覇皇伝
第四章 白象将セトゥ=カーン
第四章 白象将セトゥ=カーン
1 撤退
カラキシスを包囲している砂の民の歩兵部隊に合流した騎兵隊と象軍の残党の姿は見るも無残な有様だった。無傷な者などほとんど居ない。体中に張り付いた返り血はまだ乾き切っておらず、乾いた部分は動くたびにぱらぱらと剥がれ落ちる。戦友に肩を借りてやっと帰陣したと言う者も少なくはない。
八万の出撃部隊の内、戻ってきたのは五万余り、その内、まだ戦えるのは四万余りに過ぎない。
これでも、あの激戦の規模から考えれば少ないのかもしれない。
なにしろ敵に回したのはあの赤き鬼神が指揮する第一軍と第四軍の残留部隊を含めて十八万なのだ。
倍以上の敵を相手にした戦いにしては良く戦ったと言えるのかもしれない。
だが、負けは負けだ。それは認めざるを得ないところだ。
負傷兵の治療やフロレシア第一軍の追撃への警戒などを手早く指示した後、クシャス=カーンはユドグー、セトゥの二人を連れて大本営に入った。
三人を迎えたのは、カラキシスの包囲を任せられた次男のマーダだ。
彼は疲労の色濃い父と弟達を神妙な、それで居て陣内に蔓延しているような暗い雰囲気を微塵も感じさせないのんびりとした表情で出迎えた。
「お疲れ様です、父上」
「マーダ。第四軍に動きは?」
「ありません。第一軍に呼応して動くかとも思ったのですが」
「そうか」
全身火傷の激痛に耐えながら、クシャスは大本営の最も奥にある己の茣蓙に腰を落とした。
息子達も座り、ハーン族やタタル族、クリル族などの代表も顔を揃える。
マーダを除き、みな、表情には疲労と暗さ、そして不安と恐怖が浮かんでいた。
(上級精霊の精霊攻撃を生まれて始めて目の当たりにすれば、当然の反応だ)
腕にこびりついている返り血を剥がしながら、クシャスは苦々しく思った。
彼でさえ、恥も外聞もなく馬の影に逃げ込み、地に潜り込んだのだ。だが、そうでもしなければ自分はあそこで炭になっていただろう。馬のように跡形も無く崩れ去っていただろう。
あの時、確かに自分はあの赤髪の将が掲げた精霊具に対して恐怖の念を持っていた。
族長ともあろう身で………なんと恥ずべき行動を取ってしまった事か。
だが今は、悩んでいるべき時ではない。
「負けた。大敗だ」
クシャスは酒を引き寄せ、口に直接流し込んだ。アルティス産の酒は胃が焼けるほどに強い。
その酒で胃を満たし、クシャスはぎらぎらと光る目でその場に集う者達を見据えた。
「このままカラキシス包囲を続ければ、我々は挟み撃ちに合い、全滅するだけだ」
「退く………と?」
誰かが小声で問う。その声には困惑の色があった。
今まで、クシャス=カーンが自分から軍を退くなどと口にした事は一度足りともない。常に前を向き、そして敵を粉砕して来たからこそ、彼は偉大なる戦士と呼ばれているのだ。勇猛なる砂の民に撤退という選択肢はない。はずだった。
「我らの宿願は死ぬ事ではない」
何の迷いもないかのように、言い切ったのはまだ初陣を飾ってから日も浅いセトゥだった。
「中原を制覇することだ」
「その為には引き下がる事も構わない、と?」
先ほどの男がもう一度問う。ハーン族の代表グルジム=ハーンだ。
その瞳は何かをさかんに計算している。砂の民の同盟において、カーン族と最大野党であるハーン族の仲は決して良好とは言えない。ハーン族は隙あらばカーン族を打倒し、自らがアルティス荒野一の氏族という位置を占めたいと考えている。前回、ヴェネット=カーンを失った遠征に次いでの今回の遠征での失敗は、カーン族の勢威を衰えさせるには十分過ぎるほどだろう。だが今は内輪で揉めている場合ではない。ほんの数キロ先には今も敵軍が陣を張っているに違いないのだ。いや、もしかしたら攻撃のために移動している最中かもしれない。
だが、計算高いグルジムは、ここはカーン族に反対の意見を述べておいた方が得策だと考えた。
もし同じ意見を述べたりすれば、カーン族の没落にハーン族まで巻き込まれかねない。
しかし、反対意見を述べておけば、カーン族が没落した後、ハーン族の勢威は増す事になる。
「一度の敗戦によってすぐさま軍を退けば、臆病者の謗りを避けられませんでしょう。ここは踏ん張り、もう一太刀なりとも敵に攻撃すべきと考えるが。偉大なる戦士、クシャス=カーンはいかがお考えか?」
「即刻、陣を引き払う」
「なんと!クシャス=カーンともあろう御方が臆病風に吹かれましたか?」
侮蔑感たっぷりにグルジムが言い放った次の瞬間、風のように動いた者が居た。
茣蓙を蹴って飛びかかり、抜き放ったナイフで彼の首を掻き切ろうとする者。
セトゥであった。
「この無礼者が!父上を侮辱する者はこの俺が許さない!」
「う、うわぁっ!?」
「止めろ、セトゥ!この慮外者が!同志に刃を向けるとはどのような了見か!」
響き渡った烈声に、グルジムにナイフを突きつけた格好で、セトゥは動きを止めた。
グルジムは目の前に突き出されたナイフを見て、泡を吹いている。
「この者は父上を侮辱いたしました」
「下れ!族長の息子が仲違いの先手に立つなど言語道断だ!」
クシャスに怒鳴られ、セトゥは怒りの篭った眼差しでグルジムを射抜きながら、ナイフを腰の鞘に収め、己の茣蓙に戻った。それを見て、グルジムの従者達も抜き放っていたナイフを鞘に収めた。
もし、セトゥが彼を斬っていれば、次の瞬間には彼自身が男の従者達によって斬り殺されていただろう。
「浅はかなりし息子が失礼した。許されよ」
「い、いや、私も言葉が過ぎました。私こそお許しを」
グルジムが頭を下げた事で、緊迫していた空気も氷解した。そこで、マーダが口を開いた。
「父上、陣を引き払うのは宜しかろうと思いますが、敵軍に対し、何の挨拶も無しにというのはいかがな物でしょう?まるで夜逃げではございませんか?」
「ふむ?………では、どうする」
「本隊をサマカンドに向かわせながら、別働隊で第一軍に夜襲を掛けるのはいかがでしょう?」
「夜襲だと?」
「はい。昼間の激戦に、フロレシア軍と言えど今宵は疲労で眠りこけるはず。まさか大きな被害を出して撤退したはずの我々がその日の内にもう一度襲撃を掛けてくるなど思ってもいますまい。今から軍を動かせば最も深き闇を突いて攻撃出来ましょう」
「なるほど………セトゥ=カーン」
「は、はいっ!!」
「象軍の兵力はどれほど動く?」
「二万ほどは、何とか」
「ならば象軍を率い、第一軍に夜襲を掛けて参れ。事成りし後は軍を纏め、西を迂回してサマカンドへ向かえ」
「は、ははっ!!必ずや戦果を挙げて見せます」
「ん」
「ならばすぐにも陣を引き払う準備をさせましょう。カラキシスに居る第四軍に気付かれぬよう、音には細心の注意をさせなければなりません」
「任せた。殿はユドグー、おまえだ」
「はっ。例え、第四軍が出てきても必ず抑えてご覧に入れます」
「ん」
「お歴々もそれでよろしいか?」
クシャスが他の三氏族の代表者へ視線を向ける。
答えたのは三氏族を代表するグルジムだ。これ以上、逆らっても仕方ないと考え、素直に頷く。
「ラーマ=ヤーマの加護が猛き若人にあらん事を」
日付が変わり、帝国暦三三三年五月二十四日、深更―――。
カラキシスの物見台に登っていた兵士が、最初にそれに気付いた。
「おい、妙じゃないか?」
兵士は他の三人の兵士に言った。
「何がだ?」
疲労と空腹な上に、睡魔にまで襲われていた兵士が不機嫌そうに聞く。
彼らが直接見たわけではないが、昼間の激戦はこの物見台の当番兵からつぶさに報告が司令部に送られていた。無論、あの精霊攻撃による爆発も。最初はその爆発がなんなのかわからず、不安がっていた第四軍兵達だったが、コーデル=ハム中将によってその爆発が第一軍団長のハーン=ハーベスト元帥が所有する《炎の剣-ハリエストロ》の精霊攻撃による爆発だと言う事が伝えられると兵士達の不安は歓声に変わった。これで、この包囲戦にも終止符が打たれる、と。最も、実際にその精霊具を現在所有して居るのはハーン=ハーベストではなくその息子のアレク=ハーベストなのだが、ハムはまだその事を知らない。しかし、戦いが終わっても砂の民の包囲が崩れる事はなく、第一軍が動く気配もなかった。第一軍は四キロ先の陣を動かず、どうやら夜を明かすつもりのようだ。物見台からでも、遠方に瞬く篝火の光が見える。しかし、兵士が指差したのはそんな遠方ではなくもっと手前―――カラキシスを包囲している砂の民の軍勢の方だった。こちらは闇の中に無数の灯火が瞬き、その輝きがカラキシスの周囲を隙間なく覆っている。この二十日間ですっかり見慣れてしまった夜景だった。何の明かりも無い荒野に灯火が瞬く様は幻惑的で、神秘的な美しさすら伴っていたが、兵士達からすればそのような雰囲気に酔う気にはとてもなれない。それどころではないほどに空腹と疲労に苛まれているのだ。
「一体なんだ、何の異常もないように見えるが」
「寝惚けてんじゃないのか?」
「それとも、空腹の余り遂に頭が壊れちまったとか?」
「寝惚けても壊れてもいねえよ!」
「どうだかな。自分ではわからないもんだろ?そういうのって」
「良いから良く見てみろ!」
「だから何度見たって、同じだろ?」
「本当に同じか?」
「同じだろ。いつもどおり、盛大に篝火を燃やして―――ん?そう言えば………」
「やっぱり変だろ?」
「ああ………変、だな。確かに」
「おい、何が変だって言うんだ?」
「わかりやすく言ってくれよ」
「人が居ない」
「は?何言ってやがる」
「そうだよ。篝火だけ燃やして人が居ないわけ―――」
そう言って、二人も街を取り囲む篝火に目を凝らす。
しかし、普段ならば篝火の周りに見える人影が今夜は一つも見えない。いつもわざとこちらから見えるようにして盛大に夕餉を取る蛮族の姿が全く見えない。今までに無かった現象だ。
それに、いつもならば聞こえる象や馬、砂甲竜の鳴き声も全く聞こえない。
「なんで、誰も居ないんだ?」
「まさか夜襲を掛ける気か?」
「それとも、撤退とか?」
「とにかく司令部に報告だ!」
最初に異常に気付いた兵士が、慌ててはしごを降り、物見台の隣の司令部に飛び込んで行った。
当直士官に事情を説明する。その中佐は事の重大性を悟り、すぐにハム中将を起こした。
「何があった?」
御自慢の髭にカールを巻いた寝巻き姿―――この兵士は、緊張していたため、この場では笑わなかったが、後に思い出して笑い転げた―――で現れたコーデル=ハム中将は緊張した面持ちで訊いた。
「確認したわけではありませんが、どうやら周りの砂の民の陣がもぬけの殻のようなのです」
兵士はそう切り出し、そう思った理由などを事細かに報告した。
聞き終わるとすぐに中将は先ほどの中佐を呼びいれ、命じた。
「レッセフェルトを叩き起こして、偵察させろ」
「はっ」
敬礼し、中佐は飛び出して行った。
夜中にいきなり叩き起こされ、レッセフェルト=イングラム少将はひとしきり悪口雑言を並べ立てたのち、部下のサンチェ=ポルトフ大佐を初めとした三十名余りの兵を率い、偵察に赴いた。
カラキシスを取り囲む空堀を渡り、砂の民の陣所まで二百mあまりにまで近づく。
「―――どう思う、サンチェ」
「そうですな………」
やや太り気味の体を持て余し気味にしゃがみ、サンチェは敵陣の様子を窺った。
篝火は煌々と燃えているが、全ての闇を払拭しているわけではない。
「確かに見える限りでは敵兵の姿を確認できません」
だが、闇の中に居るのかもしれない。
これも何らかの罠かもしれない。誰も居ないと思って出てきた部隊―――つまり、彼らだ―――を撃滅するための罠。現在カラキシスではサンチェの歩兵連隊二千五百が固唾を呑んで彼らを見守って居る。
もし彼らに何かあればすぐにでも空濠に板橋を渡し、救援に出撃する手筈になっている。
「そこまで考えての、策略だと思うか?」
「さあ………」
レッセの問いに、サンチェは首を傾げる。
確かに、策を仕掛けるなら絶好の機会ではある。昼間の激戦で敗れ、消耗したために陣を引き払い、後退して体勢を立て直そうとしているとレッセ達は判断するかもしれないのだから。
「このままじゃ埒があかないな。俺があそこまで行く。サンチェは十五名率いてここに残れ。残りは俺と一緒に」
「了解」
「ああ………眠い。さっさと終わらせて、帰って寝るぞ」
蜂蜜色の髪を掻き混ぜながら欠伸を漏らし、レッセフェルトは駆け出した。しっかりと両手剣の柄を握り締め、敵の攻撃を警戒する。闇の中から矢でも飛んで来ようものなら直ちに斬り落とす構えだ。
十五名の兵も、緊張感をその総身に滾らせながらレッセフェルトに続く。
彼らが篝火の位置に達しても、攻撃はなかった。すぐ傍に、簡易テントのような陣が張ってある。
「人の気配がねえな」
言いながら、それでも緊張感を失ったりはしない。慎重に陣営に近づき、入り口の幕を上げ、中に飛び込む。中は暗闇だった。人の気配もない。入り口の幕を上げた事により、外の篝火の光が中に差し込み、暗闇を払拭したが、やはり誰も居なかった。偵察を終え、無事にカラキシスに戻ったレッセフェルトはすぐに司令部に向かい、待っていたコーデル=ハム中将に面会した。
「どうやら本当に撤退したみたいだ。兵糧も持ち去られていた。夜襲じゃなく、撤退だろう。篝火は我々が気付くのを遅らせるための細工だと思う」
「ふむぅ………」
「篝火の燃え加減から考えても、撤退してから二時間余りだろう。敵は負傷者も抱えて居る。足は速くないはずだ。今から騎兵師団を出せば追いつけなくもないと思う」
レッセフェルトは報告と意見具申を終え、上官を見やった。
既にハムは軍服に着替えてしまっており、レッセは彼の髭カールも見る事は出来なかった。
「追撃は止めておこう。今下手に動いて陥穽に嵌らんとも限らん。第一軍に伝令を出し、輜重隊を送って貰おう」
「これで今回の遠征は終わりか?カラキシスまで占領できたならかなりの戦果ではあるが。敵の本隊も叩いたことだし」
「さあな。ここは一挙にサマカンドを叩くべきかも知れん。いずれにしろ、明日の朝にでも軍議で決めるべきことだ」
「わかった。伝令の手配をしよう」
「ああ。御苦労だったな、レッセ」
「どういたしまして」
2 夜襲
その夜、フロレシア帝国第一軍の将兵は皆、昼間の激戦の疲労から深い眠りに陥っていた。
篝火も燃やし、見張りも立て、哨戒部隊も数組編成して警戒にあたらせていたが、彼らも睡魔との戦いに注意力の大半を奪われ、周囲への警戒はそれほど徹底しているとは言えなかった。
セトゥ=カーンは夜襲を掛けるため、二万の象兵を率いていたが、さすがにそれだけの数で一度に接近すれば気付かれるので、部隊を幾つにも分けて、フロレシア帝国軍を包囲するような形で進軍していた。
部隊を分ける直前、セトゥは各隊を率いる戦士達を集め、言い含めていた。
「各隊による攻撃は一度ずつ。攻撃を終えた隊は他の隊を待たず、サマカンドへ向かう事。俺の率いる部隊は最後に突撃する」
セトゥの命令に戦士達はざわめいた。夜襲において最も重要なのはその奇襲性にあると言っても過言ではない。敵に発見される事なく接近し、奇襲を成功させるか、それとも接近を気取られて強襲となるかでは戦果にも被害にも雲泥の差が生まれる。
