覇皇伝
第五章 祭りの終焉
第五章 祭りの終焉
1 戦いの後
ブレンヒルトが立ち去った事により、結界は壊れた。
皇帝が襲撃を受けたとなれば騒ぎになる。
建国祭に沸き立っている国民を不安にさせる事は避けなければならない。そのために暗殺未遂の事実も公表せず、目立たないように警備を厳重にしているのだ。
とはいえ、帝都守備隊は事情を知らされているわけではない。
守備隊の兵を呼んでラインハルトを城に運ぼうとすれば、嫌でも人目に付く。
(かといって、私は城への抜け道を知らないし………)
レイアードは揺すっても起きない。完全に気を失ってしまっている。
そしてそれはラインハルトも同じだった。
途方に暮れたようにジュナは辺りを見回し、そして、ふと気付く。
見覚えのある曲がり角を見つけたのだ。
ジュナはそちらへ駆け寄り、曲がり角の向こうへと視線を走らせる。
ぴんと来ない。今度は反対側。今度は神経に触れる物を感じた。
(この道………間違いない、見た事ある!)
それはエシュアの家に、彼が引き取った子供の様子を覗き見しようと行った時に通った道に間違いなかった。
(ここからなら、頭領の家まで人通りの無い道を通っていける)
それでも通行人は居るかもしれない。見られたらどうしよう。けが人を二人も抱えていれば不審に思うだろう。そしてそのけが人の一人が皇帝だと知られたら大変な事になる。
だが、かといって、こんな場所に陛下を寝かして置く訳にはいかない。
この道だっていつ人が通るかわからないのだから。
「―――やるしかないわね」
覚悟を決めて、ジュナはラインハルトの脇に膝を付いた。
「失礼します。陛下」
落ちていた彼の外套で頭を覆う。これで少しは目立たないだろう。
ラインハルトを背負う。まだ少年、しかもかなり華奢な為か、鍛えているジュナにとってはほとんど負担とも感じられない程度の重さしかない。
皇帝を背負ったジュナは次に、レイアードの腕を肩に回し、引きずり起こした。
こちらは大の大人であるだけにかなり重い。
肩を貸して立たせても、レイアードの方が上背があるだけに、両足を引きずるような形になるのは仕方が無い。ジュナは二人の男を背負い、よろめきながら歩き出した。
エシュアの家はジュナの記憶通りの場所にあった。辺りは静まり返っている。
皆、祭りに出かけているのだろう。幸いな事に、ここまで誰にも見咎められていない。
通行人の気配が近づいた時は、物陰に隠れたりしなければならなかったのだが。
彼女の先読みの能力が威力を発揮した。
ジュナが扉を叩くと、すぐに扉が開いた。
開けたのは喉に傷跡のある五歳ぐらいの子供だった。
一瞬、どう説明しようかとジュナは悩んだ。
彼女はこの子の事を知っている。フロムと言う名前で、エシュアが引き取って育てている子供だ。しかし、彼は彼女の事を知らないだろう。
「えと………エシュアって言うここの家の人、わかる?白髪の」
こくっとフロムが頷く。
「私、その人の部下なんだけど、この二人が怪我をしてしまって。それで頭領―――エシュアって言う人の事なんだけど―――に、状況を報告しなくちゃならなくて。それまでこの二人をここに置いて貰っても構わないかしら?」
フロムはしばし考えた後、扉を開けたまま、家の中に駆け込んで行った。
ジュナは戸口に立ち、外を窺いながらフロムを待つ。
軽い足音を立てて、フロムが戻ってきた。その小さな手に画用紙とペンを持っている。
「?」
疑問符を浮かべるジュナの前で、フロムが紙に何事かをすばやく書く。
そしてその紙をジュナに向けて掲げて見せた。
『おねえちゃん、れいあーどって人?』
(私達の事を話してる?)
一瞬、養子に自分の部下の話をしているエシュア、と言う図を想像しかけ、半眼になる。
(と言うか、性別も話してないの?一体、何を話してるんだろ)
「違うわ。私は、ジュナ。レイアードはこっちよ」
目でレイアードを指す。フロムはもう一度紙にペンを走らせ、掲げて見せた。
『どうやら本物みたいだね』
そして扉を大きく開いた。入って良いらしい。ジュナは安堵し、もう一度外を見回し、通行人が誰も居ないことを確認してから、エシュアの家の中に入った。同時にフロムに対する感嘆の思いも浮かんでいた。恐らくはエシュアは二人の事をちゃんと話していたのだろう。そして、わざと間違えて、確認したのだ。もしレイアードかと聞かれて頷きでもしようものならそいつは偽者と言うわけだ。恐るべき五歳児。将来が楽しみではないか。
家の中はエシュアの性格を示しているかのように綺麗に片付いていた。
フロムの悪戯の形跡も無い。フロムは五歳児とは思えない大人びた動きでジュナを寝室に案内した。どうやらエシュアのらしい。彼らしい無愛想な部屋だった。
ジュナは居間のソファに無造作にレイアードを転がした後、この寝室のベッドにラインハルトを横にした。
ジュナが寝室から出てきたとき、フロムはソファに寝かされているレイアードに毛布を掛けていた。
「ありがとう、フロム君」
ジュナが礼を言うとフロムはこくりと頷いた。
「それじゃ私は行くわ。私が戻るまで、誰が来ても開けちゃ駄目よ」
再び、こくり。
ジュナは玄関の扉を開け、体を半身外に出しながら、肩越しに振り返った。
フロムは以前、レイアードと覗き見たときと同様、安楽椅子の足元で画用紙に絵を描いていた。
一瞬声を掛けようかとも思ったが、フロムがそれを望んでいない事はその背中を見ればわかる。
外界との接触を拒絶してはいないが、歓迎してもいない。
まだ父を失った悲しみを克服出来てはいないのだろう。
ジュナは顔を前に戻すと、一歩前に踏み出し、後ろ手に玄関の戸を閉めた。
フロムを見ていると自分の過去を思い出しそうになる。
忘れた………忘れた振りをしている、自分の過去を。
暁に居る人間は皆、それぞれが事情を抱えている。
幸せな過去を持つ人間など一人も居ないのだ。幸せな過去を持っていた者もそれ以上に悲惨な出来事がその幸福を塗り潰してしまっている。
ジュナは一度目を閉じて深呼吸すると駆け出した。
城ではオルンヘル=クリケットと彼の娘シエナ=クリケットが戻ってこないラインハルトを心配していた。シエナ=クリケットも一昨日城内で起こった殺戮事件を知っている。しかし、ラインハルトが暗殺の危機にあると言う情報は知らなかった。しかし、女の直感で何かを感じ取っていたのだ。
彼女は何か知らないかと帝国府にある宰相執務室に父を尋ねていたのだ。
しかしそこにはエシュアも難しい顔をして控えていて、シエナは咄嗟に表情を強張らせた。
オルンヘルが彼女の姿を見るなり、その視線を逸らしたのだ。
(何かある)
「―――どうしたのだ、シエナ?」
オルンヘルが訊く。
「陛下がまだお帰りになられていないようですので、何か御存知で無いかと」
「知らん」
オルンヘルの表情が強張る。場に控えめに言っても居心地の悪い空気が流れる。
シエナの金色の瞳がエシュアに向けられる。
エシュアは何食わぬ顔で、窓から外を眺めていた。シエナの存在にも気付いていないかのようだ。
オルンヘルが咳払いし、未決の書類箱の一番上の書類を取り、目を通し始めた。
一通り目を通し、判を押し、既決の書類箱へと移す。
たった数秒で一つの案件を決めてしまった。
最初はぎこちなかったその動きが徐々に滑らかになり、未決の箱の書類がどんどん少なくなっていく。
そして、オルンヘルが最後の一枚に判を押し、既決の箱へと移した時、扉がノックされた。
オルンヘルの表情が強張り、エシュアが窓から扉にその鋭すぎる視線を移した。
シエナも振り向く。
「入れ。いや、待て。誰だ?」
「ジュナです」
すばやく動いたのはエシュアだった。さっと扉に近寄り、開ける。
そこには確かにジュナが汗を浮かべて立っていた。かなり焦って走ったらしく、息も荒い。
「陛下は御無事か?」
エシュアが何か声を掛けるよりも早く、オルンヘルが声を掛けた。
エシュアがジュナを室内に入れ、廊下を見て立ち聞きしている人間が居ないのを確認してから扉を閉じた。
シエナはオルンヘルがジュナに掛けた言葉によって、自分の嫌な予感が具現化されつつある事を悟り、表情を強張らせていた。
ジュナが気まずそうにシエナを見る。その視線の意味に気付いて、オルンヘルが頷いた。
「構わん」
ジュナは少し顎を引くと、
「ブレンヒルトの襲撃を受けました。何とか撃退は出来ましたが、レイアードが重傷、陛下は御怪我はありませんが、現在意識を失っております。私一人では二人を人に見つけられずに城内に運び込むのが困難だと判断したため、無断で申し訳ありませんが、頭領の御自宅にお運びしました」
「そうか。エシュア」
「はっ」
エシュアはオルンヘルに頭を下げた後、ジュナに向き直り、
「行くぞ」
「はい!」
「あの………私も行って良いですか?」
部屋を出て行こうとした二人にシエナが堪りかねたように声を掛ける。
エシュアは一瞬オルンヘルへと視線を向け、一つ頷くと、
「良いでしょう。走りますよ」
「ええ」
嬉しそうに頷き、三人は宰相執務室を飛び出して行った。一人残されて、オルンヘルは顎の下で手を組んだ。その眉間には新たな難問を突き付けられたときのように深い縦皺が刻まれていた。
「―――どうやって聖護院を撃退したんだ?あいつ」
エシュアが玄関の戸を叩き、中に居るであろうフロムに声を掛ける。
「私だ。開けなさい」
フロムが扉を開けるまでの間を惜しむかのように、エシュアはその鋭い眼差しでジュナを見やり、
「どうして私の家の場所を知っている?」
「えっ………」
「私の家の場所はレイアードしか知らない筈だが?」
「えーっと………なんででしょう?」
目を逸らしながら乾いた笑い声を上げるジュナ。無論エシュアは彼女がどうして自分の家を知っているのかを知っている。ただの嫌味だ。と、そこで扉が開けられた。黒髪の子供が出迎える。
「異常は無いか?」
エシュアがフロムを見下ろして問う。こくりっとフロムは頷いた。
エシュアが眼差しを緩める事も無く、フロムの頭に手を置く。
「御苦労だった」
「失礼します!」
そんな彼の脇を通り抜けて、シエナが家の中に入っていく。
ここに来る道すがら、走りながら彼女はブレンヒルトの襲撃を初めて受けた二日前の晩からの話を教えられたのだ。ジュナにより、ラインハルトが寝室に寝かされていると言うことも知らされている。彼女はすぐに寝室を見つけ、扉のノブを掴もうとして、はっと手を引いた。
(私の方が年上なのよ………落ち着かなくっちゃ)
胸の前で手を組み、深く息を吸い、吐く。気分がすーっと落ち着いていった。
(―――よし)
「陛下、入ります」
返事は返ってこない。
シエナが扉を開けると、ラインハルトはベッドの上に身を起こしたところだった。
「やあ、シエナ」
微笑んで、名を呼んでくる。シエナは一歩前に出、後ろ手で扉を締めて、
「寝て無くて大丈夫なの?」
侍女から幼馴染に口調を戻し、訊いた。ラインは頷いて、
「怪我はしてないから。何が起こったのかも覚えて無いんだけど」
その視線が空を泳ぎ、ベッド脇の机に置かれた《覇皇剣-サナトゥス》に向く。
「《覇皇剣-サナトゥス》の声が頭の中でわんわん響いてたのは覚えてるけど」
「そう。もう―――心配したじゃない」
大した事は無いと安堵してだろう、シエナがほっと息を吐く。
と、扉がノックされた。
「シエナ殿」
「その声はエシュアかい?入って良いよ」
「はっ………」
扉が開き、エシュアが入ってくる。
「御体の調子はいかがですか?」
「僕は大丈夫だよ。それより、レイアードは?」
「骨を少々折っていますが、命に別状はありません」
「そう。すまない。余の為に君の大切な部下を傷つけてしまった」
「陛下が御無事ならば宜しいのです」
エシュアの言葉が冷酷に響いた。それが彼の率いている暁と言う部隊の特殊性だろう。
ラインとシエナが何も言えずに沈黙していると、エシュアは、
「レイアードを病院に搬送する必要があります。陛下も御城に戻られた方が宜しいかと」
「うん。そうするよ。君の寝室を借りてしまって、すまない」
「構いません」
「よし。じゃあ行こうか、シエナ」
「はい」
ラインハルトの言葉に、シエナは大きく頷いた。
「ところで、陛下。一つ、お聞きしても宜しいですか?」
「どうやって、ブレンヒルトを撃退したか………でしょ?」
「はい」
「覚えて無いんだ。《覇皇剣-サナトゥス》を抜いたのは覚えてる。力を解放しようと暴れる《覇皇剣-サナトゥス》の思念を押さえ込もうとして―――そこまでしか覚えて無いんだ」
ラインハルトの返答は、ブレンヒルトの撃退法に関しては何の答えにもなっていない。
エシュアは鋭すぎる眼差しのまま、微かに頭を垂れた。
「御教え頂き、ありがとうございました」
2 鉄砲貿易
城に戻って宰相府を訪れ、オルンヘルに挨拶した後、ラインハルトは通常の公務へと戻った。
そもそも彼が聖護院に狙われていると言う事を知る者は城内にもそれほど居ないのだ。
通常通りに公務をこなさなければ、疑問に思う者も出てくるであろう。
(優秀すぎると言うのも、問題だね………)
彼は皇帝執務室に財務尚書ウェンヒルグ=ローレンス男爵と彼が連れてきたある男とを呼び入れていた。
「陛下。陛下の御命令を果すのに役に立つと思われる男を連れて参りました」
ウェンヒルグに与えた勅命とは『鉄砲入手の為の商路開拓』と言う物だった。
華中大帝国とフロレシア帝国はフェルモア=シーザーが建国した後、一時敵対していた時期もあったが、その後、三代皇帝フェルモア二世の時、停戦・通商条約が両国の間で締結され、以後二百五十年程もの間、両国は貿易をしてきた。だが、両国が友好関係にあったかと言えば決してそうとも言えない。
敵対こそしないものの、険悪な時期は数多くあったのだ。そもそも、両国の戦争は『停戦』しただけであり、『終戦』を迎えてはいないのだ。両国の関係を《緩やかな敵対。両国間を行き来する貿易品の背後には悪意と敵意が満ち満ちている》と評した歴史家も居るほどだ。
その緩やかな敵対の中、両国は悪意と敵意に満ちた貿易を続けてきた。
しかしそれは主に食料品や衣類であり、他に華中大帝国からは焼き物、フロレシア帝国からは硝子細工などが取引されていた。武器は基本的に取引した事がない。両国共に武器を交易するのを取り締まるような法律は存在しないが、暗黙の了解のような感じになってしまっているのだ。
ウェンヒルグが連れてきたのはこの事態を打開出来るかもしれないこのフロレシア帝国唯一の男だった。ラインハルトは何処となく狡猾そうな顔をしたその男を見つめた。
