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覇皇伝

第二章 外交交渉。そして………。

第二章 外交交渉。そして………。
1 会合衆
帝国暦三三三年九月二十日。
ラスカーナ大陸中原の強大国フロレシア帝国の外交使節団がカズリクに入った。
フェニキアの商船など独特の情報網を備えているカズリクは既に大陸西岸のスザン、ロブスヌの両国がそれぞれ中原のスタルナス、ルーナに屈した事を知っていた。
この両国が海港を手中にした以上、フロレシア帝国が早晩、カズリクに対しなんらかの手を打ってくるであろう事は商人特有の、情勢判断における勘の良さから会合衆の面々は確信していた。
現に、カズリク北方のアルティス荒野に威を振るっていた蛮族のカーン族、ハーン族、クリル族、タタル族などはフロレシア帝国に屈し、同国の南下を妨害する勢力はもはや無いのだ。会合衆ではこの脅威に対して連日の如く会合を開いていたが、結局、外交使節団がやってきたこの日に至っても、カズリクとしてこの存亡の危機に瀕して、どのような決断を下すかと言う結論は出ていなかった。
意見は主に三つあり、分裂していた。
フロレシア帝国に屈するのも、両国の戦力の差を比べてみれば致し方なしとする穏健派。
カズリクは港湾自由都市として、侵略国家とは断固戦うべしとする主戦派。
そして、外交使節団と交渉の席を設け、相手側の要求を聞いた上で、さらに議論を重ねるべきだとする折衷派である。
穏健派の代表は会合衆の議長を務めるエルブランド造船の会長グリード=エルブランド。
主戦派の代表は鷹の目商会と言う、塩を扱う商館の会長デュラン=バルタサール。
彼はグリードの娘婿でもある。
折衷派の代表は会合衆副議長、女性用小物で財を成し、保存食の生産化に積極的な、紅き真珠と言う名の商会を創設した実力者エレノア=ラウシェンバーグ。
人数で言えば、主戦派が穏健派をやや上回るものの、折衷派には及ばない。
結局、三時間もの長時間に亘って行われた会合の結果は折衷派の意見どおり、フロレシア帝国の外交団と会見し、相手の要求を聞き、しかるのちに協議しようと言う事になった。
その旨が、市内に宿泊中の使節団に伝えられ、会見の日取りが二日後の、二十二日に決定された時、既に陽は沈み、辺りは暗くなっていた。

少し時間を使節団が街に入った頃にまで戻す。
フロレシア帝国側の使節団は、正副一人ずつの大使と護衛の兵が百名余りという小人数だった。
カズリクの人々はフロレシア帝国はスタルナス帝国と同じような、或いはそれ以上の悪辣な威圧手段を以って無理やり、カズリクを植民地にしようとするつもりなのではないかと想像し、恐怖し、警戒していた。そんな彼らに対し、この人数の少なさは少なからず警戒心を解き、好印象を与える事に寄与していた。帝国は先行として数人の使者を送り、使節団が訪れる事は予め伝えてあった。
そのおかげで、百名余りの使節団はカズリクに入ると共に待ち構えていた会合衆の一人に案内されて、騒ぎを起こしたり、人々を混乱させたりすること無く市内のホテルに入ることができたのである。
「会合が長引いておりまして、会見の日取り等は追ってこちらから御相談の使者を御送りいたします。今しばらく、長旅の御疲れもお有りでしょうから、お寛ぎ下さいませ」
と、案内した会合衆の議員は丁寧な口調で言った。
それに答える正使も丁寧な口調で、
「予め使者を送ったとはいえ、急な訪問には変わりなく、それを受けてくださった会合衆の方々にはまず感謝の御言葉を述べたい。会見の日取りは急いでもおりませんので、数日中で結構でございます」
と、丁寧ながらもきっちりと会見の日取りを数日中にと要求する答えを返した。
正使は穏やかな風貌をした老紳士だった。まじりっけの無い白髪に、顔に刻み込まれた皺が彼の豊かな人生経験を物語っている。目元は優しく下り、口元には絶えず社交的な笑みを浮かべている。
全体的に細身ではあるが、痩身と言うほどではない。
背はかなり高いが、相手に威圧感を与えるような感じではない。ごく自然に杖を携えるその様は実に高貴な雰囲気を滲ませていた。彼は案内の議員が退室するまで終始、にこやかな微笑を浮かべていた。
「…………」
議員が部屋を出て行くと、彼は窓際に立って、眼下の景色を細めた眼で眺めた。
五階建てほどのホテルの最上階の部屋からは、カズリクの美しい街並みが一望の下に見渡せた。
右手に見える陸地は、このカズリクを外海から隠しているカルア半島の陸地だろう。
その先端は地平線より遠くにまで続いている。カズリク海の波が穏やかで、実に平穏そうに見えるのは水平線の向こうにあるコルシカ島が外海の荒波を遮っているからだ。カズリクからコルシカ島まではおよそ百五十キロもあるのだと言う。
港には漁船や商船、或いは軍艦などが所狭しと並んでいる。
カズリクは数十万の人口を抱える大都市だ。港湾都市として、フェニキア自由都市連合との交易の歴史も古い。自由都市として、商館主らが会合衆と言う組織を形成して政を司っている。
彼に課された役目はこの自由都市から自由を奪う事。
「外交交渉で相手の英断を引き出せねば………」
それまで温和な輝きを宿していた瞳が急に鋭い輝きを放った。
会合衆が要求を呑まなければ、既にサマカンドで待機中の軍が動き出す。
アレックス=シルバーフォート少将の第四軍第十二歩兵師団。
以下、傭兵軍団隷下の一個師団、砂の民の四氏族連合軍等、計六万余。
軍令部の参謀からの説明によれば、この過剰とも思える動員の理由は『示威』。
(だが、果たして会合衆が示威に屈するかどうか………)
軍令部参謀の考えは楽観的過ぎないだろうか?
と、そこで扉がノックされた。彼は扉の方へと目を向け、
「どなたですかな?」
穏やかな声で問い掛けた。半瞬の間もなく、声が返ってくる。
「私です、ベルンシュタイン伯爵」
平坦な声だった。平坦で、低く、暗い。
ベルンシュタイン伯爵と呼ばれた彼はかすかにその表情に嫌悪感のような物を浮かべたが、すぐに温和な仮面でそれを覆い隠して。
「入りたまえ。アルンヘル=へード大佐」
「失礼します」
そう言って扉を開け、入ってきたのは灰色の髪と同色の瞳を持つ、整った容貌をした若い男だった。
ベルンシュタインの三分の一程しか生きていないような、そんな若さの青年だ。
しかし、青年は年に似合わず、その身に暗く、陰惨な雰囲気を纏っていた。
どことなく、闇を連想させる男だ。だが、この男は皇帝直属の幕僚なのだ。しかも、この使節団の副使でもある。そして、今回の使節団の護衛兵百余を指揮しているのも彼。だが、その本当の役目は。
(私へのお目付け役………だろうな)
ベルンシュタインは、アルンヘルが調査し、皇帝ラインハルトに提出した貴族の分類表によれば、中立派の貴族だった。白とも黒ともつかない、灰色の貴族。帝国内でもそれなりに名門である。
「何か問題でも起こったのかね、大佐?」
ベルンシュタインの声音は穏やかな物だったが、口調にはやはり見下す感じがあった。
貴族特有の優越感、と言う奴だろう。
アルンヘルは内心で嘲笑した。
(反皇帝派の貴族が一掃され、貴族の権威は衰えた。貴方が今ここに立っているのは貴方が貴族だからではない。貴方が外交官として優秀だからに過ぎない。それがわかっていないようでは………)
しかし、そんな事を思っているなどとはおくびにも出さず、アルンヘルはテーブルの上に分厚い書類を置いた。その書類を見て、ベルンシュタイン伯爵はかすかに小首を傾げた。
「―――これは?」
「半月ほど前からカズリクに潜伏し、諜報活動をしていた者から閣下に提出された報告書です」
「ふむ?………それは少し、おかしな話だな」
「なにがです?」
「私に提出された書類を、何故君が持っているのかね?」
「さて、何故でしょう。暁の諜報員が私の元に持って来たのですが」
「中身は見たのかね?」
「いいえ。見る訳がないでしょう?それでは越権行為として罰せられてしまいます」
ベルンシュタインはテーブルの上に置かれてあった書類を取り、封を確かめた。
蝋で為された封は厳重で、破られた形跡は無かった。
「どうやら、君の言う通りのようだな」
「今後は閣下に直接渡すよう、その者には伝えておきましょう」
ベルンシュタインは封を切り、中身を取り出した。
(会合衆の勢力相関に関する報告………)
その報告書には会合衆の誰が穏健派で、誰が主戦派で、誰が折衷派なのか。
それぞれが何と言う商館の主で、その商館が扱っている主な商品は何々で、財力はどうで、家族構成や他の会合衆との婚姻関係の有無などが事細かに書かれてあった。
それぞれの議員の趣味や性癖、愛人の数までが調べられており、ベルンシュタインはかすかに身が震えるのさえ感じた。
「う~む………これは」
(これが皇帝直属の諜報機関とやらの諜報能力か。僅か半月でこれほどの………。この諜報力を国内に対しても揮ったのだろうな………)
彼が思い浮かべたのは、反皇帝派の貴族達の顔だ。彼らは自分達では誰にも知られていないと思っていた秘密まで容易く暴かれ、知られていたのかもしれない。だから、あんなに簡単に一掃されてしまったのかもしれない。
(いや………調べたのは反皇帝派の貴族だけではあるまい)
それ以外の貴族も、全て調べられたに違いない。
(この私も………)
ベルンシュタインは報告書を、元のように封筒に戻し、テーブルの上に戻した。
「まだ他にも話があるのかね、大佐?」
未だに退室せず、闇の底を覗いているかのような暗い目で自分を見つめているアルンヘルを、ベルンシュタインは薄気味悪い気持ちで見つめた。彼は皇帝直属の幕僚なのだ。
(もしや、この男も知っているのでは………?)
彼の勘は当っていた。アルンヘルは貴族の情報は全て諳んじている。だが、伯爵の考えで当っていない部分もある。アルンヘルと言えど、暁の報告書を見る権利は無いのだ。彼が貴族の情報を諳んじているのは、ただ単にそれを調べたのが暁ではなく、彼自身であるというだけの事だ。
アルンヘルは薄気味の悪い微笑を浮かべて、首を横に振った。
「いえ。それでは私はこれで失礼させていただきます」
そう言って、胸に手を当て丁寧に一礼し、アルンヘルは踵を返して部屋から出て行った。伯爵の部屋を出たアルンヘルは一階下の自分に与えられた部屋に入った。同じような調度品だが、どれも上の階の物よりかすかに値が下る。だが、十分に高級だろう。その部屋には一人の男が居た。白髪の、鋭すぎる薄茶色の瞳を持つ男。暁の頭領、エシュアだ。なんと皇帝はこのカズリクに側近の内二人を送り込んでいるのだ。それだけ、皇帝がこのカズリクを手に入れる上で、慎重を期しているのだと言う事がわかる。
「見破られませんでした」
アルンヘルは窓際に立ち、こちらには背を向けているエシュアに向け、そう言った。
「当然だ。封を閉じる前に、貴殿に見せたのだからな」
それが、報告書のからくりだった。エシュアは軍服姿だった。それも、フロレシア帝国軍の物ではなく、カズリク海上騎士団の。アルンヘルは苦笑だけを浮かべ、壁際にある棚に向かった。
そこには世界中の酒が並べられている。その中から葡萄酒を取り出し、
「どうですか、一杯?フェニキア自由都市連合カナーンの葡萄酒です。銘はシンジェレ・ドラクルイ。《悪魔の血》と言う意味です。……ほう、二八九年物ですか。良い物を揃えていますね。この年のシンジェレ・ドラクルイは出来が良い事で有名なのですよ」
「止めておこう。まだ仕事が残っている」
「海上騎士団の動向調査ですか?」
「それはもう済ませた。次は、自警団だ」
「お忙しい様で」
「戦意を確かめ、進駐軍の示威に屈するかどうかを調べねばならない。時間は残り少ない」
「ええ。そうですね。この街が戦火に包まれる回数はできるだけ、少なくしたいですからね」
一つだけグラスを取り、そこに血にも似た赤葡萄酒を注ぎ、香りを嗅ぐ。
「良い香りです。まさに血のような」
そして、一気に飲み干す。エシュアはそんなアルンヘルを一瞥して、部屋の出口へと向かいながら。
「勝利の美酒に酔うには、まだ早い」
「そうですね。私もまだやらなければならない仕事が残っていますよ」
(主戦派の洗い出しは貴方のおかげで終わりました。後は、煽動の用意を整えるだけ)
エシュアはそのまま部屋を出ていった。