敵が眠りこけて居るのならば、最初に攻撃をかける隊が最も安全だ。大きな戦果も期待できるし、被害も最小限で食い止めることができるだろう。
しかし、後になればなるほど敵は警戒し、対応も素早くなり、被害は大きく、戦果は乏しくなる。
ほんの二十日余り前に初陣を飾ったばかりの若き戦士はその危険な仕事を率先してやろうというのだ。
だが戦士達は、誰も自分が代わりにその役を務めるとは言い出さなかった。
彼らもまた恐れているのだ。あの精霊攻撃を。ただでさえ、後になればなるほど死の危険性は高まっていく。いくら勇猛さを誇る砂の民と言えど死の恐怖に打ち勝つのは至難の業だ。
「すまねぇ、セトゥ………」
遂に、一人の戦士が目元を覆って泣き出してしまった。
己の不甲斐なさに情け無さを感じたのだ。まだセトゥは二十代の若者に過ぎない。その若者が死を決してでも仲間の安全を図ろうとしているのに、自分達は只それに甘える事だけしかできない。
「何を言ってる。お前には妻も子も居るだろう。勇敢な戦士として死ぬ事よりも、父として家族を守るほうが大事だ。サマカンドに戻っても、戦いは続く。砂の民が中原を制覇するまで。ここで死ぬ必要も無い。それに、俺も死ぬつもりはない」
セトゥに励まされて、戦士は呆然とした顔を上げた。
てっきり死を覚悟して居るとばかり思っていたセトゥが笑っていた。
まるでちょっとそこまで買い物に行くだけなのに、武器を持たせるなんて大げさ………
とでも言って居るような笑みだった。
「生きて、帰るんだな?セトゥ」
「ああ。必ず」
セトゥは力強く頷いた。戦士達も頷き、散って行った。
「合図は火だ。それを合図に、順繰りに攻め込む」
「おうっ」
僅かながら盛り上がった丘の影に身を伏せた象に跨り、セトゥはフロレシア帝国軍の陣を見つめていた。
彼の跨る白象も盛り上がる闘気を敏感に感じ取ったのか、静かに身動ぎしている。
その首に巻いた真紅の布の結びをしっかりと直したセトゥの瞳に、徐々に烈気が漲っていく。
その時、風上で喚声の声が上がった。
攻撃第一陣だ。火矢を放ちながら、巨躯を誇る象を巧みに操り、フロレシア帝国軍の野営地へと飛び込んで行ったのだ。篝火付近に居た歩哨達が慌てて警告の怒鳴り声を上げる中、象兵達の放つ火矢が次々に兵士達が眠って居る天幕を突き破り、瞬く間に火が燃え移る。
火は松明と化して野営地を照らし出し、象兵達が敵を蹂躙するのを助けた。
逆に、何が起こったのかもわからず右往左往するしかない帝国兵達は踊る火炎に幻惑され、混乱の坩堝に叩き落とされる。騒動に、或いは悲鳴に、或いは炎に、眠りこけていた兵達が飛び起きる。
慌てて武器を取り、戦おうとするのだが、昼間の疲れがその身のこなしを鈍重にしている。
さらに蛮族の戦士達の喚声と帝国兵の悲鳴が入り混じり、彼らの恐怖心を駆り立てる。
炎を背景に、帝国兵が鎧ごと象に踏み潰される。
或いは象兵の槍に貫かれ、絶叫を上げながら絶命する。
整然としている象軍の動きに対し、帝国軍は状況の把握すらままならず、忙しく伝令があちこちを駆け抜けるのみ。ばらばらの反撃は悪戯に被害を大きくするだけだ。
十分ほどの襲撃で、象軍は姿を消した。帝国兵達が安堵しかけた次の瞬間、今度は別の場所で吶喊の声が上がった。矢が降り注ぎ、天幕を引き裂き、中に居た兵を射抜く。慌てて飛び出してきた者は槍に貫かれるか、踏み潰されるか、強大な力を秘めた鼻の一撃によって砕かれるか―――。
姿を消した敵と新たに姿を現した敵。
帝国軍はこの二つに対処する事に追われた。翻弄され、混乱は助長し、被害は増す。
その後も敵は姿を現しては十分ほど暴れ回り、不意に姿を消しては別の方向から新たな敵が突撃してくると言う襲撃法を繰り返した。しかし、帝国軍とていつまでも混乱しているわけではない。
次々に飛び込んでくる伝令の報告で状況を把握し、的確に指示を飛ばす赤き鬼神の命令に従い、彼の息子やその他多くの有能な将が徐々に混乱を鎮め、隊を纏め、秩序だった反撃を行う。
最初ばらばらに行われていた反撃は徐々に纏まり、数人、分隊、小隊と冷静さを取り戻した者達が集ってより大きな集団になろうとしていた。
そして、遂にセトゥ=カーンの部隊の番がやってきた。既に奇襲の戦果としては十分過ぎるほどだ。
しかし、予想以上に敵が体勢を立て直すのも速く、被害も末広がりに大きくなっている。
セトゥ=カーンの部隊が突撃すれば確実に大きな被害を生む。
戦略の定石ならばここは攻撃せずに撤退するべきだ。しかし、セトゥは突撃しなければならないと考えていた。なぜならば、帝国軍が体勢を立て直す速度が予想以上に速いからだ。
このままでは例え兵を引いたとしても、すぐに追撃部隊を組織して追ってくるかもしれない。
そうなれば、ただでさえ機動力では鈍重な象軍はかなりの被害を覚悟しなければならない。
「一人でも多くの兵と象がサマカンドに到達できるよう、我らはここで敵を食い止める」
若き猛者の言葉に、白象が立ち上がる。猛々しく鼻を擡げ、主の命を待つ。
一瞬、セトゥの胸中を複雑な思いが駆け抜ける。
多くの仲間を助ける為に、今ここで彼が率いて居る者達を殺す事になる。
彼が率いて居るのはおよそ五百。最も小勢ではあるが、少しでも長く時間を稼がねばならない。
「お前達の命、このセトゥ=カーンが預かる。ラーマ=ヤーマも照覧あれ!これぞカーン族の戦だ!!者ども、掛かれッ!!」
『おおぅっ!!』
低い声で、象兵達が応え、セトゥは己の跨る白象に前進を命じた。
象が力強く大地を踏み締め、駆け出して行く。
意識を取り戻したアレクは奇襲を受け、混乱する兵を纏めて、何とか中隊規模の兵を集める事に成功していた。傍らには今もリーナが死神の鎌を持って控えている。
そこへ、今夜だけでもう何十回も聞いた地響きが聞こえてきた。
荒野の枯れた草葉を薙ぎ倒しながら、重い質量を持つ動物が多数、移動して居る音だ。
無駄とは知りつつ、
「槍衾を敷け、弓隊、構え!」
アレクは音が聞こえてくる森に向けて、迎撃体勢を整えさせた。
僅か中隊規模の、三百人程度の迎撃陣だ。
(象に槍が効くとも思えないが………)
さっきまでは一緒に戦っていた軍団長の親父などは反対側に現れた象軍を撃退するために部隊を率いて移動して行った。手薄になったところへ、今度はこちらから襲撃。
(攻撃する順番を良く考えた、巧妙な策だ)
今宵、この陣を襲った象兵は総計でどれだけ居るのか、一万から一万五千ぐらいだろうか。
だとしても、普段ならば決してこんな野営地の近くにまで接近を許さなかったはずだ。
歩兵ならばまだしも、巨大な象軍を見逃すなど通常ありえないだろう。
だが、今宵はその通常あり得ないことが起こってしまった。理由は明白だ。
(昼間の激戦による疲労、か………)
その言葉の重みは、彼自身が良く心得ている。彼は最前線で戦い、さらに莫大な体力消費を伴う精霊攻撃をも繰り出し、疲労のために意識をも失う深き眠りに落ちてしまったのだ。
数時間眠ったとは言え、まだ体は思うように動いてくれない。いくら彼が獣並の回復力を持っていたとしても、いくら彼が鍛え上げた精神力で疲労を忘れようとしても、体の奥底に汚泥の如く堆積した疲労は消えてくれない。
「ちっ。だって言うのに―――本隊か」
炎も及ばぬ闇の間から姿を現した巨象。その毛並みは純白。首には真紅の巻き布。
アレクはその白象に跨り、弓を構える若き戦士の姿を見つめながら、剣を引き抜いた。
ぎざぎざと凶悪な風貌の真紅の刃を持つ精霊剣、《炎の剣-ハリエストロ》。
普段はさして意識する事もないその重さがずしりと腕に響く。普段は片手で掴む柄を両手で掴みながら、アレクは命を発していた。
「弓隊、放てッ!!」
ざざぁっと矢が黒い雨の如く闇から湧くが如く姿を現した象軍に降り注ぐ。
白象が掲げた鼻に守られながら、セトゥは奥歯を噛み締めた。
野営地に飛び込んだ途端、矢が襲ってきた。
(―――待ち伏せだと!?)
驚愕と共に、戦意が沸きあがるのを覚えた。見た所、敵は数百。こちらとほぼ同数。
(もしかしたら待ち伏せではないのか?)
だが、そんな事はどちらでも良い。
セトゥは弓の弦を引き絞りながら、咆哮の様に命じていた。
「蹴散らせッ!雄叫びを挙げろッ!!」
『オオオオオオッッ!!』
戦士達が咆哮を上げ、矢を放ち終えると弓を鞍の後ろに括り付けてある箱へと仕舞い、象の背に固定してある長柄槍を持って、槍衾にも構わず突撃する白象の後に続いた。
象軍と槍衾がぶつかり、象の身に次々に槍が突き刺さっていく。
苦痛と憤怒の混じり合った声を発し、象がその長い鼻を横に振るう。
「うわぁぁっ!?」
「いぎゃああっ!!」
それだけで、十数人の兵が弾き飛ばされた。仲間に受け止められた者でさえ、肋骨を砕かれ、運の悪い者は仲間の槍にその身を貫かれて絶命した。
白々しく輝く象はその全身を朱に染めながら、それでも変わらぬ速度で突き進み、槍衾を突破してしまう。白象に続く象軍達も次々にその穴を押し広げながら突撃し、アレクに迫る。
一頭の象が鼻を高々と振り上げ、物凄い速度で振り下ろしてきた。当れば即死間違いなしの一撃だ。《炎の剣-ハリエストロ》で迎え撃とうにも、剣が重く、持ち上がらない。
「く、くっそぉっ!!」
必死に迎撃しようとするアレクだったが、間に合わないのは明白だった。
象の鼻は今にもアレクの身を粉砕するかに見えた。しかし、粉砕されたのは―――いや、細切れにされたのは象の鼻の方だった。びちゃびちゃと象の肉片と血潮がアレクに降り注ぐ。
象の血と肉に塗れながら振り向けば、そこには死神の鎌を持つ一見おしとやかな美女。
「リーナ、怖っ!!」
「言ってる場合ですか!まだです!」
リーナの声に視線を戻せば、鼻を斬られた苦痛に憤怒の叫びを上げ、アレクを踏み潰そうと前脚を高々と上げて居る象の姿があった。
踏まれれば、粉砕どころの話ではない。誰の死体かも判別し難くなるに違いない。
「そんな死に方は嫌だ―――ッ!!」
気合で剣を振り上げる。が、重い。剣の重さに引きずられて仰け反り、そのまま落馬しそうになる。
何とか踏み止まったが、既に攻撃の機は逸していた。既に象の脚はアレクをその跨った馬ごと押しつぶそうと迫っていた。そこへ、声が響く。
「《獣の槍―ハンニス》よ。汝が主の命を受けて、汝の子を呼べ―――牙狼!!」
声に応え、赤き円から飛び出した白き狼が象に喰らい付いて行く。
それで目測を誤り、象の脚はアレクのすぐ脇に振り下ろされた。
次々に牙狼が象に飛びかかり、攀じ登り、象兵に襲い掛かる。
「うわ、なんだ!?この狼はッ!う、うぐわぁぁっ!?」
叫びながら槍を振り回していた象兵が、象から落ちる。アレクが見た象兵の首には深い牙の跡があり、鮮血が吹いていた。牙狼はすぐさま象の耳の後ろに噛み付いて行く。象の皮膚は硬いが、耳の後ろだけは体温を逃がす役割も担っているために柔らかい。弱点でもある耳の後ろを噛まれ、象は悲鳴を挙げながら走り去った。既に迎撃陣は跡形もなく乱れ、翻弄されていた。
駆けつけた青髪の士官、オットー=セルバン大佐は本来騎兵隊を率いる身でありながら、馬にも乗らず、三百人余りの兵を率いていた。その青い髪は汗で額に張り付き、汗もかなり掻いている。
それでも彼は《獣の槍-ハンニス》を振り翳し、次々に牙狼を呼び出しては象を襲わせていた。
長柄槍に貫かれ、象に踏み潰され、鼻によって弾かれ、次々に狼は白き煙と化して消滅して行くが、オットーがどんどん呼び出すので、象軍も手を焼いた。精霊攻撃は体力消費が激しい。オットーは肩で息をしながら、それでも狼を呼び出すのを止めはしなかった。
そこへ、さらに新手の部隊がやってきた。率いて居るのは紫色の髪と紅の瞳を持つギルギッド=ルメイ大佐だ。彼は青白い顔で牙狼を召喚し続けて居るオットーの脇に、己が乗る馬を寄せて、
「後は俺がやるからお前は少し休め、セルバン!」
「ああ………ギル、任せたよ」
大声で怒鳴った。精霊具を使うのはかなりの消耗を強いる事になる。
オットー自身、これほどの数の牙狼を呼び出した事は今までに一度足りともない。
正直体力の限界を感じ取っていたオットーは同僚の申し出に甘える事にした。
全ての牙狼を消し、赤き円も消す。
「よっしゃぁ………このギルギッド=ルメイ様が相手だ!」
啖呵を切りながら、ギルは部隊の先頭を切って敵軍の中に斬り込んで行った。
彼の持つ《炎獣槍-フレイムスピア》から無数の小さな火球が生み出され、象を襲う。
「くっ―――さすがにこれ以上は無理か」
セトゥはそう判断し、兵を返す事を決断する。
「退け、退け!長居は無用だ!」
叫びながら、彼自らは長柄槍を携えて退くのとは逆にギルへと向かう。
「一騎打ちとは面白い!」
ギルも野生的な笑みを浮かべ、槍を扱く。
二人がぶつかり合う間に、他の象兵が追い縋る帝国兵を蹴散らして闇の中へと飛び込んでいく。
セトゥはギルと二合、三合と打ち合いながらも、徐々に後退していく。
「このまま逃げるのかよ、若造!」
嘲りの声をギルは挙げたが、セトゥは答えなかった。
「ちっ―――」
ギルが馬の手綱を引く。馬が前脚立ちになったところを、象の鼻が横薙ぎに薙ぎ払った。
そのまま、象はギルに尻を向け、闇の中へと姿を消していく。
追おうと思えば追えただろうが、ギルはそうしなかった。
仲間を逃すために一人残った若武者の心意気に、微かながらも敬意を抱いたのだ。
しかし、軍人としては追うべきだったかもしれない。
「あつっ………」
焼けるような痛みに顔をしかめ、肩を見る。
そこにはいつの間に射られたのか、一本の矢が深々と食い込んでいた。
どちらにしろ、このような手負いで単身追撃したところで、倒せるかどうかはわからない。
それに今ので最後の奇襲とも限らない。
妄りに野営地を離れるのは得策ではなかった。
しかし、結果、この日の夜襲は今のが最後となった。
天幕はその大半が燃え落ち、多くの死傷者が出た。
そこへ、カラキシスからの伝令がやってきた。戦闘の気配に気付き、戦闘が終わるのを待っていたのだ。
伝令は無残にも多くの犠牲を出した野営地に驚きつつも、疲労と寝不足で目の下に隈のできたハーン=ハーベスト元帥に謁し、第四軍団長のコーデル=ハム中将の言を伝えた。
第一軍はその日の昼過ぎ、カラキシスに入城した。第四軍は約二十日の篭城の末、補給物資を手に入れ、息を吹き返した。しかし、その為に第一軍が流した血は余りにも膨大な物だった。
3 勅意
帝国暦三三三年七月一日。
カラキシス周辺での激闘の結果、フロレシア帝国はカラキシス以北の地をほぼ掌握するに至った。
カラキシスとザルカの中間地点に第四軍が築いた砦はオルドスと名付けられ、カラキシスへと物資を送る上での重要な集散基地の役割を果たしていた。長期の篭城に疲労した第四軍は帝国南部の各駐屯地に帰還し、砂の民との激闘によって疲弊した第一軍もまた同様に帝都に凱旋した。
