覇皇伝
第一章 少年皇帝
『新皇帝即位』
第一章 少年皇帝
1 先帝崩御
群小なる輩、互いに互いを憎しみ、恨み、争い、乱れる大陸ラスカーナ。
争いを収め、大陸に平和なる極楽王土を築き者―――その者、覇皇なり。
《ラスカーナ史書 第五巻 第三章 第二節より》
帝国暦三三二年、四月一日。
この日、ラスカーナ大陸の中原を支配し、大陸最強の強国と名高いフロレシア帝国全土に激震が走った。
強大な帝国に君臨する皇帝スレイマン三世が突如として崩御したのだ。
帝国中の貴族が一同に会した晩餐会において、気心の知れた腹心達と此度の対スタルナス帝国戦大勝利を肴に、ローデンス地方の清き水で作られた酒をさも水であるかのように胃に流し込んでいた皇帝が突如として目を剥き、喉を抑え、どす黒い血を吐いた。
苦しげにのた打ち回った挙句、抑えようとした腹心に佩刀《覇皇剣-サナトゥス》を抜いて斬りかかり、己の血と腹心の返り血に全身を朱に染め、最後は苦しみの余りか、或いは武人としての矜持の為か、己の心の臓を一突きにして息絶えた。誰もが呆気に取られ、一歩も動けぬあっという間の出来事だった。
晩餐会場となったルーガ城の大広間はそれまでの騒がしい貴族達の御世辞によって塗り固められた悪意の応酬から解放され、水を打ったかのような沈黙に包まれた。
誰もが呆然としていた。皇帝こそ、彼らにとって絶対たる存在だった。
その強靭な肉体、如何なる剣士をも寄せ付けぬ剣技。
その声はフロレシア帝国の国旗にも描かれている勇猛なる銀獅子をも怯ませる。
普段は暴虐なる王。しかし、戦場に立てばその勇猛さは何人の追随をも許さなかった。
遂先立って行われたスタルナス帝国侵攻軍との戦闘においても、彼を先頭に、第一軍・第二軍・第六軍からなるフロレシア帝国軍は勇猛果敢に戦い、スタルナス帝国の名老将キエフ=ロドリナス、左右不揃いの瞳を持ち、キエフ=ロドリナスの薫陶を受けた妖将オルティア=フリンシュの率いる軍勢をほぼ完膚なきまでに叩き潰したばかりなのだ。
両国の国境を流れるエルベス川はスタルナス帝国兵の死骸とその骸から流れ出した血によって赤く染まったと言われるほどの大勝利を収め、ラスカーナ大陸全土にその強さを見せつけたのだ。
その祝勝会において、主人公たる皇帝が死んだ。
貴族も、護衛の近衛騎士も、給仕達も、誰もが動かない。
その間にも倒れた皇帝と彼に斬り殺された腹心達の骸から流れ出した血が大広間の床に敷かれた豪奢な紗の絨毯をどす黒く染めていく。
最初に動いたのは、女だった。明るい茶髪に、銀の瞳。その瞳は揺れ、彼女の内心の動揺を吐き出している。彼女の名はアミリア=ホーン。近衛騎士団長の位にある。彼女は近衛騎士団のみが着用を許される、左胸に《力強き銀獅子》の刻印を刻まれた白銀の甲冑に血が付くのも構わず、事切れた皇帝の傍らに膝を落とした。
そっと首筋に触れる。遂先程までその巨躯の中を駆け巡っていた熱く激しい血潮の流れを感じ取る事は出来なかった。
彼女の唇が震えながら開く。
「皇帝………陛下が………お隠れ遊ばし………ました」
そしてそのまま、放心したように座りこんでしまう。
その場に言い様の無い空気が満ちた。貴族達は目の前で起きた物事を理解しても、誰一人として涙を零す者は居なかった。皇帝―――いや、先帝は強き王ではあったが、人々に慕われる王では無かったのだ。
貴族達の視線はゆっくりと一人の人物の面上へと集って行った。
その男は今ここで崩御したフロレシア帝国第十四代皇帝スレイマン三世の兄、第十三代皇帝クライス四世の息子であった。スレイマン三世の甥に当たる。とはいえ、クライス四世とスレイマン三世は年齢が二十も離れており、この時、男は亡くなったスレイマン三世の二つ歳下であった。
男の名はアリーニ=アウグウェルツ。爵位は公爵。年齢は五十五歳。
そして、彼こそが、今この場に居る者達の中で、最も皇帝の座に近い男だった。
スレイマン三世には四人の男児が居たが、一人は生まれつき病弱で二歳で病死。二人目は育った物の、父親の施政方針に反対し、処刑され、三人目は次代の皇帝と嘱望されていたが、先のエルベス川における戦闘で、敵の矢から父を庇い、戦死していた。四人目は宮廷の権力闘争の渦中から引き離し、将来的にロデン教の聖職者にでもするつもりで、ある貴族に預けられている。
視線の集った先で、アリーニ=アウグウェルツは一人の男を見返していた。
白髪の混じった黒髪、鷹のような眼光をした男だ。
名をオルンヘル=クリケット。爵位は伯爵。年齢はアリーニ=アウグウェルツよりも三つ年下の五十二歳。爵位で言えば下。家の格から言っても、アウグウェルツ家が皇族の分家なのに対し、クリケット家は北方の田舎ローデンス地方の地方領主に過ぎない。
だが、オルンヘルの掌中には先帝の遺児が握られているのだ。
乱れに乱れていたラスカーナ大陸をフェルモア=シーザーが統一し、覇皇と称えられ、フロレシア帝国を建国してより、三百有余年。
腐敗した貴族による支配によって、フロレシアの国力は疲弊しきっていた。
親征と遊興に明け暮れ、政治を貴族に任せ切っていた先帝スレイマン三世の治世はフロレシアの未来に暗い暗雲を差し掛けていた。しかし、彼の存在は諸外国からの侵略を押し留めると言う面では大変な効力を有していた。国運を賭けて戦われたエルベス川の戦いにおいて勝利したフロレシアはとりあえず亡国の危機を脱したと民草の間にも久々に明るい顔が見えていたのに。
その皇帝が崩御してしまった。
後に残されたのは、果て無き権力闘争の火種のみ。
スレイマン三世崩御の報は咄嗟に張られた情報統制にも拘らず、一週間と経たずにフロレシア帝国全土に拡大。そして、国境をも越え、ラスカーナ大陸中の人々の知る所となった。
スレイマン三世崩御より、およそ一ヶ月が経った帝国暦三三二年四月二十三日。
フロレシア北方の湖沼地帯、そこはローデンス地方と呼ばれていた。
一年を通じて穏やかな気候を持つ地方で、四季折々の花々が美しく、さらにはローデンス湖と言う美しい湖を有する風光明媚な地で、帝国中から癒しを求めて観光客が訪れる。
ただし、ここ数十年は貴族の腐敗政治のため人々の暮らしは貧しく、旅をするだけの財力がある家は珍しい。ローデンス湖を訪れる観光客も今ではすっかりその姿を見なくなってしまった。
このローデンス湖を中心とするローデンス地方を支配しているのがクリケット伯爵家である。
領内にはフロレシア帝国第三軍の司令部が置かれているフォートスもある。
伯爵家の居城はローデンス湖に突き出した半島の突端にあった。半島側にも運河が通っており、さながら水上に浮いているようにも見える。湖側にはいざと言うときには脱出用にも使われる水門があった。
もっとも、普段は湖の反対側にあるフォートスとの交易に使われている。
フォートスはフロレシア北方の盟邦ルシタニア連合王国との交易の拠点として栄えている商業都市だ。
その水門が開き、一艘の小船が走り出てきた。
二人乗り程度の小さな手漕ぎのボートだ。その小船には一組の男女が乗っていた。
男の方はまだ声変わりが終わったばかりと言った感じの年齢だった。十五歳位だろう。
その金色の髪は太陽光を反射して、清水を湛えたローデンス湖の水面よりも瑞々しく輝いている。
肌は男とは思えぬほどに白く、その体躯はとても華奢だった。
腰には小振りのダガーを差しているが、とてもその細腕で扱えるようには見えない。
その目は深い蒼色を呈していた。見つめられれば、心の奥底までも見透かされそうな瞳だが、今はその顔は楽しそうに緩んでいる。
女の方は透き通るような銀の髪と豪華な輝きを持つ金の瞳を持つ少女だった。男よりは少し年上のように見えるが、成人はしていないだろう。
船を漕いでいるのは男の方だ。しかし、漕いでいると言うよりは、流されていると言った方が良いかもしれない。小船はローデンス湖の緩やかな流れに乗って、かすかに揺動しながら動いているのだ。
「良い天気だなぁ」
空を見上げて、少年が口元を綻ばせ、眼を細める。
ここ数日、雨こそ降らないものの、空は薄暗く雲に覆われていたのだ。
今日は久々に空が晴れたので、久しぶりに湖に出て見ようと言う事になったのである。
少女も空を見上げ、にっこりと笑う。見る者全ての心を癒すような、心に染み渡るような、そんな笑顔だ。少年も、眩しそうに眼を細めてその少女を見つめている。
「ほんと、良い天気ねぇ………」
「―――ぃ、お~いっ!」
「―――ん?」
陸の方から声が聞こえてきた。ちょうど背後の方なので、誰が呼んでいるのか少年には見えない。
しかし、彼の正面に向き合って座っている少女からは自分達を呼んでいる男の姿が良く見えた。
彼女自身と良く似た銀色の髪をした二十代後半から三十代前半と思しき男の姿が。
「振り返らないで、ライン」
振り返ろうとした少年を、少女が止める。
「―――へ?なんで?」
「良いから。私の話を聞いて」
「シエナ………」
少女の真剣な表情に気圧されて、ラインことラインハルト=シーザーは振り向こうと捻った体を戻して、正面からシエナを見た。
「ラインは知ってるよね。その、皇帝陛下が―――」
「父上は死んだんでしょう?」
それまでの明るい表情から一転、何処となく愁いを帯びた表情で、彼は言った。
「でも、それがどうしたのさ?僕には関係ないだろ。だって僕は五歳で捨てられたんだからさ」
「捨てたんじゃなくて、父さんに預けたのよ、先帝陛下は」
「別に父上を恨んではいないよ。いや、むしろ感謝してるぐらいなんだから」
ラインはその蒼い瞳を水面に落として、はにかんだような笑みを浮かべた。
「おかげで父さんにもシオン兄にもアレクにも会えた。シエナにも会えたんだから」
彼の言う父さんとは、先帝の事ではなく、彼を預かり、育ててくれたオルンヘル=クリケット伯爵の事であり、彼と話している少女はそのオルンヘルの実の娘であるシエナ=クリケット伯爵令嬢だ。
そして、陸上から彼らを呼んでいるのはシエナの兄であるシオン=クリケット。
彼は帝都ルーガ周辺の中央軍管区を管轄している第二軍の第一歩兵師団長を務めているエリート軍人なのだ。男爵の爵位も持っている。シエナはそんな兄にちらりと目をやって、
「関係ない、なんて事は無いよ。だって、貴方は正統なる皇位継承者だもの」
「僕が………皇位継承者?だって、兄上達は?」
自分には三人の兄が居た。五歳で城を出た為、その顔も良く覚えてはいないのだが。
その内の誰かが皇位を継げば良いでは無いか?
「貴方の兄弟は皆、もうこの世には居ないの」
「そんな―――」
思わず絶句するライン。自分が皇帝になる。それは、このルーガでの平和な生活が終わると言う事ではないか。シエナとも、アレクとも別れねばならなくなると言う事ではないか。
「そんなの………そんなの嫌だよ!」
首を左右に振って、ラインは船を漕ぎ出した。力一杯、水を掻き回す。陸を離れ、湖の中心に向かう。
「ライン」
静かな声だった。いつもどおり、優しい声だった。しかし、有無を言わさぬ強さがあった。ラインの手が止まる。シエナの金の瞳が真っ直ぐラインの蒼の瞳を射抜く。
「逃げちゃ駄目だよ、ライン」
「シエナ、でも………」
(僕は君と離れるのが嫌なんだ………)
「ラインはこの国をどう思う?」
「国………?」
シエナの言葉は途方も無かった。五歳でこのローデンスにやってきてから、十年。外の世界の事など何も知らずにここまで成長してきた。伯爵に随行して時折、帝都に出向いていたシエナとは異なり、彼はこの国が今どう言う状況に置かれているのかさえ全く知らなかったのだ。
「この国は覇皇フェルモアによって建国されてから三代皇帝フェルモア二世までは善政が敷かれ、素晴らしい国だった。でも、五代スレイマン二世の時から貴族の数が一気に増え、貴族の生活も派手になって行って、国の財政は圧迫され始めたの。その結果、今この国は腐敗した貴族達によって貴族院が専断され、その下の臣民院がどれほど政策案を可決しても、貴族に不利な物は全て貴族院で否決されてしまう。そのせいで、帝都の人々はもう政治に関心を持てなくなってるの」
「僕に一体、何をしろって言うのさ、シエナは」
シエナの長口舌を遮って、ラインは尋ねた。返事を聞くのは恐ろしかったが。
シエナは一端舌で唇を湿らせてから、はっきりと言った。
その金色の瞳に強い願いを込めて、じっとラインの蒼い双眸を見据えて。
「皇帝になってこの国を変えて、ライン。かつての覇皇フェルモアのように。貴方にならできる。貴方にしかできないことなのよ」
2 新帝即位
ボートから降りたラインハルトを鷹のような目をした初老の紳士が迎えた。
彼の育ての親、そしてこの城の城主であるオルンヘル=クリケット伯爵だ。
彼の傍らにはさっき陸上からラインハルトを呼んでいたシオン=クリケットの姿もある。
「どうしたの、父さん?」
覚悟は決めていたが、違う用件であって欲しいと言う願望が、ラインの口から零れた。
「帝都から使者が来た」
一瞬、心の臓が跳ね上がり、踊った。と、そんなラインの心を見透かしたかのように、シエナが手を握ってきた。彼女の手はひやりと冷たく、火照ったラインの体からすーっと強張りが抜けて行った。
振り返って目で礼を言うと、彼女も目元に微笑を滲ませてこれに答えた。
彼女が手を離し、それを契機にラインは歩き出した。
その後にオルンヘルとシオン、そして最後尾をシエナが歩いて行った。
謁見の間に入ると有無を言わさぬ勢いで、城主の席に座らされた。普段、そこに座っているオルンヘルは壁際に下る。彼の気風と言うか、ローデンスの気質と言うべきか、その部屋は質素であった。
床には絨毯すら敷かれておらず、壁には儀礼用と思しき剣が架けられ、扉の両脇には物言わぬ甲冑が立っている。しかし、ラインは知っていた。その甲冑、この席から見て左側の一体は背中が割れているのだ。それは密かにその甲冑の中に入り込み、重要な会議などを盗み聞きするために、ラインの親友でもあり、第三軍団長の赤き鬼神、ハーン=ハーベストの息子でもある若干十七歳の歩兵連隊長アレク=ハーベストが斧で割った物だ。
そして、ラインはその甲冑の空洞であるべき眼窩に強い好奇心に輝く瞳を見つけていた。
誰あろう、アレクだ。
だが、ラインはそんな親友に構っている余裕は無かった。
彼の前、五m程の距離をおいて、一人の女騎士が片膝を立てて、頭を垂れていたからだ。
兜を小脇に抱え、明るい茶髪を後ろに流している。
救いを求めるように壁際の父に視線を送ると、厳格な眼差しが返ってきた。
「お、面を上げよ」
無様にも声が裏返ってしまったが、誰も笑わない。それほどまでに謁見の間には緊張感が漲っていたのだ。ただし、扉脇の甲冑だけが少し身動ぎしたが。
ラインの許しを得て、女騎士が顔を上げる。比較対象をシエナぐらいしか知らないので確かかどうかは不明だが、騎士の顔立ちは美しいと言える物であったろう。
自信に満ち溢れた銀の瞳。鋭角的な顎の線。その鎧の左胸には国旗にも描かれる勇猛なる獣、《力強き銀獅子》の刻印が彫られている。そしてその刻印が施された白銀の甲冑を着ている事こそ、この帝国における彼女の地位を示していた。
「近衛騎士団長を務めております。アミリア=ホーンでございます。お初にお目に掛かります、殿下」
殿下。誰の事だろう。ぼんやりと考える。そして、数秒して気付く。自分の事だと。
ローデンスでは彼の事を殿下などと呼ぶ者は居ない。クリケット伯爵家の者達は家族同然で、彼の事をラインと呼ぶし、使用人もライン様ぐらいなものだ。近所の子供達だってライン兄ちゃんと呼ぶ。
恐らく、殿下などと呼ばれたのは十年ぶりだろう。
「それで………アミリア………さん?」
「呼び捨てで結構でございます」
「あ………そう、じゃあ、アミリア。貴女がここに来た用件は何?」
「御存知の事とは思いますが、二十日ほど前、先帝陛下―――貴方様の御父君にあらせられるスレイマン三世陛下が崩御遊ばされました」
「うん。知ってるよ」
「帝国府の全閣僚及び、臣民院、貴族院における審議の結果、第十五代フロレシア帝国皇帝に御即位遊ばすのが殿下。貴方様に決したのです」
「―――どうして?」
「はっ?」
ラインの質問に顔を挙げたアミリアと視線がぶつかった。
「どうして僕なんだ?僕はまだ十五歳だよ。皇帝なんて無理だ。それに―――それに、僕の他には皇位継承者は居なかったの?」
「もう一人、居られました」
「じゃあその人にしてよ!」
ラインの声はほとんど悲鳴に近かった。皇帝とはこの国の最高権力者だ。
ラインは世間知らずではあったが、支配者と言う物がどれほど苦しい思いをしなければならないのか、オルンヘル=クリケットの仕事ぶりを見ている事で知っている。
この一地方を治めているだけのオルンヘルですらその執務机の上にはいつも書類が山のように積み重なっているのだ。支配者の実像は民衆が想像しているほど華やかな物ではない。
好きな事をして、好きな物を食べ、綺麗な服を着、晩餐会で華やかに踊る。
それは確かに事実の一面だが、全てではない。
好きな事をすると言っても常に付き人が居て自由ではないし。
好きな物でも、そこに毒を盛られている可能性だってある。
綺麗な服と言っても、堅苦しいだけではないか?
