覇皇伝
第二章 内憂外患
第二章 内憂外患
1 盟友
ラインハルト=シーザーがフロレシア帝国の皇帝となって一週間経った帝国暦三三二年五月四日。
豪奢な寝台の、ふかふかの布団に包まって、皇帝ラインハルト=シーザーは夢の中。
その時、隣の侍女控え室との間を遮る扉が開いた。
「おはよー、ライン、良い天気―――」
声はそこで途切れた。元気良く入室して来たシエナと窓際に椅子を置いて座っていたヴァンとの視線が正面からぶつかる。
「あっと………」
「…………」
気まずい沈黙が流れる。実はシエナはここ数日、暫く使われていなかった帝都のクリケット伯爵邸の片付けを手伝っていて、そちらに泊まっていたので、ヴァンがラインの直護衛となった事を知らなかったのだ。
「―――どなたですか?どうしてこの部屋に?」
「貴方は?」
「私が聞いてるのよ!」
生来の勝気さが出てきたのか、シエナがやや声を大きくする。
それでヴァンが怯んだ訳ではなかったが。
「う、うわっ、御免、だから止めて、シエナぁっ!」
「…………」
いきなり飛び起き、真っ青な顔で許しを請うかのように叫んだ皇帝を呆然と侍女と護衛が見る。
「………あれ?」
ラインはようやくシエナとヴァンに気付いた。
「どうしたの?」
「何よ今のは。まるで私がいつも恐怖を与えてるみたいじゃない」
「え、僕今何か言った?」
「―――深層心理」
ぽつり、とヴァンが言葉を漏らす。途端、シエナの表情が険しくなる。
「そうなの?」
「―――へ?」
訳がわからずに聞き返すライン。シエナは拳を握り締めて。
「心の奥底で私の事、そんな風に思ってるんだ?」
「い、いや………え?」
「成敗!」
「うぎゃあ!?」
「―――で、彼は一体誰なの?」
「ヴァンは僕の直護衛だよ」
「あらそうなの?私はてっきり―――」
「てっきり?何?」
聞き返すライン。シエナはあ、と呟いて真っ赤になり、
「な、何でもないわよ!」
「なんだよ、気になるなぁ………まあ良いや、シエナ、今日は重要な国賓が来るって聞いたんだけど、知ってる?」
起きたラインハルトは服を着替えながら、シエナに聞く。
「何言ってるのよ、今日はルシタニア連合王国からの特使が来るんじゃない」
「ああ、そうだったそうだった。そう言えば二、三日前に父さんがそんな事言ってたな」
「ってライン。忘れてたの?」
呆れたようなシエナの言葉に、ラインハルトが顔をしかめる。
「いや、忘れてたと言うよりは、忘れたいと言うかなんと言うか―――」
ラインハルトは脳裏にその時の自分と養父の会話を描き出した。
「―――ルシタニア連合王国………って北の国だよね?フロレシアとは同盟関係にある」
「そうだ。そこの王子レオン=ルシタニア殿下がいらっしゃる」
「―――なんで?」
「なんで?じゃない!おまえの皇位継承祝いに決まってるだろうが!」
オルンヘルは呆れたように怒鳴り、
「良いか?スタルナス帝国と敵対してる我が国にとってルシタニア連合王国は重要な同盟国なんだ。決して粗相の無いようにしろよ」
「うん。それで、そのレオン王子っていくつなの?」
「今年で十三歳になられた」
「あ。僕より年下なんだ。へえ」
「何がへえ、だ。おまえみたいに田舎で育った粗忽者とは異なり、殿下は生まれてこの方ずっと宮殿内で育てられてきた正真正銘の貴公子なんだ。田舎者と馬鹿にされないようにしっかりと儀礼を覚えて貰うからな」
「そんなぁ………僕、儀礼って苦手なんだけど」
「だから覚えて貰うんだ!ほら、さっさと行って来い!」
それが、三日前。
「―――っていうか、シエナ」
「はい?」
「三日間で儀礼を身につけろって言う方が無理難題だと僕は思うんだけど」
「それは………まあ、そうね」
シエナは苦笑のような物を浮かべて、ラインハルトの肩に手を置いた。
「でも、ラインはよくやってるわよ」
「―――うん。あ~あ、レオン王子かぁ………高慢な子だったらどうしよう?」
「そんなに怯える必要は無いわよ。国力・軍事力共にフロレシアの方が格上なんだから。もっと胸を張って堂々とすれば良いのよ」
「そんな事言われてもなぁ………」
ラインハルトが眉間に皺を寄せて、不安げに呟いた時、扉が急に開かれた。慌てて飛び込んできたのは無数のひだひだが付いて非常に歩きにくそうな黒の正装に身を包んだ文官だった。
「陛下!急いで御支度を!」
「え?………だって、王子達の到着までまだ二時間もあるよ」
壁際の豪華な柱時計をちらり、と見やって、ラインハルトが言う。
だが、文官はさらに切羽詰ったように、
「様子見に出させていた騎士から連絡が入ったのです。予定より一時間以上早く着きそうだと!」
「なんだって!?」
「陛下!急いで!」
呆然と驚きの声をあげるラインハルトの袖を掴んで、怖い形相でシエナが叫んだ。
帝都ルーガ。その正門。
豪華な六頭立ての馬車は重い蹄と車輪の音を響かせて、凱旋門を潜り抜けてすぐの広場で停車した。
広場には五百名ほどの近衛騎士が並び、装飾も煌びやかな甲冑と長柄槍の穂先を空へと向けていた。
時刻はちょうど太陽が空のもっとも高い場所にある頃。穏やかな春の陽射を浴びて、槍の穂先や甲冑が眩く輝く。近衛騎士達を左右に従えて、皇帝の一級正装に身を包んだラインハルトは左右に宰相のオルンヘル=クリケット、軍務尚書のツーラン=ヨーゼフなどの帝国府の要人、第一軍団長のルト=リューベン、第二軍団長のハーン=ハーベストなどの軍の要人、斜め後ろに護衛のヴァン=ブレイスを控えさせて、床机に座っていた。彼らの背後にはアリーニ=アウグウェルツを始めとする貴族達が集まり、そのさらに外側では無数の住民達が歓喜の声をあげている。城門の上にはフロレシア帝国の国旗である《力強き銀獅子》とルシタニア連合王国の国旗である《天秤の紋章》が仲良く暖かな風に翻っている。
市民達の手にも小さな国旗が握られ、それが激しく振られている。そんな、大歓声の中、馬車の御者がゆっくりと扉を開き、中から、一人の少年が降りてきた。褐色の肌に、赤い瞳、ややくすんだ金色の髪に、耳のあたりだけに少し入った緑色の髪が、鮮烈な印象を与える、ルシタニア連合王国の青い正装に身を包んだその姿は実に美しかった。彼が馬車から降りる前に、ラインハルトは床机を立って馬車のすぐ傍まで近付いていた。馬車から降り立った少年の前で、ラインハルトは胸の前で両手を組んで、深く頭を下げた。
「レオン殿下。よくぞお越しに。帝国臣民一億を代表して、歓迎いたします。長旅、御苦労様でした」
褐色の少年はその場に片膝を付いて、深々と一礼した。
「皇帝陛下御自ら市門まで御出迎え頂きまして、恐縮です」
「うん。貴殿は我々にとって、最高に礼するべき貴人ですから」
ラインハルトは微笑んで、レオンの腕を取った。女のように柔らかな腕であった。
「それでは城へ参ろうか」
「はい」
ラインハルトの言葉に、レオンは純真無垢な笑顔を向けて頷いた。
そして、レオンが連れてきたルシタニア連合王国の親衛隊三百名とラインハルトの身を守る近衛騎士五百名が取り囲む中心を、二人の貴人が城へと歩き始めた。
「我が父、ヨーゼフ=ルシタニアは先帝スレイマン三世陛下の不慮の事故死に深い哀悼の念を抱くと共に、新皇帝ラインハルト=シーザー陛下の御即位に惜しみの無い祝福を述べるものであります。また、フロレシア帝国とルシタニア連合王国双方にますますの繁栄と栄光が、永遠に続く事を確信し、また盟約を遵守する事をここに誓うものであります」
「ありがたい御言葉をありがとう。まだ右も左もわからぬ若輩者。父スレイマン三世亡き後、ヨーゼフ陛下を我が父とも思っていろいろと相談していきたいと思う、と御父君にお伝え願いたい」
「畏まりました。必ずやお伝えいたします」
「長旅で御疲れでしょうが、城のシェフが貴殿を歓迎するために腕によりを掛けて宴の準備をしている。是非とも晩餐を共にしたいのだが?」
「フロレシア帝国帝宮シェフの腕はラスカーナ大陸でも随一と聞き及びます。その料理を味わえると言うのなら、長旅の疲れも瞬く間に癒えましょう。お言葉に甘えて、御一緒させていただきます」
「うん」
これで、正式な謁見は終わった。ラインハルトは皇帝私室に引き下がり、レオンも自分に与えられた部屋へと戻った。ラインハルトは慣れない形式張った会話に疲れを覚えて、皇帝私室に戻るなり、ベッドに飛び込んでしまいたくなった。だが、まだしたい事があった。
「ヴァン」
「…………」
ラインハルトの呼びかけに、黒髪の護衛剣士が無言で聞く体勢を取る。
「これからレオン王子の部屋に行く。付いて来てくれるね?」
「―――畏まりました」
「うん。晩餐まではまだ四時間もあるからね。さっきレオン王子の従者に聞いたら、昼餉も取っていないんだって。お腹空いてるだろうから、シエナに頼んでパイを焼いてもらったんだ」
「―――そうですか」
「うん」
頷くと同時に、ラインハルトは思い出していた。シエナの料理の腕前を。
シエナのアップルパイは頬が落ちるほどに美味いのだが、それ以外の料理は思わず墓場を連想するほどにまずいのだ。どうしてなのかは知らないが。理由を問う勇気も無い。もし彼女に料理で文句を言わなければならないぐらいなら、裸でローデンス湖を泳いで渡る方がマシだろう。つまりは確実に死ぬと言う事だが。ラインハルトは私室のテーブルの上に置かれていたアップルパイ入りの籠を手に取って、
「じゃあ行くよ、ヴァン」
「―――はい」
ラインハルトとヴァンは皇帝私室を出て、迷いそうなほどに広い城内を歩いて、レオンの私室へとやってきた。扉の前にはルシタニア連合王国の親衛隊が警備に付いている。
「御苦労様。王子に会いたいんだけど、良いかな?」
「こ、皇帝陛下!?」
いきなり登場した皇帝陛下に、親衛兵が慌てて敬礼しながら目を見合わせる。
そして、扉が少しだけ開いて、初老の男が顔を出した。鋭い眼差しで兵士を睨んで、
「―――何事だ、騒々しい」
「レフ様!………皇帝陛下が殿下にお会いしたいといらっしゃっておられるのですが」
「皇帝陛下が?」
レフが、ラインハルトを見る。
「個人的に訪れただけだから、もし疲れて休んでいるようなら良いよ。晩餐でも会えるし」
「いえ………殿下はこの程度の旅で御疲れを覚えるような方ではありませんので、どうぞ」
(もしかして、嫌味に取られた?………そう言う意味で言ったんじゃないんだけど)
「うん。ありがとう。君達も御苦労様。あ、ヴァンはそこで待ってて」
「―――畏まりました」
ラインハルトは親衛兵にも労いの言葉を掛け、ヴァンを背に、部屋の中に入った。
窓際の席に、レオンが座っていた。
驚いた様子も無いのは、ラインハルトとレフの会話が聞こえていたからだろう。
ラインハルトが室内に入ってからその場に跪いて敬礼しようとする。
「あ、良いよ。僕は皇帝としてではなくラインハルト=シーザーとしてここに来たんだから」
ラインハルトは気さくな笑みを浮かべて、レオンを立ち上がらせると、テーブルの上に持って来た籠を置いた。
「なんだか今日は昼餉も食べてないって聞いたから。育ち盛りだし、晩餐まで辛いだろうと思ってアップルパイを持ってきたんだ。シェフじゃなくて僕の侍女が焼いた物だけど美味しいと思うよ」
レオンは赤い瞳を驚きに瞠って、テーブルの上に置かれている籠に向けた。
ラインハルトがその中に腕を突っ込んで、程よく狐色に焼きあがったパイをテーブルの上に置く。
部屋中に、仄かに甘い香が充満した。
「―――どうしてですか?」
ようやく声を出したレオンは、先ほどの謁見の間でのやり取りとは異なって、やはり年相応の幼さがあるように思えた。ラインハルトは苦笑のような物を浮かべて、
「どうしてってのはつまり、皇帝たる者がどうして自分でパイなんか持って来るんだ………って事?」
レオンが頷く。ラインハルトは苦笑を深くして、
「知ってるかもしれないけど、僕は元々ローデンスの田舎で暮らしていたんだ。本当だったら皇位を継ぐなんてことも無かった筈の身で。皇族としての教養とか貴人としての儀礼とかぜんぜん知らないんだ。今日のも付け焼刃だし。慣れてないから肩も凝るし眠くなるしで。だからこういうの君は嫌いかもしれないけど、僕なりの歓迎なんだ………けど、ごめん、迷惑だった?」
「…………」
呆気に取られたかのようにアップルパイとラインハルトを見比べていたレオンは、ぷっと吹き出して、すぐにあはは、と笑った。
「面白い人ですね、陛下は………僕も儀礼は苦手なんです。いつも街の子供達と遊んでばかりなので。だからレフにも良く怒られるんですけど。あ。僕の事はレオンって呼んで下さい。僕も堅苦しいのは苦手なんで―――そうだ、レフ。紅茶を淹れて」
「はっ………」
「みんなで食べよう。陛下の御好意だよ。答えなくちゃ」
「そんな押し付けがましいつもりで持ってきたんじゃないんだけど―――」