第四軍団長コーデル=ハムは激戦を戦い抜いた功績により、中将から大将へと昇格し、砂の民との戦闘において抜群の功績を挙げたアレク=ハーベストもまた少将から中将へと昇格した。
他にも多くの将兵が昇格した。第一軍、第四軍が去った後のカラキシスにはニカルド=ベグアス中将率いる傭兵軍団四万が進駐し、守りを固め、オルドスには第四軍の留守を預かっていた第二軍から三個歩兵師団、二個騎兵師団が派遣された。こちらも兵力は四万だ。残りの第二軍も、第四軍の帰還に合わせ、帝都周辺の各拠点に帰還している。
帝国議会や軍令部の一部強硬派の中にはサマカンド侵攻を提案する者も多く居た。
カラキシスを奪い、アルティス荒野の北部を領した今こそ蛮族の息の根を止めるべきだというのだ。
これに真っ向から反対したのが帝国府のオルンヘル=クリケット宰相やウェンヒルグ=ローレンス財務尚書ら自重派とも言うべき帝国府の役人達だ。彼らは国力の疲弊や経済的な理由を挙げ、更なる侵攻作戦の無謀さを説いた。結果的には皇帝の裁断により、サマカンド侵攻は見送られる事となったのだが、強硬派達はこの決定に当然不満を持つ。しかし、皇帝の裁断に不満を表する事は出来ない。
彼らの怒りの矛先は、自然と帝国府周辺―――特にそのボス、宰相オルンヘル=クリケット伯爵へと向かった。彼らの目には伯爵は皇帝を操る影の権力者に映ったのだろう。
そして、彼の娘であり、皇帝の傍近く仕えるシエナこそが、伯爵の尖兵だと罵った。
皇帝陛下はクリケット親子に謀られているのだ、などと公言する士官も居る始末。
無論、それらの士官はガルヴィン=ジングリッドの管掌する帝都防衛隊によって逮捕されるのだが、これがまた火に油を注ぐ効果を持っていたのだ。というのも、ガルヴィン=ジングリッドこそ、かつて貴族連盟が力を持ち、今は亡きアリーニ=アウグウェルツ公爵とオルンヘル=クリケット伯爵が対立関係にあったとき、伯爵派だった人物なのだ。
つまり、急進的な青年士官達からしてみれば彼もまた《君側の奸》の一人、という事になるのだ。
「どうしたら良いと思う、アルンヘル?」
己の執務室で、金髪蒼瞳の若き皇帝は彼直属の幕僚である灰色の髪と同色の瞳を持つ青年と向かい合い、問いを発していた。
スタルナス帝国と不戦条約を結んだ事で、今、フロレシア帝国の国内は安定している。
ルーナ帝国は死兵師団をパルディアの地から引き上げ、西方への領土拡大を狙って居る様子だ。
スタルナス帝国は皇太子オルテガが様々な分野の人材を集めていると暁の報告にはあった。未だにドルク王国への武器援助は行って居るようだが、直接的な攻撃はない。
東の華中大帝国は今までと同じく沈黙を保ち、東北のロデン教聖区は表立った行動は起こして居ない。
聖護院のブレンヒルトやハーケンクロイツの紋章を身に宿す暗殺者ジェルナ=クレイスロールなどを初めとする暗殺者を差し向けてくる程度の物だ。
北方では未だにドルク王国とルシタニア連合王国が小競り合いを続けて居るが、若き王レオン=ルシタニアは良く国を纏め、先王が亡くなった折の混乱を鎮め、軍備の整備も順調のようだとルシタニア連合王国に教官団として派遣されて居る第五師団長アルベルト=ウィーズリー少将からの報告にもあった。
スタルナス帝国との三年間という期限付きの不戦条約。帝国としてはこの時間を可能な限り有意義に使いたいところだ。帝国府では国力の充実を考えている。
軍令部では南方への進出だ。アルティス荒野を抜け、その先にある大洋を手にする。
さすればフェニキア自由都市連合との交易によって、帝国は大きな利潤を得ることができる。
しかし、その為にはアルティス荒野を手中にする必要がある。
そこにはびこる蛮族の存在ほど厄介な物はない。現に、第四軍も第一軍も大きな犠牲を出した。
中原制覇を目論んで北上したクシャス=カーンの野望を防ぎ、カラキシス以北を掌中にしたとは言え、元々限界ぎりぎりだった国力は今まさに底を付かんとするところまで追い詰められている。
「軍令部の意見どおり、軍を興せば国家予算を使い果たす事になってしまう。その結果は―――」
「重税、ですか。先帝時代に比べれば幾分マシとは言え、未だに農民にとって苦しい生活である事に変わりはありません。ここで再び重税を課せば、先帝時代以上の反発を招くでしょう」
「うん。かといって、帝国府の意見を採り続ければ、軍の若手将校が何をするかわからない」
「ならば打つ手は一つでしょう」
アルンヘルの灰色の瞳には、何の躊躇いもない。
国家安泰の為ならばどのような残酷な手段ですら躊躇う事なく実行する者こそ、支配者の器と考えているアルンヘルの考える策はいつも流血の結果を招く。
確かに効率は良い。貴族連盟も、根絶やしにすることができたのはアルンヘルの策のおかげだ。
だが、ラインハルトはついつい、考えてしまうのだ。
(もっと平和的な解決法はなかったのだろうか?殺さずに、意見を変えさせるような………)
散々思い悩んだ挙句、出てくる答えはいつも否定的な物ばかりだ。
長年に亘って特権を享受し、それが当たり前だと考えるようになった腐敗貴族は国家にとって害にしかならない。害虫は駆除すべきであって、下手に情けを掛ければ、気付いたときには体中がぼろぼろになってしまって居る事もあり得る。
国を護る為には、害虫の駆除をも成さねばならない。
(それはわかる。わかるけれども………もし、殺した害虫の中に、害虫でなかった者が居たら?)
脳裏に浮かぶのは最後に見たラマーン=オルド侯爵の姿だ。
確かに彼は貴族であり、己の特権を何の疑いもなく享受していたかもしれない。
しかし、彼には他者を思いやる心があった。腐敗した貴族にはない、心が。
だが、自分はそんな彼に反乱の全ての罪を被せ、処刑したのだ。
確かにそのおかげで命を救われた者も数多い。しかし、果たしてそれが贖罪となり得るのかどうか。
人間の命を数で秤に掛ける行為に、ラインハルトは不快感を覚える。だが、だからと言ってどうするべきだと言う考えも浮かばない。一人を救うために何百人もの命を殺すことなど出来ない。だが、何百人の命を救うために一人を殺すと言うのには抵抗を覚える。
(じゃあ………一体、余はどうすれば良いんだ?)
アルンヘルは何処か陰鬱で暗い雰囲気を醸し出す瞳と表情で、苦悩する皇帝を見据えていた。
彼はそれまでの人生を全て復讐のために捧げて来た。その為に、孤児院での地獄のような訓練にも耐え、士官学校に入学すると共に全ての過去を抹消するために自分の過去に関わった全ての存在を抹消したのだ。全ては、名を変え、母の仇に近づき、復讐の本意を遂げる為に。その為に自分を育ててくれた養父養母すらこの手に掛けた。その復讐が果たされたとき、自分の中に一体何が残るのだろうかと恐怖していた時期もあった。士官学校に在学していた時の事だ。赤髪と青髪の二人の男は、母が死んだ日から凍りついたかのように動きを止めていた彼の心を溶かし、ほんの一時だけでも彼の心に躊躇いを生ませたのだ。
(このような復讐に、果たして意味などあるのだろうか?………母さんは喜んではくれないだろう。母の腹を痛めて生まれ出たこの命をもっと有意義な事に使うべきなのではないか?)
そんな事を自問自答し、悶々と過ごした夜が何度ある事か。
だが、士官学校を卒業し、軍に入ってから彼の心は再び固まった。
殺すべきだ。このような腐敗した貴族など。天命だと思った。
(私は、この国の腐敗した貴族を皆殺しにするために生を受けた………)
自分の生きる目的を確認し、想いは固まった。
遠征先で、平民を虫のように平気で殺す貴族ども。
下賎な犬と呼びながら女を犯し、孕んだ子供ごと槍で突き殺す者。皮を剥ぎ、激痛に悲鳴を挙げる男の、剥き出しになった筋組織に焼き箸を押し付ける者。母親の目の前で、幼子の眼球を抉り出し、無理やり母親に食わせた者。夫の四肢を砕き、その夫の前で妻を獣に貪り食わせた者。
第一軍というエリートコースを歩みながら、アルンヘルが目にしてきたのはこの国の腐敗した、吐き気を催すほどの悪臭を放ちながら醜く生きる浅ましく、愚かな貴族達の姿であった。
必死に子を守ろうとする母親を《下賎な犬》と呼ぶこの上も無く醜悪な姿を晒す貴族ども。
アルンヘルは何度その首を刎ねてやろうかと考えたかわからない。しかし、その度に彼は強固な決意を以って自制した。拳を握り締め、奥歯を噛み締め、悲鳴から耳を反らさず、悲惨な光景から目を背けず。
(一人の貴族を殺したところで、何も変わらない。それでは無意味だ―――)
殺すならば、全て、一人残らずこの国から消し去ってしまうことだ。このような腐敗した人間がのさばる世の中を変えるには体制その物を変える必要がある。歯軋りするような思いで、アルンヘルは軍部の上を目指した。少しでも権力に近づく為に。昇進するには貴族の後ろ盾が必要だった。コネを得るために、アルンヘルは何でもした。醜悪な貴族の悪行に、彼もまたその身を浸からせたのだ。
美しい女が居ると貴族が言えば、例え旦那が居たとしても、旦那を斬り、子供を人質にとってまで、女を貴族に献上した。靴の泥を舐めろと言われた時も、黙って従った。
戦場では阿修羅の如く戦った。そして、第一軍団長ルト=リューベンの幕僚と言う地位を得たのだ。
―――そして、今。
自分は皇帝の直参として、この上もなく権力に近い場に居る。
復讐は果たした。この国を汚していた腐敗貴族は一掃された。
しかし、心は虚しさで満たされる事はなかった。
既に復讐は、彼の人生においては一通過点でしかなくなっていたのだ。
彼の心の中には、新たな目標がしっかりと見定められていた。
それは―――。
(この若き皇帝を覇皇の座に押し上げる事………)
灰色の目を細めるようにして、透き通るような白さと滑らかさを持つ皇帝の美しき顔を見つめ、彼は口を開いた。
「強硬派の青年士官を全て斬る」
「駄目だよ、アルンヘル」
彼の言葉を予想していたのだろう。皇帝は即答で、拒否の言葉を口にした。
「何故です?」
「多すぎるだろう。それに真摯に国を想った結果の言葉だよ。説得すればきっとわかってくれるはずだ」
「説得を聞きますか?彼らが《皇帝は宰相に騙されている》と言う考えを改めぬ限り、陛下の言葉と言えどかの者達の心を打つ事はありますまい」
「じゃあ、どうすれば………」
苦悩に蒼く染まった顔で、皇帝は声を挙げた。
「遠ざけるのです」
「遠ざける………?」
アルンヘルの言葉に、ラインハルトが怪訝そうな表情を浮かべる。だが、だんだんとその目が驚愕と戸惑いに見開かれる。
「まさか―――」
吐き出された声は掠れ声。その声が、皇帝の意思を明瞭に伝えてくる。しかし、アルンヘルは躊躇う事もなくそれを口にした。皇帝の心情など考慮の外だ。自分は言うべき事を言うのみ。その過酷さに皇帝の心が耐えられないのであれば、所詮はそれまでの事、この皇帝を見込んだ自分の眼力が誤っていたというだけの話だ。もし皇帝が激怒し、自分を罰そうとも同じ事。意見を述べられてそれに逆上し、意見を述べた者を罰するような男が皇帝ならばその国はいずれ滅びる。誰もが罰を恐れ、皇帝の意に背く意見を述べなくなるからだ。皇帝とて生身の人間なのだ。時には誤った方向へと進む事もある。それを止めなければならないはずの者が死を恐れて意見を述べなければ、国は皇帝の思うがまま、誤った方向へと進み続ける。ちょうど今の、スタルナス帝国のように。ならば自分はこの国が崩れ行く様を先に地獄に堕ちて見守っていようではないか。今までに殺して来た者達の怨嗟と憎悪にその身を引き裂かれようとも、この国の滅び行く様から決して目を背ける事はあるまい。
自分の命になど無関心なアルンヘルは、自分の生殺与奪の権を全て皇帝に委ねたつもりで、告げた。
「宰相派の人間全てを、です。宰相も財務尚書もシエナ様もガルヴィン=ジングリッド閣下もハーン=ハーベスト元帥閣下もアレク=ハーベスト閣下もシオン=クリケット閣下も、です」
皇帝の顔が苦しげに歪む。皆、彼の親しい者達ばかりだ。
彼がまだ皇帝ではなく、一人の少年だった頃に、自分を育ててくれた養父や幼馴染達だ。
「彼らを遠ざけるなんて事は………出来ない。恩を仇で返すような物じゃないか。それこそ、そんな不義の皇帝に領民は付いて来ないよ」
「ならばもう一つ、策はあります」
「なんだい、それは」
「そもそも、若手将校の不満の種は帝国府がアルティス荒野南部への侵攻を認めないが故の事」
「うん」
「ならばアルティス荒野南部を手に入れてしまえば宜しいのです」
「そんな乱暴な!それってつまりは軍を興すって事でしょう?そんな事をしたら国家財政が破綻してしまうよ」
「何も、わざわざフロレシア帝国が動く必要はありません」
「………?じゃあ、誰が動くのさ」
「砂の民も決して、一枚岩と言うわけではありません。私に任せていただければ、砂の民を降伏に追い込んで見せましょう」
「砂の民は堅い結束で繋がっているんじゃなかったのかい?」
「どのような堅い結束にも、必ず綻びと言う物はあります。どのような堅牢な堤とて一穴より決壊する如く、綻びを突けばどのような堅固な結束とて同じ事」
「それが………万全の策なんだね?」
「私が思い付く限りでは。但し、根本的な解決にはなっていません。例え、南部アルティスの問題が決着したとしても若手将校は事ある毎に帝国府と対立し、その度に宰相派を《君側の奸》と罵る事になります」
「だとしても今は、他に打てる手はない。若手将校を討てば国の軍事力はさらに低下してしまうし、そもそも国を真摯に想って居る人を―――いや、余の臣民を殺したくはないんだ」
「陛下の御優しさはわかっております。ローデンスの穏やかな気候と緩やかな湖の水面が育んだ物でしょうか」
アルンヘルの言葉に、ラインハルトは束の間、今はもうない昔を懐かしむような目付きをした。
思えば、皇帝になってからまだ一年と二ヶ月余りしか経過していないのだ。
思い出せば様々な事があった一年だった。得た物も多いかもしれないが、失った物も多いような気がした。自分にとって大事な物を失っているような気がした。まだ手元にあっても磨耗し、磨り減っているのではないか?そんな気がしてならない。平穏で暖かで、優しい、ローデンスでの生活を。
(これ以上………僕の大事な物を………大事な人を失いたくはない)
脳裏に浮かんだのは、シエナの笑顔だった。あの笑顔を守りたい。
皇帝としては失格かもしれないが。
(僕が本当に心の奥底から守りたいのは………それだけかもしれない)
ラインハルトは追憶を断ち切るようにして、アルンヘルを見やった。
「―――君に任せる。アルティス荒野の攻略を」
「ははっ。必ずや、アルティス荒野南部を攻略し、海への道を開きます」
いつも通りの、少し暗い淡白な口調で述べ、敬礼した後、アルンヘル=へード大佐は皇帝執務室を出て行った。
その日の内に、灰色の髪と同色の瞳を持つ青年士官は皇帝の勅許状を懐にして、帝都を旅立った。
馬に揺られながら、アルンヘルは南下して行った。
帝国兵を用いず、砂の民を陥れる為に―――。
(これで良かったんだろうか………)