晩餐会。ラインはまだ経験した事が無いけれど、オルンヘルはいつも嫌そうな顔をしてこう言っていた。
『晩餐会とは悪意と敵意、そして軽蔑を飴に包んでお世辞を言いながら敵に食わせる遊戯だ』
ローデンスを治めるだけでそれだけの苦労をしなければならない。
皇帝になればローデンスどころではない。帝国全土を支配せねばならないのだ。
フロレシア帝国の臣民は一体どれほど居るのか?およそ一億人だと言われている。
しかし、最後に戸籍を作ったのは何十年も前の事だし、中には実際よりも少ない人口を報告し、報告した労働者数に応じた税しか収めない貴族も居ると聞いた事がある。無論、浮いた収益は全て貴族の懐に消えていくのだ。実際にはどれほど居るのか、全くわからない。
だが、アミリアは己の任務に忠実な女だった。目の前に居る十五歳の心境になど拘らず、己が伝えるべき事だけを淡々とした口調で伝える。ただ、それだけ。
「もう一人の皇位継承者。貴方様には従兄弟に当たられるアリーニ=アウグウェルツ公爵様は御即位を辞退なされました」
「どうして!従兄弟って事は僕とそう歳も変わらないんでしょ?だったら、その人で良いじゃないか」
ラインはアリーニが実はオルンヘルよりも年長である事を知らない。だから、従兄弟と言う言葉で自分とほぼ同年代と想像したのだ。
「『私は所詮、傍系に過ぎない。過去に傍系が皇位を継承した例が無いわけではないが、直系を差し置いてまで即位しようなどと強欲な事を私は考えていない』これが、公爵の辞退理由です。彼は傍系。しかし、貴方様はこの地上に唯一残されたフロレシア帝国直系の血を引く御方なのです。どうぞ、帝都ルーガへ御戻りください。殿下」
「でも―――」
「皇帝になる事が不安なのはわかる。だが、安心しろ」
威圧感のある厳格な口調だが、その端々から優しさが滲み出ている声だった。
オルンヘルの言葉に、ラインがそちらに向き直る。オルンヘルはかすかに口元を綻ばせて。
「私がお前の後見人として宰相になる事になっている。宰相及び財務尚書は先帝が道連れになされたからな。財務尚書には信頼できる人材を宛ててある。お前は一人で帝都に赴くわけではないのだ。アミリア、貴族院は承知したのか?」
「はい」
アミリアは素直に頷く。
「貴族連盟が閣僚に送り込めたのは軍務尚書のツーラン=ヨーゼフ男爵だけです」
「よし」
「父さん………」
オルンヘルの体に生気が漲っている様が手に取るようにわかった。どうやら宰相の仕事に生き甲斐を見出しているようだ。その鷹のような目付きが、ラインハルトを捉えた。
「さあ、ライン、乗り込むぞ。帝都ルーガ。永遠の都へ!」
永遠の都。そこはそう呼ばれていた。
かつてはルーガの丘と呼ばれる、何の変哲も無い、ただの丘陵地帯に過ぎなかった。
ここに一人の英雄が、旗を立て、本拠地と定めるまでは。
その英雄の名はフェルモア=シーザー。彼の出自は全くの不明だ。北の大陸から海を渡ってきたという説や西の大陸から来たのだと言う説。そして、天から降臨した神の子だとする説まで、諸説ある。
だが、確かなのは、敵も味方も無く、血で血を洗う凄惨な争いを続け、無為に屍を晒し、血を大地に滲み込ませていた人々にとって、彼の存在はまさに光の英雄だったと言う事。
彼は民衆の心を掴み、瞬く間に数万の整然たる軍隊を組織し、ラスカーナ中原を席巻した。
そして、最も勇猛なる獣だと信じられていた銀獅子を描いた国旗をこのルーガの丘に立て、フロレシア帝国の建国を高らかに謳い上げたのだと言う。その様を彼に従う数万の軍勢、数十万の民衆が歓声を以て祝し、ルーガの丘陵地帯に城が建てられ、整然と区画整理された帝都が築かれた。
ラスカーナの中原を制し、大陸を縦横に結ぶ交易路を抑えた帝国は莫大な富を得、十年と経たずに広大なラスカーナ大陸を統一してしまったのだ。
そして、彼は覇皇と呼ばれる事になる。その覇皇にして建国王フェルモア=シーザーが作り上げた都。
それが永遠の都ルーガだった。
帝都のメインストリート。朱雀通り。その両側の三階建ての建物の二階や三階の窓からは斜めにポールが天に突き出され、そこから黒地に銀で縫い取られた《力強き銀獅子》の旗がラスカーナの風に吹かれて力強く翻っていた。朱雀通りの両側には一目でも良いから新たな皇帝の聖顔を拝したいと帝都はおろか北方のフォートス、南方のザルカ、東方のランヨウ、西方のセベリウンなどからも人々が集まっていた。帝都の警備を担当する緑色の軍服を着た帝都防衛隊が街路に飛び出そうとする人々を必死に抑える。
彼らの内側には通路中央を向いて、左右一列ずつ、白銀の甲冑に身を纏った騎士達が立っていた。
帝国軍中の最精鋭部隊、皇帝の親率部隊近衛騎士団だ。
朱雀通りは凱旋門から城前広場まで七キロある。城前広場の先には巨大な尖塔を三つ天に突き出したフロレシア帝国永遠の居城ルーガ城が聳えていた。その勇姿は蒼天を背景にして目にも鮮やかだ。
まるで、新たな皇帝の門出を祝すかのように、春の空は眠くなるほど暖かな快晴であった。
歓声が沸き上がる。
白銀の甲冑に身を固め、見事な毛並みの黒毛馬に跨った近衛騎士団長アミリア=ホーンを先頭に、新帝の行列が凱旋門から入都してきたのだ。
帝都に常駐している第一軍、その軍団長であるルト=リューベンがさっと片手を振り上げる。
すると彼の背後に控えていた軍楽隊が勇壮な曲を奏で始めた。
その音楽に乗せられて、新皇帝を迎える臣民達の熱狂振りはどんどん高まっていく。
前に出ようとする群衆とそれを抑えようとする帝都防衛隊との間で熾烈な駆け引きが行われる。
さらに一段と高い歓声が沸き起こった。
周りを近衛騎士に取り囲まれ、新たな皇帝が白馬に跨って凱旋門を潜ってきたのだ。
太陽の光よりも強く輝く黄金の髪。白皙の容貌。白金の甲冑。純白の戦衣。
皇帝正装に身を包んだ新たなる皇帝ラインハルト一世はまさに三百有余年の昔、この大陸を救った英雄フェルモア=シーザーの風貌として語り継がれる物と酷似していた。
しかし、その頬には朱の色が浮かび、前を向いた視線は微動だにしない。
遠目にも、彼ががちがちに緊張しているのがわかった。
彼が通り過ぎる度に、両側に立つ近衛騎士が一人一人鞘から銀の剣を抜き、天に掲げていく。
実戦用ではなく、儀礼用のこの剣は日光を受け、燦然と輝く。
『しかし、そんな輝きよりも遥かに皇帝陛下の方が輝いていた』
これはこの日のパレードを見た、当時八歳の女性が後に書いた文章の中の一節である。
熱烈な歓迎の中をパレードはゆっくりと進み、二時間余りも掛けて、ようやく城前広場に到着した。
城前広場には祭壇が設けられており、その上に棺が安置されていた。
祭壇の周りには明らかに一般庶民とは異なる服装をした人々が集っていた。路面に片膝を付くその姿は絶対の恭順の意を示しているが、内心で何を思っているかは計り知れない。
彼らこそ、長い間この国の一般庶民に圧政を布いて来た貴族達だ。
祭壇の階段から絨毯が道標のように敷かれている。アミリアが馬から降り、皇帝の馬の手綱を引き、立ち止まらせた。
「さ。陛下」
「うん」
促され、降りる。
少々よろめいたが、アミリアが己の身で皇帝の無様な姿を貴族達の目から隠してくれた。
紅の絨毯の上を一人で歩く。ともすれば膝が笑いそうになるが、何とか押さえつけ、一歩一歩、しっかりと踏み締め、足元を確認するように歩いて行く。
階段の段数は十四段だった。これは亡くなった皇帝が何代目の皇帝だったかを示しているのだと父さんが教えてくれた。
(僕が死ねば………十五段か)
不吉な想像に身震いする。父は毒殺されたのだ。その父と同じ皇帝になるのだ。
自分も同じ死に方をする可能性は十分ある。
一段一段、噛み締めた奥歯のさらに奥で数えるようにして登る。
登った先に先帝―――ラインにとっては父に当たる人物―――の棺があった。
棺には国旗が掛けられ、その上に豪華な装飾の施された鞘に収まった一振りの剣が置かれてあった。
棺の脇に一人の男が跪いていた。青い法衣に錫杖を持っている。枯れ枝のように細い体躯の男だ。
このラスカーナ大陸で最も広く信仰されている宗教であるロデン教、男はそのロデン教フロレシア大聖堂の神官長ヤヌス=ロッホだった。
予め父さんに教えて貰っていた通り、ラインは戦衣の裾を払い、棺の前に跪いた。
ヤヌスが傍らに置いてあった聖杯を取り、立ち上がる。
厳かな口ぶりで神への祈りを唱えながら、ラインの頭、両肩にそれぞれ数滴ずつ聖水を掛ける。
そして、城前広場に集った数万の群衆に向かって、声を張り上げる。
「徳を天地に及ぼし、威を四海に示し、獅子の王たるに相応しき勇猛なる王であったスレイマン三世に全ての民よ、哀悼の念を持て!亡き善隣なる指導者にロデンの神の祝福やあらん」
彼は聖杯を片手で持ち、もう片手で錫杖を振った。
しゃんっと小気味良い金属音が鳴り響く。
「そして、全ての民よ、寿げ!ここに新たなる王が誕生した。フロレシアは永遠なり。シーザー皇家は不滅なり。新たなる王にロデンの神の祝福が下されん事を!」
そして、聖杯に残っていた残り全ての聖水をラインの頭に降り注ぐ。
金の髪に絡まった水滴が光を反射し、より一層、皇帝の黄金の髪を強く輝かせる。
さながら、ラインは黄金の冠を被っているかのようであった。
彼は棺の縁を撫で、そして、剣の柄を握り、鞘ごと天に掲げた。
群衆たちから歓声が沸き上がる。
その歓声に負けぬよう、ヤヌスはさらに声を張り上げた。
「覇皇フェルモアを覇皇と成さしめた伝説の聖剣《覇皇剣-サナトゥス》は新帝の掌中にあり!この剣を持つ者、即ちシーザーの長となるべし。ここにフロレシア帝国第十五代皇帝ラインハルト一世の即位を宣言する!」
ヤヌスの宣言と同時に、軍楽隊が演奏を始め、近衛騎士団がびしっと踵を揃えた。
先帝の圧政の時代は皇帝の暗殺と言う形で終わった。
新帝の善政の可能性に賭けようではないか。
それまでの数十年間、希望も無く、暗く塞ぎこんでいた帝都の空気がこの日を以って一変した。
彼らは歴史の中の英雄に良く似た若く美しい皇帝に期待を掛け、望みを託したのだ。
彼らの望みは決して大それた物ではない。
平和で、人並みな生活がしたい。ただ、それだけのことだ。たったそれだけ。普通に人間として生きていきたい。それだけの願いなのだ。
そして、これまでの数十年間―――いや、元を辿れば二百年近く前にまで遡る事になるが、この国ではそれが許されなかったのだ。人々がラインハルト一世に期待の眼差しを向けるのは、彼の風貌が余りにも酷似していたからだ。今よりももっと凄惨で、明日の命をもわからなかった三百有余年の昔。
神の子、覇皇、建国王、光の英雄………彼を称える形容詞は無数にあると言われる。
稀代の英雄、フェルモア=シーザー、その人に。
この日、帝国暦三三二年四月二十七日、後に二人目の覇皇となる皇帝が即位した。
3 もう一人の皇位継承資格者
「良いか、良く聞いておくんだぞ、ライン。フロレシア帝国の正規軍は六つの軍団で構成されている。帝都に在留する第一軍および第二軍。北南東西を守護する第三軍、第四軍、第五軍および第六軍だ。それぞれの軍団は兵員数一万人の歩兵師団が十六個、兵員数五千人の騎兵師団が四個の、十八万名で構成される。歩兵師団は二千五百人規模の連隊四個、騎兵師団は千人規模の連隊五個で構成されている。
この六つの軍団、総兵数はこれだけで百八万人になる。だが、フロレシア帝国軍はこれだけではない。
この正規軍の他にも、ニカルド=べグアス傭兵軍団長の率いる四万人の傭兵軍団、カヘル=アイリッシュ神官軍団長の率いる一万五千名の神官軍団、ガルヴィン=ジングリッド率いる一万人の帝都防衛隊、アミリア=ホーン率いる二万名の近衛騎士団、他にも辺境や国境には数百人から数千人規模の辺境警備隊や国境警備隊などがある。これが、大陸最強と名高いフロレシア帝国軍だ。わかったか?」
「う~ん………なんだか、数字が大きすぎて実感が沸かないなぁ」
宰相オルンヘル=クリケットの説明に、曖昧な表情をする皇帝ラインハルト。
即位して三日目の四月三十日だ。昨日は一日、帝国府や軍部の高官達との顔合わせ、夜は貴族達との顔合わせを兼ねた晩餐会と思わずぐったりとしてしまうような疲れる一日だった。
しかし、嬉しい事も無かったわけではない。なんとこれで当分会う事も無いだろうと思っていたシエナと会ったのだ。しかも、彼女は皇帝付きの侍女として城内に仕える事になったのだ。
これも無論、宰相であるオルンヘルの政治力による結果なんだろうけれども、正直、ラインは小躍りしたいほどに嬉しかった。
「ならば比較して見るか。ライン、スタルナス帝国という国は知っているな?」
「うん。東の方にある国だっけ」
「それは華中大帝国だ。スタルナス帝国は西の帝国だ。二百年以上も争っている敵国の事も知らんのか、おまえは」
呆れた顔をするオルンヘル。ラインは少しだけ顔をしかめて、
「世間の俗事になど拘るなって言ってたのは誰?」
「むぅ………ごほん」
今度はオルンヘルが予想以上に苦い物を食べたというような表情をして、咳払いした。
そのまま一気に雲行きの怪しくなって来た話の方向性を切り替える。
「とにかく、スタルナス帝国の全兵力がおよそ五十万余りだ。しかもスタルナス帝国も南方にパルディア王国やネヴァラット帝国という油断のならない国を抱えているから全兵力をこちらに差し向ける事は出来ない。精々が三十万と言ったところだろう」
「でもこっちだってさっきの全軍を出撃させられるわけじゃないんでしょ?」
先を読んで口を開いた皇帝に、宰相が頷く。
「その通りだ。北方のルシタニア連合王国とは長年の友好関係にあり、問題は無いが、東の華中大帝国とは第三代フェルモア二世の御世に停戦条約を結んだが、停戦という事は戦争が終わっているわけではないという事になる。隙を見せれば攻め込んでくる可能性はあるだろう。南方はこちらも長年ラスカーナ中原を狙って北上してくるアルティス荒野の蛮族・砂の民との間に何度も戦闘が起きている危険地域だ。実際に動かせる兵力は最大でも第一・第二・第三・第六などの七十二万に傭兵軍団やらなんやらを加えても八十万程度だろう」
「なるほど。相手の二倍以上って訳だね」
「しかし、これだけの兵力を動員しようとすれば莫大な予算が必要となる。おまえはフロレシア帝国の一年の国家予算がどれほどかわかるか?」
「想像も付かないよ」
肩を竦める。ずっと田舎で野原を駆け回っていた少年に、国家財政の事などわかろうはずもない。
