覇皇伝
第五章 反乱、潰ゆ
第五章 反乱、潰ゆ
1 二つの頭
城内には険悪な空気が流れていた。同じ反乱軍でありながら貴族達はアリーニ=アウグウェルツ公爵派とラマーン=オルド侯爵派の二つに分かれ、正規軍が接近してくると言う緊張状態におけるストレスの発散を求めて、互いに互いを罵倒していた。公爵派は公然と。侯爵派は陰に潜んで。
両者の軋轢は埋めがたい溝となって、城の上空に暗雲を呼び込む元となっていた。
城主の居間で、ラマーンは気難しげな表情で腕を組んでいた。
彼の私室であるこの部屋には今、彼の他に彼の腹心であるイミナ=サルティコだけが居た。
「何とかならないのか?イミナ」
「何がです?」
ラマーンの言葉に、イミナは紅茶を淹れながら済まし顔で答える。
「公爵とその一派どもの事だ。私の城であるのに、彼はまるで己こそが城主であるかのように闊歩しておる」
「閣下の志に共鳴して集ってくださった同志ではありませんか」
「であるが………公爵一派の貴族どもは私の元に集ってくれた貴族達を酷使していると言う訴えがあがってきているのだ。城内を散策していても、公爵派の将兵が通路の真ん中を大手を振って歩いているのに対し、他の貴族の将兵はどうにも通路の端をまるで隠れるようにして足早に歩いている。兵の中にはこの境遇に不満の声を漏らしている者も多い。私としては憂慮するしかない。このままでは正規軍に対し、協力して事にあたるなどと言う事ができるだろうか?それが出来なければ、我々には万が一にも勝算はあるまいに」
「そうですか。………しかし、志を同じくする者同士、修羅場を共に潜るうちに結束力も高まっていくと思います。今はまだ、共に戦うと言う経験を積んでいないのでうまく行っていない問題でもきっと時が解決してくれると思います」
「そんなものなのか?」
ラマーンはかなり疑わしそうな声だったが、彼の前に紅茶を置いたイミナはまったく疑っていない顔をしていた。
「そんなものです。閣下が心配なされるような問題ではありません」
ラマーンはなんだかんだと言いながらも彼が二十代の若さで荘園を任された時からの付き合いであるイミナの事を信頼していた。そのイミナが断言するのを、彼はさして深く考える事も無く信じる事にしたのだった。ただ、胸中で疑念の呻きだけはあげた。
(果たして、時が残されているのかどうか………)
ニヒトフォーフェン城にはオルド侯爵家が代々世話をしている庭園がある。
かなり広大な敷地を有しており、ラスカーナ大陸中のさまざまな花が植えられている。
その庭園の中をアリーニ=アウグウェルツ公爵はカブラ子爵だけを伴って、散策していた。
アリーニ派と言う事になってはいたし、青年貴族達自身も自分の身の位置をそのように考えているであろう。しかし、アリーニと若手貴族の間を取り持っているのはこれも若手貴族ながらはっきりとした言動で台頭してきたギリアム=レミントン男爵だった。
彼の言葉によって、若手貴族達が立ち上がらなければ、恐らくアリーニは今回の反乱への参加を見合わせただろう。しかし、ギリアムは若手の意見を一手に纏め上げてしまった。
いくらアリーニが強大な力を持っているとは言え、言下に拒絶することが出来ないほどの潮流を彼は作り上げてしまった。今の権力基盤を失わないためには、そう言った潮流に乗るしかなかったのだ。
「子爵」
「はっ」
正確にアリーニの三歩後ろを歩くカブラ子爵が答える。
彼は恐らく今一番アリーニの近くにいるだろう。
しかし、そんな彼ですらギリアムに贈り物をして近づいているのをアリーニは知っていた。
(若手貴族の中でギリアムの地位は不動の物になりつつある)
先々代の皇帝クライス四世の子として生まれ、父が弟に皇位を譲った後、アウグウェルツ公爵家を創始してから数十年間守り抜いてきた権力基盤がそう間単に崩れる訳も無いが、なにしろ自分は老いている。
若い者が力を持って台頭してくるのは不安だった。数年前までならば若者の台頭に一喜一憂する事など無かった。不安を感じると言う事自体、老いていると言う事なのだろう。
「ギリアム=レミントン男爵の事をどう考える?」
「どう………と言われますと?」
カブラ子爵がやや困惑気に問う。アリーニに忠誠を誓いつつもギリアムにも誼を通じている彼にとってこの類の問いは迷惑以外の何者でもなかった。
そして、普段のアリーニならばこのような問いを発する事はしなかっただろう。
普段の彼は己に大きな自信を持っており、ギリアムの台頭を恐れる必要などないからだ。
よしんばギリアムの台頭に彼が恐れる要素があったとしても、ならば裏から圧力を掛けるなり何なりしてギリアムの力を削げばいいだけの話しなのだ。
権力に敏感なカブラ子爵はそのアリーニの微妙な変化を彼の鋭敏な触覚で以って感じ取っていた。
しかしその原因が何処にあるのかは、わからない。
「あの者に関する印象を聞いているのだ」
やや早口で言い、アリーニは杖で地面を抉った。
カブラは土に刻まれたアリーニの杖の跡に一瞬、目を向けてから、言葉を選ぶようにして答えた。
「そうですな。敢えて申さば、彼の言動には勢いを感じるかもしれません」
「勢い?」
「はい。若さゆえの勢いと言う奴です。奴の言葉には人の心を勇気付けるようなところがあるように思います。ですが若いが故に視野が狭いとも言えると思います」
「若さゆえの勢い。そして、若さゆえの危うさ、か………いずれにしろ、私には既に無いものだな」
「ですが、閣下が問題になされるような相手ではございませんのでは?」
(良く言う)
白々しく追従の言葉を並べ立てるカブラ子爵を振り向こうともせず、アリーニは少し歩く早さを速めた。しかし、寄る年波のせいか、すぐに息が上がってくる。その息の荒れを隠すためにアリーニは再び口を開いた。
「ギリアムの父、アトレフ=レミントンは皇帝への忠誠篤い忠臣であった。皇帝の覚えもめでたく、皇后様よりの覚えもめでたかった」
カブラは沈黙を守って、ただ怪訝な眼差しをいきなり昔話を始めたアリーニの背に向けた。
そして、気づいた。
ラインハルト=シーザーが即位したばかりの頃、彼が始めてアリーニ=アウグウェルツ公爵に会った時に感じた彼のこちら側を飲み込むかのように圧倒してきたあの威厳が消えていることを。
アリーニ=アウグウェルツは帝国随一の名家に生まれたが、決して順風満帆な人生を歩んできた訳ではなかった。
政敵は居たし、彼の命を狙う者も多く居た。
彼は権力を掌握するために多くの政敵を殺し、貶め、伸し上がって宰相にまで登り詰めながら、政敵の暗殺から逃れるために表舞台から退かねばならなかったのだ。
それゆえに、彼は皇帝の座に憧憬を覚えるのだろう。
この国家最大の権力に守られた、宮城と言う最も安全な場所から帝国全土をひれ伏させる存在。
皇帝は何をしても許される。
それだけの力を持っているのだ。
「私にとって、奴は邪魔な存在だった」
アリーニは白い可憐な花の前で足を止めて、目を細めた。
背をやや丸めたその姿は何処にでもいる、楽隠居の老人だった。
カブラはそのアリーニの三歩後ろに従者の如く佇みながら、その瞳は困惑に揺れていた。
彼にとって絶対的存在だった男のこの変貌振りをどう判断すべきかわからなかった。
しかし、アリーニが己の過去を話すのは珍しい。
知っていて損をするという事はないだろう。
「だから私は彼を辺境直轄領の代官として左遷した。二十年以上前の話しだ。だが、一年前、先帝陛下の勅令により、帝都に呼び戻した。その途端、病で、奴は死んだ。残されたのはギリアムと言う息子と奴の領地だけ………奴はもしかしたら」
「―――もしかしたら?」
本能的にカブラはアリーニが何か大切な事を言おうとしていると察した。
だが、彼がそう先を促したのは、失敗だった。
「―――いや、なんでもない」
首を振ってそう言い、アリーニ=アウグウェルツは口を閉ざしてしまったのだ。
そのまま無言で庭園を回り、アリーニはそのまま城内にある軍営に戻った。
城内の一室に、青年貴族の姿があった。
ギリアム=レミントン男爵。
彫りの深い顔立ちに、何処となく熱気を感じさせる笑みを浮かべ、彼は一通の書簡に目を通していた。
それは今朝、城兵に身をやつして現れた者によって届けられた。
今までにも何度かこのような方法で指示を受けている。
『なんとしてでもアリーニを反乱に起たせろ』と言う指示がもっとも難しいと感じたが、他の青年貴族達を扇動する事によって何とか果たすことが出来た。
ギリアムは実際にはアリーニやカブラが思っているほどの大人物ではない。
彼はただ、己の目的と利害の一致した男の提案に乗り、その男の指示のとおり、行動しているに過ぎない。だが、その書簡は指示ではなかった。
その書簡には簡潔な文章が書かれているだけであった。しかし、この数ヶ月のギリアムの努力はある意味、この簡潔な文章を読む為の物であったろう。
『明日、決行す―――』
貴族が書くような虚飾に満ちた文体ではなかった。
むしろ荒々しいほどの文体だ。
しかしギリアムはそういった文体を書くあの男の事が嫌いではなかった。
男はその身全体に何処となく陰気な雰囲気を纏っているためか、人望がない。
しかしそいつは自分に人気が無い事をなんとも思っていないのだ。
ギリアムは笑みを苦笑に変え、書簡を文箱に収め、机の抽斗の二重底の下にある隠し棚に入れた。
窓から外を見るとちょうど庭園を歩いているアリーニ=アウグウェルツが見えた。
彼の後ろにはいつも金魚の糞の如くくっついているカブラ子爵も付き従っている。
「アリーニ=アウグウェルツ………」
ギリアムの顔つきが鋭くなっていた。
彼の父親はアリーニ=アウグウェルツによって左遷させられ、田舎で脾肉の嘆をかこつ事となった。
父はその事に関して一言たりとも繰言を言わなかったが、時々招かれる中央の舞踏会などで同年代の貴族達が順調に出世していくのを嫌でも知らされて、穏やかな心境で居られたはずがない。
将来は宰相にもなれる器だとも言われていたのだから。
それが宰相どころかたかが辺境の代官で終わるなどと納得できるはずもない。
その上父は先帝陛下の勅令によって中央の帝国府に出仕できるようになり、二十年ぶりに帝都に舞い戻ったと言うのに、その僅か三ヵ月後に病没してしまった。
(父の人生はなんだったのだ?)
