楽天市場
[無料でホームページを作成] [通報・削除依頼]

覇皇伝

第二章 ルーナ帝国

第二章 ルーナ帝国
1 帝都ディアナ
帝国暦三三二年九月二十日。
陰鬱な町並みであった。どんよりと曇った空、灰色の石壁と店舗が続く大通り。
表通りの随所には武装した兵の姿が見え、無遠慮な眼差しを行きかう人々に向けている。
俯いて歩く人々は黒いローブを纏い、他者の視線を嫌うように早足で歩いていく。
(これが日の出の勢いの国の首都、か)
店頭にはさしたる食料も並ばず、他国ならば容易に聞ける威勢の良い商人の掛け声も聞こえない。
彼自身、黒のローブを纏ってその身を外界から遮断していた。
郷に入らば郷に従え、とは諜報員にとっては常識以前の常識だ。
買ってきた食糧を持って、彼もまた俯き、足早に大通りをはずれ、さらに人影の無い裏路地を進む。
その姿は誰が見ても、他の人々との差異を認められないほど完璧な変装だった。
やがて彼が足を止めたのは玄関が半地下にある、地中に埋もれたような家の前だった。
扉を短く二度、続いて長く三度、叩く。
「…………」
無言。
かなりの数の人間が街の中に居る筈なのに、この帝都はすべてが静寂に包まれていた。
誰も必要最小限の言葉しか口にしない。まるで、会話する事自体を恐れているかのように。
かちっと鍵の外れる音。
そして扉が薄く開かれる。その隙間から警戒したような眼差しが覗き、彼の姿を確認する。
その隙間から彼は中に入った。
背後で扉が閉められ、鍵が掛けられる。
そこで初めて、彼はフードを後ろに外した。
現れた髪は珍しい白髪。
鷹のように鋭い眼差しを持つ、暁の頭領、エシュアだ。
「―――首尾はどうですか?」
聞いたのは扉を開けた女。
肩で切り揃えられた黒髪に、猫科の動物を思わせる大きな目にしなやかな肢体。
エシュアの部下、ジュナだ。
エシュアはジュナの質問ではなく、自分の気になった事を問うた。
「レイアードは?」
「あの馬鹿なら情報収集に出かけてます」
「―――そうか」
淡白に頷く。
エシュアは皆無ではないが、感情表現が乏しい。
ちなみにレイアードとはエシュアが今回のルーナ帝国潜入において連れてきた部下二人のうちのもう一人だ。金髪垂れ目、耳のイヤリングが特徴の軟派男だが、女性から情報を入手する技術においては暁でもっとも優れていると言われているし、本人もそのように自負している。普段の訓練ならば怠ける事もあるが、そっち方面の練習は欠かさず行っているぐらいだ。
その秘訣を彼に語らせれば、
「情報収集の秘訣?………最高の快楽を与えながらも、最後まで突っ込まない。突っ込むのは相手が情報を吐き出してからだって所かな?突っ込んだら後はもう掻き回すだけだ。ほら、納豆みたいに。掻き回せば掻き回すほど味が出てくるんだよ」
まあ、それはともかく………。
天井からぶら下がっている照明にちらりと目をやってから、エシュアは抱えていた食料入りの麻袋を部屋の中の唯一の調度品である円卓の上に置く。
この部屋はいわゆるわけあり物件という奴で、期限付き低価格で借りている。
奥には部屋が三つあり、三人同時に眠る事も出来るが、通常は誰か一人がこの部屋で待機している。
「城の警備はなかなか厳重だ。城門には生身の衛兵がいるし、堀の中には生身ではない衛兵がいた」
「そうですか」
ジュナが頷く。
予想できた事だった。
ミト=ヴァレンツェが死者を使役するならば、城の守りも死者が就いている可能性が高い。
「民は沈んでいる。どうやら彼らも現体制を快くは思っていないようだ」
エシュアが巧妙に入手した情報によれば、カール三世に皇位が移ってからというもの、行方不明者が続出している上に、先帝時代から仕えている老臣等も次々に抹殺されているとの事だった。
そもそもカール三世には五人ほどの弟が居たが、二人は毒殺、一人は事故死、一人は行方不明、一人は公開処刑されたとの事だった。その公開処刑はエシュア自身も目撃している。
処刑は一週間ほど前に行われた。
エシュア達がルーナ帝国に潜入した頃、国内で大規模な国家転覆計画が進行中だった。
その首謀者こそ処刑されたカール三世の弟だった。
彼は生き延びたわずかな老臣と結託し、兵を挙げた。
兄の腹心ミト=ヴァレンツェが遠くパルディアの地に居る今こそが最大の好機と考えたのだろう。
しかし、反乱は失敗した。
カール三世もまた死者を操る力を持っていたのだ。
反乱軍は根絶やしにされ、皇子をはじめとして重臣達も皆公開処刑された。
野次馬に混じって公開処刑を見ていたエシュアは皇子が死ぬ間際に必死に言おうとしていた言葉を思い出していた。
声帯を潰され、声が出せない状態で、皇子は必死に叫んだのだ。
読唇術を心得ているエシュアはその皇子の最後の言葉を脳裏に描いた。
―――兄は悪魔に心を売った、誰でも良い、止めて欲しい、この悪魔を………。
(悪魔………?)
まさかそのような存在が現実に存在するとは思えない。人々の恐怖心が生み出した、闇に棲む幻影だ。
しかし、悪魔と形容されるような人物ならばいる。人々に死を撒く、あたかも闇に棲んで居るかの如き人物………他でもない、カール三世自身だ。
(この国で一体、何が起きているのだ………?)
丸椅子に深く腰を下ろして、エシュアは考え始めた。
しかし、結論はやはり、一つしか出ない。
(やはり―――城に潜り込むしかないか)
それで何が見つかるのか、或いは何も見つからないのか。
それはわからない。
しかし、カール三世の考えている事の一端でも窺い知る事が出来れば、フロレシア帝国にとっては大きな収穫となろう。