「およそ三十億メルダだ。知っているとは思うが一メルダは十ギミル、一ギミルは十ドールだ」
「はぁ。すごい大金だね」
途方も無い数字で、全く想像が付かない。
ローデンスに居た頃、ドール銅貨は良く見ていた。ギミル銀貨もまあまあ見かける機会があった。
しかし、メルダ金貨は大金で、子供が持たせて貰える金額ではなかった。だがまあ、一枚や二枚ならば大人達が良く持っていたりするので案外見る機会はあったように思う。
だが、三十億メルダ………金貨が三十億枚。断言できるが見た事は無い。
「だが、これでも財政は逼迫している。むしろ負債が増えているぐらいだ」
「それでも足りないの?」
開いた口が塞がらない。それだけの大金がありながら賄いきれないとは国とは一体どれほどの大飯喰らいなのだろうか。
「宮中晩餐会などの費用も馬鹿にならないし、遊興・親征なども多くの支出を齎す。旦那が戦死した貴族の未亡人には年金も払わなければならないしな」
「大変だぁ………」
「何が、『大変だぁ』だ。他人事のように」
オルンヘルは思い切り顔をしかめて、
「今、財務尚書のウェンヒルグには財政改革の素案を考えさせている。その素案に眼を通して改善点を指摘するのはお前の仕事なんだぞ」
「僕が!?そんなの無理だよ」
「無理でもやるんだ。おまえは皇帝なんだぞ」
「そんなぁ」
ウェンヒルグ=ローレンス。爵位男爵。役職財務尚書。年中汗を掻き、手拭で拭っている小太り眼鏡。
ただし、その計算能力や財政管理能力を買われ、オルンヘルの尽力によって財務尚書に就任。
気の弱い、使い勝手の良い男だという評判らしい。
「これからどんどんお前の所にも書類が行くだろう。せめて午前中は執務室に篭って書類の決裁をするんだ」
「うう………わかった」
泣きそうになりながら、ラインハルトは頷いた。
まだまだ皇帝としての威信の威の字も見あたらない。
ラインハルトが情けない悲鳴を挙げていた頃、帝都の貴族区画にある広大な敷地を持つ屋敷にて。
一人の初老の男が、背筋をぴしっと伸ばし、中庭を歩いていた。
貧民街とここら一体の貴族区画ではまるで別世界の様相を呈している。
国中の富を吸い上げ栄える貴族と搾り取られるだけの貧民。しかし、まだ都市部に住んでいる者達は恵まれている。農村部―――特に西部の、スタルナス帝国との国境線に近い農村は酷い有様だ。
貴族には容赦なく税を搾り取られる。国から課される税の上に、貴族達が己の私腹を肥やすために増税するのだ。さらには農作物の収穫時期になるとスタルナス帝国の軍が国境を越えてやってきて、略奪して行く。スタルナス帝国軍が去った後にのろのろとやってくる部隊は腐った貴族出の士官に率いられ、貴族の娯楽のために男は殺され、女は連れ去られるのだ。そのような情報は中央まではなかなか伝わってこない。貴族は貴族連盟という強力な後ろ盾によって帝国議会を牛耳り、時には帝国府に圧力を掛けてその決定を覆すような事さえも平気な顔で行う。
軍部は一部の良識ある指揮官を除いて、貴族出の次男や三男が高級士官を独占しており、いくら有能でも平民出の指揮官は普通中隊長、例外でも連隊長までしか出世できなかった。
しかし、それでもフロレシア帝国軍が崩壊せずに持ち堪えているのは軍団長達が有能だからだ。
先帝は師団長や連隊長に貴族を就ける事には何の干渉もしなかったが、軍団長だけは己の観察眼と分析眼で決めていた。そして、平民出だろうがなんだろうが採用したのだ。
それがルト=リューベンでありハーン=ハーベストであり、キップ=スナフィーであり、コーデル=ハムであり、メンフィス=レイスであり、ロックシルト=イヴァンなのだ。
彼達六人はフロレシア帝国六将軍として諸外国に恐れられていた。
彼らの存在なくば、先のエルベス川での勝利も或いはなかったかもしれない。
この国の腐敗した政治の象徴、それこそが貴族なのだ。
その貴族の邸宅が立ち並ぶ貴族区画にあって、その屋敷は最も広大な敷地を有していた。
屋敷の主人の名はアリーニ=アウグウェルツ公爵。
先帝スレイマン三世の甥に当たり、今上帝ラインハルト一世の従兄弟だ。
ただし、ラインハルト一世とは四十ほども年が離れている。
中庭にはまるで隠れるかのようにして質素な離れが立っていた。
離れの傍らには古めかしい老木が聳え、母屋からの視界を遮っている。
「待たせたな」
中に声を掛け、公爵は離れに上がった。室内には二人の男が座って彼がやってくるのを待っていた。
狭い室内で、膝を突き合わせるようにして座る。
密談を交わすのに、この程度の狭い部屋の方が小声で話せるため都合が良かったのだ。
二人は全く異なった型の人間だった。
一人は既に五十代の半ばも過ぎ、顔にはそれまでの人生を物語る年輪のような皺が刻まれている。
良く日焼けしたその肌からはいかにも軍人と言った雰囲気が滲み出ていた。
もう一人はまだ若く、どう見ても二十代であろう。先日父親が病死し、爵位を継いだばかりなのだ。
だが、その眼は少しでも己の出世に繋がりそうな材料は無いかと終始空を彷徨っている。
アリーニには何十人もの取り巻き達がいる。その多くは彼が会長を務めている貴族連盟に属している貴族達だが、中には軍人もいる。
この場に居る二人は、アリーニの取り巻きの代表的な立場にいる者達だ。
軍人の方はルト=リューベン。軍部を管掌する軍令部の軍令部長兼第一軍団長と言う軍部の最高職に就いている。これ以上、望む物が無いであろうと思うほどの高位だが、彼は貴族になる事を夢見ていた。
平民出の彼は貴族に対し、劣等感を抱いているのだ。今までにも相手が貴族であったばかりに幾度も苦杯を舐めさせられた事がある。この屈辱から逃れるためには自分もまた貴族になるしかないのだ。
青年貴族の方は名をカブラ子爵と言う。
「―――どうして、御即位を辞退など為されたのです?」
カブラ子爵は納得がいかないと言う表情で詰め寄る。
先帝が崩御した時点で、アリーニが最も玉座に近いと目されていた。
現に帝国議会では貴族連盟が上院の力を以て下院である臣民院を抑えつけ、アリーニに皇帝即位を要請する旨を可決しているし、帝国府は貴族連盟の決定に抗議する事は出来ても翻す事は出来なかった。
もし、皇帝即位の要請を彼が受け入れれば、今頃玉座に座っているのはあんな子供ではなく、彼だったはずなのだ。
「愚かな」
口辺に厳つい笑みを浮かべて、ルトがカブラ子爵を見る。
カブラ子爵の面頬に朱の色が差す。貴族は侮辱されるのが一番嫌いなのだ。
「愚かとは私の事か?リューベン閣下」
「いかにも。貴殿の事ですよ」
「聞き捨てならんな、平民の分際で―――」
「そこまでだ。子爵。リューベン卿も我らが同志では無いか」
喧嘩に発展しそうだった二人の口論を鎮め、アリーニはルトを見た。
「それほどまでに自信があるようなら、私の心の内を理解しているのであろうな?」
途端、カブラ子爵の口元に侮蔑的な笑みが浮かぶ。
「私を愚か者呼ばわりするぐらいなのだから、当然わかっているのだろうな?」
眼には挑むような色がある。喧嘩などすれば彼が勝てる相手では無いはずだが、平民が貴族に反撃するなど許されないとでも思っているのかもしれない。
「勿論。閣下は今ここで喜々として即位すればあらぬ嫌疑を掛けられる事を危惧しておられるのだ」
「ほう………あらぬ嫌疑とは?」
アリーニが少し、身を乗り出す。
「閣下が喜々として即位為されれば、民草はどう思うでしょうな?きっとこう思うのでは無いですかな?『此度の政変、さては自らが即位するために公爵が仕掛けた物であったのだな』と。閣下はそのような疑いを掛けられる事を避けるため、即位を辞退為された。違いますかな?」
「見事だ。さすがは士官学校を主席で卒業しただけの事はある」
「お褒めに預かり驚悦至極」
褒められて頭を下げるルト。顔面蒼白なのはカブラ子爵だ。今の一連の会話で、自分がルトに水を開けられたと言う事はわかった。だが、彼の頭脳ではそこまで考えが巡らなかったのだ。
「し、しかし―――」
慌てて失った点を取り戻そうと口を開く。
「これからはどうなされるのです?皇位を諦めなさるおつもりですか?」
聞いてしまってからはっとした。視界の隅で、ルトがはっきりと侮蔑の笑みを浮かべる。
激しい後悔に苛まれながら、アリーニの顔色を窺う。彼は無表情だった。
「ルト」
「はっ。ではカブラ子爵に説明して差し上げよう」
その言葉は、『お前だけがわかっていないのだ。この愚か者め』と言う言葉と同種の意味を持っていた。
しかし、言い返す事が出来ない。
「噂を流すのだ」
「―――噂?」
聞き返してしまい、我ながら自分のあほさ加減にうんざりとしてきた。
自分はきっと簡単に誘導尋問に引っかかるに違いない。
「左様。『さてはあの政変はラインハルトなる少年を皇帝の位に就かせ、これを背後から操らんと欲するオルンヘル=クリケット伯爵の陰謀なりしか』と。現に宰相となり、政治の実権を握っているのだから言い逃れは不可能だ。最低でも伯爵自身の宰相辞任は免れない。上手くすればラインハルト一世の退位もありえる。よしんば宰相辞任だけだとしても、後ろ盾を失った子供などどうとでも操れる」
恐るべき深謀遠慮としか言い様が無いだろう。
自分が皇位継承を辞退した事で世間に好印象を与え、即位した皇帝とその後見人にはその陰謀説を唱える噂をばら撒く。
「さらに―――」
口を開いたのはアリーニ自身だった。その口調はカブラ子爵に説明していると言うよりは己の策に酔っていると言う感じがした。己が皇帝となる夢によって自己陶酔の極地に至っているのだろう。
「貴族連盟の力を以て、ラインハルト帝の施政を全て潰す。先帝時代と何も変えてはならない。何も変わらなければ臣民は失望する。期待が大きかっただけにその反動もまた大きい。失望の余り、彼らはラインハルト帝の退位を要求する。その時、臣民達は思い出すのだ。即位できる格好の機会を己が傍系だからと直系の従兄弟に譲った心清き男がいた事を。その時こそ私の出番なのだ。その時こそ、私は皇帝としてこの国に君臨する。絶対の最高権力者として、な」
話し終え、アリーニは腹の底から哄笑を上げた。
それで、その日の秘密会合は終わった。怪しまれないよう、先にルトが出て暫く間を開けてからカブラ子爵はアリーニ=アウグウェルツ公爵邸を辞去した。
自分の屋敷へと向かう道すがら。
子爵の耳にはずっと公爵の哄笑が響いていた。
(あの人に付いていけば自然と上に登れる………)
公爵は自分が皇帝となった暁にはカブラ子爵の爵位を侯爵に進め、ローデンス地方を領地として与えると約束してくれた。ローデンス地方はクリケット家が代々治め、不当な重税などを掛けなかったために、人々の生活は比較的安定していると聞く。それなりに財産を溜め込んでいるだろう。
自分がクリケットに代わってローデンスの領主となった暁には、税率を引き上げ、ローデンス湖の通行料を取ろう。一体どれほどの儲けが出る事か。しかも上手くすればルシタニア連合王国との交易でも美味い汁を吸えるかもしれない。彼は非常な上機嫌で、己の屋敷へと帰って行った。
その頃、ルーガ城の皇帝執務室では。
「うわぁぁぁ、ぜんぜん、終わらないぃぃぃっ!!」
皇帝が未決の箱に入れられている数十枚の書類と既決の箱に入れられている四枚の書類を見比べ、髪を掻き毟って悲鳴を挙げていた。
「お茶が入ったわよ~、陛下」
敬語としてはどうかと思う言葉と共に、隣室の侍女室との間を遮る扉が開いて、ティーポットとカップを持ったシエナが入ってきた。
「ライン、なんだか少し憔悴してるみたいだけど大丈夫?」
「だ、大丈夫………じゃないかも」
「ちょっ、ライン!?倒れないでよ!ちょ、大丈夫!?ねえ、ラインってば!」
皇帝執務室に、侍女の慌てた声が響いていた。
4 直護衛
翌日。
「―――ヴァン=ブレイス。今後、お前の直護衛を務める男だ」
オルンヘルの説明を受けて、ラインハルトはきょとんとした眼差しをその黒髪の男に向けた。
端麗な顔付きをした男だ。体格もどちらかと言えば細身の分類に入るだろう。
しかし、その小柄な肉体は限界まで鍛え上げられた鋼の肉体のようだ。
腰にはそれなりの名剣であるらしい剣を佩いている。男は言葉を発さず、軽く頭を垂れたのみ。
男が顔を挙げると男の鮮やかなエメラルドグリーンの瞳と眼が合った。
珍しい瞳を持つ男だ。オルンヘルは次にもう一人の男の方に手を向けて、
「この男はエシュア。皇帝直属の諜報機関、暁の頭領を務める」
「エシュアでございます」
紹介を受け、男はかすかに頭を垂れた。
三十代の半ばと言った程度の年格好の男だった。ただし、顔立ちに似合わずその髪は白髪だ。
恐らくは生まれつきこうなのだろう。珍しい髪の色ではある。
エシュアの目付きは鋭かった。その気はなくとも他者を威圧してしまうような眼だ。
いきなり執務室に入って来て、人物紹介を始めた養父に、ラインハルトは困惑した視線を向けた。
「えっと………」
何を言うべきかわからない。何かを言うべきである事はわかるのだが。
「これからこの二人はお前の影となるだろう。先帝は暗殺された。お前まで暗殺させるわけにはいかん。ヴァンは平民の出だが、剣術の腕は随一だ。武闘大会に出場すればまずもって優勝は間違いない」
「はぁ………実は父さん、直護衛の推薦は他にも何人か来てるんだ」
「誰の推薦だ?」
「貴族連盟のアリーニ=アウグウェルツ公爵から」
その名を告げた途端、オルンヘルの表情が険しくなった。
眉間に皺を刻んで、何かを追い払うかのように手で空を薙ぐ。
「止めておけ。貴族連盟の息の掛かった護衛など身近に置いておけば寝首を掻かれるだけだぞ」
「うん、わかった。ヴァン、エシュア、今後余の片腕として働いて欲しい」
「…………はっ」
「暁の総力を挙げて、忠誠を尽くします」
午前中の執務を終えたラインハルトは直護衛のヴァンを連れて城を出た。
向かう先は城の隣にある練兵場だ。
「ヴァンの生まれは何処なの?」
「―――忘れました」
ラインハルトの問いに、ヴァンは淡々と答える。ラインハルトはその黒髪に縁取られた端麗な顔を見上げて、小首を傾げる。
「忘れた?………家族は?」
「―――居ません」
「そう。余は―――」
「陛下。横を向きながら歩くと危険です」
確実に、今までで一番多い字数の言葉だったろう。それは危険を警告する物だった。
ヴァンの顔を見ようとやや斜め後ろを向いて歩いていたラインハルトは道端に落ちていた小石に躓いてしまった。
「うわっ………!」
体が傾ぎ、倒れて行く。石畳で舗装された地面がぐんぐんと近づいてくる。
(ぶつかる!)