「あ、ごめんなさい、陛下、でも僕とっても嬉しいですよ」
無邪気に笑うレオン。ラインハルトは心の底から、この王子とは仲良く出来ると感じた。
レフも諦めたように嘆息して、
「では、紅茶を」
と言って控えの間に下がっていった。レオンは茶目っ気たっぷりに片目を瞑って、言った。
「レフの淹れる紅茶は本当においしいんですよ、楽しみにしててくださいね、陛下」
「それは楽しみだね」
ラインハルトも、屈託の無い笑みを浮かべて頷いた。
2 御茶会
場には和やかな空気が流れていた。
とても皇族、王族であるとは思えぬ、まるで庶民同士のような、よくても中流の貴族の子弟同士のような光景だった。
テーブルを挟むように椅子に座り、テーブルの上には半分ほど無くなったアップルパイと飲み干すたびに注がれる薄茶色の紅茶。
部屋の隅にはティーポットとタオルを持った給仕役の初老の男。
そんな光景。
話している事も実に他愛の無い物だったのだが。
「君達はどのぐらいルーガに滞在するの?」
と言う、ラインハルトの質問に、レオンは何の屈託も感じさせない笑顔を浮かべて、
「父君にはルーガはルシタニアとは比べ物にならないほど文化が進んでいるから、十分に勉強して来いと言われました。陛下の御伝言とこちらで見聞きした物事を送るのに使者は出しますが、僕は一月ぐらいは滞在してさまざまな事を学びたいと思っています………駄目ですか?」
レオンが不安げに眉を顰める。
自分の感情を素直に表に出してしまう………権謀術数渦巻く宮殿内ではそれでは無能と思われるかもしれないが、ラインハルトはそんな少年に―――二歳しか離れていないが―――自由奔放さを感じ取った。
似た者同士が惹かれあう、それは普遍的な真理であって、ラインハルトもローデンスの田舎でほとんど放任的に、自由奔放に育てられてきたのだ。アレクやシエナに、時折シオンを混ぜて。
だからこそ、ラインハルトも自分の心の奥底を隠す事が出来ないのだった。
彼は自分の表情にありありと心配そうな色が浮かんでいるのを自覚していなかった。
レオンもまた、ルーガとルシタニアの違いを述べ立てるのに忙しくて、ラインハルトの表情の変化には気付かなかった。
ただ、レオンの腹心のレフだけが、その鋭い眼差しをラインハルトの背中に突き刺していた。
この時、ラインハルトの脳裏には昨日の、オルンヘル=クリケット伯爵との会話が蘇っていた。
ラインハルトが午前の公務を終えて皇帝私室に戻ってみると、そこに養父の宰相オルンヘルと暁の頭領エシュアが待っていたのだ。エシュアは珍しい白髪に、薄茶色の鋭すぎる印象を感じる瞳を持ち、その瞳で皇帝を見つめていた。
「どうしたの?父さん、エシュアも」
ラインハルトが聞くと、
「彼にあることを調べさせていたのだ」
と、オルンヘルが説明する。
自分の椅子に腰掛けながら、ラインハルトが怪訝顔になる。
「調べるって………何を?」
「先帝暗殺の事だ。不可解な点が多すぎる。皇帝を暗殺されるなんてのは帝国にとっては信用問題だ」
「それはそうだろうけど………それで、犯人はわかったの?エシュア?」
「はっ。まず間違いなく。とある貴族の家中の者でございました。身柄を拘束しましたが、既に口封じされており、その者の背後に居ると思われる人物へと直結するような証拠は何も発見できませんでした」
「―――口封じ?」
「ナフの花という花がございます。この花の香を嗅ぐと人は記憶を失います」
「―――それで、その貴族と言うのは?」
「その貴族の名は―――」
そして、エシュアが告げた名は、ラインハルトでも、未来の難問を確信させるような物だった。
「―――陛下?」
「あ………」
ふと注意を戻すと、レオンが心配げに赤い瞳で、ラインハルトの顔を覗き込んでいた。
「あ、ごめん………話し、聞いてなかった。なんだっけ?」
慌てて取り繕うが、レオンは淡い微笑を浮かべて、首を左右に振った。
「どうやら陛下も御疲れのようですね。話しは晩餐の時にも出来ますし、今はゆっくり休まれては?ただでさえ、皇帝になりたてで気苦労も多いでしょうし。僕も休みます。実は陛下はどんな方だろうかと不安で昨夜もほとんど一睡もしてないんですよ。御腹が一杯になったので少し眠くなってきたところなんです」
「えっと………あの、ごめん、疲れてるのに付き合わせちゃって。じゃあ、休ませて貰うよ」
「はい。御気になさらず。楽しかったです、ありがとう。ああ、そうだ。このパイを焼いてくれた侍女の方に美味しかったと伝えてください」
「わかった。きっと喜ぶと思うよ。シエナ=クリケットと言って、僕の幼馴染なんだ。気が強くてね。それじゃ、晩餐で」
レオンの微笑みに、笑みを返して、ラインハルトは立ち上がった。
扉の所まで見送りに来るレオンに軽く会釈して、ラインハルトはレフが開けてくれた扉から部屋の外に出た。ラインハルトを吐き出して、扉がゆっくり、静かに閉まっていく。
完全に閉まってから、レフは一呼吸置いて、主人の方を顧みた。
「彼は皇帝の器に向いていないのではないでしょうか?」
レフが小声で呟く。
レオンは頬に苦笑のような物を浮かべて。
「確かに陛下は御優しすぎるね。頼りない感じもする。でも、彼はきっと良い皇帝になるよ」
「―――どうしてですか?」
「あのパイだよ」
レオンはそう言って、四分の一ほど残っているパイを指差した。
「―――あれが何か?」
レフが怪訝そうに小首をかしげる。レオンは屈託のない笑顔を浮かべて、
「美味しかった」
「………はあ」
得心行かないと言う風に、レフがさらに首をかしげる。
「あのパイには愛情が詰まっていた。主人のために少しでも美味しい物を、という真の愛情がね」
「…………」
「つまり、僕が言いたいのは、それだけ家臣に愛されてるって事だよ」
「それだけで、良い皇帝足り得ますか?」
レフの反論。それは正論であった。
レオンは扉の前から離れて、窓際の席に腰を下ろした。
そこからは、ルーガの街並みが一望の元に見下ろせる。
国賓に最高の夜景を見せたいと言う心配り、と言うよりは帝都の繁栄を誇示したいと言う配慮から彼らの部屋はこの部屋に定められたのだろう。皇帝の意思と言うよりは、宰相の配慮だろう。
しばし、そんな街を眺めていたレオンが、唐突に呟く。
「人に敬愛されない人間は、他の部分でどれほど優れていようとも、いずれは敗者となるしかない………先帝スレイマン三世のように、ね。でも確かにレフの言う通り、人に敬愛されるだけじゃ皇帝足り得ない。だからこそ、彼にとって、もうすぐ大きな山場が来るんだよ。果たして彼は家臣に敬愛されるだけの男なのか。それとも、この世を動かすほどの名君なのか」
「…………」
レフは沈黙したまま。だが、話しを聞いている事は間違いない。
「彼は試されるだろう。足元から」
外を眺めながら予告するレオンの表情は、先ほどラインハルトに見せていた物とは異なり、ひどく大人びて見えた。或いはこちらがレオン=ルシタニアの素顔であり、あの無邪気さは王族としての物なのかも知れない。さらに言えば、両方とも、彼の素顔なのかもしれない。
どちらにしろ、ラインハルトが考えたほど、彼は純真で無垢な少年と言う訳ではなさそうである。
「その結果次第では、盟約の破棄も………ありえるかもね」
晩餐と言っても、陪食者の数も多く、ゆっくりと話しをする時間など無に等しい。
他国の王族に取り入ろうとする貴族やその婦人、息女達がレオンを取り囲む中、ラインハルトは慣れぬ葡萄酒に火照った体を冷やそうとテラスに出た。
そこからは、城下が見下ろせる。
視線を下に向ければ、闇に沈んだ街に無数の灯火が輝き目を奪う。
視線を上に転ずれば、闇に浮かぶ星の無数の煌きが瞬き息を呑む。
「―――ふう」
「どうした?こんな所で、浸って」
声に振り向けば。
「―――父さんか」
「なんだ?その期待を裏切ったみたいな言い方は」
オルンヘルが両手に葡萄酒のグラスを持って、横に並ぶ。
「どうせなら妙齢の美女に声をかけてほしかったな」
ラインハルトの言葉にオルンヘルは肩を竦めて、
「柄にも無い事を。シエナを悲しませんでくれよ。尽くす事しかしらん娘だからな」
「うん。わかってるよ―――でも本当にシエナには助けられてるよ」
「そうか。自慢の娘だからな」
オルンヘルの顔がやや緩む。自慢の娘、というのは本当なんだろう。
「ほら。皇帝が暗い顔してるな」
「―――うん」
ラインハルトは差し出されたグラスを受け取り、一息に飲み干した。
オルンヘルはテラスの手摺に背を預けて、まるで世間話でもするかのような感じで語りかけてきた。
「連中が動いた」
ぴくり。
思わず体が反応する。だが、視線は街の光に据えたまま、囁くように聞き返す。
「どんな?」
「人を走らせた。何処へだと思う?」
「何処へ?………わからないよ、そんなの」
「少しは考えろ。何事も人任せでは皇帝としては失格だぞ」
「………。僕を廃そうとするなら、それなりの後ろ盾が必要だよ。だったら、今帝国と対立状態にある国が良い。スタルナス帝国でしょ?」
「わかってんなら話しが早い。その通りだ」
「使者はすべて捕らえたの?」
「いや。エシュアに命じて、強盗に偽装しつつ一人を襲っただけだ。他はそのまま行かせた」
「どうして?」
「スタルナス帝国がまともに動くと思うか?………いや、動けると思うか?」
そうなのだ。現在、スタルナス帝国の軍事力は低下している。
なぜならば彼らは一ヶ月と少し前、エルベス川での戦闘でフロレシア帝国軍と戦い、大敗を喫しているからだ。スレイマン三世は治世に問題はあったが、軍事的にはまさに天才だった。戦えば勝った。
吟遊詩人達は彼の治世の不味さを省き、武勇だけの詩を歌っている。その歌を聴く限りでは確かに彼は英雄だろう。しかし、彼はそれだけではない。それだけならば国がこんなに疲弊する事も無かったのだ。
「密書にはなんて書いてあったの?」
「約定のままに」
オルンヘルはまるで歌の一節でも読み上げるかのように抑揚をつけて囁いた。
「だったら、動くのかもしれないじゃない。約定ってのが何の事かはわからないけど」
「いや。おそらくは連中は良い様に遊ばれてるな。スタルナスとしては軍事力を回復させる時間稼ぎをしたい所だろう。そこで、馬鹿な貴族を誘って、こっちに内乱を起こさせようとしている。もしかしたら、内乱の隙に乗じて少数の兵力を送り込んできて国境の近くの村を襲うぐらいの事はするかもしれないが。本格的に侵攻してくる気は無いだろう。いや、できないだろう」
「わかったよ。言われてみれば確かにそうだよ。でも、動きってそれだけ?」
「ああ。今の所、動いているのはごく一部だけ。大体本当にやる気があるんだかどうだか」
「どういうこと?」
「一番の実力者が動きを見せてない。奴の動きは明らかにそいつの指示の筈なのに、だ。恐らくは当て馬ぐらいにしか思ってないんだろうが………あいつだけで大掛かりな反乱が起こせると思っているあたり、既に馬鹿だな」
「伯爵………!酒に酔った勢いであまり滅茶苦茶な事を言うもんじゃないよ」
「ん………おお、これはすみませんな、陛下。はっはっは。今宵は愉快だなぁ」
テラスに若い貴族のカップルが出てきたのを見計らって、ラインハルトとオルンヘルは別れた。
皇帝と宰相、二人が人目を忍んで話しをしていたテラスの、闇が凝縮したかのような暗がりの中から、染み出すようにして一人の初老の男が現れた。
鋭い眼差しで晩餐会場へと戻っていく二人の背中を見つめてから、今聞いた話しを反芻する。そしてその話しが数時間前に彼の主人が口にしていた言葉を裏付けている事に、彼自身少なからず驚いた。
彼の主人はこのことを正確に読んでいたのだ。
(この国で反乱が起きようとしている………)
心の中で呟いて、男、レフ=スタッカートは主人に報告するべく、晩餐会場へと戻っていった。
そのレフの姿を見守る鋭い眼差しがあった。珍しい白髪に、鋭い眼差しを持つ男。
暁の頭領エシュアである。
何を考えているのかわからない、苛烈な眼差しを持つ男は、ふと、空を見上げた。
その行為には何の意味も無かったのかもしれないが、心なしか、男の鋭すぎる眼差しが穏やかな物に変化したように見えたのは、あるいは気のせいではないのかもしれない。
晩餐会の会場には軍令部長のルト=リューベンも出席していた。
彼は酒を大量に飲み、泥酔の一歩手前と言った状態だった。
彼の頭の中には、数日前、アリーニ=アウグウェルツから届いた密書の事で一杯だった。
『軍を起こし、君側の奸を討て』
君側の奸と言えば、宰相オルンヘル=クリケット伯爵の事だろう。
だが、ルトは苦悩する。
これはアリーニが皇帝となる為の地盤を固める事には繋がるだろう。
皇帝はまだほんの子供に過ぎず、オルンヘルが死ねばまともな政策を行えはしないだろう。
だが、果たしてこのような反乱を起こして、自分はどうなる?
