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覇皇伝

第三章 皇帝が行く

第三章 皇帝が行く
1 剣の修行
帝国暦三三三年十月十二日。ラインはルーガ城の裏庭で、ヴァン=ブレイスと共に剣の訓練をしていた。
「今日はどんな訓練をするんだい、ヴァン?」
「―――これを使います」
そう言って、黒い髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ引き締まった小柄な体躯をした青年が、金髪蒼瞳の、白磁の如き白く滑らかな肌をした少年の眼前に差し出したのは、一枚の何の変哲もない葉だった。
少年―――この国の最高権力者である皇帝ラインハルトは怪訝そうな色をその顔に浮かべて。
「―――葉っぱ?」
「―――はい」
頷く青年。皇帝直護衛のヴァン=ブレイスだ。現在その階級は少尉と言う事になっているが、軍部ではそろそろ昇進が考えられていると言う噂もある。他にも昇進の候補に挙がっている人物は数多い。
「その葉っぱを………どうするんだい?」
「―――こうします」
ヴァンはそう言って、その葉っぱを頭の上に置いた。そのまま、剣を引き抜く。彼の愛剣朱汐だ。
彼は抜き身の剣を構えたまま、視線を動かし、鮮烈な赤い髪をした青年を視界に収めた。
「―――手伝って貰えますか?」
「んあ?………ああ、俺で良いならな」
にやっと笑って頷いたのは、第一軍第一歩兵師団長のアレク=ハーベスト中将だ。彼もまた剣を抜いた。ぎざぎざの刻まれた紅い剣。元は彼の父親であるハーン=ハーベスト第一軍団長兼軍令部総長元帥が携えていた精霊具だが、今は息子の彼に譲られている逸物だ。銘は《炎の剣 ハリエストロ》。アレクとヴァンはそれぞれ真剣を以って向かい合い、
「本気で打ち掛かって良いんだな?容赦しないぞ?」
「―――はい」
「おりゃああっ!!」
激しい気合の声と共に、アレクが地を蹴った。ヴァンとの間合いを一瞬で収め、大上段に振りかぶった《炎の剣 ハリエストロ》を一挙に振り下ろす。
この大振りの一撃を、ヴァンはバックステップでかわした。
「ぬおおおっ!!」
前以上に激しい気合の声。顔を真っ赤に染めて、アレクが踏ん張った。
「これは………」
さすがにそれを見て、ヴァンも驚いたようだ。普段の間を開けることも忘れている。アレクは自分が全力で振り下ろした一撃を途中で止めたのだ。通常、そんな事はありえない。いや、ありえたとしても大きく体勢を崩さざるを得ないだろう。だが、そんな無茶な事をしていながら、アレクは物凄い速度で突きを繰り出してきた。普通は一の太刀の次に二の太刀がくる。どれほど速くとも、それに代わりはない。
一の太刀を振りぬいてから、二の太刀で斬り上げるのだ。なのに、アレクは一の太刀を強引に止め、すぐさま二の太刀を突き出して来たのだ。《炎の剣 ハリエストロ》がヴァンの顔面を貫いたように見えた。
「ヴァン!」
思わず、ラインが悲鳴のような声をあげてしまうほど、それは致命的な光景だった。
しかし、次の瞬間、地面に這い蹲っていたのはアレクの方だった。
「―――へ?いや、どうして」
目の前の光景が信じられず、ラインは目を何度も擦った。しかし、アレクは変わらずアレクだし、そのアレクの背後で悠然と剣を鞘に戻しているヴァンは無論、顔面を貫かれてなど居なかった。
「ったく、おまえには敵わないなぁ。俺の必殺技だったのによ」
「―――驚きました。すごい―――」
「馬鹿力って言いたいんだろう?驚いたんなら少しぐらい表情、変えろって」
全く何が起こったのかわからないラインとは異なり、アレクもヴァンも何が起こったのか完全に把握して会話していた。
「えっと、今のは一体どうなったの?僕にはヴァンが顔を貫かれたように見えたんだけど」
「ああ………こいつはあの一瞬で加速して、俺の背後に回り込みやがったんだ。んで、俺を殴った」
立ち上がり、服に付いた埃を払って、アレクが言う。ラインの顔を見て、彼がまだ理解していないと言う事に気付くと少し嫌な顔をして補足説明をした。
「ああ………つまりだ。またまた俺は手加減されていた、と。まぁ、そんだけの実力の差があるのを考えれば少しでも本気を引き出せたんだ。よしとするべきか」
アレクは自分に言い聞かせるように、そう呟いた。彼は簡単に言うが、ラインでもヴァンが軽く人間の常識を超えた動きをしたと言う事は理解できた。彼からすれば、アレクの動きでも十分常識を凌駕しているのだから。剣と言う物は元々、そんなに軽い物ではない。剣は刀よりも切れ味に劣り、為に斬ると言うよりも殴るための武器だ。その為に、刀よりも丈夫だし、重くなっている。無論、アレクの持つ《炎の剣 ハリエストロ》やライン自身が持つ覇皇剣サナトゥスぐらいの名剣と呼ばれるような剣ならばその枠に嵌る事も無いが。ともかく、そのような重たい武器を自在に操る事だけでも大変なのに、全力で振り下ろした物を途中で止めると言うのははっきり言って非常識だ。剣の重さに振り下ろすときの速度。さらには星の重力にまで影響されている物を止めるのは普通に振るう時の数倍以上の膂力が必要になる。
しかも、全く構えのバランスを崩すことなくそれを成し遂げるなどもはや人間業とは思えない。
もっとも、そんな非常識な事をやらかした末に放った突きを回避し、だけでなく相手の背後に回り込むなどヴァンの速さがどれほど異常な事かさすがのラインでもわかった。
急に不安な思いに駆られて、ラインはヴァンを見た。
「えっと………ヴァン?まさか、今のをやれと?」
言外に『絶対無理』と強調して訊いてみる。と、ありがたい事にヴァンは首を左右に振って、
「―――違います。陛下にやって頂くのはつまりはこういうことです」
そう言って、ヴァンは自分の頭を指差した。ラインとアレクが同時に見て、同時にぽかんと口を開いた。
「じょ、冗談じゃないぞ!」
アレクが顔を真っ赤にして吼える。ヴァンの頭の上には、アレクと剣を交える前に乗せたあの葉っぱがまるでくっつけられているみたいに張り付いていたのだ。
あれほどの過激な動きをやってのけながら、葉っぱを落としもしなかったと言う事だ。
「………ああ、俺は悪夢を見てるんだろうか」
「…………」
アレクは思わず天を仰ぎ、ラインは呆然とヴァンの頭に乗っている葉を見つめていた。
ヴァンは懐からもう一枚の葉を取り出して、ラインに差し出した。
思わず受け取ってしまってから、手の中にある葉をしかめた顔で見下ろす。
何の変哲もない、そこら辺から取ってきた葉に見える。いや、きっとそうなのだろう。
「これをどうすればいいんだい?」
「―――額に貼り付け、落とさないようにするんです」
ヴァンはまるでそれが物凄く簡単な事であるかのように、さらりと言ってのけた。ラインハルトは試しに葉を額に貼り付けてみた。確かにぴたりとくっついたが、少しでも動くとはらりと落ちてしまう。
「………難しいね、これ」
「―――肝心なのは息を整えることです。できるだけ息を乱さず、頭も動かさない。常に意識を額に集めると葉は落ちなくなります。集中力の問題です」
ヴァンがこれほど長々と喋るのは珍しい。それだけ、重要だと言う事だろう。
ラインは頷いた。が、その動きで、葉っぱが落ちてしまった。
「でもどうして、集中すると葉が落ちなくなるんだろう?」
素朴な疑問だ。別に何かの超能力が働く訳でもあるまいに。
「―――私も訊きました」
ヴァンの声がいつもより少しだけ低いのに、ラインは気付かなかった。上目遣いに葉っぱを見ながら身体のバランスを整えるので精一杯だったのだ。それでも、ヴァンの言葉だけは聞いていた。