ホテルから出て来た時、既にエシュアは自警団員に変装していた。
彼はその格好のまま、自警団の屯所に向かって歩いていった。
怪しまれない程度に、街の様子を窺う。街は全体的に落ち着いているように見えた。
だが、自警団の屯所に入ってみると、様子は大きく変わっていた。
団員達は訓練に励み、手伝いの少年達が剣や槍などをせっせと磨いている。
訓練も平時の物とは思えないほどに白熱し、模擬戦など実戦を想定した物ばかり。
新たな物見櫓まで作られようとしていて。それは何処からどう見ても、戦闘準備にしか見えなかった。
エシュアはあらかたを見終え、判断を下した。
自警団の戦意は高い。海上騎士団も戦意は高かった。海上騎士団は水兵を潜らして艦底に付着した貝殻や海草などを取ったり、艦内に食糧や矢玉を運び込んだり、戦闘訓練に勤しんだりと実戦に向けた用意に余念が無かった。
(だが、会合衆の指示と言うよりはそれぞれの自発的な愛国心の発露だ)
エシュアはそう考えた。彼は組み上げられている物見櫓を見上げながら、ただでさえ鋭い眼差しをさらに鋭く細めていた。
(だからこそ余計に厄介だ。会合衆が降伏を決めても果たして素直に従うかどうか………)
戦になれば、勝つのはフロレシア帝国軍だ。それは間違いない。
カズリクの自警団は一万余、海上騎士団は千余に軍艦が三隻。
屯所内で物見櫓などを建てる工事こそしているものの、カズリクの街を守る城壁は老朽化が甚だしく、補修工事もされていない現状でフロレシア帝国軍六万の攻撃を防げる可能性は万に一つも無いのだ。
「おい、貴様!」
怒声を浴びせられ、弾かれたようにエシュアは振り向き、敬礼した。
しっかりと自警団風の敬礼だ。
「はっ!!」
声を掛けてきたのは四十代中頃と思しき髭面の男だった。重そうな全身鎧に身を包み、背中に大剣を斜めに背負っている。エシュアは脳裏に叩き込んだ人名録を引っ張り出し、男の容姿を検索し、答えを見つけだした。
「団長、何か御用でありますか!?」
そう、この男こそ、自警団長のキバ=スウェットだ。
「何か御用、ではないだろう!貴様、何をサボっている!さっさと持ち場に戻れ!」
「はっ!申し訳ありませんでした!」
もう一度敬礼し、キバから見えないところまで駆け去る。
彼はそのまま、裏門から外に出る。門番に見咎められたが、
「公用だ。団長の命で、会合衆議長のグリード=エルブランド様に城壁補修の許可を貰いに行く」
と言って切り抜けた。門番が、またか、と言う表情をした所から、どうやらあの団長は何度も使者を送って許可を求めているらしい。だが、それをグリード=エルブランドが認めないとすると、少なくともグリード=エルブランドにはフロレシア帝国と戦おうと言う気はないのかも知れない。
(だが、これだけ戦意が高ければ、そう簡単にはいくまい………)
エシュアは屯所から少し離れたところで遊び人に着替え、ふらふらとした足取りで会合衆の議場に向かう。議場で行われているであろう会合の場に潜入して盗み聞きしようと言うのだ。
諜報員と言うのも、かなり多忙な職業のようだ。ただ、エシュアの表情にそれを苦にしているような色は皆無だったが。