彼は軍令部長として全軍を管掌する立場にあるが、各軍団長達はほぼ自分の意思で己の軍団を動かす事が可能だ。帝国の長い歴史の間で、各軍団長にはその管掌する軍管区内でのある程度の自由な権利が与えられている。敵軍が国境に集結などすれば、中央の指示を待たずに攻撃する事すら可能なのだ。
これは時折、独走を招く物の、今の所はさしたる問題も起きていないので、この慣習は今も行われている。なぜこのような慣習が出来たのかと言えば、やはり帝国の国土が広すぎると言うのがその主たる要因だろう。敵軍の国境集結などの危急の折にわざわざ帝都にお伺いを立てていたのでは後手に回ってしまう。戦争において最も重要なのは先制だ。その為の慣習なのだ。
果たして、ルトが帝都において軍を起こし、オルンヘル派を一掃する事に成功したとして、他の軍団は自分を支援してくれるか?しないだろう。第一軍だけは貴族の子弟中心の軍団なので、彼の命令に従ってくれるだろう。だが、他の軍団長は協力してくれないだろう。
むしろ第二軍団長のハーン=ハーベストを中心に、反ルトで結束するかもしれない。
酔っていても士官学校主席の頭脳はフル回転していた。
アリーニはスタルナス帝国も協力を申し出ていると言っていた。
だが、本当にスタルナス帝国軍が動くとは思えない。
(オルンヘルと同時にハーン=ハーベストを始末する)
それしかない。それが、士官学校主席卒業者の下した結論だった。
幸いにも、ハーン=ハーベストの第二軍団は帝都周辺の各防衛拠点を守備するのがその任務だ。
故に帝都にはオルンヘル=クリケットの息子であるシオン=クリケットが師団長を務める第一歩兵師団の一万人だけが第二軍団の兵力だ。第一歩兵師団にはハーン=ハーベストの息子であるアレク=ハーベストも居る。
(同時に皇帝陛下を奉って、各軍団に号令を下すと言う手もある)
ルト=リューベンはさらに酒を飲み続けた。飲めば飲むほど、頭が冴えていく様だった。
3 罠
帝国暦三三二年五月二十七日。
皇帝ラインハルト=シーザーが即位して一ヶ月。
フロレシア帝国の各軍団はその地方に根付いた軍団の為、軍団に所属する兵は基本的に地元で徴兵される。本拠地を帝都ルーガに定め、同じ中央軍管区に属している第一軍団と第二軍団はその徴兵の対象を分ける事によって、住み分けをしていた。
第一軍団は貴族の子弟や富裕な市民の子弟によって構成されており、第二軍は貧民や農村の農民などで構成されているのだ。第二軍の任務は帝都周辺の各防衛拠点―――城や砦、街など―――に部隊を連隊、或いは師団規模で駐屯させ、治安を維持する。
第一軍は帝都に常駐し、他方面の軍団からの救援要請があればいつでも出撃できるよう即応体勢を整えて待機するのが任務である。
つまり、第一軍は平時に於いては全く訓練以外にする事がない暇な部隊なのだ。
帝都の治安維持はそれ専門の帝都防衛隊が務め、帝宮や帝国府の警備は近衛騎士団が交替で務めているからだ。その第一軍を構成しているのが貴族の子弟や富裕市民の子息ともなれば訓練を真面目にやる筈もなく、彼らは日々遊んでいる毎日だった。
とはいえ、エルベス川の戦闘において最も功績が少なかったと皇帝の叱責を受け、一時期、軍団長のルト=リューベン以下必死に訓練に励んだ時期もあった。
しかし、それが実を結ぶ前に、皇帝は崩御してしまったのだ。
軍には政治に干渉しないと言う不文律があったが、フロレシア帝国の三百有余年の歴史において、最も歴史に干渉しているのが第一軍なのだ。
アリーニ=アウグウェルツの細工か、それとも自発的な物かは不明だが、第一軍の若手の士官を中心に君側の奸を取り除けと言う声が上がっていた。
そして、皇帝即位一ヶ月のこの日、中隊長や連隊長を中心に十名余りの士官がルーガの料理屋の奥の座敷に集っていた。
「皇帝が代わり、オルンヘル=クリケットなる男が権力を握っており、帝国府は反貴族的な政策ばかりを臣民院に提出している。特に不届き千万なのは貴族の私領である荘園領内への帝国府の検察官の立ち入りを求める法案である!」
その法案は貴族が不正に農民から搾取していると思われる二重課税の証拠を掴むため、荘園領内の調査をしようと言う法案であった。元々、荘園は手厚い保護を受け、帝国府の検察官の立ち入りを認めないという法律もある。オルンヘルの帝国府はこの法案を廃し、新法案を通そうとした。
「不正課税の証拠を暴けば、貴族の違法を明らかにし、その荘園を没収する事ができる。彼はそう帝国議会で演説した。そうすれば、帝国の収益が増え、逼迫している帝国財政が好転すると。しかし、これは偽りである。彼は我々貴族の地位を失墜させ、己の権威を高めようとしているに違いない。我々貴族の荘園は伝統ある正統なる権利だ。不正課税などはない。軍人として、或いは施政者として我々貴族が臣民に感謝されるのは当然であり、臣民が感謝の意として少し多めに税を支払っているに過ぎないのだ。
我々貴族を迫害しようとするような敵視政策を許すわけにはいかない。しかも、これは皇帝の意思ではない。皇帝は周囲をオルンヘル派の人間に固められ、貴族は悪だと言う欺瞞情報を毎日聞かされているのだ。我々、皇帝に真の忠誠を尽くす者達は須らく立ち上がり、君側の奸を討つべきである!」
「そうだ、そうだ!」
「宰相の横暴を許すな!」
「我々が君側の奸を討ち、皇帝陛下を御救い奉るのだ!」
若い士官達が顔を真っ赤にし、立ち上がって杯を翳す。
誓いの酒を酌み交わそうとした瞬間、いきなり座敷の戸が開かれた。
「なんだ!?」
士官達が誰何の声を飛ばす。
飛び込んできた男達は軍服を着てはいたが、士官達のような正規軍の軍装ではなかった。
正規軍の軍服は黒だが、踏み込んできた男達の軍服は深緑色だった。
「帝都防衛隊だ!貴様達に国家反逆罪の嫌疑が懸けられている。大人しく武装を解き、投降せよ」
「笑わせるな、帝国府の犬が!」
「それは聞き捨てならんな」
「うっ………」
深緑色の軍服を着た帝都防衛隊の兵が自然に道を開ける。
そこから現れたのは見上げるような大男だった。刈り上げた黒髪にごわごわと口元を覆う髭。
肩には巨大な戦斧を担いでいる。
帝都の守護を司る帝都防衛隊長のガルヴィン=ジングリッドだ。
ぎょろりとした目で士官達を見据え、座敷の畳にどん、と斧を突き刺す。
「誰が帝国府の犬だと?………貴様達こそ、貴族連盟の犬だろうが」
「平民出の分際で!貴族を侮辱するのか!」
「許さんぞ!」
「君側の奸の一味め!今ここで、成敗してくれる!」
言い放ち、剣を抜く士官達。彼らの言葉どおり、この巨漢もオルンヘル派の人間なのだ。
対抗して、防衛隊の兵士達も剣を抜く。
その場に緊迫した空気が流れる。
「今の言葉………我々への抵抗を宣言した物と受けとって、構わないんだな?」
「そ、その通りだ!」
「わ、我らがせ、成敗してくれる!」
ガルヴィンの威圧感に尻込みしながらも、後には引けぬと士官達が言い返す。
ガルヴィンは戦斧の柄から手を放し、
「貴様らなどに精霊具を使う必要もあるまい」
「侮辱しおって!」
「後悔させてやる!」
吼えて、剣を振りかざす士官達。
ガッ―――。
鈍い音を立てて、士官達の振りかざした剣が天井に突き刺さった。
慌てて引き抜こうとするが、焦れば焦るほどに抜けない。
「青二才が。屋内で武器を振るうときはもっと小さく振る物だ」
ガルヴィンは呆れたと言う風に肩を竦めて、
「こんな青二才と真面目にやりあう気にもなれん。捕らえろ」
命を受け、後ろに控えていた防衛隊の兵達が飛び出し、士官達を取り押さえた。
「己、ガルヴィン=ジングリッド!この私を誰だと思っている!このような仕打ちをすれば父上がおまえを許さんぞ!」
「俺がお前を誰だと思ってるかだと?」
両腕を防衛隊兵に抑えられ、立ち上がらされた士官にガルヴィンはぐいっと己の顔を近づけた。
「腐れ貴族の腐れ子息だろう。軍に入り―――連隊長か?連隊長にまで登り詰めたのを自分の能力だと勘違いしてる青二才だ。帝都防衛隊は帝都の治安を守るのがその務め。何人であろうとも、帝都の治安を乱す者は許さん。それよりも、さっきお前達はなかなか面白い話をしていたな?確か『我々、皇帝に真の忠誠を尽くす者達は須らく立ち上がり、君側の奸を討つべきである!』だったか?」
自分達の話していた内容を聞かれていた事を知り、士官達の顔面が蒼白になる。
「し、知らん………何の事だか。我々はただ集って酒を飲み、日頃の鬱屈した思いを酒の勢いに任せて吐いていただけだ」
「そうだ!」
「愚痴を零していただけで拘束しようと言うのか!」
連隊長の言葉に、他の士官達も息を吹き返したように口を開く。
ガルヴィンは連隊長の顔に自分の顔を寄せるために屈めていた膝を伸ばして、後ろを振り返った。
「―――と、この者達は言っているが、どうだ?主人」
「へい」
そこにはこの店の主人が立っていた。連隊長の瞳にやや希望の光が灯る。
この店は彼も良く通い、店主ともそれなりに話の合う常連だったのだ。
彼ならばきっと自分に有利な証言をしてくれるだろうと言う期待だ。
主人は真っ直ぐに、拘束されている連隊長を見つめ、
「彼らは確かに、謀反の相談をしておりました。宰相様を殺害し、君側の奸を討って皇帝陛下を御救いすると妄言を並べ立てておりました。しっかりとこの耳で聞きましてございます。へい」
「―――え?」
連隊長は思わず我が耳を疑った。今、主人は一体何を言ったのだ?
頭の中が真っ白になるような感じだった。
「良くわかった。御協力感謝する」
「はい。私の店が度々謀反の談義に使われていたなどと本当に怖いお話でございます」
「本当にそうだ。勇気ある主人の通報、真に感謝の念に堪えない」
「いえいえ、お上のお役に立てるのならば望外の幸福でございます」
「これは通報と捜査協力に対する謝礼だ」
ガルヴィンが小さな小袋を主人に渡す。じゃらりと音がした。恐らくはギミル銀貨だろう。
「ありがとうございます。それでは私はこれで」
言い置いて、主人はほくほくとした表情で奥に消えた。
それまで貴族の次男坊として何不自由なく生きてきた連隊長はこの時始めて、人間に裏切られたのだ。
始めて、人間の醜い本性を垣間見たのだ。そもそもこの店を談義に使うようになったのはあの主人が、
「近頃の宰相様の専横振りは目に余りますなぁ。あれじゃ、陛下が気の毒だって専らの噂ですよ。誰かあの宰相様を辞任に追い込めない物ですかね?ああいう方を君側の奸と言うのかもしれませんねぇ」
などと言っていたからなのだ。同じ思想を持つ者同士、この店ならば話しが外に漏れる事もないだろうと考えての事だったのだ。
ガルヴィンは失意の底に落ちている連隊長の顔を覗きこみ、
「後は取り調べの時にゆっくりと話そう―――連れていけ」
防衛隊の兵に両肩を極められ、連隊長達は連行されて行った。
一人残ったガルヴィンの元に、先程の店主がやってきた。
銀貨入りの小袋を返す。ガルヴィンはその小袋を懐に押し込んで、
「それにしても見事な罠だな。一ヶ月と言う時間を掛けただけの事はある」
「一度信用させれば後は問題ない」
主人はさっきまでのにこやかな表情とは打って変わった鋭い目つきをしていた。
その髪もさっきまでは極普通の黒髪だったのに、今は漂白したかのように白くなっている。
料理屋の主人は暁の頭領エシュアの変装だったのだ。
一ヶ月と言う時間を掛け、第一軍内の反宰相派士官拘束と言う目的を達した瞬間だ。
「後は奴らの口から反乱の詳細な情報を聞き出せば良い訳か」
暁の尽力によって、反乱の首謀者は判明している。しかし、首謀者だけを捕らえても意味はないので、宰相は皇帝ラインハルトとも相談した結果、反乱を実際に起こさせ、幹部級を全て拘束する事を極秘裏に決定したのだ。無論、拘束が不可能な場合は殺害も辞さない訳だが。
この宰相の案に、皇帝は激しい拒否反応を示した。彼の意見は、
「反乱を起こせば罪の無い一般の市民達が犠牲になる。首謀者一人を捕らえる事によって反乱を未然に防げるならばそうすべき」
と言う物だった。十五歳の少年にしてはしっかりとした正論だが、まだまだ甘い。
そもそも、今回の反乱とて、反皇帝・宰相派の最有力者は全く表面に姿を見せていない。
出来ればその最有力者を表に引きずり出し、これも拘束してしまおうと言うのが宰相の望みだ。
この会議に参加していたエシュアは冷静に宰相の考えを分析していた。
オルンヘルがどうして、反宰相派の一網打尽を狙っているのかと言えば、当然自分に反対する勢力を打倒しようと言う目的もあるだろう。しかし、打倒するだけならば必ずしも一網打尽にする必要は無く、頭となる幹部級の数人を捕えるか殺すかすれば良いのである。
それなのに、彼が一網打尽に固執するにはもう一つの原因が大きく関係しているのだ。
その、もう一つの理由とは軍令部の要職は現在、そのほとんどすべてが第一軍団の師団長等に掌握されているのだ。軍令部は軍令部次長のハーン=ハーベストを除いて、ほとんど完全に貴族連盟派で結束してしまっている。だが、反乱を起こさせ、その参加者で要職にある者を一網打尽にすれば貴族連盟派として結束していた軍令部に巨大な穴が出きる。その穴を自分の息の掛かった軍人を登用する事で埋め、帝国府に続いて軍令部をもその掌中に収めようと言うのだろう。
文武の権を一手に握れば、オルンヘルの権力は皇帝のそれすらも凌駕する。
だが、皇帝はそんなオルンヘルの考えに気付いていないようだ。それどころか、彼を信頼すらしている。
これからこの国では何が起こるのだろうか?
