覇皇伝
第五章 二代目総督
第五章 二代目総督
1 人間
帝国暦三三三年十二月五日から六日へと日付が変わってより暫し後。
港湾都市カズリクの裏町と言っても良い場所にその宿はあった。
家々の屋根が折り重なるように建物が密集し、窓を開けても隣の建物の少し赤茶けた壁が見えるだけで海を望む事はできない。ただ、開けた窓から入ってくる風は内陸の物とは異なり、塩臭さを含んだ海の物であった。その風に黒髪を遊ばせて、ヴァンはいつもと同じく窓際に椅子を置いて腰掛けていた。
そのエメラルドグリーンの瞳は迫り出した隣の家の屋根を掠めて、その先の月を見ていた。
屋根によって視界を遮られ、夜空はまるで小さな箱庭のようだった。
夜空に輝く月。まだ月齢は早く、三日月よりもやや肉厚と言う程度の大きさだ。
それでも、月のない夜に比べれば随分と明るい。
「ん………シエナ」
かすかな声に、ヴァンがそちらを顧みる。
粗末なベッドが部屋の隅に置かれてあった。そのベッドで横になっているのは本来ならば城の豪奢なベッドに横になっているはずの高貴な身分の者。
フロレシア帝国皇帝ラインハルト一世その人だった。
月の光の恩恵を受けない部屋の暗がりの中にありながら、彼の黄金の髪はまるで輝いているかのようだった。白磁の如き滑らかで白い肌と布団から覗いている華奢な腕からは男らしさは感じられない。
少女だと言われれば、そのまま納得してしまうほどのきめ細かい肌をしている。
幼馴染の名を呟き、幸せそうに眠るその寝顔は実に穏やかだった。
呼ばれた幼馴染はレベッカと共に隣の部屋で寝ている筈だ。
「………」
ヴァンは己の纏っている服の袖を肩まで捲り、じっと二の腕に彫られた刻印を見つめた。
鉤十字の紋章。ヴァンを育てたハーケンクロイツ孤児院の紋章だ。
その紋章は孤児院にとってはブランド品に付けるシンボルマークのようなものだろう。
だが、商品としての価値しか有していないヴァン達にとってみればその紋章は………
烙印以外の何物でもなかった。身体に刻まれ、一生消すことのできない烙印。
自分があの地獄を生き延びた戦闘機械であるという事実を忘れさせない為の烙印。
自分が彼らにとって、孤児院の名を上げ、商品をより高額で売り捌くための道具、広告であると言う印。
「…………」
無言のまま、ヴァンはその紋章を手で覆い隠した。同時に脳裏にあの男の声が蘇る。
『お前達の出来る事は人間を殺す事だけだ。なぜなら、人間を殺すための教育しかしていないからだ。お前達の存在意義はハーケンクロイツ孤児院の名を挙げる事。それ以上でも以下でもない。ここを卒業し、お前達を買う者が何者であろうと、お前達の為すべき事に変わりは無い』
自分を見下ろして。自分を殴って。自分の襟首を掴んで。
男が言っていた言葉。何度も何度も、脳に刻み付けるかのように男が言った言葉。
(出来る事は人間を殺す事だけ………)
その為に剣を覚えさせられた。人を斬る為の剣。
確かに今、自分は皇帝の直護衛として剣を守護の為に使っている。
だが、している事は結局、同じ事なのだ。この剣を使って人を殺める。
人を斬る為の剣を使って、人を守ると言う名目の下に、人を斬っているのだ。
(何が違う………)
あの男が自分に求めた事と一体何が違うのだ?
結局自分も、彼らが求めた通りの戦闘機械なのではないのか?
人を殺すための、便利な道具。
「………ッ」
と、そこでヴァンは弾かれたかのように己の身を前へと投げ出した。
背後で、何かが何かを切り裂く音がした。
床に手を着き、ベッドの脇まで飛び退く。そこで振り返れば、先程まで彼が座っていた椅子がばらばらに壊されていた。そして窓際に、一人の女が立っていた。
二の腕の半ばと太股の半ばまでを覆う黒い戦闘服。露になった二の腕の鉤十字の紋章。
鋭い顔付きに、複雑な色を浮かべた瞳。首には蛇が巻きついたかのような装身具。
自分が何故今日、ここ暫く考えもしなかったあの孤児院の事を考えていたのか、なんとなくわかった気がした。ヴァンは立ち上がり、朱汐を抜いた。
「―――確か、ジェルナ=クレイスロール………」
「記憶力は確かなようだな」
目を少しだけ細めて、女暗殺者ジェルナ=クレイスロールは言った。
「―――襲撃は失敗した。第一撃を回避された以上、留まる必要はないだろう、去れ」
「またその台詞か。進歩のない」
「―――何度でも言う。あの孤児院ではあまりにも多くの死が生み出された。これ以上、あの孤児院の出身者が死ぬ必要はない。去れ」
「去る理由はない」
「―――愚図愚図していれば、他の護衛も駆けつける」
「他の護衛?それはない」
ジェルナが口元にかすかな笑みを浮かべる。嘲笑うような笑みだった。
だが、目だけは冷静にヴァンの隙を探っている。
「どういう事だ?」
間を保つ余裕を失い、やや焦ったようにヴァンが呟く。だが、答えをジェルナが口にするよりも早く、彼自身が気付いていた。世界があまりにも静か過ぎることに。
さっきまでは微かながらも風の音や虫の鳴き声などがしていた。
気にならないほどのかすかな音だったが、今ではそれすらも聞こえない。
「結界か………」
「その通り。この―――」
と言って、ジェルナは己が首にしている蛇が巻きついているかのような形をした装身具に触れて、
「蛇身環の力。この部屋は私の張った結界の中。この中でいくら暴れようとも、外の者にそれを知られることはない」
「―――どうしても去る気はないのか?」
ヴァンの口調は普段どおり淡々としているが、普段よりも遥かに口数が多かった。
「ない。私は既に依頼人からは解雇された。だが、そんな事は関係ない」
「―――何故だ?解雇されたのなら陛下の命を狙う理由は無い筈だ」
「ある。私は今まで、全ての暗殺対象を葬ってきた。例外を作り出す気はない。あの孤児院で生き残った者の務めとして、最高の戦闘機械になりきる。それが私の全て。そして、貴様もまたあの孤児院が生み出した戦闘機械なのだ。戦え」
ジェルナの言葉に、ヴァンのエメラルドグリーンの瞳が悲しげに細められた。
「―――戦闘機械………本当にそうなのか?」
「そうさ!心を持たない。だから躊躇わない。悔いない。喜びも悲しみも、憎しみも怒りも感じない。全ての敵を殺す戦闘機械。それが我々の宿業。そして、戦い、殺すことが我々の存在理由」
「本当にそうなのかい?」
声はジェルナのものでもなく、ヴァンのものでもなかった。
「陛下!」
「大丈夫」
振り向こうとするヴァンにそう言って、ラインハルトはベッドから降りた。
その手には覇皇剣が携えられている。ジェルナはそんな皇帝をキツイ目で睨み付けて。
「どういう意味だ!?」
そんな殺気さえ放っているジェルナの瞳を、澄んだ蒼い瞳で見つめ返して。
「本当に感情を感じないのかい?何も?」
「感じない」
奥歯を噛み締めるようにして、ジェルナが断ずる。
ラインハルトはかすかな微笑を浮かべて、首を振った。
「それは違うな。君は嘘を吐いている」
「な、何を根拠に………」
「現に君は今、『狼狽』しているじゃないか。それに、前に襲い掛かってきたとき、ヴァンに殺されなかったと言う屈辱に、君は『怒り』を感じていたんじゃないのか?」
「ぐっ………」
「君は感情を押し殺すことなんかできちゃいない。君は戦闘機械なんかじゃない。感情も何もない、ただ殺すためだけに存在する道具じゃない。人間なんだ」
そこで皇帝がヴァンを見たのが、背中越しにもヴァンにはわかった。
この皇帝の眼差しには不思議な力がある。見つめられていると暖かさを感じるのだ。
今も、背中が暖かい。陽の光のような。思わず目を瞑り、身を預けたくなるような。
「ヴァンも、君も、戦闘機械なんかじゃない。喜びも悲しみも、憎しみも怒りも感じるし、悔いも躊躇いもする。そうだろう、ヴァン?」
「―――はい」
頷いていた。頷くことができた。さっきまで悩み、答えなど見つからないと思っていた問題の答えが、呆気なくこの皇帝の口から滑り出た。
(人間………)
おまえは人間だと。戦闘機械なんかではない、と。
ただそれだけの言葉で、これほど簡単に彼の心の重しは消えてしまった。
悩んでいた自分が馬鹿のように思える。自分は道具なんかじゃない。人間なのだ。
「―――俺達は道具ではない。ジェルナ=クレイスロール。道具なら何故ここへ来た?」
「………黙れ」
「誰からの命令も受けず、何故、道具であるはずのおまえがここへ来た?道具に意思はない。意思なく使われるだけ。それが道具だ。なのに、おまえはここに来た。それは何故だ?」
「……黙れ!」
「それは―――」
「…黙れ!!」
ジェルナが叫んだ。結界の中でなければ、五軒向こうまでも鳴り響くような大声で。彼女は恐れているのだ。ヴァンの言葉を聞いて、自分の中の価値観が変わってしまうのを。しかし、ヴァンが言葉を止める事はなかった。彼は淡々とした声音で、続けた。自分が感じた、感じる事の出来た感動を、彼女にも感じて欲しかった。それが彼の意思だったから。
「おまえが人間だからだ。人間として、己の意思でここまでやって来たからだ。ジェルナ=クレイスロール。おまえは道具じゃない。人間だ」
「くっ………!今更、今更そう簡単に自分の生き方を変えられるかッ!私にはこれしかないんだッ!!」
叫んで、ジェルナが床を蹴って飛び上がった。壁を蹴り、さらに天井を蹴って、斜め上からヴァンに襲い掛かる。彼女の両手にはいつの間にか鋭い短刀が握られていて。
「死ね、ヴァン=ブレイスッ!!」
「死ぬ訳には、いかないッ!」
ヴァンが朱汐を一閃させ、ジェルナの手から二本の短刀を弾き飛ばす。ジェルナは一挙動で、ヴァンの脇をすり抜けた。その口に、短刀を咥えている。そのまま彼女はラインハルトの首にその短刀を突き刺そうとして。
ガッ―――。
「ぐッ………」
背後から振るわれたヴァンの一撃を受けて、倒れた。
彼女の首を、ヴァンが剣の背で叩いたのだ。だが、まだジェルナは気絶していなかった。
立ち上がり、ラインハルトの前にヴァンが立ちはだかっているのを見て、顔を歪める。
「どうしてだ………どうしてこうも違う。なんで同じ孤児院で育った者同士、こうも力量に差がある!」
「俺は変わった。クリケット卿に買われてからの十年で………俺は命の尊さを学ばせられた」
「くっ………」
ジェルナが跳び、部屋の反対側へと退いた。
「追いはしない。考えろ。自分のこれからを」
「変わろうと思えば、いや、思う事こそ、変わる為の第一歩だよ」
そう言う二人を殺気さえ含んだ眼差しで睨み、
「次に会う時はさらに強くなって来る。それまで待っていろ」
ジェルナはそう言うと、首にしている蛇身環を外し、掲げた。
「蛇身環!」
すると環の内側から白い光が溢れ、世界を塗りつぶした。
咄嗟にラインハルトもヴァンも腕をあげて光から目を守る。
徐々に光が薄れていき、目を開けると………既に彼女の姿はなかった。
結界も消えたのだろう。風の音や虫の鳴き声が世界に戻ってきていた。
「―――彼女は変われますか?」
問うヴァンに、ラインハルトはふわぁと欠伸を漏らしながら。
「大丈夫さ。決められた生き方に頼らなくちゃ生きていけないほど彼女は弱い心の持ち主じゃない。そう思うでしょう?」
「―――はい」
「さあ、寝よう。これじゃ明日は寝不足決定だな。明日は海に行くんだからさ」
そう言って、ラインハルトはさっさとベッドに潜り込んで行ってしまう。
ヴァンは皇帝が軽く寝息を立て始めるまでの数分間、ずっと目を瞑った若き皇帝の横顔を見つめていた。
それから、部屋に一脚しかない椅子を壊されてしまった為に仕方なく壁際に腰を下ろす。
窓から先程まで見えていた月は既に屋根によって見えない位置にまで動いていた。
(貴方は本当に凄い人だ………)
皇帝の泊まっている宿から数ブロックも離れている建物の屋上の片隅で。
ジェルナ=クレイスロールは月を見上げていた。
去り際の皇帝の声が耳朶を離れない。
『変わろうと思えば、いや、思う事こそ、変わる為の第一歩だよ』
(私は戦闘機械、人を殺すための道具………)
今まではそう呟く事であらゆる感情を制御して来た。感情を制御できたからこそ、あの通常の神経では到底耐えられない卒業試験にも耐え抜き、生き残ることができたのだ。
感情を殺し、殺人機械になりきり、友達だろうが、好意を寄せていた男の子だろうが関係なく無差別に、切り裂いてきた。
なのに、あの皇帝に戦闘機械である事を否定され、道具である事を否定され、人間だと告げられて。
その言葉に安堵している自分を見つけてしまった。
(私は戦闘機械、人を殺すための道具………)
いくらおまじないのように呟いてみても、その安堵感、その喜びを抑える事ができなくて。
体中が熱を帯びているようだった。焼けるような熱さではない。
包み込むような暖かさだ。誰かに柔らかく抱きしめられているような感触。
「う………く………」
屋上に座り込み、膝を抱えて身を丸めて。
頬を伝わる熱い液体の感触に愕然とした。膝を抱える両手が、いや、体中が震え出していた。
(涙………私、泣いてる………?)
涙を流すなんて、何年振りだろう………?
