覇皇伝
第三章 スタルナスの英雄
第三章 スタルナスの英雄
1 狂気
帝国暦三三二年八月二日。
ルシタニア王国とドルク王国との紛争を背後で手引きしているのが誰なのか―――。
少し考えれば、容易に答えは出る。この時期、フロレシア帝国皇帝の目を自分から逸らしたかった者。
それはすなわち、スタルナス帝国皇帝バイエルン=スタルナスに他ならない。
彼は大量の武器をドルク王国に輸出し、ルシタニアへの武力攻撃を唆したのだ。
盟友の危機に、情に厚いフロレシア皇帝は必ず動く。
だが、実際の所皇帝が率いた兵力は僅かに四千五百。
内乱によって皇帝をルシタニアに釘付けに出来れば―――程度に考えていたスタルナスの廷臣達は歓喜し、期待を寄せた。ドルク王国軍が皇帝の首を挙げるのを。
もしラインハルト=シーザーが戦場の露と消えれば、早晩フロレシア帝国は崩壊する。
アリーニ=アウグウェルツなどと言う貴族ではあの大国を御す事など不可能なのだ。
そうすれば、覇皇に最も近い位置に居る男は自分と言う事になる。
バイエルン=スタルナスはこの頃ますますベニア=ルーナを溺愛するようになっていた。
なにしろ、今回のドルク王国の扇動も元はと言えば閨にて彼女に囁かれた言葉なのだ。
無論彼女の背後には宿敵ネヴァット帝国を一蹴し、その勢力範囲を瞬く間に倍増させてしまったルーナ帝国皇帝カール三世の存在がある事は間違いない。
そして、ちょうどルテティアでラインハルトとヴァルツが遭遇していた頃、半日近くも後宮に篭っていたバイエルン皇帝がまるで精力を削られたかのように頬をこけさせ、眼窩を落ち窪ませながら、謁見の間に出てきた。
やつれきった皇帝の姿に廷臣達は物言いたそうな表情をするのだが、処罰されるのが恐ろしく、とても口に出来るものではなかった。
「陛下。先日召しましたるキエフ=ロドリナス将軍が参上いたしておりますが」
「通せ」
その声は生者の物と言うよりは、むしろ死人に近かった。
ガーフィールド城の美しい中庭に面したテラスで、キエフ=ロドリナスは皇帝が後宮から出てくるのを待たされていた。彼は通常、フロレシア帝国との国境に程近い要害に築城された名城ハウゼン・シュタットに常駐している東方方面軍の司令官を勤めている。
「遅いな」
言葉を口に出したのは、彼ではなく、彼の隣に座す若者であった。
名をオルティア=フリンシュと言う。
まだ三十代だが、その若さで名城ハウゼン・シュタットの守備を任されている優秀な男だ。
キエフ=ロドリナスを父と敬慕し、戦友としても深い友情で結ばれている。
その灰色の髪と左目青、右目金の不揃いな瞳から、彼には魔性が宿っているという噂すらあるほどだ。
「そうだな」
キエフは言葉少なく応じる。
既に五十代の半ば、その金色の髪にも白髪が混じり始め、鬼瓦のようだと評された顔にも皺が増えてきている。そろそろ退役なのではないかという噂も巷では流れているほどなのだ。
「陛下は一体何の用なんだろう」
城将と方面軍司令官と言う役職にある二人が同時に呼び出される事など今まで絶無だった。
確かに二人ともいざとなれば頼れる副将が居るが、それにしても主将が―――特にキエフ=ロドリナス―――が居るかどうかは兵の士気に絶大なる影響を及ぼす。
フロレシア帝国は帝政の国家であり、皇帝の意思は絶対だ。
が、あれだけの広大な領土すべてに皇帝の意思があまねく伝わるはずも無く、伝える必要も無く、むしろそれは連絡に掛かる時間を思えば害悪ですらある。
なので、フロレシア帝国の国境を守る四つの軍団にはある程度の独立的な権限が与えられているのだ。
皇帝がルシタニアを訪問中だとしても、軍団長が好機と判断すればフロレシア帝国軍が侵攻してくる可能性は無きにしも非ず、という訳だ。
先のエルベス川での戦いにおける敗北の傷はいまだ深く、本格的な侵攻を受ければハウゼン・シュタット城に籠城したとしても苦戦は免れないだろう。
「帝都は久しぶりだろう?」
キエフは答えを知っている質問を、親子ほども年の離れた戦友に投げかけた。
自分の身に何かあれば、自分の後継者になるべきなのはこの男を置いて他にはいない。
それはキエフ=ロドリナスだけでなく、帝国軍人及び帝国の国民の大部分が賛同する周知の事実であった。オルティアが士官学校を卒業して、キエフ=ロドリナスの副官に配属された時以来の付き合いだから、かれこれ十二、三年の付き合いと言う事になる。
その間、キエフは戦術・戦略・戦務の全てをこのオルティアに教え込んだ。
そのオルティアは父とも呼び、友とも呼び、師とも呼ぶ老将の問いに、その不揃いの瞳をかすかに細め、声をひそめて答えた。
「自分がかつて生まれ育った帝都と果たして同じ帝都なのか―――まず、そう疑いました。あの活気に溢れ、希望に沸きかえっていた帝都の住民達の表情には絶望と不安と諦めが渾然一体となったような暗い表情が浮かんでいました。かつては羨望と誇りを持って眺めていた宮城を今の彼らは憎悪と遺恨で見つめている。帝宮内には真新しい建造物が何棟も造られている。現在の帝国の財政逼迫を考えれば、まさに愚の極みとしか―――」
と、そこで、上体を捻ったキエフが素早くオルティアの口を塞いだ。
彼らの背後をひそひそと話しをしながら廷臣が通り過ぎていく。
気配が完全に消えるのを待ってから、ようやくキエフは手を放した。
「廷臣の耳を気にしなければ好きに話す事も出来ないなんておかしいですよ」
憤慨して、オルティアは呻いた。
キエフは首を左右に振って、口元をへの字に曲げた。
「帝都をこんな風にしてしまったのは、あの女だ。あの女が来てから陛下も国家も狂ってしまった」
吐き捨てるように言う。無論、あの女とはベニア=ルーナの事だ。
「傾国の美女」「魔性の女」「ルーナ帝国の手先」………。
彼女に関する悪口は日を追うごとに大きく、悲痛になっていく。
それを取り締まる軍警による弾圧もまた日を追うごとに厳しく、容赦仮借なく、酷烈になっていく。軍人や廷臣の中に、諫言する気概のあった者はすべて処罰され、残ったのはベニア=ルーナに媚びて己が身の立身出世を謀る愚かな者ばかり。キエフとてこの状態を憂えずにはおれなかったが、身命を賭しての諫言とて、聞き入れられずに処刑されたならそれはただの犬死に過ぎない。国のために死ぬのならばこの老いた命など投げ出しても何の悔いもないが、無駄死にだけはしたくなかった。
「だからこそ―――」
キエフは声を潜め、オルティアの耳元に囁いた。
「今は耐え忍ぶ時。必ずや、国家再生の時は来る」
オルティアが頷いた時、彼らの方に近づいてくる廷臣があった。
二人の前で深々と頭を下げ、廷臣は何の感情も無いかのような無表情で言った。
その無表情こそ、彼らが現在の宮廷内で生き残るために身につけた処世術なのだろう。
複雑な面持ちで、キエフはその廷臣を見返した。
「陛下がお待ちかねです、閣下」
「―――さて、遂にわしも退役かな」
「ならば私は方面軍司令官を拝命するんですかな?」
キエフとオルティアはわざと明るく笑い合いながら、謁見の間へと歩いていった。
「―――なんと、申されました?」
我が耳が信じられぬと言った表情で、キエフは聞き返した。
隣に控えるオルティアも驚愕の表情を浮かべている。
玉座に座したバイエルン帝は薄気味の悪い笑みを浮かべて、言葉を繰り返した。
まるで、誰かに覚えさせられた言葉を復唱する子供のように。
「キエフ=ロドリナス、東部方面軍司令官の任を解き、西部方面軍司令官に任ず。オルティア=フリンシュ、ハウゼン・シュタット城城主の任を解き、南部方面軍司令官に任ず。当面の方針は西部方面軍、現状維持。南部方面軍、南進、パルディア王国をルーナ帝国と協力のもと攻略すべし。既に先鋒軍は動いている。貴官も早急に任地に赴くように」
「御言葉ですが、陛下―――我ら両名なき後の東方の守備はいかがなされるおつもりでございましょうや?」
慇懃に頭を下げつつ、それでも納得しない限り縦には首を振らぬと言う気概を滲ませて、キエフは皇帝を睨みつけた。その眼光に、皇帝の瞳にかすかな理性の光が浮かぶ。
だがそれはほんのかすかな光でしかなかった。
「フロレシア帝国の目は現在北方に向けられている。我が国に攻め込む余裕はあるまい」
「ですが陛下、パルディア王国はフロレシア帝国、我が国、そしてネヴァット帝国を併合した事によってルーナ帝国とも境を接する事となった戦略上重要な位置にある国家です。このパルディア王国攻略の兵を差向ければ、フロレシア帝国の南部方面軍―――第四軍が反撃に出るは必定。すぐにでも二、三万の兵は動きましょう。攻略には慎重なる配慮が必要かと。また我が国の兵が南方に差向けられているのを見て、第六軍が東方より侵攻する可能性も無いとは言えません」
バイエルンは混乱したように頭を抱えた。刷り込まれた指示が消えていく。だがそれでも、完全に消える事は無かった。何処と無く空ろな眼差しのまま、帝は頷いた。
