覇皇伝
第五章 満月戦争
第五章 満月戦争
1 崖の上の死闘
帝国暦三三二年八月十八日。
キツイとは聞いていたが、まさかこれほどとは。
皇帝衣や白鎧は脱いで軽鎧を纏っているだけだが、それでも初夏の陽光は容赦なく木々の隙間を縫って地表に届く。放射熱が緑の天蓋のように空を覆う葉によって空気中に逃れる事を妨害されるためか、山中は蒸し風呂のような暑さであった。
「はひ、はひ」
我ながら情けないとは思うものの、体力にそれほど自信がある訳でもなく、山道なので馬に乗る事も出来ず。
だらだらと汗を垂れ流しながら、それでも不平は言わずにラインハルトは山道を登り続けていた。
五千人の部隊を五つに分け、それぞれ一定の間隔をあけて山に分け入ってから既に四時間。
太陽はほぼ真上から地上を這う者達を照らし出す。
五つの部隊のうち、先頭を進む部隊の真ん中あたりにラインハルトは居た。
二個目の部隊にはレオンとレフが居る。
ラインハルトの右隣にはアルベルト=ウィーズリー師団長が、こちらは浮かび出る汗を盛んに絹と思われる上質の布で拭って歩いており、左隣にはこのような暑さの中でも平然としている黒髪の剣士にして皇帝の護衛役、ヴァン=ブレイスが歩いている。
現在彼らはこのハルフィア山を登る上でもっとも峻険な道を歩いていた。
全体的に見てもっとも容易なコースを選択したのだが、そのコースの中にもっとも困難な部位があったのである。
ほとんど直角に近いような崖を数人の身軽な兵が張り付くようにして登っていく。
その姿を崖の下から見上げて、ラインハルトはやや強張った顔をアルベルトに向けた。
「これで上に伏兵が居たら壊滅的な被害を受けるんじゃ?」
「それを避けるために他の四部隊は別ルートを進んでいるんです。何も待ち伏せに絶好なポイントはここだけじゃありませんよ」
自信満々に宣言するアルベルト。
崖の高さは50m程。落ちればまず助かりはしないだろう。
一番上まで上りきった兵が背中に結わえ付けていた縄梯子を外し、手近な木に縛り付けた。
彼らは崖登りの訓練を積んだ専門家で、軽鎧も着ず、腰に短剣を差しているだけだ。
彼らの仕事は崖を真っ先に上り、縄梯子を木に結び、後続の部隊のための道を開く尖兵となる事だ。
峻険な山岳地帯の多いルシタニア連合王国領内での戦闘を想定している彼らは日々崖登りの訓練に励んでおり、彼らの役目は非常に重大だった。そして彼らは見事にその任を果たした。
登りきった五人の兵から五つの縄梯子が下ろされる。
それを下で待っていた兵が地面に杭を打って、その杭に縄梯子を結わえ、しっかりと固定する。
とはいえ、固定される事も無い崖の中腹の縄梯子は風に揺れ、実に頼りなげだ。
「これを………登るの?」
「そうです」
怖気づいたような皇帝の言葉に、口元にからかいの笑みを浮かべて答えるアルベルト。
そして腕を一振り、
「登攀開始!」
彼の号令に従い、第三軍第五歩兵師団第一連隊に所属する兵たちが縄梯子に飛び移り、猿のような軽快な動きで登り始めた。
「―――時に陛下、賭け事は御嫌いですか?」
「賭け事?………いや、別に嫌いじゃないけど、あまりしないなぁ」
いきなりのアルベルトの質問に一瞬戸惑ったものの、とりあえず答える。
横目で彼の様子を窺うに、どうやらただの世間話らしい。
「では賭けをしましょう。伏兵が現れるか否か。私は無論、居ない方に賭けますが」
「そんなの不謹慎じゃないか?」
「………。これは失礼。それで、陛下はどちらに賭けます?」
「………。伏兵が居ない方」
「それでは賭けが成り立ちませんなぁ。それでは私は伏兵が居る方に賭けねばならなくなります」
「わかったよ、じゃあ余が伏兵が居る方に賭けるよ」
「成立ですな。私が勝ったら酒でも奢ってもらいますか」
「余が勝ったら………まあ、その時に考えるよ」
それはこのほんの少しの退屈な時間を潰すための世間話のはずだった。
数分後には忘れるような何でもない話題、その筈だった。
しかしそれが現実に起こってしまった。
兵達の内半分ほどが崖の上側に登り終えた頃の事だ。
いきなり崖の上で鬨の声と悲鳴があがった。
怒号が沸き起こり、激しい剣戟の音が崖下にまで伝わってくる。
「一体何があった!?」
慌てる中隊指揮官達。
その答えは崖の上から降ってきた。
横薙ぎの一撃で腹を裂かれたフロレシア帝国兵の遺骸。
「っ!」 顔色を蒼白にするラインハルト。
しかしアルベルトは冷静に顎に手をやり、
「むぅ………負けましたか」
「そんな不吉な!」
「不吉?………いえいえ、私が言ってるのは賭けの事ですよ」
「それはそれで不謹慎だよ!」
ラインハルトが突っ込んでいる間にも、崖の上の戦闘は激しくなるばかり。
第三軍の兵は軽装だから、開けた場所で重装備の敵を相手にするのは不利だ。
「縄梯子を切られでもしたら厄介ですね。登りましょうか?」
「登っている途中に切られたらどうするんだ?」
「落ちます」
「…………」
「まあ、何とか支えてくれるでしょう」
部下を信頼しているのか、ただアホなだけか………。
アルベルトは朗らかに笑うと縄梯子を登りはじめた。
彼に習って百人あまりが順に登り始める。
崖下には縄梯子を警護するように半円陣を敷いた四百人あまりの兵とラインハルトが残された。
「ええい、ままよ!」
このような崖を素手で登る苦労を考えれば、多少危険でも縄梯子を登った方が楽だろう。
無理やり自分を納得させて、ラインハルトも縄梯子を攀じ登り始めた。
幸い、空中落下を味わう事も無く、登りきる事ができた。しかし、崖の上は予想以上の乱戦になっていた。敵味方がばらばらになってぶつかり合い、もみくちゃになって戦っている。
軽妙な動きで一撃を放つフロレシア兵。
しかし、ドルク王国兵は重厚な甲冑に身を包んでおり、どちらかと言えば小柄な兵の多い第三軍兵の攻撃をその強固な甲冑で防ぎながら戦っているのだ。
長剣を使っている者は居なかったが、第三軍の兵同様持ち運びの便利な短剣や戦斧を装備している。
斧と斧がぶつかり合い、火花が散る。
汗と血が舞い、力尽きた者が倒れていく。
その戦場に一際大きな体躯を持つ者が居た。
剣を振り回しながら戦うその姿はさながら阿修羅の如し。
返り血に染まる白髪に、特徴的な紫の瞳。
ヴァルツ=リバーエンド。
「げえっ………ドルク王国獣機動部隊の司令官がどうしてこんな所に!?」
遅れて登ってきたラインハルトが驚愕して声をあげるのに、アルベルトが口辺に無邪気とすら言える笑みを浮かべて腰の剣を抜いた。
左手には盾が装備されている。
その盾は持つ物ではなく、盾の裏側に付いているリストバンドに手を通して装備するものだ。
「行くぞ、《風の盾―バリング》、風隼!」
『応』
アルベルトが盾を構えて、吼えると、盾の表面に嵌め込まれている緑色の宝玉が鈍く輝いた。
やや緑色を帯びた風がアルベルトの全身を包み込む。
「金毛の風使い!」
第三軍の兵達が口々に歓声と共にそう唱える。
おされ気味だった第三軍の兵が活気を取り戻していく。
自分に向かって来る緑の風を纏う金毛の青年の姿に、白髪の巨人が目を細める。
「うおおおおおっ!!」
獣のような咆哮を上げ、腰まである長い金髪を風に激しくたなびかせながら、真一文字に突っ込んでいくアルベルト。
しかし、彼の前に立ちはだかる男は見上げるような巨漢。
彼が扱うにしては小さすぎる剣の柄を握り締め、振り上げる。
「アルベルト!」
ラインハルトが叫ぶ。
まっすぐ突っ込んでいくなんて無茶だ! 叫んだ彼の姿を認めたドルク兵達が一瞬動きを止める。
が、次の瞬間、彼らは獲物を見つけた狼さながらの動きでフロレシア帝国皇帝たるラインハルトへと群がっていた。
すかさず皇帝を守ろうと第三軍の兵達が壁を作る。
が、血に飢えた狼どもはその壁を一瞬にして引き裂き、ラインハルトに肉薄する。
群がる敵兵に遮られ、ヴァルツ=リバーエンドとアルベルト=ウィーズリーの姿は見えない。
『―――抜け、そして振るえ』
脳裏に、低く、野蛮な男声が響く。《覇皇剣-サナトゥス》の声が。
蒼い瞳で敵をひたと見据え、ラインハルトは腰の《覇皇剣-サナトゥス》を引き抜いた。
脳裏にシオンの姿が浮かんだ。そして、その言葉も。
『強力な力を持っているがゆえに、それを使う者の心構え一つで世界を壊す魔剣にもなれば、大切な者達を守る聖剣にもなりえるってことだ。だから、ライン。この剣を殺人のために使うな。この剣の真の力は大切な者を守る時だけ、力を解放しろ。それ以外では一部の力を呼び覚ますのは良くても、完全に目覚めさせてはならない』
(完全に目覚めさせてはならない………)
「我、覇皇フェルモアの血を引く新たなる覇皇、ラインハルト。覇皇の名の元汝、サナトゥスに命ず。今一度、汝の力の一部を解き放つが故、我に歯向かう者を打ち滅ぼせ!諾か否や?」
『何故、全てを解き放たぬ!』
《覇皇剣-サナトゥス》の声に、苛立ちが混じる。その強烈な思念が、ラインハルトの脳を揺らす。
だが、ラインハルトは屈しなかった。柄を掴む手に力を込め、
「敵を倒さないのか、倒すのか、どっち!?」
『ええい、仕方の無い………諾!』
《覇皇剣-サナトゥス》の声が諦めたように応える。
次の瞬間、血のように鮮やかな真紅の輝きを持つ《覇皇剣-サナトゥス》の剣身がどくんと鼓動した。
柄の先端にある紅色の宝玉が禍々しいまでの輝きを放つ。
「伏せて!」
ラインハルトが吼え、第三軍の兵が慌てて従う。次の瞬間、赤い空気の壁が放射状に広がり、全てを薙ぎ払った。大地が抉れ、木々が裂け、葉が舞う。皇帝の柔らかな肉に自らの斧や短剣を振り下ろそうとしていたドルク兵達が一瞬にして吹き飛ぶ。地面や木に叩きつけられ、瞬く間に戦闘力を失う。
寸前に地に伏せた第三軍兵達とて完全には避け切れなかった。
すさまじい風圧に吹き飛ばされ、地面を何回も転がされる。
その風はアルベルトの背を押し、ヴァルツの目測以上の速度で彼は白髪の巨人の懐に飛び込ませた。
ヴァルツの剣は空を切り、アルベルトは剣を振るう事すら出来なかった。
アルベルトは崩れる体制を無理やり補正して、ヴァルツの厚い胸板に盾を押し当てた。
「風尖!」
「っぐはぁっ!」
盾から零距離で放たれた風の刃が、ヴァルツの胸板を抉る。
「っくっ!」
内蔵をやられたのか、口から血を吐きながら、ヴァルツがアルベルトの顔面を殴る。
鋼鉄の塊にぶつかったような衝撃で吹き飛ばされ、アルベルトは無様に地に倒れた。
ヴァルツは胸を抑えて血反吐を吐きながら、その場に片膝をついた。
戦場は意識無い者と意識ある負傷者に埋もれていた。苦痛に呻く声が満たす空間。
ヴァルツの地を向く視界に影が差し込んだ。
苦しげな息の下、顔を上向かせた先に居たのは抜き身の真紅の剣を下げた皇帝の姿。
「はあはあはあ………」
頬を上気させ、荒い息を吐きながら、血走った蒼い瞳で自分を見下ろす皇帝の姿に、ヴァルツは恐怖を感じた。死を恐れぬはずの自分が、何故………?自嘲の笑みすら浮かんでこない。
しかし、そこで予想外の事態が起こった。皇帝がその剣を鞘に収めたのだ。
「………?」
疑問符を浮かべて皇帝の顔を見上げるヴァルツの前で、皇帝の蒼い瞳に見る見る理性の色が戻っていく。
「帰ってください」
「………」
言われている事の意味がわからず、ヴァルツは馬鹿のように口をぽかんと開けてラインハルトを見上げた。巨大な体躯をしているが、顔は結構童顔だったりする。それはともかく。
「殺さないって事か?………捕虜にもしない、と?」
「あのルテティアの丘で、貴方は余をそうしなかった。同じ事をするだけだ」
「あれはまだ戦いが始まっていなかったからだ。今は戦争の真っ最中なんだぞ?」
「だとしても、あの時貴方は余を殺す事が出来た。捕虜にする事も出来た。なのにそれをしなかった。皇帝である余は受けた恩は返す責務がある。それが今。そして今がたまたま戦争中だったからと言って何が変わるわけでもない」
「へっ………全く、おかしな陛下だな………なあ、ヴァン=ブレイスとか言ったか?」
苦笑のようなものを浮かべ、皇帝の背後に黒髪の剣士に同意を求める。
その剣士は鋭い眼光をヴァルツの面上に向けたまま、答えようとはしなかったが。
傷の痛みはとうに引いていたのだろう。どうやら内臓へのダメージもそれほど深刻でもないようだ。
ヴァルツは身軽に立ち上がると、剣を鞘に収めた。それからあたりを見回し、顔をかすかにしかめる。
「全滅………か」
全員が倒れている。死んではいないのだが。ヴァルツがどんっと地面を踏みしだき、怒声を放つ。
「おらぁっ!てめぇら、いつまで寝てやがる!起きやがれ!」
あまりの大声に、思わず顔をしかめて耳を塞ぐラインハルト。
それでも頭の中でぐわんぐわん鳴り響く。
一人二人と気絶していたドルク兵達が身を起こし、同時にフロレシア兵も身を起こす。
「引き上げだ!怪我してる奴と死んだ奴を担げ!」
「こっちも負傷兵の手当てを!」
困惑の視線を見交わしながらも、それぞれの作業を行うドルクとフロレシアの兵達。 やがて作業を終えて、ヴァルツとドルク兵は山の中へと消えていった。
「追わなくて良かったんですか?」
ヴァルツに殴られて大きな痣の出来た頬を気にしつつアルベルトが問う。
ラインハルトは頷いて、進軍の再開を号した。それからアルベルトの方に顔を向けて、笑う。
「賭けは余の勝ちだね」
アルベルトも微かな苦笑を以って、これに頷いた。
2 ハルフィア城入城
ハルフィア城の城門前に到達した時にはラインハルトをはじめ、皆が泥まみれの濡れ鼠と化していた。
何故ならば途中で土砂降りが降り出してきたからだ。
山の天気は変わりやすいと言われるが、数時間前までは快晴だったのだから呆れる程の気分屋だ。
ともかく城門まで到達した彼らを待ち構えていたのは、別ルートを通って先に到着していたらしいレオン=ルシタニアとレフ=スタッカートだった。
既に彼らの到着で話しは通されていたらしく、ハルフィア城の鋼鉄製の門は開かれ、松明が焚かれ、女達が手拭を持って待っていた。
「兄上!よくぞご無事で!」
「うん、まあ、なんとかね」
手拭を受け取り頭を軽く拭きながら、ラインハルトは微笑んでみせた。
「それじゃ、アルベルト、後はよろしく」
「了解。例の奴考えといて下さい」
「うん」
無論、例の奴とは賭けの掛け金の事だ。
兵をアルベルトに任せて、ラインハルトはレオンに伴われて城主の間へと向う事にした。
現在は最前線に立たされているものの、元はといえばルシタニア王国領内深くにある城のため、ラインハルトは豪華な装飾を漠然と予想していたが、予想とは異なり、城内に華美な装飾など微塵も無く、いっそ無骨と評すべきだった。
「城主のパットン=カシュナート侯爵は元々武人で、城内の様子を見ればわかると思いますけど質実剛健を旨とする御仁です」
城主の間へと歩きながらレオンが説明する。
ラインハルトは頷きつつ、
「レオンの方は山道キツかった?」
「いえ………歩きやすかったですよ」
「そう」
(………。本当にあれが一番楽な道だったんだろうか?)