「それで?なんだって?」
答える事ができないラインに代わって、アレクが訊く。別に気を回したのではなく、自分も興味があったからだろうが。ヴァンのエメラルドグリーンの瞳は少し暗い色を浮かべていた。
が、アレクも気付かなかったようだ。無論、見てもいないラインが気付くはずもない。
「―――教えてはくれませんでした。私を殴り、こう言いました。『余計な事を考えるな』と」
「酷い話だな」
顔をしかめて、アレクが簡潔に言う。ラインはそれを聞いて、ようやくヴァンがどこで育てられていたのかを思い出した。ハーケンクロイツ孤児院。孤児院の名を高めるために、引き取った身寄りのない子供たちに地獄のような訓練を課し、殺人兵器に仕立て上げる事を生業としていた孤児院だ。彼はそこで、ありとあらゆる戦闘技術を身に付けさせられた。無論、今ラインがやっている修行もそのような修行の一つなのだろう。葉に意識を集中しようとしても、考え事に意識を奪われ、思うようにいかない。葉が額から剥がれ、ひらひらと落ちていく。葉が地面に落ちる前に手で受け止めて。
ヴァンを振り返る。ヴァンの目と自分の目を合わせて、ラインは聞いた。
「孤児院での生活は辛かった?今でも思い出したくないほどに?」
「―――――はい」
ヴァンが間を開けて答えるのはいつものことだが、今回のそれは特に長かった。
その間が、彼の言葉に重みを与えているのだ。
「―――ん?」
声をあげて、アレクが城の方を振り返ったので、ラインもそれに倣って城の方を振り返って見た。
すると、一人の文官が走ってくるのが見えた。
「なんだろう………」
不吉な予感に襲われて、ラインは呟いた。
「さあな。………スタルナス帝国が国境を破ったか」
「まさか。スタルナス帝国とは不戦条約を結んでるし。それになにより、彼らはウィザ地方とスザンの経営でそれどころじゃないだろう?」
「じゃあ―――」
「ルーナ帝国も同じだよ。従属同盟を結ばせたロブスヌ王国の関連でいろいろと忙しいでしょ」
「ならこれしかないな」
にやり、と笑って言うアレクを見て、ラインは自分が誘導尋問に引っ掛けられた事を悟った。
「カズリクで何か起こったのかな?」
「時期から見ればどっちの可能性もあるな。交渉成立も。決裂して軍が動いたと言う報告でも」
「うん。できれば成立して欲しいよ。カズリクにはほとんど武力はない。流される血は無意味だ」
「俺達からして見れば、だろ?カズリクの自由を愛する者から見れば、自分の命を賭けてでもそれを守ろうとするのは無意味でもなんでもない。俺が逆の立場なら物分りが良い方じゃないだろうからな」
走り寄ってくる文官を見据えるアレクの眼差しは、女性を口説く時と同様の情熱を湛えていた。
「うん。………僕もね」
「陛下、陛下ぁッ!」
「そんなに叫ばなくても余は逃げたりしないよ。なんだい?」
文官はラインの前に崩れるようにして膝を付くと、何度も深呼吸して息を整えた。
ラインハルトは彼が息を整えるのを辛抱強く待っていたが、アレクはそうではなかった。
「早く言えよ、おっさん。何があったんだ?良い知らせか?それとも、悪い知らせか?」
「わ、わかりません。カズリクより伝令の者が参っております」
「何処に?」
「謁見の―――」
「行くよ、アレク、ヴァン。ご苦労だったね、知らせてくれてありがとう」
「お、おう」
「―――はい」
文官に最後まで言わせず、三人はその脇を通り過ぎて城に向かった。
「は、はいっ!」
文官は皇帝の労いの言葉に深々と頭を下げたまま、息を整え続けた。
城へと走りながら、アレクが軽く舌打ちを漏らす。
「文官はどうして揃いも揃って運動不足なんだ?」
「今は国が賑わってるからね。毎日書類に埋もれた生活を送っていれば、運動不足を解消している時間はないさ。アレクが彼らの仕事を手伝ってあげれば?少しは運動に充てる時間ができるかもしれない」
「冗談だろ?師団長だってそれなりに書類仕事があるんだぞ?訓練計画を纏めたりとか。兵員の健康や練度のチェックとか―――」
「へぇ。そう言うのは全部、リーナがやってるもんだとばかり思ってたよ?」
「うぐっ。………そりゃ、少しはあいつにも手伝わせてるさ。何しろあいつは俺の副官なんだからな」
「『少し』?」
「『ほとんど全部』だ!俺をいじめて満足か?」
一行は謁見の間のすぐ近くまでやってきた。残念ながら、この先は皇帝の許しがない者は入れないし、許しを与えられる者も報告に関連のある者だけだ。ラインは済まなさそうな顔でアレクを振り返り、
「御免、アレク。君はここまでだ」
「ああ、そうか、ちくしょう。皇帝の幼馴染でも身分の壁は乗り越えられないか―――じゃあな、ライン。後で教えてくれよ」
「教えられる内容だったらね。アレクがもう少し口が堅ければもっと教えられるんだけど。じゃあ」
「別のところならすぐ堅くなるんだが―――まぁ、良い。じゃあな」
アレクと別れて、ラインとヴァンは謁見の間に飛び込んだ。
「お待ちしておりましたぞ、陛下。さ、こちらへ」
宰相のオルンヘル=クリケット伯爵と軍令部総長のハーン=ハーベスト元帥が玉座の両脇に控えていた。
ラインは頷いて、玉座に腰を下ろす。ヴァンは、玉座の斜め後ろと言う彼の定位置に陣取った。ここまで走ってきたため、ラインは息が荒くなっていたが、ヴァンには全くその様子は見られなかった。それどころか、彼の額にはまだあの葉が付いていた。ラインなど既に持ってすら居なかった。
一人の伝令兵が旅塵に汚れた甲冑姿で、片膝付いていた。
「顔をあげて良いよ」
ラインが何とか息を整えて掛けた言葉に、伝令兵が顔を上げる。髭は伸び、埃に顔は黒くなっていた。
そんな黒い顔の中で、使命を果たさんと双眼だけがぎらぎらと輝いていた。
「見苦しき姿で申し訳ありません。急ぎ奏上したき報せにござります」
「うん。それで?」
「カズリクのベルンシュタイン伯爵様より、御報告申し上げます。『交渉は実を結び、カズリク会合衆は三条件を受諾せり。詳細は伝令に持たせし書状にてお確かめられたし』」
「交渉は成立したか………良かった」
オルンヘルが満足そうに頷く。ハーンも頬を綻ばせていた。
「それで、書状と言うのは?」
「これに」
伝令兵はそう言うと、自分の兜を取り、その中から一枚の書状を取り出した。兜の中が二重底になって居るらしい。伝令兵の手から書状がオルンヘルの元に渡り、オルンヘルがそれをラインハルトに渡した。
その書状には交渉の詳しい経緯が記され、カズリクの九月末時点での現状が記されていた。それを見て、ラインハルトは必ずしもカズリクの状態が最善ではない事を知った。書状をオルンヘルに渡すと、オルンヘルは一読して唸り、ハーンはじっくりと二度読んで、瞳を鋭く光らせた。
「カズリクでは暴動が起こりそうな感じだね」
「予想していたとはいえ、やはり自警団と海上騎士団は容易に承服しませんな」
「それよりもむしろ、気になるのはフェニキアの動きですな」
「元々、カズリクに停泊していた『ユニコーン』だけでなく、わざわざスザンから『グリフォン』を回航させたのはどういう事だろうか?」
「予定通りならば既に、第四軍のアレックス=シルバーフォート少将が初代総督となるグルジム=ハーン殿を奉じてカズリクに入城している筈ですな」
「うん」
オルンヘルの言葉に頷きながら、ラインハルトは考え込んでいた。
(自警団や海上騎士団による暴動が起こるのは予定通りだ。予定通り、アルンヘルが暴動を煽動してグルジムを殺害するはず。後はシルバーフォート少将が暴動を鎮圧し、二代目総督に就任。のはずだけど………フェニキア、かぁ………事態を知ろうにもこう距離が離れてちゃなぁ………)