2 会見
帝国暦三三三年九月二十二日。
会見の行われるその日。空は朝から綺麗に晴れ渡って快晴だった。海から吹く風が心地良く頬を撫でる。潮の香りを肺にたっぷりと吸い込みながら、ベルンシュタイン伯爵は上機嫌で、いつもと変わらぬ何処か陰惨な雰囲気を滲ませているアルンヘルを振り返った。
「実に良い天気だ。何もかもが上手くいくような気がするよ。君もそう思うだろう、大佐?」
アルンヘルはかすかに微笑めいた物を浮かべて、言った。
「きっと相手側もそのように思っていますよ」
「勿論だとも」
伯爵はさらに上機嫌になって、何度も頷いた。ホテルを出て、会合衆が送迎の為に用意した六頭立ての豪華な馬車へと足を運びながら。
「今日から始まる会見が、双方に良い利益を齎すのだよ。そうだろう、大佐?」
「ええ。私も、そうなることを願っていますよ、伯爵」
二人は御者が開けてくれた馬車へと乗り込む。御者は戸を閉めると御者台に腰掛けて、馬車を出発させた。ごとごとと車輪の音をたてながら、豪華な装飾の施された馬車は六頭の馬に引かれ、会見の行われる議場へと向かうのだった。

会見は会合衆の議場で行われた。但し、カズリク側の出席者はそれぞれの意見の代表と言う事で、グリード=エルブランド、デュラン=バルタサール、エレノア=ラウシェンバーグの三名のみだった。
他の会合衆達はこの三人の決定に従うという盟約に捺印し、その盟約書をグリードがベルンシュタインに見せて了解を求めた。
「ええ、もちろん、構いませんとも」
飽くまでも、上機嫌に、社交的な微笑を絶やさず、ベルンシュタインはこれを了解した。
普段は三十六人と言う人数が座る円卓であったが、今回は双方合わせても僅か五名であったため、円卓のほとんどの席は空席のままだった。その円卓で、五人はそれぞれに分かれて、向かい合った。
「それではまず、わたくしの方から皆様に、御礼を申し上げたいと思います」
会見が始まるとベルンシュタインは優雅な立ち居振る舞いで立ち上がり、一礼した。
「この度は急な来訪、会見の申し出に快く御賛同いただき、また素晴らしい宿舎を提供していただき、ただただ恐縮し、感謝の念がこの老骨の胸にふつふつと湧き上がりました。この場を借りて、皆様の御厚情に篤く御礼申し上げます。この度の会見が双方にとって有益なものとなり、無用な戦、無用な流血を避ける第一歩となりますことを神に祈念させて頂きます」
三人の会合衆を穏やかな微笑を浮かべて順々に見据えながら喋り、終わると一礼して着席した。
「ベルンシュタイン卿の平和を思う志の篤さに胸打たれる物であります。我らとて無論、流血沙汰を好む物ではありません。会見の結果が双方に利益を齎す事をここに確信する物であります」
警戒心を解いた証とばかりに微笑を浮かべ、グリードが挨拶した。彼の左右で、デュランとエレノアがかすかに顔をしかめるのを、円卓を挟んでアルンヘルは冷静に観察していた。
「それでは、会見の主題に入りましょう」
女性にしては深く渋みのある声で、エレノアがそう宣言した。ベルンシュタインが頷き、
「我が皇帝ラインハルト一世は即位してよりこの方、素晴らしい行政手腕を見せ、国内の政治を改革し、疲弊した国力の回復に努めております。が、今やラスカーナ大陸の情勢は非常に不安定。今でこそ、かろうじて安定を保ってはおりますが、いつまでこの平穏無事な時が続くのか、我々は非常に憂慮せざるを得ない。我が皇帝は疲弊した国力を回復させ、最近、再び活発になり始めている商業活動をさらに振興するため、フェニキア自由都市連合との交易路をさらに確かな物にしたいと考えております」
「ふん。それで、アルティス荒野を征服し、次はカズリクを領土に組み入れたいという事だろう?そうすれば、フロレシア帝国は海に面し、直接フェニキア自由都市連合との貿易が行えるからな」
「デュラン!口を慎め。相手は大使殿なのだぞ」
デュランの無礼極まりない物言いを、舅であるグリードが血相を変えて注意する。
「構いませんぞ、グリード様。デュラン様。貴方はこの度の我がフロレシア帝国の南下政策を侵略だとお考えか?」
「そうだろう?違うのかい、おっさん」
デュランの瞳は光り、ベルンシュタインの顔を真っ向から見据える。
「デュラン!無礼にも程があるぞ!」
顔を真っ赤にしたり真っ青にしたり、グリードの顔色は次々変化する。
ベルンシュタインは穏やかな微笑を浮かべたまま、机の上に手を乗せ、猫撫で声で言った。
「侵攻。ふむ。確かに侵攻でしょうな。しかし、それが何か?」
「何?」
度肝を抜かれたような表情で、デュランがベルンシュタインを見返す。
「侵攻である事は認めましょう。誰もがそれを認めるはずです。我々はカズリクを侵攻します。偽善的な言葉を並べたて、隠し立てするつもりはありません。何の為かは既にお話しました。国の商業活動を活発化させ、国力を潤わせるためです。我が皇帝は祖帝フェルモアに倣い、覇皇たらんとしています。覇道とはすなわち血塗られた道。力で運を切り開き、このラスカーナ大陸を再び統一し、この大陸に再び平和な時を刻ませる………それが、皇帝のお考えです。しかし、我が皇帝はそのような血塗られた道を進むにはまだ若い。そして、優しすぎる。陛下は人の死を避けられない事を悟りながら、その悲劇を少しでも減らそうと考えておられる。偽善的である事は陛下も承知の上です。人の死を秤で計るような物ですから。しかし、それでも陛下は死を遠ざけようとなさっておられる。目を背けるのではなく、真っ向からこれを見据えて。その陛下のお考えを具現化させるためにわたくしはここに居るのです。わたくしの立場を御理解頂けましたかな?」
デュランの顔色はいまや完全に蒼くなっていた。侵略である事を断罪するつもりが、開き直って認められてしまった。確かにベルンシュタインの言う通り、侵略であるか否かはこの会見において問題ではないのだ。侵略が罪でない以上、それを断罪できると考えた自分こそが愚かだったのだ。口を開き、何かを言おうとして………果たせず閉じる。そんな無為な行為を数回行ったのち、デュランは力なく首を垂れた。微笑を深くして、ベルンシュタインはグリードを見た。
「皆様を脅迫するつもりは毛頭ございません。ただありのままに、現実を御説明させていただきます。皆様方に、我らが提示させていただきます条件を考慮して頂く際の判断材料の一つにでもなれば、幸いでございます」
誰も口を開かない。三人はベルンシュタインを見つめ、アルンヘルは口を開かず、三人を静かに見つめている。ベルンシュタインはさらに笑みを深く、穏やかなものにして、ゆっくりと口を開いた。
「既にサマカンドには我がフロレシア帝国軍と我がフロレシアと盟約を結んだ砂の民の軍勢が集結し、カズリク武力侵攻の準備を整えております」
「なっ―――」
衝撃に、引き攣ったような声を漏らしたのはグリードだった。
「帝国はカズリクを武を以って屈服させようと言うのか!」
「それならば何故、わたくしはここに居るのです?」
叫ぶようにして言ったグリードに対し、ベルンシュタインはそう切り返した。
「な、何?」
ベルンシュタインは首を左右に振って、笑みを消し、事態を憂慮する、真摯な表情を浮かべた。
「最初に申し上げました。わたくしは無用な戦、無為な流血は避けたいのです。カズリクの皆様を傷つけたくない。砂の民の戦士を、フロレシアの軍人を傷つけたくない。その家族を悲しませたくはない。フェニキア自由都市連合との貿易で栄え、美しい建物が軒を連ねるこのカズリクを戦火で失いたくはないのです。我々にはその力があります。しかし、その力を使いたくはない。我らと我らの皇帝の御心を御察しくださいますよう」
そう言って、ベルンシュタインは頭を垂れた。三人の会合衆は沈黙を以って、これに答えた。
今や、顔面を蒼白に染めているのはデュランだけでなく、その舅グリードも同様であった。
