覇皇伝
第四章 ルシタニア戦線
第四章 ルシタニア戦線
1 ルシタニアの敗北
時は遡って、帝国暦三三二年八月三日早朝。
ドルク王国軍の突撃は予想以上に苛烈だった。
俄仕込みのルシタニア軍ではまともにぶつかり合ったそこから崩れたつ。
「何とか支えるんだ!このままじゃ、全滅してしまう!」
白馬に跨り、抜き身の剣を振り回しながら、自分自身蒼白になりながらラインハルトは叫んでいた。
ルシタニア軍の先陣はまさに葦のように薙ぎ倒され、ドルク王国獣機動部隊の足を一瞬たりとも止める事は出来なかった。
激しく吹く戦場の風に黄金の髪を揺らしながら、その青い瞳をしっかりと前方に据えて、ラインハルトは戦っていた。
ドルク王国軍とフロレシア帝国軍の先鋒、カーン=オルベニーの率いる二千五百がぶつかり合い、そこだけ戦況が膠着していた。一進一退の戦いを繰り返す両軍。
この一局面だけを見れば、戦いは互角のようだった。
しかし―――。
「ルシタニア軍左翼、崩されました!」
「ルシタニア軍右翼、敗走中!ドルク軍はこれを追撃中!」
駆け込んでくる伝令達が齎す報告はどれも芳しくない物だった。
ルシタニア軍は全面的に崩壊しつつあり、唯一、レオン=ルシタニアの部隊だけがその場に踏みとどまって戦っていた。
(このままじゃ、囲まれる!)
両翼の部隊が崩れた今、中央軍は側面からも後背からも攻撃を受ける可能性が出てくる。
そして現に、敵部隊の一部は相手の虚を自らの実で撃つべく、移動を開始している。
兵力では勝っていながら、恐慌状態に陥ったルシタニア軍には成す術とて無い。
「陛下っ!陛下ぁっ!」
前線から一騎の騎馬が人々を掻き分けるようにしてラインハルトの元へと近づいてきた。
馬の上で、真っ赤に染まったカーン=オルベニーがラインハルトの姿を見つけ、声を張り上げた。
「ここは俺達が引き受ける!陛下はスフィンへ撤退を!」
返り血で真っ赤に染まったカーンの姿は無言の内に戦いの物凄まじさを物語っている。
「だが、まだレオンが戦っている!」
「そんな事―――」
カーンが反論しようとした、まさにその時、ラインハルトの前に転がるようにして伝令が飛び込んできた。背中に矢が突き立っているが、本人はそれに気付いていないようだ。それほどまでに、戦況は切迫しているのだ。
「報告!ルシタニア軍は総崩れ!レオン=ルシタニア殿下撤退中!殿下よりの伝言、『兄上もお引き上げください』!では、御免!」
そう告げるとルシタニア兵の伝令はレオンの元に戻るためだろう、そのまま駆け去って行った。
「陛下っ!」
「わかった、我々はルシタニア軍の殿を勤めながらスフィンに撤退する!」
「殿軍、承った!」
槍で空を薙いでから、カーン=オルベニーが馬首を翻す。
「カーンっ!!死んじゃ駄目だ、スフィンで会おう!!」
その背に、ラインハルトは怒鳴っていた。
振り向きもせず、槍斧を高々と掲げて、歩兵連隊長は戦場へと駆け去って行った。
既に四方は敵に取り囲まれ、さながら濁流に飲み込まれんとする中州が如し。
ラインハルトの白亜の甲冑を目指して襲い掛かってくるドルク兵をアミリア=ホーンやヴァン=ブレイス、近衛騎士達が散々に切り伏せながら、撤退する。
ラインハルト自身も汗を拭うのも忘れて、剣を振るい続けた。
だが、振るっているだけで一向に敵を倒す事が出来ない。精々が牽制ぐらいにしか役立たなかった。
一方―――。 前線は更なる乱戦と化していた。
押し寄せるドルク軍と徐々に後退しながら、かつ隊列を乱さないように戦わねばならないのだ。
柔軟な指揮能力を要求される殿を、カーン=オルベニーは何とか過不足なく果たしていた。
(とはいえ、オットーならもっと上手くやるんだろうが………)
そのオットーはラインハルトの計らいによって、レオンのルシタニア軍に参加している。
今撤退中のルシタニア軍の殿はおそらくオットーが勤めているのだろう。
戦域は徐々に東に移っていく。
(そろそろ陛下は脱出したか?)
ラインハルトも敵と戦いながら、後退を続けていた。
しかし、カーン=オルベニーの部隊だけで抑えられる敵の数には限りがあり、幾割かはカーン部隊の横を擦り抜けて、ラインハルトの下にも向かっている。
ラインハルトの身を守るのは一千の近衛騎士とアミリア=ホーン、ヴァン=ブレイスのみ。
「連隊長殿!」
馬を寄せてくる騎士に、カーンは目を向けた。
歩兵連隊である彼らの中にあって、馬に乗っているのは指揮官のカーンと中隊長だけだ。
そして、馬を寄せてきたのはその中隊長のハレック=イミュシュティだった。
「どうした、ハレック?女房が恋しくなったか?」
「まさか。それよりも精霊具は?」
「駄目だ。こんな乱戦じゃあな」
しゃべりながらも、互いに周りの敵を切り倒す作業は止めない。
瞬く間に二人の間に屍の山が築かれていく。
カーンの持つ槍斧は精霊具であり、《風の槍斧―ヤーナス》と言う。
強力な精霊具だが、攻撃範囲も広くなかなか使えない。
下手をすれば味方をも巻き込んでしまう。
「かといってこのままじゃ………」
その時、戦場の空気がざわめき、敵の攻撃が勢いづいた。
飛び掛ってきた数人のドルク兵を瞬時に地に這わせながら、舌打ちを一つ、
「また誰かがやられたな」
指揮官―――中隊長など―――が戦死するたびにドルク兵は雄たけびを上げ、勢いを増して攻めかかってくる。
どのように楽観的に考えたとしても、戦線を維持できる限界が近づいている。
「連隊長、俺が食い止めます。その間に後退してください」
「馬鹿言ってるんじゃねえよ、何で俺が逃げる」
「逃げるんじゃなく、陛下を守りに行くんですよ」
言って、馬首を翻そうとするハレック。
カーンはそれを鋭く呼び止めた。
「馬鹿野郎!おまえには嫁さんも今度生まれてくる赤ん坊も居るんだろうが!」
「だからですよ、連隊長」
ハレックは朗らかな笑顔で言った。それはカーン=オルベニーが小隊長となり、初めて彼が部下になった時から全く変わらない笑顔だった。
「俺は男としての勤めを果たしましたよ。それにサリアはきっとわかってくれます。この俺の惚れた女なんだから」
「だからっておまえ………」
「連隊長はまだ一人身なんすから、ここは俺に任せといてください」
朗らかな笑みを浮かべたまま、乱戦の渦の中に雄叫びを上げながらハレックは飛び込んでいった。
彼と彼の率いる中隊の働きによって、ドルク軍の攻撃が一瞬怯んだ。
その隙に、カーンは生き残っていた部隊を纏めて、戦場から引き上げる事に成功した。
獅子奮迅の働きとはまさに彼らの事を言うのであろう。
僅か二百名足らずの兵力で数十倍の敵をその場に釘付けにする。
仲間が倒されても怯まず、むしろさらに奮戦する。
あれほどの勢いを持って攻撃していたドルク軍が攻めあぐねていた。
五分、十分、三十分、一時間経っても、ハレックはドルク勢の前に立ちはだかっていた。
何人分もの返り血を浴びて真っ赤に染まり、その場に倒れこんで前後不覚で眠りたい程の疲労感のせいで思うように動かせない体を踏ん張り、人体の脂で切れ味の鈍った剣を敵に突き刺す。
もはや彼の周りにはほんの数人の部下しか残っていなかった。
唐突に、ドルク軍が引いた。
彼らを遠巻きにして、まるで様子を窺っているかのようだ。
「へへ………もう、動けねえ」
ハレック=イミュシュティはその場に尻餅を着き、甲冑の懐に手を突っ込んだ。
血でぬるぬるになった手で掴んだのは、ルーガの似顔絵師に書かせた妻のサリアの肖像画だった。
本人よりも多少美化されて描かれているその絵に頬を摺り寄せて、ハレックは泣いた。
「サリア………すまねぇ………生まれてくる赤ん坊を、頼んだぞ」
やがて、彼らを囲むドルク軍の壁が左右に崩れ、白髪の巨漢が進み出てきた。
紫の瞳に、獰猛な笑みを浮かべた巨漢は彼が扱うにはあまりにも小さいと思える剣を持って進み出てくる。その巨漢を見上げて、ハレックはいよいよ自分の最期を悟った。
「ヴァルツ=リバーエンド………」
「おまえのおかげで、レオン=ルシタニアにもラインハルト=シーザーにも逃げられたぞ」
言いながらも、ヴァルツの口調に非難の色は見えなかった。
ハレックは妻の似せ絵を懐に仕舞うと、もはや刃こぼれしてほとんど剣としても使い物にならなくなってしまっている剣を支えに、身を起こした。
体の底にたまる疲労のせいで、足が震える。
ヴァルツがそれを見抜けなかったわけではないだろう。
しかし、彼は何も言わなかった。
恐らくはハレックが死ぬ覚悟でいる事も見抜いたのであろう。
だからこそ、無言で剣を構えた。
疲労しきった相手を嬲る為の構えではなく、敬意を表すべき真の勇者を倒す為の構えを。
「中隊長殿、ここは我らが―――」
「いや、お前達は下がっていろ」
自分達も疲れているであろうに、上官を労わる部下達の言葉を遮って、ハレックは屹然と立った。
「フロレシア帝国軍第一軍第一歩兵師団第一歩兵連隊第二中隊中隊長、ハレック=イミュシュティ」
「長い名乗りだな。ドルク王国軍獣機動部隊司令ヴァルツ=リバーエンド」
二人が名乗りあった瞬間、この戦いは助太刀無用の一騎打ちとなった。
「容赦はしないぞ」
「無論だ」
ヴァルツの言葉に応じ、ハレックが駆け出した。
普段の彼を知る者ならば、その動きは途方もなく緩慢に映っただろう。
しかし、今の彼にとってはそれが精一杯の速度だったのだ。
ヴァルツは動かず、その山のごとき体躯を聳えさせて、突っ込んでくるハレックを待ち受けている。
ハレックがヴァルツの剣の間合いに飛び込んできた、瞬間、ヴァルツは言葉どおり情け容赦なく剣を振り下ろした。
だが、その剣は虚しく虚空を薙ぎ、草を切り払っただけだった。
その一瞬前に、ハレックの姿は空に移っている。
最後の力を振り絞って跳躍し、全体重を乗せた一撃をヴァルツに突き刺そうと言うのだ。
振り下ろすハレックと振り上げるヴァルツの姿が交錯した。
「っ………」
苦痛に顔をゆがめたのは、ヴァルツの方だった。
ハレックの剣が彼の頬を浅く裂き、さらに彼の盛り上がった肩の筋肉に深々と突き刺さっていたのだ。
どさっ―――。
やや離れた場所に、ハレックが落下する。 逆袈裟懸けに切り上げられた傷から大量の血が流れ出し、もはや助からないのは明白だった。
「なかなか、やるな」
肩に突き刺さった剣を抜き、放り捨て、ヴァルツがハレックに近寄る。
もはや意識も朦朧としているであろうに、ハレックはやはり朗らかな微笑を浮かべていた。
「やっぱあんた強いなぁ」
その声には素直な賛嘆の響きしかない。
ヴァルツは自分の剣を鞘に収め、ハレックの傍にしゃがみこんだ。
「おまえは真の戦士だ。誰かに伝えたい言葉はないか?」
ハレックの部下を手で招き寄せながら、ヴァルツが問う。
「ごふっ………」
何かを答えようとしたハレックの口から鮮血が零れた。
「………」
ヴァルツは無言でハレックの口の中に指を突っ込み、口の中の血を吐かせた。
「妻………に、つた、えてくれ………あ、愛し、てると」
「妻の名は?」
「さ、サリ、ア」
「サリアか。安心しろ。おまえの部下が必ず、おまえの伝言をおまえの奥さんに伝えてくれる」
ヴァルツに頭を支えられて、ハレックは安堵したかのように微笑んだ。
「ごぶっごほっごほっ………!」
「中隊長!」
激しく咳き込み、大量の血を吐くハレックの姿に、蒼白な表情をした部下が取り縋る。
だが既に、ハレックの意識は遠くヴァルハラに消えていた。
「真の勇者ハレック=イミュシュティに、ロデンの神の救いあらん事を」
胸の前で十字を切るような仕草をしてから、ヴァルツは白髪を翻して立ち上がった。
「砦に戻る、軍を退け」
彼の命令に従い、ドルク軍が引き上げていく。
「必ず、ハレック=イミュシュティの言葉を伝えろ」
「は………はいっ!」
ハレックの部下が頷くのを見届けて、ヴァルツはルテティアの砦へと引き上げていった。
残されたハレックの亡骸は、しかし自分の成すべき事を為し、満足しているように微笑んでいた。
彼の部下はハレックの髪を一束切り取り、遺髪とした。
戦場となったルテティアの平原は、草が薙ぎ倒され、無数の屍が転がる地獄となっていた。
ルテティア川は死者達の血が流れ込んで真っ赤に染まり、空は暗く曇り、風はまるで死者達の怨念の雄叫びの如く吹き荒れた。
戦場に咲くと言われる弔いの花、カロン。
血のように真っ赤な四枚の花弁を持つこの花だけが、多くの人間の血と怨念を飲み込んだ戦場に彩りを添えていた。
カロンの花の甘い香りが、鎮魂の歌のように戦場の空気を癒していく。
戦いは終わった。
しかしそれは、新たな戦いの始まりを告げる鐘の音でしかなかった―――。
かくして、第一次ルテティアの戦いはルシタニア・フロレシア連合軍の惨敗と言う形で終息したのだった。
ルシタニア王国とドルク王国の、ルテティア地方を巡る泥沼の戦いは、この戦いを序章として始まった。
この戦いで死んだ者達は、さながら、長きに渡る戦いに勝つべく、戦の神に捧げられた供物のようであった。
数千人の血を吸って、ルテティアの大地は今なおそこにある。
戦いは、今まさに、始まったのだ。
2 銃後
ルテティアにおいて、フロレシア帝国・ルシタニア王国連合軍、ドルク王国と争い、敗れ去る。
この報告は第一次ルテティアの戦いの三日後の六日にはフロレシア帝国帝都ルーガにまで伝わった。
幾多の伝令を介し、運ばれた情報が留守居役を命ぜられていた宰相のオルンヘル=クリケット伯爵の元へと届けられる。
そして同時に、既に北方の第三軍より二個歩兵師団、二個騎兵師団、計三万名がルシタニア領内に派遣されたことも報告された。
「陛下は………ラインハルト陛下は御無事か?」
オルンヘルの思いはすべて、この質問に凝縮されていると言える。
と言うよりも、ルシタニア軍とドルク軍とでは戦闘実績いわば経験の面からして既に格段の差がある。
