覇皇伝
第一章 新たな戦いへ
第一章 新たな戦いへ
1 死兵使い
帝国暦三三二年七月六日。
ルーナ帝国による侵攻は予め内偵されていた。長年抗争関係にあるルーナ帝国の動きをネヴァット帝国が見逃すはずもなかったのだ。数千人規模の部隊が南下しているという情報は、この部隊がルーナ帝国の帝都ディアナを出発した翌日には既にネヴァット帝国の宮廷に伝えられていた。ネヴァット帝国の貴族達はこの攻撃を単なる威力偵察ぐらいにしか考えていなかったが、民衆は長年にわたって続く戦争に嫌気がさしており、厭戦気分が日々拡大していた。そこで貴族達は一計を案じ、帝国の最強精鋭部隊五万を国境付近に集め、ルーナ帝国軍を待ち構える作戦に出たのだ。作戦といっても、ただ単に五万の兵を国境に動かしただけ。その動きは当然ルーナ帝国側も知る事になるだろう。戦場に赴いた兵士達は敵は引き返すものとばかり考えていた。ネヴァット帝国の威信に恐れを為して、敵部隊は遁走。
そう言う筋書きだったのだ。後はこれに拡大解釈と虚飾を織り交ぜて、大々的に国民に戦勝として公表する。久々の大勝利に、国民の厭戦気分も瞬く間に吹き飛ぶであろうと言うのが、今回の作戦を立案した青年貴族の言である。ところが、ルーナ帝国軍は全く何の躊躇もなく、国境を越え、堂々と何の障害物もない平原で、ネヴァット帝国軍と対峙した。その数は紛れもなく五千。対峙するネヴァット帝国軍の十分の一に過ぎない。その部隊を指揮するのはミト=ヴァレンツェという名の女。
即位したばかりのカール三世が取り立てたとか言う、謎の女だ。もっとも女の武器で若く女に不慣れな皇帝に取り入ったのだろう、と言うのが大方の貴族が下卑た笑みを浮かべつつ訳知り顔で話す予想だったが。どうにも緊迫感の無い空気の中、ネヴァット帝国軍は突撃を開始した。五万人が怒涛の勢いで、五千を蹂躙する。その先頭を駆ける騎士は長騎剣で、敵の一人を斬った。
「な、なんだ―――!?」
斬った感触の気持ち悪さに、思わず声をあげてしまう。
人間を斬ったとは思えない感触だった。まるで、腐肉を斬ったかのような―――
「っ!」
考えている間はない。ここは戦場なのだから。次の敵に剣を振るい、首を刎ね飛ばす。
「ちょろいもん―――」
「うぎゃああっ!!」
男の言葉は、彼の後ろにいた男の言葉で掻き消された。
器用に馬の手綱を操りながら、後ろを振り向き、男の体が硬直した。
首のない敵兵がネヴァット帝国騎兵に剣を振るい、騎士がもんどりうって落馬したのだ。
「そ、そんな馬鹿な―――!」
男は驚きに目を瞠りながら、騎士が落馬した辺りを見つめていた。
馬蹄に踏みにじられてしまっていては、もはや原型は留めていまい。
せめて遺品だけでも、家族に届けてやりたい。自軍は勝っている、そう信じている男はそんな余裕のある事を考えながら、舞い上がった砂塵が収まるのを待った。
「―――っ!」
再び、男は驚愕する事となる。砂塵が晴れると共に、騎士が立ち上がったのだ。
その首は明らかに普通ならば曲がらない方角を向き、左腕は肩から先が千切れており、腹は馬蹄に踏みにじられたのか、裂けて中身をぶらさげていた。そのおぞましさに、幾多の戦場を往来し、凄惨な光景を幾度も目にしてきた男ですら、吐き気すら覚えずにはいられなかった。
生きている、いや、生きているはずがない、生きていて良いはずがない。
だが、騎士は立ち上がって、右手で剣を握って、男を見つめ返していた。
「ウギャアアアア!!」
「うわあああっ!!」
おぞましい咆哮をあげて、騎士が剣を振るってくる。男は悲鳴を上げてその右腕を切り飛ばし、返す刀で騎士の首を刎ねた。だが騎士はそれでも倒れず、近づいてくる。
男はあまりのおぞましさに片手で口を覆いながら、馬腹を蹴った。
騎士から離れて、愕然と気付く。ネヴァット帝国軍がネヴァット帝国軍と戦っている。
生ある者が恐怖に歪んだ表情で死者を切り刻む。生なき者は愉悦に満ちた表情で生者を切り殺す。
殺された生者は蘇り、死者となって生者を襲う。戦いが続けば続くほど、仲間が減り、敵が増えていく。
敵を殺しても数は減らず、味方が倒されれば敵の数が増える。
五万対五千などと言う勢力差はこの際、全く意味をなさない物だった。
ルーナ帝国軍は死者の軍だったのだ。男の脳裏に、閃く物があった。死者は操られているのだ。
(誰にだ?)
そんなのは決まっている。ルーナ帝国軍の指揮官は誰だ?
「ミト………。ミト=ヴァレンツェぇっ!!」
自分がその名を呼ぶのが何回目か、考える事も無く自嘲した。今の自分の声に、まるで年来の怨敵を見つけたかのような響きを感じたからだ。だが、名を呼ぶ事を止めようとはしなかった。
怒声を放ちながら、男は馬腹を蹴った。道を塞ぐ敵を長騎剣で薙ぎ払い、男は乱戦の渦の中から外へ飛び出した。戦闘の輪の外、数人の死者に囲まれて、金髪赤目の美女が馬に跨っていた。
「ミト=ヴァレンツェぇっ!!」
戦場の空に、響く怒声。
ミト=ヴァレンツェは赤い瞳を、こちらに向かって来る精悍な騎兵に向けた。
口元に妖艶な微笑が浮かぶ。
「俺の名はシュタイン=オールドリーク!貴様の首を貰う!」
叫ぶシュタインの前に、死者たちが立ちふさがる。剣やら槍やら、雑多な武器を持った死者たち。
その着ている甲冑に、シュタインは見覚えがあった。それはネヴァット帝国軍の甲冑だった。
だがその死者たちはまるで死んでから数週間経っているかのように腐敗していた。そして、シュタインの脳裏を、帝都を出撃する前に聞いた噂が過ぎった。何でも国境を警備していた部隊が敵の奇襲を受けて全滅したと言う。その部隊はそこに争いがあったと言う痕跡は残していたが、死体は一つも残っていなかったと言う。その部隊の人数は、三千余人。
(まさか―――!)
シュタインの背筋を戦慄が走る。そして、ミトが笑う。
「私に与えられた兵の数はもともと二千だった。戦えば戦うほど、私の部下は増えるのよ。貴方はかつての仲間に剣を向けられる?」
シュタインを馬鹿にした笑みだった。そして背筋がぞっとするほどの妖しい美しさを持った笑みであった。思わず萎えそうになる心と腕を叱咤するかのように、シュタインは咆哮を上げた。
「馬鹿に………するなぁっ!!」
叫び様、シュタインが長騎剣を振るった。唸るような斬撃が死者を襲い、その体を袈裟懸けに切り崩す。
腐肉を斬る気色の悪い感触の残る剣を握り締め、もう片手で手綱を操り、シュタインは死者の壁を突破した。ミトがゆっくりと、腰の剣を抜く。無数の突起の付いた、細身の刀だった。
「ミトぉ!」
咆哮をあげつつ、剣を振り下ろす。
がきいいんっ!!
高い金属音を響かせて、長騎剣とフランベルジュが噛みあう。
「その名を呼んでいいのは、皇帝陛下だけよ」
驚くほど近くで、ミトが笑う。
その赤い瞳が、シュタインの視線を釘付けにする。
「―――っ!」
剣を引き離し、シュタインはいつの間にやら背後に回りこんでいた死者の腕を肩ごと斬り飛ばした。くぐもった悲鳴のような物を発して、死者が倒れる。
再び前を振り返ったシュタインは、今まさに振り下ろそうとされている剣を見て、ぎょっとした。
「気に入ったわ。シュタイン=オールドリーク。貴方を私の僕にしてあげる。ただの死兵としてではなく、ね」
シュタインがミトの言葉を理解できたかどうか、それはわからない。ミトの剣はシュタインの肩から腹にかけて、深く切り裂いた。真っ赤な返り血を浴びながら、ミトは笑っていた。
血塗られたその美しい顔に、恍惚とした微笑を浮かべて。ひくひくと痙攣していたシュタインの体が、どうっと落馬する。馬は悲しげな嘶きを一つ残して、いずこへともなく駆け去って行った。
戦闘は何時の間にか終息していた。戦場に立っている人間は、戦闘がはじまる前よりも、一人だけ減っていた。シュタインだけが、倒れていた。だが、戦場に居る人間達の中に、生ある者はミト=ヴァレンツェただ一人だった。五万五千人。すべてがミト=ヴァレンツェの支配下に収まったのだ。
「ふふ………壮観ね」
ミトは笑って呟くと、馬から降りた。鎖帷子がじゃらじゃらと音を立てるが、気にすることもない。
主人の意志を完璧に読み取って、死兵二人が倒れたシュタインの遺骸に肩を貸して立たせる。
肩から腹にかけてざっくりと裂けた傷口からは未だに止めようもなく血が溢れ出し、内臓が少しはみだしてすらいる。ミトはうっとりと目を細め、濡れたような唇を舌で舐めた。
手を伸ばし、シュタインの傷口に触れる。
手は瞬く間に血の色に染まり、ミトはその手を口元に運んで、血を舐めた。
「思ったとおり―――美味しいわ」
ミトは微笑んで、首にかけている首飾りを手に取った。
「古の邪心、現に現れて、死せる者に新たなる命と魂を吹き込め。《死の首飾り―ジェト》、汝の力を解き放つ。この者を我に跪かせよ。否か応か?」
『応』
低く、おぞましき声音で答え、首飾りに嵌められた宝玉が鈍く輝く。
赤い輝きだが、黒ずんだその光はなにやら邪悪な気に満ちていた。
ミトがその首飾りをはずし、宝玉の部分をシュタインの額に押し当てる。
ジュー―――ッ!
肉の焼ける音と共に、服従の印がシュタインの額に焼き付けられていく。
「ウ、ウウ………ウガアアアァァ!!」
獣のような咆哮を上げ、肉を焼かれる激痛にシュタインが白目を剥き出しにして苦しむ。
《死の首飾り―ジェト》からシュタインへ、古の邪心に汚された黒き魂が吹き込まれる。
シュー―――!
