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覇皇伝

第五章 蛮族、屈服す

第五章 蛮族、屈服す
1 カーン族の新族長
帝国暦三三三年七月二十二日。
盟主クシャス=カーン乱心と言う大変事から一週間と言う時が流れ―――。
アルティス荒野の勢力図は物の見事に一変していた。
一週間前まで硬い結束力でフロレシアに抵抗していた砂の民はもはやカーン族のみを残し、残るハーン、クリル、タタルの三氏族はフロレシアに降伏し、従属の証として人質まで差し出してしまった。
カーン族は北にフロレシア、北東にクリル族、東から南東に掛けてハーン族、南西にタタル族に面すると言う重囲に陥ってしまったのだ。
サマカンドでは連日協議が開かれ、一族を代表する主だった者達からの意見を集めた。
意見は大きく分けて、三つだった。
一つ、断固フロレシアと戦う。故に、フロレシアに降った者は例え同じ砂の民だとしても敵である。
一つ、例え何があっても、砂の民同士で戦う訳には行かない。ここはフロレシアに屈し、他日を期する。
一つ、静観する。
意見は分かれ、激しく言い争われたが、一向に結論が出る様子は無い。
そこでまずはクシャス=カーンの死によって空席となって居る族長を誰にするかと言う事を話し合う事とされた。クシャスへの弔意を示す為にも、ここはクシャスの三人の遺児―――マーダ=カーン、ユドグー=カーン、セトゥ=カーンの三人の誰かから選ぶべきだと全員が一致して結論した。
選ぶのは砂の民が信仰する神、ラーマ=ヤーマに仕える巫女だ。
神殿に住むこの巫女は齢数百と言われる老婆である。
族長位継承資格者は三日三晩禊をした後、神殿の審判の間に入り、老巫女が神より授かる神託を拝受するのである。そして、審判の間に入る日が今日であった。
普段どおり、穏やかな風貌にかすかな微笑を浮かべるマーダ=カーンと緊張に四肢を強張らせて居るユドグー=カーンとセトゥ=カーンの三人はカーン族の聖なる正装に着替え、神殿へと入って行った。
彼らが出てくるまで選ばれし百人の戦士が神殿の周りで篝火を絶やさぬよう見張る。
神殿に入っていく三人の男達の姿を、神殿の前の広場に集って新たな族長の誕生を待つ群衆達の間に佇みながら、アルンヘルは灰色の眼差しで眺めていた。
砂の民の民族衣装である長衣を纏ってはいるが、誰がどう見ても、彼は荒野の人間には見えないだろう。
「―――もし」
声を掛けられ、アルンヘルは鋭く表情を引き締めた。袖を引く者が居たのだ。
それはカーン族の老婆であった。
「私は忙しいので―――」
振り払おうとしたアルンヘルの袖を抑え、老婆が袖口から何かを覗かせた。
それを見た瞬間、アルンヘルの表情が変わる。それはフロレシア帝国の国旗《力強き銀獅子》を象った首飾りだった。
「そのままで」
老婆はそう言って、アルンヘルに前を向くよう促した。アルンヘルが従うと、彼女はアルンヘルの耳元にだけ届くよう調節された声で囁いた。
「陛下からの言伝です。《彼をカズリクの総督にするのはどう言う考えなんだい?それに、余は人質を要求した覚えは無いよ》」
「暁の者か?」
「はい」
「ならば陛下にこう伝えてください。《全ては我が掌中にあり。詳細は帰国した時に御報告申し上げる。人質に関しては陛下の御随意のままに。ただ、殺す事だけは無きよう。また帰すのであれば是非とも帝都の見物を》と」
「しかと承りました―――それとこれは老婆心ながら」
「なんです?」
「変装の基本は《顔》を変える事です。そして《顔》の基本は《眼》と《髪》です」
「…………」
「お耳を汚しました。お忘れくださいますよう」
「―――いや、忠告、ありがたく頂戴しておきましょう」
声が消えると同時に振り返ったが、既に老婆の姿は見えなかった。
もう群衆の中に溶け込んでしまったのだろう。恐るべき変装能力だ。
(もう一度隣に立たれても果たして気付けるかどうか………)
皇帝直属の諜報機関の恐ろしさに身震いを覚えながら、アルンヘルは神殿へと一瞥を送った。
既に神殿の戸は閉じられ、無論、三人の姿も見えない。
(余計な口を滑らせてくれたものだ………黙っていれば、死期を早める事も無かったろうに)
灰色の瞳を冷酷に細め、アルンヘルは歩き出した。彼の姿は、いつまでも群衆の中に溶け込む事は無かった。

神殿の中には、緑色の炎を吹き上げる灯明が等間隔で並んでいるだけで、窓も何も無く、薄暗い。
通路はただ真っ直ぐ伸びているだけであり、迷う心配はないのだが。
三人はその通路を進んで行く。
「誰が族長になるんだろうか」
沈黙に耐え切れず、最も最初に口を開いたのはユドグーだった。
「心配しなくても、ラーマ=ヤーマが最も相応しい人を選ぶさ」
セトゥはあっけらかんとした口調で言い切った。正論ではあるが、ユドグーの癇に障ったらしい。彼はやや眦を吊り上げ、弟を睨み据えた。実際には通路は薄暗く、弟の表情を読み取る事も出来なかったが。
「随分と自信があるみたいだな、セトゥ。お前はそんなに族長に相応しいのか?」
「は?何言ってるのさ。族長はマーダ兄だろ。なんで俺なのさ」
「…………」
まるっきりそう信じて疑っていないと言う口ぶりで、セトゥは言い放った。
ユドグーは返す言葉も無くマーダを振り返ったのみ。
マーダは淡い微笑を浮かべつつ、
「誰が族長になろうとも、他の二人は族長を支え、カーン族を守り立てなければならない事に変わりは無い」
「勿論。マーダ兄がなっても、ユドグー兄がなっても俺は従うさ」
「俺は………俺も従うさ………どっちがなってもな」
(だが、族長になるのは俺だ)
野心と言うには純粋すぎる情熱を瞳に宿し、ユドグーは歩を進め続けた。
程なくして、審判の間に到着する。
祭壇があり、その上には巨大な炎の鬣と赤銅色の肌をした上半身が逞しい男、下半身が雄々しい雄馬の姿をした神像が安置されていた。
祭壇の手前では緑色をした聖火が燃え盛り、部屋全体に熱気を放射している。
炎に向き直り、座している老婆がいた。紅白の巫女服にその小柄な身を包み、一心不乱に何事かを念じている。その身全体に蔓を複雑に絡ませ、頭には草の冠を載せている。
三人は巫女の背後に敷かれてある茣蓙に腰を下ろした。
「偉大なる戦士クシャス=カーンの遺児か………」
非常に聞き取り難いしわがれた声でぼそぼそとしゃべり、巫女が体全体で振り向いた。
「喋らずとも良いぞ。喋らずとも審判の結果には関わりのない事」
答えようとしたマーダの機先を制して、巫女はそう言った。
確かに老婆ではあるが、齢数百と言うのは疑わしい限りだ。最も、百は越えていそうだが。
老婆はそのままくるりと聖火に向き直り、いきなり深々と伏した。
セトゥとユドグーがちらりと視線を見交わせる。
(変な婆さんだな)
(変な婆さんだ)
口に出したわけではなく、心に思っただけだが、どうやら通じたらしい。
老巫女は聖火に向かって、何事かをぶつぶつと念じている。
「唯一無二にして至高至尊の我らが神ラーマ=ヤーマよ。今ここに汝に仕えんとする勇ましき戦士の若人が集った。かしこみて、お伺いを奉る。汝の一の戦士に、何者が相応しきや?」
まるで巫女の言葉に答えるかのように、緑色の炎が大きく揺れた。
緑色の炎が一瞬紅色に輝き、そして、炎が消えた。
同時に周りの燭台に灯った火も全てが一時に吹き消された。
審判の間に暗闇が訪れ、視界が黒く塗りつぶされた。
そんな暗闇の中、老巫女の声がおどろおどろしく響く。
その声はそれまでのしわがれた、聞き難い物ではなく、力強く、美しい男声だった。
「我は選ぶ。我に選ばれし者、一族を率いて我に仕えよ。汝らの勇猛なる命全ては神である我の為に捧げよ。さすれば汝らの念願、適えよう」
燭台に火が灯った。猛く雄々しく燃える真紅の炎。老巫女は緊張の面持ちでお告げを待つ三人を振り返った。
「お告げが下された。新たな族長として選ばれたのは………セトゥ=カーン。汝だ」
「………」
「セトゥがッ!?」
「お、俺!?」
マーダは驚きに目を瞠り、ユドグーは吼えるように叫び、セトゥは全く考えていなかった事だけにうろたえた様に声を張り上げた。
「神はそのように告げていらっしゃるのだ。覚悟を決めよ」
「は、はい………」
「しっかりやるんだぞ、セトゥ。ユドグー、我々はセトゥの兄として、支えてやらねばならない。異論は無いな?」
「あ、ああ………」
普段、茫洋として微笑を浮かべているマーダの言葉に、ユドグーはやや身を引きつつ頷いた。
マーダの視線はまるでユドグーの内心をも見透かしているかのようだった。
「族長になるに当り、なんぞ訊ねておきたい事は無いか?」
酷く聞き取り難いしわがれ声で、老婆が訊く。
「訊ねておきたい事って言われても………」
自分が族長になるだなどとこれっぽっちも考えていなかっただけに、族長になった後の考えなど勿論あるわけも無い。いきなり族長になるに当り、などと言われても困惑するばかりである。
「今最も切実している問題を解決する為にも、神のお告げを聞く必要があるのではないか?」
そんなセトゥの様子を見て、マーダが穏やかな口ぶりで助言する。
彼はセトゥが族長になった事に対し、全く何の痛痒も感じていないようだ。
「今最も切実して居る問題………だったら、巫女様、お訊ねしたい事があります」
「神の意思は我と共に在る。何でも訊くが良い」
「じゃあ、今後カーン族はどう進むべきなんでしょう?このまま、アルティス荒野で孤立してでも戦い続けるべきなのか、それともフロレシア帝国に一時的にしろ屈するべきであるのか」
「ふむ………確かにカーン族にとって、由々しき問題よの」
老婆はそう言うとゆっくりと瞼を閉じた。その呼気が、まるで眠っているかのような深く長い物に変化する。それはまるで、己の体内に宿る神と交信しているかのようだった。
緊張の面持ちで、セトゥが巫女を見つめているとややあってから巫女が眼を開いた。
「神も迷うておられる。神とは言うても全知全能であるわけではない。未来を見通すのは、人と同様、大変に難しい。しかし、神は御心を御決めになられた。神の祝福する民、カーン族の今後の道はフロレシア帝国と共にある」
「フロレシア帝国と共に………と言う事は、帝国に屈すると?」
「馬鹿な!断固戦うべきだ!それこそが、神の御意思に添う事ではないのか!」
「神は悪戯に祝福された民が死ぬのを偲び無いと考えておられるのじゃ。それとも汝、ユドグー=カーンは神の御意思に叛くと申すか?」
「ぐっ………」
主戦派の中心であったユドグーとしては、承服し兼ねる神意であったろう。しかし、神意には逆らえない。神に祝福された民であるからこそ、神威によって縛られているのだとも言える。
「帝国に膝を屈するのだとすれば、人質を差し出す必要があります。誰を人質として送ればカーン族にとって最も易を齎すでしょう?」
「セトゥ。そのような事で神の御助けを求めるのは………」
マーダが制止しようとするが、セトゥは首を左右に振った。
「俺はこう言う性格さ。戦はともかく、政には向いていない。そんな俺を族長に選んだのであれば、このぐらいの質問にも答えて下さるはずだ」
「しかし―――」
「構わぬ、マーダ=カーン」
巫女の言葉に、マーダは瞳を伏せた。
「はっ」
「セトゥ=カーンよ。フロレシア帝国への人質には汝自らが出向くべし」
「馬鹿なッ!!族長自らが人質だなどと聞いた事もないぞ!人質ならば俺かマーダ兄が出向けばそれで良い筈だ!族長自ら出向くなど屈辱以外の何物でもない!」
「何故、セトゥ自身が出向かねばならぬのか………それは族長自らが考えよ、との神の仰せじゃ」
「くっ………」
「審判は終わった。ユドグー、帰ろう」
納得できないものの、ユドグーはマーダに肩を叩かれて立ち上がった。
納得できていないのは、セトゥ自身もそうであった。彼も納得しきれていない表情で、立ち上がった。

