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覇皇伝

第二章 建国祭

第二章 建国祭
1 建国の神事
その日、世界を閉ざしていた雲海に狭間が生まれた。狭間より光明が光臨し、ルーガの丘に立つ若き英雄の髪を輝かせた。英雄は集った幾万の群集、幾千の軍勢を前に高らかに建国を謳った。
この日、光の英雄の立つる国、ラスカーナの中原に起こる。
国の名はフロレシア。《力強き銀獅子》の翻る国フロレシアと申しき。
《ラスカーナ史書 第十二巻 第一章 第一節より》

帝国暦三三二年十二月一日。
帝都を囲む城壁に翻る無数の国旗、無数の露店が並ぶ通りに面する二階建ての窓からは空に斜めに国旗の掛かったポールが力強く突き出されていた。無論、ルーガ城の尖塔の上にも国旗がラスカーナを渡る風に翻っている。ただし、尖塔の上の国旗は他のどの国旗よりも巨大で、そして古ぼけていた。
その国旗は毎年建国祭の日にしか掲揚されない。その旗こそ今を遡る事三百有余年前に建国王にして覇皇フェルモア=シーザーが雲海の狭間から光が降り注ぐ中高らかに建国を宣言した時に彼の背後に掲揚されていた旗だ。その旗は一枚の布によって作られた物ではなく、何百枚もの小さな布の切れ端を縫い合わせて作られている。フェルモアの下に集った人々が布を持ち合い、縫ったのだとラスカーナ史書には書かれている。その時の光景を描いた当時の絵画にはフェルモアの背後で国旗を掲げているのは二人の戦乙女となっているが実際には名も無い兵だった。
その絵は宝物庫に埃を被って埋もれているところを財務尚書のウェンヒルグ=ローレンスが発見し、現在は帝国議会の壁に飾られている。今日は慣例に従って、尖塔に掲揚されているのだ。
帝都の中央を南北に貫く大通り・朱雀通り。
その城前広場にその日、数十万もの群集が集っていた。彼らの表情は皆明るい。
去年の建国祭は圧政の王、先帝スレイマン三世の治世の元で行われたため、建国祭に集った群衆は暗い表情をしていたし、帝都中で武装した第一軍の将兵が警戒に当たり、物々しい雰囲気の中、地方や隣国からの観光客も少なく賑わいに欠けた。
その先帝時代の活気の無い建国祭に比べ、今年は新帝、しかもかの覇皇フェルモアの生まれ変わりとも謳われるラインハルト=シーザーの治世下であり、しかも一月半程までに貴族連盟による反乱が起き、その結果多くの貴族が亡くなった事により、それまでの皇帝と貴族による二重支配と言う構造は崩壊し、皇帝とその直轄機関に権力の集まる新体制が作られていた。
人々は先帝時代の圧政、そして貴族による抑圧から解放され、心からこの日を祝う気分になっていた。その広場にはこの日の為に祭壇が設営されていた。その祭壇の上には朱色の布を被せられた一個の棺が安置されている。建国王にして覇皇、そして国の守護神であるフェルモアの棺だ。
祭壇へと続く朱の街道。
その端に皇帝の正装に身を包んだラインハルト=シーザーが立っていた。
眩く輝く黄金の髪の上には、これまた眩く輝く黄金の宝冠を被っている。
雪のように白く、餅のように滑らかな頬をほんのりと朱に染め、華奢な身を純白の白鎧が覆い、その上に純白のローブを纏っている。腰には豪華な鞘に収まった聖剣《覇皇剣-サナトゥス》を佩く。
皇帝が緊張に身をやや強張らせつつ、足を一歩前に踏み出す。
朱の絨毯の左右に居並ぶ、こちらも正装した近衛騎士達がまったく乱れの無い整然とした動きで剣を抜き、胸の前に立てた。
近衛騎士の数は千名。二万名の近衛騎士の中から選抜されたフロレシア帝国軍の頂点に立つ精鋭中の精鋭だ。その中を皇帝が歩む。
皇帝が一歩踏み出すたびに、皇帝の一挙手一投足を見守る観衆の中から歓声が沸き起こる。
祭壇を登るための三段の階段の左右には六人の将軍が立っている。
帝国六将軍と謳われる六人の軍団長達だ。
第一軍団長・ハーン=ハーベスト元帥。
第二軍団長・シオン=クリケット中将。
第三軍団長・キップ=スナフィー中将。
第四軍団長・コーデル=ハム中将。
第五軍団長・メンフィス=レイス中将。
第六軍団長・ロックシルト=イヴァン中将。
フロレシア帝国の栄光を彩る力の象徴達。
皆、普段はそれらの任地で十八万の部隊を率いて、それぞれの敵と対峙している。
キップ=スナフィーは小柄な男だった。童顔なせいで、まだまだ成人していないようにも見えるがこれでももうすぐ三十だ。妻も子もいる。
ルシタニア連合王国と境を接する、ローデンス州の西隣にあるアルバンス州の山岳地帯である。両親は猟師をやっている。先帝は圧政によって恐れられてもいたが、事軍事に関しては門閥に捉われることなく、実力を第一とした。でなければ、彼のような下賤の身で、将軍にまで上り詰めることはできなかっただろう。
第四軍団長のコーデル=ハムは黒髭の巨漢だった。
巨漢といえば帝都防衛隊のガルヴィン=ジングリッドがいるが、それにも劣らないほどの巨漢だ。
メンフィス=レイスはまだ若く、二十一だった。現在の所、帝国の軍団長就任記録の最年少記録を持っている。先帝に愛された秀才で、十二歳でラインヴァン士官学校を主席合格している。
その用兵は要諦を心得、的確だが、冷酷でもあった。そのため、彼はスタルナス帝国の国民から「悪魔の手先」と忌み恐れられている。最も今はかつての第六軍ではなく、第五軍を率いているが。もし華中大帝国と戦うような事になれば、再び恐れられる存在となる事だろう。
ロックシルト=イヴァンは既に六十歳を超える老将だ。髪も真っ白だが、鍛え上げた筋肉は劣らず、未だに豪将の名を欲しいままにしていた。彼は士官学校出ではなく、一兵卒から叩きあげ、先帝の目に止まった男だ。
第三軍は国境に警備部隊を貼り付けており、緊張状態にある。無論、ドルク王国の獣機動部隊の侵入に備えているのだ。さらにラインハルトの盟友たるレオン=ルシタニアが父王ヨーゼフ=ルシタニア亡き後の国内掌握、及び軍備の整備のための一助となるべく、教官団として三百人程の部隊が派遣されている。指揮官はあのアルベルト=ウィーズリー少将だ。最も多忙を極めているのが第四軍である。
