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覇皇伝

第三章 老将の苦悩

第三章 老将の苦悩
1 ハウゼン・シュタット
ハウゼン・シュタット。
それは城砦の名であると共に、スタルナス帝国東部最大の地方都市の名でもある。
ハウゼン・シュタットと言う名はかつてのスタルナス帝国の二人の英雄の名から取られている。
彼らはそれまでギースと呼ばれていたこの地において僅か二万の軍勢のみで迫り来るフロレシア帝国軍十余万を迎え撃ち、見事これを潰走させると言う戦果を挙げたのだ。
時のスタルナス帝国皇帝は二人の業績を称えると共に、業績ある軍人が中央で政治的権威を持たないようにする為の政治的配慮から、二人を東部方面の司令官と副将に任じた。
そこで彼らはギースの地に巨大な城砦を築いた。三重の城壁に守られた城砦とその外に広がる市街地。
市街地の住人たちはいざ戦闘ともなれば近くの山に逃げ込むか、城に逃げ込むか、無為に殺されるかの三択を強制される。
フロレシア帝国の帝都ルーガは市街地自体が城壁の内側にあるが、ハウゼン・シュタットは城壁の外側に市街地があるのだ。その市街地の通りを一人の男が歩いていた。
年の頃で言えば五十代半ば、金髪には大分白髪が混じり、かつては鬼瓦と言われた顔にも皺が大分増えている。しかし、幾多の戦場往来で鍛えたその肉体は今尚頑健である。
ハウゼン・シュタットは東部方面軍司令長官である彼、キエフ=ロドリナスと城将であったオルティア=フリンシュでもって、フロレシア帝国軍に対し、万全の防衛体制を整えていた。彼ら二人がこの城にある限り、この方面からのスタルナス帝国侵攻は避けた方が無難であると軍令部は判断を下し、判断を下してからの十年余りを、この城を攻略する為の研究に費やしてきた。何度か小中規模での侵攻を行いはしたが、その都度撃退されていた。
しかし、キエフ=ロドリナスの副将として辣腕を振るっていたオルティア=フリンシュは現在南部方面軍司令長官に転出し、信頼を置くに値しない謎のルーナ帝国の女将軍ミト=ヴァレンツェと共同して武勇・騎士の国と言われたパルディア王国を攻略し、現在はその北半分を軍政下においてミト=ヴァレンツェが軍政下に置く南部と対峙している。
キエフは城内に入ると城主の間に入った。
現在キエフの下に城将は三人居る。
一兵卒からの叩き上げで現在の地位にまで上り詰めた根っからの軍人であるユアン=レーゲンスブルグ。
中央の参謀部から派遣されてきた監視役であるカニング=レクラム。
オルティアが副官から城将に躍進した後を襲って副官となり、オルティアが南部方面軍司令長官になった後、城将になると言う彼と同じ道を歩んでいるカルミ=パーンの三名だ。
ユアン=レーゲンスブルグは野心も何もない純粋に戦うために生きている武人だ。
カルミ=パーンは野心はあるが、それを具現させるための具体的な行動を取る気配はない。
副官だった頃も忠実に仕えてくれた。
問題なのはカニング=レクラムだ。
中央の参謀部から派遣されてきた彼は城内の様子やキエフ、他の城将達の言動などをすべて帝都に報告している。まさに獅子心中の虫と言える存在だ。
彼の存在があるだけで、城内の雰囲気は大分重苦しいものになっていた。
ハウゼン・シュタットには現在およそ五万余の部隊が常駐している。
しかし、それが多いかどうかと言えばやはり少ないとしか言えない。
何故なら、彼らと対峙している関係にあるフロレシア帝国第六軍の総兵力は十八万と言う大軍だ。
だが、これらの部隊はハウゼン・シュタットのように一箇所に集結しているわけではなく、地方都市や砦、城などに師団或いは連隊規模で駐屯している。
すべての部隊が即動状態にある訳でもなく、予め察知されていなければ各個撃破する事は可能だろう。そう考えれば五万と言う兵力は多いのかもしれない。
「閣下。カニング=レクラム閣下がお越しです」
副官が入ってきて、敬礼しながら告げる。キエフは少しだけ顔をしかめた後、首を縦に振った。
「通したまえ」
副官が下るとしばらくして、冷酷そうな目付きをした男が入ってきた。
戦場など行った事もない、むしろ屋内の暗い場所で年がら年中作戦を考えているような、病的なまでに真っ白な肌をした男だ。
「閣下に置かれましては御機嫌麗しゅう―――」
「ないのは確かだな」
白々しく挨拶を述べるカニングの言葉を遮り、
「それで、用はなんだ?」
「これは冷たいですな」
「おまえが仲良しこよしを望むとは思えんな」
「ええ。反吐が出ます」
「ふん」
キエフは鼻を鳴らして、そっぽを向いた。彼は元々、然程愛想の良い男ではない。
「それでは用件に入らせて頂きます。以前に閣下に提出した作戦案についてなのですが」
キエフの眉毛が大きく動いた。目尻にはっきりと不快感が浮かぶ。
「それは却下したはずだ」
「実はあの作戦案には複写がございまして。そちらを参謀部に提出しておきましたところ、作戦の認可が下りました。こちらが命令書です」
「馬鹿な!」
「馬鹿な、とは私個人に対する言葉ですか?それとも、陛下の直参組織である参謀部に対しての物ですかな?参謀部に対する物だとすれば重大な問題になり得ますが」
「煩い」
キエフはカニングの言葉を一言で切って捨て、カニングが持っている命令書を引っ手繰った。
読み進めるうちに、キエフの骨ばった手が震えだす。
そこには確かに彼が却下したはずのカニングの作戦案が認可されたと書かれていた。
間違えようも無いほどはっきりと皇帝陛下と参謀部長の血判が並記されていた。
「閣下にはこの作戦の実現の為に努力していただきたい」
「貴様………!この作戦が実行できると思っているのか!」
思わずキエフが怒声を挙げる。戦場で鍛えた大声にカニングは気圧されたが、何とか平静を取り戻すことが出来た。彼の背後には皇帝権力と言う強力な後ろ盾がある。
「できるできないではなく、やらなければならないのですよ、閣下。これは陛下の御命令なのですから」
キエフはきっとカニングの顔を睨み据えた。
「貴様、一体何を考えてこの作戦を考えた」
「無論、この作戦が齎す効果です」
「犠牲は考えなかったのか」
「大を成すに小の犠牲は仕方が無いでしょう。犠牲に囚われ、大局から物を見る見方を失えば、参謀職は勤まりません」
カニングは根っからの参謀だった。兵士の命を価値のある物とは考えず、ただの数字としか考えていない。彼が考え出した作戦はフロレシア帝国領内への侵攻だ。しかし、純粋にはそうではない。
国境沿いの村をいくつか焼き討ちにし、駆けつけてくるであろう第六軍部隊を撃破する。
そして第六軍の本隊が駆けつける前にハウゼン・シュタットに後退すると言う得る物は何も無く、敵味方の兵力を悪戯に損耗するだけの作戦だ。
「そんな事はありません。フロレシア帝国中枢に我々の脅威を再認識させることができます」
「そうするとどうなる?」
「敵は第六軍が失った兵力を補充しなければなりません。敵を各個撃破すればこちらの被害は少なく敵の被害を大きくすることができます。これを繰り返すことにより、第六軍に損耗を強いるのです。第六軍に兵を補充しなければならなくなるフロレシア帝国の目は自然と西部に集まるので、我々とは協調関係にあるドルク王国軍がルシタニア王国内で動きやすくなります」
「愚かな。いくら第六軍が損耗されようと帝国の各軍団はそれぞれが制限はあるものの自由意志で動いている。第三軍までが西部に視線を向けるはずがあるまい」
「一度の襲撃ならば、確かにそうでしょうな。しかし繰り返すことにより、効果は増します」
「何度も繰り返せばそれだけ第六軍も警戒を厳重にするだろう。攻撃側の被害は増すばかりではないか」
「これはしたり。スタルナス帝国一の名将と謳われた閣下がたかだか十八万余りの第六軍を恐れるのですか?」
「恐れているのではない。だが、スタルナス帝国とて戦力を回復しているわけではあるまい。ここで悪戯に兵力を損耗すれば戦力の回復はさらに遅れる事となる」
「我が祖国は経済力でフロレシア帝国に大きく後れを取っております。軍備の回復競争をすれば我が祖国はフロレシア帝国には勝てません。国力が違うのですから。我が祖国が軍事力でフロレシア帝国の優位に立つためにはフロレシア帝国が戦力の回復を果せないよう、ひたすらに叩き続ける必要があります。しかし、現状の戦力を鑑みれば大規模な侵攻・占領作戦など出来ません。占領部隊に対する糧食の補給は現在の国力を崩壊に導きかねない。ならばどうするべきか?敵領を占領する必要はありません。戦いを続け、敵兵を疲労させるだけで宜しい。それも、こちらよりも深く疲労させなければならない。そうする事により、両国の兵の質を同質にまで持って行く事が出来るのです」
「…………」
戦場で鍛えたとは言え、国際状況などの大局に立った物の見方では士官学校を主席で卒業したカニングには勝てなかった。こんなとき、同じく士官学校を好成績で卒業したオルティア=フリンシュが居てくれればと思う。が、彼は今遠く離れたパルディアの地に居るのだ。
キエフが沈黙したのを見て、カニングの表情に笑みが浮かぶ。
「それでは作戦の細部の決定権は閣下に委任されておりますので」
勝ち誇って告げ、カニングは退室して行った。キエフは大きく嘆息した後、副官を呼んで、命じた。
「ユアンを呼べ」

