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覇皇伝

第三章 皇帝 対 貴族連盟

第三章 皇帝 対 貴族連盟
1 軍部改革
帝国暦三三二年九月二十五日。
その建物はフロレシア帝国内で、最大の規模を持ち、膨大な財と労力がその建物を建造するために消費された。
何故ならば―――。
その建物に住まう者がその国における最高の権力者―――すなわち、皇帝だからであるから。
国内はおろかラスカーナ大陸中でもっとも巨大な建物―――それがフロレシア帝国の帝都ルーガにある、フロレシア帝国皇帝の居城ルーガ城だった。
その中央に聳える尖塔。その中に皇帝執務室はある。
そこで、この国の最高権力者は書類に埋もれて頭を抱えていた。
輝かんばかりの金髪、整った容貌に南海の海を思わせる蒼い瞳。滑らかなる白磁の肌。
即位してからの五ヶ月でルト=リューベンの反乱を鎮圧し、ルシタニアを友好訪問、ルシタニア王国とドルク王国との間に生起した満月戦争を終結させてしまうという辣腕ぶりを示した若き皇帝である。
フロレシア帝国の臣民はそんな彼の事を『覇皇フェルモアの生まれ代わり』と呼び、先帝スレイマン三世時代のルーガとは打って変わって、現在のルーガは明るい笑い声に満ちていた。
その皇帝が書類に埋もれている。彼のもとには日々何百通もの書類が上げられてくる。
そのすべてが皇帝の決済が必要な重要なものなのだ。
皇帝の決済の不必要な案件はすべて帝国府のボス、宰相オルンヘル=クリケット伯爵が決済している。
彼は毎日皇帝の数倍以上の書類を決裁しているのだ。
無論、宰相が決済している書類も重要なものである。
しかし、それに輪をかけて皇帝の元に上げられる書類こそ、この国の行く末を決める上で最重要な物と言える。ゆえにどの決済一つにおいても、気を抜く事は許されない。皇帝とは激務なのだ。
これでもフロレシア帝国では皇帝の権利を分散する事により、その負担を軽減する事に努めている。
例えば立法権は貴族院と臣民院の二院からなる帝国議会が法案を提出し、審議し、採決する。
皇帝はそれらの法案にサインをし、行政権を行使する帝国府に送るか、或いは却下するかを決める。しかし、余程の事がなければ目を通すだけでサインして帝国府に送るだけだ。
独断は誤った判断を下してしまう事が多々ある。避けるべき事であった。
そして行政権を行使する帝国府がその法案を帝国領に施行するのである。
さらに帝国議会の下部組織として『律法官』と言う役職が設けられており、彼らは帝国領内を巡り、帝国府によって施行された法律がしっかりと遵守されているかを調べる、監査官なのだった。
皇帝ラインハルト=シーザーは行儀悪く机に片肘を付きながら、書類の山の一番上の書類に手を伸ばす。ざっと目を通して、顔をしかめる。それはとある貴族の領内で起こった農民による反貴族運動に対する処罰についての案件だった。農民は貴族が己の私腹を肥やす為に不法な重税を課した事を訴えてきており、貴族は反帝国運動として農民側の首謀者を死刑に処することを求めている。
「…………」
顔をしかめたまま、ラインハルトはその書類に『保留』と書き入れ、処理済みの書類の山の一番上に載せた。皇帝が変わっただけでは、国の本質そのものはなんらの変化も示さないのだ。
現在この国は皇帝派と貴族連盟派の二つに割れている。
皇帝派は主に貧しい農民や町民などの被支配階級。
貴族連盟派はその名の通り、貴族などの支配階級で構成されている。
法案は下院である臣民院で採決された後、上院である貴族院へと回される。
しかしそこで、貴族に都合の悪い法案はすべて握りつぶされてしまうのだ。
臣民院の議員はそのほぼすべてが皇帝派なのに対し、貴族院はそのほぼずべてが貴族連盟派なのだ。貴族の私領は一種の治外法権が認められており、帝国府の検察官も帝国議会の律法官も入る事が出来ない。
この体質を改め、荘園内への検察官並びに律法官立ち入りを認める法案を帝国府が提案し、臣民院が圧倒的賛成多数で採決したにも拘らず、貴族院によって握りつぶされている。
先ほどの貴族と民衆の対立もどちらの訴えが正しいのか、検察官を立ち入らせない事には判断する事も出来ない。故に、どのような判断を下すわけにもいかず、保留するしかないわけである。
同じような訴えが既に二十件近くも保留されたままなのだ。
皇帝と言ってもその権力はまだ弱い。
アリーニ=アウグウェルツ公爵の率いる貴族連盟が存続している限り、貴族の手から権力を奪い取る事は出来ない。貴族支配を打破し、中央集権体制を整えなければ、この国の未来はないのだ。
貴族達による支配は何も政治の分野だけには留まらない。
軍部でも貴族の力はまだまだ大きかった。
皇帝としての度量の広さを示すため、そして反乱を長引かせないため、ルト=リューベンの反乱では多くの反乱に加担した貴族を赦さざるを得なかった。
応急処置としてルト=リューベンの後釜として皇帝派のハーン=ハーベストを第一軍団長に据え、第一歩兵師団長にアレク=ハーベスト、第一歩兵連隊長にカーン=オルベニー、第一騎兵師団長には軍人貴族フュークル家出身のレフィナ=フュークルを据え、彼女の手足となる第二騎兵連隊長と第三騎兵連隊長にはそれぞれギルギッド=ルメイやオットー=セルバンと言う軍部の若手で実力もしっかりとした将校を据えたが、第一軍で皇帝派が完全に掌握している兵力は僅かに二、三万だった。
それ以外の部隊は将校も兵も貴族出身の者が多いため、貴族連盟派がほとんどだった。
幸い、シオン=クリケット率いる第二軍団は前任者のハーン=ハーベストが良く統率していたのと元々第二軍団は臣民層によって構成されていると言う事からほぼ全面的に皇帝派だ。
地方の軍団の中にも、地方貴族や中央の貴族の息子などが師団長や連隊長になっている場合が多く、貴族連盟派がかなりの幅を利かせていた。
国内が分裂している状態ではとてもこれからの国際状況を乗り切ることは出来ない。
既にスタルナス帝国とルーナ帝国により、パルディア王国は分割支配されており、一応はパルディア王国の姫、レイシア=パルディアスがフロレシア帝国に亡命して亡命政府を樹立してはいるが、パルディア騎士団が全滅した事もあり、思うように兵力は集まらず、パルディア王国復興の目処は全く立っていない。
北方のドルク王国もまだまだ不穏な動きを示しており、南方の蛮族砂の民もなにやら不穏な動きを示しているとあっては、国内の統一は早急にも実現されなければならない課題であった。
「―――ふう」
こんこん。
ノックの音。
溜息を吐いていたラインハルトは慌てて表情を引き締め、答えた。
「どうぞ」
扉が開かれ、入ってきたのは………。
「大分根を詰めてるようね」
「ああ、シエナ………うん、確かにちょっと疲れたよ」