「ならばキエフ=ロドリナス。貴官に東部方面軍司令長官兼ハウゼン・シュタット城主を命じる。東方より敵来襲の折にはハウゼン・シュタットを良く守り、敵に打撃を与えよ」
「ははっ―――して、パルディア王国の方は?」
「それは計画通り。例え、フロレシア軍が出てこようとも、南方からはルーナ帝国の軍勢が攻め込む手筈になっている。今までは緩衝地帯としての価値を有していたパルディア王国であるが、ルーナ帝国と同盟関係にある我が国にとっては双方の連絡に齟齬を来たす恐れありとしてこの存在を憂慮せざるを得ないのだ」
「了解しました!このオルティア=フリンシュ、神明に誓いまして、必ずやパルディア王国の王城に《黒十字の紋章》を掲げる覚悟でございます」
バイエルンの瞳に妖しい光が宿り始めたのを見て取って、オルティアが大声を上げて頭を下げる。
その声に、バイエルンは首を左右に振った。するとその瞳から、妖しい光は消えていた。
もしこのままキエフに話させていれば、バイエルン帝の機嫌を損ね、処罰されていたかもしれない。
「うむ。期待しておる。両名、下がって良い」
「ははっ」
二人は揃って頭を垂れ、謁見の間から辞去した。
謁見の間から辞去した二人は行きつけの酒場へと向かった。
一番奥まった席に腰を下ろし、何品か食事を注文する。
この酒場は酒も不味くは無いが、料理が美味いので、キエフのお気に入りに列せられているのだ。
「まるで操り人形の如くであったな」
悲しげに―――彼は人一倍バイエルン帝への忠誠心に篤いのだ―――キエフが呟く。
オルティアもかすかに視線を伏せて、なんとか声だけでも明るさを保とうとする。
「それでも閣下の御言葉には耳をお傾けになられましたな」
危うく西部方面軍司令官に任じられる所だったのだ。これは事実上左遷に近い。
なにしろスタルナス帝国の西部にある国家は確かに友好的な関係にあるとはいえないが、その兵力はそれぞれ数千から多くても五万と強大なフロレシアに比べれば瑣末な問題でしかなかったからだ。これを翻意させる事が出来たのは、バイエルンとキエフの長い付き合い故であろう。
バイエルン帝もキエフの忠誠心だけは未だに覚えているのかもしれない。
「わしは良い。なんとかハウゼン・シュタットに留まる事が出来たからな。じゃが、おまえは気を付けた方が良い」
「わかっていますよ、閣下」
心配性のキエフを安堵させるように微笑んで、オルティアは目を瞑った。
「彼を知り己を知れば百戦危うからず。彼を知り己を知らざれば、一勝一敗す。彼を知らざる上に己をも知らざれば、戦う毎に必ず敗れる―――貴方の副官に任じられた時、最初に言われた言葉です。俺の座右の銘ですよ、この言葉は」
オルティアの言葉にかすかに照れたかのように目を伏せ、キエフは頷いた。
「その通りだ。敵の兵力を過小評価して傲慢に陥るぐらいならば、過大評価して慎重を期すほうがましだ。パルディア王国の王は代々武を重んじる騎士の一族。その軍勢も精強だ。フロレシアの第四軍も侮れる相手ではない。まさか広大な分担地域の兵全てをかき集めて十八万で来ると言うことも無いだろうが、数日で国境付近の一、二万は動く」
「こっちの兵力は先鋒軍が一万五千に、本隊が三万。パルディア王国の軍勢を五千から七千と見積もれば、こちら四万五千に対し、敵は二万七千」
「合流に失敗すれば、一万五千対二万七千だ」
「それは相手にも言えますよ。運が味方すれば、四万五千対七千もありえる」
「だが、一番厄介なのは敵じゃない」
そこで二人の会話は一旦途切れた。料理が続々と運び込まれてきたからだ。
朝一番に登城したため朝飯は食えなかったのだ。既に昼飯と言うには遅すぎる―――三時ごろだろう―――が、このまま夕食まで空腹の腹を抱えるのは耐えられない。二人は無言で、料理を貪り食った。特にキエフは老体とも思えぬ食いっぷりであった。
次々に料理を追加注文し、二人の前には山のように空になった皿が積み上げられていく。
店内の客はそんな二人を呆然と見やるのみ。だがそれがキエフ=ロドリナスとオルティア=フリンシュだとわかると彼らは揃って微笑やら苦笑やらを漏らす。
この二人が大食漢だと言うのはガーフィールド内では有名な話しなのだ。
やがて食事も終わり、食後のコーヒーを飲みながら、二人は先ほどの話しを再開させていた。
「敵よりも注意を要する存在は、パルディア王国南部から侵攻する予定になっているルーナ帝国軍だ。陛下は盲目的に信じておいでだが、連中が同盟を守るかどうかは未知数だ。最悪、おまえが必死に戦って城に辿り着いてみればそこにはルーナ帝国の《死神と鎌》が翻っているかもしれん」
「もしそんな舐めた事しやがったら、皆殺しにしてやりますよ」
「是非そうしてくれ………と、言いたい所だが。無理はするな」
キエフもオルティアも揃って冗談めかした口調だったが、その瞳には真剣な輝きがあった。
正直な所ルーナ帝国に関してはほとんど何もわかっていないのだ。
兵力量などを見ればさほど強大とも思えない普通の国だ。
それが短時日でほぼ同程度の戦力を有していたネヴァット帝国を併合してしまった。
しかもネヴァット帝国軍はほぼ全滅してしまったと言う。
たった一人の女将軍ミト=ヴァレンツェに率いられた死兵師団と言う謎の部隊によって。
ミト=ヴァレンツェとは何者で、死兵師団とはいかなる存在なのか。
そんな事すら、彼らは知らなかった。
わかるのは、ルーナ帝国皇帝カール三世が、ルーナを併合しようというバイエルンの野心を逆手にとってベニア=ルーナをガーフィールドの後宮に送り込んだ事とそのベニア=ルーナによってすっかりバイエルン帝が骨抜きにされている事。
そして、ミト=ヴァレンツェの率いる死兵師団と言う滅法強い兵団が居るということ。
そして、味方でありながら、もっとも信の置けない相手だと言う事だ。
本当に彼らは功を奪うかもしれない。
オルティア=フリンシュに戦わせておいて、漁夫の利を占めようとするやも知れないのだ。
その後も何点か細々とした注意点を与えた後、二人は店の前で別れた。
明日には一人は東へ、もう一人は南へと旅立つのだ。
一人で自宅へ戻って。
キエフ=ロドリナスは一人沈思黙考した。
もしルーナが本気で帝国との同盟を欲しているのならば?
確かにそれならばパルディア王国の存在は害悪に過ぎない。
地政学的に見ても、その判断は正しいだろう。
だが、やはり問題なのは―――
(ルーナ帝国が味方なのか、それとも味方を装った敵なのか―――と言う事だ)
名将キエフ=ロドリナスはその日一晩、考え抜き、答えを見つけられぬままに、東へと去った。
2 レッセフェルト=イングラム
三日後の帝国暦三三二年八月六日。
南部方面軍司令官に任じられたオルティア=フリンシュが彼の軍勢である三万を率いてスタルナス帝国南部の中心都市アシュルに到着した時、既に先鋒軍一万五千はマドラス=ハイケイリー将軍に率いられて、パルディア王国との国境線を越えていた。
守備隊は粉砕。パルディア王国北西部の中心都市は次々に陥落し、《黒十字の紋章》の旗が翻った。パルディア王国軍は抵抗する事も出来ず、撤退を重ねた。遂には帝国軍が来る前に守備拠点を放り出し、国の中央部を流れるラーマヤーナ川をも越える始末。
武を重んじる精強の騎士団と謳われる力の片鱗すらも見せず、彼らは敗退を重ねた。
ラーマヤーナ川はフロレシア帝国とスタルナス帝国を分かつガジェット山脈にその水源を有し、パルディア王国の沃野を潤し、その国土のほぼ中央で東西に分岐する。
その分岐点にパルディア王国の王城であるパルディア城は建造されているのである。
そして開戦三日目にして、マドラス=ハイケイリーは国境線より七十キロと言う距離を前進し、パルディア王国北西部をその制圧下に置いた。
突然のスタルナス帝国侵攻にパルディア王国は浮き足立ったが、武王とも呼ばれるジーク=パルディアスは冷静にパルディア城の守備を固めると共に、フロレシア帝国に使者を向わせた。
使者が向かったのは両国の国境線に最も近い砦、ニヘンベルグのレッセフェルト=イングラム第四軍第十六歩兵師団長兼ニヘンベルグ砦守備隊長の元だった。
蜂蜜色の髪を持つ青年武将レッセフェルトはすぐさま使者を第四軍の本隊が駐屯している帝国南部の大都市ザルカのコーデル=ハム第四軍司令官の元に送ると共に自らは三個連隊七千五百を率いてニヘンベルグを出陣、国境を越えてパルディア王国北東部へと進出した。
パルディア王国援軍として、フロレシア帝国軍参戦す。
この報はすぐにようやく国境を越えたばかりのオルティア=フリンシュの元に齎された。
ほぼ同時に、マドラス=ハイケイリーからは、
『我が部隊はラーマヤーナ川の上流域を渡り、フロレシア帝国の援軍を粉砕する』
と言う旨の報告が齎された。この報告にオルティアは激怒した。
何故ならば今回のパルディア王国制圧戦の総指揮官は彼であり、マドラスは彼の指揮に従わねばならないからだ。もし彼が正規の手順を踏むのであれば、まずは意見具申という形で使者を出さねばならないのだ。だが、マドラスはこれを省略し、事後承諾の形で使者を派遣してきたのだ。