第七代皇帝ルメウス一世の御世にはその舅である宰相クロメデによって、血の粛清が行われている。
これは改革に反対する保守的で腐敗した貴族や通常質実剛健であるべきものが、堕落し、華やかな生活をするようになっていた軍人などを粛清の名の下に次々に処刑して行ったものだ。
当時、この改革に伴う粛清を評して、
『クロメデの鉄の拳が振り下ろされる度、帝都には血の雨が降るかのような有様であった』
としている事から、いつの頃からか、クロメデには『鉄血宰相』と言うあり難くも無い異名が付けられる事となったのだ。
「後事はそちらに一任して宜しいか?」
「ああ、構わん」
ガルヴィンは元々、尋問は自分達で行う腹積もりだったので、エシュアの申し出に簡単に頷いた。
―――第一軍の士官数名が国家反逆罪容疑で帝都防衛隊に拘束される。
この事態を受け、当然の事ながら第一軍は帝都防衛隊に抗議した。
士官を拘束する場合は事前に上級司令部に申し入れるべきだと言う論理だ。
しかし、帝都防衛隊は、
「これは帝国府よりの正式な指令である」
として、逮捕令状なども示し、第一軍の抗議を跳ね除けた。
だが、それで第一軍が引き下がる訳も無かった。もし士官達が尋問の結果、第一軍の挙兵計画を話してしまえばルト=リューベンの軍人人生は終わり、貴族になる夢もそこで断たれてしまうのだ。
拘束された士官達は挙兵の決行日やその目的など具体的な事は知らされていない。具体的な事はルトと彼の信頼している数人の腹心達しか知らないのだ。
しかし、士官達は直接ルトの口から、
「我々はいずれ君側の奸を討ち、この国を貴族の主導の元に正さねばならない」
と説明を受け、その言葉に使命感を燃やしていたのだ。
その事が明るみに出ただけでもルトの地位は危機に瀕する。
ルトは貴族連盟に救いを求めた。
元々、拘束された士官達は貴族の子弟、その親は貴族連盟に名を連ねている者達なのだ。
第一軍からの要請を受け、貴族連盟は帝都防衛隊に拘束した士官の無条件釈放を要請した。
だが、帝都防衛隊は帝国府からの命令である事を理由に、釈放を拒否。
連盟は帝国府にも同様の要請をした。帝国府からの回答は、
「取調べの結果、無実であれば即日釈放する」
と言う物だった。
しかし、それではルトが困るのだ。第一軍の司令部、軍団長室にて、ルト=リューベンは一人の男と会っていた。男はまだ若く、二十代になりたてのように見えた。灰色の髪に、同色の瞳を持ち、全身に何処となく影のような雰囲気を纏っているような男だ。
「挙兵計画の事が明るみに出ないようにするにはどうすべきだと思う、アルンヘル?」
青年はルトの腹心として、第一軍で参謀のような地位を持っていた。
名をアルンヘル=へードと言い、第二軍のカーン=オルベニーやオットー=セルバンと士官学校同期で、首席で卒業した優秀な男だ。アルンヘルは冷酷な輝きを宿した灰色の瞳で、上官を見据え、
「救出するか、それが無理ならば始末してしまうべきでしょう」
「おまえにそれができるか?」
「無論です」
「そうだったな。お前の精霊具はそう言った目的に打って付けだ」
ルトは息を吹き返したように、アルンヘルがしている不思議な紋様が刻まれた指輪を見た。
「―――始末しろ」
「はっ」
4 抹殺
帝国暦三三二年六月二日。
当然の事ながら、第一軍の士官拘束以来、帝国府と貴族連盟の仲は完全に冷え切っていた。
帝国府が提出する法案は貴族連盟が掌握する貴族院で全て否決され、貴族連盟が提出する法案は帝国府が掌握している臣民院が全て否決する。結果、どうなるか?政務の完全な停滞だ。
「―――なのにどうしてだろう。決済しなくちゃならない書類はこんなに沢山ある」
ラインハルトは思わず泣きそうな顔で呟いた。
未決の箱に入れられた書類は山のように積み重なっているのに、既決の書類箱にはまだ十枚ほどしか入っていない。既にこの机に座ってから二時間が経過していた。
今見ている書類は帝国府の検察官が権力の及ぶ範囲内で調査した帝国の租税の実態を示した物だ。
権力の及ぶ範囲とは即ち、皇帝の直轄領及び、検察官の受け入れを個人的に認めた―――即ち皇帝派の―――貴族の荘園領の事を指す。
調査の結果は惨憺たる物だった。調査した全九十六箇所の直轄領の内、実に六十箇所以上で過重な税が掛けられている。国が定めた税は収穫物の二割だと言うのに、酷いところでは八割も税として納めさせられている。しかも、税が払えなくなった村は私兵によって焼き打ちに遭い、多くの犠牲者が出ている。自分から進んで荘園内への検察官の立ち入りを認めた貴族達はさすがにそのような不法な課税はしていなかったが、逆を言えば、不法課税をしている貴族は全て貴族連盟派に属していると言う事だ。
彼らは国家権力の、荘園内への立ち入りを認めないと言う不入の権を盾にとって、検察官の立ち入りを断固拒否している。
こんこん。
「私です、陛下」
扉がノックされた。気配を消し、部屋の隅に立っていたヴァンがさっと扉に歩み寄り、扉を開ける。
入って来たのは宰相のオルンヘル=クリケット伯爵ともう一人、小太りで眼鏡を掛けていて、額に浮き出た汗を手拭で拭っている男、財務尚書のウェンヒルグ=ローレンス男爵だった。
「どうしたの?伯爵、それに男爵も」
オルンヘルは普段、ラインハルトと二人だけの時や親しい者達だけの時はローデンスで暮らして居た頃の口調で話すが、それ以外の者の前では敬語を以って喋っていた。
これは彼だけではなく、ラインハルトに親しい者達が極普通にしている事だが。
「はっ。ウェンヒルグ=ローレンス男爵が陛下に御目通りを願いたいとの事でしたので、同道いたしました次第」
「そう。で、何?男爵」
皇帝に視線を向けられて、真面目な男爵はしっかりと儀礼に則った礼をして、その場に膝をついて、口上を述べ始めた。
「陛下、御忙しい時間を割いての御謁見真に恐悦至極に存じ上げます。つきましては、申し述べたき議がござります」
「うん。何?」
「帝国の財政は逼迫しております。また、御無礼と存じ上げながら申し上げます。陛下の御父君にあらせられる先帝スレイマン三世陛下の治世に行われましたる増税によって、民は貧苦に喘いでおります。陛下の検地強化とそれに伴う税負担の公正化は真に結構な政策ではございますが、効果が現れるのは早くとも今年の秋。百姓の中にはその秋まで生きていくだけの食料を持たぬ者が多くあります。是非にも、これら貧民を救う手立てを講じていただきたくお願いに仕りましたる次第でございます」
「なるほど………それは確かに、重大事だね。今余が読んでいた検察官からの報告にも農民達の貧困振りは如実に現れていたよ。それで?具体的にはどうしろと言うんだい?」
「はっ………僭越ながら、余分な財政を貧民救済に当てて頂きたく―――」
「男爵。それは残念ながら難しい」
口を挟んだのは、オルンヘルだった。彼は皇帝の顔を一瞬見てから、語を繋いだ。
「先帝時代の遊行などに費やされた費用は莫大だ。これをほとんど帝国は国債で賄っている。その国債の返済に、余分な予算はすべて当ててしまっている。余剰予算が無ければ、貧民救済に当てる事も出来ない」
「そんな………伯爵、農民は国の礎だって余に教えてくれたのは伯爵じゃないか。余は夜起きて厠に行くけど、いつも廊下は明かりが点いているよ?誰も通らないのに。夜間の帝宮や公的施設の照明を消せば、少しは経費を節約できるんじゃないかな?他にもいろいろと削れる部分はあると思うよ」
「いくら削っても微々たる物に過ぎません。長期的には良い策かもしれませんが、今求められているのは秋までの半年間、貧民全員を救う短期的手立てなのです」
オルンヘルの口調は容赦が無い。
だがそれは貧民救済のための資金をケチっているのではなく、実際に何処にも無いのだ。
「う~ん………とりあえず、午後から国議があるから。それが終わってから、男爵、申し訳ないけどもう一度話し合おう」
「ははっ。国議の前に、煩わせましたる事、平にご容赦―――」
「良いんだよ、男爵。百姓は国の礎。財政は政府の礎なんだから―――って、受け売りだけどね」
横目でオルンヘルを見ながら言う。
平身低頭して出て行くウェンヒルグ。
ラインハルトは思案顔で、太った背中を見送った。
「―――軍事費を削るのがもっとも良いでしょうな」
ぽつり、とオルンヘルが呟く。
「うん―――でも、今の時代に兵力を削るのは死活問題だよ。それに、軍部はあまり好い顔をしないだろうしね」
「皇帝が軍部の御機嫌取り、滑稽だな」
「そうだね。でも今は必要だよ。少なくとも僕が、国を完全に掌握して安定するまでは。でしょ?」
「ふっ―――私はつくづく、自分の教育の才能に惚れ惚れする」
「ははは」
帝都防衛隊の司令部はその地下に広大な地下牢を有している。帝都で捕縛された罪人を収監するための物だ。しかし、ここでも差別意識は存在しており、平民は地下三階以下の湿気が多く、空気が動かず澱んだような牢に集団で押し込められるのに対し、貴族は地下一階と二階の、空調設備も整い、空気の循環もある牢に一人で入れられていた。
最も、その牢を居心地がよいと思う奇特な人間は余り居ないだろうが。
数日前に拘束された士官達は、半地下式の牢に入れられていた。全員が、個室である。
連隊長は信頼していた料理屋の主人が彼を裏切った事に対するショックからは既に立ち直っていた。
そして、すぐに自分達が釈放されると信じていた。
(父上が私を見捨てるわけが無い)
父は貴族連盟の一員であり、貴族連盟は会長アリーニ=アウグウェルツ以下、貴族の権益を守るために結束している。自分達の息子が防衛隊に捕まるなどと言う事を許しておくはずが無いのだ。
牢屋の警備は決して厳重とは言えない物だった。地下牢と地上とを繋ぐ階段の間に小さな部屋があり、その部屋に二人の看守が詰めているだけなのだ。その詰め所の一方の壁には鍵束も掛けられている。
二人の防衛隊兵士は普段と変わらない静まり返った詰め所の中で、一人は居眠り、もう一人は読書をしていた。
と、階段へと続く扉がかすかに開いた。
立て付けが悪く、ぎぃっと耳障りな音を立てる。
「―――ん?」
その音に気付いた読書をしていた兵士が本にしおりを挟んで閉じ、テーブルに置いた。
それから相棒の方へと目を向け、熟睡しているのを確認して、立ち上がる。
「風で開いたのか?」
ノブに手を掛け、開く。その外には―――
「なんだ、何も無いじゃないか」
そこは真っ暗だった。何も見えない。
安堵して、扉を締めようとし、兵ははたと気付いた。
「―――今は夜だったか?」
この階段には明り取り用の小窓がある。夜ならば光も入って来ず、真っ暗になる。
だが、今はまだ夜ではないはずだ。彼が交替して詰め所に入ってから、まだ二、三時間しか過ぎていないはずだ。
時間で言えば三時頃―――いくらなんでもまだ日が沈む時間ではない。
「じゃあ、こりゃ一体―――」
真っ暗で何も見えない。まるでそこに闇が沈殿しているかのように。
「!まさか―――」
兵が何かに気付いたように、一歩後退さった。
「どうやら気付かれたみたいですね」
声と共に、闇の中から、灰色の髪を持った若い男が出てきた。
「ッ―――!!」
兵士が慌てて相棒を呼ぼうとした次の瞬間、その男が顔の前に右手を翳した。
不思議な紋様の刻印された指輪が右手の薬指に嵌っていた。
その指輪が鈍く、黒い光を放っている。
「―――闇よ、有れ!」
指輪の輝きが強く、禍々しくなり、男の背後にあった闇が爆発したかのように弾けた。
爆裂した闇の中から無数の触手が飛び出し、兵の体を貫いた。
「がっ………」
悲鳴を挙げる事もできず、兵は微細な痙攣を繰り返しつつ、息絶えた。
触手は室内を蹂躙し、相棒は居眠りをしたまま、心臓を串刺しにされて永眠した。
数秒の間、触手の思うままに暴れさせていた男が、
「―――闇よ、去れ!」
再び呪文を口にすると、指輪の輝きが失われ、触手も消えた。
それまで串刺しにされて空に浮いていた兵の体が、床に溜まった自分自身の血だまりの中へと落ちた。
コツ、コツ、コツ………。
聞こえてきた足音に、連隊長は顔を挙げた。鉄格子の間から、通路の奥を見透かす。
小窓から差し込んでくる光と影がまだら模様を成す通路を一人の若い男が歩いてきた。
灰色の髪と同色の瞳、全身に何処と無く暗い雰囲気を纏った男だ。
連隊長はその男を知っていた。第一軍団長ルト=リューベンの腹心として、作戦立案などに関わっている男だ。
「アルンヘル!助けに来てくれたんだな!鍵は?鍵は手に入れたのか?」
連隊長の言葉に、周りの牢に入れられている士官達も歓声を挙げる。
アルンヘルは連隊長の牢の前に来ると、冷酷な光を宿した目で彼を見て、
「挙兵計画の事は話されましたか?」
「聞かれたが何も答えていない。当たり前だろう」
「そうですか。それは重畳」
「早く開けてくれ」
「それは出来ませんね」
「………なんだと?」
連隊長は我が耳を疑った。他の士官達も沈黙する。
「おまえは………私達を助けに来たのではないのか?」
「いえ、私は軍団長の命を受け―――」
アルンヘルが右手を翳した。黒い宝玉の指輪がそこにはあった。
「貴方方を抹殺する為にここまで来ました。闇よ、有れ!」
途端、指輪が黒く輝き、その光の中から無数の触手が飛び出してきた。
「うわぁぁあっ!?」
「ぎゃああっ!!」
地下牢にしばし、悲鳴が轟き、ある時を以って、静かになった。
交代時間になって、交代の防衛隊兵が詰め所に来て始めて、この事件が明るみになった。
地下牢に捉えられていた十名余りの士官達は皆、体に何かに貫通されたような穴を幾つも開け、絶命していた。
「―――ええっ!?」
ウェンヒルグは驚きのあまり、思わず大声をあげてしまった。
オルンヘルも口をあんぐりと開けている。
だが、玉座に座るラインハルトだけは、いつもと同じ、美しい顔に美しい微笑を浮かべているだけだ。
そして、彼の斜め後ろに控える護衛のヴァンも表情を変えはしなかった。元々感情表現が乏しいのだが。
「宝物庫の宝を売る。そうすれば、かなりの金額になるはずだよ」
「確かに………だが宝物の中には初代から受け継がれてきた宝も―――」
