掻いていただけだった。いざ戦場にやってきてみて、そのことを痛感しました。やはり軍備は必要です。でも、平和主義も大切だと思います。だから、これからは使わない軍備の整備に邁進します」 「レオン………」
「他国と渡り合えない国の舌先三寸の交渉なんて、誰も信用しない。だから、他国も一目置かざるを得ない軍備を目指そうと思います」
「ああ。君ならきっと実現できる」
「はい!」
ラインハルトの言葉に、レオンは嬉しそうに頷いた。
ラインハルトとヴァンはテーブルを壊してしまった事を詫び、明日にでも改めて軍議を開く事を決めた後、幕舎を退出した。
自分の幕舎に戻って見ると、そこにカーン=オルベニーが居た。
彼は皇帝の姿を見つけるや否や、その場にがばっとひれ伏した。
「ど、どうしたのさ、カーン?」
ラインハルトが慌てて聞くと、
「申し訳ありませんでした、陛下。同盟国の要人の前であのような無礼な口を聞き、もしこれで両国の関係にひびが入るような事があれば、全て俺のせいです。俺を処刑してください!」
「ああ、そんな事?」
「そんな事って………」
「余は良い気分だったよ?」
「―――は?」
皇帝の言葉が理解できないと言う表情をするカーン。
ラインハルトは穏やかな微笑を浮かべつつ、
「皇帝って言うのは窮屈な物で、その発言が全てその国の正式な外交方針だと受け取られかねない。だから、思うところがあってもあまり自由に口にする事は難しいんだ。不可能ではないけどね。だから、君が余の心の裡を代弁してくれて実にすっきりした。それにレオンも気にして無かったよ。君の言う通りだ、軍備も必要だって。まあ、あの貴族には伝わらなかったみたいだけど」
「そうですか………」
「もし良ければ聞かせてくれないかな、カーン」
「はい?」
「君がなんであの貴族にあんなに激しく怒ったのか」
カーンの表情が歪んだ。何かを耐える様な、そんな表情だった。
何か辛い過去を持っている。一目見てわかった。
ラインハルトはやや慌てて、
「いや、やっぱり良いよ。別に君の過去を弄くる様な事がしたいわけじゃないんだ。嫌な事を思い出させて御免」
「いえ―――」
カーンは首を左右に激しく振った。
「忘れられた事なんて、今までに一度もない………昔の事ですけど。失礼します」
辛そうにそれだけを口にして、カーンは幕舎を出て行った。
どんな辛い過去を背負っているのかはわからないが、それに貴族が関わっているのは間違いない。
4 和か戦か
帝国暦三三二年八月二日。ドルク王国軍とルシタニア・フロレシアの連合軍の対峙が始まって二週間後。
ドルク側が建設していた砦は既に城壁が完成し、今は堀を深く掘っている。掘り終えればルテティアを流れる豊富な水量を誇るルテティア河を引き入れるのだろう。そうなれば攻め落とすのは容易ではない。だがこの時間をルシタニア側も決して無為に過ごしていたわけではない。陣の敷き替え、防馬柵の埋め直し、兵の鍛錬、食料矢玉の輸送護衛。「使えない軍隊」から「使わない軍隊」へとルシタニア軍は変貌を遂げ始めていた。一夜にして変貌する事など不可能だが、ルシタニアは確実に歩み始めているのだ。
自分からは決して使わない、だが、敵にとっては十分な脅威と成り得るだけの武力を備える。
レオン=ルシタニアの打ち立てたこの政策はこの後、長きに亘ってルシタニア王国の国是とされ、『ハリネズミ政策』と呼ばれる事になる。ドルクの夜襲を警戒するため、斥候も放たれ、哨戒線も張られた。
それらすべて、フロレシアの将校や兵がルシタニアの将校や兵に伝授するのである。最初は反抗していた貴族たちであったが、ルシタニア王国王子レオン=ルシタニアとフロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザー連署の命令書が功を奏して、作業は順調に進んでいた。ルシタニア側とドルク側との間には頻繁に使者が行き来し、交渉を行っていた。その仲介にフロレシア帝国皇帝と言う肩書きを持つ少年は奔走した。ルシタニア側が提示した妥協案は、ルテティア地方の収穫物の三割をドルク側に譲渡し、三千名までの常時砦常駐を認める、という物だった。これをヴァルツ=リバーエンドが呑めば、これ以上の血が流される事も無く、紛争にけりがつくはずであった。これだけの好条件を呑めぬはずが無いと高を括る貴族達であったが、ルテティア地方にわざわざ武力侵攻までしてきたドルク王国がそのような条件で引き下がるわけも無かった。ヴァルツ=リバーエンドは条件を携えてやってきた使者を新造なったばかりの砦の謁見の間にて謁見した。ヴァルツ=リバーエンドは王座に窮屈そうにその巨体を据え、短く刈り上げた白髪に、狼のような鋭く、それでいて美しい紫の瞳をしていた。
そして、条件を述べた使者に向かって、鼻毛を抜きながらこう言い放ったのだ。
「こちら側の妥協案は単純明快だ。ルテティアを渡せ」
使者は粘り、何とか譲歩を引き出そうと試みたが、ヴァルツは聞く耳も持たずにさっさと奥に引っ込んでしまったと言う。この話しを聞いたラインハルトは難しい表情で、ドルクの砦の方を見やった。それからふと思い立ったかのように、傍らに立つ黒髪の護衛剣士に向かって声を掛けた。
「ちょっと出かけようか、ヴァン」
「―――何処へですか?」
突然そんな事を言いだした皇帝にも表情を変える事も無く、寡黙な直護衛は必要最低限な事項だけを尋ねる。ラインハルトは厩に向かって歩き出しながら、
「偵察、かな」
少しだけ考えるような素振りを見せた後、答えたラインハルトの答えに、彼は格別の感想を漏らしはしなかった。ただ黙然と、皇帝の斜め後ろに付き従うのみである。
数十分後。ラインハルト達の姿はルシタニア軍とドルク王国軍とのちょうど中間点に程近い丘の上にあった。そこからだと砦の中の様子や、土木工事の様子がつぶさに観察できる。
丘の上は草原になっており、背の短い葉が穏やかな風に吹かれてそよそよと揺らいでいる。
「平和だなぁ」
ラインハルトは呟いて、白馬から降りた。従順な白馬は主人の手が手綱から離れても決して逃げようとはしないで、静かに草を食み始めた。その表情も何処と無く陣場の慌しさから解放されて、長閑な風景に和んでいるようだ。そよぐ風に豪華な金色の髪を靡かせ、ラインハルトは陶然とその青い瞳を細めた。
純白の戦衣が汚れるのにも構わず、その場に座る。ヴァンもその隣へ腰を下ろし―――。
二人して無言のまま、広大なルテティアの平原を見回した。砦の向こう側には豊かな農耕地が広がり、農民達が農作業に精を出している様子も良く見える。眼下には雄大なうねりを見せてルテティア川が流れ、その川の東側に、ルシタニア軍とフロレシア帝国軍は陣を敷いているのだ。豊かな実りを齎すルテティアをドルク王国が求める心理は実に良くわかる。だが、だからと言ってルシタニアがこの穀倉地帯をただ黙って譲るはずが無かった。両者共に引かないのであれば、戦争が起こるのは必至だ。
そして戦争になれば、大勢の人間が死ぬ事になる。豊かな実りは国を豊かにする。国民が豊かになれば、それだけ平和を求める心も強くなる。しかし、だからと言って戦争は果たして正しいのだろうか?
「剣を使わずに思慮で勝つのも、総司令官の力量ではないかな」
この場合の総司令官とは彼の事ではなく、レオンの事だ。ただ平和を求めるだけでは、争いは消えないのだ。相手を出し抜き、騙す方法。それこそが外交であり、交渉と言う物だろう。
「―――良い事言うじゃねぇか、坊主」
「!」
独り言に返事を返されるとは思っていなかったので、ラインハルトは少なからず驚いた。
しかも声は存外に近い場所から聞こえてきた。だがヴァンではない。彼もまた、声の出所を探っている。
「何処だ!?」
ラインハルトが声をあげる。と。彼らからほんの数mしか離れていない茂みが大きく揺れた。
周りの草も風に煽られて揺れているが、その揺れはほんの些細な揺れに過ぎない。
だが、その揺れは明らかに人為的なものだった。
ひゅっ―――かきんっ!!
