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覇皇伝

第四章 カズリク暴動

第四章 カズリク暴動
1 十二月一日
帝国暦三三三年十二月一日。
フロレシア帝国においては建国祭が華やかに始まるこの日。
カズリクでも、この日、朝から《何かが》始まりそうな気配が漂っていた。
アルンヘル=へードはこの時、本国からの辞令を受け取り、少将に昇進していたが、以前と変わらず同じホテルに逗留していた。既に総督としてハーン族の族長グルジム=ハーンが着任しており、会合衆との顔合わせも終了している。グルジムが最初に行ったのは自警団と海上騎士団の解散、再編成の命令書にサインした事だった。この命令書を元に、フロレシア帝国軍を指揮する第七軍団長アレックス=シルバーフォート中将(昇進)が両団を解散させ、それぞれ第七軍第二歩兵師団、帝国海軍として再編成した。既に兵員の徴兵および志願兵募集も行われ、兵員数は増大している。
「どうやら、諜報は本当だったようですね」
着替えながら、アルンヘルは窓の外を見て薄く笑った。普段ならばそれなりの人通りがある通りだが、人の姿が一つもない。だが、街の中心の方から大多数の人の気配が感じられる。
エシュアが調べた通り、あのジュドとか言う主戦派の代表となった会合衆は十二月一日に総督に対し決起しようとしているのだろう。
「さて―――ジュド老とやら。貴方のお手並み、拝見と行きましょうか?」
灰色の眼を細め、灰色の雲が覆うカズリクを眺めながら、アルンヘルは酷薄な笑みを浮かべた。

総督府となっているかつての会合衆議場は大騒ぎになっていた。
総督が起き、官邸からこの総督府に入った途端、議場の前の広場に人が集り始め、一時間としないうちにその数は万を超えたのだ。中にはかつての自警団員や海上騎士団員すら混じっている状態だ。
総督公室で、グルジムは秘書官を怒鳴りつけていた。
「すぐに軍に―――あのシルバーフォートとか言う若造に連絡を取ってあの不届き者連中を追い払え!」
「しかし、総督閣下。第七軍団長は第一歩兵師団および、大多数のハーン族部隊を率いて三日前からコルシカ島で演習を行うため、海軍に所属している全船舶に分乗してカズリクを留守にしております。通報艦を全速力で向かわせ、軍団長が全力で舞い戻ったとしても、明日の朝にならなければ第七軍はカズリクに戻れません」
「ハーン族の大部分も、だと?私はそのような事は聞いていないぞ!」
憤慨して、グルジムは怒鳴った。だが、秘書官は冷静だった。
「閣下は四日前、指揮系統を統一するべきだと言うシルバーフォート閣下の申し条に御納得の上、閣下が掌握なさっていたハーン族部隊の指揮権をシルバーフォート閣下に委譲なされたではないですか」
「むぅ………ならば今、カズリクにはまったく兵力がないのか!?」
「いえ。若干のハーン族部隊がこの総督府に残留しておりました。現在も、総督府を閉鎖し、立て篭もる準備を取っています」
「それだけか?」
「後は、第七軍の第二歩兵師団ですがこちらはシルバーフォート閣下の指揮下であり―――」
「すぐに伝令を送って第二歩兵師団を呼び寄せろ。指揮権で言えば、軍団指揮官よりも総督の方が優越するはずだ!」
「畏まりました」
赤黒い顔をして窓の外の群衆を睨みつけているグルジムを、フロレシア帝国の帝国府より付けられた秘書官は冷ややかに見つめ、一礼して部屋を出て行った。その後、事態は容易には動かなかった。ただし、いつ弾けてもおかしくはない、緊張感があった。広場を埋める群衆はますます増え、一時間後には広場を溢れて中央通りにまで溢れ出した。さらに一時間が経つ頃には群衆の数は二万を超えていた。いや、或いは三万をも。総督府は完全に包囲され、まさに蟻の這い出る隙間もない。
外と連絡を取る事自体が、既に不可能だった。
「第二歩兵師団はまだ現れないのか!」
顔を赤黒くしたり、かと思えば蒼白くしたりと忙しく変えながら、グルジムが秘書官に向かって怒鳴る。
もはや彼にとって救われる道は第二歩兵師団が救いに来てくれる事だけなのだ。
秘書官はあくまでも冷静に受け答えするのみ。
「これだけの大騒ぎにも拘らず、何の動きも見せない。また、群衆の中に明らかに自警団や海上騎士団と思われる者達が居る事から考えて、結論は一つしかないかと存じます」
「まさか………いや、そんな訳はない。第二歩兵師団が寝返っただと?そんな馬鹿な事があるか。フロレシア帝国に抵抗しても勝てないんだぞ!」
「閣下がそうお考えなされたからと言って、彼らまでもがそうとは限りますまい」
「貴様、このわしが臆病だったと言いたいのか!?」
顔面を激怒色に染めて、グルジムが秘書官を睨む。彼は同胞さえも裏切ってフロレシア帝国に屈したのだ。その事を責められたと感じたのだろう。内心、やはり後ろめたさはあるに違いない。
「いえ。閣下は賢明な判断をなさいました。しかし、彼らまでもが賢明であるかどうかはわからないと申し上げたかったのです」
「わしはこんな所では死なんぞ………死んでたまるか!ハーン族がアルティス荒野全てを手に入れるまでは断じて死ぬわけにはいかない!」
獣が唸るような声で吼えるグルジムを、秘書官は冷ややかに見つめる。
彼は知っていた。いや、誰もが少し考えれば理解できよう。
セトゥ=カーンが帝国に和議を申し入れ、それを皇帝が受け入れた時点で。
(既にハーン族にアルティス荒野全てが与えられることなどありえなくなっているのだ。それをこの男はわかっていない。いや、それともわかっていながら一縷の望みに賭けているのか………)
秘書官はグルジムが恐怖に目を見開きながら窓の外を見下ろしている後頭部を見やり、かすかに嘲りを浮かべた。グルジムがいきなりくるりと振り向いたので、秘書官はすぐにその表情を消した。
「会合衆どもはどうしている?グリード=エルブランドは?デュラン=バルタサールは?エレノア=ラウシェンバーグはどうしている?主戦派を説得し、馬鹿な真似を止めさせるよう督促したか?」
「使者は送りました。が、届いているかはわかりません。それに、この状態では果たして彼らが動くかどうか甚だ疑わしい限りだと思いますが」
「では、一体どうすれば………どうすればこの窮地を脱する事ができるのだ?」
「待つ事だけが唯一の策でしょう。明日の朝になれば、シルバーフォート閣下が舞い戻られます。通報艦は間違いなく出港したと報告も受けています」
ひゅんっ―――ガッ!!