なにしろ第四軍の軍管区は西にパルディア王国を制圧したスタルナス帝国のオルティア=フリンシュ、ルーナ帝国のミト=ヴァレンツェの軍団との睨み合いを続け、南では不穏な動きを見せる蛮族・砂の民を警戒しなければならないからだ。東を担当する第五軍の軍管区は東の超大国華中大帝国、北東にはロデン教聖区を抱えているが、現在の所、両国共に動きは水面下の諜報戦に留まっている。
西をその軍管区とする第六軍は鉄壁の城砦ハウゼン・シュタットに拠るキエフ=ロドリナスとの睨み合い状態にあり、予断を許さない。つまり、国内では確かに反皇帝派の貴族を一掃して、臣民は圧政から解放され、平和を謳歌しているが対外的にはフロレシア帝国は尚数多くの敵を抱えているのだ。逆説的にいえば、外敵を多く抱えるが故に、国内の掌握に時間をかけられず、かような強引な手段を用いて貴族たちを排除しなければならなかったわけだが。
祭壇の最上段には聖水の杯を捧げ持ったアミリア=ホーン近衛騎士団長が膝をついて控えている。
ラインハルトが棺の前に片膝を着く。その頭の上に、アミリア=ホーンが聖水の水を振り掛ける。
その間皇帝は身動ぎせず、建国王にして覇皇である祖帝フェルモア=シーザーに国家の安泰と永続を祈願する。聖水をすべて掛け終わると、アミリアは聖杯を頭上に高々と掲げ、一歩、二歩と退いて跪く。
皇帝は濡れた黄金の髪を陽に晒しながら、立ち上がり、己の一挙手一投足を見守る数十万もの人々の視線を受け止め、腰の佩刀を抜き放った。ぎらり、と真紅の剣身が輝く。人々がその禍々しささえ漂う輝きに息を呑む。しかしそれは凶剣ではなく、フェルモア=シーザーを覇皇の座へと導いた伝説の聖剣《覇皇剣-サナトゥス》だった。その聖剣こそ、この若き皇帝がフェルモア=シーザーの生まれ変わりである事を強く印象付けているのだ。臣民達の間から爆発的な歓呼の声があがる。
そして、神事は無事に終わり、建国祭が華々しく始まった。

神事を終えて、皇帝は自室で着替えていた。
着替えを助けるのは侍女で幼馴染のシエナ=クリケットだ。
彼女は普段のメイド服姿ではなかった。かといって、伯爵令嬢らしい気品のある服装かと言えばそうでもない。その服装は帝都ルーガでもっともよく見かける中流階級の服装だった。
つまりは一般庶民の服装と言う事になる。着替えている皇帝も先程の大仰な皇帝正装ではなく、かといって皇帝普段着と言う訳でもなく、こちらもやはり中流階級の服装だった。
「でも御忍びで祭りに出かけて、本当に良いのかな?」
ラインハルトがおどおどと視線を空に泳がす。
「良いじゃない。父さんも『始めての建国祭なんだから、世俗の事はわしに任せて楽しんで来い』って言ってたし。それにアレクも―――」
「この服、もしかして買ったのかな?」
自分が着ている服の袖を掴んで腕を上げる。その服はアレクが持ってきたものなのだ。
ラインハルトのズボンの裾を直していたシエナが立ち上がる。
「アレクの好意に甘えましょうよ」
「うん」
シエナの眩しい笑顔に気圧される様に、ラインは頷いた。同時に思い出す。
シエナが居ない一瞬の暇を見つけて、耳元に顔を寄せて囁いてきたアレクの言葉を。
『祭りの間にシエナを手に入れろよ、よっ。この色男』
口元をにやけさせながら、アレクはそう言って真っ赤になるラインの薄い胸板を小突いたのだ。
「―――どうしたの?顔、真っ赤よ」
「えっいやっなんでもないっ!」
シエナの言葉で現実に引き戻され、ラインは慌てて首を横に振った。
シエナは少し考えるように虚空を見つめた後に、ラインの青い瞳を見据えた。
彼女の金色の瞳が不安に濡れ、揺れている。
「もしかして、私と一緒に祭り回るの、嫌?」
「そんな訳無いだろっ!」
いきなり声を荒らげたラインに、シエナが目を丸くする。ラインは自分が言葉を荒らげた事に気づき、
「御免。………でも、僕も本当に楽しみにしてるから」
「うん。じゃあ、楽しみましょ」
にっこりと花が開いたかのように笑うシエナに、ラインは眩しい物でも見たかのように目を細め、こちらも満面の笑顔で頷いた。

ラインハルトとシエナが帝都防衛隊の兵士に冷やかされながら城を出て行く。
祭りの間は皇帝私室や帝国府などを除き、城内も解放され、城内にも無数の露店が並んでいる為、城内にも人々は多く居る。その人の流れに逆らわずに城外に出たため、皇帝とは気づかれなかったようだ。もし皇帝だと気付いていれば冷やかすなどと言う事ができるはずも無い。
帝都防衛隊の兵は半月の祭り期間の間、交代で帝都の警備に当たる。
観光客に混じって、様々な人間が入り込み、犯罪なども急増するため、警察権も持つ帝都防衛隊の指揮官ガルヴィン=ジングリッドは巨大な体躯に巨大な《重量戦斧-ファルサ》を肩に担ぎ、のしのしと帝都の各警備箇所を練り歩いては警備に従事する隊士を叱咤していた。
今回の建国祭において、彼らには皇帝から特別な勅命が下されている。
『警備は厳重に。犯罪を可能な限り、最小限に食い止めるべし。但し、むやみやたらに目立ち、人々に不安感や恐怖感、威圧感を与えぬよう重々配慮すべし』
と言うかなり難しい要求だ。しかし、ガルヴィンはその皇帝の要求に応えるべく、奮闘していた。
ルーガ城を出て露店を冷やかしながら歩いていくラインとシエナの後をこっそりと尾行する男女が居た。
鮮烈な赤髪を持つ美青年と誰もが振り返るようなおしとやかな美女だ。
「赤髪の猛将」アレク=ハーベスト少将と「大鎌使いの女死神」リーナ=セレシコフ中佐の二人だ。
「にしし。あいつらの一挙手一投足を見守って後で暴露本にして売り出してやる」
「あの服は貴方が用意したのでしょう?人の悪い人」
「ふん。俺は悪魔のような男だからな」
「何処が」
アレクもリーナも普段の軍服ではなく、それぞれの人柄がよく現れた私服を着ていた。
祭りは客を呼び込む声と注文する客の声、さらに後頭部に仮面を付けて、歓声を挙げながら走り回る子供たちというような活気に満ちていた。
「なんだか視線を感じるなぁ………」
フランクフルトを咥えながら、ラインがやや眉間に皺を寄せる。
「―――そう?ヴァンとかじゃないの?」
「そうかなぁ?」
ヴァン=ブレイスはラインハルトの直護衛だ。小柄ながら鍛え上げられた鋼の如き肉体を持つ黒髪緑瞳の剣士である。
「でもヴァンが僕に気づかれるぐらい気配を出すとも思えないな………」
いつも完璧なまでに気配を絶つ彼の事なので、まさか自分がその気配を感じ取れるなどとはラインは微塵も思わなかった。しかし、それこそこの気配の持ち主が何を考えていようとも、ヴァンは気配を消して彼のそばに潜んでいるだろうから、大丈夫だろう。