ユアン=レーゲンスブルグは歴戦の勇将であると同時に自ら優れた武力を持つ武人でもある。
彼が扱う《三神槍-ピナーカ》はその名の通り三叉の槍で、どんな強靭な鎧でも紙のように貫く事が出来る。対抗できるのは精霊具だけで、それとて精霊の強さに大きく左右される。彼の肌は浅黒く、顔には右目の下から顎の左側まで大きな裂傷がある。彼の体にはこの他にも多くの傷があるが、背中側には奥さんに引っかかれた傷を除けばひとつも傷が無い。この事はユアンがどれほど勇猛な武将であるかを示し、彼自身、その事を誇りに思い、酒宴などがある度に諸肌脱ぎになって自慢していた。
「お呼びでございますか?閣下」
ユアンの口調には親しみと尊敬の色が深い。彼が兵卒として帝国軍に志願したのも、三十代と言う若さで将軍位に登り詰め、スタルナス帝国の名将として名を轟かせていたキエフ=ロドリナスに憧れてなのだ。二十歳で軍に入ってから二十五年。今年四十五になったユアンはハウゼン・シュタットに常駐するスタルナス帝国軍五万の中核を成す武将だと言える。
「参謀部より新たに最優先で為すべきと言う指定で作戦命令が下った」
ユアンを見ぬままに、キエフは告げた。その口調は実に不承不承と言った感じだ。
ユアンの表情がサッと引き締まる。彼は猛将であり、戦争と言うだけで体内の血が滾るような男だ。
しかし、参謀部からの命令ともなれば話は別だ。
参謀部の作戦は前線の実情を把握していない者が立案した机上の空論に過ぎない。なるほど確かに彼らは前線の将兵が遂見落としがちな《大局》と言う物を良く把握している。彼らの立案する作戦は大局的見地から見れば実に理に適った作戦だろう。が、実情は違う。戦争とは理性で為される物ではない。
多分に、兵の感情に左右される要素の多い分野なのだ。彼らはそれを理解していない。
戦争が感情で戦われると言う事は、彼ら参謀が机上で考えた通りには事が進まないと言う事を意味している。そんな大局的見地にのみ囚われ、現状に即していない作戦を陛下の命令と言う権威を傘に前線指揮官に押し付けるのである。成算などまったく望めない無謀な作戦を立案し、前線指揮官に押し付ける。
前線指揮官が作戦に失敗すればそれを立案した参謀は責任を取らず、実際には責任など無いはずの前線指揮官が左遷されるのだ。参謀部は前線指揮官の間では甚だしく不評だった。
「どのような作戦ですか?閣下」
「敵戦力の漸減だ」
「敵領に入り、適当に暴れてくれば宜しいので?」
「そうだ。ただし、急を聞いて駆けつけてくる兵を蹴散らし、本隊が辿りつくまでに後退しなければならない。つまり、速攻が要求される」
「それならば我が赤竜騎兵団が蹴散らしましょう」
「赤竜騎兵団は五千だったか?」
「はっ。五千もあれば村の一つや二つを焼き討ちした後に街道に布陣し、街道を現場に急行する敵部隊を撃破することが出来ましょう。むしろこれ以上兵を増せば迅速なる作戦行動が出来かねます」
「よし。………すぐに準備に掛かれ。今は建国祭の期間中故、軍団長は帝都ルーガに居る筈。警戒はしているだろうが、指揮系統は混乱する可能性も残されている」
「はい」
「だがそれは希望的観測に過ぎない。常に最悪の状況を考えて掛かれ」
「わかってます」
ユアンは頷くと城主の間を出て行った。彼が赤竜騎兵団を纏め、ハウゼン・シュタット城を駆け出して行ったのはそれから僅か二時間後の事だった。
ハウゼン・シュタット内部に潜入しているフロレシア帝国の間者の目を欺く為、赤竜騎兵団は西門から出て、ガーフィールド方面へと去った。
ハウゼン・シュタットから十分に離れたところで山中の小道を通って、ハウゼン・シュタットの南側を迂回するのだ。
ユアンが出撃した後、キエフは城主の間にもう一人の城将カルミ=パーンを呼んだ。
猛将と言うほどの勇も無く、智将と言うほど頭が切れるわけでもないが、与えられた命令を確実にこなす堅実な男だ。但し、野心はある。
しかし、野心と言ってもそれほど大それた物ではなく、精々がユアンは持っていて自分は持っていない精霊具を手に入れたいと言った辺りだろう。
その目的を果した後、改めてその野心の行き先を考えると言った野心家と言うにはあまりにも堅実すぎる男なのだ。
だが、それが故に、キエフの信頼は篤い。そうでなければ、彼が最も信頼を寄せるオルティア=フリンシュの後釜に据えようなどとは考えないだろう。
「先程レーゲンスブルグ卿が出陣なされたとか」
カルミは探りを入れるつもりかどうか知らないが、上目遣いにキエフの顔色を窺いながら言った。
「そうだ。赤竜騎兵団を指揮して、フロレシア帝国領へ向かった」
「何処かの城を攻め取るおつもりですか?………確か、今フロレシア帝国は建国祭の期間中の筈ですが」
「違う。あの馬鹿どもが考えたことだ」
「そのような………。参謀部の連中とてそれなりに苦労はしているでしょうに」
「わしは『あの馬鹿ども』とは言ったが、『参謀部の連中』とは言っておらんぞ」
「意地の悪い事を言わないでください、閣下」
「すまんすまん。少々からかいたくなっただけだ。参謀部の馬鹿が考えたとは言え、皇帝陛下の玉璽によって命じられている以上、我々軍人はその命令に従う義務がある」
「はい」
「そこでユアンには敵領への進撃を受け持ってもらう事にした。おまえには後詰を任せる。一万の兵を与えるから国境を守れ」
「ははっ」
カルミ=パーンはキエフが何を要求しているのか察し、表情を明るくした。
もしユアンがしくじれば、後詰たる彼はユアンを救い出すためにフロレシア帝国領内に進軍する事となる。キエフやオルティア程ではないにしろ、スタルナス帝国内でそれなりの人気を持つユアンを窮地から救い出したとすればまだまだ無名の存在でしかない彼の名を広くラスカーナに轟かす事ができるだろう。
彼の野心家の部分がうずうずと疼いた。彼は相好を崩しながら答えた。
「命に替えましても任を全うする所存です」
カルミ=パーンが兵を整え、ハウゼン・シュタットを出撃したのはそれから六時間後の事だった。
キエフは城主の間を出、己の私室へと向かった。
ハウゼン・シュタットに常駐している兵は訓練も行き届き、名将キエフ=ロドリナスの下、その士気も高い。例えフロレシア帝国第六軍が侵攻してこようとも、撃退するだけの自信はあった。
(だが、こちらからの侵攻作戦を行うには兵力が少なすぎる………)
漸減作戦など、一体どのような意味があると言うのだ?キエフの機嫌は悪かった。