それはさておき。
城主の間に辿り着き、重い扉を武官が開くと、そこはどうやら玉座の脇にある扉らしい。
「どうぞ、兄上」
レオンが玉座を勧める。
「僕は大丈夫ですから。兄上は疲れてるでしょう?」
断ろうと口を開きかけた途端にそう言われ、苦笑のようなものを浮かべて会釈してから席に座った。
下座には無骨な甲冑を身に纏った、たくましい男が控えていた。
五十代前半ぐらいだろうが、髪も長く立派な髭も真っ黒だった。
「長髭候、パットン=カシュナート卿です」
レオンが紹介すると、その男は顔をあげて、黒い瞳でラインハルトを射抜いた。
「お初にお目にかかる。パットン=カシュナートと申す者」
「うん。余はラインハルト=シーザー、よろしく」
「はっ」
それにしても長髭候とはよく名づけたものだ。
まさにその通りと言うしかない。
パットンは貴族や王族に対する無意識の反抗心であろう、反骨の気概を瞳に宿して、問うた。
「遠路はるばるお越しいただき、真に恐縮至極」
「よく少数の兵で多数の敵を防いでくれた。卿の活躍は国中はおろかラスカーナに鳴り響こう」
レオンがフォローするも、パットンはラインハルトに視線を注ぐのみ。
「えっと………陛下はお疲れだから―――」
「いや、状況を説明してくれないかな?パットン卿」
ラインハルトはレオンの言葉を遮り、真摯な眼差しをパットンに注いだ。
その真剣な光に、パットンがやや驚いたように目を見開く。
ほぼ一日山中を歩き回り、雨に降られて泥まみれになり、体は疲労を蓄積してもうかなりしんどいだろう。
普通の皇族ならばとうの昔に音を上げているだろうし、もしここまで辿り着いたとしても休息や湯を求めるだろう。
それなのに、この皇帝はそれら一切を求めず、状況を説明しろと言う。
(なるほど………見た目どおりの軟弱者ではないと言う事か)
パットンはやや見直した。
それにそもそも、他国内の問題にこのように真剣に取り組む者が居るだろうか?
わざわざ皇帝自ら峻険な山を乗り越えて前線までやってくる必要はないのだ。
内政不干渉の原則に反していると彼はフロレシア帝国軍の援助を苦々しく思っていた。
援助と言う甘い果実の中身は実は利権と策略と陰謀で腐っていたなどと言う話しはよく聞く話しだからだ。
しかし、今目の前に居る少年は違うのだとパットンは本能的に悟った。
この、疲労で意識が朦朧としているような少年皇帝には利権も陰謀も策略も無いのだ。
あるのはただ、友人であり、義弟であるレオン=ルシタニアの窮状を救いたいと言う一心のみ。
(その心意気は素晴らしい………だが、部下を纏められるかどうかは別だ)
皇帝に対しての彼の評価は変わったが、それだけの事だ。
皇帝の背後に居る宰相はこの援助の事をどう考えているのか、わからない。
宰相までが善意から援助してくれていると考えるほど彼は愚かではなかった。
「卿?」
「はっ………」
レオンに呼ばれて、パットンははっと我に帰った。
慌てて空咳を一つし、居住まいを正した。
「包囲しているドルク王国軍部隊は総勢二万。総指揮官は獣機動部隊司令官のヴァルツ=リバーエンドです。連中は何度か小規模な攻撃を繰り返していますが、大規模な攻撃は行っていません」
「だが、今回余が伏兵に襲われた事で、連中はこの城に余が居る事を知った。明日の朝にでも総攻撃があるかもしれないよ」
「ならば撃退するのみ。幸い、兵力は六千に膨れ上がりましたからな。十分に敵を翻弄できます」
パットンは鼻息も荒く自信満々に言い放った。
「パットン卿。わが国の方針は戦うべからずだよ」
「そのような事………今となってはもはや戦うしかありますまい!その為の我ら武人ではございませんか!」
「いや、卿。僭越ながら余もレオンと同じ意見だよ」
「陛下も?」
「うん。ルシタニアの掲げる専守防衛と言う理想は素晴らしい。何とか交渉で事を済ませる事が出来れば良いのだけれど」
「理想は理想、現実は現実です!専守防衛などと言っても現に敵は攻めて来ているのですぞ」
パットンは憤慨したかのように言い放った。
戦いを否定する事は彼ら武人を否定する事にも等しい。
確かにそれは彼らにとっては許容できない「理想」だろう。
彼らにとって重要なのは、目の前に敵が居ると言う「現実」、目の前の敵を倒すと言う「目的」なのだから。
その「目的」を果たす事こそが彼ら武人の存在理由なのだから。
「両陛下がどのようにお考えなされるもご自由です。もし可能ならば刃を交えぬ戦勝こそがもっともありがたい。しかし、もし両陛下が刃を交えぬために敗北をも辞さぬと言うのであれば私は従いかねます」
「卿………」
「祖国の大地を踏み躙られる位ならば、このパットン=カシュナート、命令違反も厭いは致しませぬ」
これぞまさに武人の心意気、か。
瞳に炎のような闘気を揺らめかせながら、パットンは言った。
「我ら武人は戦うために在るのではない。祖国に勝利を齎すために在るのですから」
「我ら武人は戦うために在るのではない。祖国に勝利を齎すために在るのですから………か」
開け放たれた窓から涼しい風が吹き込んでくる。
昼間は暑くともさすがは高峰に聳える山城である。
夜ともなれば風も涼やかになる。
湯を浴び、清潔な絹のローブに着替えて与えられた客間の椅子に座り、窓枠に両肘を乗せて手を組み、その上に顎を乗せる格好で、ラインハルトは先ほどのパットンの言葉を思い出していた。
眼下遠くに、無数の光点の揺らめきが見える。
城を包囲しているドルク王国軍の松明だろう。
敵の兵力は二万。ハルフィアに残してきた第三軍の兵力が二万七千。
このハルフィア城内の兵力が六千。
兵数では勝っている。
先の第一次ルテティアの戦いとはまた一味違う戦闘を行えるだろう。
戦力の再編を余儀なくされているルシタニア軍に代わり、フロレシア帝国軍が相手をするのだから。
とはいえ、そのフロレシア帝国も後顧の憂いが全くない訳ではない。
スタルナス帝国とルーナ帝国がパルディア王国に侵攻し、占領してしまったのだ。
この両軍がそのままフロレシア帝国領内に侵攻してくる可能性だって皆無ではない。
第四軍は臨戦態勢に入っていて国境付近に兵を集結させているようだが、第四軍の担当区域である南方にはもう一つ厄介な存在が居る。
それが砂漠の民だ。
驚異的な身体能力と巨大な動物をも乗りこなす彼らをフロレシア帝国臣民は蛮族として蔑んで来たが、その能力を恐れているのもまた事実。
最近この蛮族の動きも騒がしくなってきているのだ。
今までも幾たびとなくフロレシア帝国とぶつかり合ってきた砂漠の民。
皇帝が不在の時に蜂起されれば、やはり厄介としか言えない存在になる。
こちらに対する兵も残しておかねばならず、第四軍のコーデル=ハム軍団長は兵のやりくりに四苦八苦していた。その報告を齎した伝令には宰相への伝言として、
『傭兵軍団の南方派遣も考慮に入れる』事を含めて、第四軍への増援を送る事を命じてある。
既に帝都を発ってから一ヵ月近くが経っている。
このままいつまでもルシタニアの地に留まるわけにはいかなかった。
(せめて………ドルク王国をルテティアに押し戻してから帰りたい)
その事はレオンにも告げてあるが、それにしてもどうしてこの時期に重なるのか。 (ルシタニアでルシタニアとドルクの領土紛争、スタルナス帝国とルーナ帝国によるパルディア王国侵攻、南部蛮族の不可解な活発化………関係ないかもしれないけど、ロデン教が僕の命を狙ってる事………)
涼やかな風が柔らかい金髪を弄るのに任せつつ、さらに思考の奥底へと潜って行く。
(もしこれらが何らかの繋がりを持っているのだとしたら………)
ドルク王国がルテティア地方に武力侵攻した背後にはスタルナス帝国の影が見える。
暁の調査によれば、スタルナス帝国から大量の武器がドルク王国領内に送り込まれた形跡があると言う。
そしてそのスタルナス帝国のパルディア王国侵攻。
フロレシア帝国第四軍の動きを牽制するかのような蛮族の動き。
そして失敗したものの、皇帝を暗殺しようとするロデン教の動き。
結果的にもっとも得をした勢力はいずこか?
(………。ルーナ帝国、か)
フロレシア帝国の即動部隊と戦い、大きな被害を出したのはスタルナス帝国軍だ。
ルーナ帝国は僅かな労力で、パルディア王国の南部を領するに至った。
僅か二ヶ月あまりでルーナ帝国は国土を二倍半とした。
カール三世と言う男、並々ならぬ実力者と見るべきだろう。
全ての事象の背後にカール三世の姿があるような気がしてきて、ラインハルトは首を左右に振った。
「まさかね………」
自嘲とも受け取れる呟き。
カール三世はラインハルトより三歳年上、まだ十八歳の青年なのだ。
ほとんどラスカーナ大陸中の勢力を自在に操るなどそのような若者に果たして出来るのだろうか?