「お茶を淹れたわ。少しは休まないと」
「うん………」
幼馴染であり、二歳年上でもある銀髪と金色の瞳を持つ侍女の言葉に、ラインハルトは小さく頷いた。ラインハルトの前には先ほどとはまた異なる案件の書類が置かれていた。
それはアレク=ハーベスト第一歩兵師団長からの報告書だった。
曰く、「貴族出身の将校は平民出身の兵を虐待している。このままでは兵による将への反乱が起こりかねないぞ、なんとかしてくれ」
「あいつも苦労してるみたいだね」
シエナの淹れてくれたお茶を飲みながら、苦笑。
しかし笑ってばかりはいられない。兵に反乱など起こされては困るのだ。かといって兵を取り締まるわけにはいかない。彼らの言い分の方が明らかに正しいのだ。
しかし、貴族出身の将校を罰する事も現状のままでは出来かねる。
もしそんな事をすれば貴族連盟が黙ってはいないだろう。
「―――ふう」
シエナはお茶を置くと早々に部屋を出て行ったようだった。
彼女は公私の別を使い分けることの出来る賢い女性なのだ。
今のラインハルトと彼女の関係は幼馴染ではなく、皇帝とその侍女なのだから。
こんこん。
「―――ん?」
閉められたばかりの扉を叩くノックの音に顔をあげる。すると、
「私です。至急提案したい議がございまして」 その声に顔をしかめかけて………慌てて真顔に戻って、返事をする。
「アルンヘルか、入って良いよ」
扉が開き、エシュアとはまた違った意味で鋭い眼差しをした男が入室してきた。
何処と無く男の雰囲気を暗く見せているのは、その灰色の髪のせいかも知れないし、或いは不気味な色を湛えている灰色の瞳のせいかもしれない。軍服をきっちりと着、髪もしっかり整えている彼は丁寧に頭を下げて、
「御無沙汰いたしておりました」
「うん………余がルシタニアに行く前以来だね………それで、今日は?」
椅子を勧めながら聞く。
アルンヘルはすっとラインハルトの前に立ち、一通の分厚い書類を差し出してきた。
「これに目を通していただきたいのです」
「これは………?」
「貴族たちを分類してみました。貴族連盟派、暫定的貴族連盟派、中立、暫定的皇帝派、皇帝派の五つに絞りました。ほぼすべての貴族の調査が終了しましたので、御報告に」
「これは………すごいね」
思わずラインハルトは感嘆の声を上げていた。受け取り、ぱらぱらと捲る。
その分類によればアリーニ=アウグウェルツ公爵は貴族連盟派、カブラ子爵は暫定的貴族連盟派、メイ=ペンドラゴン公爵夫人は中立派、ウェンヒルグ=ローレンス男爵は暫定的皇帝派、オルンヘル=クリケット伯爵は皇帝派となっていた。
他にも帝国内の貴族やその家族などすべての調査が行われ、そしてそのプロフィールなどまで書かれていた。
「これを二ヶ月で………どうやら君が優秀なのは確からしいね」
「お褒めに預かり光栄です。しかし、書類を作るのが目的ではありません」
「うん。これを活用しなくちゃね。………それで、君の案は?」
「まずは軍部の改革、そして現在陛下が保留なされている貴族と平民の紛争をすべて平民有利で裁くことです」
「そんな事をしたら………」
驚いて反論しようとしたラインハルトは、アルンヘルの氷のように冷たい瞳を見て言葉を飲んだ。
「貴族に反乱を起こさせるつもり?」
「はい」
「また多くの人間が死ぬ事に―――」
「多少の犠牲は止むを得ません」
「でも―――」
「このまま貴族を野放しにしておくことがどれほどこの国にとって害悪であるか。聡明な陛下ならばお分かりいただけると思いますが?」
淡々とアルンヘルは断言した。ただ本当に、事実だけを述べているような口調だった。
ラインハルトはその蒼い瞳でじーっとアルンヘルを見つめた。
アルンヘルもまた全く物怖じせずにラインハルトを見返す。
沈黙の時間が流れ………。
先に折れたのはラインハルトの方だった。
「わかったよ。君に任せよう―――但し、できるだけ無関係な人間を巻き込まないように考慮して」
「元よりそのつもりです。無為な犠牲を出し、陛下への国民の反感を招く事は私の望まざる所ですので。それではこちらが軍部の改革案です」
「ん―――って、階級制って何?」
「今まではただ軍団長や師団長、連隊長と言った役職制しかありませんでしたが、これからは階級・役職並立制で行くべきだと考えます」
「つまり、貴族とか平民とか言う親の身分に囚われずに将校を任官できると言う事かい?」
「さすがは陛下。聡明でいらっしゃる」
「うん―――実を言えば、ハーン第一軍団長からも同じ提案があったんだ」
ラインハルトの種明かしに、アルンヘルはやや驚いたと言う風に目を開いて、
「ほう………閣下が。どうやら私は彼に対する認識を改める必要があるようですね。私はてっきり彼はただの武人かと思っていましたが―――」
「彼は先を読む力も十分持っているよ」
「―――そのようですね。それでは私はこれで失礼します」
「うん。軍部の改革は出来るだけ早く取り掛かるよ」
「そうあって頂きたい物です。では」
丁寧に一礼し、アルンヘルが出て行く。
「―――よし」
生気を取り戻したかのように一つ頷き、ラインハルトはシエナを呼び、ハーン=ハーベストを呼ぶよう命じた。

帝国暦三三二年九月二十七日。
ルーガ中を困惑させる勅令が降りた。軍の組織が大きく改組されたのだ。
まず、皇帝直轄だった傭兵軍団や神官軍団が軍令部の管轄下に移行した。
そして、階級制が発布され、それぞれの役職になるための最小限必要な階級も定められ、現在その職務にあるものにはそれに相応する階級が与えられた。
すなわち、軍令部総長:元帥、各軍団長:中将、軍令部次長:中将、師団長:少将、連隊長:大佐、中隊長:中佐、小隊長:少佐、分隊長:大尉と言う具合である。
傭兵・神官の両軍団を編入した事により組織が拡大した軍令部の長はそれまでの軍令部長から軍令部総長となった。初代軍令部総長にはハーン=ハーベストが就任、彼は同時にフロレシア帝国軍最初の元帥となった。彼はまた第一軍団長も引き続き勤める。
第二軍団長だったシオン=クリケット男爵は軍令部次長を兼務し、中将に。
以下、アレク=ハーベストは少将、カーン=オルベニーとオットー=セルバン、アルンヘル=へードは大佐、そして近衛騎士団長アミリア=ホーンは軍令部の管轄ではなく、皇帝直轄ではあるが、階級としては軍団長格の中将となった。
そして、皇帝直護衛のヴァン=ブレイスは少尉となった。
それまでの役職制では、年功序列などで順々に上に繰り上がって行く事が許されていたが、今回の改革によって、既定の階級に達していなければその役職に就く事は出来ないようになったのだ。
そして、階級の昇進には軍功や能力などが大きく物を言い、親の身分などは考慮されない。