何年もの間、押さえ込んでいた感情が溢れ出し、体中の血管を駆け巡っている。
全てを押さえ込み、冷たくなっていた体を暖かな感情が侵食していく。
(戻れない………戦闘機械である自分に………)
「いや………戻りたくない」
恐ろしかった。昔の自分が。もう二度と戻りたくないと思った。
(私は戦闘機械じゃない………人を殺すための道具でもない………)
全身の震えを止めるために、彼女は新しいおまじないを必死に唱えていた。
(私は人間………私は人間………私は人間………)
知らなかった。人間の体温がこんなにも、暖かなものだったなんて。
2 フェニキアの提督
帝国暦三三三年十二月六日。
ラインハルトはシエナ、ヴァン、ハーヴェイを連れて、カズリク港を見学していた。
服装は一般的な貴族装束で、供の人数もフロレシア帝国の地方貴族の息子と言う触れ込みであれば納得できるほどではある。レベッカの二番組は今日も砦の方の様子を見に行っており、ハーヴェイの三番組がラインハルトの周辺で護衛を務めていた。昨日丘の上から見下ろしたときよりも、さらに潮の香りが強い。商港の方には無数の小型漁船やそれよりも随分と大きい商船が停泊していた。漁は主に早朝から朝に掛けて行われるので、漁船のほとんどは既に漁に行って、帰ってきていたのだ。
商船は所有者である商館の紋章やフェニキアの国旗である《十六の永遠に自由なる鳥》の紋章を帆布に描いてある物などが多く見られたが、他にも様々な国旗を掲げた商船が停泊していた。
カズリクでは西の群島諸国、さらにその西のカルフィナ大陸とも海上交易を行っているので、ラインの知らない紋章はその辺りの国の物かも知れない。
「凄い船の数ねぇ。それに皆、大きいし」
シエナが感嘆の面持ちで言う。彼女もラインも、ローデンス湖で漁をする小型の漁船や或いは運河などを航行する艀などしか見た事がないため、漁船と言えども遠洋漁業用の大型漁船などはかなり大きく思えた。そんな内陸者丸出しの二人に対し、ヴァンは無言、案内役のハーヴェイは、
「まだまだこの程度じゃあ驚くには値しませんよ、陛下。さ、次は軍港へ行きましょう」
軍港と言っても厳密に言えば別に商港との間に仕切りがあるわけではなく、カズリク湾の東側に商船や漁船、それらに関連する卸売市場や商館などが集中しているのに対し、西側に軍艦などが停泊し、大使館や造船所などが作られている為になんとなく分けられていると言うに過ぎないのである。現在、第七軍と反帝国派が対峙している自警団の砦はカズリクの東側地区でも北部の方にあるため、港周辺の住人は避難の対象外とされていた。軍港には現在五隻の軍艦が停泊していた。
「あれがフロレシア帝国海軍の三隻だね」
軍港の東側に固まって停泊している三隻の軍艦を指差して、ラインハルトがハーヴェイに聞いた。
「はい。東側から順に旗艦の『エルブランド』、『カズリク』、『カルア』の三隻です。元は海上騎士団の軍艦でしたが、海上騎士団解散、海軍設立と同時に海軍の所属艦となりました」
「『エルブランド』?って、会合衆の?」
「はい。『エルブランド』は会合衆議長グリード=エルブランドの出資によって建造された軍艦だそうで。彼の名を取っているそうです。建艦されたのもエルブランド造船の船台で、だそうです」
ハーヴェイは己の知識を嬉しそうに披露する。その間も、怪しまれないように歩調は変えない。三隻の軍艦が停泊している桟橋付近には武装した水兵の姿がちらちらと見えた。
まだ自警団の抵抗が終わってはいないので、警戒も厳しいようだ。
と、さらに進むうちに、先ほどの軍艦とは比べ物にならないほどに巨大な二隻の軍艦が姿を現した。
「大きい………それに黒いな」
ラインハルトはその大きさに圧倒されつつ呻いた。二隻の軍艦は外装を全て黒く塗り潰していたのだ。フロレシア帝国海軍の軍艦が木肌のままの色なのと比べればとかく目立つ。まさに黒船だ。
「これがフェニキアの………」
シエナも圧倒されたように呟く。ハーヴェイは自分の事のように胸を張って、
「左側のが戦艦『ユニコーン』、右側のが戦艦『グリフォン』です」
一隻だけでもフロレシア海軍全てより勝ると言う戦艦が二隻。黒く塗ってある事もあり、威圧感に溢れている。ラインハルトは舷側に閉じられた窓のような物が沢山あることに気付いた。
「ハーヴェイ、あの窓のような物はなんだい?」
それを指差し、ハーヴェイに聞く。するとハーヴェイは待ってましたとばかりに頷いて。
「あれが大砲ですよ、陛下。あの窓の中に大砲が一門ずつ置かれてあって、戦闘時にはあの窓を開けて、大砲を撃つんです。普段は潮風に当たって錆びるのを防ぐためにああやって窓を閉じてるんですよ」
「なるほど………あれが大砲か………」
窓の数は二十個近くある。反対舷にも同じだけあるならこの軍艦は四十門もの大砲を搭載していると言う事になる。
「さ。陛下、いつまでもここに立ち止まっていると怪しまれます。そろそろ移動しましょう」
ハーヴェイがそっと耳打ちし、
「うん、そうだね」
頷いてラインハルトが振り返ったその先で。
「―――あれ」
「うわ」
「な、なんで?」
「…………」
いつの間にやら武装した水兵達が彼らを取り囲んでいた。
武器を構えてはいないし、敵意も感じられなかったが、完全に包囲されている。
ヴァンが自分の背でラインを隠し、ハーヴェイがシエナを下げさせながら一歩前に出る。
「えぇと、我々は別に怪しい者では………いや、その前に隊長さんは?」
「私です」
ハーヴェイの言葉に、髭面の水兵が進み出て、ラインハルトの顔を一瞥する。
「そちらの御仁はフロレシア帝国皇帝陛下とお見受けします。我がフェニキア海軍南方派遣艦隊司令長官エル=カルウェル中将が旗艦『ユニコーン』艦上でお待ちです。昼餉など御一緒にしながら歓談したいとの思し召しなのですが。いかがでしょう、お受け頂けますか?」
「―――と、言う訳みたいですよ、陛下?」
一歩下がり、小声でハーヴェイが意向を尋ねてくる。ラインハルトは少しだけ顔をしかめて。
「どうして余が皇帝だとばれたんだろう?」
「さあ?―――どうして、彼が皇帝だと思うんでしょう?」
すると隊長はにこりと愛想良く笑って。
「我らが司令長官は帝国の貴人の顔は大抵覚えておられます。もっとも、陛下の玉顔は似顔絵などで拝見しただけで確信は無かったようですが。私に確認して、もしそうならばお誘いするよう命じられました」
「―――だ、そうですよ、陛下?どうします?受けますか?ええと、貴方の階級を聞いて良いですか?」
「フェニキア海軍よりは曹長の位を頂いております」
「曹長。曹長ね。あ。ちなみに俺は少尉だから。まあ、それは良いんだが、陛下をお誘いするのにこう言っちゃなんだが、たかが曹長風情を使いに送ると言うのはどうも感心しないね。その中将とやらが自分で誘いに来るべきだろう。それとも、フェニキアにはそう言うしきたりでもあるのか?」
言って、熱気のある瞳を細めて睨み付けるハーヴェイ。すると曹長は恐縮したようで、
「仰られる通りです、少尉殿。すぐに閣下にその旨お伝え―――」
「いや、良いよ。お誘いを受けようじゃないか、ハーヴェイ」
「しかし、良いんですか?ここで誘いを受けると軽く見られるって事も」
「そんなの別に構わないさ。たかが中将風情に軽く見られたって両国の関係には何の関わりも無い。それにここで無駄に時間を使うと目立つしね」
「そう言えば大分、野次馬が増えてきたわね」
ラインハルトの言葉に、シエナが周囲を見回すと物見高い人々が既にかなり集まっている。
ここで悠長に連絡の取り合いをしていたら彼が皇帝だと言う事がばれてしまうだろう。
お忍びで来ている以上、それはまずい。
「少なくとも第七軍が砦を落とすまでは姿を隠していたいからね」
「―――わかりました。そう言う事だ、曹長。案内して貰おうか」
ラインハルトの物言いに曹長がやや不満そうな顔を見せるのを、にやりと笑みを浮かべて見つめ、ハーヴェイが促す。曹長は頷いて。
「それではこちらへどうぞ」
皇帝一行を包囲していた水兵の群は一瞬にして、一行の護衛へと姿を変えた。
「ハーヴェイ、三番組は?」
「野次馬の中にでも紛れてるんでしょう。船内で何かあったら俺と隊長で何とかします」
「ん。頼んだよ」
「御意」
甲板に上がって見ると船が波によってかすかに揺れているのが感じられた。
「ほんとに大きな船ねぇ」
「さしずめ、水兵もかなりの数が乗ってるんだろうな………」
「ちょっと、止めてよ、ハーヴェイ。不安になるじゃない」
「おやこれは伯爵令嬢。気丈な方だと思っていたが」
「ふざけないで。甲板から叩き落とすわよ」
「…どうもすみませんでした」
「こちらです」
ハーヴェイとシエナの会話を遮って、曹長が一行を船内へと案内する。
さすがに戦闘艦なだけあって、通路は複雑だった。ラインハルトはすぐに自分が今船の何処にいるのかわからなくなった。
「こちらが司令長官室です」
通路の突き当たりの部屋の前でそう言い、曹長が扉をノックした。
「閣下。フロレシア帝国皇帝陛下をお連れいたしました」
「―――どうぞ」
船内から女性のような声がした。それを怪訝に思う間もなく、曹長が扉を開けたので、ラインハルト達は部屋の中へと入って行った。最後にハーヴェイが入った所で、曹長が扉を閉める。
「お誘いをお受け頂き、真にありがとうございます。このような姿での御無礼、どうぞお許しください」
優雅な物言いで、腰を折って挨拶して来たのはまだ子供だった。
ラインハルトと同じ位輝いている黄金の髪、ラインハルトの健康的な白さとはやや異なる、病的な白さを持つ肌。その容貌は女性かと見紛う程に美しかった。
「南方派遣艦隊司令長官を務めます、エル=カルウェルと申します」
「余はラインハルト一世。この度は昼餉の誘い、ありがたく受けさせて貰った」
エル=カルウェルは軍服を着ていなかった。真っ白な病衣を纏っていた。部屋には壁際にベッドが置かれており、シーツにやや乱れがあった。どうやら遂寸前まで横になっていたらしい。
部屋にはその他に様々な本が収められた本棚と六人掛けのテーブルがあり、そのテーブルの上には確かに料理が載っていた。エル=カルウェルは微笑を浮かべて、
「さあ、どうぞ席にお座りください」
と言って、自分はさっさと下座にある他の五脚とは仕様の異なる、ゆったりとした椅子に腰を下ろす。
「虚弱体質の美少年………本当に居るのね、こういうの」
小声でシエナが囁くのを背にしつつ、ラインはエルの真正面の椅子に腰を下ろした。
長方形の短い辺にラインとエルが座ったため、長い辺に他の三人が分散して座った。ラインの左側にシエナ、その隣、つまりはエルの右側にハーヴェイ、ラインの右側にヴァンと言う席順だ。
エル=カルウェルは早速ナイフとフォークを持って肉料理を食べやすいように切りながら、他の五人が同じようにナイフとフォークを動かすのを見つめていた。
「安心してください。毒などは入ってませんから」
「だとしても一応、毒見はさせていただきます」
「ええ、勿論結構ですとも」
シエナがエルの許しを受け、ラインの皿の肉を口に放り込む。
もぐもぐ………ごくん。
「うん。おいしい。食べても大丈夫ですわ、陛下」
「ありがとう、シエナ」
ラインハルトはいつもよりもやや平坦な声音で、言う。今は公の場と言っても過言ではない。
シエナと自分は幼馴染ではなく、皇帝と侍女と言う立場にあるのだ。
ラインハルトは一口大に切った肉を口に含んだ。香草の香りが心地良く嗅覚を刺激する。
肉はほとんど顎に力を入れなくても噛み切れ、濃い味わいが口の中に広がる。
「お口に合いますでしょうか?」
「うん。おいしいよ。それで、中将?何か余に話があって呼んだのではないのかな?」
「いえ?特にはなにも」
「―――そうなの?」
「ええ」
エルはにっこりと笑って頷いた。
「だったらこちらから幾つか聞きたい事があるんだけど」
「ええ。なんなりと」
「どうしてスザンに居た筈の戦艦『グリフォン』をカズリクへ?」
「南方派遣艦隊の旗艦はこの『ユニコーン』です。スザンがスタルナス帝国の侵攻を受け、治安状況が悪化したため、『グリフォン』には旗艦との合流を命じました。その点に何かご不審が?」
「では『グリフォン』の回航に政治的な意図はない、と?」
「政治的な意図?はて、政治的な意図とは何を指しておられるのですか?」
エル=カルウェルは人当たりの良い微笑を浮かべて聞き返した。
だが、その笑顔からは心の中を読み取る事はできない。なんとも掴み所の無い笑みなのだ。
「二隻の軍艦が並ぶ様は実に壮観で、威風堂々としていた」
エル=カルウェルもラインハルトもいつの間にやら手を止めていた。
他の四人も同じである。全員が、二人の会話に耳を傾けていた。
「まさか陛下は我々が陛下を威圧するためにカズリク港に停泊しているとお考えなのですか?」
「その疑いを強くするか消すかは貴官の返答次第だ」
ラインハルトの透き通るような輝きを帯びる蒼い瞳が、エル=カルウェルの笑顔の奥に隠された何かを見つめているかのように細められた。エル=カルウェルの笑みがかすかに強張る。
「………。勿論、そのような意図はありません。本国からもそのような指示は受けていませんし、私自身、そのような事は微塵も考えておりません」
「そうか。その言葉が聞きたかった」
ラインハルトは微笑を浮かべ、再び手を動かして料理を食べ始めた。
そして、そのまま手を動かしながら何気ない口調で、
「ときに貴官に無心したい事があるんだけれど」
「は?無心、ですか?」
かすかに不意を打たれたような表情で、エルがラインハルトを見る。
シエナもハーヴェイも次にラインハルトが何を言い出すのだろうかと興味津々の目で見つめている。
ヴァンだけは別に興味も無いという風に、いつもどおりの目をしていた。
「うん。君が持っている大砲、何門か譲ってくれないだろうか?」
「は?大砲………ですか?」
「そう。両国の友好の証に」
「友好の証………ですか」
エルは少し考え込んで、
「―――宜しいでしょう。陛下に頼まれれば否とは申せません。数門で宜しければ艦から取り外しても大した戦力低下にはなりませんから」
巧妙にフェニキア軍艦の戦力を誇示しつつ、エル=カルウェルは頷いた。
ラインハルトは満面に笑みを浮かべて、
「ありがとう、中将」
「いえいえ」
昼餉が終わると、エルは病弱な身をおして、甲板まで皇帝一行の見送りに出てきた。
「大したおもてなしもできず―――」
「いやいや、余は非常に満足だよ」
「それでは陛下、お元気で」
「君もね、中将」
「―――はい」
艦から降りて、とりあえず二隻の軍艦が見えなくなるぐらいまで移動して。
「にしてもびっくりしたぁ、まさかラインがあそこまで図々しいとは」
驚きに目を見開いて、シエナが笑いながら言う。ラインは頬を赤く染めつつ、
「でもこれで、帝国海軍も大砲を手に入れた。ルーガから洸安黄を呼んで研究させよう。鉄砲の国産化は既に成功してる。次は大砲の国産化だ」
皇帝の目は未来を見据えているかのように、輝いていた。
3 お忍び終了
帝国暦三三三年十二月十三日。
最後の抵抗拠点となっていた自警団の砦が陥落した翌日。
後始末に未だ尚忙しく人々が出入りする元会合衆議場、現第七軍司令部を訪れた者達が居た。
「御用件は?」
衛兵が問う。来訪者は人当たりの良い微笑を浮かべて、
「第七軍団長アレックス=シルバーフォート中将閣下に面会を願いたい」
「失礼ですが、お約束か何かは?」
「事前に通達を送ってある」
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?御取次ぎいたしますので」
「わかった。ラインハルト=シーザー。それが僕の名前さ」
衛兵はどうやら皇帝の名を知らなかったらしい。もしくはただの同姓同名だと思われたか。確かに来訪者は貴族らしい服装を着ていたが、皇帝らしい服装ではなかったかもしれない。供の人数も少なすぎる。侍女一人に護衛が男女一名ずつ。本当の皇帝だったら少なくとも数百人の近衛騎士を引き連れている筈だった。いや、それ以前に皇帝がこうやって訪問して来る事自体非常識だろう。当然、軍団長に用があるならば自分で赴くのではなく、呼びつければよいだけの事なのだ。そう思ったからこそ、この衛兵は何の詮索もしなかったのだろう。普通ならば皇帝の名を騙る不届き者として拘束されてもおかしくはないのだが。ただでさえ暴動の結果生まれた大量の拘束者によって、街の拘置所は満員状態なのだ。
