覇皇伝
第三章 出撃!元帥閣下
第三章 出撃!元帥閣下
1 援軍要請
「ふう………極楽極楽」
ラインハルト=シーザーは腹の底から嘆息を吐き出して、言った。
全裸の全身を暖かな温もりが包み込んでいる。
眼を開けば、靄のような湯気が満ち満ちている。
ここはルーガ城内の浴場だ。しかもこの浴場は湯を沸かしているのではなく、地下から沸きだしているれっきとした温泉なのだ。天然温泉掛け流しの湯。それがこの大浴場だ。
皇帝専用の物もあるが、城内の勤め人などに開放されている大浴場もしっかり男女別である。
城下町にも何十箇所か公衆浴場がある。ルーガの人々は何時でも低価格で温泉に浸かる事ができるのだ。まだ一部の財産持ちを除いて、自分の家に風呂があるという家は珍しいので、多くの住人はそれぞれ近場の公衆浴場に通っている。民衆の娯楽にもなり、国家の財政の一助にもなる。まさに一石二鳥だ。
しかも、その効能を思えば、一石三鳥であるかもしれない。ルーガ温泉のお湯はやや白く濁っており、美肌効果などもある。ラインハルトの肌は濡れて、男とは思えぬ滑らかな艶を放っていた。濡れて額に張り付いた金髪がなんとも言えぬ情緒を示している。
「一日の公務の後の風呂は最高だねぇ。なんだか、体の底から疲れが取れていく感じだよ」
「すっかり台詞が親父だな、おい」
「どわっっぷっ!?だ、誰!?」
独り言に湯煙の向こうから返事が返ってきて、ラインは立ちあがろうとして足を滑らし、思い切り湯中に沈み込んでから浮上して誰何の声を上げた。
「だ、誰!?じゃないっての。この城の中でおまえに溜め口で話しかける奴は限られてるだろ。んでもって、それが男湯に入ってきたんだったら俺しか居ないだろうが」
「んー………誰だろ」
「アレク=ハーベストだよ!」
「わかってたよ」
「………本当か?」
湯煙の向こうから肩に手拭を乗せた姿で現れた赤髪の武将はかなり疑わしそうに言ってきた。
「勿論」
文句の付け所の無い完璧な微笑を浮かべ、頷く皇帝。
「まあ、良いけどよ」
アレクはそう言うと、ラインの隣に腰を下ろし、赤髪の上に手拭を乗せた。
「ふぅ」
「ところで、アレク」
「あん?」
「まだ女遊びしてるのかい?」
「当たり前だろ。まだ色欲が衰えるには六十年は掛かると思うぞ」
ラインの問いに、アレクはあっさりとそう答えた。
「そう」
ラインもそう応えたきり、何を言っていいのかわからなくなった。
「なんでいきなりそんな事を聞くんだ?」
「うえっ?」
「いや、なんだよ、うえって」
「あ、いや、別に深い意図があるわけでは―――」
「なんだ、つまんねえな。てっきりシエナとヤる方法でも訊こうとしてるのかと思ったのに」
「ぶっ―――ん、んな訳ないでしょ!」
「何を激しく動揺してるんだ?」
「べ、別に動揺なんかして無いよ」
「怪しいな」
アレクは完全に、疑いを持った眼でラインを見やる。ラインはあたふたと誤魔化しを考えるが、頭の中が真っ白で全く考えが思いつかない。
「おまえ、まさか―――」
何かに思い当ったというようにアレクが眼を見開きながらラインに迫り、ラインが顔面を蒼白にしながら立ちあがり、脱衣所に逃げようとした、まさにそのとき、いきなり浴室と外の脱衣所を区切る戸が開かれ、
「大変よ、ライン、第四軍からの救援要請の使者が―――って、きゃああっ!!」
いきなり飛び込んできたシエナ。その眼前には生まれたまんまの姿で、生まれたときよりも遥かに成長して居る二人の男の裸体があった。思わず悲鳴を上げてしまうシエナ。
「し、シエナっ!?ここは男子風呂だよ!」
ラインも慌てて湯船に戻る。アレクだけは別に照れるでもなく冷静に手拭で股間を隠し、真剣な表情で、
「第四軍からの救援要請ってどう言う事だ?」
「わ、わからないわよ、父さんがラインを呼んでくるようにって。皇帝執務室に父さんは居るわ」
「わ、わかった。すぐ行くからシエナは先に行って行くって伝えといて」
「わ、わかった」
かなり動揺しながらも、シエナは浴室から出て行った。その表情は何処となく虚ろで、頬が朱色に染まっている。なんとなく眼の焦点も合って無い感じだ。
(みみみ見ちゃった。らららラインのだだだ大事なところを―――案外と―――)
案外と、なんだ?
肝心なところで、シエナは脱衣所から廊下に出る敷居で躓いてこけ、正気に戻ってしまった。
「早く父さんに伝えなくちゃ!」
ラインハルトはすぐに風呂から出て、服を着、執務室へと向かった。
執務室の中には緊迫した空気が漂っていた。
宰相のオルンヘル=クリケット伯爵、軍令部総長のハーン=ハーベスト元帥がやって来ていた。
フロレシア帝国の文武の最高官だ。
「第四軍から救援要請だって?」
執務机の向こうに回り、椅子を引いて腰を落としながら、ラインハルトも緊張に強張った表情で聞いた。
「はい。伝令の伝えたところによれば、第四軍は逃走する蛮族の軍を追撃して南下し、オアシス都市カラキシスを制圧したものの、完全に包囲され、身動きできなくなっている状況だと言う事です。携帯している兵糧も残り少なく、早急に救援策を講じなければカラキシスに篭城している第四軍兵は餓死するか蛮族との戦闘で全滅を余儀なくされます」
「うん。それで、どれだけの兵力を出撃させる気なの?総長」
ラインハルトは努めて冷静を装って、ハーンに尋ねた。しかし、その脳裏にはコーデル=ハムやレッセフェルト=イングラムなどの顔が過ぎっていた。《全滅》と言う言葉の持つ残酷なまでの響きが、彼の心を激しく引き裂く。だが、彼がすべき事は周章狼狽して取り乱すことでは無い。眼前の文武の最高官に対処法を問い質し、その実行許可を下すことなのだ。
「伝令の報告によればカラキシスを包囲している砂の民の軍勢はおよそ二十万。対し、カラキシスに篭城している第四軍の人員数は凡そ十万名。戦死者も出るでしょうし、負傷兵が居ますので、実質的に戦闘員として戦闘可能なのはそれよりも少なくなると思われます」
「どうして半数もの兵力を失うような敗北を?」
「半数を失ったわけではありません、宰相。第十・第十一師団はフロレシア帝国側に設営した砦の守備にあたって居ますし、第十二師団は野戦で生じた負傷者を伴ってザルカに帰還しています。それで、先程の陛下の御下問に対しては現在第四軍の代わりに南軍管区に駐屯している第二軍団の兵力をザルカに集中し、しかるのちに出撃するのでは時間が掛かりすぎます。よって、帝都ルーガに駐屯している第一軍団を出撃させようと考えて居ます。これにザルカで第四軍の第十二歩兵師団、前進基地となっている砦において第十・第十一歩兵師団を合流させれば兵力は十八万。十分にカラキシスの第四軍と合流し、砂の民を駆逐する事が出来ましょう」
赤き鬼神の異名を持つだけに、ハーンの口調は自信に満ちている。
「ルーガから行ったほうが短期間で行けるの?」
「集結の手間が省けます」
「軍令部総長殿は第一軍団長の職を兼務しておられるが、御自身で此度の戦の指揮を執るおつもりか?それとも誰か代理の者を立てるのか?」
「自ら指揮を執ろうと考えておりますが?」
眉を上げて、怪訝そうにオルンヘルを見るハーン。オルンヘルは無表情のまま、
「財政が逼迫しているので、これ以上の規模の軍団派遣は議会でも承認はされますまい。第一軍の出撃だけは議会の許可も下りようが」
「宰相殿にしては珍しき曲言かと存ずる。もっと単刀直入に仰られてはいかがか?」
「ならば単刀直入に申し上げよう―――」
オルンヘルはハーンに静かに向き直って。
「第四軍の救援作戦に最早増援は無いと心得ていただきたい。宜しいか?」
「………万一、第一軍の作戦が失敗した場合は?」
「止む方なし、と存ずる」
「見殺しにすると仰るのか?」
ハーンがかっと眼を見開いた。その眼底に、怒りの炎が浮かんでいる。
「ちょ、ちょっと二人とも、喧嘩しないでよ。時間も余り無いんだから」
「………申し訳ありません、陛下」
「それでは出撃の準備に取り掛かります。御安心ください。必ずや、作戦は成功させて見せます」
力強く宣言し、ハーンはオルンヘルを一瞥してから執務室を出て行った。
ラインハルトは鈴を鳴らして隣室に控えているシエナを呼び、お茶を頼んでから、嘆息して養父の顔を見上げた。
「どうしてあんな事を言ったのさ、父さん?まさか本気じゃないでしょ?財政の為に二十万以上の兵士を見殺しにするなんて。父さんらしくも無い」
「本気だ、と言ったらどうする?ずるずると砂の民との戦争に引きずりこまれ、全兵力を用いる全面戦争にでもなったらそれこそ財政は破綻する。いや、実際にはもっと早く破綻するだろう。それにフロレシア帝国が砂の民相手に苦戦しているのを見ればスタルナス帝国辺りが何をしてくるかわからないではないか、と言ったらどうする?」
オルンヘルは挑発的な事を口にしつつも、表情は真剣そのものだった。
自然、ラインハルトの応えも真剣な物となる。
「そうしたら、僕は父さんを更迭してでも援軍を出す。今度は僕自身が近衛騎士団を率いて、ね。例えどんな理由があろうとも、自分の臣民を助ける。それが皇帝でしょう?」
「そうだな。そう教えたのは私だったな」
「うん」
「ならばおまえに更迭されないよう、ハーンが勝つ事を祈るとしよう」
そう言い捨てて、オルンヘルもまた執務室を出て行った。
「頑固だなぁ………自分だっていざとなったら見殺しなんて事できないだろうに」
それでも宰相として非情の決意を示さねばならない彼に多少の同情も覚えるラインであった。
「お茶、入ったわよ」
思わず嘆息したところへ、シエナが入って来る。三人分のお茶が用意されていたが、二人は居なくなってしまった。
「二人で飲もう」
「ええ」
ラインはシエナを誘い、応接セットへと移った。
「最近はなんだか、父さんと小父さんが仲が悪いみたいだよ」
「いろいろ聞いてるわ。帝国府と軍令部の間の軋轢なんですって」
「昔はあんなに仲が良かったのに」
「ええ」
ラインとシエナは昔を思い、今の状況を憂い、嘆息するのであった。
カーン=オルベニー大佐は一人、行きつけの酒場で酒を飲んでいた。
「ふぅ。一日の労働の後の一杯は格別だな」
度の強い琥珀色の酒を一気に煽り、満足そうな吐息を吐き出す。
熱い胃が焼けるような酒が五臓六腑に染み渡っていく。彼が幸福感に浸っていると。
「大変だ、カーン!」
彼を呼ぶ声と共に、青髪の青年士官が飛び込んできた。カーンの同僚であるオットー=セルバン大佐だ。
「どうした、オットー?なんかあったのか?」
「何を暢気に酒なんか飲んでるんだよ」
「暢気にも何もここは飲み屋だぞ?飲み屋で酒を飲まずに何を飲むってんだ?」
「出撃命令が出たんだよ!しかも大至急!」
「なんだって?………出撃ってどこへ………スタルナスか?」
「スタルナスとは不戦条約を結んだばかりでしょ!違うよ、南のアルティス荒野だよ」
「アルティス荒野だぁ?だってあそこは今第四軍が攻めてる筈だろ?」
「その第四軍からの救援要請が来たんだ。第一軍はただちに出撃、アルティス荒野のカラキシスに進撃して、第四軍を包囲している砂の民の軍勢を放逐して第四軍を救援するんだ」
「そりゃ大変じゃないか!こんな所に居る場合じゃないぞ!」
カーンはさっさと駆けだし、入り口で振り返って、
「どうした、オットー!早く行くぞ!」
「あ、ああ、うん」
オットーも頷き、二人は酒場を飛び出して行った。
カウンターの端に座っていた顔を真っ赤にした常連客の一人が、マスターに話し掛ける。
「なあ、マスター?」
「なんです?」
低く、渋い声で、マスターが応える。常連客は出口の方を眼差しで示して。
「今の赤髪の軍人さん………酒代を置いていかなかったんじゃないか?」
「ええ。そうですね」
「良いのか?」
「ええ。何処の誰だか知ってますし。それに、彼が金を持ち合わせていない事など然程珍しい事でもありませんから」
「ふぅん、そうか。なら―――」
「お客さんはちゃんと払ってくださいよ。常連全員ツケにされたんじゃ、やってられないですからね」
先に言われ、常連客は口を閉ざし、酒を一気に煽った。
第一軍は深夜にも拘らず、二時間余りで練兵場への終結を完了した。カーンのように軍務の後の一杯に興じていた者も居たし、中には女と布団の中に居た所を叩き起こされた者も居る。彼らの前に現れた軍令部総長兼第一軍団長の赤き鬼神ハーン=ハーベスト元帥は多くは語らなかった。ただ、今回の出撃の目的が多くの犠牲を出し、包囲され、身動きが取れなくなっている第四軍の救援にある事だけを淡々とした口調で話しただけだった。
「砂の民相手にフロレシア帝国軍が二個軍団を派遣するのか………」
「何言ってやがる。かつては五個軍団以上を派遣しても征伐できなかった相手だ」
「しかも今の族長は過去最高の戦士と名高いクシャス=カーンだからな」
「クシャスの長男ヴェネット=カーンは何年か前にコーデル=ハム軍団長が討ちとったんだったな」
「しかし、クシャスにはまだ三人息子が居るらしい」
兵士達がひそひそと雑談を交わす。彼らの全身に緊張が………漲っては居なかった。さすがに深夜なだけあり、しかも中には酒が入っている者も多く、緊張しろと言うほうが難しいだろう。ハーン=ハーベストが黒毛の馬に跨り、腰の鞘から剣を抜いた。ぎざぎざの刃の付いた凶悪な剣《炎の剣-ハリエストロ》ではなかった。業物ではあろうが、普通の剣だ。《炎の剣-ハリエストロ》は既に、息子のアレク=ハーベスト第一歩兵師団長に譲ってしまっているのである。無論、そのアレクも出撃する。
「出陣!」
『おおうっ!!』
赤き鬼神の号令に、十五万の兵が鬨の声を挙げた。
それ以後、深夜の出撃と言う事もあり、彼らは粛々と帝都を後にしたのだった。
2 赤き鬼神
帝都ルーガを出撃して八日後、帝国暦三三三年五月十六日。第一軍はアルティス荒野に築かれた前進基地である砦に到着していた。ザルカで第四軍の第十二歩兵師団と合流し、そこで補給物資を輸送する輜重隊と合流し、そしてこの砦で第十・第十一歩兵師団との合流を果たした。兵力はこれで十八万となった。ここからカラキシスまではさらに五日の行程だ。ここまでかなりの強行軍であった為、第一軍の兵の間には疲労感が熾りのように蓄積している。ハーンはすぐにでも出撃したかったが、この状態でカラキシスに駆けつけても満足に戦えるかどうかは疑わしく、仕方なく二日の休息を取る事にした。
第四軍がカラキシスに篭城してから半月余りの時が過ぎた。結局、カラキシス中の食料を駆り集めても二十日分程度の食料にしかならなかった。もう後数日分の食料しか残っていない。
「くそっ………いつまで蛇の生殺しをやってるつもりだ」
包囲を固めたまま、動かない砂の民の軍勢を物見台の上から眺め、すっかり痩せたレッセが吐き捨てる。彼らもただ無為にこの時間を過ごしていたわけではなく、すっかりカラキシスの様子は変わっていた。密集していた住居の内、使わない物を破壊し、その住居に使われていた柱などを使って、司令部の傍に物見台を建てたのだ。また街の周辺に堀を掘り、掘った土を盛って土壁を作り、その内側に馬防柵を立てた。象軍や砂甲竜に対してはさしたる威力も持たない馬防柵であるが、騎兵隊には効果がある。
物見台には常時四名の兵が登り、四方の砂の民を監視する。砂の民はほぼ全くと言って良い程動いていない。時々、南の方から隊商のような物がやってきて大量の食料を搬入しているぐらいの物だ。
「援軍はまだか」
「わかりません」
いきなり問い掛けられても、兵士に答えられる訳が無かった。
実は第一軍がザルカで合流した軍勢は第四軍第十二歩兵師団だけではなかった。ちょうどザルカに居たレイシア=パルディアス率いるパルディア王国軍だ。その兵力はおよそ三千。
ザルカの城内で開かれていた軍議の席上に、レイシア=パルディアスは亜麻色の髪を颯爽と靡かせながら甲冑姿で乗り込み、その場に居る連隊長以上の高級士官が見守る中、全く物怖じと言う物をせずに、赤き鬼神を見据えて、口を開いた。
「此度の第一軍の南方遠征に我がパルディア王国軍も加えて頂きたい」
「残念ながら、これはフロレシア帝国の―――」
「良いんじゃないか?親父、いや、軍団長殿」
第四軍団長のコーデル=ハム中将同様、フロレシア帝国の問題だと言う理由でパルディア王国軍の参陣を拒もうとしたハーンの言葉を遮り、容認論を吐いたのは赤髪の師団長だった。
「しかし―――」
「パルディア王国軍の武勇は貴族反乱の折に存分に発揮されている。参軍して頂ければ、貴重な戦力になりうると思うけど?」
「―――何を考えている、アレク?」
ハーンが鋭い眼光を息子の顔面に突き刺す。息子はその視線を軽く受け流して、
「別に。美人だなぁと思ってるだけだ」
あまりにもあっけらかんなアレクの物言いに、連隊長達の間から笑いが起こる。
レイシアは必要以上に真面目な顔で、
「必ずやお役に立てると思う」
「貴女の目的はなんだ?わざわざ自らに関係の無い戦場に出向く理由は?」