白い煙を上げて、シュタインの身を引き裂いていた傷が消えていく。
ミトは一瞬残念そうな眼差しをシュタインの傷口へと向けてから、その数倍もの期待感に溢れる視線をシュタインの顔へと向けた。宝玉がゆっくりとその輝きを減じていき、やがて、消えた。
ミトは首飾りを元の通り首に掛け直してから、シュタインの頬に指を這わせた。
「さあ、目を開けて。私の僕、シュタイン=オールドリーク」
「…………」
シュタインがゆっくりと瞳を開く。その瞳に先ほどまでの熱気に溢れる若者の姿はなく、今はただ、虚無を浮かべる瞳に、目の前の金髪赤目の主人に対する畏敬の念のみを宿す。そのシュタインの視界に自分以外の何者も映らないよう顔を近づけ、ミトはほとんど囁く様な声で言った。
「私はミト=ヴァレンツェ。貴方の主人よ」
「ミト………ミト=ヴァレンツェ様………私は、貴方様の、忠実なる、僕です」
空ろな声で、シュタインが言う。ミトは満足そうに頷いて、そして、シュタインの唇に自分の唇を重ね合わせた。微動だにしないシュタインの口内を思う様蹂躙して、ミトがようやく口を離す。
「さあ、行きましょう。帝都へ。愚かな者たちに、己の無力さを悟らせ、我らが皇帝陛下カール三世の偉大さを理解させるために」
「はい、ミト様」
五万五千の、ルーナ帝国軍死兵師団が動き出した。指揮官は金髪赤目の妖艶なる美女、ミト=ヴァレンツェ。その傍らには寡黙で従順な青年が並んで馬を進めていた。
三日後。領内を蹂躙されて、最後の頼みと帝都に立て篭もった貴族達が見た物は、帝都を包囲する数十万の死者の群れだった。
最後まで自分達の敗北を認めず、兵力を小出しにした結果、無為に敵の人数を増すだけに終わったのだ。帝都に立て篭もるのは、ネヴァット帝国軍最後の正規軍一万名と武力を持たない一般民衆三十万人。
死を恐れない死者の群れに包囲され、結論の出ない軍議に飽きた、ネヴァット帝国皇帝は降伏文書に調印。長年ルーナ帝国と対立関係にあったネヴァット帝国は、ここに滅亡した。
三十万人の兵力を誇っていた帝国軍の内、最後まで生き残ったのは僅か一万名。
軍は解散させられ、ネヴァット帝国領はルーナ帝国に併合された上で、信じられないほどの重税を課せられた。死の恐怖に戦く人々の視線の先、元帝宮の鐘楼には死を象徴するかのような《死神と鎌》のルーナ帝国国旗が風を受けて、禍々しく翻っていた。
そして、駐屯するミト=ヴァレンツェの指揮下には今尚、死して腐敗した幾十万の人々が使役されていた。魔の呪法によって、腐る事も許されずに服従の印を額に焼き付けられたシュタイン=オールドリークは主人の命のまま、重税に喘ぐ同国民を見せしめのために男ならばむごたらしく殺し、女ならば狂うまで犯した。
ネヴァット帝国民はそのルーナ帝国の苛烈な支配に、反感の気持ちを募らせたが、立つだけの気力も力も、もはや残されてはいなかった。
彼らはただ、恨めしげに、城に翻る《死神と鎌》と言うルーナ帝国の国旗を見上げる事しか出来なかったのだ。こうして、一つの国が歴史の荒波の中に飲み込まれて行った。
2 皇帝の受難 前兆
帝国暦三三二年七月十二日。
ルト=リューベンの反乱を鎮圧してから一ヶ月程の時間が流れていた。
ルーナ帝国がネヴァット帝国を併合したと言う情報はそれなりの驚きを以て受け入れられたが、そうは言っても遠い異国の話であり、フロレシア帝国の民にとって関心が高い話題とは言い難かった。
それよりも民草の関心を買っている話題と言えば、来週にも出発する皇帝ラインハルト=シーザーの友邦国ルシタニア連合王国訪問である。先の反乱におけるルシタニア連合王国王子レオン=ルシタニア殿下の尽力に感謝の意を表するために皇帝自らがルシタニア連合王国の王都スフィンを訪れるのだ。
さらに二人は義兄弟の契りを結ぶのだと言う。ルシタニア連合王国王ヨーゼフ=ルシタニアは息子から隣国の皇帝の人徳さを報告され、目に涙を浮かべて言ったのだという。
『わし亡き後、おぬしは王となり、国を盛り立てて行かねばならない。ラインハルト帝こそ、おぬしが兄と慕うべき人物である』
と。この言葉を受け、レオンはラインハルトと義兄弟となる事を提案、父王も了承し、そしてその旨を打診する使者がルーガに着いたのが六月二十日の事だった。
皇帝ラインハルトはこの申し出を大変喜び、国議もスムーズに纏まった。
貴族連盟の貴族達は良い顔はしなかったものの、反対する理由を思いつく事が出来なかった。
皇帝と次期国王が義兄弟の契りを結び、両国間の同盟関係がさらに緊密な物となる事は彼らにとっても喜ぶべき事だったのだ。さらに井戸端の奥様方の間には実しやかにある噂が流れていた。
すなわち、今回の旅はラインハルト=シーザー皇帝の御后探しの旅でもあると言うのだ。
もし皇帝がルシタニア連合王国の王室の姫君を后に迎えれば、両国の同盟はまさに一枚の巨岩の如く強固な物となろう。だが今回のルシタニア訪問はただの物見遊山ではない。
そもそもルシタニア連合王国とは連合と言う文字が意味している如く、いくつもの小王国の集まり、連合体に過ぎない。
ルシタニア王国と言う比較的大きな版図を持つ王国が中心となって連合しているため、ルシタニア連合王国などと呼ばれているが、実際の所、ルシタニア王ヨーゼフの影響力が及ぶのはルシタニア王国と言う一王国の領内だけといっても良い。
他王国の領内に関することは、大方その王国の王族に委ねられており、支配は及ばない。
そして、ルシタニア王国と連合王国の一角を担うドルク王国はその国境に跨るルテティアという豊かな実りを齎す地方を巡って、長い間領土紛争を起こしていた。
今までは平和な話し合いでの解決が図られ、何度も会談が持たれたが、両国の主張は歩み寄りを見せる事は無く、妥協はならず、遂に先月、ちょうどフロレシア帝国領内でルト=リューベンが反乱を起こしていたのと重なる時期に、ドルク王国は武力でルテティア地方に侵攻してきたのだ。
ルシタニア王国の守備隊は優れた戦闘力を持つドルク王国のヴァルツ=リバーエンド率いる獣機動部隊の猛攻によって敗北、僅か数日にしてルテティア地方はドルク王国に占領されてしまった。
それでもルシタニア王ヨーゼフ=ルシタニアは話し合いでの解決を提案し続けているが、ドルク王国側はそれを悉く拒否し、ルテティア地方のドルク王国への割譲を執拗に要求している。
現にルテティア地方は既にドルク王国の支配下にあり、話し合いでの解決は非常に難しくなっている。
それから一ヶ月間、ルシタニア王国とドルク王国は睨み合いの状態にあると言うわけである。
連合王国を構成している他の王国は今回の紛争は王国同士の私的な領土紛争と判断しており、連合王国として動く必要は無いと傍観している。
そこで、ラインハルト=シーザーがルシタニアを訪問するわけだが………。
「近衛騎士団から一個連隊千騎、第一軍からは歩兵第一師団と騎兵一個連隊………あわせて一万二千名………まるで戦争に行くみたいじゃない?」
書類に記載されている数字を見て、ラインハルトは小首を傾げ、目の前に控える宰相を見た。
ラインハルト=シーザー、輝く金髪、湛える青瞳、白を基調とした皇帝衣に身を包み、腰には豪華な鞘に収まった覇皇剣を佩く。
古の英雄フェルモア=シーザーに酷似した容姿を持つ皇帝は国民からの高い支持を得ていた。
「そんな事はありません。護衛です」
宰相オルンヘル=クリケットはにべも無く言った。
白髪混じりの黒髪に、茶色い瞳をした、ラインハルトの育ての親にして、帝国府の首魁として事実上帝国行政をその一手に握る実力者である。
その鷹の如き眼光に睨まれれば、大方の人間は反論もできずに口を噤むことしかできない。
「僕は戦争ではなく友好の為に行くんだけど?護衛と言っても、レオンは三百人しか連れてこなかったのに?」
「殿下の時のフロレシアの治安に問題は無かったが、陛下が赴かれるルシタニアは決して治安が良いとは申せませんぞ。それに、友邦とはいえ小国であるルシタニアとフロレシアでは格も違う」
「格、ねぇ………話がわからないではないけれども。それでも一万二千は多すぎると思う」
「では、どうすればよいと?」
「う~ん………」
ラインハルトは逆に問い掛けられて、唸りながら書類に目を落とす。
「アミリアの率いる近衛騎士一千、後はカーン=オルベニーの歩兵一個連隊二千五百、オットー=セルバンの騎兵一個連隊一千だけで良いんじゃないかな?」
「四千五百だけ、ですか?」
「それだけいれば、僕は安心だけど。格の違いを見せると言っても、相手に警戒感を抱かせては意味がない。友邦国は大切にしないと」
オルンヘルはふっと眼差しを和らげて、
「まあ、正直に言えば、一万二千も出すと糧食代だけでも馬鹿にならないからな。まあ、四千五百か、妥当な所だな」
「あ、父さん、また僕を試したでしょ」
ラインハルトが頬を膨らませると、オルンヘルは笑いながら手を振って、
「悪く思うなよ、俺はおまえの親であると共に師でもあるんだからな」
ラインハルトはそんな親代わりに一瞬拗ねた様な眼光を向けてから、真顔に戻って、
「レオンもきっと苦労してるんだろうね」
「ああ、殿下は今ドルク王国の部隊と対陣しているのだからな」
オルンヘルとラインハルトは揃って、執務室の窓から北を見た。
そちらの方角で、レオン=ルシタニア、あの褐色の肌に赤い瞳を持つ少年は数万の部隊を率いて、ルテティア地方を不当に占拠するドルク王国軍と対峙しているのだ。ルシタニア王ヨーゼフは争いを好まず、平和的外交努力によって解決するつもりだが、既に武力に訴えたドルク王国が果たして和平に応じるかどうか………。それはかなり微妙な問題であると言えた。
オルンヘルが去った後、ラインハルトは珍しい人物の訪問を受けた。
灰色の髪に同色の瞳、何処と無く陰惨な雰囲気を身に纏っている皇帝の直参アルンヘル=へードだ。
ラインハルトは彼に応接用の椅子に座るよう促し、シエナに茶を頼んだ。
応接用の椅子に座って皇帝と向きあったアルンヘルは緊張した素振りも臆した様子も無く、ラインハルトを真正面から見据えた。その冷酷とすら言える眼差しに居心地が悪くなったラインハルトは、シエナが淹れてくれたお茶に手を伸ばした。
「今日はお願いしたい事がありまして、僭越ながらも御謁見を願った次第です」
「あ………そうなの」
どうも苦手だ。鋭い眼差しと言う点では諜報部隊暁を束ねているエシュアもそうだが、このアルンヘルと言う男には鋭いと言うだけでは言い表しきれない、不気味さがあった。
結局ラインハルトは茶を取らず、伸ばした腕を引っ込めて、
「えと………それで?用件と言うのは?」
「陛下は民を殺す事が好きですか?」
「好きな訳ないじゃないか!」
アルンヘルの突然の問いの意味はわからなかったが、反射的にラインハルトは声を荒げていた。
アルンヘルはすっと瞳を細め、僅かに頭を下げて、
「申し訳ありませんが、いくつか失礼を承知で質問することをお許し頂きたく」
「う………うん、わかった」
激昂した事を恥じるかのように、ラインハルトが頷く。
アルンヘルは再び真正面からラインハルトを見つめて、
「陛下は覇皇フェルモアの後継者としてこのラスカーナ大陸に統一国家を築こうと成されている………間違いはございませんか?」
「ないよ」
「民を殺さず、敵を許し、誰も殺さず、皆仲良く………。それは真に結構な事ですが、それで覇道を進む事ができましょうや?」
「えっと………つまり、奇麗事だけじゃ何も出来ないってこと?」
「さすがは陛下、聡明でいらっしゃる。その通りです。奇麗事だけで、物事が進むと考えているなら、覇道は残念ながら成し遂げられませんでしょう。これは、民を騙し、反逆者を騙して、結果的に被害を最小に抑えて我々の反乱を鎮めなされた陛下ならばよくお分かりの事と存じますが」
「う………うん」
(ひ、皮肉、だよね………今のは)
「物事は奇麗事だけでは進まない、影の仕事が必要になってきます。しかし、陛下自ら闇に手を染められるのはよろしくない。皇帝陛下たるもの、清廉潔白、品行方正である方が民の人気も高まると言うもの」
「それで?」
「単刀直入に申し上げましょう。汚い仕事はすべて私が引き受けます。汚名はすべて私が被り、陛下は品行方正なまま。これが、大陸統一への最短距離です」
「汚い仕事………を君が?」
「はっ」
言って、頭を下げるアルンヘル。
ラインハルトはしばらくの間空を見つめて考えたあと、頷いた。
確かにアルンヘルの言う事は正しい。陰と陽、世の中はこの二つで動いている。
そして、ラインハルトの周りに裏の仕事を任せられる人間が果たしているであろうか。
エシュア、ぐらいなものだろう。アレクやハーンは陽こそ相応しい。