神殿の外で待ちうけていた民衆達の前に、神殿から出てきた三人の中からセトゥが一歩前へ出た。
民衆達がざわめく。新たな族長がセトゥである事に対する民衆の正直な感想だ。まだ二十歳になったばかりの青年であったからだ。しかも、上にはそれなりに経験を積んだ兄が二人も居る。
前へと進み出たセトゥは若々しい頬を朱に染めて、ラーマ=ヤーマに選ばれた事を告げた。
「偉大なる戦士クシャス=カーンを失い、カーン族の求心力は衰えている。既に他の三氏族は相次いでフロレシア帝国の軍門に馬を繋ぎ、我がカーン族は孤立している」
民衆達は新たな族長となった青年の言葉に、耳を傾け、真剣な表情で聞き入っている。
次のセトゥの発言が、今後のカーン族の方針を決する歴史的な物となる事を彼ら自身わかっているのだ。
セトゥは民衆達を見回し、乾いた唇を舌で湿らして口を開いた。
「我らは古来鉄の結束を以って中原に起つ勢力と肩を並べてきた。その結束が敗れた以上、敵と互角に渡り合う事は不可能である。しかし、我々は誇り高きカーン族である。神に祝福されし民として軍門に馬を繋ぎ、属国となり果てるのは先祖へも申し開きが出来ない。よって、新たなる族長セトゥ=カーンがラーマ=ヤーマの御名の下に宣誓する。カーン族は誇りを失う事無く、帝国と和議を談じ、二百数十年の長きに亘った戦乱を終わらせる物である。カーン族は帝国の属領に非ず!よって、帝国のいかなる行政官をもカーン族の勢威内には立ち入らせない物とする。これは巫女より伝えられし、ラーマ=ヤーマの神意である。戦士達よ。腕を磨き、心を磨き、時節の到来を待つんだ。この和議が我らが宿願中原進出の終着点ではない。ただの通過点に過ぎない。薪の上に臥せ、肝を嘗めてでも来るべき時を待つんだ」
セトゥの言葉が終わった時、民衆達は様々な反応を以ってこれに応えた。
目を瞑り瞑目して居る者。隣の者と話し合う者。激昂したように顔を赤くして反対と叫ぶ者。
しかし、これは神の意思である。
彼らが信じ、彼らに祝福を齎してくれる神、ラーマ=ヤーマの意思は絶対だ。
人々は徐々にその場に跪き、神殿を拝礼した。次々に人々は地に膝を付き、神殿を伏し拝む。
涙を流している者すら居た。二百数十年間、彼らは誇りと鉄の結束を以って、フロレシア帝国に対し、何度も辛酸を舐めさせて来た。
それが僅か一週間で瓦解してしまった。しかも、カーン族の偉大なる長クシャス=カーンの乱心がその端緒となったのだ。それを思い、先祖への申し訳が立たないと彼らは涙を流しているのだ。
しかし、若者達の中には既に何事かの決意を固めている者も居た。
セトゥの言葉どおり、カーン族の戦士としての誇りを失わず、腕を磨き、心を磨き、いつの日にか再び中原をめがけて大軍を興す時の事を考えているのだろう。
その後、一族の主だった者を集めた会議を開き、和議の使者として族長自らが出向く事を決した。