「ふんふんふっふーん♪」
墨汁を零したような闇の中、陽気に鼻歌を歌いながら歩く男が居た。
金色の髪、下がったまなじりが特徴的な男で、耳には揺れるたびに金属質な音を立てるイヤリングをしている。やはり黒のローブを着ているが、身を隠しているとは言えなかった。なにしろフードを被っていなかった。彼の金色の髪と眦の下った甘い容貌はこの暗鬱とした帝都ディアナの夜気に晒されている。
彼の名はレイアード。家名は無い。いや、暁に所属する者は皆家名を持たぬのだ。
エシュアやジュナのように自ら捨てた者も居れば、レイアードのように最初から無い者も居る。
そう言った者たちを集め、訓練し、組織したのが暁なのだ。
では誰が最初にその暁という名の部隊を作ったのか?
それは歴史の謎に包まれている。つまり、わからないのだ。
だが、そもそも暁という組織が何時、誰によって、何のために作られ、どうして家名を持たぬ者たちを集めたのか、それらは全て謎に包まれている。過去にはこの謎を研究した研究者も居り、第七代皇帝ルメウス一世の皇后アンリの父であり、その容赦の無い改革政策によって《鉄血宰相》の異名を持つクロメデこそがその創始者ではないかと言う説がもっとも有力とされてはいる物の、証拠は無い。クロメデは暁を使って調べた貴族の違法行為を口実に、腐敗した貴族を次々に粛清、改革を断行したのだ。そのクロメデが粛清を恐れた貴族によって謀殺された後、暁は皇帝直属の諜報機関となったのだというのがその学者が生涯をかけた研究で辿り着いた結論である。。
エシュアはそのうちのいくつかの疑問の答えを知っているようだったが、何度聞いても答えてはくれない。どちらにせよ、今のレイアードは上機嫌だった。
情報収集が上手くいったから?―――違う。
彼が女性相手に情報収集すればほぼ確実に情報を入手するため、彼もそんな事では上機嫌になる事はない。では何故か?
「いやぁ、今日のは名器だったなぁ。明日も情報収集に行こうかな」
これである。女性は星の数居れど、彼が満足できるほどの名器の持ち主ともなればその数は道端に落ちているダイアモンドよりも少ない。
だから彼は上機嫌で、鼻歌なんぞ歌っているのである。
そしてだからこそ、彼は自分が監視されている事に気付かなかった。暁でも優秀な部類に入る彼にしては珍しい単純なミスだ。しかし、それも仕方の無い事であったかも知れない。彼を監視している者がただの人間であったならば、いくら油断していようとも彼がそれに気付かなかったなどという事は無いだろうから。尾行されている事にも気付かず、レイアードは隠れ家の扉を短く二度、長く三度叩いた。
すぐに扉が開けられ、レイアードの姿はその中へと吸い込まれた。
「…………」
それを確認し、監視者はその場を後にした。
巣は見つかった。………後は、燻して、出て来たところを軛殺せば良い。

「すごい香水の臭い」
「香りと言え」
自分達の身が晒されつつある危険にも気付かず、レイアードは顔をしかめて鼻を摘むジュナに訂正を求めた。が、ジュナはぷいっと横を向くとそのまま奥の部屋へと続く扉へと向かう。
「それじゃ、エシュア様、私先に休みますね」
「ああ」
「なんなら添い寝してやるぞ?」
「馬鹿は御断り」
「じゃあ、俺は良いよな?」
「あんたいつから馬鹿じゃなくなったのよ」
取り付く島もない感じで言い放ち、扉が閉まる。
レイアードはなんとなく緩んで見える顔をさらにだらけさせて、椅子に腰を下ろした。
ちょうどエシュアとは円卓を挟んでいる形だが、レイアードは椅子に対し横向きに座っているので、向き合っていると言う感じではない。
「―――報告すべき情報は手に入れたのか?」
永劫続くかにと思われた沈黙だったが、それはエシュアによって一方的に破られた。
「ん。………まあ、そこそこは」
「…………」
無言で聞く体勢をとるエシュア。
「城の裏手に墓地があるんですがね、何でも皇帝は毎日一人でその墓地を訪れるそうなんですよ」
その報告に、エシュアはかすかに眉根を寄せた。
「………一人で?」
「ええ。護衛も連れず。毎晩墓参りしてるそうっす。誰かが近づくと滅茶苦茶に怒るそうで。その怒り様がまた半端じゃなくて、うっかり墓地に近づいちまった兵士は八つ裂きにされた上に獣の餌にされたと」
「その情報は何処から入手した?」 「近衛騎士夫人からっすよ。なんでも旦那がベッドの中で愚痴るんだそうです。あの皇帝陛下は気味が悪いって」
「気味が悪い………か」
確かにカール三世なる皇帝のやる事なすこと知れば知るほどその存在が非常に薄気味の悪い物に思えてくる。

城の後背にある霊園。毎晩ここを訪れるカール三世の姿は今日も霊園の中にあった。
歴代の皇帝の墓が並ぶ中、比較的新しい墓が二つ並んでいる。
刻まれている名はカール二世とアレクシテア。彼の父と呼ばれる存在と母と呼ばれる存在だ。
―――子供なんぞ、たかが男女の快楽の副産物に過ぎないじゃないか………。
(誰の言葉だったか………)
別にどうでも良い事だ。言葉に意味があるとすれば、それを言った人間に格段の意味があるわけでもなかろう。墓参りは愛しさからではない。むしろその真逆の感情、憎悪によるものだった。
カール三世は手桶から水を汲み取り、父の墓に振りかけた。
「これは供養ではありませんよ、父上。これは復讐です。この俺を抹殺しようとした貴方へのね。貴方の前で母上を殺した時の貴方の顔と言ったら………これ以上に愉快な物はないというぐらいの面白い顔でした。そんなにショックでしたか?母上が飢えた死者どもに犯されながら貪り食われるのが。それとも自分の末路を予感して、絶望しましたか?………その絶望こそが俺の愉悦だ」
愛ではなく憎悪による墓参り。憎悪を忘れぬための、習慣。
瞳に狂気の炎を揺らせながら、彼は母親の墓にも同じように水を掛ける。
「母上はいかがです?貴女がゴミ扱いした私。その私の操る死者に生きたままその身を食らわれた気分は。さぞ、恨んでいることでしょう。見えますよ。未練たらしく成仏もせずに彷徨っているお二人の魂がね」
空間が不思議に捻れ、空気が澱んでいる。まるで怨嗟の情念のように。カール三世はそんな空間のよじれを見つめながら、微笑を浮かべていた。水を掛け終わった時の事だった。彼の第六感が気配を感じた。
五感では感じる事の出来ない、微かな気配。人々はその気配を感じる感覚を霊感と呼ぶ。
カール三世は子供の頃よりその霊感が格別に強かった。故に彼は両親に疎まれた。
この国では霊感を持つ者は魔界に通ずるとみなされ、忌み嫌われるのだ。
だが、ただ霊感があるだけならば、まだ彼は普通の子供として生きて行く事が出来たかもしれない。
しかし、彼の霊感はただの霊感と言うには余りにも強すぎたのだ。本当に魔界の亡者を呼び寄せてしまうほどに。故に彼は冥府の王とも言われる精霊が封じられた精霊具《死兵剣―ジェノ》の持ち主足り得るのだ。その力の代償は周囲から忌み嫌われる事だった。魔界に封じられていた魔剣を手に入れた後、彼の両親は何度も彼を暗殺しようとした。しかし、逆に彼らは息子にその命を奪われてしまう。
ミト=ヴァレンツェが持っている《死の首飾り―ジェト》は《死兵剣―ジェノ》の息子だ。その彼の霊感が捉えた気配。それは何時の間にか彼の背後に現れていた、蒼白の顔色をした男だった。
貴族服のような、軍服のような、何処と無く血の香りのする服を着た男。
「ラシュト=ハウンゼン、何用か?」
それは彼が飼っている霊の一人だった。かつて百人殺しの狂気と恐れられたラシュト=ハウンゼン伯爵。
カール三世は《死兵剣―ジェノ》の力により、ミト=ヴァレンツェが《死の首飾り―ジェト》の力によってシュタイン=オールドリークを下僕と化さしめたのと同様に幾人かの死者に永遠に老いる事の無い肉体と邪悪な魂を与えて己の配下としていたのだ。ただし、《死の首飾り-ジェト》が下僕とできるのは死んですぐの死体だけなのに対し、《死兵剣-ジェノ》は数百年前の人物でもその霊を地獄から召還して下僕とする事ができるのだ。ラシュト=ハウンゼン自身、生きていたのは百年以上前だった。
「鼠の巣を発見いたしました」
暗い水の底から聞こえてくるような、思わず背筋に鳥肌が立つような声だったが、カール三世はまるで心地よい音楽でも聴いたかのように目を細めた。
「―――ならば、狩れ」
「一人残らず?」
「そうだ。一人残らずだ」
ラシュトの暗い瞳に愉悦の色が浮かぶ。
《死の首飾り―ジェト》は不完全ゆえに自我を消し去ってしまう。
しかし《死兵剣―ジェノ》は完全ゆえに自我を残したまま、操るのだ。
殺人鬼としての人格を持つラシュトは胸に片手を当て、恭しく頭を下げた。
「全ては我が帝の御意のままに」