「っ………な」
全く反応できず、ラインハルトはただ声をあげるのみ。草葉の間からいきなり銀色の鋭い物が尋常では無い速度で飛んできて、それをヴァンが剣を抜き打ち様に払ったのだ。見ればそれはナイフだった。
もし彼の反応が一瞬でも遅ければ今ごろラインハルトはそのナイフに眉間を抉られて死んでいただろう。
「ひゅう。これはこれは、物凄い反射神経をしていやがるな」
軽く口笛など吹きながら茂みを割って姿を現したのはラインハルトよりも遥かに大柄な男だった。
髪は暁の頭領と同じく、珍しい白髪。そして、厳つい容貌に、透明度のある濃い紫の瞳。
その鮮烈な容姿は一発で彼が何者かを示す。
「ヴァ、ヴァルツ=リバーエンド………!」
ラインハルトは姿を現した人物の意外さに思わず硬直してしまった。白髪の巨人、ドルク王国獣機動部隊司令官ヴァルツ=リバーエンド。彼は今現在もルテティア川を挟んで対峙している敵軍の司令官なのだ。僅か五千の部隊で、瞬く間に二万のルシタニア王国軍を蹴散らした武将。しかし、男の腰にはこの大男が扱うにはいかにも小さな細身の剣が鞘にも収められずに抜き身でぶら下げられていた。
巨大な大刀や大槍、戦斧、三尖両刃刀などの方がよっぽど似合いそうなのに、そんな小さな短剣を使うからにはそれなりの理由があるのだろう。ヴァルツは驚愕に硬直しているラインハルトなど意にも介さず、二人に広い背中を見せるという無用心極まりない体勢で、ナイフを拾い、懐に収めた。
それから腰に手を当て、大きく伸びる。
「ふわぁぁぁ~………あ~、良く寝た」
欠伸などしながら、ラインハルトの隣にすとんと腰を下ろす。
「ん?」
そこで初めて、ヴァルツは硬直している少年を観察した。
黄金の輝きのような金髪、海の色の瞳、白磁の肌、白鎧、純白の戦衣、豪華な装飾の聖剣。
「おおっ!」
「うわあっ!」
ヴァルツがいきなり途方も無い大声を出したので、ラインハルトは驚いて仰け反った。
その鼻先に、ヴァルツの逞しい指が突きつけられる。
「坊主、おまえ、ラインハルト=シーザーか!?」
「い、いや、僕は―――」
慌てて誤魔化そうとするが、これだけ特徴的な服装をしていては誤魔化す事等不可能だろう。
「そ、そうだ………余がラインハルト=シーザーだ」
素直に認める。正直、今すぐにでも殺されはしまいかと心臓は跳ねっぱなしだ。
もしここで、ヴァルツが剣を抜き放てば、ラインハルトの首は飛ぶ。
ここにはヴァンしかいないのだ。その結果は火を見るより明らか。
皇位はアリーニ=アウグウェルツへと流れ、腐敗した貴族による専断的な暴政が行われる事だろう。
その結果はどうなるか、これもまた明らか。フロレシア帝国は再び先帝時代の暗い世の中に戻り、国力は疲弊し、国民は餓える事になる。人々は際限なく貴族に搾り取られ、貴族への怨恨を深めて行く。
貴族達は国民達から好き放題に搾取し、豪勢で華やかな生活を送るのだ。国民達は貴族の気分次第で殺され、孤児は特殊な孤児院に入れられて無理やり軍事訓練を受けさせられる。支配層と被支配層の間の信頼関係は崩れ、際限なく憎悪の輪廻に囚われる。時代に光は差さなくなり、闇の時代に陥ってしまう。
だが、命の危険と言う意味で言えば、ヴァルツとて同じ事だ。ルテティア川の東側はルシタニア王国の勢力圏内である。もしここでヴァルツが倒れれば、総大将を失ったドルク王国軍は崩壊するのではないだろうか?緊張に身を強張らせつつ、ラインハルトは問いを発して見る事にした。
「どうして、ドルク王国軍の司令官がこのような場所へ?」
しかし、緊張に身を強張らせるラインハルトとは異なり、ヴァルツには何の緊迫感も無い。
「昼寝だ、昼寝。このあたりで一番ここが昼寝するのに絶好な場所だったからだ」
ヴァルツの答えに、ラインハルトは大きく目を見開いた。
本能的にこの男が嘘をついていないと確信した。それにしても―――、
(昼寝に良いと言う理由だけで、川を渡って敵地へ?)
本当だとすれば並大抵の度胸ではない。もしかしたら危険に関して感性が鈍いだけなのかもしれないが。
「ところで、皇帝陛下―――レオン王子は決めたのか?」
「何を?」
「和か戦か………殿下はいずれを選ぶ?」
なんでもない口調でありながら、その問いは非常に答えるのが難しい問いであった。
「余から情報を引き出そうとしても―――」
ラインハルトが堅い表情で拒否しようとするとヴァルツは大きな手を掲げて遮り、
「いや、やっぱ何も言わなくて良い」
「えっ」
いきなり立ち上がったヴァルツに高みから見下ろされて、ラインハルトは思わず間の抜けた声をあげていた。自身も慌てて立ち上がりながら、それでもまだまだ高い位置にあるヴァルツの紫の瞳を見上げて、
「どういうことだ?」
ヴァルツは目尻に笑みを滲ませて、大きく伸びた。
「ドルクの方針は決まってるって事だ」
そのまま、背を向けて丘を下っていこうとする。
「待ってくれ、ヴァルツ殿!」
ラインハルトの呼びかけに、ドルクの将は足を止め、半身だけ振り返らせた。
「戦いは既に始まっている。あの砦を見ろ。もう完成している。後は内装だけだ。レオン=ルシタニア殿下に伝えてくれ。我々は先祖の土地を取り戻す、と」
「先祖の土地って………どういうことだ!」
混乱したようにラインハルトが叫ぶが、ヴァルツは歩み去りながら肩越しに手を振ってきただけだった。
先祖の土地を取り戻す?額面通りに受け取るならば、それはルシタニアに先祖の土地を奪われた、このルテティアこそその先祖の土地だと言う意味なのだろうか。ラインハルトにはどういうことなのかさっぱりわからなかった。だが、これだけははっきりと言う事が出来た。
「ドルクはもう、戦う決意を固めている」
もっともそれは予想された結末だとも言える。ドルク側は強硬にルテティア地方の割譲を要求し、ルシタニア側は様々な妥協案を提示しつつも、割譲と言う一点は断固拒絶している。
両者の交渉に歩み寄りが見られない今、ドルクが武力行使に出る事は実に自然な事であった。
「―――ヴァン」
「―――はい」
「戦になるよ」
「―――はい」
「余はどうしたら良いんだろう?」
「陛下の御心のままに」
「御心の………ままに、か………」
懐に手を入れ、胸元から包みを取り出す。包みを丁寧に取ると現れたのは小さなロデン神像だった。
ルーガを発つ朝、シエナに貰った物だ。
神は二つの顔を持っている。
左の顔は、慈悲と温情、温かい母にして、平和の象徴。
右の顔は、憎悪と軽蔑、厳しき父にして、争乱の象徴。
左手には知識を象徴する書を持ち、
右手には武力を象徴する鉾を持つ。
仁王立ちしたその背後には、鮮やかな炎が立ち昇り、
炎はやがて風となり、雲となり、恵みの雨となって大地を潤す。
「やっぱり、平和と争乱は表裏一体なのかな………」
ラインハルトは呟き、戦衣に付いた埃を払った。
そして、愛馬に大股で近づき、その首を軽く撫でてやる。
「平和と争乱が表裏一体だと言うなら、今の争乱の時代を早く終わらせて、平和な時代にしなくちゃね」
「―――はい」
ひらり、と言うほど格好良くは無かったが、ラインハルトは愛馬に跨って、黒髪の直護衛を振り返った。
「帰ろう、ヴァン。ヴァルツの言ってた事をレオンに話さなきゃ」
「―――はい」
(それにしても―――)
ヴァンに手綱を引かれながら進む馬の背で揺られながら、ラインハルトは空を見上げて考えていた。
(先祖の土地………ってどういう事?)
二人は急いで、ルシタニアの陣営へと戻った。そしてすぐにレオンの元を訪れ、事のあらましをすべて話した。レオンと彼の背後に無言で控えるレフ=スタッカートは難しい表情をして沈黙している。
その沈黙に耐え切れず、ラインハルトは質問を発していた。
「ヴァルツは先祖の土地って言ってたけど、あれは本当なの?」
「はい」
思いの外あっさりとレオンは肯定した。
「先々代の王の時代に、ドルクとルシタニアは紛争を起こし、ルシタニアはルテティアを占拠しました。その結果、ドルクは現在の国境にまで後退した。そのドルクの発祥の地こそがルテティアなのです―――だがそれは百年以上も昔の話です。確かにドルクは度々ルテティアの返還を要求してきたそうですが、このような武力を交える事態になったのは初めてです」
「先祖の土地を取り戻すための戦いなら、彼らは死に物狂いになって襲い掛かってくる。余は撤退を勧めるよ」
「ルシタニアに、ドルクと戦う力は無いと?」
レオンが聞いてくる。その瞳に大きな意思を込めて。彼もまた決意を固めつつあるようだ。
ラインハルトはその青い瞳で真っ直ぐにレオンの赤い瞳を見つめた。
思いが伝わるようにと、真摯に。ラインハルトの口から「ルシタニアは負ける」などと言う言葉は軽軽しく口にするのは憚られた。その発言は下手をすれば国際問題を引き起こしかねない。