「ひぃっ!?」
いきなり窓ガラスに矢が突き刺さり、グルジムが情けない悲鳴をあげる。
「む。これは矢文―――」
秘書官は急いで窓を開け、矢を抜いて、窓を再び閉めた。
どうやら矢では分厚い窓ガラスは貫通できないらしい。その事に気付いて、グルジムがかすかに安堵を表情に浮かべるのを横目で見つつ、秘書官は矢文を開いた。
「《貴様達は人質である。我々はフロレシア帝国による植民地支配を受け入れない。全軍を撤退し、二度と来寇しないと皇帝が神に誓うのであれば貴殿らを解き放とう》―――どうやら、我々を殺すつもりはないようです」
「そうか―――それを聞いて―――」
グルジムの顔がかすかに緩んだ、その時、彼の言葉を掻き消して怨嗟と怒りの声が上がった。
「何事だ!?」
表情を緊張させてグルジムが外を見る。秘書官も窓に駆け寄った。
あろう事か、ハーン族の戦士達が玄関を大きく開け、広場に集った群衆に向け矢を一斉に放ったのだ。数人の群衆が射倒される。群衆が怒りに顔を紅くし、怨嗟の叫びをあげながら玄関に突進するとハーン族の戦士達はさっと建物内に後退し、玄関をしっかりと閉めた。外の群衆達の叫び声が聞こえる。
『それがお前達の答えならばこちらにも考えがあるぞ!』
『殺せ!総督を殺せ!』
『フロレシア帝国の犬を殺せ!何が誇り高き砂の民だ!犬畜生を殴り殺せ!』
「一体何事が―――」
グルジムが絶望したように呻くのを最後まで聞かず、秘書官が部屋を飛び出して行った。
十分ほどして戻ってくると彼はハーン族の戦士の代表から聞いた話だと断った後で、
「群衆から閣下の部屋に矢が打ち込まれるのを見た。その後、上の方から矢が群衆に向けて放たれるのを見た。我々はそれが閣下の御意思であると思い、戦ったのみである」
「上の方から矢を射た者が居る?」
「そのようです」
「探し出せ!―――いや、待て」
グルジムは玄関に向かって突進し、窓と言う窓にありとあらゆる物を投げつけている群衆を恐怖の表情で見下ろし、命令を訂正した。
「もうそんな事はどうでも良い。何が何でも明日の朝まで持ち堪える様、戦士達を激励して来い」
「畏まりました」
部屋を出ながら、秘書官はこめかみに汗を浮かべていた。
(この暴動………偶発的な物ではないのではないか?………何者かが糸を引いているのでは)

群衆達を率いるという立場にあるジュド老は困惑し、狼狽してこの光景を眺めていた。
群衆達は怒りに我を失い、ただひたすらに総督を血祭りに上げようと総督府に向かって突進している。
総督府の二階や三階の窓からは矢が雨あられと放たれ、次々に人々を射殺していく。
それがますます人々の怒りに油を注いでいく………怒りの連鎖だった。
もう止められるはずがなかった。自警団や海上騎士団などの元団員達が弓で応戦する。
激しい矢の応酬が行われるが、被害はこちらの方が大きい。だがそれも時間の問題に過ぎない。
玄関の戸が破られ、怒り狂った民衆達が総督府の中になだれ込めば………
皆殺しだろう。ジュド老は主戦派の最強硬派だった。屈辱的な条件を呑むよりは潔く戦って死のうと叫んでいた。だが、彼とて商人だ。本能的に、心の何処かで損得勘定を弾きだす算盤が動いているのだ。
その算盤が、交渉の余地があると彼に教えていたのだ。帝国は平和裏に収めようとしている。条件も思ったより緩やかな物だった。スタルナス帝国やルーナ帝国との対抗上、帝国は速やかに港を手に入れる必要があったのだ。そこに勝機があったのだ。抗議行動を繰り返し、交渉を再開する。そして、カズリクの自治を認めさせようと言うのが、彼の考えだったのだ。なのに―――。
(これは戦争ではないのだぞ………)
殺せ殺せと雄叫びをあげている民衆達に、彼はそう叫びたかった。これは戦争ではない、交渉の席を設けるための脅しなのだ!と。だが、もう遅い。全ては終わった。目の前が真っ暗になる思いだった。
ここで総督を殺せば、自分達は帝国軍に対し、宣戦布告したも同然なのだ。
そうなれば交渉どころではない。帝国軍は彼等を許しはしないだろう。
(殺される―――!)
心の中の算盤が答えを弾き出した。逃げるしかない。逃げるしかない。今、人々の目は総督府に向けられている。逃げるなら今しかない。ジュドは走った。
人々を掻き分け、人々が進もうとするのとは逆の方向へ。
後ろの方で遂に玄関の戸が砕け散る音と人々の歓声が上がるのが聞こえた。
一瞬だけ振り向いた。その視線の先で。群衆が中に入るのを必死に留めようとしているハーン族の戦士達の姿が見えた。だが、戦士達もすぐに群衆の姿に掻き消され―――
群衆達が総督府の中に突進して行く。ジュドは走った。何も聞こえない振りをして。
人々の渦巻く中を走りぬけ、無我夢中で走り続けた。ふと気付いた時、彼は周りに誰もいない事に気付いた。遠くの方から人々の声が聞こえてくる。まるで地響きだ。総督府に居た人間は皆殺しだろう。総督も死んだ。帝国軍は復讐するだろう。民衆は撫で斬りにされる。
コルシカ島で演習中の帝国軍が戻ってくれば、カズリクは焼き払われるかもしれない。
燦然と輝くカズリクの自治の歴史が灰燼に帰するのだ。
(その契機を作ったのはわし自身だ………)
急に夢から醒めた気分だ。それは或いは心地良い夢だった。だが、現実は今、厳しい。
「そう言えば、デュランもそのような事を」
あの時、既にデュランは夢から醒めていたのだ。なのに、自分は彼の忠告を無視した。臆病者と罵った。
「あ、あははは………臆病者?彼が?わしはとんだ道化だ!臆病なのはわしだ!」
これ程に笑える話はない。だが。ジュドは血走った目で自分の両手を見下ろした。
「計画は途中まで上手く運んでいた。どうして?ああなった?どうして、計画が狂った?」
一本の矢だ。総督府が打ち返してきた。
「そうだ………わしの計画は完璧じゃった!あの総督が馬鹿な命令を出したせいで!どうしてあの状況で矢を射返した?矢文の文面を見ればわしらが殺さないつもりだった事は理解できたはずじゃ!なのに、どうして―――どうして、わしの計画が」
「貴方の計画?………残念ながら、それは違う」
いきなり掛けられた言葉に、ジュドは喉の奥でくぐもった声をあげながら前を見た。
前方、十mとは離れて居ない場所に、若い男が立っていた。
灰色の髪に灰色の瞳。薄く笑みを浮かべた口元。全身から陰惨な雰囲気を滲み出している。
「な、何者じゃ!わしの計画ではないとはどういうことじゃ!」
口角泡を飛ばし、ジュドは吼えた。若い男はただ立って居るだけ。なのに、全身が竦むほどの恐怖感を感じる。それは相手がフロレシア帝国軍の軍服を着ていたからだろうか?いや、違う。男の全身から滲み出る気配のせいだ。男を見つめているとまるで地獄の縁から奈落を覗き込んでいるような錯覚を覚える。男が口元の薄い笑みを、今度ははっきりと嘲笑に変えた。
「貴方は自分で立てた計画に基づいて行動していたのではない。私の立てた計画の上で、踊っていた道化に過ぎないのですよ」
「なん、だと………?」
「この街には我が皇帝にとって邪魔な存在が二つあります。………正確には、その一つはもう消滅しましたが」
楽しそうに笑いながら言う男の言葉で、先ほどの光景が蘇った。
破壊された扉。倒される戦士達。突入していく民衆達。
「その内の一つは、総督グルジム=ハーン。彼のような俗物に、帝国の新たな生命線たるカズリクの総督は相応しくない。彼は貴方が殺してくれた。私の期待通りに」
「私が直接殺したわけでは―――総督が自分で命令して矢を」