2 エシュアの過去
―――これは夢だ。
目の前の映像を見て、子供の姿をしたエシュアは冷静にそう呟いた。
既に何度も夢に見た夢。周りを冷静に見回せるほどに、彼の心は落ち着いていた。
彼の落ち着きを別の言い方で言えば、《諦め》だろう。この夢から逃れる事は出来ないのだ。
過去に起き、現在の彼を苛み、未来の彼をも捉えて放さぬであろう、永劫に続く悪夢。
その夢の中で、エシュアは周囲の状況を客観的に観察する余裕を持っていた。
彼の目の前に、十歳程度の自分が居る。まだその眼光は今ほど鋭くは無くいたって普通の子供であった。
真面目過ぎると言われて照れ笑いを浮かべていた穏やかな父親と働き屋で常に微笑を絶やさぬ母親。スタルナス帝国との国境近くにある村での生活は貧乏ではあったが、決して不幸ではなかった。
いや、むしろ―――それは幸せだった。全てを失った今、思い返して見ればその頃の生活は満たされていた。だが、夢の中でエシュアが立ち尽す場所はすべてが炎に包まれていた。
炎。火炎。村の家を焼き尽くす、業火。幸せな生活を全て包み、消し去る焔。
目に映る色は赤、朱、緋、そして所々に散在される黒い影。炭化した村の人々。
ほんの数時間前まで笑っていた、村の人々。この時代には良くある光景だった。
貴族たちは己の気分次第で、領民を殺すのだ。理由など無い。
殺したいから、殺す。殺したい気分だったから、人が死ぬのを見ると己が優越感を感じられるから。
だから、村を焼くのだ。
何の罪も無い人々を殺し、彼らの生きていたと言う証をすべて、焼き尽くす。存在を消滅させる。
そして、彼らは笑うのだ。
その地獄を見て、その地獄で苦しむ人々を見て。まるで虫けらを見るかのような蔑みの眼差しで。
そして、彼らは満足するのだ。
その醜い自尊心を満たし、優越感を感じ、自分達が尊い存在であると再確認して。
エシュアは背後を振り向いた。そこには火の粉を天空に吹き上げながら崩れ落ちた、彼の家があった。
煤だらけの顔を歪めて、小さなエシュアは家の中に声をかけた。大人のエシュアは声を発する事も無く、終わりを知っている夢を見る苦痛に耐えていた。しかし、希望は終わる。この夢は必ず終わるのだ。
「父さん………?母さん………?」
記憶は確かだ。家に炎が回り、崩れそうになった瞬間、今までに見せた事も無い膂力で、父親が彼を外に放ったのだ。エシュアが最後に見た両親は微笑んでいた。
互いに何かを叫ぼうとしたが、果されなかった。家は崩壊し、両親は生き埋めにされたからだ。
エシュアは身を起こすと服の汚れを払うこともせず、呆然としていたのだった。
果たして両親は自分に、最後に何と言おうとしていたのだろうか?
果たして自分は両親に、最後に何と言おうとしていたのだろうか?
わからない。頭の中が空洞になったみたいに空虚で、何も考えられない。
その時、エシュアは人の気配を感じて、背後を振り向いた。
「なんじゃ、ガキか………」
豪華な、ゆったりとした服に身を包んだ小太りの中年男が自分を見下ろしていた。
貴族―――。口の中には金歯が光り、太く醜い指には大粒の宝石が輝いている。
皇帝の次に大きな権力を持つ、この国の支配階級。
「助けて。まだ家の中に父さんと母さんが居るんだ―――助けて」
「何故じゃ?」
「え………?」
貴族の言葉に、エシュアは訳がわからずに顔をあげた。
途端、その顔が蹴られた。無様に転がり、痛みに顔をしかめる。
「ど、どうして………?」
貴族の男は口元にはっきりと、侮蔑と嘲弄の笑みを浮かべていた。
「薄汚い下賎な犬を何故にわしが救わねばならぬ?………のう」
貴族の男の言葉に、彼らの周りに居た男達もが笑う。
貴族の男はまるで汚い物でも見るかのような眼差しで、エシュアを見下ろし、腕を振り上げた。
その腕には剣が握られていて………。
「ごみはごみらしく、死んでおれば良いのだ。生きていたところで、苦しむだけであろうが」
言葉と共に、剣が振り下ろされる。
キイィィンッ!!
「ひぃっ!?」
エシュアは思わず悲鳴をあげて、身を丸めた。
しかし、金属音だけで、何の音もしない。予想していた痛みも無い。
恐る恐る目を開けてみれば………。
始めに目に入ったのは剣の刃だった。先ほどの貴族が振り上げていた剣の、刃。
それが半ばから折れ、地面に突き刺さっていた。
視線をずらす内に、顔をゆがめている貴族が目に入った。
怒り、恐怖、不安………。
様々な感情の織り交ぜられた表情を………しかし、貴族はエシュアには向けていなかった。
エシュアの背後に立つ人物に向けていたのだ。
「な、何者だ、貴様は!?スタルナス帝国の者か!」
「………フロレシア帝国の者だ」
「ならば、何故わしに剣を向ける?わしはフロレシア帝国の貴族じゃぞ!それがわかっていて剣を振るったのか!?」
「フロレシアの………貴族?」
「ふんっ。どうやら知らなかったと見える。だがもはや遅い!わしに剣を向けたからには相応の罰は覚悟してもらわねばな!」
余裕を取り戻したのか、貴族の口元には笑みが戻っている。
この国に、貴族に逆らえる者など皇帝以外にはいないのだ。
しかし、その表情は再度強張る事になる。エシュアの背後に立つ、男の言葉によって。
「偉そうなこと言ってるからどんな偉いさんかと思えば………たかが田舎貴族のカスか」
「なっ………」
あまりにも侮蔑感たっぷりの男の言葉に、貴族の顔が真っ赤に染まる。
「ぶ、無礼であろう!………命だけは助けてやろうと思ったが、どうやらその命もいらぬようだ!者ども、この礼儀を知らぬ若造を叩き切れ!」
貴族の命を受け、彼らの周りに居たフロレシア兵達が一斉に男に切りかかる。
が。
「―――ふん」
一瞬だった。
背後の男の姿が掻き消え―――再び現れた時には十人近く居たフロレシア兵が皆殺しにされていて。
「ひいっ………!?」
腰を抜かして無様にへたりこむ、真っ青な顔をした貴族だけが残っている状態で。
「ば、化け物っ!?………おまえは一体………」
「人を化け物扱いするなよ、失礼な。………まあ、その質問には答えてやる。クライヴ。それが俺の名だ」
次の瞬間、貴族の首がごろり、と落ち………。
「っ………!」
あげかけた悲鳴を、エシュアは必死に飲み込んだ。
悲鳴をあげれば殺される。
助けられたはずなのに、エシュアはクライブと言う男に恐怖を抱いたのだ。
そんな彼を見下ろして、クライヴは困ったように緑色の瞳を細め、黄金の髪を掻き回した。
「この状況で悲鳴をあげないとは………おもしれぇ小僧だな。どうやら両親も死んでしまったらしいし、俺の所に来るか?………まあ、楽しい所ではねえけど。とりあえず飯と寝床はあるぞ」
その言葉にエシュアは男の顔を見上げ―――。
ついで、焼き尽くされ、灰の山と化した己の家を見つめ―――。
「―――連れてって」
男の顔をもう一度見上げ、はっきりと言った。
クライヴはにっこりと笑い、大きな手をエシュアの頭に置いた。
「立派だ。………安心しろ。俺が鍛えてやる―――」
「…………」
「おまえの家族の、おまえの友達の、おまえの隣人達の………仇を取るための力を、俺がおまえにくれてやるよ」
それがエシュアと前暁頭領、クライヴ、エシュアにとっては師となる男と、クライヴにとっては後継者となる少年との邂逅だった。