2 和議の使者
帝国暦三三三年八月二十日。
帝都ルーガの朱雀門を通り抜ける褐色の肌をした集団があった。服を着ず、刺青をその身に施している者も多い。ルーガの民衆達は口をあんぐりと開けて、この異様な風体の一団を見送った。白鎧に身を包んだ近衛騎士が警護―――と言うよりは多分に監視がその主たる任務だろう―――に任じられているようで四騎が馬上で揺られている。だが、ルーガの人々が驚いているのは近衛騎士を見たからではない。近衛騎士に続いて、入って来た集団に対しての驚きだ。馬の数倍は優にあろうかと言う巨大な体躯を持つ象に跨った褐色の肌の者達だ。ルーガの人々の中には、象と言う動物を話には聞いていても、実際には見た事が無いと言う者も多い。巨大な体躯に大きな耳、そして何よりも長大な鼻。まさに見る者を圧倒する巨躯だ。その者達はその身に刺青を施していた。色鮮やかな刺青だ。中でも特に立派なのは、近衛騎士のすぐ後ろを進む青年だった。そもそも、彼が乗って居る象からして他の象とは違った。大きさに差があるわけではないのだが、他の象が灰色であるのに対し、この象だけ白象であった。そして、首には鮮やかな真紅の首飾りを付けて居る。象は誇らしげに鼻を掲げ、悠然たる様子で進んで行く。その白象に跨る青年はその身に獅子の刺青を彫っていた。青年は永遠の都ルーガの威容に気圧されない為に、傲然と胸を逸らして進んでいたが、彼の随員達はアルティス荒野の荒廃したオアシスとは明らかに異なるこの文明国の帝都の威容にきょろきょろと首を巡らせては眩暈を覚えたかのように俯いたりしていた。
ルーガの人々は、今日カーン族の使者が訪れる事も教えられていなかった。だから、この白象に跨る青年が蛮族の族長である事も無論、知らなかった。ただ彼が中原の人間ではなく、蛮族と呼ばれる南の荒野の人間である事はわかったのだろう。最初は唖然としていた人々の目に、敵意にも似た輝きが宿る。中には野次を飛ばす者も居る。近衛騎士達はそんな民衆を止めようとはしない。民衆のこう言った行動も計算ずくなのだ。カーン族の使者に対しての無言の恫喝と言う意味を込めているのだ。しかし、実際に民衆が使者に無礼を働くのはまずいので、民衆の間にはちらほらと緑色の軍服姿が見える。帝都防衛隊の隊士だ。城前広場には近衛騎士が百名整列し、近衛騎士団長のアミリア=ホーン中将が待ち構えていた。彼女が皇帝から使者の出迎えを命じられたのだ。宰相オルンヘル=クリケットはこの蛮族に対し、自らが迎えに行くと言いだした皇帝ラインハルトを諌め、迎えには帝国府の高級官僚を送れば良いと説いたが、皇帝は承服しなかった。それでは余りに使節に対し礼儀を失した行為であると難じたのだ。何しろ相手は蛮族とは言え、その族長が自ら出向いているのである。しかもカーン族と言えば砂の民でも中心的な氏族であり、既にフロレシア帝国に屈した他の三氏族にとってもその動向は決して無視できる物ではない。ここでラインハルトが余りにも傲岸不遜に扱い、カーン族の青年族長を怒らせてしまえば、他の三氏族の間にも動揺が広がる可能性がある。その結果、再び帝国の傘下を脱し、砂の民が鉄の結束を取り戻してしまえばアルンヘルの工作は水の泡になってしまう。しかしそれでも砂の民は帝国と同等の国家ではないと言うのが帝国臣民の共通した考えなのだから、皇帝自らが出迎えに出る事もならない。ならば皇帝代理として、近衛騎士団長を派する事に決したのだ。セトゥは出迎えの面々の前で、白象を降りた。白鎧の胸の部分に《力強き銀獅子》を彫り込んだアミリア=ホーンは胸に手を当て、頭を下げる。
「出迎え、感謝いたします」
がちがちに緊張していながら、セトゥは落ち着いて返し、己も頭を下げた。
頭を上げたアミリアは事務的な口調で、告げた。その銀の瞳は冴え渡る月のように冷たい光を宿して居る。一切の交流を拒絶する冷厳な雰囲気をその身からふんだんに発散していた。
「謁見の間にて、陛下がお待ちです」
「はい」
「御案内致します」
「御願いします」
百名の近衛騎士が周辺を取り囲む中、一行の姿はルーガ城の中へと吸い込まれて行った。謁見の間に通されたのは、セトゥのみだった。供の者は待合室にて待つ事とされた。謁見の間はきらびやかな装飾が施され、三百人以上の近衛騎士が左右に居並んでいた。しかし、彼らが腰に携えて居る剣は実戦用の物では無く、儀礼用の銀剣だった。玉座には皇帝ラインハルト=シーザーが座していた。明り取りの窓から差し込む陽の光を浴びて、彼の金髪は壁に掛けられた宝剣以上に燦然と輝いている。その蒼い瞳は真っ直ぐ、セトゥの顔を射ているが、威圧するような視線ではなく、包み込むような穏やかな視線であった。荒野では決して見る事の出来ない白磁の如き滑らかなる肌。纏っている皇帝正装も実に荘重で煌びやかな物だった。頭上には多数の宝玉が埋め込まれた宝冠を重そうに被っている。皇帝の左右に宰相オルンヘル=クリケット伯爵、軍令部総長ハーン=ハーベスト元帥ら文武の最高官が居並び、セトゥに無言の圧力を掛けているのだった。セトゥが下座で膝を付くと、皇帝が声を掛けた。
「もっと楽にしてくれて構わないよ」
「はっ」
「旧来の敵対関係を解消したいと言う貴殿の言状は拝見した。余としても戦は望むところではない」
「では、和議を」
「但し、砂の民の心を疑う者がこの国に多いのも事実。セトゥ殿には誠意を見せていただきたい」
「誠意………と申しますと?」
「どなたか、カーン族にとって枢要な地位にある人物に帝都ルーガに住んでいただきたい。その人物にはカーン族の大使も兼ねていただく。無論、住居等は当方で十分に配慮する」
「要するに人質と言う事ですか?」
セトゥの率直な物言いに、宰相がかすかに眉根を寄せる。
しかし、皇帝自身はさして気分を害した様子も無い。
「承服して下さらないか?」
「―――承服します。人質には俺自身がなります」
「族長自ら?確かにそれ以上の手は無いだろうけれど、御国の方はどうなされる?」
「兄が二人居ます。どっちにしろ、俺は政治はできない」
「なるほど。ならば何も言う必要は無い。慣れるまでいろいろと難儀な事が多いと思う。こちらからも世話人を出そう。困った事があればなんでもその者に申してくれて構わない。それが余と貴殿の友好の証であり、我が帝国の誠意である」
「御配慮、御礼申し上げます」
「うん。宰相、彼を案内申し上げるように」
「はっ」
それで、謁見は終わった。和議は成り、カーン族は客観的に見ればフロレシアに屈したのだった。

セトゥに与えられた家は帝国府から歩いて十五分ほどの場所にあった。二階建ての建物で、一階は周辺に分散して家を与えられたセトゥの従者達の詰め所とされた。帝国府から派遣された世話人は女性だった。年齢で言えばセトゥより幾つか上と言うぐらいだろうが、非常に落ち着いた物腰の女性だった。
アルティスには無かった椅子と言う物に、セトゥは戸惑ったが、その女性は別にそれを笑う事も無く、茣蓙を出してくれた。
「名は何と言う?」
「はい。サリア=イミュシュティと申します」
「サリアか………珍しい名だな」
「そう言って頂けるのは始めてです」
やや頬を染めて言うセトゥに、サリアは微笑して答えた。
サリアと言う名前はフロレシアにおいては別に珍しくも無いありふれた名だ。
「お茶をお淹れしましょうか?」
「お茶?」
「飲み物です。美味しいですよ」
「そうか………では頼む」
「はい」
頷いて、サリアは台所に立った。いきなり抹茶は飲めないだろうと言う配慮から緑茶にした。
お盆に載せ、茶菓子を添えて出すとセトゥは緊張した顔付きで、茶を見つめていたが、手を出そうとはしなかった。
「失礼しました。毒見ですね。それでは少し失礼して」
そう言って、サリアは茶を一口含み、微笑した。
セトゥは耳まで真っ赤になりつつ、
「あ、いや、これはこちらこそ失礼した。毒を恐れて手を出さなかったわけではない。その………少々色に驚いたのだ」
「あぁ、なるほど。これは出過ぎた真似をいたしました」
「いや、ありがとう」
セトゥは茶を取り、大きく一口含んだ。眼を白黒させる。サリアはやや不安になりつつ、
「お口に合いませんでしたか?」
ごくん、とセトゥの喉仏が上下に動いた。サリアは緊張して、彼の言葉を待つ。
「………美味い」
やがてセトゥが吐き出した言葉に、サリアが花開いたかのように笑った。
「そう言って頂けると嬉しいです」
「ああ。本当に美味いな、これは」
二口目はリラックスした様子で、口に含むセトゥであった。