ベルンシュタインの言葉は真摯で、誠に流血を避けたいと言う思いが伝わってくる。
(―――だが、本心じゃないね)
只一人、表情を変えずにベルンシュタインを観察しながらエレノアはそう断じた。ベルンシュタインは言葉の端々に巧妙に、脅迫の言葉を忍ばせている。既に戦備は整っている。いつでもカズリクなど侵攻できるのだ。そうなればカズリクの民の多くは死傷し、この街は焼き払われるだろう、と。
エレノアは横目で、デュランとグリードの様子を窺った。
(はぁ。だらしがないねぇ。主戦派の頭領がこんなんじゃ、とても帝国相手に戦なんて無理だ)
エレノアは視線をベルンシュタインに向け、口を開いた。
「それで?帝国がこのカズリクに対し無礼を働かない代わりに帝国が求める条件はなんだい?」
ベルンシュタインの瞳がかすかに鋭くなった。まるで、仮面の奥に隠された本性の一端を覗かせたかのようだった。だが、それは一瞬の綻びに過ぎなかった。すぐに穏やかな微笑と言う仮面の奥に、彼の本性は隠されてしまった。
「エレノア様は素晴らしく聡明な方ですな。よろしい。単刀直入に申し上げましょう。条件は三つです。一つ。会合衆は解散せず、新たに帝国が設置する総督府の諮問機関として、カズリクの民衆と総督との橋渡しに任ずる事―――」
「つまり、憎まれ役って事だね?」
エレノアが口を挟んだが、ベルンシュタインはこれを無視した。その通り、物の見事に図星だった。
民衆が総督府に抱く憎悪を逸らせるのが目的なのだ。
「一つ。カズリクの自衛戦力である自警団および海上騎士団は解散し、構成員は新たにカズリクに設置される第七軍および海軍に編入するものとする」
「自衛権の剥奪」
「一つ。会合衆は総督府のアルティス街道整備事業および、第七軍、海軍の整備に対する出資として三千万メルダを供出する事」
「三千万!………冗談だろ。桁を一つ多くしてないか?」
デュランが目を剥いて、呆れたように言う。ベルンシュタインは深い微笑を浮かべて。
「確かに膨大な額です。しかし、アルティス街道が整備され、カズリク~ルーガ間の交易路が整備されれば貴方方商人に還元される利益は膨大なのではないですかな?一朝一夕には無理でも、数年あれば十分に回収できるはずです」
「む、むぅ………」
「以上が条件です。これを承諾していただければ帝国軍は平和裡に進駐し、無用な死者が出る事もないでしょう。条件には含まれていませんが、総督官邸は新たに建設するのではなく、会合衆の中のどなたかの、空いている別荘を借り受けたいとのお考えです。既に数件、候補があがっていますが、それはまたの機会に話し合いましょう」
三人は押し黙り、かすかに目配せをするのみ。
彼らの考えている事を察し、ベルンシュタインは笑みを深い物へと変え、猫撫で声で言った。
「時は貴重な物です。無為に費やせば費やすほど、後に後悔する事になる。………わたくし個人としては皆様には熟考にも熟考を重ねていただき、最良の結論を出して頂きたい。その結論が我が帝国にとっても最良である事を願いたい。しかし、時間は無限ではありません。心苦しい限りではありますが、返答には期日を設けさせていただきます。九月中一杯。それが返答の期日です。皆様には限られた時間ではありますが、熟考を重ねていただきたい。それでは、我らはこれにて失礼させていただきましょう」
ベルンシュタインはアルンヘルに目配せして、立ち上がった。合わせて、会合衆の三人も立ち上がる。
「皆様の貴重な時間を我々の為に割いて頂き、誠にありがとうございました」
優雅に一礼し、丁重な言葉で三人の見送りを辞去し、ベルンシュタインとアルンヘルは議場を出た。
外で馬車に乗り、ホテルへと戻りながら、アルンヘルは、対面に座るベルンシュタインを複雑な面持ちで眺めていた。
(狸親父とはまさにこの方の為にあるような言葉だ………)
最後に彼は巧妙に時間を強調した。結論を急がねば、後悔するだろうと脅しもした。
あの会合衆達はこう思ったに違いない。
『九月中に返答できなければ、帝国軍によってカズリクは蹂躙される』
彼らとて馬鹿ではない。その程度の事は認識していただろう。
しかし、ベルンシュタインの口から強調される事により、より強く記憶に印象付けられる事になる。
(時とは恐ろしい物だ。経てば経つほど、強い印象は恐怖を惹起し、焦りを喚起する………)
「どうだったかね、大佐?」
「………はい?」
物思いに耽っていたアルンヘルは、ベルンシュタインの言葉で彼を見て、彼があの笑みを浮かべているのに気付いた。彼が何を訊いているのかは一目瞭然だった。
「ええ。素晴らしかったですよ、伯爵。あれならば、彼らは必ずや条件を呑むでしょう」
ベルンシュタインは頷き、車窓から見えるカズリクの街並みに視線を向けたようだった。
が、不意に言葉を投げつけて来る。
「君にとっては望まない結果だろうがね」
「…………」
かすかに息が詰まったような感じを覚えて、アルンヘルは灰色の瞳をベルンシュタインの横顔に向けた。
それからようやく、口を開く。驚いたような感じを滲ませて。
「何を仰られるのです?まるで私が戦を求めているような言い方ではありませんか。私は戦を求めてはおりません」
「ほう。そうかね?」
アルンヘルにはベルンシュタインの微笑がこの上もなく邪悪な物に思えた。
(私は会合衆が条件を呑む事に反対している訳ではない………)
「ただ―――」
かすかに余裕を取り戻して、アルンヘルは口を開いた。
一瞬、別に言う必要はないだろうと言う考えが過ぎったが、既に伯爵はアルンヘルの言葉を待っていた。
「ただ?なんだね?」
「ただ………自警団と海上騎士団の戦意は高いようです。或いは―――」
「ふむ。或いは会合衆が条件を呑んでも、彼らがそれを認めない可能性があると君は言うんだな?」
「はい」
「しかし、自警団や海上騎士団の戦意は本当に高いのかね?我が帝国の軍を敵に回して?」
「彼らは実際にフロレシア帝国軍と戦った経験はありません。自警団の敵は精々が盗賊や酔っ払い程度。海上騎士団は海賊が相手です。正規軍と戦う経験など無きに等しい」
「正規軍?………ああ、そうか」
ベルンシュタインは一瞬怪訝そうな表情をしてから、納得したように頷いた。
アルンヘルには今の一瞬が何を意味しているか手に取るようにわかった。
(今、サマカンドに集結してるのは貴族が流刑軍団と呼んで蔑んでいた第四軍の師団、それに正規軍ではない傭兵軍団、さらには貴族にとって下賎な犬以下の存在でしかない蛮族の軍―――確かに、正規軍と聞いて怪訝な顔をするのもおかしくはない………)
馬車に揺られながら、ホテルまでの残りの道を、二人は沈黙したまま遣り過ごした。

「―――で、どうするんだい?」
エレノアはデュランとグリードを睨み付けるように見て、聞いた。
「どうするべきだ思うね、エレノア?私は意見を変えるつもりはない。いや、より固まったと言うべきか。戦っても勝てないだろう。戦い、傷つき、倒れる意味はない。この街を焼き払わせても、意味はない。条件を呑むべきだ」
「それがあんたの考えだね、グリード。で、デュラン、おまえさんの考えは?」
「俺は悔しい。あんな奴らの言いなりになって、従うなんて、悔しいだろうが」
「悔しい?」
エレノアが眉間に皺を寄せ、デュランを睨む。
「ならあんたは断固戦うと?」
「そうは言ってない。時間が欲しい。考える時間が」
「エレノア。おまえの考えは?」
エレノアは軽く肩を竦めて、軽い口調で言った。
「私かい。私は商人だよ。得する道を選びたいね。でも、得する道がないならせめて、損をしない道を選ぶだけさ」
「じゃあ―――」
「ああ。私はグリードの意見に賛成だ。とりあえず、だけどね。あの貴族の言う通り、良く考えてみるべきだろう。デュランも、考えるべきだ」
「―――そうだな。まだ八日間ある。ゆっくり考えるとしよう」
グリードが言い、デュランを見る。デュランも、小さく頷いた。