2 漸減作戦
その日は建国祭の四日目に当たった。
第六軍の軍団長、帝国六将軍の一人、《豪将》ロックシルト=イヴァン中将は他の五人の将軍と共に帝都ルーガで連日の神事・行事に参加している。
二日目からは武闘大会も開催され、帝都はますます熱狂の体にある。
フロレシア帝国の諜報組織暁も帝都に潜入する周辺諸国の諜報員の行動を監視するのに多くの力を注がねばならなくなり、必然的に暁による他国の諜報活動は手薄になっている。
普段ならば察知されたかもしれないユアンの軍事行動はこうして、発見される事も無く国境地帯にまで到達することが出来た。
ユアンは国境沿いにあるフロレシア帝国側の見張り用の小さな砦に数百の兵を派遣して、これを襲わせた。一個分隊程度しか常駐していない砦では、この襲撃に抗する手段など皆無だった。
砦は燃え落ちたが、知らせは第六軍の本拠地セベリウンに走ることだろう。
「よし。周辺の村を焼き討ちにしろ。二時間後、必ずここへ参集する事」
ユアンは指揮下の連隊長たちを集め、近在の地図を広げて指示した。
一千ずつ三隊が近くの村を襲撃するため散って行く。
ユアンは残る二千を指揮して、街道を国境線の内側十キロメートル程進んだ平地に陣を張った。
時刻は深更から徐々に明け方に近づき、空の色もゆっくりと明るくなっていく。
暁の曙光が差す頃には指揮下の各部隊が戻ってきて、完全に陽が昇る頃には街道を進んでくるだろうフロレシア帝国軍を迎え撃つ事になるだろう。
ユアンは陣内を見回り、兵に声を掛けて士気を鼓舞した。
する必要もないほど、彼の育て上げた赤竜騎兵団の士気は軒昂だった。

赤竜騎兵団の攻撃力は凄まじいの一言だった。
すっかり寝静まった村。無音で近づいた赤竜騎兵団は連隊長の、
「放て!」
と言う号令に合わせて、いきなり村に向けて火矢を放った。空を焦がして飛ぶ数百本の矢。
それが次々と木造の家々の屋根や壁に突き刺さり、火が燃え移る。
いきなりの出来事に寝静まっていた人々が泡を食って悲鳴を上げながら飛び出してくる。
彼らは軍人でもなんでもない、ただの百姓だ。村は紅蓮の炎に包まれていた。
そこへ歓声を挙げて赤い騎馬の集団が突っ込んでいく。
「赤竜だ!」
「赤竜騎兵団だ!!」
それを見た村人たちは顔色を蒼白にし、次々に逃げようとする。何度もこう言った襲撃を受けた経験があるのだろう。村人達の動きは迅速だった。だが、所詮は徒歩、騎兵から脚で逃げ切ることなど出来るはずも無い。赤竜騎兵団はそれらの人々の背中に容赦なく刃を赤く塗った槍を突き刺していく。
矢が飛び、父親の胸を貫き、大太刀の一撃が母親の首を切り飛ばす。
三人目が繰り出した槍の一撃が子供の腹を貫く。自分達が殺した者達を一瞥し、騎兵達はそのまま次の獲物めがけて馬の腹を蹴って、突っ込んでいく。見るも無残な殺戮だが、赤竜騎兵団の表情には何の感情も浮かんでいない。しかし、何も感じていないわけではなく、抑え付けていると言った感じだった。
彼らとしても決死の訓練を積んだ弓や槍をこのような無辜の民を虐殺するために振るいたくはないのだ。
千人余りの村人のうち、百人余りが瞬く間に殺された。
元々殺戮が目的ではない赤竜騎兵団は残りの民は逃げるままに任せ、兵を纏め、村の建物にさらに念入りに火をつけ、縄を引っ掛けて倒した。
あっという間に村を完全に破壊して、赤竜騎兵団一千騎は来た時と同様、静かに去って行った。

国境の砦襲撃さる―――。
国境を侵犯せり敵軍勢凡そ数万―――。
近隣の村々が襲撃を受け、壊滅、死者数千名に上る―――。
肥大化した報告が第六軍の軍管区を駆け巡った。
普段ならば各砦の守備隊長達は第六軍団長の指揮を仰ぐべきである。
しかし、現在軍団長のロックシルト=イヴァンは居ない。
守備隊長達は己の判断で動かねばならなかった。彼らは齎された情報からこう判断した。
『敵部隊は大軍だが、今は各地の村を襲撃するために部隊を分割している。これが集合する前に各個撃破すべきである』
各個撃破の為には攻撃の速度が最も重要だ。士官学校で必ず習う軍学で用いる軍書にもこう記されている。
《其の速き事、風の如く》
その軍書の教えに忠実たらんと考えた守備隊長達はそれぞれが動員できる兵力をもって、すぐさま出撃した。他の連隊や師団との連絡も取らないままに。だが、その行軍の様は確かに風を想わせた。
だが、その部隊編成は騎馬隊が先行し、歩兵は後に取り残されると言うばらばらな状態。
中には甲冑すらまともに着ていない者まで居る。それでも彼らは明るくなりかけてきたばかりの街道を駆け抜けた。彼らはもっと落ち着いて行動するべきであったろう。
その軍書にはこうも記されているのだから。
《其の静かなる事、林の如く》《其の動かざる事、山の如く》と。
そこに記されている通り、山の如くゆったりと構え、林の如く静かな態度で、敵を知ろうとするべきであった。敵の兵力を確認し、布陣場所を特定するべきであった。だが、何よりも彼らが留意すべきであったのは自分達の方こそ、部隊を分裂させないと言う事だったろう。

先行していたのは騎馬隊五百だった。平地に差し掛かった頃、前方から砂煙が近づいて来た。
無数の蹄が地を踏みしめる轟音も徐々に近づいてくる。
騎馬隊五百が思わず足を止めた、その瞬間―――。
視界に赤い塊が現れた。
「赤竜騎兵団だ!」
誰かが悲鳴のような声を上げた。隊列が乱れる。
「隊列を乱すな!集まれ!」
騎馬の突撃を防ぐには槍衾が最も有効だとされる。しかし、彼ら自身騎馬隊だ。
考えられる戦法としてはできるだけの密集隊形型を作り、敵の隊列の脆弱な所を貫く事だ。
騎馬隊の隊長が必死に呼びかけ、何とか密集隊形を形成する。
(後は敵の弱い部分を突くだけ―――)
心の何処かで安堵しつつ、隊長は冷静になって目前に迫ってくる赤い塊を見て、隊形が緩んでいる脆弱な部分を探した。しかしすぐに隊長の表情が強張った。
無かったのだ。
迫り来る赤い塊に、弱い部分など無かった。
先頭を駆ける騎士は全身を赤い甲冑に包んだ、顔に大きな裂傷を持つ男だった。
三叉に分かれた槍を高々と掲げ、吼えている。
「敵は小勢だっ!押しつぶせっ!!」
男の声が戦場に木霊する。
そして、それの数千倍はあろうかと言う鬨の声。
「う、うわぁぁっ!」
せっかく纏め上げた隊列が一瞬で瓦解した。
逃げようとばらばらになる。
敵に背を向けて逃げようとする者。
敵の前を斜めに横切って逃れようと言う大胆な者も居る。
街道の左右に広がる平地に逃れようとする者もあった。
そんな者達を赤い奔流が飲み込む。その様はまさしく暴れる赤竜を髣髴とさせた。

