覇皇伝
第一章 軍縮会談
第一章 軍縮会談
1 野外演習
帝国暦三三三年三月四日。
建国祭から四ヶ月と言う時間が流れ、フロレシアはすっかり春の季節を迎えていた。
まだ地面の所々には雪が残っているが、その雪を割って、新たな芽吹きが訪れている。何処か甘い香りのする春の空気とすっきりと晴れた空の下、まだ肌寒い晩冬の風が吹きすさぶアルカディア草原に彼らの姿があった。軍服の襟を立てて、寒さに抵抗しようと虚しい努力をしている紫の髪と紅の瞳を持つ男と二十代前半と言う若さに似合わぬ何処か悟り切ったような淡い微笑を浮かべた青髪の男だ。
ギルギッド=ルメイ、大佐、第一軍第一騎兵師団第二騎兵連隊長。
オットー=セルバン、大佐、第一軍第一騎兵師団第三騎兵連隊長。
「間違ってるよな、野外演習にはまだ半月ばかり早いだろ」
ギルがもう何度も聞いた不平を再び零す。
二人とも、いや、彼らの背後に居る二千人も皆、厳重な甲冑姿で馬乗していた。
ただし、携えているのは実戦用の槍ではなく、模擬戦闘用の軽い槍だった。しかも刃には覆いが掛けられている。
彼らの吐く息も、馬の吐く息も、かすかに白い。それが今日の寒さを物語っている。
「まあ、寒い時期の戦闘もありえるから訓練は必要だとは思うけどね。備えあれば憂いなしって言うし」
「またおまえは自分だけ良い子ちゃん的な発言をしやがって」
「性格の差異だと思うね。にしても、レフィナは本当に元気だよね」
「ああ………」
オットーの言葉に、ギルは苦々しげな表情で頷く。
レフィナ=フュークル、少将、第一軍第一騎兵師団長。
そもそもと言おうかやはりと言おうか、今回の野外演習を考え出したのは彼女なのだ。
彼女が二個騎兵連隊二千を率い、赤軍となり、オットー、ギルが一個連隊ずつ率いる二千の青軍と戦うと言うのが演習の内容だ。しかし、オットーにもギルにも緊迫感は無い。ここ四ヶ月、帝都ルーガは平和そのものだった。とはいえ、ラスカーナ大陸が平和だったかと言えばそうでもない。
《豪将》ロックシルト=イヴァン中将の第六軍はハウゼン・シュタット城から時々出撃してくるキエフ=ロドリナス軍隷下諸部隊との戦闘によって、兵を補充する傍から消耗している。まさに激戦に継ぐ激戦が戦われているのだ。北のルシタニア王国ではルシタニア王国軍とドルク王国軍との間にルテティア地方を巡る小競り合いが絶えない。ルシタニア王国の若き王レオン=ルシタニアは非戦をその本望とし、国是として専守防衛を唱え、受身の軍の整備を進めているが、ドルク王国のヴァルツ=リバーエンドが挑戦してくれば迎え撃たなければならない。例え軍の整備が未完だからと言って戦わなければ、敵の蹂躙に遭うだけなのだから。パルディアでも大きな動きがあった。それまでパルディアに駐屯していたミト=ヴァレンツェの死兵師団が本国に引き上げたのだ。
その代わり、生きた人間の兵で構成されている通常編成の師団が二、三個送り込まれているらしい。スタルナス帝国のオルティア=フリンシュは相変わらず、パルディア北部に駐屯しているが、ミト=ヴァレンツェが居た頃に比べればその緊迫感は大分緩和されているようだ。
ルーナ帝国の次なる動きを上層部はあれこれと予想しているようだったが、オットーは大佐に過ぎず、そのような雲の上の話はわからなかった。
「彼女の相手はどちらがする?」
思考を現実に戻してオットーは平原の遠くを眺めながらギルに聞く。
草原は地平線の向こうまで実に見晴らしが良い。林や森が散在しているものの、他の大部分は背の低い草に覆われているだけだからだ。その地平線よりもかなり手前の位置に多数の人馬の姿が見えた。
レフィナが率いている赤軍二千騎だ。彼らの吐く息も白いのだろう。
「おまえがやれよ」
「僕よりも君の方が適任だと思うけどな。彼女の相手は」
「俺はあいつのお守り役じゃねえぞ」
「レフィナが聞いたら怒るよ?レディを馬鹿にするなって」
「お、おまえ、告げ口する気か?」
それまで大佐らしい威厳に満ちていたギルが、オットーの言葉に呆気なくその仮面を脱いで動揺する。オットーは邪心など何も無いとでも言うような天真爛漫な笑顔で、
「で、彼女の相手はどちらがする?先輩?」
ギルは士官学校でオットーの一期先輩である。
「あう………」
ギルの顔が醜く歪んだ。何とか反撃しようとするが、言葉が見つからない。
「狼煙です!」
誰かが叫んだ。声の聞こえてきた方角からして、オットーの部下だろう。
ギルとオットーが同時に赤軍の方を見る。確かに黒い煙が一条、するすると空に昇っていた。
演習開始を知らせる合図の狼煙だ。同時に、赤軍が動き出す。芽吹いたばかりの草を薙ぎ倒しながら、二千頭の馬が土煙を上げながら突進してくる。
「くそ、こんな時だけ後輩面しやがって………ちくしょう………こうなったらレフィナは俺が殺る。おまえは側面を」
手綱を絞りながら、苦渋の決断を決定した時かのように悲壮な決意の表情で、ギル。
オットーは皮肉な笑みを口の端に浮かべて、同情的な台詞を口にした。
「殺られないようにね」
「気をつける………行くぞ!」
梅干を食べたかのように顔をしかめて言い、ギルは力強く命じ、自らの愛馬の脇腹を軍靴で蹴った。馬が高い嘶きを上げ、駆け出す。彼の配下第二騎兵連隊一千騎が怒涛の勢いで、彼を追う。
彼らがある程度離れるのを待ってから、オットーは背後を振り向いた。
「僕達も行くよ」
部下一千人が皆頷く。オットーが馬腹を蹴り、第三騎兵連隊一千騎も訓練の行き届いた整然とした動きで平原の迂回を始めた。
「ギルが正面、オットーが側面から、ね」
馬の背の上に伏せるかのような低い体勢で跨り、豪奢な金色の巻き毛を風の嬲るに任せていたレフィナは動き出した青軍の動きを見て、十代の少女らしからぬ大人びた笑みを浮かべた。彼女の率いる二千騎は、模擬戦用の槍をぴったりと馬の脇腹に当て、自らもできるだけ身を低くして馬の背に張り付くようにして、風の抵抗を減らし、突進の速度を速めていた。レフィナの両側にはそれぞれの連隊を率いる二人の連隊長がやはり同じようにして突進している。二人とも、四十代の実戦経験豊かな武将である。
「師団長!このまま真正面からギルギッド隊とぶつかればオットー隊に側面を突かれますぞ!」
レフィナの呟きは耳には入っていないと見え、一人がやや身を起こして怒鳴る。
レフィナは肩越しにそちらを見て、見る者が見れば獰猛に映る笑みを浮かべて見せた。
「その前に蹴散らすわよ、あんな奴」
「あんな奴って………」
思わず唖然とする連隊長。ギルもオットーも二十代で連隊長にまで登り詰めた逸材なのだ。
少なくとも『あんな奴』呼ばわりされるような無能な将ではない。実戦で多くの修羅場を潜ってきた彼ですら彼らと遣り合って勝てると言う自信は無い。彼らの指示ならば甘んじて受けようと言う気すらある。そんな彼らをして『あんな奴』呼ばわりする彼女を、彼は一瞬理解し兼ねた。しかしそこで、連隊長ははっとした表情で自分の斜め前を疾駆する伸びやかな肢体を持つ少女の姿を見た。このレフィナ=フュークルは十代で、師団長にまで登り詰めた天才なのだ。第一歩兵師団長のアレク=ハーベストも十七歳で師団長に昇格したが、彼女はそのアレクよりも一歳年少の十六歳で師団長となったのだ。確かにこの少女からすればギルもオットーも『あんな奴』に分類されるのかもしれない。
(だとしたら俺はなんなんだ………?)
少なくとも『あんな奴』に分類される事さえ無いだろう。人生の悲哀を噛み締める連隊長であった。
そうこうするうちに、彼らとギル隊との距離がどんどん縮まっていく。
もはや相手の表情も見分けられるほどの距離だ。
「身を起こして!」
少女らしい甲高い声で、レフィナが命じ、自ら槍を構えながら身を起こした。二千騎がそれに倣う。
前方から突撃してくる黄金の巻き毛の少女を見据え、ギルは槍を握る手に力を込めた。
「食らえっ!!」
すれ違い様に、渾身の力を込めて槍を突き出す。
「なっ………」
上を見上げたギルの顔を影が覆った。なんと、レフィナが跳んだのだ。文字通り、馬上から身を躍らせて、ギルの槍を飛び越え、ギルの後ろに飛び乗る。馬の背に直立して、レフィナは満面の笑みでギルを見下ろした。しかも御丁寧な事に、空中でギルの手元を蹴り、槍を弾いている。
「なんちゅう………おまえは曲芸師か」
「私の勝ちよ、ギル。残念でした」
小悪魔としかいい様の無い笑みを浮かべて、レフィナはギルの背中を蹴った。
「くそっ、覚えてろよ!」
成す術も無く、ギルは馬から蹴落とされて落馬した。
レフィナはギルが居なくなった馬の鞍に座り、手綱を掴んで、馬を止め、辺りを見回した。
彼女の連隊とギルの連隊は入り乱れ、激しい戦闘を繰り広げていた。
しかし、練度でギル隊の方が僅かに勝るのか、ギル隊の方が纏まっている。
しかし、レフィナ隊はギル隊の二倍の人数が居るのだ。
指揮官を失い、ギル隊が浮き足立った。
それだけを確認すると、レフィナも戦場に戻り、自由奔放に暴れ回った。
オットー隊が草原を迂回し、戦場の側面に出たとき、既にギル隊は壊滅し、レフィナ隊は整列して、オットー隊が現れるのを待っていた。
しかも、レフィナの馬の前にはなぜか縄で簀巻きにされたギルが転がされていた。
落馬した後、かなり踏まれたらしく、見るも無残な姿になっている。
「あちゃー」
オットーは片手で顔を覆い、
「間に合わなかったか」
「オットー!てめえ、わざと遠回りしてやがっただろ!」
オットーに気付いたギルが芋虫のように這いながら、吼えた。
「…………」
「こらーっ!目を逸らすなーっ!」
「………良い天気だなぁ」
ギルを完全に無視して、オットーは空を見上げた。
かつかつという蹄の音に視線を戻せば、ただ一騎、レフィナが前に出てくるところだった。
「この状態で戦えば、私の勝ちは固いわよ」
「そうだね。練度がほぼ同じで、互いに隙の無い陣形を保っていれば後は数の問題だ。残念ながらギルが呆気なく負けちゃったんじゃこっちに分はないなぁ」
「こらーっ!俺のせいにするなぁっ!」
ギルは激しく抗議の声を上げるが、彼がレフィナに簡単にあしらわれなければ、彼の部隊ももう少し長くレフィナ隊と渡り合えたかもしれない。例えオットーがレフィナとの会戦を避けようとせず、まっしぐらに戦場に向かっていたとしても、間に合ったかどうかはわからない。それほどまでにギル隊はあっという間に壊滅させられたのだ。レフィナは馬上で伸び上がるようにして、槍の先でオットーを示した。
「と言う事で、部隊訓練はこれで終了。次は一騎打ちの訓練よ!」
「レフィナがしたいだけだろ」
「なんか言った、ギル?」
「いや、なんも」
ぼそっと呟いた途端、レフィナが振り返って睨み付けてくる。
ギルは目を逸らし、嘆息した。一方、決闘を申し込まれたオットーはと言えば、さっさと馬を降りていた。それに気付いたレフィナが怪訝そうな顔になる。
「何してるの?」
「いや、たまには落馬後を想定した戦闘訓練も必要なんじゃないかな?と思ったんだ」
「ふぅん―――私と組み打ちがしたいと言う訳ね?」
レフィナはにっこりと楽しそうに笑った。
「楽しそうかも」
そして、ひらりと馬から降りる。二人の周りを四千人余りの騎士達が取り巻き、固唾を呑んで見守る。オットーは精霊具《獣の槍-ハンニス》を扱う事からもわかる通り、槍捌きに優れた物を持っている。対するレフィナは士官学校で習う武術の内、ほぼ全てで教官をも上回るほどの成績を残している天才だ。騎士達にとって、実に見応えのある一騎打ちとなりそうであった。
無論、ギルも《炎獣槍-フレイムスピア》の使い手であり、オットーに劣らぬ技量を持っているが、先ほどは乱戦に突入する寸前の一瞬で戦われたため、騎士達は見物する時間が無かったのだ。
そのおかげでギルは自分の馬に乗られると言う騎士の屈辱を部下に見られずに済んだ訳だが。
オットーとレフィナは槍を扱きながら、向かい合った。
二人の間で、風が草葉を揺らす。ごくり、と誰かが息を呑んだ。
まるで、風が渦を巻いているかのように、闘気が噴きあがっている。
「行くよ、オットー!」
「何処からでも良いよ」
無垢な笑みを浮かべ、レフィナが地を蹴った。人間とは思えないほどの速度で、大地を駆ける。
三十メートル程の距離を数回瞬きするほどの時間で駆け抜け、槍を突き出した。
オットーは槍を振り上げるようにしてレフィナの槍を叩き、すばやく体を入れ替えた。
「破ッ!」
気合一閃、槍を叩き上げられて体勢を崩したレフィナの脚を狙って槍が繰り出される。
「くっ!」
レフィナは槍が空へ逃げようとする動きに逆らわず、身を浮かせた。
彼女の足元をオットーの槍が薙ぐ。
レフィナは空中で、縦に一回転し、着地すると同時にオットーに向かって横に払うようにして槍を繰り出した。なんと言う柔軟で、速い動きだろうか、最早そのスピードは常人の域を大きく超越している。しかし、そんな彼女の動きに付いていくオットーの動きもまた常人離れしていた。
自由奔放な蝶の如く動き回り、蜂の如く鋭い一撃を放ってくるレフィナを相手にし、彼もまた正確で、かつ最小限の動きで回避し、反撃の槍を繰り出す。
二人は目まぐるしく位置を変えながら、何度も槍を合わせた。
だが、何合も打ち合わせる内に、だんだんと両者の優劣が現れてきた。
レフィナは槍を打ち合わせるたびに輝かんばかりの笑みを浮かべ、楽しそうにますます身軽な動きでオットーを翻弄するのに対し、オットーの顔には汗の玉がいくつも浮かび、動くたびに空に飛んで銀色の飛沫を挙げていた。だんだんとオットーの槍捌きの速度が落ち、反撃が封じられ、レフィナの攻撃を防ぐ一方に追い込まれていく。オットーが破れかぶれで繰り出した一撃をレフィナは後方に一回転して回避した。地に脚を付くや否や、地面を這っているかのような低い体勢から一気に伸び上がり、槍を繰り出した。攻撃を回避されて体勢を崩していたオットーはこの攻撃を避けるために後方に退こうとした。しかし、そのとき、両足がもつれ、体勢が崩れた。
「あっ………!」
「貰ったぁっ!」
レフィナが嬉しそうに吼え、槍を繰り出す手にさらなる力が込められた。
バシッ。
レフィナの槍がオットーの手元を叩き、彼が持っていた槍を弾き飛ばした。
勝負が決まった瞬間だ。
「ふう」
思わずその場に腰を下ろして、打たれた手をひらひら振りながらオットーは苦笑のような物を浮かべた。
「全く、レフィナには適わないなぁ」
「でもオットーも強いよ。楽しかった」
レフィナも額の汗を拭い、笑った。清清しい笑顔だった。
「うおーいっ、いつまで俺はこの状態なんだぁっ!?」
悲痛な声で、縄で簀巻き状態のギルが吼えた。
しかし、哀れかな、オットーもレフィナもその他多くの騎兵達も彼の声を無視したのだった。
2 公爵夫人
アリーニ=アウグウェルツ公爵が反乱の折りに死亡し、アウグウェルツ家の爵位が剥奪された現在、フロレシア帝国に公爵の爵位を持っている人物は一人しか居ない。
メイ=ペンドラゴン公爵夫人、彼女のみである。
そのペンドラゴン公爵夫人はルーガの貴族区画にあるペンドラゴン公爵家の屋敷の一室に居た。
青紫色のドレスに身を包み、窓辺に置いた安楽椅子に座って、首から吊ったペンドラゴンの紋章を弄っていた。
窓から漏れ入って来る光が彼女の金色の巻き毛を輝かせ、彼女は眩しそうに水色の瞳を細めた。
皇帝より爵位と一部の領地継承を認められた彼女はエルベス川の戦闘以来の極貧生活から元の貴族らしい生活に戻っていた。
彼女の祖先はペンドラゴンの紋章に願いを聞き届けて貰い、一代で帝国随一の富を築き、公爵の位を買った。平民上がりと蔑む者も居るが、もうペンドラゴンは押しも押されもせぬ名族となった。なにしろ、公爵位を持つ者は彼女ただ一人なのだから。
と、扉が開かれ、白髪の老紳士が現れた。
穏やかに歳月を重ねたのを感じさせる、穏やかな風貌の老紳士だ。
彼女の執事を勤めているカーク=ギルディンバーグだ。
「御嬢様。セルバン様がお参りになられました」
カークの言葉に、メイの顔がぱっと輝いた。水色の瞳がキラキラと光を放っている。
「通して」
「畏まりました」
カークは胸に手を当て、礼儀正しく頭を下げた。
かつて極貧生活の折には自ら馬の手綱を握ったものだが、それも今となっては昔の記憶になりつつあるようだ。今では執事として、メイの身の回りを世話する者達を統括する立場にある。
あの極貧生活のおかげか、メイもカークも下々の者の気持ちのわかる主君と上司だとメイド達にも好評だった。カークは広い屋敷の中を少し早足で歩き、オットーを待たせている応接間の扉をノックした。
返事を待たずに扉を開け、胸に手を当て優雅に頭を下げながら言葉を発する。
「お待たせいたしました、セルバン様」
「いやいや。この部屋はいつまで居ても飽きる事が無いですよ」
穏やかな笑みを浮かべて、青髪の青年は応えた。
その言葉は嘘ではないのだろう、彼は後ろで手を組んで、応接間の一方の壁に掛けられている肖像画を見つめていた。
その肖像画に描かれているのはちょび髭の紳士とその婦人らしき貴婦人だった。紳士は椅子に座った貴婦人の傍らに寄り添い、婦人の肩に手を置いている。もう片手は杖を握っていた。
そして、椅子に座る貴婦人は金色の巻き毛と水色の瞳を持ち、胸には黒龍が天に昇る構図のダークダイヤモンドのペンダントが描かれていた。
「この紳士と貴婦人はもしや?」
「はい。ペンドラゴン家の始祖ベルモント=ペンドラゴン公爵様とその奥方であらせられるマリーヌ=ペンドラゴン様でございます」
ちょび髭のベルモントはいかにも農民から成り上がったという風な風貌をしていたが、マリーヌは貴族の娘だと容易に想像のできる、脱色したかのような白い肌をした美しい女性だった。
「実に良く似ていらっしゃいますね」
「ええ。御嬢様はマリーヌ様に良く似ておいでです」
オットーの言葉にカークも頷く。
マリーヌは見れば見るほどメイに似ていた。
メイの将来の風貌がそのまま絵になったかのようだ。
「マリーヌ様の姉君様は第五代皇帝スレイマン二世様の皇后となられた方です。ベルモント様が社交界で見初められて、周囲は猛反対なされたそうですが、二人は結ばれたのです」
「…………」
皇后の妹。
だとすれば、それなりの貴族の家の出なのだろう。どうして、ベルモントと結婚したのだろうか?