「なら―――」
フェニキアの意思について熱心に話し合っている国の文武の最高官を交互に見ながら、ラインは一人密かに決心を固めた。

2 親衛隊
帝国暦三三三年十月十三日。
「う~ん………」
この日、朝から皇帝ラインハルトの様子はおかしかった。正確には昨日、カズリクがフロレシア帝国の属領となる事を受け入れたとの報告を受けてから、彼はずっと何事かを真剣に考え込んでいる様子なのだ。執務室の、革張りの椅子に腰掛けた今も、視線は机の上に置かれた書類に向かいながら、しかし、ペンは全く動いていなかった。
「ライン?まだ考えてるの?」
隣の部屋から、お茶を盆に載せて入って来た侍女のシエナ=クリケットが呆れたような声をあげた。
「朝から一枚も書類を片付けてないじゃない」
机の上にある、既決書類箱の中には一枚も書類が入っていなかった。
しかし、ラインはシエナの声すら届いていない様子で虚空を睨み、ぶつぶつと何かを呟いている。
「…………」
シエナはしばしの間、ラインを見つめた後―――いきなり、机をばしんっと叩いた。
「うわっ!!」
突然鳴り響いた大きな音に、ラインが仰け反って驚きの声をあげた。一気に心臓の鼓動が早鐘のように鳴り始め、音の原因がシエナだという事に気付いて落ち着きを取り戻し始め、そして、シエナの顔を見てひっくり返った。シエナが物凄く怖い形相で、ラインの顔を睨み付けていたのだ。
「し、シエナ?………どうしたの?」
恐る恐る、聞いてみる。シエナは机の上に置いていた手を、自分の下腹部の前で重ね合わせて。
「『どうしたの?』は、こっちの台詞よ。貴方こそ、一体どうしたの?」
怒鳴りつけるかと思いきや、真剣に心配そうな顔で聞いてくる。
「へ―――僕、なんか、様子が変だった?」
ラインは全く自覚症状がないようで、ぽかんとしている。シエナはやや苛立った声で言った。
「ええ、変よ。昨日からずっと。何かを考えて、ずっとぶつぶつ言ってる。私が話しかけても全部無視。一体、何をそんなに真剣に考えてるの?」
「ん、実はね―――あ」
悩んでいる内容を話そうとして、ラインは寸前でそんな声をあげて硬直してしまった。
シエナの眉がひくりと震える。
「―――実は?」
「実は………あー、なんだ………あまり、女性には言えない悩みなんだ」
咄嗟に嘘を吐いてしまった。悩んでいる内容はそんな事ではない。
(でも、本当の事言ったら怒るだろうし………臣民に知られないよう、極秘でカズリクに行くための方策を考えてたなんて………)
怒髪天を衝くシエナを想像し、身震いと共に彼はその想像を振り払った。
(それに、悲しませる事になる………いや、極秘で姿を隠すのはあれだから、いざ行くとなれば事前にシエナにだけは話さないとだめか………だとしても、今話すのはまずいよね。うん)
「女性には言えない悩み………」
ぶつぶつと呟いて、途端にシエナは頬を真っ赤に染めて、顔をそっぽに向けた。
「そ、そんなの別に気にしなくても良いわよ」
「―――へ?」
シエナが何を言っているんだかまったくわからず、思わず間抜けな声をあげてしまう。
シエナはますます顔を真っ赤に染めて、ほとんど真後ろを向く位まで顔を背けて。
「だ、だから―――ラインの、あ、あそこがその、平均を少し下回った大きさでも………わ、私は気に、したりなんか………しないわよ?」
「…………」
シエナの言った言葉を吟味するように反芻し、何を言いたいのかを考える。そして、何が言いたいのかわかった途端、シエナにも負けないほどにラインの頬も赤く染まった。ただし、これは羞恥ではなく激怒だった。激怒のあまり、シエナの言葉の後半の意味までは考えなかった。
「シエナ!僕はそんな自分の―――の大きさで悩んだりしてるわけじゃないよ!それになんで君が僕の―――の大きさを知ってるのさ!僕の見かけだけで勝手に想像しないでくれる?もしかしたら、僕の見かけと異なって―――は、立派かもしれないじゃないか!」
怒鳴りながら、自分はなんて馬鹿な事を口走っているのだろうかと思わざるを得なかった。
「なんでって―――そりゃ、その………見たから」
「見た?」
「う、うん」
穴があれば潜り込んでしまいたいと言う表情で頷くシエナを、ラインは呆然と見つめた。
(見せた記憶なんて………あ)
ないと思ったが、あった。いや、見せようと思って見せたわけではなく、あれは事故だ。
(第四軍がアルティス荒野で苦戦して、援軍要請を出したときだ。僕とアレクで風呂に入っていた所にシエナが飛び込んできて―――)
ほとんど一瞬だったのに、はっきり見られていたなんて。
「―――で、でも、あれは君がいきなり飛び込んできたんじゃないか!」
今度は恥ずかしさを隠すために声を張り上げる。扉の外で警備をしている近衛騎士達にも聞こえただろう。いや、それ以前に、この部屋には彼とシエナの二人きりだけではないのだ。気配を完全に断っているので、ともすれば忘れてしまうが、この部屋にはラインの直護衛のヴァン=ブレイスが居るのだ。
彼がいつも立っている部屋の隅に目を向けると、黒髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ青年は、何食わぬ顔でそこに立っていた。だが、二人の会話を聞いているのは間違いない。
「確かにあれは私が悪かったわよ。気が動転してたの。それに、お風呂に浸かってると思って―――だってまさか、こっちに向かって走ってくるなんて思わなかったし」
「ぐっ………いや、まぁ、そうかもしれないけど。でも、浸かってたとしても君が男風呂に飛び込んでくるのはまずいだろ?僕が女子風呂に飛び込んだら、君は一体どう思う?」
「そりゃ………ちょっとは驚くかもしれないけど」
ラインの追求に、シエナがごにょごにょと答える。ラインは精一杯皮肉に見えるように口元を吊り上げ、
「へぇ?『ちょっと』?以前に、ちょっと覗いたときは危うくローデンス湖で溺死するところだったんだよ?覚えてるかい?君は丸太に僕とアレクを結びつけて、湖に流したんだ。アレクなんか大量に水飲んで本当に死に掛けた!」
「だってあれはアレクが描写してて。それがなんだか予想以上に上手で―――もう良いじゃない!結局、何を悩んでたのよ!」
シエナが話題の原点に立ち戻る。ラインも冷静さを取り戻し、この馬鹿らしい会話を終わらせようと言うシエナの考えに賛成の意を表し、息を吐いた。
「実はちょっと―――」
できるだけ考え、シエナに与える衝撃が小さくて済みそうな言葉を選ぶため、ラインはそこで一端切った。シエナは辛抱強く、ラインが次の言葉を言うのを待ってくれている。
「実はちょっと、行きたい所があるんだ。だけど、皇帝と言う身分じゃ自由に動けないし、近衛騎士団を引き連れて堂々と乗り込むには少しばかり危険な所なんだ。皇帝と言う身分を隠せば安全だとは思うんだけど。でも、きっと父さんもアミリアも、無論、君も賛成してくれないだろうと思って」
「―――それが、女性には言えない悩み?」
「あっと………御免。一瞬、誤魔化そうと考えたんだ」
「つまりは、嘘?私に、嘘?」
「うー………御免なさい」
シエナに睨まれて、この国の最高権力者が頭を垂れた。
「よろしい。なら行きましょう?」
「―――はい?」
満足そうに頷いたシエナが、その満足そうな表情のまま言い放った言葉に、ラインは間抜けな顔で聞き返した。シエナが言った言葉が理解できなかったのだ。と言うよりは、理解される前に通り過ぎてしまったような感じだ。