五百の騎馬隊を屠り、ユアンが兵を纏め直した頃、新たな部隊が街道を西進して来た。
一個連隊ほどの歩兵部隊。
ユアン達赤竜騎兵団の存在と先行する騎馬隊の壊滅を斥候の報告で知っていたらしく、彼らはすばやい動きで槍衾を作り、その後ろに弓隊が並んだ。
ユアンが采配を振るう。
五千の騎馬隊が二つの頭を持つ蛇のように、二手に分かれて、歩兵連隊へと突進する。
「弓隊、構えっ!」
連隊長が冷静に指揮棒を振る。
弓隊が一斉に弓を構え、そして放った。
数百本もの矢が空を飛び、雨となって赤竜騎兵団に襲い掛かる。
その矢を赤竜騎兵団は木楯を掲げて防ぐ。
しかしそれでも何人かは馬を射られて落馬した。暴れた馬に振り落とされたのだ。
しかし、突進力そのものはまったく変わらない。倒れた仲間を馬蹄にかけて、突き進む。
そのままの勢いで、赤竜騎兵団は槍衾に激突した。
「《三神槍-ピナーカ》の力を思い知らせてやる!」
ユアンは吼えて、三叉の槍を天に掲げた。
槍の刃が鈍い白光を放った。
ピナーカは氷の中級精霊である。
三叉の刃から氷の刃が無数に生え、絡み合うように組み合わさってそれまでの数倍はあろうかと言う巨大な刃を形成した。
ユアンは腕力に物を言わせ、槍衾の長柄槍と同じぐらいの長さになった《三神槍-ピナーカ》を振り回し、辺りを薙ぎ払った。槍衾の一角が吹き飛ばされる。氷の刃が砕け、キラキラとした氷の破片が空を舞い、それよりも遥かに巨大な人体が空に舞い上がる。
その隙間に赤竜騎兵団の二つの蛇の内の一匹が食らいつき、穴を無理やり広げる。
「弓隊、抜刀!」
この期に及んでも、まだ連隊長は落ち着きを失っては居なかった。
実戦の経験が豊富なのだろう。
近接し、その兵科の優位性を失った弓隊が弓を捨て、剣を抜く。
その時再び歓声と悲鳴が錯綜した。
もう一方の蛇が頭を槍衾に突っ込んだのだ。
こちらはユアンのようには行かず、槍衾との間に熾烈な白兵戦を演じる。
しかし、赤竜騎兵団の兵達の槍捌きは歩兵連隊のそれを大きく超えていた。
槍衾に小さな穴が生まれ、瞬く間にそれが拡大し、終には食い破られた。
「槍衾隊、抜刀!」
連隊長の怒号が飛び、槍を捨て、抜刀する。
しかし赤竜騎兵団の突進力は止まらない。
歩兵連隊の弱い所を突き、散々に分裂させ、各個殲滅していく。
連隊長もユアンに討たれ、歩兵連隊二千五百は八百以上を討たれ、残りも潰走した。

時刻は既に昼過ぎ。
ユアンは斥候を出し、部隊に休息を命じた。
「次はそれなりの部隊が出てくるだろうな」
ユアンは干し飯を顔をしかめつつ食べる。
携帯食など旨い物は無いが、干し飯はぱさぱさしていてかなりまずい。
しかもハウゼン・シュタットの賄いは料理が下手な事で有名なのだ。
「五百の騎馬と八百の歩兵だけじゃ戦力漸減の戦果としては不十分だろう」
ユアンは戦を求めていた。
そして彼は戦の花形とはやはり寡数で多数を打ち破るところにあると考えていた。
今までの敵は騎馬五百に歩兵一個連隊。
せめて師団規模の相手と戦い、これを撃破しなければハウゼン・シュタットに戻る事も出来ない。
キエフ=ロドリナスに合わせる顔も無い。
その後、赤竜騎兵団は斥候の報告で近くで陣を張っていた歩兵中隊に一個連隊を差し向けてこれを撃滅した。
その歩兵中隊はおそらく単独で戦っても勝てないと判断し、後続部隊の到着を待っていたのだろう。
だが、その歩兵部隊を撃破した後、敵が現れなくなった。
日が暮れ、夜になるとユアンの幕僚達が撤退を仄めかし始めた。
「敵部隊が姿を見せないということは陣列を整えているという事でしょう。夜襲を受ける可能性もあり、ここは一端後退するのが賢明だと考えます」
「先ほどまでは情報が錯綜し、混乱もしていたでしょうが、時間経過に伴い、敵側もこちらの兵力を正確に把握した物と考えます」
ということだ。彼らは臆病なのではない。ただ単に、今回の作戦に命を賭けるだけの価値を見出し得て居ないのだ。赤竜騎兵団は精強だが、その数は僅か五千騎に過ぎない。敵地に長く留まるのは危険が大きい。せっかく作り上げた精強部隊をこのような無為な作戦で消耗するのは愚かしい事だ。
「せめてもう少し国境線に近づいた時点に陣を敷けばよろしいのではないですか?国境のスタルナス帝国側にはカルミ=パーン殿が一万余の兵を率いて後詰に当たっているとカルミ殿からの伝令が伝えてきておりますし。明日になればまた押し出せばよろしいのでは?」
幕僚達は必死だ。命を賭ける価値のある決戦で死ぬのならば彼らも軍人の誉れ、本望だ。
しかし、たかが漸減作戦の為に死ぬなど耐えられなかった。
安全策を取ろうとする彼らの心境も十分に理解できる。しかし、ユアンは首を縦には振らなかった。
「俺の傷は前面にしかない」
それは彼の誇りだった。
彼の体の前面には無数の傷があるが、背中側には妻に引っかかれた傷以外は一つも無い。
彼は今まで、敵に背を向けた事は無いのだ。
「わしがスタルナス帝国に戻るのは作戦目的を果し、凱旋するときだけだ」
普段の作戦ならばそれで良い。
が、漸減作戦のように目標が定まって居ない場合には引き際が難しいのだ。
機先を制する事により、彼らはばらばらに駆けつけてきたフロレシア帝国軍を散々に打ち破った。
しかし、時を置けば敵はこちらの戦力を正確に把握し、それに対抗できるだけの兵力を用意してやって来るだろう。緒戦こそ、指揮系統の混乱から彼らは愚策を演じた。しかし、今後も同じとは限らない。いや、現在の状況を考えれば、既に敵が混乱から立ち直っているのは確実だった。
漸減作戦はいかにしてこちらの被害を抑え、敵の被害を強制するかという所に秘訣がある。
だが、幕僚達は引き下がるしかなかった。
彼らはユアンを信頼していたし、ユアンの将としての能力は彼らの信頼を裏切らない確かな物があったのだ。ユアンは結局陣を引き払おうとはせず、その場に野営するよう命じた。
しかし、幕僚の言うことももっともと斥候の数を倍にし、陣営の見張りも増やし、警戒を厳重にした。

斥候が蹄の音を高らかに響かせながら、野営地に飛び込んできたのは辺りが薄明るくなって来た頃だった。既にユアンは起き、甲冑を纏って己の愛馬の背を布で磨いてやっている所だった。
「注進!」
「敵か!」
一夜明け、ユアンの全身には昨夜以上の覇気が満ち満ちている。
今日こそ良き敵を求め、そしてこれを撃破してハウゼン・シュタットに帰還しようと考えているのだ。
「東方十二キロに敵影!およそ二万!」
「内訳は?」
「歩兵一万五千、騎兵五千!」
「一個師団、二個連隊の歩兵と一個騎兵師団か………相手にとって不足なし!出撃の法螺を吹け。敵を撃滅し、そのままハウゼン・シュタットに帰還する!」
ユアンの指揮の下、赤竜騎兵団は一斉に街道を駆け出した。
その先頭で、ユアンは瞳をぎらぎらと輝かせていた。
体中の血を沸き立たせて、彼は愛馬の尻に鞭を打ち突けた。
彼が編成し、訓練し、鍛え上げた精鋭五千騎。
その訓練の成果をいよいよ見せる時が来たのだ。
獰猛なる赤き竜は天に昇るかのような勢いで、進軍して行った。