しかもマドラスはパルディア城を放置して、川を渡るつもりのようだった。
これはもはや拍子抜けするほどの勝利の連続に完全に酔ったマドラス=ハイケイリーの独断専行だった。
「馬鹿が………パルディアの騎士に背後を取られたらどうするつもりなのだ!」
激怒しても、平常心を失わなかったオルティアはマドラスを呼び戻す使者を派遣しなかった。
使者を派遣しても、もはや間に合わないと言うタイミングで、マドラスは使者を送ってきたのだ。
「我々はパルディアの軍が動けぬよう牽制する。全軍、南下せよ」
不本意ながらも、オルティアはマドラスの背後をパルディア軍が襲えぬよう、牽制する役目を自ら買って出たのだ。
情報にはフロレシア帝国軍の兵力は含まれていなかった。
しかし、スタルナス帝国によるパルディア王国侵攻から援軍の出現までの期間が短すぎる事から、オルティアは援軍はせいぜいが国境に配備されている一個師団程度と見て取った。
それならば兵力で勝るマドラスが抑えこめるはずだ。
しかし、時間が経てば経つほどフロレシア帝国軍は増強され、戦況は苦しくなるばかりと予想された。そこでオルティアは軍法違反を起こしたマドラスの処罰を後回しにして、パルディア城を早めに陥落させる事を決めたのだ。
それまでの緩やかな進軍から一転、彼の率いる三万の軍勢は怒涛の勢いで進軍を開始した。
スタルナス帝国マドラス=ハイケイリーの率いる一万五千とフロレシア帝国レッセフェルト=イングラムの七千五百が対峙した場所は、パルディア王国北東部に広がる沃野だった。
見晴らしの良い平原において、両軍は対峙した。
相手が自分の率いる部隊の半数ほどでしかないと知って、マドラスは頬をにやけさせた。
(これで軍功を立てれば、或いは中央に返り咲くことも出来るやも)
元々中央の武官だった彼だが、瑣末な派閥問題の責任を擦り付けられ、辺境の警備隊司令に左遷されていたのだ。今回の戦いは辺境で腐っていた彼にとってもはや人生最後の機会かもしれない。
ここでフロレシア帝国軍を駆逐し、パルディア王国制圧に貢献したとなれば中央に返り咲く好機も生まれようという物だ。
「フロレシアの連中を一人残さず討ち取れ!全軍、突撃!」
マドラスの命令に従って、騎馬隊が飛び出した。
その後を槍隊が追い、その後を弓隊が駆ける。
馬の蹄と歩兵の軍靴に踏み躙られ、濃厚な草の香りが平原に満ちる。
砂埃を蹴立てながら突き進んでくる敵をじっと見つめながら、レッセフェルト=イングラムは眠たそうに半眼に閉じた眼を自分の右側に居る伝令兵に向けた。
「サンチェの部隊はどうなってる?」
「現在移動中です」
「よし。こっちの部隊が三分の二になってるのを気付かれないよう、全力で戦え」
全力で戦えなどと言いながら、己は全くやる気もなさそうに蜂蜜色の髪をかき回しながら、彼は両手剣の柄を握り締めた。
五千のフロレシア軍に、三千のスタルナス騎馬隊が突っ込み、その突撃力で強引にフロレシア側の陣形を崩していく。
片鎌槍を縦横に振り回しつつ、マドラス=ハイケイリーは騎馬隊の先頭を突き進んでいた。
出世の野心に心を焦がしながらも、指揮官先頭の武人としての心得まで忘れたわけではないマドラスだった。
しかし、それが彼の寿命を短くした。
川原の葦を薙ぎ払うかのように直進していた彼の前に、突然白刃が煌いたのだ。
「―――むっ!?」
慌てて馬を竿立ちにさせる。斬撃は馬の前足を切り離した。
激痛に激しく暴れ、どうっと倒れる馬の背から飛び降り、マドラスは血走った目で今の斬撃を放った相手を探した。
その視界に場違いなほどにのんびりと剣を構える蜂蜜色の髪をした青年の姿が飛び込んできた。
「今のは貴様か!」
「ふわぁ………何がだ?」
「俺の馬を斬ったのは貴様かと聞いておる!」
どこか茫洋とした表情を浮かべていた男の顔に、精悍な笑みが浮かぶ。
「俺が斬ろうとしたのはあんただよ。見たところ、それなりの地位に居るみたいだが?」
「俺はマドラス=ハイケイリー!スタルナス帝国南部方面軍先鋒隊司令だ!」
「ほう。ってことは今俺が戦ってる連中の総大将って事か」
「貴様のような青二才にかかずらっておる暇は無いわ!そこを退け!」
吼え、槍を突き出す。その一撃を男は軽く笑いながら、横に跳んで避けた。
すぐさま薙ぎ払うも、剣で弾かれる。
片手で扱える剣よりも重いが、両手剣の利点はその重い斬撃にある。
「俺の名前は聞いてくれないのか?」
「雑兵に興味は無い!」
距離を開けると見せかけての一撃。
「雑兵とはひどい言われようだなぁ」
しかし男はそんなフェイントお見通しとばかりに一撃を払い、逆に踏み込んでくる。
横払いの一撃は、しかし紙一重の所で後ろに下がったマドラスには届かなかった。
その時、さらなる喚声の声が上がった。スタルナス帝国の槍隊が騎馬隊の突撃で陣形を乱され、乱戦模様を呈するフロレシア帝国軍の只中に飛び込んできたのだ。
勢いはスタルナス側に傾いている。
騎馬に撹乱され、槍隊に包囲され、弓兵は盛んに矢を射掛けてくる。
「ふははははっ!!貴様らもこれで終わりだな!」
「何の事だ?」
哄笑をあげるマドラスを馬鹿にするような惚けた態度で聞き返す男。
「うぬっ………そのへらず口二度と叩けぬようにしてやる!」
「ああ、だめだめ。そんな陳腐な表現じゃモテないぞ」
渾身の力を込めて振るう一撃を軽くいなされ、マドラスが前のめりに倒れ掛かる。
その顔面に、男の拳が叩きつけられた。
「ぐあっ!」
鼻の骨が粉砕される快音に続き、生暖かな液体がだらりと垂れた。
「ぐっ―――貴様!」
殴られて尻餅を付いた格好で、無様に鼻血を垂らすマドラスを見て、男の顔に笑みが浮かぶ。
その手が鎧の腰の部分に結わえ付けられている皮袋へと伸び、中から角笛を取り出した。
「何をするつもりだ!」
「何だろうな?」
空惚けた返答を返し、笛を吹く。
戦場に甲高い笛の音が木霊する。
何事かとスタルナス兵達が空を見上げた次の瞬間、弓隊の周りの平原が一斉に揺れ、二千人以上の兵が立ち上がった。
身を伏せて匍匐前進で前進していた、フロレシア帝国の一個連隊だ。
いきなり包囲され、大混乱に陥った弓兵は慌てて弓を捨てて剣を抜いたが、近接戦に劣る弓兵達が飢えた狼のように飛び掛ってくるフロレシア兵に適うはずも無く、次々に血を撒き散らしながら地に伏していく。
小波のように動揺がスタルナス全軍に広がっていき、同時に今まで押されていたフロレシア軍が息を吹き返す。
弓隊を壊滅させたサンチェの部隊が戦場に突入し、戦況は一気に変わった。
押されていたフロレシア兵が逆襲に転じ、次々とスタルナス兵が打ち倒されていく。
「なっ―――」
その情勢の激変に付いて行けず、マドラスはただ目を白黒させて蜂蜜色の髪を持つ男を見つめるのみ。
その青年は角笛を元のように皮袋に仕舞うと、無邪気とすら言える笑みを浮かべて見せた。
「所謂所の、伏兵って奴」
「お、おまえは………一体」
「ん?雑兵には興味なかったんじゃないのか?」
「ふ、伏兵に合図を出すなどたかが雑兵ではあるまい!貴様、何者だ!」
「まあ、雑兵だなんて一度も俺は言ってないしな。俺の名はレッセフェルト=イングラム。フロレシア帝国軍第四軍第十六歩兵師団長兼ニヘンベルグ砦守備隊長ってのが俺の肩書き。んで、この戦場に居る連中は俺の部下って訳だ」
自分が相手にしているのが雑兵どころか司令官だと言うことを知って、マドラスは槍の柄を握る拳にさらなる力を込めた。
戦況は芳しくない。
それどころか、もはや敗れ去ろうとしているのはスタルナスの方なのだ。
総司令官であるオルティアに意見を尋ねもせず、命令を受けもせずに独断専行を取った上、自軍の半数でしかない敵に惨敗したとなれば中央に返り咲くどころか軍法会議ものだ。
下手をすれば軍からの追放もありえる。
だが、この状況を一発で覆す方法が目の前でへらへら笑っている。
指揮官であるこのレッセフェルトと言う気障ったらしい名前の青年さえ討ち取ってしまえば、勢いは再びスタルナスに引き戻される。
「うおおおおぉぉぉぉっ!!」
渾身の力を込め、マドラスは一歩踏み込み、レッセフェルトの胸の当たりを狙って槍を繰り出した。
槍は見事に、レッセフェルトの胸に突き立った。
と言うよりも青年はへらへら笑ったまま、避けようともしなかったのだ。
「ごふっ………」
今まで笑みをこびりつかせていた口から血を吐き、青年の体がかすかに震える。
その様を見て、マドラスの顔に笑みと余裕が戻ってきた。
「己の戦術が成功した事で有頂天になっていたか?………所詮は若造と言う事か」
「―――誰が、有頂天になってたんだって?」
「なっ………」
平然と顔をあげるレッセフェルトを見て、マドラスの表情が歓喜から驚愕へと変貌した。
槍は確かに青年の胸に突き立っている。
ならば、なぜ―――?
