覇皇伝
第三章 覇皇
第三章 覇皇
1 覇皇の剣
フロレシア帝国建国の父、フェルモア。真紅の剣を持ちて諸族を討ち、ラスカーナに永久の楽土を築く。諸族、彼の者を慕いて、覇皇と称さしむ。
《ラスカーナ史書 第十五巻 第三章 第三節より》
「フロレシア帝国が覇皇フェルモアによって建国されて、三百余年、か………」
「―――は?なんと申されました?」
「いや。なんでもないよ、男爵」
ラインハルトは自分の呟きに振り向いたウェンヒルグ財務尚書の怪訝そうな顔に向かって笑って言った。三百年の間に、皇帝の座に就いた者の数は彼で十五人目。
だがその中に、宝物庫の中身を売りさばいてその売上金を民に分配しようとするなどという気前の良い王が居ただろうか。
否、そのような王は居ない。略奪する王ならば数多居たのだが。
(この御人は今までの皇帝陛下とは違うかもしれない………)
淡い期待に胸躍らせながら、ウェンヒルグは皇帝を宝物庫へと案内した。
宝物庫は城の地下深く、巨大な空間を占めて存在している。
その扉は巨大で、かつ頑丈であり、しかも皇帝の血を引くものにしかその道を開かない。
皇帝が宝物庫の検分を言い出した時は驚いて思わず『陛下自ら御足労頂かなくても―――』などと言ってしまったが、そもそも、皇帝が居なければ、宝物庫に入る事すら出来ないのだ。
「―――さ。陛下、こちらに御手を」
「あ………うん」
扉の大きさ―――ラインハルトの身長の三倍以上―――に圧倒されていた皇帝が、ウェンヒルグの指し示す小さな台座に手をかざす。
茫っ………。
淡い光が溢れ出し、ラインハルトの右腕、そして全身を包み込む。
何処と無く暖かさを感じる光に包まれて、ラインハルトは目を閉じる。
―――汝、フェルモアの血を引く者か?
「いかにも。余の名はラインハルト=シーザー。覇皇フェルモアの血を引くものなり。幾百年の間扉を守る事を宿業付けられた精霊よ。我が命に答え、扉を開け」
―――諾。
扉を守る精霊が答え、光が消える。
待つ事数瞬、いや、待つほどの事も無く、扉の中央に縦に亀裂が走り、それが左右に分かれていく。
完全に開ききった扉の向こう側の世界に、ラインハルトは我知らず息を呑んでいた。
黄金、白金、白銀、銅………ダイヤモンドにルビー、サファイヤにエメラルド、オパールにクリスタル、さまざまな時代の、さまざまな国の金貨、銀貨、銅貨、ロデン教や虐げられている民族宗教の黄金作りの偶像、豪華な装飾の武具防具馬具、絵画、装飾品の山………。
想像通り、いや、想像以上の黄金の山、山、山………。
「す、すごい………」
「―――さ、陛下、入り口付近にあるものはただの黄金に過ぎません。もそっと奥へ」
「あ、うん」
ウェンヒルグの後について、奥へと向う。
目が痛くなるほどの黄金の山を廻り、銅貨の原を歩く。
「―――このあたりにある物はすべて、先帝陛下が国内や遠征先で手に入れられたもの。すべて売ってよろしいですかな?」
「あ………うん。先祖代々の継承品以外は全部良いよ」
「畏まりました」
頭を下げたウェンヒルグが、持参してきた羊皮紙に何かを書き込む。
「………?」
「どうかなされましたか?」
突然、関係の無い方角へ首を振って顔をしかめているラインハルトに、ウェンヒルグが声をかける。
「気のせいかな………誰かが余を呼んでるような気がするんだ」
「財宝の中には意思を持つ物もあると聞きます。魔性の言葉には、耳を傾けなさらないほうがよろしいかと」
言いながらも、ウェンヒルグはしきりに額の汗を拭う。
その目は激しく周辺に動き回り、まるで何かに怯えている小動物かのようだ。
「―――そう言えば、即位式の時に掲げた剣って、あれは皇帝に代々受け継がれる聖剣だよね?」
まだ子供の頃、アレクと共にシエナの兄のシオンに聞かされた話しだった。
「ええ、確かに。ラスカーナ史書にも出てまいりますな。真紅の剣、という奴です。しかし、あの剣には魔性の力があり、その力を振るう資格無き者がその剣を抜くと発狂してしまうのです。現に数代前の皇帝が発狂してしまったので、宝物庫に封印する事にしたのです」
「え。でも、先帝陛下はその聖剣を使っていたんでしょう?」
「ええ。先帝陛下は覇皇フェルモア以来、始めてあの剣を振るう事の出来た方なのです。陛下の即位式の時に掲げた後、やはりこの宝物庫に封印したんです。宰相の指示です」
「ふぅん。余が発狂しては困るって事だね」
「それは勿論です!陛下は唯一残された直系の皇族なんですから」
「そうだね。ところで、さ。宝物庫………ってここの事だよね?」
「はい………あの、それが何か?」
「うん。さっきからだんだんと声が強くなってくんだ」
ラインハルトは言って、耳を済ませた。
だが、声は聴覚に訴えかけているわけではないらしい。
脳内に直接響く、それは、精霊の声だった。
―――汝、我の力を欲するか?
「聞こえない?男爵」
「私には何も」
ウェンヒルグが不安げに周りを見渡す。
が、目にも眩い財宝ばかりで、別に何の異常も見当たらない。
「―――こっちみたいだ」
「あ。陛下!」
いきなり黄金の山を攀じ登り始めたラインハルトに、ウェンヒルグが慌てて声をかける。
「落ちたら危のうございます!」
「大丈夫大丈夫………あ。あっちかな」
身軽に山を乗り越えたラインハルトが、山の向こう側に消える。
「皇帝陛下に何かあったら大変だ!」
ウェンヒルグは慌てて、山を攀じ登ろうとするが………。
なにしろ肥満体の彼、登るための手がかりにと掴んだ剣もろとも、ずりずりと山を滑り降りてしまう始末。
「陛下………!」
自分の肥満体を恨んでも、仕方がない。
仕方なく、ウェンヒルグは陛下と連呼しながら、黄金の山を迂回する道を探し始めた。
黄金の山の向こう側には、さらなる黄金の山があった。
「よくこれだけ集めたなぁ………」 感心している場合ではない。
声は、その山の向こう側から聞こえてくる。
「よぉうし………」
袖をまくって、ラインハルトは黄金の山を攀じ登り始めた。
「っ………!」
痛みに、顔をゆがめる。
黄金の斜面から飛び出していた剣か何かの切っ先に腕が触れたらしい。
だが、重傷ではない。
そのまま、黄金の山を攀じ登る。
そして………。
頂上を越え、下り斜面を滑り降りた。
その先に、台座があり、一振りの剣が置かれていた。
その鞘は見覚えのある豪奢な装飾の物。
間違いなく、彼自身が即位式の時に持った剣だ。
歩み寄り、その鞘に触れた途端、
―――汝、我が力を欲するか?答えよ、汝はフェルモアの血を引く者か?
強い思念が、直接脳に叩きつけられてきた。
「うわっ………」
思わず悲鳴をあげながらも、手は離さない。
良く見れば、柄の先端に血のように鮮やかな色をした鮮紅色の宝玉が付いていた。そして。
―――答えよ。汝はフェルモアの血を引く者か?
叩きつけられる思念。さしずめ肉声ならば耳元で思いっきり怒鳴っているといった感じか。
先ほどの扉を守っていた精霊とは全く異なる。
なんというか………脳裏にアレクの顔が浮かんだ。
そう、野蛮だ。先ほどの扉の精霊よりも、この剣の精霊は野蛮だ。
―――汝、フェルモアの血を引く者か?我の力を欲するか?
剣の放つ強い思念に、顔をしかめながらも、ラインハルトは剣の上に手をかざして、意識を集中させた。
「いかにも。我の名はラインハルト=シーザー。覇皇フェルモアの血を引くものなり。汝、強力な力を有する精霊と見受けられるが、名を示せ。諾か否か?」
―――諾。我が名はサナトゥス。《覇皇剣-サナトゥス》也。汝、我が力を欲するか?
(《覇皇剣-サナトゥス》……フェルモア=シーザーの佩刀……)
ラインは自分が握っている剣が、歴史上もっとも有名な剣であると知ってごくりと唾を呑んだ。
実際にその剣に触れるのは二度目なのだが、即位式の時にはそこまで思い至らなかったのだ。
「汝の力とは何ぞや?」
―――我が力は神にも等しき力。我を携えし者、覇皇となる資格あらば、覇皇となる。
「ならば覇皇フェルモアは汝の力によって、覇皇となりしか?」
―――いかにも。フェルモアは我が戦友。我ら二人、共に幾千の戦場を駆けた。我が力、フェルモアを覇皇と成さしめ、また我が力、フェルモアの血を引く者を覇皇とす。
(もし本当なら………すごいな)
だが、思い出す。先ほどのウェンヒルグの言葉を。
―――数代前の皇帝陛下がその剣の力を御しきれず発狂なされたため、宝物庫のどこかに隠された。
「汝の力を求める代償は何ぞや?」
―――汝の魂と戦場の血風也。
「魂………」
―――汝、覇皇となる資格あるものならば、我に魂を売ろうとも、常なる心を保たん。
(資格があれば、魂をあげても正気で居られるって事か。だったら―――)
「資格持たざる者ならば?」
―――常なる心を失い、魂は永久の暗闇に囚わるる。
(成仏できないってことかな………じゃあ、父上は………)
―――今一度、聞く。汝、我が力を欲し、覇皇となるか、諾か否か?