「ハーン族、クリル族、タタル族に続き、砂の民最大のカーン族までもがフロレシアに降った。次はいよいよカズリクかい、アルンヘル?」
皇帝執務室において、皇帝ラインハルトはその直参幕僚アルンヘル=へード大佐を引見していた。アルンヘルはハーン族の族長を言葉巧みに誘い、砂の民の結束の柱であったカーン族の族長クシャス=カーンを討った。クリル族やタタル族の族長を殺したのはそのついでのような物に過ぎない。クシャス=カーンを失った砂の民の結束は脆くも崩れ去った。砂の民第二の勢力を持つハーン族がいち早くフロレシアに降ったがために、同氏の動向を見守っていたクリル族、タタル族の両弱小氏族もフロレシアに降った。その結果孤立したカーン族が交戦と屈服のいずれを選ぶかと言うのは多分に賭けの要素を持っていた。最も、交戦を選んだとしてもカーン族だけではフロレシアと互角に戦うのは不可能だ。結局は屈服せざるを得ないだろうとはアルンヘルも考えていた。そうなったらなったで、適当に資金や武器を援助して三氏族にカーン族を討たせる事を考えていたのだ。共倒れになれば帝国は漁夫の利を得る事になる。
「ただし、カズリクは長らく会合衆の下に独立して来たが為に、簡単に帝国に屈するとは思えません」
「ではどうするんだい?」
「力で言う事を聞かせます」
アルンヘルの言葉に、ラインハルトは顔をしかめた。
「無理やり言う事を聞かせると言う事?でも、それだとそれこそ会合衆は態度を硬化させるんじゃないの?例え、一時的には軍で圧倒できたとしても、火種が残って居る限り、安心は出来ない」
「はい。反乱が起きるでしょう」
アルンヘルの工作はいつも一定のパターンを持って居る。
相手に先に撃たせ、返り討ちにする。一見、皇帝側は被害者のように見え、正統性があるかのように思えると言う訳である。ラインハルトはそう思ったからこそ、次の台詞を言う事ができたのである。
「反乱を起こさせる気だね?」
「はい。カズリクの総督が真っ先に狙われる事になるでしょう。果たして、カラキシスから傭兵軍団が援軍として駆けつけるまでに総督府が保つかどうか………」
「………なるほど、その為にあの言質を彼に与えたわけだね?」
「言質だけではなく、彼には実際に総督になって貰わなければ困ります」
ラインハルト個人としては、そう言った謀略を好まない。しかし、彼が皇帝と言う存在である以上、己の好みだけで政略を決められるわけではない。従来の慣習を守るだけの皇帝ならばまだしも、彼は違う。
彼は祖帝フェルモア=シーザーの偉業に倣い、覇皇と為る事を誓っているのだから。陽の部分だけを採る様な施政ではそのような偉業を成し遂げる事は出来ない。しかし、皇帝と言う存在が多分に象徴的な意味合いを持つ物である以上、余りにも闇に手を染めるのは好ましくない。
その為に、アルンヘルが皇帝の闇の部分を司って居るのだ。
それを理解しているが為に、ラインハルトはアルンヘルの考えについて何の文句も付けなかった。
「軍令部からは既にカズリクへの進駐を想定した部隊の編成案が送られてきてるよ」
「進駐後、軍団を新設………司令官には第四軍団の師団長の中から適任と思われる人物をこれに充てる。新軍団はカズリクで徴兵・編成する一個師団及び、第四軍から引き抜いた一個師団を以って発足し、徐々に整備し、いずれ第四軍隷下の師団は本国に引き上げる………と」
「進駐にはカラキシスに駐屯する部隊及び蛮族の兵を用いる。総督府を置いた後に第七軍を新設すると言う段取りだね。傭兵軍団及び四氏族のそれぞれ一部から成る進駐軍が引き上げた直後に残る兵力は二万。しかも、その内一万は現地軍。これをどう思う?」
「土壌としては最適………ですね」
「軍令部でも同じ事を考えて居るのか―――」
「それとも只純粋に兵力が少ないのか………」
ラインハルトとアルンヘルは顔を見合わせ、この偶然の裏にある物を読み取ろうとするのであった。
「それで?反乱を起こさせる。それを第七軍と傭兵軍団、或いはオルドスに駐屯中の第二軍団隷下の師団………まぁ、反乱の時期が遅れれば第二軍は帰還し、第四軍がこれに代わっているかも知れないけれど、それらの兵力を用いて反乱を鎮圧した後は、どうするんだい?」
「陛下御自らにカズリクへの行幸を給い、会合衆をして帝国への忠誠を誓わしめ、皇帝陛下の権威の下、華々しく新総督の就任式を執り行うと言う筋書きです」
「なるほど。余はね。海を見た事がないんだ」
「カズリクから見る海は実に美しいと評判です。沖合いに浮かぶコルシカ島や外海からカズリクを守るカルア半島の働きによって波は静か。吹く風は暖かく、住人の気性も非常におおらかだと申します」
アルンヘルの説明に、皇帝はまだ見ぬ南海の地の様を夢想して、頷いた。
「それは楽しみだね、是非シエナも連れて行きたいな」

しかし、現実的に考えれば只単なる兵力不足であると言う結論に達する。スタルナス帝国とは不戦条約を結んだとは言っても油断できる物ではなく、第六軍から師団を引き抜く事は難しい。それに比べれば、第四軍もパルディア王国に隣接して居るとは言え、最大の脅威と考えていたルーナ帝国の死兵師団とミト=ヴァレンツェは本国に帰還しているので脅威は然程無い。第五軍・第三軍には今のところ切迫した軍事事情は無いものの、外交事情から考えれば無闇に部隊を動かすのは好ましくない。両軍団にはドルク王国、ロデン教法皇庁、華中大帝国を牽制すると言う任務がある。それに地理的に考えても、両軍団の軍管区からカズリクは遠すぎ、新軍団の経営が軌道に乗るまでの期間―――少なくとも数個師団を新設し、十分に訓練するための期間として一年、長ければ数年―――遠征し続けるのは将兵の疲労と士気の衰えを考えればやはり不可能だろう。砂の民の四氏族が相次いで降って来た為に―――カーン族だけは和睦だが、多くの帝国民はこれを事実上の降伏とみなしている―――アルティス荒野遠征計画は頓挫してしまった。しかし、軍令部はアルティス荒野遠征作戦から一足飛びにカズリク進駐の計画を練る段階へと進んだのだ。しかし、カズリクに対し、帝国にその施政権を割譲するように求めるのは外交権を持つ帝国府の仕事であり、軍令部の出番はその交渉においてカズリクが頷かず、帝国への従属を拒否した場合に起こる。つまりは武力による進駐、そして軍政の施行だ。軍令部ではこの武力進駐に際し、先のカラキシス戦において疲労した第四軍の中から比較的損耗の少なかった一個師団を抽出し、これを核に現在カラキシスに駐屯しているニカルド=ベグアス中将の傭兵軍団から一個師団、さらには帝国に降った四氏族の兵を編成し、この作戦に当てようと考えている。が、未だに作戦案を構築して居る段階であり、実際に軍を指揮する司令官の人選などはその上級指揮官であるコーデル=ハム大将やニカルド=ベグアス中将にも指示されていない。だが、素案の段階であり、これから議会を通過させねば正式な作戦として実施されるわけではないのだが、現段階で考えられて居る兵力はおよそ六万余となる。これに対し、軍令部の情報部が掴んで居るカズリクの武力はさしたる物ではない。自警団が一万余、これがカズリクの陸の軍事力である。海上騎士団が千余、軍艦三隻、これが港湾都市カズリクの海の軍事力である。自警団はあくまでも自警組織に過ぎず、商館主である会合衆達の私兵的存在に過ぎず、その武装も訓練度も帝国軍の敵ではない。そのような相手に対し、六万余の兵力を動員すると言うのは多分に多過ぎると言う見方もあるが、この案を起草した軍令部の作戦部中佐は、その理由をこう述べている。
『この動員兵力には示威的意味も兼ね備えている。旧来の陋習に固執する会合衆も、これだけの大軍を目にすれば怖気づき、即刻開城するであろう』、と。港を得る事で、貿易を振興し、慢性的な予算不足を一気に解消しようと言うのが軍令部と財務省の積極論者の考えである。財務省の消極論者―――財務尚書含む―――は軍縮を以って現在の財政難を解決しようとする者達―――収入を増やすよりも支出を減らすと言う考えの者達―――も居る事は居り、かつては軍令部のアルティス荒野侵攻計画を却下するほどの発言力を持っていたのだが、砂の民の結束が瓦解し、アルティス荒野が一挙に帝国の手中に帰した後は、その発言力は弱まっていた。アルンヘルが献策し、ラインハルトが取り上げた帝国の南進政策がその終着点を目指し、ラストスパートを掛け始めたのだった。

