覇皇伝
第一章 建国祭一週間前
第一章 建国祭一週間前
1 安息
皇帝派と貴族連盟派による対立が貴族連盟派の反乱、そして首魁ラマーン=オルド侯爵の処刑と言う形で終結してからおよそ一ヶ月半が経過した帝国暦三三二年十一月二十四日。
季節は移り変わり、本格的な冬を迎えようとしていた。フロレシア帝国帝都ルーガはこの時期、一年でもっとも賑わう。何故ならば建国祭があるからだ。建国王として敬われる覇皇フェルモア=シーザーがフロレシア帝国を建国したこの日は彼がラスカーナ大陸統一の覇道を驀進するその第一歩を記したと言える日なのだ。この建国祭は一カ月以上前から準備が始められ、約半月に亘って盛大に行われる。
ラスカーナ大陸中はおろか世界中から商人や旅人が集うのだ。先帝の時代には露店を開くにも商人は国に対して莫大な税金を払わなければならなかった。商売の自由が無かったのだ。
しかし、今上皇帝であるラインハルト=シーザーは財務尚書のウェンヒルグ=ローレンス男爵の意見を受け入れ、店を開くための税金を廃し、さらに売り上げに対する税金も先帝時代の三十%から十%に下げた。この為、大陸中から数千人もの商人が集まり、それぞれが多彩な露店を開いたため、帝都ルーガの中心通りである朱雀通りだけに収まらず、周辺の街道にまで露店が立ち並ぶと言う活況振りを呈する事となったのである。この祭りを見物するため、大陸中から何千万人もの観光客が集まってくると予想されていた。中には大陸と海を挟んで交易している海洋国家フェニキア自由都市連合からの旅人や商人も居る事だろう。彼らは世界中を股に掛けて活躍している商人達なのだ。国中が浮き立つような明るい雰囲気に包まれていた。皇帝の住まうルーガ城に隣接した練兵場に、皇帝ラインハルト=シーザーの姿はあった。陽の光を受けて豪奢な黄金の輝きを放つ金色の髪、白磁の如き滑らかな肌、女のような華奢な体付き。その体は上等な絹の服に包まれ、腰には豪華な装飾の施された鞘に収められた皇族に代々伝わる聖剣《覇皇剣-サナトゥス》を佩いている。彼と対峙しているのは黒髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ剣士だった。小柄ながらも、鋼の如く鍛え上げられた体を、黒を基調としたフロレシア帝国軍の軍服に包んでいる。腰には細身の剣を佩いている。両腕を組んで、剣を構えている皇帝を見つめている。彼の名はヴァン=ブレイス。皇帝の直護衛を務める剣士で、階級は少尉だ。練兵場にはもう一人、赤髪の将軍の姿があった。皇帝の幼馴染でもある第一軍第一歩兵師団長のアレク=ハーベスト少将だ。
「ラインが剣の修行とはこれまた珍しい。………今宵は稲光を伴う豪雨かもな」
からかうような口調で、空を見上げるアレク。
「まあ、少しぐらい僕も鍛えたくなってね。最近はどうにも体が鈍ってるみたいで」
皇帝はかすかに笑みを浮かべた。彼が構えている剣は建国王が携えし聖剣、《覇皇剣-サナトゥス》。
陽光の下にその血の色を想わせる真紅の剣身が鈍く輝く。
「確かにそれだけの名剣を持っているんだからな、少しぐらい剣が出来なければそれこそ宝の持ち腐れの猫に小判の豚に真珠、もう一つおまけに馬の耳に念仏って奴だ」
「良くわからないけど、とりあえずすごい馬鹿にされたと言う事はわかるよ」
「それは良かった。にしても、ライン。建国祭の準備は良いのか?」
「うん。とりあえず、今の所は暇。まあ、祭りの最初に神事を行わなくちゃならないみたいだけど。祭り自体の準備は父さんやウェンヒルグ男爵、それにカドガン宮内尚書達が頑張ってくれてるよ」
彼の養父であるオルンヘル=クリケット伯爵は現在宰相として帝国府のボスとなっている。今までは強大な力を有していた貴族連盟に事あるごとに妨害されていたが、一ヶ月半前の反乱によって反皇帝派の貴族が一掃され、貴族連盟が親皇帝派の貴族の元で帝国府の政策に協力するための連絡機関と化してからは彼の率いる帝国府はまるで生まれ変わったかのようにフル回転していたのだ。そんな辣腕の宰相の下で国家財政全般を司っているのが、財務尚書のウェンヒルグ=ローレンス男爵だ。肥満体で眼鏡を掛け、常に汗を拭っているような印象のある彼だがその計算能力と管理能力はかなり高く、彼が財務尚書として宰相の元、伸び伸びと仕事が出来るようになってからは先帝時代のただ強圧的に搾り取るだけの徴税方式が改善されて、無駄が省かれ、むしろ民を救うような徴税方式となった為、一時的には税収が落ち込む事となったが、長期的な観点からすれば、度々税に反発する農民反乱が起き、その度に大規模な鎮圧軍を編成し、鎮圧しなければならなかった先帝時代に比べてその軍事費用が削減できるため、大幅な増収となる事が予想されていた。さらに皇帝自身の提案により、宝物庫の財宝を売り、その売上金を貧民層に分配し、彼らの飢餓を救ったため、貧民層の皇帝支持はいまや不動の地位を築き、臣民の協力を得る土壌となっていた。そして、今回の建国祭にあわせて帝都及びその他の主要都市での店舗開店税を完全に撤廃し、さらに野心はあれども開店資金が足りないと言う者達の為に運用資金の一部を低担保で融資する政府出資の金融機関ゴールデン=シープを帝都ルーガに設けた為、多くの者達が店舗を開き、現在フロレシア帝国内では膨大な物量の流れが生まれようとしていた。男爵はこのゴールデン=シープの総裁をも兼ねている。ウェンヒルグは現在帝国が抱えている膨大な負債を向こう五年間で完済すると息巻いていた。無論、そのような事先帝時代はおろか一ヶ月半前でさえ実現の可能性は無かったであろう。このような計画が実現の可能性を踏まえた上で実行に移される様になったのはひとえに貴族連盟の力が大きく削がれ、帝国府の下級役人に、貴族の鼻息を伺う事無く有能な人間を登用することが出来るようになった事が大きい。それまではどれほど有能でも、身分が低いと言うだけで出世できなかった平民出の多くの人材が登用され、帝国府や帝国議会、さらには軍部においても人事が一新されたのだ。宮内尚書となったウイリアム=デ=カドガン子爵は帝国府においては古株であったが、先帝時代に左遷されていたのを、貴族連盟の弱化に伴い、オルンヘルが呼び戻した男である。とかく悪い評判の多い男ではあるが、儀礼典範に通じたその知識の豊富さは貴重な物だった。フロレシア帝国は建国三百余年において、新興国のような活気に満ちていた。民草の間には気の早い事に、ラインハルトの事を『フロレシア帝国中興の祖』と評価している者も居るほどであるが、現在の所、それに否定的な人間も多い。『一気にさまざまな試みを行いすぎ、結局はすべてが中途半端に終わるのではないか』と危惧する人々や、帝国の古い伝統が破壊されることを恐れるような保守層である。ただ、そのような意見は現在の帝都においては少数意見に過ぎなくなっているのが現状だ。いすれにせよ、彼が英雄となるか否かはすべて、いずれ時が証明してくれるであろう。
「そんな事より、今は剣の稽古だよ、ヴァン。アレクもあまり外野で騒がないでよ」
「おっとこれは失礼」
「行くよ、ヴァン」
「―――はい」
いつもと変わらぬ淡々とした口ぶりで答えるヴァン。しかし、剣を抜こうとはしない。
ラインは怪訝そうな顔付きでそんなヴァンを見やり、訊く。
「どうして剣を抜かないんだい?」
「―――その必要がありませんから」
淡々とした声音で答えるヴァン。ラインは一瞬意味がわからず、きょとんとする。
「あははっ!こりゃ、良い!ライン、思い切り馬鹿にされてるぞ!」
アレクに笑われ、ラインもようやく意味を察する。
「絶対に打ち込んでやる!………どりゃぁぁぁぁっ!!」
気合の声を上げ、ラインハルトは突進した。
雄叫びを上げながら、ヴァンの肩を打とうと剣を振り下ろす。
が。剣先は虚しく空を切り―――。
「―――遅いです」
いつの間にやら背後に回り込んでいたヴァンが哀れむような口調で言ってくる。
いや、口調自体はいつも通りなのだが、ラインにはそう感じられたのだ。
たたらを踏んで何とか転ばずに済んだラインは踵を返すと同時に跳躍し、横薙ぎの一撃を放った。
しかしヴァンはその一撃を軽く上半身を仰け反らしただけで回避し、空中で身動きの取れないラインハルトと交錯するように前に一歩出たかと思いきや、ちょうど跳躍の最高点にあったラインハルトの足首を掴み―――
「え!?って、うわっ!」
そのまま地面に叩きつけた。
「い、痛っ………!」
腰を打ち付けて顔を歪めるラインの鼻面に、ヴァンが始めて抜いた剣を突き付ける。
「…………」
「勝負有りって奴だな」
アレクが徐に宣告を告げてくる。ヴァンが剣を鞘に収め、ラインは自力で立ち上がった。
「やっぱりヴァンには適わないなぁ」
「子供が独力で学んでるような剣に負けるようじゃ、直護衛なんか勤まらないだろ。な、ヴァン」
アレクが笑いながら言う。
「…………」
ヴァンは沈黙したまま、肯定もしなければ、否定もしない。皇帝はむすっとした表情でアレクを睨み、
「子供って言ったって、アレクは僕と二歳しか離れて無いじゃないか」
だが、アレクは手をひらひら振って、おまけに首まで左右に振る。
「それは違うな、ライン。そりゃ五十代、六十代における二歳違いってのにさしたる意味は無いだろうが、十代での二歳違いってのは大きな差だぜ」
「だったら、今度はアレクがヴァンと戦ってよ」
「望むところだ。良いだろ、ヴァン?おまえもたまには骨のある奴と遣り合いたいんじゃないか?」
獣のような笑みを浮かべるアレクに、ヴァンは無言で対峙した。ヴァンも、今度は剣を抜く。
ラインは二人から少し距離を取って、観戦の構えを取る。アレクが剣を抜いた。
ギザギザの付いた、赤い刃を持つ剣。
「あ。アレク、それって、ハーン小父さんの―――」
「ああ。貰ったんだ。《炎の剣-ハリエストロ》。『俺よりもうお前の方が前線に出る機会が多いだろうからな』って」
アレクが精霊具を掲げて見せる。彼の父親であるハーン=ハーベスト元帥は軍令部総長としてフロレシア帝国軍全体を纏め上げているのだ。アレクは一見無造作とも思える構えを取り、唇を舌で湿らせた。
「そう言うおまえの剣もなかなかの業物だろう」
「―――はい。朱汐と言う銘です」
「―――楽しみだな。良し。行くぞ、ヴァン」
「―――いつでも」
それが、試合の開始を告げる鐘の代わりとなった。両者はほぼ同時に地を蹴り、駆け出した。
「速い!」
思わず唸るライン。以前、一度二人が試合をするのを見た事がある。あの時よりも、ライン自身の目が成長しているのか、二人の戦いの桁外れさがよりよくわかった。単純に言ってしまえば互いに攻撃と防御を、その間に目まぐるしい体位の入れ替えを交えながら繰り返していると言うに過ぎない。だが、その速度が生半可な物ではなかった。目で追うだけでもやっとなのだ。
(僕の剣を受けるのに、ヴァンが剣を抜かなかったわけだ………)
二人の剣捌きに比べれば、彼の剣など児戯ですらない。ヴァンにとってすれば動いているようにすら見えないのかもしれない。二人の速度はそれほどまでに速かった。速いだけでなく、威力もあった。両者の剣がぶつかり合うたびに甲高い音が鳴り響き、火花が散る。なまくら剣だったらすぐに折れてしまうだろう。両者の携える剣が双方共に業物だからこそだ。だが、それでも、優勢なのはヴァンの方らしかった。アレクの表情には徐々に焦りの色が見え始めているのに対し、ヴァンの表情には何の変化もない。
「―――そろそろ」
「何ッ………!馬鹿な!」
ヴァンが呟いた次の瞬間、その速度がさらに加速した。思わずアレクが絶句するほどに。
《《炎の剣-ハリエストロ》が弾き飛ばされ、足を引っ掛けられて転ばされ、鼻先に剣が突き付けられる。
「…………」
「おいおい、冗談だろ。………あれで、まだ本気じゃなかったってのか?」
アレクが呆れたように呟く。ヴァンは剣を引いて鞘に収め、一歩退いて礼をした。汗だくのアレクに対し、ヴァンは汗一つ掻いた様子もない。アレクが弱いのではない。強すぎるのだ。ヴァン=ブレイスと言うこの剣士が。アレクは立ち上がり、《炎の剣-ハリエストロ》を鞘に収めた。
「こいつが直護衛だったら、ラインの命は安泰だな………」
賛嘆の意を込めた言葉。しかし、ヴァンは首を左右に振り、
「―――私よりも強い者も居ます」
ヴァンは謙遜を口にするような男ではない。それはラインもアレクも知っている。
それだけに驚いた。
「おまえよりも、強い奴?………人間か、そりゃ?」
「それって、あの暗殺者の事?」
以前、ディハン=ギルトに招待された昼食会の折に襲撃して来たジェルナ=クレイスロールと言う名の暗殺者の事だ。ヴァンは微かに首を横に振った。
「―――彼女になら、勝てます」
ラインとアレクは互いの顔を見合わせた。アレクが軽く肩を竦ませる。
「まあ、ライン。たまに手解きを受けな。それなりの技量をおまえも持っていた方がヴァンとしても護り易いだろうし。それにその名剣の使い手が盆暗では剣でも剣聖と謳われた建国王に比肩された時にみじめだぜ」
「うん。なんとか頑張って見るよ。まあ、剣聖レベルに達する事が出来るとは思えないけど」
「―――素質はあります」
「だとさ。鍛えて貰え」
「うん。よろしく頼むよ、ヴァン」
「―――はい」
「さて、俺は司令部にでも戻るかな」
「じゃあね、アレク」
「おう」
ラインハルトは泥を払い、アレクと別れて歩き出した。ラインハルトは練兵場を出て、すぐに執務室には戻らずに庭園を歩く事にした。特に理由があるわけではないが、祭りの準備や剣の稽古などで少し気分が高揚していて、とてもではないが村同士の水問題などの書類仕事に埋もれる気になれなかったのかもしれない。庭園はしっかりと手入れされていた。冬とは言え、まだ雪も降っておらず、冬独特の花が咲き誇っている。春や夏に比べ、この季節の花は何処と無く質素ながら清楚な印象の花が多いように思える。と、ラインハルトが足を止めた。その視線は花ではなく、華に止まっていた。花に水をやっているメイド服姿の女性。月光の如く輝く銀色の髪に、光を当てられた琥珀のような黄金の瞳。
ラインハルトの幼馴染でもあるシエナ=クリケットだ。メイド服を着ているがこれは彼女の趣味であって、彼女はれっきとした伯爵令嬢である。その苗字からもわかるとおり、彼女の父親は宰相のオルンヘル=クリケット伯爵だ。もっとも彼女は母親似だが。と、そのシエナがぼうっと立ち尽くしているラインハルトに気付いた。黄金の瞳が一瞬驚きに大きく見開かれた後、まだ少女のあどけなさが残る口元に可憐な微笑を浮かべる。ラインは二歳年長のこの幼馴染がこの庭園の中でもっとも美しいとさえ思った。
「―――どうしたの、ライン?こんな所に………って、泥だらけじゃない!」