「だから、貴方の行きたい場所に私も行くって事。当然、ヴァンもだけど。構わないわよね、ヴァン?」
「―――はい」
「おいおい、勝手に決めないでよ。それに一応、父さんとかにも了解を取らなくちゃ」
「反対されると思うわよ?特に、護衛がヴァン一人だけってのは」
「そうなんだよ。きっとアミリアは近衛騎士団が護衛するって言い出すと思うんだ。でも、皇帝の身分を隠さなくちゃいけないのに、近衛騎士団の白銀の甲冑と胸の《力強き銀獅子》はあまりにも目立ち過ぎるだろ?」
「それをずっと考えていたわけね?どうやったら、父さんとアミリアさんを説得できるのか?ああ、それと私をどうやったら誤魔化せるか?」
「責めないでよ。僕が危険なところに行くのを君が喜ばないだろうと思っただけなんだから」
「良いのよ。私が一緒に行ける時は。そもそも、いつも私が嫌なのはもしかしたら私の知らない場所でラインが―――」
そこで顔をしかめて、シエナは言葉を切らざるを得なかった。それまで明るく話していたのに、いきなりその金色の瞳から涙が溢れ出してきたのだ。これにはラインも狼狽した。
「う、うわ!大丈夫だよ、シエナ。僕は死なないよ。君が守ってくれてる限りは。君の想いの詰まったロデン神像が僕を守ってくれる。それに今回は、僕の女神そのものが僕を守ってくれるんだろ?」
シエナはごしごしと目元を擦って、口元に微笑を浮かべた。意地の悪い微笑を。
「『僕の女神』?うわぁ、ラインってばどうしてそんな恥ずかしい事平気で言えるの?」
「ただでさえ恥ずかしいのに、指摘されたらもっと恥ずかしいだろ!」
真っ赤に頬を染めて、ラインが吼える。シエナは何度も頷いて。
「まぁ、しょうがないからラインの女神である私が貴方を守ってあげるわよ」
「………。ありがとう、シエナ」
「どういたしまして。それで、提案なんだけど、問題なのは護衛の数、そして目立たない事。だったら、目立たない範囲で護衛を増やせば良いのよ。名付けて『皇帝親衛隊』。まあ、隊名は後で格好良いのを考えるとして。戦闘能力に長けた者を集めて組織するのよ。指揮官とかには向いてないけど剣はむちゃくちゃ強い人とか。ほら、ヴァンも指揮官向きじゃないでしょう?埋もれてる人材の発掘も兼ねて。どう?」
「…………」
ラインは呆然と、シエナを見つめた。シエナは頬を赤く染めて、ぽりぽりと人差し指で頬を掻く仕草をした後、乗り出していた身を直立させて、快活に笑った。
「あはは。やっぱ駄目か。そうよね。まぁ、たかが侍女が介入すべき問題じゃないわよね」
「…………」
だが、まだラインは黙ったまま。シエナはややむっとした表情をして、ラインの顔を覗き込んだ。
「ちょっと、そこまで呆れることないじゃないのよ。そんなもったいぶらなくたって駄目なら駄目って言えば良いのに―――って、聞いてるの、ライン?」
「勿論、聞いてるさ!凄いよ、シエナ!」
「え?いや、そう?………そうかな、あはは」
いきなり弾けたように言うラインに、シエナも少し驚いて身を引きながら照れ笑いを浮かべる。
ラインはばっという感じで、シエナの手を取って、蒼い瞳をきらきらと輝かせながら言った。
「凄いなぁ、シエナは。僕が一日中考えても答えが出なかった問題に簡単に答えを出すなんて!」
「そ、そう、あはは、ありがとう」
(そんなに難しい答えではない気も………い、いやいや、ここは言わないほうが良いわね。良き妻とは夫を立てて働かせるものよ………って、私は別にラインの妻じゃないけど)
「よし。じゃあ、早速父さんとアミリア―――それに、部隊を作るんなら一応、ハーン小父さんも呼んだ方が良いかな?」
浮き浮きとそう言い、執務机の上の鈴を鳴らす。すると扉の外で、今まで微動だにしていなかった気配が動き、扉が開かれ、近衛騎士が姿を見せた。扉の隙間に片膝を付き、恭しく皇帝の顔を見上げ、
「承知いたしました。すぐに宰相閣下と団長、軍令部総長閣下を御呼びいたします」
そう言って、ラインがまだ何も言わないうちに扉を閉めてしまった。
扉の前にあった二つの気配の内の一つが、慌しく駆け去って行く。
ラインとシエナは互いを見詰め合って。
「もしかして―――」
震える声で言ったのは、シエナだ。ラインは苦い表情で頷いた。懸念は当たっていたのだ。
「外にまで全部、響いていたみたいだね」

「カズリクに行く?」
眉間に思い切り皺を寄せて、オルンヘル=クリケット伯爵は唸った。
「うん。海が見たいんだ」
「しかし、陛下、あまりにも危険です。確かにカズリクは条件を受諾したと伺っていますが、それでもまだまだ反対派の力も強い」
「わかってるよ、アミリア。だから余は皇帝としてではなく、旅人としてカズリクに行く」
「ならば、近衛騎士団をお連れください」
「駄目だよ、アミリア。皇帝を護衛するはずの近衛騎士団が一介の旅人を護衛するなんて、誰がどう見ても怪しいじゃないか」
「しかし―――!」
アミリアの反対は予想通りだ。オルンヘルとハーンはラインが何かを企んで居る事に既に気付いているようだった。ラインは一瞬、シエナと目線を交えてから、口を開いた。
「そこで、新たな部隊を設立しようと思うんだ。余の隠密行動時の護衛および、戦場では最後まで余の周囲に付き従う親衛隊となる部隊をね」
「しかし、陛下の護衛は近衛騎士団の任であります」
「うん。確かに。でも、近衛騎士団は通常編成なら二個師団に当たる兵力だよ。これは皇帝が直接率いる兵団であって、その任務を皇帝の護衛に限るのは戦場での機動に著しく差支えが出ると思うんだ」
「それは………確かにそうですが………」
「親衛隊はあくまでも、特殊な部隊。表向きには皇帝の護衛は近衛騎士団が勤めなくちゃならない。そうじゃないといざ皇帝が姿を隠さねばならなくなったときに見つかってしまう」
「なるほどな。皇帝陛下のお考えはわかった。確かに名案だと思う。が、予算の問題もあるだろう、どの程度の兵数を考えているんだ?」
ハーンは実務的な質問を発する事で、皇帝の案を支持する事を表明した。
アミリアも常々、戦場において機動力と戦闘力を兼ね備えた二万もの兵力を後方に配置しっぱなしにしておくのに心の奥底で抵抗を覚えていた。しかし、親衛隊が設立されれば、完全ではないにしろ、近衛騎士団は自由に動き回れる。皇帝にとっての予備兵力として完全なる機能を有する事になるのだ。
「さっきも言ったけど部隊には隠密性が不可欠だ。そこで、一個小隊五名程度、それを十個小隊。五十人ぐらいだね」
「五十人………か。兵は新たに募集するのか?」
「それだと世間に親衛隊の存在を知られてしまう。まぁ、そう言う部隊が存在すると言う事は知られても構わないんだけどその特殊な任務性を知られるのはまずい。だから、各軍団から個人戦闘力に優れた兵員を集めて欲しい。小隊長でも五人程度なら自分の手足の延長上として捉える事ができると思うから、指揮能力はあまり重要じゃない。部隊長は―――」
そこで、ラインは部屋の隅で不動の体勢を取っているヴァンを見た。
「ヴァン=ブレイス少尉に任せる。軍令部総長、彼は今度の人事異動で中尉に昇進のはずだったね?」
「はっ。昇進人事は十月二十日に全部隊に発され、二十五日までに該当者全員に通達、十一月一日から実効いたします」
「うん。では、彼を部隊長にするにあたり、特例として二階級特進を認め、少佐とする。その代わり、これは異例の人事だから中佐に昇進するのは遅くなるよ、ヴァン」
「―――構いません」
「うん。ではそう言う事で。ヴァンには第一小隊長も兼任して貰う。余の直護衛も引き続き。隊務は副隊長を務める第二小隊長に任せる事とする。アミリア=ホーン近衛騎士団長」