執務室で一人、ラインハルトは考えていた。目の前には軍部から届けられたカラキシス戦役での被害の統計が記された報告書がある。膨大な数字の羅列が、眼から脳へと伝わっていく。これだけの犠牲を出し、カラキシス以北の地を手に入れはした。しかし、それでも人間の欲望には限りがない。すぐにまた、さらなる戦火を求める。その戦火を避けるために、アルンヘルを派遣した。彼が何をするつもりなのかは知らない。知らないが、知れば背筋が寒くなるような物であるのは間違いない。
「今は乱世なんだ………」
口に出して、言い訳じみた言葉を言ってみる。だが、その言葉で心が晴れる事はなかった。
何故ならば―――。
「その乱世を生み出したのは神でもなんでもない。人間の欲望じゃないか」
だとすれば、戦火で人間が死ぬのは自業自得なのかもしれない。
4 亀裂
帝国暦三三三年七月十五日。
ハーン族の長グルジム=ハーンからカーン族の長クシャス=カーンへと宴の誘いがやってきた。
先の大戦による死者に対する四十五日の喪も明けたので、両氏族の親睦を深めるためにも一席宴を設けたい。是非にも出席していただきたい、と言う内容だった。
カーン族とハーン族は砂の民の盟主と言う権力を巡って、長年抗争していた。
だが、いくら対立していたと言っても同じ砂の民の有力氏族として全く交流が無かった訳ではなく、今回のように互いに相手方の族長を招いての酒宴なども良く開かれていた。
故に、クシャスはこのハーン族からの誘いを疑う事もなく受けた。
供に僅か十名ほどの戦士を連れただけで、クシャスはサマカンドの東南部に陣を置いているハーン族を訪れたのだ。現在、サマカンドに集結している砂の民の軍勢はおよそ十二万。
その内の実に四万がハーン族の兵である。カーン族が六万。タタル族とクリル族が合わせてようやく二万と言う内訳だ。
カーン族はともかくとして、他氏族は既に四ヶ月もその本領を留守にしている。
中でもクリル族はその領土が北部にあり、カラキシスを占領したフロレシア帝国によって、この小氏族の領地は非常な圧迫を受けている。戦士達が戻らねば、女子供だけで領地を守りきる事は事実上不可能であった。クリル族の代表はクシャスに対し、自分達の離軍を要請していたが、未だに認められていない。砂の民の盟約では盟主の承諾がない限り、軍を離れ、己の領地に戻る事は許されていない。
クシャスは今回のハーン族からの誘いも、もしかしたら離軍許可の依頼を兼ねての物かもしれないと考えていた。ハーン族はアルティス荒野の東部から南東部に掛けて勢力範囲として居る。クリル族を間に挟んで居るとは言え、既に十分、フロレシアの影響を受ける位置にある。
北部から中部さらには南部、西部に掛けての広大な領土を持つカーン族に比べればその領土は半分以下だが、それでも砂の民の中では第二の勢力を誇っている。またハーン族の砂甲竜部隊は砂の民の中でも最強に分類されるべき部隊だ。四氏族の最後であるタタル族はアルティス荒野の南西部に勢力を持っている。直接的な圧迫を受けているカーン族、クリル族やクリル族と言う僅かな緩衝地帯を置いて間接的な圧迫を受けているハーン族などの他の三氏族に比べ、まだまだフロレシア帝国の影響はその領地には及んでいない。タタル族とフロレシア帝国の間にはまだカーン族が強大な勢威を保持しているからだ。
グルジムはサマカンドにある有力商人の屋敷を借りていた。
クシャスを出迎えたグルジムはにこにことした笑顔を浮かべて、
「よくぞお越しくださいました、盟主殿。さ、宴の準備は整っておりますれば、こちらへお通り下され」
「御誘いに甘え、参上しました」
クシャスもそう返し、彼に案内されるままに二階へ上がった。
奥の部屋へ通されるとそこには宴席が設けられており、豪華な食事が並べられていた。
既にクリル族やタタル族の代表達も来ており、各々席に着いていた。
「ほう………」
並べられた料理の豪華さに感嘆の声を漏らしながら、クシャスは勧められるがままに上座に座った。
隣にグルジムが座り、ぱんぱんと手を叩いた。
すると隣の部屋とを隔てていた幕がするすると上げられ、肌が透けるほどの薄衣を纏ったうら若き美女達が入って来た。彼女達は数人が部屋の下座に立ち、残る数人が宴席に散った。
クシャスの傍らにも一人が座り、クシャスの杯に並々と酒を注いだ。柑橘系の香りが滑らかな小麦色の肌から匂いたつような美女だったが、クシャスは一瞥しただけで特に感想を述べたりはしなかった。
宴席に連なる者全員に酒が注がれると、グルジムが立ち上がり、
「先の大戦の結果、我らはカラキシス以北の地を失いはしたものの、敵に大なる被害を強いた。今一度、四氏族の力を合し、今度こそ、中原へと押し出るべきである。まずは四氏族の勇猛なる敢闘を祝し、祝杯を挙げたいと思う!」
と演説し、己の杯を掲げた。全員、それに倣う。
「乾杯!」
「砂の民万歳!」
「ラーマ=ヤーマ万歳!」
号し、一同は一気に杯の中身を飲み干した。その後は無礼講の酒宴となった。飲み、食い、踊り子達の舞を見る。だんだんと場は乱れ、荒野の月と砂の民の勇猛さを称えた歌を一人が歌いだし、数人がそれに合わせて歌いだした。心得た物で、踊り子達も太鼓や囃子などで調子を合わせる。その間にも列席者達はどんどん飲み、どんどん喰らう。その場で、一人、グルジムがふらりと立ち上がった。
「ちと便所に行ってきます」
「お早くなされよ。主催者が居ないのでは盛り上がらん」
すっかり酔っ払ったクシャスの言葉に、会釈を返して、グルジムは部屋を出た。
部屋を出た彼はよたよたとした足取りで歩き、便所ではなく、部屋一つを隔てた別の部屋に入った。
陽気に騒ぐ宴会が行われている部屋とは異なり、その部屋には張り詰めた殺気が漲っていた。
完全武装したハーン族の戦士達が二十名ほども待機していた。
彼はその戦士達を見回した後、部屋の隅に置いた椅子に腰掛けていた男に近づいた。
その男はまだ若かった。青年と言って良い年頃だろうが、どことなく陰鬱な雰囲気を纏った男だった。
灰色の髪と同色の瞳が、冷たい印象を与え、冷酷なまでに静かな視線が相手の心胆を寒からしむるような男だ。砂の民の民族衣装を纏っては居るが、誰が見ても荒野の人間には見えなかった。男はかすかに眉根を寄せて、代表を見た。
「酒はあまり召されぬ方が宜しいと申しましたはずですが?」
「わしが飲まねば、誰も飲まん。飲まなければ怪しまれるだけだ」
彼が渋面で言うと、男はそうですか、と言ってあっさり引き下がった。
「ならば後は実行あるのみです」
「しかし、フロレシア帝国は本当にハーン族にアルティス荒野全てを与えて下さるのか?」
「確約を取ってあります。また貴殿のお働き次第ではカズリクの総督の地位もありえます。その代わり、カズリクからルーガへと運ばれる荷の護衛をお頼みしなければなりませんが」
「その程度の事、何ほどの事もない………カズリクの総督………ラインハルト帝はカズリクを落とす気なのか?」
「カズリクの会合衆が歯向かわねば、穏便に事は進むはずです」
(もっとも、二百五十年もの間自治権を確立してきた会合衆がそうやすやすと従うとは思えないが―――それに、貴方には関係の無い話に過ぎない)
アルンヘルは心の中で、そう呟いた。もっとも、その程度の事はこのグルジムとてわかりきって居る事だ。そして、いくら会合衆が逆らおうともフロレシア帝国の軍事力に対抗出来ないであろう事も。
また商人である会合衆を動かすのは武の力ではなく、金の力であることも。
「わかった。お前の言う通りにしよう」
「御願いします」
「礼には及ばぬ。陛下へのお取り成しこそ、お前のすべき事だ」
「心得ております」
頷くアルンヘルから、グルジムは武装したハーン族の戦士達に視線を向けた。
「―――行け。一人も逃さず、斬れ。我ら氏族の栄誉と誇り、栄達の為に」
二十余名の戦士達が立ち上がり、頷きを交わした。
宴会の席にいきなり武装した戦士達が飛び込んできたとき、誰もがそれを剣舞か何かの座興だと思った。
しかし、先頭の戦士が膳を蹴り倒し、慌てて立ち上がろうとしたクリル族の代表にカトラスで斬り付けた瞬間、その場の空気が凍りついた。
斬られて倒れたクリル族の代表から噴き出た血潮を見て、出席者達の間に動揺が広がる。
「クシャス殿、御命頂戴!」
「馬鹿者が!」
振り下ろされたカトラスを拳で殴り、足を引っ掛けて倒し、首筋に手刀を打ち込む。
酔っていて尚、クシャスの動きには無駄はない。
彼は立ち上がると、カトラスを抜いて、ハーン族の戦士達に突っ掛かって行った。
「クシャス=カーンを舐めるなッ!!」
その覇気に、ハーン族の戦士達が思わず怯む。
「怯むな!相手は小勢で、しかも酔って居るのだぞ!ハーン族の誇りに掛けて、討ち取れ!」
叱咤の声は、ハーン族の戦士達の後ろからした。グルジムである。踊り子達は悲鳴を挙げて部屋の隅に蹲っていた。そんな彼女達の前で、数で圧倒的に優るハーン族が他の三氏族の戦士達を圧倒して行く。元々、泥酔していた彼らが素面の、しかも完全武装の敵に敵う筈は無かった。クシャスも肩に手傷を受け、部屋の隅に追い詰められた。グルジムを先頭に、ハーン族の戦士達がそんな彼を包囲する。
「貴様………一体、何故このような………仲間内で揉めていてはフロレシア帝国には勝てないぞ!」
傷を受けて尚、クシャスの表情から闘気が消える事は無い。
「簡単な事です」
答えたのは、グルジムではない。クシャスがきっと眦を吊り上げ、出口の方を顧みた。
戦士達を掻き分け、一人の青年が現れた。灰色の髪に、灰色の瞳を持つ青年が。
その青年を見て、クシャスの表情が一気に強張る。
「貴様、フロレシアの人間であろう!」
「そうです」
「これはどういう事だ!貴様、まさか同族を裏切ってフロレシアに付くつもりかっ!」
グルジムに向かって、怒鳴るその様は、その身に彫られた刺青と同じく、獅子の咆哮のようだった。
「族長たる者、考えるべきは氏族の安泰」
グルジムが平坦な声音で答える。
「何を吹き込まれたのかは知らぬが、中原の人間に信義は無いぞ!砂の民全てを地獄へ送るつもりか!」
「ええい、黙れ!元はと言えば、先の大戦で敗北したのが全ての原因であろう!その責を取って、おとなしく死ね!」
グルジムの言葉と同時、戦士達が動いた。カトラスをクシャスの身に突き立てる。
全身に何本ものカトラスを生えさせ、クシャスは獰猛な笑みを見せた。
「俺を殺そうとも、貴様などにカーン族は滅ぼせないぞ!俺の息子達が必ず貴様を殺す。俺は貴様が苦しむ様を地獄から観察させて貰うぞ!」
「殺せ!」
さらに三本のカトラスがその身に突き立ち、クシャスはごふっと血を吐いた。
その視線が、黙って成り行きを見つめて居るアルンヘルに向かう。
「貴様………名は?」
「知る必要がありますか?」
「地獄で、貴様を待つ」
「………。良いでしょう。私の名はアルンヘル=へードと申します」
「アルンヘル………ヘード………覚えた………ぞ」
クシャスの強い輝きを浮かべていた瞳から急速に生気が薄れていく。
「これでもう………」
グルジムは力無く呻いた。その先の言葉を、代わりにアルンヘルが告げる。
「はい。もう後戻りは出来ません。進み続けるしか」
グルジムは軍を引き連れ、カーン族の首府へと乗り込んだ。
カーン族の戦士達が慌てて押し留めようとするのを、数に物を言わせて押し通る。
グルジムは腕を白布で吊っていた。その包帯には血が滲んで居る。
「マーダ、マーダ=カーンは居らぬか!」
彼は声高に怒鳴りながら、首府の中を我が者顔に歩き回る。
慌てて姿を現したマーダ=カーンはこの期に及んでも穏やかな物腰で、彼を応接間に通した。
「一体、何事です?その傷はいかがなされた?」
「白々しい。惚けるのも好い加減にしろ」
激しい怒気を滲ませた声で怒鳴る。
「―――何があったのですか」
「貴様の親父殿がいきなり、斬りかかって来たのだ。クリル族やタタル族の族長や護衛の戦士は皆殺された。わしもこの通り、片腕を切られた」
「父上が………?」
混乱したように、マーダは呻いた。何がどうなったのかまるでわからない。
「それで―――父上は?」
「わかるだろう、マーダ?父上は乱心なされたのだ」
「斬ったのですか?」
「そうするより他に手は無かった」
「それで―――代表はこれよりどうするおつもりですか?」
「このような手酷い裏切りにあっては盟約に従うことは出来ん。ハーン族は盟約より抜けさせて貰う。その為の了解をお前に得る為にやってきた。クリル族もタタル族も我々と同じ結論に達するだろう。今はまだ長を失って混乱しているだろうがね」
「盟約を離脱するのに必要なのは盟主の承諾のみ。その盟主が既にこの世に居ないのであれば、盟約を抜けようとする氏族を止める手立てはありません」
「ならば良い。今後、カーン族はお前が纏めていかなければならん。もし困った事があれば何でも相談してくれて構わないからな。盟約を離れたとしても、クシャス殿より頂いた恩は深い。その程度の恩返しはさせて貰うつもりだ」
「それは心強い限りです。是非、御指導の程を」
「うむ。ではわしはこれで」
グルジムは慌しく立ち去った。残されたマーダはやはり穏やかな風貌のままだったが、やがて、ぽつりと呟いたその声は、彼の風貌とは懸け離れた冷酷な響きを持っていた。
「必ず、殺す」
そこへ息せき切ってユドグーとセトゥ、マーダの二人の弟達が飛び込んできた。
「どういうことだ!?街中でハーン族の軍が暴れてる!『カーン族が裏切った』ってどういう事だ!」
「応戦して良いのか、兄上!」
「応戦は駄目だ。ただ、ハーン族、クリル族、タタル族には丁重にサマカンドからの退去を要請しろ」
「退去って………それじゃ、連合軍は?」
「解散だ。落ち着いて聞くんだ。良いな?」
マーダは二人の弟を茣蓙に座らせ、落ち着くのを待った。先に落ち着いたユドグーが、聞く。
「一体、何があったんだ?」
「父上が殺害された」
「なっ………!!」
「父上がッ!?だ、誰に!」
「ハーン族だ。父上が乱心し、宴席に連なった者達を皆殺しにしたらしい。それで仕方なく斬ったと」
「誰がそのような世迷言を!父上が乱心だなどと―――」
「ハーン族だ。だが、奴らだけの策謀じゃない。裏で糸を引いている人間が居るはずだ」
マーダの瞳は普段の茫洋とした色ではなく、爛々とした輝きを放った。
まるで水を得た魚のように生き生きとしているように見えた。
「ハーン族の背後で?一体、誰が―――」
「まさかフロレシア………」
はっとした表情で、セトゥがその国名を口にする。
「馬鹿な。フロレシアの皇帝は何より陰謀を嫌うと噂で―――」
「でも、他に考えられない」
「じゃあ、ハーン族はフロレシアに寝返る気だと?」
「ハーン族だけじゃないだろう―――」
「兄上?」
「ハーン族だけじゃないって………」
物事の余りの急変に頭がついていかない弟達の混乱した聞き返しに、マーダは極力感情を抑え込んだ声で応えた。
「クリル族も、タタル族もだ」
「カーン族は孤立する!」
「どうするんだ、兄上!」
「―――ここは様子を見る。それしかない。まずは混乱を鎮める事だ。戦は起こすな。同族での殺し合い等無意味でしかない」