戦慣れしている部隊と戦慣れしていない部隊が戦えば、戦慣れしている部隊が勝つのは自然の理なのだ。
多少の兵力の寡多などこの際何の意味もなさない。
そこへ戦慣れしているフロレシア帝国軍が参加したと言っても、その数は僅かに四千五百。
とても戦況を覆す事が出来るほどの数ではない。
と言うよりもこの四千五百はルシタニアを戦勝に導くための援軍ではなく、飽くまで皇帝ラインハルト=シーザーの身を守るための部隊なのだ。
「はっ、陛下は無事スフィンに撤退なされました。残った兵力はおよそ三千」
「そうか………」
皇帝が無事と聞いて、それまで固く強張っていたオルンヘルの表情がほんの少しだけ和らいだ。
昨日には南方でスタルナス帝国とルーナ帝国の連合軍がパルディア王国に侵攻、これを制圧したという報告も届いている。
そのパルディア王国の王城から脱出してフロレシアに亡命を希望している王女レイシア=パルディアスはまだルーガには到着していないものの、恐らくはルーガの地で亡命パルディア政府を樹立する事になるだろう。
山積の問題に頭を抱えかけたオルンヘルは所在無く立ち尽くす近衛騎士をようやく思い出した。
「湯にでも入り、ゆっくりと体を休めよ。下がってよし」
「はっ」
近衛騎士は自分の存在をようやく思い出してもらえ、安堵したように敬礼して帝国府の一角に設けられている宰相の執務室から出て行った。
シエナ=クリケットは皇帝ラインハルト=シーザーの侍女として、日々彼のために働いている。
彼が留守の間も、彼の部屋を掃除するのは彼女の勤めである。
だが、汚す人間がいなければ部屋が汚れる事も無く。
形だけ掃除をして、シエナは仕事を終えた。
彼女は侍女や女官の休憩室を訪れた。
いつもは常に数人の侍女や女官が集まって談笑しているその部屋も、まだ午前中とあって閑散としていた。
それでも、一人だけ、侍女が居た。
オルンヘル=クリケット伯爵付きの侍女、サリア=イミュシュティだ。
彼女は部屋に飾られている花の手入れをしているようだ。
小さな植木用の鋏を器用に使って、葉の形を整えている。
花は満開に花開き、その清楚で可憐な白い花弁は殺風景な部屋の中にあって実に目に鮮やかであった。
そして、その甘い香り。
しつこくなく、さわやかな甘味の香りが部屋の中に満ちていて、癒しの空間を演出していた。
「サリア」
シエナが呼びかけると、サリアは鋏の手を止めて、シエナを振り返った。
「あら、シエナ?………今日は随分と早いのね」
「貴方こそ。どうしたの?」
「オルンヘル様に前線から伝令が来たのよ」
そこで初めて、シエナはサリアの表情が憂いに翳っていることに気付いた。
「そう言えば、サリアの旦那さんは確かカーン=オルベニー様の下で―――」
「ええ。カーン様の下で中隊長をしているわ」
「今はルシタニアね」
「ええ―――」
サリアの表情は一層優れない。
シエナの胸裏を一抹の不安が過ぎる。
「ルシタニアで何かあったの?」
「私も少ししか聞こえなかったんだけど―――どうやらドルク王国に負けたそうよ」
「………。そう」
「私、ハレックのことが心配で心配で、もし彼に何かあったら―――」
泣きそうな表情で、そっとお腹を抑える。
彼女のお腹の中には、小さな新しい命が宿っているのだ。
「大丈夫よ」
サリアを元気付けようと、シエナは己の不安感を無理やり押し込めて、勤めて明るい声を出した。
「貴方のご主人は勇猛な人だもの。それに貴方のご主人はあのカーン=オルベニー様の配下なんだから。彼がまだ小隊長だった頃からの腹心なんでしょ?」
「ええ―――でも」
「サリア!………貴方が信じてあげなくてどうするの!」
「シエナ………」
シエナの思わぬ強い口調の言葉に、サリアははっと息を呑んだ。
それからその瞳に力を宿して。
「うん………!ハレックなら、大丈夫よね!」
「そうよ。彼ならきっと無事よ」
「うん………ありがとう、シエナ………私一人だったら、不安で不安で、押し潰されてたかもしれないわ………シエナは本当に強いのね」
「え?」
「だって、陛下の心配を全然してないんだもん………シエナは心の底から、陛下の事を信じてるんだね」
「…………」
果たしてそうだろうか?
(私は………ラインの事を信じてるのかな?)
今はサリアを励まさなければと思っただけで、もし彼女が居なければ、自分こそ不安に押し潰されていたかもしれないではないか。
(私はラインの事を信じてない………?)
もし彼が死んでしまったら………。
そんな想像はした事すら無かった。
今まで、ローデンスの片田舎で暮らしてきて、命の危機なんてありもしなかった。
ローデンス湖に落ちて溺れ掛かった時はあっても、どこか死を迂遠な物と考えてはいなかっただろうか。
何処か遠い世界の話だと思ってはいないだろうか?
(私はただ『死』というのに鈍感なだけ………?)
考えれば考えるほど、思考の深みに嵌まっていく。
自分がどれほど気楽だったかを思い知って、急に今ラインが居る場所がとてつもなく危険である事に気付いたのだ。
頭を棍棒で殴られたような気がした。
自分はラインにロデン神の像を渡したが、あれは戦場と言う場所を本当の意味で理解して、その上で渡したのではなかったかもしれない。
自分のことなのに、酷く曖昧な気がした。
「シエナ?ちょっと、シエナ、大丈夫?」
「え………あ、う、うん」
いつのまにか崩れるように椅子に座り込んでいた彼女を心配そうに見つめて、サリアがそっと背を撫でてくれる。
その暖かで穏やかな感じに、シエナは安堵感を覚えた。
(私がラインを信じなきゃ………今までは信じてなかったかもしれないけど、これからは信じよう………ラインが帰ってきたら、謝ろう)
「―――ありがとう、サリア」
「え?………あ、いやこのぐらい別に」
感謝された事を背を撫でていることに対する物と誤解して、サリアが恐縮する。
今は気さくに話し合う友達だが、それはシエナがこのルーガ城に勤めるようになってからの四ヶ月と言う時間が大きな役割を果たしている。
平民出のサリアは最初、片田舎のローデンスとはいえ伯爵位を持ち、しかも宰相であるオルンヘル=クリケット伯爵の令嬢ということでシエナの事を随分と敬遠した物だ。
その態度をここまで軟化させるのに四ヶ月を要したのを、人によっては短いと捉えるかもしれないし、或いは逆に長いと捉えるかもしれない。
「私も貴方が居なければきっとライン―――陛下の事を心配して不安で押し潰されてたわ」
「シエナ………」
「お互い様って事ね」
「ふふっ、でも良いなぁ、シエナは」
「―――何が」
サリアの口調にからかいの要素を見出して、シエナがやや鼻の先に皺を寄せる。
「なんだか、シエナが初々しくって。出張してる旦那を待ってる新婚の奥さんみたい」
「なっ―――」
途端に真っ赤になるシエナ。
「私は別にラインのことなんか―――あ」
「陛下を愛称で呼び捨て。シエナの特権だよねぇ」
「ラインって呼ぶのは私だけじゃないわよ」
「知ってるわよ。オルンヘル=クリケット伯爵、ハーン=ハーベスト第一軍司令官、アレク=ハーベスト第一軍第一歩兵師団長、シオン=クリケット第二軍司令官、それに貴女。貴女以外は錚々たる面々よ。さしずめ、帝国の政治と軍事の要って感じ」
「どうせ私は父上と兄上のついでみたいなもんよ」
「いじけないでよ。それに多分陛下にとって、貴女が一番大切な存在よ」
「一番大切な存在………?」
「そ。貴女は陛下の心の支えなのよ。他の方達が帝国の要なら、貴方は皇帝その人の要って所」
「…………」
「ああっ!なんだか自分で言っててなんだけど全身が痒くなっちゃった。慣れないことは言うべきじゃないわね」
朗らかに笑う、三歳年上のサリアの言葉に、シエナも自然と笑顔を浮かべていた。
その頬は朱に染まっている。自分がラインの心の支えになっている。
その言葉と言う果実を噛み締めると、嬉しさという甘い果汁が胸と言う口一杯に弾ける様だ。
(でも、それを言うならラインこそ、私の心の支えよ)
「ふふ、その顔よ」
「え?」
サリアに指差され、思わずきょとんとするシエナ。
「新婚初夜の新妻みたい」
「なっ………それを言うんだったらサリアなんて正真正銘出征中の夫を待つ新婚さんじゃないのよ」
「ええ、まさにそれね」
年上の余裕を取り戻して軽くかわすサリアに、シエナが頬を膨らませる。
だが既にその心の中に、不安感は微塵も無く。
穏やかな表情に戻ると、シエナは枝葉を整える作業に戻ったサリアの背中に向かってかすかに頭を垂れた。
(………ありがとう、サリア)
「だぁぁぁぁっ!!ルシタニアに行きたい行きたい行きたい!」
「駄々を捏ねるな!ガキか、おまえは!」
所かまわず大声を上げるアレクに辟易して、思わずこちらも大声を出してしまったのは二十代後半から三十代前半と思しき背の高い男だった。
端正な顔をしていて、女性にもてそうだが、今は激務に憔悴している。
オルンヘル=クリケットの息子にしてシエナ=クリケットの兄、帝国軍六将軍の一人、第二軍司令官シオン=クリケット男爵その人である。
ちなみに帝国軍六将軍とは六個の軍団の軍団長の事だ。
「アレク、おまえ、師団長としての職務はどうしてるんだよ」
「リーナに任せてるよ」
妹と同じ銀色の髪を掻き混ぜて、これまた妹と同じ金色の瞳で相手を見据える。
その相手は炎のような赤い髪をした青年で、まだ子供の頃のあどけなさも残している。
「ったく、自分の仕事を全部副官に押し付けて、おまえは俺の仕事の邪魔か?その内、あの大鎌の錆になるな」
呆れたように言ってやるも、アレクは全く悪びれない。
アレク=ハーベストはラインハルト=シーザーともども、シオン=クリケットにとっては弟のような存在だ。妹しか持たなかった彼は、ローデンス時代はよく二人を連れてあちこちに遊びに行った物だが。今では三人とも忙しい身の上だ。皇帝、軍団長、師団長。
(いやはや、数年前からは想像も付かないな)
まさに現実は小説よりも奇なり、だ。
数年前どころか、数ヶ月前ですらこんな事態は予想できなかった。
すべては四ヶ月前の突然の皇帝崩御によって起きたことなのだ。
前皇帝スレイマン三世が暗殺され、唯一生き残った直系の皇族であるラインハルトが皇帝の玉座に座す事になった事から全ては大きく変わってしまった。
(いや、動き出したというべきか………)
「くそぅ、ラインの野郎は向こうでばしばし戦ってるってのに、俺は新兵の訓練だぞ?つまらんつまらんつまらん!」
第一軍は先のルト=リューベンの反乱で多くの兵を失ったため、現在は補充された新兵の訓練に邁進しているのだ。最も、アレクは邁進していると言うには程遠い状態だが。
「だから喚くな!―――ただでさえ、やる気を幻滅させる書類仕事だってのに。第一、なんで俺のところに来るんだよ。おまえの上官は親父さんだろうが」
アレクの父親ハーン=ハーベストは帝国六将軍筆頭であり、第一軍の軍団長だ。
第一軍歩兵第一師団長のアレクが出陣を訴えるのであればその相手は直属の上司であるハーン=ハーベストの筈だ。しかも、ハーン=ハーベストは軍令部長でもある。シオンの言った事は至極真っ当な意見であった。アレクは不貞腐れたようにそっぽ向いて、
「親父じゃ絶対に首を縦に振らないからな」
「俺だって振るか、第一、他の軍団の師団を俺が動かせるか、馬鹿」
「むぅ………」
「今は自重しろ。新兵の訓練だって、馬鹿にならない重要な仕事だ。第一、自分の思い通りに育てられるんだから自分好みの最強部隊でも作ってみたらどうだ?」
「そんな事より、シオン兄………書類って何の書類だ?」
「ん?これか?………これは、第二軍の出陣要請書だ」
「って何が自重しろだよ!あんただって俺と同じじゃねえか!」
「一緒にするな、馬鹿!少なくとも俺はただ怒鳴ってるだけじゃねえだろうが!」
「そんだけの違いだろうが!」
「大きな違いだ、ボケ!」
こういうのをなんと言うか、彼らはおそらく知らないのだろう。
五十歩百歩。遠い異国の諺である。
二人はそのまま永遠に続くかのような罵り合いを続けるのであった。
3 王の死
帝国暦三三二年八月六日。
敗残の将兵達の表情は皆一様に暗い。
上官を失い、仲間を失い、彼らの四肢からは覇気というものがごっそりと抜け落ちてしまったかのようだった。それはルシタニアもフロレシアも変わりない。
四千五百人を引き連れて来たラインハルトだったが、今回の戦いで千五百名を失った。
残った三千人もその大半が何らかの傷を負っている。
ラインハルトは直護衛のヴァン=ブレイスを引き連れて、スフィン近郊に野営しているフロレシア軍の間を歩き回った。
近所の村の女性達が甲斐甲斐しく看病などに走り回る中、全身を血の滲んだ包帯でぐるぐる巻きにされた負傷兵がラインハルトの姿を認めて起き上がろうとした。
「良いよ、そのままで」
「へ、陛下、お伝えいたしたき、事が………御座います」
苦しそうに顔を歪めて、息を荒らげながらも、職務に忠実なその兵は必死に言葉を連ねる。
「我が主人、ランチェ卿は敵陣の中に切り込み、壮絶なる戦死を、遂げました」
「そう………お役目ご苦労。ゆっくりと体を休めて」
「恐れ多き、お言葉に御座います」
役目を果たせた充足感が、兵の体から急速に緊張感を取り除いていく。
「あ!」
ラインハルトが気付いた時には、充足感に浸ったまま、男の鼓動は止まっていた。
泣きそうに表情を崩して、ラインハルトは立ち上がった。
無様だった。
敗れ去って、こんなにも多くの兵を失ってしまった。
彼ら一人一人の家族、恋人、親しい友人。
それら全てを悲しみと絶望の淵に叩き落してしまった。
「僕のせいだ………父さんの言うとおり、数万の兵を連れてくればこんな事には………」
数万の部隊を率いていれば、勝てていたかどうか。
それはわからない。
それはわからないが、少なくとも自分を逃がすためにこんなに多くの人間が傷つかなくても良かったのではないだろうか?