あの黒髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ剣士の腕前は確かだ。
「まあ、大丈夫だよ。僕でも気付く位の隠遁術しか使えない刺客だったら何かをしようとしてもヴァンが倒せる」
「はっくしょん!………うぃ~。ずずっ。くそぅ、誰か俺の噂をしてやがるな。きっと別嬪が『アレク様って格好良いよね!』『そうそう!私、彼に抱かれてみたい!』とか言ってるに違いない」
ラインハルトにすら気配に気付かれるアレクはくしゃみをして、洟を啜り、勝手な事をほざく。
黙って少し取り澄ましていれば女性が放ってはおかないであろう程の美貌だと言うのに、彼はそういう間抜けなところがある。まあ、それでももてる訳だが。
(だから私は―――)
リーナは幸せそうに頬を緩ませつつ、
「誰かが呪ってるのかも知れませんよ?………はい」
「お。さんきゅ」
リーナが差し出したハンカチを受け取り、遠慮なく洟を噛むアレク。
リーナは形の良い眉を寄せて、一瞬何か言いたそうな顔をした。
「ん。どった?」
「いえ」
「そっか。これは洗ってから返す」
「えっ………!?」
リーナが口に拳を当てて、大仰に驚く。
足も止まり、周りの人々も何事かと怪訝そうな視線を彼女に向け、彼女の美貌に足を止める。
「何だよ」
「洗濯………できるんですか?」
「俺は結構、家庭的なんだぞ?」
「嘘」
「嘘じゃねぇ!」
「冗談?」
「冗談でもねえ、真実だ」
「でも洗濯してるところなんて見たところないです」
「掃除してくれる女とかが居るからな」
「誰です?」
「………。いや、おまえだろ」
「あ。私ですか………じゃあ、私は居ても居なくても良いと?」
美しい笑顔を浮かべるリーナ。雲行きの怪しさをアレクは果たして感じ得たのかどうか。
むしろ周りに居る通行人の方がなにやら険悪な雰囲気を感じたようだった。
顔色を変え、まるで何かから逃れるかのように揃って一歩退く。
それを見て、アレクの表情も青ざめる。リーナはふふふ、と身も凍るような笑い声を上げ、
「この腐れ外道師団長が………。この私が冥府に直行させてあげます」
そう言って、リーナが取り出したのは巨大な大鎌だった。
妖しく黒光りする湾曲した刃は人間の首など容易に切り落とせそうだ。
「きえええええっ!!」
「うわぁぁぁっ!!」
狂戦士と化したリーナから逃げ出すため、アレクは全力で走り、そして二人を見失った。

2 大佐と中将
「死ねぇぇぇぇっ!!」
「嫌だぁぁぁぁっ!!」
何処からとも無く、そんな叫び声が聞こえてくる。
「何をやってるんだ、あの人は」
カーンは呆れたように呟いた。
姿は見えないが、聞こえてきたあの声は間違いなく彼の上官、アレク=ハーベストの物だった。
ならば彼を追っているのはリーナ=セレシコフだろう。
毎度の光景だが、こんな大勢の人が居る中でもあの一見おしとやかに見える美女は鎌を振るっているのだろうか?おとなしそうに見えて、大変に危険な女だ。
「―――と、おまえさ、やっぱ目立つだろ、それ」
「おまえにおまえ呼ばわりされる筋合いは無いな」
カーンが横目で言うが、言われた方も平然と返してくる。
「そうかい。じゃあ、言い直すよ。アミリア=ホーン中将殿。祭りの日、非番の日にまで国旗の刻印入りの白鎧を着てるってのは目立つだろ。俺だって私服なのによ」
「祭りとは言え、気を抜くことは許されない」
「許されるだろ」
「何故だ?」
「祭りなんだから。そういうもんだろ。祭りって」
断言するカーンをアミリアはまじまじと見つめ………
「なんだ?俺の顔に何か付いてるか?」
「いや」
怪訝そうな顔と声で聞いてくるカーンから慌てて顔を背け、しばし沈思黙考。やがて。
「―――ではそこで待っていろ」
「は?」
いきなり唐突にアミリアが指差したのは帝都にいくつかある公園。
無論、露店がひしめき、人々で賑わっている。
「って、おまえは何処へ行くんだよ」
「すぐ戻る」
「いや、答えになってねぇぞ」
「良いから待っていろ」
「命令口調かよ」
「何か言ったか?」
「いえ、なんでもありません、閣下」
呟きを聞きとがめたアミリアにすばやく敬礼する。
アミリアは何か言いたそうに口をもごもごさせた後、カーンに背を向けて、
「ではそこで待って……いてくれ」
一応の進歩と受け取り、カーンは頬が緩むのを抑えられなかった。
幸い、彼のそんな情け無い顔は背を向けているアミリアには見られずに済んだが。
「しゃあねぇ。なんか、焼きそばでも買って食ってるから。早く来ないと全部食っちまうぞ」
「ん」
背を向けたまま頷き、彼女はカーンに背を向けたまま駆け去った。
近衛騎士団の白鎧姿に道行く人々がさっと道を開く。中には任務ご苦労様と声を掛けて敬礼するおばさんまで居る。真面目なアミリアはそのようなおばさんに一々律儀に敬礼を返している。
「………。やっぱ、目立ってるよな」
頬の緩みを苦笑に変え、カーンは呟いた。カーンはその後、屋台で焼きそばと一杯の酒を買い、たまたま空いていたベンチに腰を下ろした。焼きそばを食べながら、何とはなしに辺りを見回す。
通りを歩いている人々はその多くが一般の住民だったが、中には私服姿の軍人の数も多い。
その中にはカーンの部下も何人か居た。皆カーンの姿を見つけると笑顔を浮かべて敬礼していく。
カーンも敬礼を返す。そんなこんなで待っているうちに、三十分程の時間が流れる。
カーンの隣には三箱程の焼きそばの空き箱が転がっていた。
「―――あら、カーン様じゃありませんか?」
「え?」
名を呼ばれて、振り向く。するとそこにはルシタニアで戦死したカーン=オルベニーの部下ハレック=イミュシュティの妻、サリア=イミュシュティが立っていた。その御腹は大きく膨らんでおり、亡くなったハレックの一粒種は順調に成長しているらしい事を窺わせた。
「サリア。具合はどうなんだ?」
「順調ですよ」
にっこりと笑うサリア。カーンは慌ててごみを片付け、サリアにベンチを勧める。
「カーン様はお一人で?」
「ああ………いや、連れが一人」
「恋人ですか?」
サリアがにっこりと笑って聞く。
「んー………どうなんだろうな」
曖昧に相槌を打つカーン。果たしてアミリアは彼の恋人………なのだろうか?