1 撤退
カラキシスを包囲している砂の民の歩兵部隊に合流した騎兵隊と象軍の残党の姿は見るも無残な有様だった。無傷な者などほとんど居ない。体中に張り付いた返り血はまだ乾き切っておらず、乾いた部分は動くたびにぱらぱらと剥がれ落ちる。戦友に肩を借りてやっと帰陣したと言う者も少なくはない。
八万の出撃部隊の内、戻ってきたのは五万余り、その内、まだ戦えるのは四万余りに過ぎない。
これでも、あの激戦の規模から考えれば少ないのかもしれない。
なにしろ敵に回したのはあの赤き鬼神が指揮する第一軍と第四軍の残留部隊を含めて十八万なのだ。
倍以上の敵を相手にした戦いにしては良く戦ったと言えるのかもしれない。
だが、負けは負けだ。それは認めざるを得ないところだ。
負傷兵の治療やフロレシア第一軍の追撃への警戒などを手早く指示した後、クシャス=カーンはユドグー、セトゥの二人を連れて大本営に入った。
三人を迎えたのは、カラキシスの包囲を任せられた次男のマーダだ。
彼は疲労の色濃い父と弟達を神妙な、それで居て陣内に蔓延しているような暗い雰囲気を微塵も感じさせないのんびりとした表情で出迎えた。
「お疲れ様です、父上」
「マーダ。第四軍に動きは?」
「ありません。第一軍に呼応して動くかとも思ったのですが」
「そうか」
全身火傷の激痛に耐えながら、クシャスは大本営の最も奥にある己の茣蓙に腰を落とした。
息子達も座り、ハーン族やタタル族、クリル族などの代表も顔を揃える。
マーダを除き、みな、表情には疲労と暗さ、そして不安と恐怖が浮かんでいた。
(上級精霊の精霊攻撃を生まれて始めて目の当たりにすれば、当然の反応だ)
腕にこびりついている返り血を剥がしながら、クシャスは苦々しく思った。
彼でさえ、恥も外聞もなく馬の影に逃げ込み、地に潜り込んだのだ。だが、そうでもしなければ自分はあそこで炭になっていただろう。馬のように跡形も無く崩れ去っていただろう。
あの時、確かに自分はあの赤髪の将が掲げた精霊具に対して恐怖の念を持っていた。
族長ともあろう身で………なんと恥ずべき行動を取ってしまった事か。
だが今は、悩んでいるべき時ではない。
「負けた。大敗だ」
クシャスは酒を引き寄せ、口に直接流し込んだ。アルティス産の酒は胃が焼けるほどに強い。
その酒で胃を満たし、クシャスはぎらぎらと光る目でその場に集う者達を見据えた。
「このままカラキシス包囲を続ければ、我々は挟み撃ちに合い、全滅するだけだ」
「退く………と?」
誰かが小声で問う。その声には困惑の色があった。
今まで、クシャス=カーンが自分から軍を退くなどと口にした事は一度足りともない。常に前を向き、そして敵を粉砕して来たからこそ、彼は偉大なる戦士と呼ばれているのだ。勇猛なる砂の民に撤退という選択肢はない。はずだった。
「我らの宿願は死ぬ事ではない」
何の迷いもないかのように、言い切ったのはまだ初陣を飾ってから日も浅いセトゥだった。
「中原を制覇することだ」
「その為には引き下がる事も構わない、と?」
先ほどの男がもう一度問う。ハーン族の代表グルジム=ハーンだ。
その瞳は何かをさかんに計算している。砂の民の同盟において、カーン族と最大野党であるハーン族の仲は決して良好とは言えない。ハーン族は隙あらばカーン族を打倒し、自らがアルティス荒野一の氏族という位置を占めたいと考えている。前回、ヴェネット=カーンを失った遠征に次いでの今回の遠征での失敗は、カーン族の勢威を衰えさせるには十分過ぎるほどだろう。だが今は内輪で揉めている場合ではない。ほんの数キロ先には今も敵軍が陣を張っているに違いないのだ。いや、もしかしたら攻撃のために移動している最中かもしれない。
だが、計算高いグルジムは、ここはカーン族に反対の意見を述べておいた方が得策だと考えた。
もし同じ意見を述べたりすれば、カーン族の没落にハーン族まで巻き込まれかねない。
しかし、反対意見を述べておけば、カーン族が没落した後、ハーン族の勢威は増す事になる。
「一度の敗戦によってすぐさま軍を退けば、臆病者の謗りを避けられませんでしょう。ここは踏ん張り、もう一太刀なりとも敵に攻撃すべきと考えるが。偉大なる戦士、クシャス=カーンはいかがお考えか?」
「即刻、陣を引き払う」
「なんと!クシャス=カーンともあろう御方が臆病風に吹かれましたか?」
侮蔑感たっぷりにグルジムが言い放った次の瞬間、風のように動いた者が居た。
茣蓙を蹴って飛びかかり、抜き放ったナイフで彼の首を掻き切ろうとする者。
セトゥであった。
「この無礼者が!父上を侮辱する者はこの俺が許さない!」
「う、うわぁっ!?」
「止めろ、セトゥ!この慮外者が!同志に刃を向けるとはどのような了見か!」
響き渡った烈声に、グルジムにナイフを突きつけた格好で、セトゥは動きを止めた。
グルジムは目の前に突き出されたナイフを見て、泡を吹いている。
「この者は父上を侮辱いたしました」
「下れ!族長の息子が仲違いの先手に立つなど言語道断だ!」
クシャスに怒鳴られ、セトゥは怒りの篭った眼差しでグルジムを射抜きながら、ナイフを腰の鞘に収め、己の茣蓙に戻った。それを見て、グルジムの従者達も抜き放っていたナイフを鞘に収めた。
もし、セトゥが彼を斬っていれば、次の瞬間には彼自身が男の従者達によって斬り殺されていただろう。
「浅はかなりし息子が失礼した。許されよ」
「い、いや、私も言葉が過ぎました。私こそお許しを」
グルジムが頭を下げた事で、緊迫していた空気も氷解した。そこで、マーダが口を開いた。
「父上、陣を引き払うのは宜しかろうと思いますが、敵軍に対し、何の挨拶も無しにというのはいかがな物でしょう?まるで夜逃げではございませんか?」
「ふむ?………では、どうする」
「本隊をサマカンドに向かわせながら、別働隊で第一軍に夜襲を掛けるのはいかがでしょう?」
「夜襲だと?」
「はい。昼間の激戦に、フロレシア軍と言えど今宵は疲労で眠りこけるはず。まさか大きな被害を出して撤退したはずの我々がその日の内にもう一度襲撃を掛けてくるなど思ってもいますまい。今から軍を動かせば最も深き闇を突いて攻撃出来ましょう」
「なるほど………セトゥ=カーン」
「は、はいっ!!」
「象軍の兵力はどれほど動く?」
「二万ほどは、何とか」
「ならば象軍を率い、第一軍に夜襲を掛けて参れ。事成りし後は軍を纏め、西を迂回してサマカンドへ向かえ」
「は、ははっ!!必ずや戦果を挙げて見せます」
「ん」
「ならばすぐにも陣を引き払う準備をさせましょう。カラキシスに居る第四軍に気付かれぬよう、音には細心の注意をさせなければなりません」
「任せた。殿はユドグー、おまえだ」
「はっ。例え、第四軍が出てきても必ず抑えてご覧に入れます」
「ん」
「お歴々もそれでよろしいか?」
クシャスが他の三氏族の代表者へ視線を向ける。
答えたのは三氏族を代表するグルジムだ。これ以上、逆らっても仕方ないと考え、素直に頷く。
「ラーマ=ヤーマの加護が猛き若人にあらん事を」
日付が変わり、帝国暦三三三年五月二十四日、深更―――。
カラキシスの物見台に登っていた兵士が、最初にそれに気付いた。
「おい、妙じゃないか?」
兵士は他の三人の兵士に言った。
「何がだ?」
疲労と空腹な上に、睡魔にまで襲われていた兵士が不機嫌そうに聞く。
彼らが直接見たわけではないが、昼間の激戦はこの物見台の当番兵からつぶさに報告が司令部に送られていた。無論、あの精霊攻撃による爆発も。最初はその爆発がなんなのかわからず、不安がっていた第四軍兵達だったが、コーデル=ハム中将によってその爆発が第一軍団長のハーン=ハーベスト元帥が所有する《炎の剣-ハリエストロ》の精霊攻撃による爆発だと言う事が伝えられると兵士達の不安は歓声に変わった。これで、この包囲戦にも終止符が打たれる、と。最も、実際にその精霊具を現在所有して居るのはハーン=ハーベストではなくその息子のアレク=ハーベストなのだが、ハムはまだその事を知らない。しかし、戦いが終わっても砂の民の包囲が崩れる事はなく、第一軍が動く気配もなかった。第一軍は四キロ先の陣を動かず、どうやら夜を明かすつもりのようだ。物見台からでも、遠方に瞬く篝火の光が見える。しかし、兵士が指差したのはそんな遠方ではなくもっと手前―――カラキシスを包囲している砂の民の軍勢の方だった。こちらは闇の中に無数の灯火が瞬き、その輝きがカラキシスの周囲を隙間なく覆っている。この二十日間ですっかり見慣れてしまった夜景だった。何の明かりも無い荒野に灯火が瞬く様は幻惑的で、神秘的な美しさすら伴っていたが、兵士達からすればそのような雰囲気に酔う気にはとてもなれない。それどころではないほどに空腹と疲労に苛まれているのだ。
「一体なんだ、何の異常もないように見えるが」
「寝惚けてんじゃないのか?」
「それとも、空腹の余り遂に頭が壊れちまったとか?」
「寝惚けても壊れてもいねえよ!」
「どうだかな。自分ではわからないもんだろ?そういうのって」
「良いから良く見てみろ!」
「だから何度見たって、同じだろ?」
「本当に同じか?」
「同じだろ。いつもどおり、盛大に篝火を燃やして―――ん?そう言えば………」
「やっぱり変だろ?」
「ああ………変、だな。確かに」
「おい、何が変だって言うんだ?」
「わかりやすく言ってくれよ」
「人が居ない」
「は?何言ってやがる」
「そうだよ。篝火だけ燃やして人が居ないわけ―――」
そう言って、二人も街を取り囲む篝火に目を凝らす。
しかし、普段ならば篝火の周りに見える人影が今夜は一つも見えない。いつもわざとこちらから見えるようにして盛大に夕餉を取る蛮族の姿が全く見えない。今までに無かった現象だ。
それに、いつもならば聞こえる象や馬、砂甲竜の鳴き声も全く聞こえない。
「なんで、誰も居ないんだ?」
「まさか夜襲を掛ける気か?」
「それとも、撤退とか?」
「とにかく司令部に報告だ!」
最初に異常に気付いた兵士が、慌ててはしごを降り、物見台の隣の司令部に飛び込んで行った。
当直士官に事情を説明する。その中佐は事の重大性を悟り、すぐにハム中将を起こした。
「何があった?」
御自慢の髭にカールを巻いた寝巻き姿―――この兵士は、緊張していたため、この場では笑わなかったが、後に思い出して笑い転げた―――で現れたコーデル=ハム中将は緊張した面持ちで訊いた。
「確認したわけではありませんが、どうやら周りの砂の民の陣がもぬけの殻のようなのです」
兵士はそう切り出し、そう思った理由などを事細かに報告した。
聞き終わるとすぐに中将は先ほどの中佐を呼びいれ、命じた。
「レッセフェルトを叩き起こして、偵察させろ」
「はっ」
敬礼し、中佐は飛び出して行った。
夜中にいきなり叩き起こされ、レッセフェルト=イングラム少将はひとしきり悪口雑言を並べ立てたのち、部下のサンチェ=ポルトフ大佐を初めとした三十名余りの兵を率い、偵察に赴いた。
カラキシスを取り囲む空堀を渡り、砂の民の陣所まで二百mあまりにまで近づく。
「―――どう思う、サンチェ」
「そうですな………」
やや太り気味の体を持て余し気味にしゃがみ、サンチェは敵陣の様子を窺った。
篝火は煌々と燃えているが、全ての闇を払拭しているわけではない。
「確かに見える限りでは敵兵の姿を確認できません」
だが、闇の中に居るのかもしれない。
これも何らかの罠かもしれない。誰も居ないと思って出てきた部隊―――つまり、彼らだ―――を撃滅するための罠。現在カラキシスではサンチェの歩兵連隊二千五百が固唾を呑んで彼らを見守って居る。
もし彼らに何かあればすぐにでも空濠に板橋を渡し、救援に出撃する手筈になっている。
「そこまで考えての、策略だと思うか?」
「さあ………」
レッセの問いに、サンチェは首を傾げる。
確かに、策を仕掛けるなら絶好の機会ではある。昼間の激戦で敗れ、消耗したために陣を引き払い、後退して体勢を立て直そうとしているとレッセ達は判断するかもしれないのだから。
「このままじゃ埒があかないな。俺があそこまで行く。サンチェは十五名率いてここに残れ。残りは俺と一緒に」
「了解」
「ああ………眠い。さっさと終わらせて、帰って寝るぞ」
蜂蜜色の髪を掻き混ぜながら欠伸を漏らし、レッセフェルトは駆け出した。しっかりと両手剣の柄を握り締め、敵の攻撃を警戒する。闇の中から矢でも飛んで来ようものなら直ちに斬り落とす構えだ。
十五名の兵も、緊張感をその総身に滾らせながらレッセフェルトに続く。
彼らが篝火の位置に達しても、攻撃はなかった。すぐ傍に、簡易テントのような陣が張ってある。
「人の気配がねえな」
言いながら、それでも緊張感を失ったりはしない。慎重に陣営に近づき、入り口の幕を上げ、中に飛び込む。中は暗闇だった。人の気配もない。入り口の幕を上げた事により、外の篝火の光が中に差し込み、暗闇を払拭したが、やはり誰も居なかった。偵察を終え、無事にカラキシスに戻ったレッセフェルトはすぐに司令部に向かい、待っていたコーデル=ハム中将に面会した。
「どうやら本当に撤退したみたいだ。兵糧も持ち去られていた。夜襲じゃなく、撤退だろう。篝火は我々が気付くのを遅らせるための細工だと思う」
「ふむぅ………」
「篝火の燃え加減から考えても、撤退してから二時間余りだろう。敵は負傷者も抱えて居る。足は速くないはずだ。今から騎兵師団を出せば追いつけなくもないと思う」
レッセフェルトは報告と意見具申を終え、上官を見やった。
既にハムは軍服に着替えてしまっており、レッセは彼の髭カールも見る事は出来なかった。
「追撃は止めておこう。今下手に動いて陥穽に嵌らんとも限らん。第一軍に伝令を出し、輜重隊を送って貰おう」
「これで今回の遠征は終わりか?カラキシスまで占領できたならかなりの戦果ではあるが。敵の本隊も叩いたことだし」
「さあな。ここは一挙にサマカンドを叩くべきかも知れん。いずれにしろ、明日の朝にでも軍議で決めるべきことだ」
「わかった。伝令の手配をしよう」
「ああ。御苦労だったな、レッセ」
「どういたしまして」
2 夜襲
その夜、フロレシア帝国第一軍の将兵は皆、昼間の激戦の疲労から深い眠りに陥っていた。
篝火も燃やし、見張りも立て、哨戒部隊も数組編成して警戒にあたらせていたが、彼らも睡魔との戦いに注意力の大半を奪われ、周囲への警戒はそれほど徹底しているとは言えなかった。
セトゥ=カーンは夜襲を掛けるため、二万の象兵を率いていたが、さすがにそれだけの数で一度に接近すれば気付かれるので、部隊を幾つにも分けて、フロレシア帝国軍を包囲するような形で進軍していた。
部隊を分ける直前、セトゥは各隊を率いる戦士達を集め、言い含めていた。
「各隊による攻撃は一度ずつ。攻撃を終えた隊は他の隊を待たず、サマカンドへ向かう事。俺の率いる部隊は最後に突撃する」
セトゥの命令に戦士達はざわめいた。夜襲において最も重要なのはその奇襲性にあると言っても過言ではない。敵に発見される事なく接近し、奇襲を成功させるか、それとも接近を気取られて強襲となるかでは戦果にも被害にも雲泥の差が生まれる。