「くっ………頑丈な奴め!………ならばその首、刎ね飛ばしてくれる!」
吼えて槍を引き寄せたマドラスはさらなる驚愕に目を瞠った。
槍の穂先が変形していたのだ。まるでとてつもなく硬い鉄板を貫こうとした時のように。
とん、と己の胸に親指を当て、レッセフェルトが笑う。
「俺は体内に流体金属を飼ってるのさ。俺の意思で守りたい所にこの流体金属を集める事で致命傷を防ぐ事が出来るって寸法だ」
だが、皮膚の表層にまでは浸透させる事が出来ないため、多少の傷はつく。
しかし、内臓にまで達する事は無いのだ。
「この流体金属を操る技術は俺が生まれ育った村に伝わっていた秘術。珍しいもんだぜ」
「己………!」
完全に使い物にならなくなってしまっている槍を捨て、マドラスは腰の太刀を抜いた。
「さて、じゃあそろそろ勝負をつけさせてもらうぜ」
まるで息詰まるようなこの勝負を楽しんでいるかのように、レッセフェルトが両手剣を肩の上に担ぐようにして構えた。
振り下ろしの一撃に全体重を預け、渾身の一撃を放つ構えだ。
両手剣は重く、もし全体重を預けた一撃を回避されれば二撃には時間が掛かる。
マドラスも片手で扱うには大きな太刀だが、それでも両手剣よりは身軽だ。
「金属で身を守るならば………金属をも貫いてみせる」
「やってみな」
二人は同時に一歩を踏み出し、跳んだ。
「うおおおおおっ!!」
「はあああああっ!!」
二つの影が空中で交錯し、離れた。
二人同時に着地する。
片方が地面に片膝をついて肩を抑えた。
蜂蜜色の髪が揺れる。苦痛に顔を歪めて、レッセフェルトは背後を振り返った。
その先で、袈裟懸けに肩から腹までを切り裂かれたマドラスがゆっくりと崩れ落ちる。
「へへっ………なかなかやるじゃねぇか」
両手剣を支えに何とか立ち上がると、レッセフェルトは高々と声を張り上げた。
「スタルナスの将、マドラス=ハイケイリー、このレッセフェルト=イングラムが討ち取ったりっ!!」
この言葉を聞いたスタルナス軍は崩壊した。
戦線を放棄し、スタルナス軍が制圧しているラーマヤーナ川の対岸へと一斉に走る。
レッセフェルト軍はこれを追撃し、平原からラーマヤーナ川までは文字通りスタルナス兵の死骸で埋まった。川の手前で追撃戦を取りやめ、レッセフェルト軍は川に沿って南下し始めた。
パルディア城に篭るパルディア軍と合流する為に。
そのフロレシア軍の先頭に、蜂蜜色の髪を棚引かせながら進む、眠たそうな青年武将が居た。
「妖将オルティア=フリンシュ、どんな男だと思います?師団長」
第三歩兵連隊長のサンチェ=ポルトフが訊いて来る。わざわざそれを訊く為に先頭に出てきたのだろう。
どちらかと言えば太めだが、先程の戦闘での伏兵の指揮振りからもそれなりの武将である事がわかる。
レッセフェルトはそんな部下を一瞥して、特に考える事も無く答えた。
「女にモテるんじゃないか?」
3 パルディア城、陥落
「パルディア城の尖塔に《死神と鎌》の旗が見えます!」
斥候の齎した報告は南下するスタルナス軍を驚愕させるに十分な物だった。
パルディア城まで後十キロ程と言う地点で、斥候からのその報告は齎された。
驚愕を隠し切れぬままにその距離を駆け抜けた三万のスタルナス帝国南部方面軍の視界に、雄大なラーマヤーナ川の水面を天然の堀とした勇壮なるパルディア城の姿が目に映った。
武王ジーク=パルディアスの元、正義と秩序、仁義と武を重んじ、立身出世や堕落を卑しむ清廉の騎士団によって統治されてきたパルディア王国の王城の尖塔にはその国風を如実に現した朱地に金字の《剣と盾》の国旗ではなく、不気味な雰囲気を発散する《死神と鎌》の国旗が風になびいていた。
「…………」
その光景を黙って見つめるオルティアの脳裏に、帝都を発つ前のキエフの言葉が蘇る。
『敵よりも注意を要する存在は、パルディア王国南部から侵攻する予定になっているルーナ帝国軍だ。陛下は盲目的に信じておいでだが、連中が同盟を守るかどうかは未知数だ。最悪、おまえが必死に戦って城に辿り着いてみればそこにはルーナ帝国の《死神と鎌》が翻っているかもしれん』
そう危惧するキエフに対し、自分はなんと答えたか?
『もしそんな舐めた事しやがったら、皆殺しにしてやりますよ』
(まさか本当にこうなるとは、な………)
武王ジーク=パルディアスと言えばその猛勇振りはラスカーナ大陸中に鳴り響いている。
若き頃はスタルナス帝国やフロレシア帝国とも互角以上に渡り合い、幾多の猛者をその剣の錆にした猛将として武勇を鳴らし、年老いて戦線を離れてからはその巧みな外交術を以てスタルナス帝国、フロレシア帝国など強大国の間で絶妙なバランス感覚を見せ、緩衝地帯としてパルディア王国の存在を安泰たらしめてきた名君。
勇将の元に弱卒なしと言われる通り、彼の率いるパルディア騎士団は一騎当千の誉れ高い六人の騎士によって統率され、その一糸乱れぬ統率振りはもはや伝説的な域に達しているとすら言われている。
無論、兵力で格段の差のあるスタルナス帝国やフロレシア帝国に攻められれば抗する事は出来なかっただろう。だがそこは巧妙な外交で凌いでいたのだ。
その外交力の裏付けとなっていたのが精強な騎士団である事は言うまでもない。
(しかし、それにしてもこれほどの短時日で………)
しかも城の周りにはそれほど争った後も無く、まるで無血開城したかのような有様だった。
城門は開かれ、衛兵と思しき者が対岸のスタルナス軍を見つめている。
「一万だけで対岸へ渡る。二万は臨戦態勢で待機」
オルティアはそう命じ、馬を川縁に用意されていた船に乗り入れさせた。
彼の命令はルーナ帝国を信用していない事を如実に示す物であった。
もし、ルーナ帝国軍がオルティアに危害を加えれば、それはすぐさまスタルナス軍による報復行動へと繋がる。川を渡るオルティア達を見て、先の衛兵が城内に入っていった。
城門が閉じられ、城壁の上にルーナ帝国兵が現れて矢を射掛けてくる様を夢想しながら、オルティアは船を進ませた。
いっそのことそうしてくれた方がありがたい。
信用できない味方よりも、はっきりと敵だと認識できる方がどれほど気が楽か。
敵であるならば話は単純だ。叩き潰せばよいのだから。
しかし、門が閉じられる事も、城壁の上にルーナ帝国兵が姿を現すことも、矢を射掛けられる事も無く、オルティアと一万のスタルナス兵はラーマヤーナ川を渡り終えた。
城を目前にしたオルティアは隊列を止め、百名余りの兵だけを連れて城門を潜った。
城門の内側の光景に、オルティアは思わず吐き気を覚えた。
そこには数千人の人間が居た。
腕の無い者、片足の無い者はまだしも、肩から腹まで袈裟懸けに切り下ろされている者や腹を引き裂かれて腸を露出させている者など、明らかに致命傷を負っている者までいる。
一言で言うならば、彼らは生きている。いや、生きているように見えた。
とても生きてなどいられない程の致命傷を負いながらも、彼らは動いている。それは事実だ。
もっともそれが生きていると言う表現に相応しいかどうかは微妙だったが。
皆血の気の失せた青白い顔色をして、働いている。どうやら墓穴を掘っている様だ。
「彼らの着ている服………ありゃあ、パルディア騎士団の甲冑だ」
兵の誰かが呟く。
その場に居る生きている亡者とでも言うしか無い者たちは皆、パルディアの騎士達だったのだ。
「よくぞおいで下さいました」
出迎える声に視線を向ければ、一人の青年が立っていた。
こちらも生気の感じられない青白い顔をしていたが、外傷等は無く、着ている服もパルディアの騎士達とは異なっていた。
額に不思議な紋様を刻んだ青年の体からは気配が全く感じられない。
ただし生者にも見えないのは、その何も映していない虚無の瞳のせいだろう。
その青年に、オルティアは説明を求めるように声をあげた。
「これはどうしたことだ?彼らは―――」
「我が主人がお待ちしております故、案内いたします」
オルティアの質問を遮って、青年は踵を返して城内へと歩いていく。
「どうやら、こりゃ主人とやらに聞くしかないみたいですね」
「ああ」
部下の言葉に頷き、青年の後を追いながら、オルティアは薄気味悪そうに周りのパルディアの騎士達を見回した。
全員が、穴を掘っている。
つまりは、彼らと同じ数だけ、墓穴が出来ると言う訳だ。
脳裏に浮かびそうになった不快な妄想を振り払い、オルティアは気を引き締め、青年の後を追った。
城外とは異なり、城内には争った後があった。
明らかに死亡したであろう程の血が壁一面に飛び散り、切断された体の一部が転がっているのに、死体その物は一体も存在しない。
実に異様な光景であった。
「死体はどこへ行ったんだ?」
「外で自分の墓掘ってるんじゃないか?」
一人の兵の疑問に、別の兵が冗談めかして答える。
しかしその兵の顔色も思わしくはなく、誰も彼の冗談に笑う者は居なかった。
いや、それを冗談として笑い飛ばせる者など一人もいなかったのだ。
やがて彼らが通されたのは、謁見の間だった。
しかし、誰も居ない。
「―――どうぞ、玉座へ」
虚無の瞳で、空ろな口調で、青年が言う。
「いや、遠慮しておこう。私は軍人だ。王ではない」
オルティアが答えると、青年は一礼し、
「只今、主人を呼んで参ります」
とだけ答えて、謁見の間を出て行ってしまった。
謁見の間は武を重んじ、華美を疎んじるパルディアの国風そのままに、質実剛健だった。
大理石の床に絨緞も布かず、壁際には無数の甲冑が並び、壁には剣が架けられている。
すべて装飾用ではなく、実戦用だった。その謁見の間にも無数の血の跡があったが、やはり死体は一体も見当たらなかった。濃い血の匂いが鼻を突く。
待たされていた時間は十分ほどだったろうか。
玉座の脇にある扉が開き、先ほどの青年を従えた金髪赤目の妖艶な美女が姿を現した。
胸元を大きく開いた甲冑姿で、首からは首飾りを下げている。
「お待ちしていましたわ、オルティア=フリンシュ閣下」
男の心を蕩かす様な妖艶な微笑を浮かべて、オルティアの前まで進み出た女が一礼する。
「噂は聞いている。貴殿がミト=ヴァレンツェ殿か?」
「はい。この者はわたくしの従者で、シュタイン=オールドリークと申します」
「…………」
ミトに紹介され、青年が一礼する。
「表でパルディアの騎士達を見かけたが?彼らが掘っている穴は何のためだ?」
「彼ら自身の、墓穴ですわ―――死者は弔うもの。死者を使役するわたくしも、その程度の心は持ち合わせています」
(死者を使役する、死兵師団………か。おぞましい限りだな)
出来ればこのような女と話しなどしたくないが、そう言うわけにもいかない。
「堅城と謳われたこのパルディア城をこうもあっさり落城させるとは、感嘆の極み。差し支えなければどのような手管で落としたか、御教え願いたいが」
「よろしいですとも。スタルナス帝国は我らがルーナ帝国の同胞。隠し立てする必要もありませんから」
ミトは妖しくも幻惑するような笑みで、説明を始めた。
なんと彼女はシュタイン=オールドリークとたった二人でこの城を落としたと言うのだ。
まず彼女達は白旗を掲げて城門を守る衛兵に軍使だと名乗った。