この改組に伴い、大規模な人事異動も行われ、貴族だというだけでそれまでの身分を享受していた者達が一掃され、それまではどれほど有能でもさしたる出世は望めなかった平民出の連隊長や中隊長が多数誕生した。帝国議会も帝国府も介さぬ勅令に、貴族連盟派は大きな怒りを覚えた。
しかし、皇帝ラインハルトによる貴族派への攻撃は彼らの予想を大きく外れてさらに呵責のない物となった。それまで貴族連盟に対して何処となく下手に出て、できるだけ穏便に国内統一を図っていたかに見えた皇帝だったが、どうやらその方針を大きく転換したらしい。
それまでは貴族連盟派への遠慮から保留されていた貴族と平民間の紛争に対し、彼は帝国府の検察官及び帝国議会の律法官による調査を皇帝の勅令と言う強硬手段で命じたのだ。
貴族連盟はこの勅令の撤回を臣民院に求めたが、臣民院はこれを否決。
勅令と言う後ろ盾を得た検察官は貴族の荘園を調査し、次々と貴族の不正の証拠を暴露し、次々と処罰していった。御家取り潰しこそなかったものの、そんなものは慰めにもならなかった。
貴族連盟派、暫定的貴族連盟派、中立派は言うまでもなく、暫定的皇帝派と目されていた貴族たちまで皇帝のあまりに容赦のない政策に不信感を覚え、貴族連盟派へと走った。
貴族連盟派はそれまで水面下で行っていた国家転覆計画を露骨に進め始め、フロレシア帝国内は異様な緊張の空気に包まれた。そんな中、皇帝は近衛騎士団に対し、警戒命令を出す。
それはさらに貴族を刺激することとなる。帝都ルーガだけでなく、帝国全土に緊張が漲った。
誰もが息を詰め、これからの情勢を見定めようと身構えるのだった。

2 波紋
帝国暦三三二年十月一日。
ルーガは緊迫した空気に満ちていた。皇帝が突然貴族連盟に対し、態度を硬化させ、軍部を改組し、貴族の特権とも言うべき私領内への不入の権を剥奪し、不正を働いた貴族を罰したのだ。この皇帝の行動に対し、貴族連盟は露骨に反皇帝運動を行い始めた。だが、その中心人物はアリーニ=アウグウェルツではなかった。では誰なのか………?その貴族は帝国西部に領地を持っていた。名をラマーン=オルド侯爵と言う。彼こそが今回の貴族反乱の首謀者として、皇帝に対し最初に反旗を掲げたのだ。
帝国軍は突然の大規模な組織の改変と人事異動に伴う事務引継ぎなどで混乱しており、公然と反旗を翻したラマーン=オルドに対し、その対応は全くもって鈍重としか言い様のないものであった。
最初は態度を曖昧にしていた貴族たちも軍部の鈍重な反応を見て、次々にラマーンに呼応していった。
帝都にある、アルンヘル=へードの家。
火を入れていない暖炉の前に置いた安楽椅子に腰掛けている灰色の髪を持つ青年の姿があった。
「―――予定通り、か」
貴族の周りに紛れ込ませている間者達からの報告を取りまとめた書類を見て、彼は冷酷な笑みを浮かべた。
「愚かな貴族どもが………。私の掌の上で踊っているとも知らず。だがまぁ、精々好きに踊れば良い。どれほど踊ろうとも、既に貴方達の命は私の掌中にあるのだから」
だが、大物中の大物がまだ動いていない。他でもない。皇帝の従兄弟でもあり、皇位に最も近き男、アリーニ=アウグウェルツ公爵だ。貴族の中には彼の動向を見てから自分の態度を決めようと思っている者も多いらしく、まだまだラマーンに呼応している貴族は反皇帝派と目される貴族の数と比べれば少ない。それだけ、様子見を決め込む者が多いと言う事だ。
「さすがは公爵………と言った所ですか」
他に皇帝派を表明している貴族たちも居る。
オルンヘル=クリケット、ウェンヒルグ=ローレンス、メイ=ペンドラゴン、ルシウス=フュークル、レティシャ=ホーン等。こちらもほぼ予想の範疇にあった。特に貴族達に波紋を投げかけたのはアリーニ=アウグウェルツと同じ公爵位を持つメイ=ペンドラゴン公爵夫人が皇帝側に就く事を表明したことだった。これによって、様子見を決め込んでいた貴族の間に無言の動揺が走った。
さらには武門の名門貴族とされるフュークル家の当主ルシウス=フュークルが一族総出で皇帝側に就いたのは帝都の軍人達を大きく動揺させた。彼らの中には貴族に対し、恩を感じている者も居る。
無論、それ以上に貴族を憎んでいる者の方が多いのだが、ただでさえ少ない貴族派の軍人達も《怪物》とまで呼ばれて恐れられるフュークル家を敵に回して戦おうとする気概の者はほとんど居なかったのだ。

アルンヘルの考えている事はすべて、報告書に纏められて提出され、ラインハルトもその書類に目を通している。彼は突然の人事異動に戸惑って会いに来たハーンやアレクの応対に追われていた。
彼らはアルンヘルの計画を知らず、また知らせる訳にもいかなかったのだ。
彼らはこの人事異動や貴族に酷過ぎる判決が必ずや貴族に反乱を決意させると説き、そして軍は事務引継ぎの混乱や新たな将校達と部隊の意思疎通の不足から貴族反乱の鎮圧には動けないと陳情した。
大した説明も出来ず、嘘を吐くのも下手なラインハルトは、ただこう言うしかなかった。
「大丈夫。僕を信じて」
と。
この言葉で、ハーンもアレクも表面上は納得してくれた。
アレクはどうかわからないが、ハーンはどうやらラインハルトが考えている事を見抜いたようだった。彼は赤い髪を掻き混ぜて、大きく嘆息し、こう言ったのだ。
「―――それしかないのか?」
と。それに対し、ラインハルトはただ頷く事だけで答えた。彼にとっても苦しい決断だった。しかし、皇帝たるもの、時にはその決断が必要なのだ。大を救うために小を犠牲とする決断が。
その小の犠牲を救う為に逡巡している間に、さらに大きな災厄が起きないとは限らないのだ。
そうなってからでは、全てが遅い。この腐敗した貴族制度を打破するためには強固な意思の元、改革に邁進しなければならない。かつて鉄血宰相と恐れられたクロメデのように。
そして同時に、なんとしてでも改革は完成させなければならない。
クロメデのように志の半ばで暗殺されてはならないのだ。

帝都にある最も巨大な貴族の屋敷。
その中庭にある離れで、アリーニ=アウグウェルツは一人黙然と思考の海を漂っていた。
今回の皇帝の動きをどう読むか―――。
一歩間違えれば、ラインハルトを放逐して己が皇帝の座に就くという彼の野望は費える。
それどころか、貴族連盟は皇帝派の前に敗れさってしまうかもしれない。
そもそも貴族連盟とは言っても皇帝の改革に対し、反感を持つ保守的な貴族の集りに過ぎず、結束などと言う物は無く、烏合の衆に過ぎない。言わば、砂上の楼閣。この局面でアリーニが判断を誤ればこの砂上の楼閣が崩れ去ってしまうかも知れない。
「奴はまだ十五の子供………今回の政策はただ単に皇帝派によって軍部を掌握し、貴族の特権を奪う事で皇帝としての権威を世に知らしめんがためと見るのがもっとも妥当だろう」
事務引継ぎなどによって軍が混乱すると言う事を予想しなかったのだろうか?