「そう言う歴史的価値が高いものは残しておこう。聞けば先帝の時代にはかなりあくどい略奪が行われたそうじゃない?元々民の物だったものを売るんだから、良いんだ。まあ、元の持ち主に戻るわけじゃないから、不満は残るかもしれないけど。その売却金を貧民救済に当てるんだ」
「なるほど………確かに」
「要は秋までの間の一時凌ぎが出来ればいいんだ。来年からはしっかりとした政治をして、国を潤さなければならないけど、今年だけの非常手段ってことで………駄目かな?財務尚書。それでも足りない?」
「い、いえっ………いえ、その、正確にどれほどの価値のある物がどれほど貯蔵されているのか、記録が無いのでなんとも―――」
「そう。じゃあ、今から検分しよう」
「今から!?」
「駄目?」
「い、いえ………別に問題はありませんが。何も陛下御自らご足労頂かなくても」
「ああ、気にしないで。余も人並みに宝には興味があるから。それに覇皇フェルモアから代々伝わる物もあるんでしょ?見たいじゃないか」
「は………はい」
ウェンヒルグは額に噴き出たいつもの二倍ぐらいの汗を忙しなく拭き取りながら、救いを求めるような縋る目付きを宰相に向けた。
宰相のオルンヘルは何とか最初の驚きから回復し、何事かを考える風情であったが、
「確かに宝物庫にどれほどの財宝が貯蔵されているのか、記録を作る必要もあるだろう。その財宝を売却して貧民救済に宛てると言うのもそう乱発できる物ではないが、一回だけなら有効だろう。宝物庫の財宝は皇帝の私物なのだから、その検分に皇帝が同道するのは当然だと思うが」
「ほら、男爵。伯爵も良いと言ってるし」
「畏まりました。では早速―――」
「ちょぉっと待ったぁっ!!」
いきなり、執務室の扉が開かれた。
入って来たのは鮮烈な赤髪をした軍人。アレク=ハーベストだ。
「不届きな事を考える者がいないとも限らないからな。俺も護衛として同道しよう」
「…………」
「…………」
ラインハルトとオルンヘルは沈黙して顔を見合わせ、苦笑のような物を浮かべたラインハルトが、
「不届きな事を考える者って、つまりはアレクの事でしょ?」
「なっ………俺が財物をこっそり懐に入れようなんて事を考えてるとでも思ってるのか!おまえは俺の事をなんだと思ってるんだ?」
両手をわきわきさせながら詰め寄るアレク。
ラインハルトは表情を崩す事も無く、言い切った。
「頼り甲斐のある幼馴染、女たらしで金と時間にルーズな赤髪の剣士」
「…………」
あまりにも図星なため、アレクは言い返すことも出来なかった。がっくりと肩を落とし、ただ辛うじて、うめく。
「これだから、幼馴染ってのはきついんだよ」
1 盟友
ラインハルト=シーザーがフロレシア帝国の皇帝となって一週間経った帝国暦三三二年五月四日。
豪奢な寝台の、ふかふかの布団に包まって、皇帝ラインハルト=シーザーは夢の中。
その時、隣の侍女控え室との間を遮る扉が開いた。
「おはよー、ライン、良い天気―――」
声はそこで途切れた。元気良く入室して来たシエナと窓際に椅子を置いて座っていたヴァンとの視線が正面からぶつかる。
「あっと………」
「…………」
気まずい沈黙が流れる。実はシエナはここ数日、暫く使われていなかった帝都のクリケット伯爵邸の片付けを手伝っていて、そちらに泊まっていたので、ヴァンがラインの直護衛となった事を知らなかったのだ。
「―――どなたですか?どうしてこの部屋に?」
「貴方は?」
「私が聞いてるのよ!」
生来の勝気さが出てきたのか、シエナがやや声を大きくする。
それでヴァンが怯んだ訳ではなかったが。
「う、うわっ、御免、だから止めて、シエナぁっ!」
「…………」
いきなり飛び起き、真っ青な顔で許しを請うかのように叫んだ皇帝を呆然と侍女と護衛が見る。
「………あれ?」
ラインはようやくシエナとヴァンに気付いた。
「どうしたの?」
「何よ今のは。まるで私がいつも恐怖を与えてるみたいじゃない」
「え、僕今何か言った?」
「―――深層心理」
ぽつり、とヴァンが言葉を漏らす。途端、シエナの表情が険しくなる。
「そうなの?」
「―――へ?」
訳がわからずに聞き返すライン。シエナは拳を握り締めて。
「心の奥底で私の事、そんな風に思ってるんだ?」
「い、いや………え?」
「成敗!」
「うぎゃあ!?」
「―――で、彼は一体誰なの?」
「ヴァンは僕の直護衛だよ」
「あらそうなの?私はてっきり―――」
「てっきり?何?」
聞き返すライン。シエナはあ、と呟いて真っ赤になり、
「な、何でもないわよ!」
「なんだよ、気になるなぁ………まあ良いや、シエナ、今日は重要な国賓が来るって聞いたんだけど、知ってる?」
起きたラインハルトは服を着替えながら、シエナに聞く。
「何言ってるのよ、今日はルシタニア連合王国からの特使が来るんじゃない」
「ああ、そうだったそうだった。そう言えば二、三日前に父さんがそんな事言ってたな」
「ってライン。忘れてたの?」
呆れたようなシエナの言葉に、ラインハルトが顔をしかめる。
「いや、忘れてたと言うよりは、忘れたいと言うかなんと言うか―――」
ラインハルトは脳裏にその時の自分と養父の会話を描き出した。
「―――ルシタニア連合王国………って北の国だよね?フロレシアとは同盟関係にある」
「そうだ。そこの王子レオン=ルシタニア殿下がいらっしゃる」
「―――なんで?」
「なんで?じゃない!おまえの皇位継承祝いに決まってるだろうが!」
オルンヘルは呆れたように怒鳴り、
「良いか?スタルナス帝国と敵対してる我が国にとってルシタニア連合王国は重要な同盟国なんだ。決して粗相の無いようにしろよ」
「うん。それで、そのレオン王子っていくつなの?」
「今年で十三歳になられた」
「あ。僕より年下なんだ。へえ」
「何がへえ、だ。おまえみたいに田舎で育った粗忽者とは異なり、殿下は生まれてこの方ずっと宮殿内で育てられてきた正真正銘の貴公子なんだ。田舎者と馬鹿にされないようにしっかりと儀礼を覚えて貰うからな」
「そんなぁ………僕、儀礼って苦手なんだけど」
「だから覚えて貰うんだ!ほら、さっさと行って来い!」
それが、三日前。
「―――っていうか、シエナ」
「はい?」
「三日間で儀礼を身につけろって言う方が無理難題だと僕は思うんだけど」
「それは………まあ、そうね」
シエナは苦笑のような物を浮かべて、ラインハルトの肩に手を置いた。
「でも、ラインはよくやってるわよ」
「―――うん。あ~あ、レオン王子かぁ………高慢な子だったらどうしよう?」
「そんなに怯える必要は無いわよ。国力・軍事力共にフロレシアの方が格上なんだから。もっと胸を張って堂々とすれば良いのよ」
「そんな事言われてもなぁ………」
ラインハルトが眉間に皺を寄せて、不安げに呟いた時、扉が急に開かれた。慌てて飛び込んできたのは無数のひだひだが付いて非常に歩きにくそうな黒の正装に身を包んだ文官だった。
「陛下!急いで御支度を!」
「え?………だって、王子達の到着までまだ二時間もあるよ」
壁際の豪華な柱時計をちらり、と見やって、ラインハルトが言う。
だが、文官はさらに切羽詰ったように、
「様子見に出させていた騎士から連絡が入ったのです。予定より一時間以上早く着きそうだと!」
「なんだって!?」
「陛下!急いで!」
呆然と驚きの声をあげるラインハルトの袖を掴んで、怖い形相でシエナが叫んだ。
帝都ルーガ。その正門。
豪華な六頭立ての馬車は重い蹄と車輪の音を響かせて、凱旋門を潜り抜けてすぐの広場で停車した。
広場には五百名ほどの近衛騎士が並び、装飾も煌びやかな甲冑と長柄槍の穂先を空へと向けていた。
時刻はちょうど太陽が空のもっとも高い場所にある頃。穏やかな春の陽射を浴びて、槍の穂先や甲冑が眩く輝く。近衛騎士達を左右に従えて、皇帝の一級正装に身を包んだラインハルトは左右に宰相のオルンヘル=クリケット、軍務尚書のツーラン=ヨーゼフなどの帝国府の要人、第一軍団長のルト=リューベン、第二軍団長のハーン=ハーベストなどの軍の要人、斜め後ろに護衛のヴァン=ブレイスを控えさせて、床机に座っていた。彼らの背後にはアリーニ=アウグウェルツを始めとする貴族達が集まり、そのさらに外側では無数の住民達が歓喜の声をあげている。城門の上にはフロレシア帝国の国旗である《力強き銀獅子》とルシタニア連合王国の国旗である《天秤の紋章》が仲良く暖かな風に翻っている。
市民達の手にも小さな国旗が握られ、それが激しく振られている。そんな、大歓声の中、馬車の御者がゆっくりと扉を開き、中から、一人の少年が降りてきた。褐色の肌に、赤い瞳、ややくすんだ金色の髪に、耳のあたりだけに少し入った緑色の髪が、鮮烈な印象を与える、ルシタニア連合王国の青い正装に身を包んだその姿は実に美しかった。彼が馬車から降りる前に、ラインハルトは床机を立って馬車のすぐ傍まで近付いていた。馬車から降り立った少年の前で、ラインハルトは胸の前で両手を組んで、深く頭を下げた。
「レオン殿下。よくぞお越しに。帝国臣民一億を代表して、歓迎いたします。長旅、御苦労様でした」
褐色の少年はその場に片膝を付いて、深々と一礼した。
「皇帝陛下御自ら市門まで御出迎え頂きまして、恐縮です」
「うん。貴殿は我々にとって、最高に礼するべき貴人ですから」
ラインハルトは微笑んで、レオンの腕を取った。女のように柔らかな腕であった。
「それでは城へ参ろうか」
「はい」
ラインハルトの言葉に、レオンは純真無垢な笑顔を向けて頷いた。
そして、レオンが連れてきたルシタニア連合王国の親衛隊三百名とラインハルトの身を守る近衛騎士五百名が取り囲む中心を、二人の貴人が城へと歩き始めた。
「我が父、ヨーゼフ=ルシタニアは先帝スレイマン三世陛下の不慮の事故死に深い哀悼の念を抱くと共に、新皇帝ラインハルト=シーザー陛下の御即位に惜しみの無い祝福を述べるものであります。また、フロレシア帝国とルシタニア連合王国双方にますますの繁栄と栄光が、永遠に続く事を確信し、また盟約を遵守する事をここに誓うものであります」
「ありがたい御言葉をありがとう。まだ右も左もわからぬ若輩者。父スレイマン三世亡き後、ヨーゼフ陛下を我が父とも思っていろいろと相談していきたいと思う、と御父君にお伝え願いたい」
「畏まりました。必ずやお伝えいたします」
「長旅で御疲れでしょうが、城のシェフが貴殿を歓迎するために腕によりを掛けて宴の準備をしている。是非とも晩餐を共にしたいのだが?」
「フロレシア帝国帝宮シェフの腕はラスカーナ大陸でも随一と聞き及びます。その料理を味わえると言うのなら、長旅の疲れも瞬く間に癒えましょう。お言葉に甘えて、御一緒させていただきます」
「うん」
これで、正式な謁見は終わった。ラインハルトは皇帝私室に引き下がり、レオンも自分に与えられた部屋へと戻った。ラインハルトは慣れない形式張った会話に疲れを覚えて、皇帝私室に戻るなり、ベッドに飛び込んでしまいたくなった。だが、まだしたい事があった。
「ヴァン」
「…………」
ラインハルトの呼びかけに、黒髪の護衛剣士が無言で聞く体勢を取る。
「これからレオン王子の部屋に行く。付いて来てくれるね?」
「―――畏まりました」
「うん。晩餐まではまだ四時間もあるからね。さっきレオン王子の従者に聞いたら、昼餉も取っていないんだって。お腹空いてるだろうから、シエナに頼んでパイを焼いてもらったんだ」
「―――そうですか」
「うん」
頷くと同時に、ラインハルトは思い出していた。シエナの料理の腕前を。
シエナのアップルパイは頬が落ちるほどに美味いのだが、それ以外の料理は思わず墓場を連想するほどにまずいのだ。どうしてなのかは知らないが。理由を問う勇気も無い。もし彼女に料理で文句を言わなければならないぐらいなら、裸でローデンス湖を泳いで渡る方がマシだろう。つまりは確実に死ぬと言う事だが。ラインハルトは私室のテーブルの上に置かれていたアップルパイ入りの籠を手に取って、
「じゃあ行くよ、ヴァン」
「―――はい」
ラインハルトとヴァンは皇帝私室を出て、迷いそうなほどに広い城内を歩いて、レオンの私室へとやってきた。扉の前にはルシタニア連合王国の親衛隊が警備に付いている。
「御苦労様。王子に会いたいんだけど、良いかな?」
「こ、皇帝陛下!?」
いきなり登場した皇帝陛下に、親衛兵が慌てて敬礼しながら目を見合わせる。
そして、扉が少しだけ開いて、初老の男が顔を出した。鋭い眼差しで兵士を睨んで、
「―――何事だ、騒々しい」
「レフ様!………皇帝陛下が殿下にお会いしたいといらっしゃっておられるのですが」
「皇帝陛下が?」
レフが、ラインハルトを見る。
「個人的に訪れただけだから、もし疲れて休んでいるようなら良いよ。晩餐でも会えるし」
「いえ………殿下はこの程度の旅で御疲れを覚えるような方ではありませんので、どうぞ」
(もしかして、嫌味に取られた?………そう言う意味で言ったんじゃないんだけど)
「うん。ありがとう。君達も御苦労様。あ、ヴァンはそこで待ってて」
「―――畏まりました」
ラインハルトは親衛兵にも労いの言葉を掛け、ヴァンを背に、部屋の中に入った。
窓際の席に、レオンが座っていた。
驚いた様子も無いのは、ラインハルトとレフの会話が聞こえていたからだろう。
ラインハルトが室内に入ってからその場に跪いて敬礼しようとする。
「あ、良いよ。僕は皇帝としてではなくラインハルト=シーザーとしてここに来たんだから」
ラインハルトは気さくな笑みを浮かべて、レオンを立ち上がらせると、テーブルの上に持って来た籠を置いた。
「なんだか今日は昼餉も食べてないって聞いたから。育ち盛りだし、晩餐まで辛いだろうと思ってアップルパイを持ってきたんだ。シェフじゃなくて僕の侍女が焼いた物だけど美味しいと思うよ」
レオンは赤い瞳を驚きに瞠って、テーブルの上に置かれている籠に向けた。
ラインハルトがその中に腕を突っ込んで、程よく狐色に焼きあがったパイをテーブルの上に置く。
部屋中に、仄かに甘い香が充満した。
「―――どうしてですか?」