ハーンはレイシアと第四軍第十三歩兵師団長レッセフェルト=イングラム少将の関係を知らない。
「パルディア王国の復興を一刻も早く成さんが為。多くの戦場に参じ、名を上げる事こそ祖国復興の早道と心得ているのみ。これでも納得いただけないか?」
「構わないのでは無いですか?軍団長」
そう言ったのは赤髪の青年士官。アレクの元で歩兵連隊を指揮しているカーン=オルベニー大佐だ。
「僕もそう思います。それにパルディア王国女王陛下の嘆願を無下にお断りになれば、両国の間の軋轢となる恐れもあろうかと」
そんな、一種脅迫じみた台詞を吐いたのは青髪の士官。騎兵連隊を率いるオットー=セルバン大佐だ。彼の隣で、金髪の巻き毛をした少女が勢い良く立ちあがり、
「武勇の誉れ高いレイシア女王陛下と肩を並べて戦えるのなら、私は嬉しいです」
大人びているのか、そうでないのか微妙な台詞を吐く。第一騎兵師団長レフィナ=フュークル少将だ。
「俺も誉れ高き六騎士の面々とは一度会って見たかったところです」
そんな微妙に論点がずれてる事を言ったのは紫色の髪をした青年士官だ。
第一騎兵師団の連隊長で、オットーの同僚であるギルギッド=ルメイ大佐だ。
結局、多数決の結果、パルディア王国軍の参軍は決定された。一応、事後承諾の形ではあるが参軍の許可を求める使者が帝都に向けて送られたが、その返事を待つ事も無く彼らはザルカを発っている。
皇帝の返答を携えた使者はこの砦で追いつき、軍団長に面会して皇帝の意向を伝えた。その意向は、
『パルディア王国軍の参軍を許可し、なるべくその活動に便宜を諮られん事を余は軍令部総長に嘆願す』
と言う物だった。この返答によって、パルディア王国軍の正式な参軍が認められた。最も、この部隊を前線で使用しようとはハーンは全く考えていない。同盟国とは言え、所詮は異国の軍であり、しかもその内実は志願兵などの烏合の衆とも呼ぶべきものに過ぎない。そのような軍団に前衛を任せ、壊滅でもされれば全軍の勝敗にも拘る可能性がある。それ以前に、激戦地にこの部隊を送り込み、レイシア=パルディアス女王にもしもの事があれば、ハーン=ハーベストとしてはその責任を取らねばならなくなる。このような事情からハーンはパルディア王国軍を自分の手元に置く事を決め、その旨、レイシア女王にも通達した。参軍させて貰って居る立場の彼女からすればこのハーンの通達を拒む事は出来なかったのだった。
そして、時は現在に戻る。時刻は夜。レイシアは砦に設えられている物見台に登っていた。ここの守備を任されていた第十・第十一歩兵師団もただ無為に待機していただけではなく、途中で襲撃を受け破壊されてしまっていた砦の築城工事を続け、襲撃を受けたときと比べ、見違える程にしっかりとした砦になっていた。最も、この砦に到着したのは昨日であり、作り直される前の砦の姿を知っている訳ではないのだが。亜麻色の髪をアルティス荒野を渡る強風が靡かせる。
「綺麗な髪だな」
「声も掛けずに背後に忍び寄るなど、無礼とは思わないの?」
つっけんどんなレイシアの物言いに、背後からレイシアの肩に手を掛け様としていたアレクは軽く肩を竦めて、代わりに彼女に無色透明な液体が注がれたグラスを差し出した。
それを見たレイシアは受け取ろうともせずに表情を険しくする。
「第四軍が飢餓に苦しんでいるのを知っていて、酒を飲もうなどとどのような神経をしている?」
「酒じゃないよ」
「―――ではなんだ?」
アレクは相手が込めている肩の力を強制的に抜かすような無為自然な笑顔を浮かべて、
「水だよ。さすがに酒は手に入らなかった。ま、ここも戦場に近いからな」
そう言って、彼は水入りのグラスをレイシアに握らせた。
そう言って、自分もグラスを傾ける。しかし、レイシアの気のせいかどうか知らないが、アレクの持っているグラスに注がれている液体はどう見ても琥珀色だった。
「―――さて」
アレクはその琥珀色の液体を喉に流し込んで。
「君みたいな可愛い子がどうしてこんな所で物悲しい風に吹かれてるんだ?」
レイシアは警戒の眼差しを緩めずに、アレクの横顔を睨む。この師団長の噂は彼女も何度か耳にしている。あまり良くない噂も数多い。彼が有能だが女好きでもあると言う事も、彼女は知っていた。
「話す気はない」
「俺が居なければ陣に加われなかったんじゃないか?」
「恩着せがましいな。確かに感謝の念は持っているが、ただそれだけの事だ」
「まぁ、別に俺も陣に加えてやるから抱かせろなんて事を言うつもりはない。ただ」
「―――ただ?」
レイシアは静かに先を促した。僅かばかりの好奇心を持って。果たしてこの男が何と言うのか。
アレクは軽く肩を竦めて、
「参陣の目的は本当にあれだけなのか、と思っただけだ」
「どういう意味だ?」
「パルディアの復興を一刻も早く成したい………その為に、少しでも多くの戦場に赴き、名を挙げたい。確かに立派な目的だ。だがしかし、本当にそれだけか?」
「どうしてそう思う。亡国の王族、唯一の生き残りとして祖国の復興を願うのがおかしいのか?」
レイシアの眼差しに険が篭る。アレクは横目でそんなレイシアを面白そうに見て、
「別におかしくはない。俺も別にそれを疑ったりはしていない。ただ、目だな。お前の目は、別の物を見ているようにも思えた」
「目………別の物?」
レイシアが怪訝そうな顔になる。言われて居る意味がわからないのだろう。
アレクは琥珀色の液体を喉に流し込み、レイシアの目を真っ向から見据えた。
思わずレイシアが身を引くほどに、アレクの目は深い色合いを醸し出していた。
「その目は恋をしている女の目だ」
「ッ………!馬鹿な。何を根拠に」
吐き捨てながら、それでも、レイシアは激しい動揺を抑えられなかった。
「恋人が第四軍に居るんじゃないのか?」
「そんな者はいない。私はパルディアの女王として、パルディア騎士団の騎士として、祖国の復興のために粉骨砕身、働く事を望んでいるだけだ」
「そうかい」
「これ以上、お前と話していても仕方がないな。失礼する!」
やや赤くなった顔を背け、レイシアは物見台を足早に降りた。
一人取り残されて。アレクは口元に笑みを浮かべていた。
十日余りの包囲陣によって、包囲されているフロレシア帝国第四軍兵ほどではないにしろ、砂の民の軍勢にも疲労が見え始めていた。その大本営を、セトゥは意見具申するために訪れた。父にして、偉大なる戦士、カーン族の族長にして砂の民の盟主であるクシャス=カーンは数人の側近と共に、酒を飲んでいた。側近の顔色を見るに、既にかなりの酒量を呑み干しているようだが、父には全く酒に酔っている様子がなかった。
「何の用だ、セトゥ?」
クシャスはセトゥの用事などわかり切っていながら、わざとそう聞いた。
セトゥは父の対面の茣蓙に腰を下ろし、
「いつまで無為な包囲を続けるおつもりですか!」
のっけから、その口調には怒りの調子が含まれていた。未だに初陣の折に感じた興奮が体中の血を滾らせて居るのだ。この血を鎮める方法は一つしかない。戦いだ。それも、血沸き肉踊る程の。
兄ヴェネット=カーンを葬ったコーデル=ハムとの戦いこそ、その血沸き肉踊る戦いだ。
初陣では決着を着ける事も出来ず、撤退命令が出た。
今度こそ、決着を着けたい。兄の仇を、兄の象軍を引き継いだ自分こそが取りたい。
「このような包囲作戦に一体、何の意味があるのですか、父上!」
「控えろ!馬鹿者が」
クシャスの烈声に、セトゥはびくっと身を強張らせた。
「己の闘志をも御し得ないのは戦士として未熟な証。己の身を呪うならばいざ知らず、闘志を慰める為に戦を求めるとは言語道断だ。我ら砂の民は誇り高き、気高き戦士の血族。汚らわしき匹夫の蛮勇を振り翳すしか能がないならば、貴様に砂の民、カーン族の戦士を名乗る資格はないッ覚えておけッ!」
「ッ………!」
セトゥは唇を噛み締め、拳を握り締めた。全身が激しく震えている。
側近達はクシャスの激しい言葉に、何も言えずに二人を交互に見やって沈黙するのみ。
「まぁ、父上。何もそんなに頭ごなしに言う事もないでしょう」
そこへ、場違いなほど暢気な声が掛かった。大本営の入り口を成す幕を捲って、クシャスやセトゥともよく似た面立ちの男が入ってきた。腰には彎曲刀を佩いている。歩兵を指揮するクシャスの次男マーダ=カーンだ。父や弟と同じく、裸体を晒す上半身は陽に焼けた褐色を呈している。彼は四人兄弟の中で、最ものんびりとして居て、最も穏やかな性格をしていた。そんな彼を戦士として相応しくないと謗る者も居る。しかし、敵に突っ込む勇気だけが戦士に求められる素質ではない。マーダは空いていた茣蓙に腰を下ろすと、自分で杯に酒を満たして口に含んだ。先程まであった親子間の殺伐とした空気は、この青年の登場により、見事に粉砕されていた。
「包囲を続ける理由を、俺も知りたいですね。敵を誘き寄せる餌だとしても、このままでは挟撃に合いますよ?」
穏やかな口調だが、その瞳に灯る光に油断の影はない。ユドグーやセトゥが完全に猛将の分類に属するのに対し、このマーダは智将に属するだろう。カーン族にとっては珍しい気質であると共に、あまり尊重されない気質でもある。クシャスの四人の息子の内、ユドグーとセトゥはその勇を受け継ぎ、マーダは智を受け継いだ。ヴェネットはその双方を兼ね備えていたからこそ、その死を今尚多くの者が悼んで居る。マーダ本人もそれは自覚しているであろうが、格別、自分の勇気あるところを誇示しようなどとはしない。父の答えがわかっているかのように立て続けに酒を飲み、その度に手酌で酒を注ぐ。
「―――第四軍の餌としての目的は、ただ本国軍を誘致する事だけではない」
クシャスが、ようやく答えを口にした。セトゥがわからないと言うような表情をし、マーダが微かに口元を綻ばせる。今の言葉だけで、父の考えを見抜いた笑みだ。
「父上、それは―――」
「セトゥ。お前の最大の望みはなんだ?」
父にもっと詳しく聞こうとしたセトゥの言葉を、マーダが酒を舐めながら遮った。
弟が当然だと言わんばかりに答えを口にする。
「皇帝の首を取る事。この手で」
「その通り。皇帝の首を取る事ができれば、中原制覇と言う我が血族の宿願が成就するのも時間の問題となる」
「だけど、皇帝はフロレシア帝国の奥深く、帝都に居るんだからそこまで攻め込まなくちゃならないじゃないか」
「その為の、餌だ」
答えたのはクシャスだった。どうやら、話す気になったらしい。
と言うよりも、放っておいてもいずれマーダが答えを口にすると判断したのだろう。
どうせ知る事になるのなら族長である自分の口から言った方が重みがある。
「餌………って、まさか敵の本国軍を撃退して、皇帝自身で助けに来させると言う事?でもまさか、皇帝自身が来るなんて事―――」
「皇帝ラインハルト一世は己が親友の窮地を救うため、僅か四千五百と言う小勢のみで、ルシタニアへ赴いている。自分の臣民である第四軍兵を見殺しにする事などありえない。まして、本国軍すら壊滅したとあれば尚更自ら近衛騎士団を率いて出張ってくる」
クシャスの言葉を、マーダが補足する。セトゥは己の父の恐ろしさを改めて実感する思いだった。敵の砦を叩き、カラキシスまで引きずり込んで押し込め、救援に来た本国軍さえも撃滅する。それでも第四軍の包囲は解かず、攻撃する事もなく、皇帝自らがやってくるまで包囲を続けると言うのだ。第四軍の兵は食料も無くなり、干物のように乾涸びて死ぬだろう。皇帝がやってくるまで持つとも思えなかった。
(それでも………皇帝はやってくるのだろうか………己の臣民を助ける為に………危険を犯して)
セトゥには想像も出来ない話だ。噂に聞くラインハルト一世は少女と見紛う程華奢な体躯をしているのだと言う。果たして、そんな少年皇帝がわざわざこのアルティス荒野の奥深くまでやってくるのだろうか。信じられなかった。
「どちらにせよ、やってくる本国軍を撃滅しなければ、皇帝を誘き寄せる事は出来ない。セトゥ」
「はい」
「お前の働きに期待する。ラーマ=ヤーマの加護がお前を護るであろう」
「はい!」
「マーダ」
「はい」
「お前は歩兵を率い、第四軍をカラキシスに押し込めておけ」
「はい」
父の命令を、セトゥは気負いたって、マーダは微笑を以って、受け取った。
3 援軍到着
帝国暦三三三年五月二十三日。
遂に、第四軍が待ち望んでいた援軍が姿を現した。フロレシア帝国の国旗、《力強き銀獅子》と共に翻るは鮮やかな朱色の元帥旗。物見台でこの援軍とその旗を発見した兵はまさに文字通り、狂喜乱舞した。
「援軍だ!援軍が来たぞ!第一軍だ!赤き鬼神が、俺達の救援に来てくれたぞぉっ!!」
食糧が遂に無くなった翌日の事だ。兵達の表情には疲労と不安と絶望と諦念が渦巻いていた。
兵だけではない。下士官も、将校も同じような物だった。昨日は再び幹部級会議が行われ、このまま餓死するよりも兵達の体力が残って居るうちに最後の戦闘を試みるべきでは無いかとの意見が大勢を占めるほどにまで、彼らは衰弱していたのだ。最後の戦闘とは即ち、全滅を意味している。もしくは降伏だったが、それを言い出す者はいなかった。しかし、この見張り兵の報告が、彼らの表情からそれら一切の負の感情を消し飛ばした。代わりに彼らの表情にはこれで助かると言う希望の輝きが現れた。
軍団長コーデル=ハムはすぐに六十余人の高級指揮官達を本営に参集した。
その間も、報告は続々と齎される。第一軍はカラキシスの北方、およそ四キロ地点に布陣。
カラキシスを包囲していた砂の民の軍勢は歩兵十二万を残し、残る騎兵・象兵・砂甲竜兵等八万余りが移動し、第一軍とは一キロ余りの距離を隔てて対陣。
そして、第一軍の中に、パルディア王国の国旗である《剣と盾》の旗が見えると言う報告も届いた。
「レイシアが………」
レッセはその報告を聞いて、微かに口の中で呟いた。
(俺を助けに来たのか………)
レイシアが聞いたら、自惚れも甚だしいと怒りそうな事を考えながら、レッセはハムを見やった。
本営には熱気が渦巻いていた。師団長も連隊長も、口々に出撃し、包囲陣を脱し、敵の本隊を第一軍と挟撃するべきだと述べ立てた。全滅を賭すなどと悲愴なまでの表情で口にしていた昨日と比べて、言って居る事は同じでも気分が大いに異なる。挟撃すれば勝てる。彼らはそう信じているのだ。
レッセフェルトも、口を開いた。
「このまま助け出されるのをただ無為に待っていたんでは第四軍の名折れだ。ここは打って出るしかないと心得る。敵は歩兵のみ。騎兵師団の機動力を以ってすれば包囲を突破するのもさほど困難を伴わないだろう」
美髯将コーデル=ハムはすぐにこの手に乗るに違いない。ただ助け出されるのを待つだけなのを一番嫌って居るのは他でもなく彼なのだから。
しかし、そんな大方の予想に反し、ハムは難しい表情を崩さなかった。
「打って出るのは良いが、砂の民は包囲に十二万を残したままだ。こちらはおよそ十万。確かに兵力的には拮抗し、騎兵の数では勝っているが、敵は豊富に補給を受けていたのに対し、こちらは少ない食糧を節約しながら救援を待っていた為に兵に疲労が溜まっている。包囲を破れるかどうかは疑問だ」
確かにそれは正論だった。兵力が拮抗していれば兵の強さで戦は決まる。兵の強さでも同程度ならば、後は士気の高さ、兵の疲労度で戦の勝敗は決まる。援軍、しかも赤き鬼神に率いられた第一軍の到着によって、第四軍の兵の士気は上がって居る。兵の表情を見る限り、疲労も吹き飛んだ様に見える。しかし、疲労が消えたわけではないのだ。兵達が忘れているだけで、その体には疲労がしっかりと蓄積されて居る。そのような状態で敵と戦えば、包囲を突破できるかどうかすら危うく、ただ多くの犠牲を払うだけに終わる可能性だってある。
「軍団長らしくもない物言いだな………年を取って、守りに入ってしまったのか?」
レッセフェルトは溜め口で聞いた。無論、いくら仲間気質な第四軍だとしても限度はある。
上官を侮辱するような言動は禁じられている。
「…………」
コーデル=ハムは沈黙を保った。レッセが何を言うか、聞こうと言う体勢にも見えるし、何と言われようとも意見を変えないと言う態度とも受け取れる。レッセフェルトは席を蹴って立ち上がった。
「二十日余りの篭城戦がそれほど骨身に沁みたってのか!」
それまで騒いでいた師団長や連隊長をも黙らせる烈声を放つ。
普段のやる気ない彼とは異なる、武将としてのレッセフェルトがそこにいた。
「控えろ、レッセフェルト!軍団長に対し、無礼にも程があるぞ!」
溜まりかねて、別の師団長が声を荒らげる。レッセフェルトは一瞬、面倒臭げな輝きを瞳に宿し、その蜂蜜色の髪を片手でくしゃくしゃと掻き混ぜて。
「コーデル=ハム中将は勇猛な将だった。違うのか?俺の思い過ごしか?」
「無論、勇猛な将だ。閣下は帝国軍中にあっても、五本の指には必ず入る猛将だ。それは、閣下の薫陶を受けた貴様が一番わかっているだろう!」
「その通りだ。だからこそ、失望を覚える。俺の知っている中将ならばこのような場で、味方が敵と戦うのを指を咥えて見守るなどと言う事、するはずがない。全兵力を用いて敵に突撃し、味方と合流しようとするはずだ―――」