「その可能性は、ある」
彼が皇帝派の中に紛れ込ませている間者からの報告によれば、今回の大幅な組織の改革は皇帝の後見役であるオルンヘル=クリケット伯爵すら相談に与っていないというのだ。そうなると今回の事はすべて若き皇帝が血気に逸った結果と見る事も出来る。いや、そう考えるのが普通だろう。
そう考えたがゆえに、ラマーン=オルド侯爵は皇帝に対し、反旗を翻す決断をしたのだろう。
侯爵は無論の事ながら、アリーニにも参加を呼びかけている。
もし企みが成功し、ラインハルトを玉座より引き摺り下ろす事が出来れば、アリーニを皇帝の座に据える。それが、今回の反乱にアリーニが参加する事に対する報酬だった。そして、皇帝を殺すと言う汚名から逃れるための大義でもある。アリーニも、皇位継承権を持つ皇族なのだから。
(だが―――)
彼は考える。
今回の反乱が成功する可能性を。
貴族側がどれほどの兵力を集められるのか、それはわからない。
しかし、軍部はこの改革によって完全とは言わぬまでもそのほぼすべてが皇帝派によって占められることとなった。とすれば、僅かな脱走兵などは反乱に加わるかもしれないが、連隊・師団規模での反乱参加は望めないだろう。
確かに軍部はまだ動けない。今動けば、指示が行き届かず、自壊する可能性すらあった。
確かにさしたる改組を経なかったため、今でも即応状態にある部隊は居る。
アミリア=ホーン中将率いる近衛騎士団だ。
精鋭二万騎。
これに対し、貴族達は私兵や脱走兵の寄せ集めと言う形になると考えられる。
数がどれほど集まるかも予測できない。
例えば、ラマーン=オルド侯爵は約二千の私兵部隊を抱えていると聞く。
アリーニ=アウグウェルツは一万程の兵を抱えている。
同じ公爵位を持つと言えど領土の大半を皇帝直轄に差し出してしまったメイ=ペンドラゴン公爵夫人とは雲泥の差なのだ。
だが、それだけの私兵部隊を抱えるためには膨大な資金が要る。
そのために彼らは領民に重税を課し、領民と貴族の間には紛争が絶えないのだ。
(私が加われば………十万は堅いな)
貴族達の顔と財力を思い浮かべ、ざっと計算して、アリーニはその結果に渋面を作った。
それだけの兵力があれば、近衛騎士団だけでは抑えきれまい。
各地の城塞や砦、都市に駐屯している第二軍団の諸部隊を各個撃破することが出来れば、帝都駐屯の第一軍を打ち破ることも不可能ではなくなる。
帝都を占領し、皇帝を殺し、己が玉璽を奪ってしまえば、地方の各軍団は自分に従うだろう。
少なくとも、皇帝になってしまえば大義名分が得られる。
皇帝ラインハルト=シーザーを弑殺するだけの大義名分は皇帝自身が貴族達に与えてしまっている。
―――貴族の特権を踏み躙る、悪逆非道な王を引き摺り下ろせ。
これで十分な大義名分足りうる。兵があり、大義名分があり、しかも敵は混乱している。
「―――出来過ぎている」
あまりにも、貴族連盟派にとって好都合な事が重なりすぎている。
皇帝の独断なのか。それとも、裏で糸を引く者が居るのか?これは機会なのか、それとも罠なのか。
(これはどういうことだ?………皇帝は所詮、オルンヘル=クリケットの操り人形に過ぎず、彼の者の手を離れた途端に暗愚な正体を現したと言うだけなのか?………それともこれは、周到に用意された罠なのか?)
すべてを手に入れ、皇帝となるか。すべてを失い、死ぬか。
これ以上は無いと思える程重要な二択に、アリーニは思い悩んだ。
思い悩んだ末に彼が下した決断は―――。

「―――なるほどな、そう言う策略か」
ラインハルトが持ってきた、アルンヘルの報告書を読んで、オルンヘルは難しい顔をして頷いた。
「―――どう?」
緊張した面持ちの義理の息子を見据え、オルンヘルは難しい表情のまま、
「気に食わんな。私に一言の相談も無くすべてを決めてしまった事が。所詮、私など皇帝の信頼を得るには値しないと言う事か?」
「いじけないでよ、父さん………」
ラインハルトが慰めるように言う。
「馬鹿者が。誰がいじけるか」
オルンヘルは軽く一喝してから、
「私の周りには最近貴族派の間者が張り付いている。確かに勅令を発する前に教えられれば、連中に嗅ぎ付けられていた可能性が高い」
「このことはくれぐれも内密だよ。特にアレクには」
「わかっている。なにしろあいつは―――」
「口が軽いから」
養父の言いかけた言葉を引き継いで言ってから、ラインハルトは父の手から受け取った書類を分厚い皇帝衣の内懐にしまった。彼らの鼓膜には轟々と水音が響いている。
彼らの周りにはラインハルトの護衛役のヴァン=ブレイスしか居ない。
ここは帝宮内庭園に設けられている滝である。
庭園に滝があるというのは途方も無い贅沢のように思えるが、実はこれにもれっきとした理由がある。滝が滝壷に落下する轟音によって、滝壷の傍に立つ者の声は掻き消され、しかも周りに身を潜められるような茂みなども無い。会話を盗み聞きされる可能性を完全に排除する事が出来るのだ。
「だが、私も正直驚いたんだぞ」
「え?」
「軍部の階級制の事だ。従来の任命法では確かに家柄などが大きな意味を持ってくる。この因習を打破するよりも新たな制度を設けた方が早い………盲点だった。能力によって階級を振り分ける事で、家柄が無い者でも栄達する道が開かれたわけだ」
感心した風に言いながら、オルンヘルが空を見上げる。
「しかしそれにしても、アルンヘル=へードと言う奴はかなり頭が切れるようだな。報告書を読んで驚かされた。軍の体質を変える大胆な手を打つだけではなく、その改変を貴族の挑発に利用するとはな………このようなことをすれば貴族の反乱が起きた時に軍が動けなくて困ると私のような凡人は考える所だが………確かにこの計画ならばその恐れも無い。なにしろ―――」
と、そこで言葉を飲み込んで、オルンヘルは首を左右に振った。
「だがな、ライン。奴は確かに天才だろう。しかし、エシュアに調べさせた奴の経歴はおまえも読んだだろう?」
「うん」
ラインハルトは頷いて、その報告書の文面を思い出そうとした。
普段はそれほどに物覚えが良い訳でもないが、あの灰色の髪と同色の瞳を持っている青年の事には少なからず興味があったので、覚えていたのだ。
「士官学校に入学する前の彼を知る者は一人も居ない。みんな、死んでるんだったよね?両親はもちろん、友人や家の隣近所に住んでいた人達まで」
アルンヘルを知る者のリスト。
その現在の地位または状態を示す欄に並んでいた『死亡』の二文字の羅列。
死因までは何しろ昔の事なので判然としないが、どうやら他殺らしき物も多く含まれている。
(まさかアルンヘルが己の過去を消すために?………でもまさかね)
ただエシュアが調べ上げた情報によれば、アルンヘルはどうやら孤児だったらしい。
そして孤児院に入り、そこを卒業した後、子宝に恵まれなかった善良なへード夫妻に養子に入った。
だが、その養父や養母も今は亡くなっているし、孤児院で一緒だった子供達もそこで『何か』を子供達に教えていた教官も死んでいて、その孤児院すら彼が士官学校に入学した年に謎の火災で焼失してしまっている。まるで、アルンヘル=へードの過去を消すためかのように。
もし一連の事件を彼が引き起こしたのだとすれば十歳にも満たない子供が自分に関係するすべての人間を殺害し、自分が生活した孤児院を燃やしたということになる。
エシュアは報告書の末尾にこう書いている。
―――アルンヘル=へードは何らかの目的を有しており、その為にはなんら手段を選ばない。その能力は実に有益だが、彼が反逆を考えた場合、非常に危険だと考えられる。無難な道を選択するならば、すぐにでも謀殺するべきである、と。
「十歳にも満たない子供があれほどの人間を殺せるかな?」
ラインハルトは軽く笑いながら言った。