父は国に尽くすことしか知らない人だったと言う。『と言う』と曖昧なのはこれは母から聞いた話だからだ。母は父の貴族らしからぬ欲のない正直な生き方に惹かれ、一緒になったのだと言う。
そしてそんな清廉潔白な父の元には彼を慕う貴族達による一派も形成されていたのだと言う。
そこがアリーニ=アウグウェルツに目を付けられ、左遷される原因を作った。
当時、父は財務省に出仕していた。故に、父の左遷の原因となった罪状は公金の横領。
無論、清廉潔白な父がそんな事をするはずもないが、父は弁解もせずに帝都を去った。
二十年間の直轄領経営で、彼は一度も税金を横領したりしなかった。機会は無数にあったし、中央では地方貴族のこう言った不法行為に関してはほとんど興味も無いようだった。ばれたとしても、罰せられる事は無かったはずだ。だが、父は一度たりとも悪事に手を染めた事はない。
中央から課される税は厳しかったが、他の貴族のように税の上にさらに私腹を肥やすために私税を上乗せするような事はなかったので、彼の統治する直轄領内は他領に比べればまだ裕福な方であると言えた。
彼の人柄のおかげで領民との間にもさしたる問題は起こらず、平和に月日は経過していた。
そんな中で、ギリアムは育ったのだ。
時折、さびしげな表情を見せる父の顔を見て育つうちに、ギリアムは父が現在の地位に納得しきれていない、自分を左遷させたアリーニに隔意を抱いていると確信した。
(必ずお前の首は俺が落とす………)
ギリアムは暗い想念に心を燃やしつつ、庭園から出て行くアリーニとカブラを睨み付けていた。
自分用に与えられている小さな部屋で、イミナは一通の書簡を見ていた。
彼女には大金持ちになると言う野心があった。この国の多くの者がそうであるように、彼女の生家も貧乏だった。特に辛かったのは冬だ。毛布とてなく、家族全員で身を寄せ合って、寒さに耐えた。
貧しくて、薪を買うことすらできなかったからだ。
(金があれば―――)
彼女は幼心に何度そう唱えたかわからない。少しでも生活を良くしようと体調を崩すまで働き続けた両親に、我侭を言う事などできなかった。金があれば―――。美味しい物を食べて体を暖めることもできる。暖かな服を着る事もできる。暖かな暖炉の火に当る事もできる。だから彼女は、自分は大金持ちになろうと思った。自分の子供に、このような寒い思いをさせないために。そのために大貴族であるオルド侯爵家に仕えた。しかし、彼女の仕えた主人は小心者で、金儲けにも政略にもさしたる才能を持ち合わせていなかった。しかも彼は三男坊で、候爵位を継げる位置にも居なかった。
一旦はイミナも野心を諦めた。鳥や花にも優しいラマーンの情にほだされたと言っても良いだろう。
少なくとも、寒さを凌ぐ程度の財は出来たし、ラマーンに仕える事で金では買えない温かみを得る事もできた。だが、ラマーンの二人の兄がエルベス川の戦いで戦死し、風采の上がらぬ四十代男だったラマーンに爵位が回ってきた。そこでまたそれまでの二十年間、血潮の中に眠っていた彼女の野心が長き眠りから覚め、彼女の体中を駆け巡ったのだ。
しかし、長年に亘りラマーンの忠実な部下として過ごして来た彼女にとってはラマーンとの暮らしも決して居心地の悪いものではなかった。いや、むしろそれは居心地の良いものだったのだろう。
逡巡する彼女の前に、あの男が現れたのは今から三ヶ月程前―――ちょうど皇帝ラインハルト=シーザーがルシタニア連合王国への表敬訪問に旅立った頃の事だった。
その男は貴族を一掃するために彼女に協力を求めてきたのだ。
協力の報酬は莫大な財宝と広大な荘園、そして貴族連盟の次なる会長をラマーン=オルドに。そして爵位も侯爵から公爵になると言う物だった。
そしてイミナは同時に伯爵夫人の爵位と荘園、そして貴族連盟の副会長を約束された。
自分が貴族となり、莫大な財産を持ち、社会的に高い地位に登る。
まさに彼女の夢がすべて適う程の魅力溢れる提案だった。彼女は己の体の中で疼く野心に今一度身を任せて見る事にした。それから三ヶ月。男からは時折、指示が送られてきた。その指示を彼女の元に送り届ける者も、毎回違った。時にはメイドだったり、時には衛士だったりと実に多様だった。
そして、今彼女が見ている書簡は先ほど馬丁のなりをした男から届けられた物だった。
そこには短く指示が書かれていた。
イミナは丁寧に二度、その指示を読み返すと燭台の火にくべて、書簡を処分した。
男の指示どおりに事を運べば、アリーニを始めとする多くの貴族が抹消され、皇帝派貴族によって、新たな秩序が形成され、この国は生まれ変わるのだ。
今までよりも貴族の権威は堕ちるだろう。しかし、イミナにとって権力などはどうでも良い事であった。彼女にとって大切なのは財産なのだ。イミナは書簡が完全に灰になったのを確認すると、部屋を出た。
ラマーン=オルド侯爵に進言するためだ。
明日の夜、戦いの前途の光芒を祈願し、すべての貴族を集めて晩餐会を開くようにと。
ラマーン=オルド侯爵派とアリーニ=アウグウェルツ公爵派の分裂に頭を悩ませていたラマーンの事だ、両者の親睦のためと言えば嬉々として準備に取り掛かるだろう。数百年もの時、続いていた貴族によるこの国の支配構造が明日、大きな変革の時を迎えるのだ。そして、その変革の担い手は誰あろう、彼女自身なのだ。国を変え、その報酬として彼女は莫大な財産を手に入れる事になる。自分の将来は虹色に輝いている。侯爵の執務室へと向かいながら、イミナは窓ガラスに映る己の姿を見て、口元の筋肉が緩んでしまうのをどうしても抑える事が出来ないでいた。夢が適う。明日、夢が適うのだ。
2 最後の晩餐
帝国暦三三二年十月八日。
ニヒトフォーフェン城は各所で篝火が焚かれ、まるで真昼のように明るかった。
薄い黒色の煙が空に昇り、ただでさえ月もない暗い空をより一層暗く見せていた。
篝火の周りには反乱軍の兵が数人ずつ集まり談笑している。
彼らの顔に緊張はない。
まだ皇帝派の軍勢が姿を見せていないというのもあるが、彼らはもし敗色が濃くなれば逃げ出せば良いと気楽に考えている。
彼らは貴族の譜代の家臣と言う訳ではなく、一時的に雇われた傭兵なのだ。
負ければ金も支払われない。戦っても反乱兵として死ぬだけで、しかもその死には何の見返りもない。
下手をすれば反乱に加担した罪で自分達の家族にまで咎が及ぶ可能性すらある。
彼らが必死に奮戦する理由など何もないのだ。
彼らは貴族に対して忠誠心があるわけでもない。
いや、むしろ恨んでいるとすら言えた。
彼らの中には無論、己の腕一本で世に出て立身出世しようと言う野心に燃えている者も居るが、その大半は普段農作業をしている農民であり、農民としての暮らしだけでは生計が立てられなくなり、仕方なく傭兵の募集に応募したと言う者達なのだ。
彼らは篝火の明るさに惹きつけられて飛んでくる虫を払いのけながら、自分達の上官の貴族の文句を言い合っている。
「まったく俺達に真剣味が無いのは良いとしてもよ、なんで貴族どもまで緊張感がねえんだ?」
「ああ。のんびり晩餐会とは何考えてるんだか」
「まったくだ………。ま、憂国だの志士だのと言ってても所詮は世間知らずの坊ちゃまって事だろ。戦の《い》の字も知らねえ。………ん?」
「どうした?」
「何か聞こえなかったか?」
一人の兵が篝火の灯の届かない闇に目を凝らす。
闇の中に没していてわからないが、そちらには城壁しかないはずだった。
「どんな音だ?」
地面に置いていた槍を持ちつつ、もう一人の兵が聞く。三人目の兵は腰の剣を抜いている。
「何かが動くような音だ………なんかでかいもんを引き摺るみてぇな」
一人目が答え、弓に矢を番える。
「お前はここに居ろ。行くぞ」
「ああ」
槍兵が指示し、剣兵と共に闇の中へと消えて行く。弓兵は弦を絞ったまま、闇の中を凝視している。
二人の足音が聞こえてくる。
そして―――
「な、なんだ!?足になんかが―――」
「どうした!うわっ、なんだこれ!気持ち悪ぃ………ッな、う、うぎゃああっ!?」
ぐしゃっごきっばきゃっ!!
骨が砕かれるような、そんな音が闇の向こうから響いてくる。
そして、何か膨大な質量を持つものが蠢くような音。何か得体の知れない化け物が、闇の向こうにいる。
「う、うわあっ!!」
弓兵は悲鳴をあげ、逃げ出した。その拍子に彼の体が篝火に当り、篝火が倒され、辺りが暗闇に包まれた。直後、闇の中に何かがしなりながら空を翔ける音と弓兵の悲鳴と肉が潰れ、骨が砕ける音が響いた。
晩餐会は城内の大広間で行われていた。
オルド侯爵家御自慢のそこは同時に数百人の人数を収容することが出来る。
天井も高く、豪奢な輝きを放つシャンデリアの光が部屋をきらびやかに照らしている。
壁には何百メルダ、いや何千メルダもするような著名な絵師の有名な作品が掛けられている。
ラマーンの趣味ではない。彼はどちらかと言えば、豪奢な生活を嫌う。
小さな荘園の領主だった頃の貧乏根性が抜けないのだろう。
しかし、豪奢な生活を好む貴族をもてなすためにはこのような部屋が必要だったのだ。
だが、貴族達の輪は大きく二つに分かれていた。
ラマーン派とアリーニ派の住み分けがはっきりしている。
両者の間には笑顔とお世辞と社会辞令によって巧妙に塗り固められた敵意が行き交っている。
(元々は同じ貴族連盟の同志と言う立場であったはずが………)
己自身、ラマーン派の輪の中心に居ながら、ラマーンは心中に苦い物を抱く思いであった。
青年貴族達は自分の気持ちに正直過ぎるようだ。
相手を嫌うととことん近寄らなくなる。
(こんな具合で勝てるほど近衛騎士団は甘くない)
「どうかなされましたか、閣下?」
気遣いのようなものを表情に浮かべて、青年貴族が声を掛けてくる。
瞬間、ラマーンの周りに居た青年貴族達が殺気立つ。
なぜならその声を掛けてきた青年貴族はアリーニ派の青年貴族だったからだ。
「確か………ギリアム=レミントン男爵だったかな?心遣いは感謝するが別に体調は悪くない」
ただでさえ、険悪な空気が流れていると言うのに、ギリアムの行動は表面上は静かに見える水面に石を投げかけるようなものだ。
ラマーンがすかさず返事を返したために、青年貴族達は殺気立ってはいたものの、ギリアムに何かを言うような事はしなかった。
「それは重畳。この国を良き方向に導くための第一歩となる大事な戦の前ですからな。侯爵閣下にはお体を労わって頂けなければ困ります」
「そのような心配は無用であろう。閣下はそのような惰弱な御方ではない。アリーニ=アウグウェルツ閣下に御迷惑の及ぶような事はあるまい」
青年貴族の一人が、ギリアムをきつく睨みつけながら低い声で言う。
が、ギリアムは悠揚とした表情を崩そうとはしない。
そんな彼の口元がかすかに緩んだように見えたが、そのほんの僅かな変化に気づくような者は一人も居なかった。
「それならば良いのです。どうやらお楽しみの所を邪魔してしまったようですね。それでは私はこれで失礼いたします」
そう言って、ギリアムが踵を返す。
その返す瞬間、ギリアムの視線が空を走り、ラマーンの斜め後ろに立つイミナの視線と絡み合ったのをラマーンは見た。心中にひやりとするものを感じた。こめかみに汗のような物が浮かんでくる。咄嗟にイミナを振り返ったが、彼女の表情には格別の感情は浮いていないし、既にギリアムを見てすらいなかった。何かもやもやとした物を感じ、気分が悪くなった。
ギリアムはイミナに声を掛けるわけでもなく、そのままアリーニ派の輪の中に戻って行った。
「まったく不遜な男ですな。さ、閣下、飲みなおしましょう」
顔を赤く染めた貴族が酒の注がれたグラスを差し出してくる。
ラマーンは我ながらぎこちないと思える笑みを浮かべて手を挙げ、
「この老骨に過ぎた酒は毒だ。少々、酔い過ぎたようだから風に当たって来よう。君達は楽しみたまえ」
「はい」
ラマーンは貴族達の輪を抜け、大広間からそのまま出られるようになっているバルコニーに出た。
無言のまま、イミナがついてくる。
風に当たる。秋の風はやや肌寒いほどだが、酒に火照った体に当たり、その熱を奪い去る感触は心地良い物があった。酒を飲みすぎたと言う思いはある。しかし、酒による酔いが心地よい風に払われた後に残ったのは心中の苦い思いだけだった。反乱軍と言う枠で言えば同じ存在でありながらその内実はまったくもって分裂しているとしか言いようがない。
「何か心配事がおありですか?」
イミナが声を掛けてくる。下腹部の前で手を組み、従順を装っているが、その瞳は爛々と輝いていた。
ラマーンは手摺に上体を預け、イミナを振り返った。その時には既に、瞳の輝きは失せている。
「ギリアムと言う青年貴族と知り合いなのか?」
「いえ。どうしてそう思われます?」
「―――いや、なんとなく、そう思っただけだ」
「男爵の事は噂として聞き知っていた程度です。お姿を拝見するのも先ほどが始めてです」
「そうか」
(勘違い、か………)
ラマーンは空を見上げた。そして、見上げなければよかったと後悔した。
空は暗く、低く雲が立ち込めていて、実に不吉な雰囲気を醸し出していた。
それはまるで彼の将来を暗示しているようだった。
「―――しばらく、一人にしてくれないか?」
「畏まりました」
イミナは恭しく頭を下げ、そして、去った。
一人でバルコニーに立ち、ラマーンは何を考えるべきか、考えていた。
どれほどの時間そうしていただろうか、突如起こった悲鳴に、彼は正気に戻った。
どよめきが空気を震わせながら、ラマーンの元に達する。
ラマーンは振り返り、慌てて広間へと飛び込んで行った。
「………ッ!?」
大広間に飛び込んだラマーンの目の前を何かが物凄い速さで通り過ぎて行った。
「―――………ッ!!」
ほぼ本能的に飛び去った先を見て、ラマーンは体が硬直し、全身の血が凍りついたかのような錯覚を覚えた。悲鳴を挙げたつもりだったが、喉が異常に渇き、声は出なかった。
彼の目前を過ぎり、その先に落下し鈍い音を立てて転がった物、それは首だった。人間の、首。
先ほどまでラマーンと話していた青年貴族の一人、そのなれの果てだった。自分に酒を勧めたあの赤ら顔の貴族の首だ。
「ば、化け物だ!」
「衛兵、衛兵はどうした!」
「こ、殺される、助けてくれ!?」
大広間は混乱の坩堝と化していた。
蒼白の顔色をした貴族達が悲鳴をあげ、怒声をあげながら、逃げ惑っている。
大広間の出入り口付近は既に地獄と化していた。
ラマーンは最初そこに何があるのかわからなかった。
最初に想像したのは、闇、だった。
そこに闇がわだかまっている。その周りに元が誰だったのかもわからないほどばらばらになった肉の破片が無秩序にぶちまけられている。
ラマーンはそう思った。
しかし、次の瞬間、その闇が爆裂した。
弾けるように闇が広がる。
飛び出してきたのは無数の触手だった。
闇色の触手が逃げ惑う貴族達の足や腕、首に巻き付き………次の瞬間!
ぐしゃどしゃごしゃぐちゃぁっ!!
思わず目を逸らし、口を押さえたくなる様な嫌な音が響き渡った。
触手に捕まった貴族が悲鳴をあげ、血が噴出す。
恐ろしい光景だった。
一瞬にして十数人の貴族が命を持たない肉塊に化している。元の原型がわからぬほどに潰れてしまっている。殺戮は主に大広間の出入り口に近い所で行われた。
降り注ぐ血肉から逃れるため、貴族達が大広間の中心に集まってくる。
逃げようとすれば、殺される。
それは明白だった。
そして、触手が消滅する。
さっきまで闇がわだかまっていた場所には一人の男が立っていた。
灰色の髪に、灰色の瞳、何処と無く全身から禍々しい雰囲気を醸し出している男だった。
「なんだ、貴様は!どこから入り込んだ!」
声だけは威勢が良いが、声の主の姿は貴族達の中に埋もれて見えない。
男は口元に笑みを浮かべ、そして胸に手を当てて一礼して見せた。
「我が王の命にて、愚かなる反逆者どもに鉄槌を下すために参りました。アルンヘル=へードと申すもの。軍においては大佐の階級を頂いております」
「へ、陛下の………」
貴族達の間に絶望感が広がる。
言い逃れできる状況ではない。
彼らは反乱軍の首魁としてこの大広間に集まっているのだから。
「我が王は御心優しき方ゆえ、反乱軍に与し者と雖も命を奪うのは偲びないと仰られるのです」
男の言葉に貴族達の雰囲気が変わる。
今の今、目の前で十数人の同胞を殺されたと言うのに彼らは自分だけは助かるかも知れないと言う期待で一杯なのだ。
甘い、甘すぎる。しかし、彼ら貴族は今まで二百年以上もそうやって生きてきたのだ。
骨の髄まで貴族としての甘さが染み付いているのだろう。ぬるま湯に全身で浸りきっているのだ。
そしてそれは彼らを苦々しく見るラマーンとて同じだった。
だが、そんな彼ですら、自分の運命は理解していた。
ここに居る貴族達と共に、自分の命はここで消えるのだろう。
しかも、美しいとは到底思えぬ肉塊と成り果てて。
アルンヘルと名乗った男がかすかに肩を振るわせて笑う。
彼は暗い喜びの波動に身を震わせていたのだ。下賎な犬と蔑まれた母の仇を取ることがようやくできる。
彼は自分の掌の内に貴族達の命を収め、満足げに彼らを見回した。
「………これは、どういうことでしょう」
その場に居る貴族達を見回し、アルンヘルはやや困惑気に呟いた。
居ない。ここに居るはずの、あの男が。ここに居なければならない、あの男が。
―――ここで、彼の手に掛かって死ななければならない、あの男が。
既に殺した?………そんなはずはない。
逃げられた?………少なくとも自分がこの大広間に踏み込んでからは誰も逃がしていないはずだ。
では、その前に?