「…………」
容易には答えられない質問だった。
もし、ラインハルトにその資格が無ければ………彼は発狂する。
そうなれば、帝国は千地に乱れ、スタルナス帝国の侵攻を受ける。
大勢の人間が死に、生き残った者も虐げられるだろう。
覇皇フェルモア。それは、彼にとっては憧れの対象であった。かつてシオン兄が何度も話してくれた。、その英雄物語を聞いて、何度夢に思った事か。
黄金の輝きを持つと言われる金色の髪、女性すべてを虜にしたと言われる美貌。
その腰には強大な力を有する精霊の王とも言われる《覇皇剣-サナトゥス》があった。
争いに明け暮れる日々を過ごしていたラスカーナ大陸の人々に平安を与えた英雄。
幼きラインハルトやアレクの憧れ。
彼らはよく覇皇ごっこなるものをして遊んだ物だ。
なぜかいつもアレクがフェルモアの役で、ラインハルトがそれに倒される者の役目だったのだが。
シオンの話しでのイメージは既に彼の中での神話と化していた。
この剣の試練に勝てば、自分は覇皇となれる。
憧れの対象として思い描くしかなかった英雄と、同じ立場に立てるのだ。
長い間迷っていたようだったが、既に決断は決まっていた。
「―――諾。汝の試練、受けよう」
―――試練を与える。我を抜くが良い。
《覇皇剣-サナトゥス》の言葉に従い、ラインハルトは鞘に手を掛けた。
宝玉が、茫っと輝く。手を滑らし、剣を引き抜く。
瞳を射抜く、鮮烈な紅。
覇皇が手にする、伝説の真紅の剣、《覇皇剣-サナトゥス》。
その紅き輝きが、ラインハルトの身を包み込む。
先ほどの扉の精霊とは異なる、激しく、厳しい炎のごとき光、猛々しい輝きの中で、強い波動を感じる。
熱いとすら言える輝きの中、ラインハルトは遠退く意識に従って、目を閉じた。
ゆっくりと、ゆっくりと体が沈んでいく。
まるで地中の奥深く沈んでいくかのようだ。
……………。
目を覚ました時、そこはもはや宝物庫ではなかった。
黄金の輝きも無く、ただ、石造りの冷たい床と天井と壁があるのみ。
窓一つ無い空間で、周りが見えるのは、石自体がうっすらと発光しているからか。
首を巡らせて、壁の一方にある扉を見つけた。
「…………」
無言のまま扉に向かって進む。
―――覇皇の道を目指す者よ。進め。
脳内に響く声。
それは、《覇皇剣-サナトゥス》の声とは違うようだったが………。
その言葉に従ったのか、それとも他にする事が思いつかなかっただけなのか。
ラインハルトは眼前の扉に手を当てた。
扉は、想像以上に抵抗感無く開いた。
扉の先で、最初に目に入ったのは、やはり扉だった。
横幅の狭い通路の、向こう側に、今開けたのと同じような扉が一つある。
そして、通路の両側の壁にはびっしりと、文字と絵が刻まれていた。
サーガ。
それは、英雄の軌跡を書き記していた。
「陛下!………陛下!!」
手近な黄金の山を攀じ登ろうと、手を伸ばし、手がかりを掴み、体を引き上げようとするが。
ズルズルズル………。
肥満体質の体は金貨もろとも滑り落ちる。
額の汗を拭いながらのろのろと身を起こしたウェンヒルグは恨めしそうに眼前の黄金の山を見上げた。
だが、山を恨んだ所で平地になるわけでなし、今の自分の急務である皇帝を見つけだすと言う使命を思い出して、ウェンヒルグは再び歩き出した。
黄金の野原を歩き、黄金の山に登るための登山路を探す。
さながら、冒険者の如く。果てしなく続く黄金の輝きの中を進んでいく。
2 フェルモア
人と人の争い。
群れと群れの戦い。
やがてそれは、より規模の大きな物へと、すなわち、兵団と兵団の戦いへと姿を変えていく。
数万人と数万人がぶつかり合い、地を骸が埋め尽くし、川を鮮血が染め上げる。
大地に満ちる血の色を映したかのように、空もまた真っ赤に燃え上がり、力なく空を見上げる人々の瞳に希望はなく、あるのはただ果てしない虚無。
絶望と諦念。悲嘆と憎悪。
激しく噴き上がる血潮、累々と横たわる死体の山、山、山………。
凄惨なその光景はまさに、屍山血河だった。
「…………」
おぞましさに鳥肌が立って、ラインハルトは血の気が引くのを感じた。
そこに秩序は無く、人々は誰が味方で、誰が敵だろうとお構い無しに殺しあっている。
もはや人々は正気を失う寸前だった。このままでは世界中が狂ってしまう。
そこへ、一人の英雄が現れた。
太陽の光を受けて燦燦と輝く金髪、深い深海の色を湛えた瞳、純白の戦衣、そして右手に下げ持つ、真紅の剣。
覇皇フェルモアの姿であった。
およそ三百年前、ラスカーナ大陸全土を覆っていた乱世を鎮め、フロレシア帝国の元、統一国家を作り上げた稀代の英雄。
ラインハルト=シーザーの先祖。
ラインハルトと同じ金色の髪を持ち、同じ青色の瞳を持つ、青年。
壁に描かれているフェルモアは若かった。
青年―――或いは、少年かもしれない。
自分とそんなに変わらない年の少年が、この広いラスカーナを治めていたのだ。
笑いを忘れていた人々に笑顔を。
希望を忘れていた人々に明るい未来を。
絶望に喘いでいた人々に安寧を。
血で血を洗う争いに疲れた人々に癒しを。
神に見放されし、呪われた大陸ラスカーナに、再び降臨した光の神。
闇を打ち払いしその力、人々は誓った。
この大陸に、秩序と安寧を齎し、後代に伝え、子々孫々守り抜く事を。
ラスカーナの史書に書かれている、当時の詩を、ラインハルトは知らぬうちに唱えていた。
夢中で、サーガを読み続けた。
読み進めるほどに、この覇皇の大きな人間としての器とそこに溢れそうなほどに満ちている優しさが実感できた。
この壁に刻まれている文字を考えた人も、綴った人も、絵を描いた人も、皆、心の奥底から覇皇を敬愛していた事がよくわかる。強制されて作られた物には決して現れる事の無い作者の感情が滲み出ていた。
感動に胸震え、知らぬ間に、ラインハルトの白磁のような頬は涙で濡れていた。
心の中に林間を潜り抜けた草原の風のような、爽やかな空気が満ちていた。
そして、サーガの最終章。
病に倒れた覇皇、死の床に瀕した彼は三人の息子を呼び、平和共存を誓わせた。
三人の息子の見守る前で、偉大な父は逝き、寝台を囲む家族、家臣、城を取り巻く民衆達すべてが泣き、喚き、嘆き、覇皇の死を悼むと共に彼の軌跡を称えた。
暗闇の中にあったラスカーナに、天から射し込んだ一条の光、愛・希望・夢、光は人々を照らし、太陽となって、人々の心を暖めた。
彼の三人の息子は、平和共存の誓いを胸に、大陸を三分した。
その三つの国こそ、フロレシア帝国、ルシタニア王国、スタルナス帝国なのだ。
英雄譚はそこで終わっている。
ただそこに、一言を残して。
<歴史は繰り返す。闇が来ればいづれ光が射し、光が翳れば再び、闇の支配する時となる。
だが、忘れるな。明けない夜はない。必ずや、新たな光が射し、闇を払う。
そして、胸の内に刻め。沈まぬ太陽はない。いずれ、新たな光も翳り、再び闇が訪れるだろう。
しかし、諦めるな!絶望するな!亡き幼子を抱く腕に力を込めよ!愛する女性の前で愛を誓え!民衆よ!立ち上がれ!必ずや光は射す。だが、待つな!立ち上がれ!お前達民衆の心の中にこそ、光は満ちているのだから。―――我は永久の光に非ず。瞬転の、一瞬の光にしか過ぎぬ。我を称えて過去を過信するな。未来を見据えて、現在を踏め。我が子孫に、この言葉を捧ぐ―――フェルモア=シーザー。ここに眠る>
そして、目の前に、扉が聳え立っていた。
サーガを読むうちに、長い通路を歩き終わり、扉の前に立っていたのだ。
ごくり。
生唾を飲み込む。
扉には一言、刻まれていた。
見る者に威厳深く示されるよう考えられた格式のある字体で。
<進め。光となる誓いを胸にして。闇に背を向けぬ覚悟を持て。さすれば、汝に道が示されん>
ラインハルトは震える手を扉に当て、押し開いた。
扉の先は広い空間となっていた。
五百人の貴族が同時に座れる、四聖の間よりもずっと大きい。
淡く発光する石だけでは、空間の中央部分は見えない。
しかし、見えていた。
そこにある物がそれ自体、発光していたから。
壁や天井や床と同じ石で作られているのだろう。
ごくり。
唾を飲み込んで、ラインハルトは呟いた。
「フェルモア………」
空間の中央には、玉座に座したフェルモアの像があった。
座っていてすら、凄まじい巨大さだ。
立ち上がれば、頭が天井に擦れるのではないだろうか?
そして、その巨大なフェルモア像はやや前かがみになり、自分の足元を覗き込んでいる。
フェルモアの視線を追うようにして、ラインハルトもフェルモアの足元を見た。
そこに、祭壇があった。
正方形の祭壇、こちらを向いて、十数段の階段が設えられている。
ラインハルトは一歩一歩静かに足を踏み出して、祭壇の階段のすぐ手前までやってきた。
そして、階段の一段目に足をかける。
そこからは大胆になった。
階段を駆け上がる。
祭壇の上には、棺が置かれてあった。
そして、棺の蓋に、一本の紅い真剣が刺さっていた。
《覇皇剣-サナトゥス》。
ラインハルトはもう一度、頭上を振り仰いだ。
遥かな高みから、フェルモアが自分を見下ろしている。
「覇皇フェルモアの………棺」
中には彼の遺骸が入っているのだろうか。
ラインハルトはその場に片膝をついて、顔の前で両手を合わせた。
「建国王フェルモア。覇皇フェルモア。貴殿の相棒を継承しに参りました」
『………。名乗られよ。我が子よ』
静かな、若々しい声。
ラインハルトが顔をあげると、棺の前に、一人の少年が立っていた。
黄金の髪に、青い瞳、白い戦衣………腰に《覇皇剣-サナトゥス》こそ無かったが、それはまさしく、覇皇フェルモアの若き頃の姿であった。
「覇皇………フェルモア………生きているの?」
『まさか。これは僕の残留思念。《覇皇剣-サナトゥス》の継承者を待っている。君の名は?』
「ラインハルト=シーザー。貴方の血を引く者、フロレシア帝国の皇帝です」
『一つ聞きます。………貴方の時代は、光ですか?闇ですか?』
「闇です」
『―――そうですか』
フェルモアの表情が翳る。
ラインハルトは片膝付いた姿勢のまま、ただ、と付け加えた。
「人々は諦めていません。絶望もしていません。彼ら、彼女らの瞳には希望と愛が満ち、生まれてくる我が子に託したい想いもあります。民衆は立ち上がろうとしている。自分の力で平和共存を取り戻そうと。でも、まだまだその力は小さい。国に抑え付けられれば、そのまま消えてしまいそうなほどに。だから、僕は育ててあげたい。彼らがしっかりと双の足で地を踏みしめるのを支えるために。僕自身、まだふらふらだけれども」
『そうですか』
フェルモアが微笑む。
深い愛情に彩られた、真の意味で穏やかな微笑み。
もし聖母と言う者が居るのなら、きっとこういう笑みを浮かべるのだろう。
ラインハルトはフェルモアの男とは思えない清らかな美しさに見蕩れながら、そんな事を思う。
『良かった』
フェルモアの呟きは小さく、だがそれだけに、より濃縮された安堵感を内包していた。
「―――良かった?」
『うん。君が僕の継承者で、本当に良かった』
「あの、僕が継承者って?」
『この神殿に入れるのは、《覇皇剣-サナトゥス》が自身の使い手と認めた者だけ。つまり、僕の継承者だよ』
フェルモアが歳相応の悪戯っぽい笑みを浮かべる。
『君には君の時代を照らす光になってもらうよ。苦労してもらうからね。僕も苦労したんだから』
「えっと………」
(フェルモアってこんなに軽い性格だったの!?いや、それ以前に、父上はここに来れなかったのか?)
『君のお父さんと言うのはスレイマン=シーザーと言う人の事かい?』
「えっ………心を読んだの?」
『まあ。彼なら、継承したよ。でも覇皇になる前に死んじゃったからねぇ。真の継承者とは言えないな。しかも、彼は時代の光になるどころか、闇にしてしまいそうになったしね』
「はぁ………えっと………それで、継承って………具体的にどうすれば?」
『簡単だよ。《覇皇剣-サナトゥス》の試練に打ち克つだけ。実に単純明快でしょ?』
「試練………?」
やや顔をしかめる。昔から勉強の嫌いなラインハルト。勉強よりもアレクやシエナ、それにシエナの兄のシオンなどと山や河で遊びまわる方が好きだった。
だから、試練やら試験と言った言葉は嫌いな言葉の五指に入る。
『どうしたの?』
「あの………できれば、試練なしが良いかなぁ、なんて」
ラインハルトの言葉に、フェルモアが目を白黒させる。
ラインハルトはそんなフェルモアを上目遣いで見やって、
「………やっぱ、駄目?」
『ふふ。君は面白い子だね。気に入ったよ』
「え、じゃあ………!」
ラインハルトが期待に瞳を輝かす。
試練なしで覇皇剣が手に入ったらそれはすごい事だ!
というか、楽だ!
フェルモアはにこにこと笑って―――見る者が見れば、にやにやと、だったが。
『試練を倍にしてあげるよ』
「やったー!………って、ええっ!?」
『っていうのは冗談。僕はただの残留思念だから、試練の内容は変えられないんだ』
(ってことはもし変えられたら本当に二倍にする気だったってこと?)
『それじゃあ試練頑張ってね~』
ひらひら手を振りながら、薄くなっていくフェルモア。
「ちょっちょっと!試練の内容は教えてくれないの!?」
『………。あ。忘れてた』
消えかけていたフェルモアが元に戻る。
照れたように笑って、
『いやあ、御免御免。物忘れの酷さは今際の際の今より、若かった頃の方がひどいんだよねぇ。みんなにも良く笑われてたよ。もう皆死んじゃって………まあ、僕ももうすぐ天国行くから良いんだけどね。じゃあ、君は試練をがん―――』
「だから試練の内容を!」
『ああ!また忘れてた。ごめんねぇ、見た目だけ若い老い耄れで』
(フェルモア………もしかして晩年ってかなり呆けてたのか?)