彼がシエナの笑顔に見蕩れている内に、既にシエナは笑みを引っ込め、世話好きな年長者の心配そうな表情に変化していた。ラインの服に付いた泥に気付き、眉間にやや皺を寄せている。
「あ、ああ、これ?今まで練兵場で剣を習ってたんだ。ヴァンに」
「そう、なら良いけど。私はてっきり―――あ」
シエナが何かを言いかけ、慌てて口を抑える。
「てっきり………僕が苛められていたとでも思った?そこまで子供じゃないよ、僕は」
「ち、違うわよ、私はそんな失礼な事考えてないわよ」
「じゃあ、なんだよ」
「私はただ、水溜りを飛び越えようとして失敗したのかと」
「変な設定作らないでよ。大体、苛められるよりも子供っぽいじゃないか、それ」
もっとも跳躍した所を叩きつけられたのだから………いや、やはり大分違うか。
一瞬でもシエナに見蕩れてしまったことに激しい後悔を覚えながらも、ラインハルトはシエナの水遣りを手伝い、満ち足りた気分を味わうのであった。
「にしてもさ」
水遣りを終えて、執務室に戻ろうと尖塔の中の回廊を歩きながら、ふとラインハルトは隣を歩くシエナを見た。
「なによ」
シエナが聞き返してくる。ラインハルトはその姿をしげしげと見つめてから、
「―――なんで………メイド服なの?」
途端、何故か頬を朱色に染めるシエナ。
「なっ………そんなの、私の勝手でしょ!」
そして、回廊に国家で一番畏怖されるべき人物が平手打ちを喰らう音が響いた。
人々の失笑を買ったのは言うまでもない。
2 暁の曙光
帝都ルーガの一角。そこは住宅街だった。
貴族が住んでいる区画ほど豪奢ではなく。
貧民層が住んでいる区画ほど乱雑でもない。
中流階級とも呼ばれる一般市民が居を構える区画の一つだ。
その区画の、表通りからはやや奥まった位置にある民家の窓から中を、二人組みの男女が覗いていた。
男の方は金髪たれ目、耳のイヤリングが特徴的な、真面目な顔をすれば二枚目なのだろうが、だらけた顔をしているので三枚目にしか見えないというある意味ちょっと惜しい男。
女の方は肩で切り揃えた黒髪に猫科の動物を連想させる大き目の瞳、そしてしなやかそうな四肢を持っている気の強そうな女。
「―――これは天変地異か?」
男の方が、畏れるような口調で呟く。
「―――穢土転生かしら?」
女が少しだけ体を震わせて、呟く。意味はちぐはぐでわかりにくいのだが、彼らはどうやら驚愕しているらしい。目の前で展開されている光景が信じられないと言う様子だった。
では彼らは一体何を見ているというのか?彼らが覗いている部屋の中には二人の男が居た。
一人は三十ほどの、このラスカーナ大陸では珍しい白髪と異様なほどに鋭い眼差しをした男。
こちらは問題ない。
二人の男女にとってみれば見慣れた彼らの上司、皇帝直属の諜報機関暁の頭領エシュアに違いない。問題なのは安楽椅子に腰掛けているエシュアではなく、彼の足元に座り込んでいる子供の方にある。
エシュアとは対照的に黒い髪をした子供である。
五歳ぐらい、であろうか。
痛々しい事に喉に切り傷がある。無論、既に塞がっているが、子供の喉の傷は正確に彼の声帯を裂いていた。つまり、もう二度と彼は発声する事が出来ない。
部屋を覗いている二人も事情は知っている。
事の発端は一ヶ月半前の、貴族連盟による反乱の折。
ルーナ帝国から帰還したエシュア達は皇帝軍の中に紛れ込んでいる間者の洗い出しを行っていた。
レイアードとジュナが兵と下士官を担当し、エシュアが将校を担当したのだが。
エシュアが捕らえた間者の一人、サティスナ=バグナー大佐はなんと貴族連盟側に息子を人質に取られていたのだ。『協力しなければ息子を殺す。協力すれば、無傷で返す』と脅迫され、仕方なく彼は皇帝側の情報を貴族連盟側に密告した。
バグナーは敬愛する上官であるアレク=ハーベスト少将を裏切ってしまった事を悔い、捕縛されたのを契機にエシュアにすべてを話し、そして息子の救出を依頼する。
その後、バグナーはエシュアが一瞬目を離した隙に自ら舌を噛み切って死んでしまった。
息子をエシュアに託して。エシュアはアルンヘルが貴族を抹殺している間に地下牢に潜入し、子供を救い出してきたと言う経緯なのである。しかし、意外なのはこれから先だ。レイアードやジュナはてっきりエシュアは子供をそれなりの機関に引き渡すものだとばかり思っていた。
しかし、エシュアは皇帝に間者サティスナ=バグナーの事は報告したものの、少年に関する事柄は一切報告せず、少年を自分で引き取ってしまったのだ。
そして一ヶ月半。ようやく報告書と始末書の山との格闘を終えたレイアードがジュナを誘って様子を窺いに来たと言う訳である。
「実はサティスナ云々の話は全部嘘で、頭領の隠し子だったりして」
「それ、本気で言ってる?」
レイアードの言葉に、途端にジュナの表情が険しくなる。
それに気圧されるかと思いきや、レイアードはさらに言葉を継いで、
「いや、ありえるかもしれないぞ。バグナーはもしかしたら本当に自分の子だと思っていたかもしれないが、実はバグナー夫人は頭領の情婦だったかもしれん」
「そんなのありえないでしょうがっ!頭領とあんたを一緒にしないでよ!」
ジュナがレイアードに殴りかかる。
しばらくどたばたした後、
「おい、あんまり暴れると頭領に覗いてるのばれちまうだろ!」
「あっ、し、しまった」
慌ててレイアードを殴るのを止めるジュナ。二人はそーっと窓から中を窺い―――、
「どうやらばれてないみたいだな」
レイアードはほっと胸を撫で下ろして、ジュナの方を見やり、
「まったく、近所迷惑な奴だな」
「ぐっ………!元はと言えばあんたが―――」
「ほら。大声出すとばれるぞ」
「ッうぐっ………!」
レイアードの指摘に悔しそうに口をへの字に曲げるジュナ。レイアードの口元に勝利の笑みが浮かぶ。
しかし、次の瞬間、その笑みは激痛による苦悶によって塗り替えられた。
ジュナの拳がレイアードの鳩尾を打ったのだ。
「お、おまえ………」
脂汗を浮かべながら、うめくレイアード。ジュナの顔に、小悪魔めいた笑みが広がる。
「近所の迷惑にならないよう、悲鳴を抑えてね」
「なっなにをする―――」
どがっばきっぐきゃっどざっ!
二分後、何とか悲鳴をあげるのを抑えたものの、完全にレイアードは意識を失っていた。
一方、室内の安楽椅子に座って目を閉じているエシュアのこめかみには………
しっかりと青筋が刻まれていた。
ちなみにレイアードとジュナの存在は彼らがエシュアの家に近づいてきた時から気付いていた。
彼らに諜報員としての技能を教え込んだのは彼自身だ。彼らの隠遁術の癖や弱点も知り抜いているし、そもそも、彼らの気配ならばどれほど僅かであっても感じ取る事が出来る。
よしんば、本当に隠れる気があるのか?と疑いたくなるほど騒いでいれば気付かないわけがない。
エシュアは少し息を吐き出すとこめかみの辺りを指で抑え、軽く揉んだ。
それからその鋭すぎるほどの眼差しを緩める事もなく、彼の足元に座り込み、床に広げた紙になにやら一心に筆を走らせている子供を見た。いや、その鋭すぎる眼差しはむしろ睨むと言った方が相応しい。
エシュアが彼と始めて会った時、既に少年は声を失っていた。
しかし少年は自分の意志を他者に知らせる能力をすべて失った訳ではなかったのだ。
牢獄の床の上に溜まった埃を集め、その上に指で字を書いたのだ。
『フロム=バグナー』と。
それこそが、サティスナ=バグナーの息子である少年の名であった。
エシュアは安楽椅子に揺られながら、フロムの書いている絵を見つめていた。
五歳児の描く絵らしく、決して写実的とは言えない。
しかし、少年の書こうとしている物は如実に現されていた。
手を繋いで笑う、父と子。
亡き父と一人になってしまった子がかつては普通にしていたであろう、そしてもう決して出来ないであろう行為。フロムはエシュアに背を向けていた。しかし、その肩が小刻みに震えているのはわかる。
声を無くしても、感情までは無くしていないのだ。フロムは五歳児にしては物分りの良い方だった。
隠すよりも、事実を教えた方が良いと判断したエシュアはフロムにすべてを話した。
自分が彼の父親を手に掛けた事も含めて。正確には手に掛けたわけではなくサティスナは自害したのだが、同じ事だ。あの時、目を離したりしなければサティスナ=バグナーを死なすような事も無かったはずなのだ。すべてを理解したわけではないだろうが、フロムは泣き叫んだりはしなかった。
いや、心の中では泣き叫んでいるのだろう。ただ声に出せないだけで。
エシュアに背を向け、肩を震わせて泣くその姿はやはり親の温もりを必要とする年代の子供だと言う事を示していた。声が出せれば。大声を出して泣き叫ぶ事が出来れば少しは楽かもしれないのに。
フロムは声を出す事が出来ない。静かな泣き声が、エシュアの聴覚を圧する。
少年の瞳から零れ落ちた雫が、彼自身の描いた絵の、しっかりと重ねられた親子の手の上に落ちた。
インクが滲み、なにがなんだかわからなくなるまで、フロムは泣き続けた。
そんなフロムにエシュアは慰めの言葉を掛けようとはしなかった。
しかし、決して彼を一人にしようともしなかった。
安楽椅子に揺られながら、ただじっと泣き続けるフロムを見つめているだけだった。
時が過ぎる内に、何時の間にか外に居た筈のレイアードやジュナの気配も無くなっていた。
自分に挨拶一つもせずに、帰ったのだろう。
或いは覗いているのがバレていないと本気で思っているのかもしれない。
エシュアが安楽椅子を揺らすと椅子の脚が床と擦れ、僅かながら音を立てる。
声を失っても聞く事は出来るフロムはその音を聞いて、己の後ろに居るエシュアの存在を感じているのだろう。
何も優しい声を掛けてくれない。しかし、見放しもせず、ただじっと見守っているその眼差しを。
暖かいと形容するにはやや厳しすぎる眼光だったが、それでもフロムにとっては暖かな物に思えた。
その視線は同情でも哀れみでも無かった、かといって彼の事を軽蔑し、敬遠するような眼差しでもなかった。ただありのままに、自分を見つめてくれている。フロムはそう感じたのだ。
救い出されてから一ヶ月半の間、傷の治療に入院していた時にも日に一度は彼はやってきた。
「調子は?」
と訊くだけで、ベッドの傍らに椅子を置いてずっと座っている。何かを考え込んで居るような事もあれば、書類を持ち込んでそれを読んでいる事もあるし、何もせずにただ窓を見つめているだけの事もある。
フロムは彼に調子を訊かれても、声に出して答える事は出来ない。ただ頷くか首を左右に振るだけ。
そして、退院した後に彼はいつもの淡々とした口調で言ったのだ。
「俺が今日からおまえの保護者だ」
と。
「嫌ならば別の生き方もある。選ぶのはおまえ自身だ」
たかが五歳児に、彼は本気でそれを選ばせようとした。そして、フロムも本気で考えた。
しかし、結論はとうの昔に出ていたのかもしれない。あの地下の監獄から救い出されたときから。
入院している間、夜の静かな闇の中、白い清潔な空間の中に埋もれながら、フロムは何度もエシュアの事を恨もうとした。
大好きだった父さんを殺した敵だ、と。
しかし、やはり憎む事は出来なかった。
何故だかはわからない。
ただ病院の看護婦が言うようにエシュアの眼光を怖いとは思わなかった。
確かに鋭いとは思うが、何処と無く親近感を覚えるような光だった。
それがどうしてなのか、それを理解するにはまだまだフロムは幼すぎ、知っている世界が狭すぎた。
ただ、エシュアと共に暮らす事を受け入れたのは、本能的に彼の事を同類だと察したからだろう。
自分と同じように、この白髪の男も大事な者を亡くしている。彼が自分に向ける鋭い眼光の中にある感情。敢えて言うならばそれは共感ではなかろうか。彼もまた、自分の事を同類だと思っている。フロムはそう考えた。ふと気付けば、既に夜になっていた。さっきまで泣いていたフロムはそのまま眠ってしまったようだ。安楽椅子から立ち上がり、エシュアは足音一つ立てることなくフロムを抱え上げた。
さすがは暁の頭領なだけあり、その動きには一切の無駄が無い。
そのままフロムをエシュアが彼のためにと整理した元物置部屋に連れて行き、一ヶ月半前まで埃を被っていたベッドに横たえると布団をその上に掛けてやり、そして、彼はそのまままた居間に戻ってきた。
闇の中だというのに、エシュアはすべてが見えているかのように遅滞無く動いている。
それはその通りで、エシュアにとってはこの程度の闇、目くらましにもならないのである。
だからと言って、明かりも点けずに一晩を過ごすと言う程根暗でもないので、彼はランプに火を灯した。再び安楽椅子に腰掛け、エシュアは己が拾われた頃の事を考えていた。
訓練は厳しかった。何度も死にかけた。何度も絶望し、数え切れぬほどに傷を負い、星の数ほどに泣いた。しかしその度にクライヴは彼に慰めの言葉を掛けてくれたりはしなかった。
彼はその緑色の瞳でエシュアを見つめ、その大きな手をエシュアの頭において、こう言うのだ。
「死ぬのか?俺は止めないぞ。その方が楽だからな。おまえが楽な方を選ぶなら、俺はそれを止めない。ただ、俺はおまえを軽蔑するぜ。所詮おまえはただの甘えん坊のガキだっただけだってな。さあ、どっちを選ぶ?安逸なる死か、苦痛の生か。腐った貴族どもに殺されたおまえの両親はおまえにどちらを望む?どちらだとしても、選ぶのはおまえ自身だ。もし死にたいのなら、俺が止めを刺してやる。痛くないよう、一瞬でこの首を吹き飛ばしてやるよ」
恐ろしい台詞であるはずなのに、自分はクライヴと始めて会った時のような恐怖感を感じはしなかった。もし自分が死を選べば、クライヴはただ頷いて、そして自分を殺すだろう。
あの日から共に暮らしてきて、エシュアにもクライヴがどのような男かわかりかけてくる頃だった。
「俺は………生きたい」
掠れる様な声だった。クライヴは或いは聞き逃したかもしれない。
しかし、クライヴならば聞いているであろうという確信がエシュアの中にはあった。
全身を苛む苦痛は半端な物じゃない。体は切実に休息を欲している。
この場合の休息とは即ち、『安逸なる死』だ。
しかし、エシュアは自分でも驚くほどの精神力でその死の誘惑に抗い、クライヴの黄金の髪と緑色の瞳を見返したのだ。
まるでクライヴから力を貰おうとするかのように。
「俺は生きたい。父さんも母さんも、それを望んでいると思う。でも、それだけじゃない。俺自身が生きたいんだ、クライヴ」
クライヴはにっこりと笑って、エシュアの白い頭をぽんと叩いた。
「そんなの簡単だろ?死ななきゃ良いんだ」
翌日からエシュアに課される訓練はさらに厳しくなった。
時には同じ暁の構成員すらが止めに入るほどに。
しかしクライヴは容赦しなかった。
今思えばあの時既に彼はエシュアを己の後継者だと心の中で据えていたのかも知れない。
そして、己の死期も悟っていたのではないだろうか?