しかし我ながら、その笑顔が凝り固まっている事には気付かざるを得ない。
オルンヘルも、やや声をひそめて、
「確かに考え辛い。………だが、先帝時代の帝都にはさまざまな孤児院があった。信じられるか?あの暴虐で残忍な暴君だった先帝の時代に、だぞ」
「ただの孤児院じゃ無かったって言う事?」
「そうだ。孤児院は身寄りの無い、つまり、死んでも何処からも文句の来ない子供を集め、特殊訓練を積ませるための施設だ。そこに集められた子供達は日々地獄のような訓練を受け、特殊技能を身に付けさせられる。暗殺技能、諜報技能、戦闘能力、生存能力などだ。他にも特異体質者の研究や訓練、洗脳………役に立たないと判断されれば、すぐさま殺される。この国の暗部だ」
この国の、暗部。ラスカーナ大陸一の強国としての地位を守るため、一人で驚異的な戦闘能力を有する言わば超人を作り出す研究が行われていた。
そして、その研究成果を元に、何も知らない子供達に地獄のような訓練を課す。
「だが、それらの施設ではまず、教官や帝国や皇帝への絶対的な忠誠心を植え付けられる。そこを巣立った子供が自分を育てた教官を殺すなどという事は通常ありえない」
「だったら―――」
ラインハルトは言葉を発して、自分の喉が異常に渇いていることに気付いた。
今彼が聞いている話しは彼が今までに知らなかった世界の話しなのだ。
ずっとローデンスの平和な田舎で暮らしていた彼の知らない世界。
彼が憧れていた帝都で行われていた事。耳を塞ぎたくなった。
知れば後戻りは出来ないのだ。それを知らなかった頃の自分には。
知ればその瞬間、知らなかった自分は死に、それを知った自分が生まれる。
だが同時に、耳を塞ぐ事もまた、躊躇われた。世界に対し感覚を閉ざし、閉じ篭ってしまえば、或いは楽なのかもしれないが、それは所詮逃げているという事に過ぎないのだ。
葛藤の中、彼はオルンヘルの言葉を聞いていた。そして、知ってしまった。
「アルンヘル=へードの過去を意図的に消した人間が別に存在しているのかもしれないな」
その可能性を。

ラインハルトは水面に軍部改革・検地断行と言う名の小石を投げ込んだ。
そして、波紋が生まれ、広がっていく………。
波紋は岸に当たって跳ね返り、波紋はさらに複雑になっていく。

3 気高き人
帝国暦三三二年十月二日。
チチチッ………。
小鳥が囀りながら、蒼穹を翔けて行く。二羽、まるで螺旋を描くように………。
帝都から少し離れたところに、その場所はあった。
女性の乳房を思わせる、滑らかな起伏の連なり。
まだ昇ったばかりの太陽の輝きは眩しく、正視することは出来ない。
丘を渡る風は涼しく、秋の朝の風は爽やかだった。
その風に吹かれ、足首までぐらいしかない草原が揺れる。
その草原を埋め尽くすように、規則正しく、人の胸当たりの高さの石が並べられていた。
この世の生を終え、常世の眠りに就く者達が心安らかに眠る―――そこは墓地だった。
その一角に、一人の青年が立っていた。着ている服はフロレシア帝国軍の軍服。
襟には二十七日にとりあえず大佐以上の者に配られたばかりの襟章が輝いている。急な勅令であった事もあり、全軍に行き渡るにはまだ時間が掛かるだろう。
草原をうねらせる風は彼の灰色の髪も揺らす。旭日の輝きは、彼の灰色の瞳を細めさせる。
彼は膝を曲げ、墓に今朝帝都の花屋で買ってきた花を供えた。
戦場に咲き、人の魂を常世へと導くと言われる、血のように真っ赤な花弁を持つ花。
カロンの花を―――。
「おはよう、母さん。十年振りかな?待たせて御免なさい。ようやく―――ようやく、僕の念願が適いますよ」
死者に話し掛けながら、アルンヘルは少しだけ、口元に微笑を浮かべた。
墓にはそこに埋葬されている者の名は刻まれていなかった。
と言うよりも、刻まれていた名が何者かによって削り取られてしまったようだ。
何故削り取られてしまったのか………死者に対するこれ以上の冒涜はあるまい。
曲げていた膝を伸ばして立ち上がり、アルンヘルは胸に手を当て、誓うように厳かな口調で告げた。
「また来ます。今度は、僕の念願を果たしてから」
そして、墓に背を向けて去る―――去ろうとして、彼は足を止めた。
そして、灰色の瞳を細めて、何時の間にかそこに立っていた輝かんばかりの黄金の髪と人の心の奥底までも見通せそうな蒼い瞳を持った、何処と無く気弱そうな微笑を浮かべた少年を見つめて。
「…………」
「…………えと」
「…………」
「うう………えっと、おはよう」
「おはようございます。陛下」
そこで丁寧に頭を下げる。それから再び若き皇帝の顔を見上げて、やや首を傾げる。
「この墓地は平民が埋葬される墓地ですが?」
「うん」
「今朝はまたどうしてこちらへ?」
ラインハルトはちょっと視線を虚空に這わせた後、済まなさそうな口調で、
「実は君を余の直属にするに当たって、君の事を調べさせてもらったんだ」
「左様でございますか」
「うん。疑うような真似して、御免」
「陛下が謝罪なされる必要はありません。むしろ当然でしょう」
「それで、君の実の母上の御命日が今日だと知ったんで………ここに来れば君に会えるかと」
「…………」
「えっと………気を悪くしたのなら謝るよ?」
「いえ。陛下直属の諜報機関と言うのはどうやらかなり優秀なのですね。私の実の母の命日まで調べるとは………驚きました」
「うん」
さすがにアルンヘルと言えども、暁の事は詳しくは知らないようだ。
ちなみに言えば彼は暁の頭領、エシュアに一度会っているのだが。
それとて別に名乗ったわけではない。アルンヘルは一瞬、空を飛ぶ鳥に灰色の瞳を向け、
「それで、陛下御自らこのような場所まで出向かれたのは、何故ですか?」
「聞きたい事があるんだ」
そう言われ、アルンヘルがかすかに周りを警戒する素振りを見せる。
その様子にラインハルトはかすかに微笑んで、
「ヴァンが見張ってるから盗み聞きされる可能性は無いよ。………聞きたい事って言うのは、君の目的についてだ」
「私の目的?」
空を見上げていた瞳を皇帝へと向ける。皇帝は真剣な表情をしていた。
「そう。余の直参となり、貴族の抹殺を計画した目的。君が僕の直参にしてくれと言いに来た時、君は、覇皇となるためには奇麗事だけではなく、汚い仕事をする者も必要だと言った。そして自分こそがその汚い仕事を引き受けたい、と。………これは本音?それとも、自分の目的を果たすための方便かい?」
「…………」
沈黙しつつ、アルンヘルはラインハルトの表情を窺った。そして、彼の心を読もうとした。
「―――これは参りましたね」
しばらくそうしてから、彼は首を振ってかすかに笑った。
「貴方は気弱そうな顔をして―――失礼―――なかなかに腹黒い方ですね。心を読めない」
「ただ何も考えてないだけかもしれないよ?」
ラインハルトはそう言って、無邪気に笑った。アルンヘルはそれを見て、得心したように頷く。
「なるほど、貴方は無邪気だ。私の知っている男にも一人、呆れるほどに無邪気な男が居ます。が、貴方は彼とも異なる。貴方は無邪気な上に、純粋だ。この世の穢れを知らない無垢の瞳をしている。私のような汚泥だけを見ながら生きてきた男の曇った眼では、貴方の心が読めない訳だ」
「う~ん………それって褒められてるのかなぁ?」
困ったように笑う。
「勿論、褒めているのですよ」
「そうか。ありがとう。あ、ちなみにその呆れるほどに無邪気な男ってのはカーンの事でしょう?」
「御明察の通りです。彼は私の知っている中ではもっとも無邪気です。思考速度は速い割りに、難しい事を考える事は出来ず、即動的。興味の移り変わりが激しく、感情も高まりやすい。………悪く言えば、単純な男です。もっとも私はそんな彼が嫌いではないですが」
―――今ごろ、カーンはくしゃみをしている事だろう。