敵が眠りこけて居るのならば、最初に攻撃をかける隊が最も安全だ。大きな戦果も期待できるし、被害も最小限で食い止めることができるだろう。
しかし、後になればなるほど敵は警戒し、対応も素早くなり、被害は大きく、戦果は乏しくなる。
ほんの二十日余り前に初陣を飾ったばかりの若き戦士はその危険な仕事を率先してやろうというのだ。
だが戦士達は、誰も自分が代わりにその役を務めるとは言い出さなかった。
彼らもまた恐れているのだ。あの精霊攻撃を。ただでさえ、後になればなるほど死の危険性は高まっていく。いくら勇猛さを誇る砂の民と言えど死の恐怖に打ち勝つのは至難の業だ。
「すまねぇ、セトゥ………」
遂に、一人の戦士が目元を覆って泣き出してしまった。
己の不甲斐なさに情け無さを感じたのだ。まだセトゥは二十代の若者に過ぎない。その若者が死を決してでも仲間の安全を図ろうとしているのに、自分達は只それに甘える事だけしかできない。
「何を言ってる。お前には妻も子も居るだろう。勇敢な戦士として死ぬ事よりも、父として家族を守るほうが大事だ。サマカンドに戻っても、戦いは続く。砂の民が中原を制覇するまで。ここで死ぬ必要も無い。それに、俺も死ぬつもりはない」
セトゥに励まされて、戦士は呆然とした顔を上げた。
てっきり死を覚悟して居るとばかり思っていたセトゥが笑っていた。
まるでちょっとそこまで買い物に行くだけなのに、武器を持たせるなんて大げさ………
とでも言って居るような笑みだった。
「生きて、帰るんだな?セトゥ」
「ああ。必ず」
セトゥは力強く頷いた。戦士達も頷き、散って行った。
「合図は火だ。それを合図に、順繰りに攻め込む」
「おうっ」
僅かながら盛り上がった丘の影に身を伏せた象に跨り、セトゥはフロレシア帝国軍の陣を見つめていた。
彼の跨る白象も盛り上がる闘気を敏感に感じ取ったのか、静かに身動ぎしている。
その首に巻いた真紅の布の結びをしっかりと直したセトゥの瞳に、徐々に烈気が漲っていく。
その時、風上で喚声の声が上がった。
攻撃第一陣だ。火矢を放ちながら、巨躯を誇る象を巧みに操り、フロレシア帝国軍の野営地へと飛び込んで行ったのだ。篝火付近に居た歩哨達が慌てて警告の怒鳴り声を上げる中、象兵達の放つ火矢が次々に兵士達が眠って居る天幕を突き破り、瞬く間に火が燃え移る。
火は松明と化して野営地を照らし出し、象兵達が敵を蹂躙するのを助けた。
逆に、何が起こったのかもわからず右往左往するしかない帝国兵達は踊る火炎に幻惑され、混乱の坩堝に叩き落とされる。騒動に、或いは悲鳴に、或いは炎に、眠りこけていた兵達が飛び起きる。
慌てて武器を取り、戦おうとするのだが、昼間の疲れがその身のこなしを鈍重にしている。
さらに蛮族の戦士達の喚声と帝国兵の悲鳴が入り混じり、彼らの恐怖心を駆り立てる。
炎を背景に、帝国兵が鎧ごと象に踏み潰される。
或いは象兵の槍に貫かれ、絶叫を上げながら絶命する。
整然としている象軍の動きに対し、帝国軍は状況の把握すらままならず、忙しく伝令があちこちを駆け抜けるのみ。ばらばらの反撃は悪戯に被害を大きくするだけだ。
十分ほどの襲撃で、象軍は姿を消した。帝国兵達が安堵しかけた次の瞬間、今度は別の場所で吶喊の声が上がった。矢が降り注ぎ、天幕を引き裂き、中に居た兵を射抜く。慌てて飛び出してきた者は槍に貫かれるか、踏み潰されるか、強大な力を秘めた鼻の一撃によって砕かれるか―――。
姿を消した敵と新たに姿を現した敵。
帝国軍はこの二つに対処する事に追われた。翻弄され、混乱は助長し、被害は増す。
その後も敵は姿を現しては十分ほど暴れ回り、不意に姿を消しては別の方向から新たな敵が突撃してくると言う襲撃法を繰り返した。しかし、帝国軍とていつまでも混乱しているわけではない。
次々に飛び込んでくる伝令の報告で状況を把握し、的確に指示を飛ばす赤き鬼神の命令に従い、彼の息子やその他多くの有能な将が徐々に混乱を鎮め、隊を纏め、秩序だった反撃を行う。
最初ばらばらに行われていた反撃は徐々に纏まり、数人、分隊、小隊と冷静さを取り戻した者達が集ってより大きな集団になろうとしていた。
そして、遂にセトゥ=カーンの部隊の番がやってきた。既に奇襲の戦果としては十分過ぎるほどだ。
しかし、予想以上に敵が体勢を立て直すのも速く、被害も末広がりに大きくなっている。
セトゥ=カーンの部隊が突撃すれば確実に大きな被害を生む。
戦略の定石ならばここは攻撃せずに撤退するべきだ。しかし、セトゥは突撃しなければならないと考えていた。なぜならば、帝国軍が体勢を立て直す速度が予想以上に速いからだ。
このままでは例え兵を引いたとしても、すぐに追撃部隊を組織して追ってくるかもしれない。
そうなれば、ただでさえ機動力では鈍重な象軍はかなりの被害を覚悟しなければならない。
「一人でも多くの兵と象がサマカンドに到達できるよう、我らはここで敵を食い止める」
若き猛者の言葉に、白象が立ち上がる。猛々しく鼻を擡げ、主の命を待つ。
一瞬、セトゥの胸中を複雑な思いが駆け抜ける。
多くの仲間を助ける為に、今ここで彼が率いて居る者達を殺す事になる。
彼が率いて居るのはおよそ五百。最も小勢ではあるが、少しでも長く時間を稼がねばならない。
「お前達の命、このセトゥ=カーンが預かる。ラーマ=ヤーマも照覧あれ!これぞカーン族の戦だ!!者ども、掛かれッ!!」
『おおぅっ!!』
低い声で、象兵達が応え、セトゥは己の跨る白象に前進を命じた。
象が力強く大地を踏み締め、駆け出して行く。
意識を取り戻したアレクは奇襲を受け、混乱する兵を纏めて、何とか中隊規模の兵を集める事に成功していた。傍らには今もリーナが死神の鎌を持って控えている。
そこへ、今夜だけでもう何十回も聞いた地響きが聞こえてきた。
荒野の枯れた草葉を薙ぎ倒しながら、重い質量を持つ動物が多数、移動して居る音だ。
無駄とは知りつつ、
「槍衾を敷け、弓隊、構え!」
アレクは音が聞こえてくる森に向けて、迎撃体勢を整えさせた。
僅か中隊規模の、三百人程度の迎撃陣だ。
(象に槍が効くとも思えないが………)
さっきまでは一緒に戦っていた軍団長の親父などは反対側に現れた象軍を撃退するために部隊を率いて移動して行った。手薄になったところへ、今度はこちらから襲撃。
(攻撃する順番を良く考えた、巧妙な策だ)
今宵、この陣を襲った象兵は総計でどれだけ居るのか、一万から一万五千ぐらいだろうか。
だとしても、普段ならば決してこんな野営地の近くにまで接近を許さなかったはずだ。
歩兵ならばまだしも、巨大な象軍を見逃すなど通常ありえないだろう。
だが、今宵はその通常あり得ないことが起こってしまった。理由は明白だ。
(昼間の激戦による疲労、か………)
その言葉の重みは、彼自身が良く心得ている。彼は最前線で戦い、さらに莫大な体力消費を伴う精霊攻撃をも繰り出し、疲労のために意識をも失う深き眠りに落ちてしまったのだ。
数時間眠ったとは言え、まだ体は思うように動いてくれない。いくら彼が獣並の回復力を持っていたとしても、いくら彼が鍛え上げた精神力で疲労を忘れようとしても、体の奥底に汚泥の如く堆積した疲労は消えてくれない。
「ちっ。だって言うのに―――本隊か」
炎も及ばぬ闇の間から姿を現した巨象。その毛並みは純白。首には真紅の巻き布。
アレクはその白象に跨り、弓を構える若き戦士の姿を見つめながら、剣を引き抜いた。
ぎざぎざと凶悪な風貌の真紅の刃を持つ精霊剣、《炎の剣-ハリエストロ》。
普段はさして意識する事もないその重さがずしりと腕に響く。普段は片手で掴む柄を両手で掴みながら、アレクは命を発していた。
「弓隊、放てッ!!」
ざざぁっと矢が黒い雨の如く闇から湧くが如く姿を現した象軍に降り注ぐ。
白象が掲げた鼻に守られながら、セトゥは奥歯を噛み締めた。
野営地に飛び込んだ途端、矢が襲ってきた。
(―――待ち伏せだと!?)
驚愕と共に、戦意が沸きあがるのを覚えた。見た所、敵は数百。こちらとほぼ同数。
(もしかしたら待ち伏せではないのか?)
だが、そんな事はどちらでも良い。
セトゥは弓の弦を引き絞りながら、咆哮の様に命じていた。
「蹴散らせッ!雄叫びを挙げろッ!!」
『オオオオオオッッ!!』
戦士達が咆哮を上げ、矢を放ち終えると弓を鞍の後ろに括り付けてある箱へと仕舞い、象の背に固定してある長柄槍を持って、槍衾にも構わず突撃する白象の後に続いた。
象軍と槍衾がぶつかり、象の身に次々に槍が突き刺さっていく。
苦痛と憤怒の混じり合った声を発し、象がその長い鼻を横に振るう。
「うわぁぁっ!?」
「いぎゃああっ!!」
それだけで、十数人の兵が弾き飛ばされた。仲間に受け止められた者でさえ、肋骨を砕かれ、運の悪い者は仲間の槍にその身を貫かれて絶命した。
白々しく輝く象はその全身を朱に染めながら、それでも変わらぬ速度で突き進み、槍衾を突破してしまう。白象に続く象軍達も次々にその穴を押し広げながら突撃し、アレクに迫る。
一頭の象が鼻を高々と振り上げ、物凄い速度で振り下ろしてきた。当れば即死間違いなしの一撃だ。《炎の剣-ハリエストロ》で迎え撃とうにも、剣が重く、持ち上がらない。
「く、くっそぉっ!!」
必死に迎撃しようとするアレクだったが、間に合わないのは明白だった。
象の鼻は今にもアレクの身を粉砕するかに見えた。しかし、粉砕されたのは―――いや、細切れにされたのは象の鼻の方だった。びちゃびちゃと象の肉片と血潮がアレクに降り注ぐ。
象の血と肉に塗れながら振り向けば、そこには死神の鎌を持つ一見おしとやかな美女。
「リーナ、怖っ!!」
「言ってる場合ですか!まだです!」
リーナの声に視線を戻せば、鼻を斬られた苦痛に憤怒の叫びを上げ、アレクを踏み潰そうと前脚を高々と上げて居る象の姿があった。
踏まれれば、粉砕どころの話ではない。誰の死体かも判別し難くなるに違いない。
「そんな死に方は嫌だ―――ッ!!」
気合で剣を振り上げる。が、重い。剣の重さに引きずられて仰け反り、そのまま落馬しそうになる。
何とか踏み止まったが、既に攻撃の機は逸していた。既に象の脚はアレクをその跨った馬ごと押しつぶそうと迫っていた。そこへ、声が響く。
「《獣の槍―ハンニス》よ。汝が主の命を受けて、汝の子を呼べ―――牙狼!!」
声に応え、赤き円から飛び出した白き狼が象に喰らい付いて行く。
それで目測を誤り、象の脚はアレクのすぐ脇に振り下ろされた。
次々に牙狼が象に飛びかかり、攀じ登り、象兵に襲い掛かる。
「うわ、なんだ!?この狼はッ!う、うぐわぁぁっ!?」
叫びながら槍を振り回していた象兵が、象から落ちる。アレクが見た象兵の首には深い牙の跡があり、鮮血が吹いていた。牙狼はすぐさま象の耳の後ろに噛み付いて行く。象の皮膚は硬いが、耳の後ろだけは体温を逃がす役割も担っているために柔らかい。弱点でもある耳の後ろを噛まれ、象は悲鳴を挙げながら走り去った。既に迎撃陣は跡形もなく乱れ、翻弄されていた。
駆けつけた青髪の士官、オットー=セルバン大佐は本来騎兵隊を率いる身でありながら、馬にも乗らず、三百人余りの兵を率いていた。その青い髪は汗で額に張り付き、汗もかなり掻いている。
それでも彼は《獣の槍-ハンニス》を振り翳し、次々に牙狼を呼び出しては象を襲わせていた。
長柄槍に貫かれ、象に踏み潰され、鼻によって弾かれ、次々に狼は白き煙と化して消滅して行くが、オットーがどんどん呼び出すので、象軍も手を焼いた。精霊攻撃は体力消費が激しい。オットーは肩で息をしながら、それでも狼を呼び出すのを止めはしなかった。
そこへ、さらに新手の部隊がやってきた。率いて居るのは紫色の髪と紅の瞳を持つギルギッド=ルメイ大佐だ。彼は青白い顔で牙狼を召喚し続けて居るオットーの脇に、己が乗る馬を寄せて、
「後は俺がやるからお前は少し休め、セルバン!」
「ああ………ギル、任せたよ」
大声で怒鳴った。精霊具を使うのはかなりの消耗を強いる事になる。
オットー自身、これほどの数の牙狼を呼び出した事は今までに一度足りともない。
正直体力の限界を感じ取っていたオットーは同僚の申し出に甘える事にした。
全ての牙狼を消し、赤き円も消す。
「よっしゃぁ………このギルギッド=ルメイ様が相手だ!」
啖呵を切りながら、ギルは部隊の先頭を切って敵軍の中に斬り込んで行った。
彼の持つ《炎獣槍-フレイムスピア》から無数の小さな火球が生み出され、象を襲う。
「くっ―――さすがにこれ以上は無理か」
セトゥはそう判断し、兵を返す事を決断する。
「退け、退け!長居は無用だ!」
叫びながら、彼自らは長柄槍を携えて退くのとは逆にギルへと向かう。
「一騎打ちとは面白い!」
ギルも野生的な笑みを浮かべ、槍を扱く。
二人がぶつかり合う間に、他の象兵が追い縋る帝国兵を蹴散らして闇の中へと飛び込んでいく。
セトゥはギルと二合、三合と打ち合いながらも、徐々に後退していく。
「このまま逃げるのかよ、若造!」
嘲りの声をギルは挙げたが、セトゥは答えなかった。
「ちっ―――」
ギルが馬の手綱を引く。馬が前脚立ちになったところを、象の鼻が横薙ぎに薙ぎ払った。
そのまま、象はギルに尻を向け、闇の中へと姿を消していく。
追おうと思えば追えただろうが、ギルはそうしなかった。
仲間を逃すために一人残った若武者の心意気に、微かながらも敬意を抱いたのだ。
しかし、軍人としては追うべきだったかもしれない。
「あつっ………」
焼けるような痛みに顔をしかめ、肩を見る。
そこにはいつの間に射られたのか、一本の矢が深々と食い込んでいた。
どちらにしろ、このような手負いで単身追撃したところで、倒せるかどうかはわからない。
それに今ので最後の奇襲とも限らない。
妄りに野営地を離れるのは得策ではなかった。
しかし、結果、この日の夜襲は今のが最後となった。
天幕はその大半が燃え落ち、多くの死傷者が出た。
そこへ、カラキシスからの伝令がやってきた。戦闘の気配に気付き、戦闘が終わるのを待っていたのだ。
伝令は無残にも多くの犠牲を出した野営地に驚きつつも、疲労と寝不足で目の下に隈のできたハーン=ハーベスト元帥に謁し、第四軍団長のコーデル=ハム中将の言を伝えた。
第一軍はその日の昼過ぎ、カラキシスに入城した。第四軍は約二十日の篭城の末、補給物資を手に入れ、息を吹き返した。しかし、その為に第一軍が流した血は余りにも膨大な物だった。
3 勅意
帝国暦三三三年七月一日。
カラキシス周辺での激闘の結果、フロレシア帝国はカラキシス以北の地をほぼ掌握するに至った。
カラキシスとザルカの中間地点に第四軍が築いた砦はオルドスと名付けられ、カラキシスへと物資を送る上での重要な集散基地の役割を果たしていた。長期の篭城に疲労した第四軍は帝国南部の各駐屯地に帰還し、砂の民との激闘によって疲弊した第一軍もまた同様に帝都に凱旋した。
第四軍団長コーデル=ハムは激戦を戦い抜いた功績により、中将から大将へと昇格し、砂の民との戦闘において抜群の功績を挙げたアレク=ハーベストもまた少将から中将へと昇格した。