(師団長だったら簡単に即答するんだけどな………)
自分よりも鮮やかな赤髪を持つ上官の顔を思い浮かべつつ、考える。その頃、やはり通りを全力で逃げ走っていたアレクがくしゃみをしていた事など彼の知る所ではない。
「気にしてますか?」
「ん?何を?」
「夫を戦死させてしまったと思い悩んでいらっしゃいますか?この間はあんな事を言ってしまったし」
「あぁ………」
ルシタニアで怪我の療養をし、ようやくルーガに戻ってきたところでカーンはサリアの元を訪れている。彼を生かすために戦死したハレックの死を知らせ、己の不甲斐なさを謝罪する為だった。
しかし、サリアは彼の謝罪の言葉を遮り、きっと眦を決して怒鳴ったのだ。
『あの人は貴方を生かす為に死んだんです!貴方にそれだけの価値があると考えたからでしょう!自分の命を捨ててでも、貴方を守ろうとしたんです!それなのに貴方は、そんなあの人の思いを踏み躙るんですか!』
―――と。そして、
『誓ってください。生き延びると』
―――とも。そのとき、カーンは目を覚まされたような気分だった。
「―――覚えてるさ。いつもおとなしいサリアがあんなに激して俺に怒鳴るなんて今までに無かった事だからな」
「あの時は私もどうにかしてたんです。カーン様のお気持ちも考えずに怒鳴ってしまって」
恥ずかしそうにサリアが頬を染める。
「いや、妻の鏡、母の鏡だと俺は思ったよ。俺の方こそみっともない姿を見せてしまってすまなかった」
「そんな事―――」
「俺は誓いは守る。生き延びてみせる。俺を助けるために死んでくれたハレックの為にも、他の大勢の兵達の為に。そして、おまえの腹の中に居るハレックの子に親父の話をしてやるためにな。あいつの戦場での姿をおまえは知らないだろ?」
「ええ。きっと貴方の事ばかりを気に掛けていたのでしょう」
「ああ。あいつは五月蝿かった。特におまえと結ばれてからな」
「え?」
「女房の自慢話とのろけ話ばかり聞かされた」
無言で真っ赤になるサリア。まだまだ初々しい新妻なのだ。なのに、もう寡婦になってしまった。しかし、哀れだとは思わなかった。サリアはおとなしい女性だが、芯はしっかりと持っている。
カーンも二ヶ月前まで―――サリアの家を訪れるまで―――彼女をただのおとなしい女性だと考えていた。しかし、彼女に叱られて、気付いたのだ。
「俺は正直、ハレックの事を少し馬鹿にしてたかもしれない。一人の女にそこまで嵌るなんてどうかしてるってな」
士官学校でもプレイボーイだった彼は多くの女性と付き合ったが、一人の女に心から惚れると言うような経験は無かった。女を性欲の捌け口として見た事は無いし、付き合った女性達は皆、それなりに大切に扱ったつもりだ。だが、女性の存在が自分の人生の中で大きな位置を占めるという経験は無かった。
「だけど、今はハレックが羨ましい。おまえは今のところ俺の知っている女の中で一番良い女だ」
「口説いたって何も出ませんよ?」
「おいおい、一応真面目な話だぞ」
「ふふ、ありがとうございます」
嬉しそうに頭を下げるサリア。
「惜しいな」
「え?」
我知らず、カーンは呟いていた。その呟きをサリアが聞きとがめる。
「おまえがハレック以外の女だったら、口説いてた」
「駄目ですよ」
「わかってる。あいつに呪われたくないからな」
「ふふ。………じゃあ、私はこれで」
「そうか。気を付けて帰れ。特に俺と同じ赤髪の女たらしに注意しろよ。後、シオン卿にも」
「シオン卿って………第二軍団の?」
「そうだ。あの方は俺の上官と並ぶほどの女好きだからな。しかも、人妻にも手を出す」
「まあ………この間、お茶に誘われました、私」
「本当か!?」
「ええ。お断りしましたが」
「手の早い………」
感嘆と言うよりは呆れの面持ちで、カーンは呻いた。
「じゃあ、私はこれで失礼しますね」
そう言って、サリアは人ごみの中に消えて行った。
「シオン卿は妊娠してる女でも口説くのか………あ。出産予定日、いつなのか聞くの忘れた」
もっとも、ハレックが嬉しそうに女房の懐妊を報告に来たのが五月頃だった。確か、妊娠してるかどうかがわかるには三ヶ月ぐらい掛かるらしいから、とすれば出産は十二月………。
「―――って、そろそろなんじゃないのか?」
「―――何がそろそろなのだ?」
「ん。ハレックのかみさんの出産予定日だ………って、いつの間におまえ戻ってきた―――んだ」
いきなり背後からした声に、振り向いて、カーンは絶句した。
束ねられた茶髪。怜悧な美貌。銀色の美しい瞳。そこにはアミリア=ホーンがいつものように姿勢よく立っていた。しかし、彼女が………スカートを穿いていた。いつもの白鎧ではなく、女らしい私服を着ていた。無論、剣も佩いていない。
「おまえ………」
呆然と呻くカーン。アミリアの頬がぼうっと染まる。心なしか身を縮める。
「や、やはり似合っていないか?………着替えてくる」
いつもの彼女からは考えられないほどの小声で恥ずかしそうに言い、踵を返そうとするアミリア。
「お、おいちょっと待てって!」
カーンは慌ててそのアミリアの腕を掴んだ。
「痛いじゃないか」
「お。悪い………じゃなくて、いいよ、着替えるって元の白鎧にだろ?今のままで十分、その………似合ってるし」
カーンを振り払おうとしていたアミリアの体から力が抜ける。
「―――本当か?」
「本当だよ、アミリア」
「気安く呼び捨てにするな」
「………。まあ、良いからここ座れ」
さっきまでサリアが座っていた場所を掌で叩き、アミリアを座らせる。
「いきなりどっか行くから何をしに行ったのかと思えばまさか着替えに行っていたとはな」
「悪いか?」
「別に悪くは無いが。にしてもおまえ、そういう服も似合うんじゃないか」
「私は背が高いから女物の服は似合わん」
「そうか?………スタイル良いんだから、似合うと思うんだがな」
「―――そうか」
アミリアの頬の筋肉がかすかに緩む。
それを見つめて、カーンはそのかすかなアミリアの表情の変化に気付いた。
「………。もしかして笑ってるか?」
「笑ってなどいない。それよりも、少々腹が減った」
「そうか。それじゃ、なんか買ってくるか」
「頼む」
「おう」
頷いて、カーンは人ごみの中へと飛び込んで行った。
アミリアはベンチに座り、やや頬を朱に染めていた。
―――と、そこへ数人の男たちがやってきた。
皆酒に顔を赤くしている。
「おうおう、姉ちゃん、可愛いじゃないか、一人?」
「俺たちと遊ぼうぜぇ」
アミリアの表情がぴくりと険しくなる。しかし男たちはその表情の変化に気付かない。
「だんまりとはひどいんじゃねえの、さあ、来いよ」
男の一人がアミリアの腕を掴む。
「止めろ」
アミリアが低く、どすの利いた声で言い、掴まれた腕を払う。男たちは一瞬気圧されたものの、アミリアが女らしい服装をしていたためか、すぐに気を持ち直した。