つまらない理由で拘束者を出したくないという考えだろう。
「ではこちらでお休みください。確認をしてまいりますので」
衛兵は壮麗な待合室―――かつても同じような目的で使用されていたのだろう―――にラインハルト達を通すと部屋を出て行った。先程ラインハルトが言った事前の通達と言う物を確認しに行ったのだろう。
「さぞや軍団長も驚くでしょうねぇ。何せいきなり皇帝が訪れてくるんだもんね」
「ええ。普通ならば何日も前に通達が来て、豪華な歓迎の宴の準備をするところでしょう」
シエナとレイチェルがそう言って笑う。事前通達と言っても昨日送った物だ。昨日の昼間まではずっとお忍びの行動を取っていたのだが、昨日遂に自警団の砦が陥落したので、アルンヘル=へード少将が宿泊しているホテルに赴き、そこからアルンヘルに頼んで明日皇帝が訪れると言う通達を送って貰ったのだ。二人の会話を聞くうちに、ラインは昨日、アルンヘルの部屋を訪れた時の事を思い出した。
アルンヘルの宿泊して居る部屋の扉をノックすると、部屋の中からはいつもどおりの少し暗い声で返事があり、数秒と待たずに扉が開けられた。
「一体どなたでしょう?予定にない急な話でしょうか?」
戸口に姿を現したアルンヘルはそこに立つ皇帝の姿を認めて、かすかにその灰色の瞳を細めた。
「これはこれは陛下………なのですか?これはどういうことでしょう?………偽者ですか?」
瞳に警戒心が浮かび、指輪を嵌めた右手を掲げようとする。その身から殺気が溢れ出す。
まるでその殺気で相手が正体を自ら曝すかどうか試すかのようなほどの強力な殺気だった。
「………ッ」
殺気に当てられ、ラインハルトの表情が引き攣る。だが、殺気は突如として消滅した。どうやら、彼は皇帝が一人でない事に気付いたようだった。皇帝の背後には朱汐に手を掛けたヴァンと殺気に当てられて蒼白い顔をしたシエナがいて。それを見てアルンヘルがさすがに困惑したように、
「これはヴァン殿?それにシエナ様まで………と言う事は、陛下は本物でいらっしゃいますか?」
「ああ、本物だよ、アルンヘル=へード少将。久しぶり」
「ふむ………。確かに先程、自警団の砦陥落の報を送りましたが、いくらなんでも早すぎますね。あ、いや、今の御無礼はお許しください。陛下の姿に化けたエシュア殿かと思いまして」
言いながら、三人を部屋の中に招き入れて、ラインはアルンヘルのせいで荒くなっていた息を整えつつ、
「まぁ、良いよ。確かに突然だったわけだし。実は少し前からお忍びで来ていてね。観光していたんだ。エシュアには一応知られていたんだけど。アルンヘルの仕事の邪魔にならないようにと思ってね」
「これは御人が悪い。邪魔などと。それにもうここでの私の仕事はほとんど終わっております」
「うん。君のここでの最後の仕事。そして、余の仕事をするためにこうしてここを訪れたと言うわけだ。さて、とりあえずシルバーフォート中将には明日会うと言う旨、伝令を送っておいてくれないかな?」
「畏まりました。それでは陛下の御部屋をすぐに用意させましょう」
と、そんな会話の後、アルンヘルは部屋を出て行こうとして振り返り、
「それにしても、いきなり戸口に陛下とは………心臓に悪いです」
「お、お待たせしました、陛下」
「ん?」
意識を回想から現実に引き戻すと、待合室の戸口に先ほどの衛兵がこちこちに固まって敬礼していた。
どうやら目の前の少年が正真正銘の皇帝だと教えられたらしい。
「そんなに固くならなくても良いよ。それで、軍団長は?」
「はっ。執務室で陛下をお待ちしております。ご案内いたします。ど、どうぞこちらへ!」
ややどもりながらそう言い、手と足を同時に動かしながら歩く衛兵の後に続く皇帝以下四人。
歩きながらシエナがそっと囁く。
「あんなに固くなっちゃって。やっぱりラインは雲の上の存在なんだね」
「止めてよ、シエナ。僕はただのラインさ」
「御意!………なんてね」
「この」
舌を出して笑うシエナの額を軽く小突く。そんな会話をしているうちに、軍団長執務室の前まで来てしまった。がちがちに固くなった衛兵が扉を開け、
「ど、どうぞ」
「御苦労様」
「勿体無いお言葉でございます!」
必要以上に角ばった動きで敬礼する衛兵に見られないよう浮かべかけた苦笑を隠して、ラインは執務室に入った。入って正面の執務椅子には誰も座っていなかった。下座である扉の脇に、二人の軍人が片膝付いて控えていた。一人は高貴な生まれである事を髣髴とさせる銀の髪。それに金の瞳を持つ整った容貌に、引き締まった長身を持つ軍人。もう一人は経験豊かな海の男と言う感じの老人だった。
ラインハルトが執務椅子に腰を下ろし、その左斜め後ろにヴァン、右斜め後ろにレイチェルが護衛として控え、シエナは執務机の脇に立った。その上で、ラインハルトが声を掛ける。
「面を上げて。二人とも」
「はっ」
「御意」
二人が同時に顔を上げ、好奇心に満ちた眼光がラインハルトの蒼い瞳を見据える。
「アレックス=シルバーフォート中将であります、陛下。陛下の御尊顔を拝し、この上もなく光栄至極に存じ上げます」
「うん。突然の来訪で申し分けない」
「いえ。御呼びたて下されば参上いたしましたのにと恐縮するあまりでございます」
ラインが視線を移す。
「始めて御眼を汚します。ミラン=ヘルムート中将であります」
「ああ、海軍総司令官の。海軍はこれからの帝国にとってまさに死生の要。貴官には存分に働いて欲しい。フェニキア海軍南方派遣艦隊司令長官エル=カルウェル中将より大砲数門を譲り受けた。貴官に預ける故、国産化をも視野に入れ、存分に研究して欲しい。その為に本国より鉄砲の専門家たる洸安黄をすぐに呼び寄せよう」
皇帝の言葉にミランはかなり驚いたようだった。なにせ、かつてカズリク海上騎士団はフェニキア自由都市連合に対し、大砲の譲与を何度も求めたのに、その都度拒否されていたのを彼は知っていたからだ。
(さすがはフロレシア帝国………カズリクとは比べ物にならない政治力だ………)
彼は心底、フロレシア帝国側に付いて正解だったと確信した。
抵抗し、屈したキバ=スウェットもすぐに考えを改める事になるだろう。
(カズリクを支配する軍をこのシルバーフォート中将のような人物が束ね、皇帝がこのような広い視野を持つ人物ならばこの国は豊かになる………)
「大砲を………それは重畳至極にございます。必ずや国産化を成功させると誓いましょうぞ」
「うん。期待している。励んで欲しい」
「ははっ。この老いさらばえた命、陛下に捧げる所存であります」
「アレックス=シルバーフォート中将」
「はっ」
「良く軍を率い、旧自警組織団員による抵抗をよく鎮めてくれた。暴徒の手に掛かって総督グルジム=ハーン殿が亡くなられたのは大いに痛手ではあるけれど、貴官の奮闘によって、この素晴らしきカズリクの街における被害が最小で食い止められたのを大いに喜びとする。貴官がカズリクの住民にできるだけ死者を出さぬよう采配を振るわれたのは実に素晴らしい判断である」
「ありがたきお言葉にございます」
「余はカズリクの民に対し、強圧を以って君臨しようとはまったく考えていない。カズリクの民はフロレシアの民とまったく同じく、余の大切な臣民である。彼らから自由を剥奪する意思は余にはない。いや、カズリクだけでなく余はこのラスカーナ大陸全てを統べ、全ての民を分け隔てなく統べるつもりである。一部の貴族や領主が不当に搾取するのを余は決して許さない。それが余の考えである。貴官の存念を聞こう」
「はっ。カズリクはフロレシアにとってまさに死生を制する街と言えましょう。この街を統べるに強圧は効果を生みません。確かに表立っての反抗は無くなり、人々は従順になりましょう。だが、それではカズリクの民はいつまでもカズリクとフロレシアを別国として見ましょう。それでは陛下の覇道の妨げとなろうかと。カズリクの民が今まで行ってきた通りの方法を尊重すべきと心得ます」
「うん。では貴官をカズリク総督に任じる旨、内諾を与えよう」
「はっ………?」
「聞こえなかったのかい?」
思わず顔を上げたアレックスに対し、ラインハルトは優しげな微笑を浮かべて聞き返した。
「アレックス=シルバーフォート中将を伯爵に叙爵し、カズリク総督に任ず。尚、第七軍団長の職務は兼任とす。これが正式な辞令………と、まだ判を押していなかった」
懐からフロレシア帝国の国旗、《力強き銀獅子》の刻印が彫られた羊皮紙と玉璽を取り出し、その場で羊皮紙に判を押す。アレックスもミランも、そんな皇帝の行動をただ呆然と見守るのみだ。
判を押し、息を吹きかけて乾かすと皇帝は玉璽を懐に仕舞い、辞令をアレックスに差し出した。
「これで中将の総督就任が決まった」
「し、しかし、何故私なのですか?私以上に総督に適任たる人材はいくらでも………」
「不服なのかい?」
「そう聞かれれば不服ではないと答えざるを得ません」
「何がそんなに不服なんだい?」
「私は一介の軍人です。政治の事などほとんどわかりません」
「政治も軍事も行き過ぎない程度に貴官に一任する。政治を会合衆に一任するかどうかは行き過ぎない範囲に含まれていると理解している」
「…………」
聡明なアレックスなら、いや彼でなくとも皇帝の言葉の意味はわかっただろう。植民地の政治を名目上はともかく、実質的には現地の元からあった政治組織に委ねると言うのだ。これは現地住民の抵抗心を緩和させるのに大きな効力を持つであろうが、逆にカズリクがいつ帝国からの分離を計り始めるかわからないと言う危険性をも併せ持つ。つまり、総督の仕事とは―――
アレックスはその金の瞳をかすかに細めて、皇帝を見つめ。
「つまり、私の仕事はカズリクの会合衆が帝国にとって容認し難い決定を下さぬよう監視する役目、と理解して宜しいのですか?」
「そう言う事になる。ついでに言えば、会合衆の仕事は君の監視でもある。総督府が帝国の軍事力を背景に、カズリクに対し強圧的な政策を打ち出さぬよう監視する。会合衆には本国帝国府に対し、検察官の派遣を要請する権限を与える。当然、検察官の検察の結果、総督府の政策がカズリクの民に苦痛を与える物だと判断されれば総督は罷免される」
「なるほど、理解しました。つまりは巧妙な相互監視と言う事ですか」
「そう言う事になる。また総督は直接その管轄下にある訳ではないが、海軍とは常に協力関係を保持するよう。海軍の要請にはできるだけ応えるよう。それが皇帝である余の意思である。今後の帝国経済の支えたるはこのカズリクを拠点とする海上貿易にある。その海上貿易において、実を上げる為には海軍の整備が緊急の課題となる。今後十数年間を要してでも、海軍は艦隊の整備、士官の養成、兵員の訓練などに取り組んで貰いたい。その為には海軍では遥か先輩に当るフェニキア海軍より教えを乞うのがもっとも妥当だと考える。総督はカズリクの予算より一部を割いて海軍を援助するよう。また海軍には本国よりも財政援助を行う。また海軍のコルシカ島要塞およびその周辺海域はカズリク総督府の管轄外とする。両人、それで構わないだろうか?」
「御意のままに」
「過分の御配慮、身に余る栄誉と心得ます。陛下の期待に必ずや応え、世界最強の海軍を育て上げてご覧に入れます」
「頼もしい言葉だよ、ヘルムート中将。シルバーフォート中将。カズリクは地政学的に孤立しやすい位置にある。本国との連絡が途絶える可能性も今後、あると言わざるを得ない。総督になれば貴官は本国の指示を一切受けられない状態にあってもカズリクを保持しなければならない。多くの権限が与えられる代わりに責任も増大する。良く考えた上で、返答が欲しい。総督に就任してくれるや否や?」
皇帝の言葉に、全員の視線がシルバーフォート中将の面上に集った。
ミランも愛嬌たっぷりの人懐っこい笑みを浮かべて、
「閣下と共に仕事ができれば、私も嬉しい」
などと言う。アレックスはゆっくりと息を吐くように微笑を漏らして。
「ここまで具体的な話をされて、断わる馬鹿も居りますまい。陛下はつくづく御人が悪い。ただ願わくば、一つだけお許し頂きたい事があるのですが」
「ん?なんだい?可能な限り、貴官の望みを適えるよ」
「はっ。実は本日久しぶりに昔馴染みの知己に会いました」
「ん?」
アレックスが突然言い出した言葉の意味がわからず、ラインが小首を傾げる。
アレックスは真っ直ぐ皇帝の右斜め後ろを見つめて。
「そこにおりますレイチェル=ミラー。実は私の婚約者です」
「へ?」
思わず間抜けな声を上げて振り返る皇帝、その先で青い髪の美女は微笑を浮かべて頷いた。
「彼女の武芸の技を見込んで、総督の護衛に、彼女を就けては頂けないでしょうか?」
「婚約者………そうなのかい、レイチェル=ミラー少尉?」
「はい。確かに」
「で、ここに残りたい?」
「総督が私をご所望とあらば。ただし、隊長と副隊長のお許しもなく隊を抜けるのは―――」
「ヴァン?」
「―――はい。彼女が抜けるのは大きな戦力低下です。が」
「うん。こう言っては何だけどちょうど良いかもね」
「―――はい」
「よし。出て来て良いよ」
そのラインハルトの言葉と同時、部屋の空間が少しだけ歪んだような気がした。
今まで誰もいなかった暖炉脇に、一人の女が姿を現していた。ジェルナ=クレイスロールだ。
結局彼女はラインやヴァンと敵対するのを止め、戦闘機械ではなく人間としてその技術を活かす事にし、皇帝に仕える事にしたのだ。
彼女は蛇身環の力で己の身の回りだけに結界を張り、身を隠すこともできるのである。そして、短距離ならそのまま移動することもできる。その技術を活かして、彼女はこの部屋に忍び込んだのである。
―――暖炉から。
「ジェルナ=クレイスロール。君を白狼軍七番組長に任ずる。良いね?」
「―――御意」
「と言う事で、レイチェル。レベッカには余から言っておく。たった今から、君はアレックス=シルバーフォート総督の直護衛を勤めるよう」
「畏まりました」
「人事の正式な発表は数日後にでも高札で。総督の就任式はその数日後を予定している。詳しくはアルンヘル=へード少将に相談するよう」
「御意」
4 総督就任式
ラインハルトがアレックス達と会って、アレックスの総督就任の内諾を与えてから三日経った十二月十六日。高札が出され、新たな総督人事が正式に発表された。
その高札には広場で行われる総督就任式の予定も書かれてあった。
それによれば、総督就任式は四日後の十二月二十日となっていた。
就任式の準備は主にアレックスと皇帝直属の幕僚であるアルンヘル=へードが取り仕切った。
会合衆やエル=カルウェル・フェニキア海軍南方派遣艦隊司令長官等を式に招待し、その後の会食の用意も整えられ、本国からは式に出席するための皇帝正装が送られてきて。
前日の十九日には会場となる噴水広場に祭壇や出席者達の座る席などの用意が為された。
そして、就任式当日を迎えるのだった。
アレックス=シルバーフォートは新調した礼装に身を包み、カズリクの民が見守る中、祭壇の前へと進んで片膝を付いた。
祭壇の上には皇帝正装に身を包んだラインハルトが立っている。
彼の輝く黄金の頭の上には、これまた燦然と輝く黄金の王冠があり、彼の手には一振りの剣が握られていた。ただし、それはいつも彼が携えている覇皇剣サナトゥスではなかった。
列席者やカズリクの民衆達の見守る前で、ラインハルトは祭壇を降り、アレックスの前に立った。
「面を上げよ。アレックス=シルバーフォート」
「はっ!」
顔を上げたアレックスの右肩に、鞘に収めたままの剣先を置いて。
「覇皇フェルモアの血を引く第十五代フロレシア帝国皇帝ラインハルト一世の名の下に、汝アレックス=シルバーフォートをして、カズリクの総督に就任せしめんとす。我が父祖の血、ロデンの神、大地に溢れる数多の精霊達よ。この者を祝福せよ。この剣は我が意思に随い、我に代わりて汝を守るであろう」