その時、彼の部屋がノックされた。
扉の外には警護役のヴァンが居る筈だが? (またか………)
時折ヴァンは姿を消すのだ。
何処に行っているかは知らないし、詮索する気もないが。
「えっと………兄上?もうお休みですか?」
それは義弟の、遠慮しがちな声であった。
「レオン?入って良いよ。鍵は掛けてないから」
「………失礼します」
扉が開けられ、くすんだ金髪に褐色の肌と真紅の瞳を持つ少年が入ってくる。
服装は軽装だが、寝間着ではない。
「こんな夜更けにごめんなさい」
「良いんだよ、それで、どうかしたの?」
「明日。ドルク王国軍の陣地に使者を出します。最後の和平交渉をしに」
「………うん」
「僕が行きます」
「レオン………!」
「僕が、行きます」
驚いて名を呼んだラインハルトに、レオンは強い口調で同じ言葉を重ねた。
ラインハルトは一瞬口を噤んだが、すぐに開いた。
「僕は反対しないよ………それがこの国の理想だから」
「はい」
レオンが頷く。ラインハルトは素早く、言葉を重ねた。
「だから、僕も行く」
「兄上!」
「僕も、行くよ。君と一緒に」
反論を封じられたレオンの瞳に、喜びが浮かぶ。
「………。ありがとうございます、兄上」
「でもこれだけは覚えててね、君はもう、殿下と呼ばれる身分じゃない。陛下と呼ばれる身分なんだ」
「………はい」
人間は平等だ。
命を一つしか有さず、標準的に目は二つ、耳は二つ、鼻は一つ、口は一つ、手は二つに足も二つ、指はそれぞれ五本の計二十本。
怪我をすれば血が出る。
楽しければ笑うし、悲しければ泣く。
愛する事も怒る事も憎む事も恨む事も、人間ならば誰もがする事だ。
それは真理だ。
だが、人間の価値が平等でない事もまた、真理なのだ。
身分の低い者の死と国王や皇帝の死では意味が大きく異なる。
平民の死は家族や知人を悲しませるだけだが、皇帝の死は国全体を滅ぼしかねない。
だからこそ、皇帝は自分の命を大切にしなければならない。
しかしそれは命に執着する事を意味しない。
何故ならば皇帝や国王が他者に比して尊重されるのはその両肩に圧し掛かる責任の差にあるのだから。一般の人々の生死を預かる者として、上に立つ者には大きな責任がある。
その責任を果たすためならば、皇帝や国王は己の命を惜しんではならないのだ。
それが故に、人間の価値は平等ではないのだから。
3 和平
帝国暦三三二年八月十九日、早朝。
ハルフィア城の城門が開かれ、白旗を持った一団が歩み出てきた。
馬に跨る者は二人。
ルシタニア連合王国国王レオン=ルシタニア。
フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザー。
城を包囲するドルク王国軍に動揺が走る。ここで彼らを討ち取れば、勝利は間違いない。
血走った眼で近づいてくる一団を待ち構えるドルク兵達。
しかしそこに、ヴァルツ=リバーエンドの伝令が馬を飛ばしながらヴァルツの言葉を告げて回った。
「手を出すな!出した者は容赦なく斬る!迎え入れよ!」
ヴァルツの言葉はもはや兵達の間では絶対的な物だ。
彼の力無くば、彼らは祖先の地を取り戻せなかったのだから。
今にも襲い掛からんとしていた彼らが伝令の声を聞いて動きを止めた。
ドルク王国軍の動揺が嘘のように鎮まっていく。
彼らは左右に退き、一団への道を開けた。
その入り口で、ラインハルトとレオンは馬から降り、一団から離れ、たった二人で歩き始めた。
「大丈夫なんですかねぇ~」
城の城壁の上から、左右に分かれたドルク王国軍の中を進んでいく二人の少年を見つめながら、アルベルトがのんびりと呟く。
「両陛下にもしもの事あらば、ただでは済まさん」
パットンは血走った眼差しで、食い入るように敵陣を見つめている。
城門の内側には五千の兵がいつでも駆け出せるように準備を整えている。
だがしかし、もしドルク王国軍が皇帝や国王を害そうとすれば、城内から部隊が突出したとしてもとても間に合うはずが無かった。
ただ彼らは最悪の事態にならない事をロデンの神に祈る事しか出来なかったのだ。
「降伏でもするのか?」
床机に腰を下ろした白髪の巨人、ヴァルツが自分と向き合うように用意された床机に腰を下ろす二人の少年に向かって問い掛けた。
「否。我はルシタニア連合王国の王として、ドルク王国軍の総指揮官と交渉に参った」
若々しい声ながらも、必死に王の威厳を演出するレオン。
褐色の肌には緊張のためか薄く汗を湛え、その真紅の瞳は潤んでいるようにすら見える。
「余は見届け人だ」
ラインハルトは蒼い瞳をまっすぐヴァルツの紫色の瞳に注ぎながら言う。
「交渉………とは?」
「撤退していただきたい」
「ふっ………王子、いや、国王さんよ。寝ぼけてもらっちゃ困るな。今勝ってるのはこっちだ。その俺達がどうして撤退しなければならん?」
「間もなく連合王国の全軍が集結する。そうすればドルク王国一国だけでは勝てまい」
「だったら兵を集めて攻めてくれば良いだろ?」
「我らルシタニアの国是は不戦にある。ぎりぎりまで交渉するが王たる者の務め」
「ご立派な理想だがよ、いまさらだな。こっちはもうルテティアに侵攻した時から連合王国すべてを敵に回す覚悟で居るんだ」
「どのような条件を出せば撤退してくれる?」
「ふんっ………そうさなぁ、あの城を貰おうか」
口の周辺に笑みを貼り付けたまま、ヴァルツはハルフィア城を指差した。
「あの城とはハルフィア城の事か?」
「おうよ」
「…………」
「勘違いしてもらっちゃ困るが、それだけじゃあねいぜ。俺も今回の戦いで全権を任されてる身だ。うちのお偉い方さんらは少なくともルテティアとルシタニアの西半分を切り取って来いと言ってる。だから、ルシタニアの西半分の割譲。これが撤退の条件だ」
「その条件は絶対に変更できないのかい?………何が起こっても?」
あまりにもな条件にレオンが沈黙した隙に、ラインハルトが口を挟む。
ヴァルツは眉毛をぴくんと揺らして、ラインハルトを見た。
「まるで何かが起きるみたいな言い方だな………」
探るような目つきで視線を注いでくるヴァルツを見返しながら、ラインハルトは昨日レオンが帰ってから部屋にやってきた人物との会話を思い出していた。
レオンが帰ったと思ったら再び扉がノックされた。
返事をするよりも早く、扉の向こう側の人物が声をかけてきた。
「陛下」
それは久しぶりに聞く、暁の頭領の声だった。
「………エシュア?」
「はっ」
扉を開けて入ってきたエシュアは相変わらずの鋭い眼差しをしていた。
「オルンヘル様より陛下の御様子を見て来るよう命じられまして」
ラインハルトは苦笑を浮かべて、首を左右に振った。
「それだけじゃないんでしょ?」
「はい、パルディア王国の姫君が亡命なさいました。南部がきな臭くなって来ましたので、陛下におかれましては早々にルーガにお帰りいただくようにとの言伝にございます」
「そう………エシュア、早く帰るために一つ頼みたい事があるんだけど、良い?」
「なんでございましょう?」
表情一つ変えることなく耳を傾けるエシュアに、ラインハルトは考えていた秘策を授けた。
エシュアはかすかに目を細めて、答えた。
「それは楽しそうですね」
「何かが、起こるかもね」
微笑とすら言える物を浮かべて、ラインハルトは席を立った。
「さ、行こう、レオン」
「でも陛下―――」
「大丈夫」
「一体何が起こるって言うんだ?」
怪訝そうなヴァルツ。
ラインハルトは微笑を深めつつ、首を左右に振る。
「それは言えないね。ただ言えるのは、こちらはこれ以上譲歩する気は無い、ということぐらいだよ。ね、レオン?」
「え、えっと、はい」
意味深な言葉を残して、ラインハルトとレオンは城に戻った。
ヴァルツは総攻撃の予定を延期して、様子を見る事にした。
(何を考えてるのか知らねえが。いっちょまえの事をする)
「レオン」
城に戻ったラインハルトはレオンの部屋を訪れていた。
レフが気を利かせて紅茶を入れてくれるのに礼を述べてから、レオンの真紅の瞳を真正面から見据える。
「実は南部の動きが怪しくなってきてね。近日中にルーガに戻らなければならなくなったんだ」
「そうですか………引止めはしません。兄上にはずいぶんとお世話になりましたから」
「うん。でももう一つだけ、していくよ」
「………?あ。さっきヴァルツに言ってた奴ですか?あれは一体―――」
「それは言えない。でも、明日には事態は変わる。連中はこの城の包囲を解いてルテティアに戻らざるを得なくなる。その時、僕達が追撃する」
「兄上!」
「ごめん。でも追撃するのはフロレシア帝国の軍だけだから。レオンはルシタニアの理想を破った事にはならないよ」
「…………そうするしかないんですね、やっぱり」
「ルシタニアが理想を叶えるためには使わない軍隊を整えるための時間が必要なんだ。その時間を稼ぎ出すために、僕達が敵を追い払い、フロレシア帝国に戻る」
「………わかりました。本当に兄上にはお世話になりっぱなしですね」
「良いんだ、レオンには危ない所を助けられたし、それに僕達は兄弟なんだから」
こうして睨み合いのまま、その日は暮れ、翌日二十日。
ドルク軍の陣営に一騎の伝令が血まみれの姿で現れた。
「一体何があった!?」
驚愕して吼えるヴァルツに、伝令は瀕死の重傷を負いながら、必死に報告した。
「昨夜、いきなり火の手が上がり、内側から城門が開かれ、怒涛の如くフロレシア帝国の軍兵が突入してきて、奮闘及ばず、ルテティアの砦は陥落いたしました!」
「………なんだって!?」
ヴァルツは憤怒の形相で、ハルフィア城を睨みつけた。
これこそがラインハルトがエシュアに授けた秘策。
彼はひそかに数千の部隊をルテティアに向かわせ、同時にエシュアを城内に潜入させて火を放たせ、城門を内側から開いて軍を引き入れたのである。
ドルク軍が手薄になっていた隙を突いた芸術的な奇襲攻撃だった。
ルテティアの砦が陥落した事で、ドルク軍は退路を失った。
動揺が軍全体に広まる。
このままもし連合王国の全軍と戦う羽目になれば全滅の可能性すらある。
ヴァルツは決断を迫られた。
そして、決断した。
「全軍撤退!敵が集結する前にドルクまで戻るぞ!」
ドルク軍が撤退を開始する。
しかし、広範囲に渡る包囲陣を撤退させるのは容易ではない。
突然の撤退命令に、ドルク軍が乱れ、混乱に陥った。
その一瞬を待ちわびていた者達が居る。
「城門、開け!………突撃!」
アルベルト=ウィーズリーに率いられた五千の軍勢。
その中にはラインハルトの姿もある。
五千のフロレシア帝国軍は一本の槍のような鋭い陣形で薄いドルク軍の包囲陣とぶつかり、これを食い破った。
一気に貫通し、方向転換し、再び別の場所に突進する。
ドルク軍はフロレシア帝国軍に散々に貫かれ、その陣は崩壊寸前だ。
そこへさらに追い討ちをかけるかのように、ハルフィア山の裾を迂回してきた二万余が攻撃に参加。耐え切れずに、ドルク王国軍は潰走した。
ヴァルツは最後まで踏みとどまって戦った後、巨大な黒馬に跨り、戦場を去った。
彼らはルテティア川を渡る所でエシュアを始めとするルテティアの砦攻略部隊の急襲を受け、焼け落ちたルテティアの砦ではなく、ドルク王国本国に向かって、逃げ去らざるを得なかった。
かくして、ルテティア紛争から発展した満月戦争はルシタニア・フロレシア連合側の勝利と言う形で幕を下ろした。部隊を集結させたラインハルトは城外でレオンと会った。
「このままお帰りになられるのですか?」
「うん。あんまり皇帝が不在だとやっぱり都合が悪いらしいんだ」
手ぬぐいで拭っただけで、まだ返り血の臭いを発散させながら、ラインハルトが微笑む。
レオンは夕日色の瞳を伏せて、
「寂しくなりますけど、仕方ありませんね。またいつでも遊びに来てくださいね、兄上」
「ああ、勿論。レオンもいつでもフロレシアに遊びに来てくれて良いんだよ」
「はい………負傷兵の方々はこちらで治療した後、送り届けますね」
「申し訳ないね」
「いえ。今回の勝利は我々だけであれば到底達成できなかったでしょうから」
「ありがとう」
「礼を言うのはこちらですよ、兄上。でも今度は僕も頑張ります。必ずルシタニアの理想を守るために、使わない軍備を整えてみせます」
今回の戦争には勝てたが、根本的な問題解決には至っていないのだ。
兵力を回復し、体勢を立て直して、ドルク王国は再び攻めてくるだろう。それを迎え撃つための用意をレオンは国王として先頭に立って指揮を取らねばならないのだ。大きな責任を双肩に背負った義弟に微笑みかけて、ラインハルトは励ますように明るい声で言った。
「うん、頑張って。………レオンならきっと出来るよ」
「はい!」
嬉しそうに目を細めて、レオンは大きく頷いた。
「それじゃあ………出発!」
「お元気で!」
「レオンも!」
手を振りながら、フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザーは出発した。
「これで暫らくはドルク王国もおとなしくなるでしょう」
アミリア=ホーンが馬を並べながら、背後を振り返る。
ラインハルトも習って背後を見た。まだレオンは手を振っていた。しかし随分と遠くなっている。
遠くなるに連れて小さくなっていくレオンの姿を見つめながら、
「ドルク王国の背後にスタルナス帝国が居るのなら………まだこれだけじゃ終わらないかもしれないよ。ヴァルツも逃したし」
「でもこれで陛下の武勇とその義の深さはラスカーナ大陸中に鳴り響きますね」
青い髪の青年、オットー=セルバンが口元に笑みを浮かべて言う。
「盟邦を救った英雄って訳ですね」
アルベルトも笑う。まだ彼の頬にはヴァルツに殴られた痣が残っていた。
「義に篤い、か………。余がその評判を得るためだけに、何千人もの人間が死んだんだよ」
「陛下がルシタニアに兵をもってやってこなければ、ルシタニア連合王国は瓦解し、数十万人の人間が死んだかもしれないんです。亡くなった人々とその遺族には申し訳ないが、これは必要最小限の犠牲という奴でしょう。陛下が気に病む必要はありません」
「アミリア………カーンのことが心配なの?」
「なっ………どうしていきなりそういう話しになるんですか!」
「だってなんだか声が刺々しい―――」
「違います!あのような男、死んでも別になんとも思いません!」
「彼に死なれちゃ余が困るよ。彼は優秀な指揮官だもん」
「………。それは………まあ、認めますが」
「いやあ、妬けるなぁ、こんなに心配してもらえて」
「セルバン殿!」
「ははは!」
「さあ―――帰ろう、我が懐かしのフロレシアへ!」
『えい、えい、おおうっ!!』
皇帝の掛け声に、三万余のフロレシア帝国軍兵が一斉に勝鬨を上げた。
家路に着く彼らの足運びは非常に軽快であった。
ルト=リューベンの反乱に引き続いて、ラインハルト=シーザーはその名を大陸に轟かせた。
4 凱旋
帝国暦三三二年八月二十七日。
帝都手前の街で身なりを整えた後、出発したときには四千五百名だった兵が約二千名に減り、凱旋門を兼ねる朱雀門を抜けて、帝都ルーガに入ってきた。
迎える群衆はフロレシア帝国の国旗、《力強き銀獅子》を振り、紙吹雪を降らせ、大通りの両側に列を作って、ラインハルトを迎えた。
白馬に跨る、金髪、蒼瞳、白鎧に純白の戦衣を纏い、腰に覇皇剣を差した皇帝が笑顔で手を振れば民衆の歓声が爆発し、歓呼が沸き起こる。
「ジークカイザー・ラインハルト!」
「ジークカイザー・ラインハルト!」
「ジーク・フロレシア!」
「ジーク・フロレシア!」
皇帝ラインハルト万歳、フロレシア万歳の声が帝都の空を、大地を、街路を圧する。
多大な犠牲を払いつつも、盟友を救う義の戦いに身を投じた若き皇帝の姿。
常に前線にあって自ら剣を振るって戦った猛き皇帝。
国民の尊敬と憧憬の声に包まれて、ラインハルトはルーガ城へと戻った。
約一ヶ月ぶりのルーガ城。
懐かしさを覚えるには居た期間が短すぎるのだろうか?