「へへ、止めろだってさ。もっと可愛らしく悲鳴はあげろよ」
さらに腕を掴もうとしてくる。アミリアがその腕を捻ろうとするが、それよりも先に男の姿が視界から消えた。殴り飛ばされたのだ。
他の男たちも、殴られた本人もいったい何が起きたのかわかっていない。
そこに立っていたのは、フランクフルトを二本と焼き鳥を持ったカーンだった。
「なんだぁ、てめぇは!」
男たちが力む。カーンは一瞬ため息でも吐きそうな表情になってから、にやりと笑い、
「俺の女に手を出すとは、おまえら、死にたいのか?」
低く、どすの利いた声で言った。アミリアがきょとんとしている。
これも彼女が始めてみせる表情かもしれない。今、カーンが言った言葉の意味が掴み兼ねているのだ。
男たちはカーンの放つ迫力に本能的に恐怖を覚え、すごすごと去って行った。
「ほれ。フランクフルト」
「あ、ああ………」
受け取ろうとして、カーンの笑顔とカーンの言葉が脳内で結合する。
『俺の女』
瞬間、アミリアの表情が赤く染まり、受け取ろうとしたフランクフルトを落としてしまった。
「あ~あ、何やってるんだよ。ほれ」
カーンは自分が持っていた方をアミリアに渡し、アミリアが落としたのを拾うと砂を払って、食べ始めた。
「本当に………似合ってるか?」
半信半疑のまま、アミリアは訊いていた。
「んあ?だから、似合ってるって。うー。じゃりじゃりするな、このフランクフルト」
ほぐほぐとフランクフルトを食べながら、カーンは無邪気に笑った。
その笑顔を眺めるアミリアの口元に、今度ははっきりとした微笑が刻まれた。

3 大佐と大佐と少将
「俺はな、セルバン。こんな事をするために軍に入ったんじゃないぞ?」
憤慨の意を口調に含めて、男は苛立たしげに吐き捨てた。
鮮やかな紫色の髪とはっとするように澄んだ紅の瞳をしている男だ。
私服姿で、屋台で売っている大量の食べ物を両手に抱えている。
「まあ、愚痴を言いたくなる気分はわかるよ。共通の体験をしてるわけだし」
男の隣を歩く男が相槌を打つ。青い髪をしたおとなしそうな青年だ。
その青年も紫色の髪をした男同様、大量の食べ物を抱えていた。
「こんな姿は部下には見せられん」
憮然とした表情で紫の男が嘆く。
荷物を抱えて人混みを縫うようにして歩いている姿など部下には見せられない。
「まあ、似たような光景はいつも晒してるけどね。いや、普段の方がもっと無様かも」
「…………」
青髪の男の不用意な言葉に、男が足を止める。
数歩行き過ぎてから、止まり、振り返った青髪の青年に飛び掛ってその首を絞めつつ、
「お・ま・え・はぁ~!」
「ぐっぐるじぃってギル!」
ギルことギルギッド=ルメイ。第一軍第一騎兵師団第二騎兵連隊長。大佐。
青髪の首を絞められている青年はオットー=セルバン。
第一軍第一騎兵師団第三騎兵連隊長で、階級はギルと同じ大佐だ。
年齢ではギルの方がオットーよりもひとつ上。士官学校でもオットーよりひとつ上だ。
連隊長になったのもギルの方が先だが、師団長にどちらが先になるかはまだわからない。
しかしギルはそんな事まったく気にしていないように見えた。
心の奥底ではどうだか知らないが、少なくとも表面上は二人は仲の良い同僚だった。
もっとも同じ災難を抱えている事から来る連帯感かも知れないが。
首締めから解放されたオットーは苦しそうな笑みを浮かべて、
「早く行かないと僕らの姫様が御立腹だよ」
「うぐっ………早く行くぞ」
言葉を喉に詰まらせ、早足で歩き出すギル。オットーは嘆息してその後を追い、
「部下には見せたくないね」
そっと呟いたのだった。

「もう、おっそーいっ!」
げしっげしっげしっ。
「うわ、馬鹿、蹴るな!」
ギルが猛烈な蹴りを食らって、持っていた焼きそばを放り投げてしまう。
「あ………」
見事な放物線を描いて飛んだ焼きそばが、ギルを蹴っていた人物の頭上へと落下する。
輝くような豪奢な金色の巻き毛が見事に焼きそば塗れになる。
オットーはそれを見て、やや間の抜けた声を漏らした。
「ギルぅ~………」
「い、今のはおまえが悪いんだろ?なあ、セルバン?」
「僕は知らないよ。見てなかった」
嘘だ。しっかり見ていた。
「あ。てめぇっ!裏切りやがったな!」
「自虐趣味は無いから」
「この私に焼きそばを被せるとは良い度胸ね。成敗よ!」
「どあぁぁぁぁっ!?」
ギルが悲鳴を挙げて逃げようとする。
さすがは士官学校を優秀な成績で卒業しただけあって、ギルの動きは凄まじい速度だった。
「待てぇぇぇぇっ!」
しかし、それを追う金色の巻き毛の少女の動きはさらに信じられないほどの速度だった。
ギルよりも遥かに速い。ギルの背中に見る見るうちに迫る。
ギルはやや青ざめた表情で少女に向き直り、
「くそっこうなったら戦って―――って、うぎゃああっ、や、止め!し、死ぬ!うぎゃああっ!!」
言葉の途中で腕を掴まれ、捻られ、投げ飛ばされる。
凄まじい動き。その動きはあのアレク=ハーベストと同等かもしれない。いや、それ以上かも。
「まあまあ、レフィナ。そんぐらいにしといてあげなよ。焼きそばとか冷めちゃうよ」
オットーがやんわりと止めに入る。少女はギルやオットーに比べて、かなり年少だった。
まだ十代であることは間違いない。彼女の名はレフィナ=フュークル。
軍人の一族として有名なフュークル家の次女で、現在の階級は少将。
そう、彼女こそオットーとギルの上官、第一軍第一騎兵師団長閣下なのだ。
レフィナはオットーに止められると気絶して泡を吹いているギルの背中から降り、オットーが差し出した焼きそばを受け取り、むしゃむしゃと食べ始めた。
色気より食い気の年代なのだ。
「ぐぞっ………なんか、レフィナ、おまえには素直に従うんだな」
顔の激痛に顔を歪めながら、ギルが恨みがましく呻く。
「と言うよりは………焼きそばに従順なんじゃないかな?」
レフィナは瞬く間に焼きそばを食べ終え、
「私が食い意地張ってるって言いたい訳?」
「違うみたいに言うなよ」
ギルがそっと呟く。
げしっ。
途端、踏み潰されるギル。
(余計な事言わなきゃ良いのに)
ギルはレフィナの足を挙げて立ち上がり、オットーの肩を掴んだ。
「ちょっと話がある」
「え?」
「ちょっと、あたしに話せないような話をする気?」
訳がわからずに声をあげるオットーと眉間に皺を寄せて嫌悪感を顕すレフィナ。
ギルはオットーの肩を押しながら、
「男には秘密の話があるんだ。おまえはそこで良い子にして、食ってろ」
「むー。子供みたいに扱うなぁ!」
げしっ
「そうやってすぐに蹴るところがガキなんだよ、ガキ!」
「ガキじゃないわよっ!レディーよっ!」
「どの面下げてレディーだよ!」
ゴッ!