「ははっ」
アレックスが頭を垂れながら両手を前に差し出す。
皇帝は彼の肩から持ち上げた剣を、その両手の上に乗せる。
次いで懐から璽を取り出した。カズリクを統べる者としての証となる物だ。
その璽も剣と共にアレックスの手に収まった。
皇帝は周囲に満ちる人々を見渡して、高らかに宣言した。
「以降、この者が殉職した初代総督グルジム=ハーンに代わって、この街と周辺地域を領す。汝らカズリクの民にとって、彼の者は余との連絡役と心得て貰いたい」
人々の間から歓声が上がった。それはアレックス=シルバーフォートを総督として受け入れる意思の表れだ。もしアレックスが暴徒鎮圧において軍事力をもっと積極的に使い、多くの死者を出していればこの歓声は無かったであろう。だが、歓声は全ての民があげている訳ではない。
中にはまだ帝国による支配を快く思っていない者も多く居るのだ。
ラインハルトはアレックスにしか聞こえないような小声で、
「良いかい、アレックス。ここに居る者達だけが意思を表明して居るわけじゃないよ。ここに来ないというのも彼らなりの意思表明なのだから。全てとは言わない。人間の考えは十人十色。人間の力にも限界はある。だけれども、八割程度の民衆に歓声と拍手を貰うような政策を心得て欲しい」
「―――御意。全ては我が陛下の御意思のままに」
民衆の歓声はうねりながら、さらに大きくなっていく。
広場を囲む建物の上階から、白い紙吹雪が風に流された。
さながら雪の如く、紙吹雪が美しい光景を描き出す。
皇帝が片手を上げると、軍楽演奏が始まった。ミッチェル=ワーレンハイト四番組長が指揮を執る。四番組は白狼軍の中で貴族出身者で編成されている特異な組だが、貴族らしい教養に溢れる組としてこう言った時には非常に重用する。
演奏しているのは第七軍の軍楽隊二百名余り。
と、海の方から砲声が響いた。フェニキア海軍の戦艦二隻がフェニキア式に礼砲を撃っているのだ。
そんな彼らの姿を冷めた眼差しで見つめている者がいた。皇帝が背を向けている総督府内の一室から男は就任式を眺めていた。
灰色の髪に灰色の眼差し。その身全体からなんとなく陰惨な気配を滲み出している様な男。
皇帝の直属幕僚と言う地位に居る、アルンヘル=へード少将だ。
「これで終わりではない………ここから始まるのです、陛下」
「覇道が、か?」
気配もなく部屋の中に入って来た白髪の男がそう言ってくる。
振り向いて、男の鋭すぎるほどの眼差しを浴びつつ、アルンヘルはかすかな微笑を漏らした。
「ええ。陛下は人の死を厭うておられる。だが再び、大きな戦が起これば、陛下の意思に関わらず、多くの兵が死ぬ。陛下は民にも兵にも慕われている。彼の夢を。この大陸から争いを無くそうとするその夢の為に兵は己の命も顧みずに戦うでしょう。そして、その結果、彼らは―――」
「戦に殉じて死ぬ。陛下の為に」
「そうです。陛下は今までも、人々の死に胸を痛めて来られた………。だが、今や大陸は五大国時代。陛下が覇皇を名乗られるには少なくともその内の三カ国を支配下に収めなければならない。その過程で、誰も死なせないなどと言う事はあり得ない。多くの死者が出る。誰も死なないよう、誰も争わないよう、誰も傷つかないよう、彼は大陸を統一しようとして居るのに。彼はこれからこの矛盾と戦わねばならないでしょう」
「今更だな。陛下は今までにも、そのような矛盾と戦っておられる筈だ。ルト=リューベンの乱の折もしかり。満月戦争の折もしかり。カラキシスでもそうだ。そして、カズリクでも。同じ覇道でも陛下は犠牲のより少ない道を選ぼうとしておられるように見える」
「ええ。そして、貴方や私のような者がその陛下の選択を助け、シエナ様が陛下の心を支えておられる。陛下はか弱いように見えるが、その実、私などは密かに彼以上の名君はいないのではないか、と思っているんですよ」
「ならばどうする?貴殿が次に考えている手は?」
「取り込みやすいのは、ルシタニアでしょうね。しかし陛下はレオン王を殺したくはないでしょう。ならば、同盟関係を強化するのも一つの方策です」
「…………」
エシュアは鋭い眼差しで、アルンヘルを見つめていた。では、どうする?とは聞かない。聞かなくてもわかることだからだ。そして、だからこそ、エシュアは眼を細めた。
「陛下が納得すると?」
「しないでしょう。私は憎まれる事になるかもしれない。ただ、これはできれば向こう側から申し出て欲しい案件なんですが」
「ならば何故、ここで話す?貴殿が裏でどのような工作をしようとも、私には一切関わりのない事。それで済ませられたはずだ」
「さあ?何故でしょう。ですが、貴方が調べようとすれば簡単にわかるのではないですか?既に私が打診の使者を送っている事も。貴方ならば既に調べがついているのでは?」
「買い被りすぎだな。暁は人手不足だ。スタルナス帝国にルーナ帝国、帝都の防諜、カズリク………。ルシタニアまで手が回らないのが現状だ」
「それは賛成と受け取って宜しいのですか?」
「………。私は現状を述べたまでの事」
エシュアはそう言って、踵を返した。
「私は近日中にも帝都へ戻ります。その後は暫く帝都を離れる気で居ますが」
「………。勝手にしろ」
エシュアが部屋を出て行って。アルンヘルは微笑をより深くした。
「意思は託しましたよ。もしかしたら私は陛下の不興を買って投獄ぐらいはされるかもしれませんから………」
再び外に目を向けて。列席者達がぞろぞろと総督府内に入って行くのを見下ろす。
街の名士を集めての会食。
「シルバーフォート中将や陛下にとってはあまり楽しい会食とは言えないかもしれませんが」
呟いて、彼もまた部屋の外へと歩き出す。
「私も出席者である以上、耐えなければなりませんか」
「総督就任おめでとうございます、閣下」
「ありがとうございます、グリード=エルブランド殿。貴殿の造船所には今後、我が帝国の海軍が大変お世話になる事と思うが、どうかよろしく頼みます」
そう言ってアレックスは優雅に腰を折って挨拶し、その場を離れる。
彼の隣には彼の護衛役であるレイチェル=ミラーが、胸元も露な青いドレスに身を包んで随っていた。
「ああ………疲れる」
疲労感にぐったりとし、人の群から抜け出しながら、アレックスは呻いた。
軍人である彼にとって、入れ代わり立ち代わり就任祝いを述べ、少しでも自分の名と商館を売り込もうとする商魂逞しいカズリク会合衆議員の相手をするのは大変骨の折れる作業だった。
「食べる暇もないから」
レイチェルは詐欺師的な完璧な笑みを浮かべて、人々の挨拶を受け流しながら言う。
「とか言いながらおまえはさっきから結構食べ、飲んでいるように見えるぞ?」
横目でレイチェルの持っている皿を見るといつのまに取ったやら様々な料理が盛られていて。
「あら?だって私は総督閣下ではないもの」
「ったく。それにしたっておまえがこっちに来てるなんてな。白狼軍と言ったか?陛下直属の護衛部隊」
「ええ。神に仕える清らかな乙女として私も推薦されたの」
一点の穢れもないような笑顔で、レイチェルが頷く。アレックスは彼女以外の者には決して見せる事のない素の表情で。
「何処が清らかな乙女なんだ?お偉いさん方を誘惑しては愛人になり、だけでなく脅迫して金を揺する凶悪詐欺師じゃないか」
「乙女にはいろいろとコネが要るのよ―――って、ほら、営業営業」
「む」
レイチェルの言葉に、咄嗟に社交用の微笑と言う仮面を被って振り向くと、そこには一人の少年が立っていた。病的と言えるほどに白い肌と美貌を持つ少年。髪は皇帝と同じ黄金だった。
その少年はアレックス以上の輝きを持つ極上の微笑を浮かべて、優雅に一礼した。
「総督就任おめでとうございます、閣下。お初にお目に掛かります。フェニキア海軍南方派遣艦隊司令長官エル=カルウェル中将と申します。今後は是非、御昵懇に」
「なんと司令長官閣下でしたか。わたくし、この度、総督に任じられたアレックス=シルバーフォートと言う者。こちらこそ以後お見知りおきを」
「わたくしも自己紹介させていただきますわ、閣下。わたくし、レイチェル=ミラーと申しますの。以後、どうぞよしなにお付き合い頂きたいです、閣下」
「え、ええ………」
軽くしななど作りながら名乗るレイチェル=ミラーに、エル=カルウェルがかすかに後ずさる。
アレックスはレイチェルにだけ聞こえるような小声で、
「おいおい、こんな子供まで惑わすのかよ。人生狂わせるなよ、可愛そう―――うぐっ!」
喋ってる途中で軍靴をハイヒールで思い切り踏まれ、アレックスは呻き声を上げて沈黙せざるを得なかった。その後、二、三、アレックスと言葉を交わした後エルは離れて行き、
「これは脈有りかも」
「悪女め……知ってるんだぞ、おしとやかな女から妖艶な女まで、おまえは演じまくるそうじゃないか」
「乙女は無闇に素顔は見せない物なの。感謝してよね。私の素を知ってる人間は少ないのよ?」
「まったくあり難くないね………」
「やあ、アレックス。楽しんでるかい?レイチェルも」
「あ、これは陛下………」
「ええ勿論、楽しんでおりますわ、陛下」
「それはよかった」
かすかにしなだれ掛かるような素振りを見せたレイチェルから器用に身を離しつつ、ラインが頷く。
「ん。そう言えば陛下、シエナ様はいかがなされましたのですか?」
「ああ、シエナなら今、便所に行ってるよ。それで余はこっちに避難して来た」
「―――避難?」
「あれの事ですか?」
怪訝そうな顔をするアレックスと異なり、レイチェルは先ほどの自分の誘惑に対する皇帝の態度から敏感に察し、会食会場の中央の方を、向こうからばれないように指差した。
アレックスもそちらを見やり、
「ああ………なるほど、そう言う事でしたか。さすがは陛下」
会食会場の中央では色とりどりのドレスで身を包んだ美女達がそれぞれ会話しつつ、ちらちらと皇帝の姿を目で追っているようだった。
「陛下はまだ一人身ですから。玉の輿を狙う娘達が多いのでしょう」
「もしくはその父親達の魂胆かもしれないですわよ」
アレックスの言葉もレイチェルの言葉も一理ある。
もし皇帝と結ばれ皇后にでもなれば、その娘は女性としては栄華を極めることになるし、その父親は皇帝の舅となるのだ。当然、その商館の力は飛躍的に増す。しかも上手く子を産めば次の皇帝位も狙える。
「もうすぐ陛下はルーガに帰られる。その前に手を付けて貰いたいと言う事ですわね」
「手を付けるって………なかなか露骨な言い方するんだね、レイチェル」
「あ?い、いえいえ、申し訳ありません。私とした事がなんてはしたない言葉を」
慌てて言い繕うレイチェルに、アレックスがぼそりと、
「本性を露にしたな。女狐め」
ドスッ。
「ッ………」
アレックスを肘内一発で黙らせ、レイチェルは完全に営業用の微笑を取り戻して、
「あ、シエナ様ですわ。こちらを見つけられないみたいですわね。私が連れてきてさしあげましょうか?」
「え?」
「あ………おい、護衛役が離れちゃ………」
そんな彼らの言葉は遮られた。いきなり数十人もの美女達に取り囲まれてしまったのだ。
「皇帝陛下、是非わたくしと踊ってくださいませんか?」
「いえ、わたくしと踊ってくださいまし!」
「総督閣下、今夜のご予定は?もしお暇なのでしたら是非わたくしと―――」
「何言ってるのよ、総督閣下は今夜は私と―――」
「う、うわ、あ、アレックス!」
「あう………って、こら、貴方達、それでも淑女なのですか!あぁ、ってどこ触ってるんですか!」
結局もみくちゃにされ、シエナとレイチェルが戻ってくるまで、彼らは抜け出すことが出来なかった。
そんな騒ぎも経て、日付が変わる頃に会食は終わり、列席者達は三々五々、総督府を出て帰って行った。
その中には、ぐったりとした皇帝を両側から支えるシエナとヴァン、なんて図もあった。
翌日。カズリクの市門前にて。
皇帝は眩しそうに空を見上げて、太陽がほとんど真上にある事を確認してから。
「さ。行こうか」
ヴァン、シエナ、レベッカを順繰りに見て明るく言う。
帰りもまたお忍びで帰る事にしたのだ。その為、見送り人の姿はない。
アルンヘルには明日にでも、アレックスに対し皇帝が既に帰った事を告げ、その後、皇帝を追って街を発つよう命じてある。今日はまだ皇帝がカズリクに居ると思わせるよう手を打つようにも命じてある。
念の為と言う処置だが、襲撃される可能性は少しでも減らしておこうと言う考えだ。
「ええ、行きましょう」
「―――はい」
「あいよ、陛下」
三人がそれぞれ頷き。そして歩き出した。懐かしの永遠の都ルーガに向けて。
歩きながらヴァンはふと後ろを振り向いた。と、そこには黒衣に身を包んだ五人組が歩いていて。
その先頭を歩く者の首には蛇が巻きついたかのような首輪が、南海の明るい日差しを浴びて金属的に輝いていたのだった………。
『五大国時代』 完
1 人間
帝国暦三三三年十二月五日から六日へと日付が変わってより暫し後。
港湾都市カズリクの裏町と言っても良い場所にその宿はあった。
家々の屋根が折り重なるように建物が密集し、窓を開けても隣の建物の少し赤茶けた壁が見えるだけで海を望む事はできない。ただ、開けた窓から入ってくる風は内陸の物とは異なり、塩臭さを含んだ海の物であった。その風に黒髪を遊ばせて、ヴァンはいつもと同じく窓際に椅子を置いて腰掛けていた。
そのエメラルドグリーンの瞳は迫り出した隣の家の屋根を掠めて、その先の月を見ていた。
屋根によって視界を遮られ、夜空はまるで小さな箱庭のようだった。
夜空に輝く月。まだ月齢は早く、三日月よりもやや肉厚と言う程度の大きさだ。
それでも、月のない夜に比べれば随分と明るい。
「ん………シエナ」
かすかな声に、ヴァンがそちらを顧みる。
粗末なベッドが部屋の隅に置かれてあった。そのベッドで横になっているのは本来ならば城の豪奢なベッドに横になっているはずの高貴な身分の者。
フロレシア帝国皇帝ラインハルト一世その人だった。
月の光の恩恵を受けない部屋の暗がりの中にありながら、彼の黄金の髪はまるで輝いているかのようだった。白磁の如き滑らかで白い肌と布団から覗いている華奢な腕からは男らしさは感じられない。
少女だと言われれば、そのまま納得してしまうほどのきめ細かい肌をしている。
幼馴染の名を呟き、幸せそうに眠るその寝顔は実に穏やかだった。
呼ばれた幼馴染はレベッカと共に隣の部屋で寝ている筈だ。
「………」
ヴァンは己の纏っている服の袖を肩まで捲り、じっと二の腕に彫られた刻印を見つめた。
鉤十字の紋章。ヴァンを育てたハーケンクロイツ孤児院の紋章だ。
その紋章は孤児院にとってはブランド品に付けるシンボルマークのようなものだろう。
だが、商品としての価値しか有していないヴァン達にとってみればその紋章は………
烙印以外の何物でもなかった。身体に刻まれ、一生消すことのできない烙印。
自分があの地獄を生き延びた戦闘機械であるという事実を忘れさせない為の烙印。
自分が彼らにとって、孤児院の名を上げ、商品をより高額で売り捌くための道具、広告であると言う印。
「…………」
無言のまま、ヴァンはその紋章を手で覆い隠した。同時に脳裏にあの男の声が蘇る。
『お前達の出来る事は人間を殺す事だけだ。なぜなら、人間を殺すための教育しかしていないからだ。お前達の存在意義はハーケンクロイツ孤児院の名を挙げる事。それ以上でも以下でもない。ここを卒業し、お前達を買う者が何者であろうと、お前達の為すべき事に変わりは無い』
自分を見下ろして。自分を殴って。自分の襟首を掴んで。
男が言っていた言葉。何度も何度も、脳に刻み付けるかのように男が言った言葉。
(出来る事は人間を殺す事だけ………)
その為に剣を覚えさせられた。人を斬る為の剣。
確かに今、自分は皇帝の直護衛として剣を守護の為に使っている。
だが、している事は結局、同じ事なのだ。この剣を使って人を殺める。
人を斬る為の剣を使って、人を守ると言う名目の下に、人を斬っているのだ。
(何が違う………)
あの男が自分に求めた事と一体何が違うのだ?