無論、フロレシア帝国とルシタニア連合王国の同盟関係にも良い影響を与えるとは思えなかった。
だがそれでも、ラインハルトの思いは十二分にレオンに伝わった。
自分の身を真摯に案じてくれる義兄に、レオンは万感の思いを込めて微笑んだ。
「兄上は我が国を訪問なされている国賓なのですから、王都へ御戻りください。僕はルシタニアの王子として、次期国王として、ここで引くわけにはいかない」
「その決意は揺るがないんだね?」
「無論です。民を見殺しにする事など王族のする事じゃないですから」
ラインハルトとレオンは見詰め合った。彼らの背後で、ヴァン=ブレイスとレフ=スタッカートもまた無言でそれぞれの主人の背中を見詰めていた。
どれほどの時間が経ったのか、ふっと面差しから力を抜いたのは、ラインハルトの方だった。
「わかったよ。レオンがそこまで言うなら、僕も出来るだけのことをしよう」
「陛下!―――兄上は、国賓なのですから―――」
「レオン。僕は君に助けられた。今度は僕が君を助ける番なんだ」
「兄上………」
「ドルク王国軍にルシタニアの意地を見せてやるんだ」
「はい!」
元気良く、赤眼の少年は頷いた。
1 ルシタニア訪問
帝国暦三三二年七月十九日。
「まもなく国境です」
「………うん」
白馬に揺られながら、フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザーは彼と並んで駒を進めている近衛騎士団長アミリア=ホーンの言葉に、気の無い返事を返した。
「いかがなされました?」
そんな皇帝の様子に、気遣わしげにアミリアは銀の瞳で皇帝の顔を覗き込んだ。
「………うん」
また、気の無い返事を返す皇帝。
その心ここにあらずと言った様子に、アミリアは形の良い眉を寄せて、
「疲れていらっしゃるなら、隊列を止めて休憩なさいますか?」
「え………いや、大丈夫だよ」
ようやく我に帰ったと言う風に、微笑むラインハルト。
黄金の輝きを持つ金髪に、海の色を湛える碧眼、白鎧の上に純白の戦衣を纏い、腰には豪奢な装飾の施された鞘に収められた精霊具、《覇皇剣-サナトゥス》を佩いている。
「左様ですか」
釈然としない様子ではあったが、アミリアは話しを切った。
間もなく、ラインハルトを守るようにして進む四千五百人は、フロレシア帝国とルシタニア連合王国の国境を越えて、ルシタニア王国領内に入った。
国境からすぐの村まで、ルシタニア側の迎えが来ており、ラインハルトの前で丁寧な口上を述べた後、列の先頭に立って、一同をルシタニアの王都スフィンへと案内し始めた。
馬上で揺られ、かすかな風に黄金の髪を揺らしながら、ラインハルトは出発前のシエナ=クリケットとの会話を思い出していた。
シエナはラインハルトの幼馴染であり、彼にとって恐らくもっとも大事な女性である。
銀色の髪に金色の瞳を持つ少女は出発を目前としたラインハルトに、心配そうに目を伏せながら話し掛けてきたのだ。
「いよいよルシタニア訪問ね、ライン」
「ああ、レオンに会うのも久しぶりだよ」
レオンとはレオンがフロレシアへの滞在を早々に切り上げて帰国して以来一ヶ月会っていない。
それほど長い時間離れていたわけではない―――異国に住んでいる割には―――が、それでも再会できると言う事にわくわくとする気持ちを抑えられないのは事実であるのだから仕方が無かった。あの褐色の肌に美しく輝く紅い瞳を持つ少年が自分と同じ思いでいるかどうか、それは不安の種ではあったが。
そんな気持ちを隠そうともせずに口にするラインハルトに、シエナの瞳は不安げに揺れた。
「ルシタニアの政情は今安定していないって兄さんに聞いたわ」
「………うん」
曖昧に頷く。
ルシタニア連合王国は群小王国の連合体だ。
その一角を担うルシタニア王国とドルク王国がルテティアと言う豊かな恵みを齎してくれる地を巡って対立している。
新しい問題ではなく、既に百年近くにも渡って続けられてきた対立ではある。
だが、現在はその緊張がピークに達していると言っても過言ではない。
気性の荒い国と言われるドルク王国ではあったが、今までそれでも武力行使に及ぶ事は無かった。
それが急に、軍事行動に出た。
国境を守備していたルシタニア軍は突如侵攻してきたドルク王国軍の前に敗退。
ルテティアはドルク王国の占拠する所となった。
ほんの、一ヶ月前の事だ。
それからと言うもの、両国の軍勢は対峙を続けている。
現在では病床にある父王ヨーゼフ=ルシタニアの名代として、フロレシアより帰国したレオン=ルシタニアがルシタニア王国軍の指揮を執っている。
「確かに危険だよ。でも―――」
諭すような口調で言うラインハルトだったが、シエナは微笑を浮かべて、
「でも、貴方は行くんでしょ?友人の助けになりたくて。友好国だから援軍を出すとか、そう言う事ではなく、一人の男として、一人の友人を助けたい、なぜなら、自分もその友人に助けられたから」
ずばりとラインハルトの言いたい事を先に言われてしまい、ラインハルトは苦笑を浮かべざるを得なかった。
「さすがはシエナ、僕の考えてる事なんてお見通しだね」
「勿論」
笑顔で言ったシエナが、真顔に戻って、
「でも心配。もしドルク王国と戦争にでもなってしまったら、貴方の周りには四千五百の兵しかいないんでしょ?それにドルク王国軍の指揮官はすごく強いと聞いたわ」
「ヴァルツ=リバーエンドか。僕も詳しい事は知らないけれど、そうらしいね。大丈夫、なんとかなる。ヨーゼフ王もレオンも戦争ではなく話し合いで解決しようとしてるみたいだし。僕が何とか仲介できれば良いんだけど。もし戦争になっても、国境には第三軍が居るんだよ。僕達ローデンスの者にとっては親しみのある第三軍が」
「そうね。出来れば私も一緒に行きたいけれど、駄目よね」
「シエナ………」
「だから、これを持っていって」
無理をしていると丸わかりな笑顔で、シエナは一体の神像を差し出した。
手に収まるような小さな、ロデン神像だった。
シエナは熱心なロデン教信者なのだ。
「ラインの身を守るように願を掛けたわ。きっと私の代わりにラインを守ってくれるわ」
ラインハルトは笑顔を浮かべて、その小さな神像を受け取った。
「ありがとう、シエナ。君だと思って大事にするよ」
神像を懐に入れて微笑むラインハルトに、シエナも頬をやや赤く染めて、
「へ、変な事に使わないでよ」
「変な事って?」
「な、なんでもない」
「変な事って何さ」
「なんでもないって言ってるでしょ!ラインの馬鹿!」
くすり。
その後のシエナの狼狽振りを思い出して、思わずラインハルトは小さく笑い声を漏らしていた。
「いかがなされました?」
それを聞きとがめたらしいアミリアが怪訝そうに訊いて来る。
「―――いや、なんでもないよ、ちょっとした思い出し笑い」
「?」
きっとアミリアはこう思ったに違いない。人の話しも上の空で聞いていたかと思えば、いきなり思い出し笑いとは、奇妙な皇帝だ、と。
国境を通過して数時間。ラインハルト達はルシタニア王国王都スフィンの近くまで到達した。
街を見下ろせる丘の上で、最後の小休止を取りながら、ラインハルトは賛嘆の声を上げた。
「綺麗な街だね」
ちょうど夕刻だったために、白亜の城壁で囲まれ、整然と区画整理された街並みはオレンジ色に輝いていた。真円を描く街の中心部には高い尖塔をいくつも備えた城が偉容を誇り、東西南北に伸びた大通りは買い物をする主婦や家に帰る男達などで活況を呈していた。住宅街からは無数の炊飯の煙が上がり、長閑な印象を与える。フロレシア帝国の帝都ルーガに比べればその規模は遥かに小さな物であったが、誇るに十分値する価値を持つ街であった。その街の美しさに疲れも吹き飛び、自然と足運びも軽快になって、四千五百人はスフィンへの道を急いだ。とはいえ、さすがに四千五百人ものむさ苦しい者達が入れば宿探しだけでも大変なので、大部分は城壁の外に場所を借りて野営する事となった。
ラインハルトはアミリア=ホーン、カーン=オルベニー、オットー=セルバンの三人と三十人ほどの近衛騎士だけを引き連れて、スフィンの中へと入った。
城門を潜った瞬間、彼らは激烈な歓迎の歓声を浴びた。
彼らがレオンを迎えた時と同等か、或はそれ以上に、スフィンの人々は熱烈に彼らの事を歓迎してくれた。その歓迎に遂嬉しくなって、ラインハルトもカーンも、近衛騎士たちも満面の笑顔で手を振って歓声に答えながら、案内人について、王城へと向かったのだった。
時刻が時刻なだけに、スフィンの街は美味しそうな臭いで満ちていた。
ぐう。
その臭いに誘われて、ラインハルトの腹の虫がなる。
「陛下の腹の虫も、歓迎に答えておりますな」
カーンがからかう。
ラインハルトは赤面しつつ、なんとか反論しようとするが、
ぐぎゅるるるぅっ!!