そんな思いが頭の隅を過ぎり、自責の念となって彼の心を苛んだ。
「カーン=オルベニーも………戦死したの?」
「勝手に殺さないでくださいよ、陛下」
独り言に突っ込まれて、ラインハルトはきょとんとした目を足元に落とした。
先ほど往生した兵の隣に、士官服を着た男が横になっているのにいまさら気付いた。
赤髪だけでなく全身を返り血と自らの血で飾り立て、カーン=オルベニーの人相はまるで別人のように変化していたが、それでもそれは頼もしき第一歩兵連隊長だった。
「カーン!」
「へへっ、見たところ、細かい傷はあるが、五体満足のようですね、安心しました」
美しい皇帝を眩しそうに目を細めて見やり、カーンは満足げに笑った。
ラインハルトには先ほど充足感の中で急に息を引き取った兵士の姿が見えている。
「ああ、死んじゃ駄目だよ、カーン、満足しちゃ駄目!」
「揺さぶらないでくださいよ、俺はかすり傷しか負ってないんだから死にはしませんよ」
肩を揺さぶる皇帝の手を緩慢な動きで払いのけ、カーンはゆっくりと上体を起こした。
乾いて張り付いた血がぼろぼろと剥がれ落ちる。
「俺はただ単なる全身筋肉痛だっての。………それより、オットーは?それに、アミリアも」
「オットー=セルバンは無事だとレオンが知らせてくれた。アミリアは―――」
「陛下、陛下!」
噂をすればなんとやら。
茶髪に銀の瞳を持つ近衛騎士団長が、負傷兵の間を駆け抜けてくる。
そしてその視線が陛下と彼の足元に座すカーンの姿を捉えて、大きく見開かれた。
そんなアミリアを視野に収めて、カーンが包帯の隙間から微かに覗いた口元に笑みを浮かべ、包帯でぐるぐる巻きにされた手を掲げて見せた。
「―――よお。心配かけて悪いな」
アミリアは一瞬、表情を緩めかけ、慌てて渋面になると、
「し、心配などしていない!悪運の強い奴だな!部下を犠牲にして戻ってきたか?」
「………。ああ」
照れ隠しにまくし立てるアミリアの言葉に、カーンは重い口調で答えた。
彼の部下、ハレック=イミュシュティはあの乱戦の中、殿として残った。
生き残ってはいないだろう。
確かにアミリアの言う通り、彼は部下の命を犠牲にして戻ってきたのだ。
「っ………」
アミリアも自分の失言に気づき、気まずげに唇を噛む。
「それを言ったら、余だってそうだよ。余は生き残るために一千五百もの命を奪ったんだ」
辛そうな皇帝の言葉にアミリアもはっと息を呑む。場に重苦しい沈黙の時間が流れた。その気まずさに耐え切れず、ラインハルトは頬を掻きつつ、話題を変えた。
「えっと、アミリア?そう言えば慌ててたみたいだけど、なんか余に用?」
アミリアは救われたように気を取り直して、
「はっ。レオン=ルシタニア殿下よりの使者が参りまして。至急城に来てほしいと」
「城に?………何かあったの?」
「はっ。何でも、ヨーゼフ=ルシタニア王が危篤だと」
「大変じゃない!………アミリア、ここは任せたよ」
「はっ」
「ヴァン、行くよ!」
「―――はい」
皇帝の慌てた言葉に、黒髪の直護衛はいつもの通り、少しの間を取ってから頷いた。
ヨーゼフ=ルシタニア王の居室には重苦しい空気が流れていた。
部屋の三分の一程を占める、ダブルどころかトリプルか或はカルテットぐらいの大きさの寝台の上に、枯れ枝のような老人が横になっていた。
ほとんど抜け落ちてしまったらしい、くすんだ金髪に、赤い瞳、がさがさで、皺だらけの木の幹のような色をした肌、頬の肉は削げ落ち、眼窩は落ち窪んでいる。
二週間ほど前に謁見した時よりもその姿はさらに枯れ枝に近づいているようだ。
皮膚には所々に黒ずんだ斑点まで浮かび上がっており、呼気は浅く、早い。
誰がどう見ても、死期が近いのは明白だった。
部屋の中には御用医師と看護婦、レオン=ルシタニアとレフ=スタッカート、それにラインハルトとヴァンのみ。
「レオン………」
ラインハルトが気遣うように声をかけると、褐色の肌に真紅の瞳を持つレオンは気丈にも笑顔で頷いた。
「兄上、急にお呼びたてしてしまってすいません………」
「いや、構わないよ。そんな事は気にしなくていい」
レオンに促されて、ラインハルトとレオン、ヴァンとレフが部屋を出る。
ヨーゼフ王の寝室の隣にある執務室で、ラインハルトとレオンは向き直ってソファに座った。
ヴァンとレフの二人は部屋の外で待機している。
「その………なんて言ったら良いのか………きっとお父上は良くなるよ」
「ありがとう、兄上………どうやら今回のルテティア紛争が父上に心労をかけたようなんです」
その紛争に敗れ、ルテティア地方はいまや完全にドルク王国の支配下に収められてしまった。
十五万の大軍を擁していながら、ルシタニア軍は一万余の犠牲者を出して敗退した。
と言うよりは、あれだけの規模の戦闘であるにもかかわらず犠牲者が一万余で済んだ事の方が奇跡だとも思える。
「犠牲を少なく抑えられたのは兄上達フロレシア軍の方々おかげです。もしフロレシア軍が殿を受けてくれなければ我々はドルク王国軍の追撃を受けてさらに大きな被害を生んでいたでしょう。でも僕達を逃がすために大勢のフロレシアの兵士が犠牲になった。本当にごめんなさい」
「良いんだ、レオン。僕達は誰もレオンを責めたりはしないし、ルシタニアを責めもしない。ルシタニアの心がまえは実にすばらしいと思う」
戦わず、話し合いで解決する。
確かにその理想は素晴らしい。
だが、今は乱世だ。弱肉強食の時代なのだ。
甘い事を言っていれば食うか食われるかの死闘に生き残る事は出来ない。
あの白髪の巨人、ヴァルツ=リバーエンドを倒してルテティア地方を取り戻すには、ヴァルツ=リバーエンドと彼の率いる獣機動部隊に勝る力が必要なのだ。
ルシタニアの人々も、今回の敗戦でその厳しい現実に目を向けざるを得なくなるだろう。
こんこん。
「申し訳ありません、殿下」
ノックの後かすかに扉を開けて、レフが顔を覗かせる。
レオンの体が緊張に強張るのがわかった。彼の真紅の瞳が、ラインハルトの視線と絡む。
ラインハルトはゆっくりと頷いて見せた。
別に彼自身に心の余裕があったわけではない。
だが、年下の少年に対し、自分の動揺を見せたくないという矜持ならばあった。
「わかった。すぐに行くよ」
立ち上がりながら、レオンはかすれた声で返事をした。
枯れ木のような手を取り、脈をとっていた御用医師が入室してきた王子の姿を認めて、さっと退いた。
寝台の上に横たわった老王の玉顔は安らかな物だった。看護婦が目元に布を当て、泣くのを堪えている。
「―――父上は?」
声の掠れも震えも微塵も見せず、レオンは鋭いとも言える眼光で医師を射抜いた。
「お、お苦しみもなく、安らかに崩御なされました」
まだあどけなさの残る顔立ちながら、その眼光の迫力に押され、しどろもどろに医師が答える。
レオンは頷くと、
「ご苦労だった。下がって休め」
「お、お悔やみを申し上げます」
レオンと亡きヨーゼフに一礼し、医師と看護婦が出て行く。遠慮して、レフとヴァンも室外に出て行く。
「…………」
レオンはもはや命の火を吹き消された亡骸の痩せ細った手を取った。
死者と無言の会話を交わす王子。
ラインハルトはレオンの背後に所在無く立ったまま、神妙な面持ちで控えていた。
そのまま、しばしの時が流れて―――不意にレオンはラインハルトに声をかけた。
「―――兄上」
「なんだい?」
「兄上はフロレシアにお戻りください。軍も」
「………レオン?」
「僕はこの国の王になる。他国の軍の力を借りる王にはなりたくありません」
「…………」
「ドルク王国はこれ以上侵攻して来る事は出来ません。これ以上侵攻すれば、連合王国諸国も黙っては居ませんから」
ラインハルトに背を向けたまま、悲しみから逃れようとレオンはしゃべり続ける。
「僕がこの国の王となり、使わない軍隊を作り上げ、話し合いでルテティア地方を取り戻して見せます。だから―――」
「わかったよ、レオン。僕は帰るよ」
「兄上………」
「義兄弟として、必要な時には頼ってくれれば良い」 ようやく振り向いたレオンの褐色の頬を、透明な雫が滑り落ちた。
「―――ありがとう、ございます」
ラインハルトは無言で、レオンを抱き寄せた。抑えきれぬ嗚咽の声が、漏れる。少しの間だけ王子は息子に戻った。息子に戻り、父の死を思う様悲しんだ。ラインハルトはそんなレオンの嗚咽を胸に感じながら、それを羨ましいと思っていた。レオンは父の死を素直に悲しんでいる。
それに比べて自分は―――。
父帝が死、しかも暗殺されたと言うのに、驚きこそしたものの涙を浮かべる事はなかった。
親子と言うにはあまりにも希薄な関係だったとはいえ、
(僕は、薄情者なのだろうか………?)
微かに痛みを感じつつ、ラインハルトは自分と同じく父を失った少年が泣き止むのとひたすらに待った。
やがて、涙を拭い、再び顔を上げた時、レオンは次なる統率者の顔になっていた。
だが、事態は思いも寄らぬ方向に動いていく。賢王ヨーゼフ=ルシタニア、逝去。この報は瞬く間にラスカーナ大陸中に広まった。ルシタニア連合王国を四十年の長きに渡って統率し、境を接するロデン教聖区や華中大帝国、スタルナス帝国やフロレシア帝国、北方諸国と渡り合った王の死は大きな波紋となって広まった。その波紋による影響はレオンの予想を大きく裏切る形で顕在化することとなってしまった。王の崩御から一週間が経った八月十三日。
ドルク王国軍がルテティア地方を制圧しただけでは飽き足らず、ルシタニアの西部地方に侵攻したのだ。
守りの要、ハルフィア城がヴァルツ=リバーエンド率いる獣機動部隊他一万余のドルク王国軍によって包囲されたのだ。誰もがルテティア地方奪取で終わると考えていたルテティア紛争が、ルシタニアとドルクの全面戦争に発展した瞬間であった。ドルク軍がハルフィア城を包囲した日がちょうど満月だった事から後に【満月戦争】と呼ばれる事になる戦争の開始だ。
新たなルシタニア王となったレオンは直ちに連合評議会を招集、連合王国の全力を以てドルク王国を打倒する事を決定した。だが、連合を形成する各国の援軍が到着するまではルシタニア王国一国でドルク王国の侵略を防がねばならず、それだけに守りの要たるハルフィア城の重要度は言うまでも無かった。
元々はスタルナス帝国の侵攻を想定して作られていた堅城であり、守り易く攻め難き山岳に築かれた山城であるハルフィア城であるだけに、その防御力は並外れて高い。
さすがのドルク王国獣機動部隊もハルフィア城を包囲した物の、攻めあぐねていた。
城内には食料も豊富にあり、将兵の戦意も高い。しかし、守備兵は僅かに千余しかいなかった。
元々は一万余からなる部隊が常駐していたが、この部隊は先の第一次ルテティアの戦いにも参戦し、多大な被害を受け、現在は王都スフィンで再編成中だったのだ。
全ては油断が生んだ結末であった。
ラインハルトは翌十四日、第三軍より派遣されてきた三万と合流、負傷兵はスフィンに残して、三万二千の部隊を率いて出陣した。陣中には親衛隊に守られたレオンとレフの姿もある。
二千の兵はアミリアの率いる近衛騎士団とオットー=セルバンの率いる近衛騎士以外の部隊と言う変則的な編成で、皇帝ラインハルトの周りを固めている。
山岳地域の多い、ルシタニア領内での戦いを想定している第三軍の装備は軽装で、長剣ではなく短剣や戦斧を装備している者が多かった。兵も大柄な兵よりも小柄な兵の方が多く、攻撃力よりも敏捷性や機動性を重要視している。ルテティア地方からは続々とドルク王国軍の部隊が侵攻しており、各所の村などを焼き討ちにしているとの情報も入っている。
被害は拡大するばかり………。
「一体、連中の目的はなんなんでしょう?」
ラインハルトと馬を並べて、レオンが険しい顔つきで聞いてくる。
連中の目的はルテティア地方ではなかったのか?