その狡猾さは彼の商人としての有能さを示していると言えるだろう。
男の名はディハン=ギルト。帝国内でも有数の商家ギルト商会の当主だ。
ギルト商会は国内の数居る商人の内、皇室に出入りする事を許可されている数少ない商家の一つであり、一手に華中大帝国との交易を取り仕切っているのだ。華中大帝国との交易を行おうとすればギルト商会に登録しなければならない。登録すればギルド商会が雇っている傭兵が交易隊の護衛に付くが、登録せず、無断で交易を行おうとすればこの傭兵はすぐさま山賊と化し、交易隊を襲撃し、その荷を奪ってしまうのだ。登録料は交易の利益の一割。自分の一族の交易隊が上げる利益だけでなく、商会に登録している諸商人からあがる利益も合わせ、ギルト商会はフロレシア帝国でも有数の財閥に成長したのだ。
今やギルト商会は国内で鉱山をも経営し、そこで採掘される鉱物を、やはり一族が経営する鍛冶場で精錬し、武器や他の様々な品物に加工して、それを売る事によっても大きな利潤を上げ、その利益を元に金融業すら行っていた。
「ギルト殿、久しぶりだね」
「はっ………拝顔の栄誉に預かり、恐悦至極に存じます」
ギルトは固くなって居るようだった。彼は以前、ロデン教の命を受け、ラインハルトを暗殺しようとした事があるのだ。ラインハルトを前にし、固くなるのも仕方が無い。むしろ逃げ出さないだけ、さすがは商人の神経は太い。ブレンヒルトのような聖護院の者までが皇帝暗殺に乗り出して居る以上、あのジェルナ=クレイスロールと言う暗殺者はもう任を解かれている可能性が高い。しかし、どうやらヴァンとも何らかの因縁があるらしく、今後ももしかしたら彼らの前に姿を現すかもしれない。そのヴァンは今、ブレンヒルトから受けた傷によって高熱を発し、床に伏している。皇帝の護衛役には近衛騎士が四名付いていた。
ラインハルトは何の拘りもないと言う風な微笑をディハンに向けている。
エシュアの調査により、ディハンは積極的に暗殺を計画したのではなく、ロデン教の指示に従っただけだと言う事が判明している。その報告を受けて、ラインハルトが独自に下した決断は、
『枝葉を切り落とすよりも、活用するべき』
と言う物だった。そして、その活用するべき時がやってきたのだ。
「君に頼みたいのは他でもない。君の得意分野での話しだ」
既にウェンヒルグから話を聞いているだろうが、ディハンは始めて聞いたと言う風な驚いた顔をして見せた。
「君の華中大帝国貿易での知識と経験を総動員し、新たな商品の交易路を開拓して欲しい」
ディハンの目の色が変わった。その反応から、ラインハルトは彼が具体的にどんな商品の商路開拓を命じられるかを知らないと悟った。現在帝都には諜報員が掃いて捨てるほど入り込んでいる。
情報の漏洩をウェンヒルグは気にしたのかもしれない。
(と言うよりは、父さんの指示、かな)
ウェンヒルグには悪いが、ラインハルトの彼の評価は、
『財務管理など数字が絡む問題には非常に有能だが、それ以外にはあまり気が回らない』
と言う厳しいものだったから彼はそう考えたのだ。
「その商品とはなんでございましょう?」
用心深く、ディハンが訊ねた。
「鉄砲だよ。でもそれだけじゃない。鉄砲よりも重要なのが硝石だ」
鉄砲を撃つ為には火薬が必要となる。フロレシア帝国内に火薬の材料となる硫黄はあるのだが、硝石は無いのだ。硝石は華中大帝国から輸入するほか無い。
既に洸安黄の登用は成されている。エシュアの身辺調査によって彼が華中大帝国の間者ではなく、出奔して来た事が判明したからだ。彼は国境で追っ手を二人射殺している。
彼は帝国府の役人に伴われ、オルンヘルを伴ったラインハルトと謁見している。
三日前の昼頃の話しだ。洸安黄はフロレシア帝国皇帝が自分に声を掛けてきた少年だと知って、汗をだらだら流しながらその場に蹲った。そんな彼に、ラインハルトはこう声を掛けたのだ。
「科学力、特に鉄砲などの技術で我が国は後進国である。華中大帝国で学んだ貴殿の知識を十全に活かして欲しい。何でも貴殿は華中大帝国では鉄砲鍛冶だったと聞く。我が国の鍛冶師の中から鉄砲鍛冶の素質ありと貴殿が認めた人物を遠慮なく引き抜き、鉄砲生産の目処を立てて欲しい」
「命に代えましても、お役に立つ鉄砲を作る所存」
髭を蠢かし、洸安黄は頭を下げたのだった。
一時、追憶に浸っていたラインハルトが意識を現実に戻すとディハンが難しい顔をしていた。
「困難なのは知っているよ。でも、必要な事なんだ。公然とした貿易でも密貿易でも構わない。成功した暁にはギルト商会のみを皇室御用達の商家に認定するのも吝かではないよ。またギルト家に男爵位を授ける。無論、貴族院の議席もね」
本当はこういう一財閥による独占は望ましくないのだが、仕方が無い。鉄砲の存在はこれからのラスカーナ大陸において、それだけの価値を持つ兵器となる。ラインハルトはそう考えているのだ。ディハンの頭の中では今必死に計算が働いているのだろう。鉄砲の交易をするために華中大帝国の役人に払う賄賂の額と皇室の唯一の御用達となる事で得られるだろう利益が釣り合うかどうか。男爵となり社交界に入ると言うのも魅力的な話しだ。今までは社交界の貴人に顔を売るためには度ある毎に晩餐会などを開催しなければならず、要らぬ出費となっていたのだ。しかし、彼自身が貴族となればそんな心配は要らない。今度は招かれる席で十分に顔を売ることができるのだ。確かに鉄砲や硝石の輸入は難しいだろう。華中大帝国の政府が認めるとは思えない。しかし、密貿易に手を出している人間は数多い。その中には武器を扱う死の商人も多い。それらと交易し、何とか鉄砲を扱えるよう交渉する事が出来る立場に居るのは彼ただ一人なのだ。危険なのは確かだろう。密貿易が露見すれば華中大帝国はフロレシア帝国に抗議するかもしれない。その時、この皇帝は―――いや、その背後に居る宰相は果たして自分の事を弁護してくれるだろうか?可能性は低いだろう。見捨てられる可能性の方が大きい。だが、危険性は大きいが、その分、利益も多い。ディハンの頭で、計算が答えを弾き出した。
「お引き受けしましょう。いえ、引き受けさせていただきます。陛下の信任に答えられるだけの働きを誓いましょう」
「うん。ありがとう。期待してるよ」
「はっ」
「よし。じゃ、下って良いよ」
「はっ」
ギルトがほくほくとした顔で下っていく。危険を恐れていては、交易商としての成功など夢のまた夢だ。
「ウェンヒルグ男爵。鉄砲の交易はその内縮小する。けど硝石の輸入だけは途絶えさせちゃいけない」
「わかっております」
額の汗をハンカチで拭いながら、財務尚書は何度も頷いた。
皇帝暗殺に失敗した聖護院、《紫の女》ブレンヒルトはロデン教フロレシア大聖堂の一室に部屋を取り、体を休めていた。既に神官長のヤヌス=ロッホには暗殺に失敗した事を告げてある。
その報告を受けたときの神官長の瞳には複雑な感情が浮かんでいた。失望と侮蔑。聖護院と言えども、あのような小僧一人暗殺できないでは無いかと言う嘲りだ。だが、言い訳などできるはずも無かった。現に自分は傷だらけで、皇帝に撃退されたのは紛れもなく事実なのだから。
「おのれ………」
退く訳にはいかない。ここで退けば、それは聖護院の名誉失墜だけに留まらず、法皇自身の権威の失墜にも繋がり兼ねない。《紫の女》の瞳には、憎悪が燃えていた。
陽が落ち、辺りは暗くなっている。しかし、祭りも半分が過ぎ、民衆は徐々にフィナーレへと向かいつつある祭りに相変わらず熱狂していた。建国祭はこのような長い祭りにありがちな飽きを招かず、民衆は毎夜毎夜朝方近くまで騒ぐのだ。金龍と銀龍の二人は貧民街の一角に小さな襤褸屋を借り、活動の拠点としていた。ラインハルト=シーザーがあの聖護院の《紫の女》を撃退すると言う現場を目撃した二人だったが、二人は全く活動して居なかった。暁でも彼らを監視しているが、どうやら皇帝暗殺などを企んでいる様子も無いので、今は泳がされていると言う状況だ。むしろスタルナス帝国の諜報員などが活発に情報を得ようと動いているため、暁はそちらの対応に追われている状況なのだった。
「なあ、銀?」
「何よ?」
椅子に座り、貧乏揺すりしていた金龍がテーブルに紙幣を広げている銀龍に話しかけた。
その紙幣はフロレシア帝国の紙幣で十メルダ紙幣だった。大体、通常の労働者の月収が三十メルダ程度だろう。銀龍が向かっている机の上にはその十メルダ紙幣が十数枚並べられていた。
金龍は貧乏揺すりを止め、銀龍の手元を覗き込んだ。
銀龍が札を束ね、胸の谷間に押し込む。男にとって最も手が出し難い財布の一つだろう。
「その金、本国からの送金………な訳ないよな?」
「お小遣いよ。お小遣い」
にまり、と色気たっぷりの笑みを浮かべ、銀龍が言う。
金龍がその銀龍の笑みを見慣れていなければ、見蕩れていたかもしれない。
いや、たとえ見慣れていたとしても、彼女の笑みは否応無く男の意識を奪う。
ただ単に、金龍と言う男が生まれ付いて女よりも食い物にしか興味を持たない性質の男だというだけの事だろう。だから、彼は誤魔化されなかったのだ。呆れたように表情をしかめる。
「また食ったのか?」
「向こうから声を掛けてきたのよ」
「んで?そんだけの金を出せるってのは金持ちなんだろ?」
「ええ。商人の次男坊」
「父親が稼いだ金で女を抱く………いや、抱かれて精気を吸い取られた挙句に金まで巻き上げられるって訳か」
「良いのよ、そんな事は。それよりも、その次男坊から面白い情報を入手したわよ」
「情報?」
「そう。そこんとこの親父さんが皇帝の勅命を受けたというのよ」
「勅命?」
「そう。どうやら新たな交易路の開拓を命じられたそうよ。その見返りに皇室御用達の栄誉の独占と男爵位、貴族院の議員席が与えられるんですって。まるで自分の事のように自慢してたわ。これでギルト商会はフロレシア………いや、ラスカーナ大陸一の商家になるってね」
「随分と気前が良いな?」
「やっぱりそう思う?」
「ああ。それだけ金が余ってるんなら俺にくれって感じだ」
「あんたに期待したあたいが馬鹿だったよ」
全く見当違いな事を言う金龍に呆れ、銀龍は額を手で押さえた。
そんな銀龍の様子に、金龍が少しだけ表情をしかめる。
「なんだよ?俺なんかお前を失望させること言ったか?」
「あたいがあんたに失望するのはいつもの事だよ。じゃなくてこの場合問題なのはそうまでして皇帝が手に入れようとしている商品が何なのかって事よ」
「おお!そうか、そういう考え方もあるな」
ぽんと手を打って笑う金龍。褐色の顔の肌の中で、白い歯が零れた。その獰猛で野蛮な顔には男性的な魅力が溢れている。女をぐいぐいと引きこんでしまうような型の魅力だ。
「それで、その商品ってのはなんだ?」
「それがわかれば苦労しないわよ」
「なんだよ、おまえが食ったその次男坊から聞きださなかったのか?」
心底不思議そうな顔をする金龍。銀龍は再びはぁっと嘆息し、
「残念ながらそれを聞きだす前に彼は昇天しちゃったの」
「そうか。それでこの事を本国には?」
「連絡員には報告しといたわ。まだ指示は来てないけど」
「本国のお役人どもは動きが鈍いからなぁ」
「組頭が何か言ってくればすぐに動けるよう準備はしときなさいよ」
「その前に腹減った」
「あんた、そればっかりね」
「それが俺さ」
「あんた、この間あたいが上げたお金、落としてただ食いしたでしょ?」
さり気無く言った銀龍の言葉に、金龍の表情が強張った。
「な、何の事だ?」
「あたいも諜報員のはしくれなの。馬鹿にしないでくれる?」
「…………今度は落となさいよう―――」
「これで三回目よね?」
氷よりも冷たい言葉に、金龍が凝固する。
「今日は御飯抜き」
「がるるるっ!」
「飢餓に苦しむ狼みたいな鳴き方したって事態は改善されないよ」
「ぐるるるっ!」
「いつまでそうやって唸ってるのよ。さっさと行きなさい」
「へ?」
いきなりの話題の飛躍に付いていけず、金龍が目をぱちぱちする。
「何処へ?」
「何処へ?何処へって言った?」
「ああ………言った」
「勿論、ギルト商会よ。そこの当主のディハン=ギルトと言う男を見張るの」
「おまえが食った男の親父か?」
「ええ、そうよ。組頭から指示が来るまで、見張るの」
「指示が来たら?」
「指示に従うのよ。当たり前でしょうが」
「俺の意見を言って良いか?」
「どうぞ、御自由に。言論の自由を奪う気は無いわよ」
「俺が気になっただけなのかもしれないが、まるで今のだと俺一人が働くみたいに聞こえるんだが?」
「ええ、そうね」
しれっと答える銀龍。金龍のこめかみに微かな青筋が浮かぶ。
「おまえも働けよ!」
「嫌よ。私はもう情報を得ると言う重要な仕事を果したんだから、次はあんたが働く番よ」
「たまたま食ったついでに聞きだしただけじゃねえか………」
「何か言った?」
「ぐるるる。何も言ってねえ」
「なら早く行きなさい」
3 謁見
建国祭最終日。
ルーガ城にある待合室の一つに、蜂蜜色の髪の青年の姿があった。
黒を基調とし、金糸をあしらった第一種軍装に身を固めた彼は彼の特徴でもある蜂蜜色の髪をしっかりと整えて、控えていた。三十人は同時に入れる待合室には他に人影も無く、謁見を待っているのは彼一人のようだった。壁には大きな壁掛け時計があり、時刻は一時四十分。
登城するよう城からの使者がやってきたのは今日の午前十時。
登城するよう言われた時間は二時だった。
(少し早く来過ぎたか)
レッセフェルトの表情はさほど明るくない。
陛下が自分を呼び出す理由は一つしか思い当らなかった。
彼の亡命パルディア王国大使と言う役職を正式に解き、第四軍への異動を命じるためだろう。
通常軍人の異動でいちいち陛下に謁見する事は無い。
例外とすれば軍団長の異動や就任、特別に功績のあった軍人の昇任などの場合だ。
しかし、レッセフェルトは先日辞令を受け取るまで、軍を離れ、大使となっていたのだ。
大使の就離任は外交にも関わるので、皇帝の面前で新たな大使に引き継がねばならないのだろう。
ここ十日ほど、彼はレイシアと話しても居なかった。一人家に篭り、酒を浴びるように飲んでいたのだ。
しかし、どれほど飲んでも酔い切る事ができず、もやもやとした不快感が付き纏う。
街に出ると祭りに浮かれている何の罪も無い一般の人々を殴ってしまいそうだった。
自分は大使として適任ではなかったのか?