「それで………試練の内容って?」
『うん。闘うの。それだけ。まあ、説明するほどの事でもないんだけどね』
「―――闘うって、何と?」
『あれと』
フェルモアが軽く上を指差す。
釣られてラインハルトも上を見る。
そこにはフェルモア像が座っていて………。
かなりの高みにあるその目と真っ向から見詰め合って。
ラインハルトの顔からさーっと血の気が引いていく。
「まさか………」
『そのまさか。君にはあれと闘って、倒してもらいまぁす!それじゃあ、今度こそ、頑張って!』
こちらを励ますように明るい声で言って、フェルモアの残留思念が消えようとする。
「ちょっちょっと!」
『もう、好い加減成仏させてよ』
「ご、ごめん」
『別に良いけどさぁ。三百年待ったんだし。それで、今度はなんだい?』
「あれの倒した方を教えて!」
『………駄目』
「うっやっぱり?」
『当然でしょ。これは試験なんだから。じゃあねぇ~』
今度こそ本当に、フェルモアの残留思念が消える。ゔぅん………。そんな、虫の羽音にも似た音。
頭上のフェルモア像の両目が、紅く輝き、ぼろぼろと砂埃が降って来る。
「まじ!?まじで動くのか!?」
ラインハルトは叫んで、棺の上に飛び乗った。
そこに乗っている真紅の剣、《覇皇剣-サナトゥス》の柄に手を掛ける。
『汝。試練を受けるか?』
「もう始まってるよ!」
『………。寝過ごしたか。汝、名を名乗り、修羅となる事を誓え、我を抜きて、目の前の敵を打ち倒せ!』
ラインハルトは上を振り仰ぎ、まだ大丈夫と判断すると、剣に向かって吼えた。
「我、覇皇フェルモアの血を引きし者、名をラインハルト=シーザー、ここに修羅の道を歩みて世界を照らす光となる事を誓わん。覇皇の剣、サナトゥスよ、我の力となれ!」
名乗ると同時に、力一杯剣を引き抜く。
三百年の眠りから醒め、今、真紅の剣は再び、真の使い手の手に収まった。
3 試練と修羅
ゴゴゴゴゴ…………。
轟音が轟く。
天井や壁で反響して、まさに鳴り響く雷鳴のごとく。
その音を立てているのは、一体の石像。
座っている時点で、その高さが六mはあった。
それが立ち上がったのだから、その高さは十mぐらいになっている。
まさに見上げるしかない高さだ。
「…………」
ラインハルトは息を呑んで、この巨大な石像、フェルモア像が立ち上がるのを見つめていた。
《覇皇剣-サナトゥス》継承の試練として、彼はこれからこの巨大な石像を倒さなければならないのだ。
「しかしこれは………どうなんだろ」
呟きながら、とりあえず安全と思える位置まで後退する。
今彼が居る場所はかなり広い空洞だが、それでもその石像の頭は天井にかろうじて当たらないと言うぐらいの位置にある。
と言うよりはおそらく、石像の立った時の身長を考えて、この空洞は作られているのだろう。
「どう考えてもこれ、斬れないよね」
石だ。
どんなに切れ味の鋭い剣でも、さすがに斬れないだろう。
しかも自慢ではないが、ラインハルトは腕力が無い。
全くない訳ではないし、標準的な女性に腕相撲で勝つ自信はあるが、男に勝つ自信はない。
ついでにシエナに勝つ自信もない。
石像は完全に立ち上がって、その紅色の瞳で、ラインハルトを捉えた。
「うっ………」
硬直。
蛇に睨まれた蛙。
奥さんに睨まれたハーン小父さん。
凝固する時間。ラインハルトは動かず、石像も動かない。
「…………」
「…………」
沈黙の時間が流れ………。
痺れを切らしたのは、ラインハルトの手中にある剣だった。
『汝、早く、試練を為せ!』
「いや、試練を為せと言われても………それよりも、あの石像なんで動かないの?」
『動けないからだ』
「………。へ?」
簡単に言われて、眼が点になるラインハルト。
『だからさっさと我をあの石像に突き立てよ』
「え………って、もしかして―――」
半信半疑で、石像に近づき、その足にさくっと剣を突き刺す。
「これだけ?」
『我、ラスカーナ最強の剣、サナトゥス!破滅の鉄槌をここに下さん!』
剣が咆哮をあげる。
キイィィィ………ンンンンン!!
剣が激しく震え、突如、石像が何かに殴られたかのようによろめいた。
その頭が吹き飛んでいる。
「剣を刺したのは脚なのに!なんで、頭が!?」
ぱらぱらと降って来る砂埃と石の破片に、ラインハルトの疑問は掻き消される。
「わ、わわわ!」
ラインハルトは頭をかばいながら、慌ててその場から離れた。
石像が、覇皇フェルモアの石像が音を立てて崩れていく。
腕が滑落し、膝が抜け、前のめりに倒れ………、
「ああっ!!」
ラインハルトが思わず悲鳴をあげる。
『む』
《覇皇剣-サナトゥス》も、やや困惑気。前のめりに倒れた石像が、祭壇とその上の棺を押しつぶしたのだ。
「…………」
『…………』
落ちる沈黙。
重い空気が、空洞に漂う。
この沈黙から先に立ち直ったのは、《覇皇剣-サナトゥス》の方だった。
『新たな契約者を得た事によって、古の契約者との縁は切れるのだ』
「絶対、嘘だよね、それ」
『………。あれはすべて、汝がやった事』
「君でしょうが!」
剣に向かって怒鳴ってから、気付く。
「そう言えば、鞘は?………何処行ったの?」
『無論、有る』
剣の言葉が引き金となったかのように、石像が灰に変わっていく。
石が灰になる。
何故かはわからないが。
そして、その灰の中に、豪華な装飾を施された鞘が立っていた。
「あ、あった」
ラインハルトが駆け寄って、拾う。
「鞘に収めると喋れないとかある?」
『否』
「そう」
頷いて、《覇皇剣-サナトゥス》を鞘に戻す。剣帯に差し込んで、あたりを見回す。
そこは再び、静かな空洞と化していた。
祭壇も棺も、灰の下に埋もれている。
「………。掘り出すべきかな?」
『勝手にしろ。あれはすべて汝が―――』
「だから僕じゃないって!」
ラインハルトは一つため息をついて、
(はあ~~~………覇皇フェルモアと言い、この覇皇剣と言い、なんだかなぁ)
「ところでさ、《覇皇剣-サナトゥス》。結論を言っていい?」
『む』
「あの石像って、サクラ?」
『…………』
「沈黙は肯定と受け取るけど?」
『あれは最強の試練だ』
「…………」
『嘘だ』
「いや、わかるけど。ところで試練終わったから元に戻るの?」
『いかにも』
そして………剣が鮮紅色の色を放った。
発光しているのは鞘の中だというのに、凄まじい光量に、ラインハルトは目を瞑って、光が収まるのを待った。
光はどんどん強くなっていったが、ある時を境にだんだんと薄くなっていき、やがて完全に消えた。
「―――か、陛下!」
「う………ん」
ゆっくりと、ラインハルトは目を開けた。
「ウェンヒルグ………?ここは」
「ここは宝物庫ですぞ、陛下。一体どうなされたのですか!?黄金の上に横になって」
「ぼ………余はどうして」
辺りを見回す。先ほどと変わらぬ、黄金の山。
心配そうに顔を覗き込んでくるウェンヒルグの二重顎から目を逸らすようにして自分の体へ。
何の異常も無い。
(さっきのは………夢?)
腰を見る。
そこには、《覇皇剣-サナトゥス》が………あった。
「《覇皇剣-サナトゥス》!」
「《覇皇剣-サナトゥス》………?」
皇帝がいきなりあげた言葉に怪訝そうに眉根を寄せながら、ウェンヒルグもラインハルトの腰を見る。
そしてそこに剣帯で繋がれている剣を見て………その表情が変わった。
「これは《覇皇剣-サナトゥス》ではないですか!」
「そうだよ………」
「いけません!陛下!その刀は古の時代に作られた妖刀、精霊具と呼ばれる物の一種なのです!」
「精霊具?」
「はい!剣や槍などの武器や甲冑、盾などの防具に精霊を宿らす技術を用いた道具の事です。古代にはそれらを自由に作るだけの技術があったそうです。今でも精霊具自体は軍などでも幹部級が使っていて珍しくないのですが、《覇皇剣-サナトゥス》は別格!それは危険です!」
「じゃあ、《覇皇剣-サナトゥス》も精霊なんだ、やっぱり」
「そうです!《覇皇剣-サナトゥス》は遥かな昔、大陸を蹂躙した悪魔なのです。破壊皇と呼ばれ、その当時の爪痕が現在の大陸東方の生命の育まぬ湖、死海を作り出したと言われているのですぞ!」
「へえ………そうなんだ、ウェンヒルグ、詳しいんだね」
ラインハルトが感心したように頷くと、ウェンヒルグは真っ赤になって、
「そんな事はどうでもいいんです!それよりも、早く手放してください!先ほどの私の話しをお聞きになられたではないですか!」
「ああ、剣を手にした皇帝が発狂したとか言う………君は僕を発狂させる?《覇皇剣-サナトゥス》」
ラインハルトが剣に話し掛ける。
『否。正統なる契約者なれば』
「信じられません!妖刀の言う事など!」
「まあまあ。フェルモアも使ってた訳だし。父上も不完全ながらも使ってたわけだし。僕はちゃんと試練もこなしたし。僕はこの剣の正式な使い手らしいから。それで発狂しちゃったらそれは僕の責任だよ。僕が時代を照らす光になれなかったって事らしいから。心配してくれてありがとう、ウェンヒルグ」
「い、いえ………!皇帝の御身を心配するのは臣下としては当然の責務でありまして、皇帝が感謝の言葉を述べるような類の物では―――」
「わかってるよ、ウェンヒルグ。さあ、宝物庫の宝捜しの続きをしよう。民が待ってる」
「は………はい!」
微笑を浮かべて言って来る皇帝を、ウェンヒルグは何か光り輝く宝玉でも見るかのように瞳を細め、大きく頷いた。
「ほう………おまえが《覇皇剣-サナトゥス》を」
ハーン=ハーベストは練兵場で、嬉しそうに目を細めた。
「うん」
ラインハルトは訓練に励む兵達を見守りながら、頷く。
精霊具を手に入れた事を誰にでも良いから話したい気分だったのだ。
しかも、手に入れた精霊具はあのフェルモア=シーザーが携えていた聖剣《覇皇剣-サナトゥス》なのだ。
「これも精霊具なんだぞ」
ハーンがそう言って、腰の剣を引き抜いてみせる。
ギザギザの付いた、長刀だった。
刃の色が赤い。
「《炎の剣-ハリエストロ》と言う。何でも、昔火山を爆発させて街を一飲みにした事がある火神だそうだ。本人の言によれば、な」
「へえ………」
感心したようにラインハルトが赤い剣を見つめる。
ハーンはその剣を鞘に戻して、辺りを見回して、渋い表情で聞いてきた。
「あの馬鹿息子は?一緒じゃないのか?」
「アレク?さあ。一緒には宝物庫に行かなかったから」
「正解だな。あいつは盗むかもしれん」
「ははは」
ラインハルトが曖昧に笑う。
それは消極的肯定という奴だ。
「くそっ………また女の上に乗ってるのか」
「露骨だね、将軍」
「ちっ―――羨ましい奴だ」
「羨ましいんだ」
「当然だ!あんなにほいほい女を作りやがって。わしなんて浮気しようものなら………ううっ!」
恐怖に身震いするハーン。彼は巨体を活かして戦場では大暴れするのだが………実は恐妻家なのだ。と言うより、彼の奥さん―――無論、ラインハルトも彼女の事は知っている―――が強いのだ。それこそ、破壊皇ではないかというぐらいに。
「まあ、良いじゃない。美人の奥さんなんだし」
「おうよ、俺の自慢の女房だからな」
途端ににやけるハーン。彼は恐妻家である以上に愛妻家なのだ。
「それで?将軍。第二軍の調子はどう?」
「万全に決まってるだろう。誰が訓練してると思ってるんだ」
確かな実力に裏打ちされた大いなる自信を持って、ハーンは訓練に励む部下達を示した。
彼の視線の先では赤髪の士官に率いられた中隊と青髪の士官に率いられた中隊とが激しくぶつかり合っていた。
アルンヘルは士官達の始末に関する報告をし、軍団司令部を辞去した。報告ついでに挙兵の細かい打ち合わせなどもしていたために、既に時刻は深更。日付は一時間ほど前に変わり、六月三日になっていた。通りにも人の姿は無くなっている。
そんな暗い道をアルンヘル=へードは一人、歩んでいた。
ふと、その足が止まる。
月明かりの元、前方から歩いてくる人物があるのに気付いたのだ。
相手は足を止めない。真っ直ぐアルンヘルの顔を見つめたまま、歩く速度を緩めようともしない。
前からやってきた男は珍しい白髪をしていた。その衣装は何処にでもいるような平民服。
さらに近づくに連れて、男の薄茶色の鋭い眼差しが自分を捉えていることをアルンヘルは確信した。
(何者だ………?)