それからは地獄の日々が始まった。暁は諜報部隊だ。
自然とエシュアは諜報員として一人前になるための訓練を受ける事となる。
しかしそれは生半可な訓練ではなかった。
誰にも気付かれずに敵の屋敷に潜入し、調査する能力。
誰にも気付かれずに敵の屋敷から脱出する能力。
敵に気付かれた場合に追っ手を撒く技術。
撒けなかった場合に、敵を倒す戦闘能力。
冷静に物事を分析する頭脳と果断な決断力、それを実行するための強靭な肉体。
ありとあらゆる武器を扱うだけの技能。
毎日二十時間以上の猛訓練に、エシュアは歯を食いしばって耐えた。
瞬く間に十数年の月日が流れた。
クライヴも、他の諜報員達も厳しかった。
エシュアは本気で、彼らを鬼だと思った事もある。
しかし、クライヴによって、彼は自分と同じ境遇―――貴族に両親を殺された者―――が多い事を教えられた。
そして、今この国がどれほど腐っているのか、ということを。
貴族院の貴族達は己の利権を守る事に汲々とし、臣民院の議員達はすべての法案を貴族院に却下され、やる気を喪失している。
そして皇帝スレイマン三世は皇后を失ってより、暴君と化し、戦争や外遊を繰り返す。
帝都ルーガの人々の表情は暗く、笑い声もあまり聞かないような状況だった。
皇帝直属とはいえ、部隊長が平民出で元孤児のクライヴ、その部下もクライヴが何処からとも無く拾ってきた者たちとあって、貴族達は暁を軽視していた。
回される仕事はまるで諜報員を道具としか見ていないような酷い物ばかり。
傷だらけで帰ってきて、クライヴは誰それが死んだと暗い表情で話す。 「どうしてそんなになってまで戦うんだ?………クライヴは強いのに、皆強いのに、どうして貴族の命令なんかに従って死ななくちゃならないんだ?」
エシュアがたまらずに聞くとクライヴはいつも通りに困ったように緑色の瞳を細め、自分の黄金の髪をかき混ぜながら、エシュアの白髪に手を置くのだ。
「これは俺の先代から聞いた言葉だ。そしてその先代は先々代から、先々代は先々先代から………俺達暁が連綿と伝える言葉だ。心して聞けよ。『我々は待つ。この国に名君と言う名の光が射すのを。我々はその者の眼となり、耳となり、少しでも早く、この国を誰もが笑って過ごせる国にするのだ。そのために、耐えろ。どんな理不尽な命令にも、表情を変えることなく、忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐える。………そして、我らは待つ。この国に訪れる暁の空を』………この言葉、胸に刻みつけておけよ」
「暁の………空を………待つ」
「そうだ」
にっこりと、クライヴは笑った。
「だったら―――クライヴが王になれば良いじゃないか」
エシュアの言葉に、クライヴはきょとんとし、ついで爆笑した。
「あははっは!………冗談はよせやい。俺なんか王の器じゃねえよ」
「だって、クライヴは強いじゃないか!」
「良いか?エシュア。王ってのは強いだけじゃ、なれねぇんだ」
「クライヴは頭だって良いだろ?」
「頭が良くても駄目なんだよ」
「―――じゃあ、何が必要なんだ?」
「魅力、かな。家臣とかの母性本能をくすぐる様な、そんな感じ」
「なるほど………。野獣みたいなクライヴじゃそれは無理だ」
「言ったな、この野郎!」
朗らかに笑いながら、クライヴがエシュアを小突き………エシュアも笑った。
暗い帝都の中にあって、クライヴの周りだけは笑顔が満ちていたのだ。

その次の任務でエシュアははじめてクライヴと共に任務に赴き………そして、クライヴは帰らぬ人となり………エシュアは新たな暁の頭領となった。

「暁の空を待つ………か」
明かりも無い、レイアードも休んで一人の暗い部屋の中。
椅子に座り、手を組んで顎を支え、エシュアは小さく呟いた。
「暁の空を照らす太陽になりえるだろうか………?」
鋭い眼光をより鋭くして………。
まるで虚空を睨みつけるかのように、視線を鋭くして、エシュアはそう口にした。
彼が思い浮かべているのは五ヶ月程前に皇帝となったばかりの少年の姿。 太陽の光もかくやとばかりに光り輝く黄金の髪。
相手の心の奥底までも見透かすかのように深く澄んでいる蒼い瞳。
端麗な容姿に絶えず浮かべている微笑。
膂力はほぼ皆無と言ってよく、体力も左程無い。
鍛えられていないその体躯は貧弱とすら言える。
(母性本能をくすぐるような、魅力………)
それならば、あの皇帝には有り余るほどにあるのではないだろうか?
「王の器………か」
皇帝ラインハルト=シーザーは果たして、王の器たりうるのか?
曙光となって、このフロレシアを、ひいてはラスカーナ大陸を照らし出す暁の光となる事が出来るのだろうか?
(王の眼となり、耳となり、少しでも早く、この国を誰もが笑って過ごせる国にする………その為に俺達は居る)
エシュアはゆっくりと立ち上がると、扉を開けて、外に出た。
ひんやりとした空気を頬に感じ、やや目を細める。黒のローブは着ていない。
平民が普段着ている平服に、手には手甲を嵌めている。
「―――第六感とは何も特別な物ではない。訓練である程度は鍛える事の出来る物だ」
誰もいない路地裏に、エシュアの淡々とした声が吸い込まれていく。
エシュアの視線がすーっと右に動いた。
そして、鋭く細まる。
「これはこれは………まさか出迎えを受けるとは」
暗い水底から響いてくるような声だった。
そこには貴族服のような、軍服のような、何処と無く血の香りのする服を着た男が立っていた。
蒼白な顔の中、愉悦の形に歪む唇だけが真紅。
まるで血を舐めたかのような紅い唇。
両手には一本ずつ、二本の小太刀を持っている。
拳を軽く胸の前で構えるポーズを取りつつ、エシュアは無表情に問う。
「既に死しているようだが………名を聞いておこう」
その質問に、男は胸に手を当て、わざとらしく一礼してみせる。
「ラシュト=ハウンゼン伯爵。………それが我が名」 「ふむ。百人殺しの狂気と遣り合えるとは光栄だな」