結局自分も、彼らが求めた通りの戦闘機械なのではないのか?
人を殺すための、便利な道具。
「………ッ」
と、そこでヴァンは弾かれたかのように己の身を前へと投げ出した。
背後で、何かが何かを切り裂く音がした。
床に手を着き、ベッドの脇まで飛び退く。そこで振り返れば、先程まで彼が座っていた椅子がばらばらに壊されていた。そして窓際に、一人の女が立っていた。
二の腕の半ばと太股の半ばまでを覆う黒い戦闘服。露になった二の腕の鉤十字の紋章。
鋭い顔付きに、複雑な色を浮かべた瞳。首には蛇が巻きついたかのような装身具。
自分が何故今日、ここ暫く考えもしなかったあの孤児院の事を考えていたのか、なんとなくわかった気がした。ヴァンは立ち上がり、朱汐を抜いた。
「―――確か、ジェルナ=クレイスロール………」
「記憶力は確かなようだな」
目を少しだけ細めて、女暗殺者ジェルナ=クレイスロールは言った。
「―――襲撃は失敗した。第一撃を回避された以上、留まる必要はないだろう、去れ」
「またその台詞か。進歩のない」
「―――何度でも言う。あの孤児院ではあまりにも多くの死が生み出された。これ以上、あの孤児院の出身者が死ぬ必要はない。去れ」
「去る理由はない」
「―――愚図愚図していれば、他の護衛も駆けつける」
「他の護衛?それはない」
ジェルナが口元にかすかな笑みを浮かべる。嘲笑うような笑みだった。
だが、目だけは冷静にヴァンの隙を探っている。
「どういう事だ?」
間を保つ余裕を失い、やや焦ったようにヴァンが呟く。だが、答えをジェルナが口にするよりも早く、彼自身が気付いていた。世界があまりにも静か過ぎることに。
さっきまでは微かながらも風の音や虫の鳴き声などがしていた。
気にならないほどのかすかな音だったが、今ではそれすらも聞こえない。
「結界か………」
「その通り。この―――」
と言って、ジェルナは己が首にしている蛇が巻きついているかのような形をした装身具に触れて、
「蛇身環の力。この部屋は私の張った結界の中。この中でいくら暴れようとも、外の者にそれを知られることはない」
「―――どうしても去る気はないのか?」
ヴァンの口調は普段どおり淡々としているが、普段よりも遥かに口数が多かった。
「ない。私は既に依頼人からは解雇された。だが、そんな事は関係ない」
「―――何故だ?解雇されたのなら陛下の命を狙う理由は無い筈だ」
「ある。私は今まで、全ての暗殺対象を葬ってきた。例外を作り出す気はない。あの孤児院で生き残った者の務めとして、最高の戦闘機械になりきる。それが私の全て。そして、貴様もまたあの孤児院が生み出した戦闘機械なのだ。戦え」
ジェルナの言葉に、ヴァンのエメラルドグリーンの瞳が悲しげに細められた。
「―――戦闘機械………本当にそうなのか?」
「そうさ!心を持たない。だから躊躇わない。悔いない。喜びも悲しみも、憎しみも怒りも感じない。全ての敵を殺す戦闘機械。それが我々の宿業。そして、戦い、殺すことが我々の存在理由」
「本当にそうなのかい?」
声はジェルナのものでもなく、ヴァンのものでもなかった。
「陛下!」
「大丈夫」
振り向こうとするヴァンにそう言って、ラインハルトはベッドから降りた。
その手には覇皇剣が携えられている。ジェルナはそんな皇帝をキツイ目で睨み付けて。
「どういう意味だ!?」
そんな殺気さえ放っているジェルナの瞳を、澄んだ蒼い瞳で見つめ返して。
「本当に感情を感じないのかい?何も?」
「感じない」
奥歯を噛み締めるようにして、ジェルナが断ずる。
ラインハルトはかすかな微笑を浮かべて、首を振った。
「それは違うな。君は嘘を吐いている」
「な、何を根拠に………」
「現に君は今、『狼狽』しているじゃないか。それに、前に襲い掛かってきたとき、ヴァンに殺されなかったと言う屈辱に、君は『怒り』を感じていたんじゃないのか?」
「ぐっ………」
「君は感情を押し殺すことなんかできちゃいない。君は戦闘機械なんかじゃない。感情も何もない、ただ殺すためだけに存在する道具じゃない。人間なんだ」
そこで皇帝がヴァンを見たのが、背中越しにもヴァンにはわかった。
この皇帝の眼差しには不思議な力がある。見つめられていると暖かさを感じるのだ。
今も、背中が暖かい。陽の光のような。思わず目を瞑り、身を預けたくなるような。
「ヴァンも、君も、戦闘機械なんかじゃない。喜びも悲しみも、憎しみも怒りも感じるし、悔いも躊躇いもする。そうだろう、ヴァン?」
「―――はい」
頷いていた。頷くことができた。さっきまで悩み、答えなど見つからないと思っていた問題の答えが、呆気なくこの皇帝の口から滑り出た。
(人間………)
おまえは人間だと。戦闘機械なんかではない、と。
ただそれだけの言葉で、これほど簡単に彼の心の重しは消えてしまった。
悩んでいた自分が馬鹿のように思える。自分は道具なんかじゃない。人間なのだ。
「―――俺達は道具ではない。ジェルナ=クレイスロール。道具なら何故ここへ来た?」
「………黙れ」
「誰からの命令も受けず、何故、道具であるはずのおまえがここへ来た?道具に意思はない。意思なく使われるだけ。それが道具だ。なのに、おまえはここに来た。それは何故だ?」
「……黙れ!」
「それは―――」
「…黙れ!!」
ジェルナが叫んだ。結界の中でなければ、五軒向こうまでも鳴り響くような大声で。彼女は恐れているのだ。ヴァンの言葉を聞いて、自分の中の価値観が変わってしまうのを。しかし、ヴァンが言葉を止める事はなかった。彼は淡々とした声音で、続けた。自分が感じた、感じる事の出来た感動を、彼女にも感じて欲しかった。それが彼の意思だったから。
「おまえが人間だからだ。人間として、己の意思でここまでやって来たからだ。ジェルナ=クレイスロール。おまえは道具じゃない。人間だ」
「くっ………!今更、今更そう簡単に自分の生き方を変えられるかッ!私にはこれしかないんだッ!!」
叫んで、ジェルナが床を蹴って飛び上がった。壁を蹴り、さらに天井を蹴って、斜め上からヴァンに襲い掛かる。彼女の両手にはいつの間にか鋭い短刀が握られていて。
「死ね、ヴァン=ブレイスッ!!」
「死ぬ訳には、いかないッ!」
ヴァンが朱汐を一閃させ、ジェルナの手から二本の短刀を弾き飛ばす。ジェルナは一挙動で、ヴァンの脇をすり抜けた。その口に、短刀を咥えている。そのまま彼女はラインハルトの首にその短刀を突き刺そうとして。
ガッ―――。
「ぐッ………」
背後から振るわれたヴァンの一撃を受けて、倒れた。
彼女の首を、ヴァンが剣の背で叩いたのだ。だが、まだジェルナは気絶していなかった。
立ち上がり、ラインハルトの前にヴァンが立ちはだかっているのを見て、顔を歪める。
「どうしてだ………どうしてこうも違う。なんで同じ孤児院で育った者同士、こうも力量に差がある!」
「俺は変わった。クリケット卿に買われてからの十年で………俺は命の尊さを学ばせられた」
「くっ………」
ジェルナが跳び、部屋の反対側へと退いた。
「追いはしない。考えろ。自分のこれからを」
「変わろうと思えば、いや、思う事こそ、変わる為の第一歩だよ」
そう言う二人を殺気さえ含んだ眼差しで睨み、
「次に会う時はさらに強くなって来る。それまで待っていろ」
ジェルナはそう言うと、首にしている蛇身環を外し、掲げた。
「蛇身環!」
すると環の内側から白い光が溢れ、世界を塗りつぶした。
咄嗟にラインハルトもヴァンも腕をあげて光から目を守る。
徐々に光が薄れていき、目を開けると………既に彼女の姿はなかった。
結界も消えたのだろう。風の音や虫の鳴き声が世界に戻ってきていた。
「―――彼女は変われますか?」
問うヴァンに、ラインハルトはふわぁと欠伸を漏らしながら。
「大丈夫さ。決められた生き方に頼らなくちゃ生きていけないほど彼女は弱い心の持ち主じゃない。そう思うでしょう?」
「―――はい」
「さあ、寝よう。これじゃ明日は寝不足決定だな。明日は海に行くんだからさ」
そう言って、ラインハルトはさっさとベッドに潜り込んで行ってしまう。
ヴァンは皇帝が軽く寝息を立て始めるまでの数分間、ずっと目を瞑った若き皇帝の横顔を見つめていた。
それから、部屋に一脚しかない椅子を壊されてしまった為に仕方なく壁際に腰を下ろす。
窓から先程まで見えていた月は既に屋根によって見えない位置にまで動いていた。
(貴方は本当に凄い人だ………)
皇帝の泊まっている宿から数ブロックも離れている建物の屋上の片隅で。
ジェルナ=クレイスロールは月を見上げていた。
去り際の皇帝の声が耳朶を離れない。
『変わろうと思えば、いや、思う事こそ、変わる為の第一歩だよ』
(私は戦闘機械、人を殺すための道具………)
今まではそう呟く事であらゆる感情を制御して来た。感情を制御できたからこそ、あの通常の神経では到底耐えられない卒業試験にも耐え抜き、生き残ることができたのだ。
感情を殺し、殺人機械になりきり、友達だろうが、好意を寄せていた男の子だろうが関係なく無差別に、切り裂いてきた。
なのに、あの皇帝に戦闘機械である事を否定され、道具である事を否定され、人間だと告げられて。
その言葉に安堵している自分を見つけてしまった。
(私は戦闘機械、人を殺すための道具………)
いくらおまじないのように呟いてみても、その安堵感、その喜びを抑える事ができなくて。
体中が熱を帯びているようだった。焼けるような熱さではない。
包み込むような暖かさだ。誰かに柔らかく抱きしめられているような感触。
「う………く………」
屋上に座り込み、膝を抱えて身を丸めて。
頬を伝わる熱い液体の感触に愕然とした。膝を抱える両手が、いや、体中が震え出していた。
(涙………私、泣いてる………?)
涙を流すなんて、何年振りだろう………?