アルンヘルがやや警戒心を抱く中。男はそのまま、アルンヘルの横を通り過ぎていった。
気付けば、全身に冷や汗を掻いていた。擦れ違って、さらに数歩歩んでから、男が足を止めた。
だが、振り向く気にはなれなかった。そのまま、男の言葉を待つ。
「反乱が失敗した時の算段をしておけ」
「っ………どういうことだ!」
慌てて振り向いた先に、男の姿は無かった。
4 反乱計画
帝国暦三三二年、六月四日。
赤煉瓦造りの三階建て。それが、第一軍団の司令部だ。
一階は衛兵などの詰め所、常に一個中隊は駐屯している。
二階は作戦課や補給課などの部屋があり、三階には軍団長室と副官室がある。
ルト=リューベンの副官として、参謀の役目も負っているアルンヘルは副官呼び出しのベルが鳴ったので、目を通していた書類を机の引き出しに押し込め、立ち上がった。
副官室には扉が二つあり、一つは廊下へ、もう一つは隣の軍団長室へと通じている。
軍団長室へと続く扉を開けて、アルンヘルは敬礼した。
「お呼びでしょうか?」
「―――呼んだ」
ルト=リューベンは執務椅子に座り、机の上に両肘を置いて、頭を抱えているような感じだった。
「何か問題でも起こりましたか?」
「わしの家の周りに帝都防衛隊の兵がうろついていた」
(―――そんな事か)
心の中で、アルンヘルは鼻で笑った。
この軍団長は士官学校を首席で卒業した秀才ではあるが、貴族に劣等感を持ったり、防衛隊の存在を恐れたりと精神的に弱い部分があるのだ。
「それなら、私の家の周りにも怪しげな男達がいました」
「防衛隊ではないのか?」
「恐らく。別の機関でしょう」
「聞いた事があるぞ。皇帝直属の諜報機関と言う奴だろう」
ルトの面上にはっきりと怯えの色が走った。
アルンヘルは一昨日の夜の事を話してやりたいと言う衝動を必死に抑えた。
もし話せば、彼は縮み上がって、挙兵の中止もしくは延期を言い出し兼ねない。
(それでは困る。貴方には反逆者になってもらわなければ)
冷酷な視線を上官の面上に突き刺し、脳裏でそんな考えを閃かせた。
「彼らは士官を始末した事で、警戒を強めているのでしょう。士官の口からは何も漏れていないはずですので、問題はありません」
「本当に漏れていないのだろうか?」
「大丈夫です。もし尋問の結果、彼らが口を滑らせていたなら、今頃は私達が拘束されているはずですから」
「そうだな………」
「閣下、お気を確かにお持ちください。この反乱が成功すれば閣下は貴族に名を連ねる事ができるのですぞ」
「本当にそう思うか、アルンヘル?」
ルトは疑わしそうな目を向けた。アルンヘルはそんな視線を灰色の瞳で跳ね返し、
「無論です。貴族連盟は閣下を捨て駒には出来ません。貴族連盟の貴族達の私兵部隊など所詮は脱走兵や傭兵の集り。訓練もされておらず、とても正規軍に太刀打ちできる物ではありません。閣下を捨て駒にし、第一軍を敵に回す事を考えれば、そんな選択肢を公爵が採るとも思えません」
「ふむ………なるほど。我々は貴族連盟の剣、という訳か」
得心したように、ルトは頷いた。その表情がやや晴れている。
(愚かな………公爵はそもそも武力で政権を奪おうなどとは思っていないというのに)
自分が潜在的に望んでいた答えを与えられ、他の可能性を考えず、その答えに飛びついてしまった………。それが今のルトの状態だった。
「反乱の準備は進んでいるか?」
「はい。既に連隊長以上百四人の了解は取り付けてあります。それ以下の、中隊長等は実際の挙兵時に説明する予定です。情報漏洩を防ぐためには仕方のない処置だと思います」
「百四人の了解は問題なく取り付ける事が出来たのか?それとも、何か問題が起こったが解決したのか?」
「後者です。反対する者数名は処刑しました。副官を連隊長に昇格させ、了解を取り付けました」
「そうか………わかった。決行予定日は予定通りだな?」
「はい。六日後の、六月十日が決行日です」
「よし。気付かれぬよう、細心の注意を払え」
「はい」
薄暗く、埃がうず高く積もった、そこは屋根裏部屋だった。
その床に、一人の男が蹲っていた。
珍しい白い髪に、鋭すぎるほどの目付き。
着ている服は黒い忍び服のような物だ。
男はエシュアだった。天井板に小さな穴を開け、下の部屋の、第一軍団長とその副官の会話に聞き耳を立てていた。二人の声は小さく、普通ならば聞き取れないほどだろう。
しかし、諜報員としての訓練を長年積んでいるエシュアにとって、その程度の声を聞き取る事など造作もない事なのだ。
「そうか………わかった。決行予定日は予定通りだな?」
「はい。六日後の、六月十日が決行日です」
「よし。気付かれぬよう、細心の注意を払え」
「はい」
エシュアは副官が軍団長室を出て行ったのを見計らい、立ち上がった。
全くの無音。
それどころか、積もった埃すらも微動だにしない。
そのまま、エシュアは無言で、第一軍団司令部を抜け出した。
外に出たときには既に黒衣ではなく、何処にでもいる普通の庶民の服装になっていた。
顔付きまで変わっており、訓練された者でも、見分けるのは難しいだろう。
「決行は六日後………」
エシュアの報告を受け、ラインハルトはそう呟いた。
「第二軍を帝都に呼び寄せるべきかな?」
意見を求めるように、養父オルンヘルを見る。
「―――いや、呼び寄せれば、帝都内での市街戦になるだろう。被害が大きくなる」
「じゃあ、どうするの?」
「帝都を脱する。帝都内に残ってる第二軍の第一歩兵師団と近衛騎士団を率いて、直轄領巡回とでも口実を設けて」
「直轄領の巡回に三万も連れて行くの?」
「この状態で敢えて無防備な姿を晒せば、逆に罠の存在を示すような物だ。三万の軍勢は皇帝が反乱に対し、恐怖心を抱いているという印象を持たせるだろう」
「でも、第一軍の十八万に襲われたら………」
「ハーンには既に極秘で出撃準備を命じてある。直轄領巡回中に合流する」
「出撃の準備をしているのを見つかったら?合流しようとしてる移動中に発見されたら?」
「第一軍が帝都から出さえすれば、発見されるのは問題ない。帝都に戻ろうとしても、帝都は防衛隊と傭兵軍団で固めてある。二、三日は持ち堪えるだろう。その間に我々も帝都に急行すれば挟撃する事ができる」
「反乱軍が出撃せずに帝都内に留まろうとしたらどうするの?」
「挙兵の大義は君側の奸―――わしを取り除き、皇帝を御救い奉る事だ。帝都内に留まっていればその大義名分は成立せず、部下に動揺が広がるだろう」
「つまり、余達が帝都の外に出れば、第一軍も帝都から出撃しなければならないということだね」
「そういう事だ」
「ガルヴィン=ジングリッド防衛隊長とニカルド=ベグアス傭兵軍団長、それにアミリア=ホーン近衛騎士団長に説明はした?」
「この後、面会してする。決行日が判明してから伝えようと思っていた」
「巡回に連れて行く文官は?残しておいて生命に危険がある人間は連れて行きたいんだけど」
「ウェンヒルグ=ローレンス始め、数名の閣僚だけで良いだろう。文官は拘束されはするかもしれないが、生命の危険は少ないと思う。とは言っても直轄領の巡回と言う事になっているので、百名前後の文官は連れて行かなければならないだろう」
「わかった。準備は任せるよ」
「御意」
執務室を出て、ラインハルトは隣の自室へ戻った。
無言で、直護衛のヴァンも付いてくる。
しかし、全く気配を消しているヴァンは、ラインハルトすら度々その存在を忘れてしまうほどに存在感が希薄だ。
最も、護衛たる者、そうでなければなるまい。
部屋には侍女のシエナが居た。
「シエナ」
「お茶が入ったわよ、ライン」
「ああ、ありがとう」
ラインは椅子に座り、シエナが淹れてくれた紅茶を口に含む。
しかし、その視線は何処となく遠い方向を向いているような気がシエナにはした。
「何かあったの?なんだか、ぼうっとしてるみたいだけど」
「―――そう?」
自分では普段と全く変わらないつもりでいただけに、シエナに言い当てられて、ラインはかなり動揺した。思わず救いを求めるような視線をヴァンに向けてしまった。
「…………」
しかし、ヴァンはエメラルドグリーンの色をした瞳を小揺るぎもさせずに、窓の外を眺めている。
我関せず、と言った雰囲気を全身からありありと発散している。
「悩んでる事があるんなら言いなさいよ。一応、私の方が年上なんだし。もしかしたら何か助言できるかもしれないし」
シエナが善意でそう言ってくれていると言う事はわかる。
そして、自分の事を心配してくれている事も。
だが。果たして、話して良いのだろうか?
今、この国で反乱が起ころうとしているなどと。
しかも未然に反乱の可能性を察知していながら、貴族連盟の力を削ぐためにわざと反乱を起こさせようと泳がせているなどと。
しかも、自分達だけは己の身を守るために帝都から逃げ出すなどと言う事を。
(そう言えば………シエナは連れて行くのかな?)
普通、巡回に侍女など連れて行きはしない。
だが、事が事だ。宰相オルンヘル=クリケット伯爵の娘であるシエナは貴族連盟側にとっても非常に大きな価値を有する人質となりえよう。
(連れて行きたい、けど………)
不自然に見える行為を取る訳にはいかない。
ルト=リューベンは士官学校を首席で卒業しただけに頭が良く、しかも、臆病なまでに用心深い。
少しでも怪しげな行動をとればそれだけでこちらが反乱に気付いている事を気取られかねない。
「別になんでもないよ、シエナ」
微笑を浮かべて、ラインハルトはシエナの肩を叩いた。
心配そうに眉間に皺を寄せていたシエナは、ラインの笑顔を見て、己も笑顔になり、
「なら良いのよ。でも、困った事があったらいつでも言いなさいよ」
「わかってるよ。頼りにしてるよ」
「任せなさい」
胸を叩いて、シエナは笑って見せた。
ラインも笑う。
窓際に立ったヴァンは窓の外を眺める振りをしながら、鏡に映った主君達の姿を見つめていた。
屋敷の中庭にある離れにて―――。
公爵アルンヘル=へードはカブラ子爵と会見していた。
「刺客は送り込んであるのだな?」
静かにお茶を点てながら、アリーニはなんでもない口調で聞いた。
しかし、聞かれたカブラ子爵の額には脂汗が滲んでいる。
「―――はい」
彼の心の中は、アリーニに対する恐怖心で一杯だった。
ルト=リューベンに貴族の爵位を約束しておきながら、自分には第一軍内に暗殺者を送り込む工作を命ずる、そんな公爵への恐怖心だ。
ルト=リューベンはただ単に、皇帝の側に居る宰相オルンヘル=クリケットの存在を強く国民に印象付けるためだけに挙兵するような物だ。
義兵を挙げ、君側の奸を討つ―――。
実際に成功しなくとも、臣民の間に、オルンヘルが君側の奸であると言う印象を植え付ける事ができる。
そして、その状態で貴族連盟がルト=リューベンの誠忠の志に感服したとでも言ってオルンヘルの排除を臣民院に提案する。
臣民が君側の奸打倒と言うアリーニの作り出した話に飛びつけば、臣民の意思を反映すると言う存在意義の元に存在している臣民院が君側の奸廃除と言う世論に刃向かう事は難しい。
臣民院を通った議案は貴族院で可決され、オルンヘル=クリケットは宰相位を追われ、次の宰相には貴族連盟会長アリーニ=アウグウェルツが就任。皇帝を操って、クリケット派閥の貴族を遠ざけ、貴族連盟の貴族を重職に就け、そして、皇帝に退位とアリーニ=アウグウェルツへの譲位を強制する。
こうすることによって、アリーニ=アウグウェルツはその手を血で汚す事なく皇帝の位に登る事ができると言うわけである。
(だが―――)
カブラ子爵は危惧を抱かずには居られない。
ルト=リューベンをあっさりと切り捨てるようなアリーニ=アウグウェルツ公爵が果たして自分が皇帝となった後にまで自分の事を重用してくれるであろうか?
それとも自分も、ルト=リューベンのように暗殺されるのではないだろうか?