3 ラシュト=ハウンゼン
「ラシュト=ハウンゼン伯爵とやら………念の為に聞いておくが、用向きは何だ?」
エシュアは薄茶色の瞳を細め、鋭く睨み据える。
会話は時間を稼ぐ上でもっとも有効な戦術だ。
家の中にはレイアードとジュナも居る。
このラシュト=ハウンゼンとか言う男が百人殺しの狂気と呼ばれ、恐れられていたにせよ、どれほどの力を持っているのかわからない。何しろこの男が現役の殺人鬼だったのは百年以上も前の事なのだ。だが、レイアードもジュナもエシュアが戦場で拾い、育て上げた者達だ。その実力は彼がもっとも把握している。そして、今回のルーナ帝国潜入に際し、二人を同行したのだ。
エシュアのその意図を見破ったのかどうかはわからないが、ラシュトは聞かれた事にはすべて答えるつもりのようであった。
「我が主の命により、貴方方三名には死んで頂きます」
(貴方方三名、か………)
「どうやら既に我々の正体は見破られているようだな」
「さあ。それは私の預かり知らぬ事。我が役目は帝都ディアナにおいて不穏な動きを示す者を発見、主に報告し、主の命あらばこれを抹殺する事のみ」
「ふむ………。参考までに聞きたいが、おまえが見つけた者はどんな奴だった?」
「金色の髪に垂れ下がった目尻が特徴的な若者………我が主に反抗的な近衛騎士の夫人の寝所で夫人に嬌声を上げさせていた男」
「やっぱりあの馬鹿か」
軽く苦笑のような物を浮かべ―――腰を落とす。
時間が経てばあの二人が気付くかとも思ったが、どうやら駄目らしい。
(だったら、少々大きな音を出す必要があるか………)
「百人殺しの力、試させて貰おう」
(俺の力だけで倒せるなら、問題ない)
「ふふ。では始めさせて頂きましょう。今宵はちょうど美しい満月。血塗られた協奏曲を奏でるにはもっとも相応しい夜でしょう………さあ、貴方の血で今宵の月を飾りましょう」
血のように赤い唇をニィッと吊り上げて、ラシュトが顔の前で二本の小太刀を交差させる。
「…………」
時間を稼ぐために被っていた饒舌と言う名の仮面を剥ぎ、エシュアは地面を蹴った。
基本的に彼はあらゆる武器を使いこなせるよう訓練されているし、得意技は変装だ。
しかし、彼が最も得意とする武器は剣でも槍でもなく、拳だった。
半円形の刃を取り付けた手甲で、相手を斬る。相手を殴る。相手を叩く。
それが、彼がもっとも得意とする戦闘スタイルだった。
エシュアの足が地面を蹴る。
だんっと重い音が響き、石畳にひびが入るほどの、強烈な踏み込みだ。
一瞬にしてラシュトの懐に飛び込み、手甲を一閃。
相手の胸を横に薙ぐ。
致命傷。
「………っ!」
しかし、後退したのはエシュアの方だった。
その両腕が浅く斬られている。
だらりと両腕を垂れ下げて、エシュアは鋭すぎる眼差しを相手に向けた。
明らかに致命傷と思われる傷を受け、しかしラシュトは笑っていた。
それに、ラシュトの胸の傷からは一滴も血が垂れていない。
エシュアの血の付いた小太刀の刃を真っ赤な舌で舐め上げ、恍惚と目を細める。
「ふふっ。御存知ではなかったのですか?………私の体は朽ちる事を知らない亡者の物」
「…………」
(なるほど。傷つけても死なないと言う事か)
部下の報告にあったミト=ヴァレンツェの死兵と同じと言う事だ。
幸いなのかわざとなのかはわからないが、両腕の傷は浅い。
構え直し、エシュアは再びラシュトの懐へと飛び込んだ。
ラシュトが小太刀を振るって迎撃しようとするが、滑らかな動きで刃と刃の間を擦り抜け、相手の懐へ。
そして、乱撃。
ストレート、ジャブ、フック、手刀に掌底。
一撃一撃がそれぞれ致命傷になりえるほどの攻撃をラシュトの体前面に満遍なく叩き込む。
そして、再びラシュトの間合いを離脱。
ラシュトの顔には笑み。
「無駄ですよ。どれほど攻撃しようとも………私は死にません」
「問題ないな」
「………なんですって?」
即答するエシュアに、ラシュトが怪訝そうに聞き返す。
「殺す必要がないからだ」
「何を訳のわからない事を………。戦意を喪失したんですか?ならば、今楽にしてあげましょう。私は貴方を殺し、貴方のお仲間をも殺さねばなりませんので」
「殺れるものならな」
エシュアの瞳は冷静で、その口は事実しか口にしていない。
それがわかるゆえに、ラシュトは困惑する。
エシュアのこの自信は一体何処から来るのか、と―――。
だがその答えは間もなく彼の気付くところとなった。
エシュアに小太刀を見舞おうと足を一歩前に踏み出す―――いや、踏み出そうとして、ラシュトは愕然と表情を変えた。
「これは一体………」
まるで体が動かなかった。
訳がわからないという風に顔をしかめるラシュトに、声は別の方から降ってきた。
「痛覚が無いからわからないのね」
「関節を潰されたらな、生きてるとか死んでるとか関係なしに動けないもんなのよ」
いつの間に背後に回りこんだのか、そこには肩で切り揃えられた黒髪と猫科の動物を思わせる大きな瞳としなやかな肢体を持つジュナと金髪垂れ眼、耳のイヤリングとだらけた表情が特徴的なレイアードが立っていた。
「な、関節………だと!?」
慌てて自分の関節を確認するラシュト。
しかし、首以外の関節はすべてが潰されていて、指一本たりとも動かす事が出来ない。
「死者でも体を動かす構造は同じらしいな。駆動部が動かねば、動きようがあるまい」
「ぬぅ………。先程の乱撃は一見狙いも何も無い粗い攻撃に見えたが、実は巧妙に関節を潰す攻撃を織り交ぜていたと言うわけですか………」
「痛みを感じぬ体が仇となったな………。百人殺しと言っても、所詮殺していたのは無力な女子供。これ以上は時間の無駄だ。行くぞ、レイアード、ジュナ」
「え~、今からぁ?」
「馬鹿!誰のせいでここを嗅ぎ付けられたと思ってるのよ!」
「うぃ~」
「返事は、はい!、でしょ!」
「はい!」
「瞳を輝かさなくて宜しい!」
「うぃ~」
「(ブチッ)←血管の切れる音」
ドガッバキャッグザッドムッグチョッドコッ
「―――その辺にしておけ」
表情に乏しいなりに呆れ顔で、エシュアが告げる。
「はい!」
ジュナが元気良く敬礼し―――
「ふぁ、ふぁい………」
心なしかぼろぼろになったレイアードが何とか片手を挙げる。
そして三人は、全身の関節を潰されて動けなくなっているラシュトを放って、さっさと歩み去っていくのだった。
一人残されて。
ラシュトは唯一自由に動く首を傾けて、困ったと言う風に眉間に皺を寄せる。
「んー………困りましたね、これは」
痛覚が無いためか、それとも百人切りするような奴はやっぱりどこか神経が切れてるのか………ちっとも困っていない表情で、ラシュトは呻くのだった。