故に、彼がエシュアに施す鍛錬は常に人間の可能性を追及するような物ばかりだったのかもしれない。
彼を諜報員としての完成形に少しでも近づけ、つまらない事で命を落とさないようにする為に。
考えている内に、夜が明けてしまった。窓から強烈な暁の光が差し込んでくる。
その光に半面を浮き上がらせ、エシュアは安楽椅子に深々と身を沈めていた。
「『我々は待つ。この国に名君と言う名の光が射すのを。我々はその者の眼となり、耳となり、少しでも早く、この国を誰もが笑って過ごせる国にするのだ。そのために、耐えろ。どんな理不尽な命令にも、表情を変えることなく、忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐える。………そして、我らは待つ。この国に訪れる暁の空を』………か」
既に何百回も唱えた文句を再び呟く。かすかな弱弱しい気配に気付いて振り向けば、そこにフロムが立っていた。昨日と同じ姿のはずだが、同じには見えなかった。
肩を震わせ、泣き腫らした目の周りは赤くなっていたが、一回り、大きくなったように見えたのだ。
エシュアは無言で、瞳を細めた。フロムもまた無言で、エシュアを見返している。
フロムの瞳は綺麗な琥珀色をしていた。父の死を乗り越えてはいないだろう。
乗り越えてもいけないのだ。エシュアの中で、生まれ故郷と家族と隣人達を失ったあの事件が未だに大きな傷として残っているように。彼が眠るたびに、夢として現れるように。フロムの中で、エシュアはいつまでも『父親を殺した男』でなければならない。ただ、少年の琥珀色の瞳には強い意志の輝きが見受けられた。乗り越えてはいない。しかし、乗り越えようと言う決意を固めたのだ。
両親の死に希望を失い、その場に踏み止まるのではなく、絶望を糧に新たな光を探す為に前進する事を選んだのだ。それは簡単な決断ではなかった。後で何度も後悔する事になるだろう。
その選択が正しかったと思える日が果たして来るのかどうかさえ、確かな事は言えない。
「おまえは俺が鍛える。誰の為でもなく、おまえ自身の為に。………おまえは強くなれ」
師であるクライヴもきっと今の自分と同じような気分で、『俺が鍛えてやる』と言ったのだろう。
琥珀色の瞳に強い意志の光を湛えたまま、フロムは頷いた。
エシュアは立ち上がり、少年の黒髪に手を置いた。師が自分にしてくれたように。
師から貰ったあの暖かさを。この少年にも伝えようと。暁の曙光に照らされながら。
今の自分がこの少年にしてやれる事はそれだけだったから。
この朝、フロムはバグナーと言う名を捨てた。だが、彼の父は彼の胸の中で生き続けるに違いない。
3 集う刺客
そこは暗い部屋だった。地下にあり、かつ明り取りの窓も存在しないからだ。
四方の壁は黒ずんだ石で組まれてあり、かなりの強度を持っていることだろう。
そして、防音効果にも優れていると見える。壁の一方には鋼鉄の扉があり、その反対側の扉には一人の男が全裸で磔にされていた。四肢を大きく開かせられ、それぞれ壁の輪鎖によって固定されている。男の体には無数の傷があった。そのどれもが、まだ真新しい、古くても数日以内に付けられた傷だった。切り傷から火傷まで、男の全身は元の肌がわからないほどに痛めつけられている。そこは地下牢だった。いや、拷問部屋と言ったほうが相応しいか。正確に言うならば、その兼用だが。
部屋の中には磔にされている男の他に、二人の男が居た。
一人は上半身裸で、隆々とした筋肉に玉のような汗を浮かべている大男。脳味噌など入ってなさそうな頭は綺麗に剃られており、青黒い血脈が浮き出ていた。醜い顔には笑みが浮かんでいる。そして、男が腕を振り上げると男の持った鞭が弧を描き、振り下ろすとしなって男の脇腹を打った。
「がはっ!」
悲鳴をあげ、激痛に顔を歪める男。脇腹の皮膚が裂け、赤い血が滴る。
もう一人は黒い神官服を着ている男で、背の低さと神官服の上からでもわかるがっちりした肉体が特徴的だった。唯一露出している顔には無数の傷がある。おそらくは全身が同じなのだろう。
ただの神官では無い、起伏に富んだ人生を容易に想像させる容貌だった。
その男が淡々とした、と言うよりはどちらかと言えば少々倦んでいるような、そんな声で拷問に掛けられている男に話し掛ける。
「そろそろ話したらどうだ?簡単な質問だろうが。おまえは何処の国の者で、誰の指示で動き、何の目的でこの聖堂を調べていた?」
男の口から、現在行われている行為とは最も乖離している筈の言葉が出た。
聖堂。
それは通常、ロデン教の地方支部を示す言葉だ。
布教の拠点であると同時に、信徒や巡礼者の心の拠り所となるべき場。
貧者の救済をし、死者を弔い、赤子に福音を授け、愛し合う男女に祝福を齎す場。
しかしそれは聖堂の表の顔に過ぎないのだ。
聖堂の地下には牢と拷問部屋があり、ロデンの神に服さぬ者に苦痛を与え、洗脳する場となっている。そして聖堂は法皇レナード=クリプセス=ロデン18世の指示を受け、暗殺をも行う。
その為の特殊訓練を積んだ者たちを聖堂は抱えていた。
それらの者は異端審問軍と呼ばれ、黒衣の神官服を着ている男はそれを束ねる地位に居た。
名をデ=ヴァレラと言う。拷問を受けている男は乞食の形で聖堂に救いを求めてきた。聖堂神官長のヤヌス=ロッホは男に暖かい食事と安らかな休息を与えた。
男は夜中、神官長室でのヤヌス=ロッホとデ=ヴァレラとの会話を盗み聞きしていた時に、飛び出してきたデ=ヴァレラ自身の手によって捕縛され、そして現在に至る。
男は数日間の拷問にも、歯を食い縛って耐えていた。
助けが来ない事など男は理解していた。そして、自分の素姓はすべて、話さぬままにあの世まで持っていこうと硬い覚悟を決めているのだ。
現在も、苦痛に顔を歪めながら、しかし男は口を開かない。
(―――よく訓練されている)
ヴァレラが半ば本気で感心していると、大男がもう一度鞭を振るった。
肉を打つ鈍い音が響き、男の絶叫が部屋の壁で跳ね返され、多重の反響を生む。
と、そこでヴァレラは片手を挙げて、さらに鞭を振るおうとした大男を制し、自分の背後にある扉へと視線を向けた。遠くから響いてくる駆け足の足音に気付いたからだ。
ヴァレラが振り向くとほぼ同時に、鋼鉄製の扉が開かれ、神官長に仕える下級神官の一人が入ってきた。下級神官は傷だらけの男と男の周りの壁や床に付着している血痕、そして部屋の中に充満している血と処理される事も無く垂れ流しにされている糞尿の混じり合ったきつい悪臭に思わず顔をしかめてから、慌ててヴァレラの前に片膝をついた。
「デ=ヴァレラ様。神官長様が御呼びでございます」
「―――わかった。すぐに行く」
「お伝えします」
下級神官は一度頭を下げた後、この空間から早く逃れたいと言う本能そのままに出て行った。
一瞬吐息を吐きかけ、寸前で踏みとどまるとヴァレラは男に背を向けて歩き出した。
拷問が終わりだと思ったのか、男の硬直していた全身が緩む。
しかし、出口で足を止めたヴァレラは最も残酷な言葉を残し、姿を消した。
「鋼鉄の処女の用意をしろ」
その言葉を聞き、大男は喜色を浮かべ、男は顔面を蒼白にした。
その言葉は男の、死を意味していた。そしてその死は最大の苦痛を伴っていた。
聖堂の裏世界から表世界へと戻ったヴァレラは聖堂関係者しか使わない隠し階段を使って、神官長室のある最上階に登った。神官長室の扉の前には僧衣と甲冑が一緒になったような戦衣を纏い、実用的とは言えない装飾過多な槍を持った者が二名侍していた。
聖堂が抱える武力。それが彼ら、聖騎士だ。通常、どれほど小さな聖堂にも一人は配属されている。
フロレシア大聖堂は三百人余りの聖騎士を抱えていた。
二人の聖騎士ははっきりとヴァレラに侮蔑の眼差しを向けた。
表の武力である彼らは神の聖性、陽を示す存在だ。
しかしヴァレラ達、異端審問軍は闇の武力であり、神の残酷性、陰を象徴する存在なのだ。
ヴァレラは男達の視線を超然とした態度で無視し、神官長室の扉を開けた。
青い法衣と司教杖を持つヤヌス=ロッホの他にもう一人、中には人が居た。
白髪に金の髭、ヴァレラとは異なる長身で、頑健な筋肉が老いて尚その全身を巌のように見せている。ロデン教の聖なる刻印が刻まれた僧衣と甲冑が合わさったような聖騎士の出で立ちをしているこの男こそ、フロレシア大聖堂聖騎士長ホルス=レンダイクだった。
「これはこれは。卿が陽の光の下に出て来られるとは珍しい」
先ほどの聖騎士と同じ、いやそれ以上の憎悪すら含んだ侮蔑の光を瞳に宿し、ホルスが言う。
彼は騎士道精神に溢れる男だ。無論、正々堂々とした一騎打ちこそ本来あるべき戦いの姿だと考えている。そんな彼からすれば、闇討ちと拷問、洗脳しか出来ない異端審問軍など軽蔑こそすれ敬意を表する相手には値しないのであろう。
ヴァレラはこの男が苦手だった。何を言われても、押し黙るしかないからだ。
ホルスの言っている事は正論だ。それを打ち負かすには力しかない。
しかし、ホルスはヴァレラより強い。
内心の舌打ちを表には出さないようにしつつも、ヴァレラはホルスから少し距離を取った場所に立った。
「レンダイク卿こそ、法皇庁から何時御戻りに?」
「たった二時間程前の事だ。神官長様に、法皇猊下からの親書を手渡すために参上したがその用向きも済んだから、わしはこれで失礼する」
「ゆっくりと長旅の疲れを癒されると宜しいでしょう」
「ふん。わしを老人扱いするなと以前にも申した事があろう?法皇庁とルーガの往復などわしにとっては長旅でもなんでもないわ」
ホルスはそう言いながら、どしどしと足音を立てて、神官長室を出て行った。
ヴァレラはヤヌス=ロッホの方を見やり、少しだけ口元を歪めた。
ヴァレラのその表情をヤヌスが嫌っているのを知っていて、彼はその笑顔を浮かべる。
「嫌がらせとしては正鵠を射ていますな」
茶化すような響きを持つヴァレラの言葉に、ヤヌスの眉間に縦皺が滲む。
「親書の内容をおまえにも知らせる為に呼んだ。おまえにも自覚を求めるためにな」
「自覚?はて、何の事やら」
「皇帝暗殺の件だ。未だ成果は出ず、異端審問軍の優秀な手駒を無為にしているだけだな」
「皇帝の直護衛が並の技量ではないのです。刺客は片っ端から殺されております。容易ではありません」
「そうだったな。おまえすら、負けた」
ヤヌスの表情に、一瞬嘲笑うかのような笑みが浮かんだ。その視線はヴァレラの両肩の辺りを彷徨っている。ヴァレラは自身の手で皇帝を暗殺しようとし、その護衛であるヴァン=ブレイスと戦い、両肩を負傷したのだ。普段の生活ならばさして不自由を感じる事は無いが、もはや剣を握る握力は無い。
「手は考えてあります」
「もはや必要ない」
ヴァレラの言葉はヤヌスによって遮られた。
ヤヌスは法衣の懐から親書を取り出し、ヴァレラの前に差し出した。
ヴァレラがそれを受け取り、中身を軽く読む。その表情が見る見るうちに曇った。
「これは………」
「法皇猊下は我々に失望なされ、聖護院の派遣をお決めになられた」
聖護院とは簡単に言えば、法皇直属の異端審問軍だ。
一人一人の力量が凄まじく、さらに彼らが持っている精霊具も皆、強大な力を持つ精霊を封じた物だ。聖護院の一人が現れるだけで、戦場は一変するとまで言われている。
親書には皇帝暗殺のため、聖護院の一人が派遣されると書かれていた。
たった六人しかいないうちの、一人だ。それは法皇庁の戦力の七分の一に限りなく近い一人だ。
互いに悪い顔色を見つめ、沈黙が神官長室に漂う。
先に立ち直ったのはヴァレラの方だったかも知れないが、先に声を出したのはヤヌスの方だった。
「とにかく、異端審問軍による皇帝暗殺はしばし中止する。良いな?」
「はっ」
「あの暗殺者、名は何と言ったか?」
「ジェルナ=クレイスロールですかな?」
「そうだ。あやつにもはや用はあるまい?」
「いずれ使えるときもあろうかと。それに皇帝の直護衛とは同じ孤児院の出。生かしておく価値はありましょう。さらに言えば、あやつを殺すにも異端審問軍の数人の犠牲を必要とするでしょう」
「ふん。………勝手にせい。ただし、聖護院の邪魔をし、我らに対する法皇猊下の心証をこれ以上悪くする事は罷りならん。良いな?猊下の信任を損なえば、我らもまた鋼鉄の処女と心中することにもなりかねん」
「心得ました」
ヴァレラがヤヌスに向かって頭を下げている頃、ルーガのいくつかある城門の一つから二人の男女が大量の旅人と共に帝都に入り込んでいた。ある意味目立つ二人組だった。
男の方はややくすんだ色の金髪を乱雑に切っただけで、まるで狼のように獰猛で野蛮な気配をその全身から放散していた。東洋の方でよく見かける着物と呼ばれる服を着ており、胸元を大きく開けている。覗いている胸は隆々と筋肉が盛り上がり、真一文字に刀傷が走っていた。腰には二本の刀を佩いている。剣ではなく、刀である。女の方は柔らかそうな銀色の髪を一つに纏めて腰まで垂らしていた。男の褐色の肌とは対照的な白鶴のような白い肌をしている。整った容貌に目の辺りに塗った紫のアイシャドーと濡れた様な唇を彩る朱の紅が実によく似合っている。こちらも男同様着物を着崩し、何処までも白く、眩暈がしそうなほどに深い胸の谷間を露出し、えもいわれぬ色気を漂わせるうなじを余人の目に晒している。女は特に武器を持っているようには見えなかったが、その肉体美こそが彼女の武器と言える。
男の名は金龍。女の名は銀龍と言う。しかし彼らは兄妹ではないし、恋人関係にも無い。この名も本名ではない。彼らを育てた者が付けた名、符号に過ぎない。見掛けからも判るとおり、二人は堅気の人間ではない。れっきとした間者である。彼らは今回のフロレシア帝国建国祭の騒ぎを利用して、最近名声を得ているこの国の皇帝ラインハルト=シーザーについて調査するよう命じられている。彼と帝国が彼らの祖国に対し、危険分子となり得るかどうかを。もっともそれだけならばわざわざ彼らが乗り込んでくる必要は無い。任務はそれだけではないのだ。それに、見掛けからもわかる通り、彼らはあまり間者の才には恵まれていない。間者にしては目立ち過ぎるだろう。
「がるるぅ………腹減って死にそうだ。なんか食い物ないか、銀?」
空腹な狼そのままな唸り声を漏らしつつ、金龍が銀龍に聞く。
「持ってたらあたいが食ってるわよ………ったく、しょうがないね。ちょっと待ってな」
銀龍はそう言うと彼女の方を鼻を伸ばしてぼうっと見つめていた若者に嫣然とした媚びる様な笑みを浮かべて近づき、男の耳元で何事かを囁くと何処となくふらふらとした若者の袖を引いて路地裏へと引き込んだ。
金龍の方が空腹に耐え兼ね、道行く人々をまるで獲物を見つめる狼のように涎を垂れ流しながら見つめているとしばらくして、路地裏から銀龍だけが現れた。
その艶やかな唇を彩る紅が少々剥げ、着物はさらに乱れていたが、銀龍は満足げに腹を擦り、
「あんまり美味くはなかったけどとりあえず腹は膨れたわ」
「ぐるるるる………」
「そんな獣みたいに唸らなくても、ちゃんと財布も取ってきたわよ。これで食い物買って食べなさい」
「おまえは?」
「私はもう喰った。先に宿屋に行ってるから。あんまり暴れないように。わかった?」
「わかった。飯、食ったら俺も宿屋に行く」
「あんまり食べ過ぎないようにね」
「おう」
金龍は快活に笑うと、まるで獣のような速さで人を縫って駆けて行った。
「とはいえ」
金龍を見送って、宿屋に向かいながら、銀龍は一人呟いた。
「宿屋で一人、男を待ってるような女じゃないのよね、あたいは」
そして周辺を見回す。彼女の餌食になりそうな男は一杯居る。
皆、銀龍の美貌とその身から醸し出される凄艶としか言い様のない色気に呑まれ、惚けてしまっている。
「しかしこれだけ選り取りみどりだと逆に食欲が減退しちゃうわね」
どうせだから美味しそうなのをと思い物色してみるとこれだけ男は居るのに、なかなか銀龍の食欲を激しく刺激するような獲物は居ない物だった。
やや欲求不満になりつつ視線を走らせるが、やはり彼女の食指が動くほどの獲物はいない。
普段ならば涎を垂らして襲い掛かりそうなレベルでも、なぜかなんとも思わない。
「まあ、今はお腹が一杯なわけだし。食べ過ぎは美容にも悪いし。諦めるか」
そんな訳で、彼女は宿屋へと向かったのだった。一方その頃、狼男金龍はと言えば。
「がるるるっ、うめえっ、これうめえっ!もっとくれ!」
飯屋でメニューをすべて制覇し、さらに追加注文していた。既に彼の前には十数人分の皿が積み重ねられているが、それでも彼の食欲を満たすには至らないのか、彼の目は血走ったままだ。
「お、お客さん、沢山食ってくれるのは良いんだが、金は大丈夫なんだろうな?」
店長がやや頬を引き攣らせながら聞く。すると狼男は懐を弄りながら、
「おうよ!ちゃんとここに財布が―――ここに、財布が………」
懐を弄っていた手を抜き、袖を探る。
「こっちに入れたんだったかな、ははは」
しかし、無い。乾いた笑い声を上げながら金龍は着物を脱ぎ、ばっさばっさと振る。
舞い上がる埃や塵。旅をしている間の旅塵だ。しかし、肝心の財布は無い。出てくるのは埃ばかり。
念のために赤褌の中も見てみるが、自分の逸物があるだけで財布は無い。
店長のこめかみに浮かぶ青筋。金龍の頬を伝わる冷や汗。
場が一瞬、凍りついた後、店長が包丁を振り上げ、金龍に襲い掛かった。
「ただ食いには死の制裁を!それがわしが料理を習った師匠オリッサ=アダプールの教えだぁぁっ!!」
「うわぁぁっ!!」
大きく跳躍して料理人の一撃を避けた金龍は野生の獣そのものの柔軟な動きで店を飛び出し、逃げ出した。その後を炎を纏った店長が追う。
「食い逃げには料理人の神が必ず鉄槌を下すぞっ!!」
店長の追撃はすぐに終わった。金龍の姿を見失ったのだ。
店長は鼻から大きく息を噴出し、怒りの捌け口を求めて、辺りを見回した。
見物人たちがざざぁっと引く。
「ふん!」
店長は猛牛の如く鼻息を噴出すと店に戻っていった。
無論、こんな目立つ二人組の噂が即日、帝都中に轟いたのは言うまでも無い。
やはり、間者には向いていないのだろう。では、彼らの本当の目的はなんなのだろう?