公爵の夫人と言う称号ゆえか?
それとも帝国一と称され、妬みを受ける原因となったその財力ゆえか?
だが、肖像画に描かれたマリーヌは清楚な微笑を浮かべており、金目当てで結婚するような女性には見えなかった。こう言ってはなんだが、ベルモントは然程の美男子だったと言う訳でもないようだし。
そんなオットーの考えは、恐らくこの絵を見た他の多くの人々と同じものだったのだろう。
「マリーヌ様は財産目当てで結婚なさったわけではありません。ベルモント様が亡くなられた後、財産の半分を子供に、残り半分をマリーヌ様に与えるようにと遺言状には書かれていたのに、彼女は遺産の相続権を放棄していますから」
それは結婚生活の間に考えが変わったのかもしれない。
彼女がどういう思いで結婚したのかは結局、誰にもわからないだろう。
(だが、それでも―――)
オットーは自然と口元に微笑を浮かべて、絵に描かれたマリーヌの微笑を見つめた。
彼女の微笑にはこちらをも思わず微笑ませてしまうほど、優しさが滲み出していた。
この絵を描いた絵師がどれほど彼女のこの微笑を後世に残すために苦悩したか、容易に想像が付く。
「これだけの優しい微笑を浮かべることが出きる方なら、きっとその人生は幸せだったのでしょうね。満ち足りた、暖かな人生だったのでしょう。彼女にこれほどの美しく暖かい微笑を浮かべさせるベルモント卿の人柄も偲ばれます」
「皆さん、そう仰って下さります。マリーヌ様の微笑には人の荒んだ心を癒す力があるのだ、と。私も心からそう思います。私もこの穏やかな微笑みに癒されたが故に、今の幸福な生活を得られたようなものですから」
カークもしみじみとした口調で頷く。
「そうでしょうね。確かに…心が洗われるようだ」
と、そこでオットーはカークを振り返って、軽く肩を竦めて見せた。
「そろそろ参りましょうか。姫君を待たせておくのは忍びないですから」
「そうですな。騎士様たるもの、姫君を待たせるのは頂けませんな」
片目を瞑り、冗談めかして言う。
「これは手厳しい」
「はっはっは。これを御無礼をいたしました。御赦しください」
そして二人はメイの自室へと向かった。
こんこん。
「御嬢様、セルバン様をお連れしました」
扉の向こうからカークの声がそう告げる。
メイの表情がぱっと明るくなり、窓辺の安楽椅子から飛び出した。
しかし、すぐに勢いを失くす。
(むぅ。慌てて開けてはまるで待ち侘びていたようではないか………)
その事に気付いたのである。仮にも彼女は公爵夫人と言う爵位を持つ貴族であり、セルバンは飽くまで臣民上がりの軍人でしかないのだ。しかも、将官ですらない。ただの佐官に過ぎない。
そもそも、彼女が扉を開けて迎えに出る義理も無い。しかし、尊大に振舞うのはあまり好きではない。それだけではなく、傲慢な女だとセルバンに思われるのも嫌だった。彼に嫌われるのはもっと嫌だった。
どうしようかと考えているうちに扉が外側から開かれてしまった。
結局、メイは中途半端な格好でセルバンを迎える事になってしまった。
「やあ、お久しぶり、メイ」
オットーはメイの事を呼び捨てにしている。これはメイが許可した事だ。
しかしメイはオットーをオットーとは呼ばず、セルバンと呼んでいた。
オットーよりもセルバンの方が気に入っているそうである。
「む………良く来たな、セルバン」
微妙なばつの悪さを感じつつも、メイはセルバンを迎えた。そして、セルバンが後ろ手に何かを隠し持っている事に気付く。十一歳の童女の顔が、訝しげに傾げられる。
「一体何を隠し持っている?」
「なんだと思う?」
「むぅ………?だんごか?」
「なんでだんごだと?」
「いや、特に理由は無いが」
「御嬢様は最近、だんごにハマッて居られるのです」
セルバンの疑問に、メイは目を逸らして答えをはぐらかそうとしたが、カークが説明してしまった。
セルバンはへぇ、と言う顔をして、
「どうしてまただんごに?」
するとメイは童女の顔を少し緩ませて、
「四ヶ月前の建国祭にて食べただんごなる食物に私は惚れ込んだのだ。あの甘さ!あのモチモチ感!しかもあの多彩な味わい!黄粉を塗しても良し!餡も良い!抹茶を練り込むもまた美味なのだ。串に刺さっただんご!一個目、二個目は容易に食べられるのに後になればなる程串が喉に刺さりそうになって食べるのが難しい。その人生にも似た難しさがまた趣深い」
力説するメイ。セルバンはそこまで惚れ込むか?と言う顔をカークに向ける。
「余程、あの極貧生活が御嬢様を追い詰めておられたのでしょう。あの戦闘で父上も兄上も亡くされておいでですし」
愛娘を見るような優しい表情で、カークはメイを見ながら言った。
娘と言うよりは二人の年齢差は祖父と孫の関係の方が相応しいが。
セルバンは納得したと言うように頷いて、
「じゃあ、今回はだんごを買って来るべきだったかな。まあ、今年はこんなものだけど―――」
そう前置きして。セルバンはメイの前に隠していた後ろ手に持っていた物を差し出した。
「こ、これは………」
それは花束だった。
紫色の、控えめながらも美しい花弁を持つ花だった。
それが十輪ほども束ねられているだろうか。
花弁からはなんとも言えぬ甘く爽やかな香りが香っている。
「誕生日おめでとう、メイ」
そう、この春が訪れる直前の晩冬の日こそ、彼女がこの世に生を受けた日なのだ。
メイは口を呆然と開けて、穏やかな笑みを浮かべて自分を見つめているセルバンを見返した。
「これで十二歳だ、メイは」
ぽん、と頭に手を置かれた。
「むぅ………」
そのセルバンの行為は不満だった。何故ならメイを子ども扱いしてるから。
しかし、振り払うことも出来なかった。
何故なら、セルバンの手は暖かで、穏やかな彼の性格が頭皮を伝わって沁み込んで来るような感じを受ける。心が自然と安らぐ感じなのだ。
「どうして私の誕生日を知っているのだ?」
彼女はずっと南方のベンドラゴン公爵領で生活していたため、帝都に知人は居ない。
彼女が現在唯一の公爵と言う事で、彼女に取り入ろうと近づいてくる貴族は多い。
しかし、さすがにまだ十一歳と言う事で、彼女を大人と見る人間は居ない。
確固とした後ろ盾も持たない彼女は公爵夫人と言う最高位の爵位を持っていながら、貴族達の中で孤立していた。今の帝都で最も貴族達が己の存在を売り込んでおきたい男はオルンヘル=クリケット伯爵だろう。しかし、伯爵は全く賄賂などを受け取ろうとはしないのだ。そんな帝都で、自分と親しくしてくれるセルバンの存在は彼女にとって心の拠り所だろう。そのセルバンが自分の誕生日を知っていて、花束を買って訪ねてきてくれた事が非常に嬉しかった。
「教えて貰ったんだ。カークに」
セルバンが種明かしをする。そう言えばこの屋敷には一人だけ、彼女の誕生日を知っている人間が居たのだ。彼女の出産にも立ち会った、ベンドラゴン家の重臣、カーク=ギルディンバーグ。
爵位と領地を継承したおかげで彼女の生活も元の貴族らしい華やかな物となり、使用人も大量に雇用している。極貧生活の折には一人で料理人・メイド・御者など何役もこなしたカークも本業である執事に戻っている。
「どうしても教えて欲しいとせがまれまして」
腰を折って補足するカーク。メイは頷いて、
「ありがとう、セルバン。嬉しいぞ」
「喜んで貰えて何よりだよ」
嬉しそうに自分で花瓶に花を活けるメイを微笑を浮かべて、オットーは見ていた。
と、ふと思いついたと言う表情で、彼はカークに聞いた。
「あれ以来、あの賊とは?」
彼が始めてメイと出会ったときに追い払った、ベンドラゴンの紋章を狙っていたと思われる盗賊達の事だ。カークは左右に首を振って、
「あれ以来、一度も姿を見せておりませんな。諦めたのではないですかな?」
「まあ、諦めたかどうかはともかく、帝都の中に居れば安全でしょう。しかし、帝都の外に出るときは十分に気を付けたほうがよろしかろうかと」
「ええ。しかし、その折にはセルバン様が護衛して下さるのでは?」
「無論、護衛しますが、僕にも忙しい時というものが………あ、いや、そういう時は信頼できる知人に頼みますけど」
脳裏に浮かんでいるのは赤髪の男と紫色の髪の男だ。いずれも一見こう言った事を頼むのに不向きな人種だと思われがちだが、あれで結構責任感が強い。最適の人材とは言えなくとも、信頼はできる。
(もしくはレフィナに………彼女ならば申し分ないし、年齢も近いし………でも、精神年齢だったらメイの方が大人びてるかな)
レフィナが聞いたら確実に怒り出すであろう事を考えるオットー。カークは頷いて。
「荘園の方は管理人等がしっかり管理しているので、あまり御嬢様が戻られる事もありますまい。御嬢様も貴族院に出席しなければなりませんし。但し、御嬢様はなかなか好奇心が御有りなので、あちこちと行って見たがるところがあります。遂先日も貧民街を見たいと駄々を捏ねられまして」
「まあ、抑圧する事も無いでしょうけど。貧民街にはあまり感心できない連中も居ますから」
「ええ。できる限り、目を離さぬ様私も気を付けて居りますし、召し人達にも言い付けてあります」
「何を二人でこそこそ話している?」
花を活け終え、メイが二人を訝しげに見る。オットーは素早く、話題を転じて見せた。
「綺麗に活けてるね」
途端、褒められてメイの頬が緩んだ。
「華道を習っているからな」
「うん。良い感じだよ」
「―――さて、ではそろそろ場所を移しましょうか」
微笑を浮かべ、そう言ったのはカークだった。メイとオットー、二人が顔を見合わせる。
「カーク、場所を移すって何処へ?」
メイが聞く。
「大食堂でございます。そろそろ用意が整っている筈ですから」
「………。用意?」
二人は再び顔を見合わせ、とりあえず、食堂へとカークに先導されて向かった。食堂に入った途端。
「おめでとうございます!」
花吹雪が舞い上がった。食堂の内側に整列した二十人余りのメイドが一斉に籠に入れた花びらを撒き散らしたのだ。食堂のテーブルには数十もの皿が並び、豪華な料理が溢れんばかりに盛り付けられていた。
「これは………」
思わず絶句するメイ。と、その肩に手を置く者があった。セルバンだった。
「君の誕生会だろう。十分に楽しむと良い」
「う、うむ………。にしても、多い。皆の者も食べよ」
そう言うと彼女はテーブルに歩み寄り、一枚の大皿に数百本も盛り付けられていただんごに手を延ばすのだった。その顔は緩み、満面の笑顔だ。
そこに公爵夫人と言う貴族の姿はなく、あるのはただの、十二歳になったばかりの少女の笑顔だった。
3 オルテガ
帝国暦三三三年三月五日。
この日、帝都ルーガにある国の外交使節団が入った。
団長の名はオルテガ=スタルナス皇太子。精悍な顔つきをした獅子のような雰囲気を持つ男だった。
ルシタニア連合王国のレオン王子が友好訪問した時とは異なり、帝都の住民の間にはあまり歓迎の雰囲気は無かった。二階建て、三階建てなどの朱雀通りに面した建物の二階から伸びたポールにはフロレシアの国旗である《力強き銀獅子》は無数に風を受け、はためいていたが、スタルナス帝国の国旗である《黒十字の紋章》がはためく姿は一個も見当たらなかった。
無数の《天秤の紋章》が翻り、歓迎の意を表していたレオンの時とは全く雰囲気が違う。
長年に亘り交戦状態にある敵国の次期皇帝が来たのだから、この雰囲気も納得の行くものである。
朱雀通りの両側には白鎧を着込み、武装した近衛騎士団の騎士達が警備している。
彼らは国民がスタルナス帝国外交使節団に対し、何らかの失礼な行為に及ばないよう警備しているのだが、彼ら自身の間からも険悪な雰囲気が滲み出していた。
彼らの中にも家族や友人をスタルナス帝国との戦闘において失った者も数多い。
そんな非歓迎ムードの中を進むオルテガ皇太子の顔には何の気負いもなかった。
しかし、朱雀通りを半ば進み、左右に市場が広がる区画に来ると、彼は傍らを進む老将に話しかけた。
「俺がフロレシアを訪れるのをどう思う?」
老将―――キエフ=ロドリナスは鋭い眼差しを周囲に向けながら、あっさりと答えた。
「殿下が殺害されるような事はありますまい。逆に、フロレシア帝国皇帝をガーフィールドに招けば不測の事態が起きかねませぬ」
「ルーガの方が治安は勝っている、か」
オルテガは口元に皮肉気な笑みを浮かべた。彼は父バイエルン=スタルナスがベニア=ルーナなどと言う女に現を抜かしているのを苦々しく思っている。今彼は密かに自分を支持してくれる軍人や文官を集めていた。帝国に籍を置く、身元のしっかりした者も居れば、そうではない、怪しい者達も居る。彼らに共通するのは国籍ではなく、その優秀さだけだ。その意図するところは一つ。皇位の簒奪だ。
皇太子と言う立場上、待っていればいずれは皇位が転がり込んでくる訳だが、彼はその風貌通り、決して気の長い男ではない。うかうかとして居るうちにベニア=ルーナに子でも生まれてしまえば、自分は皇太子位を剥奪された上に暗殺されかねない。バイエルンという男は元々蝮と呼ばれていただけあり、己の子だからと言って躊躇うような男ではない。オルテガは暗殺を恐れるような型の人間ではなく、国を得体の知れない新興国の皇帝に牛耳られるのを善しとするほどの小心者でもない。
殺される危険性があるならばその対処は簡単な事だ。
(先に殺してしまえば良い)
殺すだけでは只の謀反に過ぎず、それこそ隣国の皇帝の思う壺であるため、殺すと同時に皇位をも奪おうとして居るだけなのだ。ルーナ帝国の影響力を完全に排除し、スタルナス帝国を強国として復活させるのだ。外交使節団は随行の護衛兵を合わせても三百人余りの小人数だ。それに比べ、帝都ルーガには数十万のフロレシア帝国軍兵がひしめいている。まさに虎穴だ。
「ラインハルト=シーザー。どんな奴か楽しみだ」
使節団は朱雀通りを歩き終え、城前広場へと入った。フロレシア帝国皇帝ラインハルトは正装し、左右に重臣を連ねて、城前広場でこの外交使節団を出迎えた。スタルナス帝国の使節団はそこで整列し、オルテガとキエフだけが進み出る。フロレシア帝国側からは皇帝ラインハルト、宰相オルンヘル=クリケット、軍令部総長ハーン=ハーベストが前に出る。広場の中心で、五人は向かい合った。
「わざわざ陛下御自らの御出迎えに心より感謝の念を表す。我が務めが首尾よく果されんことを望む」
オルテガは慇懃無礼に言って見せた。相手を対等とみなしているような口調だが、二人は皇太子と皇帝と言う立場であり、決して対等な物ではない。オルンヘルは表情を僅かに変えたが、何も言わなかった。
ハーンはただ鋭い眼光をキエフに向けて居るのみ。ただし、その視線に敵意は無い。
相手を自分の好敵手とみなす、好戦的な眼差しだ。
最もキエフは彼の眼差しに自分の眼差しを合わせようとはしていなかったが。
そして、皇帝ラインハルトは歓迎の意を示す好意的な微笑を浮かべていた。
「わざわざ遠路はるばる来てくださり、感謝する。不幸な事に両国の間には深い溝があるが、余はその溝は埋めることができると考えている。今回の会談がその第一歩となるよう祈っている」
歓迎的な微笑を浮かべているものの、ラインハルトの口調は少なくとも相手を対等の立場の人間とは認めて居ない口調だった。
「我が父も両国の友好を願って止まぬ。元を辿れば、スタルナス帝国もフロレシア帝国もルシタニア連合王国も同じ覇皇フェルモアの子を始祖とする兄弟国。陛下には我を兄とでも慕っていただきたい」
「是非にもそう願いたいね。長い旅路でお疲れであろう。城内に客室を用意した。今宵はごゆるりと休まれよ。会談は明日の予定であるから」
「そうさせて貰おう」
「では案内を」
ラインハルトのその言葉を合図にしたかのように、その場に漂っていた緊迫した空気が霧散した。
フロレシア帝国側の歓迎陣とスタルナス帝国側の外交使節団は交じり合い、ルーガ城に向かって歩いて行った。
そもそも、どうしてオルテガ達がルーガを訪問する事となったのか?