「ヨーゼフ王が亡くなって、連合王国の結束が緩んだと判断したのかも。もしくはスタルナス帝国に唆されているのか」
既にエシュアより、スタルナス帝国からドルク王国に大量の武器が輸出されている事は突き止めてある。
だがしかし、このような大規模な戦、ドルク王国に一体どのような益があるのだろうか?
4 同じ空の下
スフィンを発ったフロレシア帝国軍は十七日、ひとまずハルフィア城とは山一つ隔てた位置にある町ハルフィアに入った。
城下町と言う事だが、城からはかなり離れている。
ハルフィア山と言う高峰の西側に城があり、東側に町があるのだ。
峠道は細く厳しく、とても三万二千の大軍が通れる道ではない。
「斥候によればドルク王国軍は城の北から南にかけて180度の包囲陣を敷いているそうです。山を迂回すれば敵部隊に遭遇しますが、山を越えるならば敵部隊の妨害を受けずに城の背後に出られます」
オットー=セルバンが集まった軍の幹部達を前に地図を広げて説明する。
「となれば問題は、どれほどの兵力を誰が率いて城の後背に出るのか、ですね」
ゆっくりと言ったのは腰まで金髪を伸ばした優男風の人物だ。
事前の自己紹介で彼は第三軍歩兵第五師団長アルベルト=ウィーズリーと名乗った。
現在第三軍から派遣されてきている部隊の最先任指揮官と言う事だった。
それはそうと彼らが現在急いでやるべき事はハルフィア城への戦力の増強である。
いくら堅城とはいえ、僅か千余の守備兵力ではドルク王国軍の猛攻、特にあのヴァルツ=リバーエンドの率いる獣機動部隊による攻撃を防ぎきる事など不可能。
ゆえに、敵に包囲されていない山側から城内に兵力を送り込もうと言う作戦である。
「送り込める兵力は精々が数千、しかも山岳の地理に長けた者でなければそもそもハルフィア城まで到達する事すら出来ません。ハルフィア山は地元の樵ですらしばしば道に迷う難所ですから」
これはフロレシア帝国軍の軍議と言う事で、ルシタニア側からは誰も出席していない。
とはいえ、兵力を送り込むハルフィア城はれっきとしたルシタニア王国領内の城なのだから、当然作戦は事前に検討されるべきだ。
だからこのいわば身内だけで行われる作戦会議の後にはルシタニア側の要人、レオン=ルシタニアを呼び入れて細かい所の調整も必要となってくる。
「問題は他にもある。いざ城の後ろに出た所で、敵と誤認されて攻撃を受ける可能性もあるぞ」
「確かに」
連隊長の一人の発言に神妙に頷いて、オットーも困り顔になる。
「そこは確かに問題です。この点は後ほどレオン=ルシタニア殿下―――いえ、陛下に伺って見なければなりません」
「じゃあとりあえず、ハルフィア城に向う部隊の選出ですな。山岳を通るわけだから重装備の近衛騎士団は不適、同じく第一軍の将兵も。となれば我が第三軍より部隊を抽出するしかありませんな」
アルベルトの意見はもっともだ。
平原などでは無類の強さを誇る第一軍や近衛騎士団ではあるが、思うように武器も振り回せないような山岳戦ではその重装備が仇となってまともな動きも出来なくなる。
それに比べれば、アルベルトの言うとおり、第三軍の将兵は山岳戦の訓練を存分に積んでいるし、装備も軽装だ。
「それでは私を含め、第五師団から二個連隊五千名を持って、ハルフィア城への増援部隊としたい。残りの二個連隊は第六師団に臨時編入と言う形にしていただきたい」
「承知した」
「陛下、これでいかがでしょうか?」
アミリアがラインハルトに聞く。
ラインハルトは金色の髪を指で弄りつつ、蒼い瞳を円卓上の地図に注いだ。
「やっぱり沢沿いの道を登って行くのかい?」
「はい」
皇帝の御下問に、アルベルトが恭しく頭を下げてみせる。
「待ち伏せとかは大丈夫だろうか?」
「………と、申しますと?」
「この山を登るんだったらこの沢がもっとも大きな道筋になると思う」
「さようにございます」
「だったら敵もそう考えるんじゃないだろうか?………城への食料搬入や今回みたいな増援を送るとかと言った場合を想定して兵を伏せている可能性は?」
「無論、確実にないとは申せませんが、むしろわざと退路を閉じずにいるのかもしれません」
「………どうして?」
「窮鼠猫を噛むと言う言葉が御座います。追い詰められれば弱者と言えども死に物狂いで戦うもので御座います。ところが、生き延びる事が出来る退路があります時はなかなか本来の力を発揮できぬもので」
「なるほどね………確かにその通りかもしれない。よし、余もハルフィア城増援部隊に加わる」
「な、なんと!?」
声を張り上げたのはアルベルトではなかった。
アルベルトはただ薄い色素を湛えた瞳を細めているだけ。
「陛下、危険でございます!」
声を張り上げたのはアミリアだった。
しかし、ラインハルトは穏やかな眼光のまま、アミリアの目を射抜いた。
「アミリア………余は皇帝なんだ。この戦いの成敗はひとえにハルフィア城に援軍を送り込めるかどうかにある。皇帝たる者、戦況のもっとも重要な場所に居なければならないんだ」
「陛下………」
結局、アミリアはラインハルトを止める術を持っていなかった。
ラインハルトはルト=リューベンの反乱の時も、己の身を前線に置いたのだ。
「ならば、私も―――」
「それはだめだよ、アミリア。君は近衛騎士団を率いて、第三軍と共に待機していてもらう」
「陛下………」
「レオンは戦に持ち込まないつもりだけども、やはり今回も戦になると思う。近衛騎士団を率いるのは君の役目だろ?」
「わかりました………ご無事をお祈りしています」
「ありがとう」
「決まりましたな。それでは、明日の朝にでも登り始めましょうか」
「―――うん。それじゃ、解散」
ラインハルトが解散を告げて、作戦会議は終わった。
その後ラインハルトはレオンと二人で会い、レフの淹れた紅茶を飲みながら、話し合った。
「僕達がハルフィア城に入るにはやっぱり君の一筆が要ると思うんだけど」
「それなら心配ありませんよ、兄上」
真紅の瞳を悪戯っぽく輝かせて、レオンが笑う。
「?………どういうこと?」
まさか予めこの事あるを予想して連絡してあるとか?
「だって生き証人が居ますから」
「生き証人?」
どうやら予め知っていたと言うわけではないらしいが、レオンの吐いた言葉は不可解な物だった。
「僕も同行します、兄上」
「私も」
レオンとレフが、言い放った言葉にラインハルトは瞬時言葉を忘れた。
「………え?」
「僕もハルフィア城に入ります。無論、戦う為ではなく、話し合うために」
「私は陛下の従者ですから」
レオン達の言っている事を飲み込むのにそれほどの時間は要しなかった。
そして、反対する事は出来なかった。
自分も先ほどアミリアの反対を押し切ったばかりだし。
ラインハルトに皇帝としての責任があるように、レオンにも国王としての責任があるのだ。
そしてその責任を果たす方法とはドルク王国と血を流さずに和平を結ぶ事。
その並々ならぬ決意を見て取って、ラインハルトはただ無言で、頷いた。
「ありがとう!兄上!」
喜色を褐色の肌に浮かべて、レオンがレフを振り返る。
レフもいつもの鋭い眼差しを少しだけ緩めて頷く。
かくして、山岳隊に王と従者も加わったのである。
「―――ふう」
夜空を見上げて、嘆息一つ。
ヴァンは少し離れた場所で警護している。
陣から少しだけ離れた膝ぐらいの草に覆われた丘の上に衣服が汚れるのも構わずに腰を下ろして。
見上げる夜空は少しだけ欠けた満月が明るくて、星が消されていた。
それでも尚輝きを失わぬ星も居て。
明るい夜空と言う物もまた、美しいものだと思ったりして。
ポケットから大事そうに布に包まれた物を取り出す。
掌の上に立てて、布を取り除くと手に収まるような小さなロデン神像が出てきた。
左の顔は、慈悲と温情、温かい母にして、平和の象徴。
右の顔は、憎悪と軽蔑、厳しき父にして、争乱の象徴。
左手には知識を象徴する書を持ち、
右手には武力を象徴する鉾を持つ。
仁王立ちしたその背後には、鮮やかな炎が立ち昇り、
炎はやがて風となり、雲となり、恵みの雨となって大地を潤す。
(神、か………)
忘れかけていたけれど。
ラインハルトはロデン教によって命を狙われているのだ。
あの暗殺者ジェルナ=クレイスロールについては暁に調べさせた。
その結果、彼女はとある暗殺組織に身を置いており、今回彼女に皇帝暗殺を依頼したのがこのラスカーナ大陸で最も広く信仰されているロデン教である事が判明した。
見える国家とは異なり、宗教は目に見えない。
誰が信者で、誰が信者でないのか?
信者だとしてもうわべだけの信者から全てを神に捧げる狂信者まで。
まさに千差万別。
だがもっとも宗教が厄介なのは全ての身分の者が敵だと言う事だ。
国家が相手ならば軍対軍の戦いで決着が付く。
時折民衆も巻き込まれるが、なかなか民が積極的に立ち上がると言う事はない。
しかし、宗教では文官も騎士も兵も農民も商人も職人も、誰もが敵になる可能性があるのだ。
(困ったもんだ………)
心の中で呟いてみる。
だが今はロデン教よりも、ドルク王国軍の方が悩みの種だった。
ふと、ロデン神像の顔に別人の顔が重なった。
心配げな表情をした銀色の髪に金色の瞳。
幼馴染の顔を思い出して、ラインハルトは懐かしさに頬を緩めた。
そう言えばもう一ヶ月以上も会っていないのだ。
「シエナ………」
そっと名を呟いてみる。
心配しているだろうか?
そりゃそうだろう、戦いに負けたんだから。
「いや………。心配してないかな」
なんでかはわからないが、そんな気がした。
シエナは僕を信じてくれているんじゃないだろうか?
無論、皇帝が無事だと言う報告は届いているだろう。
だけどそういった次元の話しじゃなくて、もっと精神的な部分で繋がってる様な気がした。
それはもしかしたら、身勝手な男の身勝手な思い込みかもしれないが。
「それでも―――」
ごろんと仰向けに転がる。
呼吸する草の香りを肺一杯に吸い込んで、空を見上げる。
「同じ空を見ていたりして」
空は繋がっている。
何処に居ても、空の下という共通項は変わらない。
同時刻。
帝都ルーガのルーガ城尖塔に、シエナは登っていた。
街でもっとも高いその場所は空がもっとも近い場所でもある。
明るい月が輝く空を見上げるシエナはその胸にしっかりとラインハルトに渡した物と同じ小さなロデン神像を抱えていた。
(ライン………無事に帰ってきて)
サリアのおかげで不安感を拭い去れたと思っていた。
でも、一人になると途端に寂しさが襲って来た。
主人の居ない皇帝私室。
乱れのないシーツを見ると、ああ、ラインは居ないんだと思えてくる。
(駄目ね、私………)
ラインが居なくなってからまだ僅かに一ヶ月ちょっとしか経っていないのだ。
なのに、一人でいるとき、ふと気付けばラインの事ばかり考えて涙を堪えている自分に気付くのだ。
自分はこんなに弱い女だっただろうか?
ぼんやりと考えながら空を見上げて、シエナははっとした。
星の欠片が明るく輝きながら空を斜めに横切っていったのだ。
両手を合わせて、咄嗟に願い事を唱える。
「ラインが無事に戻ってきますように!ラインが無事に戻ってきますように!!ラインが無事に戻ってきますように!!!」
言い終えた次の瞬間、流れ星は空の中に溶け込んでいった。
なんとなく、願いが聞き届けられたような気がして、シエナはくすりと笑った。
それから気を使って彼女を一人にしてくれた衛兵に礼を言って、自室へと戻っていった。
「………あ!流れ星!」
空を横切っていく光の粒に一瞬見とれ、慌てて両手を合わせて願い事を唱えようとする。
だけれども考えがまとまらず、まごついている内に、小さな星の欠片は星の大海の中に沈みこんでいってしまった。
「あ~あ………」
残念そうにうめき、いつのまにか起こしていた上体を草葉の中に戻す。
(シエナ………。この戦いが終わったら、すぐに戻るよ)
心の中で決意する。
そして、勢いよく立ち上がった。
「…………」
影のように近づいてきたヴァンを振り返って、ラインハルトは頷いた。
「さぁ、ヴァン、早く帰って寝よう。明日は朝早いから」
「―――はい」
歩き出しながら、眼前に聳えるハルフィア山を見つめる。
その山はかなり高く、二千mぐらいはありそうだ。
「僕………登れるかな」
密かに自信の無い、皇帝であった。
黒髪の直護衛は何を言うでもなく、その背を見つめていた。
1 ルシタニアの敗北
時は遡って、帝国暦三三二年八月三日早朝。
ドルク王国軍の突撃は予想以上に苛烈だった。
俄仕込みのルシタニア軍ではまともにぶつかり合ったそこから崩れたつ。
「何とか支えるんだ!このままじゃ、全滅してしまう!」
白馬に跨り、抜き身の剣を振り回しながら、自分自身蒼白になりながらラインハルトは叫んでいた。
ルシタニア軍の先陣はまさに葦のように薙ぎ倒され、ドルク王国獣機動部隊の足を一瞬たりとも止める事は出来なかった。
激しく吹く戦場の風に黄金の髪を揺らしながら、その青い瞳をしっかりと前方に据えて、ラインハルトは戦っていた。
ドルク王国軍とフロレシア帝国軍の先鋒、カーン=オルベニーの率いる二千五百がぶつかり合い、そこだけ戦況が膠着していた。一進一退の戦いを繰り返す両軍。
この一局面だけを見れば、戦いは互角のようだった。
しかし―――。
「ルシタニア軍左翼、崩されました!」
「ルシタニア軍右翼、敗走中!ドルク軍はこれを追撃中!」
駆け込んでくる伝令達が齎す報告はどれも芳しくない物だった。
ルシタニア軍は全面的に崩壊しつつあり、唯一、レオン=ルシタニアの部隊だけがその場に踏みとどまって戦っていた。
(このままじゃ、囲まれる!)