「はっ」
「以上の事を踏まえて、各小隊長および隊員の選定を―――二十日までに終えて。人事は二十日の昇進人事発表と共に、二十五日までに該当者に交付するよう。軍令部総長は彼女に協力してやって欲しい」
「御意」
「―――それでは、解散」
養父が何も口を挟まない事にかすかに怪訝そうな表情をした後、ラインはそう告げた。

3 白狼軍
親衛隊の部隊名は白狼軍と決められた。アミリア=ホーンは軍令部総長ハーン=ハーベスト元帥の協力の下、この新部隊の設立のため、隊員集めに奔走した。与えられた時間は僅かに八日間しかない。
しかも、僅か五十人の部隊ではあるが、その任務は皇帝の護衛。もし戦場で近衛騎士団が皇帝の傍を離れた場合でも最後まで皇帝の傍にあっていざと言うときには文字通り最後の盾となってその御命を守護するのがその役目である。
その部隊の兵員に求められる資質は、第一に皇帝への絶対的な忠誠である。
第二に、僅か五十人でどれほどの大部隊に包囲されても陛下を守りぬかなければならないため、一人一人が文字通り、一騎当千の猛者でなければならない。
第三に、的確な状況判断能力である。人馬が溢れる戦場において、或いはそれ以外に考えられるありとあらゆる場面において、どちらの方向がより安全かを的確に判断し、そちらへ速やかに皇帝を誘導しなければならない。これらの条件に該当する人物はかなり居るが、ここで第四の条件が立ちはだかる。
部隊長であるヴァン=ブレイスが少佐だと言う事だ。当然ながら、その部下は部隊長よりも階級的に低くなければならない。これら全ての条件に当て嵌まる人間を探し出すのに、アミリアは元帥に頼んで取り寄せた軍令部人事部の資料を基に候補者のリストを作り、今度はそのリストを基に該当者を練兵場に集め、アミリア自身の目で確かめると言う作業を行った。この為だけに、わざわざ所属部隊の駐屯地から該当者を呼び出したのである。その結果、十九日には何とか部隊員四十名、小隊長九名のリストアップが終わり、皇帝に提出することができた。彼女が提出するために皇帝執務室を訪れた時、ラインハルトは思わずぎょっとした。アミリアは連日の徹夜の疲労によって、髪も肌も艶を失い、目は落ち窪んで隈ができ、顔色は青白く、まるで幽鬼のようだったのだ。
「白狼軍隊員の、リストです、陛下………」
「ご苦労様、アミリア。大丈夫?」
「だ、大丈夫です………」
頷いた途端、アミリアの身体から力が抜け、崩れ落ちるようにして倒れた。
ヴァンがさっと駆け寄り、支えなければ、彼女は皇帝の執務机の角に思い切り額をぶつけていただろう。
「ヴァン、彼女をすぐに医務室に!」
「―――はい」
ヴァンは頷いて、アミリアを担いで執務室を出て行った。扉の外で近衛騎士達が悲鳴のような声を上げ、ひとしきり騒いだ後、ヴァンが戻ってきた。
「彼らが連れて行った?」
「―――はい」
ラインハルトは罪悪感に駆られながらリストを見やり、アミリアの声を聞いて隣室から出てきていたシエナに言った。
「ちょっと彼女には悪い事をしたかな………」
シエナもやや、気まずげな表情で、
「ええ。あまりに急な話だったから―――それで、ライン?部隊の面々はどうなの?」
「あ―――うん、知ってる名前が幾つかあるよ。副隊長兼二番組組長はレベッカ=オブライエン大尉。九番組の組長がレイ=ミアーズ少尉、十番組がロバート=マーティン少尉。どうやら正規の編成じゃないから小隊長と言う役職名は使えなかったみたいだな。他の組長はどうやら傭兵軍団からの転属が多いみたいだ。やっぱり正規軍からの転属は難しかったんだな………一人だけか。後は神官軍団と帝都防衛隊、あ、貴族が一人混じってる」
「貴族?」
自分も貴族―――伯爵令嬢―――であるくせに、シエナが眉間の辺りに嫌悪感を滲ませる。
と、その時、執務室の重い扉が外からノックされた。
「―――私です、陛下」
ラインはシエナと一瞬顔を見合わせて、すぐに扉に視線を向け直す。
「どうぞ、宰相」
「失礼します」
そう言って、扉を開けて入ってきたのはこの国の宰相、そして皇帝ラインハルトの養父でもあるオルンヘル=クリケット伯爵だった。彼は一瞬、ラインの手元にある書類に視線を投げ、
「その部隊の必要性はわしも認める。確かに最後の盾は必要だろう。だが」
年の割りにまったく丸くならない、むしろ若い頃よりも鋭さを増したかのような視線がラインに向けられる。
「カズリクに赴くと言うのは、どういう事だ?」
「海を―――」
「見たい。それだけか?」
「あのね、父さん。私も行くの」
「ふむ。二人で、海を見たい。それだけか?」
わざわざ言い直して、オルンヘルは自分の義理の息子と実の娘を見つめた。
まるで、それ以外にも理由が隠されていると確信しているようだ。
(さすがに父さんは誤魔化せないか………)
ラインは観念したように一つ頷いて、シエナを見た。
「御免、シエナ。ちょっと席を外してくれないかな?」
「え?あ………うん」
シエナが頷き、隣室へと消える。ラインは真っ直ぐ養父の顔を見つめて。
「向こうには今、アルンヘルが居る。帝都では彼からの連絡を受け取るのに時間が掛かりすぎる。今までは別に気にもしていなかったけれどここでカズリクを掌握できるかどうかは今後にも大きく関わってくるんだ。貿易でどれほど黒字を出せるか。でないと今まで無理をしてまでやってきた事が無駄になってしまう。鉄砲の普及も遅れる。三年と言う不戦期間が終わった後、どうなるかはわからないけれど、オルテガ皇太子は西進し、港を手に入れた。彼も、僕と同じような事を考えている筈だ」
「カズリクに行って、何をする?」
「別にアルンヘルやグルジム=ハーン殿を邪魔するつもりはないよ。とりあえず、エシュアと接触して―――いや、多分、向こうが接触してくるとは思うけど―――カズリクの行く末を見たい。まぁ、シエナと海を見たいと言うのも本音なんだけどね。シエナはずっとこの帝都から出て居ないわけだし。海なんて見たことないし。僕もだけどね。それに、僕とアルンヘルが考えた筋書きでも、皇帝はカズリクに行かなければならない。まぁ、予定よりもかなり早く行く事にはなると思うけど」
「反対しても行くんだな?」
「うん」
「―――ならば仕方がない。留守中の事は任せて貰おう」
「うん。任せたよ、宰相」
「それにしても、やはりアルンヘル=へード大佐と何かを画策していたわけだな?彼が使節団の副使に入った事で、何かあるとは思っていたが。だとすれば、重要な地位となるカズリク総督にグルジム=ハーンなどと言う俗物を宛がう意味も推測できるな」
オルンヘルが多少、呆れた表情を見せる。ラインはやや硬い表情で、隣室へと繋がる扉を見た。
別にこの部屋には防音などの細工はなされていない。いざと言うときに、皇帝の助けを呼ぶ声が外に届くよう配慮されているのだ。と言うよりも、普段の執務時にも鈴の音で隣室の者を呼ぶのだから防音では困る。つまり、隣室に下らせたシエナは恐らく扉に耳を当てて話を聞いているだろう、と言う事だ。
あまり、シエナに政治の裏の話はしたくなかった。
オルンヘルもラインの意思を汲み取って、それ以上その話題に触れるのを止めた。
「わしは今回の事に関しては口を挟まない。だが、これだけは覚えていて貰おう。策を弄する者は常に己の策に溺れる危険性に直面しているものだ。策を弄する者を使うならば、お前は常にその事を念頭に置いておかねばならない」
「わかったよ、父さん………ありがとう」
「ふむ。それに、お前が居ない方が面白い物を見れるかも知れん」