「撃ち返したのは総督の命ではない」
ジュドは心臓を鷲掴みにされたような衝撃を覚え、慌てて背後を振り向いた。
すぐ傍、僅か五mほどの所に男が立っていた。珍しい白髪。異様に鋭い眼差しをした薄茶色の瞳。
男はその場に弓を放り捨てた。それが何よりも雄弁に物語っていた。
今や、ジュド老はがたがたと震えていた。
「で、では、あの矢は?」
「私が射た」
「そう言う事です。貴方方主戦派は総督を殺してしまった。だが、我が皇帝は心優しき方。民衆にはお咎めはないでしょう。首謀者を除いては、ね」
背後の男がかすかに身動ぎしたように見えた。だが、実際には十m以上も距離を開けていた。
それだけの距離を移動するのが見えなかった。ジュド老は慌てて灰色の男へと目線を向けた。
男が笑みを浮かべながら、手を掲げていた。その白く長い指に、黒い指輪が嵌められていた。
「貴方にはここで死んで貰いますよ、ジュド老。貴方の役目は終わった。ここからはアレックス=シルバーフォート中将が暴動を鎮圧すると言う筋書きなのですからね。貴方の他の主戦派の会合衆達はその時に捕まえられ、処刑されるか、そこを上手く逃れたとしても私達が逃がしはしません。だが、貴方には一足先に逝って貰いますよ」
「た、頼む………助けてくれ!」
「駄目です。―――闇よ、貫け」
簡潔な呪文。指輪から黒い光が溢れ、闇が膨れ上がり、弾けた。
ジュドと言う男の存在が掻き消された。血一滴たりとも残さずに。
「片付きましたね」
薄い笑みを浮かべて、アルンヘルはエシュアを見た。エシュアは一つ頷いて。
「確かめに行くのだろう?」
徐々に鎮まりつつある広場の方に視線を向けて聞く。
アルンヘルは薄い笑みを浮かべたまま、頷いた。
「ええ。参りましょう―――仕事は確実に果たされねばなりませんから」

2 総督の死
そこにはもう、誰も居なかった。総督府を襲っていた群衆達は総督府内のありとあらゆる調度品を壊し、奪い去るとその激情の矛先をフロレシア帝国に協力した者達へと振り向けたのだ。
穏健派や中立派の会合衆達、フロレシア人を泊めた宿泊施設、商店………。
群衆は統制も何もなく、ただ己の欲望と激情の赴くままに、カズリクを荒らし回っている。
アルンヘルとエシュアは破壊され尽くした総督府に入った。
玄関脇には数十人のハーン族の戦士達の亡骸が転がっていた。全身を殴打され、醜い姿に成り果てている。その亡骸を見て、アルンヘルはかすかに笑みを浮かべた。
「ここは戦場よりも悲惨ですね。戦場にはある情けと言う物がここには微塵も無い」
そこにはハーン族の戦士達だけでなく、一般人の死体も数多く転がっていた。
皆、踏み潰され、原型を留めていない。
「集団心理とは恐ろしい物だ」
エシュアは鋭い眼差しで動くものが居ないかどうか調べ、言った。そのまま、奥へと歩いていく。アルンヘルも後に従った。二階にも多くの死体が転がっていた。総督側はバリケードを築いて抵抗を試みたのだろう。机や椅子、クローゼットなどが転がっている。エシュアは迷いなくバリケードの残骸を乗り越えていく。その先に、総督公室がある。扉は破られ、踏み砕かれていた。部屋の中には秘書官の死体が転がっていた。恐らくはハーン族から奪ったのであろうカトラスが腹から貫通して背から飛び出している。その死顔はどこか冷ややかだった。
「…………」
エシュアの眼差しがさらに鋭くなった。部屋の中に、総督の死体がなかったからだ。
「おやおや………これはどういうことでしょうね?」
アルンヘルも、少しばかり意外そうな表情で呟く。
―――どすんっ。
暖炉から大きな物が落ちる音がし、煤けた埃が舞った。
アルンヘルとエシュアが暖炉を見据えると煤に汚れて真っ黒になった男が這い出してきた。
男はアルンヘルを見上げて、安堵したように息を吐く。
「やはりおまえか。その声、聞き覚えがあると思ったぞ。暴徒どもは鎮圧したのか?」
「総督。御無事でしたか」
冷たい微笑を浮かべて、アルンヘルが言う。総督グルジム=ハーンは頷いて。
「その者が咄嗟に機転を利かせてくれてな。それより、早くわしをこの街から連れ出してくれ」
「この街を出ていずれへ参られる?」
「コルシカ島だ。そこへ向かえば北上してくるあの若造とも出会える」
「若造………ああ、シルバーフォート中将の事ですか。それは困りますね」
アルンヘルはそう言いながら、ちらりとエシュアを見やる。エシュアは小さく頷いた。
「困る?困るとはどういう事だ?」
グルジムが怪訝そうにアルンヘルを見上げる。
「こういう事ですよ」
アルンヘルは笑みを浮かべて呟き、右手を掲げて見せた。白く長い指に、不思議な紋様が刻まれた黒い指輪が嵌められている。グルジムは顔を恐怖一色に染めあげながら、震える声を出した。
「き、貴様、何をするつもりだ!?」
「何をするつもり?わからないのですか?貴方を殺そうとしているのですよ。本当ならこれは私の役割ではなかったのですが。仕方ありませんからね―――闇よ、有れ」
アルンヘルが呟いた途端、指輪が黒く光った。そして、グルジムはいきなり夜になったのかと思った。
辺りが真っ暗になったのだ。だが、すぐに違うと気付いた、夜になったのではなく、アルンヘルの指輪から現れた闇がその場に渦巻いているのだ。
(精霊具―――!)
グルジムはすぐさまエシュアに目を向けて、吼えた。
「そこの者、すぐにこの者を殺せ!これは総督の命令だ!」
「―――命令?」
だが、白髪の、異常なほどに鋭い眼差しをした男は感情の浮いていない顔でグルジムを見やった。
「私に命令できるのは皇帝陛下のみ」
「―――そして、私に命令できるのもやはり、皇帝陛下のみなのですよ」
「約束はどうなったのだ!私にアルティス荒野全てを与えるという約束は!?私をカズリクの総督にするという約束は!?私を殺しても、あの場にいた戦士達が覚えているぞ!」
「それは残念でしたね。彼らはもうこの世にはいませんよ。貴方ももうすぐ彼らに再会できるはずでしょう」
「なっ―――殺したというのか!あの者達全てを?」
「おしゃべりはそこまでですよ、総督。貴方はここで死ぬんです。暴徒の手に掛かってね。それが貴方の役割ですから」
「くっ―――わしは、なんて奴らに………」
「そう思うなら、あの世で詫びるのですね。貴方が謀殺したクシャス=カーンや他の者達に」
「貴様は必ず地獄に落ちるぞ!」
「でしょうね。構いません。いや、むしろ本望ですよ。私は全ての闇を背負い、陛下を覇皇とし、地獄に落ちる。素晴らしい将来予想図です。私はあの方のためならば、己の幸福など喜んで差し出しますよ。さて、ではそろそろ死んで貰いましょうか。―――闇よ、喰らえ」
次の瞬間、アルンヘルの周りで渦巻いていた闇が一瞬にしてグルジムを呑み込んでしまう。
「おのれ、アルンヘル!貴様を呪い殺し―――」
そこで、グルジムの言葉は途切れた。
「闇よ、去れ」
アルンヘルが唱えると部屋を覆っていた闇が呆気なくその姿を消す。
「―――さて」
アルンヘルは薄笑みを浮かべて、エシュアを振り向いた。
「これからの事は、わかってますね」
「無論だ」
「では急ぎましょう。彼らはまだここで死ぬべきではないのですから」

群衆達はますます怒り狂い、見境が無くなりつつあった。
「放火こそまだ無いが、それも時間の問題だね、こりゃ」
自分の屋敷を取り囲んで気炎をあげている群衆の姿を、エレノアは別の建物の二階から眺めていた。
既にこうなる事を考え、屋敷から逃げてきていたのだ。
「グリードやデュランんとこも、襲われてんだろうね」