3 赤竜騎兵団
斥候の報告によればフロレシア帝国軍は川向こうに陣を張っているとの事だった。
平原を縦断する川は数多い。
その内の一つ、アキズ川である。
街道はこの川に橋を架けて通っている。
敵は橋の袂に槍衾を固く作り、その後ろに弓兵が折り敷いているとの事だった。
警戒は厳しい。
真正面から衝突しても、橋の周辺の水位は深く、騎馬で橋を渡ろうとしても槍衾に防がれ、足が止まったところを射られて討たれるだけだろう。
「だがそれは相対する相手が普通の騎馬隊だったらの場合だ。しかし、我々は違う。我々は赤竜騎兵団だ」
ユアンの演説に顔色を変えたのは、彼の幕僚達だった。
冗談ではない。
二万もの大軍が手薬煉引いて待ち構えている中に、何の策も無しに飛び込むなど自殺行為としか言いようが無い。
「閣下、この川の上流には比較的浅瀬の地点があります。密かに上流に向かい、この浅瀬を渡って、敵の側面を突くのが最も上策かと存じますが」
慌てて周辺の地理を顕した絵図を広げ、幕僚が進言する。
ユアンはその絵図と必死の幕僚を見比べた。彼は猛将だし、猪突猛進する嫌いもある。
が、それだけの猪武者ではなかった。
彼は幕僚の意見を吟味し、取り上げるだけの度量もまた備えている。
「わかった。一個連隊だけ北へ向かわせよう。残りは二時間後、突撃する。兵に食事を与え、馬を休ませるんだ。準備を急げ」
ユアンはすばやく決断し、部隊を二分すると四個連隊四千騎に休息を命じた。
決戦場となるだろうアキズ川までは五キロメートル程だ。
一方、彼と対峙している二万のフロレシア帝国軍を率いているのはでっぷりと太った男だった。
脂肪が体にまとわり付き、馬に乗ることも出来ず、輿で戦場へとやってくるしかないような男だが、軍部改革を生き残っただけあってそれなりに優秀な人材ではあるのだろう。
彼の名はヴィグリード=ガモウ。
貴族かと思うほど肥え太っているが、貴族でもなんでもない、出はただの百姓だ。
税を納められずに困窮した彼の父親が彼を軍に使夫として売ったのだ。そんな軍人とも呼べぬ身分から軍功を重ね、現在の地位にまで昇り詰めたのだから元より凡庸な男の筈が無い。
その時代は先々帝の時代だが、既に帝国はその頃から財政は逼迫し、民衆も苦しい生活を強いられていたのだ。彼は軍人としての給金のほとんどすべてを食費に費やしている。
それも、幼き日々の困窮生活の反動なのかもしれない。
その彼は報告されていた敵の居場所よりも12キロメートルも後方に堅固な陣を築き、動こうという気を片鱗も見せていなかった。そんな彼を苛苛と見据える男が居た。
口元の八字髭が特徴的な軍人で、第三騎兵師団を率いているガラハッド=シーズだ。
彼はガモウと同じ少将だが、ガモウの方が師団長就任が先―――先任と言う―――為、彼の指揮下になっている。ガモウとは異なり、百姓の出ではなく地方貴族の出で、士官学校を卒業している。
正式な任命がない限り、その場で最も階級の高い者が指揮を取るのがフロレシア帝国軍部の掟なのだ。
(このような所に陣を設えて篭る等、首を竦めた亀ではないか)
彼も北の浅瀬の事は知っている。
だから再三に渡って彼はガモウに対し、前進かそれが無理ならば自分達騎兵師団だけでも北の浅瀬の守りに行かせてくれるよう意見具申している。しかし、ガモウからの返答はない。
恐らくガモウは槍衾が破られたときに、赤竜騎兵団とまともに戦える騎兵師団が無くなる事を恐れているのだろう。現に騎兵師団を伴わずに戦った歩兵連隊は善戦したにも拘らず、壊滅してしまったのだ。しかし、こうしている間にも赤竜騎兵団は北の浅瀬を渡り、こちらに回って来ているかも知れない。
側面までは槍衾も作られていない。もしここにあの真っ赤な騎兵部隊が襲い掛かれば、混乱は免れない。
第一、これだけ歩兵部隊が密集している中では騎馬部隊は動きが取り難い。
「ガモウは何してる!」
第四歩兵師団の陣営に、意見具申に行かせていた部下が戻るとシーズは敬称を省いて怒鳴った。
部下はこの気の短い上官の逆鱗に首を竦めつつ、
「しょ、食事中だからと追い返されました」
瞬間、シーズのこめかみにはっきりと青筋が浮かんだ。
(この期に及んで食事とは何を考えているのだ!)
シーズは太刀を掴むとそのまま騎兵師団の陣幕を飛び出して行った。
彼の意図を悟った部下が大慌てで止めようと追い縋る。
「お、お止めください!閣下、上官を殺せば軍法会議ですよ!」
「奴は俺と同じ少将だ」
「しかし、ガモウ閣下の方が先任です!」
必死に追い縋る部下を顧みて、シーズは忌々しげに舌を鳴らし、掴んだ太刀を部下の胸に押し付け、そのまま大股でガモウの陣営へと入って行ってしまった。
「ガモウ殿!この期に及んでどうして食事などなされているのですか!」
口調は丁寧だが、言葉の端々に怒りが発露している。
ガモウはどうやらシーズがどうしてこんなに怒っているのかわからないらしく、油滴る骨付き肉に齧り付きながら、
「腹が空いては戦は出来ぬと申すではないか、どうだ?君も食べていかないか?」
そういう彼の前にはどこぞの宮廷料理かと見紛うばかりの豪華な料理が並んでいる。
(この水呑百姓の貧乏根性が!)
喉元まで込み上げてきた罵声を際どい所で飲み込み、きっと睨み据える。
「我々に北へ向かわせてください、閣下!正面からの敵は閣下の歩兵部隊で抑えられましょう!しかし、北の浅瀬を敵が押し渡れば無防備な側面を突かれる事になります」
「ユアンは体の前面にしかない傷の事で、自分は決して敵に背を向けないと自慢していると言う。そのような猪武者が、我々が待ち構えているのを見て、尻尾を巻いて迂回すると思うのかな?私はそう思わない。彼らは真正面から私の張った槍衾を砕こうとして来るだろう。ユアン=レーゲンスブルグとは前面に塞がる障害を押し潰す事に快感を覚えるような将帥なのではないか?私の分析に誤りがあるかな?」
「っ………」
言い返しようがなかった。
シーズが知っているのはユアン=レーゲンスブルグが勇猛な武将だと言うことぐらいだ。
それに比べ、ガモウはユアンの行動を読んでいる。しかし彼の読みは間違ってはいないものの、完璧な物ではなかった。彼に足りないのは謙虚さだろう。
自分の分析に自信を持たず、一歩引いて客観的に考える。その結果導き出された全ての可能性に対し、何らかの手段を講じる。そうすることが出来れば彼はさらに優秀な分析が可能となるだろう。
結局シーズは前進も北上も許されず、自陣に戻るしかなかった。
忌々しげに空を見上げれば、既に陽は高くなっている。

一個連隊を北へ差し向けてから二時間後。
ユアンは愛馬の背に打ち跨り、三叉の槍、《三神槍-ピナーカ》を掲げて、兵を纏めた。
四千騎の真っ赤な騎兵団が無言で、一糸乱れぬ整然とした隊形を取る。
綺麗な四列縦隊。四百騎ずつ変則的ではあるが十個に兵団を分ける。
「良いか、橋は狭い、激突と後退、交代を繰り返し、間断なく攻撃を続行し槍衾を打ち破れ」
びきびきびきっとユアンの持つ《三神槍-ピナーカ》の刃から氷の刃が生まれ、それが組み合わさってさらに巨大な一本の刃を形成する。
「突撃!」
槍を采配代わりにユアンは振るった。