ようやく声を出したレオンは、先ほどの謁見の間でのやり取りとは異なって、やはり年相応の幼さがあるように思えた。ラインハルトは苦笑のような物を浮かべて、
「どうしてってのはつまり、皇帝たる者がどうして自分でパイなんか持って来るんだ………って事?」
レオンが頷く。ラインハルトは苦笑を深くして、
「知ってるかもしれないけど、僕は元々ローデンスの田舎で暮らしていたんだ。本当だったら皇位を継ぐなんてことも無かった筈の身で。皇族としての教養とか貴人としての儀礼とかぜんぜん知らないんだ。今日のも付け焼刃だし。慣れてないから肩も凝るし眠くなるしで。だからこういうの君は嫌いかもしれないけど、僕なりの歓迎なんだ………けど、ごめん、迷惑だった?」
「…………」
呆気に取られたかのようにアップルパイとラインハルトを見比べていたレオンは、ぷっと吹き出して、すぐにあはは、と笑った。
「面白い人ですね、陛下は………僕も儀礼は苦手なんです。いつも街の子供達と遊んでばかりなので。だからレフにも良く怒られるんですけど。あ。僕の事はレオンって呼んで下さい。僕も堅苦しいのは苦手なんで―――そうだ、レフ。紅茶を淹れて」
「はっ………」
「みんなで食べよう。陛下の御好意だよ。答えなくちゃ」
「そんな押し付けがましいつもりで持ってきたんじゃないんだけど―――」
「あ、ごめんなさい、陛下、でも僕とっても嬉しいですよ」
無邪気に笑うレオン。ラインハルトは心の底から、この王子とは仲良く出来ると感じた。
レフも諦めたように嘆息して、
「では、紅茶を」
と言って控えの間に下がっていった。レオンは茶目っ気たっぷりに片目を瞑って、言った。
「レフの淹れる紅茶は本当においしいんですよ、楽しみにしててくださいね、陛下」
「それは楽しみだね」
ラインハルトも、屈託の無い笑みを浮かべて頷いた。
2 御茶会
場には和やかな空気が流れていた。
とても皇族、王族であるとは思えぬ、まるで庶民同士のような、よくても中流の貴族の子弟同士のような光景だった。
テーブルを挟むように椅子に座り、テーブルの上には半分ほど無くなったアップルパイと飲み干すたびに注がれる薄茶色の紅茶。
部屋の隅にはティーポットとタオルを持った給仕役の初老の男。
そんな光景。
話している事も実に他愛の無い物だったのだが。
「君達はどのぐらいルーガに滞在するの?」
と言う、ラインハルトの質問に、レオンは何の屈託も感じさせない笑顔を浮かべて、
「父君にはルーガはルシタニアとは比べ物にならないほど文化が進んでいるから、十分に勉強して来いと言われました。陛下の御伝言とこちらで見聞きした物事を送るのに使者は出しますが、僕は一月ぐらいは滞在してさまざまな事を学びたいと思っています………駄目ですか?」
レオンが不安げに眉を顰める。
自分の感情を素直に表に出してしまう………権謀術数渦巻く宮殿内ではそれでは無能と思われるかもしれないが、ラインハルトはそんな少年に―――二歳しか離れていないが―――自由奔放さを感じ取った。
似た者同士が惹かれあう、それは普遍的な真理であって、ラインハルトもローデンスの田舎でほとんど放任的に、自由奔放に育てられてきたのだ。アレクやシエナに、時折シオンを混ぜて。
だからこそ、ラインハルトも自分の心の奥底を隠す事が出来ないのだった。
彼は自分の表情にありありと心配そうな色が浮かんでいるのを自覚していなかった。
レオンもまた、ルーガとルシタニアの違いを述べ立てるのに忙しくて、ラインハルトの表情の変化には気付かなかった。
ただ、レオンの腹心のレフだけが、その鋭い眼差しをラインハルトの背中に突き刺していた。
この時、ラインハルトの脳裏には昨日の、オルンヘル=クリケット伯爵との会話が蘇っていた。
ラインハルトが午前の公務を終えて皇帝私室に戻ってみると、そこに養父の宰相オルンヘルと暁の頭領エシュアが待っていたのだ。エシュアは珍しい白髪に、薄茶色の鋭すぎる印象を感じる瞳を持ち、その瞳で皇帝を見つめていた。
「どうしたの?父さん、エシュアも」
ラインハルトが聞くと、
「彼にあることを調べさせていたのだ」
と、オルンヘルが説明する。
自分の椅子に腰掛けながら、ラインハルトが怪訝顔になる。
「調べるって………何を?」
「先帝暗殺の事だ。不可解な点が多すぎる。皇帝を暗殺されるなんてのは帝国にとっては信用問題だ」
「それはそうだろうけど………それで、犯人はわかったの?エシュア?」
「はっ。まず間違いなく。とある貴族の家中の者でございました。身柄を拘束しましたが、既に口封じされており、その者の背後に居ると思われる人物へと直結するような証拠は何も発見できませんでした」
「―――口封じ?」
「ナフの花という花がございます。この花の香を嗅ぐと人は記憶を失います」
「―――それで、その貴族と言うのは?」
「その貴族の名は―――」
そして、エシュアが告げた名は、ラインハルトでも、未来の難問を確信させるような物だった。
「―――陛下?」
「あ………」
ふと注意を戻すと、レオンが心配げに赤い瞳で、ラインハルトの顔を覗き込んでいた。
「あ、ごめん………話し、聞いてなかった。なんだっけ?」
慌てて取り繕うが、レオンは淡い微笑を浮かべて、首を左右に振った。
「どうやら陛下も御疲れのようですね。話しは晩餐の時にも出来ますし、今はゆっくり休まれては?ただでさえ、皇帝になりたてで気苦労も多いでしょうし。僕も休みます。実は陛下はどんな方だろうかと不安で昨夜もほとんど一睡もしてないんですよ。御腹が一杯になったので少し眠くなってきたところなんです」
「えっと………あの、ごめん、疲れてるのに付き合わせちゃって。じゃあ、休ませて貰うよ」
「はい。御気になさらず。楽しかったです、ありがとう。ああ、そうだ。このパイを焼いてくれた侍女の方に美味しかったと伝えてください」
「わかった。きっと喜ぶと思うよ。シエナ=クリケットと言って、僕の幼馴染なんだ。気が強くてね。それじゃ、晩餐で」
レオンの微笑みに、笑みを返して、ラインハルトは立ち上がった。
扉の所まで見送りに来るレオンに軽く会釈して、ラインハルトはレフが開けてくれた扉から部屋の外に出た。ラインハルトを吐き出して、扉がゆっくり、静かに閉まっていく。
完全に閉まってから、レフは一呼吸置いて、主人の方を顧みた。
「彼は皇帝の器に向いていないのではないでしょうか?」
レフが小声で呟く。
レオンは頬に苦笑のような物を浮かべて。
「確かに陛下は御優しすぎるね。頼りない感じもする。でも、彼はきっと良い皇帝になるよ」
「―――どうしてですか?」
「あのパイだよ」
レオンはそう言って、四分の一ほど残っているパイを指差した。
「―――あれが何か?」
レフが怪訝そうに小首をかしげる。レオンは屈託のない笑顔を浮かべて、
「美味しかった」
「………はあ」
得心行かないと言う風に、レフがさらに首をかしげる。
「あのパイには愛情が詰まっていた。主人のために少しでも美味しい物を、という真の愛情がね」
「…………」
「つまり、僕が言いたいのは、それだけ家臣に愛されてるって事だよ」
「それだけで、良い皇帝足り得ますか?」
レフの反論。それは正論であった。
レオンは扉の前から離れて、窓際の席に腰を下ろした。
そこからは、ルーガの街並みが一望の元に見下ろせる。
国賓に最高の夜景を見せたいと言う心配り、と言うよりは帝都の繁栄を誇示したいと言う配慮から彼らの部屋はこの部屋に定められたのだろう。皇帝の意思と言うよりは、宰相の配慮だろう。
しばし、そんな街を眺めていたレオンが、唐突に呟く。
「人に敬愛されない人間は、他の部分でどれほど優れていようとも、いずれは敗者となるしかない………先帝スレイマン三世のように、ね。でも確かにレフの言う通り、人に敬愛されるだけじゃ皇帝足り得ない。だからこそ、彼にとって、もうすぐ大きな山場が来るんだよ。果たして彼は家臣に敬愛されるだけの男なのか。それとも、この世を動かすほどの名君なのか」
「…………」
レフは沈黙したまま。だが、話しを聞いている事は間違いない。
「彼は試されるだろう。足元から」
外を眺めながら予告するレオンの表情は、先ほどラインハルトに見せていた物とは異なり、ひどく大人びて見えた。或いはこちらがレオン=ルシタニアの素顔であり、あの無邪気さは王族としての物なのかも知れない。さらに言えば、両方とも、彼の素顔なのかもしれない。
どちらにしろ、ラインハルトが考えたほど、彼は純真で無垢な少年と言う訳ではなさそうである。
「その結果次第では、盟約の破棄も………ありえるかもね」
晩餐と言っても、陪食者の数も多く、ゆっくりと話しをする時間など無に等しい。
他国の王族に取り入ろうとする貴族やその婦人、息女達がレオンを取り囲む中、ラインハルトは慣れぬ葡萄酒に火照った体を冷やそうとテラスに出た。
そこからは、城下が見下ろせる。
視線を下に向ければ、闇に沈んだ街に無数の灯火が輝き目を奪う。
視線を上に転ずれば、闇に浮かぶ星の無数の煌きが瞬き息を呑む。
「―――ふう」
「どうした?こんな所で、浸って」
声に振り向けば。
「―――父さんか」
「なんだ?その期待を裏切ったみたいな言い方は」
オルンヘルが両手に葡萄酒のグラスを持って、横に並ぶ。
「どうせなら妙齢の美女に声をかけてほしかったな」
ラインハルトの言葉にオルンヘルは肩を竦めて、
「柄にも無い事を。シエナを悲しませんでくれよ。尽くす事しかしらん娘だからな」
「うん。わかってるよ―――でも本当にシエナには助けられてるよ」
「そうか。自慢の娘だからな」
オルンヘルの顔がやや緩む。自慢の娘、というのは本当なんだろう。
「ほら。皇帝が暗い顔してるな」
「―――うん」
ラインハルトは差し出されたグラスを受け取り、一息に飲み干した。
オルンヘルはテラスの手摺に背を預けて、まるで世間話でもするかのような感じで語りかけてきた。
「連中が動いた」
ぴくり。
思わず体が反応する。だが、視線は街の光に据えたまま、囁くように聞き返す。
「どんな?」
「人を走らせた。何処へだと思う?」
「何処へ?………わからないよ、そんなの」
「少しは考えろ。何事も人任せでは皇帝としては失格だぞ」
「………。僕を廃そうとするなら、それなりの後ろ盾が必要だよ。だったら、今帝国と対立状態にある国が良い。スタルナス帝国でしょ?」
「わかってんなら話しが早い。その通りだ」
「使者はすべて捕らえたの?」
「いや。エシュアに命じて、強盗に偽装しつつ一人を襲っただけだ。他はそのまま行かせた」
「どうして?」
「スタルナス帝国がまともに動くと思うか?………いや、動けると思うか?」
そうなのだ。現在、スタルナス帝国の軍事力は低下している。
なぜならば彼らは一ヶ月と少し前、エルベス川での戦闘でフロレシア帝国軍と戦い、大敗を喫しているからだ。スレイマン三世は治世に問題はあったが、軍事的にはまさに天才だった。戦えば勝った。
吟遊詩人達は彼の治世の不味さを省き、武勇だけの詩を歌っている。その歌を聴く限りでは確かに彼は英雄だろう。しかし、彼はそれだけではない。それだけならば国がこんなに疲弊する事も無かったのだ。
「密書にはなんて書いてあったの?」
「約定のままに」
オルンヘルはまるで歌の一節でも読み上げるかのように抑揚をつけて囁いた。
「だったら、動くのかもしれないじゃない。約定ってのが何の事かはわからないけど」
「いや。おそらくは連中は良い様に遊ばれてるな。スタルナスとしては軍事力を回復させる時間稼ぎをしたい所だろう。そこで、馬鹿な貴族を誘って、こっちに内乱を起こさせようとしている。もしかしたら、内乱の隙に乗じて少数の兵力を送り込んできて国境の近くの村を襲うぐらいの事はするかもしれないが。本格的に侵攻してくる気は無いだろう。いや、できないだろう」
「わかったよ。言われてみれば確かにそうだよ。でも、動きってそれだけ?」
「ああ。今の所、動いているのはごく一部だけ。大体本当にやる気があるんだかどうだか」
「どういうこと?」
「一番の実力者が動きを見せてない。奴の動きは明らかにそいつの指示の筈なのに、だ。恐らくは当て馬ぐらいにしか思ってないんだろうが………あいつだけで大掛かりな反乱が起こせると思っているあたり、既に馬鹿だな」
「伯爵………!酒に酔った勢いであまり滅茶苦茶な事を言うもんじゃないよ」
「ん………おお、これはすみませんな、陛下。はっはっは。今宵は愉快だなぁ」
テラスに若い貴族のカップルが出てきたのを見計らって、ラインハルトとオルンヘルは別れた。
皇帝と宰相、二人が人目を忍んで話しをしていたテラスの、闇が凝縮したかのような暗がりの中から、染み出すようにして一人の初老の男が現れた。
鋭い眼差しで晩餐会場へと戻っていく二人の背中を見つめてから、今聞いた話しを反芻する。そしてその話しが数時間前に彼の主人が口にしていた言葉を裏付けている事に、彼自身少なからず驚いた。
彼の主人はこのことを正確に読んでいたのだ。
(この国で反乱が起きようとしている………)
心の中で呟いて、男、レフ=スタッカートは主人に報告するべく、晩餐会場へと戻っていった。
そのレフの姿を見守る鋭い眼差しがあった。珍しい白髪に、鋭い眼差しを持つ男。
暁の頭領エシュアである。
何を考えているのかわからない、苛烈な眼差しを持つ男は、ふと、空を見上げた。
その行為には何の意味も無かったのかもしれないが、心なしか、男の鋭すぎる眼差しが穏やかな物に変化したように見えたのは、あるいは気のせいではないのかもしれない。
晩餐会の会場には軍令部長のルト=リューベンも出席していた。
彼は酒を大量に飲み、泥酔の一歩手前と言った状態だった。
彼の頭の中には、数日前、アリーニ=アウグウェルツから届いた密書の事で一杯だった。
『軍を起こし、君側の奸を討て』
君側の奸と言えば、宰相オルンヘル=クリケット伯爵の事だろう。
だが、ルトは苦悩する。
これはアリーニが皇帝となる為の地盤を固める事には繋がるだろう。
皇帝はまだほんの子供に過ぎず、オルンヘルが死ねばまともな政策を行えはしないだろう。
だが、果たしてこのような反乱を起こして、自分はどうなる?