騎士としての道徳を重んじる武王ジーク=パルディアスは二人を謁見し、そしてミト=ヴァレンツェとシュタイン=オールドリークはその場で武王を殺害し、近衛兵を殺害し、死者を使役して城内のすべての騎士を殺戮したと言うのだ。
騎士として真正面から戦う事を是とするパルディアの騎士達にとって、この詭計は予想も出来なかっただろう。城外に争いの後が無かったのも当然のことで、パルディア城は内側から全滅させられたのだ。
「それで………武王は?」
「穴を掘っていますよ」
ミトが平然と答えるのに、オルティアははっきりと機嫌を損ねた。
ミトはそれを見抜き、艶やかな微笑を深くする。
「御気分を害されましたか?」
「戦場に情けは無用。詭計を行うなとは言わぬ。むしろ騙された武王こそ間抜けだったのだろう。だが、敵に対し礼儀を失するような態度を取るべきではないと心得る。死者を使役するなどその者の尊厳を冒涜するに等しい行為。迎合する事は出来ん」
「閣下ならばそのように仰ると思いましたわ。しかし、今は戦乱の時代、国を強くし、国民を豊かにする、富国強兵の為ならば多少倫理を曲げるのも背に腹は代えられぬ、それが小国であった我らルーナ帝国の結論ですわ。それを完全に否定なされるのはスタルナス帝国が大国故。そうではありませんか?」
「むぅ………」
この問題で対立しても、仕方のない事だった。所詮は他国の事、これ以上は国際問題を引き起こしかねないと考え直して、オルティアは話題を変えることにした。
「今回のパルディア遠征は我らスタルナス帝国の作戦。ルーナ帝国はそれに協力すると言う形であったはずだが、この城はどうなされるのか?」
「―――と、申しますと?」
「ルーナ帝国がこのまま領有するのか、それともスタルナス帝国に引き渡すのか、はたまた共同統治とするのか、と言う事だ」
「それはわたくしの権限を越える問題ですわね。我らが皇帝陛下とスタルナス帝国皇帝陛下との間で話し合われるのが妥当だと考えますが」
「ならばその結論が出るまで、我らスタルナス帝国軍もこの城に駐留したいが、異存は?」
「ありませんわ」
「ならば、尖塔にスタルナス帝国の《黒十字の紋章》も掲げさせてもらおう」
「御自由に」
薄い笑みを浮かべて頭を下げるミトの後頭部を見下ろし、オルティアは城外で待っている一万、さらには対岸で待っている二万に城内に入るよう伝令を部下に命じた。
パルディア王国は滅亡し、その王城には《黒十字の紋章》と《死神と鎌》の国旗が並んで川からの風を受けて翻った。
城下町の人々は昨日までの平穏な生活が突如として崩れた事に愕然としていた。
国境線を破られたと聞いたときも、武王と彼が率いるパルディア騎士団が居る限り、パルディア王国は安泰だと彼らは信じていたのだ。だと言うのに、城はたった数時間で落ちてしまったのである。
しかもたった一組の男女によって。
マドラス=ハイケイリーの率いるスタルナス帝国軍先鋒隊を駆逐し、ラーマヤーナ川を南下していたレッセフェルト=イングラム率いるフロレシア帝国軍はパルディア城まで残り二十キロと言う位置にまで達していた。その時、前路偵察に出していた者達が戻ってきた。
そして、彼らに伴われて、傷だらけの騎士達がレッセフェルトに面会を求めてきたのだった。
レッセフェルトはとりあえず進軍を休止して、部隊に大休止を命じると、その者達と面会した。
面会を求めてきたのは栗色の髪をした美貌の女騎士を始めとする七名で、女騎士を除く六名は誉れ高き六騎士と呼ばれるパルディア騎士団の中核を成す者達だった。
そして、彼らに護衛されるかのようにレッセフェルト=イングラムの前に現れた美貌の女騎士こそ武王ジーク=パルディアスの一人娘にして、次期女王だったレイシア=パルディアスだった。
細身の体に甲冑を纏い、切れ長の瞳をしたレイシアはさすが武を重んじるパルディア王家の血を引くだけあって、その物腰は凛々しく、その美貌と相俟って実に凛冽たる風格を醸していた。
「―――それで、その次期女王殿下がどうしてこんな所に?」
嫌な予感がぷんぷんする中、レッセフェルトが問う。
レイシアはさすがに一瞬目を伏せたものの、すぐに毅然と面を上げ、
「パルディア城は既に陥落いたしました。父も、戦死しました」
「っ…武王が?」
予感はしていた。だが、レイシアの口から事実を告げられると衝撃はやはり大きかった。
「老いていたとは言え、正攻法ならばそれなりに戦えましたでしょう」
「なるほど、詭計によって落された訳ですか」
(それを恨むのは筋違いって気もするが………)
自称女の味方、レッセフェルトは優しげな眼差しをレイシアに向けて、
「それで、殿下は俺に何を求められる?」
「フロレシア帝国への亡命とラインハルト帝への拝謁の手続きを」
「なるほど、パルディア王国再興の協力を仰ぎたい、と」
「いかにも」
「生き残った騎士はあんたらだけなのか?」
「…………」
「姫様に対し、なんたる口の聞きよう、侮辱ならば斬るぞ」
「まあまあ、悪気がある訳でなし、それに我々は協力を仰ぐ身」
「左様。自重してくだされ」
「むむぅ………」
六騎士達の会話はさておいて。
レッセフェルトは蜂蜜色の髪をかき混ぜながら、
「ああ………今陛下ってルーガに居ないんだよ」
「では、いずこへ?」
「ルシタニア連合王国」
「ならば参りましょう。たとえ地の果てでも。それが我が祖国の再興に繋がるのならば」
瞳に強い意思の光を込めて、レイシアが言う。
すぐにでも取って返して戦いたいであろうに、ここで自重するのは彼女にとって大きな葛藤だろう。その苦痛を察して、レッセフェルトは髪を掻き混ぜていた手で己の胸板を叩いて見せた。
「不肖このレッセフェルト=イングラムが姫君の御案内役を勤めさせていただこう」
「かたじけない、礼を申す」
「そうと決まれば、軍を返す。正直に言ってしまえば、これだけの兵力で敵と戦うのはしんどいんだ。スタルナス帝国の先鋒隊は撃破したとは言え、まだオルティアの三万は無傷だし、その他にもルーナ帝国の部隊も居るだろうし、な。王女を奉ずるとなればフロレシアの体面も保たれる。つまりは俺も親父に叱られずに済むって訳だ」
苦笑と共に告げ、レッセフェルトは全軍反転の号令を掛けたのだった。
生来怠け者の彼にとって、これ以上進まなくてもいいのは朗報であるに違いない。
4 父との誓いを胸に
帝国暦三三二年八月十二日。
スタルナス帝国・ルーナ帝国の連合軍によるパルディア王国制圧戦はパルディア王国の王城陥落によって、終息した。
パルディア王国の国民にとって希望そのものであった武王ジーク=パルディアスが戦死し、軍事力のすべてと言っても良い七千のパルディア王国騎士団も全滅した。
小さな砦の守備隊や町などの警備隊などの中にはさらに抵抗しようとする者もあったが、僅か数百の兵力で強大なスタルナス帝国軍に抗する術があろうはずもなく。
パルディア城の尖塔に《死神と鎌》の国旗が翻ってから三日経った現在ではもはや抵抗は僅かなゲリラ戦術以外には見られないようになり、パルディア王国は完全にスタルナス帝国とルーナ帝国によって分割支配されている状態となった。
レイシア=パルディアスと誉れ高き六騎士を伴ったレッセフェルト軍は辺境の砦ニヘンベルグに引き返し、追撃を受ける事もなく、無事に到着していた。
それからもう二日が経っている。
与えられた客室の一つに篭り、レイシアはベッドに腰掛けていた。
甲冑ではなく、部屋着であったが、手の届く範囲に剣を置いている所が、彼女が亡国の姫君であると同時に騎士である事を物語っていた。
昼間は曇天だったが、夜になって吹きはじめた風によって吹き払われ、今は冴え冴えとした月光が窓から明かりを消された室内に侵入して、照らしている。
ベッドに腰掛け、膝を抱えて、両膝の間に顔を埋めて、レイシアは先ほどから微動だにしていなかった。
厳しかった父、優しかった母、剣術の稽古を付けてくれた剣術指南役の老騎士、共に走り回った仲間達、暖かだった町の人々や騎士団の騎士達。
そのずべてが、失われた。
軍使として城内に入り込んだ、一組の男女によって。
自分に剣を向けてくるかつての仲間達。
斬っても斬っても立ち上がり、斬られた仲間はまた別の仲間を襲う。
恐怖の輪廻。絶望の循環。
味方はどんどん殺され、味方が死ねば死ぬほど敵が増えていく、恐怖。
腸を引きずりながら仲間に切りかかる騎士達の姿は醜く、吐き気を催さずには居られなかった。
六騎士に周りを固められて城を脱出した時には、心底安堵した。
地獄から助け出された気分だった。
(お父様………)
常に武人としての、騎士としての正義を重んじ、娘にもそれを強要した厳しい父。
国民に名君と親しまれ、騎士達には武王として尊敬されていた。
老いても尚、体力の衰えを感じさせぬ筋骨隆々たる、堂々の体躯を誇り、日々鍛錬を怠らなかった。
鋼のような父。
その父をあの金色の髪と赤い瞳を持つ女剣士はただ一刀の下に切り伏せた。
遠い海の向こうの異国より時折入ってくる竜の皮で作られた鎧を着込んだ父を、女は何の躊躇もなく切り倒した。
すぐそばに居たレイシアにとって、まさにそれは信じられない光景だった。
竜の皮の鎧も、鋼の体躯も、あの女の前では全くの無力だった。
その場に百名近く居た近衛騎士達が一斉に襲い掛かり、レイシアはその混乱に紛れて謁見の間を抜け出し、騎士を集めて謁見の間に舞い戻った。
しかしその時には、近衛騎士はすべてあの女の僕と化していた。
女の命令で、かつての仲間に襲い掛かる近衛騎士たち。
彼らと剣を交える事に戸惑いと困惑を隠しきれない騎士達が、戸惑いも困惑もなく斬撃を繰り出してくる近衛騎士たちに勝てるはずもなかった。
訳も分からず、無我夢中で戦っている間に、レイシアは敵に包囲されていた。
傷から血を滴らせながら、それでも剣を振るってくるかつての同胞の姿に、レイシアは戦慄を覚えた。
一瞬ではあったが体が硬直し、隙が生まれた。亡者達がその隙を逃すはずも無い。
一斉に、十人近くの敵が剣を繰り出してきた。
その時、一人の騎士がレイシアの前に立ちはだかり、敵の斬撃をすべて己の身で受け止めた。
「じ、爺っ!」
レイシアに剣技を教えた、剣術指南役の老騎士は口の端に笑みをこびりつかせて、涙の滲んだ眼にレイシアの姿を映した。
「生き、延びてくだされ………姫、様……」
「爺っ!」
「わしの手に………かかるような事は………しなさるな」
「爺ぃっ!!」
絶命した老騎士は、老いを感じさせぬ動きでレイシアに向って剣を振るってきた。
その一撃をレイシアは泣きながら跳ね除け、その胴を蹴って駆け出した。
無我夢中で謁見の間から逃げ出し、六騎士と合流し、城からも逃げ出したのだ。
安全だと思える場所まで逃れてから振り向いた時、既に城の尖塔には《死神と鎌》のルーナ帝国国旗が揺らめいていた。
(お母様………)
娘を娘としてではなく、騎士として、武人として育てねばならなかった彼女は自ずから鎖帷子を作ってくれた。
その鎖帷子が何度レイシアの身を守った事か。
優しい微笑を浮かべつつも、常に寂しそうに一人佇んでいた母。
その母も、やはり殺されてしまったのだろうか?