「ゔっ………」
鈍い音と共に、ギルの顔が激痛に歪む。
レフィナの、少女らしい伸びやかな脚が見事にギルの股間を蹴り上げていた。
「あちゃ~」
オットーが己の事のように顔をしかめる。男ならば誰もが共感しうるであろう激痛にこの時、ギルは襲われていた。顔を青白くし、変な汗が出ている。
「えと………じゃあ、とりあえず」
白目を剥いて痙攣しているギルを担ぎ上げる。
「ちょっと行って来るから。変な人についてっちゃ駄目だよ」
「むー。なんでオットーまで子ども扱いするのよ!」
「ああ、御免御免。じゃあ、レディ。しばし失礼します」
「宜しい」
ぺったんこの胸を張って尊大に頷くレフィナに背を向け、オットーは歩きだした。
「死ぬなよ、ギル」
「死なねえよ………いや、男としては死にそう」
「大丈夫。傷は浅い」
「うう。………改めて気絶して良いか?」
「できれば嫌だ。重いし、男と密着して喜ぶような趣味は無いから」
「無理………あう」
そして、ギルは気絶したのだった。

「だあぁぁぁぁっ!!」
それまでぴくぴくと痙攣して気絶していたギルがいきなり背筋の力だけで飛び起き、吼えた。
周りを歩く人々が何事かと振り向く。目を血走らせたギルはそんな通行人が怯えて走り去るのも目に入らぬ様子で、オットーの肩を鷲掴みにした。
「俺はもう我慢ならん!」
「何が」
「レフィナの事だ!あいつは俺達よりも年下なんだぞ!そんなガキに舐められて、おまえは悔しくないのか!え!?悔しくないのか、セルバン!俺は悔しい!」
「別に。彼女が軍人として現在の地位にあるのは彼女の実力故なんだから。フュークル家は男爵家だけど死ぬほどキツイ訓練で有名だからね。そりゃあもう、常人には耐えられないでしょって位」
「じゃあなんだ、俺たちはあいつには勝てないって言うのか!」
「んー。少なくとも正攻法では勝てないんじゃないかな」
あはは、と乾いた笑みを浮かべて言うオットー。
ギルはわなわなと肩を震わせた後、ふとオットーの顔を見上げて、
「そういや、おまえって童女趣味だったんだよな」
「なんでそうなるのさ」
「いや、レフィナに優しいし、しかもメイ=ペンドラゴン公爵夫人とも交際してるんだろ?」
「してないって。時々、屋敷に呼ばれるだけだよ」
「童女趣味じゃないとするとあれか?まだ世の穢れを知らない乙女を自分の好みの女に今から育て上げようとしてるとか?」
「僕ってすごい嫌な男になるね、そりゃ。それよりも、レフィナにもう我慢できない、の続きは?一体、どうしたいのさ」
「あいつに痛い目を見させてやる!」
「………」
「なんだよ、その冷めた目は」
「いや。………でも、どうやって?」
「どうやって………って」
ギルの威勢が萎む。
「真正面から戦うことを己の美学にしてるギルギッド=ルメイはどうやって、レフィナ=フュークルに痛い目を見させるんだい?」
「なんか含みのある言い方だな」
「いや。多分、痛い目を見るのはギルの方かなぁとか思っただけだよ」
「うぐっ」
「自分でもそう思ってるんじゃん」
「うー」
欲求不満な獣の如く、ギルは唸った。オットーは嘆息して、
「そろそろ戻らないとお姫様が怒り出すよ?」
「っ………帰るぞ」
「了解」

「遅い!」
「悪い悪い」
頬を膨らませてそっぽを向くレフィナにギルが片手を挙げて謝る。
レフィナの横には空になった食べ物の残骸が無残に山積みにされていた。
「って、これ全部一人で食ったのかよ」
思わず呆れるギル。
レフィナは横目にそのごみの山を見て、さすがに恥じらいを覚えたのか少しだけ頬を染めつつ、
「捨ててきて、ギル」
「俺がぁ?自分で食ったんだから自分で捨てに行けよ」
げしっ。
「うわっ!いきなり蹴るな!」
「レディをこんな長い間一人で待たせておいて何よその言い草は。私が誰かに浚われていけない所に売り払われたりしたらどうする気だったのよ!」
「おまえが浚われる口かよ!浚おうとした人間みんな地獄直行じゃねぇかよ。大体な、こんだけ大量に一人で食っておいてレディとかぬかすんじゃねぇ」
ギルとレフィナが激しく睨み合う。オットーは止めようともせず、ごみを纏めて、捨てに行った。
戻ってきたときには心なしかぼろぼろになったギルがレフィナに踏みつけられていた。
(あ~あ、スカート穿いてるのに)
オットーはそう思ったが、口には出さなかった。
ギルと同じ末路は辿りたくない。ギルは踏まれながらも暴れ、ふと視線を上にあげて、硬直した。
その視線はレフィナのスカートの中に注がれている。
いきなりギルの抵抗が無くなった事に気付いて、レフィナがギルの顔を見下ろす。
そして、彼の視線を辿って………彼が何を見ているのかに思い至って、顔を真っ赤に染める。
そして迷いなくギルの顔面に爪先を叩きこむ。
「うおおおおっ!!鼻血がっ!」
「私のパンツ見て鼻血垂らすなんて不潔!変態!」
「誰もお前の熊さんパンツ見て鼻血なんぞ出すか!これは蹴られたからだ!なんだその異様にデフォルメされた熊は!いや、むしろクマさんじゃねえか!ここは森の中か!?俺はクマさんに出会ったのか!?歌ってる余裕は無いぞ!?しかも後追いで」
「何意味のわからないこと口走ってるのよ!私がどんなパンツ穿いてようと私の勝手でしょ!」
「普通レディはそんなパンツは穿かないんだよ!」
「じゃあどんなの穿いてるのよ!」
「黒のスケスケレース」
どごっ!