他にも多くの将兵が昇格した。第一軍、第四軍が去った後のカラキシスにはニカルド=ベグアス中将率いる傭兵軍団四万が進駐し、守りを固め、オルドスには第四軍の留守を預かっていた第二軍から三個歩兵師団、二個騎兵師団が派遣された。こちらも兵力は四万だ。残りの第二軍も、第四軍の帰還に合わせ、帝都周辺の各拠点に帰還している。
帝国議会や軍令部の一部強硬派の中にはサマカンド侵攻を提案する者も多く居た。
カラキシスを奪い、アルティス荒野の北部を領した今こそ蛮族の息の根を止めるべきだというのだ。
これに真っ向から反対したのが帝国府のオルンヘル=クリケット宰相やウェンヒルグ=ローレンス財務尚書ら自重派とも言うべき帝国府の役人達だ。彼らは国力の疲弊や経済的な理由を挙げ、更なる侵攻作戦の無謀さを説いた。結果的には皇帝の裁断により、サマカンド侵攻は見送られる事となったのだが、強硬派達はこの決定に当然不満を持つ。しかし、皇帝の裁断に不満を表する事は出来ない。
彼らの怒りの矛先は、自然と帝国府周辺―――特にそのボス、宰相オルンヘル=クリケット伯爵へと向かった。彼らの目には伯爵は皇帝を操る影の権力者に映ったのだろう。
そして、彼の娘であり、皇帝の傍近く仕えるシエナこそが、伯爵の尖兵だと罵った。
皇帝陛下はクリケット親子に謀られているのだ、などと公言する士官も居る始末。
無論、それらの士官はガルヴィン=ジングリッドの管掌する帝都防衛隊によって逮捕されるのだが、これがまた火に油を注ぐ効果を持っていたのだ。というのも、ガルヴィン=ジングリッドこそ、かつて貴族連盟が力を持ち、今は亡きアリーニ=アウグウェルツ公爵とオルンヘル=クリケット伯爵が対立関係にあったとき、伯爵派だった人物なのだ。
つまり、急進的な青年士官達からしてみれば彼もまた《君側の奸》の一人、という事になるのだ。
「どうしたら良いと思う、アルンヘル?」
己の執務室で、金髪蒼瞳の若き皇帝は彼直属の幕僚である灰色の髪と同色の瞳を持つ青年と向かい合い、問いを発していた。
スタルナス帝国と不戦条約を結んだ事で、今、フロレシア帝国の国内は安定している。
ルーナ帝国は死兵師団をパルディアの地から引き上げ、西方への領土拡大を狙って居る様子だ。
スタルナス帝国は皇太子オルテガが様々な分野の人材を集めていると暁の報告にはあった。未だにドルク王国への武器援助は行って居るようだが、直接的な攻撃はない。
東の華中大帝国は今までと同じく沈黙を保ち、東北のロデン教聖区は表立った行動は起こして居ない。
聖護院のブレンヒルトやハーケンクロイツの紋章を身に宿す暗殺者ジェルナ=クレイスロールなどを初めとする暗殺者を差し向けてくる程度の物だ。
北方では未だにドルク王国とルシタニア連合王国が小競り合いを続けて居るが、若き王レオン=ルシタニアは良く国を纏め、先王が亡くなった折の混乱を鎮め、軍備の整備も順調のようだとルシタニア連合王国に教官団として派遣されて居る第五師団長アルベルト=ウィーズリー少将からの報告にもあった。
スタルナス帝国との三年間という期限付きの不戦条約。帝国としてはこの時間を可能な限り有意義に使いたいところだ。帝国府では国力の充実を考えている。
軍令部では南方への進出だ。アルティス荒野を抜け、その先にある大洋を手にする。
さすればフェニキア自由都市連合との交易によって、帝国は大きな利潤を得ることができる。
しかし、その為にはアルティス荒野を手中にする必要がある。
そこにはびこる蛮族の存在ほど厄介な物はない。現に、第四軍も第一軍も大きな犠牲を出した。
中原制覇を目論んで北上したクシャス=カーンの野望を防ぎ、カラキシス以北を掌中にしたとは言え、元々限界ぎりぎりだった国力は今まさに底を付かんとするところまで追い詰められている。
「軍令部の意見どおり、軍を興せば国家予算を使い果たす事になってしまう。その結果は―――」
「重税、ですか。先帝時代に比べれば幾分マシとは言え、未だに農民にとって苦しい生活である事に変わりはありません。ここで再び重税を課せば、先帝時代以上の反発を招くでしょう」
「うん。かといって、帝国府の意見を採り続ければ、軍の若手将校が何をするかわからない」
「ならば打つ手は一つでしょう」
アルンヘルの灰色の瞳には、何の躊躇いもない。
国家安泰の為ならばどのような残酷な手段ですら躊躇う事なく実行する者こそ、支配者の器と考えているアルンヘルの考える策はいつも流血の結果を招く。
確かに効率は良い。貴族連盟も、根絶やしにすることができたのはアルンヘルの策のおかげだ。
だが、ラインハルトはついつい、考えてしまうのだ。
(もっと平和的な解決法はなかったのだろうか?殺さずに、意見を変えさせるような………)
散々思い悩んだ挙句、出てくる答えはいつも否定的な物ばかりだ。
長年に亘って特権を享受し、それが当たり前だと考えるようになった腐敗貴族は国家にとって害にしかならない。害虫は駆除すべきであって、下手に情けを掛ければ、気付いたときには体中がぼろぼろになってしまって居る事もあり得る。
国を護る為には、害虫の駆除をも成さねばならない。
(それはわかる。わかるけれども………もし、殺した害虫の中に、害虫でなかった者が居たら?)
脳裏に浮かぶのは最後に見たラマーン=オルド侯爵の姿だ。
確かに彼は貴族であり、己の特権を何の疑いもなく享受していたかもしれない。
しかし、彼には他者を思いやる心があった。腐敗した貴族にはない、心が。
だが、自分はそんな彼に反乱の全ての罪を被せ、処刑したのだ。
確かにそのおかげで命を救われた者も数多い。しかし、果たしてそれが贖罪となり得るのかどうか。
人間の命を数で秤に掛ける行為に、ラインハルトは不快感を覚える。だが、だからと言ってどうするべきだと言う考えも浮かばない。一人を救うために何百人もの命を殺すことなど出来ない。だが、何百人の命を救うために一人を殺すと言うのには抵抗を覚える。
(じゃあ………一体、余はどうすれば良いんだ?)
アルンヘルは何処か陰鬱で暗い雰囲気を醸し出す瞳と表情で、苦悩する皇帝を見据えていた。
彼はそれまでの人生を全て復讐のために捧げて来た。その為に、孤児院での地獄のような訓練にも耐え、士官学校に入学すると共に全ての過去を抹消するために自分の過去に関わった全ての存在を抹消したのだ。全ては、名を変え、母の仇に近づき、復讐の本意を遂げる為に。その為に自分を育ててくれた養父養母すらこの手に掛けた。その復讐が果たされたとき、自分の中に一体何が残るのだろうかと恐怖していた時期もあった。士官学校に在学していた時の事だ。赤髪と青髪の二人の男は、母が死んだ日から凍りついたかのように動きを止めていた彼の心を溶かし、ほんの一時だけでも彼の心に躊躇いを生ませたのだ。
(このような復讐に、果たして意味などあるのだろうか?………母さんは喜んではくれないだろう。母の腹を痛めて生まれ出たこの命をもっと有意義な事に使うべきなのではないか?)
そんな事を自問自答し、悶々と過ごした夜が何度ある事か。
だが、士官学校を卒業し、軍に入ってから彼の心は再び固まった。
殺すべきだ。このような腐敗した貴族など。天命だと思った。
(私は、この国の腐敗した貴族を皆殺しにするために生を受けた………)
自分の生きる目的を確認し、想いは固まった。
遠征先で、平民を虫のように平気で殺す貴族ども。
下賎な犬と呼びながら女を犯し、孕んだ子供ごと槍で突き殺す者。皮を剥ぎ、激痛に悲鳴を挙げる男の、剥き出しになった筋組織に焼き箸を押し付ける者。母親の目の前で、幼子の眼球を抉り出し、無理やり母親に食わせた者。夫の四肢を砕き、その夫の前で妻を獣に貪り食わせた者。
第一軍というエリートコースを歩みながら、アルンヘルが目にしてきたのはこの国の腐敗した、吐き気を催すほどの悪臭を放ちながら醜く生きる浅ましく、愚かな貴族達の姿であった。
必死に子を守ろうとする母親を《下賎な犬》と呼ぶこの上も無く醜悪な姿を晒す貴族ども。
アルンヘルは何度その首を刎ねてやろうかと考えたかわからない。しかし、その度に彼は強固な決意を以って自制した。拳を握り締め、奥歯を噛み締め、悲鳴から耳を反らさず、悲惨な光景から目を背けず。
(一人の貴族を殺したところで、何も変わらない。それでは無意味だ―――)
殺すならば、全て、一人残らずこの国から消し去ってしまうことだ。このような腐敗した人間がのさばる世の中を変えるには体制その物を変える必要がある。歯軋りするような思いで、アルンヘルは軍部の上を目指した。少しでも権力に近づく為に。昇進するには貴族の後ろ盾が必要だった。コネを得るために、アルンヘルは何でもした。醜悪な貴族の悪行に、彼もまたその身を浸からせたのだ。
美しい女が居ると貴族が言えば、例え旦那が居たとしても、旦那を斬り、子供を人質にとってまで、女を貴族に献上した。靴の泥を舐めろと言われた時も、黙って従った。
戦場では阿修羅の如く戦った。そして、第一軍団長ルト=リューベンの幕僚と言う地位を得たのだ。
―――そして、今。
自分は皇帝の直参として、この上もなく権力に近い場に居る。
復讐は果たした。この国を汚していた腐敗貴族は一掃された。
しかし、心は虚しさで満たされる事はなかった。
既に復讐は、彼の人生においては一通過点でしかなくなっていたのだ。
彼の心の中には、新たな目標がしっかりと見定められていた。
それは―――。
(この若き皇帝を覇皇の座に押し上げる事………)
灰色の目を細めるようにして、透き通るような白さと滑らかさを持つ皇帝の美しき顔を見つめ、彼は口を開いた。
「強硬派の青年士官を全て斬る」
「駄目だよ、アルンヘル」
彼の言葉を予想していたのだろう。皇帝は即答で、拒否の言葉を口にした。
「何故です?」
「多すぎるだろう。それに真摯に国を想った結果の言葉だよ。説得すればきっとわかってくれるはずだ」
「説得を聞きますか?彼らが《皇帝は宰相に騙されている》と言う考えを改めぬ限り、陛下の言葉と言えどかの者達の心を打つ事はありますまい」
「じゃあ、どうすれば………」
苦悩に蒼く染まった顔で、皇帝は声を挙げた。
「遠ざけるのです」
「遠ざける………?」
アルンヘルの言葉に、ラインハルトが怪訝そうな表情を浮かべる。だが、だんだんとその目が驚愕と戸惑いに見開かれる。
「まさか―――」
吐き出された声は掠れ声。その声が、皇帝の意思を明瞭に伝えてくる。しかし、アルンヘルは躊躇う事もなくそれを口にした。皇帝の心情など考慮の外だ。自分は言うべき事を言うのみ。その過酷さに皇帝の心が耐えられないのであれば、所詮はそれまでの事、この皇帝を見込んだ自分の眼力が誤っていたというだけの話だ。もし皇帝が激怒し、自分を罰そうとも同じ事。意見を述べられてそれに逆上し、意見を述べた者を罰するような男が皇帝ならばその国はいずれ滅びる。誰もが罰を恐れ、皇帝の意に背く意見を述べなくなるからだ。皇帝とて生身の人間なのだ。時には誤った方向へと進む事もある。それを止めなければならないはずの者が死を恐れて意見を述べなければ、国は皇帝の思うがまま、誤った方向へと進み続ける。ちょうど今の、スタルナス帝国のように。ならば自分はこの国が崩れ行く様を先に地獄に堕ちて見守っていようではないか。今までに殺して来た者達の怨嗟と憎悪にその身を引き裂かれようとも、この国の滅び行く様から決して目を背ける事はあるまい。
自分の命になど無関心なアルンヘルは、自分の生殺与奪の権を全て皇帝に委ねたつもりで、告げた。
「宰相派の人間全てを、です。宰相も財務尚書もシエナ様もガルヴィン=ジングリッド閣下もハーン=ハーベスト元帥閣下もアレク=ハーベスト閣下もシオン=クリケット閣下も、です」
皇帝の顔が苦しげに歪む。皆、彼の親しい者達ばかりだ。
彼がまだ皇帝ではなく、一人の少年だった頃に、自分を育ててくれた養父や幼馴染達だ。
「彼らを遠ざけるなんて事は………出来ない。恩を仇で返すような物じゃないか。それこそ、そんな不義の皇帝に領民は付いて来ないよ」
「ならばもう一つ、策はあります」
「なんだい、それは」
「そもそも、若手将校の不満の種は帝国府がアルティス荒野南部への侵攻を認めないが故の事」
「うん」
「ならばアルティス荒野南部を手に入れてしまえば宜しいのです」
「そんな乱暴な!それってつまりは軍を興すって事でしょう?そんな事をしたら国家財政が破綻してしまうよ」
「何も、わざわざフロレシア帝国が動く必要はありません」
「………?じゃあ、誰が動くのさ」
「砂の民も決して、一枚岩と言うわけではありません。私に任せていただければ、砂の民を降伏に追い込んで見せましょう」
「砂の民は堅い結束で繋がっているんじゃなかったのかい?」
「どのような堅い結束にも、必ず綻びと言う物はあります。どのような堅牢な堤とて一穴より決壊する如く、綻びを突けばどのような堅固な結束とて同じ事」
「それが………万全の策なんだね?」
「私が思い付く限りでは。但し、根本的な解決にはなっていません。例え、南部アルティスの問題が決着したとしても若手将校は事ある毎に帝国府と対立し、その度に宰相派を《君側の奸》と罵る事になります」
「だとしても今は、他に打てる手はない。若手将校を討てば国の軍事力はさらに低下してしまうし、そもそも国を真摯に想って居る人を―――いや、余の臣民を殺したくはないんだ」
「陛下の御優しさはわかっております。ローデンスの穏やかな気候と緩やかな湖の水面が育んだ物でしょうか」
アルンヘルの言葉に、ラインハルトは束の間、今はもうない昔を懐かしむような目付きをした。
思えば、皇帝になってからまだ一年と二ヶ月余りしか経過していないのだ。
思い出せば様々な事があった一年だった。得た物も多いかもしれないが、失った物も多いような気がした。自分にとって大事な物を失っているような気がした。まだ手元にあっても磨耗し、磨り減っているのではないか?そんな気がしてならない。平穏で暖かで、優しい、ローデンスでの生活を。
(これ以上………僕の大事な物を………大事な人を失いたくはない)
脳裏に浮かんだのは、シエナの笑顔だった。あの笑顔を守りたい。
皇帝としては失格かもしれないが。
(僕が本当に心の奥底から守りたいのは………それだけかもしれない)
ラインハルトは追憶を断ち切るようにして、アルンヘルを見やった。
「―――君に任せる。アルティス荒野の攻略を」
「ははっ。必ずや、アルティス荒野南部を攻略し、海への道を開きます」
いつも通りの、少し暗い淡白な口調で述べ、敬礼した後、アルンヘル=へード大佐は皇帝執務室を出て行った。
その日の内に、灰色の髪と同色の瞳を持つ青年士官は皇帝の勅許状を懐にして、帝都を旅立った。
馬に揺られながら、アルンヘルは南下して行った。
帝国兵を用いず、砂の民を陥れる為に―――。
(これで良かったんだろうか………)