総督はもう死んだだろう。エレノアは窓辺を離れると椅子に座り、コップに酒を注いで飲み始めた。
そこへ扉を開けて、一緒に逃げた使用人の一人が飛び込んできた。
エレノアはその使用人を怪訝そうに一瞥して。
「どうしたんだい?まだ居たのか」
「まだ居たのかじゃありません!御嬢様を安全な場所までお連れしなければなりませんから」
父の代からラウシェンバーグ家に仕える老使用人を、エレノアは呆れたように見やる。
「その御嬢様と言うのはやめてくれないかい。私ももう良い年なんだし。第一、親父の商会を継がなかった親不孝者だよ?私は」
「関係ありません。お父上様は今際の際に枕頭に私をお呼びになり、私の手をお取りになって『娘を頼む』と仰ったのです。私の目が黒い内は御嬢様をお守りいたしますぞ」
生き生きと瞳を輝かせて、使用人は言い放つ。今、自分がエレノアの役に立てるのが嬉しくて仕方ないという表情だ。
「ふぅ。ったく、老人ってのは嫌なもんだねぇ。何言っても聞き入れやしない」
「中年の愚痴はみっともないですぞ、御嬢様」
「む。………他の連中は?」
「差し出がましい事をしました。路銀を渡して、解散させました」
「そうかい。それで?さっきは随分と慌てて飛び込んできたように見えたが?」
聞きながら、コップにもう一杯酒を注ぐ。
「そうですとも!御嬢様、ここももう危険です。既に暴徒がこの通りの店も荒らし始めています!」
「この通りも?………ここん所の店主はほとんど主戦派だろ?」
「しかし、現に略奪行為を行っております!」
「ふん。………遂にそこまで分別を失ったか」
そう言いながら、エレノアは酒を飲み干す。そして、酒瓶を持って立ち上がった。
「じゃあ、隠れ家を変えるとするかい」
「はい。この爺、地獄までお供いたします!」
「断っても付いて来る気だろうが。ったく、急ぐよ」
「はい!御嬢様!」
「だからその御嬢様と言うのを止めな!恥ずかしいったらありゃしないよ」
騒がしく言い合いながら、二人は隠れていた商店の裏口を出た。
「む」
だが、そこに運悪く三人の男達が居た。彼らはちょうど何処からか浚ってきた生娘を犯そうとしている所だったらしい。生娘は既に縛られ、猿轡を噛まされた上で全裸に剥かれており、貞操の危機だった。
「御嬢様」
爺が小声で呟く。
「わかってるよ、関わってる場合じゃないね」
「むー!むー!」
目に涙を浮かべながら、何かを叫ぶ娘。だが、猿轡のせいで声は言葉にならない。
「勝手に楽しんでくれ」
エレノアは男達にそう言い放ち、急いで背を向けた。
だが、男の一人が確かめるように呟くのが聞こえた。
「エレノア=ラウシェンバーグ………?」
「御嬢様!」
「わかってる!」
二人は急いで逃げ出した。後ろの方では男達が騒いでいるのが聞こえた。
「捕まえろ!」
「殺せ、身ぐるみ剥げ!」
「きっとお宝を持ってるぞ!」
「ちっ。欲に目が眩んだ馬鹿どもが」
「御嬢様、お早く!」
「わかってるよ!だがね、酒に浸かってるような生活だからねぇ。若い頃は男になんか負けなかったんだけど。最近は動くとちょいとばかり腰が痛むのさ」
急いで逃げるが、男達がどんどん追いついて来る。
「御嬢様、こちらへ!」
爺が叫び、二人は右に曲がった。
「む」
「これは………!」
二人が唸る。その道は行き止まりだった。慌てて振り返れば男達三人がちょうど路地の入り口に現れたところだった。逃げ道は無い。
「さて、どんだけ宝石を持ってるかね」
「身ぐるみ全部置いていけば命は助けてやっても良いぜ」
「急げよ。さっきの娘が俺達を待ってるんだからな」
「ふん。お前さん達みたいなケダモノにくれてやるような宝石は持ってないよ。欲しけりゃ、自分で働きな」
「御嬢様!」
爺が切羽詰ったように言う。言いたい事はわかる。ここは大人しく有り金全部出すべきだ。
そうすれば、それ以上の事はされないだろう。結局はこの者達もただの町人に過ぎないし、こんなおばさんを犯すよりはさっきの生娘の方がどれほど魅力的か知れない。ちらりと見ただけだが、白い肌をした美しい娘だった。泣き顔しか見ていないが、笑えば魅力的だろう。おそらく何処かの商家の娘だろう。だが、エレノアは自分で稼いだ金をこのような者達に渡そうなどとは思ってもいなかった。
「フェニキアの商人みたいな言い草だけどねぇ。私も同意見さ。『一度手に入れた金は二度と手放すな。手放すときは必ずそれ以上の価値を持つ物と交換すべき』ってね」
「へん。大層な言い草だな。だが、自分の命よりも金の方が価値があるってのか?」
「さっさと渡さないと叩き切るぞ」
吼えて、真ん中の男が剣を引き抜く。右端の男は馬鹿みたいに大口開けて笑い、
「さあ、さっさと観念して出すもん出して貰おうじゃねぇか。良いか?こいつは元自警団員だ。早くださねぇとおまえさんのそのしょぼくれた首が飛ぶぜ?」
「なるほどねぇ。自警団員崩れか。斬りたきゃさっさと斬れば良いだろう?そんな度胸が本当にあるならねぇ」
挑発するように言い放ち、エレノアは酒瓶から直接酒を飲んだ。
「お、御嬢様!そのように挑発なされては………み、皆さんもここは一つ落ち着いて―――」
「黙れ、糞ジジィ!」
「もう許さん、斬る!」
「良いぞ、斬っちまえ!死体から剥ぎ取ったって同じ事だ!」
左右の男に囃し立てられ、真ん中の男が突進してくる。エレノアはそんな男を見つめる。
男が剣を振り上げ、エレノアの首めがけて振り下ろしてきた。
エレノアは目を瞑らなかった。そして、その眼前を何かが過ぎった。
次の瞬間、元自警団員の手から剣が跳ね飛ばされており、男自身も倒れ伏していた。
その場にいた全員が、起こった出来事を理解できずに呆然と立ち尽くす。
「―――あんたは?」
エレノアが聞く。彼女の視線は突然現れた男へと向いていた。
白髪の男だ。男が振り向いて、その鋭すぎる眼差しがエレノアを貫いた。
「名乗る事はできない。だが、ここは助ける」
それだけを言い、男は暴徒達に向き直った。残った二人とも、先程までの勢いは消え失せていた。
「な、なんだ、てめぇは!」
「どこから湧いてきやがった!」
精一杯の虚勢を張って怒鳴るも、語尾が震えているのがエレノアにも感じられた。
そんな虚勢も、白髪の男にはまったく通じなかった。
男が一歩踏み出す。暴徒達は三歩後退さった。男が再び一歩踏み出した。暴徒達が路地の入り口まで後退した。男が先程自分が倒した元自警団員の傍に屈み込み、男を持ち上げた。
暴徒達は男が次に何をするのかとびくびくしながら見ている。
男は気絶した元自警団員を暴徒達の足元に投げた。そのまま、告げる。
「去れ」
「く、くそっ!覚えてやがれ」
暴徒達は月並みな台詞を吐いて、気絶した自警団員を担いで逃げて行った。
白髪の男がエレノアを振り向いた。
「安全なところまで案内する」
「助けて貰ってこういうのもなんだがね。あんたを信用できるって証拠はあるのかい?」
「無い」
「よし。なら信用しよう。ただし、もう一人助けて貰いたい奴が居る」
「時間が無い」
「大して掛からないよ。すぐ傍で裸にひん剥かれていた娘だ。縛られていたからまだ居る筈だ」
男が使用人の方を向いた。
「この方は一度言い出したら梃子でも動かない方なのです。どうか」
使用人の言葉に男は簡潔に一度だけ頷いた。
「―――急ぐ。案内しろ」
エレノアはにやりと笑って。
「あいよ。こっちだ。爺、遅れるんじゃないよ」
「はい!御嬢様!」

3 アレックス=シルバーフォート中将