彼は軍令部長として全軍を管掌する立場にあるが、各軍団長達はほぼ自分の意思で己の軍団を動かす事が可能だ。帝国の長い歴史の間で、各軍団長にはその管掌する軍管区内でのある程度の自由な権利が与えられている。敵軍が国境に集結などすれば、中央の指示を待たずに攻撃する事すら可能なのだ。
これは時折、独走を招く物の、今の所はさしたる問題も起きていないので、この慣習は今も行われている。なぜこのような慣習が出来たのかと言えば、やはり帝国の国土が広すぎると言うのがその主たる要因だろう。敵軍の国境集結などの危急の折にわざわざ帝都にお伺いを立てていたのでは後手に回ってしまう。戦争において最も重要なのは先制だ。その為の慣習なのだ。
果たして、ルトが帝都において軍を起こし、オルンヘル派を一掃する事に成功したとして、他の軍団は自分を支援してくれるか?しないだろう。第一軍だけは貴族の子弟中心の軍団なので、彼の命令に従ってくれるだろう。だが、他の軍団長は協力してくれないだろう。
むしろ第二軍団長のハーン=ハーベストを中心に、反ルトで結束するかもしれない。
酔っていても士官学校主席の頭脳はフル回転していた。
アリーニはスタルナス帝国も協力を申し出ていると言っていた。
だが、本当にスタルナス帝国軍が動くとは思えない。
(オルンヘルと同時にハーン=ハーベストを始末する)
それしかない。それが、士官学校主席卒業者の下した結論だった。
幸いにも、ハーン=ハーベストの第二軍団は帝都周辺の各防衛拠点を守備するのがその任務だ。
故に帝都にはオルンヘル=クリケットの息子であるシオン=クリケットが師団長を務める第一歩兵師団の一万人だけが第二軍団の兵力だ。第一歩兵師団にはハーン=ハーベストの息子であるアレク=ハーベストも居る。
(同時に皇帝陛下を奉って、各軍団に号令を下すと言う手もある)
ルト=リューベンはさらに酒を飲み続けた。飲めば飲むほど、頭が冴えていく様だった。
3 罠
帝国暦三三二年五月二十七日。
皇帝ラインハルト=シーザーが即位して一ヶ月。
フロレシア帝国の各軍団はその地方に根付いた軍団の為、軍団に所属する兵は基本的に地元で徴兵される。本拠地を帝都ルーガに定め、同じ中央軍管区に属している第一軍団と第二軍団はその徴兵の対象を分ける事によって、住み分けをしていた。
第一軍団は貴族の子弟や富裕な市民の子弟によって構成されており、第二軍は貧民や農村の農民などで構成されているのだ。第二軍の任務は帝都周辺の各防衛拠点―――城や砦、街など―――に部隊を連隊、或いは師団規模で駐屯させ、治安を維持する。
第一軍は帝都に常駐し、他方面の軍団からの救援要請があればいつでも出撃できるよう即応体勢を整えて待機するのが任務である。
つまり、第一軍は平時に於いては全く訓練以外にする事がない暇な部隊なのだ。
帝都の治安維持はそれ専門の帝都防衛隊が務め、帝宮や帝国府の警備は近衛騎士団が交替で務めているからだ。その第一軍を構成しているのが貴族の子弟や富裕市民の子息ともなれば訓練を真面目にやる筈もなく、彼らは日々遊んでいる毎日だった。
とはいえ、エルベス川の戦闘において最も功績が少なかったと皇帝の叱責を受け、一時期、軍団長のルト=リューベン以下必死に訓練に励んだ時期もあった。
しかし、それが実を結ぶ前に、皇帝は崩御してしまったのだ。
軍には政治に干渉しないと言う不文律があったが、フロレシア帝国の三百有余年の歴史において、最も歴史に干渉しているのが第一軍なのだ。
アリーニ=アウグウェルツの細工か、それとも自発的な物かは不明だが、第一軍の若手の士官を中心に君側の奸を取り除けと言う声が上がっていた。
そして、皇帝即位一ヶ月のこの日、中隊長や連隊長を中心に十名余りの士官がルーガの料理屋の奥の座敷に集っていた。
「皇帝が代わり、オルンヘル=クリケットなる男が権力を握っており、帝国府は反貴族的な政策ばかりを臣民院に提出している。特に不届き千万なのは貴族の私領である荘園領内への帝国府の検察官の立ち入りを求める法案である!」
その法案は貴族が不正に農民から搾取していると思われる二重課税の証拠を掴むため、荘園領内の調査をしようと言う法案であった。元々、荘園は手厚い保護を受け、帝国府の検察官の立ち入りを認めないという法律もある。オルンヘルの帝国府はこの法案を廃し、新法案を通そうとした。
「不正課税の証拠を暴けば、貴族の違法を明らかにし、その荘園を没収する事ができる。彼はそう帝国議会で演説した。そうすれば、帝国の収益が増え、逼迫している帝国財政が好転すると。しかし、これは偽りである。彼は我々貴族の地位を失墜させ、己の権威を高めようとしているに違いない。我々貴族の荘園は伝統ある正統なる権利だ。不正課税などはない。軍人として、或いは施政者として我々貴族が臣民に感謝されるのは当然であり、臣民が感謝の意として少し多めに税を支払っているに過ぎないのだ。
我々貴族を迫害しようとするような敵視政策を許すわけにはいかない。しかも、これは皇帝の意思ではない。皇帝は周囲をオルンヘル派の人間に固められ、貴族は悪だと言う欺瞞情報を毎日聞かされているのだ。我々、皇帝に真の忠誠を尽くす者達は須らく立ち上がり、君側の奸を討つべきである!」
「そうだ、そうだ!」
「宰相の横暴を許すな!」
「我々が君側の奸を討ち、皇帝陛下を御救い奉るのだ!」
若い士官達が顔を真っ赤にし、立ち上がって杯を翳す。
誓いの酒を酌み交わそうとした瞬間、いきなり座敷の戸が開かれた。
「なんだ!?」
士官達が誰何の声を飛ばす。
飛び込んできた男達は軍服を着てはいたが、士官達のような正規軍の軍装ではなかった。
正規軍の軍服は黒だが、踏み込んできた男達の軍服は深緑色だった。
「帝都防衛隊だ!貴様達に国家反逆罪の嫌疑が懸けられている。大人しく武装を解き、投降せよ」
「笑わせるな、帝国府の犬が!」
「それは聞き捨てならんな」
「うっ………」
深緑色の軍服を着た帝都防衛隊の兵が自然に道を開ける。
そこから現れたのは見上げるような大男だった。刈り上げた黒髪にごわごわと口元を覆う髭。
肩には巨大な戦斧を担いでいる。
帝都の守護を司る帝都防衛隊長のガルヴィン=ジングリッドだ。
ぎょろりとした目で士官達を見据え、座敷の畳にどん、と斧を突き刺す。
「誰が帝国府の犬だと?………貴様達こそ、貴族連盟の犬だろうが」
「平民出の分際で!貴族を侮辱するのか!」
「許さんぞ!」
「君側の奸の一味め!今ここで、成敗してくれる!」
言い放ち、剣を抜く士官達。彼らの言葉どおり、この巨漢もオルンヘル派の人間なのだ。
対抗して、防衛隊の兵士達も剣を抜く。
その場に緊迫した空気が流れる。
「今の言葉………我々への抵抗を宣言した物と受けとって、構わないんだな?」
「そ、その通りだ!」
「わ、我らがせ、成敗してくれる!」
ガルヴィンの威圧感に尻込みしながらも、後には引けぬと士官達が言い返す。
ガルヴィンは戦斧の柄から手を放し、
「貴様らなどに精霊具を使う必要もあるまい」
「侮辱しおって!」
「後悔させてやる!」
吼えて、剣を振りかざす士官達。
ガッ―――。
鈍い音を立てて、士官達の振りかざした剣が天井に突き刺さった。
慌てて引き抜こうとするが、焦れば焦るほどに抜けない。
「青二才が。屋内で武器を振るうときはもっと小さく振る物だ」
ガルヴィンは呆れたと言う風に肩を竦めて、
「こんな青二才と真面目にやりあう気にもなれん。捕らえろ」
命を受け、後ろに控えていた防衛隊の兵達が飛び出し、士官達を取り押さえた。
「己、ガルヴィン=ジングリッド!この私を誰だと思っている!このような仕打ちをすれば父上がおまえを許さんぞ!」
「俺がお前を誰だと思ってるかだと?」
両腕を防衛隊兵に抑えられ、立ち上がらされた士官にガルヴィンはぐいっと己の顔を近づけた。
「腐れ貴族の腐れ子息だろう。軍に入り―――連隊長か?連隊長にまで登り詰めたのを自分の能力だと勘違いしてる青二才だ。帝都防衛隊は帝都の治安を守るのがその務め。何人であろうとも、帝都の治安を乱す者は許さん。それよりも、さっきお前達はなかなか面白い話をしていたな?確か『我々、皇帝に真の忠誠を尽くす者達は須らく立ち上がり、君側の奸を討つべきである!』だったか?」
自分達の話していた内容を聞かれていた事を知り、士官達の顔面が蒼白になる。
「し、知らん………何の事だか。我々はただ集って酒を飲み、日頃の鬱屈した思いを酒の勢いに任せて吐いていただけだ」
「そうだ!」
「愚痴を零していただけで拘束しようと言うのか!」
連隊長の言葉に、他の士官達も息を吹き返したように口を開く。
ガルヴィンは連隊長の顔に自分の顔を寄せるために屈めていた膝を伸ばして、後ろを振り返った。
「―――と、この者達は言っているが、どうだ?主人」
「へい」
そこにはこの店の主人が立っていた。連隊長の瞳にやや希望の光が灯る。
この店は彼も良く通い、店主ともそれなりに話の合う常連だったのだ。
彼ならばきっと自分に有利な証言をしてくれるだろうと言う期待だ。
主人は真っ直ぐに、拘束されている連隊長を見つめ、
「彼らは確かに、謀反の相談をしておりました。宰相様を殺害し、君側の奸を討って皇帝陛下を御救いすると妄言を並べ立てておりました。しっかりとこの耳で聞きましてございます。へい」
「―――え?」
連隊長は思わず我が耳を疑った。今、主人は一体何を言ったのだ?
頭の中が真っ白になるような感じだった。
「良くわかった。御協力感謝する」
「はい。私の店が度々謀反の談義に使われていたなどと本当に怖いお話でございます」
「本当にそうだ。勇気ある主人の通報、真に感謝の念に堪えない」
「いえいえ、お上のお役に立てるのならば望外の幸福でございます」
「これは通報と捜査協力に対する謝礼だ」
ガルヴィンが小さな小袋を主人に渡す。じゃらりと音がした。恐らくはギミル銀貨だろう。
「ありがとうございます。それでは私はこれで」
言い置いて、主人はほくほくとした表情で奥に消えた。
それまで貴族の次男坊として何不自由なく生きてきた連隊長はこの時始めて、人間に裏切られたのだ。
始めて、人間の醜い本性を垣間見たのだ。そもそもこの店を談義に使うようになったのはあの主人が、
「近頃の宰相様の専横振りは目に余りますなぁ。あれじゃ、陛下が気の毒だって専らの噂ですよ。誰かあの宰相様を辞任に追い込めない物ですかね?ああいう方を君側の奸と言うのかもしれませんねぇ」
などと言っていたからなのだ。同じ思想を持つ者同士、この店ならば話しが外に漏れる事もないだろうと考えての事だったのだ。
ガルヴィンは失意の底に落ちている連隊長の顔を覗きこみ、
「後は取り調べの時にゆっくりと話そう―――連れていけ」
防衛隊の兵に両肩を極められ、連隊長達は連行されて行った。
一人残ったガルヴィンの元に、先程の店主がやってきた。
銀貨入りの小袋を返す。ガルヴィンはその小袋を懐に押し込んで、
「それにしても見事な罠だな。一ヶ月と言う時間を掛けただけの事はある」
「一度信用させれば後は問題ない」
主人はさっきまでのにこやかな表情とは打って変わった鋭い目つきをしていた。
その髪もさっきまでは極普通の黒髪だったのに、今は漂白したかのように白くなっている。
料理屋の主人は暁の頭領エシュアの変装だったのだ。
一ヶ月と言う時間を掛け、第一軍内の反宰相派士官拘束と言う目的を達した瞬間だ。
「後は奴らの口から反乱の詳細な情報を聞き出せば良い訳か」
暁の尽力によって、反乱の首謀者は判明している。しかし、首謀者だけを捕らえても意味はないので、宰相は皇帝ラインハルトとも相談した結果、反乱を実際に起こさせ、幹部級を全て拘束する事を極秘裏に決定したのだ。無論、拘束が不可能な場合は殺害も辞さない訳だが。
この宰相の案に、皇帝は激しい拒否反応を示した。彼の意見は、
「反乱を起こせば罪の無い一般の市民達が犠牲になる。首謀者一人を捕らえる事によって反乱を未然に防げるならばそうすべき」
と言う物だった。十五歳の少年にしてはしっかりとした正論だが、まだまだ甘い。
そもそも、今回の反乱とて、反皇帝・宰相派の最有力者は全く表面に姿を見せていない。
出来ればその最有力者を表に引きずり出し、これも拘束してしまおうと言うのが宰相の望みだ。
この会議に参加していたエシュアは冷静に宰相の考えを分析していた。
オルンヘルがどうして、反宰相派の一網打尽を狙っているのかと言えば、当然自分に反対する勢力を打倒しようと言う目的もあるだろう。しかし、打倒するだけならば必ずしも一網打尽にする必要は無く、頭となる幹部級の数人を捕えるか殺すかすれば良いのである。
それなのに、彼が一網打尽に固執するにはもう一つの原因が大きく関係しているのだ。
その、もう一つの理由とは軍令部の要職は現在、そのほとんどすべてが第一軍団の師団長等に掌握されているのだ。軍令部は軍令部次長のハーン=ハーベストを除いて、ほとんど完全に貴族連盟派で結束してしまっている。だが、反乱を起こさせ、その参加者で要職にある者を一網打尽にすれば貴族連盟派として結束していた軍令部に巨大な穴が出きる。その穴を自分の息の掛かった軍人を登用する事で埋め、帝国府に続いて軍令部をもその掌中に収めようと言うのだろう。
文武の権を一手に握れば、オルンヘルの権力は皇帝のそれすらも凌駕する。
だが、皇帝はそんなオルンヘルの考えに気付いていないようだ。それどころか、彼を信頼すらしている。
これからこの国では何が起こるのだろうか?