なにしろラインハルトが皇帝になってから、まだ四ヶ月とちょっとしか経っていないのだ。
凱旋パレードを終えて、疲れきった表情で彼は皇帝私室に戻ってきた。
「おかえりなさい、ライン」
「………ただいま」 包み込むような穏やかな笑顔で出迎えたのは、ラインハルトの幼馴染、シエナ=クリケットだった。
途端、ラインハルトの胸に懐かしさが込み上げてくる。
彼女と離れていたのはわずか一ヶ月だけだというのに、永劫にも等しく感じる。
再会に二人ともそれ以上の言葉が見つからず、不器用に見詰め合うだけ。
「―――そこだ!ライン、押し倒せ!」
何処からとも無く聞こえてくる、妙に熱を感じる囁き声。
「えっと、怪我とかしてない?」
「う、うん………シエナのおかげかな」
「え?」
「これだよ」
驚いたように聞いてくるシエナに、懐に大事にしまってあるロデン神像を取り出してみせる。
途端、シエナの頬が朱色の絵の具を塗られたかのように赤くなる。
「持っててくれたんだ………」
「勿論」
何処と無くいい感じの雰囲気が二人の間に流れる………。
「今だ!そこで抱き寄せて、接吻だ!ほれほーれ、接吻!」
再び聞こえる囁き。
「は、ははは………」
「ふ、ふふふ………」
引きつった笑みをかわすラインハルトとシエナ。
ラインハルトはそろそろとソファに近寄り………
「―――何やってんの?」
ソファの裏に蹲る赤髪の剣士に呆れた視線と声を放る。
その剣士はびくんっと一瞬身を震わせてから顔を持ち上げ、ラインハルトと視線を合わせた。
「―――何してるように見える?」
ぎこちない笑顔で、聞いてくる。 ラインハルトは一瞬シエナと目線を交わらせてから、
「―――覗き?」
「俺が覗きするわけ無いだろう!」
「説得力皆無なんだけど」
「俺はただ単に取材してただけだ!」
「………取材?」
「そうだ!これは特種だぞ!………皇帝と侍女の熱愛発覚!目撃者匿名希望さんによれば彼らは凱旋してきたその日から夜な夜なあんなことやこんなことやそんなことやそこまでやってしまうほどの熱愛振り!」
「―――で?」
「いや、で?とか聞かれても………」
困ったように赤い髪を掻き、アレク=ハーベスト第一軍第一歩兵師団長がソファーの裏からようやく身を起こす。
それから徐に片手を上げ、
「よ。久しぶりじゃねえか。こんなところで会うなんて奇遇だな」
「いまさらって感じの挨拶な上にここはこんなところではなく僕の私室なんだけど」
「気にするな!」
「それよりもアレク、どうしてここに?」
「ん?シエナ、背後に怒りのオーラが見えてるぞ」
「そう、それは良かったわね。それで?」
「んんっ!?………なんだか危うい気分だな、おいライン何処へ行く?」
「いや、アレクの傍に居ると危ないから―――」
「はっはっは。一体何が危ないというんだ?俺はただ、おまえとシエナが感動の再会そしてゴールインというべたな展開に陥るのが癪だったから邪魔しに―――」
「鉄拳!」
「ぐおろべっ!?」
「うわぁっやっぱ巻き添え!」
シエナ、渾身の拳がアレクとなぜかラインを吹き飛ばす。
「うー………イタタ」
「帰ってくるなりめでたい連中だな、おまえらは」
「あいつが暴力女なだけだって」
アレクが不機嫌そうに返す。
ラインハルトは殴られた際に強打した後頭部のたんこぶを気にしつつも無言。
そして残るもう一人、シオン=クリケットが苦笑混じりに手酌で酒を飲む。
「人の妹をなかなか言ってくれるじゃねえか」
「だって本当の事でしょうが」
「………まあ、否定はせんが」
シエナはあれでなかなかの武闘派なのだ。
ここは帝都の中にあるシオン卿の屋敷。
呼び出された名目は陛下凱旋の小祝い。
とはいえ、集まったメンバーもほとんどが帰り、深夜を過ぎた今でも残っているのはこの三人のみ。
まだ十七歳ながらも、アレクはかなり飲む方だ。
しかし、シオンは彼以上の酒豪だ。
現にアレクが酔い潰れ掛けているのに、まだシオンはほんの少し顔を赤く染めた程度。
全く酒の飲めない―――飲まないだけか?―――ラインハルトであったが、一応主賓という事で帰る事を許されていなかった。
本当はシエナにルシタニアでの出来事を話したかったのに。
「あの、そろそろ僕は―――」
「シエナといちゃつこうたって駄目だぜ」
「そうだ。俺の妹はおまえにはやらん」
「結局邪魔したいだけ!?」
「朝まで付き合え!」
「そうだそうだ。年長者の言う事には素直に従っとくもんだ」
「僕一応皇帝なのに」
結局ラインハルトは朝まで解放されることは無かった。
「うぃー」
何とか解放され、私室に戻ってきた頃にはとっくに夜が明けていた。
とにもかくにもベッドに転がり込んだラインハルト。
開け放たれた窓から入ってくる朝の涼風がそっと彼の金色の髪を撫でていく。
既に夏の気配も濃く、昼ともなれば気温もかなりあがる。
しかしまだ朝方、風も暑さよりは涼しさを運ぶ。
思えばずっと野営続きで、この一ヶ月間こうしてふかふかのベッドに横になったことなどほんの数回しかなかった。
「朝帰りとはなかなか良いご身分よね」
「っ!?」
声と共に振り下ろされた怒りの鉄拳を辛くも避け、ラインハルトは転がるようにベッドから起き上がった。
「し、シエナ!?」
銀色の髪を逆立て、金色の瞳を吊り上げた幼馴染の姿に、戦慄を覚える。
「朝帰りって言ってもずっとシオン兄の家に居たんだ!」
「そして乱交パーティーですか!ふしだらな!」
「ら、乱交………って、何を妄想してんの!?」
「問答無用!」
「うぎゃーっ!ヴぁ、ヴァン!助けて!」
思わず救いを求めるが、黒髪の剣士は動かず。
彼は皇帝の身に生命の危機が無い事を知っているのだ。犬も食わぬは夫婦喧嘩。
忠実な番犬である彼でも、二人の間に割って入るような無粋な真似はしなかった。
数十分後。
「………ま、参った………」
関節を極められ、気絶寸前のラインハルト。 「うう、シエナ、本当に誤解なんだって。シオン兄とアレクが帰してくれなかったんだよ」
「まだそんな事を!問答無用といったはずです!」
「ううっ………本当に死ぬぅぅぅ………ああ、花畑が………カロンの花が咲いてる花畑が見えるぅ」
「―――シエナ殿」
さすがに洒落にならないと思ったのだろう、ヴァンがそれまで凭れかかっていた壁から背を離し、シエナに声を掛けた。
「何よ!」
「―――陛下の仰っている事は本当です」
シエナの剣幕にも動ぜず、ヴァンはそう告げた。
「えっ………」
途端に力を緩めるシエナ。頬を朱に染めつつ、ヴァンに問い掛ける。
「それ、本当?」
「―――はい」
「………」
無言で、ラインハルトから離れるシエナ。
そして、顔面を一撫で、そして大仰な身振りでラインの身を揺さぶって、
「大丈夫!?ライン!………気絶寸前じゃないの!誰に殺られたの?私が仇を取ってくるわ!」
「………。ふう、悲劇というよりは、喜劇………むしろ、茶番劇だね、これ」
ラインは微かに苦笑を浮かべて、呻いた。そのまま、ふ~と意識が遠退く。
そのとき、扉を開けて室内に入ってきた者が居た。
呆れた様な吐息を一つ吐き、男は白髪の混じり始めた黒髪を撫で付けた。
「朝っぱらからなにをいちゃついとるんだ、おまえらは」
その声に、遠退きかけていたラインの意識が現世に戻ってくる。
「父さん!」
「お父様!」
パッと離れ、姿勢を正す自分が育てた義理の息子と実の娘を交互に見やり、さらに嘆息。
「どうやら一ヶ月の戦いによる疲労は無いようだな、ライン」
「いや、まあ………疲れてるけど」
その表情は明るい。
その理由を察して浮かびかかった苦笑を胸裏に仕舞い込み、難しい顔をしてみせる養父。
「あまり状況は良いとは言えないぞ」
「うん………パルディア王国が攻められたんだって?」
「ああ」
「第四軍と………第六軍は?」
「今は待機中だ。第四軍には蛮族の相手もしてもらわなければならないし、第六軍の相手はあのキエフ=ロドリナスだからな」
「どっちも容易に攻められる相手じゃあないって事だね」
「それに財政的にもこれ以上の戦争はまずいな。農民の困窮はますます進み、もしここで何らかの戦闘行動を起こせば宝物庫の財宝を売り払っても秋まで持つかわからん」
「わかった………対策を考えてみるよ」
「無理はするな。体を気遣うのも立派な皇帝の仕事だ」
「うん」
「ところで―――」
オルンヘルが言い難そうに口ごもる。
その視線はラインハルトとシエナの間を漠然と泳いでいるようだ。
彼にしては珍しいこの態度に、思わずラインハルトとシエナが顔を見合わせる。
「昨日は………したのか?」
場に沈黙が下りた。先にその意味を理解したのは、シエナの方だった。 顔を熟れたトマトのように真っ赤にしながら怒鳴る。
「そんなことしてないわよっ!お父様の馬鹿!」
「ぬう。心配しておる親に対してなんたる口の聞き方だ」
「良いから出てってよ!」
「わかったわかった!………全く、粗暴に育ったものだ―――」
「早く出てってよ!」
「うわっ」
世にも珍しい宰相の悲鳴。
その頃になってようやく先ほどのオルンヘルの言葉の意味を理解して、ラインハルトも真っ赤になる。
互いに意識するためか、場には奇妙な沈黙が降りた。
「シエナ………」
「お帰りなさい、ライン」
シエナの暖かな微笑がそこにはあって。
だから、ラインハルトも穏やかな気持ちで自然と微笑を浮かべる事が出来た。
「うん。………ただいま」
その場に和やかな空気が流れ―――。
「ねえ、ライン」
「何?」
「昨日は本当に何もしてないの?」
「なんもしてないよ!」
『ルシタニアの動乱』 完
1 崖の上の死闘
帝国暦三三二年八月十八日。
キツイとは聞いていたが、まさかこれほどとは。
皇帝衣や白鎧は脱いで軽鎧を纏っているだけだが、それでも初夏の陽光は容赦なく木々の隙間を縫って地表に届く。放射熱が緑の天蓋のように空を覆う葉によって空気中に逃れる事を妨害されるためか、山中は蒸し風呂のような暑さであった。
「はひ、はひ」
我ながら情けないとは思うものの、体力にそれほど自信がある訳でもなく、山道なので馬に乗る事も出来ず。
だらだらと汗を垂れ流しながら、それでも不平は言わずにラインハルトは山道を登り続けていた。
五千人の部隊を五つに分け、それぞれ一定の間隔をあけて山に分け入ってから既に四時間。
太陽はほぼ真上から地上を這う者達を照らし出す。
五つの部隊のうち、先頭を進む部隊の真ん中あたりにラインハルトは居た。
二個目の部隊にはレオンとレフが居る。
ラインハルトの右隣にはアルベルト=ウィーズリー師団長が、こちらは浮かび出る汗を盛んに絹と思われる上質の布で拭って歩いており、左隣にはこのような暑さの中でも平然としている黒髪の剣士にして皇帝の護衛役、ヴァン=ブレイスが歩いている。
現在彼らはこのハルフィア山を登る上でもっとも峻険な道を歩いていた。
全体的に見てもっとも容易なコースを選択したのだが、そのコースの中にもっとも困難な部位があったのである。
ほとんど直角に近いような崖を数人の身軽な兵が張り付くようにして登っていく。
その姿を崖の下から見上げて、ラインハルトはやや強張った顔をアルベルトに向けた。
「これで上に伏兵が居たら壊滅的な被害を受けるんじゃ?」
「それを避けるために他の四部隊は別ルートを進んでいるんです。何も待ち伏せに絶好なポイントはここだけじゃありませんよ」
自信満々に宣言するアルベルト。
崖の高さは50m程。落ちればまず助かりはしないだろう。
一番上まで上りきった兵が背中に結わえ付けていた縄梯子を外し、手近な木に縛り付けた。
彼らは崖登りの訓練を積んだ専門家で、軽鎧も着ず、腰に短剣を差しているだけだ。
彼らの仕事は崖を真っ先に上り、縄梯子を木に結び、後続の部隊のための道を開く尖兵となる事だ。
峻険な山岳地帯の多いルシタニア連合王国領内での戦闘を想定している彼らは日々崖登りの訓練に励んでおり、彼らの役目は非常に重大だった。そして彼らは見事にその任を果たした。
登りきった五人の兵から五つの縄梯子が下ろされる。
それを下で待っていた兵が地面に杭を打って、その杭に縄梯子を結わえ、しっかりと固定する。
とはいえ、固定される事も無い崖の中腹の縄梯子は風に揺れ、実に頼りなげだ。
「これを………登るの?」
「そうです」