「―――まあ、良いでしょう」
アルンヘルの呟きを聞き、貴族達が一歩身を乗り出し、上擦った声で、
「我々の命も救ってくれるのか!」
「金が欲しいのであろう?我らを助けてくれれば膨大な褒美を取らせよう!」
「地位が望みならば元帥位でも何でも用意してやる!」
「ほう………それは豪勢なことだ」
アルンヘルが目を細める。まあ、良い。あの男を捜すのは後回しにしよう。
今は………。
「私はね、貴方方貴族のそう言う、人を舐めきった考えが嫌いなんです。虫酸が走るんですよ。潰したくなるんです。そう………彼らのように。陛下が救いたいと言ったのは貴方方のような下賎な犬どもの事ではありません。貴方方に待っているのは死のみ。私が貴方方に死を贈ります。私のこの―――」
そう言って、アルンヘルは手を掲げて見せた。彼の長く細い白い指には黒い指輪が嵌められていて。
「この《触手の指輪―ドリニティ》でね。出でよ、冥府の番人、死者の魂を冥府に縛る冥界の縛鎖よ!」
彼がそう唱えた次の瞬間、黒い指輪が膨れ上がったように見えた。
闇が具現し、膨張し、そして破裂する。
再び無数の触手が弾け、慌てて逃げようとした貴族達の四肢に巻き付き、そして………。
再びあの音が響いた。あの終末の響きが。
二百年の長きに亘ってこの国を支配していた貴族制度。
その終焉を暗示する音が。その音を伴奏にして、貴族達による混声合唱が歌われた。
断末魔の歌声が大広間に虚ろに響き渡った。
3 死の贈り物
ラマーン=オルド侯爵は目を閉じていた。
体は硬直し、全身の血は凍りついていた。
彼の周りは血の海だった。
すべての貴族が死んでいた。もはや誰が誰だったかの判別すら付き難いほどの変わり果てた姿で。
誰も息をしていない。
苦痛の呻き声すら、あげるものは居なかった。
圧倒的だった。
圧倒的過ぎて、現実感が沸かない。
現実感が沸かず、恐怖感が生じる事もなかった。
すべての貴族が………死んだ。血の海の中に没している彼らを見回し、彼は疑問を持った。
すべての………貴族?
(いや、違う)
アリーニ=アウグウェルツ公爵の姿がない。
ギリアム=レミントン男爵の姿も。
イミナ=サルティコの姿もない。
そしてなにより、なによりも………。
「どうして私は生きているのだ?」
「貴方に死んで頂く訳にはいかないのですよ。ラマーン=オルド侯爵」
「なんだと………?」
アルンヘルの言葉の意味がわからず、ラマーンはただ聞き返した。
血の海の中に立ち、貴族の死体に囲まれて、不気味な雰囲気の男と向き合っている。
「我が王は無為な死を厭われている」
「しかし、先ほどおまえは言ったじゃないか。私のような貴族を見ると虫酸が走ると」
「勘違いなされているようだ。虫酸が走ると私が言ったのは貴方の事ではありません。そこで醜く潰れて死んでいる者達の事です」
「私は違うと言うのか?」
「違います。貴方は他の貴族とは異なる。貴方には生きている価値があります。少なくとももうしばらくは」
「私に………生きている価値が?」
自分が他の貴族と異なるなどと考えた事も無かった。
「私に………何ができる?」
「自分で考えてください。それだけのことです。私にはまだやるべき事がある。これで失礼します」
「殺すのか?公爵や男爵を」
「そうなりますね」
薄く笑い、アルンヘルは立ち去った。
血臭の満ちる大広間で、ラマーンは一人立ち尽くしていた。
「私に………何が出来る?」
自分は名門貴族の三男坊で、小さな荘園の領主で、そして、エルベス川の戦闘で二人の兄が死に、そしてオルド侯爵家の跡を継ぐことになり―――自分はそれを喜んだか?
いや、あの時自分は困惑し、周章狼狽したのだ。
そのまま、イミナに言われるままに反乱を起こし、その反乱軍を束ねることすら出来ず。
「私に………こんな私に、何ができると言うのだ?」
ラマーンの声は誰も居ない大広間に虚しく響いた。
「こちらです、閣下」
「―――うむ」
アリーニは頷いた。
今彼の手は前を行くギリアム=レミントン男爵に取られ、引っ張られている。
(力強い手だ)
アリーニは引かれながらそう思った。若さに満ちている。
あの時、大広間でギリアムはラマーンと何かを話した後、戻ってきてアリーニに囁いたのだ。
「ここは危険です。私が手引きしますので、安全な場所にお隠れください」
冷静に考えればギリアムの言葉には何の信憑性もないはずだった。
しかし、アリーニはなぜか彼の言葉を信じ、そして彼に腕を引かれるままに大広間を抜け出たのだ。信じた理由はギリアムの熱気を含んだ真摯な眼差し故か。
ただ、彼の言葉を裏付けるかのように、背後の城館、その大広間の辺りから貴族達の悲鳴が聞こえていた。何が起こっているのかはわからないが、何かが起こっているのは間違いない。
「―――どこまで行くのだ?少々、疲れた」
ギリアムは早足で歩いているだけだが、アリーニにとっては走っているにも等しい速さだ。
杖を突く余裕もない。杖は今も抱えているが、用を成さなくなっていた。
「そうですね。このあたりで良いでしょう」
そう言ってギリアムが足を止めたのは、オルド侯爵家御自慢の庭園の中だった。
濃密な花の香りが漂っている。
「どうしてこのような場所へ?………ここは夜が明ければすぐにでも発見されるだろう」
アリーニが怪訝そうに聞く。
ギリアムは数歩、アリーニから距離を取って、アリーニと向き合った。
「私はね、アリーニ=アウグウェルツ公爵、貴方を憎んでいるんですよ」
そのギリアムの目には暗い憎悪の炎が燃えていた。その目を見て、アリーニは嵌められたと悟った。
不思議と何の感慨も沸かない。恐怖も、絶望も、不安も、怒りも、諦めさえ、なかった。
自分は充分に生きた。大広間から悲鳴は聞こえなくなっている。どうやら、他の貴族達よりは自分は長く生きる事が出来たようだ。皇帝にはなれなかったが、それ以外では満足できる一生だった。
そう思ったのかもしれない。
「やはり、お父上の事か?」
「そうです。貴方によって濡れ衣の罪を着せられ、そして左遷された」
「彼は私の事を何か言っていたかな?」
どうしてそんな事を気にしたのか、自分でもわからない。
「何も。父は何も言いませんでした」
「そうか」
なぜかはわからないが、ホッと安堵を覚えた。
「私を殺したいのか?」
「無論、そのつもりです」
ギリアムが剣を抜いた。
貴族にしては珍しい、装飾の少ない、実戦向きの剣だった。
(ギリアムの剣の腕がどれほどか………)
考えかけ、アリーニは思わず苦笑した。
(少なくとも私よりは上、だろうな………)
そもそもアリーニは剣を携帯すらしていない。
若い頃に青年貴族の間で少々流行った時に齧った程度、とても実戦に耐え得る技量ではない。
「―――覚悟!」
ギリアムが吼え、突進してくる。覚悟はとうに定まっていた。
(せめて、目を瞑らずに逝こう―――誇りあるフロレシア帝国皇室の末席を汚す者として)
ギリアムの振り下ろした剣先はアリーニの眼前、僅か数ミリのところで止まっていた。
「―――つまらないな。呆気なさ過ぎる。せめて抵抗ぐらいしてみたらどうですか?」
「老人をあまり苛めんでくれ」
「ふん。………まあ、良いでしょう。せめて最後ぐらい望みを聞いて差し上げます」
ギリアムは剣を引き、突き出してきた。
狙っているのが心臓だというのは簡単にわかった。
今度こそ確実に、死ぬだろう。嬲り殺しにしようとしないのは、ギリアムの趣味の問題でしかない。
しかし、再び、アリーニは死を免れた。
ギリアムの剣はアリーニの眼前で、消滅したのだ。
いや、アリーニの目に消滅したように見えただけで、実際には弾かれたのだ。
いきなり闇の奥から飛び出してきた闇色の触手によって。
ギリアムの顔色が変わる。彼はきっとした鋭い視線を闇の向こう側に向け、怒鳴る。
「何の真似だ、アルンヘル!」
(アルンヘル………)
聞き覚えのある名だったが、思い出せない。
「困りますねぇ」
闇の向こうから、声。続いて何か白い物体が投げ込まれてきた。
それがギリアムの足元に転がる。それを見て、ギリアムの顔色がはっきりと変わった。
アリーニもそれを見る。さすがに彼は顔色を変える様な事は無かった。
ただ、すべてを理解しただけだった。ギリアムが誰の指示で動いていたのか。
そして、彼に指示を出していた者の意図も。それは女の首だった。
「イミナ………」
ギリアムが呆然と呟く。そう、それはあのイミナ=サルティコの首だった。
「勝手な真似をされては、困りますよ。男爵」
続いて闇の中から現れたのは灰色の髪と同色の瞳を持つ男だった。
全身から何処となく禍々しい雰囲気を漂わせている。
「貴様………何故、イミナを殺した!?イミナは貴様の指示を受け、陛下の為に働いていたんだぞ!これは陛下の意思か、それとも貴様の独断か!貴様の独断だとすればこれは陛下に対する反逆罪じゃないのか!」
ギリアムが蒼白だった顔色を今度は真紅に染めて怒鳴る。しかし、アルンヘルに動揺はない。
「無論、これは私の独断です。陛下はこのような非道な真似はお好みになられませんから」
「ならば―――!」
「しかし、貴方方に生きていてもらっては困るのです。既にイミナ殿には消えてもらいました。後は貴方だけ。貴方を殺せば証人は居なくなる。それに、本気で信じているのですか?陛下が貴方を取り立てると?私は貴方達の事は一言も陛下に報告していませんよ」
「なっ………」
ギリアムの表情は再び蒼白になり、口をぱくぱくさせた。そんなギリアムを、アリーニは淡白な思いで見つめていた。利用し、利用価値が無くなれば、殺す。それだけのことだ。よくあることだ。
先帝の御世にあっては。いや、それ以前から。
皇帝が変わったからと言って、容易に変わる事の無い、この国の暗部だ。
「だから貴方には、消えて貰いますよ」
アルンヘルの言葉に、彼の背後の闇が揺らめいた。そこに何か居る。ただの闇にしては、そこだけが禍々しいほどに濃い闇色をしていた。ギリアムの顔色が絶望と恐怖に塗り潰される。
「う、うわぁぁっ!!」
彼は悲鳴をあげ、背を向けて逃げ去ろうとした。
「見苦しい………貫け。冥府の蛇神よ」
アルンヘルの命に答え、闇が弾けた。
一本の黒い触手が、逃れ去ろうとするギリアムに追い縋り、その心臓を背後から貫いた。
「あがっ………!」
ギリアムの体が宙に浮き、痙攣する。口から赤黒い液体が溢れ、白いシャツを汚していく。
やがて痙攣が小さくなり、ただの震えになると触手は左右に大きくしなって、ギリアムの死体を空に放った。放物線を描いて飛んだ死体は庭園の花壇に突っ込んだ。
花びらが舞い、むわっと濃い花の香りが闇の中に漂う。
「―――さて、私が殺さねばならない人は後、貴方一人だけですよ、閣下」
アルンヘルが、アリーニを見る。
「私以外の貴族はすべて、殺したというのか?」
「この国にとって、害にしかならない人はすべて」
「ふむ。ならば、殺せば良いだろう。勝手にするが良い。文句は言わんよ」
「見上げた覚悟です。その前に貴方には聞きたい事がある。それに己が殺される理由も知ってもらいましょうか」
「他の貴族と私では殺される理由に違いがあると言う事かね?」
「そう言うことです。まずは聞きたい事からです。貴方は先帝暗殺には拘っているのですか?」
「何故、そう思う?」
「皇帝の座に大変執着なされているようですから」
「馬鹿な。ならば先帝が崩御なされた後に即位している。私は即位を辞退し、今上帝を推薦した者だぞ?その私が何故、先帝暗殺に拘る?」
「まぁ、良いでしょう。貴方が先帝暗殺に拘っていようがいまいが、私にとってはどちらでも良い。貴方はここで死ぬのだし、先帝暗殺の犯人は闇の中に閉じ込めておきましょう。どうせ人々も先帝暗殺の事件など忘れているのだから。わざわざ蒸し返す必要もありません。貴方を殺す前にもう一つ、貴方には貴方が殺される理由を知って貰いましょう。ユナと言う名に聞き覚えがありますね?」
「ユナ………?」
アリーニがかすかに眉根を寄せる。しかし、思い出せた様子はない。
アルンヘルがかすかに笑う。神経質な笑みだった。
「貴方が子を生ませた女ですよ」
「私の子?………ユナ………」
と、そこでアリーニの表情がはっきりと変わった。
「まさかおまえは、ユナの………?」
「そうです。私は貴方が下賎な犬と呼んで捨てたユナと言う女性の息子です。貴方を殺せる日を待ち侘びていた。そのために私は貴方の用意した孤児院で必死に学び、そして善良な老夫婦の養子となり名を変え、そして過去をすべて抹消した」
「ふむ。若かりし頃の己の過ちの産物にわしは殺されるのか………」
「過ち………貴方に、ユナを愛し、慈しむと言う思いは片鱗も無かったのですか?」
「無い。下賎な犬を愛する心など持ち合わせてはいない。ユナは若き日のわしが己の性欲に抗えず弄んだ玩具に過ぎんのだからな」