何年もの間、押さえ込んでいた感情が溢れ出し、体中の血管を駆け巡っている。
全てを押さえ込み、冷たくなっていた体を暖かな感情が侵食していく。
(戻れない………戦闘機械である自分に………)
「いや………戻りたくない」
恐ろしかった。昔の自分が。もう二度と戻りたくないと思った。
(私は戦闘機械じゃない………人を殺すための道具でもない………)
全身の震えを止めるために、彼女は新しいおまじないを必死に唱えていた。
(私は人間………私は人間………私は人間………)
知らなかった。人間の体温がこんなにも、暖かなものだったなんて。
2 フェニキアの提督
帝国暦三三三年十二月六日。
ラインハルトはシエナ、ヴァン、ハーヴェイを連れて、カズリク港を見学していた。
服装は一般的な貴族装束で、供の人数もフロレシア帝国の地方貴族の息子と言う触れ込みであれば納得できるほどではある。レベッカの二番組は今日も砦の方の様子を見に行っており、ハーヴェイの三番組がラインハルトの周辺で護衛を務めていた。昨日丘の上から見下ろしたときよりも、さらに潮の香りが強い。商港の方には無数の小型漁船やそれよりも随分と大きい商船が停泊していた。漁は主に早朝から朝に掛けて行われるので、漁船のほとんどは既に漁に行って、帰ってきていたのだ。
商船は所有者である商館の紋章やフェニキアの国旗である《十六の永遠に自由なる鳥》の紋章を帆布に描いてある物などが多く見られたが、他にも様々な国旗を掲げた商船が停泊していた。
カズリクでは西の群島諸国、さらにその西のカルフィナ大陸とも海上交易を行っているので、ラインの知らない紋章はその辺りの国の物かも知れない。
「凄い船の数ねぇ。それに皆、大きいし」
シエナが感嘆の面持ちで言う。彼女もラインも、ローデンス湖で漁をする小型の漁船や或いは運河などを航行する艀などしか見た事がないため、漁船と言えども遠洋漁業用の大型漁船などはかなり大きく思えた。そんな内陸者丸出しの二人に対し、ヴァンは無言、案内役のハーヴェイは、
「まだまだこの程度じゃあ驚くには値しませんよ、陛下。さ、次は軍港へ行きましょう」
軍港と言っても厳密に言えば別に商港との間に仕切りがあるわけではなく、カズリク湾の東側に商船や漁船、それらに関連する卸売市場や商館などが集中しているのに対し、西側に軍艦などが停泊し、大使館や造船所などが作られている為になんとなく分けられていると言うに過ぎないのである。現在、第七軍と反帝国派が対峙している自警団の砦はカズリクの東側地区でも北部の方にあるため、港周辺の住人は避難の対象外とされていた。軍港には現在五隻の軍艦が停泊していた。
「あれがフロレシア帝国海軍の三隻だね」
軍港の東側に固まって停泊している三隻の軍艦を指差して、ラインハルトがハーヴェイに聞いた。
「はい。東側から順に旗艦の『エルブランド』、『カズリク』、『カルア』の三隻です。元は海上騎士団の軍艦でしたが、海上騎士団解散、海軍設立と同時に海軍の所属艦となりました」
「『エルブランド』?って、会合衆の?」
「はい。『エルブランド』は会合衆議長グリード=エルブランドの出資によって建造された軍艦だそうで。彼の名を取っているそうです。建艦されたのもエルブランド造船の船台で、だそうです」
ハーヴェイは己の知識を嬉しそうに披露する。その間も、怪しまれないように歩調は変えない。三隻の軍艦が停泊している桟橋付近には武装した水兵の姿がちらちらと見えた。
まだ自警団の抵抗が終わってはいないので、警戒も厳しいようだ。
と、さらに進むうちに、先ほどの軍艦とは比べ物にならないほどに巨大な二隻の軍艦が姿を現した。
「大きい………それに黒いな」
ラインハルトはその大きさに圧倒されつつ呻いた。二隻の軍艦は外装を全て黒く塗り潰していたのだ。フロレシア帝国海軍の軍艦が木肌のままの色なのと比べればとかく目立つ。まさに黒船だ。
「これがフェニキアの………」
シエナも圧倒されたように呟く。ハーヴェイは自分の事のように胸を張って、
「左側のが戦艦『ユニコーン』、右側のが戦艦『グリフォン』です」
一隻だけでもフロレシア海軍全てより勝ると言う戦艦が二隻。黒く塗ってある事もあり、威圧感に溢れている。ラインハルトは舷側に閉じられた窓のような物が沢山あることに気付いた。
「ハーヴェイ、あの窓のような物はなんだい?」
それを指差し、ハーヴェイに聞く。するとハーヴェイは待ってましたとばかりに頷いて。
「あれが大砲ですよ、陛下。あの窓の中に大砲が一門ずつ置かれてあって、戦闘時にはあの窓を開けて、大砲を撃つんです。普段は潮風に当たって錆びるのを防ぐためにああやって窓を閉じてるんですよ」
「なるほど………あれが大砲か………」
窓の数は二十個近くある。反対舷にも同じだけあるならこの軍艦は四十門もの大砲を搭載していると言う事になる。
「さ。陛下、いつまでもここに立ち止まっていると怪しまれます。そろそろ移動しましょう」
ハーヴェイがそっと耳打ちし、
「うん、そうだね」
頷いてラインハルトが振り返ったその先で。
「―――あれ」
「うわ」
「な、なんで?」
「…………」
いつの間にやら武装した水兵達が彼らを取り囲んでいた。
武器を構えてはいないし、敵意も感じられなかったが、完全に包囲されている。
ヴァンが自分の背でラインを隠し、ハーヴェイがシエナを下げさせながら一歩前に出る。
「えぇと、我々は別に怪しい者では………いや、その前に隊長さんは?」
「私です」
ハーヴェイの言葉に、髭面の水兵が進み出て、ラインハルトの顔を一瞥する。
「そちらの御仁はフロレシア帝国皇帝陛下とお見受けします。我がフェニキア海軍南方派遣艦隊司令長官エル=カルウェル中将が旗艦『ユニコーン』艦上でお待ちです。昼餉など御一緒にしながら歓談したいとの思し召しなのですが。いかがでしょう、お受け頂けますか?」
「―――と、言う訳みたいですよ、陛下?」
一歩下がり、小声でハーヴェイが意向を尋ねてくる。ラインハルトは少しだけ顔をしかめて。
「どうして余が皇帝だとばれたんだろう?」
「さあ?―――どうして、彼が皇帝だと思うんでしょう?」
すると隊長はにこりと愛想良く笑って。
「我らが司令長官は帝国の貴人の顔は大抵覚えておられます。もっとも、陛下の玉顔は似顔絵などで拝見しただけで確信は無かったようですが。私に確認して、もしそうならばお誘いするよう命じられました」
「―――だ、そうですよ、陛下?どうします?受けますか?ええと、貴方の階級を聞いて良いですか?」
「フェニキア海軍よりは曹長の位を頂いております」
「曹長。曹長ね。あ。ちなみに俺は少尉だから。まあ、それは良いんだが、陛下をお誘いするのにこう言っちゃなんだが、たかが曹長風情を使いに送ると言うのはどうも感心しないね。その中将とやらが自分で誘いに来るべきだろう。それとも、フェニキアにはそう言うしきたりでもあるのか?」
言って、熱気のある瞳を細めて睨み付けるハーヴェイ。すると曹長は恐縮したようで、
「仰られる通りです、少尉殿。すぐに閣下にその旨お伝え―――」
「いや、良いよ。お誘いを受けようじゃないか、ハーヴェイ」
「しかし、良いんですか?ここで誘いを受けると軽く見られるって事も」
「そんなの別に構わないさ。たかが中将風情に軽く見られたって両国の関係には何の関わりも無い。それにここで無駄に時間を使うと目立つしね」
「そう言えば大分、野次馬が増えてきたわね」
ラインハルトの言葉に、シエナが周囲を見回すと物見高い人々が既にかなり集まっている。
ここで悠長に連絡の取り合いをしていたら彼が皇帝だと言う事がばれてしまうだろう。
お忍びで来ている以上、それはまずい。
「少なくとも第七軍が砦を落とすまでは姿を隠していたいからね」
「―――わかりました。そう言う事だ、曹長。案内して貰おうか」
ラインハルトの物言いに曹長がやや不満そうな顔を見せるのを、にやりと笑みを浮かべて見つめ、ハーヴェイが促す。曹長は頷いて。
「それではこちらへどうぞ」
皇帝一行を包囲していた水兵の群は一瞬にして、一行の護衛へと姿を変えた。
「ハーヴェイ、三番組は?」
「野次馬の中にでも紛れてるんでしょう。船内で何かあったら俺と隊長で何とかします」
「ん。頼んだよ」
「御意」
甲板に上がって見ると船が波によってかすかに揺れているのが感じられた。
「ほんとに大きな船ねぇ」
「さしずめ、水兵もかなりの数が乗ってるんだろうな………」
「ちょっと、止めてよ、ハーヴェイ。不安になるじゃない」
「おやこれは伯爵令嬢。気丈な方だと思っていたが」
「ふざけないで。甲板から叩き落とすわよ」
「…どうもすみませんでした」
「こちらです」
ハーヴェイとシエナの会話を遮って、曹長が一行を船内へと案内する。
さすがに戦闘艦なだけあって、通路は複雑だった。ラインハルトはすぐに自分が今船の何処にいるのかわからなくなった。
「こちらが司令長官室です」
通路の突き当たりの部屋の前でそう言い、曹長が扉をノックした。
「閣下。フロレシア帝国皇帝陛下をお連れいたしました」
「―――どうぞ」
船内から女性のような声がした。それを怪訝に思う間もなく、曹長が扉を開けたので、ラインハルト達は部屋の中へと入って行った。最後にハーヴェイが入った所で、曹長が扉を閉める。
「お誘いをお受け頂き、真にありがとうございます。このような姿での御無礼、どうぞお許しください」
優雅な物言いで、腰を折って挨拶して来たのはまだ子供だった。
ラインハルトと同じ位輝いている黄金の髪、ラインハルトの健康的な白さとはやや異なる、病的な白さを持つ肌。その容貌は女性かと見紛う程に美しかった。
「南方派遣艦隊司令長官を務めます、エル=カルウェルと申します」
「余はラインハルト一世。この度は昼餉の誘い、ありがたく受けさせて貰った」
エル=カルウェルは軍服を着ていなかった。真っ白な病衣を纏っていた。部屋には壁際にベッドが置かれており、シーツにやや乱れがあった。どうやら遂寸前まで横になっていたらしい。
部屋にはその他に様々な本が収められた本棚と六人掛けのテーブルがあり、そのテーブルの上には確かに料理が載っていた。エル=カルウェルは微笑を浮かべて、
「さあ、どうぞ席にお座りください」
と言って、自分はさっさと下座にある他の五脚とは仕様の異なる、ゆったりとした椅子に腰を下ろす。
「虚弱体質の美少年………本当に居るのね、こういうの」
小声でシエナが囁くのを背にしつつ、ラインはエルの真正面の椅子に腰を下ろした。
長方形の短い辺にラインとエルが座ったため、長い辺に他の三人が分散して座った。ラインの左側にシエナ、その隣、つまりはエルの右側にハーヴェイ、ラインの右側にヴァンと言う席順だ。
エル=カルウェルは早速ナイフとフォークを持って肉料理を食べやすいように切りながら、他の五人が同じようにナイフとフォークを動かすのを見つめていた。
「安心してください。毒などは入ってませんから」
「だとしても一応、毒見はさせていただきます」
「ええ、勿論結構ですとも」
シエナがエルの許しを受け、ラインの皿の肉を口に放り込む。
もぐもぐ………ごくん。
「うん。おいしい。食べても大丈夫ですわ、陛下」
「ありがとう、シエナ」
ラインハルトはいつもよりもやや平坦な声音で、言う。今は公の場と言っても過言ではない。
シエナと自分は幼馴染ではなく、皇帝と侍女と言う立場にあるのだ。
ラインハルトは一口大に切った肉を口に含んだ。香草の香りが心地良く嗅覚を刺激する。
肉はほとんど顎に力を入れなくても噛み切れ、濃い味わいが口の中に広がる。
「お口に合いますでしょうか?」
「うん。おいしいよ。それで、中将?何か余に話があって呼んだのではないのかな?」
「いえ?特にはなにも」
「―――そうなの?」
「ええ」
エルはにっこりと笑って頷いた。
「だったらこちらから幾つか聞きたい事があるんだけど」
「ええ。なんなりと」
「どうしてスザンに居た筈の戦艦『グリフォン』をカズリクへ?」
「南方派遣艦隊の旗艦はこの『ユニコーン』です。スザンがスタルナス帝国の侵攻を受け、治安状況が悪化したため、『グリフォン』には旗艦との合流を命じました。その点に何かご不審が?」
「では『グリフォン』の回航に政治的な意図はない、と?」
「政治的な意図?はて、政治的な意図とは何を指しておられるのですか?」
エル=カルウェルは人当たりの良い微笑を浮かべて聞き返した。
だが、その笑顔からは心の中を読み取る事はできない。なんとも掴み所の無い笑みなのだ。
「二隻の軍艦が並ぶ様は実に壮観で、威風堂々としていた」
エル=カルウェルもラインハルトもいつの間にやら手を止めていた。
他の四人も同じである。全員が、二人の会話に耳を傾けていた。
「まさか陛下は我々が陛下を威圧するためにカズリク港に停泊しているとお考えなのですか?」
「その疑いを強くするか消すかは貴官の返答次第だ」
ラインハルトの透き通るような輝きを帯びる蒼い瞳が、エル=カルウェルの笑顔の奥に隠された何かを見つめているかのように細められた。エル=カルウェルの笑みがかすかに強張る。
「………。勿論、そのような意図はありません。本国からもそのような指示は受けていませんし、私自身、そのような事は微塵も考えておりません」
「そうか。その言葉が聞きたかった」
ラインハルトは微笑を浮かべ、再び手を動かして料理を食べ始めた。
そして、そのまま手を動かしながら何気ない口調で、
「ときに貴官に無心したい事があるんだけれど」
「は?無心、ですか?」
かすかに不意を打たれたような表情で、エルがラインハルトを見る。
シエナもハーヴェイも次にラインハルトが何を言い出すのだろうかと興味津々の目で見つめている。
ヴァンだけは別に興味も無いという風に、いつもどおりの目をしていた。
「うん。君が持っている大砲、何門か譲ってくれないだろうか?」
「は?大砲………ですか?」
「そう。両国の友好の証に」
「友好の証………ですか」
エルは少し考え込んで、
「―――宜しいでしょう。陛下に頼まれれば否とは申せません。数門で宜しければ艦から取り外しても大した戦力低下にはなりませんから」
巧妙にフェニキア軍艦の戦力を誇示しつつ、エル=カルウェルは頷いた。
ラインハルトは満面に笑みを浮かべて、
「ありがとう、中将」
「いえいえ」
昼餉が終わると、エルは病弱な身をおして、甲板まで皇帝一行の見送りに出てきた。
「大したおもてなしもできず―――」
「いやいや、余は非常に満足だよ」
「それでは陛下、お元気で」
「君もね、中将」
「―――はい」
艦から降りて、とりあえず二隻の軍艦が見えなくなるぐらいまで移動して。
「にしてもびっくりしたぁ、まさかラインがあそこまで図々しいとは」
驚きに目を見開いて、シエナが笑いながら言う。ラインは頬を赤く染めつつ、
「でもこれで、帝国海軍も大砲を手に入れた。ルーガから洸安黄を呼んで研究させよう。鉄砲の国産化は既に成功してる。次は大砲の国産化だ」
皇帝の目は未来を見据えているかのように、輝いていた。