4 祭り前夜
建国祭前夜。十一月三十日。
ルーガの民衆の気分は高揚していた。
男達は酒場に集まり、子供達は普段ならば眠って居る時刻であろう深夜まで通りを駆け回っている。母親達はそんな子供達に眠るよう言いながら、酒場で飲んだくれている夫を迎えに行く。
そんな光景が随所に見られる中。喧騒の雑踏を縫うように歩く女の姿があった。
栗色の髪を持った美貌の騎士だった。しかし彼女が着ている鎧はフロレシア帝国軍の物ではない。
およそ四ヶ月前、スタルナス帝国とルーナ帝国の連合軍による攻撃によって脆くも滅亡してしまった南西の隣国パルディア王国の王女にして、国滅びた後、フロレシア帝国に亡命、亡命パルディア王国を建国した女王レイシア=パルディアスである。
彼女はおよそ二ヶ月前の反乱鎮圧によって多くの貴族が死亡した為に空き家が目立つようになった貴族区画を抜け、一般市民が住む区画を歩んでいた。
亡命してから四ヶ月。この巨大な永遠の都の住人の中にもレイシアの顔を覚えている者が何人かいる。
そんな者達はレイシアの姿を見つけると一様に口元をにやりとやって、声を掛けてくるのだ。
「よっ。女王様、今日もいつもの店で逢引かい?」
「あ、逢引などではない!」
レイシアは硬い口調で否定するが、誰も信じない。
いや、レッセフェルトと会って居るのは事実なのだから、当たり前なのだが。
いつもの店とはあのレイシアに親切にしてくれたマスターのやっている酒場である。
あそこは料理も美味しく、値段も安いので、レイシアはよくレッセフェルトとそこで会っていた。
名目的には女王と大使の会見であり、話し合われることは国家の行く末に拘わる大事、と言うことになっている。あの小うるさい六騎士は反対しているが、女王と大使の会見と言う口実で通しているのだ。だが、そのような堅苦しい話など滅多にしない。朱雀通りから一本裏に入るとそこは閑静な住宅街となる。さらに数回曲がる度に複雑さと煩雑さを増して行く町並みはだんだんとうらぶれて行き、住んでいる住人の質も見るからに低下して行く。帝都ルーガは大通りと中通りは碁盤目のように整然と区分けされているのだが、一区画が500メートル四方と実はかなり大雑把な分け方をされているのだ。そのため、その区画の中に無数に枝分かれした小道が秩序なく広がることとなり、通りから一歩内側に入るだけでそこは混沌とした区画になってしまうのだ。ルーガは秩序と混沌が同居した街とも言えそうである。レイシアはそんな裏路地を歩く早さを緩める事も無く進んでいく。するとその頃からレイシアの周りに数個の人影が現れる。人影はまるでレイシアの身を守るかのように前程を探ったり、後ろからの尾行がないかなどを確認する。暗がりの中で寝転がって居る酔っ払いやゴミを漁る野良犬などを問答無用で移動させたりもする。レイシアも無論、そんな人影の動きには気づいているが、まったく気にした様子も無い。やがて店の軒先に吊るされた提灯が見えてくると、レイシアの頬は誰が見てもわかるぐらいに緩んだ。と、それまで付かず離れずの距離を保っていた人影がさーっと物陰から現れる。
それはかつてあの店でレイシアに絡んできた男達の、最初に声を掛けてきた男だった。
男はレイシアの前に軽く頭を下げ、
「異常ありませんでしたぜ、姐さん」
「―――だから、姐さんと呼ぶなといつも言ってるだろうが」
呆れ半分、諦め半分でレイシアが言うが、男はさらに頭を下げて、
「へい、姐さん!」
そう。レッセフェルトによって散々に叩き伏せられた後、彼らは何を血迷ったか、
『あんな強い兄さんをまるで飼い犬の如く扱うなんて、あの人はきっと名のある極道に違いねえ。野郎共、今日から俺達は今までの悪事から綺麗さっぱり足を洗って、姐さんの手下になるぞ!』
と勝手に決め、そして亡命パルディア王国の志願兵募集所の門を叩いたと言う訳である。
つまりこの者ども、かつてのチンピラではなく、いまやれっきとした亡命パルディア王国軍兵なのである。最も、本人達は半ば本気で極道の手下になったと思って居る節があるのだが。
二ヶ月前の貴族反乱鎮圧の前哨戦となった城砦攻防戦において、レイシア=パルディアス率いるパルディア騎士団は大きな戦果を挙げ、その武勇はフロレシア帝国中に鳴り響き、皇帝から与えられ、彼女達が『宮殿』と呼んでいる元伯爵の屋敷の敷地内に設置されていた志願兵募集所には一日に数十人、時には百人を超すほどの志願者が集い、今やパルディア王国軍は騎士団二百、歩兵連隊一個を持つほどにまで戦力を増大させていた。
レイシアは諦めの色を濃くしつつ、足は止めずに料理屋に向かいながら、
「ジード=ブリード。今のおまえの役職は?」
「はっ。亡命パルディア王国軍歩兵連隊指揮官であります!女王陛下」
赤ら顔のこの男、ジード=ブリードこそ、新設の歩兵連隊の初代連隊長なのであったりする。
「連隊長が昔のチンピラ仲間を集めて、私の護衛をしろなどと誰が命じた?」
「自分の独断であります!何故なら―――」
「何故なら?」
それまで真剣な顔をしていたジードの顔が急に緩む。
その笑みを見て、レイシアが身を少しだけ硬直させる。
「何故なら、女王陛下がここで逢引していると言う事実を知っているのは我々だけであるからであります!」
(―――いや、もう結構知られてるけど………)
確かに一番良く知っているのはこのジードだろう。
なにしろあの店は元々彼らの馴染みの店であり、そしてそれは今も変わらないのだから。
「―――わかった。護衛は続けてもらう。だからこの事はあの連中には言うな?良いな?」
「わざわざ釘を刺さなくても言いませんぜ、姐さん。あの六騎士は俺達の事をチンピラだと思って軽視しやがるから、あいつらも知らない姐さんを俺達は知ってると思うだけで胸がすかっとしますぜ」
「だから、姐さんと呼ぶのは止めろと―――」
「へい、姐さん!」
「おまえ、わざとやってるな?」
「へへへ」
ジードは鼻の頭を指で擦り、その視線をいつの間にかほんの数歩の距離に迫っていた料理屋の看板に向ける。そこにはこう書かれて居た。
『某国女王御用達、味と価格に自信あり。ルイの小屋』
あのマスターの名はルイと言うのだ。
「それじゃ、姐さん、楽しい夜を」
「馬鹿」
「へへっ」
軽い笑い声を残し、ジードが薄暗い路地裏に姿を消す。
レイシアが彼らと会った時、彼らはどんな悪事にでも手を染めるチンピラだった。
しかし、彼らは元々からチンピラだったわけではなかったのだ。
これもルイに聞いた話なのだが、ジードを中心とするあの四人は元々、フロレシア帝国軍の第六軍に所属していたのだと言う。そこでジードは小隊長をしており、残りの三人はその頃からの部下なのだ。彼らの部隊の上官である連隊長は地方貴族の次男坊だった。人間の死を夕食時の座興程度にしか認識していない腐敗貴族であったその若い青年貴族はジード達にある村の村人全員の抹殺を命じた。
理由はスタルナス帝国への内通容疑。無論、村人達はそんな罪など犯しては居ないし、十分な調査が行われたわけでもない。ただ単なる青年貴族の気まぐれに過ぎない。
ジードは激しい反発を覚えた。しかし、命令は命令だ。従わなければならない。
「―――それで、ジードは殺したの?」
その時、レイシアはそう問うた。
既にジード達は彼女の部下となっており、兵の訓練に目覚しい効果を挙げた事から、連隊長に任ずるかどうか迷って居た時期だ。ルイは口を覆う白髭をもごもごと蠢かせた後、言った。
「命令を遂行していられれば、あいつらも私もここには居ませんよ」
「―――私も?」
「昔の話です。昔の、ね。結局、彼らは軍を脱走し、その村は他の小隊の手によって皆殺しにされたそうです。きっとジードも心の中で自分の事を責めてますよ。『なんで、その貴族を殺してしまわなかったんだ』ってね」
それっきり、ルイはその事について話そうとはしなかった。
翌日、レイシアはジードを連隊長に任じた。彼の子分達―――実は二十人居る―――も、それぞれの才に合わせて上は大隊長から下は一般兵まで振り分けられて居る。
扉を開け、中に入る。最初に比べれば慣れたとはいえ、入った瞬間には一瞬すぅっと意識が遠退きかける。場末の酒場の饐えたような臭いと酒の臭い、そして荒くれ男どもの汗の臭いが渾然一体となった香りが鼻腔から入り、脳髄を直撃する。崩れそうになる膝に力を入れ、耐える。眩暈感はすぐに遠退き、いつもの確固とした意思が蘇る。それから始めて、彼女は部屋の中を見回し、カウンター席に蜂蜜色の髪の青年が座っていることに気づいた。そちらへと歩いて行く。彼女を知っている者は彼女の存在に気づくとからかうような声を投げかけてくる。しかし、そこに負の感情は無く、レイシアとしても快い。
少々、煩いが。
「レッセ、待たせた」
軽く肩を叩きつつ、隣に座る。
「―――おう」
「って、もう酔ってるの?」
レッセフェルトの前には既に数杯分の空きグラスが転がっていた。
「別に良いだろ、俺が酔ったって」
「珍しく荒れてるわね」
いつもはへらへらしているレッセのいつに無い様子に、レイシアはやや眉根を寄せる。
視線をルイに向けるとルイは白髭を蠢かせたが、レッセが睨みつけると押し黙った。
場に一瞬、不穏な空気が滲み出る。
「これが原因ね」
レイシアはレッセの前に投げ出されていた書類を取り合げた。
「辞令」
「読むなよ」
「何でよ。レッセフェルト=イングラム、亡命パルディア王国大使の任を解き、第四軍第十六歩兵師団長に任ず。ニヘンベルグ砦守備隊長を兼任とす………古巣に戻るわけじゃない。階級的には大佐から少将に出世だけれど。どうしてこれで自棄酒になるのよ」
「………。おっさん、もう一杯」
「畏まりました」
「貴方、もしかして私と離れるのが嫌なの?」
「なっ………そんな訳―――」
慌てて否定しようと顔をあげたレッセフェルトはそこにレイシアの瞳を見つけ、息と一緒に言葉も飲み込んだ。
「ない?」
「………。ある訳ないだろ。なんで俺が」
「あらそう?だったら何でそんなに落ち込んでるわけ?」
「お、落ち込んでる訳じゃねぇよ。これは祝い酒だ」
「祝い酒。祝い酒ねえ」
レイシアは含みのある眼差しでレッセの前に置かれているグラスを見る。
「お待たせいたしました」
ちょうどルイが琥珀色の酒を注いだグラスを置く。レッセはその酒をぐいっと煽り、
「まあ、安心してろ。俺がニヘンベルグに戻ったらパルディアに陣取ってるオルティア=フリンシュとミト=ヴァレンツェを追い払ってやる。そうすりゃおまえは晴れてパルディア王国の女王だ」
無理やり作ったと丸わかりな笑顔で言う。レイシアはやや複雑な面持ちで彼の顔を見やり、
「そう。頑張ってね」
「ああ」
「ルイ。私にも同じお酒を」
「これは強いですよ」
「あら。私はお酒が結構得意なのよ?少なくとも私の隣でだらしなく酔い潰れてる人よりは」
「なんだって?レイシア、おまえが俺より酒が強いだって?そりゃ、聞き捨てならないな」
むくりと身を起こすレッセフェルト。その顔は酒のせいで赤く染まり、目も焦点が合って居ない。
「なら貴方にとってはこのぐらいの酒はどうって事ないのかしら?」
レッセの目の前に転がっているグラスを指差すレイシア。
レッセは鼻息荒く頷き、
「俺に取っちゃこのぐらいの酒、水みたいなもんだ」
「なら私と飲み比べしましょう?」
「何?………って、俺はこれだけ飲んでるんだぞ?」
「あらぁ?………貴方にとってはこのぐらいのお酒、お水と同じなんじゃなかったのかしら?それとも貴方は水を飲んで酔っ払うの?」
「うぐっ………」
レイシアの弁舌に素面でも勝てないのに、酔っている状態では勝てる筈もなかった。
レッセは反論しようといつもの数分の一程度にしか回らない頭を必死に捻った。
しかし、有効な反撃方法は一つも思い浮かばない。そこへ、レイシアのさらなる追撃が追い縋る。
「それとも止めておく?私に負けるのが怖い?私の不戦勝で良いのかしら?」
「じょ、冗談じゃない。やってやろうじゃねぇかっ!誰が王族の箱入り娘に負けるか」
「やってもらおうじゃないの。精々、頑張る事ね」
レッセは完全にレイシアの術中に陥っていた。しかし、当人にその自覚は無い。
「それじゃ、一斉の………せいっ!」
「うりゃ!」
レイシアの掛け声に合わせて、二人は同時に酒を胃に流し込んだ。
「っ………」
予想以上に強烈なアルコールに胃が焼かれるようだ。レイシアの端麗な顔が歪む。
「どうした、やっぱり酒弱いんじゃないか?」
酒臭い息を吐きつつ、レッセが勝ち誇ったように笑う。
「まだまだよ、ルイ、もう一杯!」
「はいはい」
そして、二人の前に新たなグラスが置かれ、そして一気に飲み干す。
それがさらに四度、五度と繰り返される。常人ならば一杯でも充分、少々酒に強い人間でも三杯は飲めないという程に強力な酒なのだが、二人は既に六杯飲んでいる。
レッセはそれ以前に飲んで居たのも合わせれば十杯だ。
実はレイシアが飲んでいるのは最初の一杯を除き、水割りなのだ。最初の一杯を飲んだときのレイシアの表情を見て、ルイが二杯目から水割りにしてくれたのだ。
酒に酔って視界がぐるぐる回っているようなレッセには既に水割りとロックの色の差を見破ることすら出来なかった。彼らの周りには店に居た男達が集まり、わんやわんやと騒いで居た。曰く。
「俺はレイシアの嬢ちゃんに賭けるぜ」
「俺もだ」「俺もだぜ」「おらもだ」
「って、みんな女王陛下なのかよ、じゃあ俺はこっちの蜂蜜色の髪の兄ちゃんだ。勝てよ、兄ちゃん、勝てば大穴だ!」
そんな騒ぎの元、両者の前に七杯目のグラスが置かれる。
「止めるなら今の内だぜ」
「そっちこそ」
二人は一瞬、不敵な視線を交わした後、同時にグラスを掴み、飲み干した。
同時にグラスがカウンターに叩きつけられ、金属質の音が響く。
見守る人々が唾を飲み、息を止める中、誰かが咳をした。
まるでその咳が合図だったかのように、二人同時にカウンターに突っ伏してしまった。
勝負は引き分けと相成った。
「全く。若いな」
ルイはもごもごと白髭を蠢かせながら笑った。
「昔のマスターを思い出すなぁ。中隊長だった頃とか」
昔馴染みの客がからかうように言ってくる。ルイは少しだけ顔を歪めて、肩を竦めた。
「からかわないでくれ。赤面してしまう」
1 安息
皇帝派と貴族連盟派による対立が貴族連盟派の反乱、そして首魁ラマーン=オルド侯爵の処刑と言う形で終結してからおよそ一ヶ月半が経過した帝国暦三三二年十一月二十四日。