その経緯を説明するには二ヶ月ほど前に遡る必要がある。建国祭で洸安黄を召抱え、ディハン=ギルトの尽力によって、華中大帝国の武器商人から鉄砲を輸入する事に成功していたフロレシア帝国は膨大な資金を用い、千丁余りの鉄砲と弾薬、火薬を揃える事が出来ていた。さらにこうして居る間にも死の商人達は活発に両国間を行き来し、鉄砲は増えつつある。しかし、ここに来て財務尚書のウェンヒルグ=ローレンスが悲鳴を上げた。彼は帝国府のオルンヘルの元に、鉄砲輸入によって、国家財政が相当の圧迫を受けて居る事を書類に数字を並べて提出し、鉄砲の輸入を控えるか、他の部分で経費を削減するかの二択を迫ったのだ。この問題はいくら辣腕と言えども、オルンヘル一人で採決できる問題ではないため、皇帝の下に上げられた。しかし、皇帝の考えは鉄砲の輸入を続行すると言う物だった。
「少なくとも、国内での鉄砲生産体制が整うまでは輸入を続ける」
と言うのが、彼の主張だった。
今現在、洸安黄が帝国中の刀鍛冶などの中から鉄砲鍛冶の素質がありそうな者を選別し、訓練していた。もう半年もすれば輸入せずとも自前で生産する事が可能となるとの見通しが立っている。自国生産が可能となれば鉄砲本体の輸入に掛かる費用を削ることが出きる。そこで彼は軍縮を断行する事にしたのである。当初はただ単に部隊費用を倹約しようと言う話しだったのだが、何処かでこの話を耳にしたらしいアルンヘルがラインハルトに提案書を提出して来たのだ。
その書類の中で彼は各軍団から数個の師団を削減し、その分の費用を装備費に充て、さらにフロレシア帝国だけが軍縮するのではなく、敵対国であるスタルナス帝国との間に軍縮会談を設け、両国の軍縮を話し合うべきだと提案した。
鉄砲を輸入するためと言うこちらの軍縮事情にスタルナス帝国も巻き込んでしまおうと言うのだ。この議題はすぐに帝国府の各尚書の中で話し合われ、フロレシア以上に財政窮状に追いやられているスタルナス帝国ならばこの申し出に応じる可能性が高いと言う結論に達したのだった。
実際には削減した分の金で鉄砲を輸入するのだから、軍縮にはなっていない。
フロレシアの戦力を落とさずに、スタルナス帝国の軍事力を低下させる。
これぞまさに外交の真骨頂だろう。と言う事ですぐさまラインハルトの名代として、正使・副使他百名余りの使節団がスタルナス帝国に派遣されたのだった。スタルナス帝国からの返書が届き、軍縮会談の提案に応じると言うバイエルン=スタルナスの言葉をラインハルトに伝えた。それはほぼ即答に近い物だった。暁の諜報によればこの軍縮に宰相マーク=ブリーストは反対したがオルテガ=スタルナス皇太子、キエフ=ロドリナス東部方面軍司令長官、オルティア=フリンシュ南部方面軍司令長官らが賛成したため、確たる次第となったのだと言う。その後数回使者は両国の間を往復し、軍縮賛成派のスタルナス帝国皇太子がルーガを訪れることが決し、その日時も決められた。
ここまでの経緯をハーン=ハーベスト軍令部総長に伝えたのは十日ほど前のことだ。
ラインハルトはハーン=ハーベストも賛成してくれると考えていた。
が、案に相違して、ハーンは激怒した。
「軍縮は軍の問題である。軍縮問題を軍に一言も相談せずに決するなど帝国府の越権行為ではないか!」
さすがにその怒りの矛先を皇帝に向ける事は無かったが、その舌鋒はその場に同席した宰相オルンヘル=クリケットに向かって火を吹いた。
「軍令部は陛下直属の帝国府と同列の組織である。軍の問題に関し、帝国府は軍令部に相談するのが筋道を立てることだと思うが、如何?」
ラインハルトはいきなりの事態にどう言葉を掛けて良いのかもわからずにおろおろとするばかり。ハーンの言う事は確かに正論なのだ。オルンヘルは眉間に皺を寄せて、
「軍縮問題は確かに軍の問題である部分もあろう。が、それ以前に外交問題・財政問題であり、帝国府がこれを管轄するのは必然。確かに双方の連絡不行き届きは認め、謝罪しよう。ついては軍縮会談の日時も迫って居る事であるので、軍令部にも改めて協力を願いたい」
そう言って、頭を下げた。
「そうやって頭を下げることができるならば、最初からそうして頂きたかった。そうすればこのような事で陛下に不快な思いをさせることも無かったのだ」
その場はそれで済んだ。ハーンも改めて軍縮会談の説明を受け、その大筋に賛同する旨を告げ、退室したのだった。しかし、この問題は帝国府と軍令部の中に埋め難い溝を作り出す結果となってしまった。
元々軍は帝国府の軍事尚書の隷下の一機関だったのだが、皇帝の勅令によって帝国府から独立して軍令部となったのだ。両者はそれ以来ずっと互いに対抗心を燃やしている。帝国府の文官には武官は政治や外交、ましてや財政など全くわからない野蛮人だと言う軽蔑心があるし、軍令部の武官には文官は戦場に命を賭ける事も無く平穏無事な後方に在って数字を弄繰り回すしか能の無い無能者と映る。
武官と文官の間に溝が産まれるのはこれはもうどうしようもない。
暗黙の了解とでも言う感じで、双方の若手が血気に逸るのをオルンヘルとハーンが抑えると言う構図となっていたが、いずれ不満が爆発する可能性もある。だが今は、目前に迫っている軍縮問題が重要事である。帝国府は軍令部の求めに応じて、軍縮の草案を示した。
『各軍団の歩兵三個師団、騎兵二個師団を削減する。神官軍団・傭兵軍団の人員を整理し、定員を半減させる』
これが帝国府が示した軍縮草案である。軍令部ではこの草案に対する会議を重ね、結論としてこの草案は受け入れ難いと言う結論を出した。逆に軍令部が帝国府に示した修正案は、
『各軍団の歩兵一個師団、騎兵一個師団の削減。神官軍団・傭兵軍団の人員整理は無し』
と言う物だった。理由は第六軍や第四軍など激戦地をその軍管区に抱えている軍団は計五個師団四万名もの削減には耐えられないと言う物だった。これは純軍事的な見地から見れば正論だった。
この案に対し、帝国府は以前にも増して慎重に審議を重ねた末、再修正案を軍令部に提示した。
『第一軍・第二軍・第三軍・第五軍に関しては草案の通りとし、第四軍・第六軍・傭兵軍団・神官軍団に関しては軍令部の要求を容れる』
と言うかなりの譲歩を示した案となった。これは軍令部に対し、連絡の不行き届きと言う落ち度がある帝国府が示した最大の謝意とも言うべき物だったが、軍令部はさらなる審議を重ねた末、
『各軍団の兵員数に差があるのは部隊運用上大いに困難を惹起する可能性が大きい』
と言う事を理由として、帝国府案を一蹴してしまった。その代わりに軍令部は、
『全軍団の歩兵三個師団を削減するのを認める。騎兵師団の削減は認め難い。神官軍団と傭兵軍団の人員整理も認め難し』
と言う案を示した。この案を軍令部が提出したのは僅か二日前の事だった。
二日後にはオルテガ皇太子がルーガに到着すると言う切迫した状況下で、帝国府は修正案を纏め上げることが出来ず、結果的には軍令部の案が最終案として臣民院に送られる事になった。
限られた時間の中で、臣民院での審議・採決を経て貴族院へと議題が移される。貴族院での採決が終わったのは昨日の夜の事だった。
今回のオルテガ皇太子、ルーガ訪問の前にはこのようにごたごたとした日々が続いていたのだ。
オルテガ皇太子を客間に案内した後、彼の随行者達の割り当てをオルンヘルに任せ、ラインは自分の寝室へと戻った。
オルテガの野獣のような雰囲気と事ある毎に投げかけてくる挑戦的な言葉への対応にぐったりと疲れを覚えていたのだ。
「あう~………疲れたぁ」
呻くようにして言い、ラインはそのままベッドに倒れこむように寝込んだ。
そのまま、息が深く、ゆっくりとしていき………眠りへと落ちていく。
一方、その頃、迎賓館の貴賓室に通されたオルテガは用意された紅茶に口を付けていた。
毒殺される可能性など全く考えていないかのような無頓着な飲み口だ。
「―――美味いな」
部屋の中には彼一人しか居ない。
彼はそう呟くとティーカップをテーブルに置き、窓際に立った。
そこからは巨大な帝都の様子が一望の下に見晴るかすことができる。
ガーフィールドの雑然とした町並みとは違う、区画がしっかりと整理された整然とした街並みが彼を圧倒し、屈服させようと迫ってくる。
「面白い」
オルテガはその精悍な横顔に野獣のような笑みを浮かべて見せた。
スタルナス帝国とフロレシア帝国の国境を越えてから、帝都ルーガに到着するまで、いや、到着した後も含めて、フロレシア帝国の文化はスタルナス帝国よりも遥かに進んでいた。
国力の違いをまざまざと見せ付けられた感じである。税率が引き下げられたおかげで、農民は裕福ではないものの、飢える事も無く、笑い合っている。飢餓に苦しむスタルナス帝国の民とは対照的な姿だ。帝都ルーガもガーフィールドに比べ、遥かに巨大で、遥かに整然としていた。
そもそも、スタルナス帝国の総兵力は五十万余。
それに引き換え、フロレシア帝国の総兵力は百十万余。
遥かにフロレシア帝国の方が優勢なのだ。
だが、オルテガはそんな事など関係ないとでも言う風に帝都の光景を睥睨していた。
「この街をいずれ必ず、手に入れてみせる」
その言葉は敵国の宮城で口にするには余りにも危険な言葉だった。
この部屋だって、この国の情報部によって監視されているかもしれない。
しかし、オルテガはそんな事全く気にしていないようだった。
オルテガは窓辺から離れると本国から持ってきた書類鞄を開き、一通の書類を取り出した。
それは参謀部で作成された軍縮草案だ。そこにはこう記されていた。
『本国軍軍縮五万名以内。フロレシア帝国軍軍縮一個軍団またはそれに類する兵力削減。以上』
その数字を実現させることこそ、彼に課された至上命題なのだ。
キエフ=ロドリナスの東部方面軍の漸減作戦によって、第六軍はかなり戦力を消耗している。
軍縮で一個軍団削減とすれば、第二軍団か或いは第三軍団と言ったところだろう。
どちらにせよ、既に第六軍がほとんど戦力となっていない今、さらに一個軍団の削減は痛いはずだ。
そう言う意図の下に作成された草案であり、外交的な配慮は払われていない。
もっともそれはフロレシアも同じ事で、両国共に外交と言う面では同じように未熟であった。
「もっとも、俺ならスタルナス帝国の全軍を率いて、フロレシア帝国の全軍と戦って蹴散らしてやるがな」
獰猛な獅子の如く歯を剥いて言い、オルテガは書類を鞄に戻した。椅子に座り、先ほど少し残した紅茶を一気に飲み干すと彼は身に付けていた正装を剥ぎ取るようにしてラフな格好になるとふかふかのベッドに身を投げ出した。すぐさま巨大な獣のような寝息を立て始める。後世の歴史家はこの日を特別な日だとしている。後に最大の宿敵同士になる二人の男が始めて出会った瞬間であると。
後に覇皇となる男、フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザー。
後に金猛の獅子王と呼ばれる男、スタルナス帝国次期皇帝オルテガ=スタルナスの二人が。
しかし、まだこの時、将来を正しく見据えている人間がどれほど居ただろうか?