自分は自分なりに努力して来た。少なくとも、そのつもりだ。
(それとも………やはり、甘えがあったか?)
自問自答するも、答えは出ない。煩悶し、その苦しみから逃れようとさらに酒を飲んだ。
そんな不摂生な生活が祟り、彼の肌は荒れ、目の下には隈が出来ていた。
全身を倦怠感が襲い、体内に飼っている流体金属が足の先に集まっているかのように足が重い。
こんな体調ではとても指揮官として一万名もの部下を指揮する師団長の激務には耐えられない。
今日、城からの使者が来た後、彼は一通の書類を書き、懐中に潜ませてきた。
それは辞表だった。彼は軍を辞める決意を固めていたのだ。
実は数日前、彼は一通の辞表を書き、長年直属の上司として仕えてきた第四軍団長のコーデル=ハム中将に提出した。中将は彼の辞表を一読するなり、黒い髭を蠢かし、唾を飛ばしながら怒鳴った。
「馬鹿野郎!顔洗って出直して来い!」
唾を浴びせかけられ、辞表も突き返されてしまった。
それならば、とレッセフェルトは一足飛びに軍令部総長ハーン=ハーベスト元帥の元を訪れた。
元帥は彼の差し出した辞表を見るなり、がっちりした筋肉で盛り上がった肩を震わせて笑った。
「昇進させられて辞表を提出するとは面白い奴だな。そんなに大使の役職は魅力的か?」
「そんな事はありません」
ハーンはレッセの真意を測るかのように、彼の目を覗きこんだ。
レッセは心中にわだかまる物を感じたが、無理やりにそれを押さえ込んで、ハーンを見返した。
しかし、そんな彼の葛藤もこの元帥には読まれているのではないか?
訳もなく、そう思い、彼は心の水面が大きくざわめくのを感じた。
ハーンは身を引いて、黒革の座り心地の良さそうな椅子に背を預けると、言った。
「まあ、良いだろう。これは預かっておく」
「ありがとうございます」
礼を言いながら、レッセは冷静に、ハーンはこの辞表を握り潰すだろうと考えていた。
そして、自分には正式な辞令が下り、ニヘンベルグくんだりでスタルナス帝国の妖将オルティア=フリンシュ、ルーナ帝国の艶将ミト=ヴァレンツェと戦わなければならないのだ。
(それはそれで別に良いか………)
軍令部を後にしながら、彼は少しだけ考えを変えていた。
しかし、今日、登城するよう言われて、また考えを変えたのだ。
「こうなったら、直接陛下に辞表を叩き付けてやる」
誰も居ない待合室で、彼は一人、呟いた。
決意を固めると心の水面が静かになって行った。
感覚が研ぎ澄まされると、近づいてくる足音に気付いた。
その足音が扉の前で止まり、ノックされ、扉が開かれた。
入ってきたのは一人の文官だった。
恭しくレッセに向かって頭を垂れ、
「お待たせいたしました、閣下。皇帝陛下がお待ちですので、ご案内いたします」
「御願いする」
言って、レッセはその文官の後に続いて廊下に出た。
謁見の間に行くのかと思ったが、文官はそちらへは向かわず、階段へと向かった。
「どちらへ参られる?」
「陛下は執務室にてお待ちになっておいでです」
レッセの疑問に、文官が振り返りもせずに答える。階段を上った尖塔の内部は下の階に比べ、皇帝の私的空間との印象が濃い。無論、そこはレッセにとって未知なる空間である。
執務室の扉を文官が叩く。
「レッセフェルト=イングラム閣下がお参りになられました」
扉が内側から開けられる。
さっとレッセの全身が硬直する。
なんと!扉を開けたのは皇帝自身だったのだ。
「へ、陛下!」
文官が慌てて膝を付こうとするのを、
「ああ、服が汚れちゃうよ。ご苦労様、下って良いよ」
慌てて立たせ、労いの言葉を掛けて下らせる。それから未だに硬直しているレッセに向かって、皇帝ラインハルトは軽く悪戯小僧のような微笑を浮かべて見せた。
「?」
困惑するレッセ。皇帝に、こんな親しげな態度を取らせる要因がわからなかったのだ。
ラインは部屋の中をちらりと見た後、
「入って、イングラム大佐」
「はっ………い、いえ、どうぞ陛下から」
「ああ、そうだね。うん」
ラインハルトが中に入る後から続いて中に入り、扉を閉めてから、中を見る。
「っ!?」
中に居た人物を見て、レッセは思わず声を漏らしそうになってしまった。
執務机の向こう側に収まったラインハルトがそんなレッセを見て、少しだけ落胆した様子で、
「あれ?思ったより驚かないな」
「いえ。十分、驚いてるみたいですよ、陛下」
そう言って、レッセの方を振り向いたのは栗色の艶やかな髪をした女性だった。
レイシア=パルディアスだ。
「なんでおまえが?」
「私は亡命パルディア王国の女王として、ここに来ているのよ」
(ああ………そうか、大使の交替に立ち会うわけか)
しかし、執務室内に新たな大使となるような人物は居なかった。
ラインハルトとレイシアと彼の三人しか居ない。
事態を理解できないながらも、ここは皇帝の面前である。
とりあえず、レイシアの隣に立ち、皇帝と向き合う。
「さて、レッセフェルト=イングラム大佐。君に来て貰ったのは他でもない。君に与える新たな仕事の話しだよ」
「その前に、陛下。俺は師団長になるのを辞退したいと思います。これを書いてきました」
レイシアが居た事で驚いたが、決意は揺るがなかった。
仕事の内容を聞いてからでは出し難いだろうと、懐に手を差し込み、辞表を取り出し、執務机に叩きつけるように置いた。ラインハルトが目を丸くして、レイシアが目を鋭くして、その辞表を見る。
「―――これは?」
「辞表です」
ラインハルトはレイシアとレッセを見比べて、
「とりあえず、君に与える仕事の事なんだけどせめてそれを聞いてからにしてくれないかな?」
「いえ。俺はこのルーガで、レイシアの傍に居たいんです」
予め考えていた言葉ではないが、すらすらと出てきた。
「こいつは真面目な奴で、一人で思い悩む事が多いんです。次の大使が誰になるかは知りませんが、こいつが悩みを相談できる相手とは限らないと思います。俺ならばこいつの悩みを聞いてやって軽くする事ぐらいの事は出来ると思うんです………ただの自惚れかもしれませんが」
一種の告白には違いないだろう。ラインは少し頬を染めながら、レイシアの方を見た。
しかし、レイシアの表情は相変わらず険しい。ラインハルトはにやりと口元に微笑を浮かべて、
「なら、尚更君には話さなければね」
「―――尚更?」
レッセが怪訝そうな表情になる。ラインハルトは頷いて、
「そもそも、どうしてこの時期に君がニヘンベルグ砦の守備隊長に返り咲くことになったんだと思う?」
「そりゃ、パルディア王国がスタルナス帝国とルーナ帝国に制圧され、しかも南方の異民族の動きも活発化しているとあって、第四軍に少しでも実戦経験のある指揮官が必要になったから………じゃないんすか?俺は一応スタルナス帝国軍との実戦経験があるし―――いや、ありますし」
「確かに、コーデル=ハム中将から君を現場に戻して欲しいと言う嘆願書は余の所にも宰相や軍令部総長の所にも来ている。けど、それだけが理由じゃないよ。ニヘンベルグ砦には君の部下でもあったサンチェ=ポルトフ大佐が居る。彼も実戦経験は豊富でしょう?もしなんならば、彼を現在の師団長代理と言う曖昧な処遇から正式に師団長に任命しても良い。もう一つの理由、というよりもこっちの方が主たる理由なんだけど。とある人物の嘆願書がそれだ」
「何なんです?その嘆願書って………それに、とある人物と言うのは?」
「そちらにおられるレイシア=パルディアス女王陛下だよ」
「レイシアが?………あ、いや、女王陛下が?」
ラインハルトが『女王陛下』と呼んだので、レッセも慌てて言い直した。
「彼女は居候の身に甘んじるのではなく、己の力で祖国を取り戻したいと願っておられる。彼女自身とそして君の努力と才覚によって、彼女の武勇はラスカーナ大陸中に鳴り響き、パルディア王国復興を願う義勇兵も日々亡命政府の門戸を叩いているという。彼女は現有の戦力を持って、パルディア王国復興へと一歩を踏み出したいと余に嘆願書を提出なされた」
「現有戦力って………まだ三千位しか」
「何もすぐに攻め込もうなんて思って無いわ。ただ、国境近くに進む事で、復興の志を示そうと思うだけよ。このままこの平和な帝都に居て事態の変転を待つのは嫌なの」
横目で睨みつけるようにして、レイシアが言い放つ。
「ただし、国境線ではいつなんどき戦闘が起こるかわからない。それに、パルディア王国軍を収容するに足る砦は数少ない。何処の砦に入れるにせよ、割り込む形となる彼女達を忌避する者も少なく無いだろう。だが、国境線の砦には一つだけ、彼女とも縁のある人物が守備隊長を務めていた場所がある。ニヘンベルグ砦だ。そこで、君をニヘンベルグ砦守備隊長に任じ、パルディア王国に協力して貰いたい。恐らくはフロレシアの各地から或いは他国からも義勇兵が集うだろう。出来るだけ、彼女に便宜を図って貰いたい。それともう一つ。余や宰相が初め彼女からパルディア王国の国境進出を聞かされたとき、余達は反対した。危険すぎると。そうしたら彼女はこう言ったんだよ。『あの蜂蜜色の男を貸してください。そうすれば、全ての危険は機会に変わりますから』と。この言葉の意味を考えて、この辞表を正式に提出するかどうかを決めてくれないかな?」
レッセは半ば唖然と、レイシアの方を見る。
「別におまえに居て欲しいと言う事では無いぞ。おまえが居た方がいろいろと便利だからだ。その、つまり、雑用係として」
心持顔を赤くして、目を逸らしながら、レイシアが早口にまくし立てる。
レッセの口元に苦笑のような淡い微笑が浮かんだ。片手で蜂蜜色の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。
虱が落ちるのにも構わずに、掻き混ぜ続ける。口元の微笑は今や、完全たる笑みに変わっていた。
(あはは。全く俺は………何を悩んでたんだか)
レッセは手を伸ばして、辞表の上に置いた。
「陛下。申し訳ありませんが、これはなかった事に―――」
「何の事だい?余は辞表なんて見て無いよ?」
「はい。そうでしたね」
レッセは辞表をその場でいくつにも裂いて、くずかごに放り込んだ。
「辞令を正式にお引き受けします」
「ではレッセフェルト=イングラム。汝を駐亡命パルディア王国大使兼第四軍第十六歩兵師団長兼ニヘンベルグ砦守備隊長に任ず。階級は少将に昇進だよ」
「はっ………陛下、一つ、お尋ねしても宜しいですか?」
「ん?なんだい?」
「少将になると給与はどれほど上がるんですか?」
「レッセ!」
「お前に飯を奢ると俺の財布はすっからかんになるんだ!」
「あはは。少将になれば給両は二百五十メルダと言ったところかな」
「と言う事は五十メルダの増収………」
「質問はそれだけかい?」
「はい。ありがとうございます」
「うん。じゃあ、下って良いよ」
「はっ」
「失礼しました、陛下」
城から退出したレッセはレイシアを宮殿に送るため、普段は城から朱雀通りをまっすぐ行くところを城前広場を斜めに突っ切って、貴族地区のメインストリートであるフェルモア二世通りを歩いていた。
「でもまさか、あの辞令の裏にお前の思惑が絡んでいたとはな。参ったぜ」
蜂蜜色の髪を掻き混ぜながら、レッセは言った。
「それにしても、随分と恥ずかしい事言ってくれたわね。私の悩みを聞いて、軽くしてやるって?」
「いや、あれは勢いと言うかなんと言うか………」
「私はそんなに弱い女に見えるのかしら?」
「いや、そう言う訳でも………」
「言っておくけど、貴方を指名したのは私を守って貰うためじゃないから」
「どうせ、俺は雑用係なんだろ」
「ええ、そうね。でもそれだけだと思う?」
「さあな。女の考えてる事はわからんよ」
「いじけないでよ」
「いじけてねぇよ。ガキみたいに言うな」
宮殿が見えてきた。宮殿の前にいくつかの人影がある。パルディア騎士団の誉れ高き六騎士の面々だ。
「じゃあそろそろ」
レイシアはそう言って、歩く速度を早くした。すぐに、レッセを引き離していく。
「レイシア!」
その背に向かって、レッセが声を掛けた。レイシアが振り向く。
「何よ」
「どうして俺を選んだ?お前にはあの六騎士やジード=ブリードも居るだろ?ニヘンベルグ砦の連中ならお前の事も知ってるし、俺が居なくともおまえを拒むような奴は居ない。俺が保障する。サンチェ=ポルトフは優秀な指揮官だ。なのに、どうして俺を連れて行こうとする?」