馬蹄の音に、橋を守るフロレシア帝国兵の間に緊張が走る。
自分の体を重たそうに引きずりながら、ガモウが外に出てくる。
槍衾が一斉に槍を掲げる。そこへ白く輝く槍を振り回すユアンを先頭に、まず四百騎が突撃していく。
「邪魔だぁぁぁっ!!」
咆哮を上げながら、ユアンが長柄槍を構え、槍衾を作るフロレシア兵を薙ぎ払い、強引に隙間を作り出す。その穴に踊り込むように四百騎が飛び込む。
錐を突き刺すような勢い。しかし、敵は一万五千。完全にこれを突破する事はできない。
徐々にその勢いが衰え、袋の口が閉じるかのようにユアンが開けた穴が閉ざされようとする。
槍で当たるを幸い薙ぎ払っていたユアンは全身を返り血で真っ赤に染めながら後ろを振り向き、それを確認すると、吼えた。
「退けっ!!」
乱戦でありながら、真っ赤な鎧を着た者達の動きは整然としている。その場で素早く体の向きを真逆にし、それまで最後尾を進んでいた者が今度は最先頭となって瞬く間に今度は閉じかけた袋の口を突き破って、包囲を脱する。
第一陣が引き下がると同時に、今度は第二陣が突撃する。
第一陣が脱出するときに開けた穴が閉じる前に突撃し、穴を無理やりに押し広げる。
しばらくするとその第二陣が後退し、第三陣が突撃する。
次々と途切れることなく突撃を繰り返す赤竜騎兵団に、第六軍は被害を増しつつも、防衛線を突破させはしない。
「押し戻せ!敵は小勢だ!必ず勢いが衰える!押し包んで殲滅しろ!」
ガモウが豊かな腹を揺らしながら号令を下す。
しかしその声は戦場の圧倒的な怒号の中に飲み込まれる。
第四陣・第五陣・第六陣と次々に新手が入れ代わり立ち代わり投入され、防衛線を散々に引っ掻き回す。
しかし、分断する事が出来ない。たわみはするが、破れはしない。
第十陣が後退してきて、一周してユアンの率いる第一陣が再び突撃した。
ユアンがあっという間に十数人を薙ぎ払う。
刃こぼれを起こしても切れ味の鈍らない氷の刃は常に怜悧なまでの殺傷力を発揮する。
盛り上がった筋肉に血管を浮かせながら、ユアンが巨大な槍を振り回す。
その度に首や手などの無数の肉片が飛ぶ。
ぎりぎりと前進していくが、前回よりも手前で苦しくなってきた。
仕方なく馬首を返し、包囲の輪が閉じる前に脱出する。
第二陣と入れ替わりながら後ろを振り向けば付いて来る味方の数はさっきよりも減っているし、負傷している者も多い。
(このままでは………)
ユアンの表情が強張る。戦況は思わしくない。敵の防衛線は彼の予想を遥かに上回って堅固だ。
このままでは徐々に兵を損耗し、最終的には敗れる。
(北に向けた一個連隊が今ここにあれば………)
敵も疲弊しているに違いないのだ。そこに新手を突撃させれば大きな効果を挙げられよう。
(だが、一個連隊はここには無い………!)
第二陣が後退してくるとユアンは第三陣と共に再び突撃した。
修羅の如く暴れる。全身に疲労が蓄積しているが、槍を振るう手と馬を操る足は止まらない。
第三陣と共に後退し、第四陣を見送って少しだけでも体を休め、第五陣と共に再び敵中へ。
ユアンの文字通り身を削る戦いによって、赤竜騎兵団の先頭が徐々に進む。
シーズの顔には焦燥の色がある。戦況がどうなっているのかまったく把握出来ない。
歩兵師団と赤竜騎兵団が激しくぶつかり合っている様子だが、どちらが優勢なのかもまったく不明だ。
本来ならば戦況を後方に伝達すべきガモウが全く伝令を寄越して来ないのだ。
(その余裕も無いという事か………)
既に陽は最高点を過ぎ、徐々に傾き始めている。既に激戦は六時間近く続いているのだ。
赤竜騎兵団の突撃は三周目を迎えていた。ユアンは全身に傷を負い、返り血に真っ赤に染まり、それでも修羅の如く荒れ狂った。だが明らかにピークは過ぎている。赤竜騎兵団の将兵には疲労の色が濃い。
突撃の速度も鈍り、敵中に居られる時間も短くなっていく。
采配を振るうガモウの口元に笑みが浮かんだ。このままであれば勝てる。
戦い続けていた前線のフロレシア兵達がそう思い始めた。
まさにその時―――。
ちょうど三周目の第一陣が、傷だらけのユアンを先頭に敵中から離脱した瞬間、予想外の方向が大きく崩れた。
「何事だ!?」
訳がわからず、ガモウが怒鳴る。しかし、彼の周りに居る兵も訳がわからない。
わかったのは、ユアンだった。
「北から回りこんだ部隊だ。間に合った。敵の側面が崩れたぞ!攻め貝を吹け!!」
ユアンの指示を受け、高らかな貝の音が響いた。ユアンが馬首を返し、戻って来たばかりの第一陣が続く。彼らはそのまま、既に敵中に突入している第二陣の後に続いた。
さらにその後に第三陣以降が続く。
全軍が長い蛇のような縦列でフロレシア帝国軍に突撃し、これを散々に打ち破る。
フロレシア兵は側面からの攻撃とこの総攻撃を受け、それまで拮抗していたのが嘘であるかのように崩れだした。
「おのれっ、おのれぇっ!!押し戻せ!押し戻せ!!」
ガモウは叫んでいたが、部下の手によってその巨体を輿の上に無理やり上げられ、後退させられた。
「隊列を乱すな!密集隊形を保持し、敵に備えろ!」
シーズの騎馬隊も押し出されて来る味方の歩兵が邪魔で、身動きが出来ない。
それどころか逃げようともがく味方のせいで騎馬隊の隊列が分断される始末。
シーズが必死に陣列を立て直そうと声を枯らして怒鳴るが、一度崩れたった物はそう容易に立て直せる物ではない。その後を追ってきた赤竜騎兵団の攻撃を受け、騎馬隊は抵抗することも出来ずに突き崩されていく。六時間もの間拮抗した戦いを繰り広げていたフロレシア帝国軍はシーズが危惧し、ガモウが無視した北の浅瀬を渡っての側面攻撃によって一気に瓦解してしまった。
十キロ近くも追撃して、赤竜騎兵団は七千余を討ち取った。
負傷者を入れれば、第六軍の第四歩兵師団・第三騎兵師団・第二歩兵師団第五連隊・第六連隊の四個の部隊は壊滅したとしか言いようがない。しかし、赤竜騎兵団も七百余の勇猛な兵を失い、千近い負傷者を出した。多くの戦果を得たとは言え、漸減作戦ということを考えればこれだけの被害を出したのは作戦失敗と受け取られかねない。しかし、ユアンは大変満足だった。
彼の名はこの戦い、アキズ川の戦いという名と共に戦史に残ったのだ。
もっとも、後世の戦史家は彼に痛烈な批判を与える事も忘れていない。
『ユアン=レーゲンスブルグは作戦目的を忘れ、己が自己満足を満たさんが為に悪戯に失う必要の無かった兵を損耗した。彼は勇猛な将ではあったが、名将とは言えぬ男であった』
と言うのだ。確かにその批判は正鵠を射ているかも知れないが、物事を一面からしか捉えていないとも言える。この勝利は戦術的には勝ったが、彼らが批判する通り戦略的には良くても五分と評価するのがやっとかもしれない。しかし、スタルナス帝国にとっては戦術的な勝利こそが必要だったのだ。
帝国の民は国運を賭けたエルベス川の戦闘で大敗を喫した事により、その士気は沈滞していた。
ユアンが寡兵を以って大軍に勝利したという報はそんなスタルナス帝国臣民の沈滞した気分を吹き飛ばし、再び戦意を高揚させることに役立ったのだ。軍には寄付金と志願兵が集り、エルベス川での損耗を補うのに大きな効果を齎した。ユアン=レーゲンスブルグと言う名は名将として同帝国の歴史に記される。赤竜騎兵団は戦死した味方の兵の死体を回収すると意気揚々とスタルナス帝国への帰還の途に就いた。帝都ルーガで人々が国の繁栄を祝っているのと同じ時、このような激戦が行われていたのだ。
第六軍は厳重な警戒態勢を整えると共に、この報告を帝都に居る第六軍団長のロックシルト=イヴァン中将に送った。
ロックシルト=イヴァンから軍令部総長のハーン=ハーベスト元帥へと報告が送られ、ハーン=ハーベストから皇帝のラインハルト=シーザーへと報告が行く。
「とりあえず、国境周辺に配備されていた部隊は大半が損耗いたし、交替を余儀なくされるものと考えます」
「うむ………」
キエフはユアンの報告を聞きながら、どうやって漸減作戦を切り上げるかを考えていた。