その言葉は突如響いた巨大な音に、掻き消された。
全員の注目を浴びて、音の発生源たる腹を抑えたカーンが大口開けて笑った。
「はっはっは。どうやら俺の腹の虫は意地汚いようですな!」 「ここでならばまだしも、ヨーゼフ王に謁見している最中にだけは鳴らさないで頂きたい。食事を催促しているように聞こえる」
渋面でアミリアが注意するが、カーンは全く悪びれずに、
「こりゃ生理反応だからしかたねぇよ、アミリア」
「カーン、誰が私を呼び捨てにして良いといった?」
「なんだ?不服か?なら―――アミリアちゃん?うわ、気色悪いな」
「それは私の台詞だ!」
「じゃあ、マイ・ハニーか?」
「どうしてそうなる!」
「え………ダーリンが良いのか?」
「貴様、殺すぞ!?」
アミリアが《光輝の剣-ルメーダ》の柄に手を掛ける。
カーンは顔の前で手を振って、
「勘弁勘弁、俺はまだ死にたくないんだ」
「それにしても、二人はいつ仲良くなったんだい?」
ラインハルトは延々と口喧嘩を続ける二人を横目に見ながら、オットーに聞いた。
青い髪の青年士官は苦笑のような物を浮かべて、
「ルト=リューベン閣下の反乱が鎮圧したすぐ後からですね。まあ、カーンもシオン閣下やアレク閣下に比べれば大人しいけれどあれでも女垂らしですから」
「それにしてもアミリアとは………アミリアって、堅いって言う印象が強かったんだけどな」
「ええ。僕も意外に思っています。カーンの好みはどちらかと言えば大人しいタイプの女性だと思ってましたから」
二人がそんな会話をしている間にもカーン達の口喧嘩はさらに温度を上げて行き―――、
「ははは、アミリア、赤くなっちゃって、可愛いな。でも俺、女装に趣味無いんだ。御免な。だから、マイ・ハニーで勘弁―――」
「ふざけるなぁっ!!」
顔を林檎の如く真っ赤にし、頭頂部から湯気など噴出しながら、狂戦士と化したアミリアが《光輝の剣-ルメーダ》を引き抜き、振り下ろす。殺す気満々の、必殺の一撃。
だがそれをカーンは背中に背負っていた《風の槍斧―ヤーナス》で受け止める。
アミリアの精霊具、《光輝の剣-ルメーダ》とカーンの《風の槍斧―ヤーナス》がぶつかり合い、激しい火花が散る。
『互いに苦労はつきぬなぁ』
『照れ隠しのために振るわれたのではこちらも堪った物ではない』
《風の槍斧―ヤーナス》と《光輝の剣-ルメーダ》が互いに深々と溜息を吐く。
接触する事により、精霊達は己の意思を相手に伝達する事ができるのである。
ただし、強大な力を有するような精霊になると接触しなくても思念を飛ばす事ができる。
《覇皇剣-サナトゥス》が宝物庫でラインハルトに声を掛けたように。
そんな精霊同士の話し合いなどに構わず、主人達は剣をぶつけ合う。
「貴様だけは、貴様だけは私が殺す!」
まるで仇敵に対するかのような言葉を真っ赤になりながら喚くアミリアに、カーンは真剣そのものという真面目な顔つきで、
「おまえに殺されるなら、良いかもな」
「なっ………」
その言葉に、アミリアの顔が怒りとは別の感情によって真っ赤になる。
その瞬間、やや力が抜け、カーンが力任せに押してくる。
予想以上に近くにあるカーンの顔を見て、アミリアの思考が真っ白になる。
その時、カーンの表情から真剣な色が消え、代わりにへらっとした女垂らしな笑みを浮かべた。
「なぁんてな、冗談だ。人生、天寿を全うしてなんぼのもんよ」
アミリアは屈辱に顔を真っ赤にし、
「も、申し訳ありませぬ、陛下!私ともあろう者がこのような戯けたうつけの挑発に乗って、騎士たる節度を見失い、あまつさえ動揺してしまうなどとは!近衛騎士団長の重職にある者にあるまじき行為!先祖アザウェイにも申し訳が立ちませぬ!こ、この上は死を持って償いをさせていただきたく、自害いたします―――!!」
「ええ!?ちょ、ちょっと、待った!」
いきなり剣を腹に突きたてようとするアミリアに、ラインハルトの慌てた制止の声が飛ぶ。
だがアミリアは頑なに声を張り上げる。
「もはやおめおめと生きている事など出来ませぬ!なにとぞ、けじめを付けさせてください!このままでは姉様や妹達にも示しがつきませぬ!」
腹に剣を突き立てようとするアミリア。
ラインハルトはそれまで事態を傍観していた黒髪の護衛に向かって、
「ヴァン、彼女の剣を!」
「―――承知」
次の瞬間、ヴァンの姿が霞み、誰も反応できない間に、アミリアは剣を取り上げられていた。
皇帝の脇に姿を現したヴァンは、皇帝に《光輝の剣-ルメーダ》を渡す。
「い、いつの間に………」
驚愕するアミリア。他の面々も、驚きに目を瞠っていた。近衛騎士団長が反応できない相手がまさかこの世に居るとは。ラインハルトはその剣をアミリアに差し出しながら、優しく言う。
「こんな事で自害なんかしたら、余はアミリアのこと、恨むよ、これからの時代、余は皇帝として頑張らなくちゃいけないんだから、アミリアにも頑張ってもらわないと。一人で先に逝って楽しようたって、そうはいかないよ」
「陛下―――わかりました。このアミリア=ホーンの命、存分に御使いください」
「うん―――それにしても」
ラインハルトの顔に、悪戯っぽい笑顔が浮かぶ。彼は意味深にアミリアとカーンを見比べて、
「二人って、本当に仲良いよね」
「なっ!そんな事は―――」
「いやあ、やっぱわかります?そう、実は俺達愛し―――」
「だから貴様は殺す!」
「うわあ、駄目だって、アミリア!」
本来は止めに入らなければならない近衛騎士達はこの騒ぎをなぜか微笑ましく眺めていた。
「やれやれ………騒々しい集団だね、これ」
オットーは楽しそうに、ヴァンに話しかけた。
「…………」
ヴァンは答えなかった物の、そのエメラルドグリーンの瞳は少しだけ、緩んでいるように見えた。
騒々しく言い合いながら、一行はスフィン城の中へと入って行った。
2 義兄弟の契り
城の中は豪華な中にも何処となく質素さと謙虚さを感じた。
一つ一つは高価な品なのであろう物が置いてあるが、なんと言うか、必要最低限の物しか無いとも言える。そんなスフィン城の中を案内されて、一同は謁見の間へと通された。
そこもやはり質素で、ラインハルトをしてローデンスのクリケット伯爵館を思い出させた。
「よくぞいらっしゃって下さいました。全国民を代表して、歓迎の意を表させていただきます」
玉座ではなく、謁見の間の中ほどで彼らを迎えたのは褐色の肌に赤い瞳を持つ少年。
ルシタニア連合王国王子、レオン=ルシタニアその人であった。
くすんだ色の金髪と両耳の辺りだけにある緑色の飾り毛を揺らしながら、レオンは歩み寄ってきた。
ラインハルトも満面の笑顔で近づき、二人は再会の握手を交わした。
「やあ、レオン、久しぶり。元気だったかい?」
「はい。陛下は?」
「元気だよ」
レオンの背後には、彼の忠実なる臣下であるレフ=スタッカートも相変わらずの鋭い眼差しで直立している。ラインハルトは気さくな微笑をそのレフにも向けて、
「レフも久しぶり。また貴方の淹れる紅茶を飲ませてほしい。あれは本当に美味しかったからね」
「御望みとあらば」
視線をレオンに戻して、聞く。
「ヨーゼフ陛下の御容態は御悪いの?体調が優れないようならば、御挨拶はまたの機会にするけど」
「いえ、陛下。父は寝台から降りる事もままならないだけで、容態は安定しています。それに僕の義兄になる陛下に会いたがっています」
(寝台から降りられないって………それは容態が悪いと言うのでは?)
だが、相手が良いと言っている物をこちらが断るのもあれなので。
「わかった。宸襟を悩ませたくないから、僕だけで会いに行こう。連れは―――」
「私が御案内しましょう」
「じゃあ、お願いするね、レフ―――じゃあレオン」
「わかりました。こちらです」
アミリア達と別れ、ラインハルトはレオンの後に付いて行った。
護衛役であるヴァンだけは、ラインハルトの後を付いて行ったが。
国王ヨーゼフ=ルシタニアの居室は城の中心部、もっとも静かな場所にあった。
「御父上、ラインハルト陛下が到着なさいました」
「おお、これはこれは………お入りくだされ」
扉越しに掛けたレオンの言葉に、温和な声が返ってきた。
レオンが扉を開け、二人は部屋の中へと入って行った。
部屋の三分の一程を占める、ダブルどころかトリプルか或はカルテットぐらいの大きさの寝台の上に、枯れ枝のような老人が横になっていた。ベッドがとてつもなく大きいだけに、そこに横たわる小柄な老人の姿はさらに小さく見えてしまう。
ほとんど抜け落ちてしまったらしいくすんだ金髪に、赤い瞳、がさがさで、皺だらけの木の幹のような色をした肌、頬の肉は削げ落ち、眼窩は落ち窪んでいる。
どうやら本を読んでいたらしいが、その本を持つ両腕はラインハルトでも少し力を入れて握れば砕けてしまうのではないかと心配になるほど細かった。
(死期が近い………)
見る者をして、等しくその老王の姿はそう思わせるだろう。
「病ゆえ、このような見苦しい姿で相済まぬ」
「いえ。御体の加減はいかがですか?」
「見ての通り、死期が近づいておる。………ああ、遠慮なさらずお掛けくだされ」
視線で、寝台の傍の丸椅子を示して言ってくる。
死期が近いとは言いながら、まだまだその口調はしっかりとした物だった。
ラインハルトは椅子に腰を下ろしながら、
「死期が近いなどと何を弱気な事を言っておられるのですか」
「そうですよ、父上。国民皆が父上の回復を祈っています」
ラインハルトの言葉にレオンも口を添える。
ヨーゼフはかすかに唇を歪めた。
笑ったのだろうか。