3 お忍び終了
帝国暦三三三年十二月十三日。
最後の抵抗拠点となっていた自警団の砦が陥落した翌日。
後始末に未だ尚忙しく人々が出入りする元会合衆議場、現第七軍司令部を訪れた者達が居た。
「御用件は?」
衛兵が問う。来訪者は人当たりの良い微笑を浮かべて、
「第七軍団長アレックス=シルバーフォート中将閣下に面会を願いたい」
「失礼ですが、お約束か何かは?」
「事前に通達を送ってある」
「お名前をお伺いしてもよろしいですか?御取次ぎいたしますので」
「わかった。ラインハルト=シーザー。それが僕の名前さ」
衛兵はどうやら皇帝の名を知らなかったらしい。もしくはただの同姓同名だと思われたか。確かに来訪者は貴族らしい服装を着ていたが、皇帝らしい服装ではなかったかもしれない。供の人数も少なすぎる。侍女一人に護衛が男女一名ずつ。本当の皇帝だったら少なくとも数百人の近衛騎士を引き連れている筈だった。いや、それ以前に皇帝がこうやって訪問して来る事自体非常識だろう。当然、軍団長に用があるならば自分で赴くのではなく、呼びつければよいだけの事なのだ。そう思ったからこそ、この衛兵は何の詮索もしなかったのだろう。普通ならば皇帝の名を騙る不届き者として拘束されてもおかしくはないのだが。ただでさえ暴動の結果生まれた大量の拘束者によって、街の拘置所は満員状態なのだ。
つまらない理由で拘束者を出したくないという考えだろう。
「ではこちらでお休みください。確認をしてまいりますので」
衛兵は壮麗な待合室―――かつても同じような目的で使用されていたのだろう―――にラインハルト達を通すと部屋を出て行った。先程ラインハルトが言った事前の通達と言う物を確認しに行ったのだろう。
「さぞや軍団長も驚くでしょうねぇ。何せいきなり皇帝が訪れてくるんだもんね」
「ええ。普通ならば何日も前に通達が来て、豪華な歓迎の宴の準備をするところでしょう」
シエナとレイチェルがそう言って笑う。事前通達と言っても昨日送った物だ。昨日の昼間まではずっとお忍びの行動を取っていたのだが、昨日遂に自警団の砦が陥落したので、アルンヘル=へード少将が宿泊しているホテルに赴き、そこからアルンヘルに頼んで明日皇帝が訪れると言う通達を送って貰ったのだ。二人の会話を聞くうちに、ラインは昨日、アルンヘルの部屋を訪れた時の事を思い出した。
アルンヘルの宿泊して居る部屋の扉をノックすると、部屋の中からはいつもどおりの少し暗い声で返事があり、数秒と待たずに扉が開けられた。
「一体どなたでしょう?予定にない急な話でしょうか?」
戸口に姿を現したアルンヘルはそこに立つ皇帝の姿を認めて、かすかにその灰色の瞳を細めた。
「これはこれは陛下………なのですか?これはどういうことでしょう?………偽者ですか?」
瞳に警戒心が浮かび、指輪を嵌めた右手を掲げようとする。その身から殺気が溢れ出す。
まるでその殺気で相手が正体を自ら曝すかどうか試すかのようなほどの強力な殺気だった。
「………ッ」
殺気に当てられ、ラインハルトの表情が引き攣る。だが、殺気は突如として消滅した。どうやら、彼は皇帝が一人でない事に気付いたようだった。皇帝の背後には朱汐に手を掛けたヴァンと殺気に当てられて蒼白い顔をしたシエナがいて。それを見てアルンヘルがさすがに困惑したように、
「これはヴァン殿?それにシエナ様まで………と言う事は、陛下は本物でいらっしゃいますか?」
「ああ、本物だよ、アルンヘル=へード少将。久しぶり」
「ふむ………。確かに先程、自警団の砦陥落の報を送りましたが、いくらなんでも早すぎますね。あ、いや、今の御無礼はお許しください。陛下の姿に化けたエシュア殿かと思いまして」
言いながら、三人を部屋の中に招き入れて、ラインはアルンヘルのせいで荒くなっていた息を整えつつ、
「まぁ、良いよ。確かに突然だったわけだし。実は少し前からお忍びで来ていてね。観光していたんだ。エシュアには一応知られていたんだけど。アルンヘルの仕事の邪魔にならないようにと思ってね」
「これは御人が悪い。邪魔などと。それにもうここでの私の仕事はほとんど終わっております」
「うん。君のここでの最後の仕事。そして、余の仕事をするためにこうしてここを訪れたと言うわけだ。さて、とりあえずシルバーフォート中将には明日会うと言う旨、伝令を送っておいてくれないかな?」
「畏まりました。それでは陛下の御部屋をすぐに用意させましょう」
と、そんな会話の後、アルンヘルは部屋を出て行こうとして振り返り、
「それにしても、いきなり戸口に陛下とは………心臓に悪いです」
「お、お待たせしました、陛下」
「ん?」
意識を回想から現実に引き戻すと、待合室の戸口に先ほどの衛兵がこちこちに固まって敬礼していた。
どうやら目の前の少年が正真正銘の皇帝だと教えられたらしい。
「そんなに固くならなくても良いよ。それで、軍団長は?」
「はっ。執務室で陛下をお待ちしております。ご案内いたします。ど、どうぞこちらへ!」
ややどもりながらそう言い、手と足を同時に動かしながら歩く衛兵の後に続く皇帝以下四人。
歩きながらシエナがそっと囁く。
「あんなに固くなっちゃって。やっぱりラインは雲の上の存在なんだね」
「止めてよ、シエナ。僕はただのラインさ」
「御意!………なんてね」
「この」
舌を出して笑うシエナの額を軽く小突く。そんな会話をしているうちに、軍団長執務室の前まで来てしまった。がちがちに固くなった衛兵が扉を開け、
「ど、どうぞ」
「御苦労様」
「勿体無いお言葉でございます!」
必要以上に角ばった動きで敬礼する衛兵に見られないよう浮かべかけた苦笑を隠して、ラインは執務室に入った。入って正面の執務椅子には誰も座っていなかった。下座である扉の脇に、二人の軍人が片膝付いて控えていた。一人は高貴な生まれである事を髣髴とさせる銀の髪。それに金の瞳を持つ整った容貌に、引き締まった長身を持つ軍人。もう一人は経験豊かな海の男と言う感じの老人だった。
ラインハルトが執務椅子に腰を下ろし、その左斜め後ろにヴァン、右斜め後ろにレイチェルが護衛として控え、シエナは執務机の脇に立った。その上で、ラインハルトが声を掛ける。
「面を上げて。二人とも」
「はっ」
「御意」
二人が同時に顔を上げ、好奇心に満ちた眼光がラインハルトの蒼い瞳を見据える。
「アレックス=シルバーフォート中将であります、陛下。陛下の御尊顔を拝し、この上もなく光栄至極に存じ上げます」
「うん。突然の来訪で申し分けない」
「いえ。御呼びたて下されば参上いたしましたのにと恐縮するあまりでございます」
ラインが視線を移す。
「始めて御眼を汚します。ミラン=ヘルムート中将であります」
「ああ、海軍総司令官の。海軍はこれからの帝国にとってまさに死生の要。貴官には存分に働いて欲しい。フェニキア海軍南方派遣艦隊司令長官エル=カルウェル中将より大砲数門を譲り受けた。貴官に預ける故、国産化をも視野に入れ、存分に研究して欲しい。その為に本国より鉄砲の専門家たる洸安黄をすぐに呼び寄せよう」
皇帝の言葉にミランはかなり驚いたようだった。なにせ、かつてカズリク海上騎士団はフェニキア自由都市連合に対し、大砲の譲与を何度も求めたのに、その都度拒否されていたのを彼は知っていたからだ。
(さすがはフロレシア帝国………カズリクとは比べ物にならない政治力だ………)
彼は心底、フロレシア帝国側に付いて正解だったと確信した。
抵抗し、屈したキバ=スウェットもすぐに考えを改める事になるだろう。
(カズリクを支配する軍をこのシルバーフォート中将のような人物が束ね、皇帝がこのような広い視野を持つ人物ならばこの国は豊かになる………)
「大砲を………それは重畳至極にございます。必ずや国産化を成功させると誓いましょうぞ」
「うん。期待している。励んで欲しい」
「ははっ。この老いさらばえた命、陛下に捧げる所存であります」
「アレックス=シルバーフォート中将」
「はっ」
「良く軍を率い、旧自警組織団員による抵抗をよく鎮めてくれた。暴徒の手に掛かって総督グルジム=ハーン殿が亡くなられたのは大いに痛手ではあるけれど、貴官の奮闘によって、この素晴らしきカズリクの街における被害が最小で食い止められたのを大いに喜びとする。貴官がカズリクの住民にできるだけ死者を出さぬよう采配を振るわれたのは実に素晴らしい判断である」
「ありがたきお言葉にございます」
「余はカズリクの民に対し、強圧を以って君臨しようとはまったく考えていない。カズリクの民はフロレシアの民とまったく同じく、余の大切な臣民である。彼らから自由を剥奪する意思は余にはない。いや、カズリクだけでなく余はこのラスカーナ大陸全てを統べ、全ての民を分け隔てなく統べるつもりである。一部の貴族や領主が不当に搾取するのを余は決して許さない。それが余の考えである。貴官の存念を聞こう」
「はっ。カズリクはフロレシアにとってまさに死生を制する街と言えましょう。この街を統べるに強圧は効果を生みません。確かに表立っての反抗は無くなり、人々は従順になりましょう。だが、それではカズリクの民はいつまでもカズリクとフロレシアを別国として見ましょう。それでは陛下の覇道の妨げとなろうかと。カズリクの民が今まで行ってきた通りの方法を尊重すべきと心得ます」
「うん。では貴官をカズリク総督に任じる旨、内諾を与えよう」
「はっ………?」
「聞こえなかったのかい?」
思わず顔を上げたアレックスに対し、ラインハルトは優しげな微笑を浮かべて聞き返した。
「アレックス=シルバーフォート中将を伯爵に叙爵し、カズリク総督に任ず。尚、第七軍団長の職務は兼任とす。これが正式な辞令………と、まだ判を押していなかった」
懐からフロレシア帝国の国旗、《力強き銀獅子》の刻印が彫られた羊皮紙と玉璽を取り出し、その場で羊皮紙に判を押す。アレックスもミランも、そんな皇帝の行動をただ呆然と見守るのみだ。
判を押し、息を吹きかけて乾かすと皇帝は玉璽を懐に仕舞い、辞令をアレックスに差し出した。
「これで中将の総督就任が決まった」
「し、しかし、何故私なのですか?私以上に総督に適任たる人材はいくらでも………」
「不服なのかい?」
「そう聞かれれば不服ではないと答えざるを得ません」
「何がそんなに不服なんだい?」
「私は一介の軍人です。政治の事などほとんどわかりません」
「政治も軍事も行き過ぎない程度に貴官に一任する。政治を会合衆に一任するかどうかは行き過ぎない範囲に含まれていると理解している」
「…………」
聡明なアレックスなら、いや彼でなくとも皇帝の言葉の意味はわかっただろう。植民地の政治を名目上はともかく、実質的には現地の元からあった政治組織に委ねると言うのだ。これは現地住民の抵抗心を緩和させるのに大きな効力を持つであろうが、逆にカズリクがいつ帝国からの分離を計り始めるかわからないと言う危険性をも併せ持つ。つまり、総督の仕事とは―――
アレックスはその金の瞳をかすかに細めて、皇帝を見つめ。
「つまり、私の仕事はカズリクの会合衆が帝国にとって容認し難い決定を下さぬよう監視する役目、と理解して宜しいのですか?」
「そう言う事になる。ついでに言えば、会合衆の仕事は君の監視でもある。総督府が帝国の軍事力を背景に、カズリクに対し強圧的な政策を打ち出さぬよう監視する。会合衆には本国帝国府に対し、検察官の派遣を要請する権限を与える。当然、検察官の検察の結果、総督府の政策がカズリクの民に苦痛を与える物だと判断されれば総督は罷免される」
「なるほど、理解しました。つまりは巧妙な相互監視と言う事ですか」
「そう言う事になる。また総督は直接その管轄下にある訳ではないが、海軍とは常に協力関係を保持するよう。海軍の要請にはできるだけ応えるよう。それが皇帝である余の意思である。今後の帝国経済の支えたるはこのカズリクを拠点とする海上貿易にある。その海上貿易において、実を上げる為には海軍の整備が緊急の課題となる。今後十数年間を要してでも、海軍は艦隊の整備、士官の養成、兵員の訓練などに取り組んで貰いたい。その為には海軍では遥か先輩に当るフェニキア海軍より教えを乞うのがもっとも妥当だと考える。総督はカズリクの予算より一部を割いて海軍を援助するよう。また海軍には本国よりも財政援助を行う。また海軍のコルシカ島要塞およびその周辺海域はカズリク総督府の管轄外とする。両人、それで構わないだろうか?」
「御意のままに」
「過分の御配慮、身に余る栄誉と心得ます。陛下の期待に必ずや応え、世界最強の海軍を育て上げてご覧に入れます」
「頼もしい言葉だよ、ヘルムート中将。シルバーフォート中将。カズリクは地政学的に孤立しやすい位置にある。本国との連絡が途絶える可能性も今後、あると言わざるを得ない。総督になれば貴官は本国の指示を一切受けられない状態にあってもカズリクを保持しなければならない。多くの権限が与えられる代わりに責任も増大する。良く考えた上で、返答が欲しい。総督に就任してくれるや否や?」
皇帝の言葉に、全員の視線がシルバーフォート中将の面上に集った。
ミランも愛嬌たっぷりの人懐っこい笑みを浮かべて、
「閣下と共に仕事ができれば、私も嬉しい」
などと言う。アレックスはゆっくりと息を吐くように微笑を漏らして。
「ここまで具体的な話をされて、断わる馬鹿も居りますまい。陛下はつくづく御人が悪い。ただ願わくば、一つだけお許し頂きたい事があるのですが」
「ん?なんだい?可能な限り、貴官の望みを適えるよ」
「はっ。実は本日久しぶりに昔馴染みの知己に会いました」
「ん?」
アレックスが突然言い出した言葉の意味がわからず、ラインが小首を傾げる。
アレックスは真っ直ぐ皇帝の右斜め後ろを見つめて。
「そこにおりますレイチェル=ミラー。実は私の婚約者です」
「へ?」
思わず間抜けな声を上げて振り返る皇帝、その先で青い髪の美女は微笑を浮かべて頷いた。
「彼女の武芸の技を見込んで、総督の護衛に、彼女を就けては頂けないでしょうか?」
「婚約者………そうなのかい、レイチェル=ミラー少尉?」
「はい。確かに」
「で、ここに残りたい?」
「総督が私をご所望とあらば。ただし、隊長と副隊長のお許しもなく隊を抜けるのは―――」
「ヴァン?」
「―――はい。彼女が抜けるのは大きな戦力低下です。が」
「うん。こう言っては何だけどちょうど良いかもね」
「―――はい」
「よし。出て来て良いよ」
そのラインハルトの言葉と同時、部屋の空間が少しだけ歪んだような気がした。
今まで誰もいなかった暖炉脇に、一人の女が姿を現していた。ジェルナ=クレイスロールだ。
結局彼女はラインやヴァンと敵対するのを止め、戦闘機械ではなく人間としてその技術を活かす事にし、皇帝に仕える事にしたのだ。
彼女は蛇身環の力で己の身の回りだけに結界を張り、身を隠すこともできるのである。そして、短距離ならそのまま移動することもできる。その技術を活かして、彼女はこの部屋に忍び込んだのである。
―――暖炉から。