執務室で一人、ラインハルトは考えていた。目の前には軍部から届けられたカラキシス戦役での被害の統計が記された報告書がある。膨大な数字の羅列が、眼から脳へと伝わっていく。これだけの犠牲を出し、カラキシス以北の地を手に入れはした。しかし、それでも人間の欲望には限りがない。すぐにまた、さらなる戦火を求める。その戦火を避けるために、アルンヘルを派遣した。彼が何をするつもりなのかは知らない。知らないが、知れば背筋が寒くなるような物であるのは間違いない。
「今は乱世なんだ………」
口に出して、言い訳じみた言葉を言ってみる。だが、その言葉で心が晴れる事はなかった。
何故ならば―――。
「その乱世を生み出したのは神でもなんでもない。人間の欲望じゃないか」
だとすれば、戦火で人間が死ぬのは自業自得なのかもしれない。
4 亀裂
帝国暦三三三年七月十五日。
ハーン族の長グルジム=ハーンからカーン族の長クシャス=カーンへと宴の誘いがやってきた。
先の大戦による死者に対する四十五日の喪も明けたので、両氏族の親睦を深めるためにも一席宴を設けたい。是非にも出席していただきたい、と言う内容だった。
カーン族とハーン族は砂の民の盟主と言う権力を巡って、長年抗争していた。
だが、いくら対立していたと言っても同じ砂の民の有力氏族として全く交流が無かった訳ではなく、今回のように互いに相手方の族長を招いての酒宴なども良く開かれていた。
故に、クシャスはこのハーン族からの誘いを疑う事もなく受けた。
供に僅か十名ほどの戦士を連れただけで、クシャスはサマカンドの東南部に陣を置いているハーン族を訪れたのだ。現在、サマカンドに集結している砂の民の軍勢はおよそ十二万。
その内の実に四万がハーン族の兵である。カーン族が六万。タタル族とクリル族が合わせてようやく二万と言う内訳だ。
カーン族はともかくとして、他氏族は既に四ヶ月もその本領を留守にしている。
中でもクリル族はその領土が北部にあり、カラキシスを占領したフロレシア帝国によって、この小氏族の領地は非常な圧迫を受けている。戦士達が戻らねば、女子供だけで領地を守りきる事は事実上不可能であった。クリル族の代表はクシャスに対し、自分達の離軍を要請していたが、未だに認められていない。砂の民の盟約では盟主の承諾がない限り、軍を離れ、己の領地に戻る事は許されていない。
クシャスは今回のハーン族からの誘いも、もしかしたら離軍許可の依頼を兼ねての物かもしれないと考えていた。ハーン族はアルティス荒野の東部から南東部に掛けて勢力範囲として居る。クリル族を間に挟んで居るとは言え、既に十分、フロレシアの影響を受ける位置にある。
北部から中部さらには南部、西部に掛けての広大な領土を持つカーン族に比べればその領土は半分以下だが、それでも砂の民の中では第二の勢力を誇っている。またハーン族の砂甲竜部隊は砂の民の中でも最強に分類されるべき部隊だ。四氏族の最後であるタタル族はアルティス荒野の南西部に勢力を持っている。直接的な圧迫を受けているカーン族、クリル族やクリル族と言う僅かな緩衝地帯を置いて間接的な圧迫を受けているハーン族などの他の三氏族に比べ、まだまだフロレシア帝国の影響はその領地には及んでいない。タタル族とフロレシア帝国の間にはまだカーン族が強大な勢威を保持しているからだ。
グルジムはサマカンドにある有力商人の屋敷を借りていた。
クシャスを出迎えたグルジムはにこにことした笑顔を浮かべて、
「よくぞお越しくださいました、盟主殿。さ、宴の準備は整っておりますれば、こちらへお通り下され」
「御誘いに甘え、参上しました」
クシャスもそう返し、彼に案内されるままに二階へ上がった。
奥の部屋へ通されるとそこには宴席が設けられており、豪華な食事が並べられていた。
既にクリル族やタタル族の代表達も来ており、各々席に着いていた。
「ほう………」
並べられた料理の豪華さに感嘆の声を漏らしながら、クシャスは勧められるがままに上座に座った。
隣にグルジムが座り、ぱんぱんと手を叩いた。
すると隣の部屋とを隔てていた幕がするすると上げられ、肌が透けるほどの薄衣を纏ったうら若き美女達が入って来た。彼女達は数人が部屋の下座に立ち、残る数人が宴席に散った。
クシャスの傍らにも一人が座り、クシャスの杯に並々と酒を注いだ。柑橘系の香りが滑らかな小麦色の肌から匂いたつような美女だったが、クシャスは一瞥しただけで特に感想を述べたりはしなかった。
宴席に連なる者全員に酒が注がれると、グルジムが立ち上がり、
「先の大戦の結果、我らはカラキシス以北の地を失いはしたものの、敵に大なる被害を強いた。今一度、四氏族の力を合し、今度こそ、中原へと押し出るべきである。まずは四氏族の勇猛なる敢闘を祝し、祝杯を挙げたいと思う!」
と演説し、己の杯を掲げた。全員、それに倣う。
「乾杯!」
「砂の民万歳!」
「ラーマ=ヤーマ万歳!」
号し、一同は一気に杯の中身を飲み干した。その後は無礼講の酒宴となった。飲み、食い、踊り子達の舞を見る。だんだんと場は乱れ、荒野の月と砂の民の勇猛さを称えた歌を一人が歌いだし、数人がそれに合わせて歌いだした。心得た物で、踊り子達も太鼓や囃子などで調子を合わせる。その間にも列席者達はどんどん飲み、どんどん喰らう。その場で、一人、グルジムがふらりと立ち上がった。
「ちと便所に行ってきます」
「お早くなされよ。主催者が居ないのでは盛り上がらん」
すっかり酔っ払ったクシャスの言葉に、会釈を返して、グルジムは部屋を出た。
部屋を出た彼はよたよたとした足取りで歩き、便所ではなく、部屋一つを隔てた別の部屋に入った。
陽気に騒ぐ宴会が行われている部屋とは異なり、その部屋には張り詰めた殺気が漲っていた。
完全武装したハーン族の戦士達が二十名ほども待機していた。
彼はその戦士達を見回した後、部屋の隅に置いた椅子に腰掛けていた男に近づいた。
その男はまだ若かった。青年と言って良い年頃だろうが、どことなく陰鬱な雰囲気を纏った男だった。
灰色の髪と同色の瞳が、冷たい印象を与え、冷酷なまでに静かな視線が相手の心胆を寒からしむるような男だ。砂の民の民族衣装を纏っては居るが、誰が見ても荒野の人間には見えなかった。男はかすかに眉根を寄せて、代表を見た。
「酒はあまり召されぬ方が宜しいと申しましたはずですが?」
「わしが飲まねば、誰も飲まん。飲まなければ怪しまれるだけだ」
彼が渋面で言うと、男はそうですか、と言ってあっさり引き下がった。
「ならば後は実行あるのみです」
「しかし、フロレシア帝国は本当にハーン族にアルティス荒野全てを与えて下さるのか?」
「確約を取ってあります。また貴殿のお働き次第ではカズリクの総督の地位もありえます。その代わり、カズリクからルーガへと運ばれる荷の護衛をお頼みしなければなりませんが」
「その程度の事、何ほどの事もない………カズリクの総督………ラインハルト帝はカズリクを落とす気なのか?」
「カズリクの会合衆が歯向かわねば、穏便に事は進むはずです」
(もっとも、二百五十年もの間自治権を確立してきた会合衆がそうやすやすと従うとは思えないが―――それに、貴方には関係の無い話に過ぎない)
アルンヘルは心の中で、そう呟いた。もっとも、その程度の事はこのグルジムとてわかりきって居る事だ。そして、いくら会合衆が逆らおうともフロレシア帝国の軍事力に対抗出来ないであろう事も。
また商人である会合衆を動かすのは武の力ではなく、金の力であることも。
「わかった。お前の言う通りにしよう」
「御願いします」
「礼には及ばぬ。陛下へのお取り成しこそ、お前のすべき事だ」
「心得ております」
頷くアルンヘルから、グルジムは武装したハーン族の戦士達に視線を向けた。
「―――行け。一人も逃さず、斬れ。我ら氏族の栄誉と誇り、栄達の為に」
二十余名の戦士達が立ち上がり、頷きを交わした。
宴会の席にいきなり武装した戦士達が飛び込んできたとき、誰もがそれを剣舞か何かの座興だと思った。
しかし、先頭の戦士が膳を蹴り倒し、慌てて立ち上がろうとしたクリル族の代表にカトラスで斬り付けた瞬間、その場の空気が凍りついた。
斬られて倒れたクリル族の代表から噴き出た血潮を見て、出席者達の間に動揺が広がる。
「クシャス殿、御命頂戴!」
「馬鹿者が!」
振り下ろされたカトラスを拳で殴り、足を引っ掛けて倒し、首筋に手刀を打ち込む。
酔っていて尚、クシャスの動きには無駄はない。
彼は立ち上がると、カトラスを抜いて、ハーン族の戦士達に突っ掛かって行った。
「クシャス=カーンを舐めるなッ!!」
その覇気に、ハーン族の戦士達が思わず怯む。
「怯むな!相手は小勢で、しかも酔って居るのだぞ!ハーン族の誇りに掛けて、討ち取れ!」
叱咤の声は、ハーン族の戦士達の後ろからした。グルジムである。踊り子達は悲鳴を挙げて部屋の隅に蹲っていた。そんな彼女達の前で、数で圧倒的に優るハーン族が他の三氏族の戦士達を圧倒して行く。元々、泥酔していた彼らが素面の、しかも完全武装の敵に敵う筈は無かった。クシャスも肩に手傷を受け、部屋の隅に追い詰められた。グルジムを先頭に、ハーン族の戦士達がそんな彼を包囲する。
「貴様………一体、何故このような………仲間内で揉めていてはフロレシア帝国には勝てないぞ!」
傷を受けて尚、クシャスの表情から闘気が消える事は無い。
「簡単な事です」
答えたのは、グルジムではない。クシャスがきっと眦を吊り上げ、出口の方を顧みた。
戦士達を掻き分け、一人の青年が現れた。灰色の髪に、灰色の瞳を持つ青年が。
その青年を見て、クシャスの表情が一気に強張る。
「貴様、フロレシアの人間であろう!」
「そうです」
「これはどういう事だ!貴様、まさか同族を裏切ってフロレシアに付くつもりかっ!」
グルジムに向かって、怒鳴るその様は、その身に彫られた刺青と同じく、獅子の咆哮のようだった。
「族長たる者、考えるべきは氏族の安泰」
グルジムが平坦な声音で答える。
「何を吹き込まれたのかは知らぬが、中原の人間に信義は無いぞ!砂の民全てを地獄へ送るつもりか!」
「ええい、黙れ!元はと言えば、先の大戦で敗北したのが全ての原因であろう!その責を取って、おとなしく死ね!」
グルジムの言葉と同時、戦士達が動いた。カトラスをクシャスの身に突き立てる。
全身に何本ものカトラスを生えさせ、クシャスは獰猛な笑みを見せた。
「俺を殺そうとも、貴様などにカーン族は滅ぼせないぞ!俺の息子達が必ず貴様を殺す。俺は貴様が苦しむ様を地獄から観察させて貰うぞ!」
「殺せ!」
さらに三本のカトラスがその身に突き立ち、クシャスはごふっと血を吐いた。
その視線が、黙って成り行きを見つめて居るアルンヘルに向かう。
「貴様………名は?」
「知る必要がありますか?」
「地獄で、貴様を待つ」
「………。良いでしょう。私の名はアルンヘル=へードと申します」
「アルンヘル………ヘード………覚えた………ぞ」
クシャスの強い輝きを浮かべていた瞳から急速に生気が薄れていく。
「これでもう………」
グルジムは力無く呻いた。その先の言葉を、代わりにアルンヘルが告げる。
「はい。もう後戻りは出来ません。進み続けるしか」
グルジムは軍を引き連れ、カーン族の首府へと乗り込んだ。
カーン族の戦士達が慌てて押し留めようとするのを、数に物を言わせて押し通る。
グルジムは腕を白布で吊っていた。その包帯には血が滲んで居る。
「マーダ、マーダ=カーンは居らぬか!」
彼は声高に怒鳴りながら、首府の中を我が者顔に歩き回る。
慌てて姿を現したマーダ=カーンはこの期に及んでも穏やかな物腰で、彼を応接間に通した。
「一体、何事です?その傷はいかがなされた?」
「白々しい。惚けるのも好い加減にしろ」
激しい怒気を滲ませた声で怒鳴る。
「―――何があったのですか」
「貴様の親父殿がいきなり、斬りかかって来たのだ。クリル族やタタル族の族長や護衛の戦士は皆殺された。わしもこの通り、片腕を切られた」
「父上が………?」
混乱したように、マーダは呻いた。何がどうなったのかまるでわからない。
「それで―――父上は?」
「わかるだろう、マーダ?父上は乱心なされたのだ」
「斬ったのですか?」
「そうするより他に手は無かった」
「それで―――代表はこれよりどうするおつもりですか?」
「このような手酷い裏切りにあっては盟約に従うことは出来ん。ハーン族は盟約より抜けさせて貰う。その為の了解をお前に得る為にやってきた。クリル族もタタル族も我々と同じ結論に達するだろう。今はまだ長を失って混乱しているだろうがね」
「盟約を離脱するのに必要なのは盟主の承諾のみ。その盟主が既にこの世に居ないのであれば、盟約を抜けようとする氏族を止める手立てはありません」
「ならば良い。今後、カーン族はお前が纏めていかなければならん。もし困った事があれば何でも相談してくれて構わないからな。盟約を離れたとしても、クシャス殿より頂いた恩は深い。その程度の恩返しはさせて貰うつもりだ」
「それは心強い限りです。是非、御指導の程を」
「うむ。ではわしはこれで」
グルジムは慌しく立ち去った。残されたマーダはやはり穏やかな風貌のままだったが、やがて、ぽつりと呟いたその声は、彼の風貌とは懸け離れた冷酷な響きを持っていた。
「必ず、殺す」
そこへ息せき切ってユドグーとセトゥ、マーダの二人の弟達が飛び込んできた。
「どういうことだ!?街中でハーン族の軍が暴れてる!『カーン族が裏切った』ってどういう事だ!」
「応戦して良いのか、兄上!」
「応戦は駄目だ。ただ、ハーン族、クリル族、タタル族には丁重にサマカンドからの退去を要請しろ」
「退去って………それじゃ、連合軍は?」
「解散だ。落ち着いて聞くんだ。良いな?」
マーダは二人の弟を茣蓙に座らせ、落ち着くのを待った。先に落ち着いたユドグーが、聞く。
「一体、何があったんだ?」
「父上が殺害された」
「なっ………!!」
「父上がッ!?だ、誰に!」
「ハーン族だ。父上が乱心し、宴席に連なった者達を皆殺しにしたらしい。それで仕方なく斬ったと」
「誰がそのような世迷言を!父上が乱心だなどと―――」
「ハーン族だ。だが、奴らだけの策謀じゃない。裏で糸を引いている人間が居るはずだ」
マーダの瞳は普段の茫洋とした色ではなく、爛々とした輝きを放った。
まるで水を得た魚のように生き生きとしているように見えた。
「ハーン族の背後で?一体、誰が―――」
「まさかフロレシア………」
はっとした表情で、セトゥがその国名を口にする。
「馬鹿な。フロレシアの皇帝は何より陰謀を嫌うと噂で―――」
「でも、他に考えられない」
「じゃあ、ハーン族はフロレシアに寝返る気だと?」
「ハーン族だけじゃないだろう―――」
「兄上?」
「ハーン族だけじゃないって………」
物事の余りの急変に頭がついていかない弟達の混乱した聞き返しに、マーダは極力感情を抑え込んだ声で応えた。
「クリル族も、タタル族もだ」
「カーン族は孤立する!」
「どうするんだ、兄上!」
「―――ここは様子を見る。それしかない。まずは混乱を鎮める事だ。戦は起こすな。同族での殺し合い等無意味でしかない」