3 野獣皇太子
帝国暦三三三年九月二日。
この日、スタルナス帝国西方の群小国家群にとって驚天動地の出来事が起こった。
国境を破り、スタルナス帝国の《黒十字の紋章》の旗を翻した大軍が怒涛の如く押し寄せてきたのだ。
この群小国家群とは、スタルナス帝国やフロレシア帝国とは比べ物にならぬほどの小国で、その規模は都市国家と呼称される程度の物でしかない。人口は多くても数十万、少ないところではほんの数万人しかいない国もある。西方群小国家群は標高2000m急の山々が連なるタイーサ山脈によって複雑に谷間や盆地が入り乱れるウィザ地方に点在している。何処へ行くにも高峻な山を越えなければならないため、人々の移動は妨げられ、故に統一国家が形成される事も無かった。この点、その国土の大半を平原が占めるスタルナス帝国やフロレシア帝国とは大きく異なる。山岳地帯故に大規模な統一国家が出来ず、緩やかな連邦制をとって居るルシタニア連合王国とは通じる部分も多いと言える。
そのウィザ地方の山や谷を覆い尽くすような勢いで、スタルナス帝国軍が押し寄せてきたのである。
これには都市国家の王達も驚かざるを得ない。それまでの歴史において、彼らが征服されたのはフェルモア=シーザーによってのみであり、それも彼の覇業の最終局面において、であった。
それまで放置されていた原因としては簡単に二つを挙げる事ができる。
一つ目は、山間部であり標高も高いため、土地は痩せており、農作物が育たないと言う事だ。
国に豊かな実りを与えてくれるような土地ではなかったと言う事。
二つ目は、各地の豪族達が互いに争い、その地理学的特徴から統一的な勢力が生まれる事も無く、フロレシア帝国やスタルナス帝国にとって脅威と成りうるような強大な勢力が誕生することが無かったからである。国境を突破したスタルナス帝国は小さな谷間の集落を制圧し、ここに陣を敷いていた。
既に軍勢を幾つかに分けて、各地に派遣している。都市国家の兵力は数百から多くても数千であるが、各軍にはそれらを十分圧倒できるだけの兵力が与えられている。
三日後の九月五日。谷間の本営にあって、遠征軍総司令長官オルテガ皇太子は何人かの幕僚と地図を検討していた。
本営の中にはオルテガが登用した人材の内、二人が居た。
白皙の美貌を持つ将ウィール=フォン=フリードリッヒ。二十六歳。
黒曜の美貌を持つ軍師ベルデ=グラガンモア。二十七歳。
この二人に現在、前線で指揮を執って居るケレース=マッカランなどがオルテガの手元にある人材の逸材だ。他にもオルテガの下には多数の有能な人材が集っているが、それらはそれぞれの任地においてそれぞれの任務に従事している。いざと言うときにはオルテガに呼応する事を内心に秘めて。
「マッカランはこちらの予想を大きく裏切ってくれる」
嬉しそうに眼を細め、ウィールが手元に届いた報告の内容を地図に書き込んでいく。
報告は正確に三時間ごとに届く。三時間前の前線と現在の前線では現在の方が谷三つほど進んでいた。
遠征軍の総軍は十万余。これは五万余りを削減して総兵力四十五万となったスタルナス帝国にとっては非常に大きな兵力だ。四至集団と中央集団各五万から成る中央軍二十五万、北方東方南方西方の各方面軍二十万と言うのがその兵力の内訳であり、十万と言うのはそれらから引き抜ける兵としては最大の物であった。ケレース=マッカランはこの十万余の内二万五千余りを率いて、ひたすら海を目指して西進している。ケレース=マッカランの通った後にはもはやスタルナス帝国に抵抗できる勢力は残されて居ない。
何故ならば、ケレース=マッカランの獰猛な作戦指揮と迅速な用兵、果敢な攻撃によって敵は山岳部に逃れる暇すらなく壊滅するからだ。しかし、ケレース=マッカランの部隊は点を攻め落として居るだけに過ぎず、点と点を結び線と成す事はできても、面となる事は無い。
戦果拡大と言うその役目を負って居るのは第二陣以下の諸部隊だ。これらの部隊はおよそ一万余り。
既に粉砕された都市国家に入り、軍政を敷き、逃れた敵が体勢を整えようとする前にこれを探し出して撃滅すると言う地味な任務を負う。この長方形の面の確保を完全な物とするために、左翼と右翼にはそれぞれ一万五千の部隊を出して、ケレースの通り道には当らない諸都市国家の軍を牽制して居る。
残る三万五千の内、二万五千はオルテガとウィールが指揮し、予備軍として控え、残る一万は輜重部隊の護衛を務めて居る。兵力に劣る群小国家群にとってはもはや手も足も出ないような完璧な布陣である。
直接の順路に当って居る国にとってはもはや降伏か戦いかの選択肢すらない。
戦う事すら出来ずに、ただ滅ぼされていくのみ。順路に当らない国だけが選択の自由を与えられている。
だが、その選択は二択でしかない。即ち、従属か死か。
最もそれでも、選択すら出来ない者達に比べれば遥かにマシな物だろう。
「開戦して三日で百二十キロメートルの前進か」
オルテガも満足げに地図に見入って居る。
「帝国西方国境より、海岸まではおよそ四百キロメートル。後一週間もあれば事はなりましょう」
「いや、閣下。例の物が発見されれば進軍はさらに容易になりましょう」
ベルデがその黒曜と称される美貌に妖しい微笑を浮かべて言う。彼は主に二つの才によって、オルテガの傍近く仕える軍師となる事を許されている。その第一の能力はその諜報能力にある。彼は虫使いであった。虫と意識を疎通し、これを使役する。虫はその種類によって様々な能力を有し、中には一日に数百キロメートルも飛ぶ事が可能な物もある。その諜報能力を活かし、情報を集め、分析し、作戦を立案する能力だ。もう一つは彼の卓抜した古代に関する知識だ。フェルモア=シーザーがこの大陸を統一するよりも遥かに時を遡る古代にこの大陸に栄えていた文明。今では発見する事さえ出来ない精霊を捕らえ、精霊具に封じ、道具として使っていた罪深き民。機械と呼ばれる物を持ち、ひとたび戦争が起これば今の戦争とは比較にならぬほどの犠牲が出たと言う。最もそう言った知識ですら今では失われてしまっている。古代文明と言えば、精々が『精霊具を作った文明』と言う程度の認識でしかない。
「しかし、それはかの文明の一面をも示しては居ない。かの文明は華中大帝国など足元に及びもしない科学技術を誇り、神にすら近づき、それが故に滅び去った種族なのだ」
これはかつてベルデが漏らした言葉である。ウィールは白皙の美貌と宮廷の貴族女性を魅了する顔に不快感を漂わせつつ、ベルデを見た。彼は己の美に自信を持っており、さらにそれを磨くために己なりの美学を持っている。彼にとってベルデは己の美に並び立つほどの相手であり、同時に自分の美学に反する破壊者でもあるのだ。まさに彼にとっては許すべからざる存在であり、天敵とも言える物であった。
彼は軍服のポケットに手を突っ込み、中から取り出した物を口に含んで噛み砕いた。
ベルデがさして興味もなさそうな目付きでこれを見る。
「閣下はいつもそうやって、何を食べておられるのです?」
「煎り豆だ。体に良いし、美味だ」
ウィールはポケットから煎り豆を二、三粒取り出し、掌に載せてベルデに見せる。
「卿も食すか?」
「いえ、御遠慮申し上げます。閣下はいつもポケットにそれを?」
「いかにも。これが無ければ始まらない。煎り豆と酒さえあれば私は何日でも戦える」
「はっはっは。ベルデ、ウィールの煎り豆好きは宮殿でも有名だぞ?貴婦人達は争うようにして煎り豆を送って居るぐらいだ」
「しかし、煎り豆の真髄はその煎り具合にある。なかなか私が満足できるだけの煎り豆は無い」
ウィールは目元にかすかな微笑を浮かべて首を振る。今の所、彼が満足できる煎り豆は母が煎った物か、もしくは自分自身で煎った物だけだ。彼の心を射止めたいと願う女性達はまず、豆の煎り方から学ぶのである。彼は掌の上の煎り豆を口の中に放り込むと、一瞬地図に視線をやり、ベルデに顔を向けた。
「しかし、本当に埋まって居るのか?この西方の辺境に。そのような古代の兵器が?」
「ありますとも。我が一族は古代の科学者の家系。兵器の動かし方からその製造工場の位置まで全てではないにしろ伝承が残されて居ます。細部は断定できないにしろ、私の部下が探しています」
「ふん。虫人か………科学の力で虫を操っているのか?」
「元はと言えばそうです。遺伝子と呼ばれる物を組み替えたとあります。遺伝子と言う物が何をさして居るのかはわかりませんでしたが。一種の洗脳のような物かと」
「どちらにしろ、我が軍に負けはない」
口を挟んだのは総帥のオルテガだ。獅子を思わせる彼の声に、二人ともが押し黙る。
彼は地図の上に悠然と身を乗り出した。まるで西方辺境の全てを見下すかのように。
「古代の兵器が手に入る事に越した事はないが、手に入らずとも七日後には我らが帝国の領土は海に面しているのだからな。今のケレースを止められる者は居るまい。精霊具を持つに非ず、彼の者こそ精霊具―――その身に精霊を宿した超人なのだからな」
「しかし、もうすぐマッカランの軍はこの谷に達します」
そう言ってウィールは地図の一点を示した。現段階での前線より谷三つほどの距離にある。
「ルビーザ?聞いた事の無い名だな」
「たかが小都市国家。恐れるには値しません」
「ならば何故わざわざ?」
「彼らの気質は勇敢にして粘り強く、一度山に篭ればこちらの兵站線を脅かし続ける存在となります。帝国領土が海岸に達し、フェニキア自由都市連合との交易を始めても、港から本国に物資を輸送する過程で彼らに襲われればこれを護衛するために多くの兵を必要とし、交易の採算性は悪くなります。たかが一小部族と言えどこれの活動を野放しにすれば他の小都市国家も帝国に離反するやもしれません」
「ならばどうする?いずれにせよ、ケレースに続く第二軍がこれを撃滅すれば良いのではないか?今までと同じように」
「これまでのようにはいかないでしょう。今までの都市国家のように周章狼狽するような民ではありません。いわば、根っからの戦闘種族。マッカランの軍が通過し、第二軍が到達するまでの僅かな間にでも体勢を立て直しかねません。ならばマッカランの軍が完膚なきまでに叩くしかありますまい」
「そのようにマッカラン閣下に訓令なさるのならば、我が虫をお貸ししましょう」
「ふん。遺憾ながら伝令では足が遅い。借り受けよう。殿下、それでよろしいですか?」
「ルビーザ殲滅のために多くの時間を掛けるのは不満ではあるが、ウィールがそこまで危険視する相手であれば仕方あるまい。ベルデ、虫ならばマッカランまでどれほどで飛べる?」
「準備も計算に入れて、二時間もあれば足りましょう」
「なら、すぐに手配しろ」
「はい」