この時代、ラスカーナ大陸は数ヶ月先の状況すら読めぬほどに混迷の度合いを深くしていたのだ。
軍縮は果して、平和への架け橋となり得るのであろうか?或いは否か。
帝都の知識人達の間では盛んに、今回の軍縮に関する激論が戦わされて居る。
『遂に、スタルナス帝国はフロレシア帝国の威の前に屈し、城下の盟を誓いに来たのだ』
と言う見当違いな物から、
『軍縮で浮いた金で何をする?より多くの敵を殺せるよう、装備を更新するだけではないのか?その結果、何が生まれる?言わずもがな、大陸の覇権を賭けた大いなる大戦に違いない』
と言う、かなりの卓見まで。だが、間違いなく彼らは歴史の動く瞬間に立ち会っているのだ。
4 ルーガ軍縮・不戦条約締結
帝国府にある会議室の一つ、『白鷺の間』にて、軍縮会談が始まろうとしていた。帝国府の東側にある窓からは朝日が差し込み、室内を明るく照らしている。窓の外にはかなりの規模を持ち、よく整備された庭園が見え、その向こうにルーガ城の尖塔が見えた。一本の巨木から削りだした長さが十五メートル、幅が三メートルの長テーブルを挟んで、フロレシア帝国側とスタルナス帝国側の代表連が向かい合っていた。フロレシア帝国側は朝日の差し込む窓を背に負う形だ。
これはフロレシア帝国側からは相手の顔色が見えるが、相手からはフロレシア帝国側の顔色が逆光に近くなって見え難くなる事を計算に入れての座り方である。
フロレシア帝国側は皇帝ラインハルト=シーザー、宰相オルンヘル=クリケット、財相ウェンヒルグ=ローレンス、軍令部総長ハーン=ハーベストが参加し、スタルナス帝国側は全権大使オルテガ=スタルナス、副使キエフ=ロドリナスの二人だ。一同は相互に挨拶を交わし、着席した。
シエナやサリアなどの侍女達が一同の前に紅茶を置き、一礼して退室していった。
「さて、それでは軍縮会談を始めよう」
ラインハルトの宣言によって、軍縮会談は始まった。
「軍縮をどう思う?」
「どうって………」
いきなり問い掛けられて、アレクは困惑したように眉根を寄せた。そのままの表情で、問いを発した人物を見返す。整った顔立ちをした三十代ほどの男で、背の高い締まった体を帝国軍の軍服に包んでいる。
男からはぷんぷんと女物の香水の香りが漂っていた。首筋にはうっすらと紅の後すらある。
少なくとも、このような堅い話題をするような風体には見えなかった。
男は応接セットの柔らかなソファに身を沈めると、扉の傍に立っていたリーナを笑顔で振り返って、
「リーナちゃん、熱いお茶を淹れてくれないかな?君の淹れるお茶は美味しいから」
「すぐに淹れてきます」
リーナはしっとりとした柔らかな微笑を浮かべて答え、出て行った。
男はソファでふんぞり返ってアレクを見つめ、
「まだ考えてるのか?」
「いや、まあ、軍縮をどう思うかって言われてもなぁ。別に良いんじゃないすかね?スタルナスの方も軍備を縮小するなら大勢に影響はないでしょ」
アレクはそう答えてから、今、思い出したという風に相手を見据えて、
「それで、いきなり入って来ての一声が『軍縮をどう思う?』ってのはどういう事なんですか?」
アレクが珍しく敬語を使う相手。しかも敬語の割に口調は馴れ馴れしい。となれば、彼と話している男がシオン=クリケット第二軍団長だと言う事はわかりきった事だ。アレクは師団長・少将であり、シオンは軍団長・中将、しかも軍令部次長を兼任していると言う軍部の重鎮なのだから本来ならばこんな馴れ馴れしい話し方は許されない。無論、公式の場ではアレクも敬語で話している。しかし、ここは公の場ではなく、アレクの執務室だ。二人は中将と少将と言う関係以前にフロレシア帝国北方の片田舎ローデンスで共に遊び暮らした幼馴染なのだ。
と言うよりも、シオンはアレクやライン、シエナなどの兄的存在だったのだ。
「いや、まあ、時事問題を口にしてみただけなんだが」
「…………」
軍令部次長とは思えぬ発言に、さしものアレクも呆気に取られ、場に気まずい沈黙が降りる。
そこへ、絶妙のタイミングでリーナが戻ってきて、二人の前に紅茶を置いた。
シオンはその紅茶の香りを嗅ぐように鼻の前でカップをゆっくりと回した後、一口口に含んだ。
味わいを楽しむように舌の上で転がし、ごくりと飲み込む。
「美味い。リーナちゃんの淹れる茶は最高だよ。アレクには勿体無いな」
「そんな、ただの紅茶ですよ」
「いやいや、この香り、味わい、舌触り、喉ごし………実に美味い」
「市場で買ってきた安物の茶葉を使ってるんですよ、アレクは紅茶の味なんてわからないから」
「いやいや、リーナちゃん、この紅茶は君が淹れる事で、最高の味になるんだよ」
先程までの気まずさが嘘のように、饒舌にシオンは褒める。女垂らしな笑顔を浮かべて。リーナもまんざらではない様子で応えている。アレクは少し不機嫌そうな口調で、楽しそうな二人の会話を遮った。
「それで一体、軍令部次長殿はどのような用件でこのような場所に来られたのですか?」
意図的な敬語。そこには悪意が見え隠れする。
「いや、まあ………」
シオンが言葉を濁した。その視線が泳ぐ。
「軍令部次長だったら、軍令部に待機して軍縮会談の結果を待ってなきゃなんないんじゃないすか?」
「ん………まぁな」
歯切れの悪いシオン。アレクははぁ、と嘆息して、
「要は暇だった………と」
「軍縮会談は何時に終わるかもわからないからな。次長室にずっと篭ってるなんて鬱屈しちまう。立場が逆であればおまえも同じ事をしてたはずだ。俺が言うのもなんだが、俺とお前は似てる所がある」
「まあ、そうだろうけど、軍縮会談が何時終わるかもわからないなら尚更次長室で待ってた方が良いんじゃないすか?」
「お前もそう思うか?」
「自分でもそう思ってんなら、早く戻ったほうが良いと思う」
「わかった」
大人しく頷くと、シオンは紅茶の残りを飲み干して、
「本当に美味しかったよ、リーナちゃん。監獄に囚われた哀れな小鳥が久々に翼を伸ばせたような気分を味わえたよ。それじゃまた、今度は俺が君に美味い茶を飲ませてあげよう」
「軍団長。人の副官を誘惑しないでください」
「師団長の副官は師団長の所有物ではあるまい?なぁ?リーナちゃん」
アレクの不機嫌そうな口調に、シオンが揶揄するように聞き返す。
しかも馴れ馴れしくリーナの肩に腕を回しながら。
「え、えと………とりあえず、首と胴、離婚します?」
肩に腕を回されて、リーナは巨大な鎌を取り出して見せた。人間の首など簡単に狩れるだろう程の。
すすすーっとシオンがリーナから離れ、
「ま。師団長と副官の信頼関係にひびが入るのもあまり歓迎できる状況ではないからな。俺はそろそろ行くとするか」
そのまま、執務室から出て行った。
「一体なんだったんだ………?」
アレクが眉間を揉みながら、呻く。リーナは所在無さげに鎌を弄りながら、
「嵐のような人でしたね」
「良いからおまえは鎌をしまえ」
軍縮会談は双方の軍縮案を提示する事から始まる。オルンヘルがまずフロレシア帝国側の軍縮案を提示する。それはフロレシア帝国の軍縮として、
『六個軍団からそれぞれ三個歩兵師団ずつ計十八万名の削減』
そして、スタルナス帝国へは、
『九万名の兵力削減』
を求めた。スタルナス帝国にどれほどの兵力削減を求めるか、と言う事を聞かされて居なかったハーンだったが、別に表情を変える事も無かった。
百八万の帝国正規軍(傭兵軍団・神官軍団・帝都防衛隊・近衛騎士団を除く)の中から十八万名を削減するのなら総兵力が五十万余りのスタルナス帝国軍が九万名の削減と言うのは妥当だろうと判断したのかもしれない。これに対し、スタルナス帝国側のオルテガ皇太子が示した軍縮案は、
『フロレシア帝国に一個軍団相当の軍縮を求め、スタルナス帝国は五万名余の軍縮を実行する』
と言う物だった。双方の案からすればフロレシア帝国の軍縮は同意しやすいだろう。
スタルナス帝国が求める一個軍団相当とはすなわち十八万名と言う事なのだから。
問題なのはスタルナス帝国側の軍縮だ。これはフロレシア側とスタルナス側とで倍近い差異がある。要は一割軍縮と二割軍縮の差なのだが、一割の差は大きい。スタルナス側をどれほど譲歩させ、妥協させるかがフロレシア外交の見せ所だろう。しかし、その後の話し合いでも妥協点は見つからず、昼時となった為、一度散会し、休息の後午後からもう一度会談する事が決定された。
帝国府の一室、フロレシア側の控え室と定められたその部屋で、ラインは憔悴した様子で座っていた。午前中一杯を掛けた会談は神経を磨り減らすようなものだったのだ。
「どうしよう、父さん?このままじゃ交渉が決裂しちゃうよ」
昼食を共に食べているのは、会談に臨んだ四人だ。ラインの言葉に、オルンヘルは難しい表情で、
「こちらが一個軍団の軍縮なのに対し、向こうがたった五万では一方的に向こう有利過ぎるだろう。数字的な妥協が難しいなら別の要求を出す必要があるかもしれん」
「別の要求、とはなんです?」
まだ晩冬だと言うのに、額に汗の玉を浮かべているウェンヒルグが、ハンカチで汗を拭いながら聞く。
「それを考えねばな………」
「―――ならば、私に一つ案があるのですが」
声は部屋の外からした。
「―――誰だ?」
誰何したのは軍令部総長のハーンだ。昼食は密談を兼ねるので、扉の前には守備兵は居ない。しかし、帝国府全体で見ればかなり厳重な警備体勢が取られており、不審者が容易に入り込める状況ではない。
「アルンヘル=へード大佐です」
「アルンヘル?良いよ、入って」
「失礼します」
皇帝の許可を得て、灰色の髪に同色の瞳を持つ何処となく暗い雰囲気を身に纏った男が入って来た。
彼がこうも簡単に目通りを許されるのは、彼が軍籍に身を置きながらも皇帝直参の参謀に任じられて居ると言うその特殊性にある。軍部からもある程度自由な行動を取る事を保障されて居る彼は皇帝からも、皇帝への謁見手続きを省く事を許されているのである。謁見手続きの省略を認められている人間が彼の他には一人しかいない。他ならぬ宰相のオルンヘル=クリケット伯爵だ。これを見ても、アルンヘルの特殊性が容易に理解できるだろう。
「何の用だね、大佐?今は重要な会議中なのだが」
オルンヘルの口調はいつもと変わらないようだが、ラインハルトにはいつもとの違いがわかった。
オルンヘルがアルンヘルを好きになれないのを彼は知っている。確かにアルンヘルの立てる策は的を射ているが、いつも人命を損なうのだ。それがオルンヘルは気に入らないのだろう。
しかし、アルンヘル自身はそんな宰相の刺々しい口調にも一向に堪えた様子もない。
「献策に参ったのです。この際、軍縮条約だけでなく、不戦条約も締結するべきだと私は考えるのです」
「不戦条約だと?」
ぎょろりと目を剥いて、ハーンが聞き返す。アルンヘルは頷いて、その視線を財務尚書ウェンヒルグへと向けた。
「フロレシア帝国は度重なる戦闘でその財政がかなり逼迫している。違いますか?」
アルンヘルの冷たい光を宿す目に見つめられて、ウェンヒルグの額に吹き出る汗が倍加する。
「た、確かにこのままスタルナスの漸減作戦が続けば財政的に窮乏するのは間違いありません」
「穏当な表現ですね。さすがは男爵閣下。しかし、現実を見据えるならば既に窮乏しているとしなければならないでしょう。いや、これでは正確性に欠けますね。欠乏し始めていると言うのが最も適当でしょうか?………次に、第六軍の兵員の質を一定に保つため、他軍団から転出している兵員数はどれほどですか?軍令部総長閣下?」
「約六万だ」
渋面でハーンが答える。四ヶ月前に始められたスタルナス帝国東部方面軍による漸減作戦はかなりの効果を及ぼしていた。第六軍は新兵を徴兵するものの、訓練が追いつかず、仕方なく他の軍団―――主に第三軍―――から部隊を転用していたが、その消耗も激しく、補給的にもかなり苦しい戦況が続いている。特に熟練の中隊長や連隊長の消耗が激しく、補充も難しい状態だ。
「その通りです。このまま悪戯にスタルナス帝国と争っていても、財政的に総攻撃は不可能。ずるずるとした戦いを続けていればいずれ財政に限界が訪れ、帝国は瓦解する。それ以前に、そのような先の見えない戦は臣民の士気を著しく低下させます。不戦は永続する必要はありません。フロレシアが失った戦力を取り戻し、財政的なゆとりを持ち、陛下が推し進めておられる鉄砲連隊の育成が達成できるだけの時間を得られれば良いのです。それともう一つ、進言したいのは新たな貿易路の開拓に関してです」
「貿易路って………華中大帝国と?」
ラインハルトが聞く。鉄砲の話が出たので、連想でそちらへ行ったのだ。
「いえ。新たな交易のパートナーとなるべき国は―――」
アルンヘルはその場に居る者達全てを見渡して、はっきりと言った。
「フェニキア自由都市連合です」
「馬鹿な!フェニキアは海を隔てた遠国だぞ。今でさえ行商人などは来ているが、本格的に交易を始めるとなれば港が必要だ。しかし、我がフロレシアは内陸国。四辺何処も海に面してなどいない」
「フロレシアの力を海に及ぼすには西のスタルナス帝国を滅ぼし、さらにスタルナス帝国の西にある群小国家を併合するか、北のルシタニア王国を抜け、ルシタニア連合王国北方の諸国家、特にホンブルク王国と争うか、東のロデン教聖区や華中大帝国を滅ぼすか、南のアルティス荒野を抜けるしかない。いずれにせよ、かなりの覚悟と犠牲が必要だろう。無論、財政的にも大きな負担が必要となる」
問題の困難さを指摘したのはハーンだ。さすがに軍令部総長なだけはある。
「その準備の一歩として、スタルナス帝国と不戦条約を結ぶのです。不戦している間に最も与し易いと想像される南方の砂の民を駆逐し、港湾自由都市カズリクを制圧するのです」
「カズリクではルーガから距離があり過ぎるだろう。制圧した後、進駐軍を維持するのにも莫大な費用が掛かる上に補給線が伸び切ってしまう。そもそも、荒野の蛮族をどう排除する?」
「しかし、他方面への進出が現時点で難しい以上、進むべきは南です。金銭的な面では富裕商人による自治が建前のカズリクに出させると言う手もあります。進駐軍もカズリクの財力で賄うしか無いでしょう。本国の監督が行き届かない分、総督を置いて半独立的な権限を与えることも考慮されるべきかと」
「確かにアルンヘルの意見にも一理あると思うよ。海洋貿易は大きな資金になるし、フェニキアの進んだ技術を手に入れる事が出来ればフロレシアは今以上に栄える事ができると思う。ただし、カズリクに対し武力による侵攻のみが港を得る方法だとは余は思いたくない」
この皇帝の言葉で、アルンヘルの意見の採用が半ば以上決まったと言える。
「進駐後の話など獲らぬ狸の皮算用と申す物。まずはスタルナス帝国が不戦条約に応じるかどうか、それが問題だろう。スタルナス帝国軍は漸減作戦によって我らがフロレシアの軍事力を削る事をその国策としているのではないか?」
そう疑問を提示したのはオルンヘルだ。漸減作戦が大きな効果を挙げている以上、スタルナス帝国がその作戦を中止するとは考え難い。しかし。
「それならば問題ありません。オルテガ殿下は必ずや不戦条約締結を認められるでしょう」
「どうしてそう言える?」
「漸減作戦を立案したのはスタルナス帝国の参謀部です。そして、今回の使節団の副使を務めるのは東部方面軍司令長官のキエフ=ロドリナス閣下ですが、彼は漸減作戦の中止を何度も中央に進言し、全て握り潰されており、東部方面軍と参謀部はかなりギクシャクした関係になって居ます。またオルテガ殿下も愚かな作戦ばかりを立案する参謀部に嫌気が差しているのは明白です」
自信のありそうなアルンヘルの言葉に、オルンヘルも押し切られ、スタルナス帝国の軍縮を五万に譲歩する代賞として三年間の不戦条約の締結を求めると言う事が決定された。
そして、昼食を挟んで、再開された軍縮会談。その場でラインハルトはオルテガにスタルナス帝国側の軍縮を五万に譲歩する代わりに三年間の軍縮を提案した。オルテガはキエフと一瞬視線を見合わせ、頷きを交わすとオルテガが野獣的な笑みを浮かべて、ラインハルトを見て言った。
「フロレシア帝国側の譲歩に敬意を表し、そちら側の提案を全面的に受け入れる事をここに宣言する」
思わずラインはオルンヘルと顔を見合わせてしまった。こんな簡単に話しが決まるなどとは思いもしなかったのだ。せめて本国に伺いを立てるための、猶予も考えて居たほどだ。しかし、こうして呆気なく、軍縮会談は纏まった。オルテガ皇太子に余程の権利が与えられているのだろうとしか思えないほどの独断ぶりだ。フロレシア帝国側もかなりの間、半信半疑だった。しかし、会談から一週間後の三月十三日、調印式が行われ、ルーガ軍縮・不戦条約が締結されるに及び、ようやく人々はこの条約が真実の出来事である事を理解したのである。スタルナス帝国へと帰還するオルテガ皇太子一行を見送るルーガ市民の熱狂振りはレオン=ルシタニア殿下を迎えた時以上の賑わいを呈した。
1 野外演習
帝国暦三三三年三月四日。
建国祭から四ヶ月と言う時間が流れ、フロレシアはすっかり春の季節を迎えていた。
まだ地面の所々には雪が残っているが、その雪を割って、新たな芽吹きが訪れている。何処か甘い香りのする春の空気とすっきりと晴れた空の下、まだ肌寒い晩冬の風が吹きすさぶアルカディア草原に彼らの姿があった。軍服の襟を立てて、寒さに抵抗しようと虚しい努力をしている紫の髪と紅の瞳を持つ男と二十代前半と言う若さに似合わぬ何処か悟り切ったような淡い微笑を浮かべた青髪の男だ。
ギルギッド=ルメイ、大佐、第一軍第一騎兵師団第二騎兵連隊長。