帝国暦三三三年十二月二日。
朝靄を切り裂くようにして、一隻の通報艦を先頭に、二隻の軍艦と五隻の大型輸送船がカズリク港に入港して来た。七隻の船からは武装した兵士達が次々に飛び降りていく。第七軍第一歩兵師団の一万名だ。残るハーン族部隊一万余は軍艦一隻、輸送船六隻で別行動を取っている。
旗艦、『エルブランド』の艦上に、その男の姿はあった。
潮風に棚引く髪は、高貴な生まれである事を髣髴とさせる銀。細められた瞳は金。
整った容貌に、引き締まった長身。男はその身を黒を基調とする軍服に包んでいた。
男の名はアレックス=シルバーフォート。階級は中将。役職は軍団長だった。
「相手は暴徒とはいえ、元はただの町人だ。抵抗する者でも可能な限り捕縛するに留めよ」
彼は着岸前に全部隊にそう命令していた。彼がこの反乱を知ったのは昨日の三時頃、コルシカ島で演習をしていたところに駆けつけた通報艦からの通報だった。
彼はすぐさま軍を纏め、船に分乗して、カルア半島を左舷に見ながら北上したのだ。
彼を祝福するかのように季節風が追い風となり、予定よりもやや早くカズリクに到着する事が出来た。
「暴徒の中にはかなりの数の元海上騎士団員が加わっているそうだ。正直、軍艦や輸送船の乗組員が離反しないかと不安であった。貴殿の統率力のおかげで難を逃れたようだな」
アレックスはそう言って、傍らに立つ男を見た。
年経た船乗りの貫禄を十二分に感じさせる海の男だった。
「お褒めに預かり、光栄ですな」
にこりと笑いながらいう顔には愛嬌がある。
男の名はミラン=ヘルムート。階級は中将。役職は海軍総司令官と言う物であった。
階級ならばアレックス=シルバーフォートと同じだが、役職では彼の方が上であった。
しかし、フロレシア帝国の中では彼は新参者に過ぎない。彼はカズリク海上騎士団の団長であった。
主戦派への迎合を叫ぶ団員達を説得し、無用な混乱を避けたのは彼だ。
彼のおかげで、アレックスは迅速に北上することが出来たのである。
だが、少なからざる団員が彼の考えに賛成せず、騎士団を抜けて陸に上がった。
暴徒達に加わっているのはそんな元海上騎士団員達だった。
ミランは朝靄に煙る街に視線を向けた。街からは夜通しで暴れている暴徒達の騒ぐ声が聞こえてくる。
「幸い、街は燃やされていなかった。良かった良かった」
目尻に笑みを浮かべて、ミランは何度も頷いた。
「鎮圧にはどれほどの時間を?」
「それほど掛かりはしないだろう。抵抗力を保持しているのは自警団と海上騎士団の元団員だけ。それも全体から見ればほんの一握りに過ぎないはず」
「街を逃れようとしても、街の北には別行動を取った部隊が展開を済ませている頃ですな」
「蛮族が計画通りに動いてくれれば、だが」
彼らが話している通り、ハーン族の戦士達一万人はカルア半島にある漁港で上陸し、半島を北上してカズリクの北方へと回り込む手筈になっている。暴徒を煽動したと思われる主戦派の会合衆達を逃さないためだ。彼らを逃せば、今後もこのような騒ぎが頻発する事になる。
「気になる事と言えば」
陽気な声で、ミランが口を開いた。アレックスは綺麗に形を整えた眉をあげて、ミランを見る。
「フェニキアの二隻の戦艦は一体何が目的で、カズリクへ来たのでしょうな」
ミランが陽気な笑みを浮かべたまま、港の一角を指差した。
アレックスがそちらを見てみれば、朝靄の向こうに巨大な艦影が滲んで見える。
フェニキア海軍の誇る新鋭戦艦『ユニコーン』と同型の『グリフォン』だ。
フロレシア帝国海軍の三隻の軍艦などではこの二隻と戦っても万に一つも勝ち目は無い。
いや、それどころかこの二隻の内一隻と戦ってさえ、ものの数分で全滅するだろう。
こちらの軍艦の戦術と言えば矢を射掛けるか、さもなければ接舷して水兵を敵船に乗り込ませて白兵戦に持ち込むかしかない。
だが、この二隻の戦艦には《大砲》と言う兵器が搭載されている。この大砲から放たれる鉛の塊が命中すれば一発で甚大な被害を被る。五、六発も受ければ撃沈されてしまうだろう。
―――と、アレックスはミランに説明された。
その時も、ミランは陽気に笑っていたが。
『まぁ、連中と戦おうなんて正気の奴が考えることじゃない。連中と戦うならこっちも大砲を積載した戦艦を持たないと』
ミランの言葉が蘇る。
「―――連中は我々と戦う気か?」
「そりゃないでしょう。連中にその気があるんだったら洋上で待ち伏せれば良い。そうすれば今頃、我々は海の底で魚に突っつかれていたでしょう」
「では何の為に?」
「さあ?高見の見物でも決め込んでるんでは?」
「見物、か………」
アレックスはもう一度、靄の向こうに佇む巨大な戦艦を見つめた。
「不気味なものだ」
「ははは。まあ、大丈夫でしょう。フェニキアは概ね平和的な国家ですよ。それに、戦争より外交に頼る国でもある。少なくともこっちが向こうにとって脅威を感じさせる存在に成長するまでは安全でしょう」
「そうか………そうだな」
(この国が今までより以上に大きくなれば………フェニキアはそれでも黙ってそれを見逃すだろうか?)
「―――さて、私もそろそろ艦を降りて指揮を取るとするか。船酔いはもう十分味わったからな」
「そうですか。では私は海上に逃れようとする暴徒の見張りでもしていますかな」
「なるほど。船で逃れるという手もある訳だ。では海は頼む。陸は任せて貰おう」
「ええ、お願いしますよ、閣下」
「ん」

暴徒の鎮圧はそれほどの混乱を伴わずに進行して行った。街を練り歩いていた町人達には家への帰還命令が出され、犯罪行為を行った者の摘発および暴動を煽動したと思われる会合衆議員、元自警団員、元海上騎士団員、民間組織幹部などの摘発が行われていく。自警団や海上騎士団の元団員の中には抵抗を試みる者もいたが、帝国軍兵はこれを容赦なく無力化した。ただし、命令どおり、殺しはしなかった。
この事実は自警団や海上騎士団の戦闘能力が帝国軍兵の命令遂行を困難にする事さえできない水準でしか無かった事を示している。混乱は僅かな時間だけで、すぐに暴動は鎮圧された。
ただ尚も反帝国運動を貫こうとする者達は自警団の砦に立て篭もって、抵抗の意思を示した。
砦はそれなりの規模で、防衛力も十分であり、敵味方に被害を出さないように陥落させるのは難しいように思われた。アレックスは砦周辺の住民を避難させた後、この砦を一個連隊二千五百で包囲した。
他の連隊は略奪や婦女暴行、殺人罪などの罪を犯した者を拘束するのに全力を尽くし、ハーン族の部隊は街の陸側の出口を完全に封鎖していた。ただし、族長グルジム=ハーンが暴徒に殺害された事により彼らの間には動揺が広がり、脱走兵も多く出ている。
カズリクからの海側の出口はミラン=ヘルムートの海軍第一艦隊―――海軍唯一の戦闘艦隊にして、たった軍艦三隻と言う小所帯―――が見張っており、漁船などを使って脱走を試みる者を拘束していた。
アレックスは破壊された総督府に応急の修理を施し、ここに司令部を置いて全体の指揮を取っていたが、鎮圧開始から三日目の十二月四日、前線視察の為に自警団の砦を包囲している連隊司令部を訪れていた。
「説得には応じないのか?」
「はっ。戦意は尚高いらしく、投降する意思を見せておりません。脱走兵も僅かに二、三名に留まっております」
「脱走兵が居るのか?取調べの結果わかった事は?」
「はっ。砦内に立て篭もっているのは旧自警団員、および旧海上騎士団員、主戦派会合衆議員と彼らに金で雇われている暴力団、それに逃げ込んだ暴徒らおよそ四百五十名あまり。指揮を取っているのは第二歩兵師団長、旧自警団団長キバ=スウェット少将であるという事であります」