季節は移り変わり、本格的な冬を迎えようとしていた。フロレシア帝国帝都ルーガはこの時期、一年でもっとも賑わう。何故ならば建国祭があるからだ。建国王として敬われる覇皇フェルモア=シーザーがフロレシア帝国を建国したこの日は彼がラスカーナ大陸統一の覇道を驀進するその第一歩を記したと言える日なのだ。この建国祭は一カ月以上前から準備が始められ、約半月に亘って盛大に行われる。
ラスカーナ大陸中はおろか世界中から商人や旅人が集うのだ。先帝の時代には露店を開くにも商人は国に対して莫大な税金を払わなければならなかった。商売の自由が無かったのだ。
しかし、今上皇帝であるラインハルト=シーザーは財務尚書のウェンヒルグ=ローレンス男爵の意見を受け入れ、店を開くための税金を廃し、さらに売り上げに対する税金も先帝時代の三十%から十%に下げた。この為、大陸中から数千人もの商人が集まり、それぞれが多彩な露店を開いたため、帝都ルーガの中心通りである朱雀通りだけに収まらず、周辺の街道にまで露店が立ち並ぶと言う活況振りを呈する事となったのである。この祭りを見物するため、大陸中から何千万人もの観光客が集まってくると予想されていた。中には大陸と海を挟んで交易している海洋国家フェニキア自由都市連合からの旅人や商人も居る事だろう。彼らは世界中を股に掛けて活躍している商人達なのだ。国中が浮き立つような明るい雰囲気に包まれていた。皇帝の住まうルーガ城に隣接した練兵場に、皇帝ラインハルト=シーザーの姿はあった。陽の光を受けて豪奢な黄金の輝きを放つ金色の髪、白磁の如き滑らかな肌、女のような華奢な体付き。その体は上等な絹の服に包まれ、腰には豪華な装飾の施された鞘に収められた皇族に代々伝わる聖剣《覇皇剣-サナトゥス》を佩いている。彼と対峙しているのは黒髪とエメラルドグリーンの瞳を持つ剣士だった。小柄ながらも、鋼の如く鍛え上げられた体を、黒を基調としたフロレシア帝国軍の軍服に包んでいる。腰には細身の剣を佩いている。両腕を組んで、剣を構えている皇帝を見つめている。彼の名はヴァン=ブレイス。皇帝の直護衛を務める剣士で、階級は少尉だ。練兵場にはもう一人、赤髪の将軍の姿があった。皇帝の幼馴染でもある第一軍第一歩兵師団長のアレク=ハーベスト少将だ。
「ラインが剣の修行とはこれまた珍しい。………今宵は稲光を伴う豪雨かもな」
からかうような口調で、空を見上げるアレク。
「まあ、少しぐらい僕も鍛えたくなってね。最近はどうにも体が鈍ってるみたいで」
皇帝はかすかに笑みを浮かべた。彼が構えている剣は建国王が携えし聖剣、《覇皇剣-サナトゥス》。
陽光の下にその血の色を想わせる真紅の剣身が鈍く輝く。
「確かにそれだけの名剣を持っているんだからな、少しぐらい剣が出来なければそれこそ宝の持ち腐れの猫に小判の豚に真珠、もう一つおまけに馬の耳に念仏って奴だ」
「良くわからないけど、とりあえずすごい馬鹿にされたと言う事はわかるよ」
「それは良かった。にしても、ライン。建国祭の準備は良いのか?」
「うん。とりあえず、今の所は暇。まあ、祭りの最初に神事を行わなくちゃならないみたいだけど。祭り自体の準備は父さんやウェンヒルグ男爵、それにカドガン宮内尚書達が頑張ってくれてるよ」
彼の養父であるオルンヘル=クリケット伯爵は現在宰相として帝国府のボスとなっている。今までは強大な力を有していた貴族連盟に事あるごとに妨害されていたが、一ヶ月半前の反乱によって反皇帝派の貴族が一掃され、貴族連盟が親皇帝派の貴族の元で帝国府の政策に協力するための連絡機関と化してからは彼の率いる帝国府はまるで生まれ変わったかのようにフル回転していたのだ。そんな辣腕の宰相の下で国家財政全般を司っているのが、財務尚書のウェンヒルグ=ローレンス男爵だ。肥満体で眼鏡を掛け、常に汗を拭っているような印象のある彼だがその計算能力と管理能力はかなり高く、彼が財務尚書として宰相の元、伸び伸びと仕事が出来るようになってからは先帝時代のただ強圧的に搾り取るだけの徴税方式が改善されて、無駄が省かれ、むしろ民を救うような徴税方式となった為、一時的には税収が落ち込む事となったが、長期的な観点からすれば、度々税に反発する農民反乱が起き、その度に大規模な鎮圧軍を編成し、鎮圧しなければならなかった先帝時代に比べてその軍事費用が削減できるため、大幅な増収となる事が予想されていた。さらに皇帝自身の提案により、宝物庫の財宝を売り、その売上金を貧民層に分配し、彼らの飢餓を救ったため、貧民層の皇帝支持はいまや不動の地位を築き、臣民の協力を得る土壌となっていた。そして、今回の建国祭にあわせて帝都及びその他の主要都市での店舗開店税を完全に撤廃し、さらに野心はあれども開店資金が足りないと言う者達の為に運用資金の一部を低担保で融資する政府出資の金融機関ゴールデン=シープを帝都ルーガに設けた為、多くの者達が店舗を開き、現在フロレシア帝国内では膨大な物量の流れが生まれようとしていた。男爵はこのゴールデン=シープの総裁をも兼ねている。ウェンヒルグは現在帝国が抱えている膨大な負債を向こう五年間で完済すると息巻いていた。無論、そのような事先帝時代はおろか一ヶ月半前でさえ実現の可能性は無かったであろう。このような計画が実現の可能性を踏まえた上で実行に移される様になったのはひとえに貴族連盟の力が大きく削がれ、帝国府の下級役人に、貴族の鼻息を伺う事無く有能な人間を登用することが出来るようになった事が大きい。それまではどれほど有能でも、身分が低いと言うだけで出世できなかった平民出の多くの人材が登用され、帝国府や帝国議会、さらには軍部においても人事が一新されたのだ。宮内尚書となったウイリアム=デ=カドガン子爵は帝国府においては古株であったが、先帝時代に左遷されていたのを、貴族連盟の弱化に伴い、オルンヘルが呼び戻した男である。とかく悪い評判の多い男ではあるが、儀礼典範に通じたその知識の豊富さは貴重な物だった。フロレシア帝国は建国三百余年において、新興国のような活気に満ちていた。民草の間には気の早い事に、ラインハルトの事を『フロレシア帝国中興の祖』と評価している者も居るほどであるが、現在の所、それに否定的な人間も多い。『一気にさまざまな試みを行いすぎ、結局はすべてが中途半端に終わるのではないか』と危惧する人々や、帝国の古い伝統が破壊されることを恐れるような保守層である。ただ、そのような意見は現在の帝都においては少数意見に過ぎなくなっているのが現状だ。いすれにせよ、彼が英雄となるか否かはすべて、いずれ時が証明してくれるであろう。
「そんな事より、今は剣の稽古だよ、ヴァン。アレクもあまり外野で騒がないでよ」
「おっとこれは失礼」
「行くよ、ヴァン」
「―――はい」
いつもと変わらぬ淡々とした口ぶりで答えるヴァン。しかし、剣を抜こうとはしない。
ラインは怪訝そうな顔付きでそんなヴァンを見やり、訊く。
「どうして剣を抜かないんだい?」
「―――その必要がありませんから」
淡々とした声音で答えるヴァン。ラインは一瞬意味がわからず、きょとんとする。
「あははっ!こりゃ、良い!ライン、思い切り馬鹿にされてるぞ!」
アレクに笑われ、ラインもようやく意味を察する。
「絶対に打ち込んでやる!………どりゃぁぁぁぁっ!!」
気合の声を上げ、ラインハルトは突進した。
雄叫びを上げながら、ヴァンの肩を打とうと剣を振り下ろす。
が。剣先は虚しく空を切り―――。
「―――遅いです」
いつの間にやら背後に回り込んでいたヴァンが哀れむような口調で言ってくる。
いや、口調自体はいつも通りなのだが、ラインにはそう感じられたのだ。
たたらを踏んで何とか転ばずに済んだラインは踵を返すと同時に跳躍し、横薙ぎの一撃を放った。
しかしヴァンはその一撃を軽く上半身を仰け反らしただけで回避し、空中で身動きの取れないラインハルトと交錯するように前に一歩出たかと思いきや、ちょうど跳躍の最高点にあったラインハルトの足首を掴み―――
「え!?って、うわっ!」
そのまま地面に叩きつけた。
「い、痛っ………!」
腰を打ち付けて顔を歪めるラインの鼻面に、ヴァンが始めて抜いた剣を突き付ける。
「…………」
「勝負有りって奴だな」
アレクが徐に宣告を告げてくる。ヴァンが剣を鞘に収め、ラインは自力で立ち上がった。
「やっぱりヴァンには適わないなぁ」
「子供が独力で学んでるような剣に負けるようじゃ、直護衛なんか勤まらないだろ。な、ヴァン」
アレクが笑いながら言う。
「…………」
ヴァンは沈黙したまま、肯定もしなければ、否定もしない。皇帝はむすっとした表情でアレクを睨み、
「子供って言ったって、アレクは僕と二歳しか離れて無いじゃないか」
だが、アレクは手をひらひら振って、おまけに首まで左右に振る。
「それは違うな、ライン。そりゃ五十代、六十代における二歳違いってのにさしたる意味は無いだろうが、十代での二歳違いってのは大きな差だぜ」
「だったら、今度はアレクがヴァンと戦ってよ」
「望むところだ。良いだろ、ヴァン?おまえもたまには骨のある奴と遣り合いたいんじゃないか?」
獣のような笑みを浮かべるアレクに、ヴァンは無言で対峙した。ヴァンも、今度は剣を抜く。
ラインは二人から少し距離を取って、観戦の構えを取る。アレクが剣を抜いた。
ギザギザの付いた、赤い刃を持つ剣。
「あ。アレク、それって、ハーン小父さんの―――」
「ああ。貰ったんだ。《炎の剣-ハリエストロ》。『俺よりもうお前の方が前線に出る機会が多いだろうからな』って」
アレクが精霊具を掲げて見せる。彼の父親であるハーン=ハーベスト元帥は軍令部総長としてフロレシア帝国軍全体を纏め上げているのだ。アレクは一見無造作とも思える構えを取り、唇を舌で湿らせた。
「そう言うおまえの剣もなかなかの業物だろう」
「―――はい。朱汐と言う銘です」
「―――楽しみだな。良し。行くぞ、ヴァン」
「―――いつでも」
それが、試合の開始を告げる鐘の代わりとなった。両者はほぼ同時に地を蹴り、駆け出した。
「速い!」
思わず唸るライン。以前、一度二人が試合をするのを見た事がある。あの時よりも、ライン自身の目が成長しているのか、二人の戦いの桁外れさがよりよくわかった。単純に言ってしまえば互いに攻撃と防御を、その間に目まぐるしい体位の入れ替えを交えながら繰り返していると言うに過ぎない。だが、その速度が生半可な物ではなかった。目で追うだけでもやっとなのだ。
(僕の剣を受けるのに、ヴァンが剣を抜かなかったわけだ………)
二人の剣捌きに比べれば、彼の剣など児戯ですらない。ヴァンにとってすれば動いているようにすら見えないのかもしれない。二人の速度はそれほどまでに速かった。速いだけでなく、威力もあった。両者の剣がぶつかり合うたびに甲高い音が鳴り響き、火花が散る。なまくら剣だったらすぐに折れてしまうだろう。両者の携える剣が双方共に業物だからこそだ。だが、それでも、優勢なのはヴァンの方らしかった。アレクの表情には徐々に焦りの色が見え始めているのに対し、ヴァンの表情には何の変化もない。
「―――そろそろ」
「何ッ………!馬鹿な!」
ヴァンが呟いた次の瞬間、その速度がさらに加速した。思わずアレクが絶句するほどに。
《《炎の剣-ハリエストロ》が弾き飛ばされ、足を引っ掛けられて転ばされ、鼻先に剣が突き付けられる。
「…………」
「おいおい、冗談だろ。………あれで、まだ本気じゃなかったってのか?」
アレクが呆れたように呟く。ヴァンは剣を引いて鞘に収め、一歩退いて礼をした。汗だくのアレクに対し、ヴァンは汗一つ掻いた様子もない。アレクが弱いのではない。強すぎるのだ。ヴァン=ブレイスと言うこの剣士が。アレクは立ち上がり、《炎の剣-ハリエストロ》を鞘に収めた。
「こいつが直護衛だったら、ラインの命は安泰だな………」
賛嘆の意を込めた言葉。しかし、ヴァンは首を左右に振り、
「―――私よりも強い者も居ます」
ヴァンは謙遜を口にするような男ではない。それはラインもアレクも知っている。
それだけに驚いた。
「おまえよりも、強い奴?………人間か、そりゃ?」
「それって、あの暗殺者の事?」
以前、ディハン=ギルトに招待された昼食会の折に襲撃して来たジェルナ=クレイスロールと言う名の暗殺者の事だ。ヴァンは微かに首を横に振った。
「―――彼女になら、勝てます」
ラインとアレクは互いの顔を見合わせた。アレクが軽く肩を竦ませる。
「まあ、ライン。たまに手解きを受けな。それなりの技量をおまえも持っていた方がヴァンとしても護り易いだろうし。それにその名剣の使い手が盆暗では剣でも剣聖と謳われた建国王に比肩された時にみじめだぜ」
「うん。なんとか頑張って見るよ。まあ、剣聖レベルに達する事が出来るとは思えないけど」
「―――素質はあります」
「だとさ。鍛えて貰え」
「うん。よろしく頼むよ、ヴァン」
「―――はい」
「さて、俺は司令部にでも戻るかな」
「じゃあね、アレク」
「おう」
ラインハルトは泥を払い、アレクと別れて歩き出した。ラインハルトは練兵場を出て、すぐに執務室には戻らずに庭園を歩く事にした。特に理由があるわけではないが、祭りの準備や剣の稽古などで少し気分が高揚していて、とてもではないが村同士の水問題などの書類仕事に埋もれる気になれなかったのかもしれない。庭園はしっかりと手入れされていた。冬とは言え、まだ雪も降っておらず、冬独特の花が咲き誇っている。春や夏に比べ、この季節の花は何処と無く質素ながら清楚な印象の花が多いように思える。と、ラインハルトが足を止めた。その視線は花ではなく、華に止まっていた。花に水をやっているメイド服姿の女性。月光の如く輝く銀色の髪に、光を当てられた琥珀のような黄金の瞳。
ラインハルトの幼馴染でもあるシエナ=クリケットだ。メイド服を着ているがこれは彼女の趣味であって、彼女はれっきとした伯爵令嬢である。その苗字からもわかるとおり、彼女の父親は宰相のオルンヘル=クリケット伯爵だ。もっとも彼女は母親似だが。と、そのシエナがぼうっと立ち尽くしているラインハルトに気付いた。黄金の瞳が一瞬驚きに大きく見開かれた後、まだ少女のあどけなさが残る口元に可憐な微笑を浮かべる。ラインは二歳年長のこの幼馴染がこの庭園の中でもっとも美しいとさえ思った。
「―――どうしたの、ライン?こんな所に………って、泥だらけじゃない!」
彼がシエナの笑顔に見蕩れている内に、既にシエナは笑みを引っ込め、世話好きな年長者の心配そうな表情に変化していた。ラインの服に付いた泥に気付き、眉間にやや皺を寄せている。
「あ、ああ、これ?今まで練兵場で剣を習ってたんだ。ヴァンに」
「そう、なら良いけど。私はてっきり―――あ」