オットー=セルバン、大佐、第一軍第一騎兵師団第三騎兵連隊長。
「間違ってるよな、野外演習にはまだ半月ばかり早いだろ」
ギルがもう何度も聞いた不平を再び零す。
二人とも、いや、彼らの背後に居る二千人も皆、厳重な甲冑姿で馬乗していた。
ただし、携えているのは実戦用の槍ではなく、模擬戦闘用の軽い槍だった。しかも刃には覆いが掛けられている。
彼らの吐く息も、馬の吐く息も、かすかに白い。それが今日の寒さを物語っている。
「まあ、寒い時期の戦闘もありえるから訓練は必要だとは思うけどね。備えあれば憂いなしって言うし」
「またおまえは自分だけ良い子ちゃん的な発言をしやがって」
「性格の差異だと思うね。にしても、レフィナは本当に元気だよね」
「ああ………」
オットーの言葉に、ギルは苦々しげな表情で頷く。
レフィナ=フュークル、少将、第一軍第一騎兵師団長。
そもそもと言おうかやはりと言おうか、今回の野外演習を考え出したのは彼女なのだ。
彼女が二個騎兵連隊二千を率い、赤軍となり、オットー、ギルが一個連隊ずつ率いる二千の青軍と戦うと言うのが演習の内容だ。しかし、オットーにもギルにも緊迫感は無い。ここ四ヶ月、帝都ルーガは平和そのものだった。とはいえ、ラスカーナ大陸が平和だったかと言えばそうでもない。
《豪将》ロックシルト=イヴァン中将の第六軍はハウゼン・シュタット城から時々出撃してくるキエフ=ロドリナス軍隷下諸部隊との戦闘によって、兵を補充する傍から消耗している。まさに激戦に継ぐ激戦が戦われているのだ。北のルシタニア王国ではルシタニア王国軍とドルク王国軍との間にルテティア地方を巡る小競り合いが絶えない。ルシタニア王国の若き王レオン=ルシタニアは非戦をその本望とし、国是として専守防衛を唱え、受身の軍の整備を進めているが、ドルク王国のヴァルツ=リバーエンドが挑戦してくれば迎え撃たなければならない。例え軍の整備が未完だからと言って戦わなければ、敵の蹂躙に遭うだけなのだから。パルディアでも大きな動きがあった。それまでパルディアに駐屯していたミト=ヴァレンツェの死兵師団が本国に引き上げたのだ。
その代わり、生きた人間の兵で構成されている通常編成の師団が二、三個送り込まれているらしい。スタルナス帝国のオルティア=フリンシュは相変わらず、パルディア北部に駐屯しているが、ミト=ヴァレンツェが居た頃に比べればその緊迫感は大分緩和されているようだ。
ルーナ帝国の次なる動きを上層部はあれこれと予想しているようだったが、オットーは大佐に過ぎず、そのような雲の上の話はわからなかった。
「彼女の相手はどちらがする?」
思考を現実に戻してオットーは平原の遠くを眺めながらギルに聞く。
草原は地平線の向こうまで実に見晴らしが良い。林や森が散在しているものの、他の大部分は背の低い草に覆われているだけだからだ。その地平線よりもかなり手前の位置に多数の人馬の姿が見えた。
レフィナが率いている赤軍二千騎だ。彼らの吐く息も白いのだろう。
「おまえがやれよ」
「僕よりも君の方が適任だと思うけどな。彼女の相手は」
「俺はあいつのお守り役じゃねえぞ」
「レフィナが聞いたら怒るよ?レディを馬鹿にするなって」
「お、おまえ、告げ口する気か?」
それまで大佐らしい威厳に満ちていたギルが、オットーの言葉に呆気なくその仮面を脱いで動揺する。オットーは邪心など何も無いとでも言うような天真爛漫な笑顔で、
「で、彼女の相手はどちらがする?先輩?」
ギルは士官学校でオットーの一期先輩である。
「あう………」
ギルの顔が醜く歪んだ。何とか反撃しようとするが、言葉が見つからない。
「狼煙です!」
誰かが叫んだ。声の聞こえてきた方角からして、オットーの部下だろう。
ギルとオットーが同時に赤軍の方を見る。確かに黒い煙が一条、するすると空に昇っていた。
演習開始を知らせる合図の狼煙だ。同時に、赤軍が動き出す。芽吹いたばかりの草を薙ぎ倒しながら、二千頭の馬が土煙を上げながら突進してくる。
「くそ、こんな時だけ後輩面しやがって………ちくしょう………こうなったらレフィナは俺が殺る。おまえは側面を」
手綱を絞りながら、苦渋の決断を決定した時かのように悲壮な決意の表情で、ギル。
オットーは皮肉な笑みを口の端に浮かべて、同情的な台詞を口にした。
「殺られないようにね」
「気をつける………行くぞ!」
梅干を食べたかのように顔をしかめて言い、ギルは力強く命じ、自らの愛馬の脇腹を軍靴で蹴った。馬が高い嘶きを上げ、駆け出す。彼の配下第二騎兵連隊一千騎が怒涛の勢いで、彼を追う。
彼らがある程度離れるのを待ってから、オットーは背後を振り向いた。
「僕達も行くよ」
部下一千人が皆頷く。オットーが馬腹を蹴り、第三騎兵連隊一千騎も訓練の行き届いた整然とした動きで平原の迂回を始めた。
「ギルが正面、オットーが側面から、ね」
馬の背の上に伏せるかのような低い体勢で跨り、豪奢な金色の巻き毛を風の嬲るに任せていたレフィナは動き出した青軍の動きを見て、十代の少女らしからぬ大人びた笑みを浮かべた。彼女の率いる二千騎は、模擬戦用の槍をぴったりと馬の脇腹に当て、自らもできるだけ身を低くして馬の背に張り付くようにして、風の抵抗を減らし、突進の速度を速めていた。レフィナの両側にはそれぞれの連隊を率いる二人の連隊長がやはり同じようにして突進している。二人とも、四十代の実戦経験豊かな武将である。
「師団長!このまま真正面からギルギッド隊とぶつかればオットー隊に側面を突かれますぞ!」
レフィナの呟きは耳には入っていないと見え、一人がやや身を起こして怒鳴る。
レフィナは肩越しにそちらを見て、見る者が見れば獰猛に映る笑みを浮かべて見せた。
「その前に蹴散らすわよ、あんな奴」
「あんな奴って………」
思わず唖然とする連隊長。ギルもオットーも二十代で連隊長にまで登り詰めた逸材なのだ。
少なくとも『あんな奴』呼ばわりされるような無能な将ではない。実戦で多くの修羅場を潜ってきた彼ですら彼らと遣り合って勝てると言う自信は無い。彼らの指示ならば甘んじて受けようと言う気すらある。そんな彼らをして『あんな奴』呼ばわりする彼女を、彼は一瞬理解し兼ねた。しかしそこで、連隊長ははっとした表情で自分の斜め前を疾駆する伸びやかな肢体を持つ少女の姿を見た。このレフィナ=フュークルは十代で、師団長にまで登り詰めた天才なのだ。第一歩兵師団長のアレク=ハーベストも十七歳で師団長に昇格したが、彼女はそのアレクよりも一歳年少の十六歳で師団長となったのだ。確かにこの少女からすればギルもオットーも『あんな奴』に分類されるのかもしれない。
(だとしたら俺はなんなんだ………?)
少なくとも『あんな奴』に分類される事さえ無いだろう。人生の悲哀を噛み締める連隊長であった。
そうこうするうちに、彼らとギル隊との距離がどんどん縮まっていく。
もはや相手の表情も見分けられるほどの距離だ。
「身を起こして!」
少女らしい甲高い声で、レフィナが命じ、自ら槍を構えながら身を起こした。二千騎がそれに倣う。
前方から突撃してくる黄金の巻き毛の少女を見据え、ギルは槍を握る手に力を込めた。
「食らえっ!!」
すれ違い様に、渾身の力を込めて槍を突き出す。
「なっ………」
上を見上げたギルの顔を影が覆った。なんと、レフィナが跳んだのだ。文字通り、馬上から身を躍らせて、ギルの槍を飛び越え、ギルの後ろに飛び乗る。馬の背に直立して、レフィナは満面の笑みでギルを見下ろした。しかも御丁寧な事に、空中でギルの手元を蹴り、槍を弾いている。
「なんちゅう………おまえは曲芸師か」
「私の勝ちよ、ギル。残念でした」
小悪魔としかいい様の無い笑みを浮かべて、レフィナはギルの背中を蹴った。
「くそっ、覚えてろよ!」
成す術も無く、ギルは馬から蹴落とされて落馬した。
レフィナはギルが居なくなった馬の鞍に座り、手綱を掴んで、馬を止め、辺りを見回した。
彼女の連隊とギルの連隊は入り乱れ、激しい戦闘を繰り広げていた。
しかし、練度でギル隊の方が僅かに勝るのか、ギル隊の方が纏まっている。
しかし、レフィナ隊はギル隊の二倍の人数が居るのだ。
指揮官を失い、ギル隊が浮き足立った。
それだけを確認すると、レフィナも戦場に戻り、自由奔放に暴れ回った。
オットー隊が草原を迂回し、戦場の側面に出たとき、既にギル隊は壊滅し、レフィナ隊は整列して、オットー隊が現れるのを待っていた。
しかも、レフィナの馬の前にはなぜか縄で簀巻きにされたギルが転がされていた。
落馬した後、かなり踏まれたらしく、見るも無残な姿になっている。
「あちゃー」
オットーは片手で顔を覆い、
「間に合わなかったか」
「オットー!てめえ、わざと遠回りしてやがっただろ!」
オットーに気付いたギルが芋虫のように這いながら、吼えた。
「…………」
「こらーっ!目を逸らすなーっ!」
「………良い天気だなぁ」
ギルを完全に無視して、オットーは空を見上げた。
かつかつという蹄の音に視線を戻せば、ただ一騎、レフィナが前に出てくるところだった。
「この状態で戦えば、私の勝ちは固いわよ」
「そうだね。練度がほぼ同じで、互いに隙の無い陣形を保っていれば後は数の問題だ。残念ながらギルが呆気なく負けちゃったんじゃこっちに分はないなぁ」
「こらーっ!俺のせいにするなぁっ!」
ギルは激しく抗議の声を上げるが、彼がレフィナに簡単にあしらわれなければ、彼の部隊ももう少し長くレフィナ隊と渡り合えたかもしれない。例えオットーがレフィナとの会戦を避けようとせず、まっしぐらに戦場に向かっていたとしても、間に合ったかどうかはわからない。それほどまでにギル隊はあっという間に壊滅させられたのだ。レフィナは馬上で伸び上がるようにして、槍の先でオットーを示した。
「と言う事で、部隊訓練はこれで終了。次は一騎打ちの訓練よ!」
「レフィナがしたいだけだろ」
「なんか言った、ギル?」
「いや、なんも」
ぼそっと呟いた途端、レフィナが振り返って睨み付けてくる。
ギルは目を逸らし、嘆息した。一方、決闘を申し込まれたオットーはと言えば、さっさと馬を降りていた。それに気付いたレフィナが怪訝そうな顔になる。
「何してるの?」
「いや、たまには落馬後を想定した戦闘訓練も必要なんじゃないかな?と思ったんだ」
「ふぅん―――私と組み打ちがしたいと言う訳ね?」
レフィナはにっこりと楽しそうに笑った。
「楽しそうかも」
そして、ひらりと馬から降りる。二人の周りを四千人余りの騎士達が取り巻き、固唾を呑んで見守る。オットーは精霊具《獣の槍-ハンニス》を扱う事からもわかる通り、槍捌きに優れた物を持っている。対するレフィナは士官学校で習う武術の内、ほぼ全てで教官をも上回るほどの成績を残している天才だ。騎士達にとって、実に見応えのある一騎打ちとなりそうであった。
無論、ギルも《炎獣槍-フレイムスピア》の使い手であり、オットーに劣らぬ技量を持っているが、先ほどは乱戦に突入する寸前の一瞬で戦われたため、騎士達は見物する時間が無かったのだ。
そのおかげでギルは自分の馬に乗られると言う騎士の屈辱を部下に見られずに済んだ訳だが。
オットーとレフィナは槍を扱きながら、向かい合った。
二人の間で、風が草葉を揺らす。ごくり、と誰かが息を呑んだ。
まるで、風が渦を巻いているかのように、闘気が噴きあがっている。
「行くよ、オットー!」
「何処からでも良いよ」
無垢な笑みを浮かべ、レフィナが地を蹴った。人間とは思えないほどの速度で、大地を駆ける。
三十メートル程の距離を数回瞬きするほどの時間で駆け抜け、槍を突き出した。
オットーは槍を振り上げるようにしてレフィナの槍を叩き、すばやく体を入れ替えた。
「破ッ!」
気合一閃、槍を叩き上げられて体勢を崩したレフィナの脚を狙って槍が繰り出される。
「くっ!」
レフィナは槍が空へ逃げようとする動きに逆らわず、身を浮かせた。
彼女の足元をオットーの槍が薙ぐ。
レフィナは空中で、縦に一回転し、着地すると同時にオットーに向かって横に払うようにして槍を繰り出した。なんと言う柔軟で、速い動きだろうか、最早そのスピードは常人の域を大きく超越している。しかし、そんな彼女の動きに付いていくオットーの動きもまた常人離れしていた。
自由奔放な蝶の如く動き回り、蜂の如く鋭い一撃を放ってくるレフィナを相手にし、彼もまた正確で、かつ最小限の動きで回避し、反撃の槍を繰り出す。
二人は目まぐるしく位置を変えながら、何度も槍を合わせた。
だが、何合も打ち合わせる内に、だんだんと両者の優劣が現れてきた。
レフィナは槍を打ち合わせるたびに輝かんばかりの笑みを浮かべ、楽しそうにますます身軽な動きでオットーを翻弄するのに対し、オットーの顔には汗の玉がいくつも浮かび、動くたびに空に飛んで銀色の飛沫を挙げていた。だんだんとオットーの槍捌きの速度が落ち、反撃が封じられ、レフィナの攻撃を防ぐ一方に追い込まれていく。オットーが破れかぶれで繰り出した一撃をレフィナは後方に一回転して回避した。地に脚を付くや否や、地面を這っているかのような低い体勢から一気に伸び上がり、槍を繰り出した。攻撃を回避されて体勢を崩していたオットーはこの攻撃を避けるために後方に退こうとした。しかし、そのとき、両足がもつれ、体勢が崩れた。
「あっ………!」
「貰ったぁっ!」
レフィナが嬉しそうに吼え、槍を繰り出す手にさらなる力が込められた。
バシッ。
レフィナの槍がオットーの手元を叩き、彼が持っていた槍を弾き飛ばした。
勝負が決まった瞬間だ。
「ふう」
思わずその場に腰を下ろして、打たれた手をひらひら振りながらオットーは苦笑のような物を浮かべた。
「全く、レフィナには適わないなぁ」
「でもオットーも強いよ。楽しかった」
レフィナも額の汗を拭い、笑った。清清しい笑顔だった。
「うおーいっ、いつまで俺はこの状態なんだぁっ!?」
悲痛な声で、縄で簀巻き状態のギルが吼えた。
しかし、哀れかな、オットーもレフィナもその他多くの騎兵達も彼の声を無視したのだった。
2 公爵夫人
アリーニ=アウグウェルツ公爵が反乱の折りに死亡し、アウグウェルツ家の爵位が剥奪された現在、フロレシア帝国に公爵の爵位を持っている人物は一人しか居ない。
メイ=ペンドラゴン公爵夫人、彼女のみである。
そのペンドラゴン公爵夫人はルーガの貴族区画にあるペンドラゴン公爵家の屋敷の一室に居た。
青紫色のドレスに身を包み、窓辺に置いた安楽椅子に座って、首から吊ったペンドラゴンの紋章を弄っていた。
窓から漏れ入って来る光が彼女の金色の巻き毛を輝かせ、彼女は眩しそうに水色の瞳を細めた。
皇帝より爵位と一部の領地継承を認められた彼女はエルベス川の戦闘以来の極貧生活から元の貴族らしい生活に戻っていた。
彼女の祖先はペンドラゴンの紋章に願いを聞き届けて貰い、一代で帝国随一の富を築き、公爵の位を買った。平民上がりと蔑む者も居るが、もうペンドラゴンは押しも押されもせぬ名族となった。なにしろ、公爵位を持つ者は彼女ただ一人なのだから。
と、扉が開かれ、白髪の老紳士が現れた。
穏やかに歳月を重ねたのを感じさせる、穏やかな風貌の老紳士だ。
彼女の執事を勤めているカーク=ギルディンバーグだ。
「御嬢様。セルバン様がお参りになられました」
カークの言葉に、メイの顔がぱっと輝いた。水色の瞳がキラキラと光を放っている。
「通して」
「畏まりました」
カークは胸に手を当て、礼儀正しく頭を下げた。
かつて極貧生活の折には自ら馬の手綱を握ったものだが、それも今となっては昔の記憶になりつつあるようだ。今では執事として、メイの身の回りを世話する者達を統括する立場にある。
あの極貧生活のおかげか、メイもカークも下々の者の気持ちのわかる主君と上司だとメイド達にも好評だった。カークは広い屋敷の中を少し早足で歩き、オットーを待たせている応接間の扉をノックした。
返事を待たずに扉を開け、胸に手を当て優雅に頭を下げながら言葉を発する。
「お待たせいたしました、セルバン様」
「いやいや。この部屋はいつまで居ても飽きる事が無いですよ」
穏やかな笑みを浮かべて、青髪の青年は応えた。
その言葉は嘘ではないのだろう、彼は後ろで手を組んで、応接間の一方の壁に掛けられている肖像画を見つめていた。
その肖像画に描かれているのはちょび髭の紳士とその婦人らしき貴婦人だった。紳士は椅子に座った貴婦人の傍らに寄り添い、婦人の肩に手を置いている。もう片手は杖を握っていた。
そして、椅子に座る貴婦人は金色の巻き毛と水色の瞳を持ち、胸には黒龍が天に昇る構図のダークダイヤモンドのペンダントが描かれていた。
「この紳士と貴婦人はもしや?」
「はい。ペンドラゴン家の始祖ベルモント=ペンドラゴン公爵様とその奥方であらせられるマリーヌ=ペンドラゴン様でございます」
ちょび髭のベルモントはいかにも農民から成り上がったという風な風貌をしていたが、マリーヌは貴族の娘だと容易に想像のできる、脱色したかのような白い肌をした美しい女性だった。
「実に良く似ていらっしゃいますね」
「ええ。御嬢様はマリーヌ様に良く似ておいでです」
オットーの言葉にカークも頷く。
マリーヌは見れば見るほどメイに似ていた。
メイの将来の風貌がそのまま絵になったかのようだ。
「マリーヌ様の姉君様は第五代皇帝スレイマン二世様の皇后となられた方です。ベルモント様が社交界で見初められて、周囲は猛反対なされたそうですが、二人は結ばれたのです」
「…………」
皇后の妹。
だとすれば、それなりの貴族の家の出なのだろう。どうして、ベルモントと結婚したのだろうか?