両翼の部隊が崩れた今、中央軍は側面からも後背からも攻撃を受ける可能性が出てくる。
そして現に、敵部隊の一部は相手の虚を自らの実で撃つべく、移動を開始している。
兵力では勝っていながら、恐慌状態に陥ったルシタニア軍には成す術とて無い。
「陛下っ!陛下ぁっ!」
前線から一騎の騎馬が人々を掻き分けるようにしてラインハルトの元へと近づいてきた。
馬の上で、真っ赤に染まったカーン=オルベニーがラインハルトの姿を見つけ、声を張り上げた。
「ここは俺達が引き受ける!陛下はスフィンへ撤退を!」
返り血で真っ赤に染まったカーンの姿は無言の内に戦いの物凄まじさを物語っている。
「だが、まだレオンが戦っている!」
「そんな事―――」
カーンが反論しようとした、まさにその時、ラインハルトの前に転がるようにして伝令が飛び込んできた。背中に矢が突き立っているが、本人はそれに気付いていないようだ。それほどまでに、戦況は切迫しているのだ。
「報告!ルシタニア軍は総崩れ!レオン=ルシタニア殿下撤退中!殿下よりの伝言、『兄上もお引き上げください』!では、御免!」
そう告げるとルシタニア兵の伝令はレオンの元に戻るためだろう、そのまま駆け去って行った。
「陛下っ!」
「わかった、我々はルシタニア軍の殿を勤めながらスフィンに撤退する!」
「殿軍、承った!」
槍で空を薙いでから、カーン=オルベニーが馬首を翻す。
「カーンっ!!死んじゃ駄目だ、スフィンで会おう!!」
その背に、ラインハルトは怒鳴っていた。
振り向きもせず、槍斧を高々と掲げて、歩兵連隊長は戦場へと駆け去って行った。
既に四方は敵に取り囲まれ、さながら濁流に飲み込まれんとする中州が如し。
ラインハルトの白亜の甲冑を目指して襲い掛かってくるドルク兵をアミリア=ホーンやヴァン=ブレイス、近衛騎士達が散々に切り伏せながら、撤退する。
ラインハルト自身も汗を拭うのも忘れて、剣を振るい続けた。
だが、振るっているだけで一向に敵を倒す事が出来ない。精々が牽制ぐらいにしか役立たなかった。
一方―――。 前線は更なる乱戦と化していた。
押し寄せるドルク軍と徐々に後退しながら、かつ隊列を乱さないように戦わねばならないのだ。
柔軟な指揮能力を要求される殿を、カーン=オルベニーは何とか過不足なく果たしていた。
(とはいえ、オットーならもっと上手くやるんだろうが………)
そのオットーはラインハルトの計らいによって、レオンのルシタニア軍に参加している。
今撤退中のルシタニア軍の殿はおそらくオットーが勤めているのだろう。
戦域は徐々に東に移っていく。
(そろそろ陛下は脱出したか?)
ラインハルトも敵と戦いながら、後退を続けていた。
しかし、カーン=オルベニーの部隊だけで抑えられる敵の数には限りがあり、幾割かはカーン部隊の横を擦り抜けて、ラインハルトの下にも向かっている。
ラインハルトの身を守るのは一千の近衛騎士とアミリア=ホーン、ヴァン=ブレイスのみ。
「連隊長殿!」
馬を寄せてくる騎士に、カーンは目を向けた。
歩兵連隊である彼らの中にあって、馬に乗っているのは指揮官のカーンと中隊長だけだ。
そして、馬を寄せてきたのはその中隊長のハレック=イミュシュティだった。
「どうした、ハレック?女房が恋しくなったか?」
「まさか。それよりも精霊具は?」
「駄目だ。こんな乱戦じゃあな」
しゃべりながらも、互いに周りの敵を切り倒す作業は止めない。
瞬く間に二人の間に屍の山が築かれていく。
カーンの持つ槍斧は精霊具であり、《風の槍斧―ヤーナス》と言う。
強力な精霊具だが、攻撃範囲も広くなかなか使えない。
下手をすれば味方をも巻き込んでしまう。
「かといってこのままじゃ………」
その時、戦場の空気がざわめき、敵の攻撃が勢いづいた。
飛び掛ってきた数人のドルク兵を瞬時に地に這わせながら、舌打ちを一つ、
「また誰かがやられたな」
指揮官―――中隊長など―――が戦死するたびにドルク兵は雄たけびを上げ、勢いを増して攻めかかってくる。
どのように楽観的に考えたとしても、戦線を維持できる限界が近づいている。
「連隊長、俺が食い止めます。その間に後退してください」
「馬鹿言ってるんじゃねえよ、何で俺が逃げる」
「逃げるんじゃなく、陛下を守りに行くんですよ」
言って、馬首を翻そうとするハレック。
カーンはそれを鋭く呼び止めた。
「馬鹿野郎!おまえには嫁さんも今度生まれてくる赤ん坊も居るんだろうが!」
「だからですよ、連隊長」
ハレックは朗らかな笑顔で言った。それはカーン=オルベニーが小隊長となり、初めて彼が部下になった時から全く変わらない笑顔だった。
「俺は男としての勤めを果たしましたよ。それにサリアはきっとわかってくれます。この俺の惚れた女なんだから」
「だからっておまえ………」
「連隊長はまだ一人身なんすから、ここは俺に任せといてください」
朗らかな笑みを浮かべたまま、乱戦の渦の中に雄叫びを上げながらハレックは飛び込んでいった。
彼と彼の率いる中隊の働きによって、ドルク軍の攻撃が一瞬怯んだ。
その隙に、カーンは生き残っていた部隊を纏めて、戦場から引き上げる事に成功した。
獅子奮迅の働きとはまさに彼らの事を言うのであろう。
僅か二百名足らずの兵力で数十倍の敵をその場に釘付けにする。
仲間が倒されても怯まず、むしろさらに奮戦する。
あれほどの勢いを持って攻撃していたドルク軍が攻めあぐねていた。
五分、十分、三十分、一時間経っても、ハレックはドルク勢の前に立ちはだかっていた。
何人分もの返り血を浴びて真っ赤に染まり、その場に倒れこんで前後不覚で眠りたい程の疲労感のせいで思うように動かせない体を踏ん張り、人体の脂で切れ味の鈍った剣を敵に突き刺す。
もはや彼の周りにはほんの数人の部下しか残っていなかった。
唐突に、ドルク軍が引いた。
彼らを遠巻きにして、まるで様子を窺っているかのようだ。
「へへ………もう、動けねえ」
ハレック=イミュシュティはその場に尻餅を着き、甲冑の懐に手を突っ込んだ。
血でぬるぬるになった手で掴んだのは、ルーガの似顔絵師に書かせた妻のサリアの肖像画だった。
本人よりも多少美化されて描かれているその絵に頬を摺り寄せて、ハレックは泣いた。
「サリア………すまねぇ………生まれてくる赤ん坊を、頼んだぞ」
やがて、彼らを囲むドルク軍の壁が左右に崩れ、白髪の巨漢が進み出てきた。
紫の瞳に、獰猛な笑みを浮かべた巨漢は彼が扱うにはあまりにも小さいと思える剣を持って進み出てくる。その巨漢を見上げて、ハレックはいよいよ自分の最期を悟った。
「ヴァルツ=リバーエンド………」
「おまえのおかげで、レオン=ルシタニアにもラインハルト=シーザーにも逃げられたぞ」
言いながらも、ヴァルツの口調に非難の色は見えなかった。
ハレックは妻の似せ絵を懐に仕舞うと、もはや刃こぼれしてほとんど剣としても使い物にならなくなってしまっている剣を支えに、身を起こした。
体の底にたまる疲労のせいで、足が震える。
ヴァルツがそれを見抜けなかったわけではないだろう。
しかし、彼は何も言わなかった。
恐らくはハレックが死ぬ覚悟でいる事も見抜いたのであろう。
だからこそ、無言で剣を構えた。
疲労しきった相手を嬲る為の構えではなく、敬意を表すべき真の勇者を倒す為の構えを。
「中隊長殿、ここは我らが―――」
「いや、お前達は下がっていろ」
自分達も疲れているであろうに、上官を労わる部下達の言葉を遮って、ハレックは屹然と立った。
「フロレシア帝国軍第一軍第一歩兵師団第一歩兵連隊第二中隊中隊長、ハレック=イミュシュティ」
「長い名乗りだな。ドルク王国軍獣機動部隊司令ヴァルツ=リバーエンド」
二人が名乗りあった瞬間、この戦いは助太刀無用の一騎打ちとなった。
「容赦はしないぞ」
「無論だ」
ヴァルツの言葉に応じ、ハレックが駆け出した。
普段の彼を知る者ならば、その動きは途方もなく緩慢に映っただろう。
しかし、今の彼にとってはそれが精一杯の速度だったのだ。
ヴァルツは動かず、その山のごとき体躯を聳えさせて、突っ込んでくるハレックを待ち受けている。
ハレックがヴァルツの剣の間合いに飛び込んできた、瞬間、ヴァルツは言葉どおり情け容赦なく剣を振り下ろした。
だが、その剣は虚しく虚空を薙ぎ、草を切り払っただけだった。
その一瞬前に、ハレックの姿は空に移っている。
最後の力を振り絞って跳躍し、全体重を乗せた一撃をヴァルツに突き刺そうと言うのだ。
振り下ろすハレックと振り上げるヴァルツの姿が交錯した。
「っ………」
苦痛に顔をゆがめたのは、ヴァルツの方だった。
ハレックの剣が彼の頬を浅く裂き、さらに彼の盛り上がった肩の筋肉に深々と突き刺さっていたのだ。
どさっ―――。
やや離れた場所に、ハレックが落下する。 逆袈裟懸けに切り上げられた傷から大量の血が流れ出し、もはや助からないのは明白だった。
「なかなか、やるな」
肩に突き刺さった剣を抜き、放り捨て、ヴァルツがハレックに近寄る。
もはや意識も朦朧としているであろうに、ハレックはやはり朗らかな微笑を浮かべていた。
「やっぱあんた強いなぁ」
その声には素直な賛嘆の響きしかない。
ヴァルツは自分の剣を鞘に収め、ハレックの傍にしゃがみこんだ。
「おまえは真の戦士だ。誰かに伝えたい言葉はないか?」
ハレックの部下を手で招き寄せながら、ヴァルツが問う。
「ごふっ………」
何かを答えようとしたハレックの口から鮮血が零れた。
「………」
ヴァルツは無言でハレックの口の中に指を突っ込み、口の中の血を吐かせた。
「妻………に、つた、えてくれ………あ、愛し、てると」
「妻の名は?」
「さ、サリ、ア」
「サリアか。安心しろ。おまえの部下が必ず、おまえの伝言をおまえの奥さんに伝えてくれる」
ヴァルツに頭を支えられて、ハレックは安堵したかのように微笑んだ。
「ごぶっごほっごほっ………!」
「中隊長!」
激しく咳き込み、大量の血を吐くハレックの姿に、蒼白な表情をした部下が取り縋る。
だが既に、ハレックの意識は遠くヴァルハラに消えていた。
「真の勇者ハレック=イミュシュティに、ロデンの神の救いあらん事を」
胸の前で十字を切るような仕草をしてから、ヴァルツは白髪を翻して立ち上がった。
「砦に戻る、軍を退け」
彼の命令に従い、ドルク軍が引き上げていく。
「必ず、ハレック=イミュシュティの言葉を伝えろ」
「は………はいっ!」
ハレックの部下が頷くのを見届けて、ヴァルツはルテティアの砦へと引き上げていった。
残されたハレックの亡骸は、しかし自分の成すべき事を為し、満足しているように微笑んでいた。
彼の部下はハレックの髪を一束切り取り、遺髪とした。
戦場となったルテティアの平原は、草が薙ぎ倒され、無数の屍が転がる地獄となっていた。
ルテティア川は死者達の血が流れ込んで真っ赤に染まり、空は暗く曇り、風はまるで死者達の怨念の雄叫びの如く吹き荒れた。
戦場に咲くと言われる弔いの花、カロン。
血のように真っ赤な四枚の花弁を持つこの花だけが、多くの人間の血と怨念を飲み込んだ戦場に彩りを添えていた。
カロンの花の甘い香りが、鎮魂の歌のように戦場の空気を癒していく。
戦いは終わった。
しかしそれは、新たな戦いの始まりを告げる鐘の音でしかなかった―――。
かくして、第一次ルテティアの戦いはルシタニア・フロレシア連合軍の惨敗と言う形で終息したのだった。
ルシタニア王国とドルク王国の、ルテティア地方を巡る泥沼の戦いは、この戦いを序章として始まった。
この戦いで死んだ者達は、さながら、長きに渡る戦いに勝つべく、戦の神に捧げられた供物のようであった。
数千人の血を吸って、ルテティアの大地は今なおそこにある。
戦いは、今まさに、始まったのだ。
2 銃後
ルテティアにおいて、フロレシア帝国・ルシタニア王国連合軍、ドルク王国と争い、敗れ去る。
この報告は第一次ルテティアの戦いの三日後の六日にはフロレシア帝国帝都ルーガにまで伝わった。
幾多の伝令を介し、運ばれた情報が留守居役を命ぜられていた宰相のオルンヘル=クリケット伯爵の元へと届けられる。
そして同時に、既に北方の第三軍より二個歩兵師団、二個騎兵師団、計三万名がルシタニア領内に派遣されたことも報告された。
「陛下は………ラインハルト陛下は御無事か?」
オルンヘルの思いはすべて、この質問に凝縮されていると言える。
と言うよりも、ルシタニア軍とドルク軍とでは戦闘実績いわば経験の面からして既に格段の差がある。
戦慣れしている部隊と戦慣れしていない部隊が戦えば、戦慣れしている部隊が勝つのは自然の理なのだ。
多少の兵力の寡多などこの際何の意味もなさない。
そこへ戦慣れしているフロレシア帝国軍が参加したと言っても、その数は僅かに四千五百。
とても戦況を覆す事が出来るほどの数ではない。
と言うよりもこの四千五百はルシタニアを戦勝に導くための援軍ではなく、飽くまで皇帝ラインハルト=シーザーの身を守るための部隊なのだ。
「はっ、陛下は無事スフィンに撤退なされました。残った兵力はおよそ三千」
「そうか………」
皇帝が無事と聞いて、それまで固く強張っていたオルンヘルの表情がほんの少しだけ和らいだ。