「これ以上、わしが老骨に鞭打つ必要はあるまい。………ルシタニアには、レオン、おまえが居る。おまえならば、わしなどよりももっとこの国を良くしてくれるじゃろう。それに、おまえには得難き友人も居る」
ラインハルトとレオンは顔を見合わせて、揃って微笑を浮かべた。
レオンがヨーゼフの顔を覗き込むようにして、言う。
「陛下との義兄弟の契りを結ぶ儀を今ここで、父上の前で執り行ってよろしいですか?」
「レオン殿下の義兄となるのを見届けていただければ幸いです」
「なんと、義兄弟の誓いを………!それはありがたい話しです、ラインハルト殿、レオンはわしの自慢の息子じゃ。この国を安心して任せられる。じゃが、何分にもまだ若い。レオンには良き理解者となる親友が必要なんじゃ。………どうか、誓いを守り、レオンをよろしく御頼む申す」
「しかと承りました」
ラインハルトは席を立って、腰の剣を抜いた。
《覇皇剣-サナトゥス》の、真紅の輝きが迸る。
レオンも腰の剣を抜いた。
ラインハルトも始めてみるレオンの剣は、美しい蒼い刃であった。
にこりと笑ったレオンが剣の刃を撫でる。
「我がルシタニア王家に伝わる《水霊剣―ウォーガイスト》です」
「美しい剣だね」
「はい」
二人は頷き合い、相対して立った。互いに剣を胸の前で空に向けて構え、地面と垂直に立てる。
『我ら、この世に生を受けた日、生を受けた刻は違えども、願わくば死するときは同じ日、同じ刻であることを望まん』
宣誓し、両者の中間点で、両者の剣をクロスさせる。
澄んだ音色が王の寝室に木霊した。
この瞬間、フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザーとルシタニア連合王国王子レオン=ルシタニアは義兄弟となった。
若き義兄弟の姿を、ヨーゼフ王は穏やかな眼差しで見つめていた。
「ラインハルト殿」
「はい」
ヨーゼフの呼びかけに、ラインハルトは剣を鞘に戻し、再び椅子に腰を下ろした。
「何卒、何卒、このルシタニアとレオンを宜しくお頼み申す」
「確かに承知しました」
ヨーゼフは安堵したかのように何度も頷き、やがて、眠りに落ちた。
ラインハルトとレオンは静かに彼の部屋を退室した。
部屋の外で待っていたヴァンと合流し、ゆるゆると歩き出す。
「陛下、塔に登りませんか?」
「レオン、陛下は止してくれ。僕は君の兄なんだから」
ラインハルトの言葉に、レオンは嬉しそうに笑顔を浮かべて、頷いた。
「そうでしたね、兄上」
二人は見張り台を兼ねる大尖塔へと登った。
最上階からはかなり遠くまで見通す事が出来る。
「あっちが、ルテティアです」
レオンが西を指差す。
そちらの方角では今でも、十万ほどのドルク王国軍と十五万程のルシタニア王国軍が一触即発の緊張の中睨み合っているのだ。
誰も居ない尖塔の最上階と言うのは、こういった話しをするには絶好の場所であるかもしれない。
レオンもそう言うつもりでここにラインハルトを連れてきたのかもしれない。
「ドルク王国は会談には応じそうにも無いの?」
彼の質問に、レオンの顔にはっきりと苦渋の色が浮かんだ。
「ルシタニア王家は代々争いごとを避け、争いの種に対しては常に平和的解決を模索するということを続けてきました。だが、彼らは会談に応じない。ルテティアを不法占拠し、最近では砦の築城も始めている始末です」
「難しいね、平和的解決って言うのは―――」
「だとしても力での解決は難しいでしょう」
「と言うと?」
「ルシタニアはもう百年以上も戦争をしていないんです。普段の軍事訓練もほとんど形式的なものばかり。ずっとスタルナス帝国などと領土紛争を戦い抜いてきたドルク王国の精強な軍勢には全く歯が立たないんです。それに、国民も戦と言う物に慣れていない。遠い世界の出来事でしたから。今までは」
「そんなに―――」
思わず口をついて出そうになった言葉をラインハルトは慌てて呑み込んだ。
だが、レオンは悲しげな微笑を浮かべて、西の空を見上げた。
既に沈んでしまった太陽の、そのかすかな残照が、遠くに見える山脈の稜線を紅く染めている。
「ええ。ルシタニア軍はそれほど、弱いんです」
ラインハルトが呑み込んだ言葉を自分で口にして、レオンはその赤い瞳で、真摯にラインハルトを見つめた。
その瞳の中に苦悩と決意を秘め、そして、嘆願を含んで。
「武力による解決は必ず憎悪を生む。その憎悪は新たな騒乱を呼び、再び武力を求める。そして、新たな憎悪を生み出す。この無限の悪循環を断つには武力を用いない解決が一番です。だから、ルシタニアは講和で解決します。そこで兄上にお願いがあります」
「僕にできる事ならなんでもするよ」
「もし万が一、講和で決着が着かない場合は速やかにこの国を出てください」
「レオン………」
「兄上を危険な目には合わせられません。兄上はこのラスカーナ大陸を統一し、大陸全土を救う御方なんですから」
ラインハルトは穏やかな表情で、首を左右に振った。
「それは違うよ、レオン」
「陛下?」
「義弟一人を助ける事も出来ないで、大陸全ての人を助けるなんて事、できる訳無いじゃないか」
「陛下………」
「もし講和で解決できないのなら………僕達が戦うよ。憎悪の念はフロレシアが負う」
「そんな―――」
「力による解決は正しくないかもしれない。でも、それ以外に選択肢が無いのであれば、僕達支配者がするべき事は一つだ。それは、迷わない事」
「迷わない?」
「そう。国民のために、何が最も大切なのか。講和による解決に拘り、多くの者を死なすのか。力による解決に頼り、やはり、多くの者を死なすのか。どちらを選んだにせよ、正しくは無いのかもしれない。批判を受けるかもしれない。でも、選ぶときだけは迷っちゃ駄目なんだ。例え、後世の歴史家がなんと評そうとも、迷わず迅速に決断する事。それが支配者の責任なんだ。すごく難しいけれどね」
「わかりました。陛下。そのときは、僕も迷わずに決めたいと思います」
「うん。でも、決断の時が来るまでは大いに悩んで良いんだよ。そして、僕達の力が何らかの役に立つならば、いつでも声を掛けて欲しい。僕達は兄弟なんだから」
レオンは義兄となった二歳年上の皇帝の優しさに胸が一杯になるのを感じた。
満面の笑顔で、大きく頷く。
「はい!」
それから二人は晩餐を共にし、共に風呂に入り、夜が遅くなるまで語り、一つの寝台で眠った。
まるでそれは、本当の兄弟の如く。
翌日。
レオン=ルシタニア、ラインハルト=シーザーは馬の轡を並べて、スフィンの街を後にした。
途中で野営していたフロレシア軍と合流し、レオン=ルシタニア率いる六千のルシタニア軍とラインハルト=シーザーの率いる四千五百のフロレシア軍は一路西進。
ルテティア地方でドルク王国軍と対峙するルシタニア王国軍と合流した。
無数の幕舎が並ぶルシタニア軍の陣地のはずれに、フロレシア軍は陣を布いた。
ルシタニア軍の将校と共に陣内の視察に出かけたカーンが不機嫌そのものといった様子で、ラインハルトの幕舎に入ってきたのは、そろそろ夕餉と言う時刻であった。
「どうだった、カーン?」
ラインハルトが聞くと、カーンは地面の上に布かれた毛布の上に胡座をかいて、吐き捨てるように報告を始めた。
「ルシタニアの連中は戦争に関しちゃあ、素人同然ですぜ。陣の並べ方が滅茶苦茶だ。弓隊と槍隊の位置がぐちゃぐちゃになっていて、あれじゃまともに敵に矢を射掛ける事も出来ません。それに騎馬柵の作りも荒くて、しっかり地中に固定されてない。あれじゃ、体当たりの一発で薙ぎ倒されて、馬を止めるどころじゃない。それに貴族どもは戦争をピクニックだと勘違いしてやがる上に兵どもはいざとなれば逃げればいいと考えている始末、もっとも手におえねぇのは補給線確保の杜撰さだ。食料や矢玉が何の護衛もなしに積み上げられている上に、王都から食料なんかを運ぶ荷馬には護衛すらついていない。陛下、こう言っちゃあなんだが、たった四千五百じゃ、援軍にもならないと思う」
「う~ん………そんなに駄目?」
「ああ、ドルク王国の陣も遠望してきたが、向こうは慣れてる。砦の作りも頑丈そうだし、あの砦が完成したらルテティアを取り戻すのは至難の業になる。フロレシアの軍団を注ぎ込んでも長い時間が掛かるだろう。ルシタニアの連中には無理だ」
「そうか」
正直、ラインハルトも驚いた。
ルシタニアの将兵には何の緊迫感も無いのだ。
曰く、連中の目的はルテティアであり、別にルシタニア王国をどうこうするつもりはないのだろう、と。
それは楽観的過ぎるだろう。もしルテティア地方を想像以上に容易に手中にする事が出来れば、ドルク王国は当然次はルシタニア王国自体の乗っ取りを考えるだろう。
だが、長い間の平和にどっぷりと浸かったルシタニア貴族達は全くそのことに気付いていない。
ドルク王国が強固な砦を着々と作り、完成間近だと言うのに、全く意に介していないのだ。
もしドルク王国が攻撃を仕掛けてくれば、早晩ルシタニア軍は壊滅的被害を受けるだろう。
或は王国の存続すら危ぶまれるほどに。
「カーン、悪いけど今日の視察で君が気付いた事を報告書に纏めてくれないか?僕がレオンに渡す。会談を成功させるためにも、こちらを大きく見せる必要がある」
「書類仕事は苦手なんですがね………」
カーンが表情を歪める。そのカーンが幕舎を去っていくのを見送って、ラインハルトは呟いた。
「最悪、退路と補給路の確保だけはしておかないと………」
ルテティア地方を取られてもそれが即ルシタニア王国の滅亡に繋がると言う訳ではない。
この戦線で敗れようとも、後方に退いて戦線を敷き直す事は可能だ。
だが、このままでは、戦線を後方に後退させる事すらままならないかもしれない。