「レッセフェルト!」
レッセの言葉を遮ったのは、先程以来沈黙を保っていたハムだった。
レッセフェルトは立ち尽くしたまま、ハムを見据えた。
「貴様の意見はわかった。だが、出撃は、無い」
簡潔に告げ、ハムは席を立った。
「中将!」
「くどいぞ、命令には従え。今は興奮した兵の気を鎮め、体を休ませ、来るべき時に備えさせろ」
軍団長の命令を、全ての師団長、連隊長が冷静な表情で聞いた。
レッセフェルトとハムとのやり取りによって、興奮していた彼らは冷静さを取り戻したのだ。
本営を出て、レッセは自分が寝所とした民家に部下の四人の連隊長を呼んだ。
「聞いての通りだ。命令は待機。体を休ませるよう計らうんだ。俺も寝る。出撃が無いんじゃ、俺の出番も無いからな」
この投げやりな命令に、四人の連隊長達は揃って苦笑を浮かべ、三人が出ていった。
残ったのは連隊長の中でも、最も古株のサンチェ=ポルトフ大佐だ。
軍人らしからぬふくよかな丸顔に、ニコニコと笑みを浮かべて居る。
「―――なんだ、サンチェ?言いたい事があるなら言えよ」
むすっとした表情で横になりながら、レッセが聞く。本当に寝る気なのだ。
「師団長って、演劇もなかなかの物なんですね。始めて知りました」
「…………」
「皆の気を鎮める為に、軍団長辺りと示し合わせた寸劇でしょう?今のは」
「サンチェ、おまえなぁ………」
レッセフェルトは上半身を起こし、先程の軍議の場とは打って変わったやる気の無い表情で呻いた。
「こんな簡単に種明かししてどうするんだよ。ここはもっとハラハラしてから、土壇場でばらすべきところだろう?」
「はぁ。どうも間が悪いんですよ、俺は。よく家内にも言われます」
「ったく、おまえは。もう良い。お前も下れ。兵を休ませろよ」
「了解」
にこにことしたまま、サンチェは民家を出て行った。
(ちっ。もう二度と芝居なんかしないぞ)
レッセフェルトは勢い良く横になると不貞腐れたように鼾を掻き始めた。
「八万だけで俺達をどうにかしようとは―――」
「舐められたもんだ、ですか?」
「あのな、リーナ。人の台詞を取るなよ」
「それは失礼しました」
言葉では謝りながらも、リーナは全く反省していない証に微笑を浮かべていた。
騎馬の背に跨りながら、アレクはそんなリーナを横目で睨み、嘆息した。
視線を前に戻し、一キロほどの距離を開けて対陣している砂の民の軍勢を睨み付ける。
相手が数で劣る事を考え、第一軍は鶴が羽を広げた形を見立てた陣形、通称鶴翼の陣を敷いていた。
左翼は第二・第四・第六の三個歩兵師団。最左翼は第二歩兵師団が務める。
右翼は第三・第五・第七の三個歩兵師団。最右翼は第三歩兵師団が務める。
敵の突撃を真っ向から受け止める事になる中陣には左翼側に第八歩兵師団、右翼側に第九歩兵師団を配し、中央部にはアレク=ハーベスト少将の率いる第一歩兵師団。
その後ろには本軍としてハーン=ハーベスト元帥が直接指揮する第十歩兵師団と第十一歩兵師団。ここにレイシア=パルディアスのパルディア王国軍も含まれる。
そのさらに後方には第十二歩兵師団と第十三歩兵師団が後備軍として控える。
第一から第四までの四個騎兵師団は第一騎兵師団長レフィナ=フュークル少将の統一指揮の下、遊軍として戦場全体が見渡せる右翼側の丘の上に布陣した。第四軍所属の三個師団は敵の動き次第で戦場に投入すべく予備隊として後方にある。かなり中央が分厚い鶴翼の陣である。
これに対し、砂の民側は長蛇の陣を敷いて居る。
先陣に最も攻撃力に優れる砂甲竜四十体を配し、そのすぐ後ろにセトゥ=カーン率いる象軍三万。
その後方にユドグー=カーンの騎馬隊二万五千。最後尾にクシャス=カーンの騎馬隊二万五千だ。
その作戦目的は明快至極。そのずば抜けた攻撃力でフロレシア帝国軍の中央部を食い破り、一気に勝敗を決すると言う物だ。勝負を決めるのは、フロレシア帝国軍の鶴翼の陣による包囲攻撃に、砂の民の軍勢が耐えられるか否か。そして、砂の民の突撃に、第一軍の中央集団が耐えられるか否かにある。
対峙の均衡を破ったのは、砂の民側に響いた攻め貝の勇壮な響きであった。
一瞬の間を開けた後、先頭の巨大な砂甲竜が重々しい動きで突撃を開始する。
「来たぞ。準備は良いか?」
アレクの号令に、リーナが頷く。既に各連隊の弓隊が矢を射掛ける準備を整えている。
砂甲竜の攻撃力は生半可な物ではない。竜の眷属であるだけに、その皮膚は堅く、容易に刃を通さない。短時間で無力化するには騎手を射殺すのが最も早い。
馬十頭分はあろうかと言う巨体が、二本の太い脚に支えられ、荒野を駆ける。
その動き自体、決して速くはない。速くはないが、歩幅が大きいので、実際の移動速度はかなりの物だ。
しかも、巨体である。その脚が地面に振り下ろされる度に、魂までが震えそうな地響きが第一軍兵の身を揺らす。数は多くない。精々が四十頭前後―――。しかし、その地響きを伴う突進は見る者をしてその姿を数倍、数十倍であるかのように錯覚させる。
「まだだ。まだ射るな………」
アレクは低い声で、傍らに居る弓隊指揮官に命じる。
全連隊及び、第一師団の左右に居並ぶ第八・第九の両師団も、アレクの直接指揮する第三歩兵連隊の斉射を合図に矢を放つ事が予め決められている。砂甲竜隊に続き、象軍もまっしぐらに中央目指して突進してくる。砂甲竜ほどではないにしろ、象も十分に巨大な動物だ。
その足音も、重く響く。砂甲竜や象に比べ、その前面に立ち塞がる人間の何と矮小な事か。
先頭の砂甲竜が咆哮を上げ、巨大な脚で地を蹴り潰しながら矢の射程内に飛び込んできた。
「まだだ、耐えろ。今撃っても当らん………まだだ」
「師団長!」
弓隊指揮官が悲鳴じみた声を挙げる。砂甲竜が巨大なために、まだ十分な距離があるにも拘らず、すぐ至近距離にまで迫って居るように見えるのだ。
兵達の脳裏を、踏み潰される己や戦友達の姿が掠めた。恐怖で、槍や剣を握る手に力が漲り、汗で手が滑る。自然と腰が引け、逃げ出したくなる。
砂甲竜はさらに迫り―――咆哮を上げた。
戦意が砕けそうになる程の、獰猛な咆哮を。だが、フロレシア帝国側にも咆哮と紛う程の大声を張り上げた男が居た。誰あろう、アレク=ハーベストその人である。恐怖に負け、命じたのではない。確実に敵に被害を与えられる距離にまで、砂甲竜が踏み込んできたのだ。
「放てぇっ!!放ち捲れぇっ!!」
アレクの命令を受け、第三歩兵連隊の五百人の弓兵が一斉に矢を放った。
続いて、第一歩兵師団全体、二千人の弓兵が矢を空へと放った。
さらに、第一歩兵師団の両脇を固める第八・第九の両師団からも矢が撃ち放された。
三個の師団を合わせ、六千本もの矢が空を真っ黒に染め、ざざぁっという夕立のような音を上げて四十体の巨獣に降り注ぐ。次々に騎手がその身に矢を受け、砂甲竜の広い背中から転げ落ちる。
砂甲竜自身もその身に何百本もの矢を受け、苦痛と激怒の悲鳴を挙げた。
騎手を失い、怒りに我をも失い、統制を失った砂甲竜が第一歩兵師団の先頭集団、カーン=オルベニー大佐の第一歩兵連隊と激突した。数十人の兵が体当たりを受け、虚空に跳ね飛ばされる。
カーンは戦線の先頭に飛び出し、己の精霊具、《風の槍斧-ヤーナス》を構えた。
「風の精霊よ!我が呼びかけに応え、刃の連なりたる風を巻き起こせ!」
地面に柄を突き刺し、刃を天に掲げた精霊具が微かに白く輝き、その槍斧を中心にして、風が巻き起こった。荒々しいまでの鋭さを持つ風が砂甲竜に襲いかかる。その堅い皮膚を突き破り、その身を引き裂く。激痛に顔を歪め、砂甲竜がのた打ち回って、隣の砂甲竜に体当たりした。
どつかれ、憤怒の咆哮を上げた砂甲竜が己に体当たりをかました砂甲竜の首筋に噛み付く。
騎手を失った砂甲竜の暴走は止めようが無い。フロレシア帝国軍も甚大な被害を被っているが、砂甲竜の後続に続いていた象軍は暴れる砂甲竜に格好の標的とみなされ、その強大な力を遺憾なく発揮する体当たりを受け、先頭の集団が混乱に陥ってしまった。
「砂甲竜を避け、敵に突撃しろ!」
白き象に乗ったセトゥ=カーンが命じ、象軍は方向を転じて、第一師団の前面で暴走を続ける砂甲竜を迂回し、そのセトゥから見れば右側である第八歩兵師団に突撃して行った。
象軍の後方に続くユドグー=カーンの騎馬隊二万五千は混乱に巻き込まれる事も無く砂甲竜を迂回し、セトゥの象軍とは反対側に当る第九歩兵師団に襲い掛かって行った。
戦線は中軍全体に広がり、そして、その全てに亘ってフロレシア帝国軍が押されていた。
第一歩兵師団は僅か四十体余りの砂甲竜の暴走を止める事が出来ず。
第八歩兵師団は象軍の攻撃力の前に次々に押し潰され。
第九歩兵師団は騎馬隊の高機動力の前に薙ぎ倒される事葦の如き有様。
クシャス=カーンの部隊だけが、戦闘には加わらず、様子を窺っていた。
「よし。袋を閉じろ」
戦場全体を伝令の報告によって事細かに把握し、ハーン=ハーベスト元帥は左翼と右翼に敵の側面を突くよう命じた。鶴が開いていた翼を折り畳むように、敵を包囲して三方向から攻撃するのだ。
伝令による命を受け、両翼を担当する六個歩兵師団が足並みを揃えて動き出す。
これを見て、ユドグーとセトゥの兄弟はますます猛って猛然と攻めた。
中軍さえ突破してしまえば、包囲の意味は無い。
「―――続け!」
ここで、それまで沈黙していたクシャス=カーンの部隊が動き出した。
猛然と馬を駆り、何と未だに砂甲竜が暴れて居る真正面へと突っ込んだのだ。
騎馬隊の突撃に、砂甲竜はさらに興奮し、滅茶苦茶に暴れ、その余波を受け、騎兵が次々に踏み潰され、虚空に弾き飛ばされ、命を捨てて行くが、クシャス=カーンは部隊を進ませ続けた。
やがて、彼らは砂甲竜を突破し、フロレシア帝国軍第一歩兵師団に攻め掛かった。
まさか砂甲竜を突破して攻めては来ないだろうと、兵達は油断し、その意識は左右の味方を攻めて居る敵に向いていた。そこを突かれた。完全な不意打ちだ。フロレシア帝国軍兵からすれば、突然、砂甲竜の巨体の向こうから雲霞の如き大軍が現れたような物である。
第一歩兵師団が一気に攻め込まれ、泡を食ったように動揺し、崩れたった。
第一・第二の両連隊を突破したクシャス=カーンと第三連隊が衝突した。
そして、アレク=ハーベストは見た。大きく湾曲した剣を振り回し、当るを幸い薙ぎ払いながら進んでくる敵の姿を。カーン族の族長にして偉大なる戦士。そして砂の民の盟主。クシャス=カーンの姿を。
その瞬間、アレクは馬の脇腹を蹴り、馬を駆けさせていた。
「アレク!」
リーナが慌てて叫ぶが、聞こえない。親父から譲られた《炎の剣-ハリエストロ》を鞘から抜き払い、彼は敵をその目にしっかりと捉えながら吼えた。
「クシャス=カーン!!俺が相手だ!!」
「アレク!!」
リーナは彼の名を叫び、己も馬腹を締め付けた。しかし、横合いから敵に割り込まれる。アレクとの間を寸断されて、リーナのほっそりとした面上に複雑な色が過ぎる。
「邪魔を………しないでっ!」
彼女が持った大鎌を振るえば、カーン族の戦士達の首が幾つも血の尾を引きながら空を飛んだ。
アレクとの間を塞ぐ敵を薙ぎ倒しながら、リーナは叫んだ。
「アレクッ!!」
4 血戦
「喰らえッ!!」
アレクが吼える。その身に内在する闘志を感じ取り、彼の携える精霊具、《炎の剣-ハリエストロ》がその闘志を糧に己を奮い起こす。
赤き刃が紅蓮の炎を噴き出す。炎は集束し、人の頭程の大きさの火球が放たれた。
「ウオオオッ!!」
その身に彫った刺青の如く、獅子の様な咆哮を上げ、クシャスが剣を振り上げた。そして振り下ろす。凄まじいまでの剣風が巻き起こり、アレクの放った火球と衝突した。爆発。虚空で炸裂した火球はその破壊を四方に及ぼす。砂の民の騎兵隊が薙ぎ倒され、フロレシア帝国軍の歩兵が弾き飛ばされる。そこに、空虚な空間が生まれた。まるで、二人の戦士の決闘の場だった。互いにその空間に馬を乗り入れさせ、アレクとクシャスは対峙した。
カッと目を見開き、クシャスはアレクの手の中にある、炎を滾らせる剣を見た。
「その精霊剣は赤き鬼神の《炎の剣-ハリエストロ》ではないのか」
「へっ。よく知ってるじゃないか。だが、この剣の今の持ち主は親父じゃない。このアレク=ハーベスト様だ。覚えとけ」
「赤き鬼神の息子か」
「いかにも」
「ならば息子を失う痛み、赤き鬼神にも味合わせてやろう」
クシャスが馬の腹を猛然と蹴った。馬が高い嘶きを上げ、アレクに迫る。
獅子をその身に彫った偉大なる戦士クシャスは大きく刃が湾曲したカトラスを振り上げ、振り下ろした。
アレクが《炎の剣-ハリエストロ》で受け止める。凄まじいまでの金属音と火花が散り、重い衝撃がアレクの腕を痺れさせた。鋭い剣風が、アレクの鮮やかな赤い前髪を切る。
「うぬぬっ………!」
「っ………なんて、力だ」
クシャスが片手で力任せに押してくる剣を、アレクは刃に左手も添えて、渾身の力で押し返そうとする。
だが、それでも、じりじりとカトラスの湾曲した刃がアレクに迫る。
「アレク!」
声と共に、漆黒の風が吹いた。駆けつけたリーナが問答無用でクシャスに向け、死神の鎌を思わせる巨大な大鎌を振るったのだ。咄嗟にアレクは首を竦め、クシャスは大きく後ろに仰け反っていた。
その目がしっとりとした黒髪を虚空に広げながら自分の横を駆け抜ける女を見た。
柔和な顔付きをしていたが、今は戦場の緊張感にきつく引き締められている。
クシャスは体勢を素早く立て直すと、カトラスを両手で握り、振り下ろした。
「くっ―――がっ!!」
両手で受け止めようとしたアレクだったが、片手でも押されていた物を両手で押さえられる訳も無く、その強大な膂力に押されて馬上から転げ落ちた。そのまま踏ん張っていてはやられると判断したアレクが自ら落ちたのだ。目標を失ったカトラスを虚空で静止させ、クシャスは一瞬辺りに視線を配った。
彼の率いる騎兵隊の突撃により、第一歩兵師団は完全に崩壊していた。
その崩壊によって、動揺した両側の第八・第九歩兵師団もまた崩れ立って居る。
既に両翼の六個歩兵師団がセトゥの象軍とユドグーの騎兵隊の側面を突いているが、二人とも予めわかっていただけに冷静に対処していた。部隊の一部を分離し、これに当らせたのだ。無論、圧倒する事は出来ない。しかし、抑え込むだけで十分。本隊の攻撃で中軍さえ突破してしまえば、包囲は崩れるのだから。そして、包囲が崩れるのも時間の問題だった。
アレクやリーナは善戦したが、善戦したが故に、敵中に取り残されると言う危険な状況になりつつあった。彼らを救おうと第一歩兵師団の兵も奮闘するのだが、勢いに乗るクシャス騎兵隊の突撃の前に、踏みとどまる事すら難しい状況では敵を押し返して二人を助ける事など不可能に近い。
「戦士らしく、潔く死を選べ」
戦況を見て取り、クシャスは告げた。その瞳に嘲りの色も哀れみの色も無く。一片の油断する心とて無い。冷徹に戦況を分析し、判断したのだ。目の前に居る赤髪の将が生き残る術は無い。
剣技の才には恵まれているようだが、それとて彼をも乗り越えるほどの物ではない。
「へっ。だとしても、最後まで戦うさ」
馬を失いはしたが、まだ《炎の剣-ハリエストロ》はその手の中にある。
そして、赤髪の若き少将の瞳には一片たりとも諦念と言う物が無かった。
「アレク!」
馬を回して近づいてきたリーナが差し伸べる手を掴み、リーナの馬に乗る。
「どうするつもりだ?」
クシャスが微かに眉を顰めながら聞く。この状況を打開する方策など無い。しかし、アレクだけではなく、彼を己の馬に乗せた一人の女にすら、死を予想しているような表情の翳りは無かった。
そして、クシャスの命をかつて何度と無く救ってきた戦士としての勘が、危険信号を灯していた。
―――ここは危険だ。今すぐ馬首を翻し、逃げろ、と―――。
クシャスはアレク達を常に視野に収めながら、もう一度見える限りの戦場を見渡した。
第一師団はもはや整然とした陣列を組む事すら出来ず。第八・第九の両師団もずるずると後退しながら、緩やかに混乱と絶望が広がっていく状態。側面を突こうとする六個の歩兵師団はそれぞれ象軍と騎兵に抑えられ、本隊に突っかかる事も出来ない。丘の上に布陣した騎兵隊は―――。
「待ってたんだよ」
「何?」
騎兵隊から視線を目の前の赤髪の武将に戻し、クシャスは怪訝そうに聞いた。
その彼の前で、アレクが右腕を掲げた。その手に持つのは、真紅の刃の剣。
《炎の剣-ハリエストロ》。赤き鬼神がその異名を得るに至った上で、その剣の存在を欠く事は出来ない。
だが、先程自分はこの剣から放たれた攻撃を剣風で受け止めた。恐れるには値しない攻撃だ。
「この剣の攻撃範囲は広い。味方に居られちゃ、攻撃する事も出来ない」
口の端に笑みを浮かべ、アレクが宣告する。例えようも無い怖気が、クシャスの背を駆け抜けた。
(この男は己の命をも投げ出し、わざと敵中に残ったと言うのか!?)