自分だけ生き延びて………本当に良かったのだろうか?
こんこん。
どんどん自分を追い詰めていく彼女を現実に引き戻すかのように、扉がノックされた。
既に深夜とも言うべき時刻なのに、そのノックは彼女が起きている事を確信しているかのような無遠慮な叩き方だった。
「―――誰?」
「誰だと思う?」
「…………」
わからなかったのではない。
わかったからこその、沈黙であった。
「だんまりってのはひどいんじゃないか?」
「何の用?………昨日も斬ると言われていたでしょう」
「ああ、あの六騎士の人ね。あんたモテモテだな」
六騎士に脅された事など全く気にしていない口ぶりで言って来る。
レイシアはふう、と嘆息を漏らして、
「もう普通は寝ている時刻よ」
「その時刻に起きているあんたも、普通じゃねえって訳だ」
「………。そうね」
答えながらも、視線は既に窓に向いている。月は蒼白く輝き、その輝きは実に美しかった。
「ザルカに送っていた使者が帰ってきた」
「早かったのね」
「急がせたからな。あんたをルーガまで護送する役目は俺が勤める事になった」
「そう。………まずはザルカに行くのかしら?」
「いや、ザルカに行くよりもここから直接行った方が近いんでな」
「それで?今から出発しようとでも言うのかしら?」
視線は月に向けたまま、皮肉気な口調で言ってしまう。
自分はこんなに皮肉屋ではなかったはずだが。
それとも人は余りにも鮮烈な体験―――例えば、母国の滅亡―――に遭うとそれっきり物事を素直に捉えることが出来なくなるのだろうか。
だが、そんな彼女の皮肉に対し、男は全く気にした風もなく答えて来る。
「まさか。こんな時間に出かけるなんて真っ平ごめんだ。だがまあ、傷心の姫君は早く知りたいかと思ってな」
「傷心の姫君?………誰が」
鼻で笑おうとして、出来なかった。
「傷心の騎士様か?………それとも、傷心の次期女王………いや、傷心の元王女か」
「…………」
「怒ったのか?なら謝るよ。それはともかく、あんたも他の騎士も無理し過ぎだ。早く御国を再興したいって言う気持ちはわかるが、七人とも三日連続で徹夜されたんじゃこっちもたまらねえ。騎士ってのがどんだけタフなのか知らないが、ルーガに行く途中で倒れられれば余計な時間を食う事になる。それが嫌だったら、明日はゆっくり寝てもらう」
「………。嫌だと言ったら?」
「ルーガへの案内はしない。別に迷うような道程じゃないんだからな」
「ならば必要ない。私達は明日、ここを発つ。世話になった」
「おいおい」
初めて男の声に、困惑の色が混じった。
それを聞いてかすかな愉悦を感じている自分に、レイシアは心の底から自己嫌悪した。
視線を月から未だに閉じられたままの扉へ、そしてその向こう側で困ったように蜂蜜色の髪を掻き混ぜているであろう青年へと向ける。
「済まない、別に困らせる気はない………明日はゆっくり休ませてもらう」
「そりゃ良かった。多分俺はあんたらをルシタニアまで送らなくちゃならないだろうからな。今のままじゃルシタニアどころかルーガにだって辿り着けやしない」
「それで―――用はそれだけ?」
「ん?それだけだけど………ああ、一人で寝るのが寂しいってんなら添い寝してやるが」
「構わないが、私は寝癖が悪い」
「多少寝癖が悪くてもあんたみたいな美人の隣で眠れるんなら俺は大歓迎だがな」
「私はどうも夜中に抜き身の剣を振り回す癖があるようなのだ。朝になったら膾切りになっているかもしれないが、それでも良ければ私は構わないぞ」
「あー………とりあえず、遠慮しとく」
「賢明な判断だ」
「さっきよりも大分声が明るくなってきたな、これなら寝られるだろう。じゃあな」
「待て、レッセフェルト」
「………ん?」
去ろうとしていたのだろう、やや大きな声で呼び止めたレイシアの声に、気配が扉の前まで戻ってくる。
簡単な言葉であるはずの一言。それが今は無性に難しく感じられた。
だがそれでも、言わねばならないと思った。だから、勇気を振り絞って、レイシアは顔を真っ赤にしながら口を開いた。もし扉一枚を隔てていなければ、言えなかったであろうその言葉を。
「その、なんだ………ありがとう」
「なんだって?」
「だから、礼を言う」
「何を?」
「何をって………その、いろいろと、だ」
「だったらお礼の仕方ってもんがあるだろ」
「お礼の仕方?」
「ほっぺにちゅーとか」
「…………」
「ははは、冗談だ冗談。ま、礼を言うのは、パルディア王国を再興してからにしてくれ」
「………ああ」
「それともう一つ」
「なんだ?」
「俺の事はレッセと呼んでくれて構わんぞ」
「それは良かった。舌を噛みそうだったのだ」
「はは、よく言われる。……じゃあな、おやすみ」
今度こそ、レッセフェルトの気配は遠ざかって行った。
抱えていた膝を伸ばし、心持ち緩んだ口元から、今度はなんの気負いもなく言葉が零れた。
「―――ありがとう、レッセ」
そして彼女は、三日ぶりにゆっくりと眠る事が出来たのだった。
そこはニヘンベルグの砦内にある客室の一室。
時刻は深更。
ちょうどレッセフェルトがレイシアの部屋を訪れている頃の事である。
窓のカーテンを閉めて月光を遮り、テーブルの上に置いた一脚の燭台の光だけを頼りにして、むさくるしい男達が額を突き合せてなにやら密談していた。
「わしはもはや我慢がならん!」
「そうだ、あの若造はどうしてああも馴れ馴れしく姫様に近寄るのか!」
「それを申すのなら姫様も姫様だ。あのような若造と親しげに言葉を交わすとは」
「我ら六騎士こそが姫様を守るべき存在なのだ」
「左様。あのような若造に姫様を渡すわけにはいかん」
「姫様の純潔は我々六騎士がこの命に賭けても守ろうではないか」
「その通りだ!我らはパルディア王国を再興すると言う大きな目標に向かって一丸となって進まねばならぬ」
「姫様の心を惑わす者の存在は実に好ましくない」
「かといって、帝都までの案内役は必要であろう」
「しかし、その案内人があの若造である必要はあるまい」
「そもそも何ゆえにあの若者が案内役を勤めるのだ?聞けばあ奴はこの砦の守備隊長と聞く。我が祖国を併合したスタルナス帝国とルーナ帝国の連合軍がいつフロレシア帝国に侵攻して来るかも分からぬこの時期に砦を留守にするなど不可解としか言いようがあるまい」
「下心が丸見えじゃ。さしずめ、姫様に取り入ってゆくゆくはパルディア王国の国王の座でも狙っておるのであろう」
「もしくはルーナ帝国軍に恐れをなし、口実を見つけて帝都に逃れようと言う算段やも知れぬぞ」
「明日の朝一番にでも姫様に申し上げて案内人を変えていただこうではないか」
「左様、その通りでござるな。あのような何処の馬の骨ともわからぬ者に国王を名乗られるは国家の恥辱」
「いかにも、あの者を姫様にこれ以上近づけてはならん」
「我ら六騎士、身命を賭して姫様を守る事をここに誓わん」
「おう!」
「パルディア王国の誇りにかけて」
「騎士の正義に誓って」
「我らが姫君を若造より守り抜く」
「そのためならば火の中水の中!」
薄暗い部屋の中、暑苦しい男達の密談は、明け方近くまで続いたそうな………。
翌朝。
睡眠不足で目の下に隈を作って食堂に現れた六人の騎士達はそこに展開されている光景を見て、表情を驚愕に歪めた。彼らの姫君、レイシアと共にレッセフェルトが朝食を摂っていたのだ。
六人の存在に気付いたレイシアは、昨夜までとは全く異なる吹っ切れた表情で、六人に席を勧めた。しぶしぶと座る六人に対し、レイシアは決意を込めた口調で切り出した。
「私は必ず祖国を復興させて見せる。その為ならば誰の力でも借りる。異存はないな?」
六人の騎士は顔を見合わせ、ゆっくりと頷いた。彼女の気迫に頷かざるを得なかったのだ。
蜂蜜色の髪の青年は興味深そうに、そんな七人を見つめていた。
1 狂気
帝国暦三三二年八月二日。
ルシタニア王国とドルク王国との紛争を背後で手引きしているのが誰なのか―――。
少し考えれば、容易に答えは出る。この時期、フロレシア帝国皇帝の目を自分から逸らしたかった者。
それはすなわち、スタルナス帝国皇帝バイエルン=スタルナスに他ならない。
彼は大量の武器をドルク王国に輸出し、ルシタニアへの武力攻撃を唆したのだ。
盟友の危機に、情に厚いフロレシア皇帝は必ず動く。
だが、実際の所皇帝が率いた兵力は僅かに四千五百。
内乱によって皇帝をルシタニアに釘付けに出来れば―――程度に考えていたスタルナスの廷臣達は歓喜し、期待を寄せた。ドルク王国軍が皇帝の首を挙げるのを。
もしラインハルト=シーザーが戦場の露と消えれば、早晩フロレシア帝国は崩壊する。