シエナが何かを言いかけ、慌てて口を抑える。
「てっきり………僕が苛められていたとでも思った?そこまで子供じゃないよ、僕は」
「ち、違うわよ、私はそんな失礼な事考えてないわよ」
「じゃあ、なんだよ」
「私はただ、水溜りを飛び越えようとして失敗したのかと」
「変な設定作らないでよ。大体、苛められるよりも子供っぽいじゃないか、それ」
もっとも跳躍した所を叩きつけられたのだから………いや、やはり大分違うか。
一瞬でもシエナに見蕩れてしまったことに激しい後悔を覚えながらも、ラインハルトはシエナの水遣りを手伝い、満ち足りた気分を味わうのであった。
「にしてもさ」
水遣りを終えて、執務室に戻ろうと尖塔の中の回廊を歩きながら、ふとラインハルトは隣を歩くシエナを見た。
「なによ」
シエナが聞き返してくる。ラインハルトはその姿をしげしげと見つめてから、
「―――なんで………メイド服なの?」
途端、何故か頬を朱色に染めるシエナ。
「なっ………そんなの、私の勝手でしょ!」
そして、回廊に国家で一番畏怖されるべき人物が平手打ちを喰らう音が響いた。
人々の失笑を買ったのは言うまでもない。
2 暁の曙光
帝都ルーガの一角。そこは住宅街だった。
貴族が住んでいる区画ほど豪奢ではなく。
貧民層が住んでいる区画ほど乱雑でもない。
中流階級とも呼ばれる一般市民が居を構える区画の一つだ。
その区画の、表通りからはやや奥まった位置にある民家の窓から中を、二人組みの男女が覗いていた。
男の方は金髪たれ目、耳のイヤリングが特徴的な、真面目な顔をすれば二枚目なのだろうが、だらけた顔をしているので三枚目にしか見えないというある意味ちょっと惜しい男。
女の方は肩で切り揃えた黒髪に猫科の動物を連想させる大き目の瞳、そしてしなやかそうな四肢を持っている気の強そうな女。
「―――これは天変地異か?」
男の方が、畏れるような口調で呟く。
「―――穢土転生かしら?」
女が少しだけ体を震わせて、呟く。意味はちぐはぐでわかりにくいのだが、彼らはどうやら驚愕しているらしい。目の前で展開されている光景が信じられないと言う様子だった。
では彼らは一体何を見ているというのか?彼らが覗いている部屋の中には二人の男が居た。
一人は三十ほどの、このラスカーナ大陸では珍しい白髪と異様なほどに鋭い眼差しをした男。
こちらは問題ない。
二人の男女にとってみれば見慣れた彼らの上司、皇帝直属の諜報機関暁の頭領エシュアに違いない。問題なのは安楽椅子に腰掛けているエシュアではなく、彼の足元に座り込んでいる子供の方にある。
エシュアとは対照的に黒い髪をした子供である。
五歳ぐらい、であろうか。
痛々しい事に喉に切り傷がある。無論、既に塞がっているが、子供の喉の傷は正確に彼の声帯を裂いていた。つまり、もう二度と彼は発声する事が出来ない。
部屋を覗いている二人も事情は知っている。
事の発端は一ヶ月半前の、貴族連盟による反乱の折。
ルーナ帝国から帰還したエシュア達は皇帝軍の中に紛れ込んでいる間者の洗い出しを行っていた。
レイアードとジュナが兵と下士官を担当し、エシュアが将校を担当したのだが。
エシュアが捕らえた間者の一人、サティスナ=バグナー大佐はなんと貴族連盟側に息子を人質に取られていたのだ。『協力しなければ息子を殺す。協力すれば、無傷で返す』と脅迫され、仕方なく彼は皇帝側の情報を貴族連盟側に密告した。
バグナーは敬愛する上官であるアレク=ハーベスト少将を裏切ってしまった事を悔い、捕縛されたのを契機にエシュアにすべてを話し、そして息子の救出を依頼する。
その後、バグナーはエシュアが一瞬目を離した隙に自ら舌を噛み切って死んでしまった。
息子をエシュアに託して。エシュアはアルンヘルが貴族を抹殺している間に地下牢に潜入し、子供を救い出してきたと言う経緯なのである。しかし、意外なのはこれから先だ。レイアードやジュナはてっきりエシュアは子供をそれなりの機関に引き渡すものだとばかり思っていた。
しかし、エシュアは皇帝に間者サティスナ=バグナーの事は報告したものの、少年に関する事柄は一切報告せず、少年を自分で引き取ってしまったのだ。
そして一ヶ月半。ようやく報告書と始末書の山との格闘を終えたレイアードがジュナを誘って様子を窺いに来たと言う訳である。
「実はサティスナ云々の話は全部嘘で、頭領の隠し子だったりして」
「それ、本気で言ってる?」
レイアードの言葉に、途端にジュナの表情が険しくなる。
それに気圧されるかと思いきや、レイアードはさらに言葉を継いで、
「いや、ありえるかもしれないぞ。バグナーはもしかしたら本当に自分の子だと思っていたかもしれないが、実はバグナー夫人は頭領の情婦だったかもしれん」
「そんなのありえないでしょうがっ!頭領とあんたを一緒にしないでよ!」
ジュナがレイアードに殴りかかる。
しばらくどたばたした後、
「おい、あんまり暴れると頭領に覗いてるのばれちまうだろ!」
「あっ、し、しまった」
慌ててレイアードを殴るのを止めるジュナ。二人はそーっと窓から中を窺い―――、
「どうやらばれてないみたいだな」
レイアードはほっと胸を撫で下ろして、ジュナの方を見やり、
「まったく、近所迷惑な奴だな」
「ぐっ………!元はと言えばあんたが―――」
「ほら。大声出すとばれるぞ」
「ッうぐっ………!」
レイアードの指摘に悔しそうに口をへの字に曲げるジュナ。レイアードの口元に勝利の笑みが浮かぶ。
しかし、次の瞬間、その笑みは激痛による苦悶によって塗り替えられた。
ジュナの拳がレイアードの鳩尾を打ったのだ。
「お、おまえ………」
脂汗を浮かべながら、うめくレイアード。ジュナの顔に、小悪魔めいた笑みが広がる。
「近所の迷惑にならないよう、悲鳴を抑えてね」
「なっなにをする―――」
どがっばきっぐきゃっどざっ!
二分後、何とか悲鳴をあげるのを抑えたものの、完全にレイアードは意識を失っていた。
一方、室内の安楽椅子に座って目を閉じているエシュアのこめかみには………
しっかりと青筋が刻まれていた。
ちなみにレイアードとジュナの存在は彼らがエシュアの家に近づいてきた時から気付いていた。
彼らに諜報員としての技能を教え込んだのは彼自身だ。彼らの隠遁術の癖や弱点も知り抜いているし、そもそも、彼らの気配ならばどれほど僅かであっても感じ取る事が出来る。
よしんば、本当に隠れる気があるのか?と疑いたくなるほど騒いでいれば気付かないわけがない。
エシュアは少し息を吐き出すとこめかみの辺りを指で抑え、軽く揉んだ。
それからその鋭すぎるほどの眼差しを緩める事もなく、彼の足元に座り込み、床に広げた紙になにやら一心に筆を走らせている子供を見た。いや、その鋭すぎる眼差しはむしろ睨むと言った方が相応しい。
エシュアが彼と始めて会った時、既に少年は声を失っていた。
しかし少年は自分の意志を他者に知らせる能力をすべて失った訳ではなかったのだ。
牢獄の床の上に溜まった埃を集め、その上に指で字を書いたのだ。
『フロム=バグナー』と。
それこそが、サティスナ=バグナーの息子である少年の名であった。
エシュアは安楽椅子に揺られながら、フロムの書いている絵を見つめていた。
五歳児の描く絵らしく、決して写実的とは言えない。
しかし、少年の書こうとしている物は如実に現されていた。
手を繋いで笑う、父と子。
亡き父と一人になってしまった子がかつては普通にしていたであろう、そしてもう決して出来ないであろう行為。フロムはエシュアに背を向けていた。しかし、その肩が小刻みに震えているのはわかる。
声を無くしても、感情までは無くしていないのだ。フロムは五歳児にしては物分りの良い方だった。
隠すよりも、事実を教えた方が良いと判断したエシュアはフロムにすべてを話した。
自分が彼の父親を手に掛けた事も含めて。正確には手に掛けたわけではなくサティスナは自害したのだが、同じ事だ。あの時、目を離したりしなければサティスナ=バグナーを死なすような事も無かったはずなのだ。すべてを理解したわけではないだろうが、フロムは泣き叫んだりはしなかった。
いや、心の中では泣き叫んでいるのだろう。ただ声に出せないだけで。
エシュアに背を向け、肩を震わせて泣くその姿はやはり親の温もりを必要とする年代の子供だと言う事を示していた。声が出せれば。大声を出して泣き叫ぶ事が出来れば少しは楽かもしれないのに。
フロムは声を出す事が出来ない。静かな泣き声が、エシュアの聴覚を圧する。
少年の瞳から零れ落ちた雫が、彼自身の描いた絵の、しっかりと重ねられた親子の手の上に落ちた。
インクが滲み、なにがなんだかわからなくなるまで、フロムは泣き続けた。
そんなフロムにエシュアは慰めの言葉を掛けようとはしなかった。
しかし、決して彼を一人にしようともしなかった。
安楽椅子に揺られながら、ただじっと泣き続けるフロムを見つめているだけだった。
時が過ぎる内に、何時の間にか外に居た筈のレイアードやジュナの気配も無くなっていた。
自分に挨拶一つもせずに、帰ったのだろう。
或いは覗いているのがバレていないと本気で思っているのかもしれない。
エシュアが安楽椅子を揺らすと椅子の脚が床と擦れ、僅かながら音を立てる。
声を失っても聞く事は出来るフロムはその音を聞いて、己の後ろに居るエシュアの存在を感じているのだろう。
何も優しい声を掛けてくれない。しかし、見放しもせず、ただじっと見守っているその眼差しを。
暖かいと形容するにはやや厳しすぎる眼光だったが、それでもフロムにとっては暖かな物に思えた。
その視線は同情でも哀れみでも無かった、かといって彼の事を軽蔑し、敬遠するような眼差しでもなかった。ただありのままに、自分を見つめてくれている。フロムはそう感じたのだ。
救い出されてから一ヶ月半の間、傷の治療に入院していた時にも日に一度は彼はやってきた。
「調子は?」
と訊くだけで、ベッドの傍らに椅子を置いてずっと座っている。何かを考え込んで居るような事もあれば、書類を持ち込んでそれを読んでいる事もあるし、何もせずにただ窓を見つめているだけの事もある。
フロムは彼に調子を訊かれても、声に出して答える事は出来ない。ただ頷くか首を左右に振るだけ。
そして、退院した後に彼はいつもの淡々とした口調で言ったのだ。
「俺が今日からおまえの保護者だ」
と。
「嫌ならば別の生き方もある。選ぶのはおまえ自身だ」
たかが五歳児に、彼は本気でそれを選ばせようとした。そして、フロムも本気で考えた。
しかし、結論はとうの昔に出ていたのかもしれない。あの地下の監獄から救い出されたときから。
入院している間、夜の静かな闇の中、白い清潔な空間の中に埋もれながら、フロムは何度もエシュアの事を恨もうとした。
大好きだった父さんを殺した敵だ、と。
しかし、やはり憎む事は出来なかった。
何故だかはわからない。
ただ病院の看護婦が言うようにエシュアの眼光を怖いとは思わなかった。
確かに鋭いとは思うが、何処と無く親近感を覚えるような光だった。
それがどうしてなのか、それを理解するにはまだまだフロムは幼すぎ、知っている世界が狭すぎた。
ただ、エシュアと共に暮らす事を受け入れたのは、本能的に彼の事を同類だと察したからだろう。
自分と同じように、この白髪の男も大事な者を亡くしている。彼が自分に向ける鋭い眼光の中にある感情。敢えて言うならばそれは共感ではなかろうか。彼もまた、自分の事を同類だと思っている。フロムはそう考えた。ふと気付けば、既に夜になっていた。さっきまで泣いていたフロムはそのまま眠ってしまったようだ。安楽椅子から立ち上がり、エシュアは足音一つ立てることなくフロムを抱え上げた。
さすがは暁の頭領なだけあり、その動きには一切の無駄が無い。
そのままフロムをエシュアが彼のためにと整理した元物置部屋に連れて行き、一ヶ月半前まで埃を被っていたベッドに横たえると布団をその上に掛けてやり、そして、彼はそのまままた居間に戻ってきた。
闇の中だというのに、エシュアはすべてが見えているかのように遅滞無く動いている。
それはその通りで、エシュアにとってはこの程度の闇、目くらましにもならないのである。
だからと言って、明かりも点けずに一晩を過ごすと言う程根暗でもないので、彼はランプに火を灯した。再び安楽椅子に腰掛け、エシュアは己が拾われた頃の事を考えていた。
訓練は厳しかった。何度も死にかけた。何度も絶望し、数え切れぬほどに傷を負い、星の数ほどに泣いた。しかしその度にクライヴは彼に慰めの言葉を掛けてくれたりはしなかった。
彼はその緑色の瞳でエシュアを見つめ、その大きな手をエシュアの頭において、こう言うのだ。
「死ぬのか?俺は止めないぞ。その方が楽だからな。おまえが楽な方を選ぶなら、俺はそれを止めない。ただ、俺はおまえを軽蔑するぜ。所詮おまえはただの甘えん坊のガキだっただけだってな。さあ、どっちを選ぶ?安逸なる死か、苦痛の生か。腐った貴族どもに殺されたおまえの両親はおまえにどちらを望む?どちらだとしても、選ぶのはおまえ自身だ。もし死にたいのなら、俺が止めを刺してやる。痛くないよう、一瞬でこの首を吹き飛ばしてやるよ」
恐ろしい台詞であるはずなのに、自分はクライヴと始めて会った時のような恐怖感を感じはしなかった。もし自分が死を選べば、クライヴはただ頷いて、そして自分を殺すだろう。
あの日から共に暮らしてきて、エシュアにもクライヴがどのような男かわかりかけてくる頃だった。
「俺は………生きたい」
掠れる様な声だった。クライヴは或いは聞き逃したかもしれない。
しかし、クライヴならば聞いているであろうという確信がエシュアの中にはあった。
全身を苛む苦痛は半端な物じゃない。体は切実に休息を欲している。
この場合の休息とは即ち、『安逸なる死』だ。
しかし、エシュアは自分でも驚くほどの精神力でその死の誘惑に抗い、クライヴの黄金の髪と緑色の瞳を見返したのだ。
まるでクライヴから力を貰おうとするかのように。
「俺は生きたい。父さんも母さんも、それを望んでいると思う。でも、それだけじゃない。俺自身が生きたいんだ、クライヴ」
クライヴはにっこりと笑って、エシュアの白い頭をぽんと叩いた。
「そんなの簡単だろ?死ななきゃ良いんだ」
翌日からエシュアに課される訓練はさらに厳しくなった。
時には同じ暁の構成員すらが止めに入るほどに。
しかしクライヴは容赦しなかった。
今思えばあの時既に彼はエシュアを己の後継者だと心の中で据えていたのかも知れない。
そして、己の死期も悟っていたのではないだろうか?