「スケベ!」
「っ~、本当だぞ、レディはそう言うのを―――なあ、セルバン?」
「オットーもスケベなの?」
助けを請うようなギルの視線と詰る様なレフィナの視線。
双方を等分に見比べて、オットーはギルの顔を視界の外に追い出した。
「僕はそう言うの見た事ないなぁ」
「ほら!」
残酷な笑みを浮かべるレフィナ。ギルは怒りと恐怖と情けなさと諦念がごっちゃになったような表情を浮かべて、
「裏切ったな、てめぇ、このセルバン!この黒犬隊の先輩を裏切ったな!」
その悲痛な声も、オットーは聴覚の外へと押しやった。
しかし塞いだ耳の間隙を縫って、尾を引くギルの悲鳴が頭の中に響いた。
目を瞑って目の前の修羅場を視覚の外へと押しやり、オットーは呟いた。
「ごめん、ギル。成仏してくれ。それにしても、黒犬隊とはまた懐かしい事を―――」
「俺は死なねえぇぇぇっ!」
「いいえ、あんたは死ぬのよ!」

4 皇帝と伯爵令嬢
建国祭には様々な露店や屋台が並び、人が集まるところでは玉乗りや火吹き、剣呑みなどの大道芸人も多く興行している。彼らにとってもこの半月間に亘って行われる大祭は大きな稼ぎの元になるのだろう。ラインハルトはそれらの大道芸を見たり、露店などで売られている物を食べたりとシエナと一緒にまるでローデンスの片田舎で生活していた頃のように建国祭を楽しんでいた。皇帝と侍女と言う関係ではなく、野山を共に駆け巡った幼馴染として。と、彼らの行き先に黒山の人だかりが出来ていた。
「なんだろう、あれ」
「さあ?行ってみましょうよ、ライン」
「うん」
二人はその人だかりに近づいたが、人だかりはかなりの密度で何が起きているのかわからない。ラインハルトとシエナは一瞬顔を見合わせた後、ひとつ頷くといきなり背を屈めて、人々の脚の間を縫うように這い進み始めた。とても皇帝や伯爵令嬢がするような行動とも思えないが、元々彼らはフロレシア帝国の田舎地方ローデンスで遊び暮らした仲だ。上品さとは無縁なのである。人々の脚の間を這い進んで、一番前に出る。途中で踏まれたのか、二人の服には大分足跡が付いていた。二人はそんな事気にもせずに立ち上がり、人だかりの元凶へと目を向ける。そこには一人の男が立っていた。東洋の着物を着た厳つい男で、肩に黒光りする筒を担いでいる。男から百m程離れた位置には人の胸当たりの高さの的が立てられている。男はその厳つい顔で集まった数百人の群集を見回し、髭を蠢かせながら大声を張り上げた。
「お集まりの皆皆衆、今から皆様にお見せするは華中大帝国の科学の結晶、鉄砲よ!あそこの的を見事撃ち抜いたらば拍手喝采とおひねりをお願いする!おひねりと申してもほんの御心程度で結構!一ドール銅貨をぽんと投げて下さればそれで結構!」
男の口上に集まった群集の間にどよめきが広がる。しかし、多くの人は首を傾げているだけだ。ざわめきを発したのは皆、私服姿の軍人たちだった。鉄砲とは科学立国・華中大帝国の軍事兵器であり、弓よりも射程が長く、轟音と共に発射された鉛の塊が目にも止まらぬ速度で敵を撃ち抜くと言う脅威の新兵器だ。ラインハルトも鉄砲と言う兵器の名前自体は聞いていたが、実物を見るのは初めてだった。
非常に高価な兵器であり、経済大国でありながら多額の負債を抱えるフロレシア帝国ですら持っていなかった。スタルナス帝国やルーナ帝国も持っていない。最も大洋を隔てたフェニキア自由都市連合では既に華中大帝国から鉄砲やそれ以上の威力を持つ大砲なる物を大量に輸入し、軍艦に積載して居るのだと言う。フェニキア自由都市連合の海軍は世界最強と名高かった。最も、所有して居る軍艦の数で言えば遥かに華中大帝国の方が多いだろうが。どちらにせよ、フロレシア帝国もスタルナス帝国もルーナ帝国もその領土はラスカーナ大陸の内陸部にあり、三国とも海軍を所有してはいなかった。男が片手を挙げるとざわめきが静まる。
「こいつをぶっ放すところを見た事のある者は?」
誰も手を挙げない。男は大きく頷いて、
「百聞は一見に如かず。瞬きせずにとっくりと見てご覧召されい」
そういうと男は脚を肩幅に広げ、脇を締めるようにして鉄砲を構えた。引き金の上、縄のような物の上に火種が付いている。銃身と地面とが平行になる。我知らずラインハルトは息を呑んだ。男の全身から覇気のような威圧感が滲み出している。男の指が引き金に掛かり、
ドォンッ!
鼓膜を聾する轟音と共に、銃口から白煙が棚引いた。
ラインハルトが目を向けたときには既に、百mも男から離れていた的が木っ端微塵に砕け散っていた。目にも止まらぬ速さ。信じられないほどの破壊力。ラインハルトの胸が躍った。
「うおおおおっ!!」
期せずして、周りの観衆からどよめきが上がる。男が鉄砲を下ろし、頭を下げる。観衆の間から万雷の拍手が起こり、小銭が投げられる。ラインハルトも懐から金を投げた。男が金を拾い始めると良いものを見たとでも言う風に興奮した様子で集まっていた人々が三々五々帰って行く。
「ライン、次は何処行く………ライン?」
シエナが服の汚れを払いながら話し掛けるが、ラインは返事をしない。
それどころか彼はそのまま男の方へと歩いて行った。男は顔を上げて、怪訝そうな顔をする。
「―――ん?どうした、坊主」
「貴方は華中大帝国の方なんですか?」
金を拾おうとした男の手が一瞬動きを止める。
「ああ、まぁな」
「差し障りなければ、お名前をお聞かせ下さいませんか?」
「名前?」
「はい。僕の知り合いに人材を欲しがっている御仁がおりまして。鉄砲を扱える方はこちらには居ませんから。もしよろしければ、その方に貴方をご紹介したい」
「…………」
男は黙って、ラインハルトの顔を見上げた。少し考えてから、低く抑えた声で名乗った。
「洸安黄と言う」
「洸安黄………殿」
「そうだ」
「まだしばらくはこちらで?」
「ああ。祭りの間はな。祭りが終われば流れていくかもしれんが」
「そうですか。ではこれで失礼します」
「待て。坊主」
「はい?」
「その、人材を求めている御仁の名は?」
洸安黄の言葉にラインハルトは去りかけていた足を止め、肩越しに振り返った。目元には悪戯小僧が浮かべるような笑みが滲み出していた。もっとも、洸安黄はそれに気づきはしなかっただろうが。
「ラインハルト=シーザーと申します」

初日の祭り見物から帰ってきて、ラインハルトはすぐにオルンヘル=クリケット宰相と皇帝直属の諜報組織暁の頭領エシュアを皇帝執務室に呼び出した。オルンヘルは二ヶ月前の貴族連盟派貴族の一掃後、倍増した事務仕事を決済する為に睡眠時間を削って働いていた。しかし、その肌には艶がある。仕事は増えたが、かつてはアリーニ=アウグウェルツ公爵やその取り巻き貴族の圧力によって保留するしかなかった様々な問題に手を付け、解決に向かうための手段が打てるようになったので、彼も自分の仕事に以前以上の遣り甲斐を感じているのだろう。エシュアは暁の人員を帝都にばら撒き、周辺諸国から侵入してくる諜報員の発見・監視・捕縛・抹殺の指揮を執っているだけでなく、周辺諸国にも数名ずつと言う手薄さだが、諜報員を送り込んでいる。特に力を注いでいるのはルーナ帝国とスタルナス帝国の動向だ。つまり、二人ともとても忙しいのである。
「どうしたんだ、ライン?私は忙しいのだが」
オルンヘルは余程疲れが溜まっているのか、エシュアの前だと言うのにラインハルトを愛称で呼んだ。
「御免、父さん。でも今日祭りを見ていて面白い人物を見つけたんだ」
「面白い人物?」
「大道芸で―――」
「おい。ライン、たかが大道芸の話をするために呼んだと言うなら私は戻るぞ。先の反乱で没収された貴族領の検察の結果を纏めなければならないんだ。その纏めがなければ正確な税額を決めることが出来ないからな。早く検察を纏めて、財務省に回さねばならん」