宰相であるオルンヘルもまたしかり。アルンヘル=へード以上の適任者はいない。何しろあの反乱時にも、ルト=リューベンの懐深くにありながら機を見るに敏にこちらにも誼を通じ、見事に帝都を反乱軍の暴虐から守った、その功績は大きい。もちろん、信用するには危険すぎると言うのも事実だが。
「わかった。アルンヘル=へード。余への謁見手続きを免除するから、何かあればすぐに知らせて」
「はっ」
「それで、まずはなにをする気なの?」
皇帝の質問に、アルンヘル=へードは鋭い眼差しを和らげ、口元ににたりと笑みを浮かべて見せた。
「まずは体内の毒素を消し去ります」
「………うん」
「では、私はこれで」
アルンヘル=へードは一礼して立ち上がると、部屋を出て行った。
(まずはお手並み拝見と行こうかな………)
扉が閉まるのを見届け、お茶に手を伸ばす。
「エシュア。彼の行動から目を放さないように、ね」
「はっ」
姿は見えず、声だけが返ってくる。だが、それで十分だ。エシュアなら十分な手を打つだろう。
満足して、麗しき皇帝はお茶を啜るのだった。
その建物は帝都の下町に建てられていた。聖堂だ。ロデンの神はすべての民に救いを齎す。
ステンドグラスから入ってくる光に照らされて、神の彫像が浮き彫りになる。
青い神官衣を着た長身で細身の男が、礼拝堂に一人で立ち尽くしていた。
手には彼が高位聖職者である事を示す司教杖が握られている。ヤヌス=ロッホ、それが彼の名前であり、ロデン教フロレシア大聖堂神官長、それが彼の肩書きであった。法皇レナード=クリプセス=ロデン18世の腹心として、彼はロデン教の理想のために日夜働いている。
「大神官殿」
呼びかける声に振り返れば、黒い法衣を着た背の低い男が、礼拝堂に入ってくる所であった。
異端審問軍、デ=ヴァレラ。
聖堂の陽の武力である聖騎士と対比され、彼らは闇の武力とされ、決して表面に出てくる事は無い。
「―――あの者は?」
大神官の問いに、男はにやりと口元を歪めた。
男の顔には至る所に傷があった。それが彼の人生が平坦な物ではなかった事を示している。
「依頼を受けました」
「………。そうか。あの者が我らの協力を請うてきた」
「ほう………なんと?」
「玉座に座す者を殺せ、と」
「それはそれは。それで、その者が新たな玉座に座す、と?我らが神は何を得るのですかな?」
「フロレシア帝国内での政府不干渉」
「ほう………我らが神の理想を理解しているかのような提案ですな。その者は入信しておるので?」
男の瞳に、茶化すような色が浮かんだ。
大神官は男のその表情が嫌いであったが、表に出す事はなく。
「己が神だと思っているのだろう」
「そりゃまた随分と思い切った邪教徒で。改心させなくてよろしいので?」
「構わん。鋼鉄の処女は処女のままで良い」
「どっちにしろ、あいつの膜は破れませんけどね」
「教皇庁からも命が届いた」
「なんと?」
「―――かの者に協力せよ」
「協力?………利用ではないのですかな?」
デ=ヴァレラは口元に笑みを浮かべたまま、上目遣いでヤヌスを見た。
ヤヌスは不快気に唇を引き締めて、
「おしゃべりはここまでだ。準備しろ。報告に来る必要はない。必要なのは結果のみ。全ては神が見届けてくださろう」
「はっ」
黒衣の神官が消えると、青衣の神官は神の立像を見上げて、祈りを捧げた。
「ロデンの神の加護が我らにあらんことを」
神は二つの顔を持っている。
左の顔は、慈悲と温情、温かい母にして、平和の象徴。
右の顔は、憎悪と軽蔑、厳しき父にして、争乱の象徴。
左手には知識を象徴する書を持ち、
右手には武力を象徴する鉾を持つ。
仁王立ちしたその背後には、鮮やかな炎が立ち昇り、
炎はやがて風となり、雲となり、恵みの雨となって大地を潤す。
全知全能なる神はすべてを生み出し、すべてを破壊する。
その灰の中から蘇る者は神の御心に適った者、すなわちロデンの信徒のみ。
神を信じぬ愚か者や邪教に心染められし者たちに救いは訪れず、待つは死のみ。
神の元に人間は平等であり、支配者は神のみであり、人間の支配者は要らない。
だからこそ、皇帝は抹殺されるべき存在なのだ。
青い衣を着た大神官はその神の像を見上げ、胸の前で手を組んだ。
「我らが所業、神の御心に適う事を願う。ロデンの神よ、聖なる神の信徒に、暖かき慈悲の心を持って、加護を」
大神官の祈りを聞き届けるのは、神の左半顔か、それとも右半顔か。 「罪深き皇帝に、死の鉄槌を下されん事を」
ラスカーナ大陸は動く。動かすのは何も政治家や軍人だけではない。
聖職者もまた、歴史の担い手なのだ。
専ら、影の。ロデン教がさらなる宗勢を誇るために、犠牲はいくら払っても構わない。
それが無辜の民であろうと。それが皇帝であろうとも。全ては神の御心の為に。
3 刺客
帝国暦三三二年七月十三日。
「今日は何処へ行くの?ライン」
ラインハルトが皇帝の外出着に着替えるのを手伝いながらシエナが問う。
「今日はちょっと城下の有力商人の家で昼食会があるんだよ、それに招かれたんだ」
「昼食会?」
「ああ、まあ、多分商談込だけどね」
薄く笑いながら、ラインハルトは言った。執務室を出た彼を、久しぶりに見る男が待ち構えていた。整った顔立ちをした背の高い男だが、その体からはぷんぷんと女物の香水の香りが発散されている。久しぶりに見る兄代わりの人物の登場に、ラインハルトが瞳を輝かせる。
「シオン卿!………また朝帰り?」
「いや、今朝は家に帰れなかった。それよりもだな、おまえのそれについて話しがある」
シエナの実兄であるシオン=クリケットはにたり、と笑って、ラインハルトの腰にある《覇皇剣-サナトゥス》を指差した。実は卿は女性と同等か、或いはそれ以上に武器類が好きなのだ。その癖戦争は嫌いなのだから不思議な男だ。
「これは譲れないよ」
警戒した目つきで腰の剣の鞘に手を置くラインハルト。シオンは舌打ちを一つ漏らしてから、
「とりあえず、今日はその話しじゃない。おまえ今度ルシタニアに行くんだろ?」
「う、うん」
「あそこは今戦争になりかかってる。いや、ルシタニアが認めてないだけで実は戦争状態だ。そんな国に行けばおまえさんがその剣を振るう可能性も無きにしも非ずって訳だ」
「うん。できればそんな事にはなって欲しくないけどね。覚悟はしておくつもり」
「だからその剣の事について教えてやる。俺も忙しい身だ。一度しか言わないからきっちり覚えろよ」
「わかった」
自分の命にかかわる問題なので、ラインハルトも真剣に耳を傾ける。
「その剣に封じられてる精霊はサナトゥス。破壊神とも呼ばれるとんでもねえ化け物だ。んでもってそんなどえらい精霊が封じられたその剣にはいくつも異名がある訳だが、その中の一つに聖魔剣という物がある。聖剣であり、かつ、魔剣であるという意味だ」
「聖剣であり、かつ、魔剣でもある?」
それは矛盾と言う物だろう。ラインハルトが理解していないのを見て取ると、シオンは嬉しそうに目を細めた。人の知らない事を自分が知っていて、それを他人に教える。それは快感だ。
「これの意味してる事は重要だ。要はどんなに強力な武器だろうがそれを使うのはちっぽけな人間に過ぎないって事だ」
「どういうこと?」
「強力な力を持っているがゆえに、それを使う者の心構え一つで世界を壊す魔剣にもなれば、大切な者達を守る聖剣にもなりえるってことだ。だから、ライン。この剣を殺人のために使うな。この剣の真の力は―――」
シオンの瞳が真剣味を帯びる。ラインハルトもごくり、と喉を鳴らして、次の言葉を待った。
「大切な者を守る時だけ、力を解放しろ。それ以外では一部の力を呼び覚ますのは良くても、完全に目覚めさせてはならない。じゃないと大変な事になる。覚えておけよ」
ラインハルトはその言葉を静かに、胸の内に刻み込んだ。
皇帝と言っても、もはや貨幣経済が浸透しているこの時代においてはその権力は絶対ではない。
いくら玉座にふんぞり返っていたとしても、武器などを買うためにはお金が必要なのだ。だから、商人と言うのは何処と無く皇族を大規模な顧客程度にしか考えていない節がある。とは言うものの、臍を曲げられて武器を売って貰えなくなって困るのはラインハルトの方なのだから、商人の中でも大きな財力と力を持っている有力商人からの誘いを無下に断るわけにはいかないのである。そして、フロレシア帝国内でも有数の有力商人であるギルト家の当主、ディハン=ギルトの誘いによって、彼は財務尚書のウェンヒルグ=ローレンスと共に、ヴァンを護衛として、ギルト家の屋敷を訪れたと言う訳である。何処と無く狡猾そうな顔をしたディハン=ギルトは、にこにこと笑みを浮かべて、客人たちに挨拶回りをしながら、ラインハルトの元にやってきた。
「これはこれは皇帝陛下、良くぞこのような卑しき身分の者の屋敷にお越し下さいました。」
「いや、余の方こそ招待してくれてありがとう。謙遜する事は無いよ、実に素晴らしいお屋敷だ。先ほど庭園を見せて頂いたが、実によく手入れされているね」
「お褒めのお言葉、恐悦至極に存じ上げます」
ギルト家の敷地は並の貴族以上に広大だ。庭園は確かによく手入れされていて、池には色鮮やかな鯉が泳いでいた。立食式の昼食も華やかな物で、料理も豪華だ。招待されている客も、帝都の名士や貴族などで、まるで上流階級の社交界のようだった。
「フロレシア帝室には我々ギルト商会創業以来大変御世話になっておりまして。先帝陛下の不慮の崩御には心より哀悼の念を抱くものであります。また新皇帝ラインハルト陛下におかれましては、即位早々の反乱騒ぎを鎮圧なされ、我らがフロレシア帝国も益々の繁栄を約束されたようなものと心よりお喜び申し上げる次第です」
「ありがとう。でも、余はまだまだ未熟者だからね、でも貨幣経済が発達してきた今となってはもう権力のごり押しではなく、商家の方々との友好が非常に国家にとって重要であると考えているよ」
「さすがはラインハルト陛下、御先見の明にはこのディハン=ギルト、感服いたしました。何卒、末永いお付き合いをお願いいたしたき次第です」
「うん。余の方こそ宜しく」
「それでは、ごゆるりとお楽しみくださいませ」
「ありがとう」
ギルトが離れていくと、ウェンヒルグは骨付き肉の身を丁寧に解しながら、
「お気をつけくださいませ、陛下。ああいう輩は抜け目ないですから」
「わかってるよ、男爵。まるで狐の化かし合いだね」
(居心地悪いや) 心の中で呟くと、ラインハルトは骨付き肉にそのまま、齧り付いた。
ギルトは会場を抜け出すと階段を登り、二階にある一室に入った。そこには一人の女が待っていた。鋭い顔立ちに、複雑な輝きを宿した黒い瞳。二の腕の半ば、太股の半ばまでを覆う黒い戦闘服を着込んでいる。二の腕には、鉤十字の紋章が彫り込まれていた。
「準備は整っているな?」
厳しい顔付きで、ギルトが問う。女はギルトを上目遣いに見て、
「―――はい」
頷く。従順な態度ではあるが、愛想と言う物は全く欠如している。
「いつ実行するかは任せる。私の仕事は皇帝を呼び出す所までだからな」
「―――はい」
(聞いてるのか?)
女の態度にそんな印象を受けつつ、ギルトは部屋を出た。その表情は険しい。
(ったく、案外と話しのわかりそうな男じゃないか。聖堂の馬鹿どもが………。何も殺す必要はあるまいに。いっそのこと皇帝陛下に密告………いやいや、いくら皇帝でも連中には勝てまい。ここで一時の感情に流されれば、営々築いてきたギルト商会を潰す事にもなりかねん。聖堂の連中には従っておいた方が吉、か)
ロデン教の愚か者の考えの浅はかさにかすかな憤りすら感じたが、すぐに表情を元に戻して、
何食わぬ表情で昼食会場へと戻るのであった。
宴もたけなわとなった頃、ラインハルトは軽い尿意を覚えた。
一度厠に行っておいた方が良いだろう。
「男爵、余はちょっと厠に行って来るから」
「あ、はい。わかりました」
会場を抜け出す皇帝の姿を、ギルトは貴族と話しながら横目で見つめていた。
「いやぁ、なんだか御腹一杯だよ。ヴァンは?」
「―――八分目です」
「でもヴァン、まさか厠の中にまでついてくるって事は無いよね?」
「―――はい」
「それにしてもこの廊下、長いね」
厠は廊下の突き当たりにある。いくら大きな屋敷の主となる廊下とはいえ。
いくらなんでもこれは………。廊下の向こう側が霞んで見えないと言うのは、どうなんだろう。
「―――陛下」
「ん?」
ヴァンの声が一段と低くなる。振り向いたラインハルトはヴァンのエメラルドグリーンの瞳が鋭く細められているのを見た。
「―――不味い事になりました」
「まずい?」
ヴァンがまずいと思う状況とは一体どんな状況なのだろうか?
「これは結界です、閉じ込められました」
状況を説明し、剣を抜くヴァン。
「結界?閉じ込められた?」
「陛下の御命を狙う刺客でしょう。御安心ください。賊には指一本触れさせません」
「う、うん」
シュッ―――カンッ!