「今のをカーンが聞いたら、なんて言うかな?」
悪戯を思いついた子供のような表情で、笑いを噛みつつ、言う。
アルンヘルは小首を傾げて、
「さあ?怒るのではないでしょうか?………それにしても不思議です」
「何が?」
「貴方と話していると貴方が高貴な身分の方であると言う事を遂忘れてしまいそうになる」
「………まあ、余には威厳も何もないからね」
「それこそ、陛下の魅力なのでしょう。気安く民に声をかけてくださる陛下に、民は親近感を抱くのです。その親近感がやがては陛下への忠誠心になっていくのでしょう」
「う~ん………そんなもんかなぁ?」
「そう言うものです。貴方が権力を振り翳すのは、似合わないようですから」
「うん。自重するよ」
「………。わかりました、お話しします」
「え?」
「私が貴方の直参を望んだ本当の訳を」
アルンヘルは一度背後の墓を肩越しに振り返ってから、話し始めた。
「確かに陛下の仰るとおり。私が陛下の直参を志願したのは陛下の覇道の為ではなく、私自身の念願を果たす為なのです。陛下を騙す結果となった事は謝罪します。しかし、私にはやらなければならない事がありました。それを果たす為にはハーン=ハーベスト閣下の下では駄目だったのです。私がやらなければならなかった事、それはこの国から腐敗した貴族を一掃する事です。いえ、実を言ってしまえば、それすらも嘘だ。私はただ、母に誓った事を果たしたいだけ。ある貴族を殺す、それもその者の望みを断つ形で、己の権力と権威がすべて否定され、恥辱と屈辱に塗れた中で殺す事です。………私の母は南部の貧しい農村の出でした。彼女が十八になったその頃ちょうど先帝陛下による蛮族討伐が繰り返されており、国家財政は破綻間近。母の生まれた農村は増税され、母の父、私の祖父に当たる人は母をザルカの売春宿に売りました。………整った容姿をしていた母は先帝陛下の蛮族討伐に同行していたとある貴族の目に止まり、その貴族の愛妾となりました。しかし、母の身に子が宿っているのを知った途端、その貴族は母を自分の屋敷から追放し、縁を完全に切ってしまったのです。母は失意の中私を産みました。彼女はいつも笑っていました。私を悲しませないために。常に暖かく、私を抱き締めてくれました。やがて私が三歳の時、母は不治の病に掛かって、倒れました。貧しかった私は母を医者に診せる事も出来ず………母は最期の最期まで、笑いを絶やしませんでした。でも、最後の最後、彼女の目からは抑えられない涙が溢れました。そして―――」
アルンヘルはそこで一旦言葉を止めて、その母親の墓の前に膝を折った。
削られてしまった彼女の母親の名前をなぞる様に指を這わす。
ラインハルトはただ無言で、静かにそんなアルンヘルを見守っていた。
「そして、最後のその瞬間、彼女は私にこう言ったのです。『御免なさい。貴方に辛い思いをさせて、本当に御免なさい』と―――」
アルンヘルはゆっくりと立ち上がって、ラインハルトを振り向いた。
いつもは不気味な光を浮かべている灰色の瞳に、今は真摯な光を宿して。
「私はこう考えました。彼女は戦っていたのだと。己を捨てた貴族の事を、彼女は一言も悪く言わなかった。それどころか彼女は『しあわせ』だと言っていました。ぼろくずのように捨てられ、周りの人間達からは『魂を売った薄汚い雌犬』だと罵られる生活を、彼女はしあわせだと言って、微笑んでいたんです。私を暖かく抱き締め、『貴方が居るから』と。でも実際は一番辛かったのは彼女の筈なんです。それを全く表面に出さず、一言も弱音を吐かず、一言も恨み言を言わず、彼女は暖かい微笑を浮かべたまま、逝こうとした。………それが彼女の戦いであり、そして………彼女はその戦いに敗れた。最後の最後に、泣いてしまった―――」
アルンヘルは強く拳を握り締めた。強く。手が白く染まるほどに、強く。その時、今までよりも強い風が吹き、アルンヘルが彼の母親の墓に供えたカロンの花の花弁が大きく揺れた。戦場に咲くこの血に似た花は、戦い、倒れた者をヴァルハラと呼ばれる戦士達の天国へと導く。
「彼女は確かに身分の低い、それこそ貴族のような高貴な人々から見れば犬でしかないかもしれない。金を得るために、自由を得るために進んで己の体を売った下賎な雌犬―――。しかし、彼女は少なくとも魂は売っていない。私は彼女ほど暖かく、優しく、なにもかもを包み込むような微笑を浮かべる人を知らない。………私は彼女ほど、気高き人を知りません。だから―――」
アルンヘルは拳を開き、己の左胸に右手を当てた。先ほど墓の前でして居たのと同様に。
「私は誓ったのです。母の仇を取ると。母が果たせなかった戦いを私の手で終わらせる。いえ、母に喜んでもらおうとは思っていません。私がやろうとしていることは母が望んでいる事では無いでしょうから。ですが、私は止めません。これは私の戦いです。そして、この戦いを終わらせるために、私は陛下、貴方の直参となる事を望みました」
「そうだったの………御免。辛い思い出を話させちゃって」
居たたまれないようにラインハルトが謝る。
アルンヘルは首をかすかに振って、そして、微笑を浮かべた。
「私にはそれ以外にも貴族を許せない理由があるんです。母の葬儀の日、私は当然貴族は来ないものと考えていました。その頃にはもう、私達とその貴族には何の関係もありませんでしたから。しかし、なぜかその日、その貴族は母の葬儀に来たんです。思えばまだまだその頃の私は純粋だったようです。私は貴族が母を心の奥底では愛していてくれたのだと喜びました。彼は天涯孤独の身の上になった私に孤児院を紹介してくれさえしました。ですが―――彼が帰って後、暫らくして、私の元に届け物が届きました。その届け物は一抱えほどもある大きな箱で。私はきっと貴族が私の為に贈り物をしてくれたのだろうと喜びました。それまでずっと母を捨てた貴族に憎悪を感じていたのに、その瞬間、私は確かにその貴族に感謝の念を抱きました。私は始めての贈り物に胸を高鳴らせながら―――」
アルンヘルは先ほどの微笑を消し、自嘲的な笑みを浮かべた。
まるで己の単純さを呪うかのように。
「私は胸を高鳴らせて、その箱を開けました。………中には、腐った雌犬の惨殺死体が入れられていました」
「そんな………」
ラインハルトが顔をしかめる。あまりにもおぞましい。
そんな事を平気でする人間がこの世に居るなんて、信じられなかった。
しかし、それこそが、彼の知らない世界での真理なのだ。
「私は思わず吐きました。貴族への一瞬の感謝の思いはその仕打ちによって永遠の憎悪に変わったのです。………それからその犬の死体を処分しようとして、犬の死体が手紙を咥えている事に気付いたんです。その手紙は母宛でした。………私は死体の腐敗臭にえずきながら、その手紙を犬の口より外し、開きました―――」
「なんて、書かれてたの?」
ラインハルトの質問に、アルンヘルが空を見上げ、芝居っ気たっぷりに両手を広げ、言った。
「『哀れな………哀れで、惨めで、醜い、汚らわしき雌犬が地獄で淋しくない様、御仲間を差し上げましょう。同じ薄汚れた下賎な雌犬同士、あの世で仲良く、軽い尻を振ってください。………親愛なる雌犬へ。親切な足長叔父さんより』」
「酷い………そんなの酷すぎるよ!」 ラインハルトは憤激していた。いくら貴族だからって、人を侮辱して良い訳が無かった。
人間の尊厳を傷つけて、許されるはずが無かった。そんなの間違っているはずだ。
なのに、この国ではそれが普通に許されていて………。
アルンヘルだって、十年以上も前の手紙の内容を一言一句間違えずに覚えていられると言う事はそれだけその手紙のせいで苦しんだと言う事なのだ。
苦しんだ挙句、その手紙の文句は彼の脳裏に刻み付けられてしまったのだ。
顔を真っ赤にして怒っているラインハルトをやや見開いた灰色の瞳で見つめて、アルンヘルはかすかに口元を綻ばせた。