公爵の夫人と言う称号ゆえか?
それとも帝国一と称され、妬みを受ける原因となったその財力ゆえか?
だが、肖像画に描かれたマリーヌは清楚な微笑を浮かべており、金目当てで結婚するような女性には見えなかった。こう言ってはなんだが、ベルモントは然程の美男子だったと言う訳でもないようだし。
そんなオットーの考えは、恐らくこの絵を見た他の多くの人々と同じものだったのだろう。
「マリーヌ様は財産目当てで結婚なさったわけではありません。ベルモント様が亡くなられた後、財産の半分を子供に、残り半分をマリーヌ様に与えるようにと遺言状には書かれていたのに、彼女は遺産の相続権を放棄していますから」
それは結婚生活の間に考えが変わったのかもしれない。
彼女がどういう思いで結婚したのかは結局、誰にもわからないだろう。
(だが、それでも―――)
オットーは自然と口元に微笑を浮かべて、絵に描かれたマリーヌの微笑を見つめた。
彼女の微笑にはこちらをも思わず微笑ませてしまうほど、優しさが滲み出していた。
この絵を描いた絵師がどれほど彼女のこの微笑を後世に残すために苦悩したか、容易に想像が付く。
「これだけの優しい微笑を浮かべることが出きる方なら、きっとその人生は幸せだったのでしょうね。満ち足りた、暖かな人生だったのでしょう。彼女にこれほどの美しく暖かい微笑を浮かべさせるベルモント卿の人柄も偲ばれます」
「皆さん、そう仰って下さります。マリーヌ様の微笑には人の荒んだ心を癒す力があるのだ、と。私も心からそう思います。私もこの穏やかな微笑みに癒されたが故に、今の幸福な生活を得られたようなものですから」
カークもしみじみとした口調で頷く。
「そうでしょうね。確かに…心が洗われるようだ」
と、そこでオットーはカークを振り返って、軽く肩を竦めて見せた。
「そろそろ参りましょうか。姫君を待たせておくのは忍びないですから」
「そうですな。騎士様たるもの、姫君を待たせるのは頂けませんな」
片目を瞑り、冗談めかして言う。
「これは手厳しい」
「はっはっは。これを御無礼をいたしました。御赦しください」
そして二人はメイの自室へと向かった。
こんこん。
「御嬢様、セルバン様をお連れしました」
扉の向こうからカークの声がそう告げる。
メイの表情がぱっと明るくなり、窓辺の安楽椅子から飛び出した。
しかし、すぐに勢いを失くす。
(むぅ。慌てて開けてはまるで待ち侘びていたようではないか………)
その事に気付いたのである。仮にも彼女は公爵夫人と言う爵位を持つ貴族であり、セルバンは飽くまで臣民上がりの軍人でしかないのだ。しかも、将官ですらない。ただの佐官に過ぎない。
そもそも、彼女が扉を開けて迎えに出る義理も無い。しかし、尊大に振舞うのはあまり好きではない。それだけではなく、傲慢な女だとセルバンに思われるのも嫌だった。彼に嫌われるのはもっと嫌だった。
どうしようかと考えているうちに扉が外側から開かれてしまった。
結局、メイは中途半端な格好でセルバンを迎える事になってしまった。
「やあ、お久しぶり、メイ」
オットーはメイの事を呼び捨てにしている。これはメイが許可した事だ。
しかしメイはオットーをオットーとは呼ばず、セルバンと呼んでいた。
オットーよりもセルバンの方が気に入っているそうである。
「む………良く来たな、セルバン」
微妙なばつの悪さを感じつつも、メイはセルバンを迎えた。そして、セルバンが後ろ手に何かを隠し持っている事に気付く。十一歳の童女の顔が、訝しげに傾げられる。
「一体何を隠し持っている?」
「なんだと思う?」
「むぅ………?だんごか?」
「なんでだんごだと?」
「いや、特に理由は無いが」
「御嬢様は最近、だんごにハマッて居られるのです」
セルバンの疑問に、メイは目を逸らして答えをはぐらかそうとしたが、カークが説明してしまった。
セルバンはへぇ、と言う顔をして、
「どうしてまただんごに?」
するとメイは童女の顔を少し緩ませて、
「四ヶ月前の建国祭にて食べただんごなる食物に私は惚れ込んだのだ。あの甘さ!あのモチモチ感!しかもあの多彩な味わい!黄粉を塗しても良し!餡も良い!抹茶を練り込むもまた美味なのだ。串に刺さっただんご!一個目、二個目は容易に食べられるのに後になればなる程串が喉に刺さりそうになって食べるのが難しい。その人生にも似た難しさがまた趣深い」
力説するメイ。セルバンはそこまで惚れ込むか?と言う顔をカークに向ける。
「余程、あの極貧生活が御嬢様を追い詰めておられたのでしょう。あの戦闘で父上も兄上も亡くされておいでですし」
愛娘を見るような優しい表情で、カークはメイを見ながら言った。
娘と言うよりは二人の年齢差は祖父と孫の関係の方が相応しいが。
セルバンは納得したと言うように頷いて、
「じゃあ、今回はだんごを買って来るべきだったかな。まあ、今年はこんなものだけど―――」
そう前置きして。セルバンはメイの前に隠していた後ろ手に持っていた物を差し出した。
「こ、これは………」
それは花束だった。
紫色の、控えめながらも美しい花弁を持つ花だった。
それが十輪ほども束ねられているだろうか。
花弁からはなんとも言えぬ甘く爽やかな香りが香っている。
「誕生日おめでとう、メイ」
そう、この春が訪れる直前の晩冬の日こそ、彼女がこの世に生を受けた日なのだ。
メイは口を呆然と開けて、穏やかな笑みを浮かべて自分を見つめているセルバンを見返した。
「これで十二歳だ、メイは」
ぽん、と頭に手を置かれた。
「むぅ………」
そのセルバンの行為は不満だった。何故ならメイを子ども扱いしてるから。
しかし、振り払うことも出来なかった。
何故なら、セルバンの手は暖かで、穏やかな彼の性格が頭皮を伝わって沁み込んで来るような感じを受ける。心が自然と安らぐ感じなのだ。
「どうして私の誕生日を知っているのだ?」
彼女はずっと南方のベンドラゴン公爵領で生活していたため、帝都に知人は居ない。
彼女が現在唯一の公爵と言う事で、彼女に取り入ろうと近づいてくる貴族は多い。
しかし、さすがにまだ十一歳と言う事で、彼女を大人と見る人間は居ない。
確固とした後ろ盾も持たない彼女は公爵夫人と言う最高位の爵位を持っていながら、貴族達の中で孤立していた。今の帝都で最も貴族達が己の存在を売り込んでおきたい男はオルンヘル=クリケット伯爵だろう。しかし、伯爵は全く賄賂などを受け取ろうとはしないのだ。そんな帝都で、自分と親しくしてくれるセルバンの存在は彼女にとって心の拠り所だろう。そのセルバンが自分の誕生日を知っていて、花束を買って訪ねてきてくれた事が非常に嬉しかった。
「教えて貰ったんだ。カークに」
セルバンが種明かしをする。そう言えばこの屋敷には一人だけ、彼女の誕生日を知っている人間が居たのだ。彼女の出産にも立ち会った、ベンドラゴン家の重臣、カーク=ギルディンバーグ。
爵位と領地を継承したおかげで彼女の生活も元の貴族らしい華やかな物となり、使用人も大量に雇用している。極貧生活の折には一人で料理人・メイド・御者など何役もこなしたカークも本業である執事に戻っている。
「どうしても教えて欲しいとせがまれまして」
腰を折って補足するカーク。メイは頷いて、
「ありがとう、セルバン。嬉しいぞ」
「喜んで貰えて何よりだよ」
嬉しそうに自分で花瓶に花を活けるメイを微笑を浮かべて、オットーは見ていた。
と、ふと思いついたと言う表情で、彼はカークに聞いた。
「あれ以来、あの賊とは?」
彼が始めてメイと出会ったときに追い払った、ベンドラゴンの紋章を狙っていたと思われる盗賊達の事だ。カークは左右に首を振って、
「あれ以来、一度も姿を見せておりませんな。諦めたのではないですかな?」
「まあ、諦めたかどうかはともかく、帝都の中に居れば安全でしょう。しかし、帝都の外に出るときは十分に気を付けたほうがよろしかろうかと」
「ええ。しかし、その折にはセルバン様が護衛して下さるのでは?」
「無論、護衛しますが、僕にも忙しい時というものが………あ、いや、そういう時は信頼できる知人に頼みますけど」
脳裏に浮かんでいるのは赤髪の男と紫色の髪の男だ。いずれも一見こう言った事を頼むのに不向きな人種だと思われがちだが、あれで結構責任感が強い。最適の人材とは言えなくとも、信頼はできる。
(もしくはレフィナに………彼女ならば申し分ないし、年齢も近いし………でも、精神年齢だったらメイの方が大人びてるかな)
レフィナが聞いたら確実に怒り出すであろう事を考えるオットー。カークは頷いて。
「荘園の方は管理人等がしっかり管理しているので、あまり御嬢様が戻られる事もありますまい。御嬢様も貴族院に出席しなければなりませんし。但し、御嬢様はなかなか好奇心が御有りなので、あちこちと行って見たがるところがあります。遂先日も貧民街を見たいと駄々を捏ねられまして」
「まあ、抑圧する事も無いでしょうけど。貧民街にはあまり感心できない連中も居ますから」
「ええ。できる限り、目を離さぬ様私も気を付けて居りますし、召し人達にも言い付けてあります」
「何を二人でこそこそ話している?」
花を活け終え、メイが二人を訝しげに見る。オットーは素早く、話題を転じて見せた。
「綺麗に活けてるね」
途端、褒められてメイの頬が緩んだ。
「華道を習っているからな」
「うん。良い感じだよ」
「―――さて、ではそろそろ場所を移しましょうか」
微笑を浮かべ、そう言ったのはカークだった。メイとオットー、二人が顔を見合わせる。
「カーク、場所を移すって何処へ?」
メイが聞く。
「大食堂でございます。そろそろ用意が整っている筈ですから」
「………。用意?」
二人は再び顔を見合わせ、とりあえず、食堂へとカークに先導されて向かった。食堂に入った途端。
「おめでとうございます!」
花吹雪が舞い上がった。食堂の内側に整列した二十人余りのメイドが一斉に籠に入れた花びらを撒き散らしたのだ。食堂のテーブルには数十もの皿が並び、豪華な料理が溢れんばかりに盛り付けられていた。
「これは………」
思わず絶句するメイ。と、その肩に手を置く者があった。セルバンだった。
「君の誕生会だろう。十分に楽しむと良い」
「う、うむ………。にしても、多い。皆の者も食べよ」
そう言うと彼女はテーブルに歩み寄り、一枚の大皿に数百本も盛り付けられていただんごに手を延ばすのだった。その顔は緩み、満面の笑顔だ。
そこに公爵夫人と言う貴族の姿はなく、あるのはただの、十二歳になったばかりの少女の笑顔だった。
3 オルテガ
帝国暦三三三年三月五日。
この日、帝都ルーガにある国の外交使節団が入った。
団長の名はオルテガ=スタルナス皇太子。精悍な顔つきをした獅子のような雰囲気を持つ男だった。
ルシタニア連合王国のレオン王子が友好訪問した時とは異なり、帝都の住民の間にはあまり歓迎の雰囲気は無かった。二階建て、三階建てなどの朱雀通りに面した建物の二階から伸びたポールにはフロレシアの国旗である《力強き銀獅子》は無数に風を受け、はためいていたが、スタルナス帝国の国旗である《黒十字の紋章》がはためく姿は一個も見当たらなかった。
無数の《天秤の紋章》が翻り、歓迎の意を表していたレオンの時とは全く雰囲気が違う。
長年に亘り交戦状態にある敵国の次期皇帝が来たのだから、この雰囲気も納得の行くものである。
朱雀通りの両側には白鎧を着込み、武装した近衛騎士団の騎士達が警備している。
彼らは国民がスタルナス帝国外交使節団に対し、何らかの失礼な行為に及ばないよう警備しているのだが、彼ら自身の間からも険悪な雰囲気が滲み出していた。
彼らの中にも家族や友人をスタルナス帝国との戦闘において失った者も数多い。
そんな非歓迎ムードの中を進むオルテガ皇太子の顔には何の気負いもなかった。
しかし、朱雀通りを半ば進み、左右に市場が広がる区画に来ると、彼は傍らを進む老将に話しかけた。
「俺がフロレシアを訪れるのをどう思う?」
老将―――キエフ=ロドリナスは鋭い眼差しを周囲に向けながら、あっさりと答えた。
「殿下が殺害されるような事はありますまい。逆に、フロレシア帝国皇帝をガーフィールドに招けば不測の事態が起きかねませぬ」
「ルーガの方が治安は勝っている、か」
オルテガは口元に皮肉気な笑みを浮かべた。彼は父バイエルン=スタルナスがベニア=ルーナなどと言う女に現を抜かしているのを苦々しく思っている。今彼は密かに自分を支持してくれる軍人や文官を集めていた。帝国に籍を置く、身元のしっかりした者も居れば、そうではない、怪しい者達も居る。彼らに共通するのは国籍ではなく、その優秀さだけだ。その意図するところは一つ。皇位の簒奪だ。
皇太子と言う立場上、待っていればいずれは皇位が転がり込んでくる訳だが、彼はその風貌通り、決して気の長い男ではない。うかうかとして居るうちにベニア=ルーナに子でも生まれてしまえば、自分は皇太子位を剥奪された上に暗殺されかねない。バイエルンという男は元々蝮と呼ばれていただけあり、己の子だからと言って躊躇うような男ではない。オルテガは暗殺を恐れるような型の人間ではなく、国を得体の知れない新興国の皇帝に牛耳られるのを善しとするほどの小心者でもない。
殺される危険性があるならばその対処は簡単な事だ。
(先に殺してしまえば良い)
殺すだけでは只の謀反に過ぎず、それこそ隣国の皇帝の思う壺であるため、殺すと同時に皇位をも奪おうとして居るだけなのだ。ルーナ帝国の影響力を完全に排除し、スタルナス帝国を強国として復活させるのだ。外交使節団は随行の護衛兵を合わせても三百人余りの小人数だ。それに比べ、帝都ルーガには数十万のフロレシア帝国軍兵がひしめいている。まさに虎穴だ。
「ラインハルト=シーザー。どんな奴か楽しみだ」
使節団は朱雀通りを歩き終え、城前広場へと入った。フロレシア帝国皇帝ラインハルトは正装し、左右に重臣を連ねて、城前広場でこの外交使節団を出迎えた。スタルナス帝国の使節団はそこで整列し、オルテガとキエフだけが進み出る。フロレシア帝国側からは皇帝ラインハルト、宰相オルンヘル=クリケット、軍令部総長ハーン=ハーベストが前に出る。広場の中心で、五人は向かい合った。
「わざわざ陛下御自らの御出迎えに心より感謝の念を表す。我が務めが首尾よく果されんことを望む」
オルテガは慇懃無礼に言って見せた。相手を対等とみなしているような口調だが、二人は皇太子と皇帝と言う立場であり、決して対等な物ではない。オルンヘルは表情を僅かに変えたが、何も言わなかった。
ハーンはただ鋭い眼光をキエフに向けて居るのみ。ただし、その視線に敵意は無い。
相手を自分の好敵手とみなす、好戦的な眼差しだ。
最もキエフは彼の眼差しに自分の眼差しを合わせようとはしていなかったが。
そして、皇帝ラインハルトは歓迎の意を示す好意的な微笑を浮かべていた。
「わざわざ遠路はるばる来てくださり、感謝する。不幸な事に両国の間には深い溝があるが、余はその溝は埋めることができると考えている。今回の会談がその第一歩となるよう祈っている」
歓迎的な微笑を浮かべているものの、ラインハルトの口調は少なくとも相手を対等の立場の人間とは認めて居ない口調だった。
「我が父も両国の友好を願って止まぬ。元を辿れば、スタルナス帝国もフロレシア帝国もルシタニア連合王国も同じ覇皇フェルモアの子を始祖とする兄弟国。陛下には我を兄とでも慕っていただきたい」
「是非にもそう願いたいね。長い旅路でお疲れであろう。城内に客室を用意した。今宵はごゆるりと休まれよ。会談は明日の予定であるから」
「そうさせて貰おう」
「では案内を」
ラインハルトのその言葉を合図にしたかのように、その場に漂っていた緊迫した空気が霧散した。
フロレシア帝国側の歓迎陣とスタルナス帝国側の外交使節団は交じり合い、ルーガ城に向かって歩いて行った。
そもそも、どうしてオルテガ達がルーガを訪問する事となったのか?