周りに満ちる砂の民が、一斉にアレクに襲い掛かろうと駆け寄る。
次の瞬間、《炎の剣-ハリエストロ》が強い輝きを放った。真紅の輝きを。
「ッ………!!」
クシャスは慌てて馬を横倒しにし、その影に潜り込んだ。偉大な戦士であり、全砂の民の盟主である彼が子供のように体を丸め、得体の知れない恐怖に身を震わせていた。そして、思い出していた。《炎の剣-ハリエストロ》の本当の力を。ラスカーナ史書にも出てくるその伝説を。火山を爆発させ、街を一夜にして焦土と化さしめた火の神とも恐れられる火の上級精霊であると言う事を。
戦場を赤い輝きが満たした。閃光はますます濃度を濃くし、輝きはだんだんと青く、そして白くなっていく。臨界点を越えた次の瞬間、輝きは破裂し、凄まじい炎の奔流となって砂の民の軍勢を薙ぎ払った。
クシャスの二万五千の騎兵隊が。四十体の砂甲竜が。次々に発火し、炭化して行く。
「おおおおおっ………!!」
炎熱。灼熱。赤熱。どのような言葉を使っても表現しきれないような熱が全てを焼き尽くすかの如く暴れ回る。クシャスは馬の影に身を伏せ、少しでも身を低くしようと全身でもがいて土を掘っていた。
馬の肉が焼ける嫌な匂いが鼻腔を貫く。全身の毛が炭化し、体の表面の水分が蒸発して行く。ようやく自分の半身を隠せるほどの穴を掘るとクシャスはその中に半身をうずめ、身を縮こまらせてこの地獄が過ぎ去るのを待った。
「ラーマ=ヤーマよ、我に汝の加護を与え給えッ!」
炎がだんだんと鎮まって行くに連れ、一変した戦場の様子が露になっていく。
ハーン=ハーベストが赤き鬼神と恐れられ、畏怖されたのはこの精霊具の威力ゆえの事。しかし、その威力ゆえ、戦場で振るわれる事はほとんど無い。振るえば、味方をも巻き込むのが必定だからだ。
「我が息子ながら、危ない賭けをする奴だ………」
本軍で騎馬に跨り、戦場を眺めながら、ハーン=ハーベスト元帥は渋面を浮かべていた。
精霊攻撃を繰り出す前に討ち取られ、精霊具を奪われていたかもしれない。
いやむしろ、そうなる可能性の方が大きかったはずだ。だが、アレクはその賭けに勝った。
アレクの立つ場所から、一直線に幅二百メートル余りの地面が炭化していた。焦げ跡はどこまでも真っ直ぐ伸びている。その枠から外れていたとしても、高温の風に嬲られ、砂の民の軍勢には大きな被害が生じていた。実際に死んだのはどれほどかわからない。千か二千か、五千か一万か。被害がそれだけで済んだのはひとえにアレクがまだ精霊の力を抑え込むのに未熟だったからだ。溢れ出る精霊の力に負け、攻撃を放った時の衝撃で仰け反ってしまったのだ。炎は空に向かって放たれた。それでも、甚大な犠牲が出た。全てが燃え尽きた範囲から少し離れた場所で、炭化した馬が向こう側から押されて崩れた。
ぼろぼろと崩れた馬の向こう側で立ち上がったのは、全身に火傷を負ったクシャス=カーンだった。
彼は耐え切ったのだ。この地獄の業火もかくやと言うべき攻撃を受けて。それだけで彼は偉大と呼称されるに十分たる肉体を持っている事を証明して余りあるであろう。その精霊の破壊力に、誰もが動きを止めていた。敵も、味方も。攻めるのを忘れ、守るのも忘れた。最初に動いたのは、この戦場を見下ろしていた者達だった。
「敵の退路を断つわよ、突撃!」
「了解」
「やっと出番だぜ!」
豪奢な金髪の巻き毛をした十六歳の少女の命令に、呆然としていた部隊がはっと我に返って動き出す。
青髪と紫の髪、二人の青年士官がそれぞれの連隊を率い、陣取っていた丘を駆け降りて行く。
馬の蹄が立てる地響きの音が戦場を揺らし、茫然自失としていた者達に今自分達が置かれている状況を思い出させた。クシャスの周りに瞬く間に騎兵隊の生き残りが集い、主人を失った馬の手綱を族長に渡す。クシャスは頷き、馬に跨って、唇を噛み締めた。いくら勇猛な砂の民でも、このような攻撃を見せつけられては戦意を喪失せざるを得ない。一度退き、体勢を立て直す必要があった。
それに、一度停滞した攻撃を再び再開させる事など難しい。戦場は一変していた。
それまで攻め捲り、フロレシア帝国中軍を突破し、壊滅させる寸前まで攻め込んでいた狼は逆に包囲され、追い立てられる兎になってしまった。
「撤退だ。ユドグーを殿軍に。全軍、カラキシスのマーダの元まで後退する。続け!」
断腸の思いで命を発し、クシャスは馬の腹を締めた。進撃よりも後退の方が難しい。クシャスからの命令を受け、ユドグーは体勢を立て直し、追撃しようと動きだしたフロレシア帝国中軍に果敢な攻撃を断行した。攻撃しながら退くのだ。セトゥは象軍を纏め、クシャスの騎兵隊に続いた。
「くそっ………後一歩と言うところで!」
奥歯が砕けそうなほどに噛み締めながら、それでもセトゥは表面的には冷静さを装って命令を発した。
包囲しようと側面攻撃をしてくる六個の師団の攻撃をいなし、弾きながら、砂の民の軍勢は後退して行く。その頭をレフィナ=フュークル、オットー=セルバン、ギルギッド=ルメイの率いる二万の騎兵が塞ごうとする。三人とも、精霊具を持ち、精霊攻撃を繰り出す。
レフィナ=フュークルの《雷神槍斧-サンダーボルト》が雷撃を放ち、
オットー=セルバンの《獣の槍-ハンニス》が牙狼を召喚し、
ギルギッド=ルメイの《炎獣槍-フレイムスピア》が小さな火球を無数に生み出す。
そんな激しい精霊攻撃の渦中を、クシャスを先頭にして砂の民の軍勢は駆け抜けた。《炎の剣-ハリエストロ》の精霊攻撃に比べれば彼らが放つ下級精霊の攻撃など何ほどの事も無い。その隊列は最初こそ乱れていた物の、走りながらどんどん整えられていく。それを見て、レフィナは無理な追撃を思い止まった。アレクの精霊攻撃によって、彼らは死兵となった。これはミト=ヴァレンツェの率いる死せる軍団の事ではなく、死をも覚悟した軍団の事だ。人間は死をも覚悟すると通常の何倍もの力を引き出す事ができる。そのような状態にある軍に手を出せば、痛い目を見るのはこちらなのだ。クシャス=カーンの騎兵隊に続き、セトゥ=カーンの象軍がやってきた。レフィナは騎馬隊を率いて、この象軍に襲い掛かった。しかし、圧倒的な体格差を誇る象軍に対し、騎馬隊の突撃は大した功を持たない。セトゥ=カーンの跨る白象を先頭にした苛烈な突撃によって、騎馬隊は簡単に陣を崩され、道を開けざるを得なかった。そうしなければ、騎馬隊は崩壊していたかもしれない。セトゥ=カーンの象軍の後に続いて、殿軍を務めるユドグー=カーンの騎馬隊が左右後方の三方向から追い縋る敵と激戦を続けながらやってきた。
レフィナはオットーの第三連隊に左斜めから、ギルの第二連隊に右斜めから突撃させ、己は残る三個連隊を率いて真正面からこの騎馬隊に襲い掛かった。完全に包囲されて居る形となり、ユドグー=カーンの騎馬隊は死に物狂いで戦った。しかし、次々にその数は打ち減らされていく。ユドグー=カーン自身、敵から奪った槍を振るって戦い続けていた。激戦はその後も一時間以上続いたが、遂にユドグーはフロレシア騎馬隊を突破して、撤退することに成功した。その時、周りに追随して居る騎兵隊は僅か数百騎に過ぎなかった。とりあえずは、フロレシアの勝利と言う形にはなったものの、被害は大きかった。
特に第一歩兵師団ではルシタニアでも戦傷を受けたカーン=オルベニー第一歩兵連隊長が肩を射られ、激しい出血により意識不明の重体。アレク=ハーベスト師団長も精霊攻撃の制御のために体力を使い果たし、あの後すぐに失神してリーナの馬からも転げ落ち、リーナの手によって後方に運ばれていた。
全軍を通して、連隊長以上の戦死者だけでも二十名余り、下士官・兵を合わせれば戦死は一万五千余、戦傷は六千余に昇る。単純計算でも二個師団が潰された事になる。被害が無かったのは、ハーン=ハーベストが直接指揮していた第十歩兵師団と後備軍の第十二、第十三歩兵師団、それに本軍に編入されていたパルディア王国軍や遊軍として後方待機していた第四軍所属の各師団だけだ。レフィナが統一指揮していた騎兵師団も、撤退しようと死に物狂いで戦う敵の前に立ちはだかった為に大きな犠牲を出した。戦死者の亡骸と戦傷者は兵力を消耗し尽くした第一歩兵師団が護送して、後方に移送する事になった。アレク=ハーベストは体力を消耗して居るだけなので、戦陣に残った。ここ数年、絶えてなかった大規模な精霊攻撃が繰り出された戦として、このカラキシスの戦いは戦史に残る事だろう。あの惨烈を極めたエルベス川の戦いでも、小規模な精霊攻撃は無数に繰り出されたが、上級精霊による精霊攻撃は繰り出されていない。兵を纏め、野営の支度をし、戦傷者の手当てをしている内に夜が訪れた。生暖かい風が戦場に吹き、敵味方双方の死者の魂を、戦士達の天国ヴァルハラへと招く。ロデン教の従軍牧師達が死者達の安息を神に願う祈祷の声が、暗い空に憂鬱に吸い込まれていく。レイシア=パルディアスは昼間、レフィナ=フュークルの騎馬隊が陣取っていた丘の上に登っていた。
傍らに居るのは、誉れ高き六騎士ではなく、ジード=ブリード歩兵連隊長ただ一人。
「私達は何もできなかったな………」
多くの死者が今なお屍を晒している戦場を見回しながら、レイシアは呟いた。
その視線が吸い寄せられるようにして、地面の焦げ跡に向かう。
「まだまだ戦いが終わったわけではありませんぜ、姐さん。レッセの兄さんはまだカラキシスで助けを待ってるんだからよ」
「そう、だな」
フロレシア軍は深く傷ついた。それは砂の民も同じ事だ。砂甲竜隊は全滅し、クシャス=カーンの騎兵隊は半減、ユドグーやセトゥ=カーンの部隊にも被害が出ている事は間違いない。
「あんなすごい精霊攻撃は始めて見ましたぜ」
「ああ………。私もだ」
(上級精霊という物の破壊力を始めて見た。あのような精霊に比べれば我が王家に代々伝わる《神速の腕輪-パルディアス》と言えど、子供騙しに過ぎないではないか………)
上級精霊が封じられた精霊具など滅多にある物では無い。フロレシア広しと言えども、片手の指で数え切れる程だろう。いや、ラスカーナ全土でもどれほどあるか知れた物ではない。
「精霊の攻撃はただそれのみにおいて、戦場を一変させられる………。戦術書には良く書かれているが、どうやら今までの私はその言葉の本当の意味を知らなかったようだな」
《炎の剣-ハリエストロ》の攻撃が炸裂した瞬間の爆風。遠く離れ、かつ直接攻撃が向けられた方角ではないにも拘らず、その爆風によって、皮膚がちりちりするのを感じた。
「確かに《神速の腕輪-パルディアス》や他の精霊具でもあるとないとでは戦況に大きな違いを生み出す………」
だが、軍書に書かれて居る記述はそのような生ぬるい事を言っているのではない。
「上級精霊の封じられた精霊具による精霊攻撃は一撃で数千数万の軍勢を消し飛ばす………。まさに、戦場を一変させるほどの力だ」
「しかし、アレク=ハーベスト少将は未だに意識が戻らないようですぜ。ま、大きな力にはそれに伴う代償という物が必ずあるもんなんだな、きっと」
「ジード。決めたぞ。いずれ私も、あのような強大な力を秘めた精霊具を手に入れる」
瞳に決意の色を込めて、レイシアは言った。ジードは少し肩を竦めて、
「姐さんが言うなら反対はしませんぜ。でも、過ぎたる力は身を滅ぼすとも言いますぜ」
「あれだけの力を手に入れる事が出来れば、我が祖国の復興も早まる………」
「そう簡単に手に入るもんでもないでしょう?」
「だが必ず、いずれ………」
戦場の焦げ跡を睨み据えながら、レイシアははっきりとした口調で宣告するのだった。
1 援軍要請
「ふう………極楽極楽」
ラインハルト=シーザーは腹の底から嘆息を吐き出して、言った。
全裸の全身を暖かな温もりが包み込んでいる。
眼を開けば、靄のような湯気が満ち満ちている。
ここはルーガ城内の浴場だ。しかもこの浴場は湯を沸かしているのではなく、地下から沸きだしているれっきとした温泉なのだ。天然温泉掛け流しの湯。それがこの大浴場だ。
皇帝専用の物もあるが、城内の勤め人などに開放されている大浴場もしっかり男女別である。
城下町にも何十箇所か公衆浴場がある。ルーガの人々は何時でも低価格で温泉に浸かる事ができるのだ。まだ一部の財産持ちを除いて、自分の家に風呂があるという家は珍しいので、多くの住人はそれぞれ近場の公衆浴場に通っている。民衆の娯楽にもなり、国家の財政の一助にもなる。まさに一石二鳥だ。
しかも、その効能を思えば、一石三鳥であるかもしれない。ルーガ温泉のお湯はやや白く濁っており、美肌効果などもある。ラインハルトの肌は濡れて、男とは思えぬ滑らかな艶を放っていた。濡れて額に張り付いた金髪がなんとも言えぬ情緒を示している。
「一日の公務の後の風呂は最高だねぇ。なんだか、体の底から疲れが取れていく感じだよ」
「すっかり台詞が親父だな、おい」
「どわっっぷっ!?だ、誰!?」
独り言に湯煙の向こうから返事が返ってきて、ラインは立ちあがろうとして足を滑らし、思い切り湯中に沈み込んでから浮上して誰何の声を上げた。
「だ、誰!?じゃないっての。この城の中でおまえに溜め口で話しかける奴は限られてるだろ。んでもって、それが男湯に入ってきたんだったら俺しか居ないだろうが」
「んー………誰だろ」
「アレク=ハーベストだよ!」
「わかってたよ」
「………本当か?」
湯煙の向こうから肩に手拭を乗せた姿で現れた赤髪の武将はかなり疑わしそうに言ってきた。
「勿論」
文句の付け所の無い完璧な微笑を浮かべ、頷く皇帝。
「まあ、良いけどよ」
アレクはそう言うと、ラインの隣に腰を下ろし、赤髪の上に手拭を乗せた。
「ふぅ」
「ところで、アレク」
「あん?」
「まだ女遊びしてるのかい?」
「当たり前だろ。まだ色欲が衰えるには六十年は掛かると思うぞ」
ラインの問いに、アレクはあっさりとそう答えた。
「そう」
ラインもそう応えたきり、何を言っていいのかわからなくなった。
「なんでいきなりそんな事を聞くんだ?」
「うえっ?」
「いや、なんだよ、うえって」
「あ、いや、別に深い意図があるわけでは―――」
「なんだ、つまんねえな。てっきりシエナとヤる方法でも訊こうとしてるのかと思ったのに」
「ぶっ―――ん、んな訳ないでしょ!」
「何を激しく動揺してるんだ?」
「べ、別に動揺なんかして無いよ」
「怪しいな」
アレクは完全に、疑いを持った眼でラインを見やる。ラインはあたふたと誤魔化しを考えるが、頭の中が真っ白で全く考えが思いつかない。
「おまえ、まさか―――」
何かに思い当ったというようにアレクが眼を見開きながらラインに迫り、ラインが顔面を蒼白にしながら立ちあがり、脱衣所に逃げようとした、まさにそのとき、いきなり浴室と外の脱衣所を区切る戸が開かれ、
「大変よ、ライン、第四軍からの救援要請の使者が―――って、きゃああっ!!」
いきなり飛び込んできたシエナ。その眼前には生まれたまんまの姿で、生まれたときよりも遥かに成長して居る二人の男の裸体があった。思わず悲鳴を上げてしまうシエナ。
「し、シエナっ!?ここは男子風呂だよ!」
ラインも慌てて湯船に戻る。アレクだけは別に照れるでもなく冷静に手拭で股間を隠し、真剣な表情で、
「第四軍からの救援要請ってどう言う事だ?」
「わ、わからないわよ、父さんがラインを呼んでくるようにって。皇帝執務室に父さんは居るわ」
「わ、わかった。すぐ行くからシエナは先に行って行くって伝えといて」
「わ、わかった」
かなり動揺しながらも、シエナは浴室から出て行った。その表情は何処となく虚ろで、頬が朱色に染まっている。なんとなく眼の焦点も合って無い感じだ。
(みみみ見ちゃった。らららラインのだだだ大事なところを―――案外と―――)
案外と、なんだ?