長い間、平和に侵されてきたルシタニア王国の貴族達が果たしてそのような危機的状況を認識できるのかどうか………。
百年掛けて培われてきた概念をそう簡単に叩き潰す事は出来ない。
だが、やらなければならない。
これはフロレシア帝国でも同じ事だ。フロレシア帝国の貴族達も己達が権力を握り、既得の権益を護る事しか頭に無い。自分達の国の事、或いはこのラスカーナ大陸の事、もしくはもっと身近にいる国民達の事など全く考えていない。そんな貴族達の考えをこれから変えていかなければならないのだ。
自国を変えるのに、まずは同盟国から。
3 ヴァルツ=リバーエンド
ヴァルツ=リバーエンド。
その名は一ヶ月前までルシタニア王国はおろか、ドルク王国内でも決して知られた名前ではなかった。
勿論全くの無名と言う訳ではない。
ドルク王国の一部隊指揮官としてスタルナス帝国との領土紛争にもたびたび従軍していた。
しかし、それらの戦闘においても別段彼が非凡な才能を示したと言う記録は無い。
可もなく不可もなく、大きな功績もない代わりに、大きな汚名もない。
中堅所の指揮官程度の器。それがドルク王国軍上層部の共通した彼の評価だった。
その彼が一躍名を人々に知らしめたのが、今回のルテティア紛争だった。
その最初期において、彼は僅か五千の獣機動部隊と呼ばれるドルク王国の特殊部隊を率いて、侵攻してきた。
迎え撃つルシタニア王国軍は二万。
数で四倍の彼らに油断が無かったわけではないだろう。
そして兵器・兵の質、訓練度、気構え………そのすべてにおいて獣機動部隊の方に分があったにしても、ヴァルツ=リバーエンドに率いられた獣機動部隊の勝ちっぷりには空恐ろしさすら感じる。
獣機動部隊が殺傷したルシタニア兵、一万三千余。
獣機動部隊が蒙った被害、零。
なんと獣機動部隊は一人も死者を出さず、四倍の相手を追い払ったのだ。
戦力の六割五分喪失は部隊の壊滅を意味する。
ルシタニア軍が続々と国境を越えるドルク王国軍部隊を抑えられず、ルテティア地方を奪取されたのは仕方がないであろう。
白髪の巨人。
生還したルシタニア兵は恐怖に強張った表情で、そう口にした。
勝てるはずが無い、あんな化け物に、勝てるわけ無い、と。
「―――報告によれば獣機動部隊は夜間、我が方が寝静まった所に急襲を掛けて来たそうです」
褐色の肌に、赤い瞳を持つ、くすんだ金髪の少年、レオン=ルシタニアが続ける。
「襲撃は南北から。時刻は午前二時過ぎ。至近距離まで接近し、火矢を放ち、鬨の声を上げながら暴れ狂い、多くの兵は武器を取ることも出来ずに殺され、武器を取る事の出来た者もたいした反撃も出来ず。その乱戦の最中、何人もの兵が月光を背に、巨大な漆黒の馬に跨った白髪の巨人の姿を見たと言っています。そして気付いた時には敵の姿は無かったようです。その時刻は明け方の五時頃」
「三時間で一万三千の被害、か」
カーンが鼻に皺を寄せて言う。
レオンの左右に座るルシタニアの将軍達がむっとした表情を取るが、カーンは意にも介さない。
レオンもちらりと彼の方を見ただけで、その視線をラインハルトに戻した。
彼らはルシタニア軍の陣地、一際大きな幕舎に集まって軍議を開いていたのだ。
フロレシア帝国側からはラインハルト、カーン、オットーが参加し、ラインハルトの背後には護衛のヴァンの姿もある。
アミリアは部隊に残って敵の奇襲に備えている。
「わかった。それで方針は―――和議優先だね?」
ラインハルトが確認するように問う。
レオンは躊躇いも無く答え、それから、微笑を浮かべた。
「昨日陛下に頂いた報告書は一晩掛けてじっくり拝見させていただきました」
「うん」
カーンに書かせた物だ。
書いた本人も興味ありげにレオンを見つめている。
「実に先見の明に優れていると思いました。というよりも我々の至らなさを心痛しました」
「だったら陣ぐらい敷きなおしたらどうだ?」
カーンの挑発するような言葉に、将軍の一人が表情を変えて机をドンと叩いた。
「無礼だろう!平民である貴様ごときが書いた報告書を殿下が御閲覧なさったことだけでも礼を申し述べるべきであろう!それに我らルシタニア軍は十五万の大軍勢、陣を敷きなおすといってもそうやすやすと出来るものでは無いわ!」
口角泡を飛ばして怒鳴る将軍。
オットーは赤毛の親友が切れはしないかと心配になって、ちらり、と様子を窺った。
カーンの唇は歪み、ぴくぴくと痙攣していた。
「笑うとは無礼にも程があるぞ!」
将軍がそのカーンの表情を見て、怒鳴る。
(違う………笑ってるんじゃない。切れてるんだ)
嘆息を一つ吐き出して、オットーは首を左右に振った。
単純な性格の彼は熱しやすく冷めやすい。
切れ易い代わりに、その怒りもすぐに冷める。
だが、そんな彼の心中で、腐敗した貴族に対する怒りだけは熾りのようにずっと低音で燻り続けているのだ。
この貴族の言動は、そんなカーンに油を注ぐような物だった。
「こりゃ荒れるな」
オットーが諦めたように呟いた直後、
どがんっ!!
突如響いた大音響に、その場に居るすべての者が息を呑む。
ただし、ヴァンとレフだけは大した反応も示さなかった。
カーンが拳をテーブルに振り下ろしたのだ。みしっとひびが走り、テーブルが真っ二つになる。
その拳の威力に、将軍の顔が蒼くなる。
「そんな事を言っていて、相手が襲ってきたらどうするんだ?」
その声は低く、抑えられていた。だが、それは彼の怒りが小さい事を意味しているわけではなく、むしろその逆、今彼の心の中は火山の火口の如く燃え滾っているのだ。
「わ、我々は戦争をしに来たのでは―――」
「無いと?無いっていいてぇのか?おっさん、あんたがいくら戦争じゃないなんて寝惚けた事言っていても俺は一向に構わんがな。連中はこれを戦争だと考えてるはずだぞ?だから連中は武力行使したんだろう?違うってのか?ん?あのヴァルツ=リバーエンドとか言う男が何を考えてるのか、あんたに分かるのか?」
「げ、下賎の者の考えなど分かるはず無かろう!」
「戦争に貴族も平民も関係あるかっ!」
貴族の将軍の言葉を掻き消すカーンの怒声が響いた。
「斬られれば貴族だろうが平民だろうが血噴出して死ぬんだよ!今のままじゃ、ルシタニアは終わりだ、ドルク王国には勝てねえよ、たとえうちの大将がどんだけ頑張ったってな」
「カーン、言い過ぎだよ」
ラインハルトが諌めるが、カーンは言葉を止めなかった。
「和議だと?話し合えば分かるだと?確かに立派な思想だ。それを今まで守ってきたあんたらはすごいよ。だがな、だからって軍備を疎かにして良い訳ねえだろうが!化け物だ?どこが化け物だ。あんたらの部隊は斥候もろくに出さず、見張りも立てずに馬鹿みたいに眠りこけていた所に夜襲を仕掛けられて混乱して反撃も出来ずに右往左往してた所を撫で斬りにされただけだろうが!普段から訓練をしっかりとしていれば一万三千もの命を無為に失う事も無かったんだ!陣を敷きなおすのに時間が掛かるだと?甘えるな!貴様ら貴族の怠惰な生活が招いた結果だろうが!―――失礼する!」
鼻息も荒く言い放ち、カーンは幕舎を後にした。
(やれやれ………)
友を宥めるため、後を追って、オットーも一礼して出て行く。
将軍は額に浮き出た汗を懐紙で拭いながら、ふんと鼻を鳴らし、
「いかれとるな、まったく、貴族たるわしに向かってあのような暴言を吐くとは、非常識も甚だしい。これだから下賎な者の言動は野蛮だと言われるのだ。まるで獣ではないか」
「将軍」
静かな、それでも凛とした響きに将軍がレオンを振り返る。
するとそこには、美しいとすら言える微笑を浮かべた王子が居た。
「僕も彼と同じ意見です。どうやら我々は和平、会談、平和主義と言った言葉に甘えていたようですね」
「は―――殿下?あのような下賎な輩の言葉など間に受ける必要はありませぬぞ。ラインハルト皇帝陛下もあのような吼えるだけしか取り柄の無いような男は早々に切り捨てたがよろしかろう、なんなら同盟国のよしみでこのわたくし自らがあの蛆虫を剣の錆にして参りましょう」
「ああ。それは結構ですよ、将軍」
「はっはっは、御遠慮なさる必要はありません」
「将軍。一つ宜しいですか?」
ラインハルトはにこやかな声で聞いた。
その声がいつもよりも低い事に、果たしてこの場に居る何人の人間が気付いただろうか。
「はっなんでございましょうや?」
にこやかな笑みを浮かべて、将軍が聞く。
「もそっと近くへ」
皇帝が呼び寄せるのへ、ほくほくとした表情で近づいてくる将軍。
ラインハルトはその肩に手を置いて、
「僕は今、貴方に対して殺意を抱いている」
「は?」
「僕の国にも貴族と言う腐敗しきった、堕落した連中が居ましてね。彼らは無能なくせにまるで自分が国の支配者であるかのように振舞うんですよ。そして、善良な市民、能力あるものを蔑んで、こう言うんですよ―――「蛆虫」って。将軍、貴方さっき、カーンの事をなんて言いました?」
「は、あ、あの………」
将軍がだらだらと汗を掻く。
目の前に居る少年の顔は美しい微笑みを浮かべている。
肩を掴んでいる皇帝の力は決して強くは無い。振り払おうとすればいくらでも払えるだろう。
皇帝は華奢な体躯をしている、まだまだ貧弱な子供に過ぎないのだから。
だが、将軍は身動き一つ取れなかった。
彼を動けなくさせているのは腕力ではなく、皇帝と言う権力。
ラインハルトは急に怒りが醒めていくのを感じた。
この男を殴り飛ばそうと考えていたが、そうすれば自分は権力を背景に彼を殴った事になる。
それでは彼は貴族と同じ存在に堕落してしまう事になる。