4 宰相の野心
キエフ=ロドリナスが中央の参謀部へと宛てた漸減作戦中止の意見具申書を携えた使者は参謀部長に面会することも出来ず、虚しく書類を提出してガーフィールドを去った。
意見具申書は参謀部長の手元まで届けられたが、参謀部長はその意見具申書を握り潰した。
参謀部長はスタルナス帝国の貴族出身だったが、自分の意見と言うものを持たず、常に権力者にへばり付く様にして現在の地位まで登り詰めた人物だった。
そして、現在彼がその身を寄せている大樹は帝国宰相マーク=ブリースト公爵だ。
その公爵は帝国民衆や軍部に絶大な人気を誇るキエフ=ロドリナスを疎ましく思っている。
今回の漸減作戦はそもそも大して価値のある作戦ではない。
敢えて言うならば、宰相からキエフへの、ただの嫌がらせだ。
宰相と軍部の実力者の対立を皇帝バイエルン=スタルナスは知っているのだろうか?
マークとキエフの対立はまだバイエルンが毒蝮と恐れられていた時からの物である。
と言うよりは、貴族一の実力者と軍部の実力者が結託して皇帝権力打倒に動かないよう、二人が対立するよう仕向けたのは彼自身だと言う話もある。
ベニア=ルーナを娶り、すっかり骨抜きの虜と化すまで、彼はいかにもそのような事をするタイプの絶対君主だったのだ。
しかし現在では全く興味を持っていないようで、後宮に篭りきりである。
時折、後宮からやつれ切った姿で現れ、自分の意思を感じさせない口調で指示を二、三出すのみだ。
皇帝近くに仕える官僚も皇帝の耳に宰相と軍部一の実力者の対立に関する情報を入れず、全て宰相マークが皇帝の名を騙って政治を牛耳っていた。
マークは己の執務室で、高価なワインボトルを開けていた。
彼が相対しているのは一人の軍人だった。しかし、スタルナス帝国の軍人ではない。
その人物は女だった。胸元が大きく開いた軍服とは思えない妖艶な姿だ。
ルーナ帝国の美貌の将ミト=ヴァレンツェである。
マークは女好きとしても有名で、彼の屋敷にも彼のコネで出世を望む役人や下級貴族から献上された美姫がまるで皇室の後宮のように隔離された区画で集団で住んでいた。
マークは女好きではあったが、それ以上に己の野心に邁進する男であった。
彼にとって女とは欲望のはけ口であるか、己の野心を果すための道具ぐらいの価値しか持ち得ないのだ。故に、ミト=ヴァレンツェに触手を伸ばそうとは一度も考えた事はなかった。
それと言うのも、この女軍人はルーナ帝国皇帝カール三世の愛妾だと言う噂もあったからだ。
それに彼女が死者を使役すると言うのも、マークにとっては薄気味の悪い話であった。
「ワインはお好きですかな?」
二つのグラスに注ぎ、差し出しながら、マークは訊いた。
ミトは妖艶な、男を誘うような笑みを浮かべて、上目遣いにマークを見て、
「ええ、勿論。香りも色も、勿論味も大好きですわ」
ミトの声はねっとりと耳に絡みつくようだ。
余程注意していなければ、いつの間にか彼女のペースに嵌ってしまうだろう。
マークはミトと応接セットのテーブルを挟んで座った。
ミトが長い足を組む。軍服に入ったスリットから男の目を惹きつけて止まない艶やかな脚線美が覗く。
ミトがワイングラスに複雑に指を絡ませ、舐めるように飲む姿をマークはぼうっと見つめていた。
ズキズキと欲望が疼く。
「それで、閣下。キエフ閣下はどのように?」
ミトの声に、マークは何とか正気を取り戻すことが出来た。
ミトの口元に浮かんでいる笑みが自分を馬鹿にしているような気がして、マークは顔を真っ赤にしつつ、額の汗を拭った。
「漸減作戦を中止するよう意見具申してきたと参謀部長から報告が来ている。無論、握り潰したが」
「左様でございますか」
「オルティア=フリンシュの方はどうなのだ?」
ミトから話題の主導権を取り戻そうと、マークはやや性急に問い詰めた。
「昔気質の良い軍人ですわ、彼は。酒にも女にも溺れない。忌避するわけではないのですが、呑まれないようです。むしろ逆にこちらが送り込んだ者の方こそがあの方の不揃いの瞳の不思議な輝きに心を奪われるようで。あながち不揃いの瞳に宿る魔性の迷信も馬鹿にできたものではないかもしれませんわね」
「それでは困る。暗殺してもらっても構わんのだぞ。責はフロレシアにでもパルディアの残党にでも着せられる」
キエフ=ロドリナスとオルティア=フリンシュこそ、マークにとって邪魔な存在の最たるものだ。
この二人が居なくなれば軍部の掌握はさらに容易になる。
参謀部は掌握しているが、実戦部隊はほとんど彼の掌握下にはない。
「わかっております。パルディアの完全統治を望む我がルーナ帝国としてもオルティア閣下は目障りなのですから。しかし、キエフ殿をフロレシアと戦わせ、その戦力を消耗させようという計画は貴方が考えたもの。くれぐれも漸減作戦の中止などなさらないでください」
ミトの口調にマークは不機嫌そうに唇を歪めた。
「わかっている。中止の意見具申は握り潰し、督促の訓令を出すよう参謀部長には指示してある。それにキエフの元には参謀部の優秀な参謀を送り込んでいる」
「その参謀に抑えられますか?キエフ=ロドリナスとその支持軍人が。オルティア=フリンシュ閣下に続いて、今一人、英雄を輩出なされたようですけれど」
「こちらはこちらで万事処理する。貴殿はパルディアをどのように掌握するかを考えておれば良いのだ」
「そうさせて頂きましょう」
ミトはにっこりと笑うと、すっと立ち上がった。出口へと向かいながら、
「ああ、そうそう」
何事かを思い出したかのように足を止め、振り返る。
「バイエルン帝は誰の意思を最も汲むでしょう?」
「………。何が言いたい?」
険悪な表情で、マークが問い質す。
ミトは惚けたような、それでいて男の警戒心を溶かし、その懐に容易に潜り込めそうな笑みを浮かべて、未だソファに座ったままのマークを見下ろした。
「いえ。沈みかけの泥の船から鋼鉄製の船に乗り換えるならば、ぎりぎりまで残ることですわ。あまり早く乗り換えようとすると裏切り者扱いされますから」
意味深な事を言い、ミトは宰相の執務室から出て行った。
一人執務室に取り残されて、マークは完全に不機嫌だった。
結局最後まで話の主導権をミトに握られっぱなしで、しかも最後には謎掛けの如き意味深な言葉を残されてしまったのだ。
「全く、馬鹿にしおって………。『沈みかけた泥船』だと?まさかこのスタルナス帝国の事ではあるまいな、ははっ、さしずめ『鋼鉄製の船』とはルーナ帝国の事だろうが、馬鹿な女だ。少々版図を広げたぐらいで良い気になりおって。小国はすぐに舞い上がるから小国なのだ」
侮蔑を込め、誰も居ない部屋で一人喋り、酒を煽る。
しかし、その額には先ほどに倍する汗が浮かび、瞳は充血していた。