レッセの瞳にはいつもの茶化すような色は無かった。
何処までも真剣だった。故に、答えるレイシアの口調も真剣そのものだった。
「私はね、レッセ。私は貴方の後ろで守って貰うより、横に並んで支え合う方が性に合ってるのよ」
4 フィナーレ
最終日の夜。建国祭の盛り上がりは最高潮に達する。
帝都に滞在する人々全てが、帝都ルーガのメインストリート・朱雀通りの沿道に集まった。
最終日の夜は帝都の各地区の民が協力して作り上げた二百以上の山車がパレードするのだ。
商人街、富裕市民街、貧民街、職人街とそれぞれの街の特徴を活かしたパレードが城前広場から凱旋門までの七キロメートルを練り歩くと言う訳だ。
フロレシア帝国第十五代皇帝ラインハルト=シーザーとその侍女シエナ=クリケットはルーガ城のテラスからこのパレードを見る事にした。テラスの手摺に手を乗せて、晩夏の涼しい風に豪奢な金髪を靡かせながら、ラインは横目で自分の隣に立つシエナを見た。
銀色の柔らかな髪を風に弄られながら、シエナは温和な眼差しを輝く眼下の光景に注いでいる。
「綺麗ね」
憧憬を込めて、シエナが呟く。無論それは眼下の光り輝く永遠の都、ルーガの姿を評しての言葉だろう。
「うん」
しかし、頷いたラインハルトの視線は眼下の風景ではなく、傍らの幼馴染に注がれていた。
「さすがはライン。話題が繋がっているようで全く噛み合ってないな。さしずめ次の台詞は『君の方が云々』か?いやぁ、恥ずかしいねぇ。だがそれを臆面もなく言えるようになればおまえも立派な女垂らしだぞ。おめでとう。ローデンスの土壌はどうやら女垂らしを多く輩出するらしいな」
「アレク!?」
いきなり気配もなく背後に現れ、からかいの言葉を叩き付けてきた幼馴染の姿に、ラインハルトは顔を赤く染めながら責めるような口調でその名を呼んだ。
「アレク、何処から生えたの?」
「生えたって、そりゃあんまりだぜ、シエナ」
アレクはシエナの言葉に、がっくりと肩を落とす。だが、すぐに顔を上げてにたりと笑うと、
「それにしても、おまえらは見せ付けてくれるよな。思わず赤面しちまうぜ」
「な、何言ってるんだ。ぼ、僕達はここからパレードを見ていただけだよ」
アレクの言葉に思い切り動揺するラインハルト。
シエナはそんなラインハルトの言葉を肯定するかのように頷いて、
「そうよ、アレク。私達はここからパレードを見ていただけよ」
アレクが意地の悪い笑みを見せて恭しく頭を垂れて見せた。
「確かにシエナはパレードを見てたな。それで、ラインは?」
「ぼ、僕もパレードを見ていたよ」
「ほう。俺には横顔が見えましたがの」
「何を見ていたの、ライン?」
「パレードだよ、シエナ。断じて、パレード。神明に誓って、パレード。アレク、頼むから変な事は言わないでくれ」
「御命令とあらば口を閉ざすのが臣下の役目。されども、俺様は口を閉ざすのが大の苦手。もう叫びたくて叫びたくて―――」
「アレク!」
「あはは。わかった、わかった。俺は退散させて貰うよ」
アレクは軽く手など振りつつ、テラスから去って行った。
「アレク、結局何しに来たんだろ?」
不思議そうに小首を傾げるシエナ。ラインは手摺にぐったりと凭れかかりながら。
「きっと僕らを冷やかしに来たんだ………きっとそうに違いない、いや間違いない」
「ふ~ん。いつも思うけど、アレクって案外に暇そうよね」
「今度書類をどっさりと送りつけてやる事にするよ」
「それはいいかもね。でも、苦労するのはリーナさんだけかもよ?」
「確かに………」
それっきり、また二人はパレードを眺め始めた。様々な趣向を凝らした華麗な山車が通りを練り歩き、沿道に集った人々の間からは目の前を山車が通るたびに歓声が沸き起こって居る。
「聞いたわ、ライン」
「な、何を?」
「貴方を襲ったのは聖護院………ロデン教の刺客だって」
アレクのからかいによる動揺から回復していなかったラインははっとシエナを振り返った。
彼女の表情に先ほどの温和さは無く、葛藤の色が浮かんでいた。
彼女はこの帝都、いやラスカーナ大陸に住んでいる大部分の人々と同様、熱心なロデン教信者なのだ。
「シエナ………」
「教えて、ライン。貴方はロデン教と対立しているの?貴方はロデン教を潰すつもりなの?」
「僕はロデン教を潰す気はない。でも彼らは―――」
「貴方を殺そうとしているの?どうして?」
「僕だけじゃないよ。彼らは自分達の教義に反する者達は全て殺している。歴代の皇帝の中にも殺された者も居るようだし」
「教義って、ロデン教の教義は全ての民の救済でしょう?」
「そうだね。支配者に虐げられ、貧苦に喘ぐ貧民をロデンの神の御力によって救う」
「どうして?貴方はだって民を救う政策を出してるじゃない」
「でも僕が民を救済するのは彼らの教義に反してるって事になるんだ」
「どうしてなの?」
「民を救ったのがロデン神ではなく、皇帝だからだよ」
「そんな………」
「彼ら以外の者が民を救うのを許さない。結果、民を救う者はロデン教だけと言う事になる。民の心の拠り所もね。そのために彼らは民の心の拠り所となりうるような他の宗教を徹底的に弾圧している。そのために彼らは聖堂単位で異端審問軍と言う特殊部隊を持ち、法皇直属の聖護院と言う組織もあるんだ」
次々に真実を告げられ、シエナは熱された頭を冷やすかのように首を振った。
「どうすれば、暗殺を止めさせられるの?」
ラインは軽く肩を竦めて見せた。
「僕が彼らの前で膝を屈し、彼らが望む暴虐の王となれば良いんだ」
「無理ね」
「うん」
「私は―――」
「シエナ。己の信じるものを否定する必要は無いよ」
「ライン?」
「君がくれたロデン神像、僕はいつも肌身離さず持ってるよ。君の信仰心がいつも僕を守ってくれているんだ。だから、君の信仰を変える必要は無いよ。ロデンの神が貧民を救済してくれるのは事実なんだから。腐ってるのは法皇庁とそれに従っている各地の聖堂なんだから。それも全部じゃない。一部だよ」
(きっと………。心の底から弱者の救済を願って止まない人々だって居る筈なんだ)
「戦うの?」
「彼らがそれを望むのなら。僕は出来るならば共存を願いたい。でも、彼らの思うようにはさせないよ。少なくとも、僕が生きてるうちには」
「そんな事言わないで!」
声は小さかったが、鋭かった。ラインハルトは思わず口をつぐみ、シエナの顔をまじまじと見つめた。
「シエナ………」
「死にそうなこと言わないでよ、ライン」
「僕は………死ぬよ」
「………」
「いつかね。でも僕は長寿を全うして、愛する人と愛する子供達に囲まれて、死にたい。『汝が生まれたとき汝は泣き、汝の周囲の人々は喜び、汝がこの世を去るときには汝の周囲の人々が泣き、汝のみ微笑むようにすべし』って言ったのは誰だったっけ?忘れちゃったけどね。とりあえず、僕はそうやって死にたい。だから、ロデン教の暗殺者に殺されようとは思ってないよ。それに―――」
視線をちらり、と背後に向ける。
気配は感じられないが、そこでこちらの話を聞いている黒髪の剣士を見るかのように。
ヴァンはブレンヒルトに受けた傷も何とか塞がり、熱も下ったので今日から皇帝の護衛役に復帰していたのだ。まだ本調子では無いだろうが。
「ヴァンが僕を守ってくれるしね、だから―――」
彼はヴァンに向けていた視線をシエナに向けた。そっと微笑む。
「シエナは自分の信じる物を大事にするんだ」
「―――うん」
シエナが微かに頷く。その目は滲みだした涙に濡れていた。
その涙を慌てて拭って、
「私ってば格好悪いね。年上なのにね」
「そんなこと無いよ、シエナ」
ラインハルトの声は優しく、暖かで、シエナの心を満たして行く。
「ラインの馬鹿!」
怒るように言いながら、シエナの手がラインの頬を挟んだ。勢いあまり、バチンと言う音が響く。
「ひ、ひへ―――」
驚いたように裏返ったラインの声を遮ったのは、彼の唇に重ねられた彼女の唇だった。
余りにも勢い良くぶつかって来たために、歯がぶつかり、鈍い音を立て、さらにラインはシエナの体重を支えきれず、そのまま仰向けに倒れてしまった。
それでもシエナの唇は離れない。
シエナの柔らかい唇の感触と吹き込まれる甘い吐息、テラスの床に思い切り後頭部をぶつけた衝撃で、ラインハルトは意識が遠退いていくのを感じた。
「これはこれは黙ってられないな。王子のキスは姫君を起こすと言うけど、姫君のキスは王子を眠りへと導くものらしい。果して王子が見る夢は天国か地獄か………って、生きてるかぁ、ライン?駄目?」
「ううっ………」
アレクの皮肉な言葉が、ラインの遠退く意識を留めた。
シエナがゆっくりと身を起こす。
「ライン………」
「馬鹿はひどいな、シエナ」
自分の唇に残る感触に陶然としながら、ラインは苦笑した。
シエナは顔を真っ赤にしながら身を起こすと、
「ラインが優しすぎるから、私が我侭になっちゃうのよ」
「僕と出会う前は我侭じゃなかったの?」
ラインは後頭部を摩りながら立ちあがった。二人は再び手摺に並んで、街を見下ろしながら、
「シエナの唇って、甘いんだね」
「なっ………」
真っ赤だったシエナがさらに真っ赤になる。
「馬鹿!」
そして、その鉄拳がラインの頬を打った。
「やれやれ。雰囲気が甘すぎて、見てられないな。俺も女を抱きに行くか」
暗がりから現れてきたアレクがちらりと笑みの浮かんだ顔を一人で城下を見ているシエナに向け、床に無様に倒れて伸びている皇帝の傍らにしゃがみこんだ。
まぶたを押し上げ、瞳を覗き込む。
「おーい。生きてるかぁ?ちょっぴし瞳孔が開いてる気がするな。もしかして危ないのか?にしても、幸せそうな顔してら」
アレクはラインを軽く抱え上げるとシエナの方を見た。
「シエナも、気の迷いの晴れたような顔してるな」
「アレク。貴方って意地の悪い人ね。さっき帰ったように見せかけておいて覗いてるなんて」
「今頃気付いたのか?それに、ヴァンの奴は公然と見てるんだぞ」
「そう言えば―――」
「…………」
姿を現したヴァンは無言で、アレクからラインハルトを受け取った。
その頬が心持ち赤いのはきっと気のせいだろう。アレクはヴァンにラインを渡しながら、
「迷いは晴れたんだろ?」
「ええ。私は決めたの。私はロデンの神を信じてるわ。でもそれ以上に私は―――」
そこまで言って、シエナはくすっと笑った。
「これ以上は言わないわ」
「気を持たせるなぁ。そこまで言われたら気になるじゃねぇか」
「私も結構良い性格をしているのよ」
「なるほど。それでは城下の美人達が俺を待ってるんでな」
「―――私は陛下をお部屋に」
「ええ、御願い。今の私じゃ、ラインを襲っちゃうわ」
「おお、その方が手っ取り早いな。やっちまえ」
「手っ取り早いって………」
シエナが呆れるように半眼になる。
「はっはっは。それじゃあな」
無意味な笑い声を上げながら、アレクは去って行った。ヴァンも皇帝を抱えて、去って行く。
シエナは薄い笑みを浮かべながら、再び城下に視線を向けた。山車も半分以上が通りすぎ、潮の如く人々の歓声が聞こえてくる。建国祭も終わり、やがて今年も終わり、新たな年がやってくるのだ。
皇帝私室に入ったところで、ヴァンは、
「―――宜しいですか?」
「あれ、気付いてた?」
ぱちっと目を開け、気まずげに頬を掻く皇帝。
ヴァンがラインを下ろすと、彼は自分の足でしっかり立って、
「いやあ、なかなかあの場にいるのは気まずくてさ」
「―――邪魔でしたか?」
「な、何言ってるのさ!」
ラインは真っ赤になりながら、ベッドに腰を下ろした。
「―――今度からもっと目立たないようにします」
「だから!そんな気を回さなくても良いよ」
「―――はい」
「それじゃ、僕は寝るよ」
「―――はい」
恭しく頭を下げ、そして、ヴァンの姿が掻き消える。
ラインはふうと息を吐き、窓から空を見上げた。冬の晴れ渡った夜空に星が輝いている。
(シエナにキスされてしまった………)
ベッドに横になり、目を瞑ると思い出されるのは強く押し付けられたシエナの唇の感触、その甘い息、そして暖かな体温。
(しかも、押し倒された………)
後頭部に残る鈍痛が消えない限り、体が興奮して、なかなか寝付けそうにない。
(唇を奪われて押し倒されるって………男としてどうなんだろう?)