「将軍。貴方の御名前を窺いましょうか」
「げ、ゲルムント=ビルバール侯爵と申します」
「なるほど、侯爵。では、貴方の祖国の友邦国の皇帝として貴方に尋ねたい」
「なんなりと」
「貴方はルシタニア王国王子、レオン=ルシタニア殿下に忠誠を誓うか?」
「も、勿論です!」
「そうか」
ラインハルトはようやく、将軍の肩から手を離した。
それから頭を下ろして、
「部下の無礼をお許し願いたい」
「へ………」
目を丸くする将軍。彼にとって権力者とは相手を見下す者だった。
だからこそ、貴族たる彼は平民を虫けらとして扱ってきたのだ。
だからこそ、彼は自分よりも遥か高みの権力を持つラインハルトに頭が上がらなかったのだ。
だと言うのに、そのラインハルトが自分に頭を下げている。
これは彼の常識では考えられない現象だった。
理解の限界を超えた現象に、思わず体が硬直してしまう。
「ゲルムント=ビルバール侯爵」
「はっ!」
レオンから掛けられた言葉に、侯爵は反射的に直立していた。
その彼の眼前まで近づいてきたレオンが、あのカーンとか言う男が書いた報告書の束を差し出した。
「今日中に、ここに書いてあるすべての事柄を始めて」
「す、全てですか!?」
「そう、全て」
「か、畏まりました」
敬礼し、侯爵は逃げるようにして幕舎を飛び出していった。
ラインハルトは頭を上げると、今度はレオンに向かって、頭を下げた。
「御免、勝手な事をして」
「良いんですよ、兄上―――あの赤髪の人も、兄上も正しい。間違っているのは僕たちのほうです。僕達は平和の上に胡座を掻いていただけだった。いざ戦場にやってきてみて、そのことを痛感しました。やはり軍備は必要です。でも、平和主義も大切だと思います。だから、これからは使わない軍備の整備に邁進します」 「レオン………」
「他国と渡り合えない国の舌先三寸の交渉なんて、誰も信用しない。だから、他国も一目置かざるを得ない軍備を目指そうと思います」
「ああ。君ならきっと実現できる」
「はい!」
ラインハルトの言葉に、レオンは嬉しそうに頷いた。
ラインハルトとヴァンはテーブルを壊してしまった事を詫び、明日にでも改めて軍議を開く事を決めた後、幕舎を退出した。
自分の幕舎に戻って見ると、そこにカーン=オルベニーが居た。
彼は皇帝の姿を見つけるや否や、その場にがばっとひれ伏した。
「ど、どうしたのさ、カーン?」
ラインハルトが慌てて聞くと、
「申し訳ありませんでした、陛下。同盟国の要人の前であのような無礼な口を聞き、もしこれで両国の関係にひびが入るような事があれば、全て俺のせいです。俺を処刑してください!」
「ああ、そんな事?」
「そんな事って………」
「余は良い気分だったよ?」
「―――は?」
皇帝の言葉が理解できないと言う表情をするカーン。
ラインハルトは穏やかな微笑を浮かべつつ、
「皇帝って言うのは窮屈な物で、その発言が全てその国の正式な外交方針だと受け取られかねない。だから、思うところがあってもあまり自由に口にする事は難しいんだ。不可能ではないけどね。だから、君が余の心の裡を代弁してくれて実にすっきりした。それにレオンも気にして無かったよ。君の言う通りだ、軍備も必要だって。まあ、あの貴族には伝わらなかったみたいだけど」
「そうですか………」
「もし良ければ聞かせてくれないかな、カーン」
「はい?」
「君がなんであの貴族にあんなに激しく怒ったのか」
カーンの表情が歪んだ。何かを耐える様な、そんな表情だった。
何か辛い過去を持っている。一目見てわかった。
ラインハルトはやや慌てて、
「いや、やっぱり良いよ。別に君の過去を弄くる様な事がしたいわけじゃないんだ。嫌な事を思い出させて御免」
「いえ―――」
カーンは首を左右に激しく振った。
「忘れられた事なんて、今までに一度もない………昔の事ですけど。失礼します」
辛そうにそれだけを口にして、カーンは幕舎を出て行った。
どんな辛い過去を背負っているのかはわからないが、それに貴族が関わっているのは間違いない。
4 和か戦か
帝国暦三三二年八月二日。ドルク王国軍とルシタニア・フロレシアの連合軍の対峙が始まって二週間後。
ドルク側が建設していた砦は既に城壁が完成し、今は堀を深く掘っている。掘り終えればルテティアを流れる豊富な水量を誇るルテティア河を引き入れるのだろう。そうなれば攻め落とすのは容易ではない。だがこの時間をルシタニア側も決して無為に過ごしていたわけではない。陣の敷き替え、防馬柵の埋め直し、兵の鍛錬、食料矢玉の輸送護衛。「使えない軍隊」から「使わない軍隊」へとルシタニア軍は変貌を遂げ始めていた。一夜にして変貌する事など不可能だが、ルシタニアは確実に歩み始めているのだ。
自分からは決して使わない、だが、敵にとっては十分な脅威と成り得るだけの武力を備える。
レオン=ルシタニアの打ち立てたこの政策はこの後、長きに亘ってルシタニア王国の国是とされ、『ハリネズミ政策』と呼ばれる事になる。ドルクの夜襲を警戒するため、斥候も放たれ、哨戒線も張られた。
それらすべて、フロレシアの将校や兵がルシタニアの将校や兵に伝授するのである。最初は反抗していた貴族たちであったが、ルシタニア王国王子レオン=ルシタニアとフロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザー連署の命令書が功を奏して、作業は順調に進んでいた。ルシタニア側とドルク側との間には頻繁に使者が行き来し、交渉を行っていた。その仲介にフロレシア帝国皇帝と言う肩書きを持つ少年は奔走した。ルシタニア側が提示した妥協案は、ルテティア地方の収穫物の三割をドルク側に譲渡し、三千名までの常時砦常駐を認める、という物だった。これをヴァルツ=リバーエンドが呑めば、これ以上の血が流される事も無く、紛争にけりがつくはずであった。これだけの好条件を呑めぬはずが無いと高を括る貴族達であったが、ルテティア地方にわざわざ武力侵攻までしてきたドルク王国がそのような条件で引き下がるわけも無かった。ヴァルツ=リバーエンドは条件を携えてやってきた使者を新造なったばかりの砦の謁見の間にて謁見した。ヴァルツ=リバーエンドは王座に窮屈そうにその巨体を据え、短く刈り上げた白髪に、狼のような鋭く、それでいて美しい紫の瞳をしていた。
そして、条件を述べた使者に向かって、鼻毛を抜きながらこう言い放ったのだ。
「こちら側の妥協案は単純明快だ。ルテティアを渡せ」
使者は粘り、何とか譲歩を引き出そうと試みたが、ヴァルツは聞く耳も持たずにさっさと奥に引っ込んでしまったと言う。この話しを聞いたラインハルトは難しい表情で、ドルクの砦の方を見やった。それからふと思い立ったかのように、傍らに立つ黒髪の護衛剣士に向かって声を掛けた。
「ちょっと出かけようか、ヴァン」
「―――何処へですか?」
突然そんな事を言いだした皇帝にも表情を変える事も無く、寡黙な直護衛は必要最低限な事項だけを尋ねる。ラインハルトは厩に向かって歩き出しながら、
「偵察、かな」
少しだけ考えるような素振りを見せた後、答えたラインハルトの答えに、彼は格別の感想を漏らしはしなかった。ただ黙然と、皇帝の斜め後ろに付き従うのみである。
数十分後。ラインハルト達の姿はルシタニア軍とドルク王国軍とのちょうど中間点に程近い丘の上にあった。そこからだと砦の中の様子や、土木工事の様子がつぶさに観察できる。
丘の上は草原になっており、背の短い葉が穏やかな風に吹かれてそよそよと揺らいでいる。
「平和だなぁ」
ラインハルトは呟いて、白馬から降りた。従順な白馬は主人の手が手綱から離れても決して逃げようとはしないで、静かに草を食み始めた。その表情も何処と無く陣場の慌しさから解放されて、長閑な風景に和んでいるようだ。そよぐ風に豪華な金色の髪を靡かせ、ラインハルトは陶然とその青い瞳を細めた。
純白の戦衣が汚れるのにも構わず、その場に座る。ヴァンもその隣へ腰を下ろし―――。
二人して無言のまま、広大なルテティアの平原を見回した。砦の向こう側には豊かな農耕地が広がり、農民達が農作業に精を出している様子も良く見える。眼下には雄大なうねりを見せてルテティア川が流れ、その川の東側に、ルシタニア軍とフロレシア帝国軍は陣を敷いているのだ。豊かな実りを齎すルテティアをドルク王国が求める心理は実に良くわかる。だが、だからと言ってルシタニアがこの穀倉地帯をただ黙って譲るはずが無かった。両者共に引かないのであれば、戦争が起こるのは必至だ。
そして戦争になれば、大勢の人間が死ぬ事になる。豊かな実りは国を豊かにする。国民が豊かになれば、それだけ平和を求める心も強くなる。しかし、だからと言って戦争は果たして正しいのだろうか?
「剣を使わずに思慮で勝つのも、総司令官の力量ではないかな」
この場合の総司令官とは彼の事ではなく、レオンの事だ。ただ平和を求めるだけでは、争いは消えないのだ。相手を出し抜き、騙す方法。それこそが外交であり、交渉と言う物だろう。
「―――良い事言うじゃねぇか、坊主」
「!」
独り言に返事を返されるとは思っていなかったので、ラインハルトは少なからず驚いた。
しかも声は存外に近い場所から聞こえてきた。だがヴァンではない。彼もまた、声の出所を探っている。
「何処だ!?」
ラインハルトが声をあげる。と。彼らからほんの数mしか離れていない茂みが大きく揺れた。
周りの草も風に煽られて揺れているが、その揺れはほんの些細な揺れに過ぎない。
だが、その揺れは明らかに人為的なものだった。
ひゅっ―――かきんっ!!