怖気づいたような皇帝の言葉に、口元にからかいの笑みを浮かべて答えるアルベルト。
そして腕を一振り、
「登攀開始!」
彼の号令に従い、第三軍第五歩兵師団第一連隊に所属する兵たちが縄梯子に飛び移り、猿のような軽快な動きで登り始めた。
「―――時に陛下、賭け事は御嫌いですか?」
「賭け事?………いや、別に嫌いじゃないけど、あまりしないなぁ」
いきなりのアルベルトの質問に一瞬戸惑ったものの、とりあえず答える。
横目で彼の様子を窺うに、どうやらただの世間話らしい。
「では賭けをしましょう。伏兵が現れるか否か。私は無論、居ない方に賭けますが」
「そんなの不謹慎じゃないか?」
「………。これは失礼。それで、陛下はどちらに賭けます?」
「………。伏兵が居ない方」
「それでは賭けが成り立ちませんなぁ。それでは私は伏兵が居る方に賭けねばならなくなります」
「わかったよ、じゃあ余が伏兵が居る方に賭けるよ」
「成立ですな。私が勝ったら酒でも奢ってもらいますか」
「余が勝ったら………まあ、その時に考えるよ」
それはこのほんの少しの退屈な時間を潰すための世間話のはずだった。
数分後には忘れるような何でもない話題、その筈だった。
しかしそれが現実に起こってしまった。
兵達の内半分ほどが崖の上側に登り終えた頃の事だ。
いきなり崖の上で鬨の声と悲鳴があがった。
怒号が沸き起こり、激しい剣戟の音が崖下にまで伝わってくる。
「一体何があった!?」
慌てる中隊指揮官達。
その答えは崖の上から降ってきた。
横薙ぎの一撃で腹を裂かれたフロレシア帝国兵の遺骸。
「っ!」 顔色を蒼白にするラインハルト。
しかしアルベルトは冷静に顎に手をやり、
「むぅ………負けましたか」
「そんな不吉な!」
「不吉?………いえいえ、私が言ってるのは賭けの事ですよ」
「それはそれで不謹慎だよ!」
ラインハルトが突っ込んでいる間にも、崖の上の戦闘は激しくなるばかり。
第三軍の兵は軽装だから、開けた場所で重装備の敵を相手にするのは不利だ。
「縄梯子を切られでもしたら厄介ですね。登りましょうか?」
「登っている途中に切られたらどうするんだ?」
「落ちます」
「…………」
「まあ、何とか支えてくれるでしょう」
部下を信頼しているのか、ただアホなだけか………。
アルベルトは朗らかに笑うと縄梯子を登りはじめた。
彼に習って百人あまりが順に登り始める。
崖下には縄梯子を警護するように半円陣を敷いた四百人あまりの兵とラインハルトが残された。
「ええい、ままよ!」
このような崖を素手で登る苦労を考えれば、多少危険でも縄梯子を登った方が楽だろう。
無理やり自分を納得させて、ラインハルトも縄梯子を攀じ登り始めた。
幸い、空中落下を味わう事も無く、登りきる事ができた。しかし、崖の上は予想以上の乱戦になっていた。敵味方がばらばらになってぶつかり合い、もみくちゃになって戦っている。
軽妙な動きで一撃を放つフロレシア兵。
しかし、ドルク王国兵は重厚な甲冑に身を包んでおり、どちらかと言えば小柄な兵の多い第三軍兵の攻撃をその強固な甲冑で防ぎながら戦っているのだ。
長剣を使っている者は居なかったが、第三軍の兵同様持ち運びの便利な短剣や戦斧を装備している。
斧と斧がぶつかり合い、火花が散る。
汗と血が舞い、力尽きた者が倒れていく。
その戦場に一際大きな体躯を持つ者が居た。
剣を振り回しながら戦うその姿はさながら阿修羅の如し。
返り血に染まる白髪に、特徴的な紫の瞳。
ヴァルツ=リバーエンド。
「げえっ………ドルク王国獣機動部隊の司令官がどうしてこんな所に!?」
遅れて登ってきたラインハルトが驚愕して声をあげるのに、アルベルトが口辺に無邪気とすら言える笑みを浮かべて腰の剣を抜いた。
左手には盾が装備されている。
その盾は持つ物ではなく、盾の裏側に付いているリストバンドに手を通して装備するものだ。
「行くぞ、《風の盾―バリング》、風隼!」
『応』
アルベルトが盾を構えて、吼えると、盾の表面に嵌め込まれている緑色の宝玉が鈍く輝いた。
やや緑色を帯びた風がアルベルトの全身を包み込む。
「金毛の風使い!」
第三軍の兵達が口々に歓声と共にそう唱える。
おされ気味だった第三軍の兵が活気を取り戻していく。
自分に向かって来る緑の風を纏う金毛の青年の姿に、白髪の巨人が目を細める。
「うおおおおおっ!!」
獣のような咆哮を上げ、腰まである長い金髪を風に激しくたなびかせながら、真一文字に突っ込んでいくアルベルト。
しかし、彼の前に立ちはだかる男は見上げるような巨漢。
彼が扱うにしては小さすぎる剣の柄を握り締め、振り上げる。
「アルベルト!」
ラインハルトが叫ぶ。
まっすぐ突っ込んでいくなんて無茶だ! 叫んだ彼の姿を認めたドルク兵達が一瞬動きを止める。
が、次の瞬間、彼らは獲物を見つけた狼さながらの動きでフロレシア帝国皇帝たるラインハルトへと群がっていた。
すかさず皇帝を守ろうと第三軍の兵達が壁を作る。
が、血に飢えた狼どもはその壁を一瞬にして引き裂き、ラインハルトに肉薄する。
群がる敵兵に遮られ、ヴァルツ=リバーエンドとアルベルト=ウィーズリーの姿は見えない。
『―――抜け、そして振るえ』
脳裏に、低く、野蛮な男声が響く。《覇皇剣-サナトゥス》の声が。
蒼い瞳で敵をひたと見据え、ラインハルトは腰の《覇皇剣-サナトゥス》を引き抜いた。
脳裏にシオンの姿が浮かんだ。そして、その言葉も。
『強力な力を持っているがゆえに、それを使う者の心構え一つで世界を壊す魔剣にもなれば、大切な者達を守る聖剣にもなりえるってことだ。だから、ライン。この剣を殺人のために使うな。この剣の真の力は大切な者を守る時だけ、力を解放しろ。それ以外では一部の力を呼び覚ますのは良くても、完全に目覚めさせてはならない』
(完全に目覚めさせてはならない………)
「我、覇皇フェルモアの血を引く新たなる覇皇、ラインハルト。覇皇の名の元汝、サナトゥスに命ず。今一度、汝の力の一部を解き放つが故、我に歯向かう者を打ち滅ぼせ!諾か否や?」
『何故、全てを解き放たぬ!』
《覇皇剣-サナトゥス》の声に、苛立ちが混じる。その強烈な思念が、ラインハルトの脳を揺らす。
だが、ラインハルトは屈しなかった。柄を掴む手に力を込め、
「敵を倒さないのか、倒すのか、どっち!?」
『ええい、仕方の無い………諾!』
《覇皇剣-サナトゥス》の声が諦めたように応える。
次の瞬間、血のように鮮やかな真紅の輝きを持つ《覇皇剣-サナトゥス》の剣身がどくんと鼓動した。
柄の先端にある紅色の宝玉が禍々しいまでの輝きを放つ。
「伏せて!」
ラインハルトが吼え、第三軍の兵が慌てて従う。次の瞬間、赤い空気の壁が放射状に広がり、全てを薙ぎ払った。大地が抉れ、木々が裂け、葉が舞う。皇帝の柔らかな肉に自らの斧や短剣を振り下ろそうとしていたドルク兵達が一瞬にして吹き飛ぶ。地面や木に叩きつけられ、瞬く間に戦闘力を失う。
寸前に地に伏せた第三軍兵達とて完全には避け切れなかった。
すさまじい風圧に吹き飛ばされ、地面を何回も転がされる。
その風はアルベルトの背を押し、ヴァルツの目測以上の速度で彼は白髪の巨人の懐に飛び込ませた。
ヴァルツの剣は空を切り、アルベルトは剣を振るう事すら出来なかった。
アルベルトは崩れる体制を無理やり補正して、ヴァルツの厚い胸板に盾を押し当てた。
「風尖!」
「っぐはぁっ!」
盾から零距離で放たれた風の刃が、ヴァルツの胸板を抉る。
「っくっ!」
内蔵をやられたのか、口から血を吐きながら、ヴァルツがアルベルトの顔面を殴る。
鋼鉄の塊にぶつかったような衝撃で吹き飛ばされ、アルベルトは無様に地に倒れた。
ヴァルツは胸を抑えて血反吐を吐きながら、その場に片膝をついた。
戦場は意識無い者と意識ある負傷者に埋もれていた。苦痛に呻く声が満たす空間。
ヴァルツの地を向く視界に影が差し込んだ。
苦しげな息の下、顔を上向かせた先に居たのは抜き身の真紅の剣を下げた皇帝の姿。
「はあはあはあ………」
頬を上気させ、荒い息を吐きながら、血走った蒼い瞳で自分を見下ろす皇帝の姿に、ヴァルツは恐怖を感じた。死を恐れぬはずの自分が、何故………?自嘲の笑みすら浮かんでこない。
しかし、そこで予想外の事態が起こった。皇帝がその剣を鞘に収めたのだ。
「………?」
疑問符を浮かべて皇帝の顔を見上げるヴァルツの前で、皇帝の蒼い瞳に見る見る理性の色が戻っていく。
「帰ってください」
「………」
言われている事の意味がわからず、ヴァルツは馬鹿のように口をぽかんと開けてラインハルトを見上げた。巨大な体躯をしているが、顔は結構童顔だったりする。それはともかく。
「殺さないって事か?………捕虜にもしない、と?」
「あのルテティアの丘で、貴方は余をそうしなかった。同じ事をするだけだ」
「あれはまだ戦いが始まっていなかったからだ。今は戦争の真っ最中なんだぞ?」
「だとしても、あの時貴方は余を殺す事が出来た。捕虜にする事も出来た。なのにそれをしなかった。皇帝である余は受けた恩は返す責務がある。それが今。そして今がたまたま戦争中だったからと言って何が変わるわけでもない」
「へっ………全く、おかしな陛下だな………なあ、ヴァン=ブレイスとか言ったか?」
苦笑のようなものを浮かべ、皇帝の背後に黒髪の剣士に同意を求める。
その剣士は鋭い眼光をヴァルツの面上に向けたまま、答えようとはしなかったが。
傷の痛みはとうに引いていたのだろう。どうやら内臓へのダメージもそれほど深刻でもないようだ。
ヴァルツは身軽に立ち上がると、剣を鞘に収めた。それからあたりを見回し、顔をかすかにしかめる。
「全滅………か」
全員が倒れている。死んではいないのだが。ヴァルツがどんっと地面を踏みしだき、怒声を放つ。
「おらぁっ!てめぇら、いつまで寝てやがる!起きやがれ!」
あまりの大声に、思わず顔をしかめて耳を塞ぐラインハルト。
それでも頭の中でぐわんぐわん鳴り響く。
一人二人と気絶していたドルク兵達が身を起こし、同時にフロレシア兵も身を起こす。
「引き上げだ!怪我してる奴と死んだ奴を担げ!」
「こっちも負傷兵の手当てを!」
困惑の視線を見交わしながらも、それぞれの作業を行うドルクとフロレシアの兵達。 やがて作業を終えて、ヴァルツとドルク兵は山の中へと消えていった。
「追わなくて良かったんですか?」
ヴァルツに殴られて大きな痣の出来た頬を気にしつつアルベルトが問う。
ラインハルトは頷いて、進軍の再開を号した。それからアルベルトの方に顔を向けて、笑う。
「賭けは余の勝ちだね」
アルベルトも微かな苦笑を以って、これに頷いた。
2 ハルフィア城入城
ハルフィア城の城門前に到達した時にはラインハルトをはじめ、皆が泥まみれの濡れ鼠と化していた。
何故ならば途中で土砂降りが降り出してきたからだ。
山の天気は変わりやすいと言われるが、数時間前までは快晴だったのだから呆れる程の気分屋だ。
ともかく城門まで到達した彼らを待ち構えていたのは、別ルートを通って先に到着していたらしいレオン=ルシタニアとレフ=スタッカートだった。
既に彼らの到着で話しは通されていたらしく、ハルフィア城の鋼鉄製の門は開かれ、松明が焚かれ、女達が手拭を持って待っていた。
「兄上!よくぞご無事で!」
「うん、まあ、なんとかね」
手拭を受け取り頭を軽く拭きながら、ラインハルトは微笑んでみせた。
「それじゃ、アルベルト、後はよろしく」
「了解。例の奴考えといて下さい」
「うん」
無論、例の奴とは賭けの掛け金の事だ。
兵をアルベルトに任せて、ラインハルトはレオンに伴われて城主の間へと向う事にした。
現在は最前線に立たされているものの、元はといえばルシタニア王国領内深くにある城のため、ラインハルトは豪華な装飾を漠然と予想していたが、予想とは異なり、城内に華美な装飾など微塵も無く、いっそ無骨と評すべきだった。
「城主のパットン=カシュナート侯爵は元々武人で、城内の様子を見ればわかると思いますけど質実剛健を旨とする御仁です」
城主の間へと歩きながらレオンが説明する。
ラインハルトは頷きつつ、
「レオンの方は山道キツかった?」
「いえ………歩きやすかったですよ」
「そう」
(………。本当にあれが一番楽な道だったんだろうか?)