「―――え?」
何が起こったのかわからずに目をぱちぱちさせるラインハルト。背後から飛んできた小型のダガーをヴァンが剣で弾き落としたのだ。その一撃だけで敵の隠れている場所を察知し、ヴァンが跳ぶ。
見た限りでは何の変哲も無い壁に、渾身の一太刀。空間が歪み、黒い戦闘服を着た女性が現れた。
ヴァンに居場所を察知され、隠れている利点が無くなった為に姿を現したのか、それとも隠れていてはヴァンの攻撃を避ける事が出来なかったのか。
姿を現した女は二の腕の半ばと太股の半ばまでを黒い戦闘衣装で包み、首には蛇が自分の尾を咥えているという構図の首輪をしている。両手には刃が黒く塗りつぶされた短剣を握っていた。
露になっている二の腕には鉤十字の紋章が刻まれていた。
「その紋章………ハーケンクロイツ孤児院の」
普段、全く感情を表に出さないヴァンだったが、珍しくその声には驚きの表情が浮かんでいた。
女の方も鋭い瞳を多少動揺に瞠り、
「なんでその名を知ってる………?」
「…………」
ヴァンは無言で、自分の服の袖を捲って、二の腕を見せた。
「!」
ラインハルトはヴァンの二の腕に彫られてあった紋章と女暗殺者の腕にある紋章を見比べた。
「同じ………鉤十字」
「なっ………おまえも、ハーケンクロイツ孤児院の出なのか?」
「そうだ」
いつもの表情に戻って、ヴァンは女を真っ向から見据えた。
「ハーケンクロイツ孤児院の出身者は家族も同然だ。殺したくない。ここは退け」
真摯な口調での願いだったが、女は一笑に付した。
「あそこの出身者がそんな事を言うなんてね。良くそんなんであの最終試験を生き残れたわね」
「―――答えは?」
「決まってるでしょう。私達の存在意義はハーケンクロイツ孤児院の名を挙げる事。私は今まで、暗殺の任務に失敗した事はない。そしてそれはこれからも同じ」
「―――ならば仕方ないな」
ヴァンの瞳に、複雑な色が浮かぶ。殺したくは無い。だが、殺さねばならない。
それが―――。
『お前達の出来る事は人間を殺す事だけだ。なぜなら、人間を殺すための教育しかしていないからだ。お前達の存在意義はハーケンクロイツ孤児院の名を挙げる事。それ以上でも以下でもない。ここを卒業し、お前達を買う者が何者であろうと、お前達の為すべき事に変わりは無い』
孤児院で、彼を育てた男が口癖のように口にしていた言葉だ。
「陛下。下っていて下さい」
「う、うん」
大人しく下るラインハルト。ヴァンの声に、普段は感じられない緊張の色を感じ取ったのだ。
先に動いたのは女だった。床を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、頭上からヴァンに一撃を放ってくる。
人間とは思えない、獣の如き敏捷さだ。
「くっ………」
ヴァンは無理にこの攻撃を受け止めようとはせず、無難に一歩退いて回避した。
着地し、両手両足を曲げて、床に張り付いたかのように見えるほど身を低くした女が、弾かれたように飛び出してくる。速い。今度は避ける事が出来ず、ヴァンは剣を振り下ろした。
女はこの斬撃を右手に持った短剣で受け止め、そのまま左手の短剣を突き出してくる。
ヴァンは何とか身を捻り、この一撃を回避する。そのまま回転の力を利用して、肘鉄を女に食らわせる。
頬に一撃を受け、女が弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「くはっ………」
ヴァンは荒い息を吐きながら構えを取り直す。
「退け」
「まだ言うか!」
女は予備動作もなく壁から跳び、ヴァンに襲いかかった。
だが、多少のダメージはあったのか、その動きはヴァンが容易に反応できるほどの物だった。
(それとも、動きに慣れたか………)
敵の速度にもすぐに慣れる事ができるよう、訓練してきたのだ。
突き出されてきた二本の短剣を、ほぼ同時としか思えぬ動きで叩き落とす。
「なっ―――」
女が驚愕の息を漏らす。その無防備になった胴体に剣を振り下ろそうとして、ぴくっとその手が止まった。脳裏に浮かんだのは一人の少年の顔だった。
もう何年も思い出した事のない顔だった。その一瞬の間に、女はヴァンの攻撃範囲から離脱していた。
「何故殺さなかった!」
女は顔を赤く染めていた。屈辱の怒りに、血管が裂けそうだ。
「…………」
ヴァンは渋い顔をして、沈黙していた。
「貴様はいつか殺す!必ず!」
宣言し、女が首輪を外し、掲げた。
「蛇身環!」
すると環の内側から白い光が溢れ、世界を塗りつぶした。
「うわ!」
思わず悲鳴を挙げるラインハルト。やがて光は弱くなって行き、目を開くとそこは普通の廊下に戻ってきた。ラインハルトはふぅ、と一つ嘆息を零す。
「と、とりあえず………助かったみたいだね」
「―――はい」
短く頷くヴァンはいつもの彼に戻っているようだった。
聞きたいことは幾つもあった。しかし、先ほどのヴァンの様子を見ている限り、安易に触れて良い話題とも思えなかった。
数瞬迷ったラインハルトだったが、軽く首を竦めるようにして呟く。
「じゃあ戻ろうか」
「―――陛下」
「な、なんだい?」
「―――厠は宜しいので?」
「あ………引っ込んじゃった」
4 ハーケンクロイツ孤児院
「や、止めてくれ、ヴァン!俺達は、俺達は友達だろ!?」
少年が叫んでいる。
目に涙を溜めて。
ヴァンはまるで感情を宿していないかのようなエメラルドグリーンの瞳をその少年に向けた。
少年。
まだ十歳にもなっていないだろう。そして、それは自分も同じだった。
そして、自分の手中には一本の剣が握られていた。
そして、自分の足元には一本の剣が転がっていた。
少年が先程まで振るっていた物を、ヴァンが弾き落とした物だ。
「どうした、ヴァン。敵の命乞いになど耳を貸すな」
声は背後からした。重く、厳しい声。振り返らずともわかる。
ここに来てから、ずっと彼を教育していたものの声だ。
ここ。ハーケンクロイツ孤児院に来てから。
ここに来た始めての日の事を、ヴァンは思い出していた。
「ここが今日からお前の家になる」
男に手を引かれ、連れて行かれた先、これから彼が過ごす事になるその建物は古ぼけた聖堂だった。
『家』。自分には家があったはずだ。ここではない。家族の居る家。
だが、今はもう無い。
彼は売られたのだ。他の家族が生きて行く為に、末の子である彼は売られてしまったのだ。
この国では良くある話だった。むしろ五歳になるまで育ててくれた両親に感謝しなければならないほどだろう。最後、目に涙を浮かべながら男の手に自分を委ねた母の顔を忘れる事はない。
「こっちだ。付いて来い」
男に連れられて、裏庭へと回った。
「な―――」
そこで行われていた凄惨な光景に、思わずヴァンは声を漏らしていた。
そこでは彼ともそんなに年の離れていない子供達が………殺し合っていた。
血だらけになりながら、それでも小さなナイフを振りかざして、戦っていた。
そんな子供達の外側には薄い笑みを浮かべた大人達。
「ほらほら、どうした!早く殺さなきゃ自分が殺されるんだぞ!」
一人の女の子が、泣き出してその場に蹲ってしまった。
「もうヤダ、もうヤダよぉぉぉ、お家に返してよぉぉ!」
女の子の泣き声に、他の子供達も戦うのを止める。
「おいおい、面倒掛けるなよ」
大人はそう言って、女の子の三つ編みにした髪を掴んで、引き起こした。
「いたいいたいいたいっ!!」
「うるさい!」
泣き叫ぶ女の子の頬を、大人が引っ叩く。
ぱぁんっと乾いた声が響き、女の子は泣くのを止めた。
大人はそんな女の子の顔を覗きこんで、
「もうヤダってのは、この訓練を止めたいって事か?ん?」
「…………」
女の子はふるふると震えながら、何も言わない。
大人は女の口元に耳を寄せて、
「ああ?言って見ろよ。訓練を止めたいって言うなら止めさせてやっても良いんだぞ」
「や、止めたい………」
「ん?聞こえないな………」
「駄目だ!言ったら駄目だ!」
子供達の一人が叫ぶ。
だが、女の子は………
「止めたい!私、もうこんなの嫌!お母さんとお父さんの所に返して!私をお家に―――」
ボキッ………。
そんな音と共に、それまで喋っていた女の子の首ががくりと力を失った。
「あらあら、死んじゃった。止めたいなんて言うから、生きるのを止めさせてあげました」
大人は笑顔で、一人の女の子を殺したというのに、笑顔を浮かべて、そして女の子を地面に落とした。
先程まで生きていた肉の塊が、地面の上に力無く横たわる。
大人はその女の子の頭を靴で蹴って、顔を子供達に向ける。
「―――さて、さっき『駄目だ』なんて言ったのはどの子かな?」
ヴァンはその大人の笑顔に、吐き気を催した。
人の死をなんとも思っていない、そんな笑顔だ。
子供達が自然に道を開け、大人の前に一人の子供が進み出た。
気の強そうな少年だった。
大人を真っ直ぐ睨み付けて。
「なんで殺す必要があったんだ!」
「良い質問だねぇ。ちょうど新入り君も居る事だし。説明しちゃおう」
大人はヴァンをちらりと見てから楽しそうにそう言うと、上着の袖を捲って見せた。
二の腕に鉤十字が彫られていた。
「この紋章はこの孤児院、ハーケンクロイツ孤児院の紋章でぇす。どうだ?格好良いだろう。おまえらの腕にも刻まれているだろ?それに新入り君。後で君にもこの刺青をしてもらいまぁす。と。この紋章はこのハーケンクロイツ孤児院出身と言ういわばブランドの印なんでぇす」
「ブランド?」
少年が眉間に皺を寄せる。
大人は楽しそうにふふんと鼻を鳴らして、
「この孤児院は世の中で生きてる価値の無いおまえらみたいな孤児に生きてる意味をあげようという素晴らしい慈善組織なんですねー。ここの卒業生は貴族の私兵や傭兵団に買われ、活躍するんです。君達が社会に出た後に社会貢献できるよう訓練するのがこの孤児院の目的なんです。わかった?理解できた?んで、君。君は失格です。なんでかって?上官の行動に疑問を挟むような人間は社会に出た時に役に立たないからです。良い機会だから俺達に逆らったらどうなるかも教えてあげよう。今日は特価大放出だね。逆らったり、訓練で気を抜いたりした人は―――こうなります」
大人が何をしたのかまるでわからなかった。
しかし、次の瞬間、あの気の強そうな少年の首がごろりと地面に落ちて。
断面から物凄い勢いで赤い液体が噴き出し始めて。
「さあ―――それでは、殺し合い再開でぇす。気を抜いたらこうなるから、気をつけようねぇ」
大人の号令で、再び子供達は殺し合いを始めて………。
皆必死の形相。泣きながら。叫びながら。謝りながら。
必死の形相で、友達を殺していく。殺していく。殺していく。
血。血。血。悲鳴。悲鳴。悲鳴。
そんな殺し合いを見て、大人たちはにやにやと笑う。
ヴァンにとっては初めて見る『地獄』だった。
だが、その『地獄』はすぐに彼にとっての『日常』となった。
「ヴァン=ブレイス。お前も落第者か?」
背後から浴びせられる言葉に、ヴァンは我に返った。
目の前では先程の少年が身を起こそうとしているところだった。
そのまま、ヴァンの足元に飛び込んでくる。
その手がヴァンの足元に転がっていた剣を掴み………。
片手で地面を弾き、体を起こし、同時に剣を突き出してくる。
ヴァンはその剣先の軌道を見極め、最小の動きでこれを回避する。
少年は子供とは思えぬ速さで身を捻り、肘打ちを打ち込んでくる。
ヴァンは掌でこれを抑えた。
少年はさらに体を浮かし、強烈な蹴りを放ってくる。
ヴァンはこの蹴りを体を捻って避けた。
同時に少年の手首を掴み、地面に叩き付ける。
「殺せ」
背後の男の一言。
ヴァンは剣を振り上げ、振り下ろした。
貫く。
少年は心臓を一突きにされ、かっと目を見開いた。
そのまま体を震わし、動かなくなった。
「…………」
ヴァンは剣を抜き、周りを見回した。
聖堂の裏庭には、二十人余りの少年少女が血塗れで倒れ伏していた。
この数年間、共に同じ鍋から食事をし、枕を並べて眠り、机を並べて学び、肩を並べて戦った者達だ。
立っている子供は彼一人だけだった。
「見事だ。ヴァン。やはりおまえが残ったな」
子供達全員で殺し合い、生き残った者だけがこの地獄から外の世界に出る事が出きる。
それが、このハーケンクロイツ孤児院の卒業試験なのだ。
生き残った者だけが、卒業できるのだ。
そして、ヴァンは全ての友人を殺し、一人残ったのだ。
最後に殺した少年は親友だった。
その親友を自分の手で殺してしまった。
だが、感情には何の変化も無かった。
涙はとうの昔に枯れた。
吐き出す物も、もはや何も無い。
体中を流れる血は完全に冷め切り、心は鋼鉄の鎧を着込んでいる。
「おまえはここを卒業する。この学び舎で学んだ全ての技術を用いて、ハーケンクロイツ孤児院の名を挙げよ。それだけがお前の生存意義だ。この意義を果たせないのならば死ね。だが、安心しろ。この意義を果たすためにのみ、お前はこの三年間、ありとあらゆる戦闘術を学んだ筈だ。そして、その技術を己の血肉としたからこそお前は今ここに生きて立っていられる」
男の言葉は、ヴァンの心に何の変化も齎さなかった。
唯一つ、ヴァンが気に掛ける事は。
「―――私を買うのは誰です?」
それだけだった。友の死に何の関心も示さない。そのエメラルドグリーンの瞳には、何の感情も浮かんではいない。ただの、殺戮の為にだけ生きる機械。それがヴァン=ブレイスと言う存在だった。
「お前を買うのは、オルンヘル=クリケット伯爵だ」
「…………」
何の感想も示さない。
別に誰に買われようとも、する事に変化があるわけではないのだ。
―――いや、ヴァン=ブレイスができる事など一つしかないのだ。
彼にできる事は、人の命を奪う事だけなのだから。
「私がお前を買ったオルンヘル=クリケットだ」
「…………」
帝都の貴族区画にある、一軒の邸宅。
その奥まった主人の書斎で、ヴァンはこの屋敷の主と向かい合っていた。
黒々とした黒髪に、ほんの数本、白い物が混じっている。年の頃は四十代前半ぐらいだろう。鷹のように鋭く、隙の無い視線をしている。
男は椅子に座り、ゆったりと背凭れに凭れていた。
「―――ハーケンクロイツ孤児院の卒業生は優秀な人材が多く揃っている事で有名だからな。お前を買うのにも苦労した。何しろあそこの卒業生は一年間に一人しか輩出されないからな。おまえは何ができる?」
―――何ができる?