覚悟して眼を閉じた瞬間、落下が止まった。
「うえ………あ」
眼を開いて気付く。ヴァンが自分の胸に手を掛け、支えてくれている事に。
ヴァンは然程力も入れずにラインハルトを起き上がらせ、
「御怪我は?」
口調は淡々としているが、その淡い緑色の瞳は真剣そのものだ。
「大丈夫。ありがとう、ヴァン」
「―――いえ」
礼を言われて照れ臭かったのか、ヴァンがそっぽを向く。
その後も、ラインハルトが他愛も無い話をし、ヴァンが言葉少なに応えている間に、二人は練兵場に着いた。練兵場は巨大な楕円形をした運動場とそれを取り巻く石造りの石段で構成されている。石段は三十段程もあり、出陣の折などは練兵場に集結した軍勢を見るための観客席ともなるのだ。
今も石段の上にはちらほらと人影が見え、練兵場で行われている訓練を見ているようだ。
この練兵場はとにかく広く、数十万の軍勢が窮屈ではあるけれども何とか入る事が出来るほどだ。
「あ、アレクだ」
練兵場では二人の男が対峙していた。
二人とも赤髪だが、一方は年配で、もう一方はまだ若い。
第二軍団長のハーン=ハーベストと第二軍団第一歩兵師団第一歩兵連隊長のアレク=ハーベストだ。
苗字からもわかる通り、二人は親子だ。
ハーン=ハーベストは赤き鬼神と恐れられ、ラスカーナで彼の名を知らぬ者は無いと言う程に名の知れた名将だ。その息子のアレクも僅か十七歳と言う若さで連隊長に就任しており、将来が嘱望されている。
もっとも、貴族などからは父親の七光で、本人は大した軍才を持ち合わせているわけではないと批判されている。しかし、彼の率いる連隊は先のエルベス川の戦闘において目覚しい活躍をしている。彼の連隊から一名の中隊長が先帝スレイマン三世の手から軍功勲章を受け、褒美として精霊具を貰っている程なのだ。その功績によって、彼と彼の部下はそれまでの第三軍から第二軍へと異動させられていた。
実際にはその辞令が発動する前に先帝は崩御してしまったのだが、彼が毒殺される日までに彼の口から出た命令は供養の意を兼ねて全て実現される事になった。そのおかげで、それまで第三軍団長として盟邦と接する長閑な国境を守り、貿易の不正を取り締まり、時折、他の軍団の軍管区に応援に出撃するぐらいしか仕事の無い閑職に回されていたハーンは中央軍管区の守備に就く第二軍団長へと転属したのだ。
そんな武人親子は訓練用の木刀を構えて向かい合っていた。
「どれだけ腕を挙げたか確めてやろう」
「一撃でノしてやるから覚悟しやがれ、親父」
「ア―――」
声を掛けようとしたラインハルトは、二人の体から噴き出した何かに気圧されて、言葉を飲み込んだ。
「闘気です。互いに本気の勝負をしようとしているのです。邪魔はしない方が良いでしょう」
淡々とした口調で言いながら、ヴァンの緑色の瞳は輝き、向かい合う二人の軍人に向いていた。
「そうだね」
ラインハルトは頷いて、石段に腰を下ろした。ヴァンは立ったまま、一瞬たりとも見逃すまいと心に決めているかのように視線を二人に注いでいる。
「行くぞ!」
「来い!」
それまでの静止状態が夢か幻だったかのように、アレクが一気に地を蹴った。
「速い!」
唸るような声を上げたのはヴァンだ。
アレクは一瞬で距離を詰め、残像が浮き出るような高速の斬撃を繰り出した。
パァンッ!!
何かが弾ける様な音。弾けたのは、アレクの持つ木刀だった。
「強い!」
再び感嘆の声を漏らすヴァン。ハーンが木刀でアレクの斬撃を受け止めたのだ。その瞬間に、両者の間にどれほどの力が炸裂したのか、答えは爆裂四散したアレクの木刀を見れば一目瞭然だ。
「はぁはぁはぁ………」
四散した木刀の柄だけを持って、アレクがその場に座り込む。
「まだまだ青臭いな」
「うるせぇっ!親父が反則的な強さなんだよ!」
「そのような相手と戦わねばならぬ時に泣き言を言うのか?おまえが強いから悪いんだ、と?それで何が変わる?おまえが命を助けて貰えるわけでもあるまい。弱さは罪にも等しい」
「わかったよ。強くなりゃ良いんだろ」
「今のように女に現を抜かしてるようでは果たして強くなれるかどうか………もっと手綱を締めるようリーナに申し付けたほうが良いかも知れんな」
「それだけは勘弁!今ですらあいつの鎌に追いたてられる日々なのに、これ以上なんて俺が死んじまう」
「ならば女遊びは―――」
「知ってんだぞ、親父」
「な、何をだ?」
「親父が密かにリリィの店とか言ういかがわしい店に出入りしてんのを」
「なっ―――」
途端、それまで余裕の体であったハーンの厳つい顔が真っ青になった。
「なんでそれを………」
声も掠れている。
「親父は第二軍団長、有名なんだぞ?そんな親父が風俗街に出入りしてたら嫌でも噂が立つってんだ。まあ、安心しなって。こう言った噂が自然とローデンスに伝わったりする事はねえよ。自然にはな」
「お、おまえまさか―――」
今にも倒れそうなほどに顔面を青くして、ハーンが震える声で尋ねる。
「母さんには俺が伝え―――」
「うわぁぁぁっ!!悪かった、俺が悪かった!だから、あいつにだけはいわんでくれ!あれは付き合いだったんだ!リューベン将軍に誘われて―――」
「言い訳は見苦しいな、親父。一回だけなら付き合いでも、二回三回となりゃ別だろ?」
「ぐっ―――」
ハーンが顔を歪めて沈黙する。実は彼、恐妻家―――もとい、愛妻家なのだ。
大陸中にその武勇を轟かすフロレシアの名将は実は妻に頭の上がらない夫なのである。
もっとも、彼の妻が特別だと言う見方もある。
ラインハルトも一度、ハーンの妻が人間の胴回りよりも遥かに太い巨木を拳一発だけで倒している様を見た事があるし、夫婦喧嘩の結果、見るも無残な姿となって城に逃げ込んで来ては父さんに助けを請うハーン小父さんの姿も何度も見かけている。
なので、ラインはヴァンを連れて石段を降り、二人の間に割って入るのであった。
「まあまあ、二人ともそのぐらいにしとこうよ」
「あ、ラ―――」
「陛下!」
割って入ってきたラインに、アレクが気楽に名を呼ぼうとするとその襟を掴んで、ハーンが無理やりその場に跪かせた。自分もその隣に跪く。
「うがっ!なにすんだよ、親父!」
「馬鹿が!ラインはもう皇帝陛下なんだぞ、気安く名を呼ぶな!」
「お、小父さん、そんな良いよ、今まで通りで」
慌てて立たそうとするライン。するとハーンは呆気なく立ち上がり、
「そうか。だがまぁ、公の場では立場をはっきりさせなきゃいけないからな」
アレクは襟を正しながら立ち上がって、
「ったく、この親父は………んで、そっちのは誰だ?」
ラインの斜め後ろに立つヴァンを見ながら聞く。
「僕の護衛役になったヴァン=ブレイスだよ」
「―――宜しく」
「剣を使うのか?」
「―――それが?」
「手合わせ願いたい。皇帝の護衛に相応しいかどうか、皇帝の幼馴染であるこの俺が試させて貰おう」
「ちょっと、アレク!」
「構いません。私も貴方に興味がある。名は?」
「第二軍団第一歩兵師団第一連隊長アレク=ハーベスト」
「小父さん!」
すっかりやる気の二人を止めようとハーンに助けを求める。
が、ハーンは首を左右に振って、
「やらせてやれ。確かにアレクの言う通り、アレクに勝てない程度の腕前ならば皇帝の護衛役としては不適格だ。推薦人はクリケット卿か?」
「うん」
アレクとヴァンは十m程の距離を開けて向き合った。
「木刀だ」
ハーンが二本の木刀をヴァンとアレクに投げ渡す。
アレクは木刀をすれすれまで地面に下ろして構えた。
ヴァンは何も構えない。ただ木刀を持った手を垂直に下ろしているだけだ。
顔も含め、全身の筋肉が動きを止めている様だ。
動かない表情の中で、エメラルドグリーンの瞳だけが生き生きと輝いていた。
アレクの体から闘気が噴き出す。思わずラインが息苦しさを覚えるほどの圧力を感じる。
そんな圧力の中、ハーンは平然と立っているし、直接その闘気を向けられているヴァンにも全く動揺がない。そのヴァンの体からは全く闘気のような物が噴き出ていなかった。
(なんだ、一体?)