故に、彼がエシュアに施す鍛錬は常に人間の可能性を追及するような物ばかりだったのかもしれない。
彼を諜報員としての完成形に少しでも近づけ、つまらない事で命を落とさないようにする為に。
考えている内に、夜が明けてしまった。窓から強烈な暁の光が差し込んでくる。
その光に半面を浮き上がらせ、エシュアは安楽椅子に深々と身を沈めていた。
「『我々は待つ。この国に名君と言う名の光が射すのを。我々はその者の眼となり、耳となり、少しでも早く、この国を誰もが笑って過ごせる国にするのだ。そのために、耐えろ。どんな理不尽な命令にも、表情を変えることなく、忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐える。………そして、我らは待つ。この国に訪れる暁の空を』………か」
既に何百回も唱えた文句を再び呟く。かすかな弱弱しい気配に気付いて振り向けば、そこにフロムが立っていた。昨日と同じ姿のはずだが、同じには見えなかった。
肩を震わせ、泣き腫らした目の周りは赤くなっていたが、一回り、大きくなったように見えたのだ。
エシュアは無言で、瞳を細めた。フロムもまた無言で、エシュアを見返している。
フロムの瞳は綺麗な琥珀色をしていた。父の死を乗り越えてはいないだろう。
乗り越えてもいけないのだ。エシュアの中で、生まれ故郷と家族と隣人達を失ったあの事件が未だに大きな傷として残っているように。彼が眠るたびに、夢として現れるように。フロムの中で、エシュアはいつまでも『父親を殺した男』でなければならない。ただ、少年の琥珀色の瞳には強い意志の輝きが見受けられた。乗り越えてはいない。しかし、乗り越えようと言う決意を固めたのだ。
両親の死に希望を失い、その場に踏み止まるのではなく、絶望を糧に新たな光を探す為に前進する事を選んだのだ。それは簡単な決断ではなかった。後で何度も後悔する事になるだろう。
その選択が正しかったと思える日が果たして来るのかどうかさえ、確かな事は言えない。
「おまえは俺が鍛える。誰の為でもなく、おまえ自身の為に。………おまえは強くなれ」
師であるクライヴもきっと今の自分と同じような気分で、『俺が鍛えてやる』と言ったのだろう。
琥珀色の瞳に強い意志の光を湛えたまま、フロムは頷いた。
エシュアは立ち上がり、少年の黒髪に手を置いた。師が自分にしてくれたように。
師から貰ったあの暖かさを。この少年にも伝えようと。暁の曙光に照らされながら。
今の自分がこの少年にしてやれる事はそれだけだったから。
この朝、フロムはバグナーと言う名を捨てた。だが、彼の父は彼の胸の中で生き続けるに違いない。
3 集う刺客
そこは暗い部屋だった。地下にあり、かつ明り取りの窓も存在しないからだ。
四方の壁は黒ずんだ石で組まれてあり、かなりの強度を持っていることだろう。
そして、防音効果にも優れていると見える。壁の一方には鋼鉄の扉があり、その反対側の扉には一人の男が全裸で磔にされていた。四肢を大きく開かせられ、それぞれ壁の輪鎖によって固定されている。男の体には無数の傷があった。そのどれもが、まだ真新しい、古くても数日以内に付けられた傷だった。切り傷から火傷まで、男の全身は元の肌がわからないほどに痛めつけられている。そこは地下牢だった。いや、拷問部屋と言ったほうが相応しいか。正確に言うならば、その兼用だが。
部屋の中には磔にされている男の他に、二人の男が居た。
一人は上半身裸で、隆々とした筋肉に玉のような汗を浮かべている大男。脳味噌など入ってなさそうな頭は綺麗に剃られており、青黒い血脈が浮き出ていた。醜い顔には笑みが浮かんでいる。そして、男が腕を振り上げると男の持った鞭が弧を描き、振り下ろすとしなって男の脇腹を打った。
「がはっ!」
悲鳴をあげ、激痛に顔を歪める男。脇腹の皮膚が裂け、赤い血が滴る。
もう一人は黒い神官服を着ている男で、背の低さと神官服の上からでもわかるがっちりした肉体が特徴的だった。唯一露出している顔には無数の傷がある。おそらくは全身が同じなのだろう。
ただの神官では無い、起伏に富んだ人生を容易に想像させる容貌だった。
その男が淡々とした、と言うよりはどちらかと言えば少々倦んでいるような、そんな声で拷問に掛けられている男に話し掛ける。
「そろそろ話したらどうだ?簡単な質問だろうが。おまえは何処の国の者で、誰の指示で動き、何の目的でこの聖堂を調べていた?」
男の口から、現在行われている行為とは最も乖離している筈の言葉が出た。
聖堂。
それは通常、ロデン教の地方支部を示す言葉だ。
布教の拠点であると同時に、信徒や巡礼者の心の拠り所となるべき場。
貧者の救済をし、死者を弔い、赤子に福音を授け、愛し合う男女に祝福を齎す場。
しかしそれは聖堂の表の顔に過ぎないのだ。
聖堂の地下には牢と拷問部屋があり、ロデンの神に服さぬ者に苦痛を与え、洗脳する場となっている。そして聖堂は法皇レナード=クリプセス=ロデン18世の指示を受け、暗殺をも行う。
その為の特殊訓練を積んだ者たちを聖堂は抱えていた。
それらの者は異端審問軍と呼ばれ、黒衣の神官服を着ている男はそれを束ねる地位に居た。
名をデ=ヴァレラと言う。拷問を受けている男は乞食の形で聖堂に救いを求めてきた。聖堂神官長のヤヌス=ロッホは男に暖かい食事と安らかな休息を与えた。
男は夜中、神官長室でのヤヌス=ロッホとデ=ヴァレラとの会話を盗み聞きしていた時に、飛び出してきたデ=ヴァレラ自身の手によって捕縛され、そして現在に至る。
男は数日間の拷問にも、歯を食い縛って耐えていた。
助けが来ない事など男は理解していた。そして、自分の素姓はすべて、話さぬままにあの世まで持っていこうと硬い覚悟を決めているのだ。
現在も、苦痛に顔を歪めながら、しかし男は口を開かない。
(―――よく訓練されている)
ヴァレラが半ば本気で感心していると、大男がもう一度鞭を振るった。
肉を打つ鈍い音が響き、男の絶叫が部屋の壁で跳ね返され、多重の反響を生む。
と、そこでヴァレラは片手を挙げて、さらに鞭を振るおうとした大男を制し、自分の背後にある扉へと視線を向けた。遠くから響いてくる駆け足の足音に気付いたからだ。
ヴァレラが振り向くとほぼ同時に、鋼鉄製の扉が開かれ、神官長に仕える下級神官の一人が入ってきた。下級神官は傷だらけの男と男の周りの壁や床に付着している血痕、そして部屋の中に充満している血と処理される事も無く垂れ流しにされている糞尿の混じり合ったきつい悪臭に思わず顔をしかめてから、慌ててヴァレラの前に片膝をついた。
「デ=ヴァレラ様。神官長様が御呼びでございます」
「―――わかった。すぐに行く」
「お伝えします」
下級神官は一度頭を下げた後、この空間から早く逃れたいと言う本能そのままに出て行った。
一瞬吐息を吐きかけ、寸前で踏みとどまるとヴァレラは男に背を向けて歩き出した。
拷問が終わりだと思ったのか、男の硬直していた全身が緩む。
しかし、出口で足を止めたヴァレラは最も残酷な言葉を残し、姿を消した。
「鋼鉄の処女の用意をしろ」
その言葉を聞き、大男は喜色を浮かべ、男は顔面を蒼白にした。
その言葉は男の、死を意味していた。そしてその死は最大の苦痛を伴っていた。
聖堂の裏世界から表世界へと戻ったヴァレラは聖堂関係者しか使わない隠し階段を使って、神官長室のある最上階に登った。神官長室の扉の前には僧衣と甲冑が一緒になったような戦衣を纏い、実用的とは言えない装飾過多な槍を持った者が二名侍していた。
聖堂が抱える武力。それが彼ら、聖騎士だ。通常、どれほど小さな聖堂にも一人は配属されている。
フロレシア大聖堂は三百人余りの聖騎士を抱えていた。
二人の聖騎士ははっきりとヴァレラに侮蔑の眼差しを向けた。
表の武力である彼らは神の聖性、陽を示す存在だ。
しかしヴァレラ達、異端審問軍は闇の武力であり、神の残酷性、陰を象徴する存在なのだ。
ヴァレラは男達の視線を超然とした態度で無視し、神官長室の扉を開けた。
青い法衣と司教杖を持つヤヌス=ロッホの他にもう一人、中には人が居た。
白髪に金の髭、ヴァレラとは異なる長身で、頑健な筋肉が老いて尚その全身を巌のように見せている。ロデン教の聖なる刻印が刻まれた僧衣と甲冑が合わさったような聖騎士の出で立ちをしているこの男こそ、フロレシア大聖堂聖騎士長ホルス=レンダイクだった。
「これはこれは。卿が陽の光の下に出て来られるとは珍しい」
先ほどの聖騎士と同じ、いやそれ以上の憎悪すら含んだ侮蔑の光を瞳に宿し、ホルスが言う。
彼は騎士道精神に溢れる男だ。無論、正々堂々とした一騎打ちこそ本来あるべき戦いの姿だと考えている。そんな彼からすれば、闇討ちと拷問、洗脳しか出来ない異端審問軍など軽蔑こそすれ敬意を表する相手には値しないのであろう。
ヴァレラはこの男が苦手だった。何を言われても、押し黙るしかないからだ。
ホルスの言っている事は正論だ。それを打ち負かすには力しかない。
しかし、ホルスはヴァレラより強い。
内心の舌打ちを表には出さないようにしつつも、ヴァレラはホルスから少し距離を取った場所に立った。
「レンダイク卿こそ、法皇庁から何時御戻りに?」
「たった二時間程前の事だ。神官長様に、法皇猊下からの親書を手渡すために参上したがその用向きも済んだから、わしはこれで失礼する」
「ゆっくりと長旅の疲れを癒されると宜しいでしょう」
「ふん。わしを老人扱いするなと以前にも申した事があろう?法皇庁とルーガの往復などわしにとっては長旅でもなんでもないわ」
ホルスはそう言いながら、どしどしと足音を立てて、神官長室を出て行った。
ヴァレラはヤヌス=ロッホの方を見やり、少しだけ口元を歪めた。
ヴァレラのその表情をヤヌスが嫌っているのを知っていて、彼はその笑顔を浮かべる。
「嫌がらせとしては正鵠を射ていますな」
茶化すような響きを持つヴァレラの言葉に、ヤヌスの眉間に縦皺が滲む。
「親書の内容をおまえにも知らせる為に呼んだ。おまえにも自覚を求めるためにな」
「自覚?はて、何の事やら」
「皇帝暗殺の件だ。未だ成果は出ず、異端審問軍の優秀な手駒を無為にしているだけだな」
「皇帝の直護衛が並の技量ではないのです。刺客は片っ端から殺されております。容易ではありません」
「そうだったな。おまえすら、負けた」
ヤヌスの表情に、一瞬嘲笑うかのような笑みが浮かんだ。その視線はヴァレラの両肩の辺りを彷徨っている。ヴァレラは自身の手で皇帝を暗殺しようとし、その護衛であるヴァン=ブレイスと戦い、両肩を負傷したのだ。普段の生活ならばさして不自由を感じる事は無いが、もはや剣を握る握力は無い。
「手は考えてあります」
「もはや必要ない」
ヴァレラの言葉はヤヌスによって遮られた。
ヤヌスは法衣の懐から親書を取り出し、ヴァレラの前に差し出した。
ヴァレラがそれを受け取り、中身を軽く読む。その表情が見る見るうちに曇った。
「これは………」
「法皇猊下は我々に失望なされ、聖護院の派遣をお決めになられた」
聖護院とは簡単に言えば、法皇直属の異端審問軍だ。
一人一人の力量が凄まじく、さらに彼らが持っている精霊具も皆、強大な力を持つ精霊を封じた物だ。聖護院の一人が現れるだけで、戦場は一変するとまで言われている。
親書には皇帝暗殺のため、聖護院の一人が派遣されると書かれていた。
たった六人しかいないうちの、一人だ。それは法皇庁の戦力の七分の一に限りなく近い一人だ。
互いに悪い顔色を見つめ、沈黙が神官長室に漂う。
先に立ち直ったのはヴァレラの方だったかも知れないが、先に声を出したのはヤヌスの方だった。
「とにかく、異端審問軍による皇帝暗殺はしばし中止する。良いな?」
「はっ」
「あの暗殺者、名は何と言ったか?」
「ジェルナ=クレイスロールですかな?」
「そうだ。あやつにもはや用はあるまい?」
「いずれ使えるときもあろうかと。それに皇帝の直護衛とは同じ孤児院の出。生かしておく価値はありましょう。さらに言えば、あやつを殺すにも異端審問軍の数人の犠牲を必要とするでしょう」
「ふん。………勝手にせい。ただし、聖護院の邪魔をし、我らに対する法皇猊下の心証をこれ以上悪くする事は罷りならん。良いな?猊下の信任を損なえば、我らもまた鋼鉄の処女と心中することにもなりかねん」
「心得ました」
ヴァレラがヤヌスに向かって頭を下げている頃、ルーガのいくつかある城門の一つから二人の男女が大量の旅人と共に帝都に入り込んでいた。ある意味目立つ二人組だった。
男の方はややくすんだ色の金髪を乱雑に切っただけで、まるで狼のように獰猛で野蛮な気配をその全身から放散していた。東洋の方でよく見かける着物と呼ばれる服を着ており、胸元を大きく開けている。覗いている胸は隆々と筋肉が盛り上がり、真一文字に刀傷が走っていた。腰には二本の刀を佩いている。剣ではなく、刀である。女の方は柔らかそうな銀色の髪を一つに纏めて腰まで垂らしていた。男の褐色の肌とは対照的な白鶴のような白い肌をしている。整った容貌に目の辺りに塗った紫のアイシャドーと濡れた様な唇を彩る朱の紅が実によく似合っている。こちらも男同様着物を着崩し、何処までも白く、眩暈がしそうなほどに深い胸の谷間を露出し、えもいわれぬ色気を漂わせるうなじを余人の目に晒している。女は特に武器を持っているようには見えなかったが、その肉体美こそが彼女の武器と言える。
男の名は金龍。女の名は銀龍と言う。しかし彼らは兄妹ではないし、恋人関係にも無い。この名も本名ではない。彼らを育てた者が付けた名、符号に過ぎない。見掛けからも判るとおり、二人は堅気の人間ではない。れっきとした間者である。彼らは今回のフロレシア帝国建国祭の騒ぎを利用して、最近名声を得ているこの国の皇帝ラインハルト=シーザーについて調査するよう命じられている。彼と帝国が彼らの祖国に対し、危険分子となり得るかどうかを。もっともそれだけならばわざわざ彼らが乗り込んでくる必要は無い。任務はそれだけではないのだ。それに、見掛けからもわかる通り、彼らはあまり間者の才には恵まれていない。間者にしては目立ち過ぎるだろう。
「がるるぅ………腹減って死にそうだ。なんか食い物ないか、銀?」
空腹な狼そのままな唸り声を漏らしつつ、金龍が銀龍に聞く。
「持ってたらあたいが食ってるわよ………ったく、しょうがないね。ちょっと待ってな」
銀龍はそう言うと彼女の方を鼻を伸ばしてぼうっと見つめていた若者に嫣然とした媚びる様な笑みを浮かべて近づき、男の耳元で何事かを囁くと何処となくふらふらとした若者の袖を引いて路地裏へと引き込んだ。
金龍の方が空腹に耐え兼ね、道行く人々をまるで獲物を見つめる狼のように涎を垂れ流しながら見つめているとしばらくして、路地裏から銀龍だけが現れた。
その艶やかな唇を彩る紅が少々剥げ、着物はさらに乱れていたが、銀龍は満足げに腹を擦り、
「あんまり美味くはなかったけどとりあえず腹は膨れたわ」
「ぐるるるる………」
「そんな獣みたいに唸らなくても、ちゃんと財布も取ってきたわよ。これで食い物買って食べなさい」
「おまえは?」
「私はもう喰った。先に宿屋に行ってるから。あんまり暴れないように。わかった?」
「わかった。飯、食ったら俺も宿屋に行く」
「あんまり食べ過ぎないようにね」
「おう」
金龍は快活に笑うと、まるで獣のような速さで人を縫って駆けて行った。
「とはいえ」
金龍を見送って、宿屋に向かいながら、銀龍は一人呟いた。
「宿屋で一人、男を待ってるような女じゃないのよね、あたいは」
そして周辺を見回す。彼女の餌食になりそうな男は一杯居る。
皆、銀龍の美貌とその身から醸し出される凄艶としか言い様のない色気に呑まれ、惚けてしまっている。
「しかしこれだけ選り取りみどりだと逆に食欲が減退しちゃうわね」
どうせだから美味しそうなのをと思い物色してみるとこれだけ男は居るのに、なかなか銀龍の食欲を激しく刺激するような獲物は居ない物だった。
やや欲求不満になりつつ視線を走らせるが、やはり彼女の食指が動くほどの獲物はいない。
普段ならば涎を垂らして襲い掛かりそうなレベルでも、なぜかなんとも思わない。
「まあ、今はお腹が一杯なわけだし。食べ過ぎは美容にも悪いし。諦めるか」
そんな訳で、彼女は宿屋へと向かったのだった。一方その頃、狼男金龍はと言えば。
「がるるるっ、うめえっ、これうめえっ!もっとくれ!」
飯屋でメニューをすべて制覇し、さらに追加注文していた。既に彼の前には十数人分の皿が積み重ねられているが、それでも彼の食欲を満たすには至らないのか、彼の目は血走ったままだ。
「お、お客さん、沢山食ってくれるのは良いんだが、金は大丈夫なんだろうな?」
店長がやや頬を引き攣らせながら聞く。すると狼男は懐を弄りながら、
「おうよ!ちゃんとここに財布が―――ここに、財布が………」
懐を弄っていた手を抜き、袖を探る。
「こっちに入れたんだったかな、ははは」
しかし、無い。乾いた笑い声を上げながら金龍は着物を脱ぎ、ばっさばっさと振る。
舞い上がる埃や塵。旅をしている間の旅塵だ。しかし、肝心の財布は無い。出てくるのは埃ばかり。
念のために赤褌の中も見てみるが、自分の逸物があるだけで財布は無い。
店長のこめかみに浮かぶ青筋。金龍の頬を伝わる冷や汗。
場が一瞬、凍りついた後、店長が包丁を振り上げ、金龍に襲い掛かった。
「ただ食いには死の制裁を!それがわしが料理を習った師匠オリッサ=アダプールの教えだぁぁっ!!」
「うわぁぁっ!!」
大きく跳躍して料理人の一撃を避けた金龍は野生の獣そのものの柔軟な動きで店を飛び出し、逃げ出した。その後を炎を纏った店長が追う。
「食い逃げには料理人の神が必ず鉄槌を下すぞっ!!」
店長の追撃はすぐに終わった。金龍の姿を見失ったのだ。
店長は鼻から大きく息を噴出し、怒りの捌け口を求めて、辺りを見回した。
見物人たちがざざぁっと引く。
「ふん!」
店長は猛牛の如く鼻息を噴出すと店に戻っていった。
無論、こんな目立つ二人組の噂が即日、帝都中に轟いたのは言うまでも無い。
やはり、間者には向いていないのだろう。では、彼らの本当の目的はなんなのだろう?