ラインは爛々と輝く目を天井に向けて、熱っぽい息を吐いた。
(と言うか、アレクに見られたのはまずいよなぁ………明日にはかなりの人間が知る事になるんだろうなぁ)
アレクの事だから、無闇に話したりする事は無いだろう。しかし、彼らと関係の深い人物達には必ず話すだろう。シオン=クリケットを筆頭にリーナ、カーン、オットー………。
(恐ろしい………)
この日、半月に亘って帝都を熱くしていた建国祭が終焉を迎えた。
建国祭は平和の象徴だった。しかし、それは一時の事に過ぎないのかもしれない。
幼馴染にキスされて喜んでる皇帝の知らぬところで、世界はさらに加速して動き出していたのだ。
やがてはその荒波に、彼も彼の仲間達も巻き込まれていく事となるのだ。
『建国の宴』 完
1 戦いの後
ブレンヒルトが立ち去った事により、結界は壊れた。
皇帝が襲撃を受けたとなれば騒ぎになる。
建国祭に沸き立っている国民を不安にさせる事は避けなければならない。そのために暗殺未遂の事実も公表せず、目立たないように警備を厳重にしているのだ。
とはいえ、帝都守備隊は事情を知らされているわけではない。
守備隊の兵を呼んでラインハルトを城に運ぼうとすれば、嫌でも人目に付く。
(かといって、私は城への抜け道を知らないし………)
レイアードは揺すっても起きない。完全に気を失ってしまっている。
そしてそれはラインハルトも同じだった。
途方に暮れたようにジュナは辺りを見回し、そして、ふと気付く。
見覚えのある曲がり角を見つけたのだ。
ジュナはそちらへ駆け寄り、曲がり角の向こうへと視線を走らせる。
ぴんと来ない。今度は反対側。今度は神経に触れる物を感じた。
(この道………間違いない、見た事ある!)
それはエシュアの家に、彼が引き取った子供の様子を覗き見しようと行った時に通った道に間違いなかった。
(ここからなら、頭領の家まで人通りの無い道を通っていける)
それでも通行人は居るかもしれない。見られたらどうしよう。けが人を二人も抱えていれば不審に思うだろう。そしてそのけが人の一人が皇帝だと知られたら大変な事になる。
だが、かといって、こんな場所に陛下を寝かして置く訳にはいかない。
この道だっていつ人が通るかわからないのだから。
「―――やるしかないわね」
覚悟を決めて、ジュナはラインハルトの脇に膝を付いた。
「失礼します。陛下」
落ちていた彼の外套で頭を覆う。これで少しは目立たないだろう。
ラインハルトを背負う。まだ少年、しかもかなり華奢な為か、鍛えているジュナにとってはほとんど負担とも感じられない程度の重さしかない。
皇帝を背負ったジュナは次に、レイアードの腕を肩に回し、引きずり起こした。
こちらは大の大人であるだけにかなり重い。
肩を貸して立たせても、レイアードの方が上背があるだけに、両足を引きずるような形になるのは仕方が無い。ジュナは二人の男を背負い、よろめきながら歩き出した。
エシュアの家はジュナの記憶通りの場所にあった。辺りは静まり返っている。
皆、祭りに出かけているのだろう。幸いな事に、ここまで誰にも見咎められていない。
通行人の気配が近づいた時は、物陰に隠れたりしなければならなかったのだが。
彼女の先読みの能力が威力を発揮した。
ジュナが扉を叩くと、すぐに扉が開いた。
開けたのは喉に傷跡のある五歳ぐらいの子供だった。
一瞬、どう説明しようかとジュナは悩んだ。
彼女はこの子の事を知っている。フロムと言う名前で、エシュアが引き取って育てている子供だ。しかし、彼は彼女の事を知らないだろう。
「えと………エシュアって言うここの家の人、わかる?白髪の」
こくっとフロムが頷く。
「私、その人の部下なんだけど、この二人が怪我をしてしまって。それで頭領―――エシュアって言う人の事なんだけど―――に、状況を報告しなくちゃならなくて。それまでこの二人をここに置いて貰っても構わないかしら?」
フロムはしばし考えた後、扉を開けたまま、家の中に駆け込んで行った。
ジュナは戸口に立ち、外を窺いながらフロムを待つ。
軽い足音を立てて、フロムが戻ってきた。その小さな手に画用紙とペンを持っている。
「?」
疑問符を浮かべるジュナの前で、フロムが紙に何事かをすばやく書く。
そしてその紙をジュナに向けて掲げて見せた。
『おねえちゃん、れいあーどって人?』
(私達の事を話してる?)
一瞬、養子に自分の部下の話をしているエシュア、と言う図を想像しかけ、半眼になる。
(と言うか、性別も話してないの?一体、何を話してるんだろ)
「違うわ。私は、ジュナ。レイアードはこっちよ」
目でレイアードを指す。フロムはもう一度紙にペンを走らせ、掲げて見せた。
『どうやら本物みたいだね』
そして扉を大きく開いた。入って良いらしい。ジュナは安堵し、もう一度外を見回し、通行人が誰も居ないことを確認してから、エシュアの家の中に入った。同時にフロムに対する感嘆の思いも浮かんでいた。恐らくはエシュアは二人の事をちゃんと話していたのだろう。そして、わざと間違えて、確認したのだ。もしレイアードかと聞かれて頷きでもしようものならそいつは偽者と言うわけだ。恐るべき五歳児。将来が楽しみではないか。
家の中はエシュアの性格を示しているかのように綺麗に片付いていた。
フロムの悪戯の形跡も無い。フロムは五歳児とは思えない大人びた動きでジュナを寝室に案内した。どうやらエシュアのらしい。彼らしい無愛想な部屋だった。
ジュナは居間のソファに無造作にレイアードを転がした後、この寝室のベッドにラインハルトを横にした。
ジュナが寝室から出てきたとき、フロムはソファに寝かされているレイアードに毛布を掛けていた。
「ありがとう、フロム君」
ジュナが礼を言うとフロムはこくりと頷いた。
「それじゃ私は行くわ。私が戻るまで、誰が来ても開けちゃ駄目よ」
再び、こくり。
ジュナは玄関の扉を開け、体を半身外に出しながら、肩越しに振り返った。
フロムは以前、レイアードと覗き見たときと同様、安楽椅子の足元で画用紙に絵を描いていた。
一瞬声を掛けようかとも思ったが、フロムがそれを望んでいない事はその背中を見ればわかる。
外界との接触を拒絶してはいないが、歓迎してもいない。
まだ父を失った悲しみを克服出来てはいないのだろう。
ジュナは顔を前に戻すと、一歩前に踏み出し、後ろ手に玄関の戸を閉めた。
フロムを見ていると自分の過去を思い出しそうになる。
忘れた………忘れた振りをしている、自分の過去を。
暁に居る人間は皆、それぞれが事情を抱えている。
幸せな過去を持つ人間など一人も居ないのだ。幸せな過去を持っていた者もそれ以上に悲惨な出来事がその幸福を塗り潰してしまっている。
ジュナは一度目を閉じて深呼吸すると駆け出した。
城ではオルンヘル=クリケットと彼の娘シエナ=クリケットが戻ってこないラインハルトを心配していた。シエナ=クリケットも一昨日城内で起こった殺戮事件を知っている。しかし、ラインハルトが暗殺の危機にあると言う情報は知らなかった。しかし、女の直感で何かを感じ取っていたのだ。
彼女は何か知らないかと帝国府にある宰相執務室に父を尋ねていたのだ。
しかしそこにはエシュアも難しい顔をして控えていて、シエナは咄嗟に表情を強張らせた。
オルンヘルが彼女の姿を見るなり、その視線を逸らしたのだ。
(何かある)
「―――どうしたのだ、シエナ?」
オルンヘルが訊く。
「陛下がまだお帰りになられていないようですので、何か御存知で無いかと」
「知らん」
オルンヘルの表情が強張る。場に控えめに言っても居心地の悪い空気が流れる。
シエナの金色の瞳がエシュアに向けられる。
エシュアは何食わぬ顔で、窓から外を眺めていた。シエナの存在にも気付いていないかのようだ。
オルンヘルが咳払いし、未決の書類箱の一番上の書類を取り、目を通し始めた。
一通り目を通し、判を押し、既決の書類箱へと移す。
たった数秒で一つの案件を決めてしまった。
最初はぎこちなかったその動きが徐々に滑らかになり、未決の箱の書類がどんどん少なくなっていく。
そして、オルンヘルが最後の一枚に判を押し、既決の箱へと移した時、扉がノックされた。
オルンヘルの表情が強張り、エシュアが窓から扉にその鋭すぎる視線を移した。
シエナも振り向く。
「入れ。いや、待て。誰だ?」
「ジュナです」
すばやく動いたのはエシュアだった。さっと扉に近寄り、開ける。
そこには確かにジュナが汗を浮かべて立っていた。かなり焦って走ったらしく、息も荒い。
「陛下は御無事か?」
エシュアが何か声を掛けるよりも早く、オルンヘルが声を掛けた。
エシュアがジュナを室内に入れ、廊下を見て立ち聞きしている人間が居ないのを確認してから扉を閉じた。
シエナはオルンヘルがジュナに掛けた言葉によって、自分の嫌な予感が具現化されつつある事を悟り、表情を強張らせていた。
ジュナが気まずそうにシエナを見る。その視線の意味に気付いて、オルンヘルが頷いた。
「構わん」
ジュナは少し顎を引くと、
「ブレンヒルトの襲撃を受けました。何とか撃退は出来ましたが、レイアードが重傷、陛下は御怪我はありませんが、現在意識を失っております。私一人では二人を人に見つけられずに城内に運び込むのが困難だと判断したため、無断で申し訳ありませんが、頭領の御自宅にお運びしました」
「そうか。エシュア」
「はっ」
エシュアはオルンヘルに頭を下げた後、ジュナに向き直り、
「行くぞ」
「はい!」
「あの………私も行って良いですか?」
部屋を出て行こうとした二人にシエナが堪りかねたように声を掛ける。
エシュアは一瞬オルンヘルへと視線を向け、一つ頷くと、
「良いでしょう。走りますよ」
「ええ」
嬉しそうに頷き、三人は宰相執務室を飛び出して行った。一人残されて、オルンヘルは顎の下で手を組んだ。その眉間には新たな難問を突き付けられたときのように深い縦皺が刻まれていた。
「―――どうやって聖護院を撃退したんだ?あいつ」
エシュアが玄関の戸を叩き、中に居るであろうフロムに声を掛ける。
「私だ。開けなさい」
フロムが扉を開けるまでの間を惜しむかのように、エシュアはその鋭い眼差しでジュナを見やり、
「どうして私の家の場所を知っている?」
「えっ………」
「私の家の場所はレイアードしか知らない筈だが?」
「えーっと………なんででしょう?」
目を逸らしながら乾いた笑い声を上げるジュナ。無論エシュアは彼女がどうして自分の家を知っているのかを知っている。ただの嫌味だ。と、そこで扉が開けられた。黒髪の子供が出迎える。
「異常は無いか?」
エシュアがフロムを見下ろして問う。こくりっとフロムは頷いた。
エシュアが眼差しを緩める事も無く、フロムの頭に手を置く。
「御苦労だった」
「失礼します!」
そんな彼の脇を通り抜けて、シエナが家の中に入っていく。
ここに来る道すがら、走りながら彼女はブレンヒルトの襲撃を初めて受けた二日前の晩からの話を教えられたのだ。ジュナにより、ラインハルトが寝室に寝かされていると言うことも知らされている。彼女はすぐに寝室を見つけ、扉のノブを掴もうとして、はっと手を引いた。
(私の方が年上なのよ………落ち着かなくっちゃ)
胸の前で手を組み、深く息を吸い、吐く。気分がすーっと落ち着いていった。
(―――よし)
「陛下、入ります」
返事は返ってこない。
シエナが扉を開けると、ラインハルトはベッドの上に身を起こしたところだった。
「やあ、シエナ」
微笑んで、名を呼んでくる。シエナは一歩前に出、後ろ手で扉を締めて、
「寝て無くて大丈夫なの?」
侍女から幼馴染に口調を戻し、訊いた。ラインは頷いて、
「怪我はしてないから。何が起こったのかも覚えて無いんだけど」
その視線が空を泳ぎ、ベッド脇の机に置かれた《覇皇剣-サナトゥス》に向く。
「《覇皇剣-サナトゥス》の声が頭の中でわんわん響いてたのは覚えてるけど」
「そう。もう―――心配したじゃない」
大した事は無いと安堵してだろう、シエナがほっと息を吐く。
と、扉がノックされた。
「シエナ殿」
「その声はエシュアかい?入って良いよ」
「はっ………」
扉が開き、エシュアが入ってくる。
「御体の調子はいかがですか?」
「僕は大丈夫だよ。それより、レイアードは?」
「骨を少々折っていますが、命に別状はありません」
「そう。すまない。余の為に君の大切な部下を傷つけてしまった」
「陛下が御無事ならば宜しいのです」
エシュアの言葉が冷酷に響いた。それが彼の率いている暁と言う部隊の特殊性だろう。
ラインとシエナが何も言えずに沈黙していると、エシュアは、
「レイアードを病院に搬送する必要があります。陛下も御城に戻られた方が宜しいかと」
「うん。そうするよ。君の寝室を借りてしまって、すまない」
「構いません」
「よし。じゃあ行こうか、シエナ」
「はい」
ラインハルトの言葉に、シエナは大きく頷いた。
「ところで、陛下。一つ、お聞きしても宜しいですか?」
「どうやって、ブレンヒルトを撃退したか………でしょ?」
「はい」
「覚えて無いんだ。《覇皇剣-サナトゥス》を抜いたのは覚えてる。力を解放しようと暴れる《覇皇剣-サナトゥス》の思念を押さえ込もうとして―――そこまでしか覚えて無いんだ」
ラインハルトの返答は、ブレンヒルトの撃退法に関しては何の答えにもなっていない。
エシュアは鋭すぎる眼差しのまま、微かに頭を垂れた。
「御教え頂き、ありがとうございました」
2 鉄砲貿易
城に戻って宰相府を訪れ、オルンヘルに挨拶した後、ラインハルトは通常の公務へと戻った。
そもそも彼が聖護院に狙われていると言う事を知る者は城内にもそれほど居ないのだ。
通常通りに公務をこなさなければ、疑問に思う者も出てくるであろう。
(優秀すぎると言うのも、問題だね………)
彼は皇帝執務室に財務尚書ウェンヒルグ=ローレンス男爵と彼が連れてきたある男とを呼び入れていた。
「陛下。陛下の御命令を果すのに役に立つと思われる男を連れて参りました」
ウェンヒルグに与えた勅命とは『鉄砲入手の為の商路開拓』と言う物だった。
華中大帝国とフロレシア帝国はフェルモア=シーザーが建国した後、一時敵対していた時期もあったが、その後、三代皇帝フェルモア二世の時、停戦・通商条約が両国の間で締結され、以後二百五十年程もの間、両国は貿易をしてきた。だが、両国が友好関係にあったかと言えば決してそうとも言えない。
敵対こそしないものの、険悪な時期は数多くあったのだ。そもそも、両国の戦争は『停戦』しただけであり、『終戦』を迎えてはいないのだ。両国の関係を《緩やかな敵対。両国間を行き来する貿易品の背後には悪意と敵意が満ち満ちている》と評した歴史家も居るほどだ。
その緩やかな敵対の中、両国は悪意と敵意に満ちた貿易を続けてきた。