アリーニは真っ直ぐ、アルンヘルの灰色の瞳を見据えた。
「これがおまえの望んだ答えだろう、我が息子よ」
「私は貴方の息子だと思った事は無い」
「―――だろうな」
「私が感情を高ぶらせるところを見たいですか?泣き叫ぶところを?怒りに身を震わせるところを?」
「まさか」
アルンヘルは口元に薄く笑みを浮かべて問う。
アリーニもまた口元に薄く笑みを浮かべて答える。
二人共に否定するであろうが、二人の笑みは似ていると思えた。
アルンヘルは自分が予想以上に淡白な様子で話していることに己の事ながら驚いていた。
泣き叫ぶと予想していたわけでは無いが、憎悪の炎に身を焼かれることは予想していた。
しかし、彼の身内にはまったくそのような憎悪の炎は無かった。
むしろ、何も無い、ただの虚無が広がっているだけのように思えた。
―――虚しい事だ。
心の何処かが、そう告げる。
―――わかっていたことだ。覚悟もしていた。それに、この後の、生きる目的は既に見つけてある。
アルンヘルが片手を挙げる。彼の背後で、闇が蠢いた。
「最後に、こう呼ばせてもらいますよ」
「下賎な犬、か?」
「いえ。………さようならです、父上。皇帝の座を目指したその夢と共にここで果てなさい」
アルンヘルが手を振り下ろし、アリーニ=アウグウェルツは消滅した。
肉塊すら残さず、完全にこの世から消滅したのだ。
父を消し去った息子は、表情を変えるでもなく、暗い雰囲気を纏ったまま、しばし立ち尽くしていた。
4 反乱終息
夜が明けた。
城内の自室で、執務椅子に身を沈めたまま、ラマーンは一睡もせずにこの朝を迎えた。
昨日の内に、貴族は彼を残して皆、死んでしまった。
アリーニ=アウグウェルツ公爵も、カブラ子爵もギリアム=レミントン男爵も、他の大勢の貴族も。
そして、イミナすら、死んでしまった。
兵士には何の説明もしていない。
しかし、既に城の各所には白旗が立てられている。
白旗の意は『降伏』だ。
これを見て、ただでさえ忠誠心の無い将兵の中には既に城を脱走する者も多い。
そしてそれを止めるべき貴族はもう居ないのだ。
従兵が先ほどから呼んでいる。
本丸の前の広場に、数百人の兵達が説明を求めて集まっているのだという。
説明を求めているのはそれで全員と言う事は無いだろう。
小隊長、或いは中隊長、もしくは仲間から聞いてくるよう依頼された代表者などが集まっているのだろう。
アルンヘル=へード大佐はアリーニを殺害した後、大広間で呆然と立ち尽くしているラマーンの元にやってきて、こう言ったのだ。
「貴方は一人になりました。貴方にはこれからやってもらうことがあります。まずは明日。では後はよろしくお願いします。私は城内の一室で勝手に眠らせて貰います」
そう言って、恭しく頭を垂れて見せ、去ったのだ。
―――明日。
アルンヘルの言葉を一晩考えた。
そして、夜が明け、従兵の報告を受け、ようやく理解したのだ。
自分の役目。
それは将兵に降伏を納得させることだったのだ。そして、もう一つ。
アルンヘル=へードの言葉を思い出せば、自分の役割が見えてくる。
(我が王は御心優しき方ゆえ、反乱軍に与し者と雖も命を奪うのは偲びないと仰られるのです)
ラマーンはゆっくりと腰を挙げた。
「―――これからが、私の本当の仕事だ」
フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザー率いる三万五千の軍勢が現れた。
ニヒトフォーフェン城の尖塔に白旗が掲げられていると言う斥候の報告はあったものの、緊張感を失う事の無い整然とした進軍はさすがは精強を謳われる近衛騎士団と第一歩兵師団および第一騎兵師団だけのことはある。
城から四キロ程離れた場所まで進軍し、ラインハルトは全軍に停止を命じた。
城門が開かれ、白旗を持った中年の貴族が一人、馬に跨って出てきた。
馬の轡を取っているのは灰色の髪に灰色の瞳を持つ青年、アルンヘル=へードだった。
彼らは皇帝軍の奥深くへと通された。
馬を降りるよう言われ、中年の貴族が馬から降りる。
彼らは武装した近衛騎士に周辺を固められ、皇帝の御前へと進んだ。
上座には一人の少年が床机に腰を下ろしていた。
太陽の光を受け、この世でもっとも高貴な宝玉であるかのように少年の姿は眩く輝いていた。
黄金の髪、南海の海を想起させる碧い瞳、色素が抜けているかのように白い肌と剣など振れるのかと疑問に思うほどの華奢な体つき。
白鎧と純白の戦衣に身を包んだその姿は巷で噂されているとおり、建国王であると共に覇皇でもあった初代皇帝フェルモア=シーザーを思い起こさせる。
彼の腰には豪華な装飾の施された鞘に収まった聖剣《覇皇剣-サナトゥス》が佩かれている。
その抜き身は血を思わせる真紅なのだと言う。
「汝がラマーン=オルド侯爵であるか?」
少年らしい甲高い声で皇帝が問う。
甲高いが、決して不快な声ではなかった。
むしろ、神々しさを感じるような、そんな声だった。
「はっ」
その威光に押されるかのように俯き、ラマーンは答えた。
彼の傍に既にアルンヘルの姿は無く。
左右には皇帝軍の重臣が綺羅星の如く並んでいる。
近衛騎士団長アミリア=ホーン中将。
第一軍第一歩兵師団長アレク=ハーベスト少将。
第一軍第一騎兵師団長レフィナ=フュークル少将。
特にアミリアの眼光は鷹の如く鋭く、まるで射抜くが如くラマーンの面上に突き刺さっている。
「貴殿が降伏の意思を固めし事、重畳と思う」
皇帝の声は林間を縫う涼風の如く、小気味よかった。
ラマーンは答えずに、皇帝の次の言葉を待つ。
無論の事ながら反乱は重罪だ。
死罪は免れない。先帝の御世ならば市中引き廻しの上磔刑・火炙り・斬首の上晒し一ヶ月、その類縁の者も皆磔刑・火炙りの刑に処される程だ。
貴族ならば爵位剥奪の上、御家断絶、荘園はすべて皇帝の直轄下となる。
ラマーンは覚悟を決めていた。あの時、すべての貴族がアルンヘル=へードに殺されたとき、何故自分だけが生かされたのか。それは反乱の責を負う為だったのだ。彼には縁者も居ない。
彼が処刑されれば反乱に加担した他の貴族の縁者や兵の命は救われるのだ。
皇帝が厭う、無為な死を避ける事が出来る。
ラマーンは顔を心持あげ、皇帝の貌を見上げた。
若い。青年とも呼べない。まだ少年だ。
だが、その貌には何処となく気品が漂い、何処となく覇者の風格を備えているようにも見えた。
ラマーンの気のせいかもしれない。死にいく者の、せめてもの願望かもしれない。
「しかし」
その皇帝が口を開いた。僅かにその碧眼が揺れる。
「国家への反逆は重罪だ。汝の采配によりて、数百の人間が死んでいる事もまた事実」
反乱軍によって陥落させられた砦では副連隊長の裏切りに反抗したかなりの守備兵が殺害された。
陥落させられなかった城でも、犠牲は出た。犠牲は正規軍だけではない。反乱軍にも、いや、反乱軍の方にこそ、より多くの犠牲が出た。
ここで反乱の罪を問わなければそれらの人々の死はまったくの無為に終わる。
「だが、余も鬼では無い。余の政策が貴族にどれほどの負担を与えたかは理解しているつもりだ。故に問う。刑を受けるに当たり、何か望む事があらば、余の可能な限り、適えられるよう取り計らうが」
ラインハルトにとってみれば、それはせめてもの罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。
貴族連盟の貴族達を追い詰め、反乱に立ち上がらせる事で一箇所に集め、皆殺しにしたのはすべて予定通りの事だったのだ。
無論、その謀略を考案したのはアルンヘル=へードだ。
イミナ=サルティコやギリアム=レミントンを内応者に仕立て上げ、貴族を反皇帝に立ち上がらせようと煽動したのは彼なのだ。
しかし、その謀略を採用し、実行を命じたのは自分なのだ。その責は自分にある。
「ならば陛下に一つだけ、願いがございます」
「なんだ?」
アミリアの眼光が鋭くなるも、皇帝が軽く片手を挙げて制止する。
その上で、彼は静かに問うた。
近衛騎士団長と言う職務上、彼女にとって見れば反逆とはもっとも忌むべき罪だ。
その首魁である男の望みなど聞く必要は無いと思ってもこれは自然だった。
「今もまだ城内には多くの将兵が居ります。また既に逃亡せし者もまた数多く。彼らはただ雇われただけの傭兵か或いは金で繋がれた私兵。彼らに此度の反乱に関する咎が及びませぬよう。彼らが元の生活に戻れるだけの陛下の寛容なる御配慮を恥を偲び、伏して御願い奉ります」
(この言葉を奏上するために………自分は生かされたのだ)
ラマーンの願いを聞き、皇帝の顔が少しだけ歪む。
悔悟だった。ラマーンは貴族にしては珍しく、腐敗や堕落とは無縁の貴族であった。小心者かも知れ無いが、謂れ無き誇りを振り翳すよりどれほどマシな事か。
これからのフロレシア帝国にとっても必要となるかもしれない人材だった。
しかし、彼には死んで貰わなければならない。彼一人の死で購える命があまりにも多すぎる。
国内に不満の種を残すことだけはなんとしてでも避けねばならなかったのだ。
断腸の思いで、ラインハルトは頷いた。
「聞きいれよう。反乱に加担したすべての者を不問に伏す。ただし、汝のみは例外である。汝は此度の反乱の首魁のうち、生き残った最後の一人。汝の処遇は臣民院の採決を待ってのち、通達するが、余の意思は一つ。すなわち、罪には罰を以ってこれを裁く事にある」
ラインハルトの背後で、フロレシア帝国の国旗、《力強き銀獅子》が風に吹かれて大きくはためいた。
皇帝は迷ってはならない。皇帝は強くあらねばならない。皇帝は冷徹に決定を下さねばならない。
国旗に描かれた白銀の獅子は伸び伸びと四肢を伸ばして大地を踏みしめ、力強く逞しい首を曲げて天を睨み、音にはならぬ咆哮をあげている。
まるで―――大きな責をその両肩に負わねばならぬ、若年の皇帝を励ますかのごとく。
ラマーンはしっかりと顔をあげ、皇帝の青い瞳に己の瞳を合わせた。
心はかつてないほどに静寂だった。
かつての気の弱い自分はここには居なかった。
惰弱な自分はあの大広間で、アルンヘルの操る闇の眷族によって食い殺されてしまったのかもしれない。
「早速のお聞き届け、恐悦至極に存じ上げます」
彼は己に課された役を、見事に演じきった。
「―――ふう」
幕舎で一人になり、ラインハルトは深く息を吐いた。
果たして本当にこれで良かったのか?自問するも答えは見つからない。
ラマーンのような男も貴族の中には居るのだ。
もしかしたら殺してしまった多くの貴族の中にも誠に国を思っていた者が居たのかも知れない。
「だとしたら僕は―――」
結局は己の為だけに、己と意見の合わないものを粛清しただけでは無いのか?
貧しい民衆の為と己を騙していただけではなかったのか?
「―――燭台の灯も灯さずに、何を悩んでおられるのですか?」
声と同時に、幕舎の中が明るくなる。
入ってきたアルンヘルが燭台に灯を灯したのだ。
ラインハルトは力なく顔をあげ、そして少しだけ目を細めた。
「どうしたんだ、アルンヘル?………その痣」
アルンヘルの頬には殴られたかのような青痣があった。
殴られたばかりなのか、まだ薄いが明日の朝にでもなれば精々目立つだろう。
唇も切れているのか、少し血が流れている。
その血を手の甲で拭い、アルンヘルは何でも無いかのようにもう一つの燭台に灯を灯す。
するともう一つ、人影が浮かび上がった。
炎の如き赤い髪を持つアレク=ハーベストだった。
「先ほど彼に、殴られました」
アルンヘルは淡々と事実だけを述べる。
ラインハルトの表情が苦しげに歪んだ。
「アレク、今回の事は僕が―――」
「わーってる。さっきアルンヘルに聞いた。と言うより、気持ち良く俺が寝ているところに陰気な顔してこいつが来て、洗いざらい全部言いやがった」
「じゃあ、なんで―――」
「こいつがふざけた事抜かしたからだ」
「ふざけた事?」
「『私の献策を陛下はただ採用なされただけだ。陛下には何の責も無い。なのに陛下は己の責だと考え、悩んでいる。陛下の気持ちを楽にして差し上げられるのは貴方だけだ』ってな。むかついたからぶん殴った」
「…………」
呆気に取られて、ラインハルトは声も出ない。
アルンヘルは残る二つの燭台にも順に火をつけた後、頬の青痣のあたりを摩りながら、
「―――かなり痛かったです」
「当たり前だ。どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって」
アレクはそのままずかずかと大股でラインハルトの眼前に立つ。
「だがな、一番腹が立つのは、おまえみたいな陰気野郎に利用されることじゃねえ」
肩越しに振り返って一度アルンヘルを睨んでから、アレクはラインハルトを見下ろし、あろうことかその襟首を掴んだ。
「おまえに利用されねえ事だ!」