3 デュランの決心
帝国暦三三三年九月二十三日。
会見の翌日。デュランが会長を務める鷹の目商会の商館を訪れた者が居た。デュランはその者の来訪を事務員に伝えられたとき、苦渋に満ちた目をした。だが、居留守を使うわけにもいかず、かといって雇っている警備員に追い返させるわけにもいかない。なので、彼はその来訪者を仕方なく応接間に通した。彼の元を訪れたのは、老人だった。既に七十過ぎで、体の各所にがたが来ている様だったが、それでもその瞳に宿る意思は強い。会合衆の議員でもある彼は強硬な主戦派でもあった。デュランがこの老人との会見を避けたかったのは、昨日の会見の結果、彼は主戦と言う考えを見直したからだ。見直してみて、自分が主張して来た事がどれほど現実離れした愚かなものだったのかに気付いて、自己嫌悪に陥った。まるで夢を見ていたかのような気分だった。醒めて見れば、身体中が冷や汗でぐっしょりと濡れているような、そんな夢だ。応接用のソファに座り、卓を挟んで向かい合いながら、デュランは相手を見た。
見るからに顔が赤い。どうやらかなり御立腹の様子である。
「今日はどのような用件で参られた?ジュド殿」
「どのような用件も無いわいッ!わしゃ、貴殿の心の裡を確かめに参ったのじゃッ!」
口角泡を飛ばし、ジュドと呼ばれた老人が吼えた。
商館中に轟きわたったであろう。デュランは懐からハンカチを取り出して額の汗とジュド老人の口から飛び散った唾液の飛沫を拭った。その動作は多少なりとも、心を落ち着かせることに貢献してくれた。
「俺の心の裡、とは?」
「巷ではあらぬ流説が飛び交っておる!貴殿は御存じないのかッ!」
「流説?どのような?」
思い当たる節はない。昨日は会見から帰ってきて、自分の部屋に閉じこもってずっと考え事をしていた。今日の朝、商館に来る時もずっと考えていたので、周囲に気を配る余裕などありはしなかったのだ。
(そう言えば、商館に来た時、商館員の様子が少々ぎくしゃくしていたか………)
思い当たる節と呼べるようなものは、その程度のものでしかない。
「会合衆はフロレシア帝国の条件を全て呑み、だけでなく、進んで帝国の事業に三千万メルダもの多額の出資を申し出たと言うではないかッ!これは真かッ!真なれば、貴殿の御意思はどこへ行ったのじゃッ!貴殿はこの街を悪辣なる暴漢から守ろうと主戦を唱えておったのではないのかッ!それなのにこれではまさに背信行為ではないかッ!貴殿を信じて、貴殿に委任した我ら主戦派を裏切る行為ですぞッ!いや、そんな小さな問題ではないッ!貴方はフロレシア帝国にこの自由都市カズリクを売り渡すおつもりなのかッ!貴殿は輝かしいカズリクの自治の歴史を泥を塗るばかりではなく、自ら幕を引こうとなさっておられるのかッ!」
ジュド老人の言葉に、デュランは開いた口が塞がらない思いを味わった。
「そんな馬鹿な!………ジュド殿、そのような話、何処でお聞きになられた?とんでもない………無責任な流言飛語だ。会合衆は未だ帝国の条件を呑むかどうかの結論は出していない。返答の期日は九月一杯と言うことになっているんだ。俺はカズリクをフロレシア帝国に売り渡すなどと考えた事もない。心外も甚だしい!」
「ならばよし。貴殿は断固、戦う御覚悟でござろうな?」
ジュド老人がずずいっと顔を寄せてきて、デュランは思わず背を反って逃げてしまった。
「それは………」
「それは?貴殿、まさか迷っておられるのか!?」
カッと目を見開き、デュランの顔に遠慮なく唾を飛ばしながらジュド老人は吼えた。
「既に自警団も海上騎士団も戦う準備を整えておる!中にはフロレシアの使者どもを血祭りに上げようと息巻いている若者も居る!実に天晴れなもんじゃッ!だのに、その自警団や海上騎士団を後援すべき会合衆がそのような腑抜けた態度では彼らが報われん!彼らは会合衆の後援なくとも、このカズリクの為に立ち上がるッ!そして、必ずや中原の野蛮人どもを巣に追い返すであろうッ!」
(夢を見ている………)
デュランはそう思った。ジュド老人は昨日以前の自分なのだ。
戦えば勝てると信じている。彼らよりも自分達の方が想いが強いのだから、と。
(そんなもの、勝敗には何の関係もない………そして負けたら、何もかもが失われるのだ)
「ジュド殿」
自分でも驚くほど、静かな声がでた。ジュド老人がはたと口を閉じる。
デュランは一度目を閉じ、もう一度開いて。静かにジュド老人を見据えた。諭すように、口を開く。
「止めよう、ジュド殿」
「止める?何をじゃ?」
「無用な戦を興し、無為に血を流す必要はない。フロレシアに屈する事は屈辱的だが、彼らが提示して来た条件は呑めないと言うほど厳しいものではなかった。会合衆は存続する。自警団や海上騎士団は解散させられるが、帝国軍に編入され、職を失い、路頭に迷う事もない。供出金三千万メルダは膨大な額だが、アルティス街道が整備されれば数年で回収できる。だから―――」
「だから黙って、帝国の言いなりになろうと言うのか、おぬしはッ!見損なったぞ、デュラン殿ッ!!貴殿は悔しくないのか!自由都市の民としての誇りはないのかッ!無用な戦、無為な血じゃとッ!戦い、悪辣なる暴漢を追い返せば無用でも無為でもあるまいッ!誇り高き戦い、尊い犠牲じゃろうがッ!」
「貴方は夢を見ているッ!いい加減、目を醒ませッ!」
ジュド老人にも負けないほどの大声で、デュランは怒鳴った。拳で、テーブルを殴ってもいた。ガラス製の頑丈なテーブルに放射状にひびが刻まれる。
それを見て、ジュド老人がびくっと身を竦ませるのがわかった。
(これは八つ当たりだ………)
デュランはどこか身体の中で、冷静な自分がそう呟くのが聞こえた気がした。昨日までの自分を目の前で見させられているようで、腸が煮えくり返るような怒りを覚える。自己嫌悪が、激しい怒りとなって噴き出していた。いまや、商館中の者が息を潜め、自分達の会話を聞いているであろう。
会合衆に属す議員ともあろう者が機密に属する会話をこのような大声で怒鳴りあうなど滑稽としか言い様がない。だが声を潜めようなどと言う考えは浮かばなかった。誰に聞かれようとも構わないと思った。
この商館に居る者でも。それ以外の者でも。なにしろこの問題は彼らにも大きく影響するのだから。
「貴方は夢を見ているッ!」
もう一度、繰り返した。ジュド老人がその言葉を口の中で転がすのがわかった。
「わしが………夢を見ている?」
ジュド老人が声を落としたので、デュランも合わせて声を小さくした。
「そうだ」
荒い息を整えながら頷き、続ける。テーブルを殴った右手がずきずきと痛んだが、それが返って、これから口にしようとしている言葉を紡ぎ出す勇気を彼に与えてくれた。
「我々がいくら団結しようとも、フロレシア帝国軍には勝てない」
「そ、それはやってみなければ―――」
「そもそも、団結できる目処すらない!既に帝国軍はサマカンドに集結し、九月末までに返答しなかった場合、または条件を受諾しないと通達した場合、速やかにカズリクを制圧する準備を整えている。だが、カズリクでは全く戦う準備は行われていない。城壁の補修もしていなければ、住民の訓練もなされていない。たった一万の自警団と三隻の軍艦しか持っていない、水兵千の海上騎士団だけでは盗賊や海賊から街を守る事は出来ても訓練された軍隊から街を守る事はできない」
デュランの言葉を聞いて、ジュド老人の顔に再び朱が差した。
「なんたることじゃ!戦う前から負ける負けると………そのような腑抜けた考えでは勝てる戦も勝てぬわッ!話にならぬわッ!貴殿がそのような腑抜けた魂の持ち主だと見抜けなかったとは痛恨じゃ!良いとも!帝国に屈するが良い。その足元に跪いて、爪先を舐めるが良いわっ!我らは負けぬ。例え、会合衆の後援が得られなくとも、カズリクの自由の為に立ち上がる者は多い筈じゃ!わしはそのような者達に微力ながら手を貸すことにする。もはや、貴殿に頼ろうとはせぬッ!」
「どうして、目を醒まさない!どうして、現実を直視しないっ!戦えば、街が戦火に焼かれる事になるんだぞッ!多くの死者が出なければなにもわからないのかッ!」
「中原の野蛮人どもなど、一人たりともカズリクに踏み入らせなどしないわいッ!腰抜けは指を咥えて見ておるが良いわ!」
ジュド老はそう吼えて、ずかずかと応接間を出て行った。
「ジュド殿………どうしてわかってくれないんだ?………戦えば、カズリクは破滅すると言うに」
応接間に一人取り残されて。デュランは苦渋に満ちた目で、天井を仰いだ。
その天井にかすかに開けられた穴から、天井裏に潜んだ者がずっと彼を見下ろし、彼とジュド老の会話を聞いていたことなど、彼の知る所ではない。