何をわかりきった事を………。
ヴァンはエメラルドグリーンの瞳に僅かながら、侮蔑の色を浮かべた。
「殺人です」
「ふむ。人を殺す………と。何の為に?」
「理由など関係ない」
「ふむ。人を殺すのが好きだという事かな?」
「好きな訳無いだろう!」
思わず、ヴァンは執務机の上に身を乗り出していた。
オルンヘルは口元に微かな笑みを浮かべて。
「ならばお前には暫く裏庭で農作業でもして貰おうか」
「な!?」
「裏庭にそこそこの規模の家庭菜園を作っているのでな。世話をしていた翁が先日セベリウンに住んでいる孫夫婦に頼まれて同居するため、セベリウンに行ってしまったので、人手が足りなかったところなんだ」
「誰かを殺すために買ったのではないのですか?」
「殺したいと思う人間はいるが、殺そうとは思わないな。それに、お前を買ったのはお前の剣の腕前を買ってからであって、殺人術を買ったわけではない」
「なんで農作業なんか―――!」
「ハーケンクロイツ孤児院では、命の価値とは重かったか?」
「っ―――」
詰め寄ろうとした勢いを削がれ、しかも意表を突く質問をされ、ヴァンは口ごもった。
「命はハーケンクロイツ孤児院の名を挙げるという目的の前には塵よりも軽い存在でしかなかった。違うか?」
「…………」
「まずお前には命の価値を学んで貰う」
「―――命の価値?」
「そうだ。いつになるかはわからないが、お前にはある人物の護衛を務めて貰う」
「護衛………」
それまで習ってきた剣とは全く違う。
人を殺すための剣を習ったのに、実際に使うのは人を護る為の剣。
「そう言う訳だ。まずは雑草取りから始めてくれ」
それが、十年程前の話しになる。まだヴァンは、僅かに十歳の子供でしかなかった。
「…………」
深夜だ。空を見上げれば、月が出ている。銀色の光が、降り注いでいる。
ルーガ城の屋根の上。
ヴァンの足元には黒衣に身を包んだ男が断末魔の表情で倒れていた。
一刀の元に切り伏せられた、皇帝の命を狙う刺客の亡骸だ。
ヴァンは血塗れた剣を、男の黒衣で拭い、鞘に収めた。
屋根から、窓を伝って、室内に入る。
そこは皇帝の寝室だった。
豪奢な寝台では、若き皇帝が静かな寝息を立てて寝入っていた。
ヴァンは何事も無かったかのように、窓辺に用意してある椅子に座った。
人を殺すための剣を、人を守るために使う。
だとしても………。
結局彼がしている事は、人の命を奪う事なのだ。
1 死兵使い
帝国暦三三二年七月六日。
ルーナ帝国による侵攻は予め内偵されていた。長年抗争関係にあるルーナ帝国の動きをネヴァット帝国が見逃すはずもなかったのだ。数千人規模の部隊が南下しているという情報は、この部隊がルーナ帝国の帝都ディアナを出発した翌日には既にネヴァット帝国の宮廷に伝えられていた。ネヴァット帝国の貴族達はこの攻撃を単なる威力偵察ぐらいにしか考えていなかったが、民衆は長年にわたって続く戦争に嫌気がさしており、厭戦気分が日々拡大していた。そこで貴族達は一計を案じ、帝国の最強精鋭部隊五万を国境付近に集め、ルーナ帝国軍を待ち構える作戦に出たのだ。作戦といっても、ただ単に五万の兵を国境に動かしただけ。その動きは当然ルーナ帝国側も知る事になるだろう。戦場に赴いた兵士達は敵は引き返すものとばかり考えていた。ネヴァット帝国の威信に恐れを為して、敵部隊は遁走。
そう言う筋書きだったのだ。後はこれに拡大解釈と虚飾を織り交ぜて、大々的に国民に戦勝として公表する。久々の大勝利に、国民の厭戦気分も瞬く間に吹き飛ぶであろうと言うのが、今回の作戦を立案した青年貴族の言である。ところが、ルーナ帝国軍は全く何の躊躇もなく、国境を越え、堂々と何の障害物もない平原で、ネヴァット帝国軍と対峙した。その数は紛れもなく五千。対峙するネヴァット帝国軍の十分の一に過ぎない。その部隊を指揮するのはミト=ヴァレンツェという名の女。
即位したばかりのカール三世が取り立てたとか言う、謎の女だ。もっとも女の武器で若く女に不慣れな皇帝に取り入ったのだろう、と言うのが大方の貴族が下卑た笑みを浮かべつつ訳知り顔で話す予想だったが。どうにも緊迫感の無い空気の中、ネヴァット帝国軍は突撃を開始した。五万人が怒涛の勢いで、五千を蹂躙する。その先頭を駆ける騎士は長騎剣で、敵の一人を斬った。
「な、なんだ―――!?」
斬った感触の気持ち悪さに、思わず声をあげてしまう。
人間を斬ったとは思えない感触だった。まるで、腐肉を斬ったかのような―――
「っ!」
考えている間はない。ここは戦場なのだから。次の敵に剣を振るい、首を刎ね飛ばす。
「ちょろいもん―――」
「うぎゃああっ!!」
男の言葉は、彼の後ろにいた男の言葉で掻き消された。
器用に馬の手綱を操りながら、後ろを振り向き、男の体が硬直した。
首のない敵兵がネヴァット帝国騎兵に剣を振るい、騎士がもんどりうって落馬したのだ。
「そ、そんな馬鹿な―――!」
男は驚きに目を瞠りながら、騎士が落馬した辺りを見つめていた。
馬蹄に踏みにじられてしまっていては、もはや原型は留めていまい。
せめて遺品だけでも、家族に届けてやりたい。自軍は勝っている、そう信じている男はそんな余裕のある事を考えながら、舞い上がった砂塵が収まるのを待った。
「―――っ!」
再び、男は驚愕する事となる。砂塵が晴れると共に、騎士が立ち上がったのだ。
その首は明らかに普通ならば曲がらない方角を向き、左腕は肩から先が千切れており、腹は馬蹄に踏みにじられたのか、裂けて中身をぶらさげていた。そのおぞましさに、幾多の戦場を往来し、凄惨な光景を幾度も目にしてきた男ですら、吐き気すら覚えずにはいられなかった。
生きている、いや、生きているはずがない、生きていて良いはずがない。
だが、騎士は立ち上がって、右手で剣を握って、男を見つめ返していた。
「ウギャアアアア!!」
「うわあああっ!!」
おぞましい咆哮をあげて、騎士が剣を振るってくる。男は悲鳴を上げてその右腕を切り飛ばし、返す刀で騎士の首を刎ねた。だが騎士はそれでも倒れず、近づいてくる。
男はあまりのおぞましさに片手で口を覆いながら、馬腹を蹴った。
騎士から離れて、愕然と気付く。ネヴァット帝国軍がネヴァット帝国軍と戦っている。
生ある者が恐怖に歪んだ表情で死者を切り刻む。生なき者は愉悦に満ちた表情で生者を切り殺す。
殺された生者は蘇り、死者となって生者を襲う。戦いが続けば続くほど、仲間が減り、敵が増えていく。
敵を殺しても数は減らず、味方が倒されれば敵の数が増える。
五万対五千などと言う勢力差はこの際、全く意味をなさない物だった。
ルーナ帝国軍は死者の軍だったのだ。男の脳裏に、閃く物があった。死者は操られているのだ。
(誰にだ?)
そんなのは決まっている。ルーナ帝国軍の指揮官は誰だ?
「ミト………。ミト=ヴァレンツェぇっ!!」
自分がその名を呼ぶのが何回目か、考える事も無く自嘲した。今の自分の声に、まるで年来の怨敵を見つけたかのような響きを感じたからだ。だが、名を呼ぶ事を止めようとはしなかった。
怒声を放ちながら、男は馬腹を蹴った。道を塞ぐ敵を長騎剣で薙ぎ払い、男は乱戦の渦の中から外へ飛び出した。戦闘の輪の外、数人の死者に囲まれて、金髪赤目の美女が馬に跨っていた。
「ミト=ヴァレンツェぇっ!!」
戦場の空に、響く怒声。
ミト=ヴァレンツェは赤い瞳を、こちらに向かって来る精悍な騎兵に向けた。
口元に妖艶な微笑が浮かぶ。
「俺の名はシュタイン=オールドリーク!貴様の首を貰う!」
叫ぶシュタインの前に、死者たちが立ちふさがる。剣やら槍やら、雑多な武器を持った死者たち。
その着ている甲冑に、シュタインは見覚えがあった。それはネヴァット帝国軍の甲冑だった。
だがその死者たちはまるで死んでから数週間経っているかのように腐敗していた。そして、シュタインの脳裏を、帝都を出撃する前に聞いた噂が過ぎった。何でも国境を警備していた部隊が敵の奇襲を受けて全滅したと言う。その部隊はそこに争いがあったと言う痕跡は残していたが、死体は一つも残っていなかったと言う。その部隊の人数は、三千余人。
(まさか―――!)
シュタインの背筋を戦慄が走る。そして、ミトが笑う。
「私に与えられた兵の数はもともと二千だった。戦えば戦うほど、私の部下は増えるのよ。貴方はかつての仲間に剣を向けられる?」
シュタインを馬鹿にした笑みだった。そして背筋がぞっとするほどの妖しい美しさを持った笑みであった。思わず萎えそうになる心と腕を叱咤するかのように、シュタインは咆哮を上げた。
「馬鹿に………するなぁっ!!」
叫び様、シュタインが長騎剣を振るった。唸るような斬撃が死者を襲い、その体を袈裟懸けに切り崩す。
腐肉を斬る気色の悪い感触の残る剣を握り締め、もう片手で手綱を操り、シュタインは死者の壁を突破した。ミトがゆっくりと、腰の剣を抜く。無数の突起の付いた、細身の刀だった。
「ミトぉ!」
咆哮をあげつつ、剣を振り下ろす。
がきいいんっ!!
高い金属音を響かせて、長騎剣とフランベルジュが噛みあう。
「その名を呼んでいいのは、皇帝陛下だけよ」
驚くほど近くで、ミトが笑う。
その赤い瞳が、シュタインの視線を釘付けにする。
「―――っ!」
剣を引き離し、シュタインはいつの間にやら背後に回りこんでいた死者の腕を肩ごと斬り飛ばした。くぐもった悲鳴のような物を発して、死者が倒れる。
再び前を振り返ったシュタインは、今まさに振り下ろそうとされている剣を見て、ぎょっとした。
「気に入ったわ。シュタイン=オールドリーク。貴方を私の僕にしてあげる。ただの死兵としてではなく、ね」
シュタインがミトの言葉を理解できたかどうか、それはわからない。ミトの剣はシュタインの肩から腹にかけて、深く切り裂いた。真っ赤な返り血を浴びながら、ミトは笑っていた。
血塗られたその美しい顔に、恍惚とした微笑を浮かべて。ひくひくと痙攣していたシュタインの体が、どうっと落馬する。馬は悲しげな嘶きを一つ残して、いずこへともなく駆け去って行った。
戦闘は何時の間にか終息していた。戦場に立っている人間は、戦闘がはじまる前よりも、一人だけ減っていた。シュタインだけが、倒れていた。だが、戦場に居る人間達の中に、生ある者はミト=ヴァレンツェただ一人だった。五万五千人。すべてがミト=ヴァレンツェの支配下に収まったのだ。
「ふふ………壮観ね」
ミトは笑って呟くと、馬から降りた。鎖帷子がじゃらじゃらと音を立てるが、気にすることもない。
主人の意志を完璧に読み取って、死兵二人が倒れたシュタインの遺骸に肩を貸して立たせる。
肩から腹にかけてざっくりと裂けた傷口からは未だに止めようもなく血が溢れ出し、内臓が少しはみだしてすらいる。ミトはうっとりと目を細め、濡れたような唇を舌で舐めた。
手を伸ばし、シュタインの傷口に触れる。
手は瞬く間に血の色に染まり、ミトはその手を口元に運んで、血を舐めた。
「思ったとおり―――美味しいわ」
ミトは微笑んで、首にかけている首飾りを手に取った。
「古の邪心、現に現れて、死せる者に新たなる命と魂を吹き込め。《死の首飾り―ジェト》、汝の力を解き放つ。この者を我に跪かせよ。否か応か?」
『応』
低く、おぞましき声音で答え、首飾りに嵌められた宝玉が鈍く輝く。
赤い輝きだが、黒ずんだその光はなにやら邪悪な気に満ちていた。
ミトがその首飾りをはずし、宝玉の部分をシュタインの額に押し当てる。
ジュー―――ッ!
肉の焼ける音と共に、服従の印がシュタインの額に焼き付けられていく。
「ウ、ウウ………ウガアアアァァ!!」
獣のような咆哮を上げ、肉を焼かれる激痛にシュタインが白目を剥き出しにして苦しむ。
《死の首飾り―ジェト》からシュタインへ、古の邪心に汚された黒き魂が吹き込まれる。
シュー―――!