襟首を掴まれていながらも、それほど力が込められている訳でも無いのか、ラインハルトはそれほど苦しそうではなかった。ただ、呆気に取られてはいた。
「あ、アレク………?泣いてるの?」
「泣くか!お前は何で昔っからそうやってなんでもかんでも自分一人で背負おうとしてやがるんだ!俺はお前の事を親友の幼馴染だって思ってる!おまえは俺の事を口の軽い信用の置けない一臣下としか見て無いのか!」
「ぼ、僕だって、アレクの事は親友だと、思ってる、よ」
(口が軽いのは事実じゃないか………)
「だったら、一人で悩むんじゃねえよ!愚痴ぐらい零せよ!心に溜まったら、酒飲んで吐き出せよ!俺が酒の相手ぐらいしてやるから!女を抱きたくなれば俺が紹介してやる!安心しろよ!おまえが間違ってたら、俺がおまえをぶん殴ってでも止めてやる!だから―――」
アレクが拳を振り上げ、ラインハルトの頬を殴り飛ばした。アレクの目尻からも輝く雫が飛ぶ。
赤髪の猛将の渾身の力で殴られ、悲鳴をあげることも出来ずにラインハルトの華奢な体が吹き飛び、幕舎の壁に叩き付けられる。幕舎を構成する布が大きく撓み、中央に立てられた柱が大きく傾ぐ。アレクがその柱を抑え、撓みが引き戻されて、皇帝は地面に投げ出された。
白く滑らかな頬を土で汚しながら、皇帝が身を起こす。その皇帝の眼前に手が差し出された。
毎日剣を振って鍛えているために豆だらけになっているアレクの大きな手。
アレクは満面の笑顔だった。かすかに涙の跡を残しつつ、それでも輝かんばかりの笑顔を浮かべていた。
「だから、覚悟しろよ、陛下」
ラインハルトも笑顔を浮かべ、アレクの手を取った。暖かかった。そして、力強く引かれた。
立ち上がったラインの心に先ほどまであった罪悪感による沈殿物はすっかり消化され、排出されていた。
自分は一人では無い。自分を温かく見守ってくれている人々が居る。
アレクは手を振って、幕舎の外へ出て行った。ラインハルトの服の埃を払い、アルンヘルも立ち去った。
そして入れ替わりに、皇帝の護衛役を勤める黒髪緑瞳の剣士ヴァンが入ってきた。
「…………」
彼は黙って、自分の主を見つめていた。
ラインは苦笑を浮かべ、アルンヘルが拭っていかなかった頬の泥を服の袖で拭った。
「彼らは余にとってなんなんだろう?」
皇帝の問いに、直護衛は何の躊躇いも無く答えた。
「―――臣下です、陛下」
「いや」
ラインは首を左右に振って否定した。今度は快活に笑う。
「彼らは臣下ではなく、仲間だよ。大切な仲間。君もね、ヴァン」
「―――はい」
『バトル・オブ・フロレシア』 完
1 二つの頭
城内には険悪な空気が流れていた。同じ反乱軍でありながら貴族達はアリーニ=アウグウェルツ公爵派とラマーン=オルド侯爵派の二つに分かれ、正規軍が接近してくると言う緊張状態におけるストレスの発散を求めて、互いに互いを罵倒していた。公爵派は公然と。侯爵派は陰に潜んで。
両者の軋轢は埋めがたい溝となって、城の上空に暗雲を呼び込む元となっていた。
城主の居間で、ラマーンは気難しげな表情で腕を組んでいた。
彼の私室であるこの部屋には今、彼の他に彼の腹心であるイミナ=サルティコだけが居た。
「何とかならないのか?イミナ」
「何がです?」
ラマーンの言葉に、イミナは紅茶を淹れながら済まし顔で答える。
「公爵とその一派どもの事だ。私の城であるのに、彼はまるで己こそが城主であるかのように闊歩しておる」
「閣下の志に共鳴して集ってくださった同志ではありませんか」
「であるが………公爵一派の貴族どもは私の元に集ってくれた貴族達を酷使していると言う訴えがあがってきているのだ。城内を散策していても、公爵派の将兵が通路の真ん中を大手を振って歩いているのに対し、他の貴族の将兵はどうにも通路の端をまるで隠れるようにして足早に歩いている。兵の中にはこの境遇に不満の声を漏らしている者も多い。私としては憂慮するしかない。このままでは正規軍に対し、協力して事にあたるなどと言う事ができるだろうか?それが出来なければ、我々には万が一にも勝算はあるまいに」
「そうですか。………しかし、志を同じくする者同士、修羅場を共に潜るうちに結束力も高まっていくと思います。今はまだ、共に戦うと言う経験を積んでいないのでうまく行っていない問題でもきっと時が解決してくれると思います」
「そんなものなのか?」
ラマーンはかなり疑わしそうな声だったが、彼の前に紅茶を置いたイミナはまったく疑っていない顔をしていた。
「そんなものです。閣下が心配なされるような問題ではありません」
ラマーンはなんだかんだと言いながらも彼が二十代の若さで荘園を任された時からの付き合いであるイミナの事を信頼していた。そのイミナが断言するのを、彼はさして深く考える事も無く信じる事にしたのだった。ただ、胸中で疑念の呻きだけはあげた。
(果たして、時が残されているのかどうか………)
ニヒトフォーフェン城にはオルド侯爵家が代々世話をしている庭園がある。
かなり広大な敷地を有しており、ラスカーナ大陸中のさまざまな花が植えられている。
その庭園の中をアリーニ=アウグウェルツ公爵はカブラ子爵だけを伴って、散策していた。
アリーニ派と言う事になってはいたし、青年貴族達自身も自分の身の位置をそのように考えているであろう。しかし、アリーニと若手貴族の間を取り持っているのはこれも若手貴族ながらはっきりとした言動で台頭してきたギリアム=レミントン男爵だった。
彼の言葉によって、若手貴族達が立ち上がらなければ、恐らくアリーニは今回の反乱への参加を見合わせただろう。しかし、ギリアムは若手の意見を一手に纏め上げてしまった。
いくらアリーニが強大な力を持っているとは言え、言下に拒絶することが出来ないほどの潮流を彼は作り上げてしまった。今の権力基盤を失わないためには、そう言った潮流に乗るしかなかったのだ。
「子爵」
「はっ」
正確にアリーニの三歩後ろを歩くカブラ子爵が答える。
彼は恐らく今一番アリーニの近くにいるだろう。
しかし、そんな彼ですらギリアムに贈り物をして近づいているのをアリーニは知っていた。
(若手貴族の中でギリアムの地位は不動の物になりつつある)
先々代の皇帝クライス四世の子として生まれ、父が弟に皇位を譲った後、アウグウェルツ公爵家を創始してから数十年間守り抜いてきた権力基盤がそう間単に崩れる訳も無いが、なにしろ自分は老いている。
若い者が力を持って台頭してくるのは不安だった。数年前までならば若者の台頭に一喜一憂する事など無かった。不安を感じると言う事自体、老いていると言う事なのだろう。
「ギリアム=レミントン男爵の事をどう考える?」
「どう………と言われますと?」
カブラ子爵がやや困惑気に問う。アリーニに忠誠を誓いつつもギリアムにも誼を通じている彼にとってこの類の問いは迷惑以外の何者でもなかった。
そして、普段のアリーニならばこのような問いを発する事はしなかっただろう。
普段の彼は己に大きな自信を持っており、ギリアムの台頭を恐れる必要などないからだ。
よしんばギリアムの台頭に彼が恐れる要素があったとしても、ならば裏から圧力を掛けるなり何なりしてギリアムの力を削げばいいだけの話しなのだ。
権力に敏感なカブラ子爵はそのアリーニの微妙な変化を彼の鋭敏な触覚で以って感じ取っていた。
しかしその原因が何処にあるのかは、わからない。
「あの者に関する印象を聞いているのだ」
やや早口で言い、アリーニは杖で地面を抉った。
カブラは土に刻まれたアリーニの杖の跡に一瞬、目を向けてから、言葉を選ぶようにして答えた。
「そうですな。敢えて申さば、彼の言動には勢いを感じるかもしれません」
「勢い?」
「はい。若さゆえの勢いと言う奴です。奴の言葉には人の心を勇気付けるようなところがあるように思います。ですが若いが故に視野が狭いとも言えると思います」
「若さゆえの勢い。そして、若さゆえの危うさ、か………いずれにしろ、私には既に無いものだな」
「ですが、閣下が問題になされるような相手ではございませんのでは?」
(良く言う)
白々しく追従の言葉を並べ立てるカブラ子爵を振り向こうともせず、アリーニは少し歩く早さを速めた。しかし、寄る年波のせいか、すぐに息が上がってくる。その息の荒れを隠すためにアリーニは再び口を開いた。
「ギリアムの父、アトレフ=レミントンは皇帝への忠誠篤い忠臣であった。皇帝の覚えもめでたく、皇后様よりの覚えもめでたかった」
カブラは沈黙を守って、ただ怪訝な眼差しをいきなり昔話を始めたアリーニの背に向けた。
そして、気づいた。
ラインハルト=シーザーが即位したばかりの頃、彼が始めてアリーニ=アウグウェルツ公爵に会った時に感じた彼のこちら側を飲み込むかのように圧倒してきたあの威厳が消えていることを。
アリーニ=アウグウェルツは帝国随一の名家に生まれたが、決して順風満帆な人生を歩んできた訳ではなかった。
政敵は居たし、彼の命を狙う者も多く居た。
彼は権力を掌握するために多くの政敵を殺し、貶め、伸し上がって宰相にまで登り詰めながら、政敵の暗殺から逃れるために表舞台から退かねばならなかったのだ。
それゆえに、彼は皇帝の座に憧憬を覚えるのだろう。
この国家最大の権力に守られた、宮城と言う最も安全な場所から帝国全土をひれ伏させる存在。
皇帝は何をしても許される。
それだけの力を持っているのだ。
「私にとって、奴は邪魔な存在だった」
アリーニは白い可憐な花の前で足を止めて、目を細めた。
背をやや丸めたその姿は何処にでもいる、楽隠居の老人だった。
カブラはそのアリーニの三歩後ろに従者の如く佇みながら、その瞳は困惑に揺れていた。
彼にとって絶対的存在だった男のこの変貌振りをどう判断すべきかわからなかった。
しかし、アリーニが己の過去を話すのは珍しい。
知っていて損をするという事はないだろう。
「だから私は彼を辺境直轄領の代官として左遷した。二十年以上前の話しだ。だが、一年前、先帝陛下の勅令により、帝都に呼び戻した。その途端、病で、奴は死んだ。残されたのはギリアムと言う息子と奴の領地だけ………奴はもしかしたら」
「―――もしかしたら?」
本能的にカブラはアリーニが何か大切な事を言おうとしていると察した。
だが、彼がそう先を促したのは、失敗だった。
「―――いや、なんでもない」
首を振ってそう言い、アリーニ=アウグウェルツは口を閉ざしてしまったのだ。
そのまま無言で庭園を回り、アリーニはそのまま城内にある軍営に戻った。
城内の一室に、青年貴族の姿があった。
ギリアム=レミントン男爵。
彫りの深い顔立ちに、何処となく熱気を感じさせる笑みを浮かべ、彼は一通の書簡に目を通していた。
それは今朝、城兵に身をやつして現れた者によって届けられた。
今までにも何度かこのような方法で指示を受けている。
『なんとしてでもアリーニを反乱に起たせろ』と言う指示がもっとも難しいと感じたが、他の青年貴族達を扇動する事によって何とか果たすことが出来た。
ギリアムは実際にはアリーニやカブラが思っているほどの大人物ではない。
彼はただ、己の目的と利害の一致した男の提案に乗り、その男の指示のとおり、行動しているに過ぎない。だが、その書簡は指示ではなかった。
その書簡には簡潔な文章が書かれているだけであった。しかし、この数ヶ月のギリアムの努力はある意味、この簡潔な文章を読む為の物であったろう。
『明日、決行す―――』
貴族が書くような虚飾に満ちた文体ではなかった。
むしろ荒々しいほどの文体だ。
しかしギリアムはそういった文体を書くあの男の事が嫌いではなかった。
男はその身全体に何処となく陰気な雰囲気を纏っているためか、人望がない。
しかしそいつは自分に人気が無い事をなんとも思っていないのだ。
ギリアムは笑みを苦笑に変え、書簡を文箱に収め、机の抽斗の二重底の下にある隠し棚に入れた。
窓から外を見るとちょうど庭園を歩いているアリーニ=アウグウェルツが見えた。
彼の後ろにはいつも金魚の糞の如くくっついているカブラ子爵も付き従っている。
「アリーニ=アウグウェルツ………」
ギリアムの顔つきが鋭くなっていた。
彼の父親はアリーニ=アウグウェルツによって左遷させられ、田舎で脾肉の嘆をかこつ事となった。
父はその事に関して一言たりとも繰言を言わなかったが、時々招かれる中央の舞踏会などで同年代の貴族達が順調に出世していくのを嫌でも知らされて、穏やかな心境で居られたはずがない。
将来は宰相にもなれる器だとも言われていたのだから。
それが宰相どころかたかが辺境の代官で終わるなどと納得できるはずもない。
その上父は先帝陛下の勅令によって中央の帝国府に出仕できるようになり、二十年ぶりに帝都に舞い戻ったと言うのに、その僅か三ヵ月後に病没してしまった。
(父の人生はなんだったのだ?)