二時間後、ひた走りに山岳部を越えて猛進撃していたケレース=マッカランの元に虫が降りたった。
その位置はルビーザの谷と山一つを隔てた谷だ。既に地元の部族は追い散らされ、集落には火が掛けられている。山に逃れようとした敵を現在二千人ほどが包囲し、皆殺しにしようとしていた。
そんなところへ降りたった虫は全長三mはあろうかと言う大型の蝿だ。虫人と言われるベルデの部下が、その虫の背から飛び降りる。彼が着ている甲冑もまた普通の物ではなく、大型の昆虫の硬化した皮膚を削り取った物だ。それはまるで骨格のような複雑な紋様を持っており、一見すると実に不気味な代物だ。
ケレース=マッカランを一言で形容するならば最も最適なのは闘牛だろう。
闘志を剥き出しにしての突進によって敵を粉砕することしか考えない。
それだけに軍部での出世競争に敗れ、閑職でその闘志を無駄に浪費せざるを得ない日々を送っていた。
そんな彼をオルテガは発見し、力を求める彼にオルテガはベルデの秘術を施させた。
かつて古代文明が道具に精霊を封じ込めた技術の応用として、人体に直接精霊を封じ込める秘術。
ケレースはその右腕に精霊を封じ込めていた。彼の右腕には精霊を封じ込めておく為の複雑な呪印が刺青のように彫られて居る。
彼は戦闘と言うよりは屠殺に近い虐殺を行わせている一軍の将とは思えぬ普段どおりの様子であった。
左腕に巨大な瓢箪を持ち、ぐびぐびと喉に流し込んで居る。その牛のような顔は赤く染まり、吐く息も酒臭い。常に酔っ払って居るような彼はその濁った目で、伝令の虫人を見た。
「用は何だ?早く言え」
「はっ。この先、次の攻略目標となるルビーザに限り、今までとは方針を変更するとのオルテガ殿下の御命令でございます」
「方針変更?どういう事だ?」
「今まで以上に丹念に、一人も残さず殲滅せよとの御命令です」
「殲滅………」
ケレースはかすかに眉間に皺を寄せた。
彼が得意とするのは、粉砕であり、殲滅と言うのは粉砕した後の破片一つ一つを確実に探し出し、潰すと言う地味な作業だ。抵抗力を失った相手を追い詰め、殺す。
現在、眼前で行われて居る屠殺以上に、兵の士気を減衰させる行為である事は間違いない。
「それは第二軍の仕事であろうが。その計画、貴様の飼い主が立案した物ではあるまいな?」
ケレースの眼差しに嫌悪感と敵愾心が浮かぶ。彼はウィール以上に、ベルデの事を嫌って居る。
最もその理由はウィール以上に単純であり、ベルデが前線に出て、己の身を粉にして戦わないからだ。
戦いもしない相手に顎で扱き使われる事が、ケレースは我慢ならない。
「違います。この作戦を立案なされたのはウィール=フォン=フリードリッヒ閣下です」
虫人の言葉に、ケレースが落ち着きを取り戻す。
「ウィールの立案ならば従おう。奴の事だ。俺にはわからない小難しい事を考えての結果だろう。俺にとっては煩わしい仕事だが、丹念に潰すとする。進撃速度は当然遅くなるが、殿下は何か仰っておられたか?」
「特には」
「ふん。ならばすぐに部隊移動に取り掛かるとしよう」

この時期、動いていたのはスタルナス帝国だけではなかった。新興国として勢いも盛んなルーナ帝国である。女将軍ミト=ヴァレンツェ率いる死兵師団をパルディア王国から内地に帰還させていたカール三世はこの時期、その帝都にある宮殿にミトを呼び、今後の彼女と彼女の師団に任務を与えていた。
「西進せよ。我が威武に服さぬ者は殺せ。フロレシア帝国とスタルナス帝国に後れを取るな」
「必ずや陛下の御期待に添います」
胸元を大きく寛げた甲冑姿で、ミトは妖艶に笑った。

帝都ルーガにある軍病院。
その廊下を颯爽と歩く白鎧姿の武人が居た。左胸の部分に《力強き銀獅子》を彫り込んだその甲冑はこの帝都では知らない者とてない、近衛騎士団の正式軍装だ。その武人がとある一室の前で足を止めた。一瞬の躊躇いの後に、扉を開けて、中に入る。廊下に灯されている蝋燭の明かりに、武人の亜麻色の髪がかすかに輝く。武人は近衛騎士団長のアミリア=ホーン中将であった。病室の中は明かりも消され、薄暗かった。既に正規の面会時間は終わっている。彼女は受付に無理を言って、十分余りと言う時間を貰ったのだ。戸口で立ち尽くし、彼女はなかなか部屋に踏み込むことが出来ない。
「夜這いか?まだ体が痛むから勘弁して欲しいな」
部屋の奥から掛けられた言葉で、ようやくアミリアの緊張がほぐれた。
「夜這いなどではない。近くに寄ったついでに見舞いに来てやっただけだ」
「そりゃありがたいね。最近は看護婦にも見飽きてきたところだ。甲冑姿の似合う女には久々に会った」
窓から差し込む星明かりの中、奥の寝台で横になって居るカーンの姿が闇に慣れた視界の中におぼろげに見えた。アミリアはそちらへと歩みつつ、
「怪我の調子はどうなんだ?」
「まぁ、復帰にはもう少し掛かるな。今回は結構手酷くやられた。肩の矢傷だけかと思ってたら案外と知らぬ間にやられていた傷もあった。あばらも何本か折れてたそうだ。内臓を傷つけなかったのは奇跡に近いって医者は大げさな事を言っていたが―――」
「カーン族も降った」
「あのな。いくら入院してるからって外界と隔てられてる訳でなし、それなりの情報は寝たままでも入って来るぞ。十日も前の話だろうが。大体、いきなり怪我人に対してする話か、それ?」
「ああ」
「まぁ、良いが。それよりも、アルティス荒野を抜けてカズリクに侵攻するのか?軍は」
「さあな。私は軍令部の隷下ではない。軍令部で何を立案して居るのか知る立場には無い」
「帝国府の方は?」
「外交的に威圧を掛けて屈服させようとしているようだな。こちらもよくはわからない。我々は只陛下の勅命があり次第いつでも出動できるよう待機しているだけだ」
「そうか………」
「ん。十分と言う約束だからな、これで私は帰る」
「俺の元気そうな顔を見れて満足か?」
「お前の死にそうな顔が見れなくて大変不満足だ」
そう言って踵を返したアミリアに、カーンは窓の外を見ながら声を掛けた。
「俺は死ぬ訳にはいかねぇんだ。誓っちまったんだから。………見舞い、ありがとうな」
アミリアは一瞬歩を止め、すぐに足を前に出した。
「ん」
そのまま、病室を出て行ってしまう。扉が閉じられ、病室は再び暗くなった。