4 祭り前夜
建国祭前夜。十一月三十日。
ルーガの民衆の気分は高揚していた。
男達は酒場に集まり、子供達は普段ならば眠って居る時刻であろう深夜まで通りを駆け回っている。母親達はそんな子供達に眠るよう言いながら、酒場で飲んだくれている夫を迎えに行く。
そんな光景が随所に見られる中。喧騒の雑踏を縫うように歩く女の姿があった。
栗色の髪を持った美貌の騎士だった。しかし彼女が着ている鎧はフロレシア帝国軍の物ではない。
およそ四ヶ月前、スタルナス帝国とルーナ帝国の連合軍による攻撃によって脆くも滅亡してしまった南西の隣国パルディア王国の王女にして、国滅びた後、フロレシア帝国に亡命、亡命パルディア王国を建国した女王レイシア=パルディアスである。
彼女はおよそ二ヶ月前の反乱鎮圧によって多くの貴族が死亡した為に空き家が目立つようになった貴族区画を抜け、一般市民が住む区画を歩んでいた。
亡命してから四ヶ月。この巨大な永遠の都の住人の中にもレイシアの顔を覚えている者が何人かいる。
そんな者達はレイシアの姿を見つけると一様に口元をにやりとやって、声を掛けてくるのだ。
「よっ。女王様、今日もいつもの店で逢引かい?」
「あ、逢引などではない!」
レイシアは硬い口調で否定するが、誰も信じない。
いや、レッセフェルトと会って居るのは事実なのだから、当たり前なのだが。
いつもの店とはあのレイシアに親切にしてくれたマスターのやっている酒場である。
あそこは料理も美味しく、値段も安いので、レイシアはよくレッセフェルトとそこで会っていた。
名目的には女王と大使の会見であり、話し合われることは国家の行く末に拘わる大事、と言うことになっている。あの小うるさい六騎士は反対しているが、女王と大使の会見と言う口実で通しているのだ。だが、そのような堅苦しい話など滅多にしない。朱雀通りから一本裏に入るとそこは閑静な住宅街となる。さらに数回曲がる度に複雑さと煩雑さを増して行く町並みはだんだんとうらぶれて行き、住んでいる住人の質も見るからに低下して行く。帝都ルーガは大通りと中通りは碁盤目のように整然と区分けされているのだが、一区画が500メートル四方と実はかなり大雑把な分け方をされているのだ。そのため、その区画の中に無数に枝分かれした小道が秩序なく広がることとなり、通りから一歩内側に入るだけでそこは混沌とした区画になってしまうのだ。ルーガは秩序と混沌が同居した街とも言えそうである。レイシアはそんな裏路地を歩く早さを緩める事も無く進んでいく。するとその頃からレイシアの周りに数個の人影が現れる。人影はまるでレイシアの身を守るかのように前程を探ったり、後ろからの尾行がないかなどを確認する。暗がりの中で寝転がって居る酔っ払いやゴミを漁る野良犬などを問答無用で移動させたりもする。レイシアも無論、そんな人影の動きには気づいているが、まったく気にした様子も無い。やがて店の軒先に吊るされた提灯が見えてくると、レイシアの頬は誰が見てもわかるぐらいに緩んだ。と、それまで付かず離れずの距離を保っていた人影がさーっと物陰から現れる。
それはかつてあの店でレイシアに絡んできた男達の、最初に声を掛けてきた男だった。
男はレイシアの前に軽く頭を下げ、
「異常ありませんでしたぜ、姐さん」
「―――だから、姐さんと呼ぶなといつも言ってるだろうが」
呆れ半分、諦め半分でレイシアが言うが、男はさらに頭を下げて、
「へい、姐さん!」
そう。レッセフェルトによって散々に叩き伏せられた後、彼らは何を血迷ったか、
『あんな強い兄さんをまるで飼い犬の如く扱うなんて、あの人はきっと名のある極道に違いねえ。野郎共、今日から俺達は今までの悪事から綺麗さっぱり足を洗って、姐さんの手下になるぞ!』
と勝手に決め、そして亡命パルディア王国の志願兵募集所の門を叩いたと言う訳である。
つまりこの者ども、かつてのチンピラではなく、いまやれっきとした亡命パルディア王国軍兵なのである。最も、本人達は半ば本気で極道の手下になったと思って居る節があるのだが。
二ヶ月前の貴族反乱鎮圧の前哨戦となった城砦攻防戦において、レイシア=パルディアス率いるパルディア騎士団は大きな戦果を挙げ、その武勇はフロレシア帝国中に鳴り響き、皇帝から与えられ、彼女達が『宮殿』と呼んでいる元伯爵の屋敷の敷地内に設置されていた志願兵募集所には一日に数十人、時には百人を超すほどの志願者が集い、今やパルディア王国軍は騎士団二百、歩兵連隊一個を持つほどにまで戦力を増大させていた。
レイシアは諦めの色を濃くしつつ、足は止めずに料理屋に向かいながら、
「ジード=ブリード。今のおまえの役職は?」
「はっ。亡命パルディア王国軍歩兵連隊指揮官であります!女王陛下」
赤ら顔のこの男、ジード=ブリードこそ、新設の歩兵連隊の初代連隊長なのであったりする。
「連隊長が昔のチンピラ仲間を集めて、私の護衛をしろなどと誰が命じた?」
「自分の独断であります!何故なら―――」
「何故なら?」
それまで真剣な顔をしていたジードの顔が急に緩む。
その笑みを見て、レイシアが身を少しだけ硬直させる。
「何故なら、女王陛下がここで逢引していると言う事実を知っているのは我々だけであるからであります!」
(―――いや、もう結構知られてるけど………)
確かに一番良く知っているのはこのジードだろう。
なにしろあの店は元々彼らの馴染みの店であり、そしてそれは今も変わらないのだから。
「―――わかった。護衛は続けてもらう。だからこの事はあの連中には言うな?良いな?」
「わざわざ釘を刺さなくても言いませんぜ、姐さん。あの六騎士は俺達の事をチンピラだと思って軽視しやがるから、あいつらも知らない姐さんを俺達は知ってると思うだけで胸がすかっとしますぜ」
「だから、姐さんと呼ぶのは止めろと―――」
「へい、姐さん!」
「おまえ、わざとやってるな?」
「へへへ」
ジードは鼻の頭を指で擦り、その視線をいつの間にかほんの数歩の距離に迫っていた料理屋の看板に向ける。そこにはこう書かれて居た。
『某国女王御用達、味と価格に自信あり。ルイの小屋』
あのマスターの名はルイと言うのだ。
「それじゃ、姐さん、楽しい夜を」
「馬鹿」
「へへっ」
軽い笑い声を残し、ジードが薄暗い路地裏に姿を消す。
レイシアが彼らと会った時、彼らはどんな悪事にでも手を染めるチンピラだった。
しかし、彼らは元々からチンピラだったわけではなかったのだ。
これもルイに聞いた話なのだが、ジードを中心とするあの四人は元々、フロレシア帝国軍の第六軍に所属していたのだと言う。そこでジードは小隊長をしており、残りの三人はその頃からの部下なのだ。彼らの部隊の上官である連隊長は地方貴族の次男坊だった。人間の死を夕食時の座興程度にしか認識していない腐敗貴族であったその若い青年貴族はジード達にある村の村人全員の抹殺を命じた。
理由はスタルナス帝国への内通容疑。無論、村人達はそんな罪など犯しては居ないし、十分な調査が行われたわけでもない。ただ単なる青年貴族の気まぐれに過ぎない。
ジードは激しい反発を覚えた。しかし、命令は命令だ。従わなければならない。
「―――それで、ジードは殺したの?」
その時、レイシアはそう問うた。
既にジード達は彼女の部下となっており、兵の訓練に目覚しい効果を挙げた事から、連隊長に任ずるかどうか迷って居た時期だ。ルイは口を覆う白髭をもごもごと蠢かせた後、言った。
「命令を遂行していられれば、あいつらも私もここには居ませんよ」
「―――私も?」
「昔の話です。昔の、ね。結局、彼らは軍を脱走し、その村は他の小隊の手によって皆殺しにされたそうです。きっとジードも心の中で自分の事を責めてますよ。『なんで、その貴族を殺してしまわなかったんだ』ってね」
それっきり、ルイはその事について話そうとはしなかった。
翌日、レイシアはジードを連隊長に任じた。彼の子分達―――実は二十人居る―――も、それぞれの才に合わせて上は大隊長から下は一般兵まで振り分けられて居る。
扉を開け、中に入る。最初に比べれば慣れたとはいえ、入った瞬間には一瞬すぅっと意識が遠退きかける。場末の酒場の饐えたような臭いと酒の臭い、そして荒くれ男どもの汗の臭いが渾然一体となった香りが鼻腔から入り、脳髄を直撃する。崩れそうになる膝に力を入れ、耐える。眩暈感はすぐに遠退き、いつもの確固とした意思が蘇る。それから始めて、彼女は部屋の中を見回し、カウンター席に蜂蜜色の髪の青年が座っていることに気づいた。そちらへと歩いて行く。彼女を知っている者は彼女の存在に気づくとからかうような声を投げかけてくる。しかし、そこに負の感情は無く、レイシアとしても快い。
少々、煩いが。
「レッセ、待たせた」
軽く肩を叩きつつ、隣に座る。
「―――おう」
「って、もう酔ってるの?」
レッセフェルトの前には既に数杯分の空きグラスが転がっていた。
「別に良いだろ、俺が酔ったって」
「珍しく荒れてるわね」
いつもはへらへらしているレッセのいつに無い様子に、レイシアはやや眉根を寄せる。
視線をルイに向けるとルイは白髭を蠢かせたが、レッセが睨みつけると押し黙った。
場に一瞬、不穏な空気が滲み出る。
「これが原因ね」
レイシアはレッセの前に投げ出されていた書類を取り合げた。
「辞令」
「読むなよ」
「何でよ。レッセフェルト=イングラム、亡命パルディア王国大使の任を解き、第四軍第十六歩兵師団長に任ず。ニヘンベルグ砦守備隊長を兼任とす………古巣に戻るわけじゃない。階級的には大佐から少将に出世だけれど。どうしてこれで自棄酒になるのよ」
「………。おっさん、もう一杯」
「畏まりました」
「貴方、もしかして私と離れるのが嫌なの?」
「なっ………そんな訳―――」
慌てて否定しようと顔をあげたレッセフェルトはそこにレイシアの瞳を見つけ、息と一緒に言葉も飲み込んだ。
「ない?」
「………。ある訳ないだろ。なんで俺が」
「あらそう?だったら何でそんなに落ち込んでるわけ?」
「お、落ち込んでる訳じゃねぇよ。これは祝い酒だ」
「祝い酒。祝い酒ねえ」
レイシアは含みのある眼差しでレッセの前に置かれているグラスを見る。
「お待たせいたしました」
ちょうどルイが琥珀色の酒を注いだグラスを置く。レッセはその酒をぐいっと煽り、
「まあ、安心してろ。俺がニヘンベルグに戻ったらパルディアに陣取ってるオルティア=フリンシュとミト=ヴァレンツェを追い払ってやる。そうすりゃおまえは晴れてパルディア王国の女王だ」
無理やり作ったと丸わかりな笑顔で言う。レイシアはやや複雑な面持ちで彼の顔を見やり、
「そう。頑張ってね」
「ああ」
「ルイ。私にも同じお酒を」
「これは強いですよ」
「あら。私はお酒が結構得意なのよ?少なくとも私の隣でだらしなく酔い潰れてる人よりは」
「なんだって?レイシア、おまえが俺より酒が強いだって?そりゃ、聞き捨てならないな」
むくりと身を起こすレッセフェルト。その顔は酒のせいで赤く染まり、目も焦点が合って居ない。
「なら貴方にとってはこのぐらいの酒はどうって事ないのかしら?」
レッセの目の前に転がっているグラスを指差すレイシア。
レッセは鼻息荒く頷き、
「俺に取っちゃこのぐらいの酒、水みたいなもんだ」
「なら私と飲み比べしましょう?」
「何?………って、俺はこれだけ飲んでるんだぞ?」
「あらぁ?………貴方にとってはこのぐらいのお酒、お水と同じなんじゃなかったのかしら?それとも貴方は水を飲んで酔っ払うの?」
「うぐっ………」
レイシアの弁舌に素面でも勝てないのに、酔っている状態では勝てる筈もなかった。
レッセは反論しようといつもの数分の一程度にしか回らない頭を必死に捻った。
しかし、有効な反撃方法は一つも思い浮かばない。そこへ、レイシアのさらなる追撃が追い縋る。
「それとも止めておく?私に負けるのが怖い?私の不戦勝で良いのかしら?」
「じょ、冗談じゃない。やってやろうじゃねぇかっ!誰が王族の箱入り娘に負けるか」
「やってもらおうじゃないの。精々、頑張る事ね」
レッセは完全にレイシアの術中に陥っていた。しかし、当人にその自覚は無い。
「それじゃ、一斉の………せいっ!」
「うりゃ!」
レイシアの掛け声に合わせて、二人は同時に酒を胃に流し込んだ。
「っ………」
予想以上に強烈なアルコールに胃が焼かれるようだ。レイシアの端麗な顔が歪む。
「どうした、やっぱり酒弱いんじゃないか?」
酒臭い息を吐きつつ、レッセが勝ち誇ったように笑う。
「まだまだよ、ルイ、もう一杯!」
「はいはい」
そして、二人の前に新たなグラスが置かれ、そして一気に飲み干す。
それがさらに四度、五度と繰り返される。常人ならば一杯でも充分、少々酒に強い人間でも三杯は飲めないという程に強力な酒なのだが、二人は既に六杯飲んでいる。
レッセはそれ以前に飲んで居たのも合わせれば十杯だ。
実はレイシアが飲んでいるのは最初の一杯を除き、水割りなのだ。最初の一杯を飲んだときのレイシアの表情を見て、ルイが二杯目から水割りにしてくれたのだ。
酒に酔って視界がぐるぐる回っているようなレッセには既に水割りとロックの色の差を見破ることすら出来なかった。彼らの周りには店に居た男達が集まり、わんやわんやと騒いで居た。曰く。
「俺はレイシアの嬢ちゃんに賭けるぜ」
「俺もだ」「俺もだぜ」「おらもだ」
「って、みんな女王陛下なのかよ、じゃあ俺はこっちの蜂蜜色の髪の兄ちゃんだ。勝てよ、兄ちゃん、勝てば大穴だ!」
そんな騒ぎの元、両者の前に七杯目のグラスが置かれる。
「止めるなら今の内だぜ」
「そっちこそ」
二人は一瞬、不敵な視線を交わした後、同時にグラスを掴み、飲み干した。
同時にグラスがカウンターに叩きつけられ、金属質の音が響く。
見守る人々が唾を飲み、息を止める中、誰かが咳をした。
まるでその咳が合図だったかのように、二人同時にカウンターに突っ伏してしまった。
勝負は引き分けと相成った。
「全く。若いな」
ルイはもごもごと白髭を蠢かせながら笑った。
「昔のマスターを思い出すなぁ。中隊長だった頃とか」
昔馴染みの客がからかうように言ってくる。ルイは少しだけ顔を歪めて、肩を竦めた。
「からかわないでくれ。赤面してしまう」