「そうですか。………デュラン=バルタサールは主戦派から決別しましたか」
「と言うよりは、見放されたと見るべきだな。感情的になっている人間を相手にしては、論旨明快な話の方が理解され難いものだと言うことだ」
ホテルの、アルンヘルの部屋。
ソファに座って、アルンヘルは窓際に立つエシュアを見ながらワイングラスを傾けていた。
「手はこれで一通り?」
「ああ。噂をばら撒いて、主戦派を挑発し、デュランと決別させた。二人の会話の様子ではデュランは条件を呑むほうに傾いているな。問題ない」
「新たな主戦派の首塊はジュドと言う交易商」
「自警団や海上騎士団に資金援助を申し出ている。だが、一つ、気になる情報もあるな」
「気になる情報?」
アルンヘルはワイングラスをテーブルに置き、灰色の視線をエシュアに向けた。
「なんですか?」
「大量に食糧や矢玉を買い集めている軍艦が居る」
「軍艦………海上騎士団の、と言う訳ではないんですね?」
「フェニキアの船だ。船の名は『ユニコーン』」
「キナ臭さを感じて本国へ帰還しようとしている………のでは?」
「ならば良いが。『ユニコーン』の水兵から聞き出した話では、どうやらそうでもないらしい」
「―――と言うと?」
「スザンからフェニキアの軍艦が一隻、カズリクに向かっているそうだ。名は『グリフォン』。『ユニコーン』と同級の、大型戦艦だ」
アルンヘルは腕を組んで、眉間に皺を寄せた。
「ふむ。確かに気になる話ではありますね。二隻の大型戦艦が合流して一体何をしようと言うのか。それで、フェニキアが主戦派に繋がっていると貴方は見るのですか?フェニキア海軍が主戦派を支援すると?」
「それはわからない。だが、もし主戦派がフェニキアの海軍力を頼っているのだとしたら」
「頼るだけならまだしも、フェニキアがその要請に応えるつもりならば困った事になりますね。海上から攻撃されたのでは現状のフロレシア帝国軍は手も足も出ない。海上騎士団の三隻の軍艦ではとてもフェニキアの戦艦には対抗できませんから」
「接点を探し出し、断ち切るしかないだろう。できれば、フェニキアは警戒して手を引く可能性もある」
「もしくは先にこちらからフェニキアに中立を要請するか………」
エシュアは窓の外から視線を外し、室内を振り返ってアルンヘルを見た。
「だが、出来まい?」
肩を竦め、アルンヘルはかすかに微苦笑を漏らす。
「ええ。残念ながら。その要請を行えばフロレシアは戦うつもりだと宣伝するようなもの。フロレシアが非戦の態度を貫かねば、カズリクの民心はフロレシアから離れてしまうでしょう。難しいものです。後手に回らざるを得ないのだから」
「そう言いながら、楽しんでいるようにも見えるな」
エシュアの鋭い眼光が、アルンヘルを射ぬく。アルンヘルはその視線から逃げるようにワイングラスに手を伸ばし、薄気味の悪い笑みを零した。
「そうですね。確かにそうだ。人生楽しまなければ。でしょう?」
「他人の生き方に興味はない」
「そうですか。それで、貴方はこれから?」
「もう二人の様子を見張る必要があるかも知れんな。もっとも、グリード=エルブランドに関しては問題ないだろうが」
「ええ。彼は会見前からの穏健派。今更考えを翻すとも思えません。もう一人、エレノア=ラウシェンバーグですか。彼女は三人の中では最も手強そうですね。実に賢い女性だ。ですが、だからこそ、無理益とわかっている賭けには乗らないでしょう」
「念の為だ。主戦派が彼女に接触する可能性も残されている。一応は、まだ中立なのだからな」
「ええ、そうですね。それに、彼女を見張るのは副次的な益を齎してくれますしね」
「どういうことだ?」
ますます眼光を鋭くしながら、エシュアが言う。アルンヘルは酒を口に含んで、陰惨な笑みを浮かべた。
「惚けなくても良いでしょう?彼女を見張る傍ら、貴方は彼女を護るつもりだ。違いますか?違わないでしょう?」
「ふむ?………何故だ?」
「主戦派が彼女を暗殺するかもしれないからですよ。彼女が死ねばデュランやグリードは動揺する。暗殺を免れるために主戦派に翻るかも知れない」
「その論理なら、グリードやデュランにも暗殺の危機はあるわけだ」
「その通り。ただ確率の問題でエレノア=ラウシェンバーグが最も高いと言うだけに過ぎません。デュランやグリードを暗殺しただけならば、エレノアは動揺しないでしょう。肝っ玉の据わった人のようですからね」
「私なら、皆殺しにする」
エシュアは淡々とした口調で言った。
「そうでしょうね。それがもっとも良い手かもしれない。だが」
「どちらにせよ、最初に狙われるのはエレノアだろう」
「でしょうね。他の人間を殺せば、エレノアはそれだけ警戒を厳重にするはず。彼女ほど賢い人間が警戒を厳重にすれば暗殺の難易度は格段に上がるでしょう。殺るなら、まだ然程警戒していない最初」
「では行って来よう」
窓の外をちらりと見て、エシュアが言った。ちょうど太陽が沈んでいくところだった。
アルンヘルもそんなだんだんと暗くなっていく窓の外に視線を走らせて。
「昼が終わり、夜になる。今宵は良い雲がでていますね」
「…………」
エシュアは空を一瞥しただけで、別に答えようとはしなかった。
いつのまにか着替え、今では黒衣を着ていた。
「貴方にとっては実に動きやすい夜なのでしょうね」
血のように赤いワインを、舌の上で転がすようにして味わいながら、アルンヘルは囁いた。
「…………」
エシュアは答えない。視界に捉えていなければ、その気配にも気付く事はないかも知れない。
唐突に、アルンヘルは思った。
(サマカンドで、陛下の伝言を伝え、私の変装術に忠告して行ったあの老婆はもしや彼なのでは?)
強烈に聞いてみたいと言う衝動に駆られた。
別に抑える必要も無い衝動であったが、アルンヘルは聞くのを留まった。
エシュアの気配があまりにも静かだったから。それはまるで、触れれば斬られそうなほどの、張り詰めた殺気だった。アルンヘルは金縛りにあったかのように、身体を動かすことが出来なかった。
冷や汗が噴き出してくる。まるで、彼と始めて会った時の様に。
エシュアはそんなアルンヘルを一瞥し、結局無言で部屋を出て行った。
部屋に漲っていた緊張感が氷解し、四肢に自由が戻ってくる。
「………ふぅ」
我知らず嘆息を漏らし、それに気付いて自嘲の笑みを浮かべる。
「恐怖を感じた………この私が」
恐怖とは与えるものだと思っていた。アルンヘルは己の指に嵌っている黒い指輪に視線を落とした。
幾多の死を作り出してきた《触手の指輪-ドリニティ》。
「この指輪の力を使えば、あの人に勝てますか………?」
誰にともなく訊ねる。敢えて言うならば、自分自身か。
答えはわかっていた。何しろ彼は自分が恐れる程の存在なのだ。
「彼のような人を言うのでしょうね。化け物、とは」
そう言って、アルンヘルは口元に陰惨な笑みを浮かべた。