「うぅむ………」
アレックスは難しい顔で、砦を睨み据えた。
連隊司令部は二階建ての民家に設営されており、アレックスと連隊長はその民家の屋上から砦を眺めながら話をしていた。
「攻撃を許可していただければ、一時間あまりでの攻略が可能だと思います」
「予想される被害は?」
「物見櫓からの射撃によって、砦内突撃までにおよそ五十、砦内での白兵戦の状況次第では百。合わせて百五十名前後だと思われます。敵側の被害はおよそ三十にまで抑えられるかと」
(攻撃するべきか………)
一瞬そう思った。だが、思い直した。
「住民感情を考えれば、ここで彼らを殺すのはまずい」
砦内にはただの住民だった者も逃げ込んでいる。彼らを殺せばカズリク住民の同情が集り、同情がやがては帝国への反感へと成長し、最終的に反帝国運動にも繋がりかねない。
「城内の食糧備蓄などは?」
「脱走兵の話によればおよそ一ヶ月分」
「一ヶ月分か………」
それほどの長期間、帝国軍が手も足も出ないという状況を住民に見せるのもまずい。
それは侮りへと繋がり、反帝国運動へと繋がりかねない。
それにハーン族部隊もそれだけの長期間部隊としての体裁を保てるか微妙なところだ。
今でももう既に脱走兵が出始めて居る。今後、加速度的に脱走兵の数は増していくだろう。
「わかった。包囲を厳重にしろ。ただし、物見櫓からの射撃の範囲外でだ。攻撃は禁じる。降伏を勧告する使者を六時間ごとに送れ」
「了解いたしました」
連隊長に指示を与えて、アレックスは軍団司令部に戻った。
翌日、アレックスはカズリク全域に高札を出し、砦内に立て篭もっている会合衆議員、暴力団、元自警団員、元海上騎士団員を賊徒と認め、またそれ以外の者を人質と見なすと公表。
キバ=スウェットに対し、人質の解放と即時降伏を求める使者を送った。
さらに硬直した時間が三日経過し、遂にキバ=スウェットは人質の内、女子供老人を解放する事に同意した。そして同時に彼は声明を発表し、人質と認定されている者達も心から反帝国運動に賛成している同志であると発表した。
この発表に対し、カズリク住民達は同情的な意見を持っているようであった。
だが、翌日、解放された人質の女性の証言が各辻に高札として出されると住民の意見は変わった。
女性は砦内の実情を語ったのだ。
《砦内では会合衆やその権力を傘に着た暴力団、それに元自衛組織の団員だった者達が権力を握り、それ以外の者はまるで奴隷のように扱われています。食事は配給制で、差別的です。私の夫は命令不服従で見せしめの為に殺されました。彼らは義賊なんかじゃありません。罪に服するのを恐れる罪人達です。彼らに比べ、帝国軍は攻撃すれば簡単に解決できるのにそれをせず、六時間ごとに砦を訪れる軍使の方は私達にも温かい言葉を掛けて下さいました。彼らは悪辣で強欲な支配者なんかじゃありません。確かに帝国は私達の自由を奪いました。でも、他の国でなくて良かったと私は思っています。彼らが私の夫の仇を取ってくれる事を願います》
女性の名は匿名希望とされており、民衆の中にはこれは帝国軍が作成した欺瞞文書ではないかと疑う者もいた。だが、概ねはこの意見に心を動かされた。
現に、帝国兵は暴徒を誰も殺さなかった。拘束された者も、されても仕方の無い罪を犯した者達ばかりだった。奪い、破壊し、犯し、殺すという、民衆が持っていた支配者への偏見は、帝国兵には一切当て嵌まらず、むしろ義賊を名乗る者達にこそ当て嵌まる物だった。
この民意の転換を受け、アレックス=シルバーフォートはキバ=スウェットに対し、三日以内に開城する事を要求した。この要求に従わない場合、強制手段をも辞さないという最後通告だった。
そして、最後通告から三日目の、十二月十二日。既に、砦内に立て篭もっている者達に対する民意は四日前の同情的な物から一変し、敵意に変わってさえいた。
民衆は平安を欲していた。それを妨げているのは帝国軍ではなくキバ=スウェット達なのだ。
この日、アレックスは八日ぶりに連隊司令部を訪れた。
出迎えた連隊長に、彼は表情を変える事無く告げた。
「事態は変わった。もはや、彼らに死者が出たとしても住民感情が帝国に対し反感を抱く事は無い」
「では、閣下?」
待ち望んだ命令が出される予感に、連隊長が髭を僅かに震わせた。
中将はそんな連隊長を見ずに、砦を見て聞いた。
「予想される被害は?」
「はっ。攻撃最初期に物見櫓に射撃を集中させ、敵の射手を殲滅します。その上で、射撃による援護下、歩兵中隊を三個六百名突入させます。砦内に残存する兵力はおよそ三百。予想される被害は味方三十、敵側百二十です」
八日間、攻撃を延ばした事により味方の被害を減らす目処が立った。
「これ以上の攻撃の遅延は住民に不信感を与える事にもなりかねない。ハーン族部隊にもそろそろ限界が訪れようとしている。用意は整っているな?」
「万全です。攻撃許可が降り次第、五分以内に射撃を開始できます」
アレックスは砦から目を外し、連隊長を見据えた。
「攻撃許可だ」
「はっ!」
連隊長は敬礼し、すぐに司令部に使っている民家の中へと飛び込んで行った。
五分後。弓兵による一斉射撃が開始され、物見櫓の射撃手が殲滅された。
歩兵中隊は四方向から同時に、弓兵による援護の下突撃し、僅か一時間あまりの戦闘で砦は陥落した。
被害は、帝国側:死者八名、重傷十二名、軽傷二名。計二十二名。
    義賊側:死者六十四名、重傷三十二名、軽傷五十一名。計百四十七名。
キバ=スウェットは捕縛され、軍団司令部へと連行された。
そして、かつての総督公室で彼はアレックス=シルバーフォート中将に面会した。
「久方ぶりだな、少将」
「随分と持って回ったやり方がお好きと見るな、閣下殿は」
未だに敵愾心を失っていない目で、キバはアレックスを睨み付けた。
その敵愾心をあっさりと受け流し、執務机越しにキバを見るアレックス。
その顔には勝者の優越心などはなかった。
「貴方は賊徒に身を落とした。が、未だに貴方を慕う者も多いのも事実。現に、これだけの助命嘆願書が送られてきている」
そう言って、アレックスは執務机の上に積み上げられた書類の山を小突いた。
「全部で三千二百八十三枚ある。………そこで相談なのだが、少将?貴殿はこれらの者達の心に応えてはくれないだろうか?」
キバはやや驚いたように目を見開いた。アレックスは自分を助命しようと言っているのだ。
「ふん。それほどまでに住民感情とやらが気になるのか?」
「これでも一応侵略者なのでね。住民に嫌われる侵略者は追い出されるしかないからな」
アレックスは薄く笑って肩を竦めて見せた。キバはふん、と鼻を鳴らして、
「今殺しておかねば後に後悔するかもしれないぞ。また反乱を起こすかもしれない」
「ならばまた捕縛するだけだ。そして、同じ事を問うのみ」
キバは明らかに迷っている様子で、視線を泳がせていた。
「ハーン族の部隊はアルティス荒野へと帰還させなければならない。するとカズリクに残るのは第一歩兵師団と海軍だけ。兵員数にすれば僅か一万二千名余り。これではあまりにも心もとない。早急に軍を整えなければならないのだが―――海軍の方はミラン=ヘルムート中将が任される事になる。陸軍の方は貴殿に任せたいのだが」
「…………」
「第二歩兵師団長に就任してくれないだろうか?すぐにとは言わない。少しは反省しているところを住民にも理解して貰わなければな。一ヶ月の謹慎。これでどうだろう?」