しかしそれは主に食料品や衣類であり、他に華中大帝国からは焼き物、フロレシア帝国からは硝子細工などが取引されていた。武器は基本的に取引した事がない。両国共に武器を交易するのを取り締まるような法律は存在しないが、暗黙の了解のような感じになってしまっているのだ。
ウェンヒルグが連れてきたのはこの事態を打開出来るかもしれないこのフロレシア帝国唯一の男だった。ラインハルトは何処となく狡猾そうな顔をしたその男を見つめた。
その狡猾さは彼の商人としての有能さを示していると言えるだろう。
男の名はディハン=ギルト。帝国内でも有数の商家ギルト商会の当主だ。
ギルト商会は国内の数居る商人の内、皇室に出入りする事を許可されている数少ない商家の一つであり、一手に華中大帝国との交易を取り仕切っているのだ。華中大帝国との交易を行おうとすればギルト商会に登録しなければならない。登録すればギルド商会が雇っている傭兵が交易隊の護衛に付くが、登録せず、無断で交易を行おうとすればこの傭兵はすぐさま山賊と化し、交易隊を襲撃し、その荷を奪ってしまうのだ。登録料は交易の利益の一割。自分の一族の交易隊が上げる利益だけでなく、商会に登録している諸商人からあがる利益も合わせ、ギルト商会はフロレシア帝国でも有数の財閥に成長したのだ。
今やギルト商会は国内で鉱山をも経営し、そこで採掘される鉱物を、やはり一族が経営する鍛冶場で精錬し、武器や他の様々な品物に加工して、それを売る事によっても大きな利潤を上げ、その利益を元に金融業すら行っていた。
「ギルト殿、久しぶりだね」
「はっ………拝顔の栄誉に預かり、恐悦至極に存じます」
ギルトは固くなって居るようだった。彼は以前、ロデン教の命を受け、ラインハルトを暗殺しようとした事があるのだ。ラインハルトを前にし、固くなるのも仕方が無い。むしろ逃げ出さないだけ、さすがは商人の神経は太い。ブレンヒルトのような聖護院の者までが皇帝暗殺に乗り出して居る以上、あのジェルナ=クレイスロールと言う暗殺者はもう任を解かれている可能性が高い。しかし、どうやらヴァンとも何らかの因縁があるらしく、今後ももしかしたら彼らの前に姿を現すかもしれない。そのヴァンは今、ブレンヒルトから受けた傷によって高熱を発し、床に伏している。皇帝の護衛役には近衛騎士が四名付いていた。
ラインハルトは何の拘りもないと言う風な微笑をディハンに向けている。
エシュアの調査により、ディハンは積極的に暗殺を計画したのではなく、ロデン教の指示に従っただけだと言う事が判明している。その報告を受けて、ラインハルトが独自に下した決断は、
『枝葉を切り落とすよりも、活用するべき』
と言う物だった。そして、その活用するべき時がやってきたのだ。
「君に頼みたいのは他でもない。君の得意分野での話しだ」
既にウェンヒルグから話を聞いているだろうが、ディハンは始めて聞いたと言う風な驚いた顔をして見せた。
「君の華中大帝国貿易での知識と経験を総動員し、新たな商品の交易路を開拓して欲しい」
ディハンの目の色が変わった。その反応から、ラインハルトは彼が具体的にどんな商品の商路開拓を命じられるかを知らないと悟った。現在帝都には諜報員が掃いて捨てるほど入り込んでいる。
情報の漏洩をウェンヒルグは気にしたのかもしれない。
(と言うよりは、父さんの指示、かな)
ウェンヒルグには悪いが、ラインハルトの彼の評価は、
『財務管理など数字が絡む問題には非常に有能だが、それ以外にはあまり気が回らない』
と言う厳しいものだったから彼はそう考えたのだ。
「その商品とはなんでございましょう?」
用心深く、ディハンが訊ねた。
「鉄砲だよ。でもそれだけじゃない。鉄砲よりも重要なのが硝石だ」
鉄砲を撃つ為には火薬が必要となる。フロレシア帝国内に火薬の材料となる硫黄はあるのだが、硝石は無いのだ。硝石は華中大帝国から輸入するほか無い。
既に洸安黄の登用は成されている。エシュアの身辺調査によって彼が華中大帝国の間者ではなく、出奔して来た事が判明したからだ。彼は国境で追っ手を二人射殺している。
彼は帝国府の役人に伴われ、オルンヘルを伴ったラインハルトと謁見している。
三日前の昼頃の話しだ。洸安黄はフロレシア帝国皇帝が自分に声を掛けてきた少年だと知って、汗をだらだら流しながらその場に蹲った。そんな彼に、ラインハルトはこう声を掛けたのだ。
「科学力、特に鉄砲などの技術で我が国は後進国である。華中大帝国で学んだ貴殿の知識を十全に活かして欲しい。何でも貴殿は華中大帝国では鉄砲鍛冶だったと聞く。我が国の鍛冶師の中から鉄砲鍛冶の素質ありと貴殿が認めた人物を遠慮なく引き抜き、鉄砲生産の目処を立てて欲しい」
「命に代えましても、お役に立つ鉄砲を作る所存」
髭を蠢かし、洸安黄は頭を下げたのだった。
一時、追憶に浸っていたラインハルトが意識を現実に戻すとディハンが難しい顔をしていた。
「困難なのは知っているよ。でも、必要な事なんだ。公然とした貿易でも密貿易でも構わない。成功した暁にはギルト商会のみを皇室御用達の商家に認定するのも吝かではないよ。またギルト家に男爵位を授ける。無論、貴族院の議席もね」
本当はこういう一財閥による独占は望ましくないのだが、仕方が無い。鉄砲の存在はこれからのラスカーナ大陸において、それだけの価値を持つ兵器となる。ラインハルトはそう考えているのだ。ディハンの頭の中では今必死に計算が働いているのだろう。鉄砲の交易をするために華中大帝国の役人に払う賄賂の額と皇室の唯一の御用達となる事で得られるだろう利益が釣り合うかどうか。男爵となり社交界に入ると言うのも魅力的な話しだ。今までは社交界の貴人に顔を売るためには度ある毎に晩餐会などを開催しなければならず、要らぬ出費となっていたのだ。しかし、彼自身が貴族となればそんな心配は要らない。今度は招かれる席で十分に顔を売ることができるのだ。確かに鉄砲や硝石の輸入は難しいだろう。華中大帝国の政府が認めるとは思えない。しかし、密貿易に手を出している人間は数多い。その中には武器を扱う死の商人も多い。それらと交易し、何とか鉄砲を扱えるよう交渉する事が出来る立場に居るのは彼ただ一人なのだ。危険なのは確かだろう。密貿易が露見すれば華中大帝国はフロレシア帝国に抗議するかもしれない。その時、この皇帝は―――いや、その背後に居る宰相は果たして自分の事を弁護してくれるだろうか?可能性は低いだろう。見捨てられる可能性の方が大きい。だが、危険性は大きいが、その分、利益も多い。ディハンの頭で、計算が答えを弾き出した。
「お引き受けしましょう。いえ、引き受けさせていただきます。陛下の信任に答えられるだけの働きを誓いましょう」
「うん。ありがとう。期待してるよ」
「はっ」
「よし。じゃ、下って良いよ」
「はっ」
ギルトがほくほくとした顔で下っていく。危険を恐れていては、交易商としての成功など夢のまた夢だ。
「ウェンヒルグ男爵。鉄砲の交易はその内縮小する。けど硝石の輸入だけは途絶えさせちゃいけない」
「わかっております」
額の汗をハンカチで拭いながら、財務尚書は何度も頷いた。
皇帝暗殺に失敗した聖護院、《紫の女》ブレンヒルトはロデン教フロレシア大聖堂の一室に部屋を取り、体を休めていた。既に神官長のヤヌス=ロッホには暗殺に失敗した事を告げてある。
その報告を受けたときの神官長の瞳には複雑な感情が浮かんでいた。失望と侮蔑。聖護院と言えども、あのような小僧一人暗殺できないでは無いかと言う嘲りだ。だが、言い訳などできるはずも無かった。現に自分は傷だらけで、皇帝に撃退されたのは紛れもなく事実なのだから。
「おのれ………」
退く訳にはいかない。ここで退けば、それは聖護院の名誉失墜だけに留まらず、法皇自身の権威の失墜にも繋がり兼ねない。《紫の女》の瞳には、憎悪が燃えていた。
陽が落ち、辺りは暗くなっている。しかし、祭りも半分が過ぎ、民衆は徐々にフィナーレへと向かいつつある祭りに相変わらず熱狂していた。建国祭はこのような長い祭りにありがちな飽きを招かず、民衆は毎夜毎夜朝方近くまで騒ぐのだ。金龍と銀龍の二人は貧民街の一角に小さな襤褸屋を借り、活動の拠点としていた。ラインハルト=シーザーがあの聖護院の《紫の女》を撃退すると言う現場を目撃した二人だったが、二人は全く活動して居なかった。暁でも彼らを監視しているが、どうやら皇帝暗殺などを企んでいる様子も無いので、今は泳がされていると言う状況だ。むしろスタルナス帝国の諜報員などが活発に情報を得ようと動いているため、暁はそちらの対応に追われている状況なのだった。
「なあ、銀?」
「何よ?」
椅子に座り、貧乏揺すりしていた金龍がテーブルに紙幣を広げている銀龍に話しかけた。
その紙幣はフロレシア帝国の紙幣で十メルダ紙幣だった。大体、通常の労働者の月収が三十メルダ程度だろう。銀龍が向かっている机の上にはその十メルダ紙幣が十数枚並べられていた。
金龍は貧乏揺すりを止め、銀龍の手元を覗き込んだ。
銀龍が札を束ね、胸の谷間に押し込む。男にとって最も手が出し難い財布の一つだろう。
「その金、本国からの送金………な訳ないよな?」
「お小遣いよ。お小遣い」
にまり、と色気たっぷりの笑みを浮かべ、銀龍が言う。
金龍がその銀龍の笑みを見慣れていなければ、見蕩れていたかもしれない。
いや、たとえ見慣れていたとしても、彼女の笑みは否応無く男の意識を奪う。
ただ単に、金龍と言う男が生まれ付いて女よりも食い物にしか興味を持たない性質の男だというだけの事だろう。だから、彼は誤魔化されなかったのだ。呆れたように表情をしかめる。
「また食ったのか?」
「向こうから声を掛けてきたのよ」
「んで?そんだけの金を出せるってのは金持ちなんだろ?」
「ええ。商人の次男坊」
「父親が稼いだ金で女を抱く………いや、抱かれて精気を吸い取られた挙句に金まで巻き上げられるって訳か」
「良いのよ、そんな事は。それよりも、その次男坊から面白い情報を入手したわよ」
「情報?」
「そう。そこんとこの親父さんが皇帝の勅命を受けたというのよ」
「勅命?」
「そう。どうやら新たな交易路の開拓を命じられたそうよ。その見返りに皇室御用達の栄誉の独占と男爵位、貴族院の議員席が与えられるんですって。まるで自分の事のように自慢してたわ。これでギルト商会はフロレシア………いや、ラスカーナ大陸一の商家になるってね」
「随分と気前が良いな?」
「やっぱりそう思う?」
「ああ。それだけ金が余ってるんなら俺にくれって感じだ」
「あんたに期待したあたいが馬鹿だったよ」
全く見当違いな事を言う金龍に呆れ、銀龍は額を手で押さえた。
そんな銀龍の様子に、金龍が少しだけ表情をしかめる。
「なんだよ?俺なんかお前を失望させること言ったか?」
「あたいがあんたに失望するのはいつもの事だよ。じゃなくてこの場合問題なのはそうまでして皇帝が手に入れようとしている商品が何なのかって事よ」
「おお!そうか、そういう考え方もあるな」
ぽんと手を打って笑う金龍。褐色の顔の肌の中で、白い歯が零れた。その獰猛で野蛮な顔には男性的な魅力が溢れている。女をぐいぐいと引きこんでしまうような型の魅力だ。
「それで、その商品ってのはなんだ?」
「それがわかれば苦労しないわよ」
「なんだよ、おまえが食ったその次男坊から聞きださなかったのか?」
心底不思議そうな顔をする金龍。銀龍は再びはぁっと嘆息し、
「残念ながらそれを聞きだす前に彼は昇天しちゃったの」
「そうか。それでこの事を本国には?」
「連絡員には報告しといたわ。まだ指示は来てないけど」
「本国のお役人どもは動きが鈍いからなぁ」
「組頭が何か言ってくればすぐに動けるよう準備はしときなさいよ」
「その前に腹減った」
「あんた、そればっかりね」
「それが俺さ」
「あんた、この間あたいが上げたお金、落としてただ食いしたでしょ?」
さり気無く言った銀龍の言葉に、金龍の表情が強張った。
「な、何の事だ?」
「あたいも諜報員のはしくれなの。馬鹿にしないでくれる?」
「…………今度は落となさいよう―――」
「これで三回目よね?」
氷よりも冷たい言葉に、金龍が凝固する。
「今日は御飯抜き」
「がるるるっ!」
「飢餓に苦しむ狼みたいな鳴き方したって事態は改善されないよ」
「ぐるるるっ!」
「いつまでそうやって唸ってるのよ。さっさと行きなさい」
「へ?」
いきなりの話題の飛躍に付いていけず、金龍が目をぱちぱちする。
「何処へ?」
「何処へ?何処へって言った?」
「ああ………言った」
「勿論、ギルト商会よ。そこの当主のディハン=ギルトと言う男を見張るの」
「おまえが食った男の親父か?」
「ええ、そうよ。組頭から指示が来るまで、見張るの」
「指示が来たら?」
「指示に従うのよ。当たり前でしょうが」
「俺の意見を言って良いか?」
「どうぞ、御自由に。言論の自由を奪う気は無いわよ」
「俺が気になっただけなのかもしれないが、まるで今のだと俺一人が働くみたいに聞こえるんだが?」
「ええ、そうね」
しれっと答える銀龍。金龍のこめかみに微かな青筋が浮かぶ。
「おまえも働けよ!」
「嫌よ。私はもう情報を得ると言う重要な仕事を果したんだから、次はあんたが働く番よ」
「たまたま食ったついでに聞きだしただけじゃねえか………」
「何か言った?」
「ぐるるる。何も言ってねえ」
「なら早く行きなさい」
3 謁見
建国祭最終日。
ルーガ城にある待合室の一つに、蜂蜜色の髪の青年の姿があった。
黒を基調とし、金糸をあしらった第一種軍装に身を固めた彼は彼の特徴でもある蜂蜜色の髪をしっかりと整えて、控えていた。三十人は同時に入れる待合室には他に人影も無く、謁見を待っているのは彼一人のようだった。壁には大きな壁掛け時計があり、時刻は一時四十分。
登城するよう城からの使者がやってきたのは今日の午前十時。
登城するよう言われた時間は二時だった。
(少し早く来過ぎたか)
レッセフェルトの表情はさほど明るくない。
陛下が自分を呼び出す理由は一つしか思い当らなかった。
彼の亡命パルディア王国大使と言う役職を正式に解き、第四軍への異動を命じるためだろう。
通常軍人の異動でいちいち陛下に謁見する事は無い。
例外とすれば軍団長の異動や就任、特別に功績のあった軍人の昇任などの場合だ。
しかし、レッセフェルトは先日辞令を受け取るまで、軍を離れ、大使となっていたのだ。
大使の就離任は外交にも関わるので、皇帝の面前で新たな大使に引き継がねばならないのだろう。
ここ十日ほど、彼はレイシアと話しても居なかった。一人家に篭り、酒を浴びるように飲んでいたのだ。
しかし、どれほど飲んでも酔い切る事ができず、もやもやとした不快感が付き纏う。
街に出ると祭りに浮かれている何の罪も無い一般の人々を殴ってしまいそうだった。
自分は大使として適任ではなかったのか?