昨日には南方でスタルナス帝国とルーナ帝国の連合軍がパルディア王国に侵攻、これを制圧したという報告も届いている。
そのパルディア王国の王城から脱出してフロレシアに亡命を希望している王女レイシア=パルディアスはまだルーガには到着していないものの、恐らくはルーガの地で亡命パルディア政府を樹立する事になるだろう。
山積の問題に頭を抱えかけたオルンヘルは所在無く立ち尽くす近衛騎士をようやく思い出した。
「湯にでも入り、ゆっくりと体を休めよ。下がってよし」
「はっ」
近衛騎士は自分の存在をようやく思い出してもらえ、安堵したように敬礼して帝国府の一角に設けられている宰相の執務室から出て行った。
シエナ=クリケットは皇帝ラインハルト=シーザーの侍女として、日々彼のために働いている。
彼が留守の間も、彼の部屋を掃除するのは彼女の勤めである。
だが、汚す人間がいなければ部屋が汚れる事も無く。
形だけ掃除をして、シエナは仕事を終えた。
彼女は侍女や女官の休憩室を訪れた。
いつもは常に数人の侍女や女官が集まって談笑しているその部屋も、まだ午前中とあって閑散としていた。
それでも、一人だけ、侍女が居た。
オルンヘル=クリケット伯爵付きの侍女、サリア=イミュシュティだ。
彼女は部屋に飾られている花の手入れをしているようだ。
小さな植木用の鋏を器用に使って、葉の形を整えている。
花は満開に花開き、その清楚で可憐な白い花弁は殺風景な部屋の中にあって実に目に鮮やかであった。
そして、その甘い香り。
しつこくなく、さわやかな甘味の香りが部屋の中に満ちていて、癒しの空間を演出していた。
「サリア」
シエナが呼びかけると、サリアは鋏の手を止めて、シエナを振り返った。
「あら、シエナ?………今日は随分と早いのね」
「貴方こそ。どうしたの?」
「オルンヘル様に前線から伝令が来たのよ」
そこで初めて、シエナはサリアの表情が憂いに翳っていることに気付いた。
「そう言えば、サリアの旦那さんは確かカーン=オルベニー様の下で―――」
「ええ。カーン様の下で中隊長をしているわ」
「今はルシタニアね」
「ええ―――」
サリアの表情は一層優れない。
シエナの胸裏を一抹の不安が過ぎる。
「ルシタニアで何かあったの?」
「私も少ししか聞こえなかったんだけど―――どうやらドルク王国に負けたそうよ」
「………。そう」
「私、ハレックのことが心配で心配で、もし彼に何かあったら―――」
泣きそうな表情で、そっとお腹を抑える。
彼女のお腹の中には、小さな新しい命が宿っているのだ。
「大丈夫よ」
サリアを元気付けようと、シエナは己の不安感を無理やり押し込めて、勤めて明るい声を出した。
「貴方のご主人は勇猛な人だもの。それに貴方のご主人はあのカーン=オルベニー様の配下なんだから。彼がまだ小隊長だった頃からの腹心なんでしょ?」
「ええ―――でも」
「サリア!………貴方が信じてあげなくてどうするの!」
「シエナ………」
シエナの思わぬ強い口調の言葉に、サリアははっと息を呑んだ。
それからその瞳に力を宿して。
「うん………!ハレックなら、大丈夫よね!」
「そうよ。彼ならきっと無事よ」
「うん………ありがとう、シエナ………私一人だったら、不安で不安で、押し潰されてたかもしれないわ………シエナは本当に強いのね」
「え?」
「だって、陛下の心配を全然してないんだもん………シエナは心の底から、陛下の事を信じてるんだね」
「…………」
果たしてそうだろうか?
(私は………ラインの事を信じてるのかな?)
今はサリアを励まさなければと思っただけで、もし彼女が居なければ、自分こそ不安に押し潰されていたかもしれないではないか。
(私はラインの事を信じてない………?)
もし彼が死んでしまったら………。
そんな想像はした事すら無かった。
今まで、ローデンスの片田舎で暮らしてきて、命の危機なんてありもしなかった。
ローデンス湖に落ちて溺れ掛かった時はあっても、どこか死を迂遠な物と考えてはいなかっただろうか。
何処か遠い世界の話だと思ってはいないだろうか?
(私はただ『死』というのに鈍感なだけ………?)
考えれば考えるほど、思考の深みに嵌まっていく。
自分がどれほど気楽だったかを思い知って、急に今ラインが居る場所がとてつもなく危険である事に気付いたのだ。
頭を棍棒で殴られたような気がした。
自分はラインにロデン神の像を渡したが、あれは戦場と言う場所を本当の意味で理解して、その上で渡したのではなかったかもしれない。
自分のことなのに、酷く曖昧な気がした。
「シエナ?ちょっと、シエナ、大丈夫?」
「え………あ、う、うん」
いつのまにか崩れるように椅子に座り込んでいた彼女を心配そうに見つめて、サリアがそっと背を撫でてくれる。
その暖かで穏やかな感じに、シエナは安堵感を覚えた。
(私がラインを信じなきゃ………今までは信じてなかったかもしれないけど、これからは信じよう………ラインが帰ってきたら、謝ろう)
「―――ありがとう、サリア」
「え?………あ、いやこのぐらい別に」
感謝された事を背を撫でていることに対する物と誤解して、サリアが恐縮する。
今は気さくに話し合う友達だが、それはシエナがこのルーガ城に勤めるようになってからの四ヶ月と言う時間が大きな役割を果たしている。
平民出のサリアは最初、片田舎のローデンスとはいえ伯爵位を持ち、しかも宰相であるオルンヘル=クリケット伯爵の令嬢ということでシエナの事を随分と敬遠した物だ。
その態度をここまで軟化させるのに四ヶ月を要したのを、人によっては短いと捉えるかもしれないし、或いは逆に長いと捉えるかもしれない。
「私も貴方が居なければきっとライン―――陛下の事を心配して不安で押し潰されてたわ」
「シエナ………」
「お互い様って事ね」
「ふふっ、でも良いなぁ、シエナは」
「―――何が」
サリアの口調にからかいの要素を見出して、シエナがやや鼻の先に皺を寄せる。
「なんだか、シエナが初々しくって。出張してる旦那を待ってる新婚の奥さんみたい」
「なっ―――」
途端に真っ赤になるシエナ。
「私は別にラインのことなんか―――あ」
「陛下を愛称で呼び捨て。シエナの特権だよねぇ」
「ラインって呼ぶのは私だけじゃないわよ」
「知ってるわよ。オルンヘル=クリケット伯爵、ハーン=ハーベスト第一軍司令官、アレク=ハーベスト第一軍第一歩兵師団長、シオン=クリケット第二軍司令官、それに貴女。貴女以外は錚々たる面々よ。さしずめ、帝国の政治と軍事の要って感じ」
「どうせ私は父上と兄上のついでみたいなもんよ」
「いじけないでよ。それに多分陛下にとって、貴女が一番大切な存在よ」
「一番大切な存在………?」
「そ。貴女は陛下の心の支えなのよ。他の方達が帝国の要なら、貴方は皇帝その人の要って所」
「…………」
「ああっ!なんだか自分で言っててなんだけど全身が痒くなっちゃった。慣れないことは言うべきじゃないわね」
朗らかに笑う、三歳年上のサリアの言葉に、シエナも自然と笑顔を浮かべていた。
その頬は朱に染まっている。自分がラインの心の支えになっている。
その言葉と言う果実を噛み締めると、嬉しさという甘い果汁が胸と言う口一杯に弾ける様だ。
(でも、それを言うならラインこそ、私の心の支えよ)
「ふふ、その顔よ」
「え?」
サリアに指差され、思わずきょとんとするシエナ。
「新婚初夜の新妻みたい」
「なっ………それを言うんだったらサリアなんて正真正銘出征中の夫を待つ新婚さんじゃないのよ」
「ええ、まさにそれね」
年上の余裕を取り戻して軽くかわすサリアに、シエナが頬を膨らませる。
だが既にその心の中に、不安感は微塵も無く。
穏やかな表情に戻ると、シエナは枝葉を整える作業に戻ったサリアの背中に向かってかすかに頭を垂れた。
(………ありがとう、サリア)
「だぁぁぁぁっ!!ルシタニアに行きたい行きたい行きたい!」
「駄々を捏ねるな!ガキか、おまえは!」
所かまわず大声を上げるアレクに辟易して、思わずこちらも大声を出してしまったのは二十代後半から三十代前半と思しき背の高い男だった。
端正な顔をしていて、女性にもてそうだが、今は激務に憔悴している。
オルンヘル=クリケットの息子にしてシエナ=クリケットの兄、帝国軍六将軍の一人、第二軍司令官シオン=クリケット男爵その人である。
ちなみに帝国軍六将軍とは六個の軍団の軍団長の事だ。
「アレク、おまえ、師団長としての職務はどうしてるんだよ」
「リーナに任せてるよ」
妹と同じ銀色の髪を掻き混ぜて、これまた妹と同じ金色の瞳で相手を見据える。
その相手は炎のような赤い髪をした青年で、まだ子供の頃のあどけなさも残している。
「ったく、自分の仕事を全部副官に押し付けて、おまえは俺の仕事の邪魔か?その内、あの大鎌の錆になるな」
呆れたように言ってやるも、アレクは全く悪びれない。
アレク=ハーベストはラインハルト=シーザーともども、シオン=クリケットにとっては弟のような存在だ。妹しか持たなかった彼は、ローデンス時代はよく二人を連れてあちこちに遊びに行った物だが。今では三人とも忙しい身の上だ。皇帝、軍団長、師団長。
(いやはや、数年前からは想像も付かないな)
まさに現実は小説よりも奇なり、だ。
数年前どころか、数ヶ月前ですらこんな事態は予想できなかった。
すべては四ヶ月前の突然の皇帝崩御によって起きたことなのだ。
前皇帝スレイマン三世が暗殺され、唯一生き残った直系の皇族であるラインハルトが皇帝の玉座に座す事になった事から全ては大きく変わってしまった。
(いや、動き出したというべきか………)
「くそぅ、ラインの野郎は向こうでばしばし戦ってるってのに、俺は新兵の訓練だぞ?つまらんつまらんつまらん!」
第一軍は先のルト=リューベンの反乱で多くの兵を失ったため、現在は補充された新兵の訓練に邁進しているのだ。最も、アレクは邁進していると言うには程遠い状態だが。
「だから喚くな!―――ただでさえ、やる気を幻滅させる書類仕事だってのに。第一、なんで俺のところに来るんだよ。おまえの上官は親父さんだろうが」
アレクの父親ハーン=ハーベストは帝国六将軍筆頭であり、第一軍の軍団長だ。
第一軍歩兵第一師団長のアレクが出陣を訴えるのであればその相手は直属の上司であるハーン=ハーベストの筈だ。しかも、ハーン=ハーベストは軍令部長でもある。シオンの言った事は至極真っ当な意見であった。アレクは不貞腐れたようにそっぽ向いて、
「親父じゃ絶対に首を縦に振らないからな」
「俺だって振るか、第一、他の軍団の師団を俺が動かせるか、馬鹿」
「むぅ………」
「今は自重しろ。新兵の訓練だって、馬鹿にならない重要な仕事だ。第一、自分の思い通りに育てられるんだから自分好みの最強部隊でも作ってみたらどうだ?」
「そんな事より、シオン兄………書類って何の書類だ?」
「ん?これか?………これは、第二軍の出陣要請書だ」
「って何が自重しろだよ!あんただって俺と同じじゃねえか!」
「一緒にするな、馬鹿!少なくとも俺はただ怒鳴ってるだけじゃねえだろうが!」
「そんだけの違いだろうが!」
「大きな違いだ、ボケ!」
こういうのをなんと言うか、彼らはおそらく知らないのだろう。
五十歩百歩。遠い異国の諺である。
二人はそのまま永遠に続くかのような罵り合いを続けるのであった。
3 王の死
帝国暦三三二年八月六日。
敗残の将兵達の表情は皆一様に暗い。
上官を失い、仲間を失い、彼らの四肢からは覇気というものがごっそりと抜け落ちてしまったかのようだった。それはルシタニアもフロレシアも変わりない。
四千五百人を引き連れて来たラインハルトだったが、今回の戦いで千五百名を失った。
残った三千人もその大半が何らかの傷を負っている。
ラインハルトは直護衛のヴァン=ブレイスを引き連れて、スフィン近郊に野営しているフロレシア軍の間を歩き回った。
近所の村の女性達が甲斐甲斐しく看病などに走り回る中、全身を血の滲んだ包帯でぐるぐる巻きにされた負傷兵がラインハルトの姿を認めて起き上がろうとした。
「良いよ、そのままで」
「へ、陛下、お伝えいたしたき、事が………御座います」
苦しそうに顔を歪めて、息を荒らげながらも、職務に忠実なその兵は必死に言葉を連ねる。
「我が主人、ランチェ卿は敵陣の中に切り込み、壮絶なる戦死を、遂げました」
「そう………お役目ご苦労。ゆっくりと体を休めて」
「恐れ多き、お言葉に御座います」
役目を果たせた充足感が、兵の体から急速に緊張感を取り除いていく。
「あ!」
ラインハルトが気付いた時には、充足感に浸ったまま、男の鼓動は止まっていた。
泣きそうに表情を崩して、ラインハルトは立ち上がった。
無様だった。
敗れ去って、こんなにも多くの兵を失ってしまった。
彼ら一人一人の家族、恋人、親しい友人。
それら全てを悲しみと絶望の淵に叩き落してしまった。
「僕のせいだ………父さんの言うとおり、数万の兵を連れてくればこんな事には………」
数万の部隊を率いていれば、勝てていたかどうか。
それはわからない。
それはわからないが、少なくとも自分を逃がすためにこんなに多くの人間が傷つかなくても良かったのではないだろうか?