「どうかしたのかね、カブラ子爵?」
「はっ―――」
いきなり声を掛けられて、カブラ子爵は言葉に詰まった。
まるで心の中まで見透かすかのようなアリーニの目であった。
噴き出す脂汗の量はさらに増していく。アリーニが彼の前に明るい緑色をした液体の入った椀を置いた。
「頂きます」
「うむ」
頭を下げ、礼に適った動作で椀を口に運ぶ。苦味のあるどろりとした液体が口の中に入り込んでくる。
口の中で、そのどろりとした液体の苦味は深い香りと味わいに変化する。
十分に味わってから椀を置き、頭を下げる。
「結構なお点前でした」
「うむ………決行はまもなくだ。皇帝側に気付いた兆候は?」
「今の所は問題ありません。予定通り、噂はばら撒いていますが、時期を特定する事は不可能でしょう」
「面白い物だな、子爵」
「はっ………?」
聞き返すカブラ子爵に目を合わせ、アリーニはにやりと口元を歪めて笑った。
「人が己の思い通りに動くのを見るのが、だ。子爵。そうは思わんか?」
「はぁ………」
(この人は本物の悪魔かもしれない………)
戦慄と共に、カブラ子爵はそう思った。
1 覇皇の剣
フロレシア帝国建国の父、フェルモア。真紅の剣を持ちて諸族を討ち、ラスカーナに永久の楽土を築く。諸族、彼の者を慕いて、覇皇と称さしむ。
《ラスカーナ史書 第十五巻 第三章 第三節より》
「フロレシア帝国が覇皇フェルモアによって建国されて、三百余年、か………」
「―――は?なんと申されました?」
「いや。なんでもないよ、男爵」
ラインハルトは自分の呟きに振り向いたウェンヒルグ財務尚書の怪訝そうな顔に向かって笑って言った。三百年の間に、皇帝の座に就いた者の数は彼で十五人目。
だがその中に、宝物庫の中身を売りさばいてその売上金を民に分配しようとするなどという気前の良い王が居ただろうか。
否、そのような王は居ない。略奪する王ならば数多居たのだが。
(この御人は今までの皇帝陛下とは違うかもしれない………)
淡い期待に胸躍らせながら、ウェンヒルグは皇帝を宝物庫へと案内した。
宝物庫は城の地下深く、巨大な空間を占めて存在している。
その扉は巨大で、かつ頑丈であり、しかも皇帝の血を引くものにしかその道を開かない。
皇帝が宝物庫の検分を言い出した時は驚いて思わず『陛下自ら御足労頂かなくても―――』などと言ってしまったが、そもそも、皇帝が居なければ、宝物庫に入る事すら出来ないのだ。
「―――さ。陛下、こちらに御手を」
「あ………うん」
扉の大きさ―――ラインハルトの身長の三倍以上―――に圧倒されていた皇帝が、ウェンヒルグの指し示す小さな台座に手をかざす。
茫っ………。
淡い光が溢れ出し、ラインハルトの右腕、そして全身を包み込む。
何処と無く暖かさを感じる光に包まれて、ラインハルトは目を閉じる。
―――汝、フェルモアの血を引く者か?
「いかにも。余の名はラインハルト=シーザー。覇皇フェルモアの血を引くものなり。幾百年の間扉を守る事を宿業付けられた精霊よ。我が命に答え、扉を開け」
―――諾。
扉を守る精霊が答え、光が消える。
待つ事数瞬、いや、待つほどの事も無く、扉の中央に縦に亀裂が走り、それが左右に分かれていく。
完全に開ききった扉の向こう側の世界に、ラインハルトは我知らず息を呑んでいた。
黄金、白金、白銀、銅………ダイヤモンドにルビー、サファイヤにエメラルド、オパールにクリスタル、さまざまな時代の、さまざまな国の金貨、銀貨、銅貨、ロデン教や虐げられている民族宗教の黄金作りの偶像、豪華な装飾の武具防具馬具、絵画、装飾品の山………。
想像通り、いや、想像以上の黄金の山、山、山………。
「す、すごい………」
「―――さ、陛下、入り口付近にあるものはただの黄金に過ぎません。もそっと奥へ」
「あ、うん」
ウェンヒルグの後について、奥へと向う。
目が痛くなるほどの黄金の山を廻り、銅貨の原を歩く。
「―――このあたりにある物はすべて、先帝陛下が国内や遠征先で手に入れられたもの。すべて売ってよろしいですかな?」
「あ………うん。先祖代々の継承品以外は全部良いよ」
「畏まりました」
頭を下げたウェンヒルグが、持参してきた羊皮紙に何かを書き込む。
「………?」
「どうかなされましたか?」
突然、関係の無い方角へ首を振って顔をしかめているラインハルトに、ウェンヒルグが声をかける。
「気のせいかな………誰かが余を呼んでるような気がするんだ」
「財宝の中には意思を持つ物もあると聞きます。魔性の言葉には、耳を傾けなさらないほうがよろしいかと」
言いながらも、ウェンヒルグはしきりに額の汗を拭う。
その目は激しく周辺に動き回り、まるで何かに怯えている小動物かのようだ。
「―――そう言えば、即位式の時に掲げた剣って、あれは皇帝に代々受け継がれる聖剣だよね?」
まだ子供の頃、アレクと共にシエナの兄のシオンに聞かされた話しだった。
「ええ、確かに。ラスカーナ史書にも出てまいりますな。真紅の剣、という奴です。しかし、あの剣には魔性の力があり、その力を振るう資格無き者がその剣を抜くと発狂してしまうのです。現に数代前の皇帝が発狂してしまったので、宝物庫に封印する事にしたのです」
「え。でも、先帝陛下はその聖剣を使っていたんでしょう?」
「ええ。先帝陛下は覇皇フェルモア以来、始めてあの剣を振るう事の出来た方なのです。陛下の即位式の時に掲げた後、やはりこの宝物庫に封印したんです。宰相の指示です」
「ふぅん。余が発狂しては困るって事だね」
「それは勿論です!陛下は唯一残された直系の皇族なんですから」
「そうだね。ところで、さ。宝物庫………ってここの事だよね?」
「はい………あの、それが何か?」
「うん。さっきからだんだんと声が強くなってくんだ」
ラインハルトは言って、耳を済ませた。
だが、声は聴覚に訴えかけているわけではないらしい。
脳内に直接響く、それは、精霊の声だった。
―――汝、我の力を欲するか?
「聞こえない?男爵」
「私には何も」
ウェンヒルグが不安げに周りを見渡す。
が、目にも眩い財宝ばかりで、別に何の異常も見当たらない。
「―――こっちみたいだ」
「あ。陛下!」
いきなり黄金の山を攀じ登り始めたラインハルトに、ウェンヒルグが慌てて声をかける。
「落ちたら危のうございます!」
「大丈夫大丈夫………あ。あっちかな」
身軽に山を乗り越えたラインハルトが、山の向こう側に消える。
「皇帝陛下に何かあったら大変だ!」
ウェンヒルグは慌てて、山を攀じ登ろうとするが………。
なにしろ肥満体の彼、登るための手がかりにと掴んだ剣もろとも、ずりずりと山を滑り降りてしまう始末。
「陛下………!」
自分の肥満体を恨んでも、仕方がない。
仕方なく、ウェンヒルグは陛下と連呼しながら、黄金の山を迂回する道を探し始めた。
黄金の山の向こう側には、さらなる黄金の山があった。
「よくこれだけ集めたなぁ………」 感心している場合ではない。
声は、その山の向こう側から聞こえてくる。
「よぉうし………」
袖をまくって、ラインハルトは黄金の山を攀じ登り始めた。
「っ………!」
痛みに、顔をゆがめる。
黄金の斜面から飛び出していた剣か何かの切っ先に腕が触れたらしい。
だが、重傷ではない。
そのまま、黄金の山を攀じ登る。
そして………。
頂上を越え、下り斜面を滑り降りた。
その先に、台座があり、一振りの剣が置かれていた。
その鞘は見覚えのある豪奢な装飾の物。
間違いなく、彼自身が即位式の時に持った剣だ。
歩み寄り、その鞘に触れた途端、
―――汝、我が力を欲するか?答えよ、汝はフェルモアの血を引く者か?
強い思念が、直接脳に叩きつけられてきた。
「うわっ………」
思わず悲鳴をあげながらも、手は離さない。
良く見れば、柄の先端に血のように鮮やかな色をした鮮紅色の宝玉が付いていた。そして。
―――答えよ。汝はフェルモアの血を引く者か?
叩きつけられる思念。さしずめ肉声ならば耳元で思いっきり怒鳴っているといった感じか。
先ほどの扉を守っていた精霊とは全く異なる。
なんというか………脳裏にアレクの顔が浮かんだ。
そう、野蛮だ。先ほどの扉の精霊よりも、この剣の精霊は野蛮だ。
―――汝、フェルモアの血を引く者か?我の力を欲するか?
剣の放つ強い思念に、顔をしかめながらも、ラインハルトは剣の上に手をかざして、意識を集中させた。
「いかにも。我の名はラインハルト=シーザー。覇皇フェルモアの血を引くものなり。汝、強力な力を有する精霊と見受けられるが、名を示せ。諾か否か?」
―――諾。我が名はサナトゥス。《覇皇剣-サナトゥス》也。汝、我が力を欲するか?
(《覇皇剣-サナトゥス》……フェルモア=シーザーの佩刀……)
ラインは自分が握っている剣が、歴史上もっとも有名な剣であると知ってごくりと唾を呑んだ。
実際にその剣に触れるのは二度目なのだが、即位式の時にはそこまで思い至らなかったのだ。
「汝の力とは何ぞや?」
―――我が力は神にも等しき力。我を携えし者、覇皇となる資格あらば、覇皇となる。
「ならば覇皇フェルモアは汝の力によって、覇皇となりしか?」
―――いかにも。フェルモアは我が戦友。我ら二人、共に幾千の戦場を駆けた。我が力、フェルモアを覇皇と成さしめ、また我が力、フェルモアの血を引く者を覇皇とす。
(もし本当なら………すごいな)
だが、思い出す。先ほどのウェンヒルグの言葉を。
―――数代前の皇帝陛下がその剣の力を御しきれず発狂なされたため、宝物庫のどこかに隠された。
「汝の力を求める代償は何ぞや?」
―――汝の魂と戦場の血風也。
「魂………」
―――汝、覇皇となる資格あるものならば、我に魂を売ろうとも、常なる心を保たん。
(資格があれば、魂をあげても正気で居られるって事か。だったら―――)
「資格持たざる者ならば?」
―――常なる心を失い、魂は永久の暗闇に囚わるる。
(成仏できないってことかな………じゃあ、父上は………)
―――今一度、聞く。汝、我が力を欲し、覇皇となるか、諾か否か?