白い煙を上げて、シュタインの身を引き裂いていた傷が消えていく。
ミトは一瞬残念そうな眼差しをシュタインの傷口へと向けてから、その数倍もの期待感に溢れる視線をシュタインの顔へと向けた。宝玉がゆっくりとその輝きを減じていき、やがて、消えた。
ミトは首飾りを元の通り首に掛け直してから、シュタインの頬に指を這わせた。
「さあ、目を開けて。私の僕、シュタイン=オールドリーク」
「…………」
シュタインがゆっくりと瞳を開く。その瞳に先ほどまでの熱気に溢れる若者の姿はなく、今はただ、虚無を浮かべる瞳に、目の前の金髪赤目の主人に対する畏敬の念のみを宿す。そのシュタインの視界に自分以外の何者も映らないよう顔を近づけ、ミトはほとんど囁く様な声で言った。
「私はミト=ヴァレンツェ。貴方の主人よ」
「ミト………ミト=ヴァレンツェ様………私は、貴方様の、忠実なる、僕です」
空ろな声で、シュタインが言う。ミトは満足そうに頷いて、そして、シュタインの唇に自分の唇を重ね合わせた。微動だにしないシュタインの口内を思う様蹂躙して、ミトがようやく口を離す。
「さあ、行きましょう。帝都へ。愚かな者たちに、己の無力さを悟らせ、我らが皇帝陛下カール三世の偉大さを理解させるために」
「はい、ミト様」
五万五千の、ルーナ帝国軍死兵師団が動き出した。指揮官は金髪赤目の妖艶なる美女、ミト=ヴァレンツェ。その傍らには寡黙で従順な青年が並んで馬を進めていた。
三日後。領内を蹂躙されて、最後の頼みと帝都に立て篭もった貴族達が見た物は、帝都を包囲する数十万の死者の群れだった。
最後まで自分達の敗北を認めず、兵力を小出しにした結果、無為に敵の人数を増すだけに終わったのだ。帝都に立て篭もるのは、ネヴァット帝国軍最後の正規軍一万名と武力を持たない一般民衆三十万人。
死を恐れない死者の群れに包囲され、結論の出ない軍議に飽きた、ネヴァット帝国皇帝は降伏文書に調印。長年ルーナ帝国と対立関係にあったネヴァット帝国は、ここに滅亡した。
三十万人の兵力を誇っていた帝国軍の内、最後まで生き残ったのは僅か一万名。
軍は解散させられ、ネヴァット帝国領はルーナ帝国に併合された上で、信じられないほどの重税を課せられた。死の恐怖に戦く人々の視線の先、元帝宮の鐘楼には死を象徴するかのような《死神と鎌》のルーナ帝国国旗が風を受けて、禍々しく翻っていた。
そして、駐屯するミト=ヴァレンツェの指揮下には今尚、死して腐敗した幾十万の人々が使役されていた。魔の呪法によって、腐る事も許されずに服従の印を額に焼き付けられたシュタイン=オールドリークは主人の命のまま、重税に喘ぐ同国民を見せしめのために男ならばむごたらしく殺し、女ならば狂うまで犯した。
ネヴァット帝国民はそのルーナ帝国の苛烈な支配に、反感の気持ちを募らせたが、立つだけの気力も力も、もはや残されてはいなかった。
彼らはただ、恨めしげに、城に翻る《死神と鎌》と言うルーナ帝国の国旗を見上げる事しか出来なかったのだ。こうして、一つの国が歴史の荒波の中に飲み込まれて行った。
2 皇帝の受難 前兆
帝国暦三三二年七月十二日。
ルト=リューベンの反乱を鎮圧してから一ヶ月程の時間が流れていた。
ルーナ帝国がネヴァット帝国を併合したと言う情報はそれなりの驚きを以て受け入れられたが、そうは言っても遠い異国の話であり、フロレシア帝国の民にとって関心が高い話題とは言い難かった。
それよりも民草の関心を買っている話題と言えば、来週にも出発する皇帝ラインハルト=シーザーの友邦国ルシタニア連合王国訪問である。先の反乱におけるルシタニア連合王国王子レオン=ルシタニア殿下の尽力に感謝の意を表するために皇帝自らがルシタニア連合王国の王都スフィンを訪れるのだ。
さらに二人は義兄弟の契りを結ぶのだと言う。ルシタニア連合王国王ヨーゼフ=ルシタニアは息子から隣国の皇帝の人徳さを報告され、目に涙を浮かべて言ったのだという。
『わし亡き後、おぬしは王となり、国を盛り立てて行かねばならない。ラインハルト帝こそ、おぬしが兄と慕うべき人物である』
と。この言葉を受け、レオンはラインハルトと義兄弟となる事を提案、父王も了承し、そしてその旨を打診する使者がルーガに着いたのが六月二十日の事だった。
皇帝ラインハルトはこの申し出を大変喜び、国議もスムーズに纏まった。
貴族連盟の貴族達は良い顔はしなかったものの、反対する理由を思いつく事が出来なかった。
皇帝と次期国王が義兄弟の契りを結び、両国間の同盟関係がさらに緊密な物となる事は彼らにとっても喜ぶべき事だったのだ。さらに井戸端の奥様方の間には実しやかにある噂が流れていた。
すなわち、今回の旅はラインハルト=シーザー皇帝の御后探しの旅でもあると言うのだ。
もし皇帝がルシタニア連合王国の王室の姫君を后に迎えれば、両国の同盟はまさに一枚の巨岩の如く強固な物となろう。だが今回のルシタニア訪問はただの物見遊山ではない。
そもそもルシタニア連合王国とは連合と言う文字が意味している如く、いくつもの小王国の集まり、連合体に過ぎない。
ルシタニア王国と言う比較的大きな版図を持つ王国が中心となって連合しているため、ルシタニア連合王国などと呼ばれているが、実際の所、ルシタニア王ヨーゼフの影響力が及ぶのはルシタニア王国と言う一王国の領内だけといっても良い。
他王国の領内に関することは、大方その王国の王族に委ねられており、支配は及ばない。
そして、ルシタニア王国と連合王国の一角を担うドルク王国はその国境に跨るルテティアという豊かな実りを齎す地方を巡って、長い間領土紛争を起こしていた。
今までは平和な話し合いでの解決が図られ、何度も会談が持たれたが、両国の主張は歩み寄りを見せる事は無く、妥協はならず、遂に先月、ちょうどフロレシア帝国領内でルト=リューベンが反乱を起こしていたのと重なる時期に、ドルク王国は武力でルテティア地方に侵攻してきたのだ。
ルシタニア王国の守備隊は優れた戦闘力を持つドルク王国のヴァルツ=リバーエンド率いる獣機動部隊の猛攻によって敗北、僅か数日にしてルテティア地方はドルク王国に占領されてしまった。
それでもルシタニア王ヨーゼフ=ルシタニアは話し合いでの解決を提案し続けているが、ドルク王国側はそれを悉く拒否し、ルテティア地方のドルク王国への割譲を執拗に要求している。
現にルテティア地方は既にドルク王国の支配下にあり、話し合いでの解決は非常に難しくなっている。
それから一ヶ月間、ルシタニア王国とドルク王国は睨み合いの状態にあると言うわけである。
連合王国を構成している他の王国は今回の紛争は王国同士の私的な領土紛争と判断しており、連合王国として動く必要は無いと傍観している。
そこで、ラインハルト=シーザーがルシタニアを訪問するわけだが………。
「近衛騎士団から一個連隊千騎、第一軍からは歩兵第一師団と騎兵一個連隊………あわせて一万二千名………まるで戦争に行くみたいじゃない?」
書類に記載されている数字を見て、ラインハルトは小首を傾げ、目の前に控える宰相を見た。
ラインハルト=シーザー、輝く金髪、湛える青瞳、白を基調とした皇帝衣に身を包み、腰には豪華な鞘に収まった覇皇剣を佩く。
古の英雄フェルモア=シーザーに酷似した容姿を持つ皇帝は国民からの高い支持を得ていた。
「そんな事はありません。護衛です」
宰相オルンヘル=クリケットはにべも無く言った。
白髪混じりの黒髪に、茶色い瞳をした、ラインハルトの育ての親にして、帝国府の首魁として事実上帝国行政をその一手に握る実力者である。
その鷹の如き眼光に睨まれれば、大方の人間は反論もできずに口を噤むことしかできない。
「僕は戦争ではなく友好の為に行くんだけど?護衛と言っても、レオンは三百人しか連れてこなかったのに?」
「殿下の時のフロレシアの治安に問題は無かったが、陛下が赴かれるルシタニアは決して治安が良いとは申せませんぞ。それに、友邦とはいえ小国であるルシタニアとフロレシアでは格も違う」
「格、ねぇ………話がわからないではないけれども。それでも一万二千は多すぎると思う」
「では、どうすればよいと?」
「う~ん………」
ラインハルトは逆に問い掛けられて、唸りながら書類に目を落とす。
「アミリアの率いる近衛騎士一千、後はカーン=オルベニーの歩兵一個連隊二千五百、オットー=セルバンの騎兵一個連隊一千だけで良いんじゃないかな?」
「四千五百だけ、ですか?」
「それだけいれば、僕は安心だけど。格の違いを見せると言っても、相手に警戒感を抱かせては意味がない。友邦国は大切にしないと」
オルンヘルはふっと眼差しを和らげて、
「まあ、正直に言えば、一万二千も出すと糧食代だけでも馬鹿にならないからな。まあ、四千五百か、妥当な所だな」
「あ、父さん、また僕を試したでしょ」
ラインハルトが頬を膨らませると、オルンヘルは笑いながら手を振って、
「悪く思うなよ、俺はおまえの親であると共に師でもあるんだからな」
ラインハルトはそんな親代わりに一瞬拗ねた様な眼光を向けてから、真顔に戻って、
「レオンもきっと苦労してるんだろうね」
「ああ、殿下は今ドルク王国の部隊と対陣しているのだからな」
オルンヘルとラインハルトは揃って、執務室の窓から北を見た。
そちらの方角で、レオン=ルシタニア、あの褐色の肌に赤い瞳を持つ少年は数万の部隊を率いて、ルテティア地方を不当に占拠するドルク王国軍と対峙しているのだ。ルシタニア王ヨーゼフは争いを好まず、平和的外交努力によって解決するつもりだが、既に武力に訴えたドルク王国が果たして和平に応じるかどうか………。それはかなり微妙な問題であると言えた。
オルンヘルが去った後、ラインハルトは珍しい人物の訪問を受けた。
灰色の髪に同色の瞳、何処と無く陰惨な雰囲気を身に纏っている皇帝の直参アルンヘル=へードだ。
ラインハルトは彼に応接用の椅子に座るよう促し、シエナに茶を頼んだ。
応接用の椅子に座って皇帝と向きあったアルンヘルは緊張した素振りも臆した様子も無く、ラインハルトを真正面から見据えた。その冷酷とすら言える眼差しに居心地が悪くなったラインハルトは、シエナが淹れてくれたお茶に手を伸ばした。
「今日はお願いしたい事がありまして、僭越ながらも御謁見を願った次第です」
「あ………そうなの」
どうも苦手だ。鋭い眼差しと言う点では諜報部隊暁を束ねているエシュアもそうだが、このアルンヘルと言う男には鋭いと言うだけでは言い表しきれない、不気味さがあった。
結局ラインハルトは茶を取らず、伸ばした腕を引っ込めて、
「えと………それで?用件と言うのは?」
「陛下は民を殺す事が好きですか?」
「好きな訳ないじゃないか!」
アルンヘルの突然の問いの意味はわからなかったが、反射的にラインハルトは声を荒げていた。
アルンヘルはすっと瞳を細め、僅かに頭を下げて、
「申し訳ありませんが、いくつか失礼を承知で質問することをお許し頂きたく」
「う………うん、わかった」
激昂した事を恥じるかのように、ラインハルトが頷く。
アルンヘルは再び真正面からラインハルトを見つめて、
「陛下は覇皇フェルモアの後継者としてこのラスカーナ大陸に統一国家を築こうと成されている………間違いはございませんか?」
「ないよ」
「民を殺さず、敵を許し、誰も殺さず、皆仲良く………。それは真に結構な事ですが、それで覇道を進む事ができましょうや?」
「えっと………つまり、奇麗事だけじゃ何も出来ないってこと?」
「さすがは陛下、聡明でいらっしゃる。その通りです。奇麗事だけで、物事が進むと考えているなら、覇道は残念ながら成し遂げられませんでしょう。これは、民を騙し、反逆者を騙して、結果的に被害を最小に抑えて我々の反乱を鎮めなされた陛下ならばよくお分かりの事と存じますが」
「う………うん」
(ひ、皮肉、だよね………今のは)
「物事は奇麗事だけでは進まない、影の仕事が必要になってきます。しかし、陛下自ら闇に手を染められるのはよろしくない。皇帝陛下たるもの、清廉潔白、品行方正である方が民の人気も高まると言うもの」
「それで?」
「単刀直入に申し上げましょう。汚い仕事はすべて私が引き受けます。汚名はすべて私が被り、陛下は品行方正なまま。これが、大陸統一への最短距離です」
「汚い仕事………を君が?」
「はっ」
言って、頭を下げるアルンヘル。
ラインハルトはしばらくの間空を見つめて考えたあと、頷いた。
確かにアルンヘルの言う事は正しい。陰と陽、世の中はこの二つで動いている。
そして、ラインハルトの周りに裏の仕事を任せられる人間が果たしているであろうか。
エシュア、ぐらいなものだろう。アレクやハーンは陽こそ相応しい。