父は国に尽くすことしか知らない人だったと言う。『と言う』と曖昧なのはこれは母から聞いた話だからだ。母は父の貴族らしからぬ欲のない正直な生き方に惹かれ、一緒になったのだと言う。
そしてそんな清廉潔白な父の元には彼を慕う貴族達による一派も形成されていたのだと言う。
そこがアリーニ=アウグウェルツに目を付けられ、左遷される原因を作った。
当時、父は財務省に出仕していた。故に、父の左遷の原因となった罪状は公金の横領。
無論、清廉潔白な父がそんな事をするはずもないが、父は弁解もせずに帝都を去った。
二十年間の直轄領経営で、彼は一度も税金を横領したりしなかった。機会は無数にあったし、中央では地方貴族のこう言った不法行為に関してはほとんど興味も無いようだった。ばれたとしても、罰せられる事は無かったはずだ。だが、父は一度たりとも悪事に手を染めた事はない。
中央から課される税は厳しかったが、他の貴族のように税の上にさらに私腹を肥やすために私税を上乗せするような事はなかったので、彼の統治する直轄領内は他領に比べればまだ裕福な方であると言えた。
彼の人柄のおかげで領民との間にもさしたる問題は起こらず、平和に月日は経過していた。
そんな中で、ギリアムは育ったのだ。
時折、さびしげな表情を見せる父の顔を見て育つうちに、ギリアムは父が現在の地位に納得しきれていない、自分を左遷させたアリーニに隔意を抱いていると確信した。
(必ずお前の首は俺が落とす………)
ギリアムは暗い想念に心を燃やしつつ、庭園から出て行くアリーニとカブラを睨み付けていた。
自分用に与えられている小さな部屋で、イミナは一通の書簡を見ていた。
彼女には大金持ちになると言う野心があった。この国の多くの者がそうであるように、彼女の生家も貧乏だった。特に辛かったのは冬だ。毛布とてなく、家族全員で身を寄せ合って、寒さに耐えた。
貧しくて、薪を買うことすらできなかったからだ。
(金があれば―――)
彼女は幼心に何度そう唱えたかわからない。少しでも生活を良くしようと体調を崩すまで働き続けた両親に、我侭を言う事などできなかった。金があれば―――。美味しい物を食べて体を暖めることもできる。暖かな服を着る事もできる。暖かな暖炉の火に当る事もできる。だから彼女は、自分は大金持ちになろうと思った。自分の子供に、このような寒い思いをさせないために。そのために大貴族であるオルド侯爵家に仕えた。しかし、彼女の仕えた主人は小心者で、金儲けにも政略にもさしたる才能を持ち合わせていなかった。しかも彼は三男坊で、候爵位を継げる位置にも居なかった。
一旦はイミナも野心を諦めた。鳥や花にも優しいラマーンの情にほだされたと言っても良いだろう。
少なくとも、寒さを凌ぐ程度の財は出来たし、ラマーンに仕える事で金では買えない温かみを得る事もできた。だが、ラマーンの二人の兄がエルベス川の戦いで戦死し、風采の上がらぬ四十代男だったラマーンに爵位が回ってきた。そこでまたそれまでの二十年間、血潮の中に眠っていた彼女の野心が長き眠りから覚め、彼女の体中を駆け巡ったのだ。
しかし、長年に亘りラマーンの忠実な部下として過ごして来た彼女にとってはラマーンとの暮らしも決して居心地の悪いものではなかった。いや、むしろそれは居心地の良いものだったのだろう。
逡巡する彼女の前に、あの男が現れたのは今から三ヶ月程前―――ちょうど皇帝ラインハルト=シーザーがルシタニア連合王国への表敬訪問に旅立った頃の事だった。
その男は貴族を一掃するために彼女に協力を求めてきたのだ。
協力の報酬は莫大な財宝と広大な荘園、そして貴族連盟の次なる会長をラマーン=オルドに。そして爵位も侯爵から公爵になると言う物だった。
そしてイミナは同時に伯爵夫人の爵位と荘園、そして貴族連盟の副会長を約束された。
自分が貴族となり、莫大な財産を持ち、社会的に高い地位に登る。
まさに彼女の夢がすべて適う程の魅力溢れる提案だった。彼女は己の体の中で疼く野心に今一度身を任せて見る事にした。それから三ヶ月。男からは時折、指示が送られてきた。その指示を彼女の元に送り届ける者も、毎回違った。時にはメイドだったり、時には衛士だったりと実に多様だった。
そして、今彼女が見ている書簡は先ほど馬丁のなりをした男から届けられた物だった。
そこには短く指示が書かれていた。
イミナは丁寧に二度、その指示を読み返すと燭台の火にくべて、書簡を処分した。
男の指示どおりに事を運べば、アリーニを始めとする多くの貴族が抹消され、皇帝派貴族によって、新たな秩序が形成され、この国は生まれ変わるのだ。
今までよりも貴族の権威は堕ちるだろう。しかし、イミナにとって権力などはどうでも良い事であった。彼女にとって大切なのは財産なのだ。イミナは書簡が完全に灰になったのを確認すると、部屋を出た。
ラマーン=オルド侯爵に進言するためだ。
明日の夜、戦いの前途の光芒を祈願し、すべての貴族を集めて晩餐会を開くようにと。
ラマーン=オルド侯爵派とアリーニ=アウグウェルツ公爵派の分裂に頭を悩ませていたラマーンの事だ、両者の親睦のためと言えば嬉々として準備に取り掛かるだろう。数百年もの時、続いていた貴族によるこの国の支配構造が明日、大きな変革の時を迎えるのだ。そして、その変革の担い手は誰あろう、彼女自身なのだ。国を変え、その報酬として彼女は莫大な財産を手に入れる事になる。自分の将来は虹色に輝いている。侯爵の執務室へと向かいながら、イミナは窓ガラスに映る己の姿を見て、口元の筋肉が緩んでしまうのをどうしても抑える事が出来ないでいた。夢が適う。明日、夢が適うのだ。
2 最後の晩餐
帝国暦三三二年十月八日。
ニヒトフォーフェン城は各所で篝火が焚かれ、まるで真昼のように明るかった。
薄い黒色の煙が空に昇り、ただでさえ月もない暗い空をより一層暗く見せていた。
篝火の周りには反乱軍の兵が数人ずつ集まり談笑している。
彼らの顔に緊張はない。
まだ皇帝派の軍勢が姿を見せていないというのもあるが、彼らはもし敗色が濃くなれば逃げ出せば良いと気楽に考えている。
彼らは貴族の譜代の家臣と言う訳ではなく、一時的に雇われた傭兵なのだ。
負ければ金も支払われない。戦っても反乱兵として死ぬだけで、しかもその死には何の見返りもない。
下手をすれば反乱に加担した罪で自分達の家族にまで咎が及ぶ可能性すらある。
彼らが必死に奮戦する理由など何もないのだ。
彼らは貴族に対して忠誠心があるわけでもない。
いや、むしろ恨んでいるとすら言えた。
彼らの中には無論、己の腕一本で世に出て立身出世しようと言う野心に燃えている者も居るが、その大半は普段農作業をしている農民であり、農民としての暮らしだけでは生計が立てられなくなり、仕方なく傭兵の募集に応募したと言う者達なのだ。
彼らは篝火の明るさに惹きつけられて飛んでくる虫を払いのけながら、自分達の上官の貴族の文句を言い合っている。
「まったく俺達に真剣味が無いのは良いとしてもよ、なんで貴族どもまで緊張感がねえんだ?」
「ああ。のんびり晩餐会とは何考えてるんだか」
「まったくだ………。ま、憂国だの志士だのと言ってても所詮は世間知らずの坊ちゃまって事だろ。戦の《い》の字も知らねえ。………ん?」
「どうした?」
「何か聞こえなかったか?」
一人の兵が篝火の灯の届かない闇に目を凝らす。
闇の中に没していてわからないが、そちらには城壁しかないはずだった。
「どんな音だ?」
地面に置いていた槍を持ちつつ、もう一人の兵が聞く。三人目の兵は腰の剣を抜いている。
「何かが動くような音だ………なんかでかいもんを引き摺るみてぇな」
一人目が答え、弓に矢を番える。
「お前はここに居ろ。行くぞ」
「ああ」
槍兵が指示し、剣兵と共に闇の中へと消えて行く。弓兵は弦を絞ったまま、闇の中を凝視している。
二人の足音が聞こえてくる。
そして―――
「な、なんだ!?足になんかが―――」
「どうした!うわっ、なんだこれ!気持ち悪ぃ………ッな、う、うぎゃああっ!?」
ぐしゃっごきっばきゃっ!!
骨が砕かれるような、そんな音が闇の向こうから響いてくる。
そして、何か膨大な質量を持つものが蠢くような音。何か得体の知れない化け物が、闇の向こうにいる。
「う、うわあっ!!」
弓兵は悲鳴をあげ、逃げ出した。その拍子に彼の体が篝火に当り、篝火が倒され、辺りが暗闇に包まれた。直後、闇の中に何かがしなりながら空を翔ける音と弓兵の悲鳴と肉が潰れ、骨が砕ける音が響いた。
晩餐会は城内の大広間で行われていた。
オルド侯爵家御自慢のそこは同時に数百人の人数を収容することが出来る。
天井も高く、豪奢な輝きを放つシャンデリアの光が部屋をきらびやかに照らしている。
壁には何百メルダ、いや何千メルダもするような著名な絵師の有名な作品が掛けられている。
ラマーンの趣味ではない。彼はどちらかと言えば、豪奢な生活を嫌う。
小さな荘園の領主だった頃の貧乏根性が抜けないのだろう。
しかし、豪奢な生活を好む貴族をもてなすためにはこのような部屋が必要だったのだ。
だが、貴族達の輪は大きく二つに分かれていた。
ラマーン派とアリーニ派の住み分けがはっきりしている。
両者の間には笑顔とお世辞と社会辞令によって巧妙に塗り固められた敵意が行き交っている。
(元々は同じ貴族連盟の同志と言う立場であったはずが………)
己自身、ラマーン派の輪の中心に居ながら、ラマーンは心中に苦い物を抱く思いであった。
青年貴族達は自分の気持ちに正直過ぎるようだ。
相手を嫌うととことん近寄らなくなる。
(こんな具合で勝てるほど近衛騎士団は甘くない)
「どうかなされましたか、閣下?」
気遣いのようなものを表情に浮かべて、青年貴族が声を掛けてくる。
瞬間、ラマーンの周りに居た青年貴族達が殺気立つ。
なぜならその声を掛けてきた青年貴族はアリーニ派の青年貴族だったからだ。
「確か………ギリアム=レミントン男爵だったかな?心遣いは感謝するが別に体調は悪くない」
ただでさえ、険悪な空気が流れていると言うのに、ギリアムの行動は表面上は静かに見える水面に石を投げかけるようなものだ。
ラマーンがすかさず返事を返したために、青年貴族達は殺気立ってはいたものの、ギリアムに何かを言うような事はしなかった。
「それは重畳。この国を良き方向に導くための第一歩となる大事な戦の前ですからな。侯爵閣下にはお体を労わって頂けなければ困ります」
「そのような心配は無用であろう。閣下はそのような惰弱な御方ではない。アリーニ=アウグウェルツ閣下に御迷惑の及ぶような事はあるまい」
青年貴族の一人が、ギリアムをきつく睨みつけながら低い声で言う。
が、ギリアムは悠揚とした表情を崩そうとはしない。
そんな彼の口元がかすかに緩んだように見えたが、そのほんの僅かな変化に気づくような者は一人も居なかった。
「それならば良いのです。どうやらお楽しみの所を邪魔してしまったようですね。それでは私はこれで失礼いたします」
そう言って、ギリアムが踵を返す。
その返す瞬間、ギリアムの視線が空を走り、ラマーンの斜め後ろに立つイミナの視線と絡み合ったのをラマーンは見た。心中にひやりとするものを感じた。こめかみに汗のような物が浮かんでくる。咄嗟にイミナを振り返ったが、彼女の表情には格別の感情は浮いていないし、既にギリアムを見てすらいなかった。何かもやもやとした物を感じ、気分が悪くなった。
ギリアムはイミナに声を掛けるわけでもなく、そのままアリーニ派の輪の中に戻って行った。
「まったく不遜な男ですな。さ、閣下、飲みなおしましょう」
顔を赤く染めた貴族が酒の注がれたグラスを差し出してくる。
ラマーンは我ながらぎこちないと思える笑みを浮かべて手を挙げ、
「この老骨に過ぎた酒は毒だ。少々、酔い過ぎたようだから風に当たって来よう。君達は楽しみたまえ」
「はい」
ラマーンは貴族達の輪を抜け、大広間からそのまま出られるようになっているバルコニーに出た。
無言のまま、イミナがついてくる。
風に当たる。秋の風はやや肌寒いほどだが、酒に火照った体に当たり、その熱を奪い去る感触は心地良い物があった。酒を飲みすぎたと言う思いはある。しかし、酒による酔いが心地よい風に払われた後に残ったのは心中の苦い思いだけだった。反乱軍と言う枠で言えば同じ存在でありながらその内実はまったくもって分裂しているとしか言いようがない。
「何か心配事がおありですか?」
イミナが声を掛けてくる。下腹部の前で手を組み、従順を装っているが、その瞳は爛々と輝いていた。
ラマーンは手摺に上体を預け、イミナを振り返った。その時には既に、瞳の輝きは失せている。
「ギリアムと言う青年貴族と知り合いなのか?」
「いえ。どうしてそう思われます?」
「―――いや、なんとなく、そう思っただけだ」
「男爵の事は噂として聞き知っていた程度です。お姿を拝見するのも先ほどが始めてです」
「そうか」
(勘違い、か………)
ラマーンは空を見上げた。そして、見上げなければよかったと後悔した。
空は暗く、低く雲が立ち込めていて、実に不吉な雰囲気を醸し出していた。
それはまるで彼の将来を暗示しているようだった。
「―――しばらく、一人にしてくれないか?」
「畏まりました」
イミナは恭しく頭を下げ、そして、去った。
一人でバルコニーに立ち、ラマーンは何を考えるべきか、考えていた。
どれほどの時間そうしていただろうか、突如起こった悲鳴に、彼は正気に戻った。
どよめきが空気を震わせながら、ラマーンの元に達する。
ラマーンは振り返り、慌てて広間へと飛び込んで行った。
「………ッ!?」
大広間に飛び込んだラマーンの目の前を何かが物凄い速さで通り過ぎて行った。
「―――………ッ!!」
ほぼ本能的に飛び去った先を見て、ラマーンは体が硬直し、全身の血が凍りついたかのような錯覚を覚えた。悲鳴を挙げたつもりだったが、喉が異常に渇き、声は出なかった。
彼の目前を過ぎり、その先に落下し鈍い音を立てて転がった物、それは首だった。人間の、首。
先ほどまでラマーンと話していた青年貴族の一人、そのなれの果てだった。自分に酒を勧めたあの赤ら顔の貴族の首だ。
「ば、化け物だ!」
「衛兵、衛兵はどうした!」
「こ、殺される、助けてくれ!?」
大広間は混乱の坩堝と化していた。
蒼白の顔色をした貴族達が悲鳴をあげ、怒声をあげながら、逃げ惑っている。
大広間の出入り口付近は既に地獄と化していた。
ラマーンは最初そこに何があるのかわからなかった。
最初に想像したのは、闇、だった。
そこに闇がわだかまっている。その周りに元が誰だったのかもわからないほどばらばらになった肉の破片が無秩序にぶちまけられている。
ラマーンはそう思った。
しかし、次の瞬間、その闇が爆裂した。
弾けるように闇が広がる。
飛び出してきたのは無数の触手だった。
闇色の触手が逃げ惑う貴族達の足や腕、首に巻き付き………次の瞬間!
ぐしゃどしゃごしゃぐちゃぁっ!!
思わず目を逸らし、口を押さえたくなる様な嫌な音が響き渡った。
触手に捕まった貴族が悲鳴をあげ、血が噴出す。
恐ろしい光景だった。
一瞬にして十数人の貴族が命を持たない肉塊に化している。元の原型がわからぬほどに潰れてしまっている。殺戮は主に大広間の出入り口に近い所で行われた。
降り注ぐ血肉から逃れるため、貴族達が大広間の中心に集まってくる。
逃げようとすれば、殺される。
それは明白だった。
そして、触手が消滅する。
さっきまで闇がわだかまっていた場所には一人の男が立っていた。
灰色の髪に、灰色の瞳、何処と無く全身から禍々しい雰囲気を醸し出している男だった。
「なんだ、貴様は!どこから入り込んだ!」
声だけは威勢が良いが、声の主の姿は貴族達の中に埋もれて見えない。
男は口元に笑みを浮かべ、そして胸に手を当てて一礼して見せた。
「我が王の命にて、愚かなる反逆者どもに鉄槌を下すために参りました。アルンヘル=へードと申すもの。軍においては大佐の階級を頂いております」
「へ、陛下の………」
貴族達の間に絶望感が広がる。
言い逃れできる状況ではない。
彼らは反乱軍の首魁としてこの大広間に集まっているのだから。
「我が王は御心優しき方ゆえ、反乱軍に与し者と雖も命を奪うのは偲びないと仰られるのです」
男の言葉に貴族達の雰囲気が変わる。
今の今、目の前で十数人の同胞を殺されたと言うのに彼らは自分だけは助かるかも知れないと言う期待で一杯なのだ。
甘い、甘すぎる。しかし、彼ら貴族は今まで二百年以上もそうやって生きてきたのだ。
骨の髄まで貴族としての甘さが染み付いているのだろう。ぬるま湯に全身で浸りきっているのだ。
そしてそれは彼らを苦々しく見るラマーンとて同じだった。
だが、そんな彼ですら、自分の運命は理解していた。
ここに居る貴族達と共に、自分の命はここで消えるのだろう。
しかも、美しいとは到底思えぬ肉塊と成り果てて。
アルンヘルと名乗った男がかすかに肩を振るわせて笑う。
彼は暗い喜びの波動に身を震わせていたのだ。下賎な犬と蔑まれた母の仇を取ることがようやくできる。
彼は自分の掌の内に貴族達の命を収め、満足げに彼らを見回した。
「………これは、どういうことでしょう」
その場に居る貴族達を見回し、アルンヘルはやや困惑気に呟いた。
居ない。ここに居るはずの、あの男が。ここに居なければならない、あの男が。
―――ここで、彼の手に掛かって死ななければならない、あの男が。
既に殺した?………そんなはずはない。
逃げられた?………少なくとも自分がこの大広間に踏み込んでからは誰も逃がしていないはずだ。
では、その前に?