「ジェルナ=クレイスロール。君を白狼軍七番組長に任ずる。良いね?」
「―――御意」
「と言う事で、レイチェル。レベッカには余から言っておく。たった今から、君はアレックス=シルバーフォート総督の直護衛を勤めるよう」
「畏まりました」
「人事の正式な発表は数日後にでも高札で。総督の就任式はその数日後を予定している。詳しくはアルンヘル=へード少将に相談するよう」
「御意」
4 総督就任式
ラインハルトがアレックス達と会って、アレックスの総督就任の内諾を与えてから三日経った十二月十六日。高札が出され、新たな総督人事が正式に発表された。
その高札には広場で行われる総督就任式の予定も書かれてあった。
それによれば、総督就任式は四日後の十二月二十日となっていた。
就任式の準備は主にアレックスと皇帝直属の幕僚であるアルンヘル=へードが取り仕切った。
会合衆やエル=カルウェル・フェニキア海軍南方派遣艦隊司令長官等を式に招待し、その後の会食の用意も整えられ、本国からは式に出席するための皇帝正装が送られてきて。
前日の十九日には会場となる噴水広場に祭壇や出席者達の座る席などの用意が為された。
そして、就任式当日を迎えるのだった。
アレックス=シルバーフォートは新調した礼装に身を包み、カズリクの民が見守る中、祭壇の前へと進んで片膝を付いた。
祭壇の上には皇帝正装に身を包んだラインハルトが立っている。
彼の輝く黄金の頭の上には、これまた燦然と輝く黄金の王冠があり、彼の手には一振りの剣が握られていた。ただし、それはいつも彼が携えている覇皇剣サナトゥスではなかった。
列席者やカズリクの民衆達の見守る前で、ラインハルトは祭壇を降り、アレックスの前に立った。
「面を上げよ。アレックス=シルバーフォート」
「はっ!」
顔を上げたアレックスの右肩に、鞘に収めたままの剣先を置いて。
「覇皇フェルモアの血を引く第十五代フロレシア帝国皇帝ラインハルト一世の名の下に、汝アレックス=シルバーフォートをして、カズリクの総督に就任せしめんとす。我が父祖の血、ロデンの神、大地に溢れる数多の精霊達よ。この者を祝福せよ。この剣は我が意思に随い、我に代わりて汝を守るであろう」
「ははっ」
アレックスが頭を垂れながら両手を前に差し出す。
皇帝は彼の肩から持ち上げた剣を、その両手の上に乗せる。
次いで懐から璽を取り出した。カズリクを統べる者としての証となる物だ。
その璽も剣と共にアレックスの手に収まった。
皇帝は周囲に満ちる人々を見渡して、高らかに宣言した。
「以降、この者が殉職した初代総督グルジム=ハーンに代わって、この街と周辺地域を領す。汝らカズリクの民にとって、彼の者は余との連絡役と心得て貰いたい」
人々の間から歓声が上がった。それはアレックス=シルバーフォートを総督として受け入れる意思の表れだ。もしアレックスが暴徒鎮圧において軍事力をもっと積極的に使い、多くの死者を出していればこの歓声は無かったであろう。だが、歓声は全ての民があげている訳ではない。
中にはまだ帝国による支配を快く思っていない者も多く居るのだ。
ラインハルトはアレックスにしか聞こえないような小声で、
「良いかい、アレックス。ここに居る者達だけが意思を表明して居るわけじゃないよ。ここに来ないというのも彼らなりの意思表明なのだから。全てとは言わない。人間の考えは十人十色。人間の力にも限界はある。だけれども、八割程度の民衆に歓声と拍手を貰うような政策を心得て欲しい」
「―――御意。全ては我が陛下の御意思のままに」
民衆の歓声はうねりながら、さらに大きくなっていく。
広場を囲む建物の上階から、白い紙吹雪が風に流された。
さながら雪の如く、紙吹雪が美しい光景を描き出す。
皇帝が片手を上げると、軍楽演奏が始まった。ミッチェル=ワーレンハイト四番組長が指揮を執る。四番組は白狼軍の中で貴族出身者で編成されている特異な組だが、貴族らしい教養に溢れる組としてこう言った時には非常に重用する。
演奏しているのは第七軍の軍楽隊二百名余り。
と、海の方から砲声が響いた。フェニキア海軍の戦艦二隻がフェニキア式に礼砲を撃っているのだ。
そんな彼らの姿を冷めた眼差しで見つめている者がいた。皇帝が背を向けている総督府内の一室から男は就任式を眺めていた。
灰色の髪に灰色の眼差し。その身全体からなんとなく陰惨な気配を滲み出している様な男。
皇帝の直属幕僚と言う地位に居る、アルンヘル=へード少将だ。
「これで終わりではない………ここから始まるのです、陛下」
「覇道が、か?」
気配もなく部屋の中に入って来た白髪の男がそう言ってくる。
振り向いて、男の鋭すぎるほどの眼差しを浴びつつ、アルンヘルはかすかな微笑を漏らした。
「ええ。陛下は人の死を厭うておられる。だが再び、大きな戦が起これば、陛下の意思に関わらず、多くの兵が死ぬ。陛下は民にも兵にも慕われている。彼の夢を。この大陸から争いを無くそうとするその夢の為に兵は己の命も顧みずに戦うでしょう。そして、その結果、彼らは―――」
「戦に殉じて死ぬ。陛下の為に」
「そうです。陛下は今までも、人々の死に胸を痛めて来られた………。だが、今や大陸は五大国時代。陛下が覇皇を名乗られるには少なくともその内の三カ国を支配下に収めなければならない。その過程で、誰も死なせないなどと言う事はあり得ない。多くの死者が出る。誰も死なないよう、誰も争わないよう、誰も傷つかないよう、彼は大陸を統一しようとして居るのに。彼はこれからこの矛盾と戦わねばならないでしょう」
「今更だな。陛下は今までにも、そのような矛盾と戦っておられる筈だ。ルト=リューベンの乱の折もしかり。満月戦争の折もしかり。カラキシスでもそうだ。そして、カズリクでも。同じ覇道でも陛下は犠牲のより少ない道を選ぼうとしておられるように見える」
「ええ。そして、貴方や私のような者がその陛下の選択を助け、シエナ様が陛下の心を支えておられる。陛下はか弱いように見えるが、その実、私などは密かに彼以上の名君はいないのではないか、と思っているんですよ」
「ならばどうする?貴殿が次に考えている手は?」
「取り込みやすいのは、ルシタニアでしょうね。しかし陛下はレオン王を殺したくはないでしょう。ならば、同盟関係を強化するのも一つの方策です」
「…………」
エシュアは鋭い眼差しで、アルンヘルを見つめていた。では、どうする?とは聞かない。聞かなくてもわかることだからだ。そして、だからこそ、エシュアは眼を細めた。
「陛下が納得すると?」
「しないでしょう。私は憎まれる事になるかもしれない。ただ、これはできれば向こう側から申し出て欲しい案件なんですが」
「ならば何故、ここで話す?貴殿が裏でどのような工作をしようとも、私には一切関わりのない事。それで済ませられたはずだ」
「さあ?何故でしょう。ですが、貴方が調べようとすれば簡単にわかるのではないですか?既に私が打診の使者を送っている事も。貴方ならば既に調べがついているのでは?」
「買い被りすぎだな。暁は人手不足だ。スタルナス帝国にルーナ帝国、帝都の防諜、カズリク………。ルシタニアまで手が回らないのが現状だ」
「それは賛成と受け取って宜しいのですか?」
「………。私は現状を述べたまでの事」
エシュアはそう言って、踵を返した。
「私は近日中にも帝都へ戻ります。その後は暫く帝都を離れる気で居ますが」
「………。勝手にしろ」
エシュアが部屋を出て行って。アルンヘルは微笑をより深くした。
「意思は託しましたよ。もしかしたら私は陛下の不興を買って投獄ぐらいはされるかもしれませんから………」
再び外に目を向けて。列席者達がぞろぞろと総督府内に入って行くのを見下ろす。
街の名士を集めての会食。
「シルバーフォート中将や陛下にとってはあまり楽しい会食とは言えないかもしれませんが」
呟いて、彼もまた部屋の外へと歩き出す。
「私も出席者である以上、耐えなければなりませんか」
「総督就任おめでとうございます、閣下」
「ありがとうございます、グリード=エルブランド殿。貴殿の造船所には今後、我が帝国の海軍が大変お世話になる事と思うが、どうかよろしく頼みます」
そう言ってアレックスは優雅に腰を折って挨拶し、その場を離れる。
彼の隣には彼の護衛役であるレイチェル=ミラーが、胸元も露な青いドレスに身を包んで随っていた。
「ああ………疲れる」
疲労感にぐったりとし、人の群から抜け出しながら、アレックスは呻いた。
軍人である彼にとって、入れ代わり立ち代わり就任祝いを述べ、少しでも自分の名と商館を売り込もうとする商魂逞しいカズリク会合衆議員の相手をするのは大変骨の折れる作業だった。
「食べる暇もないから」
レイチェルは詐欺師的な完璧な笑みを浮かべて、人々の挨拶を受け流しながら言う。
「とか言いながらおまえはさっきから結構食べ、飲んでいるように見えるぞ?」
横目でレイチェルの持っている皿を見るといつのまに取ったやら様々な料理が盛られていて。
「あら?だって私は総督閣下ではないもの」
「ったく。それにしたっておまえがこっちに来てるなんてな。白狼軍と言ったか?陛下直属の護衛部隊」
「ええ。神に仕える清らかな乙女として私も推薦されたの」
一点の穢れもないような笑顔で、レイチェルが頷く。アレックスは彼女以外の者には決して見せる事のない素の表情で。
「何処が清らかな乙女なんだ?お偉いさん方を誘惑しては愛人になり、だけでなく脅迫して金を揺する凶悪詐欺師じゃないか」
「乙女にはいろいろとコネが要るのよ―――って、ほら、営業営業」
「む」
レイチェルの言葉に、咄嗟に社交用の微笑と言う仮面を被って振り向くと、そこには一人の少年が立っていた。病的と言えるほどに白い肌と美貌を持つ少年。髪は皇帝と同じ黄金だった。
その少年はアレックス以上の輝きを持つ極上の微笑を浮かべて、優雅に一礼した。
「総督就任おめでとうございます、閣下。お初にお目に掛かります。フェニキア海軍南方派遣艦隊司令長官エル=カルウェル中将と申します。今後は是非、御昵懇に」
「なんと司令長官閣下でしたか。わたくし、この度、総督に任じられたアレックス=シルバーフォートと言う者。こちらこそ以後お見知りおきを」
「わたくしも自己紹介させていただきますわ、閣下。わたくし、レイチェル=ミラーと申しますの。以後、どうぞよしなにお付き合い頂きたいです、閣下」
「え、ええ………」
軽くしななど作りながら名乗るレイチェル=ミラーに、エル=カルウェルがかすかに後ずさる。
アレックスはレイチェルにだけ聞こえるような小声で、
「おいおい、こんな子供まで惑わすのかよ。人生狂わせるなよ、可愛そう―――うぐっ!」
喋ってる途中で軍靴をハイヒールで思い切り踏まれ、アレックスは呻き声を上げて沈黙せざるを得なかった。その後、二、三、アレックスと言葉を交わした後エルは離れて行き、
「これは脈有りかも」
「悪女め……知ってるんだぞ、おしとやかな女から妖艶な女まで、おまえは演じまくるそうじゃないか」
「乙女は無闇に素顔は見せない物なの。感謝してよね。私の素を知ってる人間は少ないのよ?」
「まったくあり難くないね………」
「やあ、アレックス。楽しんでるかい?レイチェルも」
「あ、これは陛下………」
「ええ勿論、楽しんでおりますわ、陛下」
「それはよかった」
かすかにしなだれ掛かるような素振りを見せたレイチェルから器用に身を離しつつ、ラインが頷く。
「ん。そう言えば陛下、シエナ様はいかがなされましたのですか?」
「ああ、シエナなら今、便所に行ってるよ。それで余はこっちに避難して来た」
「―――避難?」
「あれの事ですか?」
怪訝そうな顔をするアレックスと異なり、レイチェルは先ほどの自分の誘惑に対する皇帝の態度から敏感に察し、会食会場の中央の方を、向こうからばれないように指差した。
アレックスもそちらを見やり、
「ああ………なるほど、そう言う事でしたか。さすがは陛下」
会食会場の中央では色とりどりのドレスで身を包んだ美女達がそれぞれ会話しつつ、ちらちらと皇帝の姿を目で追っているようだった。
「陛下はまだ一人身ですから。玉の輿を狙う娘達が多いのでしょう」
「もしくはその父親達の魂胆かもしれないですわよ」
アレックスの言葉もレイチェルの言葉も一理ある。
もし皇帝と結ばれ皇后にでもなれば、その娘は女性としては栄華を極めることになるし、その父親は皇帝の舅となるのだ。当然、その商館の力は飛躍的に増す。しかも上手く子を産めば次の皇帝位も狙える。
「もうすぐ陛下はルーガに帰られる。その前に手を付けて貰いたいと言う事ですわね」
「手を付けるって………なかなか露骨な言い方するんだね、レイチェル」
「あ?い、いえいえ、申し訳ありません。私とした事がなんてはしたない言葉を」
慌てて言い繕うレイチェルに、アレックスがぼそりと、
「本性を露にしたな。女狐め」
ドスッ。
「ッ………」
アレックスを肘内一発で黙らせ、レイチェルは完全に営業用の微笑を取り戻して、
「あ、シエナ様ですわ。こちらを見つけられないみたいですわね。私が連れてきてさしあげましょうか?」
「え?」
「あ………おい、護衛役が離れちゃ………」
そんな彼らの言葉は遮られた。いきなり数十人もの美女達に取り囲まれてしまったのだ。
「皇帝陛下、是非わたくしと踊ってくださいませんか?」
「いえ、わたくしと踊ってくださいまし!」
「総督閣下、今夜のご予定は?もしお暇なのでしたら是非わたくしと―――」
「何言ってるのよ、総督閣下は今夜は私と―――」
「う、うわ、あ、アレックス!」
「あう………って、こら、貴方達、それでも淑女なのですか!あぁ、ってどこ触ってるんですか!」
結局もみくちゃにされ、シエナとレイチェルが戻ってくるまで、彼らは抜け出すことが出来なかった。
そんな騒ぎも経て、日付が変わる頃に会食は終わり、列席者達は三々五々、総督府を出て帰って行った。
その中には、ぐったりとした皇帝を両側から支えるシエナとヴァン、なんて図もあった。
翌日。カズリクの市門前にて。
皇帝は眩しそうに空を見上げて、太陽がほとんど真上にある事を確認してから。
「さ。行こうか」
ヴァン、シエナ、レベッカを順繰りに見て明るく言う。
帰りもまたお忍びで帰る事にしたのだ。その為、見送り人の姿はない。
アルンヘルには明日にでも、アレックスに対し皇帝が既に帰った事を告げ、その後、皇帝を追って街を発つよう命じてある。今日はまだ皇帝がカズリクに居ると思わせるよう手を打つようにも命じてある。
念の為と言う処置だが、襲撃される可能性は少しでも減らしておこうと言う考えだ。
「ええ、行きましょう」
「―――はい」
「あいよ、陛下」
三人がそれぞれ頷き。そして歩き出した。懐かしの永遠の都ルーガに向けて。
歩きながらヴァンはふと後ろを振り向いた。と、そこには黒衣に身を包んだ五人組が歩いていて。
その先頭を歩く者の首には蛇が巻きついたかのような首輪が、南海の明るい日差しを浴びて金属的に輝いていたのだった………。
『五大国時代』 完