宰相であるオルンヘルもまたしかり。アルンヘル=へード以上の適任者はいない。何しろあの反乱時にも、ルト=リューベンの懐深くにありながら機を見るに敏にこちらにも誼を通じ、見事に帝都を反乱軍の暴虐から守った、その功績は大きい。もちろん、信用するには危険すぎると言うのも事実だが。
「わかった。アルンヘル=へード。余への謁見手続きを免除するから、何かあればすぐに知らせて」
「はっ」
「それで、まずはなにをする気なの?」
皇帝の質問に、アルンヘル=へードは鋭い眼差しを和らげ、口元ににたりと笑みを浮かべて見せた。
「まずは体内の毒素を消し去ります」
「………うん」
「では、私はこれで」
アルンヘル=へードは一礼して立ち上がると、部屋を出て行った。
(まずはお手並み拝見と行こうかな………)
扉が閉まるのを見届け、お茶に手を伸ばす。
「エシュア。彼の行動から目を放さないように、ね」
「はっ」
姿は見えず、声だけが返ってくる。だが、それで十分だ。エシュアなら十分な手を打つだろう。
満足して、麗しき皇帝はお茶を啜るのだった。
その建物は帝都の下町に建てられていた。聖堂だ。ロデンの神はすべての民に救いを齎す。
ステンドグラスから入ってくる光に照らされて、神の彫像が浮き彫りになる。
青い神官衣を着た長身で細身の男が、礼拝堂に一人で立ち尽くしていた。
手には彼が高位聖職者である事を示す司教杖が握られている。ヤヌス=ロッホ、それが彼の名前であり、ロデン教フロレシア大聖堂神官長、それが彼の肩書きであった。法皇レナード=クリプセス=ロデン18世の腹心として、彼はロデン教の理想のために日夜働いている。
「大神官殿」
呼びかける声に振り返れば、黒い法衣を着た背の低い男が、礼拝堂に入ってくる所であった。
異端審問軍、デ=ヴァレラ。
聖堂の陽の武力である聖騎士と対比され、彼らは闇の武力とされ、決して表面に出てくる事は無い。
「―――あの者は?」
大神官の問いに、男はにやりと口元を歪めた。
男の顔には至る所に傷があった。それが彼の人生が平坦な物ではなかった事を示している。
「依頼を受けました」
「………。そうか。あの者が我らの協力を請うてきた」
「ほう………なんと?」
「玉座に座す者を殺せ、と」
「それはそれは。それで、その者が新たな玉座に座す、と?我らが神は何を得るのですかな?」
「フロレシア帝国内での政府不干渉」
「ほう………我らが神の理想を理解しているかのような提案ですな。その者は入信しておるので?」
男の瞳に、茶化すような色が浮かんだ。
大神官は男のその表情が嫌いであったが、表に出す事はなく。
「己が神だと思っているのだろう」
「そりゃまた随分と思い切った邪教徒で。改心させなくてよろしいので?」
「構わん。鋼鉄の処女は処女のままで良い」
「どっちにしろ、あいつの膜は破れませんけどね」
「教皇庁からも命が届いた」
「なんと?」
「―――かの者に協力せよ」
「協力?………利用ではないのですかな?」
デ=ヴァレラは口元に笑みを浮かべたまま、上目遣いでヤヌスを見た。
ヤヌスは不快気に唇を引き締めて、
「おしゃべりはここまでだ。準備しろ。報告に来る必要はない。必要なのは結果のみ。全ては神が見届けてくださろう」
「はっ」
黒衣の神官が消えると、青衣の神官は神の立像を見上げて、祈りを捧げた。
「ロデンの神の加護が我らにあらんことを」
神は二つの顔を持っている。
左の顔は、慈悲と温情、温かい母にして、平和の象徴。
右の顔は、憎悪と軽蔑、厳しき父にして、争乱の象徴。
左手には知識を象徴する書を持ち、
右手には武力を象徴する鉾を持つ。
仁王立ちしたその背後には、鮮やかな炎が立ち昇り、
炎はやがて風となり、雲となり、恵みの雨となって大地を潤す。
全知全能なる神はすべてを生み出し、すべてを破壊する。
その灰の中から蘇る者は神の御心に適った者、すなわちロデンの信徒のみ。
神を信じぬ愚か者や邪教に心染められし者たちに救いは訪れず、待つは死のみ。
神の元に人間は平等であり、支配者は神のみであり、人間の支配者は要らない。
だからこそ、皇帝は抹殺されるべき存在なのだ。
青い衣を着た大神官はその神の像を見上げ、胸の前で手を組んだ。
「我らが所業、神の御心に適う事を願う。ロデンの神よ、聖なる神の信徒に、暖かき慈悲の心を持って、加護を」
大神官の祈りを聞き届けるのは、神の左半顔か、それとも右半顔か。 「罪深き皇帝に、死の鉄槌を下されん事を」
ラスカーナ大陸は動く。動かすのは何も政治家や軍人だけではない。
聖職者もまた、歴史の担い手なのだ。
専ら、影の。ロデン教がさらなる宗勢を誇るために、犠牲はいくら払っても構わない。
それが無辜の民であろうと。それが皇帝であろうとも。全ては神の御心の為に。
3 刺客
帝国暦三三二年七月十三日。
「今日は何処へ行くの?ライン」
ラインハルトが皇帝の外出着に着替えるのを手伝いながらシエナが問う。
「今日はちょっと城下の有力商人の家で昼食会があるんだよ、それに招かれたんだ」
「昼食会?」
「ああ、まあ、多分商談込だけどね」
薄く笑いながら、ラインハルトは言った。執務室を出た彼を、久しぶりに見る男が待ち構えていた。整った顔立ちをした背の高い男だが、その体からはぷんぷんと女物の香水の香りが発散されている。久しぶりに見る兄代わりの人物の登場に、ラインハルトが瞳を輝かせる。
「シオン卿!………また朝帰り?」
「いや、今朝は家に帰れなかった。それよりもだな、おまえのそれについて話しがある」
シエナの実兄であるシオン=クリケットはにたり、と笑って、ラインハルトの腰にある《覇皇剣-サナトゥス》を指差した。実は卿は女性と同等か、或いはそれ以上に武器類が好きなのだ。その癖戦争は嫌いなのだから不思議な男だ。
「これは譲れないよ」
警戒した目つきで腰の剣の鞘に手を置くラインハルト。シオンは舌打ちを一つ漏らしてから、
「とりあえず、今日はその話しじゃない。おまえ今度ルシタニアに行くんだろ?」
「う、うん」
「あそこは今戦争になりかかってる。いや、ルシタニアが認めてないだけで実は戦争状態だ。そんな国に行けばおまえさんがその剣を振るう可能性も無きにしも非ずって訳だ」
「うん。できればそんな事にはなって欲しくないけどね。覚悟はしておくつもり」
「だからその剣の事について教えてやる。俺も忙しい身だ。一度しか言わないからきっちり覚えろよ」
「わかった」
自分の命にかかわる問題なので、ラインハルトも真剣に耳を傾ける。
「その剣に封じられてる精霊はサナトゥス。破壊神とも呼ばれるとんでもねえ化け物だ。んでもってそんなどえらい精霊が封じられたその剣にはいくつも異名がある訳だが、その中の一つに聖魔剣という物がある。聖剣であり、かつ、魔剣であるという意味だ」
「聖剣であり、かつ、魔剣でもある?」
それは矛盾と言う物だろう。ラインハルトが理解していないのを見て取ると、シオンは嬉しそうに目を細めた。人の知らない事を自分が知っていて、それを他人に教える。それは快感だ。
「これの意味してる事は重要だ。要はどんなに強力な武器だろうがそれを使うのはちっぽけな人間に過ぎないって事だ」
「どういうこと?」
「強力な力を持っているがゆえに、それを使う者の心構え一つで世界を壊す魔剣にもなれば、大切な者達を守る聖剣にもなりえるってことだ。だから、ライン。この剣を殺人のために使うな。この剣の真の力は―――」
シオンの瞳が真剣味を帯びる。ラインハルトもごくり、と喉を鳴らして、次の言葉を待った。
「大切な者を守る時だけ、力を解放しろ。それ以外では一部の力を呼び覚ますのは良くても、完全に目覚めさせてはならない。じゃないと大変な事になる。覚えておけよ」
ラインハルトはその言葉を静かに、胸の内に刻み込んだ。
皇帝と言っても、もはや貨幣経済が浸透しているこの時代においてはその権力は絶対ではない。
いくら玉座にふんぞり返っていたとしても、武器などを買うためにはお金が必要なのだ。だから、商人と言うのは何処と無く皇族を大規模な顧客程度にしか考えていない節がある。とは言うものの、臍を曲げられて武器を売って貰えなくなって困るのはラインハルトの方なのだから、商人の中でも大きな財力と力を持っている有力商人からの誘いを無下に断るわけにはいかないのである。そして、フロレシア帝国内でも有数の有力商人であるギルト家の当主、ディハン=ギルトの誘いによって、彼は財務尚書のウェンヒルグ=ローレンスと共に、ヴァンを護衛として、ギルト家の屋敷を訪れたと言う訳である。何処と無く狡猾そうな顔をしたディハン=ギルトは、にこにこと笑みを浮かべて、客人たちに挨拶回りをしながら、ラインハルトの元にやってきた。
「これはこれは皇帝陛下、良くぞこのような卑しき身分の者の屋敷にお越し下さいました。」
「いや、余の方こそ招待してくれてありがとう。謙遜する事は無いよ、実に素晴らしいお屋敷だ。先ほど庭園を見せて頂いたが、実によく手入れされているね」
「お褒めのお言葉、恐悦至極に存じ上げます」
ギルト家の敷地は並の貴族以上に広大だ。庭園は確かによく手入れされていて、池には色鮮やかな鯉が泳いでいた。立食式の昼食も華やかな物で、料理も豪華だ。招待されている客も、帝都の名士や貴族などで、まるで上流階級の社交界のようだった。
「フロレシア帝室には我々ギルト商会創業以来大変御世話になっておりまして。先帝陛下の不慮の崩御には心より哀悼の念を抱くものであります。また新皇帝ラインハルト陛下におかれましては、即位早々の反乱騒ぎを鎮圧なされ、我らがフロレシア帝国も益々の繁栄を約束されたようなものと心よりお喜び申し上げる次第です」
「ありがとう。でも、余はまだまだ未熟者だからね、でも貨幣経済が発達してきた今となってはもう権力のごり押しではなく、商家の方々との友好が非常に国家にとって重要であると考えているよ」
「さすがはラインハルト陛下、御先見の明にはこのディハン=ギルト、感服いたしました。何卒、末永いお付き合いをお願いいたしたき次第です」
「うん。余の方こそ宜しく」
「それでは、ごゆるりとお楽しみくださいませ」
「ありがとう」
ギルトが離れていくと、ウェンヒルグは骨付き肉の身を丁寧に解しながら、
「お気をつけくださいませ、陛下。ああいう輩は抜け目ないですから」
「わかってるよ、男爵。まるで狐の化かし合いだね」
(居心地悪いや) 心の中で呟くと、ラインハルトは骨付き肉にそのまま、齧り付いた。
ギルトは会場を抜け出すと階段を登り、二階にある一室に入った。そこには一人の女が待っていた。鋭い顔立ちに、複雑な輝きを宿した黒い瞳。二の腕の半ば、太股の半ばまでを覆う黒い戦闘服を着込んでいる。二の腕には、鉤十字の紋章が彫り込まれていた。
「準備は整っているな?」
厳しい顔付きで、ギルトが問う。女はギルトを上目遣いに見て、
「―――はい」
頷く。従順な態度ではあるが、愛想と言う物は全く欠如している。
「いつ実行するかは任せる。私の仕事は皇帝を呼び出す所までだからな」
「―――はい」
(聞いてるのか?)
女の態度にそんな印象を受けつつ、ギルトは部屋を出た。その表情は険しい。
(ったく、案外と話しのわかりそうな男じゃないか。聖堂の馬鹿どもが………。何も殺す必要はあるまいに。いっそのこと皇帝陛下に密告………いやいや、いくら皇帝でも連中には勝てまい。ここで一時の感情に流されれば、営々築いてきたギルト商会を潰す事にもなりかねん。聖堂の連中には従っておいた方が吉、か)
ロデン教の愚か者の考えの浅はかさにかすかな憤りすら感じたが、すぐに表情を元に戻して、
何食わぬ表情で昼食会場へと戻るのであった。
宴もたけなわとなった頃、ラインハルトは軽い尿意を覚えた。
一度厠に行っておいた方が良いだろう。
「男爵、余はちょっと厠に行って来るから」
「あ、はい。わかりました」
会場を抜け出す皇帝の姿を、ギルトは貴族と話しながら横目で見つめていた。
「いやぁ、なんだか御腹一杯だよ。ヴァンは?」
「―――八分目です」
「でもヴァン、まさか厠の中にまでついてくるって事は無いよね?」
「―――はい」
「それにしてもこの廊下、長いね」
厠は廊下の突き当たりにある。いくら大きな屋敷の主となる廊下とはいえ。
いくらなんでもこれは………。廊下の向こう側が霞んで見えないと言うのは、どうなんだろう。
「―――陛下」
「ん?」
ヴァンの声が一段と低くなる。振り向いたラインハルトはヴァンのエメラルドグリーンの瞳が鋭く細められているのを見た。
「―――不味い事になりました」
「まずい?」
ヴァンがまずいと思う状況とは一体どんな状況なのだろうか?
「これは結界です、閉じ込められました」
状況を説明し、剣を抜くヴァン。
「結界?閉じ込められた?」
「陛下の御命を狙う刺客でしょう。御安心ください。賊には指一本触れさせません」
「う、うん」
シュッ―――カンッ!