アレクは息苦しさを覚えて、思わず心の中で呟いた。
ヴァンからは全く闘気や殺気と言うものを感じない。なのに、全身の筋肉が強張り、肌がぴりぴりするような圧力を感じる。じんわりと汗が浮かんでくる。汗は瞬く間に玉となり、流れ出した。
その内の一粒が、目の中に入ってきた。
「っ………」
思わず目を瞑る。慌ててすぐに開く。
「なっ―――」
目を瞑る前まで、確かに十m前に居たはずのヴァンが眼前に迫っていた。
今の一瞬にも満たない時間の間に、十mという距離の半ば以上を走破して来たのだ。
アレクは後ろに跳びながら、下に下ろしていた木刀を跳ね上げるようにして斬撃を繰り出していた。
喪失感に続いて痺れが右腕を支配した。
ヴァンの放った一撃がアレクの手元から木刀を弾き飛ばしたのだ。
さらにヴァンは距離を詰め、着地したアレクの軸足を払った。
「うあっ」
ひとたまりも無く尻餅を付くアレク。その眼前に、木刀が突きつけられた。
「―――勝負有り」
淡々とした口調で言い、ヴァンが木刀を引く。
「とんでもねぇ強さだな」
苦笑しつつ、アレクは立ち上がって尻の埃を払った。驚いたのはハーンも同様だった。
「一体、宰相は何処であんな逸材を見つけたんだ?」
「さあ。父さんは昔から独自の人脈を持ってたからね」
「…。ライン、最近のお前の評判を知っているか?」
「僕の?………いや」
首を左右に振る。この頃はずっと執務室に篭って書類と格闘していたからだ。
だが、ハーンの表情を見れば、あまり芳しくないという事はわかる。
「宰相の傀儡、だ」
「父さんの………傀儡?」
「そうだ。宰相はお前の周りに自分の息の掛かった者ばかりを集めて固めている。それを妬んだ貴族達がそう言った評判の出所だろう。民衆の評価はまだなんとも言えないな。目に見える成果が出ればまた話も違ってくるだろう。おまえの当面の最大の敵は貴族連盟だろうから、心得ておけ」
「わかった」
第一章 少年皇帝
1 先帝崩御
群小なる輩、互いに互いを憎しみ、恨み、争い、乱れる大陸ラスカーナ。
争いを収め、大陸に平和なる極楽王土を築き者―――その者、覇皇なり。
《ラスカーナ史書 第五巻 第三章 第二節より》
帝国暦三三二年、四月一日。
この日、ラスカーナ大陸の中原を支配し、大陸最強の強国と名高いフロレシア帝国全土に激震が走った。
強大な帝国に君臨する皇帝スレイマン三世が突如として崩御したのだ。
帝国中の貴族が一同に会した晩餐会において、気心の知れた腹心達と此度の対スタルナス帝国戦大勝利を肴に、ローデンス地方の清き水で作られた酒をさも水であるかのように胃に流し込んでいた皇帝が突如として目を剥き、喉を抑え、どす黒い血を吐いた。
苦しげにのた打ち回った挙句、抑えようとした腹心に佩刀《覇皇剣-サナトゥス》を抜いて斬りかかり、己の血と腹心の返り血に全身を朱に染め、最後は苦しみの余りか、或いは武人としての矜持の為か、己の心の臓を一突きにして息絶えた。誰もが呆気に取られ、一歩も動けぬあっという間の出来事だった。
晩餐会場となったルーガ城の大広間はそれまでの騒がしい貴族達の御世辞によって塗り固められた悪意の応酬から解放され、水を打ったかのような沈黙に包まれた。
誰もが呆然としていた。皇帝こそ、彼らにとって絶対たる存在だった。
その強靭な肉体、如何なる剣士をも寄せ付けぬ剣技。
その声はフロレシア帝国の国旗にも描かれている勇猛なる銀獅子をも怯ませる。
普段は暴虐なる王。しかし、戦場に立てばその勇猛さは何人の追随をも許さなかった。
遂先立って行われたスタルナス帝国侵攻軍との戦闘においても、彼を先頭に、第一軍・第二軍・第六軍からなるフロレシア帝国軍は勇猛果敢に戦い、スタルナス帝国の名老将キエフ=ロドリナス、左右不揃いの瞳を持ち、キエフ=ロドリナスの薫陶を受けた妖将オルティア=フリンシュの率いる軍勢をほぼ完膚なきまでに叩き潰したばかりなのだ。
両国の国境を流れるエルベス川はスタルナス帝国兵の死骸とその骸から流れ出した血によって赤く染まったと言われるほどの大勝利を収め、ラスカーナ大陸全土にその強さを見せつけたのだ。
その祝勝会において、主人公たる皇帝が死んだ。
貴族も、護衛の近衛騎士も、給仕達も、誰もが動かない。
その間にも倒れた皇帝と彼に斬り殺された腹心達の骸から流れ出した血が大広間の床に敷かれた豪奢な紗の絨毯をどす黒く染めていく。
最初に動いたのは、女だった。明るい茶髪に、銀の瞳。その瞳は揺れ、彼女の内心の動揺を吐き出している。彼女の名はアミリア=ホーン。近衛騎士団長の位にある。彼女は近衛騎士団のみが着用を許される、左胸に《力強き銀獅子》の刻印を刻まれた白銀の甲冑に血が付くのも構わず、事切れた皇帝の傍らに膝を落とした。
そっと首筋に触れる。遂先程までその巨躯の中を駆け巡っていた熱く激しい血潮の流れを感じ取る事は出来なかった。
彼女の唇が震えながら開く。
「皇帝………陛下が………お隠れ遊ばし………ました」
そしてそのまま、放心したように座りこんでしまう。
その場に言い様の無い空気が満ちた。貴族達は目の前で起きた物事を理解しても、誰一人として涙を零す者は居なかった。皇帝―――いや、先帝は強き王ではあったが、人々に慕われる王では無かったのだ。
貴族達の視線はゆっくりと一人の人物の面上へと集って行った。
その男は今ここで崩御したフロレシア帝国第十四代皇帝スレイマン三世の兄、第十三代皇帝クライス四世の息子であった。スレイマン三世の甥に当たる。とはいえ、クライス四世とスレイマン三世は年齢が二十も離れており、この時、男は亡くなったスレイマン三世の二つ歳下であった。
男の名はアリーニ=アウグウェルツ。爵位は公爵。年齢は五十五歳。
そして、彼こそが、今この場に居る者達の中で、最も皇帝の座に近い男だった。
スレイマン三世には四人の男児が居たが、一人は生まれつき病弱で二歳で病死。二人目は育った物の、父親の施政方針に反対し、処刑され、三人目は次代の皇帝と嘱望されていたが、先のエルベス川における戦闘で、敵の矢から父を庇い、戦死していた。四人目は宮廷の権力闘争の渦中から引き離し、将来的にロデン教の聖職者にでもするつもりで、ある貴族に預けられている。
視線の集った先で、アリーニ=アウグウェルツは一人の男を見返していた。
白髪の混じった黒髪、鷹のような眼光をした男だ。
名をオルンヘル=クリケット。爵位は伯爵。年齢はアリーニ=アウグウェルツよりも三つ年下の五十二歳。爵位で言えば下。家の格から言っても、アウグウェルツ家が皇族の分家なのに対し、クリケット家は北方の田舎ローデンス地方の地方領主に過ぎない。
だが、オルンヘルの掌中には先帝の遺児が握られているのだ。
乱れに乱れていたラスカーナ大陸をフェルモア=シーザーが統一し、覇皇と称えられ、フロレシア帝国を建国してより、三百有余年。
腐敗した貴族による支配によって、フロレシアの国力は疲弊しきっていた。
親征と遊興に明け暮れ、政治を貴族に任せ切っていた先帝スレイマン三世の治世はフロレシアの未来に暗い暗雲を差し掛けていた。しかし、彼の存在は諸外国からの侵略を押し留めると言う面では大変な効力を有していた。国運を賭けて戦われたエルベス川の戦いにおいて勝利したフロレシアはとりあえず亡国の危機を脱したと民草の間にも久々に明るい顔が見えていたのに。
その皇帝が崩御してしまった。
後に残されたのは、果て無き権力闘争の火種のみ。
スレイマン三世崩御の報は咄嗟に張られた情報統制にも拘らず、一週間と経たずにフロレシア帝国全土に拡大。そして、国境をも越え、ラスカーナ大陸中の人々の知る所となった。
スレイマン三世崩御より、およそ一ヶ月が経った帝国暦三三二年四月二十三日。
フロレシア北方の湖沼地帯、そこはローデンス地方と呼ばれていた。
一年を通じて穏やかな気候を持つ地方で、四季折々の花々が美しく、さらにはローデンス湖と言う美しい湖を有する風光明媚な地で、帝国中から癒しを求めて観光客が訪れる。
ただし、ここ数十年は貴族の腐敗政治のため人々の暮らしは貧しく、旅をするだけの財力がある家は珍しい。ローデンス湖を訪れる観光客も今ではすっかりその姿を見なくなってしまった。
このローデンス湖を中心とするローデンス地方を支配しているのがクリケット伯爵家である。
領内にはフロレシア帝国第三軍の司令部が置かれているフォートスもある。
伯爵家の居城はローデンス湖に突き出した半島の突端にあった。半島側にも運河が通っており、さながら水上に浮いているようにも見える。湖側にはいざと言うときには脱出用にも使われる水門があった。
もっとも、普段は湖の反対側にあるフォートスとの交易に使われている。
フォートスはフロレシア北方の盟邦ルシタニア連合王国との交易の拠点として栄えている商業都市だ。
その水門が開き、一艘の小船が走り出てきた。
二人乗り程度の小さな手漕ぎのボートだ。その小船には一組の男女が乗っていた。
男の方はまだ声変わりが終わったばかりと言った感じの年齢だった。十五歳位だろう。
その金色の髪は太陽光を反射して、清水を湛えたローデンス湖の水面よりも瑞々しく輝いている。
肌は男とは思えぬほどに白く、その体躯はとても華奢だった。
腰には小振りのダガーを差しているが、とてもその細腕で扱えるようには見えない。
その目は深い蒼色を呈していた。見つめられれば、心の奥底までも見透かされそうな瞳だが、今はその顔は楽しそうに緩んでいる。
女の方は透き通るような銀の髪と豪華な輝きを持つ金の瞳を持つ少女だった。男よりは少し年上のように見えるが、成人はしていないだろう。
船を漕いでいるのは男の方だ。しかし、漕いでいると言うよりは、流されていると言った方が良いかもしれない。小船はローデンス湖の緩やかな流れに乗って、かすかに揺動しながら動いているのだ。
「良い天気だなぁ」
空を見上げて、少年が口元を綻ばせ、眼を細める。
ここ数日、雨こそ降らないものの、空は薄暗く雲に覆われていたのだ。
今日は久々に空が晴れたので、久しぶりに湖に出て見ようと言う事になったのである。
少女も空を見上げ、にっこりと笑う。見る者全ての心を癒すような、心に染み渡るような、そんな笑顔だ。少年も、眩しそうに眼を細めてその少女を見つめている。
「ほんと、良い天気ねぇ………」
「―――ぃ、お~いっ!」
「―――ん?」
陸の方から声が聞こえてきた。ちょうど背後の方なので、誰が呼んでいるのか少年には見えない。
しかし、彼の正面に向き合って座っている少女からは自分達を呼んでいる男の姿が良く見えた。
彼女自身と良く似た銀色の髪をした二十代後半から三十代前半と思しき男の姿が。
「振り返らないで、ライン」
振り返ろうとした少年を、少女が止める。
「―――へ?なんで?」
「良いから。私の話を聞いて」
「シエナ………」
少女の真剣な表情に気圧されて、ラインことラインハルト=シーザーは振り向こうと捻った体を戻して、正面からシエナを見た。
「ラインは知ってるよね。その、皇帝陛下が―――」
「父上は死んだんでしょう?」
それまでの明るい表情から一転、何処となく愁いを帯びた表情で、彼は言った。
「でも、それがどうしたのさ?僕には関係ないだろ。だって僕は五歳で捨てられたんだからさ」
「捨てたんじゃなくて、父さんに預けたのよ、先帝陛下は」
「別に父上を恨んではいないよ。いや、むしろ感謝してるぐらいなんだから」
ラインはその蒼い瞳を水面に落として、はにかんだような笑みを浮かべた。
「おかげで父さんにもシオン兄にもアレクにも会えた。シエナにも会えたんだから」
彼の言う父さんとは、先帝の事ではなく、彼を預かり、育ててくれたオルンヘル=クリケット伯爵の事であり、彼と話している少女はそのオルンヘルの実の娘であるシエナ=クリケット伯爵令嬢だ。
そして、陸上から彼らを呼んでいるのはシエナの兄であるシオン=クリケット。
彼は帝都ルーガ周辺の中央軍管区を管轄している第二軍の第一歩兵師団長を務めているエリート軍人なのだ。男爵の爵位も持っている。シエナはそんな兄にちらりと目をやって、
「関係ない、なんて事は無いよ。だって、貴方は正統なる皇位継承者だもの」
「僕が………皇位継承者?だって、兄上達は?」
自分には三人の兄が居た。五歳で城を出た為、その顔も良く覚えてはいないのだが。
その内の誰かが皇位を継げば良いでは無いか?
「貴方の兄弟は皆、もうこの世には居ないの」
「そんな―――」
思わず絶句するライン。自分が皇帝になる。それは、このルーガでの平和な生活が終わると言う事ではないか。シエナとも、アレクとも別れねばならなくなると言う事ではないか。
「そんなの………そんなの嫌だよ!」
首を左右に振って、ラインは船を漕ぎ出した。力一杯、水を掻き回す。陸を離れ、湖の中心に向かう。
「ライン」
静かな声だった。いつもどおり、優しい声だった。しかし、有無を言わさぬ強さがあった。ラインの手が止まる。シエナの金の瞳が真っ直ぐラインの蒼の瞳を射抜く。
「逃げちゃ駄目だよ、ライン」
「シエナ、でも………」
(僕は君と離れるのが嫌なんだ………)
「ラインはこの国をどう思う?」
「国………?」
シエナの言葉は途方も無かった。五歳でこのローデンスにやってきてから、十年。外の世界の事など何も知らずにここまで成長してきた。伯爵に随行して時折、帝都に出向いていたシエナとは異なり、彼はこの国が今どう言う状況に置かれているのかさえ全く知らなかったのだ。
「この国は覇皇フェルモアによって建国されてから三代皇帝フェルモア二世までは善政が敷かれ、素晴らしい国だった。でも、五代スレイマン二世の時から貴族の数が一気に増え、貴族の生活も派手になって行って、国の財政は圧迫され始めたの。その結果、今この国は腐敗した貴族達によって貴族院が専断され、その下の臣民院がどれほど政策案を可決しても、貴族に不利な物は全て貴族院で否決されてしまう。そのせいで、帝都の人々はもう政治に関心を持てなくなってるの」
「僕に一体、何をしろって言うのさ、シエナは」
シエナの長口舌を遮って、ラインは尋ねた。返事を聞くのは恐ろしかったが。
シエナは一端舌で唇を湿らせてから、はっきりと言った。
その金色の瞳に強い願いを込めて、じっとラインの蒼い双眸を見据えて。
「皇帝になってこの国を変えて、ライン。かつての覇皇フェルモアのように。貴方にならできる。貴方にしかできないことなのよ」
2 新帝即位
ボートから降りたラインハルトを鷹のような目をした初老の紳士が迎えた。
彼の育ての親、そしてこの城の城主であるオルンヘル=クリケット伯爵だ。
彼の傍らにはさっき陸上からラインハルトを呼んでいたシオン=クリケットの姿もある。
「どうしたの、父さん?」
覚悟は決めていたが、違う用件であって欲しいと言う願望が、ラインの口から零れた。
「帝都から使者が来た」
一瞬、心の臓が跳ね上がり、踊った。と、そんなラインの心を見透かしたかのように、シエナが手を握ってきた。彼女の手はひやりと冷たく、火照ったラインの体からすーっと強張りが抜けて行った。
振り返って目で礼を言うと、彼女も目元に微笑を滲ませてこれに答えた。
彼女が手を離し、それを契機にラインは歩き出した。
その後にオルンヘルとシオン、そして最後尾をシエナが歩いて行った。
謁見の間に入ると有無を言わさぬ勢いで、城主の席に座らされた。普段、そこに座っているオルンヘルは壁際に下る。彼の気風と言うか、ローデンスの気質と言うべきか、その部屋は質素であった。
床には絨毯すら敷かれておらず、壁には儀礼用と思しき剣が架けられ、扉の両脇には物言わぬ甲冑が立っている。しかし、ラインは知っていた。その甲冑、この席から見て左側の一体は背中が割れているのだ。それは密かにその甲冑の中に入り込み、重要な会議などを盗み聞きするために、ラインの親友でもあり、第三軍団長の赤き鬼神、ハーン=ハーベストの息子でもある若干十七歳の歩兵連隊長アレク=ハーベストが斧で割った物だ。
そして、ラインはその甲冑の空洞であるべき眼窩に強い好奇心に輝く瞳を見つけていた。
誰あろう、アレクだ。
だが、ラインはそんな親友に構っている余裕は無かった。
彼の前、五m程の距離をおいて、一人の女騎士が片膝を立てて、頭を垂れていたからだ。
兜を小脇に抱え、明るい茶髪を後ろに流している。
救いを求めるように壁際の父に視線を送ると、厳格な眼差しが返ってきた。
「お、面を上げよ」
無様にも声が裏返ってしまったが、誰も笑わない。それほどまでに謁見の間には緊張感が漲っていたのだ。ただし、扉脇の甲冑だけが少し身動ぎしたが。
ラインの許しを得て、女騎士が顔を上げる。比較対象をシエナぐらいしか知らないので確かかどうかは不明だが、騎士の顔立ちは美しいと言える物であったろう。
自信に満ち溢れた銀の瞳。鋭角的な顎の線。その鎧の左胸には国旗にも描かれる勇猛なる獣、《力強き銀獅子》の刻印が彫られている。そしてその刻印が施された白銀の甲冑を着ている事こそ、この帝国における彼女の地位を示していた。
「近衛騎士団長を務めております。アミリア=ホーンでございます。お初にお目に掛かります、殿下」
殿下。誰の事だろう。ぼんやりと考える。そして、数秒して気付く。自分の事だと。
ローデンスでは彼の事を殿下などと呼ぶ者は居ない。クリケット伯爵家の者達は家族同然で、彼の事をラインと呼ぶし、使用人もライン様ぐらいなものだ。近所の子供達だってライン兄ちゃんと呼ぶ。
恐らく、殿下などと呼ばれたのは十年ぶりだろう。
「それで………アミリア………さん?」
「呼び捨てで結構でございます」
「あ………そう、じゃあ、アミリア。貴女がここに来た用件は何?」
「御存知の事とは思いますが、二十日ほど前、先帝陛下―――貴方様の御父君にあらせられるスレイマン三世陛下が崩御遊ばされました」
「うん。知ってるよ」
「帝国府の全閣僚及び、臣民院、貴族院における審議の結果、第十五代フロレシア帝国皇帝に御即位遊ばすのが殿下。貴方様に決したのです」
「―――どうして?」
「はっ?」
ラインの質問に顔を挙げたアミリアと視線がぶつかった。
「どうして僕なんだ?僕はまだ十五歳だよ。皇帝なんて無理だ。それに―――それに、僕の他には皇位継承者は居なかったの?」
「もう一人、居られました」
「じゃあその人にしてよ!」
ラインの声はほとんど悲鳴に近かった。皇帝とはこの国の最高権力者だ。
ラインは世間知らずではあったが、支配者と言う物がどれほど苦しい思いをしなければならないのか、オルンヘル=クリケットの仕事ぶりを見ている事で知っている。
この一地方を治めているだけのオルンヘルですらその執務机の上にはいつも書類が山のように積み重なっているのだ。支配者の実像は民衆が想像しているほど華やかな物ではない。
好きな事をして、好きな物を食べ、綺麗な服を着、晩餐会で華やかに踊る。
それは確かに事実の一面だが、全てではない。
好きな事をすると言っても常に付き人が居て自由ではないし。
好きな物でも、そこに毒を盛られている可能性だってある。
綺麗な服と言っても、堅苦しいだけではないか?