そんな思いが頭の隅を過ぎり、自責の念となって彼の心を苛んだ。
「カーン=オルベニーも………戦死したの?」
「勝手に殺さないでくださいよ、陛下」
独り言に突っ込まれて、ラインハルトはきょとんとした目を足元に落とした。
先ほど往生した兵の隣に、士官服を着た男が横になっているのにいまさら気付いた。
赤髪だけでなく全身を返り血と自らの血で飾り立て、カーン=オルベニーの人相はまるで別人のように変化していたが、それでもそれは頼もしき第一歩兵連隊長だった。
「カーン!」
「へへっ、見たところ、細かい傷はあるが、五体満足のようですね、安心しました」
美しい皇帝を眩しそうに目を細めて見やり、カーンは満足げに笑った。
ラインハルトには先ほど充足感の中で急に息を引き取った兵士の姿が見えている。
「ああ、死んじゃ駄目だよ、カーン、満足しちゃ駄目!」
「揺さぶらないでくださいよ、俺はかすり傷しか負ってないんだから死にはしませんよ」
肩を揺さぶる皇帝の手を緩慢な動きで払いのけ、カーンはゆっくりと上体を起こした。
乾いて張り付いた血がぼろぼろと剥がれ落ちる。
「俺はただ単なる全身筋肉痛だっての。………それより、オットーは?それに、アミリアも」
「オットー=セルバンは無事だとレオンが知らせてくれた。アミリアは―――」
「陛下、陛下!」
噂をすればなんとやら。
茶髪に銀の瞳を持つ近衛騎士団長が、負傷兵の間を駆け抜けてくる。
そしてその視線が陛下と彼の足元に座すカーンの姿を捉えて、大きく見開かれた。
そんなアミリアを視野に収めて、カーンが包帯の隙間から微かに覗いた口元に笑みを浮かべ、包帯でぐるぐる巻きにされた手を掲げて見せた。
「―――よお。心配かけて悪いな」
アミリアは一瞬、表情を緩めかけ、慌てて渋面になると、
「し、心配などしていない!悪運の強い奴だな!部下を犠牲にして戻ってきたか?」
「………。ああ」
照れ隠しにまくし立てるアミリアの言葉に、カーンは重い口調で答えた。
彼の部下、ハレック=イミュシュティはあの乱戦の中、殿として残った。
生き残ってはいないだろう。
確かにアミリアの言う通り、彼は部下の命を犠牲にして戻ってきたのだ。
「っ………」
アミリアも自分の失言に気づき、気まずげに唇を噛む。
「それを言ったら、余だってそうだよ。余は生き残るために一千五百もの命を奪ったんだ」
辛そうな皇帝の言葉にアミリアもはっと息を呑む。場に重苦しい沈黙の時間が流れた。その気まずさに耐え切れず、ラインハルトは頬を掻きつつ、話題を変えた。
「えっと、アミリア?そう言えば慌ててたみたいだけど、なんか余に用?」
アミリアは救われたように気を取り直して、
「はっ。レオン=ルシタニア殿下よりの使者が参りまして。至急城に来てほしいと」
「城に?………何かあったの?」
「はっ。何でも、ヨーゼフ=ルシタニア王が危篤だと」
「大変じゃない!………アミリア、ここは任せたよ」
「はっ」
「ヴァン、行くよ!」
「―――はい」
皇帝の慌てた言葉に、黒髪の直護衛はいつもの通り、少しの間を取ってから頷いた。
ヨーゼフ=ルシタニア王の居室には重苦しい空気が流れていた。
部屋の三分の一程を占める、ダブルどころかトリプルか或はカルテットぐらいの大きさの寝台の上に、枯れ枝のような老人が横になっていた。
ほとんど抜け落ちてしまったらしい、くすんだ金髪に、赤い瞳、がさがさで、皺だらけの木の幹のような色をした肌、頬の肉は削げ落ち、眼窩は落ち窪んでいる。
二週間ほど前に謁見した時よりもその姿はさらに枯れ枝に近づいているようだ。
皮膚には所々に黒ずんだ斑点まで浮かび上がっており、呼気は浅く、早い。
誰がどう見ても、死期が近いのは明白だった。
部屋の中には御用医師と看護婦、レオン=ルシタニアとレフ=スタッカート、それにラインハルトとヴァンのみ。
「レオン………」
ラインハルトが気遣うように声をかけると、褐色の肌に真紅の瞳を持つレオンは気丈にも笑顔で頷いた。
「兄上、急にお呼びたてしてしまってすいません………」
「いや、構わないよ。そんな事は気にしなくていい」
レオンに促されて、ラインハルトとレオン、ヴァンとレフが部屋を出る。
ヨーゼフ王の寝室の隣にある執務室で、ラインハルトとレオンは向き直ってソファに座った。
ヴァンとレフの二人は部屋の外で待機している。
「その………なんて言ったら良いのか………きっとお父上は良くなるよ」
「ありがとう、兄上………どうやら今回のルテティア紛争が父上に心労をかけたようなんです」
その紛争に敗れ、ルテティア地方はいまや完全にドルク王国の支配下に収められてしまった。
十五万の大軍を擁していながら、ルシタニア軍は一万余の犠牲者を出して敗退した。
と言うよりは、あれだけの規模の戦闘であるにもかかわらず犠牲者が一万余で済んだ事の方が奇跡だとも思える。
「犠牲を少なく抑えられたのは兄上達フロレシア軍の方々おかげです。もしフロレシア軍が殿を受けてくれなければ我々はドルク王国軍の追撃を受けてさらに大きな被害を生んでいたでしょう。でも僕達を逃がすために大勢のフロレシアの兵士が犠牲になった。本当にごめんなさい」
「良いんだ、レオン。僕達は誰もレオンを責めたりはしないし、ルシタニアを責めもしない。ルシタニアの心がまえは実にすばらしいと思う」
戦わず、話し合いで解決する。
確かにその理想は素晴らしい。
だが、今は乱世だ。弱肉強食の時代なのだ。
甘い事を言っていれば食うか食われるかの死闘に生き残る事は出来ない。
あの白髪の巨人、ヴァルツ=リバーエンドを倒してルテティア地方を取り戻すには、ヴァルツ=リバーエンドと彼の率いる獣機動部隊に勝る力が必要なのだ。
ルシタニアの人々も、今回の敗戦でその厳しい現実に目を向けざるを得なくなるだろう。
こんこん。
「申し訳ありません、殿下」
ノックの後かすかに扉を開けて、レフが顔を覗かせる。
レオンの体が緊張に強張るのがわかった。彼の真紅の瞳が、ラインハルトの視線と絡む。
ラインハルトはゆっくりと頷いて見せた。
別に彼自身に心の余裕があったわけではない。
だが、年下の少年に対し、自分の動揺を見せたくないという矜持ならばあった。
「わかった。すぐに行くよ」
立ち上がりながら、レオンはかすれた声で返事をした。
枯れ木のような手を取り、脈をとっていた御用医師が入室してきた王子の姿を認めて、さっと退いた。
寝台の上に横たわった老王の玉顔は安らかな物だった。看護婦が目元に布を当て、泣くのを堪えている。
「―――父上は?」
声の掠れも震えも微塵も見せず、レオンは鋭いとも言える眼光で医師を射抜いた。
「お、お苦しみもなく、安らかに崩御なされました」
まだあどけなさの残る顔立ちながら、その眼光の迫力に押され、しどろもどろに医師が答える。
レオンは頷くと、
「ご苦労だった。下がって休め」
「お、お悔やみを申し上げます」
レオンと亡きヨーゼフに一礼し、医師と看護婦が出て行く。遠慮して、レフとヴァンも室外に出て行く。
「…………」
レオンはもはや命の火を吹き消された亡骸の痩せ細った手を取った。
死者と無言の会話を交わす王子。
ラインハルトはレオンの背後に所在無く立ったまま、神妙な面持ちで控えていた。
そのまま、しばしの時が流れて―――不意にレオンはラインハルトに声をかけた。
「―――兄上」
「なんだい?」
「兄上はフロレシアにお戻りください。軍も」
「………レオン?」
「僕はこの国の王になる。他国の軍の力を借りる王にはなりたくありません」
「…………」
「ドルク王国はこれ以上侵攻して来る事は出来ません。これ以上侵攻すれば、連合王国諸国も黙っては居ませんから」
ラインハルトに背を向けたまま、悲しみから逃れようとレオンはしゃべり続ける。
「僕がこの国の王となり、使わない軍隊を作り上げ、話し合いでルテティア地方を取り戻して見せます。だから―――」
「わかったよ、レオン。僕は帰るよ」
「兄上………」
「義兄弟として、必要な時には頼ってくれれば良い」 ようやく振り向いたレオンの褐色の頬を、透明な雫が滑り落ちた。
「―――ありがとう、ございます」
ラインハルトは無言で、レオンを抱き寄せた。抑えきれぬ嗚咽の声が、漏れる。少しの間だけ王子は息子に戻った。息子に戻り、父の死を思う様悲しんだ。ラインハルトはそんなレオンの嗚咽を胸に感じながら、それを羨ましいと思っていた。レオンは父の死を素直に悲しんでいる。
それに比べて自分は―――。
父帝が死、しかも暗殺されたと言うのに、驚きこそしたものの涙を浮かべる事はなかった。
親子と言うにはあまりにも希薄な関係だったとはいえ、
(僕は、薄情者なのだろうか………?)
微かに痛みを感じつつ、ラインハルトは自分と同じく父を失った少年が泣き止むのとひたすらに待った。
やがて、涙を拭い、再び顔を上げた時、レオンは次なる統率者の顔になっていた。
だが、事態は思いも寄らぬ方向に動いていく。賢王ヨーゼフ=ルシタニア、逝去。この報は瞬く間にラスカーナ大陸中に広まった。ルシタニア連合王国を四十年の長きに渡って統率し、境を接するロデン教聖区や華中大帝国、スタルナス帝国やフロレシア帝国、北方諸国と渡り合った王の死は大きな波紋となって広まった。その波紋による影響はレオンの予想を大きく裏切る形で顕在化することとなってしまった。王の崩御から一週間が経った八月十三日。
ドルク王国軍がルテティア地方を制圧しただけでは飽き足らず、ルシタニアの西部地方に侵攻したのだ。
守りの要、ハルフィア城がヴァルツ=リバーエンド率いる獣機動部隊他一万余のドルク王国軍によって包囲されたのだ。誰もがルテティア地方奪取で終わると考えていたルテティア紛争が、ルシタニアとドルクの全面戦争に発展した瞬間であった。ドルク軍がハルフィア城を包囲した日がちょうど満月だった事から後に【満月戦争】と呼ばれる事になる戦争の開始だ。
新たなルシタニア王となったレオンは直ちに連合評議会を招集、連合王国の全力を以てドルク王国を打倒する事を決定した。だが、連合を形成する各国の援軍が到着するまではルシタニア王国一国でドルク王国の侵略を防がねばならず、それだけに守りの要たるハルフィア城の重要度は言うまでも無かった。
元々はスタルナス帝国の侵攻を想定して作られていた堅城であり、守り易く攻め難き山岳に築かれた山城であるハルフィア城であるだけに、その防御力は並外れて高い。
さすがのドルク王国獣機動部隊もハルフィア城を包囲した物の、攻めあぐねていた。
城内には食料も豊富にあり、将兵の戦意も高い。しかし、守備兵は僅かに千余しかいなかった。
元々は一万余からなる部隊が常駐していたが、この部隊は先の第一次ルテティアの戦いにも参戦し、多大な被害を受け、現在は王都スフィンで再編成中だったのだ。
全ては油断が生んだ結末であった。
ラインハルトは翌十四日、第三軍より派遣されてきた三万と合流、負傷兵はスフィンに残して、三万二千の部隊を率いて出陣した。陣中には親衛隊に守られたレオンとレフの姿もある。
二千の兵はアミリアの率いる近衛騎士団とオットー=セルバンの率いる近衛騎士以外の部隊と言う変則的な編成で、皇帝ラインハルトの周りを固めている。
山岳地域の多い、ルシタニア領内での戦いを想定している第三軍の装備は軽装で、長剣ではなく短剣や戦斧を装備している者が多かった。兵も大柄な兵よりも小柄な兵の方が多く、攻撃力よりも敏捷性や機動性を重要視している。ルテティア地方からは続々とドルク王国軍の部隊が侵攻しており、各所の村などを焼き討ちにしているとの情報も入っている。
被害は拡大するばかり………。
「一体、連中の目的はなんなんでしょう?」
ラインハルトと馬を並べて、レオンが険しい顔つきで聞いてくる。
連中の目的はルテティア地方ではなかったのか?