アリーニ=アウグウェルツなどと言う貴族ではあの大国を御す事など不可能なのだ。
そうすれば、覇皇に最も近い位置に居る男は自分と言う事になる。
バイエルン=スタルナスはこの頃ますますベニア=ルーナを溺愛するようになっていた。
なにしろ、今回のドルク王国の扇動も元はと言えば閨にて彼女に囁かれた言葉なのだ。
無論彼女の背後には宿敵ネヴァット帝国を一蹴し、その勢力範囲を瞬く間に倍増させてしまったルーナ帝国皇帝カール三世の存在がある事は間違いない。
そして、ちょうどルテティアでラインハルトとヴァルツが遭遇していた頃、半日近くも後宮に篭っていたバイエルン皇帝がまるで精力を削られたかのように頬をこけさせ、眼窩を落ち窪ませながら、謁見の間に出てきた。
やつれきった皇帝の姿に廷臣達は物言いたそうな表情をするのだが、処罰されるのが恐ろしく、とても口に出来るものではなかった。
「陛下。先日召しましたるキエフ=ロドリナス将軍が参上いたしておりますが」
「通せ」
その声は生者の物と言うよりは、むしろ死人に近かった。
ガーフィールド城の美しい中庭に面したテラスで、キエフ=ロドリナスは皇帝が後宮から出てくるのを待たされていた。彼は通常、フロレシア帝国との国境に程近い要害に築城された名城ハウゼン・シュタットに常駐している東方方面軍の司令官を勤めている。
「遅いな」
言葉を口に出したのは、彼ではなく、彼の隣に座す若者であった。
名をオルティア=フリンシュと言う。
まだ三十代だが、その若さで名城ハウゼン・シュタットの守備を任されている優秀な男だ。
キエフ=ロドリナスを父と敬慕し、戦友としても深い友情で結ばれている。
その灰色の髪と左目青、右目金の不揃いな瞳から、彼には魔性が宿っているという噂すらあるほどだ。
「そうだな」
キエフは言葉少なく応じる。
既に五十代の半ば、その金色の髪にも白髪が混じり始め、鬼瓦のようだと評された顔にも皺が増えてきている。そろそろ退役なのではないかという噂も巷では流れているほどなのだ。
「陛下は一体何の用なんだろう」
城将と方面軍司令官と言う役職にある二人が同時に呼び出される事など今まで絶無だった。
確かに二人ともいざとなれば頼れる副将が居るが、それにしても主将が―――特にキエフ=ロドリナス―――が居るかどうかは兵の士気に絶大なる影響を及ぼす。
フロレシア帝国は帝政の国家であり、皇帝の意思は絶対だ。
が、あれだけの広大な領土すべてに皇帝の意思があまねく伝わるはずも無く、伝える必要も無く、むしろそれは連絡に掛かる時間を思えば害悪ですらある。
なので、フロレシア帝国の国境を守る四つの軍団にはある程度の独立的な権限が与えられているのだ。
皇帝がルシタニアを訪問中だとしても、軍団長が好機と判断すればフロレシア帝国軍が侵攻してくる可能性は無きにしも非ず、という訳だ。
先のエルベス川での戦いにおける敗北の傷はいまだ深く、本格的な侵攻を受ければハウゼン・シュタット城に籠城したとしても苦戦は免れないだろう。
「帝都は久しぶりだろう?」
キエフは答えを知っている質問を、親子ほども年の離れた戦友に投げかけた。
自分の身に何かあれば、自分の後継者になるべきなのはこの男を置いて他にはいない。
それはキエフ=ロドリナスだけでなく、帝国軍人及び帝国の国民の大部分が賛同する周知の事実であった。オルティアが士官学校を卒業して、キエフ=ロドリナスの副官に配属された時以来の付き合いだから、かれこれ十二、三年の付き合いと言う事になる。
その間、キエフは戦術・戦略・戦務の全てをこのオルティアに教え込んだ。
そのオルティアは父とも呼び、友とも呼び、師とも呼ぶ老将の問いに、その不揃いの瞳をかすかに細め、声をひそめて答えた。
「自分がかつて生まれ育った帝都と果たして同じ帝都なのか―――まず、そう疑いました。あの活気に溢れ、希望に沸きかえっていた帝都の住民達の表情には絶望と不安と諦めが渾然一体となったような暗い表情が浮かんでいました。かつては羨望と誇りを持って眺めていた宮城を今の彼らは憎悪と遺恨で見つめている。帝宮内には真新しい建造物が何棟も造られている。現在の帝国の財政逼迫を考えれば、まさに愚の極みとしか―――」
と、そこで、上体を捻ったキエフが素早くオルティアの口を塞いだ。
彼らの背後をひそひそと話しをしながら廷臣が通り過ぎていく。
気配が完全に消えるのを待ってから、ようやくキエフは手を放した。
「廷臣の耳を気にしなければ好きに話す事も出来ないなんておかしいですよ」
憤慨して、オルティアは呻いた。
キエフは首を左右に振って、口元をへの字に曲げた。
「帝都をこんな風にしてしまったのは、あの女だ。あの女が来てから陛下も国家も狂ってしまった」
吐き捨てるように言う。無論、あの女とはベニア=ルーナの事だ。
「傾国の美女」「魔性の女」「ルーナ帝国の手先」………。
彼女に関する悪口は日を追うごとに大きく、悲痛になっていく。
それを取り締まる軍警による弾圧もまた日を追うごとに厳しく、容赦仮借なく、酷烈になっていく。軍人や廷臣の中に、諫言する気概のあった者はすべて処罰され、残ったのはベニア=ルーナに媚びて己が身の立身出世を謀る愚かな者ばかり。キエフとてこの状態を憂えずにはおれなかったが、身命を賭しての諫言とて、聞き入れられずに処刑されたならそれはただの犬死に過ぎない。国のために死ぬのならばこの老いた命など投げ出しても何の悔いもないが、無駄死にだけはしたくなかった。
「だからこそ―――」
キエフは声を潜め、オルティアの耳元に囁いた。
「今は耐え忍ぶ時。必ずや、国家再生の時は来る」
オルティアが頷いた時、彼らの方に近づいてくる廷臣があった。
二人の前で深々と頭を下げ、廷臣は何の感情も無いかのような無表情で言った。
その無表情こそ、彼らが現在の宮廷内で生き残るために身につけた処世術なのだろう。
複雑な面持ちで、キエフはその廷臣を見返した。
「陛下がお待ちかねです、閣下」
「―――さて、遂にわしも退役かな」
「ならば私は方面軍司令官を拝命するんですかな?」
キエフとオルティアはわざと明るく笑い合いながら、謁見の間へと歩いていった。
「―――なんと、申されました?」
我が耳が信じられぬと言った表情で、キエフは聞き返した。
隣に控えるオルティアも驚愕の表情を浮かべている。
玉座に座したバイエルン帝は薄気味の悪い笑みを浮かべて、言葉を繰り返した。
まるで、誰かに覚えさせられた言葉を復唱する子供のように。
「キエフ=ロドリナス、東部方面軍司令官の任を解き、西部方面軍司令官に任ず。オルティア=フリンシュ、ハウゼン・シュタット城城主の任を解き、南部方面軍司令官に任ず。当面の方針は西部方面軍、現状維持。南部方面軍、南進、パルディア王国をルーナ帝国と協力のもと攻略すべし。既に先鋒軍は動いている。貴官も早急に任地に赴くように」
「御言葉ですが、陛下―――我ら両名なき後の東方の守備はいかがなされるおつもりでございましょうや?」
慇懃に頭を下げつつ、それでも納得しない限り縦には首を振らぬと言う気概を滲ませて、キエフは皇帝を睨みつけた。その眼光に、皇帝の瞳にかすかな理性の光が浮かぶ。
だがそれはほんのかすかな光でしかなかった。
「フロレシア帝国の目は現在北方に向けられている。我が国に攻め込む余裕はあるまい」
「ですが陛下、パルディア王国はフロレシア帝国、我が国、そしてネヴァット帝国を併合した事によってルーナ帝国とも境を接する事となった戦略上重要な位置にある国家です。このパルディア王国攻略の兵を差向ければ、フロレシア帝国の南部方面軍―――第四軍が反撃に出るは必定。すぐにでも二、三万の兵は動きましょう。攻略には慎重なる配慮が必要かと。また我が国の兵が南方に差向けられているのを見て、第六軍が東方より侵攻する可能性も無いとは言えません」
バイエルンは混乱したように頭を抱えた。刷り込まれた指示が消えていく。だがそれでも、完全に消える事は無かった。何処と無く空ろな眼差しのまま、帝は頷いた。
「ならばキエフ=ロドリナス。貴官に東部方面軍司令長官兼ハウゼン・シュタット城主を命じる。東方より敵来襲の折にはハウゼン・シュタットを良く守り、敵に打撃を与えよ」
「ははっ―――して、パルディア王国の方は?」
「それは計画通り。例え、フロレシア軍が出てこようとも、南方からはルーナ帝国の軍勢が攻め込む手筈になっている。今までは緩衝地帯としての価値を有していたパルディア王国であるが、ルーナ帝国と同盟関係にある我が国にとっては双方の連絡に齟齬を来たす恐れありとしてこの存在を憂慮せざるを得ないのだ」