肝心なところで、シエナは脱衣所から廊下に出る敷居で躓いてこけ、正気に戻ってしまった。
「早く父さんに伝えなくちゃ!」
ラインハルトはすぐに風呂から出て、服を着、執務室へと向かった。
執務室の中には緊迫した空気が漂っていた。
宰相のオルンヘル=クリケット伯爵、軍令部総長のハーン=ハーベスト元帥がやって来ていた。
フロレシア帝国の文武の最高官だ。
「第四軍から救援要請だって?」
執務机の向こうに回り、椅子を引いて腰を落としながら、ラインハルトも緊張に強張った表情で聞いた。
「はい。伝令の伝えたところによれば、第四軍は逃走する蛮族の軍を追撃して南下し、オアシス都市カラキシスを制圧したものの、完全に包囲され、身動きできなくなっている状況だと言う事です。携帯している兵糧も残り少なく、早急に救援策を講じなければカラキシスに篭城している第四軍兵は餓死するか蛮族との戦闘で全滅を余儀なくされます」
「うん。それで、どれだけの兵力を出撃させる気なの?総長」
ラインハルトは努めて冷静を装って、ハーンに尋ねた。しかし、その脳裏にはコーデル=ハムやレッセフェルト=イングラムなどの顔が過ぎっていた。《全滅》と言う言葉の持つ残酷なまでの響きが、彼の心を激しく引き裂く。だが、彼がすべき事は周章狼狽して取り乱すことでは無い。眼前の文武の最高官に対処法を問い質し、その実行許可を下すことなのだ。
「伝令の報告によればカラキシスを包囲している砂の民の軍勢はおよそ二十万。対し、カラキシスに篭城している第四軍の人員数は凡そ十万名。戦死者も出るでしょうし、負傷兵が居ますので、実質的に戦闘員として戦闘可能なのはそれよりも少なくなると思われます」
「どうして半数もの兵力を失うような敗北を?」
「半数を失ったわけではありません、宰相。第十・第十一師団はフロレシア帝国側に設営した砦の守備にあたって居ますし、第十二師団は野戦で生じた負傷者を伴ってザルカに帰還しています。それで、先程の陛下の御下問に対しては現在第四軍の代わりに南軍管区に駐屯している第二軍団の兵力をザルカに集中し、しかるのちに出撃するのでは時間が掛かりすぎます。よって、帝都ルーガに駐屯している第一軍団を出撃させようと考えて居ます。これにザルカで第四軍の第十二歩兵師団、前進基地となっている砦において第十・第十一歩兵師団を合流させれば兵力は十八万。十分にカラキシスの第四軍と合流し、砂の民を駆逐する事が出来ましょう」
赤き鬼神の異名を持つだけに、ハーンの口調は自信に満ちている。
「ルーガから行ったほうが短期間で行けるの?」
「集結の手間が省けます」
「軍令部総長殿は第一軍団長の職を兼務しておられるが、御自身で此度の戦の指揮を執るおつもりか?それとも誰か代理の者を立てるのか?」
「自ら指揮を執ろうと考えておりますが?」
眉を上げて、怪訝そうにオルンヘルを見るハーン。オルンヘルは無表情のまま、
「財政が逼迫しているので、これ以上の規模の軍団派遣は議会でも承認はされますまい。第一軍の出撃だけは議会の許可も下りようが」
「宰相殿にしては珍しき曲言かと存ずる。もっと単刀直入に仰られてはいかがか?」
「ならば単刀直入に申し上げよう―――」
オルンヘルはハーンに静かに向き直って。
「第四軍の救援作戦に最早増援は無いと心得ていただきたい。宜しいか?」
「………万一、第一軍の作戦が失敗した場合は?」
「止む方なし、と存ずる」
「見殺しにすると仰るのか?」
ハーンがかっと眼を見開いた。その眼底に、怒りの炎が浮かんでいる。
「ちょ、ちょっと二人とも、喧嘩しないでよ。時間も余り無いんだから」
「………申し訳ありません、陛下」
「それでは出撃の準備に取り掛かります。御安心ください。必ずや、作戦は成功させて見せます」
力強く宣言し、ハーンはオルンヘルを一瞥してから執務室を出て行った。
ラインハルトは鈴を鳴らして隣室に控えているシエナを呼び、お茶を頼んでから、嘆息して養父の顔を見上げた。
「どうしてあんな事を言ったのさ、父さん?まさか本気じゃないでしょ?財政の為に二十万以上の兵士を見殺しにするなんて。父さんらしくも無い」
「本気だ、と言ったらどうする?ずるずると砂の民との戦争に引きずりこまれ、全兵力を用いる全面戦争にでもなったらそれこそ財政は破綻する。いや、実際にはもっと早く破綻するだろう。それにフロレシア帝国が砂の民相手に苦戦しているのを見ればスタルナス帝国辺りが何をしてくるかわからないではないか、と言ったらどうする?」
オルンヘルは挑発的な事を口にしつつも、表情は真剣そのものだった。
自然、ラインハルトの応えも真剣な物となる。
「そうしたら、僕は父さんを更迭してでも援軍を出す。今度は僕自身が近衛騎士団を率いて、ね。例えどんな理由があろうとも、自分の臣民を助ける。それが皇帝でしょう?」
「そうだな。そう教えたのは私だったな」
「うん」
「ならばおまえに更迭されないよう、ハーンが勝つ事を祈るとしよう」
そう言い捨てて、オルンヘルもまた執務室を出て行った。
「頑固だなぁ………自分だっていざとなったら見殺しなんて事できないだろうに」
それでも宰相として非情の決意を示さねばならない彼に多少の同情も覚えるラインであった。
「お茶、入ったわよ」
思わず嘆息したところへ、シエナが入って来る。三人分のお茶が用意されていたが、二人は居なくなってしまった。
「二人で飲もう」
「ええ」
ラインはシエナを誘い、応接セットへと移った。
「最近はなんだか、父さんと小父さんが仲が悪いみたいだよ」
「いろいろ聞いてるわ。帝国府と軍令部の間の軋轢なんですって」
「昔はあんなに仲が良かったのに」
「ええ」
ラインとシエナは昔を思い、今の状況を憂い、嘆息するのであった。
カーン=オルベニー大佐は一人、行きつけの酒場で酒を飲んでいた。
「ふぅ。一日の労働の後の一杯は格別だな」
度の強い琥珀色の酒を一気に煽り、満足そうな吐息を吐き出す。
熱い胃が焼けるような酒が五臓六腑に染み渡っていく。彼が幸福感に浸っていると。
「大変だ、カーン!」
彼を呼ぶ声と共に、青髪の青年士官が飛び込んできた。カーンの同僚であるオットー=セルバン大佐だ。
「どうした、オットー?なんかあったのか?」
「何を暢気に酒なんか飲んでるんだよ」
「暢気にも何もここは飲み屋だぞ?飲み屋で酒を飲まずに何を飲むってんだ?」
「出撃命令が出たんだよ!しかも大至急!」
「なんだって?………出撃ってどこへ………スタルナスか?」
「スタルナスとは不戦条約を結んだばかりでしょ!違うよ、南のアルティス荒野だよ」
「アルティス荒野だぁ?だってあそこは今第四軍が攻めてる筈だろ?」
「その第四軍からの救援要請が来たんだ。第一軍はただちに出撃、アルティス荒野のカラキシスに進撃して、第四軍を包囲している砂の民の軍勢を放逐して第四軍を救援するんだ」
「そりゃ大変じゃないか!こんな所に居る場合じゃないぞ!」
カーンはさっさと駆けだし、入り口で振り返って、
「どうした、オットー!早く行くぞ!」
「あ、ああ、うん」
オットーも頷き、二人は酒場を飛び出して行った。
カウンターの端に座っていた顔を真っ赤にした常連客の一人が、マスターに話し掛ける。
「なあ、マスター?」
「なんです?」
低く、渋い声で、マスターが応える。常連客は出口の方を眼差しで示して。
「今の赤髪の軍人さん………酒代を置いていかなかったんじゃないか?」
「ええ。そうですね」
「良いのか?」
「ええ。何処の誰だか知ってますし。それに、彼が金を持ち合わせていない事など然程珍しい事でもありませんから」
「ふぅん、そうか。なら―――」
「お客さんはちゃんと払ってくださいよ。常連全員ツケにされたんじゃ、やってられないですからね」
先に言われ、常連客は口を閉ざし、酒を一気に煽った。
第一軍は深夜にも拘らず、二時間余りで練兵場への終結を完了した。カーンのように軍務の後の一杯に興じていた者も居たし、中には女と布団の中に居た所を叩き起こされた者も居る。彼らの前に現れた軍令部総長兼第一軍団長の赤き鬼神ハーン=ハーベスト元帥は多くは語らなかった。ただ、今回の出撃の目的が多くの犠牲を出し、包囲され、身動きが取れなくなっている第四軍の救援にある事だけを淡々とした口調で話しただけだった。
「砂の民相手にフロレシア帝国軍が二個軍団を派遣するのか………」
「何言ってやがる。かつては五個軍団以上を派遣しても征伐できなかった相手だ」
「しかも今の族長は過去最高の戦士と名高いクシャス=カーンだからな」
「クシャスの長男ヴェネット=カーンは何年か前にコーデル=ハム軍団長が討ちとったんだったな」
「しかし、クシャスにはまだ三人息子が居るらしい」
兵士達がひそひそと雑談を交わす。彼らの全身に緊張が………漲っては居なかった。さすがに深夜なだけあり、しかも中には酒が入っている者も多く、緊張しろと言うほうが難しいだろう。ハーン=ハーベストが黒毛の馬に跨り、腰の鞘から剣を抜いた。ぎざぎざの刃の付いた凶悪な剣《炎の剣-ハリエストロ》ではなかった。業物ではあろうが、普通の剣だ。《炎の剣-ハリエストロ》は既に、息子のアレク=ハーベスト第一歩兵師団長に譲ってしまっているのである。無論、そのアレクも出撃する。
「出陣!」
『おおうっ!!』
赤き鬼神の号令に、十五万の兵が鬨の声を挙げた。
それ以後、深夜の出撃と言う事もあり、彼らは粛々と帝都を後にしたのだった。
2 赤き鬼神
帝都ルーガを出撃して八日後、帝国暦三三三年五月十六日。第一軍はアルティス荒野に築かれた前進基地である砦に到着していた。ザルカで第四軍の第十二歩兵師団と合流し、そこで補給物資を輸送する輜重隊と合流し、そしてこの砦で第十・第十一歩兵師団との合流を果たした。兵力はこれで十八万となった。ここからカラキシスまではさらに五日の行程だ。ここまでかなりの強行軍であった為、第一軍の兵の間には疲労感が熾りのように蓄積している。ハーンはすぐにでも出撃したかったが、この状態でカラキシスに駆けつけても満足に戦えるかどうかは疑わしく、仕方なく二日の休息を取る事にした。
第四軍がカラキシスに篭城してから半月余りの時が過ぎた。結局、カラキシス中の食料を駆り集めても二十日分程度の食料にしかならなかった。もう後数日分の食料しか残っていない。
「くそっ………いつまで蛇の生殺しをやってるつもりだ」
包囲を固めたまま、動かない砂の民の軍勢を物見台の上から眺め、すっかり痩せたレッセが吐き捨てる。彼らもただ無為にこの時間を過ごしていたわけではなく、すっかりカラキシスの様子は変わっていた。密集していた住居の内、使わない物を破壊し、その住居に使われていた柱などを使って、司令部の傍に物見台を建てたのだ。また街の周辺に堀を掘り、掘った土を盛って土壁を作り、その内側に馬防柵を立てた。象軍や砂甲竜に対してはさしたる威力も持たない馬防柵であるが、騎兵隊には効果がある。
物見台には常時四名の兵が登り、四方の砂の民を監視する。砂の民はほぼ全くと言って良い程動いていない。時々、南の方から隊商のような物がやってきて大量の食料を搬入しているぐらいの物だ。
「援軍はまだか」
「わかりません」
いきなり問い掛けられても、兵士に答えられる訳が無かった。
実は第一軍がザルカで合流した軍勢は第四軍第十二歩兵師団だけではなかった。ちょうどザルカに居たレイシア=パルディアス率いるパルディア王国軍だ。その兵力はおよそ三千。
ザルカの城内で開かれていた軍議の席上に、レイシア=パルディアスは亜麻色の髪を颯爽と靡かせながら甲冑姿で乗り込み、その場に居る連隊長以上の高級士官が見守る中、全く物怖じと言う物をせずに、赤き鬼神を見据えて、口を開いた。
「此度の第一軍の南方遠征に我がパルディア王国軍も加えて頂きたい」
「残念ながら、これはフロレシア帝国の―――」
「良いんじゃないか?親父、いや、軍団長殿」
第四軍団長のコーデル=ハム中将同様、フロレシア帝国の問題だと言う理由でパルディア王国軍の参陣を拒もうとしたハーンの言葉を遮り、容認論を吐いたのは赤髪の師団長だった。
「しかし―――」
「パルディア王国軍の武勇は貴族反乱の折に存分に発揮されている。参軍して頂ければ、貴重な戦力になりうると思うけど?」
「―――何を考えている、アレク?」
ハーンが鋭い眼光を息子の顔面に突き刺す。息子はその視線を軽く受け流して、
「別に。美人だなぁと思ってるだけだ」
あまりにもあっけらかんなアレクの物言いに、連隊長達の間から笑いが起こる。
レイシアは必要以上に真面目な顔で、
「必ずやお役に立てると思う」
「貴女の目的はなんだ?わざわざ自らに関係の無い戦場に出向く理由は?」
ハーンはレイシアと第四軍第十三歩兵師団長レッセフェルト=イングラム少将の関係を知らない。
「パルディア王国の復興を一刻も早く成さんが為。多くの戦場に参じ、名を上げる事こそ祖国復興の早道と心得ているのみ。これでも納得いただけないか?」
「構わないのでは無いですか?軍団長」
そう言ったのは赤髪の青年士官。アレクの元で歩兵連隊を指揮しているカーン=オルベニー大佐だ。
「僕もそう思います。それにパルディア王国女王陛下の嘆願を無下にお断りになれば、両国の間の軋轢となる恐れもあろうかと」
そんな、一種脅迫じみた台詞を吐いたのは青髪の士官。騎兵連隊を率いるオットー=セルバン大佐だ。彼の隣で、金髪の巻き毛をした少女が勢い良く立ちあがり、
「武勇の誉れ高いレイシア女王陛下と肩を並べて戦えるのなら、私は嬉しいです」
大人びているのか、そうでないのか微妙な台詞を吐く。第一騎兵師団長レフィナ=フュークル少将だ。
「俺も誉れ高き六騎士の面々とは一度会って見たかったところです」
そんな微妙に論点がずれてる事を言ったのは紫色の髪をした青年士官だ。
第一騎兵師団の連隊長で、オットーの同僚であるギルギッド=ルメイ大佐だ。
結局、多数決の結果、パルディア王国軍の参軍は決定された。一応、事後承諾の形ではあるが参軍の許可を求める使者が帝都に向けて送られたが、その返事を待つ事も無く彼らはザルカを発っている。
皇帝の返答を携えた使者はこの砦で追いつき、軍団長に面会して皇帝の意向を伝えた。その意向は、
『パルディア王国軍の参軍を許可し、なるべくその活動に便宜を諮られん事を余は軍令部総長に嘆願す』
と言う物だった。この返答によって、パルディア王国軍の正式な参軍が認められた。最も、この部隊を前線で使用しようとはハーンは全く考えていない。同盟国とは言え、所詮は異国の軍であり、しかもその内実は志願兵などの烏合の衆とも呼ぶべきものに過ぎない。そのような軍団に前衛を任せ、壊滅でもされれば全軍の勝敗にも拘る可能性がある。それ以前に、激戦地にこの部隊を送り込み、レイシア=パルディアス女王にもしもの事があれば、ハーン=ハーベストとしてはその責任を取らねばならなくなる。このような事情からハーンはパルディア王国軍を自分の手元に置く事を決め、その旨、レイシア女王にも通達した。参軍させて貰って居る立場の彼女からすればこのハーンの通達を拒む事は出来なかったのだった。
そして、時は現在に戻る。時刻は夜。レイシアは砦に設えられている物見台に登っていた。ここの守備を任されていた第十・第十一歩兵師団もただ無為に待機していただけではなく、途中で襲撃を受け破壊されてしまっていた砦の築城工事を続け、襲撃を受けたときと比べ、見違える程にしっかりとした砦になっていた。最も、この砦に到着したのは昨日であり、作り直される前の砦の姿を知っている訳ではないのだが。亜麻色の髪をアルティス荒野を渡る強風が靡かせる。