晩餐会。ラインはまだ経験した事が無いけれど、オルンヘルはいつも嫌そうな顔をしてこう言っていた。
『晩餐会とは悪意と敵意、そして軽蔑を飴に包んでお世辞を言いながら敵に食わせる遊戯だ』
ローデンスを治めるだけでそれだけの苦労をしなければならない。
皇帝になればローデンスどころではない。帝国全土を支配せねばならないのだ。
フロレシア帝国の臣民は一体どれほど居るのか?およそ一億人だと言われている。
しかし、最後に戸籍を作ったのは何十年も前の事だし、中には実際よりも少ない人口を報告し、報告した労働者数に応じた税しか収めない貴族も居ると聞いた事がある。無論、浮いた収益は全て貴族の懐に消えていくのだ。実際にはどれほど居るのか、全くわからない。
だが、アミリアは己の任務に忠実な女だった。目の前に居る十五歳の心境になど拘らず、己が伝えるべき事だけを淡々とした口調で伝える。ただ、それだけ。
「もう一人の皇位継承者。貴方様には従兄弟に当たられるアリーニ=アウグウェルツ公爵様は御即位を辞退なされました」
「どうして!従兄弟って事は僕とそう歳も変わらないんでしょ?だったら、その人で良いじゃないか」
ラインはアリーニが実はオルンヘルよりも年長である事を知らない。だから、従兄弟と言う言葉で自分とほぼ同年代と想像したのだ。
「『私は所詮、傍系に過ぎない。過去に傍系が皇位を継承した例が無いわけではないが、直系を差し置いてまで即位しようなどと強欲な事を私は考えていない』これが、公爵の辞退理由です。彼は傍系。しかし、貴方様はこの地上に唯一残されたフロレシア帝国直系の血を引く御方なのです。どうぞ、帝都ルーガへ御戻りください。殿下」
「でも―――」
「皇帝になる事が不安なのはわかる。だが、安心しろ」
威圧感のある厳格な口調だが、その端々から優しさが滲み出ている声だった。
オルンヘルの言葉に、ラインがそちらに向き直る。オルンヘルはかすかに口元を綻ばせて。
「私がお前の後見人として宰相になる事になっている。宰相及び財務尚書は先帝が道連れになされたからな。財務尚書には信頼できる人材を宛ててある。お前は一人で帝都に赴くわけではないのだ。アミリア、貴族院は承知したのか?」
「はい」
アミリアは素直に頷く。
「貴族連盟が閣僚に送り込めたのは軍務尚書のツーラン=ヨーゼフ男爵だけです」
「よし」
「父さん………」
オルンヘルの体に生気が漲っている様が手に取るようにわかった。どうやら宰相の仕事に生き甲斐を見出しているようだ。その鷹のような目付きが、ラインハルトを捉えた。
「さあ、ライン、乗り込むぞ。帝都ルーガ。永遠の都へ!」
永遠の都。そこはそう呼ばれていた。
かつてはルーガの丘と呼ばれる、何の変哲も無い、ただの丘陵地帯に過ぎなかった。
ここに一人の英雄が、旗を立て、本拠地と定めるまでは。
その英雄の名はフェルモア=シーザー。彼の出自は全くの不明だ。北の大陸から海を渡ってきたという説や西の大陸から来たのだと言う説。そして、天から降臨した神の子だとする説まで、諸説ある。
だが、確かなのは、敵も味方も無く、血で血を洗う凄惨な争いを続け、無為に屍を晒し、血を大地に滲み込ませていた人々にとって、彼の存在はまさに光の英雄だったと言う事。
彼は民衆の心を掴み、瞬く間に数万の整然たる軍隊を組織し、ラスカーナ中原を席巻した。
そして、最も勇猛なる獣だと信じられていた銀獅子を描いた国旗をこのルーガの丘に立て、フロレシア帝国の建国を高らかに謳い上げたのだと言う。その様を彼に従う数万の軍勢、数十万の民衆が歓声を以て祝し、ルーガの丘陵地帯に城が建てられ、整然と区画整理された帝都が築かれた。
ラスカーナの中原を制し、大陸を縦横に結ぶ交易路を抑えた帝国は莫大な富を得、十年と経たずに広大なラスカーナ大陸を統一してしまったのだ。
そして、彼は覇皇と呼ばれる事になる。その覇皇にして建国王フェルモア=シーザーが作り上げた都。
それが永遠の都ルーガだった。
帝都のメインストリート。朱雀通り。その両側の三階建ての建物の二階や三階の窓からは斜めにポールが天に突き出され、そこから黒地に銀で縫い取られた《力強き銀獅子》の旗がラスカーナの風に吹かれて力強く翻っていた。朱雀通りの両側には一目でも良いから新たな皇帝の聖顔を拝したいと帝都はおろか北方のフォートス、南方のザルカ、東方のランヨウ、西方のセベリウンなどからも人々が集まっていた。帝都の警備を担当する緑色の軍服を着た帝都防衛隊が街路に飛び出そうとする人々を必死に抑える。
彼らの内側には通路中央を向いて、左右一列ずつ、白銀の甲冑に身を纏った騎士達が立っていた。
帝国軍中の最精鋭部隊、皇帝の親率部隊近衛騎士団だ。
朱雀通りは凱旋門から城前広場まで七キロある。城前広場の先には巨大な尖塔を三つ天に突き出したフロレシア帝国永遠の居城ルーガ城が聳えていた。その勇姿は蒼天を背景にして目にも鮮やかだ。
まるで、新たな皇帝の門出を祝すかのように、春の空は眠くなるほど暖かな快晴であった。
歓声が沸き上がる。
白銀の甲冑に身を固め、見事な毛並みの黒毛馬に跨った近衛騎士団長アミリア=ホーンを先頭に、新帝の行列が凱旋門から入都してきたのだ。
帝都に常駐している第一軍、その軍団長であるルト=リューベンがさっと片手を振り上げる。
すると彼の背後に控えていた軍楽隊が勇壮な曲を奏で始めた。
その音楽に乗せられて、新皇帝を迎える臣民達の熱狂振りはどんどん高まっていく。
前に出ようとする群衆とそれを抑えようとする帝都防衛隊との間で熾烈な駆け引きが行われる。
さらに一段と高い歓声が沸き起こった。
周りを近衛騎士に取り囲まれ、新たな皇帝が白馬に跨って凱旋門を潜ってきたのだ。
太陽の光よりも強く輝く黄金の髪。白皙の容貌。白金の甲冑。純白の戦衣。
皇帝正装に身を包んだ新たなる皇帝ラインハルト一世はまさに三百有余年の昔、この大陸を救った英雄フェルモア=シーザーの風貌として語り継がれる物と酷似していた。
しかし、その頬には朱の色が浮かび、前を向いた視線は微動だにしない。
遠目にも、彼ががちがちに緊張しているのがわかった。
彼が通り過ぎる度に、両側に立つ近衛騎士が一人一人鞘から銀の剣を抜き、天に掲げていく。
実戦用ではなく、儀礼用のこの剣は日光を受け、燦然と輝く。
『しかし、そんな輝きよりも遥かに皇帝陛下の方が輝いていた』
これはこの日のパレードを見た、当時八歳の女性が後に書いた文章の中の一節である。
熱烈な歓迎の中をパレードはゆっくりと進み、二時間余りも掛けて、ようやく城前広場に到着した。
城前広場には祭壇が設けられており、その上に棺が安置されていた。
祭壇の周りには明らかに一般庶民とは異なる服装をした人々が集っていた。路面に片膝を付くその姿は絶対の恭順の意を示しているが、内心で何を思っているかは計り知れない。
彼らこそ、長い間この国の一般庶民に圧政を布いて来た貴族達だ。
祭壇の階段から絨毯が道標のように敷かれている。アミリアが馬から降り、皇帝の馬の手綱を引き、立ち止まらせた。
「さ。陛下」
「うん」
促され、降りる。
少々よろめいたが、アミリアが己の身で皇帝の無様な姿を貴族達の目から隠してくれた。
紅の絨毯の上を一人で歩く。ともすれば膝が笑いそうになるが、何とか押さえつけ、一歩一歩、しっかりと踏み締め、足元を確認するように歩いて行く。
階段の段数は十四段だった。これは亡くなった皇帝が何代目の皇帝だったかを示しているのだと父さんが教えてくれた。
(僕が死ねば………十五段か)
不吉な想像に身震いする。父は毒殺されたのだ。その父と同じ皇帝になるのだ。
自分も同じ死に方をする可能性は十分ある。
一段一段、噛み締めた奥歯のさらに奥で数えるようにして登る。
登った先に先帝―――ラインにとっては父に当たる人物―――の棺があった。
棺には国旗が掛けられ、その上に豪華な装飾の施された鞘に収まった一振りの剣が置かれてあった。
棺の脇に一人の男が跪いていた。青い法衣に錫杖を持っている。枯れ枝のように細い体躯の男だ。
このラスカーナ大陸で最も広く信仰されている宗教であるロデン教、男はそのロデン教フロレシア大聖堂の神官長ヤヌス=ロッホだった。
予め父さんに教えて貰っていた通り、ラインは戦衣の裾を払い、棺の前に跪いた。
ヤヌスが傍らに置いてあった聖杯を取り、立ち上がる。
厳かな口ぶりで神への祈りを唱えながら、ラインの頭、両肩にそれぞれ数滴ずつ聖水を掛ける。
そして、城前広場に集った数万の群衆に向かって、声を張り上げる。
「徳を天地に及ぼし、威を四海に示し、獅子の王たるに相応しき勇猛なる王であったスレイマン三世に全ての民よ、哀悼の念を持て!亡き善隣なる指導者にロデンの神の祝福やあらん」
彼は聖杯を片手で持ち、もう片手で錫杖を振った。
しゃんっと小気味良い金属音が鳴り響く。
「そして、全ての民よ、寿げ!ここに新たなる王が誕生した。フロレシアは永遠なり。シーザー皇家は不滅なり。新たなる王にロデンの神の祝福が下されん事を!」
そして、聖杯に残っていた残り全ての聖水をラインの頭に降り注ぐ。
金の髪に絡まった水滴が光を反射し、より一層、皇帝の黄金の髪を強く輝かせる。
さながら、ラインは黄金の冠を被っているかのようであった。
彼は棺の縁を撫で、そして、剣の柄を握り、鞘ごと天に掲げた。
群衆たちから歓声が沸き上がる。
その歓声に負けぬよう、ヤヌスはさらに声を張り上げた。
「覇皇フェルモアを覇皇と成さしめた伝説の聖剣《覇皇剣-サナトゥス》は新帝の掌中にあり!この剣を持つ者、即ちシーザーの長となるべし。ここにフロレシア帝国第十五代皇帝ラインハルト一世の即位を宣言する!」
ヤヌスの宣言と同時に、軍楽隊が演奏を始め、近衛騎士団がびしっと踵を揃えた。
先帝の圧政の時代は皇帝の暗殺と言う形で終わった。
新帝の善政の可能性に賭けようではないか。
それまでの数十年間、希望も無く、暗く塞ぎこんでいた帝都の空気がこの日を以って一変した。
彼らは歴史の中の英雄に良く似た若く美しい皇帝に期待を掛け、望みを託したのだ。
彼らの望みは決して大それた物ではない。
平和で、人並みな生活がしたい。ただ、それだけのことだ。たったそれだけ。普通に人間として生きていきたい。それだけの願いなのだ。
そして、これまでの数十年間―――いや、元を辿れば二百年近く前にまで遡る事になるが、この国ではそれが許されなかったのだ。人々がラインハルト一世に期待の眼差しを向けるのは、彼の風貌が余りにも酷似していたからだ。今よりももっと凄惨で、明日の命をもわからなかった三百有余年の昔。
神の子、覇皇、建国王、光の英雄………彼を称える形容詞は無数にあると言われる。
稀代の英雄、フェルモア=シーザー、その人に。
この日、帝国暦三三二年四月二十七日、後に二人目の覇皇となる皇帝が即位した。
3 もう一人の皇位継承資格者
「良いか、良く聞いておくんだぞ、ライン。フロレシア帝国の正規軍は六つの軍団で構成されている。帝都に在留する第一軍および第二軍。北南東西を守護する第三軍、第四軍、第五軍および第六軍だ。それぞれの軍団は兵員数一万人の歩兵師団が十六個、兵員数五千人の騎兵師団が四個の、十八万名で構成される。歩兵師団は二千五百人規模の連隊四個、騎兵師団は千人規模の連隊五個で構成されている。
この六つの軍団、総兵数はこれだけで百八万人になる。だが、フロレシア帝国軍はこれだけではない。
この正規軍の他にも、ニカルド=べグアス傭兵軍団長の率いる四万人の傭兵軍団、カヘル=アイリッシュ神官軍団長の率いる一万五千名の神官軍団、ガルヴィン=ジングリッド率いる一万人の帝都防衛隊、アミリア=ホーン率いる二万名の近衛騎士団、他にも辺境や国境には数百人から数千人規模の辺境警備隊や国境警備隊などがある。これが、大陸最強と名高いフロレシア帝国軍だ。わかったか?」
「う~ん………なんだか、数字が大きすぎて実感が沸かないなぁ」
宰相オルンヘル=クリケットの説明に、曖昧な表情をする皇帝ラインハルト。
即位して三日目の四月三十日だ。昨日は一日、帝国府や軍部の高官達との顔合わせ、夜は貴族達との顔合わせを兼ねた晩餐会と思わずぐったりとしてしまうような疲れる一日だった。
しかし、嬉しい事も無かったわけではない。なんとこれで当分会う事も無いだろうと思っていたシエナと会ったのだ。しかも、彼女は皇帝付きの侍女として城内に仕える事になったのだ。
これも無論、宰相であるオルンヘルの政治力による結果なんだろうけれども、正直、ラインは小躍りしたいほどに嬉しかった。
「ならば比較して見るか。ライン、スタルナス帝国という国は知っているな?」
「うん。東の方にある国だっけ」
「それは華中大帝国だ。スタルナス帝国は西の帝国だ。二百年以上も争っている敵国の事も知らんのか、おまえは」
呆れた顔をするオルンヘル。ラインは少しだけ顔をしかめて、
「世間の俗事になど拘るなって言ってたのは誰?」
「むぅ………ごほん」
今度はオルンヘルが予想以上に苦い物を食べたというような表情をして、咳払いした。
そのまま一気に雲行きの怪しくなって来た話の方向性を切り替える。
「とにかく、スタルナス帝国の全兵力がおよそ五十万余りだ。しかもスタルナス帝国も南方にパルディア王国やネヴァラット帝国という油断のならない国を抱えているから全兵力をこちらに差し向ける事は出来ない。精々が三十万と言ったところだろう」
「でもこっちだってさっきの全軍を出撃させられるわけじゃないんでしょ?」
先を読んで口を開いた皇帝に、宰相が頷く。
「その通りだ。北方のルシタニア連合王国とは長年の友好関係にあり、問題は無いが、東の華中大帝国とは第三代フェルモア二世の御世に停戦条約を結んだが、停戦という事は戦争が終わっているわけではないという事になる。隙を見せれば攻め込んでくる可能性はあるだろう。南方はこちらも長年ラスカーナ中原を狙って北上してくるアルティス荒野の蛮族・砂の民との間に何度も戦闘が起きている危険地域だ。実際に動かせる兵力は最大でも第一・第二・第三・第六などの七十二万に傭兵軍団やらなんやらを加えても八十万程度だろう」
「なるほど。相手の二倍以上って訳だね」
「しかし、これだけの兵力を動員しようとすれば莫大な予算が必要となる。おまえはフロレシア帝国の一年の国家予算がどれほどかわかるか?」
「想像も付かないよ」
肩を竦める。ずっと田舎で野原を駆け回っていた少年に、国家財政の事などわかろうはずもない。