「―――まあ、良いでしょう」
アルンヘルの呟きを聞き、貴族達が一歩身を乗り出し、上擦った声で、
「我々の命も救ってくれるのか!」
「金が欲しいのであろう?我らを助けてくれれば膨大な褒美を取らせよう!」
「地位が望みならば元帥位でも何でも用意してやる!」
「ほう………それは豪勢なことだ」
アルンヘルが目を細める。まあ、良い。あの男を捜すのは後回しにしよう。
今は………。
「私はね、貴方方貴族のそう言う、人を舐めきった考えが嫌いなんです。虫酸が走るんですよ。潰したくなるんです。そう………彼らのように。陛下が救いたいと言ったのは貴方方のような下賎な犬どもの事ではありません。貴方方に待っているのは死のみ。私が貴方方に死を贈ります。私のこの―――」
そう言って、アルンヘルは手を掲げて見せた。彼の長く細い白い指には黒い指輪が嵌められていて。
「この《触手の指輪―ドリニティ》でね。出でよ、冥府の番人、死者の魂を冥府に縛る冥界の縛鎖よ!」
彼がそう唱えた次の瞬間、黒い指輪が膨れ上がったように見えた。
闇が具現し、膨張し、そして破裂する。
再び無数の触手が弾け、慌てて逃げようとした貴族達の四肢に巻き付き、そして………。
再びあの音が響いた。あの終末の響きが。
二百年の長きに亘ってこの国を支配していた貴族制度。
その終焉を暗示する音が。その音を伴奏にして、貴族達による混声合唱が歌われた。
断末魔の歌声が大広間に虚ろに響き渡った。
3 死の贈り物
ラマーン=オルド侯爵は目を閉じていた。
体は硬直し、全身の血は凍りついていた。
彼の周りは血の海だった。
すべての貴族が死んでいた。もはや誰が誰だったかの判別すら付き難いほどの変わり果てた姿で。
誰も息をしていない。
苦痛の呻き声すら、あげるものは居なかった。
圧倒的だった。
圧倒的過ぎて、現実感が沸かない。
現実感が沸かず、恐怖感が生じる事もなかった。
すべての貴族が………死んだ。血の海の中に没している彼らを見回し、彼は疑問を持った。
すべての………貴族?
(いや、違う)
アリーニ=アウグウェルツ公爵の姿がない。
ギリアム=レミントン男爵の姿も。
イミナ=サルティコの姿もない。
そしてなにより、なによりも………。
「どうして私は生きているのだ?」
「貴方に死んで頂く訳にはいかないのですよ。ラマーン=オルド侯爵」
「なんだと………?」
アルンヘルの言葉の意味がわからず、ラマーンはただ聞き返した。
血の海の中に立ち、貴族の死体に囲まれて、不気味な雰囲気の男と向き合っている。
「我が王は無為な死を厭われている」
「しかし、先ほどおまえは言ったじゃないか。私のような貴族を見ると虫酸が走ると」
「勘違いなされているようだ。虫酸が走ると私が言ったのは貴方の事ではありません。そこで醜く潰れて死んでいる者達の事です」
「私は違うと言うのか?」
「違います。貴方は他の貴族とは異なる。貴方には生きている価値があります。少なくとももうしばらくは」
「私に………生きている価値が?」
自分が他の貴族と異なるなどと考えた事も無かった。
「私に………何ができる?」
「自分で考えてください。それだけのことです。私にはまだやるべき事がある。これで失礼します」
「殺すのか?公爵や男爵を」
「そうなりますね」
薄く笑い、アルンヘルは立ち去った。
血臭の満ちる大広間で、ラマーンは一人立ち尽くしていた。
「私に………何が出来る?」
自分は名門貴族の三男坊で、小さな荘園の領主で、そして、エルベス川の戦闘で二人の兄が死に、そしてオルド侯爵家の跡を継ぐことになり―――自分はそれを喜んだか?
いや、あの時自分は困惑し、周章狼狽したのだ。
そのまま、イミナに言われるままに反乱を起こし、その反乱軍を束ねることすら出来ず。
「私に………こんな私に、何ができると言うのだ?」
ラマーンの声は誰も居ない大広間に虚しく響いた。
「こちらです、閣下」
「―――うむ」
アリーニは頷いた。
今彼の手は前を行くギリアム=レミントン男爵に取られ、引っ張られている。
(力強い手だ)
アリーニは引かれながらそう思った。若さに満ちている。
あの時、大広間でギリアムはラマーンと何かを話した後、戻ってきてアリーニに囁いたのだ。
「ここは危険です。私が手引きしますので、安全な場所にお隠れください」
冷静に考えればギリアムの言葉には何の信憑性もないはずだった。
しかし、アリーニはなぜか彼の言葉を信じ、そして彼に腕を引かれるままに大広間を抜け出たのだ。信じた理由はギリアムの熱気を含んだ真摯な眼差し故か。
ただ、彼の言葉を裏付けるかのように、背後の城館、その大広間の辺りから貴族達の悲鳴が聞こえていた。何が起こっているのかはわからないが、何かが起こっているのは間違いない。
「―――どこまで行くのだ?少々、疲れた」
ギリアムは早足で歩いているだけだが、アリーニにとっては走っているにも等しい速さだ。
杖を突く余裕もない。杖は今も抱えているが、用を成さなくなっていた。
「そうですね。このあたりで良いでしょう」
そう言ってギリアムが足を止めたのは、オルド侯爵家御自慢の庭園の中だった。
濃密な花の香りが漂っている。
「どうしてこのような場所へ?………ここは夜が明ければすぐにでも発見されるだろう」
アリーニが怪訝そうに聞く。
ギリアムは数歩、アリーニから距離を取って、アリーニと向き合った。
「私はね、アリーニ=アウグウェルツ公爵、貴方を憎んでいるんですよ」
そのギリアムの目には暗い憎悪の炎が燃えていた。その目を見て、アリーニは嵌められたと悟った。
不思議と何の感慨も沸かない。恐怖も、絶望も、不安も、怒りも、諦めさえ、なかった。
自分は充分に生きた。大広間から悲鳴は聞こえなくなっている。どうやら、他の貴族達よりは自分は長く生きる事が出来たようだ。皇帝にはなれなかったが、それ以外では満足できる一生だった。
そう思ったのかもしれない。
「やはり、お父上の事か?」
「そうです。貴方によって濡れ衣の罪を着せられ、そして左遷された」
「彼は私の事を何か言っていたかな?」
どうしてそんな事を気にしたのか、自分でもわからない。
「何も。父は何も言いませんでした」
「そうか」
なぜかはわからないが、ホッと安堵を覚えた。
「私を殺したいのか?」
「無論、そのつもりです」
ギリアムが剣を抜いた。
貴族にしては珍しい、装飾の少ない、実戦向きの剣だった。
(ギリアムの剣の腕がどれほどか………)
考えかけ、アリーニは思わず苦笑した。
(少なくとも私よりは上、だろうな………)
そもそもアリーニは剣を携帯すらしていない。
若い頃に青年貴族の間で少々流行った時に齧った程度、とても実戦に耐え得る技量ではない。
「―――覚悟!」
ギリアムが吼え、突進してくる。覚悟はとうに定まっていた。
(せめて、目を瞑らずに逝こう―――誇りあるフロレシア帝国皇室の末席を汚す者として)
ギリアムの振り下ろした剣先はアリーニの眼前、僅か数ミリのところで止まっていた。
「―――つまらないな。呆気なさ過ぎる。せめて抵抗ぐらいしてみたらどうですか?」
「老人をあまり苛めんでくれ」
「ふん。………まあ、良いでしょう。せめて最後ぐらい望みを聞いて差し上げます」
ギリアムは剣を引き、突き出してきた。
狙っているのが心臓だというのは簡単にわかった。
今度こそ確実に、死ぬだろう。嬲り殺しにしようとしないのは、ギリアムの趣味の問題でしかない。
しかし、再び、アリーニは死を免れた。
ギリアムの剣はアリーニの眼前で、消滅したのだ。
いや、アリーニの目に消滅したように見えただけで、実際には弾かれたのだ。
いきなり闇の奥から飛び出してきた闇色の触手によって。
ギリアムの顔色が変わる。彼はきっとした鋭い視線を闇の向こう側に向け、怒鳴る。
「何の真似だ、アルンヘル!」
(アルンヘル………)
聞き覚えのある名だったが、思い出せない。
「困りますねぇ」
闇の向こうから、声。続いて何か白い物体が投げ込まれてきた。
それがギリアムの足元に転がる。それを見て、ギリアムの顔色がはっきりと変わった。
アリーニもそれを見る。さすがに彼は顔色を変える様な事は無かった。
ただ、すべてを理解しただけだった。ギリアムが誰の指示で動いていたのか。
そして、彼に指示を出していた者の意図も。それは女の首だった。
「イミナ………」
ギリアムが呆然と呟く。そう、それはあのイミナ=サルティコの首だった。
「勝手な真似をされては、困りますよ。男爵」
続いて闇の中から現れたのは灰色の髪と同色の瞳を持つ男だった。
全身から何処となく禍々しい雰囲気を漂わせている。
「貴様………何故、イミナを殺した!?イミナは貴様の指示を受け、陛下の為に働いていたんだぞ!これは陛下の意思か、それとも貴様の独断か!貴様の独断だとすればこれは陛下に対する反逆罪じゃないのか!」
ギリアムが蒼白だった顔色を今度は真紅に染めて怒鳴る。しかし、アルンヘルに動揺はない。
「無論、これは私の独断です。陛下はこのような非道な真似はお好みになられませんから」
「ならば―――!」
「しかし、貴方方に生きていてもらっては困るのです。既にイミナ殿には消えてもらいました。後は貴方だけ。貴方を殺せば証人は居なくなる。それに、本気で信じているのですか?陛下が貴方を取り立てると?私は貴方達の事は一言も陛下に報告していませんよ」
「なっ………」
ギリアムの表情は再び蒼白になり、口をぱくぱくさせた。そんなギリアムを、アリーニは淡白な思いで見つめていた。利用し、利用価値が無くなれば、殺す。それだけのことだ。よくあることだ。
先帝の御世にあっては。いや、それ以前から。
皇帝が変わったからと言って、容易に変わる事の無い、この国の暗部だ。
「だから貴方には、消えて貰いますよ」
アルンヘルの言葉に、彼の背後の闇が揺らめいた。そこに何か居る。ただの闇にしては、そこだけが禍々しいほどに濃い闇色をしていた。ギリアムの顔色が絶望と恐怖に塗り潰される。
「う、うわぁぁっ!!」
彼は悲鳴をあげ、背を向けて逃げ去ろうとした。
「見苦しい………貫け。冥府の蛇神よ」
アルンヘルの命に答え、闇が弾けた。
一本の黒い触手が、逃れ去ろうとするギリアムに追い縋り、その心臓を背後から貫いた。
「あがっ………!」
ギリアムの体が宙に浮き、痙攣する。口から赤黒い液体が溢れ、白いシャツを汚していく。
やがて痙攣が小さくなり、ただの震えになると触手は左右に大きくしなって、ギリアムの死体を空に放った。放物線を描いて飛んだ死体は庭園の花壇に突っ込んだ。
花びらが舞い、むわっと濃い花の香りが闇の中に漂う。
「―――さて、私が殺さねばならない人は後、貴方一人だけですよ、閣下」
アルンヘルが、アリーニを見る。
「私以外の貴族はすべて、殺したというのか?」
「この国にとって、害にしかならない人はすべて」
「ふむ。ならば、殺せば良いだろう。勝手にするが良い。文句は言わんよ」
「見上げた覚悟です。その前に貴方には聞きたい事がある。それに己が殺される理由も知ってもらいましょうか」
「他の貴族と私では殺される理由に違いがあると言う事かね?」
「そう言うことです。まずは聞きたい事からです。貴方は先帝暗殺には拘っているのですか?」
「何故、そう思う?」
「皇帝の座に大変執着なされているようですから」
「馬鹿な。ならば先帝が崩御なされた後に即位している。私は即位を辞退し、今上帝を推薦した者だぞ?その私が何故、先帝暗殺に拘る?」
「まぁ、良いでしょう。貴方が先帝暗殺に拘っていようがいまいが、私にとってはどちらでも良い。貴方はここで死ぬのだし、先帝暗殺の犯人は闇の中に閉じ込めておきましょう。どうせ人々も先帝暗殺の事件など忘れているのだから。わざわざ蒸し返す必要もありません。貴方を殺す前にもう一つ、貴方には貴方が殺される理由を知って貰いましょう。ユナと言う名に聞き覚えがありますね?」
「ユナ………?」
アリーニがかすかに眉根を寄せる。しかし、思い出せた様子はない。
アルンヘルがかすかに笑う。神経質な笑みだった。
「貴方が子を生ませた女ですよ」
「私の子?………ユナ………」
と、そこでアリーニの表情がはっきりと変わった。
「まさかおまえは、ユナの………?」
「そうです。私は貴方が下賎な犬と呼んで捨てたユナと言う女性の息子です。貴方を殺せる日を待ち侘びていた。そのために私は貴方の用意した孤児院で必死に学び、そして善良な老夫婦の養子となり名を変え、そして過去をすべて抹消した」
「ふむ。若かりし頃の己の過ちの産物にわしは殺されるのか………」
「過ち………貴方に、ユナを愛し、慈しむと言う思いは片鱗も無かったのですか?」
「無い。下賎な犬を愛する心など持ち合わせてはいない。ユナは若き日のわしが己の性欲に抗えず弄んだ玩具に過ぎんのだからな」
アリーニは真っ直ぐ、アルンヘルの灰色の瞳を見据えた。
「これがおまえの望んだ答えだろう、我が息子よ」
「私は貴方の息子だと思った事は無い」
「―――だろうな」
「私が感情を高ぶらせるところを見たいですか?泣き叫ぶところを?怒りに身を震わせるところを?」
「まさか」
アルンヘルは口元に薄く笑みを浮かべて問う。
アリーニもまた口元に薄く笑みを浮かべて答える。
二人共に否定するであろうが、二人の笑みは似ていると思えた。
アルンヘルは自分が予想以上に淡白な様子で話していることに己の事ながら驚いていた。
泣き叫ぶと予想していたわけでは無いが、憎悪の炎に身を焼かれることは予想していた。
しかし、彼の身内にはまったくそのような憎悪の炎は無かった。
むしろ、何も無い、ただの虚無が広がっているだけのように思えた。
―――虚しい事だ。
心の何処かが、そう告げる。
―――わかっていたことだ。覚悟もしていた。それに、この後の、生きる目的は既に見つけてある。
アルンヘルが片手を挙げる。彼の背後で、闇が蠢いた。
「最後に、こう呼ばせてもらいますよ」
「下賎な犬、か?」
「いえ。………さようならです、父上。皇帝の座を目指したその夢と共にここで果てなさい」