「綺麗な髪だな」
「声も掛けずに背後に忍び寄るなど、無礼とは思わないの?」
つっけんどんなレイシアの物言いに、背後からレイシアの肩に手を掛け様としていたアレクは軽く肩を竦めて、代わりに彼女に無色透明な液体が注がれたグラスを差し出した。
それを見たレイシアは受け取ろうともせずに表情を険しくする。
「第四軍が飢餓に苦しんでいるのを知っていて、酒を飲もうなどとどのような神経をしている?」
「酒じゃないよ」
「―――ではなんだ?」
アレクは相手が込めている肩の力を強制的に抜かすような無為自然な笑顔を浮かべて、
「水だよ。さすがに酒は手に入らなかった。ま、ここも戦場に近いからな」
そう言って、彼は水入りのグラスをレイシアに握らせた。
そう言って、自分もグラスを傾ける。しかし、レイシアの気のせいかどうか知らないが、アレクの持っているグラスに注がれている液体はどう見ても琥珀色だった。
「―――さて」
アレクはその琥珀色の液体を喉に流し込んで。
「君みたいな可愛い子がどうしてこんな所で物悲しい風に吹かれてるんだ?」
レイシアは警戒の眼差しを緩めずに、アレクの横顔を睨む。この師団長の噂は彼女も何度か耳にしている。あまり良くない噂も数多い。彼が有能だが女好きでもあると言う事も、彼女は知っていた。
「話す気はない」
「俺が居なければ陣に加われなかったんじゃないか?」
「恩着せがましいな。確かに感謝の念は持っているが、ただそれだけの事だ」
「まぁ、別に俺も陣に加えてやるから抱かせろなんて事を言うつもりはない。ただ」
「―――ただ?」
レイシアは静かに先を促した。僅かばかりの好奇心を持って。果たしてこの男が何と言うのか。
アレクは軽く肩を竦めて、
「参陣の目的は本当にあれだけなのか、と思っただけだ」
「どういう意味だ?」
「パルディアの復興を一刻も早く成したい………その為に、少しでも多くの戦場に赴き、名を挙げたい。確かに立派な目的だ。だがしかし、本当にそれだけか?」
「どうしてそう思う。亡国の王族、唯一の生き残りとして祖国の復興を願うのがおかしいのか?」
レイシアの眼差しに険が篭る。アレクは横目でそんなレイシアを面白そうに見て、
「別におかしくはない。俺も別にそれを疑ったりはしていない。ただ、目だな。お前の目は、別の物を見ているようにも思えた」
「目………別の物?」
レイシアが怪訝そうな顔になる。言われて居る意味がわからないのだろう。
アレクは琥珀色の液体を喉に流し込み、レイシアの目を真っ向から見据えた。
思わずレイシアが身を引くほどに、アレクの目は深い色合いを醸し出していた。
「その目は恋をしている女の目だ」
「ッ………!馬鹿な。何を根拠に」
吐き捨てながら、それでも、レイシアは激しい動揺を抑えられなかった。
「恋人が第四軍に居るんじゃないのか?」
「そんな者はいない。私はパルディアの女王として、パルディア騎士団の騎士として、祖国の復興のために粉骨砕身、働く事を望んでいるだけだ」
「そうかい」
「これ以上、お前と話していても仕方がないな。失礼する!」
やや赤くなった顔を背け、レイシアは物見台を足早に降りた。
一人取り残されて。アレクは口元に笑みを浮かべていた。
十日余りの包囲陣によって、包囲されているフロレシア帝国第四軍兵ほどではないにしろ、砂の民の軍勢にも疲労が見え始めていた。その大本営を、セトゥは意見具申するために訪れた。父にして、偉大なる戦士、カーン族の族長にして砂の民の盟主であるクシャス=カーンは数人の側近と共に、酒を飲んでいた。側近の顔色を見るに、既にかなりの酒量を呑み干しているようだが、父には全く酒に酔っている様子がなかった。
「何の用だ、セトゥ?」
クシャスはセトゥの用事などわかり切っていながら、わざとそう聞いた。
セトゥは父の対面の茣蓙に腰を下ろし、
「いつまで無為な包囲を続けるおつもりですか!」
のっけから、その口調には怒りの調子が含まれていた。未だに初陣の折に感じた興奮が体中の血を滾らせて居るのだ。この血を鎮める方法は一つしかない。戦いだ。それも、血沸き肉踊る程の。
兄ヴェネット=カーンを葬ったコーデル=ハムとの戦いこそ、その血沸き肉踊る戦いだ。
初陣では決着を着ける事も出来ず、撤退命令が出た。
今度こそ、決着を着けたい。兄の仇を、兄の象軍を引き継いだ自分こそが取りたい。
「このような包囲作戦に一体、何の意味があるのですか、父上!」
「控えろ!馬鹿者が」
クシャスの烈声に、セトゥはびくっと身を強張らせた。
「己の闘志をも御し得ないのは戦士として未熟な証。己の身を呪うならばいざ知らず、闘志を慰める為に戦を求めるとは言語道断だ。我ら砂の民は誇り高き、気高き戦士の血族。汚らわしき匹夫の蛮勇を振り翳すしか能がないならば、貴様に砂の民、カーン族の戦士を名乗る資格はないッ覚えておけッ!」
「ッ………!」
セトゥは唇を噛み締め、拳を握り締めた。全身が激しく震えている。
側近達はクシャスの激しい言葉に、何も言えずに二人を交互に見やって沈黙するのみ。
「まぁ、父上。何もそんなに頭ごなしに言う事もないでしょう」
そこへ、場違いなほど暢気な声が掛かった。大本営の入り口を成す幕を捲って、クシャスやセトゥともよく似た面立ちの男が入ってきた。腰には彎曲刀を佩いている。歩兵を指揮するクシャスの次男マーダ=カーンだ。父や弟と同じく、裸体を晒す上半身は陽に焼けた褐色を呈している。彼は四人兄弟の中で、最ものんびりとして居て、最も穏やかな性格をしていた。そんな彼を戦士として相応しくないと謗る者も居る。しかし、敵に突っ込む勇気だけが戦士に求められる素質ではない。マーダは空いていた茣蓙に腰を下ろすと、自分で杯に酒を満たして口に含んだ。先程まであった親子間の殺伐とした空気は、この青年の登場により、見事に粉砕されていた。
「包囲を続ける理由を、俺も知りたいですね。敵を誘き寄せる餌だとしても、このままでは挟撃に合いますよ?」
穏やかな口調だが、その瞳に灯る光に油断の影はない。ユドグーやセトゥが完全に猛将の分類に属するのに対し、このマーダは智将に属するだろう。カーン族にとっては珍しい気質であると共に、あまり尊重されない気質でもある。クシャスの四人の息子の内、ユドグーとセトゥはその勇を受け継ぎ、マーダは智を受け継いだ。ヴェネットはその双方を兼ね備えていたからこそ、その死を今尚多くの者が悼んで居る。マーダ本人もそれは自覚しているであろうが、格別、自分の勇気あるところを誇示しようなどとはしない。父の答えがわかっているかのように立て続けに酒を飲み、その度に手酌で酒を注ぐ。
「―――第四軍の餌としての目的は、ただ本国軍を誘致する事だけではない」
クシャスが、ようやく答えを口にした。セトゥがわからないと言うような表情をし、マーダが微かに口元を綻ばせる。今の言葉だけで、父の考えを見抜いた笑みだ。
「父上、それは―――」
「セトゥ。お前の最大の望みはなんだ?」
父にもっと詳しく聞こうとしたセトゥの言葉を、マーダが酒を舐めながら遮った。
弟が当然だと言わんばかりに答えを口にする。
「皇帝の首を取る事。この手で」
「その通り。皇帝の首を取る事ができれば、中原制覇と言う我が血族の宿願が成就するのも時間の問題となる」
「だけど、皇帝はフロレシア帝国の奥深く、帝都に居るんだからそこまで攻め込まなくちゃならないじゃないか」
「その為の、餌だ」
答えたのはクシャスだった。どうやら、話す気になったらしい。
と言うよりも、放っておいてもいずれマーダが答えを口にすると判断したのだろう。
どうせ知る事になるのなら族長である自分の口から言った方が重みがある。
「餌………って、まさか敵の本国軍を撃退して、皇帝自身で助けに来させると言う事?でもまさか、皇帝自身が来るなんて事―――」
「皇帝ラインハルト一世は己が親友の窮地を救うため、僅か四千五百と言う小勢のみで、ルシタニアへ赴いている。自分の臣民である第四軍兵を見殺しにする事などありえない。まして、本国軍すら壊滅したとあれば尚更自ら近衛騎士団を率いて出張ってくる」
クシャスの言葉を、マーダが補足する。セトゥは己の父の恐ろしさを改めて実感する思いだった。敵の砦を叩き、カラキシスまで引きずり込んで押し込め、救援に来た本国軍さえも撃滅する。それでも第四軍の包囲は解かず、攻撃する事もなく、皇帝自らがやってくるまで包囲を続けると言うのだ。第四軍の兵は食料も無くなり、干物のように乾涸びて死ぬだろう。皇帝がやってくるまで持つとも思えなかった。
(それでも………皇帝はやってくるのだろうか………己の臣民を助ける為に………危険を犯して)
セトゥには想像も出来ない話だ。噂に聞くラインハルト一世は少女と見紛う程華奢な体躯をしているのだと言う。果たして、そんな少年皇帝がわざわざこのアルティス荒野の奥深くまでやってくるのだろうか。信じられなかった。
「どちらにせよ、やってくる本国軍を撃滅しなければ、皇帝を誘き寄せる事は出来ない。セトゥ」
「はい」
「お前の働きに期待する。ラーマ=ヤーマの加護がお前を護るであろう」
「はい!」
「マーダ」
「はい」
「お前は歩兵を率い、第四軍をカラキシスに押し込めておけ」
「はい」
父の命令を、セトゥは気負いたって、マーダは微笑を以って、受け取った。
3 援軍到着
帝国暦三三三年五月二十三日。
遂に、第四軍が待ち望んでいた援軍が姿を現した。フロレシア帝国の国旗、《力強き銀獅子》と共に翻るは鮮やかな朱色の元帥旗。物見台でこの援軍とその旗を発見した兵はまさに文字通り、狂喜乱舞した。
「援軍だ!援軍が来たぞ!第一軍だ!赤き鬼神が、俺達の救援に来てくれたぞぉっ!!」
食糧が遂に無くなった翌日の事だ。兵達の表情には疲労と不安と絶望と諦念が渦巻いていた。
兵だけではない。下士官も、将校も同じような物だった。昨日は再び幹部級会議が行われ、このまま餓死するよりも兵達の体力が残って居るうちに最後の戦闘を試みるべきでは無いかとの意見が大勢を占めるほどにまで、彼らは衰弱していたのだ。最後の戦闘とは即ち、全滅を意味している。もしくは降伏だったが、それを言い出す者はいなかった。しかし、この見張り兵の報告が、彼らの表情からそれら一切の負の感情を消し飛ばした。代わりに彼らの表情にはこれで助かると言う希望の輝きが現れた。
軍団長コーデル=ハムはすぐに六十余人の高級指揮官達を本営に参集した。
その間も、報告は続々と齎される。第一軍はカラキシスの北方、およそ四キロ地点に布陣。
カラキシスを包囲していた砂の民の軍勢は歩兵十二万を残し、残る騎兵・象兵・砂甲竜兵等八万余りが移動し、第一軍とは一キロ余りの距離を隔てて対陣。
そして、第一軍の中に、パルディア王国の国旗である《剣と盾》の旗が見えると言う報告も届いた。
「レイシアが………」
レッセはその報告を聞いて、微かに口の中で呟いた。
(俺を助けに来たのか………)
レイシアが聞いたら、自惚れも甚だしいと怒りそうな事を考えながら、レッセはハムを見やった。
本営には熱気が渦巻いていた。師団長も連隊長も、口々に出撃し、包囲陣を脱し、敵の本隊を第一軍と挟撃するべきだと述べ立てた。全滅を賭すなどと悲愴なまでの表情で口にしていた昨日と比べて、言って居る事は同じでも気分が大いに異なる。挟撃すれば勝てる。彼らはそう信じているのだ。
レッセフェルトも、口を開いた。
「このまま助け出されるのをただ無為に待っていたんでは第四軍の名折れだ。ここは打って出るしかないと心得る。敵は歩兵のみ。騎兵師団の機動力を以ってすれば包囲を突破するのもさほど困難を伴わないだろう」
美髯将コーデル=ハムはすぐにこの手に乗るに違いない。ただ助け出されるのを待つだけなのを一番嫌って居るのは他でもなく彼なのだから。
しかし、そんな大方の予想に反し、ハムは難しい表情を崩さなかった。
「打って出るのは良いが、砂の民は包囲に十二万を残したままだ。こちらはおよそ十万。確かに兵力的には拮抗し、騎兵の数では勝っているが、敵は豊富に補給を受けていたのに対し、こちらは少ない食糧を節約しながら救援を待っていた為に兵に疲労が溜まっている。包囲を破れるかどうかは疑問だ」
確かにそれは正論だった。兵力が拮抗していれば兵の強さで戦は決まる。兵の強さでも同程度ならば、後は士気の高さ、兵の疲労度で戦の勝敗は決まる。援軍、しかも赤き鬼神に率いられた第一軍の到着によって、第四軍の兵の士気は上がって居る。兵の表情を見る限り、疲労も吹き飛んだ様に見える。しかし、疲労が消えたわけではないのだ。兵達が忘れているだけで、その体には疲労がしっかりと蓄積されて居る。そのような状態で敵と戦えば、包囲を突破できるかどうかすら危うく、ただ多くの犠牲を払うだけに終わる可能性だってある。
「軍団長らしくもない物言いだな………年を取って、守りに入ってしまったのか?」
レッセフェルトは溜め口で聞いた。無論、いくら仲間気質な第四軍だとしても限度はある。
上官を侮辱するような言動は禁じられている。
「…………」
コーデル=ハムは沈黙を保った。レッセが何を言うか、聞こうと言う体勢にも見えるし、何と言われようとも意見を変えないと言う態度とも受け取れる。レッセフェルトは席を蹴って立ち上がった。
「二十日余りの篭城戦がそれほど骨身に沁みたってのか!」
それまで騒いでいた師団長や連隊長をも黙らせる烈声を放つ。
普段のやる気ない彼とは異なる、武将としてのレッセフェルトがそこにいた。
「控えろ、レッセフェルト!軍団長に対し、無礼にも程があるぞ!」
溜まりかねて、別の師団長が声を荒らげる。レッセフェルトは一瞬、面倒臭げな輝きを瞳に宿し、その蜂蜜色の髪を片手でくしゃくしゃと掻き混ぜて。
「コーデル=ハム中将は勇猛な将だった。違うのか?俺の思い過ごしか?」
「無論、勇猛な将だ。閣下は帝国軍中にあっても、五本の指には必ず入る猛将だ。それは、閣下の薫陶を受けた貴様が一番わかっているだろう!」
「その通りだ。だからこそ、失望を覚える。俺の知っている中将ならばこのような場で、味方が敵と戦うのを指を咥えて見守るなどと言う事、するはずがない。全兵力を用いて敵に突撃し、味方と合流しようとするはずだ―――」
「レッセフェルト!」
レッセの言葉を遮ったのは、先程以来沈黙を保っていたハムだった。
レッセフェルトは立ち尽くしたまま、ハムを見据えた。
「貴様の意見はわかった。だが、出撃は、無い」
簡潔に告げ、ハムは席を立った。
「中将!」
「くどいぞ、命令には従え。今は興奮した兵の気を鎮め、体を休ませ、来るべき時に備えさせろ」
軍団長の命令を、全ての師団長、連隊長が冷静な表情で聞いた。
レッセフェルトとハムとのやり取りによって、興奮していた彼らは冷静さを取り戻したのだ。
本営を出て、レッセは自分が寝所とした民家に部下の四人の連隊長を呼んだ。
「聞いての通りだ。命令は待機。体を休ませるよう計らうんだ。俺も寝る。出撃が無いんじゃ、俺の出番も無いからな」
この投げやりな命令に、四人の連隊長達は揃って苦笑を浮かべ、三人が出ていった。
残ったのは連隊長の中でも、最も古株のサンチェ=ポルトフ大佐だ。
軍人らしからぬふくよかな丸顔に、ニコニコと笑みを浮かべて居る。
「―――なんだ、サンチェ?言いたい事があるなら言えよ」
むすっとした表情で横になりながら、レッセが聞く。本当に寝る気なのだ。
「師団長って、演劇もなかなかの物なんですね。始めて知りました」
「…………」