自分は自分なりに努力して来た。少なくとも、そのつもりだ。
(それとも………やはり、甘えがあったか?)
自問自答するも、答えは出ない。煩悶し、その苦しみから逃れようとさらに酒を飲んだ。
そんな不摂生な生活が祟り、彼の肌は荒れ、目の下には隈が出来ていた。
全身を倦怠感が襲い、体内に飼っている流体金属が足の先に集まっているかのように足が重い。
こんな体調ではとても指揮官として一万名もの部下を指揮する師団長の激務には耐えられない。
今日、城からの使者が来た後、彼は一通の書類を書き、懐中に潜ませてきた。
それは辞表だった。彼は軍を辞める決意を固めていたのだ。
実は数日前、彼は一通の辞表を書き、長年直属の上司として仕えてきた第四軍団長のコーデル=ハム中将に提出した。中将は彼の辞表を一読するなり、黒い髭を蠢かし、唾を飛ばしながら怒鳴った。
「馬鹿野郎!顔洗って出直して来い!」
唾を浴びせかけられ、辞表も突き返されてしまった。
それならば、とレッセフェルトは一足飛びに軍令部総長ハーン=ハーベスト元帥の元を訪れた。
元帥は彼の差し出した辞表を見るなり、がっちりした筋肉で盛り上がった肩を震わせて笑った。
「昇進させられて辞表を提出するとは面白い奴だな。そんなに大使の役職は魅力的か?」
「そんな事はありません」
ハーンはレッセの真意を測るかのように、彼の目を覗きこんだ。
レッセは心中にわだかまる物を感じたが、無理やりにそれを押さえ込んで、ハーンを見返した。
しかし、そんな彼の葛藤もこの元帥には読まれているのではないか?
訳もなく、そう思い、彼は心の水面が大きくざわめくのを感じた。
ハーンは身を引いて、黒革の座り心地の良さそうな椅子に背を預けると、言った。
「まあ、良いだろう。これは預かっておく」
「ありがとうございます」
礼を言いながら、レッセは冷静に、ハーンはこの辞表を握り潰すだろうと考えていた。
そして、自分には正式な辞令が下り、ニヘンベルグくんだりでスタルナス帝国の妖将オルティア=フリンシュ、ルーナ帝国の艶将ミト=ヴァレンツェと戦わなければならないのだ。
(それはそれで別に良いか………)
軍令部を後にしながら、彼は少しだけ考えを変えていた。
しかし、今日、登城するよう言われて、また考えを変えたのだ。
「こうなったら、直接陛下に辞表を叩き付けてやる」
誰も居ない待合室で、彼は一人、呟いた。
決意を固めると心の水面が静かになって行った。
感覚が研ぎ澄まされると、近づいてくる足音に気付いた。
その足音が扉の前で止まり、ノックされ、扉が開かれた。
入ってきたのは一人の文官だった。
恭しくレッセに向かって頭を垂れ、
「お待たせいたしました、閣下。皇帝陛下がお待ちですので、ご案内いたします」
「御願いする」
言って、レッセはその文官の後に続いて廊下に出た。
謁見の間に行くのかと思ったが、文官はそちらへは向かわず、階段へと向かった。
「どちらへ参られる?」
「陛下は執務室にてお待ちになっておいでです」
レッセの疑問に、文官が振り返りもせずに答える。階段を上った尖塔の内部は下の階に比べ、皇帝の私的空間との印象が濃い。無論、そこはレッセにとって未知なる空間である。
執務室の扉を文官が叩く。
「レッセフェルト=イングラム閣下がお参りになられました」
扉が内側から開けられる。
さっとレッセの全身が硬直する。
なんと!扉を開けたのは皇帝自身だったのだ。
「へ、陛下!」
文官が慌てて膝を付こうとするのを、
「ああ、服が汚れちゃうよ。ご苦労様、下って良いよ」
慌てて立たせ、労いの言葉を掛けて下らせる。それから未だに硬直しているレッセに向かって、皇帝ラインハルトは軽く悪戯小僧のような微笑を浮かべて見せた。
「?」
困惑するレッセ。皇帝に、こんな親しげな態度を取らせる要因がわからなかったのだ。
ラインは部屋の中をちらりと見た後、
「入って、イングラム大佐」
「はっ………い、いえ、どうぞ陛下から」
「ああ、そうだね。うん」
ラインハルトが中に入る後から続いて中に入り、扉を閉めてから、中を見る。
「っ!?」
中に居た人物を見て、レッセは思わず声を漏らしそうになってしまった。
執務机の向こう側に収まったラインハルトがそんなレッセを見て、少しだけ落胆した様子で、
「あれ?思ったより驚かないな」
「いえ。十分、驚いてるみたいですよ、陛下」
そう言って、レッセの方を振り向いたのは栗色の艶やかな髪をした女性だった。
レイシア=パルディアスだ。
「なんでおまえが?」
「私は亡命パルディア王国の女王として、ここに来ているのよ」
(ああ………そうか、大使の交替に立ち会うわけか)
しかし、執務室内に新たな大使となるような人物は居なかった。
ラインハルトとレイシアと彼の三人しか居ない。
事態を理解できないながらも、ここは皇帝の面前である。
とりあえず、レイシアの隣に立ち、皇帝と向き合う。
「さて、レッセフェルト=イングラム大佐。君に来て貰ったのは他でもない。君に与える新たな仕事の話しだよ」
「その前に、陛下。俺は師団長になるのを辞退したいと思います。これを書いてきました」
レイシアが居た事で驚いたが、決意は揺るがなかった。
仕事の内容を聞いてからでは出し難いだろうと、懐に手を差し込み、辞表を取り出し、執務机に叩きつけるように置いた。ラインハルトが目を丸くして、レイシアが目を鋭くして、その辞表を見る。
「―――これは?」
「辞表です」
ラインハルトはレイシアとレッセを見比べて、
「とりあえず、君に与える仕事の事なんだけどせめてそれを聞いてからにしてくれないかな?」
「いえ。俺はこのルーガで、レイシアの傍に居たいんです」
予め考えていた言葉ではないが、すらすらと出てきた。
「こいつは真面目な奴で、一人で思い悩む事が多いんです。次の大使が誰になるかは知りませんが、こいつが悩みを相談できる相手とは限らないと思います。俺ならばこいつの悩みを聞いてやって軽くする事ぐらいの事は出来ると思うんです………ただの自惚れかもしれませんが」
一種の告白には違いないだろう。ラインは少し頬を染めながら、レイシアの方を見た。
しかし、レイシアの表情は相変わらず険しい。ラインハルトはにやりと口元に微笑を浮かべて、
「なら、尚更君には話さなければね」
「―――尚更?」
レッセが怪訝そうな表情になる。ラインハルトは頷いて、
「そもそも、どうしてこの時期に君がニヘンベルグ砦の守備隊長に返り咲くことになったんだと思う?」
「そりゃ、パルディア王国がスタルナス帝国とルーナ帝国に制圧され、しかも南方の異民族の動きも活発化しているとあって、第四軍に少しでも実戦経験のある指揮官が必要になったから………じゃないんすか?俺は一応スタルナス帝国軍との実戦経験があるし―――いや、ありますし」
「確かに、コーデル=ハム中将から君を現場に戻して欲しいと言う嘆願書は余の所にも宰相や軍令部総長の所にも来ている。けど、それだけが理由じゃないよ。ニヘンベルグ砦には君の部下でもあったサンチェ=ポルトフ大佐が居る。彼も実戦経験は豊富でしょう?もしなんならば、彼を現在の師団長代理と言う曖昧な処遇から正式に師団長に任命しても良い。もう一つの理由、というよりもこっちの方が主たる理由なんだけど。とある人物の嘆願書がそれだ」
「何なんです?その嘆願書って………それに、とある人物と言うのは?」
「そちらにおられるレイシア=パルディアス女王陛下だよ」
「レイシアが?………あ、いや、女王陛下が?」
ラインハルトが『女王陛下』と呼んだので、レッセも慌てて言い直した。
「彼女は居候の身に甘んじるのではなく、己の力で祖国を取り戻したいと願っておられる。彼女自身とそして君の努力と才覚によって、彼女の武勇はラスカーナ大陸中に鳴り響き、パルディア王国復興を願う義勇兵も日々亡命政府の門戸を叩いているという。彼女は現有の戦力を持って、パルディア王国復興へと一歩を踏み出したいと余に嘆願書を提出なされた」
「現有戦力って………まだ三千位しか」
「何もすぐに攻め込もうなんて思って無いわ。ただ、国境近くに進む事で、復興の志を示そうと思うだけよ。このままこの平和な帝都に居て事態の変転を待つのは嫌なの」
横目で睨みつけるようにして、レイシアが言い放つ。
「ただし、国境線ではいつなんどき戦闘が起こるかわからない。それに、パルディア王国軍を収容するに足る砦は数少ない。何処の砦に入れるにせよ、割り込む形となる彼女達を忌避する者も少なく無いだろう。だが、国境線の砦には一つだけ、彼女とも縁のある人物が守備隊長を務めていた場所がある。ニヘンベルグ砦だ。そこで、君をニヘンベルグ砦守備隊長に任じ、パルディア王国に協力して貰いたい。恐らくはフロレシアの各地から或いは他国からも義勇兵が集うだろう。出来るだけ、彼女に便宜を図って貰いたい。それともう一つ。余や宰相が初め彼女からパルディア王国の国境進出を聞かされたとき、余達は反対した。危険すぎると。そうしたら彼女はこう言ったんだよ。『あの蜂蜜色の男を貸してください。そうすれば、全ての危険は機会に変わりますから』と。この言葉の意味を考えて、この辞表を正式に提出するかどうかを決めてくれないかな?」
レッセは半ば唖然と、レイシアの方を見る。
「別におまえに居て欲しいと言う事では無いぞ。おまえが居た方がいろいろと便利だからだ。その、つまり、雑用係として」
心持顔を赤くして、目を逸らしながら、レイシアが早口にまくし立てる。
レッセの口元に苦笑のような淡い微笑が浮かんだ。片手で蜂蜜色の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。
虱が落ちるのにも構わずに、掻き混ぜ続ける。口元の微笑は今や、完全たる笑みに変わっていた。
(あはは。全く俺は………何を悩んでたんだか)
レッセは手を伸ばして、辞表の上に置いた。
「陛下。申し訳ありませんが、これはなかった事に―――」
「何の事だい?余は辞表なんて見て無いよ?」
「はい。そうでしたね」
レッセは辞表をその場でいくつにも裂いて、くずかごに放り込んだ。
「辞令を正式にお引き受けします」
「ではレッセフェルト=イングラム。汝を駐亡命パルディア王国大使兼第四軍第十六歩兵師団長兼ニヘンベルグ砦守備隊長に任ず。階級は少将に昇進だよ」
「はっ………陛下、一つ、お尋ねしても宜しいですか?」
「ん?なんだい?」
「少将になると給与はどれほど上がるんですか?」
「レッセ!」
「お前に飯を奢ると俺の財布はすっからかんになるんだ!」
「あはは。少将になれば給両は二百五十メルダと言ったところかな」
「と言う事は五十メルダの増収………」
「質問はそれだけかい?」
「はい。ありがとうございます」
「うん。じゃあ、下って良いよ」
「はっ」
「失礼しました、陛下」
城から退出したレッセはレイシアを宮殿に送るため、普段は城から朱雀通りをまっすぐ行くところを城前広場を斜めに突っ切って、貴族地区のメインストリートであるフェルモア二世通りを歩いていた。
「でもまさか、あの辞令の裏にお前の思惑が絡んでいたとはな。参ったぜ」
蜂蜜色の髪を掻き混ぜながら、レッセは言った。
「それにしても、随分と恥ずかしい事言ってくれたわね。私の悩みを聞いて、軽くしてやるって?」
「いや、あれは勢いと言うかなんと言うか………」
「私はそんなに弱い女に見えるのかしら?」
「いや、そう言う訳でも………」
「言っておくけど、貴方を指名したのは私を守って貰うためじゃないから」
「どうせ、俺は雑用係なんだろ」
「ええ、そうね。でもそれだけだと思う?」
「さあな。女の考えてる事はわからんよ」
「いじけないでよ」
「いじけてねぇよ。ガキみたいに言うな」
宮殿が見えてきた。宮殿の前にいくつかの人影がある。パルディア騎士団の誉れ高き六騎士の面々だ。
「じゃあそろそろ」
レイシアはそう言って、歩く速度を早くした。すぐに、レッセを引き離していく。
「レイシア!」
その背に向かって、レッセが声を掛けた。レイシアが振り向く。
「何よ」
「どうして俺を選んだ?お前にはあの六騎士やジード=ブリードも居るだろ?ニヘンベルグ砦の連中ならお前の事も知ってるし、俺が居なくともおまえを拒むような奴は居ない。俺が保障する。サンチェ=ポルトフは優秀な指揮官だ。なのに、どうして俺を連れて行こうとする?」
レッセの瞳にはいつもの茶化すような色は無かった。
何処までも真剣だった。故に、答えるレイシアの口調も真剣そのものだった。
「私はね、レッセ。私は貴方の後ろで守って貰うより、横に並んで支え合う方が性に合ってるのよ」
4 フィナーレ
最終日の夜。建国祭の盛り上がりは最高潮に達する。