それはさておき。
城主の間に辿り着き、重い扉を武官が開くと、そこはどうやら玉座の脇にある扉らしい。
「どうぞ、兄上」
レオンが玉座を勧める。
「僕は大丈夫ですから。兄上は疲れてるでしょう?」
断ろうと口を開きかけた途端にそう言われ、苦笑のようなものを浮かべて会釈してから席に座った。
下座には無骨な甲冑を身に纏った、たくましい男が控えていた。
五十代前半ぐらいだろうが、髪も長く立派な髭も真っ黒だった。
「長髭候、パットン=カシュナート卿です」
レオンが紹介すると、その男は顔をあげて、黒い瞳でラインハルトを射抜いた。
「お初にお目にかかる。パットン=カシュナートと申す者」
「うん。余はラインハルト=シーザー、よろしく」
「はっ」
それにしても長髭候とはよく名づけたものだ。
まさにその通りと言うしかない。
パットンは貴族や王族に対する無意識の反抗心であろう、反骨の気概を瞳に宿して、問うた。
「遠路はるばるお越しいただき、真に恐縮至極」
「よく少数の兵で多数の敵を防いでくれた。卿の活躍は国中はおろかラスカーナに鳴り響こう」
レオンがフォローするも、パットンはラインハルトに視線を注ぐのみ。
「えっと………陛下はお疲れだから―――」
「いや、状況を説明してくれないかな?パットン卿」
ラインハルトはレオンの言葉を遮り、真摯な眼差しをパットンに注いだ。
その真剣な光に、パットンがやや驚いたように目を見開く。
ほぼ一日山中を歩き回り、雨に降られて泥まみれになり、体は疲労を蓄積してもうかなりしんどいだろう。
普通の皇族ならばとうの昔に音を上げているだろうし、もしここまで辿り着いたとしても休息や湯を求めるだろう。
それなのに、この皇帝はそれら一切を求めず、状況を説明しろと言う。
(なるほど………見た目どおりの軟弱者ではないと言う事か)
パットンはやや見直した。
それにそもそも、他国内の問題にこのように真剣に取り組む者が居るだろうか?
わざわざ皇帝自ら峻険な山を乗り越えて前線までやってくる必要はないのだ。
内政不干渉の原則に反していると彼はフロレシア帝国軍の援助を苦々しく思っていた。
援助と言う甘い果実の中身は実は利権と策略と陰謀で腐っていたなどと言う話しはよく聞く話しだからだ。
しかし、今目の前に居る少年は違うのだとパットンは本能的に悟った。
この、疲労で意識が朦朧としているような少年皇帝には利権も陰謀も策略も無いのだ。
あるのはただ、友人であり、義弟であるレオン=ルシタニアの窮状を救いたいと言う一心のみ。
(その心意気は素晴らしい………だが、部下を纏められるかどうかは別だ)
皇帝に対しての彼の評価は変わったが、それだけの事だ。
皇帝の背後に居る宰相はこの援助の事をどう考えているのか、わからない。
宰相までが善意から援助してくれていると考えるほど彼は愚かではなかった。
「卿?」
「はっ………」
レオンに呼ばれて、パットンははっと我に帰った。
慌てて空咳を一つし、居住まいを正した。
「包囲しているドルク王国軍部隊は総勢二万。総指揮官は獣機動部隊司令官のヴァルツ=リバーエンドです。連中は何度か小規模な攻撃を繰り返していますが、大規模な攻撃は行っていません」
「だが、今回余が伏兵に襲われた事で、連中はこの城に余が居る事を知った。明日の朝にでも総攻撃があるかもしれないよ」
「ならば撃退するのみ。幸い、兵力は六千に膨れ上がりましたからな。十分に敵を翻弄できます」
パットンは鼻息も荒く自信満々に言い放った。
「パットン卿。わが国の方針は戦うべからずだよ」
「そのような事………今となってはもはや戦うしかありますまい!その為の我ら武人ではございませんか!」
「いや、卿。僭越ながら余もレオンと同じ意見だよ」
「陛下も?」
「うん。ルシタニアの掲げる専守防衛と言う理想は素晴らしい。何とか交渉で事を済ませる事が出来れば良いのだけれど」
「理想は理想、現実は現実です!専守防衛などと言っても現に敵は攻めて来ているのですぞ」
パットンは憤慨したかのように言い放った。
戦いを否定する事は彼ら武人を否定する事にも等しい。
確かにそれは彼らにとっては許容できない「理想」だろう。
彼らにとって重要なのは、目の前に敵が居ると言う「現実」、目の前の敵を倒すと言う「目的」なのだから。
その「目的」を果たす事こそが彼ら武人の存在理由なのだから。
「両陛下がどのようにお考えなされるもご自由です。もし可能ならば刃を交えぬ戦勝こそがもっともありがたい。しかし、もし両陛下が刃を交えぬために敗北をも辞さぬと言うのであれば私は従いかねます」
「卿………」
「祖国の大地を踏み躙られる位ならば、このパットン=カシュナート、命令違反も厭いは致しませぬ」
これぞまさに武人の心意気、か。
瞳に炎のような闘気を揺らめかせながら、パットンは言った。
「我ら武人は戦うために在るのではない。祖国に勝利を齎すために在るのですから」
「我ら武人は戦うために在るのではない。祖国に勝利を齎すために在るのですから………か」
開け放たれた窓から涼しい風が吹き込んでくる。
昼間は暑くともさすがは高峰に聳える山城である。
夜ともなれば風も涼やかになる。
湯を浴び、清潔な絹のローブに着替えて与えられた客間の椅子に座り、窓枠に両肘を乗せて手を組み、その上に顎を乗せる格好で、ラインハルトは先ほどのパットンの言葉を思い出していた。
眼下遠くに、無数の光点の揺らめきが見える。
城を包囲しているドルク王国軍の松明だろう。
敵の兵力は二万。ハルフィアに残してきた第三軍の兵力が二万七千。
このハルフィア城内の兵力が六千。
兵数では勝っている。
先の第一次ルテティアの戦いとはまた一味違う戦闘を行えるだろう。
戦力の再編を余儀なくされているルシタニア軍に代わり、フロレシア帝国軍が相手をするのだから。
とはいえ、そのフロレシア帝国も後顧の憂いが全くない訳ではない。
スタルナス帝国とルーナ帝国がパルディア王国に侵攻し、占領してしまったのだ。
この両軍がそのままフロレシア帝国領内に侵攻してくる可能性だって皆無ではない。
第四軍は臨戦態勢に入っていて国境付近に兵を集結させているようだが、第四軍の担当区域である南方にはもう一つ厄介な存在が居る。
それが砂漠の民だ。
驚異的な身体能力と巨大な動物をも乗りこなす彼らをフロレシア帝国臣民は蛮族として蔑んで来たが、その能力を恐れているのもまた事実。
最近この蛮族の動きも騒がしくなってきているのだ。
今までも幾たびとなくフロレシア帝国とぶつかり合ってきた砂漠の民。
皇帝が不在の時に蜂起されれば、やはり厄介としか言えない存在になる。
こちらに対する兵も残しておかねばならず、第四軍のコーデル=ハム軍団長は兵のやりくりに四苦八苦していた。その報告を齎した伝令には宰相への伝言として、
『傭兵軍団の南方派遣も考慮に入れる』事を含めて、第四軍への増援を送る事を命じてある。
既に帝都を発ってから一ヵ月近くが経っている。
このままいつまでもルシタニアの地に留まるわけにはいかなかった。
(せめて………ドルク王国をルテティアに押し戻してから帰りたい)
その事はレオンにも告げてあるが、それにしてもどうしてこの時期に重なるのか。 (ルシタニアでルシタニアとドルクの領土紛争、スタルナス帝国とルーナ帝国によるパルディア王国侵攻、南部蛮族の不可解な活発化………関係ないかもしれないけど、ロデン教が僕の命を狙ってる事………)
涼やかな風が柔らかい金髪を弄るのに任せつつ、さらに思考の奥底へと潜って行く。
(もしこれらが何らかの繋がりを持っているのだとしたら………)
ドルク王国がルテティア地方に武力侵攻した背後にはスタルナス帝国の影が見える。
暁の調査によれば、スタルナス帝国から大量の武器がドルク王国領内に送り込まれた形跡があると言う。
そしてそのスタルナス帝国のパルディア王国侵攻。
フロレシア帝国第四軍の動きを牽制するかのような蛮族の動き。
そして失敗したものの、皇帝を暗殺しようとするロデン教の動き。
結果的にもっとも得をした勢力はいずこか?
(………。ルーナ帝国、か)
フロレシア帝国の即動部隊と戦い、大きな被害を出したのはスタルナス帝国軍だ。
ルーナ帝国は僅かな労力で、パルディア王国の南部を領するに至った。
僅か二ヶ月あまりでルーナ帝国は国土を二倍半とした。
カール三世と言う男、並々ならぬ実力者と見るべきだろう。
全ての事象の背後にカール三世の姿があるような気がしてきて、ラインハルトは首を左右に振った。
「まさかね………」
自嘲とも受け取れる呟き。
カール三世はラインハルトより三歳年上、まだ十八歳の青年なのだ。
ほとんどラスカーナ大陸中の勢力を自在に操るなどそのような若者に果たして出来るのだろうか?