「面白いもの?………ああ、なるほどね」
養父の言葉に一瞬怪訝そうな色を浮かべた後、ラインハルトは納得したように微笑んだ。
即ち、皇帝が不在だと言う事が知れた後、オルンヘルの事を君側の奸呼ばわりしている軍部の若手将校がどのような反応を取るか、と言う事だろう。
もっとも、皇帝が不在だと言う事を彼らが知るのはできるだけ遅らせねばならないが。

十月二十日。昇進人事発表。
十一月一日。昇進人事発効。
同日、皇帝親衛隊、白狼軍発足。
その日、空はどんよりと曇り、寒かった。人事異動が知らされると同時に、新たな階級章を配られ、訓練場への集結を命じられた五十人は身を竦めながら、威儀を正していた。
「総員、気を付け!」
号令が掛かり、全員が姿勢を正す。城の方角から歩いてきた人が、彼らの前に立った。
やや朱に染まった白き頬、蒼い瞳、輝く黄金の髪、真紅のマントを巻き付けるように身に纏っている。
「君達はこれから余の親衛隊、白狼軍の一員となる。気を引き締めて、励んで貰いたい」
皇帝はそう言うと、傍らに立っていた人物に場を譲った。
黒髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ青年だ。別段、緊張している風にも見えない。
彼は一歩前に出ると、その場に居並ぶ者達を見回して、
「―――隊長のヴァン=ブレイスです。よろしく」
それだけ言って、さっさと下ってしまう。再び皇帝が前に進み出て。
「君達は五名ずつ十組に分かれて貰っている。一番組の組長は今のヴァン=ブレイス少佐に兼任して貰うけど、じゃあ、二番組から十番組まで、一人ずつ簡単に自己紹介をしてみよう」
皇帝のその言葉を受けて、五人ずつ十列に並んでいた兵達の左から二列目、先頭の人物が前に進み出てきた。大柄な女性だ。桃色の髪も短く刈り込んでいる。背には巨大な三尖両刃刀を背負っていた。
「副隊長兼二番組組長、レベッカ=オブライエン大尉」
「よろしく」
続いて、その右隣の青年が進み出た。林の木々の梢を思わせる緑色の髪に熱気のある瞳が真っ直ぐラインハルトを見る。
「帝都防衛隊から転属してきました!ハーヴェイ=キーディング少尉です!三番隊組長を任せられました!よろしくお願いします!」
「よろしく」
さらにその隣の金髪をくるくるにカールした蒼い瞳をした若者が進み出る。
いかにも貴族と言った風に胸に手を当て、優雅に一礼して見せる。
「ミッチェル=ワーレンハイト中尉であります、陛下。玉顔を拝し奉り真に光栄至極に存知奉ります。我が四番組こそ、白狼軍中もっとも気品溢れる組である事を誇りに思っております」
「うん、よろしく、中尉」
ミッチェルがゆっくりと列に戻るとその隣の男が進み出る。この中ではもしかしたら彼が最年長かも知れない。男は灰青色の髪と黄色い瞳をしていた。男らしい、低い声で名乗りを上げる。
「傭兵軍団からきました、ゼベック=ラグナイトと申します。先日、少尉に昇進し、五番組を任せられました」
「うん。頼りにしてるよ」
「はっ」
ゼベックが下るとその右隣の黒髪を乱雑に縛った粗野な感じの女性が進み出た。
「傭兵軍団から転属。ジェルニー=バルバリードです、陛下。私の剣と我が六番組を存分にお使いくださいますよう」
「うん。期待してるよ」
その右隣の青い髪を腰まで伸ばしたおしとやかな美女が前に進み出る。とても、個人戦闘能力に秀でて居るようには見えないが、アミリアが選んだのだから一角の人材なのだろう。彼女はミッチェルのようなわざとらしさを感じない、さり気無い気品さの漂う礼をした後、にっこりと微笑んで、名乗った。
「七番組組長のレイチェル=ミラーと申します。以後お見知りおきを願いますわね、皆さん。不束者ではございますが、皆さん、どうぞよろしく」
「こちらこそ、よろしく」
次に進み出たのは十人の組長の中で、唯一正規軍部隊からの転属となる男だ。赤土色の髪と黒い瞳を持つ大柄な男性だ。組長の中ではゼベック=ラグナイトに次ぐ年長者だろう。
「シド=ウォルテックと申します、陛下。陛下の剣となり、陛下の盾となり、この身を捧げ、陛下の御命をお守り致す所存であります。この度は八番組の組長となり、身が引き締まる思いであります」
「うん。頼りにしてるよ、少尉」
「あり難きお言葉」
次に前に進み出てきたのは、ラインハルトの見覚えのある男だった。鍛え上げられたしなやかな褐色の肉体を持つ女剣士。
「レイ=ミアーズです、陛下。近衛騎士団より参りました。この度はこの新参者に組長の重役をお与えくださり、真にありがとうございます」
「うん。武闘大会以来だね。今後ともよろしく」
「ははっ」
最後に進み出てきたのは、筋骨隆々たる体躯を持つ最強のパン職人。
「ロバート=マーティンです、陛下。十番組の組長。謹んで拝命仕ります」
「うん。よろしく頼むよ」
こうして、十人の組長達の自己紹介が終わった。再び皇帝が場を譲り、黒髪の隊長が前に出る。
「―――レベッカ=オブライエン大尉。前へ」
「はっ」
普段の彼女らしくもなく威儀を正して答え、レベッカが前に出て直立不動の姿勢をとる。
そんな彼女をヴァンはエメラルドグリーンの瞳で見据え、
「―――各組の面倒は彼女が見る事になる。責任は隊長である自分が取る。以上、各自、認識して貰いたい。大尉」
「はっ」
レベッカはその場で右回れ右をして、白狼軍の面々に向き直った。
「と言う事で、指揮権の委譲を受けた。あたいに逆らう者。ヴァン=ブレイス隊長に逆らう者。皇帝陛下に逆らう者。全員、罰則の対象となるから注意するように。刑罰は百叩きの刑から両断の刑まで各種考えてあるから、もし処罰を受けたいと思う者が居るなら楽しみにして貰っていて構わないよ」
『了解しました、副隊長!』
全員が一斉に答える。レベッカは満足そうに頷いて、ヴァンを振り返った。
ヴァンが小さく頷く。レベッカも頷き返し、再び白狼軍に向き合う。
「陛下の執務室および寝室の警護は近衛騎士団より我ら白狼軍にその管轄が移った。警護はシフト制とする。ヴァン=ブレイス隊長は陛下の直護衛でもあり、常にそのお傍を離れる事ができない。任務はたった今から開始される。一番組は陛下の寝室周辺、二番組は陛下の執務室周辺、三番組から十番組まではそれぞれ内容の異なる訓練期間とする。シフトは一週間ごと。ただし、有事の際は全組が合流して事にあたる事。わかったかい?」
『了解しました!』
「よし。じゃあ―――解散!」
『了解しました!』
答え、駆け足で去って行く隊員達。残されたのはラインハルトとヴァン=ブレイス、それにレベッカ=オブライエンの三人だけ。
「どうだい、レベッカ?白狼軍の面々は?僕が君に渡した彼らの経歴書は読んだ?」
「読みましたよ、陛下。感想としては、まぁ、個性豊か過ぎるねぇ。あたいも含めて、だけど」
「でもみんな優秀な人間だよ」
「優秀すぎて原隊を放り出された、とも言うね。まぁ、レイ=ミアーズとロバート=マーティンは違うみたいだけど。アミリア=ホーン近衛騎士団長から送られてきたお目付け役って所か。やりにくさでは同じだね」
「まぁ、当分、レベッカには隊の規則を定めたりとか、まぁ、いろいろと書類仕事があると思うけど、頑張って」
「ああ………あたいの頭が破裂しなければ、十日で終わりますよ、陛下」
「わかった。もしかしたら近々全組召集もありえるから。準備はしておいてね。まぁ、その詳しい書類も君のデスクに送ってあるよ」
「ありがたくて涙が出そうだ。それでは、失礼しますよ、陛下」
「どういたしまして」

4 旅立つ皇帝
帝国暦三三三年十一月十五日。