「わかってるよ。でも、僕が話したいのは別に大道芸の感想じゃないよ」
オルンヘルは少々イラついて来たようだ。
「では何だと言うのだ?」
「鉄砲を撃ってた」
「鉄砲?鉄砲と言えば華中大帝国の武器じゃないか」
「そう。どうやら華中大帝国からやってきたみたいなんだ。だから、彼を取り立てたいと思う」
「鉄砲の部隊を組織するつもりか?」
「うん。鉄砲は高価だからすぐに纏まった数を手に入れると言う訳にはいかないだろうけど」
「それよりも問題なのはその男の素性だろう」
オルンヘルがエシュアを見る。エシュアはいつも通りの鋭い眼差しのまま頷いて、
「華中大帝国でも鉄砲を扱える人間はその技術を他国に漏らさないよう、厳重に監視されていると申します。その男が本当に華中大帝国の人間ならば間者の可能性も否定できません」
「うん。余もそう思って君を呼んだんだ。彼の名は洸安黄と言うそうだよ。これも本名かどうかはわからないけど、今日と同じ場所で大道芸をするそうだから、素性を調べてくれないかな?それと父さん、鉄砲を手に入れるための商路を開拓する必要があると思う」
「わかった。財務尚書と相談して考えよう。だが、ある程度の数の鉄砲隊を揃えるとなればかなりの金が掛かるんじゃないか?」
「うん。なんとか軍備を縮小したいとは思うんだけど………まあ、なんとかいろいろと考えてみる」
「よし。私も軍備縮小の方向で考えよう。それではエシュア、勅命を果たせ」
「はっ」

オルンヘルとエシュアに己の意思を伝えた後、ラインハルトは己の自室へと戻った。
既に日も落ち、時刻的には深夜に近づいているが、まだまだ帝都は騒がしい。
私室では窓を開けて、シエナが帝都の明かりを見下ろしていた。
ルーガの丘でフェルモア=シーザーが高らかに建国を謳った後、その丘の上に城が建てられた。
それがフロレシア帝国の居城ルーガ城である。現在のルーガ城の縄張りは当時のものよりかなり拡張されている。現在の本丸辺りが当時の城の規模とほぼ重なるらしい。
フェルモアは皇帝に相応しい、堅牢で荘厳な巨城の築城を家臣に勧められた時、こう答えたのだと言う。
《人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、憎しみは敵なり》
―――と。
要は信頼できる者達が居れば、強固な城は必要ないと言う事だ。
しかし、歴代の皇帝は彼のようにはいかなかった。
中には即位して数ヵ月後に臣下の裏切りに合って、殺されてしまう皇帝も居た。
故に代替わりごとに城の規模は拡張され続けた。皇帝達は己の身を護るために複雑な隠し通路や隠し部屋を設けた。そのため、ルーガ城内の全ての通路を把握している者は居ないとさえ言われる程だ。
三百年間掛けて造成されたルーガはラスカーナ大陸でも随一の人口を誇る大都市だ。その街並みは市域から溢れ出し、巨大な都市を形成している。その人口は帝国府が作っている戸籍に記載されている者だけでも三百万人余り。しかし、人の出入りも激しく、とてもではないがすべてを掌握する事は出来ない。
数十年前、人口をすべて把握しようとした学者が居たが、彼は生涯を人口調査に掛けた挙句、果せず、この言葉を残して死んだ。
《人は渡り鳥だ。しかも、飛ぶ鳥跡を濁さずと言う言葉も知らない。人の数を数えるのは人の体に寄生している微生物を数えるよりも難解だ》
彼の苦悩がわかる言葉である。ラインハルトは扉から少し部屋に入ったところで、足を止めていた。
街の淡い明かりに照らされて、シエナの銀色の髪がさらさらと輝いていた。
その美しさに呼吸すら忘れて、ラインハルトは見蕩れていた。
一歩、二歩と固まっていたラインハルトの足が動き出す。
その蒼い瞳はシエナから離れない。
まるで吸い寄せられるかのようにラインハルトはシエナに近寄り、後ろから彼女を抱き締めようとして………視界の端に異物を捉えて止めた。
あげていた腕を下ろし、そちらへ視線を向ける。
「そこで何やってんのさ」
「ぅあっ!………って、ライン、もうびっくりするじゃないのよ」
いきなりすぐ後ろであがったラインハルトの声に、街の灯に見蕩れていたシエナは驚愕して振り向いた。しかし、その先でラインハルトは彼女を見ては居なかった。
今の言葉も彼女に向けられた物ではなかった。部屋にあるソファ。そこに座っている人物が居た。
そちらを向いて、シエナも驚いたようだ。
ラインハルトはそのシエナをちらりと見て、嘆息する。
「気配を消してシエナを覗いてたの?」
ラインハルトの言葉に、ソファに座っていた男が立ち上がる。
わざとらしく両手を挙げながら。
その口には軽薄とも思える薄ら笑み。
かなりの二枚目だが、頬にある手形がどうにも情けない。
ラインハルトとシエナの幼馴染、アレク=ハーベストだった。
「それどうしたの?」
ラインハルトが笑いを堪えながら手形を指差す。
アレクは憮然とした表情で、頬に手を当てた。
「黒い悪魔にやられた」
黒い悪魔とはリーナの黒髪と彼女が死神の如く大鎌を扱う事から彼が名付けた渾名だ。
「それで、どうしてこの部屋に?」
「この世界でこの部屋が最も安全だからな」
「珍しいね。アレクが女の子を追い回すんじゃなくて追い回されるなんて」
「たまにはな」
と、その時、扉がノックされた。全員の視線が扉へと向く中、扉の向こうからはたおやかな女性の声で、
「あの、申し訳ありませんがこちらにアレク閣下がお出でじゃないでしょうか?」
リーナだった。アレクの表情が蒼白になる。
しかし、すぐになにやら思いついた様子でにやりと嫌らしい笑みを浮かべた。
アレクがこんな笑みを浮かべるときは大抵よからぬ事を考え付いた時だ。
「それよりもライン、俺は見たぞ?」
そんな台詞を聞いて今度はラインの表情が蒼白になる。
「えと………言わないで欲しいなぁ、なんて」
「じゃあ聞くが、おまえはどっちの味方だ?」
「………アレク、僕達は親友じゃないか」
「よし」
頷いて、アレクがソファの影に隠れる。
「アレクが見たのって、何を?」
シエナが聞いてくる。しかしアレクは手を振り振り、
「いや、男の約束で言えなくなった」
「なによ、もう、気になるじゃない」
シエナがむくれる。ラインは扉を開けた。
扉の前にはおしとやかを絵で描いたような、それでいておしとやかな女性が決して持ってはいないであろう大鎌を肩に担いだリーナ=セレシコフがにこにこと立っていた。
「陛下、申し訳ありませんがうちの師団長、こちらにお邪魔になってませんでしょうか?」
「アレク?さっきまでは居たんだけど帰ったよ」
リーナは一瞬目を細めるようにしてラインハルトを見た。まるで殺気を叩き付けるかのように。
心の奥底まで見透かすような、そんな視線だった。
ラインハルトの背筋を冷たい汗が伝わり、頬の筋がひくひくと震える。
しかし、リーナはすぐに表情を元に戻して、言った。
「そうですか。どうも失礼しました」
「うん。じゃあおやすみ、リーナ」
「おやすみなさいませ、陛下」
扉を締める。リーナの顔が視界から消えて、安堵の吐息と共にラインは吹き出ていた額の汗を拭った。振り向くとソファで上半身を起こしたアレクがにこにこと笑っていた。
「ご苦労だったな、陛下」
(次は売り渡してやる)
心の中で決心する皇帝だった。
「ねぇ、何を見たの?教えてよ、ね?御願い。これじゃ、気になって寝れないし」
尚も詰め寄るシエナ。しかし、アレクは手を左右に振って。
「シエナ。いくら幼馴染の願いでもな、男の約束を反故にする事はできないんだ」
ラインはシエナの背後からアレクを睨み付けていた。
シエナを抱き締めようとしていただなんて、アレクにばらさせる訳にはいかないのだ。

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