「―――え?」
何が起こったのかわからずに目をぱちぱちさせるラインハルト。背後から飛んできた小型のダガーをヴァンが剣で弾き落としたのだ。その一撃だけで敵の隠れている場所を察知し、ヴァンが跳ぶ。
見た限りでは何の変哲も無い壁に、渾身の一太刀。空間が歪み、黒い戦闘服を着た女性が現れた。
ヴァンに居場所を察知され、隠れている利点が無くなった為に姿を現したのか、それとも隠れていてはヴァンの攻撃を避ける事が出来なかったのか。
姿を現した女は二の腕の半ばと太股の半ばまでを黒い戦闘衣装で包み、首には蛇が自分の尾を咥えているという構図の首輪をしている。両手には刃が黒く塗りつぶされた短剣を握っていた。
露になっている二の腕には鉤十字の紋章が刻まれていた。
「その紋章………ハーケンクロイツ孤児院の」
普段、全く感情を表に出さないヴァンだったが、珍しくその声には驚きの表情が浮かんでいた。
女の方も鋭い瞳を多少動揺に瞠り、
「なんでその名を知ってる………?」
「…………」
ヴァンは無言で、自分の服の袖を捲って、二の腕を見せた。
「!」
ラインハルトはヴァンの二の腕に彫られてあった紋章と女暗殺者の腕にある紋章を見比べた。
「同じ………鉤十字」
「なっ………おまえも、ハーケンクロイツ孤児院の出なのか?」
「そうだ」
いつもの表情に戻って、ヴァンは女を真っ向から見据えた。
「ハーケンクロイツ孤児院の出身者は家族も同然だ。殺したくない。ここは退け」
真摯な口調での願いだったが、女は一笑に付した。
「あそこの出身者がそんな事を言うなんてね。良くそんなんであの最終試験を生き残れたわね」
「―――答えは?」
「決まってるでしょう。私達の存在意義はハーケンクロイツ孤児院の名を挙げる事。私は今まで、暗殺の任務に失敗した事はない。そしてそれはこれからも同じ」
「―――ならば仕方ないな」
ヴァンの瞳に、複雑な色が浮かぶ。殺したくは無い。だが、殺さねばならない。
それが―――。
『お前達の出来る事は人間を殺す事だけだ。なぜなら、人間を殺すための教育しかしていないからだ。お前達の存在意義はハーケンクロイツ孤児院の名を挙げる事。それ以上でも以下でもない。ここを卒業し、お前達を買う者が何者であろうと、お前達の為すべき事に変わりは無い』
孤児院で、彼を育てた男が口癖のように口にしていた言葉だ。
「陛下。下っていて下さい」
「う、うん」
大人しく下るラインハルト。ヴァンの声に、普段は感じられない緊張の色を感じ取ったのだ。
先に動いたのは女だった。床を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、頭上からヴァンに一撃を放ってくる。
人間とは思えない、獣の如き敏捷さだ。
「くっ………」
ヴァンは無理にこの攻撃を受け止めようとはせず、無難に一歩退いて回避した。
着地し、両手両足を曲げて、床に張り付いたかのように見えるほど身を低くした女が、弾かれたように飛び出してくる。速い。今度は避ける事が出来ず、ヴァンは剣を振り下ろした。
女はこの斬撃を右手に持った短剣で受け止め、そのまま左手の短剣を突き出してくる。
ヴァンは何とか身を捻り、この一撃を回避する。そのまま回転の力を利用して、肘鉄を女に食らわせる。
頬に一撃を受け、女が弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
「くはっ………」
ヴァンは荒い息を吐きながら構えを取り直す。
「退け」
「まだ言うか!」
女は予備動作もなく壁から跳び、ヴァンに襲いかかった。
だが、多少のダメージはあったのか、その動きはヴァンが容易に反応できるほどの物だった。
(それとも、動きに慣れたか………)
敵の速度にもすぐに慣れる事ができるよう、訓練してきたのだ。
突き出されてきた二本の短剣を、ほぼ同時としか思えぬ動きで叩き落とす。
「なっ―――」
女が驚愕の息を漏らす。その無防備になった胴体に剣を振り下ろそうとして、ぴくっとその手が止まった。脳裏に浮かんだのは一人の少年の顔だった。
もう何年も思い出した事のない顔だった。その一瞬の間に、女はヴァンの攻撃範囲から離脱していた。
「何故殺さなかった!」
女は顔を赤く染めていた。屈辱の怒りに、血管が裂けそうだ。
「…………」
ヴァンは渋い顔をして、沈黙していた。
「貴様はいつか殺す!必ず!」
宣言し、女が首輪を外し、掲げた。
「蛇身環!」
すると環の内側から白い光が溢れ、世界を塗りつぶした。
「うわ!」
思わず悲鳴を挙げるラインハルト。やがて光は弱くなって行き、目を開くとそこは普通の廊下に戻ってきた。ラインハルトはふぅ、と一つ嘆息を零す。
「と、とりあえず………助かったみたいだね」
「―――はい」
短く頷くヴァンはいつもの彼に戻っているようだった。
聞きたいことは幾つもあった。しかし、先ほどのヴァンの様子を見ている限り、安易に触れて良い話題とも思えなかった。
数瞬迷ったラインハルトだったが、軽く首を竦めるようにして呟く。
「じゃあ戻ろうか」
「―――陛下」
「な、なんだい?」
「―――厠は宜しいので?」
「あ………引っ込んじゃった」
4 ハーケンクロイツ孤児院
「や、止めてくれ、ヴァン!俺達は、俺達は友達だろ!?」
少年が叫んでいる。
目に涙を溜めて。
ヴァンはまるで感情を宿していないかのようなエメラルドグリーンの瞳をその少年に向けた。
少年。
まだ十歳にもなっていないだろう。そして、それは自分も同じだった。
そして、自分の手中には一本の剣が握られていた。
そして、自分の足元には一本の剣が転がっていた。
少年が先程まで振るっていた物を、ヴァンが弾き落とした物だ。
「どうした、ヴァン。敵の命乞いになど耳を貸すな」
声は背後からした。重く、厳しい声。振り返らずともわかる。
ここに来てから、ずっと彼を教育していたものの声だ。
ここ。ハーケンクロイツ孤児院に来てから。
ここに来た始めての日の事を、ヴァンは思い出していた。
「ここが今日からお前の家になる」
男に手を引かれ、連れて行かれた先、これから彼が過ごす事になるその建物は古ぼけた聖堂だった。
『家』。自分には家があったはずだ。ここではない。家族の居る家。
だが、今はもう無い。
彼は売られたのだ。他の家族が生きて行く為に、末の子である彼は売られてしまったのだ。
この国では良くある話だった。むしろ五歳になるまで育ててくれた両親に感謝しなければならないほどだろう。最後、目に涙を浮かべながら男の手に自分を委ねた母の顔を忘れる事はない。
「こっちだ。付いて来い」
男に連れられて、裏庭へと回った。
「な―――」
そこで行われていた凄惨な光景に、思わずヴァンは声を漏らしていた。
そこでは彼ともそんなに年の離れていない子供達が………殺し合っていた。
血だらけになりながら、それでも小さなナイフを振りかざして、戦っていた。
そんな子供達の外側には薄い笑みを浮かべた大人達。
「ほらほら、どうした!早く殺さなきゃ自分が殺されるんだぞ!」
一人の女の子が、泣き出してその場に蹲ってしまった。
「もうヤダ、もうヤダよぉぉぉ、お家に返してよぉぉ!」
女の子の泣き声に、他の子供達も戦うのを止める。
「おいおい、面倒掛けるなよ」
大人はそう言って、女の子の三つ編みにした髪を掴んで、引き起こした。
「いたいいたいいたいっ!!」
「うるさい!」
泣き叫ぶ女の子の頬を、大人が引っ叩く。
ぱぁんっと乾いた声が響き、女の子は泣くのを止めた。
大人はそんな女の子の顔を覗きこんで、
「もうヤダってのは、この訓練を止めたいって事か?ん?」
「…………」
女の子はふるふると震えながら、何も言わない。
大人は女の口元に耳を寄せて、
「ああ?言って見ろよ。訓練を止めたいって言うなら止めさせてやっても良いんだぞ」
「や、止めたい………」
「ん?聞こえないな………」
「駄目だ!言ったら駄目だ!」
子供達の一人が叫ぶ。
だが、女の子は………
「止めたい!私、もうこんなの嫌!お母さんとお父さんの所に返して!私をお家に―――」
ボキッ………。
そんな音と共に、それまで喋っていた女の子の首ががくりと力を失った。
「あらあら、死んじゃった。止めたいなんて言うから、生きるのを止めさせてあげました」
大人は笑顔で、一人の女の子を殺したというのに、笑顔を浮かべて、そして女の子を地面に落とした。
先程まで生きていた肉の塊が、地面の上に力無く横たわる。
大人はその女の子の頭を靴で蹴って、顔を子供達に向ける。
「―――さて、さっき『駄目だ』なんて言ったのはどの子かな?」
ヴァンはその大人の笑顔に、吐き気を催した。
人の死をなんとも思っていない、そんな笑顔だ。
子供達が自然に道を開け、大人の前に一人の子供が進み出た。
気の強そうな少年だった。
大人を真っ直ぐ睨み付けて。
「なんで殺す必要があったんだ!」
「良い質問だねぇ。ちょうど新入り君も居る事だし。説明しちゃおう」
大人はヴァンをちらりと見てから楽しそうにそう言うと、上着の袖を捲って見せた。
二の腕に鉤十字が彫られていた。
「この紋章はこの孤児院、ハーケンクロイツ孤児院の紋章でぇす。どうだ?格好良いだろう。おまえらの腕にも刻まれているだろ?それに新入り君。後で君にもこの刺青をしてもらいまぁす。と。この紋章はこのハーケンクロイツ孤児院出身と言ういわばブランドの印なんでぇす」
「ブランド?」
少年が眉間に皺を寄せる。
大人は楽しそうにふふんと鼻を鳴らして、
「この孤児院は世の中で生きてる価値の無いおまえらみたいな孤児に生きてる意味をあげようという素晴らしい慈善組織なんですねー。ここの卒業生は貴族の私兵や傭兵団に買われ、活躍するんです。君達が社会に出た後に社会貢献できるよう訓練するのがこの孤児院の目的なんです。わかった?理解できた?んで、君。君は失格です。なんでかって?上官の行動に疑問を挟むような人間は社会に出た時に役に立たないからです。良い機会だから俺達に逆らったらどうなるかも教えてあげよう。今日は特価大放出だね。逆らったり、訓練で気を抜いたりした人は―――こうなります」
大人が何をしたのかまるでわからなかった。
しかし、次の瞬間、あの気の強そうな少年の首がごろりと地面に落ちて。
断面から物凄い勢いで赤い液体が噴き出し始めて。
「さあ―――それでは、殺し合い再開でぇす。気を抜いたらこうなるから、気をつけようねぇ」
大人の号令で、再び子供達は殺し合いを始めて………。
皆必死の形相。泣きながら。叫びながら。謝りながら。
必死の形相で、友達を殺していく。殺していく。殺していく。
血。血。血。悲鳴。悲鳴。悲鳴。
そんな殺し合いを見て、大人たちはにやにやと笑う。
ヴァンにとっては初めて見る『地獄』だった。
だが、その『地獄』はすぐに彼にとっての『日常』となった。
「ヴァン=ブレイス。お前も落第者か?」
背後から浴びせられる言葉に、ヴァンは我に返った。
目の前では先程の少年が身を起こそうとしているところだった。
そのまま、ヴァンの足元に飛び込んでくる。
その手がヴァンの足元に転がっていた剣を掴み………。
片手で地面を弾き、体を起こし、同時に剣を突き出してくる。
ヴァンはその剣先の軌道を見極め、最小の動きでこれを回避する。
少年は子供とは思えぬ速さで身を捻り、肘打ちを打ち込んでくる。
ヴァンは掌でこれを抑えた。
少年はさらに体を浮かし、強烈な蹴りを放ってくる。
ヴァンはこの蹴りを体を捻って避けた。
同時に少年の手首を掴み、地面に叩き付ける。
「殺せ」
背後の男の一言。
ヴァンは剣を振り上げ、振り下ろした。
貫く。
少年は心臓を一突きにされ、かっと目を見開いた。
そのまま体を震わし、動かなくなった。
「…………」
ヴァンは剣を抜き、周りを見回した。
聖堂の裏庭には、二十人余りの少年少女が血塗れで倒れ伏していた。
この数年間、共に同じ鍋から食事をし、枕を並べて眠り、机を並べて学び、肩を並べて戦った者達だ。
立っている子供は彼一人だけだった。
「見事だ。ヴァン。やはりおまえが残ったな」
子供達全員で殺し合い、生き残った者だけがこの地獄から外の世界に出る事が出きる。
それが、このハーケンクロイツ孤児院の卒業試験なのだ。
生き残った者だけが、卒業できるのだ。
そして、ヴァンは全ての友人を殺し、一人残ったのだ。
最後に殺した少年は親友だった。
その親友を自分の手で殺してしまった。
だが、感情には何の変化も無かった。
涙はとうの昔に枯れた。
吐き出す物も、もはや何も無い。
体中を流れる血は完全に冷め切り、心は鋼鉄の鎧を着込んでいる。
「おまえはここを卒業する。この学び舎で学んだ全ての技術を用いて、ハーケンクロイツ孤児院の名を挙げよ。それだけがお前の生存意義だ。この意義を果たせないのならば死ね。だが、安心しろ。この意義を果たすためにのみ、お前はこの三年間、ありとあらゆる戦闘術を学んだ筈だ。そして、その技術を己の血肉としたからこそお前は今ここに生きて立っていられる」
男の言葉は、ヴァンの心に何の変化も齎さなかった。
唯一つ、ヴァンが気に掛ける事は。
「―――私を買うのは誰です?」
それだけだった。友の死に何の関心も示さない。そのエメラルドグリーンの瞳には、何の感情も浮かんではいない。ただの、殺戮の為にだけ生きる機械。それがヴァン=ブレイスと言う存在だった。
「お前を買うのは、オルンヘル=クリケット伯爵だ」
「…………」
何の感想も示さない。
別に誰に買われようとも、する事に変化があるわけではないのだ。
―――いや、ヴァン=ブレイスができる事など一つしかないのだ。
彼にできる事は、人の命を奪う事だけなのだから。
「私がお前を買ったオルンヘル=クリケットだ」
「…………」
帝都の貴族区画にある、一軒の邸宅。
その奥まった主人の書斎で、ヴァンはこの屋敷の主と向かい合っていた。
黒々とした黒髪に、ほんの数本、白い物が混じっている。年の頃は四十代前半ぐらいだろう。鷹のように鋭く、隙の無い視線をしている。
男は椅子に座り、ゆったりと背凭れに凭れていた。
「―――ハーケンクロイツ孤児院の卒業生は優秀な人材が多く揃っている事で有名だからな。お前を買うのにも苦労した。何しろあそこの卒業生は一年間に一人しか輩出されないからな。おまえは何ができる?」
―――何ができる?
何をわかりきった事を………。
ヴァンはエメラルドグリーンの瞳に僅かながら、侮蔑の色を浮かべた。
「殺人です」
「ふむ。人を殺す………と。何の為に?」
「理由など関係ない」
「ふむ。人を殺すのが好きだという事かな?」
「好きな訳無いだろう!」
思わず、ヴァンは執務机の上に身を乗り出していた。
オルンヘルは口元に微かな笑みを浮かべて。
「ならばお前には暫く裏庭で農作業でもして貰おうか」
「な!?」
「裏庭にそこそこの規模の家庭菜園を作っているのでな。世話をしていた翁が先日セベリウンに住んでいる孫夫婦に頼まれて同居するため、セベリウンに行ってしまったので、人手が足りなかったところなんだ」
「誰かを殺すために買ったのではないのですか?」
「殺したいと思う人間はいるが、殺そうとは思わないな。それに、お前を買ったのはお前の剣の腕前を買ってからであって、殺人術を買ったわけではない」
「なんで農作業なんか―――!」
「ハーケンクロイツ孤児院では、命の価値とは重かったか?」
「っ―――」
詰め寄ろうとした勢いを削がれ、しかも意表を突く質問をされ、ヴァンは口ごもった。
「命はハーケンクロイツ孤児院の名を挙げるという目的の前には塵よりも軽い存在でしかなかった。違うか?」
「…………」
「まずお前には命の価値を学んで貰う」
「―――命の価値?」
「そうだ。いつになるかはわからないが、お前にはある人物の護衛を務めて貰う」
「護衛………」
それまで習ってきた剣とは全く違う。
人を殺すための剣を習ったのに、実際に使うのは人を護る為の剣。
「そう言う訳だ。まずは雑草取りから始めてくれ」
それが、十年程前の話しになる。まだヴァンは、僅かに十歳の子供でしかなかった。
「…………」
深夜だ。空を見上げれば、月が出ている。銀色の光が、降り注いでいる。
ルーガ城の屋根の上。
ヴァンの足元には黒衣に身を包んだ男が断末魔の表情で倒れていた。
一刀の元に切り伏せられた、皇帝の命を狙う刺客の亡骸だ。
ヴァンは血塗れた剣を、男の黒衣で拭い、鞘に収めた。
屋根から、窓を伝って、室内に入る。
そこは皇帝の寝室だった。
豪奢な寝台では、若き皇帝が静かな寝息を立てて寝入っていた。
ヴァンは何事も無かったかのように、窓辺に用意してある椅子に座った。
人を殺すための剣を、人を守るために使う。
だとしても………。
結局彼がしている事は、人の命を奪う事なのだ。