その時、彼の部屋がノックされた。
扉の外には警護役のヴァンが居る筈だが? (またか………)
時折ヴァンは姿を消すのだ。
何処に行っているかは知らないし、詮索する気もないが。
「えっと………兄上?もうお休みですか?」
それは義弟の、遠慮しがちな声であった。
「レオン?入って良いよ。鍵は掛けてないから」
「………失礼します」
扉が開けられ、くすんだ金髪に褐色の肌と真紅の瞳を持つ少年が入ってくる。
服装は軽装だが、寝間着ではない。
「こんな夜更けにごめんなさい」
「良いんだよ、それで、どうかしたの?」
「明日。ドルク王国軍の陣地に使者を出します。最後の和平交渉をしに」
「………うん」
「僕が行きます」
「レオン………!」
「僕が、行きます」
驚いて名を呼んだラインハルトに、レオンは強い口調で同じ言葉を重ねた。
ラインハルトは一瞬口を噤んだが、すぐに開いた。
「僕は反対しないよ………それがこの国の理想だから」
「はい」
レオンが頷く。ラインハルトは素早く、言葉を重ねた。
「だから、僕も行く」
「兄上!」
「僕も、行くよ。君と一緒に」
反論を封じられたレオンの瞳に、喜びが浮かぶ。
「………。ありがとうございます、兄上」
「でもこれだけは覚えててね、君はもう、殿下と呼ばれる身分じゃない。陛下と呼ばれる身分なんだ」
「………はい」
人間は平等だ。
命を一つしか有さず、標準的に目は二つ、耳は二つ、鼻は一つ、口は一つ、手は二つに足も二つ、指はそれぞれ五本の計二十本。
怪我をすれば血が出る。
楽しければ笑うし、悲しければ泣く。
愛する事も怒る事も憎む事も恨む事も、人間ならば誰もがする事だ。
それは真理だ。
だが、人間の価値が平等でない事もまた、真理なのだ。
身分の低い者の死と国王や皇帝の死では意味が大きく異なる。
平民の死は家族や知人を悲しませるだけだが、皇帝の死は国全体を滅ぼしかねない。
だからこそ、皇帝は自分の命を大切にしなければならない。
しかしそれは命に執着する事を意味しない。
何故ならば皇帝や国王が他者に比して尊重されるのはその両肩に圧し掛かる責任の差にあるのだから。一般の人々の生死を預かる者として、上に立つ者には大きな責任がある。
その責任を果たすためならば、皇帝や国王は己の命を惜しんではならないのだ。
それが故に、人間の価値は平等ではないのだから。
3 和平
帝国暦三三二年八月十九日、早朝。
ハルフィア城の城門が開かれ、白旗を持った一団が歩み出てきた。
馬に跨る者は二人。
ルシタニア連合王国国王レオン=ルシタニア。
フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザー。
城を包囲するドルク王国軍に動揺が走る。ここで彼らを討ち取れば、勝利は間違いない。
血走った眼で近づいてくる一団を待ち構えるドルク兵達。
しかしそこに、ヴァルツ=リバーエンドの伝令が馬を飛ばしながらヴァルツの言葉を告げて回った。
「手を出すな!出した者は容赦なく斬る!迎え入れよ!」
ヴァルツの言葉はもはや兵達の間では絶対的な物だ。
彼の力無くば、彼らは祖先の地を取り戻せなかったのだから。
今にも襲い掛からんとしていた彼らが伝令の声を聞いて動きを止めた。
ドルク王国軍の動揺が嘘のように鎮まっていく。
彼らは左右に退き、一団への道を開けた。
その入り口で、ラインハルトとレオンは馬から降り、一団から離れ、たった二人で歩き始めた。
「大丈夫なんですかねぇ~」
城の城壁の上から、左右に分かれたドルク王国軍の中を進んでいく二人の少年を見つめながら、アルベルトがのんびりと呟く。
「両陛下にもしもの事あらば、ただでは済まさん」
パットンは血走った眼差しで、食い入るように敵陣を見つめている。
城門の内側には五千の兵がいつでも駆け出せるように準備を整えている。
だがしかし、もしドルク王国軍が皇帝や国王を害そうとすれば、城内から部隊が突出したとしてもとても間に合うはずが無かった。
ただ彼らは最悪の事態にならない事をロデンの神に祈る事しか出来なかったのだ。
「降伏でもするのか?」
床机に腰を下ろした白髪の巨人、ヴァルツが自分と向き合うように用意された床机に腰を下ろす二人の少年に向かって問い掛けた。
「否。我はルシタニア連合王国の王として、ドルク王国軍の総指揮官と交渉に参った」
若々しい声ながらも、必死に王の威厳を演出するレオン。
褐色の肌には緊張のためか薄く汗を湛え、その真紅の瞳は潤んでいるようにすら見える。
「余は見届け人だ」
ラインハルトは蒼い瞳をまっすぐヴァルツの紫色の瞳に注ぎながら言う。
「交渉………とは?」
「撤退していただきたい」
「ふっ………王子、いや、国王さんよ。寝ぼけてもらっちゃ困るな。今勝ってるのはこっちだ。その俺達がどうして撤退しなければならん?」
「間もなく連合王国の全軍が集結する。そうすればドルク王国一国だけでは勝てまい」
「だったら兵を集めて攻めてくれば良いだろ?」
「我らルシタニアの国是は不戦にある。ぎりぎりまで交渉するが王たる者の務め」
「ご立派な理想だがよ、いまさらだな。こっちはもうルテティアに侵攻した時から連合王国すべてを敵に回す覚悟で居るんだ」
「どのような条件を出せば撤退してくれる?」
「ふんっ………そうさなぁ、あの城を貰おうか」
口の周辺に笑みを貼り付けたまま、ヴァルツはハルフィア城を指差した。
「あの城とはハルフィア城の事か?」
「おうよ」
「…………」
「勘違いしてもらっちゃ困るが、それだけじゃあねいぜ。俺も今回の戦いで全権を任されてる身だ。うちのお偉い方さんらは少なくともルテティアとルシタニアの西半分を切り取って来いと言ってる。だから、ルシタニアの西半分の割譲。これが撤退の条件だ」
「その条件は絶対に変更できないのかい?………何が起こっても?」
あまりにもな条件にレオンが沈黙した隙に、ラインハルトが口を挟む。
ヴァルツは眉毛をぴくんと揺らして、ラインハルトを見た。
「まるで何かが起きるみたいな言い方だな………」
探るような目つきで視線を注いでくるヴァルツを見返しながら、ラインハルトは昨日レオンが帰ってから部屋にやってきた人物との会話を思い出していた。
レオンが帰ったと思ったら再び扉がノックされた。
返事をするよりも早く、扉の向こう側の人物が声をかけてきた。
「陛下」
それは久しぶりに聞く、暁の頭領の声だった。
「………エシュア?」
「はっ」
扉を開けて入ってきたエシュアは相変わらずの鋭い眼差しをしていた。
「オルンヘル様より陛下の御様子を見て来るよう命じられまして」
ラインハルトは苦笑を浮かべて、首を左右に振った。
「それだけじゃないんでしょ?」
「はい、パルディア王国の姫君が亡命なさいました。南部がきな臭くなって来ましたので、陛下におかれましては早々にルーガにお帰りいただくようにとの言伝にございます」
「そう………エシュア、早く帰るために一つ頼みたい事があるんだけど、良い?」
「なんでございましょう?」
表情一つ変えることなく耳を傾けるエシュアに、ラインハルトは考えていた秘策を授けた。
エシュアはかすかに目を細めて、答えた。
「それは楽しそうですね」
「何かが、起こるかもね」
微笑とすら言える物を浮かべて、ラインハルトは席を立った。
「さ、行こう、レオン」
「でも陛下―――」
「大丈夫」
「一体何が起こるって言うんだ?」
怪訝そうなヴァルツ。
ラインハルトは微笑を深めつつ、首を左右に振る。
「それは言えないね。ただ言えるのは、こちらはこれ以上譲歩する気は無い、ということぐらいだよ。ね、レオン?」
「え、えっと、はい」
意味深な言葉を残して、ラインハルトとレオンは城に戻った。
ヴァルツは総攻撃の予定を延期して、様子を見る事にした。
(何を考えてるのか知らねえが。いっちょまえの事をする)
「レオン」
城に戻ったラインハルトはレオンの部屋を訪れていた。
レフが気を利かせて紅茶を入れてくれるのに礼を述べてから、レオンの真紅の瞳を真正面から見据える。
「実は南部の動きが怪しくなってきてね。近日中にルーガに戻らなければならなくなったんだ」
「そうですか………引止めはしません。兄上にはずいぶんとお世話になりましたから」
「うん。でももう一つだけ、していくよ」
「………?あ。さっきヴァルツに言ってた奴ですか?あれは一体―――」
「それは言えない。でも、明日には事態は変わる。連中はこの城の包囲を解いてルテティアに戻らざるを得なくなる。その時、僕達が追撃する」
「兄上!」
「ごめん。でも追撃するのはフロレシア帝国の軍だけだから。レオンはルシタニアの理想を破った事にはならないよ」
「…………そうするしかないんですね、やっぱり」
「ルシタニアが理想を叶えるためには使わない軍隊を整えるための時間が必要なんだ。その時間を稼ぎ出すために、僕達が敵を追い払い、フロレシア帝国に戻る」
「………わかりました。本当に兄上にはお世話になりっぱなしですね」
「良いんだ、レオンには危ない所を助けられたし、それに僕達は兄弟なんだから」
こうして睨み合いのまま、その日は暮れ、翌日二十日。
ドルク軍の陣営に一騎の伝令が血まみれの姿で現れた。
「一体何があった!?」
驚愕して吼えるヴァルツに、伝令は瀕死の重傷を負いながら、必死に報告した。
「昨夜、いきなり火の手が上がり、内側から城門が開かれ、怒涛の如くフロレシア帝国の軍兵が突入してきて、奮闘及ばず、ルテティアの砦は陥落いたしました!」
「………なんだって!?」
ヴァルツは憤怒の形相で、ハルフィア城を睨みつけた。
これこそがラインハルトがエシュアに授けた秘策。
彼はひそかに数千の部隊をルテティアに向かわせ、同時にエシュアを城内に潜入させて火を放たせ、城門を内側から開いて軍を引き入れたのである。
ドルク軍が手薄になっていた隙を突いた芸術的な奇襲攻撃だった。
ルテティアの砦が陥落した事で、ドルク軍は退路を失った。
動揺が軍全体に広まる。
このままもし連合王国の全軍と戦う羽目になれば全滅の可能性すらある。
ヴァルツは決断を迫られた。
そして、決断した。
「全軍撤退!敵が集結する前にドルクまで戻るぞ!」
ドルク軍が撤退を開始する。
しかし、広範囲に渡る包囲陣を撤退させるのは容易ではない。
突然の撤退命令に、ドルク軍が乱れ、混乱に陥った。
その一瞬を待ちわびていた者達が居る。
「城門、開け!………突撃!」
アルベルト=ウィーズリーに率いられた五千の軍勢。
その中にはラインハルトの姿もある。
五千のフロレシア帝国軍は一本の槍のような鋭い陣形で薄いドルク軍の包囲陣とぶつかり、これを食い破った。
一気に貫通し、方向転換し、再び別の場所に突進する。
ドルク軍はフロレシア帝国軍に散々に貫かれ、その陣は崩壊寸前だ。
そこへさらに追い討ちをかけるかのように、ハルフィア山の裾を迂回してきた二万余が攻撃に参加。耐え切れずに、ドルク王国軍は潰走した。
ヴァルツは最後まで踏みとどまって戦った後、巨大な黒馬に跨り、戦場を去った。
彼らはルテティア川を渡る所でエシュアを始めとするルテティアの砦攻略部隊の急襲を受け、焼け落ちたルテティアの砦ではなく、ドルク王国本国に向かって、逃げ去らざるを得なかった。
かくして、ルテティア紛争から発展した満月戦争はルシタニア・フロレシア連合側の勝利と言う形で幕を下ろした。部隊を集結させたラインハルトは城外でレオンと会った。
「このままお帰りになられるのですか?」
「うん。あんまり皇帝が不在だとやっぱり都合が悪いらしいんだ」
手ぬぐいで拭っただけで、まだ返り血の臭いを発散させながら、ラインハルトが微笑む。
レオンは夕日色の瞳を伏せて、
「寂しくなりますけど、仕方ありませんね。またいつでも遊びに来てくださいね、兄上」
「ああ、勿論。レオンもいつでもフロレシアに遊びに来てくれて良いんだよ」
「はい………負傷兵の方々はこちらで治療した後、送り届けますね」
「申し訳ないね」
「いえ。今回の勝利は我々だけであれば到底達成できなかったでしょうから」
「ありがとう」
「礼を言うのはこちらですよ、兄上。でも今度は僕も頑張ります。必ずルシタニアの理想を守るために、使わない軍備を整えてみせます」
今回の戦争には勝てたが、根本的な問題解決には至っていないのだ。
兵力を回復し、体勢を立て直して、ドルク王国は再び攻めてくるだろう。それを迎え撃つための用意をレオンは国王として先頭に立って指揮を取らねばならないのだ。大きな責任を双肩に背負った義弟に微笑みかけて、ラインハルトは励ますように明るい声で言った。
「うん、頑張って。………レオンならきっと出来るよ」
「はい!」
嬉しそうに目を細めて、レオンは大きく頷いた。
「それじゃあ………出発!」
「お元気で!」
「レオンも!」
手を振りながら、フロレシア帝国皇帝ラインハルト=シーザーは出発した。
「これで暫らくはドルク王国もおとなしくなるでしょう」
アミリア=ホーンが馬を並べながら、背後を振り返る。
ラインハルトも習って背後を見た。まだレオンは手を振っていた。しかし随分と遠くなっている。
遠くなるに連れて小さくなっていくレオンの姿を見つめながら、
「ドルク王国の背後にスタルナス帝国が居るのなら………まだこれだけじゃ終わらないかもしれないよ。ヴァルツも逃したし」
「でもこれで陛下の武勇とその義の深さはラスカーナ大陸中に鳴り響きますね」
青い髪の青年、オットー=セルバンが口元に笑みを浮かべて言う。
「盟邦を救った英雄って訳ですね」
アルベルトも笑う。まだ彼の頬にはヴァルツに殴られた痣が残っていた。
「義に篤い、か………。余がその評判を得るためだけに、何千人もの人間が死んだんだよ」
「陛下がルシタニアに兵をもってやってこなければ、ルシタニア連合王国は瓦解し、数十万人の人間が死んだかもしれないんです。亡くなった人々とその遺族には申し訳ないが、これは必要最小限の犠牲という奴でしょう。陛下が気に病む必要はありません」
「アミリア………カーンのことが心配なの?」
「なっ………どうしていきなりそういう話しになるんですか!」
「だってなんだか声が刺々しい―――」
「違います!あのような男、死んでも別になんとも思いません!」
「彼に死なれちゃ余が困るよ。彼は優秀な指揮官だもん」
「………。それは………まあ、認めますが」
「いやあ、妬けるなぁ、こんなに心配してもらえて」
「セルバン殿!」
「ははは!」
「さあ―――帰ろう、我が懐かしのフロレシアへ!」
『えい、えい、おおうっ!!』
皇帝の掛け声に、三万余のフロレシア帝国軍兵が一斉に勝鬨を上げた。
家路に着く彼らの足運びは非常に軽快であった。
ルト=リューベンの反乱に引き続いて、ラインハルト=シーザーはその名を大陸に轟かせた。
4 凱旋
帝国暦三三二年八月二十七日。
帝都手前の街で身なりを整えた後、出発したときには四千五百名だった兵が約二千名に減り、凱旋門を兼ねる朱雀門を抜けて、帝都ルーガに入ってきた。
迎える群衆はフロレシア帝国の国旗、《力強き銀獅子》を振り、紙吹雪を降らせ、大通りの両側に列を作って、ラインハルトを迎えた。
白馬に跨る、金髪、蒼瞳、白鎧に純白の戦衣を纏い、腰に覇皇剣を差した皇帝が笑顔で手を振れば民衆の歓声が爆発し、歓呼が沸き起こる。
「ジークカイザー・ラインハルト!」
「ジークカイザー・ラインハルト!」
「ジーク・フロレシア!」
「ジーク・フロレシア!」
皇帝ラインハルト万歳、フロレシア万歳の声が帝都の空を、大地を、街路を圧する。
多大な犠牲を払いつつも、盟友を救う義の戦いに身を投じた若き皇帝の姿。
常に前線にあって自ら剣を振るって戦った猛き皇帝。
国民の尊敬と憧憬の声に包まれて、ラインハルトはルーガ城へと戻った。
約一ヶ月ぶりのルーガ城。
懐かしさを覚えるには居た期間が短すぎるのだろうか?