「ふん。良いだろう、帝国の化けの皮が剥がれるのを見届けてやる」
挑戦的な笑みを浮かべて、キバは頷いた。アレックスは満面に笑みを浮かべて、頷いた。
「それは重畳」

4 皇帝、カズリクに入る
時はやや遡り、暴動がほぼ鎮圧された十二月五日。
ラインハルト一行はカズリクに入った。
「ここがカズリクかぁ………すごいなぁ、これ」
カズリクの街並みを一望できる丘に登り、眼下に広がる景色を見張るかし、ラインハルトは感嘆の声を漏らした。時刻は既に夕刻過ぎ。陽は傾き、カルア半島の向こう側へと沈もうとしていて。
眼下に広がる街並みも、その先に広がるカズリク海の水面も、空も、全てがオレンジ色に輝いていた。
別に夕陽なんてルーガでも見れるし、ルーガで見る朱に染まった街並みも十分に心に迫る美しさを持っているのだが、なんとなく違うような気がした。何が違うのかわからないが、何かが違う。敢えて言うなら空気、だろうか?内陸の空気とは異なり、海の空気には潮臭さがある。
それで、見え方さえもが変わってしまうのかどうかはわからなかったが、多分に気分の問題だろう。
もしくは、一緒に景色を見ている者のせいかもしれない。
「うわぁぁ!………綺麗ねぇ」
ラインハルトの隣に並び、シエナもうっとりと眼を細めてこの夢幻とも思える風景に見蕩れている。
海から吹く海風が彼女の銀髪を滑らかにそよがせる。
「なんだか暖かい気分になるね」
「そうねぇ。なんだか、懐かしい感じ」
二人は顔を見合わせて軽く微笑んで。
「よく人間も海から生まれたとか、母なる海とか言うけど案外本当なのかもね」
「そうね。そうしたら空がお父さんなのかな?」
「さあ。どうなんだろ」
二人は揃って、紅く染まった空とそこに浮かぶ雲を見つめて。
「―――来て良かったかい、シエナ?」
「ええ。なんだか少し、昔に戻ったみたい。ローデンスで暮らしてたときに」
「うん………」
それは束の間の安息だろう。もう、ローデンスのあの頃には戻れないのだから。
今だって彼らの傍らにはヴァンが控えている。だが、たとえ今だけでも。
(今だけでも、何も考えずにこの景色を眺めていたい………)
ラインは横目でシエナを窺い、何気なさを装いながら彼女の肩に手を置いた。
彼女の身体が一瞬ピクリとし、すぐに脱力し、ラインに身を預けてくる。
ラインは少しだけ力を入れて、シエナの肩を抱いた。シエナは首をラインの肩に乗せて。
「―――いつの間にか、ラインに抜かれてたんだね、私。背丈も」
「抜いたのもう随分前だと思うけど?」
「そうかな?でも、ラインは大きくなったよ。心も身体も」
「あそこだけはまだ小さいって?」
「―――馬鹿」
くすりと笑い、二人はさらに身体を寄せ合って。
「こんな時間がずっと続けば良いのに」
シエナが呟く。その呟きに、ラインはかすかに眼を細めた。胸が締め付けられるのを感じて。
その彼女の願いが適えられないのをわかっていたから。自分に、その力がない事を知っていたから。
「………うん」
それでも頷いた。適わないのを知りながらも、彼もまたそれを願っていたのだ。
二人は眺望台の手摺に身を預け、言葉もなく夕焼けに染まっていた全てがだんだんと濃紺に染まり、やがて街の家々に明かりが灯っていくのを眺めていた。
「―――陛下」
その声が、彼らに現実を知らせた。
「………。なんだい?」
ヴァンの声に振り向けば、彼は街とは反対側を見つめていた。
この丘に登るための傾斜の緩やかな坂道を登ってくる白髪の男の姿が見えた。
「レベッカ達は?」
さっきまで近くに居た筈の人影がない事に気付いて、聞く。
「―――二番組は自警団の砦の様子を見に。三番組は宿の手配。それ以外は街の様子見に」
(気を遣わせちゃったかな………)
「そう―――手際が良いね」
頷いて、ラインは街の東側に視線を向けた。
街の西側に比べてそちらには明かりがほとんどなかった。
住人のほとんどが一時的に避難させられているので、明かりを点けるのが包囲している第七軍の連隊と包囲されている砦に拠る自警団を初めとする反帝国派だけだからだ。
と、そこで。
「陛下、ご無沙汰しております」
いつのまにかすぐ近くまで来ていた白髪の男が片膝付いて挨拶した。
彼はそのまま、その異様に鋭い眼差しで皇帝を見据えて。
「街の出入りを見張らせていた部下から報せを受けて驚きましたが、どうして陛下自らカズリクへ?」
「うん。まぁ、早く海を見たくてね」
ラインは言葉少なに答えた。エシュアはアルンヘルから説明されて今回の計略の全てを知っている訳だが、シエナの前であまりそのような話はしたくなかった。彼にもその皇帝の意思は通じたようだった。眉間に皺を寄せて、ただでさえ鋭い眼差しをさらに鋭くする。
「なるほど。つまりはお忍びの旅と言う訳ですか。アルンヘル殿には?」
「まだ会うつもりはないよ。その時までは」
「わかりました。では彼には知らせずにおきましょう。それで、陛下が連れていた兵達は………?近衛騎士団には見えませんでしたが」
「あ、うん。最近作った部隊なんだ。名は白狼軍。隊員数五十人の小部隊だけどね。余の護衛をして貰ってる。近衛騎士団だと目立っちゃうから」
「そうですか、わかりました。それで、今夜の宿は?」
「うん。もうハーヴェイ………ああと、白狼軍三番組長ハーヴェイ=キーディング少尉に探して貰ってるから大丈夫。一応、お忍びだからあんまりフロレシア帝国軍とも関わらない場所にしようと思って」
「そうですか。それではくれぐれも御注意ください。もし、陛下の身分が明らかになれば要らぬ事を考える輩も出て参りましょう」
「うん、気を付けるよ」
エシュアは一度頭を垂れると、
「それでは私はこれで。くれぐれも御注意ください」
「わかった。驚かせて御免ね」
「いえ………」
もう一度頭を垂れ、エシュアは再び丘を降りて行った。
彼の姿が十分に離れたのを確認してから、シエナが口を開いた。
「それにしても凄いわね、暁って」
「うん」
街に入れば暁が気付いてエシュアが接触してくるだろうと言う予感はあった。
いや、それはほとんど確信と言っても良いぐらいだろう。
だが、いくらなんでも、
「街に入ってほんの二、三時間で接触してくるとは思わなかったよ。早いなぁ」
と、エシュアが歩み去った方角からまた一人の男が駆け上ってくるのが見えた。
近くに来るにつれて、その男が緑色がかった髪をざんばらにした青年である事に気付く。
「陛下、陛下ぁっ!」
と、皇帝は御忍びで来ていると言うのに何の遠慮もなく大声を張り上げながらハーヴェイが走ってくる。彼はラインのすぐ傍まで来ると、ぜぇはぁと荒い息を吐きながら。
「み、見つけましたよ、陛下!陛下の今夜の御宿!なかなか良い部屋が取れました―――って、痛いっ!?」
息も荒くそう言い放っていたハーヴェイがいきなり後頭部を殴られて突っ伏した。
すぐに跳ね起きて自分を殴った相手に向かって己の腕を振る。
すると彼の袖から何かが飛び出し、彼を殴った相手に襲い掛かった。
だが、相手はそれを簡単に摘み取ってしまい、
「ったく、おまえって奴は………」
「あれ?」
自分の武器を受け止めた相手を見て、ハーヴェイが間の抜けた声をあげる。
彼の武器は流星錘と言い、手首に結びつけた紐の端に重りなどを仕込み、それを投げて攻撃する暗殺にも用いられる武器だ。彼はその流星錘で、かつて自分の三倍はありそうな大岩を砕いた経験があったのだが。目の前に聳え立つかのように立つ女はその大岩よりも堅固そうであった。