「ヨーゼフ王が亡くなって、連合王国の結束が緩んだと判断したのかも。もしくはスタルナス帝国に唆されているのか」
既にエシュアより、スタルナス帝国からドルク王国に大量の武器が輸出されている事は突き止めてある。
だがしかし、このような大規模な戦、ドルク王国に一体どのような益があるのだろうか?
4 同じ空の下
スフィンを発ったフロレシア帝国軍は十七日、ひとまずハルフィア城とは山一つ隔てた位置にある町ハルフィアに入った。
城下町と言う事だが、城からはかなり離れている。
ハルフィア山と言う高峰の西側に城があり、東側に町があるのだ。
峠道は細く厳しく、とても三万二千の大軍が通れる道ではない。
「斥候によればドルク王国軍は城の北から南にかけて180度の包囲陣を敷いているそうです。山を迂回すれば敵部隊に遭遇しますが、山を越えるならば敵部隊の妨害を受けずに城の背後に出られます」
オットー=セルバンが集まった軍の幹部達を前に地図を広げて説明する。
「となれば問題は、どれほどの兵力を誰が率いて城の後背に出るのか、ですね」
ゆっくりと言ったのは腰まで金髪を伸ばした優男風の人物だ。
事前の自己紹介で彼は第三軍歩兵第五師団長アルベルト=ウィーズリーと名乗った。
現在第三軍から派遣されてきている部隊の最先任指揮官と言う事だった。
それはそうと彼らが現在急いでやるべき事はハルフィア城への戦力の増強である。
いくら堅城とはいえ、僅か千余の守備兵力ではドルク王国軍の猛攻、特にあのヴァルツ=リバーエンドの率いる獣機動部隊による攻撃を防ぎきる事など不可能。
ゆえに、敵に包囲されていない山側から城内に兵力を送り込もうと言う作戦である。
「送り込める兵力は精々が数千、しかも山岳の地理に長けた者でなければそもそもハルフィア城まで到達する事すら出来ません。ハルフィア山は地元の樵ですらしばしば道に迷う難所ですから」
これはフロレシア帝国軍の軍議と言う事で、ルシタニア側からは誰も出席していない。
とはいえ、兵力を送り込むハルフィア城はれっきとしたルシタニア王国領内の城なのだから、当然作戦は事前に検討されるべきだ。
だからこのいわば身内だけで行われる作戦会議の後にはルシタニア側の要人、レオン=ルシタニアを呼び入れて細かい所の調整も必要となってくる。
「問題は他にもある。いざ城の後ろに出た所で、敵と誤認されて攻撃を受ける可能性もあるぞ」
「確かに」
連隊長の一人の発言に神妙に頷いて、オットーも困り顔になる。
「そこは確かに問題です。この点は後ほどレオン=ルシタニア殿下―――いえ、陛下に伺って見なければなりません」
「じゃあとりあえず、ハルフィア城に向う部隊の選出ですな。山岳を通るわけだから重装備の近衛騎士団は不適、同じく第一軍の将兵も。となれば我が第三軍より部隊を抽出するしかありませんな」
アルベルトの意見はもっともだ。
平原などでは無類の強さを誇る第一軍や近衛騎士団ではあるが、思うように武器も振り回せないような山岳戦ではその重装備が仇となってまともな動きも出来なくなる。
それに比べれば、アルベルトの言うとおり、第三軍の将兵は山岳戦の訓練を存分に積んでいるし、装備も軽装だ。
「それでは私を含め、第五師団から二個連隊五千名を持って、ハルフィア城への増援部隊としたい。残りの二個連隊は第六師団に臨時編入と言う形にしていただきたい」
「承知した」
「陛下、これでいかがでしょうか?」
アミリアがラインハルトに聞く。
ラインハルトは金色の髪を指で弄りつつ、蒼い瞳を円卓上の地図に注いだ。
「やっぱり沢沿いの道を登って行くのかい?」
「はい」
皇帝の御下問に、アルベルトが恭しく頭を下げてみせる。
「待ち伏せとかは大丈夫だろうか?」
「………と、申しますと?」
「この山を登るんだったらこの沢がもっとも大きな道筋になると思う」
「さようにございます」
「だったら敵もそう考えるんじゃないだろうか?………城への食料搬入や今回みたいな増援を送るとかと言った場合を想定して兵を伏せている可能性は?」
「無論、確実にないとは申せませんが、むしろわざと退路を閉じずにいるのかもしれません」
「………どうして?」
「窮鼠猫を噛むと言う言葉が御座います。追い詰められれば弱者と言えども死に物狂いで戦うもので御座います。ところが、生き延びる事が出来る退路があります時はなかなか本来の力を発揮できぬもので」
「なるほどね………確かにその通りかもしれない。よし、余もハルフィア城増援部隊に加わる」
「な、なんと!?」
声を張り上げたのはアルベルトではなかった。
アルベルトはただ薄い色素を湛えた瞳を細めているだけ。
「陛下、危険でございます!」
声を張り上げたのはアミリアだった。
しかし、ラインハルトは穏やかな眼光のまま、アミリアの目を射抜いた。
「アミリア………余は皇帝なんだ。この戦いの成敗はひとえにハルフィア城に援軍を送り込めるかどうかにある。皇帝たる者、戦況のもっとも重要な場所に居なければならないんだ」
「陛下………」
結局、アミリアはラインハルトを止める術を持っていなかった。
ラインハルトはルト=リューベンの反乱の時も、己の身を前線に置いたのだ。
「ならば、私も―――」
「それはだめだよ、アミリア。君は近衛騎士団を率いて、第三軍と共に待機していてもらう」
「陛下………」
「レオンは戦に持ち込まないつもりだけども、やはり今回も戦になると思う。近衛騎士団を率いるのは君の役目だろ?」
「わかりました………ご無事をお祈りしています」
「ありがとう」
「決まりましたな。それでは、明日の朝にでも登り始めましょうか」
「―――うん。それじゃ、解散」
ラインハルトが解散を告げて、作戦会議は終わった。
その後ラインハルトはレオンと二人で会い、レフの淹れた紅茶を飲みながら、話し合った。
「僕達がハルフィア城に入るにはやっぱり君の一筆が要ると思うんだけど」
「それなら心配ありませんよ、兄上」
真紅の瞳を悪戯っぽく輝かせて、レオンが笑う。
「?………どういうこと?」
まさか予めこの事あるを予想して連絡してあるとか?
「だって生き証人が居ますから」
「生き証人?」
どうやら予め知っていたと言うわけではないらしいが、レオンの吐いた言葉は不可解な物だった。
「僕も同行します、兄上」
「私も」
レオンとレフが、言い放った言葉にラインハルトは瞬時言葉を忘れた。
「………え?」
「僕もハルフィア城に入ります。無論、戦う為ではなく、話し合うために」
「私は陛下の従者ですから」
レオン達の言っている事を飲み込むのにそれほどの時間は要しなかった。
そして、反対する事は出来なかった。
自分も先ほどアミリアの反対を押し切ったばかりだし。
ラインハルトに皇帝としての責任があるように、レオンにも国王としての責任があるのだ。
そしてその責任を果たす方法とはドルク王国と血を流さずに和平を結ぶ事。
その並々ならぬ決意を見て取って、ラインハルトはただ無言で、頷いた。
「ありがとう!兄上!」
喜色を褐色の肌に浮かべて、レオンがレフを振り返る。
レフもいつもの鋭い眼差しを少しだけ緩めて頷く。
かくして、山岳隊に王と従者も加わったのである。
「―――ふう」
夜空を見上げて、嘆息一つ。
ヴァンは少し離れた場所で警護している。
陣から少しだけ離れた膝ぐらいの草に覆われた丘の上に衣服が汚れるのも構わずに腰を下ろして。
見上げる夜空は少しだけ欠けた満月が明るくて、星が消されていた。
それでも尚輝きを失わぬ星も居て。
明るい夜空と言う物もまた、美しいものだと思ったりして。
ポケットから大事そうに布に包まれた物を取り出す。
掌の上に立てて、布を取り除くと手に収まるような小さなロデン神像が出てきた。
左の顔は、慈悲と温情、温かい母にして、平和の象徴。
右の顔は、憎悪と軽蔑、厳しき父にして、争乱の象徴。
左手には知識を象徴する書を持ち、
右手には武力を象徴する鉾を持つ。
仁王立ちしたその背後には、鮮やかな炎が立ち昇り、
炎はやがて風となり、雲となり、恵みの雨となって大地を潤す。
(神、か………)
忘れかけていたけれど。
ラインハルトはロデン教によって命を狙われているのだ。
あの暗殺者ジェルナ=クレイスロールについては暁に調べさせた。
その結果、彼女はとある暗殺組織に身を置いており、今回彼女に皇帝暗殺を依頼したのがこのラスカーナ大陸で最も広く信仰されているロデン教である事が判明した。
見える国家とは異なり、宗教は目に見えない。
誰が信者で、誰が信者でないのか?
信者だとしてもうわべだけの信者から全てを神に捧げる狂信者まで。
まさに千差万別。
だがもっとも宗教が厄介なのは全ての身分の者が敵だと言う事だ。
国家が相手ならば軍対軍の戦いで決着が付く。
時折民衆も巻き込まれるが、なかなか民が積極的に立ち上がると言う事はない。
しかし、宗教では文官も騎士も兵も農民も商人も職人も、誰もが敵になる可能性があるのだ。
(困ったもんだ………)
心の中で呟いてみる。
だが今はロデン教よりも、ドルク王国軍の方が悩みの種だった。
ふと、ロデン神像の顔に別人の顔が重なった。
心配げな表情をした銀色の髪に金色の瞳。
幼馴染の顔を思い出して、ラインハルトは懐かしさに頬を緩めた。
そう言えばもう一ヶ月以上も会っていないのだ。
「シエナ………」
そっと名を呟いてみる。
心配しているだろうか?
そりゃそうだろう、戦いに負けたんだから。
「いや………。心配してないかな」
なんでかはわからないが、そんな気がした。
シエナは僕を信じてくれているんじゃないだろうか?
無論、皇帝が無事だと言う報告は届いているだろう。
だけどそういった次元の話しじゃなくて、もっと精神的な部分で繋がってる様な気がした。
それはもしかしたら、身勝手な男の身勝手な思い込みかもしれないが。
「それでも―――」
ごろんと仰向けに転がる。
呼吸する草の香りを肺一杯に吸い込んで、空を見上げる。
「同じ空を見ていたりして」
空は繋がっている。
何処に居ても、空の下という共通項は変わらない。
同時刻。
帝都ルーガのルーガ城尖塔に、シエナは登っていた。
街でもっとも高いその場所は空がもっとも近い場所でもある。
明るい月が輝く空を見上げるシエナはその胸にしっかりとラインハルトに渡した物と同じ小さなロデン神像を抱えていた。
(ライン………無事に帰ってきて)
サリアのおかげで不安感を拭い去れたと思っていた。
でも、一人になると途端に寂しさが襲って来た。
主人の居ない皇帝私室。
乱れのないシーツを見ると、ああ、ラインは居ないんだと思えてくる。
(駄目ね、私………)
ラインが居なくなってからまだ僅かに一ヶ月ちょっとしか経っていないのだ。
なのに、一人でいるとき、ふと気付けばラインの事ばかり考えて涙を堪えている自分に気付くのだ。
自分はこんなに弱い女だっただろうか?
ぼんやりと考えながら空を見上げて、シエナははっとした。
星の欠片が明るく輝きながら空を斜めに横切っていったのだ。
両手を合わせて、咄嗟に願い事を唱える。
「ラインが無事に戻ってきますように!ラインが無事に戻ってきますように!!ラインが無事に戻ってきますように!!!」
言い終えた次の瞬間、流れ星は空の中に溶け込んでいった。
なんとなく、願いが聞き届けられたような気がして、シエナはくすりと笑った。
それから気を使って彼女を一人にしてくれた衛兵に礼を言って、自室へと戻っていった。
「………あ!流れ星!」
空を横切っていく光の粒に一瞬見とれ、慌てて両手を合わせて願い事を唱えようとする。
だけれども考えがまとまらず、まごついている内に、小さな星の欠片は星の大海の中に沈みこんでいってしまった。
「あ~あ………」
残念そうにうめき、いつのまにか起こしていた上体を草葉の中に戻す。
(シエナ………。この戦いが終わったら、すぐに戻るよ)
心の中で決意する。
そして、勢いよく立ち上がった。
「…………」
影のように近づいてきたヴァンを振り返って、ラインハルトは頷いた。
「さぁ、ヴァン、早く帰って寝よう。明日は朝早いから」
「―――はい」
歩き出しながら、眼前に聳えるハルフィア山を見つめる。
その山はかなり高く、二千mぐらいはありそうだ。
「僕………登れるかな」
密かに自信の無い、皇帝であった。
黒髪の直護衛は何を言うでもなく、その背を見つめていた。