なにしろラインハルトが皇帝になってから、まだ四ヶ月とちょっとしか経っていないのだ。
凱旋パレードを終えて、疲れきった表情で彼は皇帝私室に戻ってきた。
「おかえりなさい、ライン」
「………ただいま」 包み込むような穏やかな笑顔で出迎えたのは、ラインハルトの幼馴染、シエナ=クリケットだった。
途端、ラインハルトの胸に懐かしさが込み上げてくる。
彼女と離れていたのはわずか一ヶ月だけだというのに、永劫にも等しく感じる。
再会に二人ともそれ以上の言葉が見つからず、不器用に見詰め合うだけ。
「―――そこだ!ライン、押し倒せ!」
何処からとも無く聞こえてくる、妙に熱を感じる囁き声。
「えっと、怪我とかしてない?」
「う、うん………シエナのおかげかな」
「え?」
「これだよ」
驚いたように聞いてくるシエナに、懐に大事にしまってあるロデン神像を取り出してみせる。
途端、シエナの頬が朱色の絵の具を塗られたかのように赤くなる。
「持っててくれたんだ………」
「勿論」
何処と無くいい感じの雰囲気が二人の間に流れる………。
「今だ!そこで抱き寄せて、接吻だ!ほれほーれ、接吻!」
再び聞こえる囁き。
「は、ははは………」
「ふ、ふふふ………」
引きつった笑みをかわすラインハルトとシエナ。
ラインハルトはそろそろとソファに近寄り………
「―――何やってんの?」
ソファの裏に蹲る赤髪の剣士に呆れた視線と声を放る。
その剣士はびくんっと一瞬身を震わせてから顔を持ち上げ、ラインハルトと視線を合わせた。
「―――何してるように見える?」
ぎこちない笑顔で、聞いてくる。 ラインハルトは一瞬シエナと目線を交わらせてから、
「―――覗き?」
「俺が覗きするわけ無いだろう!」
「説得力皆無なんだけど」
「俺はただ単に取材してただけだ!」
「………取材?」
「そうだ!これは特種だぞ!………皇帝と侍女の熱愛発覚!目撃者匿名希望さんによれば彼らは凱旋してきたその日から夜な夜なあんなことやこんなことやそんなことやそこまでやってしまうほどの熱愛振り!」
「―――で?」
「いや、で?とか聞かれても………」
困ったように赤い髪を掻き、アレク=ハーベスト第一軍第一歩兵師団長がソファーの裏からようやく身を起こす。
それから徐に片手を上げ、
「よ。久しぶりじゃねえか。こんなところで会うなんて奇遇だな」
「いまさらって感じの挨拶な上にここはこんなところではなく僕の私室なんだけど」
「気にするな!」
「それよりもアレク、どうしてここに?」
「ん?シエナ、背後に怒りのオーラが見えてるぞ」
「そう、それは良かったわね。それで?」
「んんっ!?………なんだか危うい気分だな、おいライン何処へ行く?」
「いや、アレクの傍に居ると危ないから―――」
「はっはっは。一体何が危ないというんだ?俺はただ、おまえとシエナが感動の再会そしてゴールインというべたな展開に陥るのが癪だったから邪魔しに―――」
「鉄拳!」
「ぐおろべっ!?」
「うわぁっやっぱ巻き添え!」
シエナ、渾身の拳がアレクとなぜかラインを吹き飛ばす。
「うー………イタタ」
「帰ってくるなりめでたい連中だな、おまえらは」
「あいつが暴力女なだけだって」
アレクが不機嫌そうに返す。
ラインハルトは殴られた際に強打した後頭部のたんこぶを気にしつつも無言。
そして残るもう一人、シオン=クリケットが苦笑混じりに手酌で酒を飲む。
「人の妹をなかなか言ってくれるじゃねえか」
「だって本当の事でしょうが」
「………まあ、否定はせんが」
シエナはあれでなかなかの武闘派なのだ。
ここは帝都の中にあるシオン卿の屋敷。
呼び出された名目は陛下凱旋の小祝い。
とはいえ、集まったメンバーもほとんどが帰り、深夜を過ぎた今でも残っているのはこの三人のみ。
まだ十七歳ながらも、アレクはかなり飲む方だ。
しかし、シオンは彼以上の酒豪だ。
現にアレクが酔い潰れ掛けているのに、まだシオンはほんの少し顔を赤く染めた程度。
全く酒の飲めない―――飲まないだけか?―――ラインハルトであったが、一応主賓という事で帰る事を許されていなかった。
本当はシエナにルシタニアでの出来事を話したかったのに。
「あの、そろそろ僕は―――」
「シエナといちゃつこうたって駄目だぜ」
「そうだ。俺の妹はおまえにはやらん」
「結局邪魔したいだけ!?」
「朝まで付き合え!」
「そうだそうだ。年長者の言う事には素直に従っとくもんだ」
「僕一応皇帝なのに」
結局ラインハルトは朝まで解放されることは無かった。
「うぃー」
何とか解放され、私室に戻ってきた頃にはとっくに夜が明けていた。
とにもかくにもベッドに転がり込んだラインハルト。
開け放たれた窓から入ってくる朝の涼風がそっと彼の金色の髪を撫でていく。
既に夏の気配も濃く、昼ともなれば気温もかなりあがる。
しかしまだ朝方、風も暑さよりは涼しさを運ぶ。
思えばずっと野営続きで、この一ヶ月間こうしてふかふかのベッドに横になったことなどほんの数回しかなかった。
「朝帰りとはなかなか良いご身分よね」
「っ!?」
声と共に振り下ろされた怒りの鉄拳を辛くも避け、ラインハルトは転がるようにベッドから起き上がった。
「し、シエナ!?」
銀色の髪を逆立て、金色の瞳を吊り上げた幼馴染の姿に、戦慄を覚える。
「朝帰りって言ってもずっとシオン兄の家に居たんだ!」
「そして乱交パーティーですか!ふしだらな!」
「ら、乱交………って、何を妄想してんの!?」
「問答無用!」
「うぎゃーっ!ヴぁ、ヴァン!助けて!」
思わず救いを求めるが、黒髪の剣士は動かず。
彼は皇帝の身に生命の危機が無い事を知っているのだ。犬も食わぬは夫婦喧嘩。
忠実な番犬である彼でも、二人の間に割って入るような無粋な真似はしなかった。
数十分後。
「………ま、参った………」
関節を極められ、気絶寸前のラインハルト。 「うう、シエナ、本当に誤解なんだって。シオン兄とアレクが帰してくれなかったんだよ」
「まだそんな事を!問答無用といったはずです!」
「ううっ………本当に死ぬぅぅぅ………ああ、花畑が………カロンの花が咲いてる花畑が見えるぅ」
「―――シエナ殿」
さすがに洒落にならないと思ったのだろう、ヴァンがそれまで凭れかかっていた壁から背を離し、シエナに声を掛けた。
「何よ!」
「―――陛下の仰っている事は本当です」
シエナの剣幕にも動ぜず、ヴァンはそう告げた。
「えっ………」
途端に力を緩めるシエナ。頬を朱に染めつつ、ヴァンに問い掛ける。
「それ、本当?」
「―――はい」
「………」
無言で、ラインハルトから離れるシエナ。
そして、顔面を一撫で、そして大仰な身振りでラインの身を揺さぶって、
「大丈夫!?ライン!………気絶寸前じゃないの!誰に殺られたの?私が仇を取ってくるわ!」
「………。ふう、悲劇というよりは、喜劇………むしろ、茶番劇だね、これ」
ラインは微かに苦笑を浮かべて、呻いた。そのまま、ふ~と意識が遠退く。
そのとき、扉を開けて室内に入ってきた者が居た。
呆れた様な吐息を一つ吐き、男は白髪の混じり始めた黒髪を撫で付けた。
「朝っぱらからなにをいちゃついとるんだ、おまえらは」
その声に、遠退きかけていたラインの意識が現世に戻ってくる。
「父さん!」
「お父様!」
パッと離れ、姿勢を正す自分が育てた義理の息子と実の娘を交互に見やり、さらに嘆息。
「どうやら一ヶ月の戦いによる疲労は無いようだな、ライン」
「いや、まあ………疲れてるけど」
その表情は明るい。
その理由を察して浮かびかかった苦笑を胸裏に仕舞い込み、難しい顔をしてみせる養父。
「あまり状況は良いとは言えないぞ」
「うん………パルディア王国が攻められたんだって?」
「ああ」
「第四軍と………第六軍は?」
「今は待機中だ。第四軍には蛮族の相手もしてもらわなければならないし、第六軍の相手はあのキエフ=ロドリナスだからな」
「どっちも容易に攻められる相手じゃあないって事だね」
「それに財政的にもこれ以上の戦争はまずいな。農民の困窮はますます進み、もしここで何らかの戦闘行動を起こせば宝物庫の財宝を売り払っても秋まで持つかわからん」
「わかった………対策を考えてみるよ」
「無理はするな。体を気遣うのも立派な皇帝の仕事だ」
「うん」
「ところで―――」
オルンヘルが言い難そうに口ごもる。
その視線はラインハルトとシエナの間を漠然と泳いでいるようだ。
彼にしては珍しいこの態度に、思わずラインハルトとシエナが顔を見合わせる。
「昨日は………したのか?」
場に沈黙が下りた。先にその意味を理解したのは、シエナの方だった。 顔を熟れたトマトのように真っ赤にしながら怒鳴る。
「そんなことしてないわよっ!お父様の馬鹿!」
「ぬう。心配しておる親に対してなんたる口の聞き方だ」
「良いから出てってよ!」
「わかったわかった!………全く、粗暴に育ったものだ―――」
「早く出てってよ!」
「うわっ」
世にも珍しい宰相の悲鳴。
その頃になってようやく先ほどのオルンヘルの言葉の意味を理解して、ラインハルトも真っ赤になる。
互いに意識するためか、場には奇妙な沈黙が降りた。
「シエナ………」
「お帰りなさい、ライン」
シエナの暖かな微笑がそこにはあって。
だから、ラインハルトも穏やかな気持ちで自然と微笑を浮かべる事が出来た。
「うん。………ただいま」
その場に和やかな空気が流れ―――。
「ねえ、ライン」
「何?」
「昨日は本当に何もしてないの?」
「なんもしてないよ!」
『ルシタニアの動乱』 完