ルーガ城の敷地内に三階建ての建物がある。かつては兵舎であったが、使われなくなってからは物置として使われていた。だが、今ではそれらの荷物も片付けられ、新たな使用者達によって、この建物は活気づいていた。使用者達の名は白狼軍。軍とは名ばかりの僅か五十人の小部隊だ。
しかし、この部隊こそ、戦場では皇帝の身を守り、文字通り最後の盾となって戦う部隊なのである。
もっとも、部隊が発足してからまだ半月、実戦は一度も経験していない。
日々、城内の、特に皇帝に関する区画の警護と訓練を繰り返すだけの単調な日々だ。
そんな五十人の中で、直護衛として常に皇帝の傍に控える隊長のヴァン=ブレイス少佐と日々、隊の書類仕事を一手に引き受けている副隊長のレベッカ=オブライエン大尉だけが多忙だった。
特にレベッカは元々頭脳労働が苦手なのもあり、今も副隊長室で頭を抱えていた。
「だぁっ!!くそっ!!これっぽっちしか予算がないんじゃ隊の連中に飯を食わす事もできないよ!」
苛立ちのあまり、吼える。すると、扉が軽く叩かれた。
桃色の刈り上げた髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜながら、レベッカは扉の外に注意を向けた。
「誰だい、鍵は開いてるから勝手に入って来な」
「失礼します」
扉を開けて入って来たのは、腰まで艶やかな青髪を伸ばした美女だった。
レベッカとは対照的に、かなり女性的だ。スタイルも良い。既に隊の男性隊員達の間では『女神』と呼ばれて慕われていた。名はレイチェル=ミラー。少尉。七番組の組長である。
「お疲れのようですので、お香でもと思いまして」
そう言って、彼女はレベッカの執務机の片隅に小さな品の良い香炉を置いた。
「お香?」
その、女の子らしい固有名詞にやや顔をしかめつつ、レベッカが小鼻を引くつかせる。するとなんとも言えず良い香りがその香炉から漂ってきた。甘ったるくはなく、すーっと頭の中が澄み渡るような感じだ。森の中を吹き抜けていく初夏の風のようなさわやかさ。レイチェルはたおやかな微笑を浮かべて。
「いかがですか、副隊長?」
「あ、ああ。良い香りだね、こりゃ。酒の香りの方がもっとすっきりするんだが」
「まぁ、副隊長ったら。………それで、何を悩んでいらしたんですか?」
そう言いながら、控えめにレベッカの手元の書類を覗き込む。
「ああ、隊に支給された予算がね、ちょっと」
「少ないのですか?」
「ああ。まぁ、こんなもんだろうとは思ってたんだが」
「そう言えば白狼軍って、何処の管轄なんですか?一応部隊なのだから軍令部に属してるんでしょうか?ああ、でも、近衛騎士団は軍令部には属さず、皇帝直轄なのですよね。白狼軍も皇帝直轄だから―――皇帝陛下のポケットマネーですか?」
思わずがくっと崩れ落ちそうになったが、レベッカは何とか持ち堪えた。
「皇帝陛下のポケットマネーじゃあないよ。白狼軍も近衛騎士団も所属は皇帝直轄でも予算は財務省から出てるんだ。まぁ、実際はそんなに単純じゃなくて途中で宮内省を経てるんだけれど、どうもこの宮内省ってのがこっちの予算をピンはねしてるみたいなんだよ。こっちが財務省に要求した予算と実際に宮内省から交付される予算に大きな隔たりがある」
「どっちが多いんですか?」
「あのな、ミラー少尉。宮内省の方が多かったら何も悩む必要ないだろ?」
「ああ、そうですよね。もし余分に多く交付されても黙ってれば見つからないですものね」
「…………」
「あ。いや、今のは別に嫌味とかそう言うのとは全然違うんですよ?おほほ」
「はぁ」
「だったら、ちょっと訊いてみましょうか?」
「訊くって、誰に、何を?」
「ふふふ。決まってるじゃないですか。本当に白狼軍の予算を着服しているのかどうか、宮内尚書のウイリアム=デ=カドガン子爵に聞くんですよ」
「聞くんですよ………って、一介の少尉にわざわざ尚書が面会するとでも?それとも、何か伝手でもあるのかい?」
「ふふふ。任せてください。彼とは古い知り合いですから」
そう言って、レイチェルは部屋を出て行った。
翌日。白狼軍の元にはレベッカが財務省に要求していた以上の予算が交付されたのだった。
これで問題解決のはずだが、レベッカは新たな問題を抱えてしまった。
彼女はそれを早急に解決するために、レイチェルを呼んだ。
おしとやかな様子で部屋に入って来たレイチェルに、レベッカは開口一番に聞いた。
「一体、どうやったんだい?」
「あら。だって彼はとっても物分りの良い、話のわかる紳士ですもの。自分が破滅しないために選ぶべき選択をきちんと弁えてらっしゃいますから」
レベッカは血の気が引くのを感じた。自分も盗賊だのなんだのといろいろしてきたが、この女には勝てないと思った。宮内尚書をゆするなんて!
「あ、そうだ、副隊長。彼が言うには余分に交付する分は『口止め料』だそうですよ?良かったですね」
そう品良く言って、レイチェルは部屋を出て行った。
「…………」
後に取り残されたレベッカはなんとも気まずげな表情で、手元の書類を見るのだった。

「時節到来って感じだよ、シエナ」
「どうしたの、ライン?」
執務室にお茶を持って入って来たシエナは興奮した様子のラインを見て、かすかに微笑を浮かべた。
「アルンヘル=へード大佐………じゃなくて、少将から報告書が届いたんだ。それによれば、『自警団および海上騎士団の元構成員、および反帝国派会合衆等、十二月一日の蜂起を計画中』―――だってさ」
既にカズリクには総督グルジム=ハーンが着任し、ベルンシュタイン伯爵は帰国していた。
だが、アルンヘル=へード少将とエシュアは引き続き残って、反対派の動きを見張っていたのだ。
「明日にでも帝都を出発すれば、暴動が鎮圧されてすぐにカズリクに入れるかもしれない。もしかしたら暴動の渦中に飛び込む事になるかも知れないけど」
海上騎士団や自警団などの旧自警組織は解散させられ、それぞれフロレシア帝国陸軍第七軍かフロレシア帝国海軍に吸収されていた。カズリクからは既に傭兵軍団の軍も撤退し、現在はほとんど総督の私兵と言っても良いハーン族の部隊とアレックス=シルバーフォート第七軍団長の元に、第一歩兵師団―――旧第四軍第十二歩兵師団―――カズリクで徴兵して編成されたばかりの第二歩兵師団の三万あまりしかいない。しかも、この内、第二歩兵師団の連隊長や中隊長などはかつての自警団幹部が多く、しかも師団長は元自警団長のキバ=スウェットが就任している。
暴動が起こった場合、第二歩兵師団がその鎮圧に積極的に働くかどうかはわからなかった。
「じゃあいよいよ行くのね?―――カズリクに」
「うん。後の事は既に宰相に任せると頼んであるし。出発は明日にしよう。ヴァン」
「―――はい」
「この事をレベッカに知らせて。明日、出発すると。全組の配置は打ち合わせた通りに」
「―――はい」
頷いて、ヴァンは執務室を出て行った。
「いよいよ海を見るのね?」
「ああ、そうだとも。海だ」
「青いのかな?」
「青いんだろうなぁ」
「大きいのかな?」
「大きいだろう」
「広いのかな?」
「広いよ、きっと」
「しょっぱいかな」
「飲んでみよう」
「楽しみだね、ライン」
「ああ、楽しみだよ、シエナ」
「暴動だったらあまり死者は出ないよね、ライン?」
「………。僕は死者が出る事を望んではいないし、勿論、アルンヘルにも最善を尽くすように言ってある。シルバーフォート中将は武辺一点張りの将軍ではなく、こう言った交渉事にも才能を発揮できる型の人物だよ」
シエナに嘘を吐くのは辛かったが、彼女にこの世界の闇の部分を見せたくはなかった。