「…………」
容易には答えられない質問だった。
もし、ラインハルトにその資格が無ければ………彼は発狂する。
そうなれば、帝国は千地に乱れ、スタルナス帝国の侵攻を受ける。
大勢の人間が死に、生き残った者も虐げられるだろう。
覇皇フェルモア。それは、彼にとっては憧れの対象であった。かつてシオン兄が何度も話してくれた。、その英雄物語を聞いて、何度夢に思った事か。
黄金の輝きを持つと言われる金色の髪、女性すべてを虜にしたと言われる美貌。
その腰には強大な力を有する精霊の王とも言われる《覇皇剣-サナトゥス》があった。
争いに明け暮れる日々を過ごしていたラスカーナ大陸の人々に平安を与えた英雄。
幼きラインハルトやアレクの憧れ。
彼らはよく覇皇ごっこなるものをして遊んだ物だ。
なぜかいつもアレクがフェルモアの役で、ラインハルトがそれに倒される者の役目だったのだが。
シオンの話しでのイメージは既に彼の中での神話と化していた。
この剣の試練に勝てば、自分は覇皇となれる。
憧れの対象として思い描くしかなかった英雄と、同じ立場に立てるのだ。
長い間迷っていたようだったが、既に決断は決まっていた。
「―――諾。汝の試練、受けよう」
―――試練を与える。我を抜くが良い。
《覇皇剣-サナトゥス》の言葉に従い、ラインハルトは鞘に手を掛けた。
宝玉が、茫っと輝く。手を滑らし、剣を引き抜く。
瞳を射抜く、鮮烈な紅。
覇皇が手にする、伝説の真紅の剣、《覇皇剣-サナトゥス》。
その紅き輝きが、ラインハルトの身を包み込む。
先ほどの扉の精霊とは異なる、激しく、厳しい炎のごとき光、猛々しい輝きの中で、強い波動を感じる。
熱いとすら言える輝きの中、ラインハルトは遠退く意識に従って、目を閉じた。
ゆっくりと、ゆっくりと体が沈んでいく。
まるで地中の奥深く沈んでいくかのようだ。
……………。
目を覚ました時、そこはもはや宝物庫ではなかった。
黄金の輝きも無く、ただ、石造りの冷たい床と天井と壁があるのみ。
窓一つ無い空間で、周りが見えるのは、石自体がうっすらと発光しているからか。
首を巡らせて、壁の一方にある扉を見つけた。
「…………」
無言のまま扉に向かって進む。
―――覇皇の道を目指す者よ。進め。
脳内に響く声。
それは、《覇皇剣-サナトゥス》の声とは違うようだったが………。
その言葉に従ったのか、それとも他にする事が思いつかなかっただけなのか。
ラインハルトは眼前の扉に手を当てた。
扉は、想像以上に抵抗感無く開いた。
扉の先で、最初に目に入ったのは、やはり扉だった。
横幅の狭い通路の、向こう側に、今開けたのと同じような扉が一つある。
そして、通路の両側の壁にはびっしりと、文字と絵が刻まれていた。
サーガ。
それは、英雄の軌跡を書き記していた。
「陛下!………陛下!!」
手近な黄金の山を攀じ登ろうと、手を伸ばし、手がかりを掴み、体を引き上げようとするが。
ズルズルズル………。
肥満体質の体は金貨もろとも滑り落ちる。
額の汗を拭いながらのろのろと身を起こしたウェンヒルグは恨めしそうに眼前の黄金の山を見上げた。
だが、山を恨んだ所で平地になるわけでなし、今の自分の急務である皇帝を見つけだすと言う使命を思い出して、ウェンヒルグは再び歩き出した。
黄金の野原を歩き、黄金の山に登るための登山路を探す。
さながら、冒険者の如く。果てしなく続く黄金の輝きの中を進んでいく。
2 フェルモア
人と人の争い。
群れと群れの戦い。
やがてそれは、より規模の大きな物へと、すなわち、兵団と兵団の戦いへと姿を変えていく。
数万人と数万人がぶつかり合い、地を骸が埋め尽くし、川を鮮血が染め上げる。
大地に満ちる血の色を映したかのように、空もまた真っ赤に燃え上がり、力なく空を見上げる人々の瞳に希望はなく、あるのはただ果てしない虚無。
絶望と諦念。悲嘆と憎悪。
激しく噴き上がる血潮、累々と横たわる死体の山、山、山………。
凄惨なその光景はまさに、屍山血河だった。
「…………」
おぞましさに鳥肌が立って、ラインハルトは血の気が引くのを感じた。
そこに秩序は無く、人々は誰が味方で、誰が敵だろうとお構い無しに殺しあっている。
もはや人々は正気を失う寸前だった。このままでは世界中が狂ってしまう。
そこへ、一人の英雄が現れた。
太陽の光を受けて燦燦と輝く金髪、深い深海の色を湛えた瞳、純白の戦衣、そして右手に下げ持つ、真紅の剣。
覇皇フェルモアの姿であった。
およそ三百年前、ラスカーナ大陸全土を覆っていた乱世を鎮め、フロレシア帝国の元、統一国家を作り上げた稀代の英雄。
ラインハルト=シーザーの先祖。
ラインハルトと同じ金色の髪を持ち、同じ青色の瞳を持つ、青年。
壁に描かれているフェルモアは若かった。
青年―――或いは、少年かもしれない。
自分とそんなに変わらない年の少年が、この広いラスカーナを治めていたのだ。
笑いを忘れていた人々に笑顔を。
希望を忘れていた人々に明るい未来を。
絶望に喘いでいた人々に安寧を。
血で血を洗う争いに疲れた人々に癒しを。
神に見放されし、呪われた大陸ラスカーナに、再び降臨した光の神。
闇を打ち払いしその力、人々は誓った。
この大陸に、秩序と安寧を齎し、後代に伝え、子々孫々守り抜く事を。
ラスカーナの史書に書かれている、当時の詩を、ラインハルトは知らぬうちに唱えていた。
夢中で、サーガを読み続けた。
読み進めるほどに、この覇皇の大きな人間としての器とそこに溢れそうなほどに満ちている優しさが実感できた。
この壁に刻まれている文字を考えた人も、綴った人も、絵を描いた人も、皆、心の奥底から覇皇を敬愛していた事がよくわかる。強制されて作られた物には決して現れる事の無い作者の感情が滲み出ていた。
感動に胸震え、知らぬ間に、ラインハルトの白磁のような頬は涙で濡れていた。
心の中に林間を潜り抜けた草原の風のような、爽やかな空気が満ちていた。
そして、サーガの最終章。
病に倒れた覇皇、死の床に瀕した彼は三人の息子を呼び、平和共存を誓わせた。
三人の息子の見守る前で、偉大な父は逝き、寝台を囲む家族、家臣、城を取り巻く民衆達すべてが泣き、喚き、嘆き、覇皇の死を悼むと共に彼の軌跡を称えた。
暗闇の中にあったラスカーナに、天から射し込んだ一条の光、愛・希望・夢、光は人々を照らし、太陽となって、人々の心を暖めた。
彼の三人の息子は、平和共存の誓いを胸に、大陸を三分した。
その三つの国こそ、フロレシア帝国、ルシタニア王国、スタルナス帝国なのだ。
英雄譚はそこで終わっている。
ただそこに、一言を残して。
<歴史は繰り返す。闇が来ればいづれ光が射し、光が翳れば再び、闇の支配する時となる。
だが、忘れるな。明けない夜はない。必ずや、新たな光が射し、闇を払う。
そして、胸の内に刻め。沈まぬ太陽はない。いずれ、新たな光も翳り、再び闇が訪れるだろう。
しかし、諦めるな!絶望するな!亡き幼子を抱く腕に力を込めよ!愛する女性の前で愛を誓え!民衆よ!立ち上がれ!必ずや光は射す。だが、待つな!立ち上がれ!お前達民衆の心の中にこそ、光は満ちているのだから。―――我は永久の光に非ず。瞬転の、一瞬の光にしか過ぎぬ。我を称えて過去を過信するな。未来を見据えて、現在を踏め。我が子孫に、この言葉を捧ぐ―――フェルモア=シーザー。ここに眠る>
そして、目の前に、扉が聳え立っていた。
サーガを読むうちに、長い通路を歩き終わり、扉の前に立っていたのだ。
ごくり。
生唾を飲み込む。
扉には一言、刻まれていた。
見る者に威厳深く示されるよう考えられた格式のある字体で。
<進め。光となる誓いを胸にして。闇に背を向けぬ覚悟を持て。さすれば、汝に道が示されん>
ラインハルトは震える手を扉に当て、押し開いた。
扉の先は広い空間となっていた。
五百人の貴族が同時に座れる、四聖の間よりもずっと大きい。
淡く発光する石だけでは、空間の中央部分は見えない。
しかし、見えていた。
そこにある物がそれ自体、発光していたから。
壁や天井や床と同じ石で作られているのだろう。
ごくり。
唾を飲み込んで、ラインハルトは呟いた。
「フェルモア………」
空間の中央には、玉座に座したフェルモアの像があった。
座っていてすら、凄まじい巨大さだ。
立ち上がれば、頭が天井に擦れるのではないだろうか?
そして、その巨大なフェルモア像はやや前かがみになり、自分の足元を覗き込んでいる。
フェルモアの視線を追うようにして、ラインハルトもフェルモアの足元を見た。
そこに、祭壇があった。
正方形の祭壇、こちらを向いて、十数段の階段が設えられている。
ラインハルトは一歩一歩静かに足を踏み出して、祭壇の階段のすぐ手前までやってきた。
そして、階段の一段目に足をかける。
そこからは大胆になった。
階段を駆け上がる。
祭壇の上には、棺が置かれてあった。
そして、棺の蓋に、一本の紅い真剣が刺さっていた。
《覇皇剣-サナトゥス》。
ラインハルトはもう一度、頭上を振り仰いだ。
遥かな高みから、フェルモアが自分を見下ろしている。
「覇皇フェルモアの………棺」
中には彼の遺骸が入っているのだろうか。
ラインハルトはその場に片膝をついて、顔の前で両手を合わせた。
「建国王フェルモア。覇皇フェルモア。貴殿の相棒を継承しに参りました」
『………。名乗られよ。我が子よ』
静かな、若々しい声。
ラインハルトが顔をあげると、棺の前に、一人の少年が立っていた。
黄金の髪に、青い瞳、白い戦衣………腰に《覇皇剣-サナトゥス》こそ無かったが、それはまさしく、覇皇フェルモアの若き頃の姿であった。
「覇皇………フェルモア………生きているの?」
『まさか。これは僕の残留思念。《覇皇剣-サナトゥス》の継承者を待っている。君の名は?』
「ラインハルト=シーザー。貴方の血を引く者、フロレシア帝国の皇帝です」
『一つ聞きます。………貴方の時代は、光ですか?闇ですか?』
「闇です」
『―――そうですか』
フェルモアの表情が翳る。
ラインハルトは片膝付いた姿勢のまま、ただ、と付け加えた。
「人々は諦めていません。絶望もしていません。彼ら、彼女らの瞳には希望と愛が満ち、生まれてくる我が子に託したい想いもあります。民衆は立ち上がろうとしている。自分の力で平和共存を取り戻そうと。でも、まだまだその力は小さい。国に抑え付けられれば、そのまま消えてしまいそうなほどに。だから、僕は育ててあげたい。彼らがしっかりと双の足で地を踏みしめるのを支えるために。僕自身、まだふらふらだけれども」
『そうですか』
フェルモアが微笑む。
深い愛情に彩られた、真の意味で穏やかな微笑み。
もし聖母と言う者が居るのなら、きっとこういう笑みを浮かべるのだろう。
ラインハルトはフェルモアの男とは思えない清らかな美しさに見蕩れながら、そんな事を思う。
『良かった』
フェルモアの呟きは小さく、だがそれだけに、より濃縮された安堵感を内包していた。
「―――良かった?」
『うん。君が僕の継承者で、本当に良かった』
「あの、僕が継承者って?」
『この神殿に入れるのは、《覇皇剣-サナトゥス》が自身の使い手と認めた者だけ。つまり、僕の継承者だよ』
フェルモアが歳相応の悪戯っぽい笑みを浮かべる。
『君には君の時代を照らす光になってもらうよ。苦労してもらうからね。僕も苦労したんだから』
「えっと………」
(フェルモアってこんなに軽い性格だったの!?いや、それ以前に、父上はここに来れなかったのか?)
『君のお父さんと言うのはスレイマン=シーザーと言う人の事かい?』
「えっ………心を読んだの?」
『まあ。彼なら、継承したよ。でも覇皇になる前に死んじゃったからねぇ。真の継承者とは言えないな。しかも、彼は時代の光になるどころか、闇にしてしまいそうになったしね』
「はぁ………えっと………それで、継承って………具体的にどうすれば?」
『簡単だよ。《覇皇剣-サナトゥス》の試練に打ち克つだけ。実に単純明快でしょ?』
「試練………?」
やや顔をしかめる。昔から勉強の嫌いなラインハルト。勉強よりもアレクやシエナ、それにシエナの兄のシオンなどと山や河で遊びまわる方が好きだった。
だから、試練やら試験と言った言葉は嫌いな言葉の五指に入る。
『どうしたの?』
「あの………できれば、試練なしが良いかなぁ、なんて」
ラインハルトの言葉に、フェルモアが目を白黒させる。
ラインハルトはそんなフェルモアを上目遣いで見やって、
「………やっぱ、駄目?」
『ふふ。君は面白い子だね。気に入ったよ』
「え、じゃあ………!」
ラインハルトが期待に瞳を輝かす。
試練なしで覇皇剣が手に入ったらそれはすごい事だ!
というか、楽だ!
フェルモアはにこにこと笑って―――見る者が見れば、にやにやと、だったが。
『試練を倍にしてあげるよ』
「やったー!………って、ええっ!?」
『っていうのは冗談。僕はただの残留思念だから、試練の内容は変えられないんだ』
(ってことはもし変えられたら本当に二倍にする気だったってこと?)
『それじゃあ試練頑張ってね~』
ひらひら手を振りながら、薄くなっていくフェルモア。
「ちょっちょっと!試練の内容は教えてくれないの!?」
『………。あ。忘れてた』
消えかけていたフェルモアが元に戻る。
照れたように笑って、
『いやあ、御免御免。物忘れの酷さは今際の際の今より、若かった頃の方がひどいんだよねぇ。みんなにも良く笑われてたよ。もう皆死んじゃって………まあ、僕ももうすぐ天国行くから良いんだけどね。じゃあ、君は試練をがん―――』
「だから試練の内容を!」
『ああ!また忘れてた。ごめんねぇ、見た目だけ若い老い耄れで』
(フェルモア………もしかして晩年ってかなり呆けてたのか?)