その経緯を説明するには二ヶ月ほど前に遡る必要がある。建国祭で洸安黄を召抱え、ディハン=ギルトの尽力によって、華中大帝国の武器商人から鉄砲を輸入する事に成功していたフロレシア帝国は膨大な資金を用い、千丁余りの鉄砲と弾薬、火薬を揃える事が出来ていた。さらにこうして居る間にも死の商人達は活発に両国間を行き来し、鉄砲は増えつつある。しかし、ここに来て財務尚書のウェンヒルグ=ローレンスが悲鳴を上げた。彼は帝国府のオルンヘルの元に、鉄砲輸入によって、国家財政が相当の圧迫を受けて居る事を書類に数字を並べて提出し、鉄砲の輸入を控えるか、他の部分で経費を削減するかの二択を迫ったのだ。この問題はいくら辣腕と言えども、オルンヘル一人で採決できる問題ではないため、皇帝の下に上げられた。しかし、皇帝の考えは鉄砲の輸入を続行すると言う物だった。
「少なくとも、国内での鉄砲生産体制が整うまでは輸入を続ける」
と言うのが、彼の主張だった。
今現在、洸安黄が帝国中の刀鍛冶などの中から鉄砲鍛冶の素質がありそうな者を選別し、訓練していた。もう半年もすれば輸入せずとも自前で生産する事が可能となるとの見通しが立っている。自国生産が可能となれば鉄砲本体の輸入に掛かる費用を削ることが出きる。そこで彼は軍縮を断行する事にしたのである。当初はただ単に部隊費用を倹約しようと言う話しだったのだが、何処かでこの話を耳にしたらしいアルンヘルがラインハルトに提案書を提出して来たのだ。
その書類の中で彼は各軍団から数個の師団を削減し、その分の費用を装備費に充て、さらにフロレシア帝国だけが軍縮するのではなく、敵対国であるスタルナス帝国との間に軍縮会談を設け、両国の軍縮を話し合うべきだと提案した。
鉄砲を輸入するためと言うこちらの軍縮事情にスタルナス帝国も巻き込んでしまおうと言うのだ。この議題はすぐに帝国府の各尚書の中で話し合われ、フロレシア以上に財政窮状に追いやられているスタルナス帝国ならばこの申し出に応じる可能性が高いと言う結論に達したのだった。
実際には削減した分の金で鉄砲を輸入するのだから、軍縮にはなっていない。
フロレシアの戦力を落とさずに、スタルナス帝国の軍事力を低下させる。
これぞまさに外交の真骨頂だろう。と言う事ですぐさまラインハルトの名代として、正使・副使他百名余りの使節団がスタルナス帝国に派遣されたのだった。スタルナス帝国からの返書が届き、軍縮会談の提案に応じると言うバイエルン=スタルナスの言葉をラインハルトに伝えた。それはほぼ即答に近い物だった。暁の諜報によればこの軍縮に宰相マーク=ブリーストは反対したがオルテガ=スタルナス皇太子、キエフ=ロドリナス東部方面軍司令長官、オルティア=フリンシュ南部方面軍司令長官らが賛成したため、確たる次第となったのだと言う。その後数回使者は両国の間を往復し、軍縮賛成派のスタルナス帝国皇太子がルーガを訪れることが決し、その日時も決められた。
ここまでの経緯をハーン=ハーベスト軍令部総長に伝えたのは十日ほど前のことだ。
ラインハルトはハーン=ハーベストも賛成してくれると考えていた。
が、案に相違して、ハーンは激怒した。
「軍縮は軍の問題である。軍縮問題を軍に一言も相談せずに決するなど帝国府の越権行為ではないか!」
さすがにその怒りの矛先を皇帝に向ける事は無かったが、その舌鋒はその場に同席した宰相オルンヘル=クリケットに向かって火を吹いた。
「軍令部は陛下直属の帝国府と同列の組織である。軍の問題に関し、帝国府は軍令部に相談するのが筋道を立てることだと思うが、如何?」
ラインハルトはいきなりの事態にどう言葉を掛けて良いのかもわからずにおろおろとするばかり。ハーンの言う事は確かに正論なのだ。オルンヘルは眉間に皺を寄せて、
「軍縮問題は確かに軍の問題である部分もあろう。が、それ以前に外交問題・財政問題であり、帝国府がこれを管轄するのは必然。確かに双方の連絡不行き届きは認め、謝罪しよう。ついては軍縮会談の日時も迫って居る事であるので、軍令部にも改めて協力を願いたい」
そう言って、頭を下げた。
「そうやって頭を下げることができるならば、最初からそうして頂きたかった。そうすればこのような事で陛下に不快な思いをさせることも無かったのだ」
その場はそれで済んだ。ハーンも改めて軍縮会談の説明を受け、その大筋に賛同する旨を告げ、退室したのだった。しかし、この問題は帝国府と軍令部の中に埋め難い溝を作り出す結果となってしまった。
元々軍は帝国府の軍事尚書の隷下の一機関だったのだが、皇帝の勅令によって帝国府から独立して軍令部となったのだ。両者はそれ以来ずっと互いに対抗心を燃やしている。帝国府の文官には武官は政治や外交、ましてや財政など全くわからない野蛮人だと言う軽蔑心があるし、軍令部の武官には文官は戦場に命を賭ける事も無く平穏無事な後方に在って数字を弄繰り回すしか能の無い無能者と映る。
武官と文官の間に溝が産まれるのはこれはもうどうしようもない。
暗黙の了解とでも言う感じで、双方の若手が血気に逸るのをオルンヘルとハーンが抑えると言う構図となっていたが、いずれ不満が爆発する可能性もある。だが今は、目前に迫っている軍縮問題が重要事である。帝国府は軍令部の求めに応じて、軍縮の草案を示した。
『各軍団の歩兵三個師団、騎兵二個師団を削減する。神官軍団・傭兵軍団の人員を整理し、定員を半減させる』
これが帝国府が示した軍縮草案である。軍令部ではこの草案に対する会議を重ね、結論としてこの草案は受け入れ難いと言う結論を出した。逆に軍令部が帝国府に示した修正案は、
『各軍団の歩兵一個師団、騎兵一個師団の削減。神官軍団・傭兵軍団の人員整理は無し』
と言う物だった。理由は第六軍や第四軍など激戦地をその軍管区に抱えている軍団は計五個師団四万名もの削減には耐えられないと言う物だった。これは純軍事的な見地から見れば正論だった。
この案に対し、帝国府は以前にも増して慎重に審議を重ねた末、再修正案を軍令部に提示した。
『第一軍・第二軍・第三軍・第五軍に関しては草案の通りとし、第四軍・第六軍・傭兵軍団・神官軍団に関しては軍令部の要求を容れる』
と言うかなりの譲歩を示した案となった。これは軍令部に対し、連絡の不行き届きと言う落ち度がある帝国府が示した最大の謝意とも言うべき物だったが、軍令部はさらなる審議を重ねた末、
『各軍団の兵員数に差があるのは部隊運用上大いに困難を惹起する可能性が大きい』
と言う事を理由として、帝国府案を一蹴してしまった。その代わりに軍令部は、
『全軍団の歩兵三個師団を削減するのを認める。騎兵師団の削減は認め難い。神官軍団と傭兵軍団の人員整理も認め難し』
と言う案を示した。この案を軍令部が提出したのは僅か二日前の事だった。
二日後にはオルテガ皇太子がルーガに到着すると言う切迫した状況下で、帝国府は修正案を纏め上げることが出来ず、結果的には軍令部の案が最終案として臣民院に送られる事になった。
限られた時間の中で、臣民院での審議・採決を経て貴族院へと議題が移される。貴族院での採決が終わったのは昨日の夜の事だった。
今回のオルテガ皇太子、ルーガ訪問の前にはこのようにごたごたとした日々が続いていたのだ。
オルテガ皇太子を客間に案内した後、彼の随行者達の割り当てをオルンヘルに任せ、ラインは自分の寝室へと戻った。
オルテガの野獣のような雰囲気と事ある毎に投げかけてくる挑戦的な言葉への対応にぐったりと疲れを覚えていたのだ。
「あう~………疲れたぁ」
呻くようにして言い、ラインはそのままベッドに倒れこむように寝込んだ。
そのまま、息が深く、ゆっくりとしていき………眠りへと落ちていく。
一方、その頃、迎賓館の貴賓室に通されたオルテガは用意された紅茶に口を付けていた。
毒殺される可能性など全く考えていないかのような無頓着な飲み口だ。
「―――美味いな」
部屋の中には彼一人しか居ない。
彼はそう呟くとティーカップをテーブルに置き、窓際に立った。
そこからは巨大な帝都の様子が一望の下に見晴るかすことができる。
ガーフィールドの雑然とした町並みとは違う、区画がしっかりと整理された整然とした街並みが彼を圧倒し、屈服させようと迫ってくる。
「面白い」
オルテガはその精悍な横顔に野獣のような笑みを浮かべて見せた。
スタルナス帝国とフロレシア帝国の国境を越えてから、帝都ルーガに到着するまで、いや、到着した後も含めて、フロレシア帝国の文化はスタルナス帝国よりも遥かに進んでいた。
国力の違いをまざまざと見せ付けられた感じである。税率が引き下げられたおかげで、農民は裕福ではないものの、飢える事も無く、笑い合っている。飢餓に苦しむスタルナス帝国の民とは対照的な姿だ。帝都ルーガもガーフィールドに比べ、遥かに巨大で、遥かに整然としていた。
そもそも、スタルナス帝国の総兵力は五十万余。
それに引き換え、フロレシア帝国の総兵力は百十万余。
遥かにフロレシア帝国の方が優勢なのだ。
だが、オルテガはそんな事など関係ないとでも言う風に帝都の光景を睥睨していた。
「この街をいずれ必ず、手に入れてみせる」
その言葉は敵国の宮城で口にするには余りにも危険な言葉だった。
この部屋だって、この国の情報部によって監視されているかもしれない。
しかし、オルテガはそんな事全く気にしていないようだった。
オルテガは窓辺から離れると本国から持ってきた書類鞄を開き、一通の書類を取り出した。
それは参謀部で作成された軍縮草案だ。そこにはこう記されていた。
『本国軍軍縮五万名以内。フロレシア帝国軍軍縮一個軍団またはそれに類する兵力削減。以上』
その数字を実現させることこそ、彼に課された至上命題なのだ。
キエフ=ロドリナスの東部方面軍の漸減作戦によって、第六軍はかなり戦力を消耗している。
軍縮で一個軍団削減とすれば、第二軍団か或いは第三軍団と言ったところだろう。
どちらにせよ、既に第六軍がほとんど戦力となっていない今、さらに一個軍団の削減は痛いはずだ。
そう言う意図の下に作成された草案であり、外交的な配慮は払われていない。
もっともそれはフロレシアも同じ事で、両国共に外交と言う面では同じように未熟であった。
「もっとも、俺ならスタルナス帝国の全軍を率いて、フロレシア帝国の全軍と戦って蹴散らしてやるがな」
獰猛な獅子の如く歯を剥いて言い、オルテガは書類を鞄に戻した。椅子に座り、先ほど少し残した紅茶を一気に飲み干すと彼は身に付けていた正装を剥ぎ取るようにしてラフな格好になるとふかふかのベッドに身を投げ出した。すぐさま巨大な獣のような寝息を立て始める。後世の歴史家はこの日を特別な日だとしている。後に最大の宿敵同士になる二人の男が始めて出会った瞬間であると。
後に覇皇となる男、フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザー。
後に金猛の獅子王と呼ばれる男、スタルナス帝国次期皇帝オルテガ=スタルナスの二人が。
しかし、まだこの時、将来を正しく見据えている人間がどれほど居ただろうか?