(この暴動も全て、起こさざるを得ない状況に追い込んだ結果なんだから)
計画は上手く行くだろうか?ふと、そんな疑問が脳裏を過ぎった。
オルンヘルの言葉がかすかに脳裏を過ぎる。
『策を弄する者は常に己の策に溺れる危険性に直面しているものだ。策を弄する者を使うならば、お前は常にその事を念頭に置いておかねばならない』
(アルンヘルが自分の策に溺れている………?いや、まさか………今まで彼の策は誤った事は無い。いつも完璧だった………今度も大丈夫だろう………)
頭を振って疑問を払い、ラインは努めて明るい笑顔を浮かべた。
「水着を持っていこうか、シエナ?」
「良いわね。泳ぎましょうか」
「そう言えばもう暫く泳いでないからなぁ。海だと勝手に身体が浮くって本当なんだろうか?」
「それにカズリクには異国の珍しい物も沢山あるんでしょう?楽しみだわ」
瞳をキラキラと輝かせて、シエナはうきうきとした表情をしている。
その表情を見るにつけ、ラインは改めて自分の考えを確認した。
(シエナに政界の裏側を、権謀術数渦巻く暗部を見せてはいけない。………僕は、彼女のこの笑顔を失いたくはない………)
ラインは視線をアルンヘルからの報告書に落とした。蜂起の予定は十二月一日。
(大丈夫。そんなに急がなければ、十二月一日には間に合わない。巻き込まれはしない)
暴動が終わっていれば。アルンヘルの計画通りに進めば。暴動が鎮圧されたとき、総督の地位は空位になっているはずだ。そこへ乗り込んで、アレックス=シルバーフォート中将を皇帝自ら衆人の前で第二代カズリク総督に任じ、箔付けをしてやれば良い。その後はシエナと一緒に海に行こう。フェニキアの戦艦を視察するのも良い。カズリクの造船所を見学しても。帝国海軍の最初の軍艦となった元海上騎士団の三隻の軍艦を観艦しても良いだろう。もうすぐ建国祭の時期だが、父さんが上手くやってくれるだろう。今年は去年以上に盛大な物となるに違いない。
(国は潤い始めている………間違いは無かった筈だ。カズリクを手に入れ、フェニキアや群島諸国と交易を行えば国はさらに潤う。カズリクを手にするためにはこうするのがもっとも効率の良い手だったはずだ。飲みこみやすい条件を呑ませ、後に反対派を一気に葬る………これが被害がもっとも少ない手だ………だが、本当にそうだろうか?………本当にそれしか手は無かったのか?ラマーン=オルドは殺さなくても良かったんじゃないのか?………クシャス=カーンは?………カズリクだって、もっと時間を掛ければ………いや、それじゃ駄目なんだ。時間を掛けてちゃいけない。もう既にスタルナス帝国もルーナ帝国も港を手に入れている。フロレシア帝国だけが出遅れるわけにはいかないんだ………)
「―――ラインってば!どうかしたの!?」
シエナの声がいきなり頭に入り込んできて、ラインはしばし呆然とした。いつの間にか、考えに没頭していたらしい。シエナは不安そうな、心配そうな表情でラインの顔を覗き込んでいた。
「ちょっと、大丈夫?具合でも悪いの?顔色が真っ青だけど」
「だ………大丈夫。ちょっと喉が乾いたかな。お茶をもう一杯貰える?」
「うん。良いけど………本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ、シエナ。大丈夫だから………お茶」
「うん。わかった、ちょっと待ってて」
シエナがお茶を淹れる為に隣室に入って行くと、ラインは両手で顔を覆ってごしごしと擦った。
(僕はシエナにあんな表情をさせてばかりだな………)
自嘲的な笑みが浮かぶ。すぐに引き攣り、消えたが。
「シエナが戻って来た時には………いつも通りの僕じゃなきゃ………」

翌日。帝国暦三三三年十一月十七日。
ラインハルトは従者を連れていても怪しまれないよう、貴族の子息のような格好で、ルーガの街を出た。同行するのは私服姿のヴァン=ブレイス、シエナ=クリケット、レベッカ=オブライエンの三人だ。
ただし、護衛がヴァンとレベッカだけのはずもなく、彼ら一行の前後左右には目立たないよう隠れながら白狼軍が進んでいる筈である。
「これが白狼軍の初仕事だね、レベッカ。気分はどう?」
「ん?あ、ああ………」
レベッカはまるで何か嫌な事でも聞かれたかのように唇をひん曲げて、後ろを振り向いた。
するとその視線の先では、青い髪を腰まで伸ばした美女と彼の従者のような感じの男四人と言う五人組が帝都防衛隊の隊士に呼びとめられていた。それもそのはずだ。
五人とも黒一色のローブに身を包んでいたのだから。しかも、ローブの合わせ目からは剣の柄まで見えている。何処からどう見ても、怪しい。不審人物の集団丸出しである。
と、見ている内に、レイチェルが帝都防衛隊の隊士に近寄り、何か身分証明のような物を見せながら耳元に何事かを囁いている姿が見えた。途端、隊士が全身に稲妻が走ったかのように硬直し、敬礼して五人を丁寧に送り出したではないか。
「一体、何を言ったんだ………?」
知りたさ半分。知りたくないという思い半分で、レベッカが呟く。
と、彼女が見ている事に気付いたレイチェルがおしとやかにウインクしてきた。
一瞬にして知りたいという思いを振り払い、前方に目線を向ける。
目線の先にはやたらと鋭い目線で周囲を睨みつけまくっている隊商の姿があった。
荷車を二人の男が引き、一人が後ろから押し、一人が脇で見ている。
脇で見ている男の灰青色の後頭部が見えていた。五番組組長ゼベック=ラグナイトだ。
彼らは少なくとも後ろの連中よりは周りの景色に溶け込めていた。
だが、そのあまりにも殺伐とした警戒振りは滅茶苦茶目立っている。
(うう………胃が痛くなってきた………)
まだしも、姿が見える連中は良い。だが、姿が見えない連中は?
不安ばかりが掻きたてられる。
だがしかし、皇帝を目立たせないという意味では大きな効果をあげて居るようだ。
行きかう旅人全て、前の隊商か後ろの黒ローブ集団のどちらかに目線を奪われ、ラインハルト一行の事などまったく気付いていない。と、擦れ違った旅人が呟くのが聞こえた。
「さっきの踊り子と言い、その前の武芸者の集団と言い………なんかあるのか?」
途端、レベッカのこめかみがひくっとひくついた。
(踊り子の集団?………って、五番組の前は九番組………レイ=ミアーズ!?………その前は………ああ………シド=ウォルテックか)
今度は後ろから来た家族連れが、楽しそうに喋りながら過ぎていく。
「さっきの踊りながら歩いてた金髪くりくりのおじさん、面白かったね~」
「母さんはあの道行くお婆さんの荷物を持ってあげて、おまけにお婆さん自身も担いであげてた好青年に感動したわ。トニーもああいう大人になりなさいね?」
「俺はやっぱり、あの黒ローブ集団だな。一人、美人が混じってたし」
「トニー?こういう大人になっては駄目よ?」
「ぐわぁっ!!か、母さん!人に向けて斧を振り回すのはあぶ―――ぎゃあっ!!」
(ミッチェル………ハーヴェイ………レイチェル………まともなのはいないのかい!)
レベッカはこめかみがずきずきと痛み出すのを、人差し指で揉んで何とか抑えようとした。
「ああ、陛下。さっきの御下問に対する答えなんだけど―――」
「うん。なんだい?」
小首を傾げて聞いてくるラインハルト。シエナも、ヴァンもレベッカを見ている。
そんな面々を見返して、レベッカははっきりと確信を持った口調で言った。
「とんでもなく嫌な予感がしやがる」

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