「それで?これからどうするんで?」
暫らく無言で裏路地を歩いていたが、その沈黙に耐えられないかのようにレイアードが口を開く。
「あんたは、すぐに―――」
ジュナが注意しようとするが、エシュアが片手を挙げてジュナを制した。
「本当は明日の夜にする予定だったが、こうなったからには予定を早めるより他に手は無い」
「うあ。………ってことは?」
レイアードが真底嫌そうに顔を顰める。
ジュナも難しい表情をしている。
こちらは普段から鋭い顔つきのエシュアは、やはりその表情を変えずに頷く。
「ルーナ帝国の宮城に潜入する」

「問題は、どうやって潜入するかだ」
宮城から一ブロック離れた路地に身を潜めつつ、エシュアは問うた。
宮城を取り囲むのは城壁と堀だ。
城壁の高さはエシュアの身長の倍ほど。
堀は水を湛えており、幅はエシュアの身長の三倍ほどだ。
だが、諜報員としての訓練を積んでいる彼らにとってその程度の障害は障害とも呼べない。
問題は堀の中に潜んでいるのだ。
それが水死体の存在である。
―――いや、それがただの死体だったのなら何の問題も無い。
厄介なのはその水死体が動くと言う事だ。しかも襲ってくるだろうと言うことだ。
つまりは彼らは衛兵なのだ。
水上の城門こそ生身の人間の衛兵が守っているが、水中には何十人もの死兵が潜んでいて、侵入者に密かに近づいて攻撃してくると言う仕組みになっているのだ。
いくらエシュア達が鍛え上げられているとはいえ、水中では思うように動けない。
エシュアは問いを発したが、実を言えば結論は彼の頭の中で既に出ている。
しかし彼は弟子を試す気になったのだ。
もし自分の身に何かあれば、暁の次の頭領になるのはこの二人のうちのどちらかである可能性が高い。
エシュアは死ぬ前に素質ある者を後継者と定め、あの言葉を伝えねばならないのだ。
彼がクライヴに教えられ、そのクライヴが彼の師に教えられたように。
くしゃっと黄金の髪を掻き混ぜつつ、レイアードは欠伸をかみ殺した。
「あんな汚い水に潜るのは嫌だな」
ジュナは呆れたとでも言う風にレイアードを一瞥してから、
「水中では動きを制限されますから、城門を守っている衛兵を倒して潜入するのがもっとも容易かと思いますが」
(レイアードのは………微妙だが、ジュナのは合格、か?)
「妥当だろう。気配を消して近づき、昏倒させる。姿を見られるな。昏倒させるだけだ。良いな?」
「めんどくさいなぁ………了解」
「了解。レイアード、余計な事は言わなくて良いの」
「うぃ~」
「よし。いくぞ」

三人は城門の衛兵達に音も無く接近し、一気に昏倒させた。
彼らは痛みを感じる時間も無く、崩れ落ちるようにその場に倒れた。
おそらく起きても、何時の間にか寝てしまった程度にしか認識できないであろう。
そして、城門を乗り越えて、三人は城内の暗がりへと姿を素早く消した。

城内の一室。無気味に響く三つの声があった。
「―――虫が三匹、入った」
「ラシュトはしくじったか」
「だが、我ら………ディアナ四天王の手からは逃れられんぞ」
『ふっふっふっ………』
三つの声は複雑に反響しつつ、だんだんと遠退き………そして消えた。

城内に入った三人は散開して、城内を探索する事にした。
情報収集に成功してもしなくても、二時間後に帝都の外で落ち合い、ルーナ帝国を脱出する事とした。
既に存在を発見されてしまった以上、長居は無用だ。とりあえずはフロレシア帝国へと戻り、改めて別の諜報員を送り込む必要がある。ただ、全くの手ぶらで帰るというのも芸が無い。それに暁の頭領として全諜報員を統括しなければならない立場のエシュアがそういつまでも帝都を空けておく訳にもいかない。エシュアは誰もいない通路を音も無く駆け抜けた。
ここは既に皇帝専用区画であり、衛兵の姿も見えない。
だが何処に死兵が潜んでいるかわからないので、慎重にも慎重を期しつつ進む。
やがて。
彼は音も無く皇帝執務室へと忍び込む事に成功した。ルーナ帝国皇帝カール三世の姿は無い。
時間が時間なのだからおそらくは寝所で休んでいるのだろう。
細心の注意を払いつつ、エシュアは執務机を漁り、重要と思える書類を懐に次々に仕舞い込む。
内容は確かめない。何か目的の書類がある訳でも無いからだ。
あらかた室内を探し終え、出ようと扉に向き直った時。
「―――仕事は終わったか?」
掛けられた言葉に、エシュアは少しだけ身を強張らせた。
そこには筋骨隆々、口ひげも立派な男が立っていたのだ。
ただしこちらも生命感は無く、どうやらラシュト同様の死兵らしい。
「泥棒鼠め。このディアナ四天王の一人、ダスティ=アッテンボローがそのそっ首へし折ってくれるわ」
エシュアは冷静に手甲を嵌め………。
「お前は何年前に死んだんだ?」
問う。ダスティとやらは豪快にこれを笑い飛ばして、
「忘れたわ!」
「…………」
両者はほぼ同時に前進し、交差した。
「―――むう」
唸ったのは、ダスティとか言う筋骨逞しい口ひげ男の方だった。
「何たる事………体が動かん」
彼もまたラシュト同様、全身のありとあらゆる関節を砕かれ、動けなくなってしまったのだ。
エシュアはそんな四天王の一人を無感動な瞳で一瞥し、駆け出した。
やはり、無言。しかし彼の脳裏には先程のダスティの名乗りが気になっていた。
―――ディアナ四天王の一人。
その一人がラシュトで、もう一人が今のダスティだとして、まだ二人居るのだ。
(大丈夫か?………あいつら)