「およそ三十億メルダだ。知っているとは思うが一メルダは十ギミル、一ギミルは十ドールだ」
「はぁ。すごい大金だね」
途方も無い数字で、全く想像が付かない。
ローデンスに居た頃、ドール銅貨は良く見ていた。ギミル銀貨もまあまあ見かける機会があった。
しかし、メルダ金貨は大金で、子供が持たせて貰える金額ではなかった。だがまあ、一枚や二枚ならば大人達が良く持っていたりするので案外見る機会はあったように思う。
だが、三十億メルダ………金貨が三十億枚。断言できるが見た事は無い。
「だが、これでも財政は逼迫している。むしろ負債が増えているぐらいだ」
「それでも足りないの?」
開いた口が塞がらない。それだけの大金がありながら賄いきれないとは国とは一体どれほどの大飯喰らいなのだろうか。
「宮中晩餐会などの費用も馬鹿にならないし、遊興・親征なども多くの支出を齎す。旦那が戦死した貴族の未亡人には年金も払わなければならないしな」
「大変だぁ………」
「何が、『大変だぁ』だ。他人事のように」
オルンヘルは思い切り顔をしかめて、
「今、財務尚書のウェンヒルグには財政改革の素案を考えさせている。その素案に眼を通して改善点を指摘するのはお前の仕事なんだぞ」
「僕が!?そんなの無理だよ」
「無理でもやるんだ。おまえは皇帝なんだぞ」
「そんなぁ」
ウェンヒルグ=ローレンス。爵位男爵。役職財務尚書。年中汗を掻き、手拭で拭っている小太り眼鏡。
ただし、その計算能力や財政管理能力を買われ、オルンヘルの尽力によって財務尚書に就任。
気の弱い、使い勝手の良い男だという評判らしい。
「これからどんどんお前の所にも書類が行くだろう。せめて午前中は執務室に篭って書類の決裁をするんだ」
「うう………わかった」
泣きそうになりながら、ラインハルトは頷いた。
まだまだ皇帝としての威信の威の字も見あたらない。
ラインハルトが情けない悲鳴を挙げていた頃、帝都の貴族区画にある広大な敷地を持つ屋敷にて。
一人の初老の男が、背筋をぴしっと伸ばし、中庭を歩いていた。
貧民街とここら一体の貴族区画ではまるで別世界の様相を呈している。
国中の富を吸い上げ栄える貴族と搾り取られるだけの貧民。しかし、まだ都市部に住んでいる者達は恵まれている。農村部―――特に西部の、スタルナス帝国との国境線に近い農村は酷い有様だ。
貴族には容赦なく税を搾り取られる。国から課される税の上に、貴族達が己の私腹を肥やすために増税するのだ。さらには農作物の収穫時期になるとスタルナス帝国の軍が国境を越えてやってきて、略奪して行く。スタルナス帝国軍が去った後にのろのろとやってくる部隊は腐った貴族出の士官に率いられ、貴族の娯楽のために男は殺され、女は連れ去られるのだ。そのような情報は中央まではなかなか伝わってこない。貴族は貴族連盟という強力な後ろ盾によって帝国議会を牛耳り、時には帝国府に圧力を掛けてその決定を覆すような事さえも平気な顔で行う。
軍部は一部の良識ある指揮官を除いて、貴族出の次男や三男が高級士官を独占しており、いくら有能でも平民出の指揮官は普通中隊長、例外でも連隊長までしか出世できなかった。
しかし、それでもフロレシア帝国軍が崩壊せずに持ち堪えているのは軍団長達が有能だからだ。
先帝は師団長や連隊長に貴族を就ける事には何の干渉もしなかったが、軍団長だけは己の観察眼と分析眼で決めていた。そして、平民出だろうがなんだろうが採用したのだ。
それがルト=リューベンでありハーン=ハーベストであり、キップ=スナフィーであり、コーデル=ハムであり、メンフィス=レイスであり、ロックシルト=イヴァンなのだ。
彼達六人はフロレシア帝国六将軍として諸外国に恐れられていた。
彼らの存在なくば、先のエルベス川での勝利も或いはなかったかもしれない。
この国の腐敗した政治の象徴、それこそが貴族なのだ。
その貴族の邸宅が立ち並ぶ貴族区画にあって、その屋敷は最も広大な敷地を有していた。
屋敷の主人の名はアリーニ=アウグウェルツ公爵。
先帝スレイマン三世の甥に当たり、今上帝ラインハルト一世の従兄弟だ。
ただし、ラインハルト一世とは四十ほども年が離れている。
中庭にはまるで隠れるかのようにして質素な離れが立っていた。
離れの傍らには古めかしい老木が聳え、母屋からの視界を遮っている。
「待たせたな」
中に声を掛け、公爵は離れに上がった。室内には二人の男が座って彼がやってくるのを待っていた。
狭い室内で、膝を突き合わせるようにして座る。
密談を交わすのに、この程度の狭い部屋の方が小声で話せるため都合が良かったのだ。
二人は全く異なった型の人間だった。
一人は既に五十代の半ばも過ぎ、顔にはそれまでの人生を物語る年輪のような皺が刻まれている。
良く日焼けしたその肌からはいかにも軍人と言った雰囲気が滲み出ていた。
もう一人はまだ若く、どう見ても二十代であろう。先日父親が病死し、爵位を継いだばかりなのだ。
だが、その眼は少しでも己の出世に繋がりそうな材料は無いかと終始空を彷徨っている。
アリーニには何十人もの取り巻き達がいる。その多くは彼が会長を務めている貴族連盟に属している貴族達だが、中には軍人もいる。
この場に居る二人は、アリーニの取り巻きの代表的な立場にいる者達だ。
軍人の方はルト=リューベン。軍部を管掌する軍令部の軍令部長兼第一軍団長と言う軍部の最高職に就いている。これ以上、望む物が無いであろうと思うほどの高位だが、彼は貴族になる事を夢見ていた。
平民出の彼は貴族に対し、劣等感を抱いているのだ。今までにも相手が貴族であったばかりに幾度も苦杯を舐めさせられた事がある。この屈辱から逃れるためには自分もまた貴族になるしかないのだ。
青年貴族の方は名をカブラ子爵と言う。
「―――どうして、御即位を辞退など為されたのです?」
カブラ子爵は納得がいかないと言う表情で詰め寄る。
先帝が崩御した時点で、アリーニが最も玉座に近いと目されていた。
現に帝国議会では貴族連盟が上院の力を以て下院である臣民院を抑えつけ、アリーニに皇帝即位を要請する旨を可決しているし、帝国府は貴族連盟の決定に抗議する事は出来ても翻す事は出来なかった。
もし、皇帝即位の要請を彼が受け入れれば、今頃玉座に座っているのはあんな子供ではなく、彼だったはずなのだ。
「愚かな」
口辺に厳つい笑みを浮かべて、ルトがカブラ子爵を見る。
カブラ子爵の面頬に朱の色が差す。貴族は侮辱されるのが一番嫌いなのだ。
「愚かとは私の事か?リューベン閣下」
「いかにも。貴殿の事ですよ」
「聞き捨てならんな、平民の分際で―――」
「そこまでだ。子爵。リューベン卿も我らが同志では無いか」
喧嘩に発展しそうだった二人の口論を鎮め、アリーニはルトを見た。
「それほどまでに自信があるようなら、私の心の内を理解しているのであろうな?」
途端、カブラ子爵の口元に侮蔑的な笑みが浮かぶ。
「私を愚か者呼ばわりするぐらいなのだから、当然わかっているのだろうな?」
眼には挑むような色がある。喧嘩などすれば彼が勝てる相手では無いはずだが、平民が貴族に反撃するなど許されないとでも思っているのかもしれない。
「勿論。閣下は今ここで喜々として即位すればあらぬ嫌疑を掛けられる事を危惧しておられるのだ」
「ほう………あらぬ嫌疑とは?」
アリーニが少し、身を乗り出す。
「閣下が喜々として即位為されれば、民草はどう思うでしょうな?きっとこう思うのでは無いですかな?『此度の政変、さては自らが即位するために公爵が仕掛けた物であったのだな』と。閣下はそのような疑いを掛けられる事を避けるため、即位を辞退為された。違いますかな?」
「見事だ。さすがは士官学校を主席で卒業しただけの事はある」
「お褒めに預かり驚悦至極」
褒められて頭を下げるルト。顔面蒼白なのはカブラ子爵だ。今の一連の会話で、自分がルトに水を開けられたと言う事はわかった。だが、彼の頭脳ではそこまで考えが巡らなかったのだ。
「し、しかし―――」
慌てて失った点を取り戻そうと口を開く。
「これからはどうなされるのです?皇位を諦めなさるおつもりですか?」
聞いてしまってからはっとした。視界の隅で、ルトがはっきりと侮蔑の笑みを浮かべる。
激しい後悔に苛まれながら、アリーニの顔色を窺う。彼は無表情だった。
「ルト」
「はっ。ではカブラ子爵に説明して差し上げよう」
その言葉は、『お前だけがわかっていないのだ。この愚か者め』と言う言葉と同種の意味を持っていた。
しかし、言い返す事が出来ない。
「噂を流すのだ」
「―――噂?」
聞き返してしまい、我ながら自分のあほさ加減にうんざりとしてきた。
自分はきっと簡単に誘導尋問に引っかかるに違いない。
「左様。『さてはあの政変はラインハルトなる少年を皇帝の位に就かせ、これを背後から操らんと欲するオルンヘル=クリケット伯爵の陰謀なりしか』と。現に宰相となり、政治の実権を握っているのだから言い逃れは不可能だ。最低でも伯爵自身の宰相辞任は免れない。上手くすればラインハルト一世の退位もありえる。よしんば宰相辞任だけだとしても、後ろ盾を失った子供などどうとでも操れる」
恐るべき深謀遠慮としか言い様が無いだろう。
自分が皇位継承を辞退した事で世間に好印象を与え、即位した皇帝とその後見人にはその陰謀説を唱える噂をばら撒く。
「さらに―――」
口を開いたのはアリーニ自身だった。その口調はカブラ子爵に説明していると言うよりは己の策に酔っていると言う感じがした。己が皇帝となる夢によって自己陶酔の極地に至っているのだろう。
「貴族連盟の力を以て、ラインハルト帝の施政を全て潰す。先帝時代と何も変えてはならない。何も変わらなければ臣民は失望する。期待が大きかっただけにその反動もまた大きい。失望の余り、彼らはラインハルト帝の退位を要求する。その時、臣民達は思い出すのだ。即位できる格好の機会を己が傍系だからと直系の従兄弟に譲った心清き男がいた事を。その時こそ私の出番なのだ。その時こそ、私は皇帝としてこの国に君臨する。絶対の最高権力者として、な」
話し終え、アリーニは腹の底から哄笑を上げた。
それで、その日の秘密会合は終わった。怪しまれないよう、先にルトが出て暫く間を開けてからカブラ子爵はアリーニ=アウグウェルツ公爵邸を辞去した。
自分の屋敷へと向かう道すがら。
子爵の耳にはずっと公爵の哄笑が響いていた。
(あの人に付いていけば自然と上に登れる………)
公爵は自分が皇帝となった暁にはカブラ子爵の爵位を侯爵に進め、ローデンス地方を領地として与えると約束してくれた。ローデンス地方はクリケット家が代々治め、不当な重税などを掛けなかったために、人々の生活は比較的安定していると聞く。それなりに財産を溜め込んでいるだろう。
自分がクリケットに代わってローデンスの領主となった暁には、税率を引き上げ、ローデンス湖の通行料を取ろう。一体どれほどの儲けが出る事か。しかも上手くすればルシタニア連合王国との交易でも美味い汁を吸えるかもしれない。彼は非常な上機嫌で、己の屋敷へと帰って行った。
その頃、ルーガ城の皇帝執務室では。
「うわぁぁぁ、ぜんぜん、終わらないぃぃぃっ!!」
皇帝が未決の箱に入れられている数十枚の書類と既決の箱に入れられている四枚の書類を見比べ、髪を掻き毟って悲鳴を挙げていた。
「お茶が入ったわよ~、陛下」
敬語としてはどうかと思う言葉と共に、隣室の侍女室との間を遮る扉が開いて、ティーポットとカップを持ったシエナが入ってきた。
「ライン、なんだか少し憔悴してるみたいだけど大丈夫?」
「だ、大丈夫………じゃないかも」
「ちょっ、ライン!?倒れないでよ!ちょ、大丈夫!?ねえ、ラインってば!」
皇帝執務室に、侍女の慌てた声が響いていた。
4 直護衛
翌日。
「―――ヴァン=ブレイス。今後、お前の直護衛を務める男だ」
オルンヘルの説明を受けて、ラインハルトはきょとんとした眼差しをその黒髪の男に向けた。
端麗な顔付きをした男だ。体格もどちらかと言えば細身の分類に入るだろう。
しかし、その小柄な肉体は限界まで鍛え上げられた鋼の肉体のようだ。
腰にはそれなりの名剣であるらしい剣を佩いている。男は言葉を発さず、軽く頭を垂れたのみ。
男が顔を挙げると男の鮮やかなエメラルドグリーンの瞳と眼が合った。
珍しい瞳を持つ男だ。オルンヘルは次にもう一人の男の方に手を向けて、
「この男はエシュア。皇帝直属の諜報機関、暁の頭領を務める」
「エシュアでございます」
紹介を受け、男はかすかに頭を垂れた。
三十代の半ばと言った程度の年格好の男だった。ただし、顔立ちに似合わずその髪は白髪だ。
恐らくは生まれつきこうなのだろう。珍しい髪の色ではある。
エシュアの目付きは鋭かった。その気はなくとも他者を威圧してしまうような眼だ。
いきなり執務室に入って来て、人物紹介を始めた養父に、ラインハルトは困惑した視線を向けた。
「えっと………」
何を言うべきかわからない。何かを言うべきである事はわかるのだが。
「これからこの二人はお前の影となるだろう。先帝は暗殺された。お前まで暗殺させるわけにはいかん。ヴァンは平民の出だが、剣術の腕は随一だ。武闘大会に出場すればまずもって優勝は間違いない」
「はぁ………実は父さん、直護衛の推薦は他にも何人か来てるんだ」
「誰の推薦だ?」
「貴族連盟のアリーニ=アウグウェルツ公爵から」
その名を告げた途端、オルンヘルの表情が険しくなった。
眉間に皺を刻んで、何かを追い払うかのように手で空を薙ぐ。
「止めておけ。貴族連盟の息の掛かった護衛など身近に置いておけば寝首を掻かれるだけだぞ」
「うん、わかった。ヴァン、エシュア、今後余の片腕として働いて欲しい」
「…………はっ」
「暁の総力を挙げて、忠誠を尽くします」
午前中の執務を終えたラインハルトは直護衛のヴァンを連れて城を出た。
向かう先は城の隣にある練兵場だ。
「ヴァンの生まれは何処なの?」
「―――忘れました」
ラインハルトの問いに、ヴァンは淡々と答える。ラインハルトはその黒髪に縁取られた端麗な顔を見上げて、小首を傾げる。
「忘れた?………家族は?」
「―――居ません」
「そう。余は―――」
「陛下。横を向きながら歩くと危険です」
確実に、今までで一番多い字数の言葉だったろう。それは危険を警告する物だった。
ヴァンの顔を見ようとやや斜め後ろを向いて歩いていたラインハルトは道端に落ちていた小石に躓いてしまった。
「うわっ………!」
体が傾ぎ、倒れて行く。石畳で舗装された地面がぐんぐんと近づいてくる。
(ぶつかる!)