4 受諾
帝国暦三三三年九月二十三日、深夜―――。
音を立てる事もなく、闇夜を駆け抜ける集団があった。
顔の半ばまで黒衣で覆い、屋根から屋根へと軽快な動きで翔ける彼らの姿は例え視界に入っていたとしても気付けないかも知れない。
空には雲が掛かり、月を隠している。彼らにとっては実に都合の良い夜だ。
集団は五人。鳥が翼を広げたような陣形を乱す事なく、目標が眠る館へと走る。
闇夜を見通す彼らの視界に、目標とする建物が見えて来たその時、先頭を翔ける男が突如として身を翻し、何かを掴み取るような仕草をした。着地と共に全員が散開し、影に身を伏せ、気配を断つ。
先頭の男だけが、屋根の上に無防備な姿を晒し、四囲に視線を向けていた。
彼の手の中には、ナイフが握られていた。刃は黒く塗られて光を反射しないよう細工されていた。
素人が使うような物ではない。
彼らと同業の者か、似たような稼業を生業とする者の仕業。
刃には毒も塗られているだろう。
「―――そこかっ!」
小さく、息吹のような声を漏らして、男はナイフを投じた。
ナイフは彼が感じた気配を見事に貫き、貫かれた気配は影から転がり出てきた。
「―――ッ」
それを見て、男はばっと背後を振り向いた。
出て来たのは喉を傷つけられ、声が出せないようにされていた猫。腹部にナイフを突きたてられ、身体中を回る猛毒に四肢を痙攣させながら、屋根の上を滑り、眼下の路地裏へと落下していく野良猫の姿。
そして、振り向いた先には、彼と同じく黒衣に身を包んだ男が立っていた。
闇夜に冴える白髪が、風に嬲られて揺れている。薄茶色の鋭い眼光が、男を射抜いた。
男が懐に手を刺し込むと同時、白髪の男も動いた。
その拳には刃付きの手甲が嵌められていた。黒く塗られてもいない。銀色の輝きが、男に迫る。
男はその手甲の刃で首を半ばまで裂かれ、声もなく仰向けに倒れた。
そのまま屋根から滑り落ちていく。男が下に落下するのを見届ける前に、白髪の男、エシュアはその場を飛び退いた。一瞬前まで彼が立って居た場所に、四本の短刀が軽い音を立てて突き刺さる。
さらに、空中へと身を躍らせた彼に、二本の短刀が投げつけられた。
その二本を手甲で弾く。
「貰ったッ!」
弾かれて落下していく短刀と入れ替わるようにして、黒衣に身を包んだ男が二人、飛び出してきた。
二人はエシュアの前後から同時に刀を振り下ろしてきた。
ガッ!
二本の刀を、頭上で交差させた手甲で受け止め、前方の男の腹に蹴りを叩き込んで撃墜する。
着地すると同時に身を前に躍らせて、後ろの敵の二の太刀を回避し、振り返る事もなく先程撃墜し、今立ち上がろうとしている男の胸に、抉るような拳打を叩き込んだ。
「ぐふっ―――」
血反吐を吐きながら、男が吹きとぶ。
暗がりから放たれた短刀を叩き落とし、敵の三の太刀を片手で受け止め、もう片手で作った拳で腹を打つ。ばんっと内臓が破裂する重い手応えが返って来た。
その場を飛び退いて短刀を避け、暗がりへと飛び込んで息を潜める。
一瞬の戦闘で三人もの手練れが殺され、残った二人は警戒して姿を現さない。
(それなりに名の知れた暗殺集団だろう)
物影に潜んで敵の気配を読み取ろうとしながら、エシュアはそう判断した。
動きに無駄がなく、呼吸がぴったり合っている。
だが、エシュアが身の危険を感じるほどではなかった。
戦闘中に口を聞くのはそれだけ呼吸を乱すことに繋がる。それに、身のこなしの軽さならば、エシュアの方が遥かに勝っていた。それなりの実力を有する暗殺集団ではあるだろうが、暁で戦闘員として働くにはまだまだ実力が及ばない。
敵は姿を現す事を明らかに躊躇っている様子だった。
(或いはこのまま去るか………)
別にエシュアはそれでも構わない。これだけの手練れ集団ならば一度失敗した仕事をもう一度受けるような真似はしないだろうし、たとえ捕まえたとしても依頼人の名を口にする事も無い。
これ以上の戦闘は無意味だった。
と、その時、気配が動いた。
(去るのか?)
そう思ったが、違った。動いた気配は一つ。その向かう先は―――。
「ちっ」
相手の意図を察して、エシュアも動いた。
すぐにもう一つの気配が牽制の短刀を放ってくるが、拳打で叩き落とす。
遠ざかる気配を全力で追う。遠ざかる気配はエレノア=ラウシェンバーグの屋敷へと向かっていた。
今はまだ、エレノアに死なれてはまずいのだ。
牽制役の気配が後方から追い縋ってくるが、速度はややエシュアの方が速い。
しかし、引き離せるほどの差ではない。
前を行く敵に追いついたところで、挟撃されるだろう。
前を行く気配との距離をどんどん狭めていく。
屋敷内に侵入する前に、追いつけるだろう。懐に手を入れ、短刀を取る。
屋根を蹴り、身を空に躍らせ、屋根に着地し、再び蹴る。
それを繰り返しながら、三つの影が数珠繋がりにエレノアの屋敷を目指す。
前を行く敵がエレノアの屋敷の屋根に辿り着いた。振り返り、エシュアに短刀を放ってくる。
エシュアもまた、短刀を投げた。短刀同士が空中で衝突し、甲高い金属音が鳴った。
最後の屋根に着地し、蹴って跳躍しようとした………次の瞬間、身体ががくんっと沈み込んだ。
「ッ!?」
屋根が腐っていたようだ。手を突っ張り、落下だけは防いだ。
後方から敵が迫る。前方の敵も、好機と判断してこっちに来た。
エシュアの表情が一瞬、恐怖に歪んだ………と思ったら、普段の鋭すぎる眼光を取り戻し、屋根に突いて自分の体重を支えていた手に力が篭った次の瞬間、その姿が消えた。
「えっ」
「なっ」
エシュアが立っていた屋根に着地し、二人の暗殺者が間の抜けた声を漏らした。
「ッ!」
次の瞬間、前を行っていた暗殺者の目の前で、後ろから追い縋ってきていた暗殺者の首がごとりと落ちた。自分の身に何が起こったのか理解しきれていない表情の男の首が、路地に落ちてごしゃ、と言う音を立てた。首を失った胴体からは噴水のように血が噴き出している。
胴体が倒れた先には、彼らほどの実力ある暗殺者にすら消えたように見えるほどの高速で彼らの視野の遥か上まで飛び上がり、落下の勢いを乗せた一撃で首を跳ね飛ばしたエシュアの姿があった。
最後の一人は、動かなかった。黒衣と黒髪の狭間から見える瞳が恐怖に見開かれて、エシュアを見ていた。エシュアの薄茶色の瞳に睨まれ、全身が何かに縛り付けられてでもいるかのように動かない。
蛇に睨まれた蛙状態だ。必死に、腰に佩いている刀を抜こうとするのだが、指がかすかに震えるだけで動かない。
「―――去れ」
黒衣を通して、エシュアの声はややくぐもって聞こえた。
「………あ………う」
恐怖に全身を硬直させて、男の顔が歪む。万力のような力に喉を締め付けられているかのように気道を圧迫され、思うように息を吸うこともままならない。
エシュアは少しだけ、その眼光を和らげた。
男の全身を押さえつける不可思議な力が少しだけ緩み、思うように息を吸うことができるようになった。
男が慌てて息を吸い、やや落ち着くのを辛抱強く待ってから、エシュアはもう一度、言った。
「ここからすぐに去れ。二度とエレノア=ラウシェンバーグの命を狙うな」
男はがくがくと壊れた人形のように首を縦に振った。
エシュアが顎で去るよう合図すると、男は弾かれたように屋根を渡って闇夜に消えて行った。
もはや二度と暗殺の依頼を受ける事もできないだろう。
「…………」
エシュアは無言で、エレノアの屋敷を見据えた。
どの部屋も明かりは点いていない。
だが、エシュアは自分の姿を見ている者が居る事を確信しているかのように、鋭い視線を向け続けた。
何の前触れもなく別の方角に顔を向けると、エシュアはそのまま消えた。