4 皇帝と族長
オルテガ=スタルナスが国境を破って西方辺境に侵攻した翌日の帝国暦三三三年九月三日。
無論、帝都に居るラインハルトの下にこの報告は届いていない。彼は思い立って、護衛のヴァン=ブレイス少尉を伴ってルーガ城を出た。向かう先は帝国府からも程近い住宅地にある二階建ての建物。和睦し、同盟を結んだと言う事になっているカーン族の族長が大使として帝都に滞在するにあたり、帝国側が提供した執務用の建物、大使館だ。最も、帝都の人間で、彼の事をただの大使として見て居る者は少ない。大半は彼の事を人質だと考えている。長年に亘り、中原を支配するフロレシア帝国と抗争を繰り広げてきた南方の荒野に棲みついている者達。邪教―――ロデン教徒から見れば―――を信じ、ロデン教を蔑ろにする蛮族。和睦したからと言って、いきなりそう言った硬直した考えが改まるわけではない。
「なんだか、物々しいなぁ………」
大使館の周りを見回して、ラインハルトは顔をしかめた。大使館からは見えないよう気を遣って居るようだが、それでも外に出て見れば一目瞭然だ。建物の周りに十名前後の緑色の軍服姿がある。帝都の治安を守る帝都防衛隊の隊士だ。帝国側としては、蛮族に対し好まざる感情を持つ帝国臣民がこのカーン族の青年族長に対し過激な行為に及ばないよう、厳重な警戒をせざるを得ない。もし族長に何らかの事故が起こり、死傷すれば短い期間に二人も族長を失ったカーン族の人々は中原の人々に対し、それまで以上の隔意を抱かざるを得ない。それでは折角の和睦の意味が無い。戦が再開され、三ヶ月と少し前のカラキシス大戦と同規模、或いはそれ以上の大きな犠牲を払わなければならなくなるのだ。だが、その警護ですら傍目に見れば族長の動向を監視しているように見えるだろう。
そして現に、帝都防衛隊の隊士には監視の命令も出ていた。
「彼には窮屈かもしれないけど、ここは我慢して貰わないとならないかな?」
誰に言うでもなく呟く。無論、傍らに控える黒髪の剣士は何も答えない。
ラインハルトは大使館の扉の前に立つと呼び鈴を鳴らした。
「………はい、今開けます」
程なくして声がし、扉が開けられた。開かれた隙間に立っていたのは、大人びた雰囲気のメイドだった。
ラインハルトも何度か姿を見かけた事のある宰相付きのメイドだ。確か名前は………
「サリア=イミュシュティさん?」
この情報はシエナから聞いた。彼女はシエナの帝都での友人の一人なのだ。そのサリアがここに居るのは、セトゥを帝都に住まわせるに当り、その世話人を帝国府が提供したためだ。彼女は名前を呼ばれ、驚いたようにラインハルトを見た。そして、彼が何者であるかに気付き、さらに仰天した。
「へ、陛下ぁッ!?」
無理も無い。事前の連絡も何も無く、いきなり戸口に皇帝が立っていれば誰でも驚く。
「いきなり訪れて御免。セトゥ=カーン殿はいらっしゃる?」
「あ、は、はい!どうぞ中へお入りください」
「うん。ありがとう」
ようやく落ち着きを取り戻してきたサリアが扉を開け、ラインハルトを中に招き入れる。
一階はセトゥの従者として帝都に滞在して居るカーン族の戦士達の待機所になっているはずで、現にかなり大きな部屋に幾つもの机や椅子が置かれていたが、戦士達の姿は見えなかった。
「みんな留守なのかい?」
「ええ。帝国の文物を吸収し、砂の民の為に役立てるようセトゥ様の御命令で。皆さん、あちこちを見学してるようです」
「セトゥ殿も?」
「ええ。これから郊外の演習場で軍の演習があるからとちょうど出かける準備を―――」
サリアがそこまで言った所で、階段から一人の青年が降りてきた。
「サリア、お客は誰だ―――」
後数段を残したところで、青年の体が硬直した。その眼が大きく見開かれる。
「皇帝陛下………一体どうして、ここへ?」
その声には何処となく警戒の色もあった。
「いや、公式の場ではなかなか話は出来ないし。ここのところ、余も忙しくてなかなか時間が取れなくて。それで今日、たまたま時間があった物で急で申し訳なくは思ったんだけど訪れさせて貰ったんだ」
「そうですか………何も無いところですが、とりあえず二階へ」
「うん」
帝国に与えられた大使館に対し《何も無い》とは失礼な物言いだったが、しかし、全く邪気も何も感じさせない皇帝の態度に、却って戸惑いを覚える。しかも、今日はたまたま全員が外出して居るが、普段ならばここにカーン族の戦士が数人居る。彼らの中には家族を先の戦で、或いはそれ以前の戦で亡くして居る者も居る。無論、皇帝に対し、憎悪を抱く者も居る。
それがいきなり敵国の都に連れてこられ、行動の自由はあったとしても常に監視されて居るような状態に置かれて極度の緊張状態に陥るのは当然で、落ち着きを失いつつある者も居るぐらいなのだ。
(そんな中へ飛び込んで………害されるとは考えなかったのか?)
セトゥとしてはそう思わざるを得ない。彼自身、危険を顧みずに敵地に飛び込んで居る身の上ではあるが、国にはまだ兄が二人も居る。自分が死んでもカーン族は小揺るぎもしないだろう。
だが、皇帝ラインハルト一世の場合は大きく事情が異なる。彼はカーン族のような小部族―――フロレシア帝国の広大な版図に比べれば、何と矮小な版図か。しかも他氏族との間に明確な国境が存在するわけでもなく、国とは言えない。ただの曖昧な勢力範囲に過ぎない―――の長ではなく、フロレシアと言う大陸で随一の版図を持つ超大国の皇帝なのだ。しかも、彼の親兄弟は既に亡く、子も成していない。彼に代わりうる存在は無い。彼が死ねばこの帝国は崩壊するしかないのだ。
(この国にとって、この皇帝こそまさに至玉に他ならない)
帝都に入ってまだ二週間余りでしかないが、それでもわかる。この国の民にとって、この皇帝がどれほど光り輝く存在であるのか。先帝の時代にあっては一人の死に人々は暗い表情をした。絶望を瞳に浮かべた。無感動ではあった。そこには常に死が溢れていたのだから。
しかし、今上帝の御世になって、人々の表情には明るさが取り戻された。瞳には明日への希望が輝いている。それは何故か?人が死ななくなったからか?違うだろう。現に、この皇帝は多くの人間の命を奪って居るのだから。では先帝時代と何が違うのだろうか?
(それは死の方向性だ)
セトゥはそう考えた。それが、この二週間で得た結論だ。まだ未熟な物であり、今後変わる事も十分にありうるが、今ではこれだけが結論だった。
(即ち………先帝の御世における死には何の意味もなかった。その死には概して方向性などはなかった。敢えてそれを求めるとするならばそれは破滅への道だ。だから、人々は絶望した。頭で理解できなくとも、心がそう読み取っていたのだ。だが、今上帝が齎す死には明確な方向性がある。《この乱れた大陸を再び統一し、戦の無い平和な国家を築き上げる事》。それがその方向性だ。死ぬ事に変わりはなくとも、意味が有るのと無いのとでは天と地ほどの開きがある)
階段を登り、自分の部屋に皇帝とその護衛を招き、サリアにお茶を淹れる様言いながら、セトゥはそんな事を考えていた。
セトゥは当然の事として上座を勧めたのだが、ラインハルトはさっさとソファの下座に座ってしまった。
「…………」
まさか皇帝の隣に座るわけにもいかず、かといって、皇帝の正面―――上座―――に座るのも憚られた。
まだ文明国のしきたりに慣れていないセトゥとしては困惑するばかりだ。
皇帝の護衛も彼の背後に控えるばかりで、何も言わない。座ろうともしない。
「えっと、どうかした?」
「あ、いや………」
逆に皇帝に怪訝顔をされてしまった。もはやこうなれば座るしかない。
この皇帝の性格からして―――それほど詳しく知って居るわけではないのだが、印象で―――こう言った事には無頓着だろうと勝手に推測する。セトゥがソファに腰を落とし、落ち着かせた所でタイミング良くサリアが茶を淹れて入って来た。まだセトゥに抹茶は早いので、緑茶だ。最も最近は紅茶も飲み始めて居るが、どちらかと言えば緑茶の方が好きだった。セトゥはこの十日間で大分、帝都に影響を受けて居たがそれでも服は荒野式の物を纏っていた。腰に薄い布を巻き、上半身には何も着ない。鍛え上げられた褐色の背には父を真似て彫らせた獅子の刺青がある。
「それで、話と言うのは?」
とりあえず茶を一口飲んでから、セトゥはいきなり単刀直入に切り出した。
帝都の中級以上の階級には婉曲な表現を乱発した遠まわしな喋り方を是とする者も多いが、セトゥはやはり荒野式の単純さを好んだ。それに、それほど遠まわしに言えるほど語彙数が多いわけでもない。
「まあ別に、それほど堅苦しい話をしようとしてる訳じゃないよ。肩の力も抜いて」
「はぁ」
言われて始めて、自分が緊張して居る事に気付いた。最初に謁見の間で会った時よりも遥かに。
皇帝の美しい、海のような色を映した蒼い瞳はまるで彼の心の中を見透かすようで。
その形の整った口元を彩る穏やかな微笑は、まるで彼を包みこむかのような温かさを持っていた。
「帝都での暮らしにはもう慣れたかい?まぁ、いろいろと不便な事もあると思うけど。何か困った事があればサリアを通じて帝国府に言って。宰相にはなるべく善処するよう言い付けてあるから」
「過分の御配慮、感謝の言葉もありません。ただ今の所、格別不便を感じた事はありません。確かに習慣の違いから戸惑う事は多々有りますが。わざわざ陛下の耳に入れるような事でもありません」
「そう、なら良かった」
そう言って、ラインハルトはホッとしたように笑った。こちらの心の中にするりと入り込んでくるような、そんな笑顔だ。その笑顔のまま、急に話題を変えてくる。
「ところで、セトゥ殿は馬はお好きかな?」
「は?え、ええ、まぁまぁ好きです。象軍の指揮を執る前は騎兵隊に居た物で」
「ずっと帝都に居たのでは体も訛らない?さっきサリアに聞いたんだけれども、今日は演習場での演習を見物に行く予定だったとか。もし良ければ余も同行させて貰えないだろうか?」
「は………勿論、結構ですが」
「なら決まりだ。演習の時間は何時からなんだい?」
「二時からと聞いています」
「今は一時か。だったら十分に間に合う。余が馬から落ちなければ、だけどね。余は馬は好きなんだけれど乗馬の才能も無いみたいなんだ。下手の横好きと言う奴で」
照れたように笑って、皇帝はかすかに舌を出して見せたのだった。