「それで………試練の内容って?」
『うん。闘うの。それだけ。まあ、説明するほどの事でもないんだけどね』
「―――闘うって、何と?」
『あれと』
フェルモアが軽く上を指差す。
釣られてラインハルトも上を見る。
そこにはフェルモア像が座っていて………。
かなりの高みにあるその目と真っ向から見詰め合って。
ラインハルトの顔からさーっと血の気が引いていく。
「まさか………」
『そのまさか。君にはあれと闘って、倒してもらいまぁす!それじゃあ、今度こそ、頑張って!』
こちらを励ますように明るい声で言って、フェルモアの残留思念が消えようとする。
「ちょっちょっと!」
『もう、好い加減成仏させてよ』
「ご、ごめん」
『別に良いけどさぁ。三百年待ったんだし。それで、今度はなんだい?』
「あれの倒した方を教えて!」
『………駄目』
「うっやっぱり?」
『当然でしょ。これは試験なんだから。じゃあねぇ~』
今度こそ本当に、フェルモアの残留思念が消える。ゔぅん………。そんな、虫の羽音にも似た音。
頭上のフェルモア像の両目が、紅く輝き、ぼろぼろと砂埃が降って来る。
「まじ!?まじで動くのか!?」
ラインハルトは叫んで、棺の上に飛び乗った。
そこに乗っている真紅の剣、《覇皇剣-サナトゥス》の柄に手を掛ける。
『汝。試練を受けるか?』
「もう始まってるよ!」
『………。寝過ごしたか。汝、名を名乗り、修羅となる事を誓え、我を抜きて、目の前の敵を打ち倒せ!』
ラインハルトは上を振り仰ぎ、まだ大丈夫と判断すると、剣に向かって吼えた。
「我、覇皇フェルモアの血を引きし者、名をラインハルト=シーザー、ここに修羅の道を歩みて世界を照らす光となる事を誓わん。覇皇の剣、サナトゥスよ、我の力となれ!」
名乗ると同時に、力一杯剣を引き抜く。
三百年の眠りから醒め、今、真紅の剣は再び、真の使い手の手に収まった。
3 試練と修羅
ゴゴゴゴゴ…………。
轟音が轟く。
天井や壁で反響して、まさに鳴り響く雷鳴のごとく。
その音を立てているのは、一体の石像。
座っている時点で、その高さが六mはあった。
それが立ち上がったのだから、その高さは十mぐらいになっている。
まさに見上げるしかない高さだ。
「…………」
ラインハルトは息を呑んで、この巨大な石像、フェルモア像が立ち上がるのを見つめていた。
《覇皇剣-サナトゥス》継承の試練として、彼はこれからこの巨大な石像を倒さなければならないのだ。
「しかしこれは………どうなんだろ」
呟きながら、とりあえず安全と思える位置まで後退する。
今彼が居る場所はかなり広い空洞だが、それでもその石像の頭は天井にかろうじて当たらないと言うぐらいの位置にある。
と言うよりはおそらく、石像の立った時の身長を考えて、この空洞は作られているのだろう。
「どう考えてもこれ、斬れないよね」
石だ。
どんなに切れ味の鋭い剣でも、さすがに斬れないだろう。
しかも自慢ではないが、ラインハルトは腕力が無い。
全くない訳ではないし、標準的な女性に腕相撲で勝つ自信はあるが、男に勝つ自信はない。
ついでにシエナに勝つ自信もない。
石像は完全に立ち上がって、その紅色の瞳で、ラインハルトを捉えた。
「うっ………」
硬直。
蛇に睨まれた蛙。
奥さんに睨まれたハーン小父さん。
凝固する時間。ラインハルトは動かず、石像も動かない。
「…………」
「…………」
沈黙の時間が流れ………。
痺れを切らしたのは、ラインハルトの手中にある剣だった。
『汝、早く、試練を為せ!』
「いや、試練を為せと言われても………それよりも、あの石像なんで動かないの?」
『動けないからだ』
「………。へ?」
簡単に言われて、眼が点になるラインハルト。
『だからさっさと我をあの石像に突き立てよ』
「え………って、もしかして―――」
半信半疑で、石像に近づき、その足にさくっと剣を突き刺す。
「これだけ?」
『我、ラスカーナ最強の剣、サナトゥス!破滅の鉄槌をここに下さん!』
剣が咆哮をあげる。
キイィィィ………ンンンンン!!
剣が激しく震え、突如、石像が何かに殴られたかのようによろめいた。
その頭が吹き飛んでいる。
「剣を刺したのは脚なのに!なんで、頭が!?」
ぱらぱらと降って来る砂埃と石の破片に、ラインハルトの疑問は掻き消される。
「わ、わわわ!」
ラインハルトは頭をかばいながら、慌ててその場から離れた。
石像が、覇皇フェルモアの石像が音を立てて崩れていく。
腕が滑落し、膝が抜け、前のめりに倒れ………、
「ああっ!!」
ラインハルトが思わず悲鳴をあげる。
『む』
《覇皇剣-サナトゥス》も、やや困惑気。前のめりに倒れた石像が、祭壇とその上の棺を押しつぶしたのだ。
「…………」
『…………』
落ちる沈黙。
重い空気が、空洞に漂う。
この沈黙から先に立ち直ったのは、《覇皇剣-サナトゥス》の方だった。
『新たな契約者を得た事によって、古の契約者との縁は切れるのだ』
「絶対、嘘だよね、それ」
『………。あれはすべて、汝がやった事』
「君でしょうが!」
剣に向かって怒鳴ってから、気付く。
「そう言えば、鞘は?………何処行ったの?」
『無論、有る』
剣の言葉が引き金となったかのように、石像が灰に変わっていく。
石が灰になる。
何故かはわからないが。
そして、その灰の中に、豪華な装飾を施された鞘が立っていた。
「あ、あった」
ラインハルトが駆け寄って、拾う。
「鞘に収めると喋れないとかある?」
『否』
「そう」
頷いて、《覇皇剣-サナトゥス》を鞘に戻す。剣帯に差し込んで、あたりを見回す。
そこは再び、静かな空洞と化していた。
祭壇も棺も、灰の下に埋もれている。
「………。掘り出すべきかな?」
『勝手にしろ。あれはすべて汝が―――』
「だから僕じゃないって!」
ラインハルトは一つため息をついて、
(はあ~~~………覇皇フェルモアと言い、この覇皇剣と言い、なんだかなぁ)
「ところでさ、《覇皇剣-サナトゥス》。結論を言っていい?」
『む』
「あの石像って、サクラ?」
『…………』
「沈黙は肯定と受け取るけど?」
『あれは最強の試練だ』
「…………」
『嘘だ』
「いや、わかるけど。ところで試練終わったから元に戻るの?」
『いかにも』
そして………剣が鮮紅色の色を放った。
発光しているのは鞘の中だというのに、凄まじい光量に、ラインハルトは目を瞑って、光が収まるのを待った。
光はどんどん強くなっていったが、ある時を境にだんだんと薄くなっていき、やがて完全に消えた。
「―――か、陛下!」
「う………ん」
ゆっくりと、ラインハルトは目を開けた。
「ウェンヒルグ………?ここは」
「ここは宝物庫ですぞ、陛下。一体どうなされたのですか!?黄金の上に横になって」
「ぼ………余はどうして」
辺りを見回す。先ほどと変わらぬ、黄金の山。
心配そうに顔を覗き込んでくるウェンヒルグの二重顎から目を逸らすようにして自分の体へ。
何の異常も無い。
(さっきのは………夢?)
腰を見る。
そこには、《覇皇剣-サナトゥス》が………あった。
「《覇皇剣-サナトゥス》!」
「《覇皇剣-サナトゥス》………?」
皇帝がいきなりあげた言葉に怪訝そうに眉根を寄せながら、ウェンヒルグもラインハルトの腰を見る。
そしてそこに剣帯で繋がれている剣を見て………その表情が変わった。
「これは《覇皇剣-サナトゥス》ではないですか!」
「そうだよ………」
「いけません!陛下!その刀は古の時代に作られた妖刀、精霊具と呼ばれる物の一種なのです!」
「精霊具?」
「はい!剣や槍などの武器や甲冑、盾などの防具に精霊を宿らす技術を用いた道具の事です。古代にはそれらを自由に作るだけの技術があったそうです。今でも精霊具自体は軍などでも幹部級が使っていて珍しくないのですが、《覇皇剣-サナトゥス》は別格!それは危険です!」
「じゃあ、《覇皇剣-サナトゥス》も精霊なんだ、やっぱり」
「そうです!《覇皇剣-サナトゥス》は遥かな昔、大陸を蹂躙した悪魔なのです。破壊皇と呼ばれ、その当時の爪痕が現在の大陸東方の生命の育まぬ湖、死海を作り出したと言われているのですぞ!」
「へえ………そうなんだ、ウェンヒルグ、詳しいんだね」
ラインハルトが感心したように頷くと、ウェンヒルグは真っ赤になって、
「そんな事はどうでもいいんです!それよりも、早く手放してください!先ほどの私の話しをお聞きになられたではないですか!」
「ああ、剣を手にした皇帝が発狂したとか言う………君は僕を発狂させる?《覇皇剣-サナトゥス》」
ラインハルトが剣に話し掛ける。
『否。正統なる契約者なれば』
「信じられません!妖刀の言う事など!」
「まあまあ。フェルモアも使ってた訳だし。父上も不完全ながらも使ってたわけだし。僕はちゃんと試練もこなしたし。僕はこの剣の正式な使い手らしいから。それで発狂しちゃったらそれは僕の責任だよ。僕が時代を照らす光になれなかったって事らしいから。心配してくれてありがとう、ウェンヒルグ」
「い、いえ………!皇帝の御身を心配するのは臣下としては当然の責務でありまして、皇帝が感謝の言葉を述べるような類の物では―――」
「わかってるよ、ウェンヒルグ。さあ、宝物庫の宝捜しの続きをしよう。民が待ってる」
「は………はい!」
微笑を浮かべて言って来る皇帝を、ウェンヒルグは何か光り輝く宝玉でも見るかのように瞳を細め、大きく頷いた。
「ほう………おまえが《覇皇剣-サナトゥス》を」
ハーン=ハーベストは練兵場で、嬉しそうに目を細めた。
「うん」
ラインハルトは訓練に励む兵達を見守りながら、頷く。
精霊具を手に入れた事を誰にでも良いから話したい気分だったのだ。
しかも、手に入れた精霊具はあのフェルモア=シーザーが携えていた聖剣《覇皇剣-サナトゥス》なのだ。
「これも精霊具なんだぞ」
ハーンがそう言って、腰の剣を引き抜いてみせる。
ギザギザの付いた、長刀だった。
刃の色が赤い。
「《炎の剣-ハリエストロ》と言う。何でも、昔火山を爆発させて街を一飲みにした事がある火神だそうだ。本人の言によれば、な」
「へえ………」
感心したようにラインハルトが赤い剣を見つめる。
ハーンはその剣を鞘に戻して、辺りを見回して、渋い表情で聞いてきた。
「あの馬鹿息子は?一緒じゃないのか?」
「アレク?さあ。一緒には宝物庫に行かなかったから」
「正解だな。あいつは盗むかもしれん」
「ははは」
ラインハルトが曖昧に笑う。
それは消極的肯定という奴だ。
「くそっ………また女の上に乗ってるのか」
「露骨だね、将軍」
「ちっ―――羨ましい奴だ」
「羨ましいんだ」
「当然だ!あんなにほいほい女を作りやがって。わしなんて浮気しようものなら………ううっ!」
恐怖に身震いするハーン。彼は巨体を活かして戦場では大暴れするのだが………実は恐妻家なのだ。と言うより、彼の奥さん―――無論、ラインハルトも彼女の事は知っている―――が強いのだ。それこそ、破壊皇ではないかというぐらいに。
「まあ、良いじゃない。美人の奥さんなんだし」
「おうよ、俺の自慢の女房だからな」
途端ににやけるハーン。彼は恐妻家である以上に愛妻家なのだ。
「それで?将軍。第二軍の調子はどう?」
「万全に決まってるだろう。誰が訓練してると思ってるんだ」
確かな実力に裏打ちされた大いなる自信を持って、ハーンは訓練に励む部下達を示した。
彼の視線の先では赤髪の士官に率いられた中隊と青髪の士官に率いられた中隊とが激しくぶつかり合っていた。
アルンヘルは士官達の始末に関する報告をし、軍団司令部を辞去した。報告ついでに挙兵の細かい打ち合わせなどもしていたために、既に時刻は深更。日付は一時間ほど前に変わり、六月三日になっていた。通りにも人の姿は無くなっている。
そんな暗い道をアルンヘル=へードは一人、歩んでいた。
ふと、その足が止まる。
月明かりの元、前方から歩いてくる人物があるのに気付いたのだ。
相手は足を止めない。真っ直ぐアルンヘルの顔を見つめたまま、歩く速度を緩めようともしない。
前からやってきた男は珍しい白髪をしていた。その衣装は何処にでもいるような平民服。
さらに近づくに連れて、男の薄茶色の鋭い眼差しが自分を捉えていることをアルンヘルは確信した。
(何者だ………?)