アルンヘルが手を振り下ろし、アリーニ=アウグウェルツは消滅した。
肉塊すら残さず、完全にこの世から消滅したのだ。
父を消し去った息子は、表情を変えるでもなく、暗い雰囲気を纏ったまま、しばし立ち尽くしていた。
4 反乱終息
夜が明けた。
城内の自室で、執務椅子に身を沈めたまま、ラマーンは一睡もせずにこの朝を迎えた。
昨日の内に、貴族は彼を残して皆、死んでしまった。
アリーニ=アウグウェルツ公爵も、カブラ子爵もギリアム=レミントン男爵も、他の大勢の貴族も。
そして、イミナすら、死んでしまった。
兵士には何の説明もしていない。
しかし、既に城の各所には白旗が立てられている。
白旗の意は『降伏』だ。
これを見て、ただでさえ忠誠心の無い将兵の中には既に城を脱走する者も多い。
そしてそれを止めるべき貴族はもう居ないのだ。
従兵が先ほどから呼んでいる。
本丸の前の広場に、数百人の兵達が説明を求めて集まっているのだという。
説明を求めているのはそれで全員と言う事は無いだろう。
小隊長、或いは中隊長、もしくは仲間から聞いてくるよう依頼された代表者などが集まっているのだろう。
アルンヘル=へード大佐はアリーニを殺害した後、大広間で呆然と立ち尽くしているラマーンの元にやってきて、こう言ったのだ。
「貴方は一人になりました。貴方にはこれからやってもらうことがあります。まずは明日。では後はよろしくお願いします。私は城内の一室で勝手に眠らせて貰います」
そう言って、恭しく頭を垂れて見せ、去ったのだ。
―――明日。
アルンヘルの言葉を一晩考えた。
そして、夜が明け、従兵の報告を受け、ようやく理解したのだ。
自分の役目。
それは将兵に降伏を納得させることだったのだ。そして、もう一つ。
アルンヘル=へードの言葉を思い出せば、自分の役割が見えてくる。
(我が王は御心優しき方ゆえ、反乱軍に与し者と雖も命を奪うのは偲びないと仰られるのです)
ラマーンはゆっくりと腰を挙げた。
「―――これからが、私の本当の仕事だ」
フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザー率いる三万五千の軍勢が現れた。
ニヒトフォーフェン城の尖塔に白旗が掲げられていると言う斥候の報告はあったものの、緊張感を失う事の無い整然とした進軍はさすがは精強を謳われる近衛騎士団と第一歩兵師団および第一騎兵師団だけのことはある。
城から四キロ程離れた場所まで進軍し、ラインハルトは全軍に停止を命じた。
城門が開かれ、白旗を持った中年の貴族が一人、馬に跨って出てきた。
馬の轡を取っているのは灰色の髪に灰色の瞳を持つ青年、アルンヘル=へードだった。
彼らは皇帝軍の奥深くへと通された。
馬を降りるよう言われ、中年の貴族が馬から降りる。
彼らは武装した近衛騎士に周辺を固められ、皇帝の御前へと進んだ。
上座には一人の少年が床机に腰を下ろしていた。
太陽の光を受け、この世でもっとも高貴な宝玉であるかのように少年の姿は眩く輝いていた。
黄金の髪、南海の海を想起させる碧い瞳、色素が抜けているかのように白い肌と剣など振れるのかと疑問に思うほどの華奢な体つき。
白鎧と純白の戦衣に身を包んだその姿は巷で噂されているとおり、建国王であると共に覇皇でもあった初代皇帝フェルモア=シーザーを思い起こさせる。
彼の腰には豪華な装飾の施された鞘に収まった聖剣《覇皇剣-サナトゥス》が佩かれている。
その抜き身は血を思わせる真紅なのだと言う。
「汝がラマーン=オルド侯爵であるか?」
少年らしい甲高い声で皇帝が問う。
甲高いが、決して不快な声ではなかった。
むしろ、神々しさを感じるような、そんな声だった。
「はっ」
その威光に押されるかのように俯き、ラマーンは答えた。
彼の傍に既にアルンヘルの姿は無く。
左右には皇帝軍の重臣が綺羅星の如く並んでいる。
近衛騎士団長アミリア=ホーン中将。
第一軍第一歩兵師団長アレク=ハーベスト少将。
第一軍第一騎兵師団長レフィナ=フュークル少将。
特にアミリアの眼光は鷹の如く鋭く、まるで射抜くが如くラマーンの面上に突き刺さっている。
「貴殿が降伏の意思を固めし事、重畳と思う」
皇帝の声は林間を縫う涼風の如く、小気味よかった。
ラマーンは答えずに、皇帝の次の言葉を待つ。
無論の事ながら反乱は重罪だ。
死罪は免れない。先帝の御世ならば市中引き廻しの上磔刑・火炙り・斬首の上晒し一ヶ月、その類縁の者も皆磔刑・火炙りの刑に処される程だ。
貴族ならば爵位剥奪の上、御家断絶、荘園はすべて皇帝の直轄下となる。
ラマーンは覚悟を決めていた。あの時、すべての貴族がアルンヘル=へードに殺されたとき、何故自分だけが生かされたのか。それは反乱の責を負う為だったのだ。彼には縁者も居ない。
彼が処刑されれば反乱に加担した他の貴族の縁者や兵の命は救われるのだ。
皇帝が厭う、無為な死を避ける事が出来る。
ラマーンは顔を心持あげ、皇帝の貌を見上げた。
若い。青年とも呼べない。まだ少年だ。
だが、その貌には何処となく気品が漂い、何処となく覇者の風格を備えているようにも見えた。
ラマーンの気のせいかもしれない。死にいく者の、せめてもの願望かもしれない。
「しかし」
その皇帝が口を開いた。僅かにその碧眼が揺れる。
「国家への反逆は重罪だ。汝の采配によりて、数百の人間が死んでいる事もまた事実」
反乱軍によって陥落させられた砦では副連隊長の裏切りに反抗したかなりの守備兵が殺害された。
陥落させられなかった城でも、犠牲は出た。犠牲は正規軍だけではない。反乱軍にも、いや、反乱軍の方にこそ、より多くの犠牲が出た。
ここで反乱の罪を問わなければそれらの人々の死はまったくの無為に終わる。
「だが、余も鬼では無い。余の政策が貴族にどれほどの負担を与えたかは理解しているつもりだ。故に問う。刑を受けるに当たり、何か望む事があらば、余の可能な限り、適えられるよう取り計らうが」
ラインハルトにとってみれば、それはせめてもの罪滅ぼしのつもりなのかもしれない。
貴族連盟の貴族達を追い詰め、反乱に立ち上がらせる事で一箇所に集め、皆殺しにしたのはすべて予定通りの事だったのだ。
無論、その謀略を考案したのはアルンヘル=へードだ。
イミナ=サルティコやギリアム=レミントンを内応者に仕立て上げ、貴族を反皇帝に立ち上がらせようと煽動したのは彼なのだ。
しかし、その謀略を採用し、実行を命じたのは自分なのだ。その責は自分にある。
「ならば陛下に一つだけ、願いがございます」
「なんだ?」
アミリアの眼光が鋭くなるも、皇帝が軽く片手を挙げて制止する。
その上で、彼は静かに問うた。
近衛騎士団長と言う職務上、彼女にとって見れば反逆とはもっとも忌むべき罪だ。
その首魁である男の望みなど聞く必要は無いと思ってもこれは自然だった。
「今もまだ城内には多くの将兵が居ります。また既に逃亡せし者もまた数多く。彼らはただ雇われただけの傭兵か或いは金で繋がれた私兵。彼らに此度の反乱に関する咎が及びませぬよう。彼らが元の生活に戻れるだけの陛下の寛容なる御配慮を恥を偲び、伏して御願い奉ります」
(この言葉を奏上するために………自分は生かされたのだ)
ラマーンの願いを聞き、皇帝の顔が少しだけ歪む。
悔悟だった。ラマーンは貴族にしては珍しく、腐敗や堕落とは無縁の貴族であった。小心者かも知れ無いが、謂れ無き誇りを振り翳すよりどれほどマシな事か。
これからのフロレシア帝国にとっても必要となるかもしれない人材だった。
しかし、彼には死んで貰わなければならない。彼一人の死で購える命があまりにも多すぎる。
国内に不満の種を残すことだけはなんとしてでも避けねばならなかったのだ。
断腸の思いで、ラインハルトは頷いた。
「聞きいれよう。反乱に加担したすべての者を不問に伏す。ただし、汝のみは例外である。汝は此度の反乱の首魁のうち、生き残った最後の一人。汝の処遇は臣民院の採決を待ってのち、通達するが、余の意思は一つ。すなわち、罪には罰を以ってこれを裁く事にある」
ラインハルトの背後で、フロレシア帝国の国旗、《力強き銀獅子》が風に吹かれて大きくはためいた。
皇帝は迷ってはならない。皇帝は強くあらねばならない。皇帝は冷徹に決定を下さねばならない。
国旗に描かれた白銀の獅子は伸び伸びと四肢を伸ばして大地を踏みしめ、力強く逞しい首を曲げて天を睨み、音にはならぬ咆哮をあげている。
まるで―――大きな責をその両肩に負わねばならぬ、若年の皇帝を励ますかのごとく。
ラマーンはしっかりと顔をあげ、皇帝の青い瞳に己の瞳を合わせた。
心はかつてないほどに静寂だった。
かつての気の弱い自分はここには居なかった。
惰弱な自分はあの大広間で、アルンヘルの操る闇の眷族によって食い殺されてしまったのかもしれない。
「早速のお聞き届け、恐悦至極に存じ上げます」
彼は己に課された役を、見事に演じきった。
「―――ふう」
幕舎で一人になり、ラインハルトは深く息を吐いた。
果たして本当にこれで良かったのか?自問するも答えは見つからない。
ラマーンのような男も貴族の中には居るのだ。
もしかしたら殺してしまった多くの貴族の中にも誠に国を思っていた者が居たのかも知れない。
「だとしたら僕は―――」
結局は己の為だけに、己と意見の合わないものを粛清しただけでは無いのか?
貧しい民衆の為と己を騙していただけではなかったのか?
「―――燭台の灯も灯さずに、何を悩んでおられるのですか?」
声と同時に、幕舎の中が明るくなる。
入ってきたアルンヘルが燭台に灯を灯したのだ。
ラインハルトは力なく顔をあげ、そして少しだけ目を細めた。
「どうしたんだ、アルンヘル?………その痣」
アルンヘルの頬には殴られたかのような青痣があった。
殴られたばかりなのか、まだ薄いが明日の朝にでもなれば精々目立つだろう。
唇も切れているのか、少し血が流れている。
その血を手の甲で拭い、アルンヘルは何でも無いかのようにもう一つの燭台に灯を灯す。
するともう一つ、人影が浮かび上がった。
炎の如き赤い髪を持つアレク=ハーベストだった。
「先ほど彼に、殴られました」
アルンヘルは淡々と事実だけを述べる。
ラインハルトの表情が苦しげに歪んだ。
「アレク、今回の事は僕が―――」
「わーってる。さっきアルンヘルに聞いた。と言うより、気持ち良く俺が寝ているところに陰気な顔してこいつが来て、洗いざらい全部言いやがった」
「じゃあ、なんで―――」
「こいつがふざけた事抜かしたからだ」
「ふざけた事?」
「『私の献策を陛下はただ採用なされただけだ。陛下には何の責も無い。なのに陛下は己の責だと考え、悩んでいる。陛下の気持ちを楽にして差し上げられるのは貴方だけだ』ってな。むかついたからぶん殴った」
「…………」
呆気に取られて、ラインハルトは声も出ない。
アルンヘルは残る二つの燭台にも順に火をつけた後、頬の青痣のあたりを摩りながら、
「―――かなり痛かったです」
「当たり前だ。どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって」
アレクはそのままずかずかと大股でラインハルトの眼前に立つ。
「だがな、一番腹が立つのは、おまえみたいな陰気野郎に利用されることじゃねえ」
肩越しに振り返って一度アルンヘルを睨んでから、アレクはラインハルトを見下ろし、あろうことかその襟首を掴んだ。
「おまえに利用されねえ事だ!」
襟首を掴まれていながらも、それほど力が込められている訳でも無いのか、ラインハルトはそれほど苦しそうではなかった。ただ、呆気に取られてはいた。
「あ、アレク………?泣いてるの?」
「泣くか!お前は何で昔っからそうやってなんでもかんでも自分一人で背負おうとしてやがるんだ!俺はお前の事を親友の幼馴染だって思ってる!おまえは俺の事を口の軽い信用の置けない一臣下としか見て無いのか!」
「ぼ、僕だって、アレクの事は親友だと、思ってる、よ」
(口が軽いのは事実じゃないか………)
「だったら、一人で悩むんじゃねえよ!愚痴ぐらい零せよ!心に溜まったら、酒飲んで吐き出せよ!俺が酒の相手ぐらいしてやるから!女を抱きたくなれば俺が紹介してやる!安心しろよ!おまえが間違ってたら、俺がおまえをぶん殴ってでも止めてやる!だから―――」
アレクが拳を振り上げ、ラインハルトの頬を殴り飛ばした。アレクの目尻からも輝く雫が飛ぶ。
赤髪の猛将の渾身の力で殴られ、悲鳴をあげることも出来ずにラインハルトの華奢な体が吹き飛び、幕舎の壁に叩き付けられる。幕舎を構成する布が大きく撓み、中央に立てられた柱が大きく傾ぐ。アレクがその柱を抑え、撓みが引き戻されて、皇帝は地面に投げ出された。
白く滑らかな頬を土で汚しながら、皇帝が身を起こす。その皇帝の眼前に手が差し出された。
毎日剣を振って鍛えているために豆だらけになっているアレクの大きな手。
アレクは満面の笑顔だった。かすかに涙の跡を残しつつ、それでも輝かんばかりの笑顔を浮かべていた。
「だから、覚悟しろよ、陛下」
ラインハルトも笑顔を浮かべ、アレクの手を取った。暖かかった。そして、力強く引かれた。
立ち上がったラインの心に先ほどまであった罪悪感による沈殿物はすっかり消化され、排出されていた。
自分は一人では無い。自分を温かく見守ってくれている人々が居る。
アレクは手を振って、幕舎の外へ出て行った。ラインハルトの服の埃を払い、アルンヘルも立ち去った。
そして入れ替わりに、皇帝の護衛役を勤める黒髪緑瞳の剣士ヴァンが入ってきた。
「…………」
彼は黙って、自分の主を見つめていた。
ラインは苦笑を浮かべ、アルンヘルが拭っていかなかった頬の泥を服の袖で拭った。
「彼らは余にとってなんなんだろう?」
皇帝の問いに、直護衛は何の躊躇いも無く答えた。
「―――臣下です、陛下」
「いや」
ラインは首を左右に振って否定した。今度は快活に笑う。
「彼らは臣下ではなく、仲間だよ。大切な仲間。君もね、ヴァン」
「―――はい」
『バトル・オブ・フロレシア』 完