「ふ、ふふ………全く、お節介な奴だね」
エレノアは楽しそうに笑っていた。明かりも点けず、真っ暗な自室で、ワイングラスを持って窓際に佇んでいる。確かにエシュアを見ている者はいたし、エシュアの鋭い眼差しは正確にエレノアを見つめていた。
「それにしても」
エレノアは窓際を離れ、テーブルの上にワイングラスを置くと明かりを点けた。
テーブル脇の安楽椅子に腰を下ろし、一度置いたワイングラスを再び手に取ったとき、エレノアは既に笑いではなく、考え深げな表情を浮かべていた。
「暗殺者を送って寄越したってことはデュランは考えを変えなかったのか………それとも、別の奴がしゃしゃりでてきたのかもしれないね………すぐ行動に出そうなのと言えばジュドの爺さんだけれど-………さて、あの爺さん、殺すときは自分の手で首を落とさないと気が済まないんじゃなかったかね」
それから再び、くっくと笑いを漏らして。
「命の恩人にこう言うのもなんだけどねぇ。逃がすんじゃなくて拷問するべきだったと私は思うけどねぇ。口を割らないと考えたんだろうけど………何事も試してみないとねぇ。まぁ、良いけどね」

帝国暦三三三年九月二十五日。
グリード=エルブランドは会合衆として、最終的にフロレシア帝国の提示した条件を呑むべきかどうかと言う意見を聴取するため、デュラン=バルタサール、エレノア=ラウシェンバーグを議場に召集した。
この日、カズリクは朝から騒がしかった。ジュドなど主戦派の会合衆が海上騎士団や自警団、一般民衆を巻き込んで《抗戦賛成!屈服反対!》を掲げて街中を練り歩く抗議デモを敢行したのだ。
さらに過激な一派は、《フロレシア人どもを追い払え!叩き殺せ!》と叫んで、フロレシアの使節団が宿泊しているホテルを包囲したのだ。眼下で騒ぐ人々を窓から見下ろし、ベルンシュタインはテーブルに座って優雅に紅茶を飲んでいるアルンヘルを振り返った。
「これをどう思うね、大佐?」
伯爵は普段の余裕のある声音を装ってはいたが、いつもよりも精彩に欠けていた。
「どう思う、とは?………暴徒ならば心配はありません。護衛兵はいずれも手だれの精鋭。侵入させはしません。伯爵も御飲みになりますかな?少し、お疲れのようだ。落ち着きますぞ」
「う、うぅむ………いや、遠慮しておこう。それよりも大佐。この抗議デモによって、会合衆が意見を変える可能性はないだろうか?」
「さあ、どうでしょうね。但し、この抗議デモを行っているのはジュドと言う会合衆議員です。彼もまた決定権をデュラン=バルタサールに委譲している以上、会合衆の決定に従う義務があるはずです」
「だが、海上騎士団や自警団もデモに加わっているようだが?」
「ええ。彼らは主戦的な考えを持っているようですからな。確かに、彼らには困ったものです。が、会合衆が我らが皇帝陛下の条件を呑めば、フロレシア帝国軍は会合衆からの治安維持要請と言う名目で彼らを叩くことができます。無論、無関係な者を巻き込まないよう、相当に慎重な指揮が必要とされますが。第十二歩兵師団の師団長はアレックス=シルバーフォート少将ですから。大丈夫でしょう」
「だが、第四軍の軍人だろう?」
ベルンシュタインの言葉はあからさまな蔑視感情からでたものだった。
「ええ。しかし、優秀な人間は少々、我が強いものですから」
アルンヘルの言葉に、ベルンシュタインはアルンヘルを見つめた。
それから、その口元に温和な笑みを浮かべてみせる。
「確かに、そのようだな」

「最初に聞いておくが、表の騒ぎはこれから話し合う点に関しては何の関わりもない。良いね?」
目を覗き込むようにして言ったエレノアに対し、グリードは気まずげに顔をしかめて婿と顔を見合わせた。
「だが、しかし、エレノア―――」
「良いね?御囃子に乗って踊っているだけの民衆を気にしても仕方がないよ。彼らは何もわかっちゃいないんだからね」
「うぅむ………わかった。おまえも良いだろうな?デュラン」
「ああ」
外で騒いでいるジュドや他の主戦派会合衆達は元々、デュランの同志だ。その同志を裏切る後ろめたさに、デュランはやや顔を青ざめさせていた。しかし、ジュドと決別してからも彼の考えは変わっていない。もう二度とあのような夢を見て寝覚めの悪い思いをするのは御免だ。
「それじゃ、まずは私の意見からだ。私の意見は変わっていない。変わらず、条件を呑むべきだと思う。理由は三日前に話したのと同じだ。次に、エレノア。君の意見はどうだね?」
グリードに水を向けられ、エレノアは頷いた。
「私も変わってない。ここは条件を呑むべきだろう。時の流れには逆らえないものさ。なぁに、かつて我々の先祖たちはフロレシア帝国から自由を勝ち取ったんだ。今後、我々の子孫がそれを出来ないはずはないさ。そうだろ?子孫頼みと言うのも格好悪いけどね」
「そうだな………その通りだとも」
やや安堵したような表情で、グリードは頷いた。その視線が、デュランに動く。
「おまえはどうだ、デュラン?考えは決まったのか?」
「ああ。決めた」
「それで?」
グリードは何かを期待するような眼差しで、デュランを見据えた。
彼とは異なり、エレノアは別に何も期待していない眼差しで、デュランを眺めている。
「俺も………意見を呑む事に賛成だ」
「じゃあ、外で騒いでる連中はもうあんたの指示を受けてるわけじゃないんだね?」
デュランが自分の意見を述べると間髪挟まずに、エレノアが言った。
「あ、ああ………ジュド老人を説得しようとしたんだが、聞き入れてはくれなかった。今じゃもう決別した。もう関係ない」
「なら良いんだ。グリード。すぐに受諾する旨、ホテルで缶詰になってる大使達に伝えたほうが良いね」
「そうするべきだろうが………ホテルを取り囲んでる民衆が素直に通してくれるかどうか。普段ならば自警団で取り締まるんだが、自警団もデモに加わってる状態ではな」
「あんたがいかないなら、私が行くよ。群衆を怖がってるようじゃ会合衆なんかやってられるかい」
そう言って、エレノアが出て行こうとする。
「待て、エレノア。私も行こう」
「俺もだ」
グリードとデュランが声を揃えて言う。立ち止まり、振り返ったエレノアが口の端に笑みを浮かべる。
「なら急ぎな。息の掛かってる者を集めるんだよ。商館員とか懇意にしてる暴力団とか、いろいろあるだろ?掻き集めるんだよ」

彼らがホテルを包囲している群衆を蹴散らすようにしてホテルに入り、ベルンシュタインと面会して、帝国の提示した条件を呑む事を伝えたのは、それから三時間後の事だった。伯爵は満面に笑みを浮かべて、一人一人と情熱的に握手した。
「それは良かった。実に賢い判断ですぞ、皆々様方。これで要らざる血が流される事もなくなった。わたくしはこの朗報をすぐさまサマカンドとルーガに通報する事をお約束いたしましょう」
「お願いしますよ、大使殿」
グリードはそう言って、深々と頭を垂れた。

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