第七代皇帝ルメウス一世の御世にはその舅である宰相クロメデによって、血の粛清が行われている。
これは改革に反対する保守的で腐敗した貴族や通常質実剛健であるべきものが、堕落し、華やかな生活をするようになっていた軍人などを粛清の名の下に次々に処刑して行ったものだ。
当時、この改革に伴う粛清を評して、
『クロメデの鉄の拳が振り下ろされる度、帝都には血の雨が降るかのような有様であった』
としている事から、いつの頃からか、クロメデには『鉄血宰相』と言うあり難くも無い異名が付けられる事となったのだ。
「後事はそちらに一任して宜しいか?」
「ああ、構わん」
ガルヴィンは元々、尋問は自分達で行う腹積もりだったので、エシュアの申し出に簡単に頷いた。
―――第一軍の士官数名が国家反逆罪容疑で帝都防衛隊に拘束される。
この事態を受け、当然の事ながら第一軍は帝都防衛隊に抗議した。
士官を拘束する場合は事前に上級司令部に申し入れるべきだと言う論理だ。
しかし、帝都防衛隊は、
「これは帝国府よりの正式な指令である」
として、逮捕令状なども示し、第一軍の抗議を跳ね除けた。
だが、それで第一軍が引き下がる訳も無かった。もし士官達が尋問の結果、第一軍の挙兵計画を話してしまえばルト=リューベンの軍人人生は終わり、貴族になる夢もそこで断たれてしまうのだ。
拘束された士官達は挙兵の決行日やその目的など具体的な事は知らされていない。具体的な事はルトと彼の信頼している数人の腹心達しか知らないのだ。
しかし、士官達は直接ルトの口から、
「我々はいずれ君側の奸を討ち、この国を貴族の主導の元に正さねばならない」
と説明を受け、その言葉に使命感を燃やしていたのだ。
その事が明るみに出ただけでもルトの地位は危機に瀕する。
ルトは貴族連盟に救いを求めた。
元々、拘束された士官達は貴族の子弟、その親は貴族連盟に名を連ねている者達なのだ。
第一軍からの要請を受け、貴族連盟は帝都防衛隊に拘束した士官の無条件釈放を要請した。
だが、帝都防衛隊は帝国府からの命令である事を理由に、釈放を拒否。
連盟は帝国府にも同様の要請をした。帝国府からの回答は、
「取調べの結果、無実であれば即日釈放する」
と言う物だった。
しかし、それではルトが困るのだ。第一軍の司令部、軍団長室にて、ルト=リューベンは一人の男と会っていた。男はまだ若く、二十代になりたてのように見えた。灰色の髪に、同色の瞳を持ち、全身に何処となく影のような雰囲気を纏っているような男だ。
「挙兵計画の事が明るみに出ないようにするにはどうすべきだと思う、アルンヘル?」
青年はルトの腹心として、第一軍で参謀のような地位を持っていた。
名をアルンヘル=へードと言い、第二軍のカーン=オルベニーやオットー=セルバンと士官学校同期で、首席で卒業した優秀な男だ。アルンヘルは冷酷な輝きを宿した灰色の瞳で、上官を見据え、
「救出するか、それが無理ならば始末してしまうべきでしょう」
「おまえにそれができるか?」
「無論です」
「そうだったな。お前の精霊具はそう言った目的に打って付けだ」
ルトは息を吹き返したように、アルンヘルがしている不思議な紋様が刻まれた指輪を見た。
「―――始末しろ」
「はっ」
4 抹殺
帝国暦三三二年六月二日。
当然の事ながら、第一軍の士官拘束以来、帝国府と貴族連盟の仲は完全に冷え切っていた。
帝国府が提出する法案は貴族連盟が掌握する貴族院で全て否決され、貴族連盟が提出する法案は帝国府が掌握している臣民院が全て否決する。結果、どうなるか?政務の完全な停滞だ。
「―――なのにどうしてだろう。決済しなくちゃならない書類はこんなに沢山ある」
ラインハルトは思わず泣きそうな顔で呟いた。
未決の箱に入れられた書類は山のように積み重なっているのに、既決の書類箱にはまだ十枚ほどしか入っていない。既にこの机に座ってから二時間が経過していた。
今見ている書類は帝国府の検察官が権力の及ぶ範囲内で調査した帝国の租税の実態を示した物だ。
権力の及ぶ範囲とは即ち、皇帝の直轄領及び、検察官の受け入れを個人的に認めた―――即ち皇帝派の―――貴族の荘園領の事を指す。
調査の結果は惨憺たる物だった。調査した全九十六箇所の直轄領の内、実に六十箇所以上で過重な税が掛けられている。国が定めた税は収穫物の二割だと言うのに、酷いところでは八割も税として納めさせられている。しかも、税が払えなくなった村は私兵によって焼き打ちに遭い、多くの犠牲者が出ている。自分から進んで荘園内への検察官の立ち入りを認めた貴族達はさすがにそのような不法な課税はしていなかったが、逆を言えば、不法課税をしている貴族は全て貴族連盟派に属していると言う事だ。
彼らは国家権力の、荘園内への立ち入りを認めないと言う不入の権を盾にとって、検察官の立ち入りを断固拒否している。
こんこん。
「私です、陛下」
扉がノックされた。気配を消し、部屋の隅に立っていたヴァンがさっと扉に歩み寄り、扉を開ける。
入って来たのは宰相のオルンヘル=クリケット伯爵ともう一人、小太りで眼鏡を掛けていて、額に浮き出た汗を手拭で拭っている男、財務尚書のウェンヒルグ=ローレンス男爵だった。
「どうしたの?伯爵、それに男爵も」
オルンヘルは普段、ラインハルトと二人だけの時や親しい者達だけの時はローデンスで暮らして居た頃の口調で話すが、それ以外の者の前では敬語を以って喋っていた。
これは彼だけではなく、ラインハルトに親しい者達が極普通にしている事だが。
「はっ。ウェンヒルグ=ローレンス男爵が陛下に御目通りを願いたいとの事でしたので、同道いたしました次第」
「そう。で、何?男爵」
皇帝に視線を向けられて、真面目な男爵はしっかりと儀礼に則った礼をして、その場に膝をついて、口上を述べ始めた。
「陛下、御忙しい時間を割いての御謁見真に恐悦至極に存じ上げます。つきましては、申し述べたき議がござります」
「うん。何?」
「帝国の財政は逼迫しております。また、御無礼と存じ上げながら申し上げます。陛下の御父君にあらせられる先帝スレイマン三世陛下の治世に行われましたる増税によって、民は貧苦に喘いでおります。陛下の検地強化とそれに伴う税負担の公正化は真に結構な政策ではございますが、効果が現れるのは早くとも今年の秋。百姓の中にはその秋まで生きていくだけの食料を持たぬ者が多くあります。是非にも、これら貧民を救う手立てを講じていただきたくお願いに仕りましたる次第でございます」
「なるほど………それは確かに、重大事だね。今余が読んでいた検察官からの報告にも農民達の貧困振りは如実に現れていたよ。それで?具体的にはどうしろと言うんだい?」
「はっ………僭越ながら、余分な財政を貧民救済に当てて頂きたく―――」
「男爵。それは残念ながら難しい」
口を挟んだのは、オルンヘルだった。彼は皇帝の顔を一瞬見てから、語を繋いだ。
「先帝時代の遊行などに費やされた費用は莫大だ。これをほとんど帝国は国債で賄っている。その国債の返済に、余分な予算はすべて当ててしまっている。余剰予算が無ければ、貧民救済に当てる事も出来ない」
「そんな………伯爵、農民は国の礎だって余に教えてくれたのは伯爵じゃないか。余は夜起きて厠に行くけど、いつも廊下は明かりが点いているよ?誰も通らないのに。夜間の帝宮や公的施設の照明を消せば、少しは経費を節約できるんじゃないかな?他にもいろいろと削れる部分はあると思うよ」
「いくら削っても微々たる物に過ぎません。長期的には良い策かもしれませんが、今求められているのは秋までの半年間、貧民全員を救う短期的手立てなのです」
オルンヘルの口調は容赦が無い。
だがそれは貧民救済のための資金をケチっているのではなく、実際に何処にも無いのだ。
「う~ん………とりあえず、午後から国議があるから。それが終わってから、男爵、申し訳ないけどもう一度話し合おう」
「ははっ。国議の前に、煩わせましたる事、平にご容赦―――」
「良いんだよ、男爵。百姓は国の礎。財政は政府の礎なんだから―――って、受け売りだけどね」
横目でオルンヘルを見ながら言う。
平身低頭して出て行くウェンヒルグ。
ラインハルトは思案顔で、太った背中を見送った。
「―――軍事費を削るのがもっとも良いでしょうな」
ぽつり、とオルンヘルが呟く。
「うん―――でも、今の時代に兵力を削るのは死活問題だよ。それに、軍部はあまり好い顔をしないだろうしね」
「皇帝が軍部の御機嫌取り、滑稽だな」
「そうだね。でも今は必要だよ。少なくとも僕が、国を完全に掌握して安定するまでは。でしょ?」
「ふっ―――私はつくづく、自分の教育の才能に惚れ惚れする」
「ははは」
帝都防衛隊の司令部はその地下に広大な地下牢を有している。帝都で捕縛された罪人を収監するための物だ。しかし、ここでも差別意識は存在しており、平民は地下三階以下の湿気が多く、空気が動かず澱んだような牢に集団で押し込められるのに対し、貴族は地下一階と二階の、空調設備も整い、空気の循環もある牢に一人で入れられていた。
最も、その牢を居心地がよいと思う奇特な人間は余り居ないだろうが。
数日前に拘束された士官達は、半地下式の牢に入れられていた。全員が、個室である。
連隊長は信頼していた料理屋の主人が彼を裏切った事に対するショックからは既に立ち直っていた。
そして、すぐに自分達が釈放されると信じていた。
(父上が私を見捨てるわけが無い)
父は貴族連盟の一員であり、貴族連盟は会長アリーニ=アウグウェルツ以下、貴族の権益を守るために結束している。自分達の息子が防衛隊に捕まるなどと言う事を許しておくはずが無いのだ。
牢屋の警備は決して厳重とは言えない物だった。地下牢と地上とを繋ぐ階段の間に小さな部屋があり、その部屋に二人の看守が詰めているだけなのだ。その詰め所の一方の壁には鍵束も掛けられている。
二人の防衛隊兵士は普段と変わらない静まり返った詰め所の中で、一人は居眠り、もう一人は読書をしていた。
と、階段へと続く扉がかすかに開いた。
立て付けが悪く、ぎぃっと耳障りな音を立てる。
「―――ん?」
その音に気付いた読書をしていた兵士が本にしおりを挟んで閉じ、テーブルに置いた。
それから相棒の方へと目を向け、熟睡しているのを確認して、立ち上がる。
「風で開いたのか?」
ノブに手を掛け、開く。その外には―――
「なんだ、何も無いじゃないか」
そこは真っ暗だった。何も見えない。
安堵して、扉を締めようとし、兵ははたと気付いた。
「―――今は夜だったか?」
この階段には明り取り用の小窓がある。夜ならば光も入って来ず、真っ暗になる。
だが、今はまだ夜ではないはずだ。彼が交替して詰め所に入ってから、まだ二、三時間しか過ぎていないはずだ。
時間で言えば三時頃―――いくらなんでもまだ日が沈む時間ではない。
「じゃあ、こりゃ一体―――」
真っ暗で何も見えない。まるでそこに闇が沈殿しているかのように。
「!まさか―――」
兵が何かに気付いたように、一歩後退さった。
「どうやら気付かれたみたいですね」
声と共に、闇の中から、灰色の髪を持った若い男が出てきた。
「ッ―――!!」
兵士が慌てて相棒を呼ぼうとした次の瞬間、その男が顔の前に右手を翳した。
不思議な紋様の刻印された指輪が右手の薬指に嵌っていた。
その指輪が鈍く、黒い光を放っている。
「―――闇よ、有れ!」
指輪の輝きが強く、禍々しくなり、男の背後にあった闇が爆発したかのように弾けた。
爆裂した闇の中から無数の触手が飛び出し、兵の体を貫いた。
「がっ………」
悲鳴を挙げる事もできず、兵は微細な痙攣を繰り返しつつ、息絶えた。
触手は室内を蹂躙し、相棒は居眠りをしたまま、心臓を串刺しにされて永眠した。
数秒の間、触手の思うままに暴れさせていた男が、
「―――闇よ、去れ!」
再び呪文を口にすると、指輪の輝きが失われ、触手も消えた。
それまで串刺しにされて空に浮いていた兵の体が、床に溜まった自分自身の血だまりの中へと落ちた。
コツ、コツ、コツ………。
聞こえてきた足音に、連隊長は顔を挙げた。鉄格子の間から、通路の奥を見透かす。
小窓から差し込んでくる光と影がまだら模様を成す通路を一人の若い男が歩いてきた。
灰色の髪と同色の瞳、全身に何処と無く暗い雰囲気を纏った男だ。
連隊長はその男を知っていた。第一軍団長ルト=リューベンの腹心として、作戦立案などに関わっている男だ。
「アルンヘル!助けに来てくれたんだな!鍵は?鍵は手に入れたのか?」
連隊長の言葉に、周りの牢に入れられている士官達も歓声を挙げる。
アルンヘルは連隊長の牢の前に来ると、冷酷な光を宿した目で彼を見て、
「挙兵計画の事は話されましたか?」
「聞かれたが何も答えていない。当たり前だろう」
「そうですか。それは重畳」
「早く開けてくれ」
「それは出来ませんね」
「………なんだと?」
連隊長は我が耳を疑った。他の士官達も沈黙する。
「おまえは………私達を助けに来たのではないのか?」
「いえ、私は軍団長の命を受け―――」
アルンヘルが右手を翳した。黒い宝玉の指輪がそこにはあった。
「貴方方を抹殺する為にここまで来ました。闇よ、有れ!」
途端、指輪が黒く輝き、その光の中から無数の触手が飛び出してきた。
「うわぁぁあっ!?」
「ぎゃああっ!!」
地下牢にしばし、悲鳴が轟き、ある時を以って、静かになった。
交代時間になって、交代の防衛隊兵が詰め所に来て始めて、この事件が明るみになった。
地下牢に捉えられていた十名余りの士官達は皆、体に何かに貫通されたような穴を幾つも開け、絶命していた。
「―――ええっ!?」
ウェンヒルグは驚きのあまり、思わず大声をあげてしまった。
オルンヘルも口をあんぐりと開けている。
だが、玉座に座るラインハルトだけは、いつもと同じ、美しい顔に美しい微笑を浮かべているだけだ。
そして、彼の斜め後ろに控える護衛のヴァンも表情を変えはしなかった。元々感情表現が乏しいのだが。
「宝物庫の宝を売る。そうすれば、かなりの金額になるはずだよ」
「確かに………だが宝物の中には初代から受け継がれてきた宝も―――」
「そう言う歴史的価値が高いものは残しておこう。聞けば先帝の時代にはかなりあくどい略奪が行われたそうじゃない?元々民の物だったものを売るんだから、良いんだ。まあ、元の持ち主に戻るわけじゃないから、不満は残るかもしれないけど。その売却金を貧民救済に当てるんだ」
「なるほど………確かに」
「要は秋までの間の一時凌ぎが出来ればいいんだ。来年からはしっかりとした政治をして、国を潤さなければならないけど、今年だけの非常手段ってことで………駄目かな?財務尚書。それでも足りない?」
「い、いえっ………いえ、その、正確にどれほどの価値のある物がどれほど貯蔵されているのか、記録が無いのでなんとも―――」
「そう。じゃあ、今から検分しよう」
「今から!?」
「駄目?」
「い、いえ………別に問題はありませんが。何も陛下御自らご足労頂かなくても」
「ああ、気にしないで。余も人並みに宝には興味があるから。それに覇皇フェルモアから代々伝わる物もあるんでしょ?見たいじゃないか」
「は………はい」
ウェンヒルグは額に噴き出たいつもの二倍ぐらいの汗を忙しなく拭き取りながら、救いを求めるような縋る目付きを宰相に向けた。
宰相のオルンヘルは何とか最初の驚きから回復し、何事かを考える風情であったが、
「確かに宝物庫にどれほどの財宝が貯蔵されているのか、記録を作る必要もあるだろう。その財宝を売却して貧民救済に宛てると言うのもそう乱発できる物ではないが、一回だけなら有効だろう。宝物庫の財宝は皇帝の私物なのだから、その検分に皇帝が同道するのは当然だと思うが」
「ほら、男爵。伯爵も良いと言ってるし」
「畏まりました。では早速―――」
「ちょぉっと待ったぁっ!!」
いきなり、執務室の扉が開かれた。
入って来たのは鮮烈な赤髪をした軍人。アレク=ハーベストだ。
「不届きな事を考える者がいないとも限らないからな。俺も護衛として同道しよう」
「…………」
「…………」
ラインハルトとオルンヘルは沈黙して顔を見合わせ、苦笑のような物を浮かべたラインハルトが、
「不届きな事を考える者って、つまりはアレクの事でしょ?」
「なっ………俺が財物をこっそり懐に入れようなんて事を考えてるとでも思ってるのか!おまえは俺の事をなんだと思ってるんだ?」
両手をわきわきさせながら詰め寄るアレク。
ラインハルトは表情を崩す事も無く、言い切った。
「頼り甲斐のある幼馴染、女たらしで金と時間にルーズな赤髪の剣士」
「…………」
あまりにも図星なため、アレクは言い返すことも出来なかった。がっくりと肩を落とし、ただ辛うじて、うめく。
「これだから、幼馴染ってのはきついんだよ」