アルンヘルがやや警戒心を抱く中。男はそのまま、アルンヘルの横を通り過ぎていった。
気付けば、全身に冷や汗を掻いていた。擦れ違って、さらに数歩歩んでから、男が足を止めた。
だが、振り向く気にはなれなかった。そのまま、男の言葉を待つ。
「反乱が失敗した時の算段をしておけ」
「っ………どういうことだ!」
慌てて振り向いた先に、男の姿は無かった。
4 反乱計画
帝国暦三三二年、六月四日。
赤煉瓦造りの三階建て。それが、第一軍団の司令部だ。
一階は衛兵などの詰め所、常に一個中隊は駐屯している。
二階は作戦課や補給課などの部屋があり、三階には軍団長室と副官室がある。
ルト=リューベンの副官として、参謀の役目も負っているアルンヘルは副官呼び出しのベルが鳴ったので、目を通していた書類を机の引き出しに押し込め、立ち上がった。
副官室には扉が二つあり、一つは廊下へ、もう一つは隣の軍団長室へと通じている。
軍団長室へと続く扉を開けて、アルンヘルは敬礼した。
「お呼びでしょうか?」
「―――呼んだ」
ルト=リューベンは執務椅子に座り、机の上に両肘を置いて、頭を抱えているような感じだった。
「何か問題でも起こりましたか?」
「わしの家の周りに帝都防衛隊の兵がうろついていた」
(―――そんな事か)
心の中で、アルンヘルは鼻で笑った。
この軍団長は士官学校を首席で卒業した秀才ではあるが、貴族に劣等感を持ったり、防衛隊の存在を恐れたりと精神的に弱い部分があるのだ。
「それなら、私の家の周りにも怪しげな男達がいました」
「防衛隊ではないのか?」
「恐らく。別の機関でしょう」
「聞いた事があるぞ。皇帝直属の諜報機関と言う奴だろう」
ルトの面上にはっきりと怯えの色が走った。
アルンヘルは一昨日の夜の事を話してやりたいと言う衝動を必死に抑えた。
もし話せば、彼は縮み上がって、挙兵の中止もしくは延期を言い出し兼ねない。
(それでは困る。貴方には反逆者になってもらわなければ)
冷酷な視線を上官の面上に突き刺し、脳裏でそんな考えを閃かせた。
「彼らは士官を始末した事で、警戒を強めているのでしょう。士官の口からは何も漏れていないはずですので、問題はありません」
「本当に漏れていないのだろうか?」
「大丈夫です。もし尋問の結果、彼らが口を滑らせていたなら、今頃は私達が拘束されているはずですから」
「そうだな………」
「閣下、お気を確かにお持ちください。この反乱が成功すれば閣下は貴族に名を連ねる事ができるのですぞ」
「本当にそう思うか、アルンヘル?」
ルトは疑わしそうな目を向けた。アルンヘルはそんな視線を灰色の瞳で跳ね返し、
「無論です。貴族連盟は閣下を捨て駒には出来ません。貴族連盟の貴族達の私兵部隊など所詮は脱走兵や傭兵の集り。訓練もされておらず、とても正規軍に太刀打ちできる物ではありません。閣下を捨て駒にし、第一軍を敵に回す事を考えれば、そんな選択肢を公爵が採るとも思えません」
「ふむ………なるほど。我々は貴族連盟の剣、という訳か」
得心したように、ルトは頷いた。その表情がやや晴れている。
(愚かな………公爵はそもそも武力で政権を奪おうなどとは思っていないというのに)
自分が潜在的に望んでいた答えを与えられ、他の可能性を考えず、その答えに飛びついてしまった………。それが今のルトの状態だった。
「反乱の準備は進んでいるか?」
「はい。既に連隊長以上百四人の了解は取り付けてあります。それ以下の、中隊長等は実際の挙兵時に説明する予定です。情報漏洩を防ぐためには仕方のない処置だと思います」
「百四人の了解は問題なく取り付ける事が出来たのか?それとも、何か問題が起こったが解決したのか?」
「後者です。反対する者数名は処刑しました。副官を連隊長に昇格させ、了解を取り付けました」
「そうか………わかった。決行予定日は予定通りだな?」
「はい。六日後の、六月十日が決行日です」
「よし。気付かれぬよう、細心の注意を払え」
「はい」
薄暗く、埃がうず高く積もった、そこは屋根裏部屋だった。
その床に、一人の男が蹲っていた。
珍しい白い髪に、鋭すぎるほどの目付き。
着ている服は黒い忍び服のような物だ。
男はエシュアだった。天井板に小さな穴を開け、下の部屋の、第一軍団長とその副官の会話に聞き耳を立てていた。二人の声は小さく、普通ならば聞き取れないほどだろう。
しかし、諜報員としての訓練を長年積んでいるエシュアにとって、その程度の声を聞き取る事など造作もない事なのだ。
「そうか………わかった。決行予定日は予定通りだな?」
「はい。六日後の、六月十日が決行日です」
「よし。気付かれぬよう、細心の注意を払え」
「はい」
エシュアは副官が軍団長室を出て行ったのを見計らい、立ち上がった。
全くの無音。
それどころか、積もった埃すらも微動だにしない。
そのまま、エシュアは無言で、第一軍団司令部を抜け出した。
外に出たときには既に黒衣ではなく、何処にでもいる普通の庶民の服装になっていた。
顔付きまで変わっており、訓練された者でも、見分けるのは難しいだろう。
「決行は六日後………」
エシュアの報告を受け、ラインハルトはそう呟いた。
「第二軍を帝都に呼び寄せるべきかな?」
意見を求めるように、養父オルンヘルを見る。
「―――いや、呼び寄せれば、帝都内での市街戦になるだろう。被害が大きくなる」
「じゃあ、どうするの?」
「帝都を脱する。帝都内に残ってる第二軍の第一歩兵師団と近衛騎士団を率いて、直轄領巡回とでも口実を設けて」
「直轄領の巡回に三万も連れて行くの?」
「この状態で敢えて無防備な姿を晒せば、逆に罠の存在を示すような物だ。三万の軍勢は皇帝が反乱に対し、恐怖心を抱いているという印象を持たせるだろう」
「でも、第一軍の十八万に襲われたら………」
「ハーンには既に極秘で出撃準備を命じてある。直轄領巡回中に合流する」
「出撃の準備をしているのを見つかったら?合流しようとしてる移動中に発見されたら?」
「第一軍が帝都から出さえすれば、発見されるのは問題ない。帝都に戻ろうとしても、帝都は防衛隊と傭兵軍団で固めてある。二、三日は持ち堪えるだろう。その間に我々も帝都に急行すれば挟撃する事ができる」
「反乱軍が出撃せずに帝都内に留まろうとしたらどうするの?」
「挙兵の大義は君側の奸―――わしを取り除き、皇帝を御救い奉る事だ。帝都内に留まっていればその大義名分は成立せず、部下に動揺が広がるだろう」
「つまり、余達が帝都の外に出れば、第一軍も帝都から出撃しなければならないということだね」
「そういう事だ」
「ガルヴィン=ジングリッド防衛隊長とニカルド=ベグアス傭兵軍団長、それにアミリア=ホーン近衛騎士団長に説明はした?」
「この後、面会してする。決行日が判明してから伝えようと思っていた」
「巡回に連れて行く文官は?残しておいて生命に危険がある人間は連れて行きたいんだけど」
「ウェンヒルグ=ローレンス始め、数名の閣僚だけで良いだろう。文官は拘束されはするかもしれないが、生命の危険は少ないと思う。とは言っても直轄領の巡回と言う事になっているので、百名前後の文官は連れて行かなければならないだろう」
「わかった。準備は任せるよ」
「御意」
執務室を出て、ラインハルトは隣の自室へ戻った。
無言で、直護衛のヴァンも付いてくる。
しかし、全く気配を消しているヴァンは、ラインハルトすら度々その存在を忘れてしまうほどに存在感が希薄だ。
最も、護衛たる者、そうでなければなるまい。
部屋には侍女のシエナが居た。
「シエナ」
「お茶が入ったわよ、ライン」
「ああ、ありがとう」
ラインは椅子に座り、シエナが淹れてくれた紅茶を口に含む。
しかし、その視線は何処となく遠い方向を向いているような気がシエナにはした。
「何かあったの?なんだか、ぼうっとしてるみたいだけど」
「―――そう?」
自分では普段と全く変わらないつもりでいただけに、シエナに言い当てられて、ラインはかなり動揺した。思わず救いを求めるような視線をヴァンに向けてしまった。
「…………」
しかし、ヴァンはエメラルドグリーンの色をした瞳を小揺るぎもさせずに、窓の外を眺めている。
我関せず、と言った雰囲気を全身からありありと発散している。
「悩んでる事があるんなら言いなさいよ。一応、私の方が年上なんだし。もしかしたら何か助言できるかもしれないし」
シエナが善意でそう言ってくれていると言う事はわかる。
そして、自分の事を心配してくれている事も。
だが。果たして、話して良いのだろうか?
今、この国で反乱が起ころうとしているなどと。
しかも未然に反乱の可能性を察知していながら、貴族連盟の力を削ぐためにわざと反乱を起こさせようと泳がせているなどと。
しかも、自分達だけは己の身を守るために帝都から逃げ出すなどと言う事を。
(そう言えば………シエナは連れて行くのかな?)
普通、巡回に侍女など連れて行きはしない。
だが、事が事だ。宰相オルンヘル=クリケット伯爵の娘であるシエナは貴族連盟側にとっても非常に大きな価値を有する人質となりえよう。
(連れて行きたい、けど………)
不自然に見える行為を取る訳にはいかない。
ルト=リューベンは士官学校を首席で卒業しただけに頭が良く、しかも、臆病なまでに用心深い。
少しでも怪しげな行動をとればそれだけでこちらが反乱に気付いている事を気取られかねない。
「別になんでもないよ、シエナ」
微笑を浮かべて、ラインハルトはシエナの肩を叩いた。
心配そうに眉間に皺を寄せていたシエナは、ラインの笑顔を見て、己も笑顔になり、
「なら良いのよ。でも、困った事があったらいつでも言いなさいよ」
「わかってるよ。頼りにしてるよ」
「任せなさい」
胸を叩いて、シエナは笑って見せた。
ラインも笑う。
窓際に立ったヴァンは窓の外を眺める振りをしながら、鏡に映った主君達の姿を見つめていた。
屋敷の中庭にある離れにて―――。
公爵アルンヘル=へードはカブラ子爵と会見していた。
「刺客は送り込んであるのだな?」
静かにお茶を点てながら、アリーニはなんでもない口調で聞いた。
しかし、聞かれたカブラ子爵の額には脂汗が滲んでいる。
「―――はい」
彼の心の中は、アリーニに対する恐怖心で一杯だった。
ルト=リューベンに貴族の爵位を約束しておきながら、自分には第一軍内に暗殺者を送り込む工作を命ずる、そんな公爵への恐怖心だ。
ルト=リューベンはただ単に、皇帝の側に居る宰相オルンヘル=クリケットの存在を強く国民に印象付けるためだけに挙兵するような物だ。
義兵を挙げ、君側の奸を討つ―――。
実際に成功しなくとも、臣民の間に、オルンヘルが君側の奸であると言う印象を植え付ける事ができる。
そして、その状態で貴族連盟がルト=リューベンの誠忠の志に感服したとでも言ってオルンヘルの排除を臣民院に提案する。
臣民が君側の奸打倒と言うアリーニの作り出した話に飛びつけば、臣民の意思を反映すると言う存在意義の元に存在している臣民院が君側の奸廃除と言う世論に刃向かう事は難しい。
臣民院を通った議案は貴族院で可決され、オルンヘル=クリケットは宰相位を追われ、次の宰相には貴族連盟会長アリーニ=アウグウェルツが就任。皇帝を操って、クリケット派閥の貴族を遠ざけ、貴族連盟の貴族を重職に就け、そして、皇帝に退位とアリーニ=アウグウェルツへの譲位を強制する。
こうすることによって、アリーニ=アウグウェルツはその手を血で汚す事なく皇帝の位に登る事ができると言うわけである。
(だが―――)
カブラ子爵は危惧を抱かずには居られない。
ルト=リューベンをあっさりと切り捨てるようなアリーニ=アウグウェルツ公爵が果たして自分が皇帝となった後にまで自分の事を重用してくれるであろうか?
それとも自分も、ルト=リューベンのように暗殺されるのではないだろうか?
「どうかしたのかね、カブラ子爵?」
「はっ―――」
いきなり声を掛けられて、カブラ子爵は言葉に詰まった。
まるで心の中まで見透かすかのようなアリーニの目であった。
噴き出す脂汗の量はさらに増していく。アリーニが彼の前に明るい緑色をした液体の入った椀を置いた。
「頂きます」
「うむ」
頭を下げ、礼に適った動作で椀を口に運ぶ。苦味のあるどろりとした液体が口の中に入り込んでくる。
口の中で、そのどろりとした液体の苦味は深い香りと味わいに変化する。
十分に味わってから椀を置き、頭を下げる。
「結構なお点前でした」
「うむ………決行はまもなくだ。皇帝側に気付いた兆候は?」
「今の所は問題ありません。予定通り、噂はばら撒いていますが、時期を特定する事は不可能でしょう」
「面白い物だな、子爵」
「はっ………?」
聞き返すカブラ子爵に目を合わせ、アリーニはにやりと口元を歪めて笑った。
「人が己の思い通りに動くのを見るのが、だ。子爵。そうは思わんか?」
「はぁ………」
(この人は本物の悪魔かもしれない………)
戦慄と共に、カブラ子爵はそう思った。