覚悟して眼を閉じた瞬間、落下が止まった。
「うえ………あ」
眼を開いて気付く。ヴァンが自分の胸に手を掛け、支えてくれている事に。
ヴァンは然程力も入れずにラインハルトを起き上がらせ、
「御怪我は?」
口調は淡々としているが、その淡い緑色の瞳は真剣そのものだ。
「大丈夫。ありがとう、ヴァン」
「―――いえ」
礼を言われて照れ臭かったのか、ヴァンがそっぽを向く。
その後も、ラインハルトが他愛も無い話をし、ヴァンが言葉少なに応えている間に、二人は練兵場に着いた。練兵場は巨大な楕円形をした運動場とそれを取り巻く石造りの石段で構成されている。石段は三十段程もあり、出陣の折などは練兵場に集結した軍勢を見るための観客席ともなるのだ。
今も石段の上にはちらほらと人影が見え、練兵場で行われている訓練を見ているようだ。
この練兵場はとにかく広く、数十万の軍勢が窮屈ではあるけれども何とか入る事が出来るほどだ。
「あ、アレクだ」
練兵場では二人の男が対峙していた。
二人とも赤髪だが、一方は年配で、もう一方はまだ若い。
第二軍団長のハーン=ハーベストと第二軍団第一歩兵師団第一歩兵連隊長のアレク=ハーベストだ。
苗字からもわかる通り、二人は親子だ。
ハーン=ハーベストは赤き鬼神と恐れられ、ラスカーナで彼の名を知らぬ者は無いと言う程に名の知れた名将だ。その息子のアレクも僅か十七歳と言う若さで連隊長に就任しており、将来が嘱望されている。
もっとも、貴族などからは父親の七光で、本人は大した軍才を持ち合わせているわけではないと批判されている。しかし、彼の率いる連隊は先のエルベス川の戦闘において目覚しい活躍をしている。彼の連隊から一名の中隊長が先帝スレイマン三世の手から軍功勲章を受け、褒美として精霊具を貰っている程なのだ。その功績によって、彼と彼の部下はそれまでの第三軍から第二軍へと異動させられていた。
実際にはその辞令が発動する前に先帝は崩御してしまったのだが、彼が毒殺される日までに彼の口から出た命令は供養の意を兼ねて全て実現される事になった。そのおかげで、それまで第三軍団長として盟邦と接する長閑な国境を守り、貿易の不正を取り締まり、時折、他の軍団の軍管区に応援に出撃するぐらいしか仕事の無い閑職に回されていたハーンは中央軍管区の守備に就く第二軍団長へと転属したのだ。
そんな武人親子は訓練用の木刀を構えて向かい合っていた。
「どれだけ腕を挙げたか確めてやろう」
「一撃でノしてやるから覚悟しやがれ、親父」
「ア―――」
声を掛けようとしたラインハルトは、二人の体から噴き出した何かに気圧されて、言葉を飲み込んだ。
「闘気です。互いに本気の勝負をしようとしているのです。邪魔はしない方が良いでしょう」
淡々とした口調で言いながら、ヴァンの緑色の瞳は輝き、向かい合う二人の軍人に向いていた。
「そうだね」
ラインハルトは頷いて、石段に腰を下ろした。ヴァンは立ったまま、一瞬たりとも見逃すまいと心に決めているかのように視線を二人に注いでいる。
「行くぞ!」
「来い!」
それまでの静止状態が夢か幻だったかのように、アレクが一気に地を蹴った。
「速い!」
唸るような声を上げたのはヴァンだ。
アレクは一瞬で距離を詰め、残像が浮き出るような高速の斬撃を繰り出した。
パァンッ!!
何かが弾ける様な音。弾けたのは、アレクの持つ木刀だった。
「強い!」
再び感嘆の声を漏らすヴァン。ハーンが木刀でアレクの斬撃を受け止めたのだ。その瞬間に、両者の間にどれほどの力が炸裂したのか、答えは爆裂四散したアレクの木刀を見れば一目瞭然だ。
「はぁはぁはぁ………」
四散した木刀の柄だけを持って、アレクがその場に座り込む。
「まだまだ青臭いな」
「うるせぇっ!親父が反則的な強さなんだよ!」
「そのような相手と戦わねばならぬ時に泣き言を言うのか?おまえが強いから悪いんだ、と?それで何が変わる?おまえが命を助けて貰えるわけでもあるまい。弱さは罪にも等しい」
「わかったよ。強くなりゃ良いんだろ」
「今のように女に現を抜かしてるようでは果たして強くなれるかどうか………もっと手綱を締めるようリーナに申し付けたほうが良いかも知れんな」
「それだけは勘弁!今ですらあいつの鎌に追いたてられる日々なのに、これ以上なんて俺が死んじまう」
「ならば女遊びは―――」
「知ってんだぞ、親父」
「な、何をだ?」
「親父が密かにリリィの店とか言ういかがわしい店に出入りしてんのを」
「なっ―――」
途端、それまで余裕の体であったハーンの厳つい顔が真っ青になった。
「なんでそれを………」
声も掠れている。
「親父は第二軍団長、有名なんだぞ?そんな親父が風俗街に出入りしてたら嫌でも噂が立つってんだ。まあ、安心しなって。こう言った噂が自然とローデンスに伝わったりする事はねえよ。自然にはな」
「お、おまえまさか―――」
今にも倒れそうなほどに顔面を青くして、ハーンが震える声で尋ねる。
「母さんには俺が伝え―――」
「うわぁぁぁっ!!悪かった、俺が悪かった!だから、あいつにだけはいわんでくれ!あれは付き合いだったんだ!リューベン将軍に誘われて―――」
「言い訳は見苦しいな、親父。一回だけなら付き合いでも、二回三回となりゃ別だろ?」
「ぐっ―――」
ハーンが顔を歪めて沈黙する。実は彼、恐妻家―――もとい、愛妻家なのだ。
大陸中にその武勇を轟かすフロレシアの名将は実は妻に頭の上がらない夫なのである。
もっとも、彼の妻が特別だと言う見方もある。
ラインハルトも一度、ハーンの妻が人間の胴回りよりも遥かに太い巨木を拳一発だけで倒している様を見た事があるし、夫婦喧嘩の結果、見るも無残な姿となって城に逃げ込んで来ては父さんに助けを請うハーン小父さんの姿も何度も見かけている。
なので、ラインはヴァンを連れて石段を降り、二人の間に割って入るのであった。
「まあまあ、二人ともそのぐらいにしとこうよ」
「あ、ラ―――」
「陛下!」
割って入ってきたラインに、アレクが気楽に名を呼ぼうとするとその襟を掴んで、ハーンが無理やりその場に跪かせた。自分もその隣に跪く。
「うがっ!なにすんだよ、親父!」
「馬鹿が!ラインはもう皇帝陛下なんだぞ、気安く名を呼ぶな!」
「お、小父さん、そんな良いよ、今まで通りで」
慌てて立たそうとするライン。するとハーンは呆気なく立ち上がり、
「そうか。だがまぁ、公の場では立場をはっきりさせなきゃいけないからな」
アレクは襟を正しながら立ち上がって、
「ったく、この親父は………んで、そっちのは誰だ?」
ラインの斜め後ろに立つヴァンを見ながら聞く。
「僕の護衛役になったヴァン=ブレイスだよ」
「―――宜しく」
「剣を使うのか?」
「―――それが?」
「手合わせ願いたい。皇帝の護衛に相応しいかどうか、皇帝の幼馴染であるこの俺が試させて貰おう」
「ちょっと、アレク!」
「構いません。私も貴方に興味がある。名は?」
「第二軍団第一歩兵師団第一連隊長アレク=ハーベスト」
「小父さん!」
すっかりやる気の二人を止めようとハーンに助けを求める。
が、ハーンは首を左右に振って、
「やらせてやれ。確かにアレクの言う通り、アレクに勝てない程度の腕前ならば皇帝の護衛役としては不適格だ。推薦人はクリケット卿か?」
「うん」
アレクとヴァンは十m程の距離を開けて向き合った。
「木刀だ」
ハーンが二本の木刀をヴァンとアレクに投げ渡す。
アレクは木刀をすれすれまで地面に下ろして構えた。
ヴァンは何も構えない。ただ木刀を持った手を垂直に下ろしているだけだ。
顔も含め、全身の筋肉が動きを止めている様だ。
動かない表情の中で、エメラルドグリーンの瞳だけが生き生きと輝いていた。
アレクの体から闘気が噴き出す。思わずラインが息苦しさを覚えるほどの圧力を感じる。
そんな圧力の中、ハーンは平然と立っているし、直接その闘気を向けられているヴァンにも全く動揺がない。そのヴァンの体からは全く闘気のような物が噴き出ていなかった。
(なんだ、一体?)
アレクは息苦しさを覚えて、思わず心の中で呟いた。
ヴァンからは全く闘気や殺気と言うものを感じない。なのに、全身の筋肉が強張り、肌がぴりぴりするような圧力を感じる。じんわりと汗が浮かんでくる。汗は瞬く間に玉となり、流れ出した。
その内の一粒が、目の中に入ってきた。
「っ………」
思わず目を瞑る。慌ててすぐに開く。
「なっ―――」
目を瞑る前まで、確かに十m前に居たはずのヴァンが眼前に迫っていた。
今の一瞬にも満たない時間の間に、十mという距離の半ば以上を走破して来たのだ。
アレクは後ろに跳びながら、下に下ろしていた木刀を跳ね上げるようにして斬撃を繰り出していた。
喪失感に続いて痺れが右腕を支配した。
ヴァンの放った一撃がアレクの手元から木刀を弾き飛ばしたのだ。
さらにヴァンは距離を詰め、着地したアレクの軸足を払った。
「うあっ」
ひとたまりも無く尻餅を付くアレク。その眼前に、木刀が突きつけられた。
「―――勝負有り」
淡々とした口調で言い、ヴァンが木刀を引く。
「とんでもねぇ強さだな」
苦笑しつつ、アレクは立ち上がって尻の埃を払った。驚いたのはハーンも同様だった。
「一体、宰相は何処であんな逸材を見つけたんだ?」
「さあ。父さんは昔から独自の人脈を持ってたからね」
「…。ライン、最近のお前の評判を知っているか?」
「僕の?………いや」
首を左右に振る。この頃はずっと執務室に篭って書類と格闘していたからだ。
だが、ハーンの表情を見れば、あまり芳しくないという事はわかる。
「宰相の傀儡、だ」
「父さんの………傀儡?」
「そうだ。宰相はお前の周りに自分の息の掛かった者ばかりを集めて固めている。それを妬んだ貴族達がそう言った評判の出所だろう。民衆の評価はまだなんとも言えないな。目に見える成果が出ればまた話も違ってくるだろう。おまえの当面の最大の敵は貴族連盟だろうから、心得ておけ」
「わかった」