「皆の気を鎮める為に、軍団長辺りと示し合わせた寸劇でしょう?今のは」
「サンチェ、おまえなぁ………」
レッセフェルトは上半身を起こし、先程の軍議の場とは打って変わったやる気の無い表情で呻いた。
「こんな簡単に種明かししてどうするんだよ。ここはもっとハラハラしてから、土壇場でばらすべきところだろう?」
「はぁ。どうも間が悪いんですよ、俺は。よく家内にも言われます」
「ったく、おまえは。もう良い。お前も下れ。兵を休ませろよ」
「了解」
にこにことしたまま、サンチェは民家を出て行った。
(ちっ。もう二度と芝居なんかしないぞ)
レッセフェルトは勢い良く横になると不貞腐れたように鼾を掻き始めた。
「八万だけで俺達をどうにかしようとは―――」
「舐められたもんだ、ですか?」
「あのな、リーナ。人の台詞を取るなよ」
「それは失礼しました」
言葉では謝りながらも、リーナは全く反省していない証に微笑を浮かべていた。
騎馬の背に跨りながら、アレクはそんなリーナを横目で睨み、嘆息した。
視線を前に戻し、一キロほどの距離を開けて対陣している砂の民の軍勢を睨み付ける。
相手が数で劣る事を考え、第一軍は鶴が羽を広げた形を見立てた陣形、通称鶴翼の陣を敷いていた。
左翼は第二・第四・第六の三個歩兵師団。最左翼は第二歩兵師団が務める。
右翼は第三・第五・第七の三個歩兵師団。最右翼は第三歩兵師団が務める。
敵の突撃を真っ向から受け止める事になる中陣には左翼側に第八歩兵師団、右翼側に第九歩兵師団を配し、中央部にはアレク=ハーベスト少将の率いる第一歩兵師団。
その後ろには本軍としてハーン=ハーベスト元帥が直接指揮する第十歩兵師団と第十一歩兵師団。ここにレイシア=パルディアスのパルディア王国軍も含まれる。
そのさらに後方には第十二歩兵師団と第十三歩兵師団が後備軍として控える。
第一から第四までの四個騎兵師団は第一騎兵師団長レフィナ=フュークル少将の統一指揮の下、遊軍として戦場全体が見渡せる右翼側の丘の上に布陣した。第四軍所属の三個師団は敵の動き次第で戦場に投入すべく予備隊として後方にある。かなり中央が分厚い鶴翼の陣である。
これに対し、砂の民側は長蛇の陣を敷いて居る。
先陣に最も攻撃力に優れる砂甲竜四十体を配し、そのすぐ後ろにセトゥ=カーン率いる象軍三万。
その後方にユドグー=カーンの騎馬隊二万五千。最後尾にクシャス=カーンの騎馬隊二万五千だ。
その作戦目的は明快至極。そのずば抜けた攻撃力でフロレシア帝国軍の中央部を食い破り、一気に勝敗を決すると言う物だ。勝負を決めるのは、フロレシア帝国軍の鶴翼の陣による包囲攻撃に、砂の民の軍勢が耐えられるか否か。そして、砂の民の突撃に、第一軍の中央集団が耐えられるか否かにある。
対峙の均衡を破ったのは、砂の民側に響いた攻め貝の勇壮な響きであった。
一瞬の間を開けた後、先頭の巨大な砂甲竜が重々しい動きで突撃を開始する。
「来たぞ。準備は良いか?」
アレクの号令に、リーナが頷く。既に各連隊の弓隊が矢を射掛ける準備を整えている。
砂甲竜の攻撃力は生半可な物ではない。竜の眷属であるだけに、その皮膚は堅く、容易に刃を通さない。短時間で無力化するには騎手を射殺すのが最も早い。
馬十頭分はあろうかと言う巨体が、二本の太い脚に支えられ、荒野を駆ける。
その動き自体、決して速くはない。速くはないが、歩幅が大きいので、実際の移動速度はかなりの物だ。
しかも、巨体である。その脚が地面に振り下ろされる度に、魂までが震えそうな地響きが第一軍兵の身を揺らす。数は多くない。精々が四十頭前後―――。しかし、その地響きを伴う突進は見る者をしてその姿を数倍、数十倍であるかのように錯覚させる。
「まだだ。まだ射るな………」
アレクは低い声で、傍らに居る弓隊指揮官に命じる。
全連隊及び、第一師団の左右に居並ぶ第八・第九の両師団も、アレクの直接指揮する第三歩兵連隊の斉射を合図に矢を放つ事が予め決められている。砂甲竜隊に続き、象軍もまっしぐらに中央目指して突進してくる。砂甲竜ほどではないにしろ、象も十分に巨大な動物だ。
その足音も、重く響く。砂甲竜や象に比べ、その前面に立ち塞がる人間の何と矮小な事か。
先頭の砂甲竜が咆哮を上げ、巨大な脚で地を蹴り潰しながら矢の射程内に飛び込んできた。
「まだだ、耐えろ。今撃っても当らん………まだだ」
「師団長!」
弓隊指揮官が悲鳴じみた声を挙げる。砂甲竜が巨大なために、まだ十分な距離があるにも拘らず、すぐ至近距離にまで迫って居るように見えるのだ。
兵達の脳裏を、踏み潰される己や戦友達の姿が掠めた。恐怖で、槍や剣を握る手に力が漲り、汗で手が滑る。自然と腰が引け、逃げ出したくなる。
砂甲竜はさらに迫り―――咆哮を上げた。
戦意が砕けそうになる程の、獰猛な咆哮を。だが、フロレシア帝国側にも咆哮と紛う程の大声を張り上げた男が居た。誰あろう、アレク=ハーベストその人である。恐怖に負け、命じたのではない。確実に敵に被害を与えられる距離にまで、砂甲竜が踏み込んできたのだ。
「放てぇっ!!放ち捲れぇっ!!」
アレクの命令を受け、第三歩兵連隊の五百人の弓兵が一斉に矢を放った。
続いて、第一歩兵師団全体、二千人の弓兵が矢を空へと放った。
さらに、第一歩兵師団の両脇を固める第八・第九の両師団からも矢が撃ち放された。
三個の師団を合わせ、六千本もの矢が空を真っ黒に染め、ざざぁっという夕立のような音を上げて四十体の巨獣に降り注ぐ。次々に騎手がその身に矢を受け、砂甲竜の広い背中から転げ落ちる。
砂甲竜自身もその身に何百本もの矢を受け、苦痛と激怒の悲鳴を挙げた。
騎手を失い、怒りに我をも失い、統制を失った砂甲竜が第一歩兵師団の先頭集団、カーン=オルベニー大佐の第一歩兵連隊と激突した。数十人の兵が体当たりを受け、虚空に跳ね飛ばされる。
カーンは戦線の先頭に飛び出し、己の精霊具、《風の槍斧-ヤーナス》を構えた。
「風の精霊よ!我が呼びかけに応え、刃の連なりたる風を巻き起こせ!」
地面に柄を突き刺し、刃を天に掲げた精霊具が微かに白く輝き、その槍斧を中心にして、風が巻き起こった。荒々しいまでの鋭さを持つ風が砂甲竜に襲いかかる。その堅い皮膚を突き破り、その身を引き裂く。激痛に顔を歪め、砂甲竜がのた打ち回って、隣の砂甲竜に体当たりした。
どつかれ、憤怒の咆哮を上げた砂甲竜が己に体当たりをかました砂甲竜の首筋に噛み付く。
騎手を失った砂甲竜の暴走は止めようが無い。フロレシア帝国軍も甚大な被害を被っているが、砂甲竜の後続に続いていた象軍は暴れる砂甲竜に格好の標的とみなされ、その強大な力を遺憾なく発揮する体当たりを受け、先頭の集団が混乱に陥ってしまった。
「砂甲竜を避け、敵に突撃しろ!」
白き象に乗ったセトゥ=カーンが命じ、象軍は方向を転じて、第一師団の前面で暴走を続ける砂甲竜を迂回し、そのセトゥから見れば右側である第八歩兵師団に突撃して行った。
象軍の後方に続くユドグー=カーンの騎馬隊二万五千は混乱に巻き込まれる事も無く砂甲竜を迂回し、セトゥの象軍とは反対側に当る第九歩兵師団に襲い掛かって行った。
戦線は中軍全体に広がり、そして、その全てに亘ってフロレシア帝国軍が押されていた。
第一歩兵師団は僅か四十体余りの砂甲竜の暴走を止める事が出来ず。
第八歩兵師団は象軍の攻撃力の前に次々に押し潰され。
第九歩兵師団は騎馬隊の高機動力の前に薙ぎ倒される事葦の如き有様。
クシャス=カーンの部隊だけが、戦闘には加わらず、様子を窺っていた。
「よし。袋を閉じろ」
戦場全体を伝令の報告によって事細かに把握し、ハーン=ハーベスト元帥は左翼と右翼に敵の側面を突くよう命じた。鶴が開いていた翼を折り畳むように、敵を包囲して三方向から攻撃するのだ。
伝令による命を受け、両翼を担当する六個歩兵師団が足並みを揃えて動き出す。
これを見て、ユドグーとセトゥの兄弟はますます猛って猛然と攻めた。
中軍さえ突破してしまえば、包囲の意味は無い。
「―――続け!」
ここで、それまで沈黙していたクシャス=カーンの部隊が動き出した。
猛然と馬を駆り、何と未だに砂甲竜が暴れて居る真正面へと突っ込んだのだ。
騎馬隊の突撃に、砂甲竜はさらに興奮し、滅茶苦茶に暴れ、その余波を受け、騎兵が次々に踏み潰され、虚空に弾き飛ばされ、命を捨てて行くが、クシャス=カーンは部隊を進ませ続けた。
やがて、彼らは砂甲竜を突破し、フロレシア帝国軍第一歩兵師団に攻め掛かった。
まさか砂甲竜を突破して攻めては来ないだろうと、兵達は油断し、その意識は左右の味方を攻めて居る敵に向いていた。そこを突かれた。完全な不意打ちだ。フロレシア帝国軍兵からすれば、突然、砂甲竜の巨体の向こうから雲霞の如き大軍が現れたような物である。
第一歩兵師団が一気に攻め込まれ、泡を食ったように動揺し、崩れたった。
第一・第二の両連隊を突破したクシャス=カーンと第三連隊が衝突した。
そして、アレク=ハーベストは見た。大きく湾曲した剣を振り回し、当るを幸い薙ぎ払いながら進んでくる敵の姿を。カーン族の族長にして偉大なる戦士。そして砂の民の盟主。クシャス=カーンの姿を。
その瞬間、アレクは馬の脇腹を蹴り、馬を駆けさせていた。
「アレク!」
リーナが慌てて叫ぶが、聞こえない。親父から譲られた《炎の剣-ハリエストロ》を鞘から抜き払い、彼は敵をその目にしっかりと捉えながら吼えた。
「クシャス=カーン!!俺が相手だ!!」
「アレク!!」
リーナは彼の名を叫び、己も馬腹を締め付けた。しかし、横合いから敵に割り込まれる。アレクとの間を寸断されて、リーナのほっそりとした面上に複雑な色が過ぎる。
「邪魔を………しないでっ!」
彼女が持った大鎌を振るえば、カーン族の戦士達の首が幾つも血の尾を引きながら空を飛んだ。
アレクとの間を塞ぐ敵を薙ぎ倒しながら、リーナは叫んだ。
「アレクッ!!」
4 血戦
「喰らえッ!!」
アレクが吼える。その身に内在する闘志を感じ取り、彼の携える精霊具、《炎の剣-ハリエストロ》がその闘志を糧に己を奮い起こす。
赤き刃が紅蓮の炎を噴き出す。炎は集束し、人の頭程の大きさの火球が放たれた。
「ウオオオッ!!」
その身に彫った刺青の如く、獅子の様な咆哮を上げ、クシャスが剣を振り上げた。そして振り下ろす。凄まじいまでの剣風が巻き起こり、アレクの放った火球と衝突した。爆発。虚空で炸裂した火球はその破壊を四方に及ぼす。砂の民の騎兵隊が薙ぎ倒され、フロレシア帝国軍の歩兵が弾き飛ばされる。そこに、空虚な空間が生まれた。まるで、二人の戦士の決闘の場だった。互いにその空間に馬を乗り入れさせ、アレクとクシャスは対峙した。
カッと目を見開き、クシャスはアレクの手の中にある、炎を滾らせる剣を見た。
「その精霊剣は赤き鬼神の《炎の剣-ハリエストロ》ではないのか」
「へっ。よく知ってるじゃないか。だが、この剣の今の持ち主は親父じゃない。このアレク=ハーベスト様だ。覚えとけ」
「赤き鬼神の息子か」
「いかにも」
「ならば息子を失う痛み、赤き鬼神にも味合わせてやろう」
クシャスが馬の腹を猛然と蹴った。馬が高い嘶きを上げ、アレクに迫る。
獅子をその身に彫った偉大なる戦士クシャスは大きく刃が湾曲したカトラスを振り上げ、振り下ろした。
アレクが《炎の剣-ハリエストロ》で受け止める。凄まじいまでの金属音と火花が散り、重い衝撃がアレクの腕を痺れさせた。鋭い剣風が、アレクの鮮やかな赤い前髪を切る。
「うぬぬっ………!」
「っ………なんて、力だ」
クシャスが片手で力任せに押してくる剣を、アレクは刃に左手も添えて、渾身の力で押し返そうとする。
だが、それでも、じりじりとカトラスの湾曲した刃がアレクに迫る。
「アレク!」
声と共に、漆黒の風が吹いた。駆けつけたリーナが問答無用でクシャスに向け、死神の鎌を思わせる巨大な大鎌を振るったのだ。咄嗟にアレクは首を竦め、クシャスは大きく後ろに仰け反っていた。
その目がしっとりとした黒髪を虚空に広げながら自分の横を駆け抜ける女を見た。
柔和な顔付きをしていたが、今は戦場の緊張感にきつく引き締められている。
クシャスは体勢を素早く立て直すと、カトラスを両手で握り、振り下ろした。
「くっ―――がっ!!」
両手で受け止めようとしたアレクだったが、片手でも押されていた物を両手で押さえられる訳も無く、その強大な膂力に押されて馬上から転げ落ちた。そのまま踏ん張っていてはやられると判断したアレクが自ら落ちたのだ。目標を失ったカトラスを虚空で静止させ、クシャスは一瞬辺りに視線を配った。
彼の率いる騎兵隊の突撃により、第一歩兵師団は完全に崩壊していた。
その崩壊によって、動揺した両側の第八・第九歩兵師団もまた崩れ立って居る。
既に両翼の六個歩兵師団がセトゥの象軍とユドグーの騎兵隊の側面を突いているが、二人とも予めわかっていただけに冷静に対処していた。部隊の一部を分離し、これに当らせたのだ。無論、圧倒する事は出来ない。しかし、抑え込むだけで十分。本隊の攻撃で中軍さえ突破してしまえば、包囲は崩れるのだから。そして、包囲が崩れるのも時間の問題だった。
アレクやリーナは善戦したが、善戦したが故に、敵中に取り残されると言う危険な状況になりつつあった。彼らを救おうと第一歩兵師団の兵も奮闘するのだが、勢いに乗るクシャス騎兵隊の突撃の前に、踏みとどまる事すら難しい状況では敵を押し返して二人を助ける事など不可能に近い。
「戦士らしく、潔く死を選べ」
戦況を見て取り、クシャスは告げた。その瞳に嘲りの色も哀れみの色も無く。一片の油断する心とて無い。冷徹に戦況を分析し、判断したのだ。目の前に居る赤髪の将が生き残る術は無い。
剣技の才には恵まれているようだが、それとて彼をも乗り越えるほどの物ではない。
「へっ。だとしても、最後まで戦うさ」
馬を失いはしたが、まだ《炎の剣-ハリエストロ》はその手の中にある。
そして、赤髪の若き少将の瞳には一片たりとも諦念と言う物が無かった。
「アレク!」
馬を回して近づいてきたリーナが差し伸べる手を掴み、リーナの馬に乗る。
「どうするつもりだ?」
クシャスが微かに眉を顰めながら聞く。この状況を打開する方策など無い。しかし、アレクだけではなく、彼を己の馬に乗せた一人の女にすら、死を予想しているような表情の翳りは無かった。
そして、クシャスの命をかつて何度と無く救ってきた戦士としての勘が、危険信号を灯していた。
―――ここは危険だ。今すぐ馬首を翻し、逃げろ、と―――。
クシャスはアレク達を常に視野に収めながら、もう一度見える限りの戦場を見渡した。
第一師団はもはや整然とした陣列を組む事すら出来ず。第八・第九の両師団もずるずると後退しながら、緩やかに混乱と絶望が広がっていく状態。側面を突こうとする六個の歩兵師団はそれぞれ象軍と騎兵に抑えられ、本隊に突っかかる事も出来ない。丘の上に布陣した騎兵隊は―――。
「待ってたんだよ」
「何?」
騎兵隊から視線を目の前の赤髪の武将に戻し、クシャスは怪訝そうに聞いた。
その彼の前で、アレクが右腕を掲げた。その手に持つのは、真紅の刃の剣。
《炎の剣-ハリエストロ》。赤き鬼神がその異名を得るに至った上で、その剣の存在を欠く事は出来ない。
だが、先程自分はこの剣から放たれた攻撃を剣風で受け止めた。恐れるには値しない攻撃だ。
「この剣の攻撃範囲は広い。味方に居られちゃ、攻撃する事も出来ない」
口の端に笑みを浮かべ、アレクが宣告する。例えようも無い怖気が、クシャスの背を駆け抜けた。
(この男は己の命をも投げ出し、わざと敵中に残ったと言うのか!?)