4 ディアナ四天王
「うーん………道に迷ったかな?」
宰相の執務室に忍び込んだまでは良かったのだが………。
めぼしい書類などを盗んで執務室を出て、いざ脱出をと言う段になって運悪く巡回中の衛兵に発見されてしまったのだ。
大声を出される前に気絶させてその場を全力で離脱したのだが………。
気付けば迷路のように複雑に入り組んだ城内で迷子になっていたと言うわけだ。
いまいち緊張感の感じられない垂れ目をやる気なさそうに細め、イヤリングを軽く弄る。
レイアードは緩んだ眼差しで前方の闇を見つめ………。
背後を振り向く。
「うあ………」
そこに立っていた者を見つめ、レイアードは思わず嫌そうなうめき声をあげた。
そこには子供が立っていた。病的なまでに白い肌と目の下の隈が特徴的な、子供。
おかっぱ頭の女の子だった。年は四歳くらいに見えるがそれは栄養失調気味に痩せ細っているからそう見えるのであって実際にはもう少し上なのかもしれない。もっともその年齢がどれほど彼女を理解する上で役立つ事か。外見の年齢は飽くまでも少女の生前の年齢しか表していないのだから。
「ふふふ………お兄ちゃん、遊ぼうよ」
「いや、女に誘われるのは嬉しいんだが、俺、童女趣味は無いんだ。専ら人妻専門なもんで」
水底に沈殿したへどろのようなどろりと濁った瞳でレイアードの事を見つめ、童女がニイッと笑う。
それを見てレイアードはさらに顔をしかめる。
「えと………君、名前は?」
「私はディアナ四天王の一人、サダコ」
「サダコちゃんか………俺は今とっても忙しいんだ。だから遊ぶのはまた―――」 レイアードがそこまで言った途端、いきなり頭を抱えて、サダコが悶える。
「ううっ!?頭が痛い!?………ふふふ、貴方の命をもらうぞ」
「へ?って………口調がいきなり変わったぞ?」
レイアードの驚愕の声はあっさりと無視され………
すーっとサダコがレイアードに接近してくる。
そして、そのまま、レイアードの股間めがけてその小さな拳を繰り出してくる。
「って………うわっ!?」
身の危険を感じて身をかわすレイアード。
するといつの間にやらサダコの手には注射器が握られていて、その中にはなにやら正体を知りたくないような濃い紫色の液体が入っていて………。
サダコが注射針の先からピュッと少しだけその液体を出す。
その雫が床の絨毯の上に落ちる。
ヒュゴワァァァァッ!!
物凄い音と共に絨毯が消滅し、それどころか大理石と思しき硬質の床までがかなりの広範囲にわたって溶かされていて。たった一滴でそれだけの威力があるのだ。
レイアードの表情はもう真っ青。
「なんちゅう代物だ………つうか、んなもんを俺のあそこに打とうとしてたのか!?」
「ふふふふふふふふふふふふふふふ」
サダコが一歩前に踏み出し、
「いや、その笑い目茶目茶怖いんだけど」
レイアードが一歩後退する。
「ふひふひふひふひふひふひふひふひ」
さらにサダコが一歩前進し、
「あう………」
やはりレイアードは一歩後退する。
怖い笑みを浮かべながら、うっとりとした目つきで近づいてくるサダコ。
注射針を大事そうに胸に抱えて、その姿はまるで恋に恋する乙女。
とはいえ、生命の危機に瀕しているレイアードにとって、そのようなサダコの憧れに付き合っている余裕など無かった。
「ふへふへふへふへふへふへ」
もはや何処かイッちゃってる目で突進してくるサダコ。
「くっ………」
突進してくるサダコに対し、レイアードは後退するのではなく、跳躍した。
突き出されてくるサダコの注射針を掻い潜り、その懐へ飛び込む。
かするだけでもかなり致命的だと思える注射針に敢えて飛び込んでいくなど己の身のこなしにそれなりの自信が無ければ恐ろしくてできはしないだろう。しかし、レイアードはそれをやってのけた。
レイアードの脳裏には先程見た彼の師エシュアとラシュト=ハウンゼン伯爵との戦いが再生されている。
死兵であるラシュトには痛覚という物がない。
だからエシュアはラシュトのすべての関節を潰し、砕き、彼を動けなくしてしまったのだ。
(師匠に教えられた俺の拳術を見せてやる………!)
誰に?………という突っ込みはおいといて。
いつもはだらけている眼差しを大きく見開いて、レイアードはサダコの肩の関節に拳を捻じ込んだ。
骨が粉砕される嫌な音が鼓膜を振るわせる。
だが、肩を潰されてもサダコの口から零れる笑みは絶えない。
笑いながら、サダコは動く片手で注射針をレイアードの背に突き立てようとする。
「ちっ―――」
レイアードはサダコの頭を掴み、それを支点に前転した。
サダコの頭が床に叩きつけられ、サダコの手を離れた注射が壁にぶつかり、割れる。
ザシュウウウウウゥゥゥゥッ!!
これまた物凄い音と共に壁が溶解し、壁によって隔てられていた向こう側の部屋が露になる。
その威力に顔をしかめつつ、レイアードはサダコに馬乗りに乗り、彼女の関節を一つ一つ砕いていった。
すべてを砕き終え、彼は一息ついて立ち上がった。
そのときには既にいつも通りの、だらけた瞳に戻っている。
「―――ふう。………だりいな」
「う、動けない………もう少しだったのに」
悔しげに顔をゆがめるサダコ。
「………」
レイアードは黄金の髪を面倒げに掻き、結局何も言わずにそのまま歩み去ってしまった。
城の屋根の上を声も無く疾走する者が居た。
足を一歩前へ送り出し、力強く、しかし繊細に屋根の瓦を踏むたび、彼女の肩で切り揃えられた黒髪が揺れる。背を丸めて疾走するその姿は猫科の動物の柔軟な肢体を髣髴とさせる。
彼女の懐には城内の見取り図が納められている。この二時間と言う与えられた限りある時間で、彼女は城内のおおまかな見取り図を描いたのだ。今後、別の諜報員が潜入するときに大いに重宝する事だろう。
そのために彼女が昏倒させた衛兵の数は二桁にもなる。
「………ッ!?」
突然、表情を変え、ジュナは横っ飛びにその場から離れた。
次の瞬間、今まで彼女の立っていた場所に無数の………フォークが突き刺さる。
空中で柔らかく姿勢を制御し、着地した時にも全くの無音。
ジュナはその大きな瞳をすーっと細めて、自分を襲って来た相手を見据えた。
大きな満月を背景にして、立つ、小太りの影。
「我こそはディアナ四天王一の炎の料理人、オリッサ=アダプール!!明日の朝食のメインディッシュになってもらうぞ!」
「馬鹿はお断りよ!」
ジュナは吐き捨て、腰に下げている皮袋から取り出した物をオリッサとやらに向けて投げつけた。
カァンッ!
「んな………」
思わずジュナが驚きの声をあげる。彼女が投げたのは苦無と呼ばれる武器であり、彼女はその投擲には大きな自信を持っていた。彼女の投げる苦無は高速で飛び、相手を貫く。
しかし、オリッサとか言う料理人は背に背負っていた中華鍋でいともたやすく二本の苦無を弾いて見せたのだ。 「ふっわっはっはっは!!このような物、この炎の料理人オリッサ様には通用せんぞ!」
高笑いをあげるオリッサ。
ジュナはかすかに表情を強張らせて、そんなオリッサを睨みつける。
やたらと元気が良いが、死んでいるのだろう。
ならば痛覚は無いわけで、倒すには彼女の師であるエシュアがやったように関節すべてを潰して動けなくするのが最有力の方法だろう。
しかし、女性であり、しかも体が小柄なジュナにとって自分よりも遥かに体格で勝るオリッサの関節を潰すのは無理とは言わないまでも、かなり難しいのだった。
全体重を預けた一撃ならばあるいは………という程度の可能性だ。
だが、彼女が明らかにオリッサよりも勝っている能力が一つだけある。
そして、彼女だけが持つ特殊能力。
(そうよ………何も関節を潰さなくても、動けなくする方法はあるわ………)
苦無を二本、両手に握り締め、ジュナは駆け出した。
傾斜の鋭い屋根の上を音も無く疾走し、オリッサの元へ。
オリッサはそんなジュナに対し、ぶっとい首切り包丁を振り下ろす。
かなり早い剣撃。そして力強さ。もし命中すればジュナの細い首など一発で吹き飛ぶだろう。
しかし、まるで次の攻撃が何処に来るのかわかっているかのように、ジュナは身をかわす。
その表情には余裕さえ感じられる。彼女には未来が見えているのだろうか?その通りである。
彼女の特殊能力―――相手の次の動きを読む『先読み』の能力のおかげである。
ゆえに彼女はひらりひらりと蝶が舞うかのようにオリッサの攻撃を回避していく。
次第にオリッサの顔に焦りと苛立ちが浮かんできて………。
「ええいっちょこまかとぅっ!!素材は確かに鮮度が大切だが、活きが良すぎるぞ!!今三枚におろしてやるからおとなしくしろ!」
理不尽としか言いようの無い怒声を張り上げながら、首切り包丁を大きく振りかぶる。
だがその一瞬前に、既にオリッサのその行動を先読みしていたジュナが彼の腕の腱を切る。
振り上げて、首切り包丁の重量が圧し掛かっている負荷状態で切られたため、腱は大きく裂け、オリッサの右腕は全く使い物にならなくなってしまった。腕から力が抜け、首切り包丁が落ちる。
「ぐぬうっ!?」
怒りに顔をゆがめ、オリッサが無茶苦茶に片腕を振るう。
しかし、すべての行動を先読みされているため、ジュナには全く命中しない。
「おのれ………おのれっ………おんのれぇっ!!」
本当に炎を吹くのではと思わせるほどに顔を高潮させて頑張るが、ジュナは最小の動きでそれらすべてをかわし、逆に疲労によって動きの鈍ってきたオリッサの腱を次々に切り裂いていく。
徐々に体の自由を奪われつつ、それでも炎の料理人の誇りに賭けて必死に戦うオリッサ。
その努力は涙ぐましい物があったが、実力の差は歴然たるものがあった。
「ぜえはあぜえはあ」
死んでるくせに大きく肩で息をしながら、オリッサは恨めしげに余裕の体で自分を見下ろすジュナを睨みつけた。
「…………」
ジュナは無言。しかし、その頬は上気し、大量の汗を掻いている。
彼女も決して楽な勝ち方をした訳ではないのだ。だが、勝敗は決している。
オリッサはもはや指一本たりとも満足に動かす事も出来ぬほどに腱を切られてしまっているのだ。
「貴方の闘志には敬意を表するわ」
荒い息を整えて、ジュナは言った。
「どのような戦いにおいても己の尊厳を賭け、全力を出し切って戦う。さすれば例え敗れたとしても悔いだけは残らない………これぞまさに男の中の男、炎の料理人オリッサ=アダプールのやり方だ。………このわしを倒した勇ましき少女よ。さあ行け。まもなく夜が明ける」
その言葉どおり、悔いは無いのだろう。清々しい表情で言うオリッサ。ジュナは頷き、駆け去った。
敵ながら、死力を尽くして戦った二人の心には一抹の別れを惜しむ感情が芽生えていた。