参謀部長からの督促訓令がキエフ=ロドリナスの元に齎された時、彼はハウゼン・シュタットの練兵場で部隊の訓練を監督していた。
普段彼が着ている第一種軍装ではなく、もっとラフな第三種軍装だ。
練兵場ではユアン=レーゲンスブルグとカルミ=パーンの率いるそれぞれ数百名ずつの部隊が剣や槍の刃に覆いをかけた模擬戦闘を行っている。
ユアンの漸減作戦が辛うじて―――戦果も大きかったが、被害も大きかった―――成功した後、国境線のフロレシア帝国軍は増強され、臨戦態勢の緊張状態にある。
第六軍管区の後方駐屯地に居た部隊を前線に送り出したのだ。
これは帝都で未だに建国祭出席の為身動きの取れない第六軍団長ロックシルト=イヴァン中将の命において、迅速に行われた。
傷つき、消耗した部隊は後方に下がり、戦力の再編成に取り掛かるのだ。
新兵を募集し、訓練するまでにどれほどの時間が掛かるか。
しかも失った将兵の中には先帝時代から軍務に服役している古参の将兵も多く含まれる。
それらの消耗は経験という訓練では補えない損失のため、取り戻すのが難しい。
失った武器を調えたりと帝国の財政はさらに逼迫する事となるだろう。
無論戦い続ければスタルナス帝国側も被害が蓄積されるだろうし、経済力でフロレシア帝国に遠く及ばないスタルナス帝国の方がどちらかと言えば先に瓦解する可能性がある。
キエフは督促の訓令に一通り目を通すとそれを副官に渡し、言った。
「処分したまえ」
「は………ですが、宜しいのですか?参謀部からの訓令を無視なされて」
「構わん。訓令は飽くまでも訓令であり、命令ではない」
(何が参謀部長か。宰相の薄汚い足元に跪くしか能のない小能吏が)
「どうした、カルミ!動きが鈍いぞ!」
「は、はいっ!」
カルミはユアンと切り結んでいた。
ユアンが持っているのは《三神槍-ピナーカ》ではなく、模擬訓練用の太刀だった。
カルミはキエフに叱責され、さらに激しく剣を振るう。
しかしそのこと如くが弾かれ、或いはいなされ、ユアンを打つどころか逆に自分の肩を打たれる始末。
「あっ」
気付いたときには既にカルミは落馬していた。
カルミが空に放り投げてしまった馬の手綱を空中でキャッチして、二頭の馬を宥め、足を止めさせながら、ユアンが朗らかに笑う。
「カルミは真っ正直すぎるぞ、はっはっは!」
カルミは頬を膨らませて、ユアンが差し出した手綱を受け取り、ひらりと馬に跨る。
彼の指揮していた部隊も完全にユアンの赤竜騎兵団に押し切られ、勝敗は決していた。
「ユアンの言うとおりだ、カルミ」
そこへ、キエフがやってきた。
カルミの馬の背を撫でながら、
「おまえはユアンの何処を打とうとしているかが顔に出る。無意識の内に、自分が打とうとしている箇所を凝視してしまうのだ」
「はぁ」
自分の癖を指摘されても、自分は無意識でやっているのだから実感が沸かない。
と、キエフが自分の胸の辺りを凝視していることに気付いた。
「な―――」
何をしてるんですか?そう訊こうと思ったが、それを言葉にするよりも早く、キエフが腰の太刀を抜き様、切り付けてきた。
「うわっ!」
カルミは慌てて太刀を立てて、これを防ぐ。
気付いたときには何事もなかったかのようにキエフの太刀は鞘に戻っていた。
「閣下!いきなり何するんですか!」
「今の攻撃を弾けたのは何故だ?」
カルミの詰る声を無視し、キエフが訊く。
カルミは一瞬、きょとんとしてから、
「俺を馬鹿にしてるんですか?あんなに胸をずっと見てたら誰だってそこに来るって―――あっ」
「気付いたか」
物分りの悪い弟子に苦労させられる、とでも言いたげにキエフの口が笑みの形に歪む。
ユアンは豪快に笑って、
「俺はいつも馬鹿にされてるようなもんだぞ」
カルミは赤面する。ようやく自分の攻撃が何故全て弾かれるのかが得心いったのだ。
最も、カルミの剣捌きは早く、常人はカルミが何処を見ているのかわかったとしても防げはしないだろう。
それだけ、ユアンが戦士としても素晴らしい男だと言う事がわかる。
そして、簡単にカルミの癖を見抜いてしまったキエフの分析眼もやはり凄いのだろう。

彼らから遠く離れたパルディアの地にも、キエフの薫陶を受けた軍人が居た。
灰色の髪の軍人だ。
彼の容貌で最も目立つのはその不揃いの瞳だろう。
左目が青で、右目が金。その左右不揃いの瞳には魔性の力が宿るとも言われている。
オルティア=フリンシュ。僅か三十代にして南部方面軍司令官を拝命したほどの逸材だ。
自他共に認める、キエフ=ロドリナスの後継者。
キエフ=ロドリナスが戦術・戦略・戦務の全てを教え込んだ男こそ、彼なのだ。
彼はおよそ四万の軍勢を率い、パルディアの旧都パルディア城の北方二十キロメートルに位置するカズ・アーリと言う名の町に駐屯していた。
東にも南にもラーマヤーナ川が流れ、フロレシア帝国に対してもルーナ帝国に対しても防衛線を形成している。
最も川の東側も現在はスタルナス帝国領となっているのだが。
彼は司令部を置いている宿屋の二階で、窓を開け、空を見上げていた。
考えている事はルーナ帝国の事だ。
ルーナ帝国はスタルナス帝国との条約によって、ラーマヤーナ川以南の地をその勢力下に置いている。駐屯している軍はミト=ヴァレンツェの率いる死兵師団と通常編成の二個師団。
兵力で言えば三万ほどだ。
オルティアは彼が最初に副官としてキエフの元を訪れた時に彼が言った言葉、
『彼を知り己を知れば百戦危うからず。彼を知り己を知らざれば、一勝一敗す。彼を知らざる上に己をも知らざれば、戦う毎に必ず敗れる』
と言う言葉を忠実に守り、かなりの人数の諜報員をパルディアに送り込んでいた。
カズ・アーリにもルーナ帝国の間者がかなり入り込んでいるようで、オルティアが時々遊びに行く妓館にも間者らしきものが浸透していた。
諜報合戦は熾烈を極め、この二ヶ月余りの間に五十人余りの優秀な諜報員が連絡を絶っている。
死んだのか、捕らえられているのか、それすらもわからない状況だ。
しかし、諜報員は賢明に仕事をしているし、なかなか有力な情報も届き始めている。
一週間ほど前、ミト=ヴァレンツェの元に帝都ディアナから使者が訪れている。
その後、死兵師団はパルディア城の守備を通常編成の師団に任せ、パルディアの西部へと移動した。オルティアはその動きに合わせて、こちらも一個師団を移動させているが、今の所死兵師団に北上の気配はない。
しかし、ディアナに帰還すると言う感じでもないようだ。
そんなところへ、ミト=ヴァレンツェが姿を消したと言う情報が飛び込んできた。
いつの間にか死兵師団の指揮をシュタイン=オールドリークと言う男が執っていたというのだ。
(ミト=ヴァレンツェは何処へ消えた?)
ディアナか?それとも別の場所か?
敵を知らなければ、勝敗は危うい。
だと言うのに、ルーナ帝国の情報はほんの僅かしか入って来ない。
まだスタルナス帝国とルーナ帝国の関係は同盟国だ。
しかし、川一つを隔てて向かい合う形のオルティアはミト=ヴァレンツェの事を味方だとはみなしていなかった。
彼の脳裏にはパルディア城で見た、己の墓穴を掘るパルディアの騎士達の姿が焼き付いていた。
明日は我が身と思えば、背筋を戦慄が走る。
その感情が何であるか、賢明な彼ははっきりと理解していた。
―――恐怖。
(全く………憂鬱だな)
空の色は暗い。雨が降ってきそうだ。
「妓館にでも行くか」
妓館にはルーナ帝国の間者も居る様だが、オルティアは全くその事を気にしていないようだった。

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