周りに満ちる砂の民が、一斉にアレクに襲い掛かろうと駆け寄る。
次の瞬間、《炎の剣-ハリエストロ》が強い輝きを放った。真紅の輝きを。
「ッ………!!」
クシャスは慌てて馬を横倒しにし、その影に潜り込んだ。偉大な戦士であり、全砂の民の盟主である彼が子供のように体を丸め、得体の知れない恐怖に身を震わせていた。そして、思い出していた。《炎の剣-ハリエストロ》の本当の力を。ラスカーナ史書にも出てくるその伝説を。火山を爆発させ、街を一夜にして焦土と化さしめた火の神とも恐れられる火の上級精霊であると言う事を。
戦場を赤い輝きが満たした。閃光はますます濃度を濃くし、輝きはだんだんと青く、そして白くなっていく。臨界点を越えた次の瞬間、輝きは破裂し、凄まじい炎の奔流となって砂の民の軍勢を薙ぎ払った。
クシャスの二万五千の騎兵隊が。四十体の砂甲竜が。次々に発火し、炭化して行く。
「おおおおおっ………!!」
炎熱。灼熱。赤熱。どのような言葉を使っても表現しきれないような熱が全てを焼き尽くすかの如く暴れ回る。クシャスは馬の影に身を伏せ、少しでも身を低くしようと全身でもがいて土を掘っていた。
馬の肉が焼ける嫌な匂いが鼻腔を貫く。全身の毛が炭化し、体の表面の水分が蒸発して行く。ようやく自分の半身を隠せるほどの穴を掘るとクシャスはその中に半身をうずめ、身を縮こまらせてこの地獄が過ぎ去るのを待った。
「ラーマ=ヤーマよ、我に汝の加護を与え給えッ!」
炎がだんだんと鎮まって行くに連れ、一変した戦場の様子が露になっていく。
ハーン=ハーベストが赤き鬼神と恐れられ、畏怖されたのはこの精霊具の威力ゆえの事。しかし、その威力ゆえ、戦場で振るわれる事はほとんど無い。振るえば、味方をも巻き込むのが必定だからだ。
「我が息子ながら、危ない賭けをする奴だ………」
本軍で騎馬に跨り、戦場を眺めながら、ハーン=ハーベスト元帥は渋面を浮かべていた。
精霊攻撃を繰り出す前に討ち取られ、精霊具を奪われていたかもしれない。
いやむしろ、そうなる可能性の方が大きかったはずだ。だが、アレクはその賭けに勝った。
アレクの立つ場所から、一直線に幅二百メートル余りの地面が炭化していた。焦げ跡はどこまでも真っ直ぐ伸びている。その枠から外れていたとしても、高温の風に嬲られ、砂の民の軍勢には大きな被害が生じていた。実際に死んだのはどれほどかわからない。千か二千か、五千か一万か。被害がそれだけで済んだのはひとえにアレクがまだ精霊の力を抑え込むのに未熟だったからだ。溢れ出る精霊の力に負け、攻撃を放った時の衝撃で仰け反ってしまったのだ。炎は空に向かって放たれた。それでも、甚大な犠牲が出た。全てが燃え尽きた範囲から少し離れた場所で、炭化した馬が向こう側から押されて崩れた。
ぼろぼろと崩れた馬の向こう側で立ち上がったのは、全身に火傷を負ったクシャス=カーンだった。
彼は耐え切ったのだ。この地獄の業火もかくやと言うべき攻撃を受けて。それだけで彼は偉大と呼称されるに十分たる肉体を持っている事を証明して余りあるであろう。その精霊の破壊力に、誰もが動きを止めていた。敵も、味方も。攻めるのを忘れ、守るのも忘れた。最初に動いたのは、この戦場を見下ろしていた者達だった。
「敵の退路を断つわよ、突撃!」
「了解」
「やっと出番だぜ!」
豪奢な金髪の巻き毛をした十六歳の少女の命令に、呆然としていた部隊がはっと我に返って動き出す。
青髪と紫の髪、二人の青年士官がそれぞれの連隊を率い、陣取っていた丘を駆け降りて行く。
馬の蹄が立てる地響きの音が戦場を揺らし、茫然自失としていた者達に今自分達が置かれている状況を思い出させた。クシャスの周りに瞬く間に騎兵隊の生き残りが集い、主人を失った馬の手綱を族長に渡す。クシャスは頷き、馬に跨って、唇を噛み締めた。いくら勇猛な砂の民でも、このような攻撃を見せつけられては戦意を喪失せざるを得ない。一度退き、体勢を立て直す必要があった。
それに、一度停滞した攻撃を再び再開させる事など難しい。戦場は一変していた。
それまで攻め捲り、フロレシア帝国中軍を突破し、壊滅させる寸前まで攻め込んでいた狼は逆に包囲され、追い立てられる兎になってしまった。
「撤退だ。ユドグーを殿軍に。全軍、カラキシスのマーダの元まで後退する。続け!」
断腸の思いで命を発し、クシャスは馬の腹を締めた。進撃よりも後退の方が難しい。クシャスからの命令を受け、ユドグーは体勢を立て直し、追撃しようと動きだしたフロレシア帝国中軍に果敢な攻撃を断行した。攻撃しながら退くのだ。セトゥは象軍を纏め、クシャスの騎兵隊に続いた。
「くそっ………後一歩と言うところで!」
奥歯が砕けそうなほどに噛み締めながら、それでもセトゥは表面的には冷静さを装って命令を発した。
包囲しようと側面攻撃をしてくる六個の師団の攻撃をいなし、弾きながら、砂の民の軍勢は後退して行く。その頭をレフィナ=フュークル、オットー=セルバン、ギルギッド=ルメイの率いる二万の騎兵が塞ごうとする。三人とも、精霊具を持ち、精霊攻撃を繰り出す。
レフィナ=フュークルの《雷神槍斧-サンダーボルト》が雷撃を放ち、
オットー=セルバンの《獣の槍-ハンニス》が牙狼を召喚し、
ギルギッド=ルメイの《炎獣槍-フレイムスピア》が小さな火球を無数に生み出す。
そんな激しい精霊攻撃の渦中を、クシャスを先頭にして砂の民の軍勢は駆け抜けた。《炎の剣-ハリエストロ》の精霊攻撃に比べれば彼らが放つ下級精霊の攻撃など何ほどの事も無い。その隊列は最初こそ乱れていた物の、走りながらどんどん整えられていく。それを見て、レフィナは無理な追撃を思い止まった。アレクの精霊攻撃によって、彼らは死兵となった。これはミト=ヴァレンツェの率いる死せる軍団の事ではなく、死をも覚悟した軍団の事だ。人間は死をも覚悟すると通常の何倍もの力を引き出す事ができる。そのような状態にある軍に手を出せば、痛い目を見るのはこちらなのだ。クシャス=カーンの騎兵隊に続き、セトゥ=カーンの象軍がやってきた。レフィナは騎馬隊を率いて、この象軍に襲い掛かった。しかし、圧倒的な体格差を誇る象軍に対し、騎馬隊の突撃は大した功を持たない。セトゥ=カーンの跨る白象を先頭にした苛烈な突撃によって、騎馬隊は簡単に陣を崩され、道を開けざるを得なかった。そうしなければ、騎馬隊は崩壊していたかもしれない。セトゥ=カーンの象軍の後に続いて、殿軍を務めるユドグー=カーンの騎馬隊が左右後方の三方向から追い縋る敵と激戦を続けながらやってきた。
レフィナはオットーの第三連隊に左斜めから、ギルの第二連隊に右斜めから突撃させ、己は残る三個連隊を率いて真正面からこの騎馬隊に襲い掛かった。完全に包囲されて居る形となり、ユドグー=カーンの騎馬隊は死に物狂いで戦った。しかし、次々にその数は打ち減らされていく。ユドグー=カーン自身、敵から奪った槍を振るって戦い続けていた。激戦はその後も一時間以上続いたが、遂にユドグーはフロレシア騎馬隊を突破して、撤退することに成功した。その時、周りに追随して居る騎兵隊は僅か数百騎に過ぎなかった。とりあえずは、フロレシアの勝利と言う形にはなったものの、被害は大きかった。
特に第一歩兵師団ではルシタニアでも戦傷を受けたカーン=オルベニー第一歩兵連隊長が肩を射られ、激しい出血により意識不明の重体。アレク=ハーベスト師団長も精霊攻撃の制御のために体力を使い果たし、あの後すぐに失神してリーナの馬からも転げ落ち、リーナの手によって後方に運ばれていた。
全軍を通して、連隊長以上の戦死者だけでも二十名余り、下士官・兵を合わせれば戦死は一万五千余、戦傷は六千余に昇る。単純計算でも二個師団が潰された事になる。被害が無かったのは、ハーン=ハーベストが直接指揮していた第十歩兵師団と後備軍の第十二、第十三歩兵師団、それに本軍に編入されていたパルディア王国軍や遊軍として後方待機していた第四軍所属の各師団だけだ。レフィナが統一指揮していた騎兵師団も、撤退しようと死に物狂いで戦う敵の前に立ちはだかった為に大きな犠牲を出した。戦死者の亡骸と戦傷者は兵力を消耗し尽くした第一歩兵師団が護送して、後方に移送する事になった。アレク=ハーベストは体力を消耗して居るだけなので、戦陣に残った。ここ数年、絶えてなかった大規模な精霊攻撃が繰り出された戦として、このカラキシスの戦いは戦史に残る事だろう。あの惨烈を極めたエルベス川の戦いでも、小規模な精霊攻撃は無数に繰り出されたが、上級精霊による精霊攻撃は繰り出されていない。兵を纏め、野営の支度をし、戦傷者の手当てをしている内に夜が訪れた。生暖かい風が戦場に吹き、敵味方双方の死者の魂を、戦士達の天国ヴァルハラへと招く。ロデン教の従軍牧師達が死者達の安息を神に願う祈祷の声が、暗い空に憂鬱に吸い込まれていく。レイシア=パルディアスは昼間、レフィナ=フュークルの騎馬隊が陣取っていた丘の上に登っていた。
傍らに居るのは、誉れ高き六騎士ではなく、ジード=ブリード歩兵連隊長ただ一人。
「私達は何もできなかったな………」
多くの死者が今なお屍を晒している戦場を見回しながら、レイシアは呟いた。
その視線が吸い寄せられるようにして、地面の焦げ跡に向かう。
「まだまだ戦いが終わったわけではありませんぜ、姐さん。レッセの兄さんはまだカラキシスで助けを待ってるんだからよ」
「そう、だな」
フロレシア軍は深く傷ついた。それは砂の民も同じ事だ。砂甲竜隊は全滅し、クシャス=カーンの騎兵隊は半減、ユドグーやセトゥ=カーンの部隊にも被害が出ている事は間違いない。
「あんなすごい精霊攻撃は始めて見ましたぜ」
「ああ………。私もだ」
(上級精霊という物の破壊力を始めて見た。あのような精霊に比べれば我が王家に代々伝わる《神速の腕輪-パルディアス》と言えど、子供騙しに過ぎないではないか………)
上級精霊が封じられた精霊具など滅多にある物では無い。フロレシア広しと言えども、片手の指で数え切れる程だろう。いや、ラスカーナ全土でもどれほどあるか知れた物ではない。
「精霊の攻撃はただそれのみにおいて、戦場を一変させられる………。戦術書には良く書かれているが、どうやら今までの私はその言葉の本当の意味を知らなかったようだな」
《炎の剣-ハリエストロ》の攻撃が炸裂した瞬間の爆風。遠く離れ、かつ直接攻撃が向けられた方角ではないにも拘らず、その爆風によって、皮膚がちりちりするのを感じた。
「確かに《神速の腕輪-パルディアス》や他の精霊具でもあるとないとでは戦況に大きな違いを生み出す………」
だが、軍書に書かれて居る記述はそのような生ぬるい事を言っているのではない。
「上級精霊の封じられた精霊具による精霊攻撃は一撃で数千数万の軍勢を消し飛ばす………。まさに、戦場を一変させるほどの力だ」
「しかし、アレク=ハーベスト少将は未だに意識が戻らないようですぜ。ま、大きな力にはそれに伴う代償という物が必ずあるもんなんだな、きっと」
「ジード。決めたぞ。いずれ私も、あのような強大な力を秘めた精霊具を手に入れる」
瞳に決意の色を込めて、レイシアは言った。ジードは少し肩を竦めて、
「姐さんが言うなら反対はしませんぜ。でも、過ぎたる力は身を滅ぼすとも言いますぜ」
「あれだけの力を手に入れる事が出来れば、我が祖国の復興も早まる………」
「そう簡単に手に入るもんでもないでしょう?」
「だが必ず、いずれ………」
戦場の焦げ跡を睨み据えながら、レイシアははっきりとした口調で宣告するのだった。