帝都に滞在する人々全てが、帝都ルーガのメインストリート・朱雀通りの沿道に集まった。
最終日の夜は帝都の各地区の民が協力して作り上げた二百以上の山車がパレードするのだ。
商人街、富裕市民街、貧民街、職人街とそれぞれの街の特徴を活かしたパレードが城前広場から凱旋門までの七キロメートルを練り歩くと言う訳だ。
フロレシア帝国第十五代皇帝ラインハルト=シーザーとその侍女シエナ=クリケットはルーガ城のテラスからこのパレードを見る事にした。テラスの手摺に手を乗せて、晩夏の涼しい風に豪奢な金髪を靡かせながら、ラインは横目で自分の隣に立つシエナを見た。
銀色の柔らかな髪を風に弄られながら、シエナは温和な眼差しを輝く眼下の光景に注いでいる。
「綺麗ね」
憧憬を込めて、シエナが呟く。無論それは眼下の光り輝く永遠の都、ルーガの姿を評しての言葉だろう。
「うん」
しかし、頷いたラインハルトの視線は眼下の風景ではなく、傍らの幼馴染に注がれていた。
「さすがはライン。話題が繋がっているようで全く噛み合ってないな。さしずめ次の台詞は『君の方が云々』か?いやぁ、恥ずかしいねぇ。だがそれを臆面もなく言えるようになればおまえも立派な女垂らしだぞ。おめでとう。ローデンスの土壌はどうやら女垂らしを多く輩出するらしいな」
「アレク!?」
いきなり気配もなく背後に現れ、からかいの言葉を叩き付けてきた幼馴染の姿に、ラインハルトは顔を赤く染めながら責めるような口調でその名を呼んだ。
「アレク、何処から生えたの?」
「生えたって、そりゃあんまりだぜ、シエナ」
アレクはシエナの言葉に、がっくりと肩を落とす。だが、すぐに顔を上げてにたりと笑うと、
「それにしても、おまえらは見せ付けてくれるよな。思わず赤面しちまうぜ」
「な、何言ってるんだ。ぼ、僕達はここからパレードを見ていただけだよ」
アレクの言葉に思い切り動揺するラインハルト。
シエナはそんなラインハルトの言葉を肯定するかのように頷いて、
「そうよ、アレク。私達はここからパレードを見ていただけよ」
アレクが意地の悪い笑みを見せて恭しく頭を垂れて見せた。
「確かにシエナはパレードを見てたな。それで、ラインは?」
「ぼ、僕もパレードを見ていたよ」
「ほう。俺には横顔が見えましたがの」
「何を見ていたの、ライン?」
「パレードだよ、シエナ。断じて、パレード。神明に誓って、パレード。アレク、頼むから変な事は言わないでくれ」
「御命令とあらば口を閉ざすのが臣下の役目。されども、俺様は口を閉ざすのが大の苦手。もう叫びたくて叫びたくて―――」
「アレク!」
「あはは。わかった、わかった。俺は退散させて貰うよ」
アレクは軽く手など振りつつ、テラスから去って行った。
「アレク、結局何しに来たんだろ?」
不思議そうに小首を傾げるシエナ。ラインは手摺にぐったりと凭れかかりながら。
「きっと僕らを冷やかしに来たんだ………きっとそうに違いない、いや間違いない」
「ふ~ん。いつも思うけど、アレクって案外に暇そうよね」
「今度書類をどっさりと送りつけてやる事にするよ」
「それはいいかもね。でも、苦労するのはリーナさんだけかもよ?」
「確かに………」
それっきり、また二人はパレードを眺め始めた。様々な趣向を凝らした華麗な山車が通りを練り歩き、沿道に集った人々の間からは目の前を山車が通るたびに歓声が沸き起こって居る。
「聞いたわ、ライン」
「な、何を?」
「貴方を襲ったのは聖護院………ロデン教の刺客だって」
アレクのからかいによる動揺から回復していなかったラインははっとシエナを振り返った。
彼女の表情に先ほどの温和さは無く、葛藤の色が浮かんでいた。
彼女はこの帝都、いやラスカーナ大陸に住んでいる大部分の人々と同様、熱心なロデン教信者なのだ。
「シエナ………」
「教えて、ライン。貴方はロデン教と対立しているの?貴方はロデン教を潰すつもりなの?」
「僕はロデン教を潰す気はない。でも彼らは―――」
「貴方を殺そうとしているの?どうして?」
「僕だけじゃないよ。彼らは自分達の教義に反する者達は全て殺している。歴代の皇帝の中にも殺された者も居るようだし」
「教義って、ロデン教の教義は全ての民の救済でしょう?」
「そうだね。支配者に虐げられ、貧苦に喘ぐ貧民をロデンの神の御力によって救う」
「どうして?貴方はだって民を救う政策を出してるじゃない」
「でも僕が民を救済するのは彼らの教義に反してるって事になるんだ」
「どうしてなの?」
「民を救ったのがロデン神ではなく、皇帝だからだよ」
「そんな………」
「彼ら以外の者が民を救うのを許さない。結果、民を救う者はロデン教だけと言う事になる。民の心の拠り所もね。そのために彼らは民の心の拠り所となりうるような他の宗教を徹底的に弾圧している。そのために彼らは聖堂単位で異端審問軍と言う特殊部隊を持ち、法皇直属の聖護院と言う組織もあるんだ」
次々に真実を告げられ、シエナは熱された頭を冷やすかのように首を振った。
「どうすれば、暗殺を止めさせられるの?」
ラインは軽く肩を竦めて見せた。
「僕が彼らの前で膝を屈し、彼らが望む暴虐の王となれば良いんだ」
「無理ね」
「うん」
「私は―――」
「シエナ。己の信じるものを否定する必要は無いよ」
「ライン?」
「君がくれたロデン神像、僕はいつも肌身離さず持ってるよ。君の信仰心がいつも僕を守ってくれているんだ。だから、君の信仰を変える必要は無いよ。ロデンの神が貧民を救済してくれるのは事実なんだから。腐ってるのは法皇庁とそれに従っている各地の聖堂なんだから。それも全部じゃない。一部だよ」
(きっと………。心の底から弱者の救済を願って止まない人々だって居る筈なんだ)
「戦うの?」
「彼らがそれを望むのなら。僕は出来るならば共存を願いたい。でも、彼らの思うようにはさせないよ。少なくとも、僕が生きてるうちには」
「そんな事言わないで!」
声は小さかったが、鋭かった。ラインハルトは思わず口をつぐみ、シエナの顔をまじまじと見つめた。
「シエナ………」
「死にそうなこと言わないでよ、ライン」
「僕は………死ぬよ」
「………」
「いつかね。でも僕は長寿を全うして、愛する人と愛する子供達に囲まれて、死にたい。『汝が生まれたとき汝は泣き、汝の周囲の人々は喜び、汝がこの世を去るときには汝の周囲の人々が泣き、汝のみ微笑むようにすべし』って言ったのは誰だったっけ?忘れちゃったけどね。とりあえず、僕はそうやって死にたい。だから、ロデン教の暗殺者に殺されようとは思ってないよ。それに―――」
視線をちらり、と背後に向ける。
気配は感じられないが、そこでこちらの話を聞いている黒髪の剣士を見るかのように。
ヴァンはブレンヒルトに受けた傷も何とか塞がり、熱も下ったので今日から皇帝の護衛役に復帰していたのだ。まだ本調子では無いだろうが。
「ヴァンが僕を守ってくれるしね、だから―――」
彼はヴァンに向けていた視線をシエナに向けた。そっと微笑む。
「シエナは自分の信じる物を大事にするんだ」
「―――うん」
シエナが微かに頷く。その目は滲みだした涙に濡れていた。
その涙を慌てて拭って、
「私ってば格好悪いね。年上なのにね」
「そんなこと無いよ、シエナ」
ラインハルトの声は優しく、暖かで、シエナの心を満たして行く。
「ラインの馬鹿!」
怒るように言いながら、シエナの手がラインの頬を挟んだ。勢いあまり、バチンと言う音が響く。
「ひ、ひへ―――」
驚いたように裏返ったラインの声を遮ったのは、彼の唇に重ねられた彼女の唇だった。
余りにも勢い良くぶつかって来たために、歯がぶつかり、鈍い音を立て、さらにラインはシエナの体重を支えきれず、そのまま仰向けに倒れてしまった。
それでもシエナの唇は離れない。
シエナの柔らかい唇の感触と吹き込まれる甘い吐息、テラスの床に思い切り後頭部をぶつけた衝撃で、ラインハルトは意識が遠退いていくのを感じた。
「これはこれは黙ってられないな。王子のキスは姫君を起こすと言うけど、姫君のキスは王子を眠りへと導くものらしい。果して王子が見る夢は天国か地獄か………って、生きてるかぁ、ライン?駄目?」
「ううっ………」
アレクの皮肉な言葉が、ラインの遠退く意識を留めた。
シエナがゆっくりと身を起こす。
「ライン………」
「馬鹿はひどいな、シエナ」
自分の唇に残る感触に陶然としながら、ラインは苦笑した。
シエナは顔を真っ赤にしながら身を起こすと、
「ラインが優しすぎるから、私が我侭になっちゃうのよ」
「僕と出会う前は我侭じゃなかったの?」
ラインは後頭部を摩りながら立ちあがった。二人は再び手摺に並んで、街を見下ろしながら、
「シエナの唇って、甘いんだね」
「なっ………」
真っ赤だったシエナがさらに真っ赤になる。
「馬鹿!」
そして、その鉄拳がラインの頬を打った。
「やれやれ。雰囲気が甘すぎて、見てられないな。俺も女を抱きに行くか」
暗がりから現れてきたアレクがちらりと笑みの浮かんだ顔を一人で城下を見ているシエナに向け、床に無様に倒れて伸びている皇帝の傍らにしゃがみこんだ。
まぶたを押し上げ、瞳を覗き込む。
「おーい。生きてるかぁ?ちょっぴし瞳孔が開いてる気がするな。もしかして危ないのか?にしても、幸せそうな顔してら」
アレクはラインを軽く抱え上げるとシエナの方を見た。
「シエナも、気の迷いの晴れたような顔してるな」
「アレク。貴方って意地の悪い人ね。さっき帰ったように見せかけておいて覗いてるなんて」
「今頃気付いたのか?それに、ヴァンの奴は公然と見てるんだぞ」
「そう言えば―――」
「…………」
姿を現したヴァンは無言で、アレクからラインハルトを受け取った。
その頬が心持ち赤いのはきっと気のせいだろう。アレクはヴァンにラインを渡しながら、
「迷いは晴れたんだろ?」
「ええ。私は決めたの。私はロデンの神を信じてるわ。でもそれ以上に私は―――」
そこまで言って、シエナはくすっと笑った。
「これ以上は言わないわ」
「気を持たせるなぁ。そこまで言われたら気になるじゃねぇか」
「私も結構良い性格をしているのよ」
「なるほど。それでは城下の美人達が俺を待ってるんでな」
「―――私は陛下をお部屋に」
「ええ、御願い。今の私じゃ、ラインを襲っちゃうわ」
「おお、その方が手っ取り早いな。やっちまえ」
「手っ取り早いって………」
シエナが呆れるように半眼になる。
「はっはっは。それじゃあな」
無意味な笑い声を上げながら、アレクは去って行った。ヴァンも皇帝を抱えて、去って行く。
シエナは薄い笑みを浮かべながら、再び城下に視線を向けた。山車も半分以上が通りすぎ、潮の如く人々の歓声が聞こえてくる。建国祭も終わり、やがて今年も終わり、新たな年がやってくるのだ。
皇帝私室に入ったところで、ヴァンは、
「―――宜しいですか?」
「あれ、気付いてた?」
ぱちっと目を開け、気まずげに頬を掻く皇帝。
ヴァンがラインを下ろすと、彼は自分の足でしっかり立って、
「いやあ、なかなかあの場にいるのは気まずくてさ」
「―――邪魔でしたか?」
「な、何言ってるのさ!」
ラインは真っ赤になりながら、ベッドに腰を下ろした。
「―――今度からもっと目立たないようにします」
「だから!そんな気を回さなくても良いよ」
「―――はい」
「それじゃ、僕は寝るよ」
「―――はい」
恭しく頭を下げ、そして、ヴァンの姿が掻き消える。
ラインはふうと息を吐き、窓から空を見上げた。冬の晴れ渡った夜空に星が輝いている。
(シエナにキスされてしまった………)
ベッドに横になり、目を瞑ると思い出されるのは強く押し付けられたシエナの唇の感触、その甘い息、そして暖かな体温。
(しかも、押し倒された………)
後頭部に残る鈍痛が消えない限り、体が興奮して、なかなか寝付けそうにない。
(唇を奪われて押し倒されるって………男としてどうなんだろう?)
ラインは爛々と輝く目を天井に向けて、熱っぽい息を吐いた。
(と言うか、アレクに見られたのはまずいよなぁ………明日にはかなりの人間が知る事になるんだろうなぁ)
アレクの事だから、無闇に話したりする事は無いだろう。しかし、彼らと関係の深い人物達には必ず話すだろう。シオン=クリケットを筆頭にリーナ、カーン、オットー………。
(恐ろしい………)
この日、半月に亘って帝都を熱くしていた建国祭が終焉を迎えた。
建国祭は平和の象徴だった。しかし、それは一時の事に過ぎないのかもしれない。
幼馴染にキスされて喜んでる皇帝の知らぬところで、世界はさらに加速して動き出していたのだ。
やがてはその荒波に、彼も彼の仲間達も巻き込まれていく事となるのだ。
『建国の宴』 完