「確かに貴方はおかしな方だ」
「へ?」
「他人の事なのに、貴方には関係のない事なのに………どうして、我が事のように怒れるのですか?」
その指摘にラインハルトは真剣に考え込んで………やがて、首を左右に振った。
「それは違うよ、アルンヘル」
「―――どうしてです?」
「余は怒っている。他者の尊厳を傷つけると言う行為に。精一杯に生きて、死んでいった人を侮辱する行為に。………でも、今の余の怒りは所詮、第三者の物に過ぎない。アルンヘル。君の怒りは余の物よりもっと激しかったはずだよ。君の悲しみは余の物よりもっと深かったはずだよ。だから、戦う事を決意したんでしょ?」
「はい。………やはり貴方は素晴らしい皇帝陛下だ。貴方を選んで、本当に良かった。貴方の元ならば、私は本当に、願いを果たせそうです。そして―――願いを果たした後こそ、今度こそ本当に、私に貴方の覇道の手伝いをさせてください。貴方の為に、私は働きたい」
「アルンヘル………。不束な皇帝だけど、よろしく」
アルンヘルの申し出を、ラインハルトは快く受け止めた。
―――と、急に真顔になり、告げてくる。
「でもそれには一つだけ条件がある」
「条件………ですか?」
アルンヘルも表情を引き締める。そして、ラインハルトが出した条件とは―――。
「母上と同じく、君も気高く生きる事」
「陛下………」
アルンヘルは驚いたように目を見開いた後、大きく頷き、胸に手を当てて、宣誓した。
「わたくし、アルンヘル=へードはラインハルト=シーザー陛下に心より、忠誠を誓います。そして―――誰よりも、気高く生きる事を、我が亡き母の魂に誓います」

4 ラマーン=オルド侯爵
帝国暦三三二年十月二日。
「貴族の方々は侯爵閣下の憂国の熱情に深い理解を示され、進んでの協力を申し出てくださっていますわ。ありがたいことですわね」
目鼻立ちのはっきりとした美しい女が満面の笑顔を浮かべて言う。
四十を過ぎて大分皺なども増えてきたが、まだまだ若い頃の面影を残しているのだ。
女の名はイミナ=サルティコ。
場所はフロレシア帝国西部に領地を持つラマーン=オルド侯爵の屋敷、その一室であった。
ラマーンは風采の上がらぬ四十代の男だ。本来ならば彼は爵位を継ぐような男ではなかった。
彼はオルド侯爵家の三男坊に生まれ、小さな荘園の領主を勤めていただけの平凡な男なのだ。
その彼が公爵に継ぐ高位である侯爵の爵位を継ぐ事になったのは、あのエルベス川の戦闘のおかげであった。あの戦闘で兄二人が死に、兄達に子もなく、侯爵の爵位が自然とラマーンの手中に落ちてきたと言うわけである。
しかし、小心者の彼は当然その爵位に困惑するばかり。
そんな彼を励まして支えたのが、彼が荘園の領主になった時に雇い入れたイミナ=サルティコであった。
そして、今回の急な勅令によって国内が騒がしくなるとイミナは打倒皇帝の旗を揚げ、貴族達の盟主となるよう彼に進言したのだ。
無論、気が弱く、争いを好まないラマーンはこの進言を退けようとした。
しかし、イミナの巧みな説得により、遂に彼は挙兵を決意、貴族達にその旨を伝え、共に皇帝を倒すよう呼びかけた。
正直貴族達はこのような危ない橋は渡るまい。
貴族達が賛成してくれなければ、挙兵は無謀であり、そうすればイミナも諦めてくれるだろうとラマーンは考えていた。
しかし、彼の予想を裏切って、多くの貴族が彼の誘いに乗る旨を返答してきた。
満面の笑みを湛え、嬉しそうに賛同してくれた貴族たちの名を指折り数えるイミナをラマーンは気の弱そうなおどおどとした瞳で見つめて。
(むむぅ………どうした物か、事はどんどん深みに嵌っていく。このまま推移してもし反乱など起こし、失敗すればわしは反乱の首謀者として処刑される………そうなれば、伝統あるオルド侯爵家も一巻の終わりだ………)
そうは思っても、口には出せないラマーン。
せめてその危険性に彼女自身で気付いてほしいと嘆願するような眼差しを向けるのだが、それを見たイミナはわかっていますと言う風に大きく頷く。
しかし、ラマーンのこれまでの経験上、彼女がこうやって頷いた時に正確に彼の求めている事を理解していたと言う事は一度もなかった。
彼女はどちらかと言えば、いや、はっきりと自分に都合の良いようにしか考えない女性である。
そして、自分の為になる事ならばまだしも、他人の為には滅多に熱心にならない性格でもあった。
そんな彼女が未だにラマーンの元に居るのは彼女があらゆる面でかなり優秀だと言うこともあるが、なによりも、ラマーンに彼女を解雇する勇気が欠乏しているのが大きな要因だろう。
「何をそんなに心配そうにしてなさるのです?何も心配なさる事はありませんよ。貴族の方々はみな、貴方様の御味方でございます」
「本当にそうだろうか?現に、アリーニ=アウグウェルツ公爵と彼の取り巻き達は何も返答を寄越してこないではないか?」
ラマーンにとっては、精一杯の反論であった。 しかし、イミナはしてやったりとばかりに笑顔を深くし、一通の書状を懐から取り出して見せた。
「実はカブラ子爵様より、書状が届いております」
「なんと………カブラ卿から?」
カブラ子爵は先帝崩御以来、アリーニ=アウグウェルツ公爵がもっとも身近に置く青年貴族である。
ラマーンはその書状に慌てて目を通し、
「うぅむ………」
唸った。
「『わたしは貴方様の御考えと全く同じ考えを抱いております。かの暴虐なる皇帝は我々高貴な血族をないがしろにし、下賎な犬に目を掛ける始末―――。このままでは誇りと栄誉の我らがフロレシア帝国は早晩滅亡の憂き目に遭いましょう。この未曾有の国難を未然に防ごうとなされる貴殿の活動に、わたしは惜しみない支援を約束いたします。アリーニ=アウグウェルツ公爵も我々と同じ考えだと推察いたします』………これは、どういうことであろう?」
「文字通り、アリーニ=アウグウェルツ公爵様もカブラ子爵様も我々への賛同の意思をお持ちと考えますのが妥当かと」
「うぅむ………。しかし、この書状には確たる事は書いていないようだが?アウグウェルツ公爵に関してはあくまで推測に留まっておる」
「公爵閣下は賢き方ゆえ、はっきりとした事は申さないのでございましょう。しかし、カブラ子爵様がご自分の意思でこのような書状を書かれたと考えますよりは、公爵閣下の御指示によるものと考えるのが妥当かと思います。そして、わざわざこのような書状を書かせたあたり、公爵閣下の御心は迷っておいでながら、我々の側へと大きく傾いておられるように思えます」
「むぅ………なるほど」
そう言われて見れば、そのような気もする。
ラマーンはその書状を傍らの文机に置くと、軽く目頭を揉んだ。
「それで、現在協力を申し出てくれている貴族の方々の私兵をすべて合わせるとどの程度の戦力になるんだ?」
この問いにはさすがのイミナでも、すぐには答えられないようであった。
しかし、数瞬の沈黙を挟んだだけで、すぐに答えてきた。この辺りが彼女の優秀さの顕れだろう。
「正確な数字はわかりませんが、五万程にはなろうかと。アリーニ=アウグウェルツ公爵と彼の取り巻き貴族達が正式に参加してくだされば、十万を下る事はありません」
「十万、か」
ラマーンは顔をしかめた。
帝都には近衛騎士団の二万を始め、第一軍の十八万が常駐している。
帝都周辺の砦や城には第二軍の十八万が師団や連隊規模で分散配備されている。
第一軍と第二軍は今回の人事異動で混乱しており、迅速な対応は出来ないだろう。
と、なれば当面の敵は近衛騎士団の二万だけと言うことになる。
(とはいえ、相手はあのアミリア=ホーンに率いられた帝国軍の中の最精鋭部隊。たとえ数で五倍であったとしても、所詮は烏合の衆に過ぎないのでは果たして勝ち目があるかどうか?)