レベッカは受け止めた流星錘を無造作に放すと、そのままハーヴェイの頭を叩く。
それだけでハーヴェイはまた地面に突っ伏してしまい、
「うう………なにすんですか、副長!」
涙交じりの声で抗議する様子はどうにも組長には見えないのだが。
そんなハーヴェイを殴ったレベッカは、やや怒りで顔を高揚させながら。
「そんなに陛下陛下と連呼したら陛下の正体がばれちまうだろうが!気を付けな!」
叱られて、ハーヴェイはようやく自分の失態に気を付けたようだった。
事の成り行きを眺めていた皇帝ラインハルトに対してぺこぺこと何度も頭を下げて、
「す、すいません、陛下!俺、陛下陛下と連呼しちまって陛下が折角お忍びでここまで来てたのに俺がこんなに陛下陛下って連発してたら皆に陛下が陛下だって事がばれてしまう!ああ、俺がこんな失態を犯したなんて知られたら俺はガルヴィン隊長に殺されちまいます!」
と、謝るときまで陛下と連呼するハーヴェイ。彼の背後に立つレベッカのこめかみには青筋が浮かび、手は背の三尖両刃刀の柄に掛けられている。
この約二十日間の間、彼女が深刻な過負荷状態に晒されていた事はラインも知っている。
その原因はハーヴェイだけではない。この白狼軍。構成員があまりにも個性的過ぎるのだ。
確かに皆優秀なのだが………。
だが、いくらレベッカがストレスで少々胃潰瘍気味だとしても、ここでハーヴェイを殺させるわけにはいかない。
「まぁレベッカ、落ち着いて。それでハーヴェイ、とりあえず今後は気を付けてくれないかな?それで、宿では何と言って部屋をとったんだい?」
「まさかあんた、『皇帝陛下』なんて口走らなかっただろうね?」
レベッカの声が怖い。いつもは好青年然とした顔をしているハーヴェイの顔もさすがに強張っている。
「も、勿論、んなことはないですよ!ばっちり、『フロレシアの貴族の息子が海を見るために来た』って言ってあります。宿の主人は笑いながら、『まぁ、内陸の人にとっては海ってのは珍しいもんだろうね。私らにとっては毎日見てる海ですがね。まぁ、それでも日々その様子が異なり、見ていて飽きないんですよ―――』と十五分ほど海の自慢を話してくれました。気の良いおじさんでしたよ」
「そうか。ちゃんと人数分の宿を用意してあるんだろうね?それとちゃんと分散させてあるんだろうね?」
「も、勿論です!ちゃんと組ごとに宿を取ってあります。理由も組の特徴に合わせて『内陸の踊り子が―――』とか『内陸の武芸者が―――』とか各種」
「ふむ。まぁ、どうやら安心みたいだよ、陛下」
「うん。レベッカもここに居る間はできるだけ陛下と言うのは止めてくれないかな?ばれるとまずいし」
「む。確かに。じゃあ、なんて呼べば良いんだろう………」
「普通にラインで良いんじゃない?ねぇ、ライン?」
それまで黙っていたシエナが口を挟んでくる。ラインは一瞬考え込んで、
「まぁ、偽名とかだと化けの皮も剥がれ易いしね。ラインで良いか」
「あいよ。ただし、この街に居る間だけだよ、ハーヴェイ。ここを出たらまた陛下と呼ぶんだ。それがけじめってもんだからね」
(呼び方だけ尊称にしてもなぁ………まあ、良いけど)
「それで、レベッカ?砦の方はどんな様子だった?」
「ああ、包囲してる連隊は一定時間ごとに降伏勧告の使者を出してるらしい。でも、中に篭ってる連中には降る気はないみたいだ。今朝、軍団長名義で高札が出されて一般人は人質と見なすって。それで人質の解放を要求したけど元自警団長のなんとかってのはそれを跳ね除けたらしい。今日明日に決着が着くって感じではないね」
「レベッカはどう見る?アレックス=シルバーフォート中将は短期間で終わらせる気かな?」
「まぁ、何ヶ月も掛ける気がないのは確かだろうね。へ―――じゃなかったラインもこの街に入る時にハーン族部隊の検問を抜けて気付いただろう?」
「うん。なんだか凄く焦ってるみたいだった。心ここに在らず、みたいな」
「どうやら総督が死んだらしい」
「総督が?」
レベッカはラインの顔を覗き込むようにして言った。この言葉を聞いた時の彼の反応を見ているのだ。
そして、ラインの反応は彼女の思った通りの物だったらしい。
にやりと口元を歪めるような笑みを浮かべて。
「なるほど。そう言う事か」
彼女には今回の計略は話していない。ラインは少しばかり慌てた。
ここで彼女に何か余計な事を言われれば、今までシエナには隠そうとしてきた努力が水の泡だ。
「れ、レベッカ!その話は後でしよう」
「まぁ、良いだろうさ。じゃあ、さっきの続きだけれど、総督、ハーン族の長グルジム=ハーンを失った事で戦士達は動揺してる。元々、ハーン族が帝国に屈したのはグルジム=ハーンの独断に拠る所が大きい。なんであいつが帝国に屈したのかは知らないが。どっちにせよ、グルジムが死んだ事により、戦士達はこのまま帝国に屈したままで良いのかどうか迷ってる」
「どういう事?もしかしてハーン族は―――」
シエナの心配そうな言葉を、ハーヴェイが遮った。
「ハーン族が次の族長にどんな考えを持つ者を就けるのか。それによってハーン族の去就が決まる。そのハーン族の態度の変化は直接間接の差はあるにしても他の三氏族にも影響を及ぼすって事ですね」
「そんな…折角和議が成立したのに………サリアもセトゥ=カーン様にお仕えできて楽しいって言ってたのに………また戦争になるなんて………ただでさえサリアは旦那さんを亡くしたり、男の子を出産したりして大変なのに、また戦争で引き裂かれるなんて可哀想過ぎる」
「シエナ………大丈夫だよ、きっと。セトゥ殿は良く物を見ている方だ。彼がカーン族を束ねて居るならカーン族は簡単には自暴自棄な行動には出ないよ」
「だけれど、ハーン族が離反しただけでも十分な脅威ですよ。カズリクを手に入れたとは言ってもまだまだ落ち着いてはいないし、貿易もまだ始まっていないのにハーン族が離反したらアルティス街道の通行が困難になる。交易路が扼されて居る限り、満足な交易は出来ない」
ハーヴェイが言う。
「帝国本国とカズリクの間にはアルティス荒野が横たわっている。ここを何とかしなきゃ、通商路は不安定なままだし、フェニキアとの交易も上手くはいかないだろうね」
レベッカも難しい表情で言う。
「そうだね。確かに考えると頭が痛くなるばかりだ。でも今はお忍びで来てるんだし、あまり考えないようにしたい。それに余は未来に希望を失ってはいないよ。ハーン族が話のわかる族長を選ぶかも知れない。そうならなくてもクリル族やタタル族はハーン族と運命を共にするとは限らない。例え、両氏がハーン族と共に立ち上がってもセトゥ=カーン殿は帝国側に付いてくれるかもしれない」
「そりゃ、楽観過ぎやしないかい?」
渋面でレベッカ。ラインはかすかに苦笑を浮かべつつ肩を竦めて。
「確かにね。でも、今はそれぐらいで良いのかも知れないよ。世の中綺麗なものばかりじゃない。でも―――」
と、そこで街の方を見る。すっかり夜になってしまった街並みは人々の生活を示す明かりが無数に瞬き、実に美しかった。綺麗だった。
「全てが綺麗事で片付くわけじゃなくても、少しぐらいは綺麗事で片付くんじゃないかな?」
いつもいつも、アルンヘルの計略に頼るのではなく。
(たまには話し合いでの解決と言うのも………良いかもしれない)
「―――さあ、そろそろ宿に行こう」
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