東の空が明るくなっている。間もなく朝日が昇り、曙光がこの地を照らすだろう。
帝都ディアナから数キロメートル離れた街道脇に転がっていた巨岩に腰を下ろし、エシュアは東を見つめていた。清々しい朝の風に、珍しい白髪が揺れる。彼は薄茶色の瞳を細めて、一心に東を見据えていた。と、会話が聞こえてくる。
「俺なんか変な注射振りかざすガキに襲われて大変だったんだぞ」
「私だって炎の料理人に出会ったわよ」
「は?炎の料理人?なんだそりゃ?」
「少なくともあんたよりは尊敬できる相手だったわよ」
「なっ………んなこと言ったらあのガキだっておまえよりは女っぽかったぞ」
「あぁら、そう。だったら今からでも引き返してその子に注射打ってもらえば?」
「おまえこそ戻って料理されてきたらどうだ?酢豚とか北京ダックとか」
「私が豚やアヒルだって言いたい訳?」
「違うのか?………あ、ハクビシンか」
「こんのっ………!」
「うわっ!?暴力反対!?」
「お前達………少しは静かに道を歩く事が出来ないのか?」
背後の会話が近づいてきた所で、エシュアは振り向いた。
そこに憮然と立つ二人の部下を見つけ、エシュアの眼差しが少しだけ緩む。
それは部下二人にもわからないようなかすかな違いだった。
もしその変化に気付く者が居るとすれば、それは今は亡き彼の師クライヴだけかもしれない。
エシュアは視線をはずし、東を見た。太陽が顔を覗かせていた。朝日の眩しさに目を細める。
「この世を照らす………曙光、か」
「なんですか?」
ジュナが聞いてくる。エシュアは再び部下二人を視界に入れ、立ち上がった。
「いや、なんでもない。………帰るぞ」
「ああ、懐かしのルーガ!………もうすぐこのレイアード様が戻るからね!待っててくれよ、麗しの人妻達よ!」
「だから、馬鹿はお断りよ」
「別にお前に言ったわけじゃねえだろ」
「あんたの存在自体が既に目障り」
「んだとっ!?」
「何よ、私とやるつもり?私に指一本触れられないくせに」
「糞。先読みなんて卑怯な能力持っていやがって………」
「………。静かに歩けないのか、お前らは」
言い争いに夢中になっている二人を呆れた眼差しで見やり、エシュアは嘆息を吐き出した。

「―――奪われた物は大した価値も無いばかりだ。だが」
カール三世は目の前に控える四人の死兵を見て、顔をしかめた。
どういう理屈かは知らないが、潰された関節も切られた腱もある程度の時間経過で回復するのだ。
『面目ありません』
項垂れるディアナ四天王の面々。カール三世は執務椅子に深々と腰を下ろして、言った。
「―――もう良い。次はこのような不手際を犯すな」
「ははっ。我らディアナ四天王の誇りに賭けて!」
ダスティが胸を張って大声を張り上げる。カール三世は不機嫌そうに顔をしかめて、
「そのような呼び名を許可した覚えは無いぞ」

QRコード
携帯用QRコード
アクセス数
ページビュー数