「っ………な」
全く反応できず、ラインハルトはただ声をあげるのみ。草葉の間からいきなり銀色の鋭い物が尋常では無い速度で飛んできて、それをヴァンが剣を抜き打ち様に払ったのだ。見ればそれはナイフだった。
もし彼の反応が一瞬でも遅ければ今ごろラインハルトはそのナイフに眉間を抉られて死んでいただろう。
「ひゅう。これはこれは、物凄い反射神経をしていやがるな」
軽く口笛など吹きながら茂みを割って姿を現したのはラインハルトよりも遥かに大柄な男だった。
髪は暁の頭領と同じく、珍しい白髪。そして、厳つい容貌に、透明度のある濃い紫の瞳。
その鮮烈な容姿は一発で彼が何者かを示す。
「ヴァ、ヴァルツ=リバーエンド………!」
ラインハルトは姿を現した人物の意外さに思わず硬直してしまった。白髪の巨人、ドルク王国獣機動部隊司令官ヴァルツ=リバーエンド。彼は今現在もルテティア川を挟んで対峙している敵軍の司令官なのだ。僅か五千の部隊で、瞬く間に二万のルシタニア王国軍を蹴散らした武将。しかし、男の腰にはこの大男が扱うにはいかにも小さな細身の剣が鞘にも収められずに抜き身でぶら下げられていた。
巨大な大刀や大槍、戦斧、三尖両刃刀などの方がよっぽど似合いそうなのに、そんな小さな短剣を使うからにはそれなりの理由があるのだろう。ヴァルツは驚愕に硬直しているラインハルトなど意にも介さず、二人に広い背中を見せるという無用心極まりない体勢で、ナイフを拾い、懐に収めた。
それから腰に手を当て、大きく伸びる。
「ふわぁぁぁ~………あ~、良く寝た」
欠伸などしながら、ラインハルトの隣にすとんと腰を下ろす。
「ん?」
そこで初めて、ヴァルツは硬直している少年を観察した。
黄金の輝きのような金髪、海の色の瞳、白磁の肌、白鎧、純白の戦衣、豪華な装飾の聖剣。
「おおっ!」
「うわあっ!」
ヴァルツがいきなり途方も無い大声を出したので、ラインハルトは驚いて仰け反った。
その鼻先に、ヴァルツの逞しい指が突きつけられる。
「坊主、おまえ、ラインハルト=シーザーか!?」
「い、いや、僕は―――」
慌てて誤魔化そうとするが、これだけ特徴的な服装をしていては誤魔化す事等不可能だろう。
「そ、そうだ………余がラインハルト=シーザーだ」
素直に認める。正直、今すぐにでも殺されはしまいかと心臓は跳ねっぱなしだ。
もしここで、ヴァルツが剣を抜き放てば、ラインハルトの首は飛ぶ。
ここにはヴァンしかいないのだ。その結果は火を見るより明らか。
皇位はアリーニ=アウグウェルツへと流れ、腐敗した貴族による専断的な暴政が行われる事だろう。
その結果はどうなるか、これもまた明らか。フロレシア帝国は再び先帝時代の暗い世の中に戻り、国力は疲弊し、国民は餓える事になる。人々は際限なく貴族に搾り取られ、貴族への怨恨を深めて行く。
貴族達は国民達から好き放題に搾取し、豪勢で華やかな生活を送るのだ。国民達は貴族の気分次第で殺され、孤児は特殊な孤児院に入れられて無理やり軍事訓練を受けさせられる。支配層と被支配層の間の信頼関係は崩れ、際限なく憎悪の輪廻に囚われる。時代に光は差さなくなり、闇の時代に陥ってしまう。
だが、命の危険と言う意味で言えば、ヴァルツとて同じ事だ。ルテティア川の東側はルシタニア王国の勢力圏内である。もしここでヴァルツが倒れれば、総大将を失ったドルク王国軍は崩壊するのではないだろうか?緊張に身を強張らせつつ、ラインハルトは問いを発して見る事にした。
「どうして、ドルク王国軍の司令官がこのような場所へ?」
しかし、緊張に身を強張らせるラインハルトとは異なり、ヴァルツには何の緊迫感も無い。
「昼寝だ、昼寝。このあたりで一番ここが昼寝するのに絶好な場所だったからだ」
ヴァルツの答えに、ラインハルトは大きく目を見開いた。
本能的にこの男が嘘をついていないと確信した。それにしても―――、
(昼寝に良いと言う理由だけで、川を渡って敵地へ?)
本当だとすれば並大抵の度胸ではない。もしかしたら危険に関して感性が鈍いだけなのかもしれないが。
「ところで、皇帝陛下―――レオン王子は決めたのか?」
「何を?」
「和か戦か………殿下はいずれを選ぶ?」
なんでもない口調でありながら、その問いは非常に答えるのが難しい問いであった。
「余から情報を引き出そうとしても―――」
ラインハルトが堅い表情で拒否しようとするとヴァルツは大きな手を掲げて遮り、
「いや、やっぱ何も言わなくて良い」
「えっ」
いきなり立ち上がったヴァルツに高みから見下ろされて、ラインハルトは思わず間の抜けた声をあげていた。自身も慌てて立ち上がりながら、それでもまだまだ高い位置にあるヴァルツの紫の瞳を見上げて、
「どういうことだ?」
ヴァルツは目尻に笑みを滲ませて、大きく伸びた。
「ドルクの方針は決まってるって事だ」
そのまま、背を向けて丘を下っていこうとする。
「待ってくれ、ヴァルツ殿!」
ラインハルトの呼びかけに、ドルクの将は足を止め、半身だけ振り返らせた。
「戦いは既に始まっている。あの砦を見ろ。もう完成している。後は内装だけだ。レオン=ルシタニア殿下に伝えてくれ。我々は先祖の土地を取り戻す、と」
「先祖の土地って………どういうことだ!」
混乱したようにラインハルトが叫ぶが、ヴァルツは歩み去りながら肩越しに手を振ってきただけだった。
先祖の土地を取り戻す?額面通りに受け取るならば、それはルシタニアに先祖の土地を奪われた、このルテティアこそその先祖の土地だと言う意味なのだろうか。ラインハルトにはどういうことなのかさっぱりわからなかった。だが、これだけははっきりと言う事が出来た。
「ドルクはもう、戦う決意を固めている」
もっともそれは予想された結末だとも言える。ドルク側は強硬にルテティア地方の割譲を要求し、ルシタニア側は様々な妥協案を提示しつつも、割譲と言う一点は断固拒絶している。
両者の交渉に歩み寄りが見られない今、ドルクが武力行使に出る事は実に自然な事であった。
「―――ヴァン」
「―――はい」
「戦になるよ」
「―――はい」
「余はどうしたら良いんだろう?」
「陛下の御心のままに」
「御心の………ままに、か………」
懐に手を入れ、胸元から包みを取り出す。包みを丁寧に取ると現れたのは小さなロデン神像だった。
ルーガを発つ朝、シエナに貰った物だ。
神は二つの顔を持っている。
左の顔は、慈悲と温情、温かい母にして、平和の象徴。
右の顔は、憎悪と軽蔑、厳しき父にして、争乱の象徴。
左手には知識を象徴する書を持ち、
右手には武力を象徴する鉾を持つ。
仁王立ちしたその背後には、鮮やかな炎が立ち昇り、
炎はやがて風となり、雲となり、恵みの雨となって大地を潤す。
「やっぱり、平和と争乱は表裏一体なのかな………」
ラインハルトは呟き、戦衣に付いた埃を払った。
そして、愛馬に大股で近づき、その首を軽く撫でてやる。
「平和と争乱が表裏一体だと言うなら、今の争乱の時代を早く終わらせて、平和な時代にしなくちゃね」
「―――はい」
ひらり、と言うほど格好良くは無かったが、ラインハルトは愛馬に跨って、黒髪の直護衛を振り返った。
「帰ろう、ヴァン。ヴァルツの言ってた事をレオンに話さなきゃ」
「―――はい」
(それにしても―――)
ヴァンに手綱を引かれながら進む馬の背で揺られながら、ラインハルトは空を見上げて考えていた。
(先祖の土地………ってどういう事?)
二人は急いで、ルシタニアの陣営へと戻った。そしてすぐにレオンの元を訪れ、事のあらましをすべて話した。レオンと彼の背後に無言で控えるレフ=スタッカートは難しい表情をして沈黙している。
その沈黙に耐え切れず、ラインハルトは質問を発していた。
「ヴァルツは先祖の土地って言ってたけど、あれは本当なの?」
「はい」
思いの外あっさりとレオンは肯定した。
「先々代の王の時代に、ドルクとルシタニアは紛争を起こし、ルシタニアはルテティアを占拠しました。その結果、ドルクは現在の国境にまで後退した。そのドルクの発祥の地こそがルテティアなのです―――だがそれは百年以上も昔の話です。確かにドルクは度々ルテティアの返還を要求してきたそうですが、このような武力を交える事態になったのは初めてです」
「先祖の土地を取り戻すための戦いなら、彼らは死に物狂いになって襲い掛かってくる。余は撤退を勧めるよ」
「ルシタニアに、ドルクと戦う力は無いと?」
レオンが聞いてくる。その瞳に大きな意思を込めて。彼もまた決意を固めつつあるようだ。
ラインハルトはその青い瞳で真っ直ぐにレオンの赤い瞳を見つめた。
思いが伝わるようにと、真摯に。ラインハルトの口から「ルシタニアは負ける」などと言う言葉は軽軽しく口にするのは憚られた。その発言は下手をすれば国際問題を引き起こしかねない。
無論、フロレシア帝国とルシタニア連合王国の同盟関係にも良い影響を与えるとは思えなかった。
だがそれでも、ラインハルトの思いは十二分にレオンに伝わった。
自分の身を真摯に案じてくれる義兄に、レオンは万感の思いを込めて微笑んだ。
「兄上は我が国を訪問なされている国賓なのですから、王都へ御戻りください。僕はルシタニアの王子として、次期国王として、ここで引くわけにはいかない」
「その決意は揺るがないんだね?」
「無論です。民を見殺しにする事など王族のする事じゃないですから」
ラインハルトとレオンは見詰め合った。彼らの背後で、ヴァン=ブレイスとレフ=スタッカートもまた無言でそれぞれの主人の背中を見詰めていた。
どれほどの時間が経ったのか、ふっと面差しから力を抜いたのは、ラインハルトの方だった。
「わかったよ。レオンがそこまで言うなら、僕も出来るだけのことをしよう」
「陛下!―――兄上は、国賓なのですから―――」
「レオン。僕は君に助けられた。今度は僕が君を助ける番なんだ」
「兄上………」
「ドルク王国軍にルシタニアの意地を見せてやるんだ」
「はい!」
元気良く、赤眼の少年は頷いた。