演習はルーガから北に二十キロほど行った草原の中にある演習場で行われていた。街道筋からも離れており、用も無ければ人も訪れない辺鄙な場所だ。その演習場で、数万の人馬が動き回っていた。演習を行って居るのは帝都駐屯の第一軍だ。軍団長のハーン=ハーベスト元帥の率いる第二、第四歩兵師団、第一、第三騎兵師団、計三万と第一歩兵師団長のアレク=ハーベスト中将の率いる第一、第三歩兵師団、第二、第四騎兵師団、三万だ。
先のカラキシス大戦の後に補充された新兵の訓練を主目的とする演習である。ラインハルトとセトゥは草原を見下ろせる丘の上に馬を並べて、この演習を見学していた。普段どおりの演習を行わせるため、ハーンやアレクにも挨拶していない。さすがにセトゥの馬術は巧みだった。かろうじて乗れると言う程度のラインハルトに比べればまさしく天と地の開きがあるだろう。
「演習が始まるよ、セトゥ殿」
「はっ」
ラインハルトの言葉に、セトゥが頷く。彼らの視線の先で、アレクの陣から第二、第四の騎兵師団が突出し、ハーンの陣へと突っ掛かっていくのが見えた。セトゥはアレクの姿を探すかのように、アレクの陣を凝視していた。ちらりと赤髪の将の姿が見えた。
(父上の騎兵隊を焼き尽くし、我らに退却を余儀なくさせた男………)
恨む気持ちは無かった。が、興味は尽きなかった。機会があれば、是非とも話をしたい男の一人だ。
そして是非とも、手合わせをしたい。

「馬鹿正直に真正面から攻撃して来たか」
ハーンは呟き、すぐさま伝令を走らせて敵の二個師団に自分の第四歩兵師団を当てた。両軍が激突し、激しくもつれ合う。そのままであれば、いずれ第四歩兵師団は押し切られるだろう。しかし、ハーンは冷静に第三騎兵師団を以って、この二個師団の右側面から後方に掛けてを包囲攻撃させた。側面を突かれた上に味方との連絡線を遮断され、新兵達の間に動揺が広がる。たまらず両師団が崩れ立つ。アレクとしてはこれを見放すわけには行かない。こちらに背を向けて居る敵騎兵の後尾を突くべく、第三歩兵師団を投入した。だが、この時既にハーンは第一騎兵師団に大きく迂回行動を取らせ、アレクの左翼側に接近させていた。ちょうどその辺りは丘陵があり、レフィナ=フュークル少将はこの丘陵の影に隷下部隊を隠していたのだ。さらに、戦場全体を把握するために丘陵上に十騎程度の斥候を放っておく。
この斥候が、アレク軍の第三歩兵師団の移動を報告して来た。第三歩兵師団は一端、左翼方面に動くと言う陽動行動を取ってから一気に第三騎兵師団の側面を突こうとしていた。その師団が第一騎兵師団と丘を挟んだ反対側を進んで行く。
「ギルは私と南より、オットーは北より出て敵を襲撃」
レフィナは黄金の髪を躍動させながら、命じた。
彼の指揮下にある五つの連隊が動き出し、第三歩兵師団の前方と後方より現れ、これを挟撃した。
いきなりの敵騎兵の出現に、第三歩兵師団の隊列が崩れ、そこへ騎兵が飛び込み、訓練用に覆いの掛けられた槍で散々に突き倒していく。二個の騎兵師団を押さえ込まれ、第三歩兵師団が苦戦し、アレクの手元には第一歩兵師団だけが残されて居る状態。しかし、ハーンの手元にあるのもやはり第二歩兵師団のみだ。しかし、予備兵力は同じでも、戦況を考えれば有利なのは圧倒的にハーンだった。
「こうなりゃ直接対決で親父の首を取る!」
アレクはそう吼え、自分の直卒部隊に前進を命じた。進路を一端右翼へ取り、第二、第四騎兵師団を攻撃している第三騎兵師団の後方をすり抜けようと言う考えだ。
アレクは師団の左翼前方に、負傷していなければカーン=オルベニー大佐が率いて居る筈の第一歩兵連隊を展開させた。無論、敵騎兵への警戒のためだ。この布陣は一見すると騎兵の後方を扼そうとする動きにも見える。ハーン軍の幕僚もそう判断し、騎兵の後方を突こうとするアレク軍の頭を抑えるべく前進すべきだとハーンに進言した。しかし、ハーンはこの幕僚の意見を却下した。
「あいつは俺の息子だ。あいつの馬鹿さ加減は俺が知ってる」
彼は部隊を展開し、迎撃体勢を取るよう命じた。果たして、アレク軍は騎兵に対し、警戒はする物の、攻撃をする気配を見せる事無くその後方をすり抜けた。同時に第一歩兵連隊が猛然と突撃を開始し、最後尾の第四歩兵連隊がやや左翼後方に引き下がり、円陣を敷いて万が一の騎兵襲撃に備えた。
そのままの状態で、一万の第一歩兵師団とハーンの第二歩兵師団が衝突した。
しかし、既にハーンは迎撃陣を整えており、アレク軍は陣形不利な戦闘を強いられた。
結果的に、ハーン軍の防御を突き崩せないままに悪戯に時間だけが過ぎて行き、レフィナ=フュークルの第一騎兵師団がアレク軍の第三歩兵師団を敗走させてこれの追撃にギル第二連隊以下二個連隊を当て、残る三個連隊を率いてアレク第一師団の後方を扼す位置に移動を始めた時点で、勝敗は決した。
ハーン軍の勝利と言う結果に終わったが、新兵には十分な訓練内容だっただろう。
(アルティスでは余りに多くの犠牲を払った………第一軍が数ヶ月前の精強さを取り戻すには尚時間を必要とする)
新兵の動きの鈍さを感じたハーン元帥はそう考えた。彼はちらりと演習域から少し外れた丘へと視線を向けた。そこに在った人影は既に無くなっていた。

帝都に戻り、セトゥと分かれ、城の自室に戻ったラインハルトは風呂に入った。
「ふぅ………」
今日見た新兵達の初々しい顔が脳裏を過ぎる。自分が皇帝である以上、いずれは彼らを戦場へと送り出さねばならないのだ。彼らにも家族は居るだろう。まだ子は無くとも、親兄弟、或いは恋人のような大事な存在が。そんな人々から自分は彼らを取り上げる事になるかもしれない。現に、先のアルティス荒野での戦いでは数十万の兵を投入し、十万近い死傷者を出したのだ。次に浮かんだのはセトゥの顔だった。自分は自分の国の者だけではなく、異国の者からも大事な物を取り上げてしまったのだ。
偉大な父と言う存在を。同民族の結束を。そして、戦士の血族としての誇りまでも。
セトゥ自身は戦士としての誇りを失っては居ない。しかし、カーン族が帝国と和睦を結んだ事で、ラスカーナ大陸の多くの人々は彼らがフロレシアに屈したと見るだろう。
「大陸の統一………時代の光となる………」
ラインハルトは護衛のヴァンにすら聞かれたくないと言うように、その先の言葉は心の中だけで呟いた。
(光が生まれる前の闇が最も暗い………)
誰も死ななくて済む平和な時代を築く。それこそフェルモアが成し遂げた最大の偉業だ。しかし、その平和な時は五十年余りしか続かなかった。その覇皇フェルモアの遺業を継ぐ者こそ、覇皇となる者なのだ。その過程こそ、最も多く人が流血を強いられる時でもある。誰も死なない時を作るために、多くの人命を奪う。その大いなる矛盾によって生まれる苦悩こそが、ラインハルトを苦しめるのだった。

『荒野の雄』 完
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