この時代、ラスカーナ大陸は数ヶ月先の状況すら読めぬほどに混迷の度合いを深くしていたのだ。
軍縮は果して、平和への架け橋となり得るのであろうか?或いは否か。
帝都の知識人達の間では盛んに、今回の軍縮に関する激論が戦わされて居る。
『遂に、スタルナス帝国はフロレシア帝国の威の前に屈し、城下の盟を誓いに来たのだ』
と言う見当違いな物から、
『軍縮で浮いた金で何をする?より多くの敵を殺せるよう、装備を更新するだけではないのか?その結果、何が生まれる?言わずもがな、大陸の覇権を賭けた大いなる大戦に違いない』
と言う、かなりの卓見まで。だが、間違いなく彼らは歴史の動く瞬間に立ち会っているのだ。
4 ルーガ軍縮・不戦条約締結
帝国府にある会議室の一つ、『白鷺の間』にて、軍縮会談が始まろうとしていた。帝国府の東側にある窓からは朝日が差し込み、室内を明るく照らしている。窓の外にはかなりの規模を持ち、よく整備された庭園が見え、その向こうにルーガ城の尖塔が見えた。一本の巨木から削りだした長さが十五メートル、幅が三メートルの長テーブルを挟んで、フロレシア帝国側とスタルナス帝国側の代表連が向かい合っていた。フロレシア帝国側は朝日の差し込む窓を背に負う形だ。
これはフロレシア帝国側からは相手の顔色が見えるが、相手からはフロレシア帝国側の顔色が逆光に近くなって見え難くなる事を計算に入れての座り方である。
フロレシア帝国側は皇帝ラインハルト=シーザー、宰相オルンヘル=クリケット、財相ウェンヒルグ=ローレンス、軍令部総長ハーン=ハーベストが参加し、スタルナス帝国側は全権大使オルテガ=スタルナス、副使キエフ=ロドリナスの二人だ。一同は相互に挨拶を交わし、着席した。
シエナやサリアなどの侍女達が一同の前に紅茶を置き、一礼して退室していった。
「さて、それでは軍縮会談を始めよう」
ラインハルトの宣言によって、軍縮会談は始まった。
「軍縮をどう思う?」
「どうって………」
いきなり問い掛けられて、アレクは困惑したように眉根を寄せた。そのままの表情で、問いを発した人物を見返す。整った顔立ちをした三十代ほどの男で、背の高い締まった体を帝国軍の軍服に包んでいる。
男からはぷんぷんと女物の香水の香りが漂っていた。首筋にはうっすらと紅の後すらある。
少なくとも、このような堅い話題をするような風体には見えなかった。
男は応接セットの柔らかなソファに身を沈めると、扉の傍に立っていたリーナを笑顔で振り返って、
「リーナちゃん、熱いお茶を淹れてくれないかな?君の淹れるお茶は美味しいから」
「すぐに淹れてきます」
リーナはしっとりとした柔らかな微笑を浮かべて答え、出て行った。
男はソファでふんぞり返ってアレクを見つめ、
「まだ考えてるのか?」
「いや、まあ、軍縮をどう思うかって言われてもなぁ。別に良いんじゃないすかね?スタルナスの方も軍備を縮小するなら大勢に影響はないでしょ」
アレクはそう答えてから、今、思い出したという風に相手を見据えて、
「それで、いきなり入って来ての一声が『軍縮をどう思う?』ってのはどういう事なんですか?」
アレクが珍しく敬語を使う相手。しかも敬語の割に口調は馴れ馴れしい。となれば、彼と話している男がシオン=クリケット第二軍団長だと言う事はわかりきった事だ。アレクは師団長・少将であり、シオンは軍団長・中将、しかも軍令部次長を兼任していると言う軍部の重鎮なのだから本来ならばこんな馴れ馴れしい話し方は許されない。無論、公式の場ではアレクも敬語で話している。しかし、ここは公の場ではなく、アレクの執務室だ。二人は中将と少将と言う関係以前にフロレシア帝国北方の片田舎ローデンスで共に遊び暮らした幼馴染なのだ。
と言うよりも、シオンはアレクやライン、シエナなどの兄的存在だったのだ。
「いや、まあ、時事問題を口にしてみただけなんだが」
「…………」
軍令部次長とは思えぬ発言に、さしものアレクも呆気に取られ、場に気まずい沈黙が降りる。
そこへ、絶妙のタイミングでリーナが戻ってきて、二人の前に紅茶を置いた。
シオンはその紅茶の香りを嗅ぐように鼻の前でカップをゆっくりと回した後、一口口に含んだ。
味わいを楽しむように舌の上で転がし、ごくりと飲み込む。
「美味い。リーナちゃんの淹れる茶は最高だよ。アレクには勿体無いな」
「そんな、ただの紅茶ですよ」
「いやいや、この香り、味わい、舌触り、喉ごし………実に美味い」
「市場で買ってきた安物の茶葉を使ってるんですよ、アレクは紅茶の味なんてわからないから」
「いやいや、リーナちゃん、この紅茶は君が淹れる事で、最高の味になるんだよ」
先程までの気まずさが嘘のように、饒舌にシオンは褒める。女垂らしな笑顔を浮かべて。リーナもまんざらではない様子で応えている。アレクは少し不機嫌そうな口調で、楽しそうな二人の会話を遮った。
「それで一体、軍令部次長殿はどのような用件でこのような場所に来られたのですか?」
意図的な敬語。そこには悪意が見え隠れする。
「いや、まあ………」
シオンが言葉を濁した。その視線が泳ぐ。
「軍令部次長だったら、軍令部に待機して軍縮会談の結果を待ってなきゃなんないんじゃないすか?」
「ん………まぁな」
歯切れの悪いシオン。アレクははぁ、と嘆息して、
「要は暇だった………と」
「軍縮会談は何時に終わるかもわからないからな。次長室にずっと篭ってるなんて鬱屈しちまう。立場が逆であればおまえも同じ事をしてたはずだ。俺が言うのもなんだが、俺とお前は似てる所がある」
「まあ、そうだろうけど、軍縮会談が何時終わるかもわからないなら尚更次長室で待ってた方が良いんじゃないすか?」
「お前もそう思うか?」
「自分でもそう思ってんなら、早く戻ったほうが良いと思う」
「わかった」
大人しく頷くと、シオンは紅茶の残りを飲み干して、
「本当に美味しかったよ、リーナちゃん。監獄に囚われた哀れな小鳥が久々に翼を伸ばせたような気分を味わえたよ。それじゃまた、今度は俺が君に美味い茶を飲ませてあげよう」
「軍団長。人の副官を誘惑しないでください」
「師団長の副官は師団長の所有物ではあるまい?なぁ?リーナちゃん」
アレクの不機嫌そうな口調に、シオンが揶揄するように聞き返す。
しかも馴れ馴れしくリーナの肩に腕を回しながら。
「え、えと………とりあえず、首と胴、離婚します?」
肩に腕を回されて、リーナは巨大な鎌を取り出して見せた。人間の首など簡単に狩れるだろう程の。
すすすーっとシオンがリーナから離れ、
「ま。師団長と副官の信頼関係にひびが入るのもあまり歓迎できる状況ではないからな。俺はそろそろ行くとするか」
そのまま、執務室から出て行った。
「一体なんだったんだ………?」
アレクが眉間を揉みながら、呻く。リーナは所在無さげに鎌を弄りながら、
「嵐のような人でしたね」
「良いからおまえは鎌をしまえ」
軍縮会談は双方の軍縮案を提示する事から始まる。オルンヘルがまずフロレシア帝国側の軍縮案を提示する。それはフロレシア帝国の軍縮として、
『六個軍団からそれぞれ三個歩兵師団ずつ計十八万名の削減』
そして、スタルナス帝国へは、
『九万名の兵力削減』
を求めた。スタルナス帝国にどれほどの兵力削減を求めるか、と言う事を聞かされて居なかったハーンだったが、別に表情を変える事も無かった。
百八万の帝国正規軍(傭兵軍団・神官軍団・帝都防衛隊・近衛騎士団を除く)の中から十八万名を削減するのなら総兵力が五十万余りのスタルナス帝国軍が九万名の削減と言うのは妥当だろうと判断したのかもしれない。これに対し、スタルナス帝国側のオルテガ皇太子が示した軍縮案は、
『フロレシア帝国に一個軍団相当の軍縮を求め、スタルナス帝国は五万名余の軍縮を実行する』
と言う物だった。双方の案からすればフロレシア帝国の軍縮は同意しやすいだろう。
スタルナス帝国が求める一個軍団相当とはすなわち十八万名と言う事なのだから。
問題なのはスタルナス帝国側の軍縮だ。これはフロレシア側とスタルナス側とで倍近い差異がある。要は一割軍縮と二割軍縮の差なのだが、一割の差は大きい。スタルナス側をどれほど譲歩させ、妥協させるかがフロレシア外交の見せ所だろう。しかし、その後の話し合いでも妥協点は見つからず、昼時となった為、一度散会し、休息の後午後からもう一度会談する事が決定された。
帝国府の一室、フロレシア側の控え室と定められたその部屋で、ラインは憔悴した様子で座っていた。午前中一杯を掛けた会談は神経を磨り減らすようなものだったのだ。
「どうしよう、父さん?このままじゃ交渉が決裂しちゃうよ」
昼食を共に食べているのは、会談に臨んだ四人だ。ラインの言葉に、オルンヘルは難しい表情で、
「こちらが一個軍団の軍縮なのに対し、向こうがたった五万では一方的に向こう有利過ぎるだろう。数字的な妥協が難しいなら別の要求を出す必要があるかもしれん」
「別の要求、とはなんです?」
まだ晩冬だと言うのに、額に汗の玉を浮かべているウェンヒルグが、ハンカチで汗を拭いながら聞く。
「それを考えねばな………」
「―――ならば、私に一つ案があるのですが」
声は部屋の外からした。
「―――誰だ?」
誰何したのは軍令部総長のハーンだ。昼食は密談を兼ねるので、扉の前には守備兵は居ない。しかし、帝国府全体で見ればかなり厳重な警備体勢が取られており、不審者が容易に入り込める状況ではない。
「アルンヘル=へード大佐です」
「アルンヘル?良いよ、入って」
「失礼します」
皇帝の許可を得て、灰色の髪に同色の瞳を持つ何処となく暗い雰囲気を身に纏った男が入って来た。
彼がこうも簡単に目通りを許されるのは、彼が軍籍に身を置きながらも皇帝直参の参謀に任じられて居ると言うその特殊性にある。軍部からもある程度自由な行動を取る事を保障されて居る彼は皇帝からも、皇帝への謁見手続きを省く事を許されているのである。謁見手続きの省略を認められている人間が彼の他には一人しかいない。他ならぬ宰相のオルンヘル=クリケット伯爵だ。これを見ても、アルンヘルの特殊性が容易に理解できるだろう。
「何の用だね、大佐?今は重要な会議中なのだが」
オルンヘルの口調はいつもと変わらないようだが、ラインハルトにはいつもとの違いがわかった。
オルンヘルがアルンヘルを好きになれないのを彼は知っている。確かにアルンヘルの立てる策は的を射ているが、いつも人命を損なうのだ。それがオルンヘルは気に入らないのだろう。
しかし、アルンヘル自身はそんな宰相の刺々しい口調にも一向に堪えた様子もない。
「献策に参ったのです。この際、軍縮条約だけでなく、不戦条約も締結するべきだと私は考えるのです」
「不戦条約だと?」
ぎょろりと目を剥いて、ハーンが聞き返す。アルンヘルは頷いて、その視線を財務尚書ウェンヒルグへと向けた。
「フロレシア帝国は度重なる戦闘でその財政がかなり逼迫している。違いますか?」
アルンヘルの冷たい光を宿す目に見つめられて、ウェンヒルグの額に吹き出る汗が倍加する。
「た、確かにこのままスタルナスの漸減作戦が続けば財政的に窮乏するのは間違いありません」
「穏当な表現ですね。さすがは男爵閣下。しかし、現実を見据えるならば既に窮乏しているとしなければならないでしょう。いや、これでは正確性に欠けますね。欠乏し始めていると言うのが最も適当でしょうか?………次に、第六軍の兵員の質を一定に保つため、他軍団から転出している兵員数はどれほどですか?軍令部総長閣下?」
「約六万だ」
渋面でハーンが答える。四ヶ月前に始められたスタルナス帝国東部方面軍による漸減作戦はかなりの効果を及ぼしていた。第六軍は新兵を徴兵するものの、訓練が追いつかず、仕方なく他の軍団―――主に第三軍―――から部隊を転用していたが、その消耗も激しく、補給的にもかなり苦しい戦況が続いている。特に熟練の中隊長や連隊長の消耗が激しく、補充も難しい状態だ。
「その通りです。このまま悪戯にスタルナス帝国と争っていても、財政的に総攻撃は不可能。ずるずるとした戦いを続けていればいずれ財政に限界が訪れ、帝国は瓦解する。それ以前に、そのような先の見えない戦は臣民の士気を著しく低下させます。不戦は永続する必要はありません。フロレシアが失った戦力を取り戻し、財政的なゆとりを持ち、陛下が推し進めておられる鉄砲連隊の育成が達成できるだけの時間を得られれば良いのです。それともう一つ、進言したいのは新たな貿易路の開拓に関してです」
「貿易路って………華中大帝国と?」
ラインハルトが聞く。鉄砲の話が出たので、連想でそちらへ行ったのだ。
「いえ。新たな交易のパートナーとなるべき国は―――」
アルンヘルはその場に居る者達全てを見渡して、はっきりと言った。
「フェニキア自由都市連合です」
「馬鹿な!フェニキアは海を隔てた遠国だぞ。今でさえ行商人などは来ているが、本格的に交易を始めるとなれば港が必要だ。しかし、我がフロレシアは内陸国。四辺何処も海に面してなどいない」
「フロレシアの力を海に及ぼすには西のスタルナス帝国を滅ぼし、さらにスタルナス帝国の西にある群小国家を併合するか、北のルシタニア王国を抜け、ルシタニア連合王国北方の諸国家、特にホンブルク王国と争うか、東のロデン教聖区や華中大帝国を滅ぼすか、南のアルティス荒野を抜けるしかない。いずれにせよ、かなりの覚悟と犠牲が必要だろう。無論、財政的にも大きな負担が必要となる」
問題の困難さを指摘したのはハーンだ。さすがに軍令部総長なだけはある。
「その準備の一歩として、スタルナス帝国と不戦条約を結ぶのです。不戦している間に最も与し易いと想像される南方の砂の民を駆逐し、港湾自由都市カズリクを制圧するのです」
「カズリクではルーガから距離があり過ぎるだろう。制圧した後、進駐軍を維持するのにも莫大な費用が掛かる上に補給線が伸び切ってしまう。そもそも、荒野の蛮族をどう排除する?」
「しかし、他方面への進出が現時点で難しい以上、進むべきは南です。金銭的な面では富裕商人による自治が建前のカズリクに出させると言う手もあります。進駐軍もカズリクの財力で賄うしか無いでしょう。本国の監督が行き届かない分、総督を置いて半独立的な権限を与えることも考慮されるべきかと」
「確かにアルンヘルの意見にも一理あると思うよ。海洋貿易は大きな資金になるし、フェニキアの進んだ技術を手に入れる事が出来ればフロレシアは今以上に栄える事ができると思う。ただし、カズリクに対し武力による侵攻のみが港を得る方法だとは余は思いたくない」
この皇帝の言葉で、アルンヘルの意見の採用が半ば以上決まったと言える。
「進駐後の話など獲らぬ狸の皮算用と申す物。まずはスタルナス帝国が不戦条約に応じるかどうか、それが問題だろう。スタルナス帝国軍は漸減作戦によって我らがフロレシアの軍事力を削る事をその国策としているのではないか?」
そう疑問を提示したのはオルンヘルだ。漸減作戦が大きな効果を挙げている以上、スタルナス帝国がその作戦を中止するとは考え難い。しかし。
「それならば問題ありません。オルテガ殿下は必ずや不戦条約締結を認められるでしょう」
「どうしてそう言える?」
「漸減作戦を立案したのはスタルナス帝国の参謀部です。そして、今回の使節団の副使を務めるのは東部方面軍司令長官のキエフ=ロドリナス閣下ですが、彼は漸減作戦の中止を何度も中央に進言し、全て握り潰されており、東部方面軍と参謀部はかなりギクシャクした関係になって居ます。またオルテガ殿下も愚かな作戦ばかりを立案する参謀部に嫌気が差しているのは明白です」
自信のありそうなアルンヘルの言葉に、オルンヘルも押し切られ、スタルナス帝国の軍縮を五万に譲歩する代賞として三年間の不戦条約の締結を求めると言う事が決定された。
そして、昼食を挟んで、再開された軍縮会談。その場でラインハルトはオルテガにスタルナス帝国側の軍縮を五万に譲歩する代わりに三年間の軍縮を提案した。オルテガはキエフと一瞬視線を見合わせ、頷きを交わすとオルテガが野獣的な笑みを浮かべて、ラインハルトを見て言った。
「フロレシア帝国側の譲歩に敬意を表し、そちら側の提案を全面的に受け入れる事をここに宣言する」
思わずラインはオルンヘルと顔を見合わせてしまった。こんな簡単に話しが決まるなどとは思いもしなかったのだ。せめて本国に伺いを立てるための、猶予も考えて居たほどだ。しかし、こうして呆気なく、軍縮会談は纏まった。オルテガ皇太子に余程の権利が与えられているのだろうとしか思えないほどの独断ぶりだ。フロレシア帝国側もかなりの間、半信半疑だった。しかし、会談から一週間後の三月十三日、調印式が行われ、ルーガ軍縮・不戦条約が締結されるに及び、ようやく人々はこの条約が真実の出来事である事を理解したのである。スタルナス帝国へと帰還するオルテガ皇太子一行を見送るルーガ市民の熱狂振りはレオン=ルシタニア殿下を迎えた時以上の賑わいを呈した。