「憂国の情厚き方々が一致団結すれば、近衛騎士団など何ほどの事もありません。我々が緒戦で勝利し、正義の存在を明らかにすれば、軍の中にも憂国の情に燃え、我々への協力を申し出る者達も居りましょう。我らの旗の下に正義がある限り、我々が負ける等と言う事はありえませんわ」
「…………」
イミナはひたすらに楽観論を吐く。
物事がそのようにうまく運ぶはずも無いが、彼女の言葉を聴いているうちにそのような気にもなってくるから不思議だ。
ラマーンはかすかに首を左右に振って、席を立った。
「気晴らしに行って参る」
「いってらっしゃいませ。我々の動きを嗅ぎ付けた皇帝側が暗殺者を放っておるやも知れませんので、十分にお気を付けくださいませ」
「わかっておる」
(気を付けろ等と言って、どのように気を付ければ良いと言うのだ)
頷いて、ラマーンは部屋を出て行った。
一人残されたイミナが、邪悪としか言い様の無い笑みを浮かべていた事など、彼にわかろうはずも無かった。

庭園は彼の性格を示しているかのようだった。
華やかな、艶やかな、派手な、激しく自己主張しているような………そんな花は一つもなく。
控えめで、地味で、部屋の片隅にひっそりと咲いているような、そんな花が所々に植えられているだけ。
しかし、庭園の持ち主の几帳面さを示しているかのように、整然としていた。
花の配置もしっかりとしており、癒しの雰囲気が漂っているかのような庭園だ。
その庭園を杖を片手にそぞろ歩きながら、ラマーン=オルド侯爵は浮かぬ表情をしていた。
この庭園の癒し効果を以ってしても、彼の表情を和ませる事あたわざる様だった。
(反乱………か)
考えるだにぞっとする。
しかも自分がその首謀者になろうとしているなどとは、今でさえ夢で無いかと頬を抓りたくなる。
(もしやわしはとんでもない陥穽に陥ろうとしているのでは無いだろうか?)
庭園の何処かに巣でもあるのだろう。
黄色い羽が鮮やかな小鳥が一羽、彼の頭上を飛び抜けていった。
ラマーンはその鳥を見上げ、眼を細めて、
「鳥は良いのう。わしのように瑣末な事で悩むことも無いのだろうな………」
鳥は自由だ。
望むのならばその翼を広げ、どこへなりと飛び去ることができる。
「しかしわしは………わしには、広げる翼も無い」

「引継ぎ作業、終わったのか?」
「ええ、何とか終わりましたわ………これで、私達の師団は即応状態に移行できます」
赤髪の軍人の質問に、しっとりとした黒髪の淡雪のような肌をした女性が答える。
その口調は実に穏やかで、春の陽光を思わせるほどに暖かだった。
質問を発した赤髪の剣士は精悍ながらも何処と無く甘い容貌をしていた。
しかし彼は僅か十七歳で師団長の地位に上り詰めたのだ。
心無い者達の中にはその彼の異例の出世を、彼の父親、軍部の英雄とも言われるハーン=ハーベストの威光が大きく働いていると陰口を叩いている。
しかし、いくら父親の威光が働いたところで、師団長としては最高位とも言える第一師団長に就任できるほどフロレシア帝国の軍部は甘くない。
しかも由緒ある家柄の出と言うわけでもない、軍部の英雄と言えどハーン=ハーベストは一兵卒から激戦を潜り抜けて現在の地位にまで上り詰めたのだから。
そのような若造が実力も無く師団長に上り詰めることが出来るのか………?
答えは否だ。
実力も家柄も無く、あるのは父親の威光のみ。
その程度で出世出来るほど軍部は甘くない。
彼が現在の地位を得られたのは彼の実力のおかげなのだ。
アレク=ハーベストと言えば彼と同年輩の軍人達にとっては遥か高みの英雄ハーン=ハーベストよりも遥かに身近な英雄なのだ。
その彼は執務室の机に足を投げ出して、行儀悪く座っていた。
彼の第一師団も何人かの連隊長や中隊長が首を挿げ替えられている。
「少将と御呼びしましょうか?」
冗談っぽく笑いながら、リーナが机に熱い御茶を置く。
「それとも、閣下?」
「あのなぁ………からかうなよ」
「ふふっ。わかってますよ、アレク」
「ったく………昔からお前は嫌な女だな」
アレクはそう言いつつも、少なくともリーナを嫌っていない証拠にかすかに笑みを浮かべる。
だがすぐに真顔になって、
「まったく、ラインのおかげで良い迷惑だな」
「まあまあ。おかげで第一師団を完全掌握できたんですから」
「まあな。今回の人事異動のおかげであの胡散臭い貴族出身のお坊ちゃま達はみんな予備役入りだからな、随分とやりやすくなったが、貴族連盟は黙っちゃいないだろ?俺達だけでもすぐに動けるようにしとかないとな」
「ええ、そうですね―――でも、気になりますね」
リーナが考え込むように頬に手を当てる。
アレクは渋面を作りながら、御茶を一口含み、
「あいつも馬鹿じゃないからな………こんな事をすれば貴族を敵に回すのはわかっているはず。どうしてこんな事をしたんだろうな?」
「わかりません。………でも、貴方は彼の味方なんでしょう?」
「見透かされてるみたいで、嫌だな」
「ふふ。私はそういう貴方が好きですよ」
「単純だって言いたいのか?」
「純粋だって言いたいんです」
にっこりと満面の笑顔で言ってくる。
アレクはそんなリーナをしばらく見つめて、首を軽く左右に振った。
「まったく、おまえには適わないな」
「ふふ。………ところで、アレク、今日の夕食は何が食べたいですか?」
「そうさな………肉じゃが、かな」
「昨日作ったのがまだ残ってますよ」
「肉じゃがは一晩置いたほうが味が滲みて、美味いんだよ」
「わかっておりますよ」
片目瞑って言うリーナ。アレクはかすかに頷いて、苦笑を浮かべる。
「―――なら、良いんだよ」

「うぃ~………俺は書類仕事は苦手なんだよ」
行き付けの酒場のカウンター席に突っ伏し、赤髪の男がうめいていた。
その表情には疲労の色が濃い。
「カーンにとっては苦痛以外の何者でもなさそうだね」
彼の隣には青髪のおとなしそうな顔つきをした青年が座っていた。
酒を舐めるように飲みながら、横目で既に泥酔状態の親友を見やるその目つきは非常に優しい。
「俺はまだ連隊規模だからな。変わった中隊長も六人程度ぐらいだしな」
「その口ぶりだともっとてんぱってる人を知ってるみたいだね」
「ああ。明るい茶髪に銀色の瞳を持ってる女だ。軍部が動けないからと言って、自分の部下に猛訓練を課してる。あいつは貴族とやりあう気満々のようだ」
「アミリア=ホーン中将の事かい?カーン=オルベニー大佐」
「なんか、嫌な言い方だな。俺があいつより二階級下だとなんか問題でもあんのか?」
横目で青髪の友人を睨みつつ言う。オットーはひょい、と肩を竦めて、
「そう?気に障ったんなら謝るよ」
「ふん………まあ、別に良いけどな」
カーンは軽く鼻を鳴らしてから、コップに残っていた酒を飲み干した。
「もう一杯!」
マスターに注文する。さすがのオットーも少し呆れたように、
「って、カーン、何杯目?」
「………さあな、四杯目位か?」
「十一杯目だよ」
「そんなに飲んだか?………俺」
自覚がないのか、眼を細め、首を傾げつつ、コップを見るカーン。
オットーは薄く笑いながら、頷いて、
「僕のも合わせて、だけどね」
「あのなぁ………」
カーンがからかうなよと目で言ってくる。オットーはもう一度肩を竦めて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「でも僕これまだ一杯目だよ?」

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