「了解しました!このオルティア=フリンシュ、神明に誓いまして、必ずやパルディア王国の王城に《黒十字の紋章》を掲げる覚悟でございます」
バイエルンの瞳に妖しい光が宿り始めたのを見て取って、オルティアが大声を上げて頭を下げる。
その声に、バイエルンは首を左右に振った。するとその瞳から、妖しい光は消えていた。
もしこのままキエフに話させていれば、バイエルン帝の機嫌を損ね、処罰されていたかもしれない。
「うむ。期待しておる。両名、下がって良い」
「ははっ」
二人は揃って頭を垂れ、謁見の間から辞去した。
謁見の間から辞去した二人は行きつけの酒場へと向かった。
一番奥まった席に腰を下ろし、何品か食事を注文する。
この酒場は酒も不味くは無いが、料理が美味いので、キエフのお気に入りに列せられているのだ。
「まるで操り人形の如くであったな」
悲しげに―――彼は人一倍バイエルン帝への忠誠心に篤いのだ―――キエフが呟く。
オルティアもかすかに視線を伏せて、なんとか声だけでも明るさを保とうとする。
「それでも閣下の御言葉には耳をお傾けになられましたな」
危うく西部方面軍司令官に任じられる所だったのだ。これは事実上左遷に近い。
なにしろスタルナス帝国の西部にある国家は確かに友好的な関係にあるとはいえないが、その兵力はそれぞれ数千から多くても五万と強大なフロレシアに比べれば瑣末な問題でしかなかったからだ。これを翻意させる事が出来たのは、バイエルンとキエフの長い付き合い故であろう。
バイエルン帝もキエフの忠誠心だけは未だに覚えているのかもしれない。
「わしは良い。なんとかハウゼン・シュタットに留まる事が出来たからな。じゃが、おまえは気を付けた方が良い」
「わかっていますよ、閣下」
心配性のキエフを安堵させるように微笑んで、オルティアは目を瞑った。
「彼を知り己を知れば百戦危うからず。彼を知り己を知らざれば、一勝一敗す。彼を知らざる上に己をも知らざれば、戦う毎に必ず敗れる―――貴方の副官に任じられた時、最初に言われた言葉です。俺の座右の銘ですよ、この言葉は」
オルティアの言葉にかすかに照れたかのように目を伏せ、キエフは頷いた。
「その通りだ。敵の兵力を過小評価して傲慢に陥るぐらいならば、過大評価して慎重を期すほうがましだ。パルディア王国の王は代々武を重んじる騎士の一族。その軍勢も精強だ。フロレシアの第四軍も侮れる相手ではない。まさか広大な分担地域の兵全てをかき集めて十八万で来ると言うことも無いだろうが、数日で国境付近の一、二万は動く」
「こっちの兵力は先鋒軍が一万五千に、本隊が三万。パルディア王国の軍勢を五千から七千と見積もれば、こちら四万五千に対し、敵は二万七千」
「合流に失敗すれば、一万五千対二万七千だ」
「それは相手にも言えますよ。運が味方すれば、四万五千対七千もありえる」
「だが、一番厄介なのは敵じゃない」
そこで二人の会話は一旦途切れた。料理が続々と運び込まれてきたからだ。
朝一番に登城したため朝飯は食えなかったのだ。既に昼飯と言うには遅すぎる―――三時ごろだろう―――が、このまま夕食まで空腹の腹を抱えるのは耐えられない。二人は無言で、料理を貪り食った。特にキエフは老体とも思えぬ食いっぷりであった。
次々に料理を追加注文し、二人の前には山のように空になった皿が積み上げられていく。
店内の客はそんな二人を呆然と見やるのみ。だがそれがキエフ=ロドリナスとオルティア=フリンシュだとわかると彼らは揃って微笑やら苦笑やらを漏らす。
この二人が大食漢だと言うのはガーフィールド内では有名な話しなのだ。
やがて食事も終わり、食後のコーヒーを飲みながら、二人は先ほどの話しを再開させていた。
「敵よりも注意を要する存在は、パルディア王国南部から侵攻する予定になっているルーナ帝国軍だ。陛下は盲目的に信じておいでだが、連中が同盟を守るかどうかは未知数だ。最悪、おまえが必死に戦って城に辿り着いてみればそこにはルーナ帝国の《死神と鎌》が翻っているかもしれん」
「もしそんな舐めた事しやがったら、皆殺しにしてやりますよ」
「是非そうしてくれ………と、言いたい所だが。無理はするな」
キエフもオルティアも揃って冗談めかした口調だったが、その瞳には真剣な輝きがあった。
正直な所ルーナ帝国に関してはほとんど何もわかっていないのだ。
兵力量などを見ればさほど強大とも思えない普通の国だ。
それが短時日でほぼ同程度の戦力を有していたネヴァット帝国を併合してしまった。
しかもネヴァット帝国軍はほぼ全滅してしまったと言う。
たった一人の女将軍ミト=ヴァレンツェに率いられた死兵師団と言う謎の部隊によって。
ミト=ヴァレンツェとは何者で、死兵師団とはいかなる存在なのか。
そんな事すら、彼らは知らなかった。
わかるのは、ルーナ帝国皇帝カール三世が、ルーナを併合しようというバイエルンの野心を逆手にとってベニア=ルーナをガーフィールドの後宮に送り込んだ事とそのベニア=ルーナによってすっかりバイエルン帝が骨抜きにされている事。
そして、ミト=ヴァレンツェの率いる死兵師団と言う滅法強い兵団が居るということ。
そして、味方でありながら、もっとも信の置けない相手だと言う事だ。
本当に彼らは功を奪うかもしれない。
オルティア=フリンシュに戦わせておいて、漁夫の利を占めようとするやも知れないのだ。
その後も何点か細々とした注意点を与えた後、二人は店の前で別れた。
明日には一人は東へ、もう一人は南へと旅立つのだ。
一人で自宅へ戻って。
キエフ=ロドリナスは一人沈思黙考した。
もしルーナが本気で帝国との同盟を欲しているのならば?
確かにそれならばパルディア王国の存在は害悪に過ぎない。
地政学的に見ても、その判断は正しいだろう。
だが、やはり問題なのは―――
(ルーナ帝国が味方なのか、それとも味方を装った敵なのか―――と言う事だ)
名将キエフ=ロドリナスはその日一晩、考え抜き、答えを見つけられぬままに、東へと去った。
2 レッセフェルト=イングラム
三日後の帝国暦三三二年八月六日。
南部方面軍司令官に任じられたオルティア=フリンシュが彼の軍勢である三万を率いてスタルナス帝国南部の中心都市アシュルに到着した時、既に先鋒軍一万五千はマドラス=ハイケイリー将軍に率いられて、パルディア王国との国境線を越えていた。
守備隊は粉砕。パルディア王国北西部の中心都市は次々に陥落し、《黒十字の紋章》の旗が翻った。パルディア王国軍は抵抗する事も出来ず、撤退を重ねた。遂には帝国軍が来る前に守備拠点を放り出し、国の中央部を流れるラーマヤーナ川をも越える始末。
武を重んじる精強の騎士団と謳われる力の片鱗すらも見せず、彼らは敗退を重ねた。
ラーマヤーナ川はフロレシア帝国とスタルナス帝国を分かつガジェット山脈にその水源を有し、パルディア王国の沃野を潤し、その国土のほぼ中央で東西に分岐する。
その分岐点にパルディア王国の王城であるパルディア城は建造されているのである。
そして開戦三日目にして、マドラス=ハイケイリーは国境線より七十キロと言う距離を前進し、パルディア王国北西部をその制圧下に置いた。
突然のスタルナス帝国侵攻にパルディア王国は浮き足立ったが、武王とも呼ばれるジーク=パルディアスは冷静にパルディア城の守備を固めると共に、フロレシア帝国に使者を向わせた。
使者が向かったのは両国の国境線に最も近い砦、ニヘンベルグのレッセフェルト=イングラム第四軍第十六歩兵師団長兼ニヘンベルグ砦守備隊長の元だった。
蜂蜜色の髪を持つ青年武将レッセフェルトはすぐさま使者を第四軍の本隊が駐屯している帝国南部の大都市ザルカのコーデル=ハム第四軍司令官の元に送ると共に自らは三個連隊七千五百を率いてニヘンベルグを出陣、国境を越えてパルディア王国北東部へと進出した。
パルディア王国援軍として、フロレシア帝国軍参戦す。
この報はすぐにようやく国境を越えたばかりのオルティア=フリンシュの元に齎された。
ほぼ同時に、マドラス=ハイケイリーからは、
『我が部隊はラーマヤーナ川の上流域を渡り、フロレシア帝国の援軍を粉砕する』
と言う旨の報告が齎された。この報告にオルティアは激怒した。
何故ならば今回のパルディア王国制圧戦の総指揮官は彼であり、マドラスは彼の指揮に従わねばならないからだ。もし彼が正規の手順を踏むのであれば、まずは意見具申という形で使者を出さねばならないのだ。だが、マドラスはこれを省略し、事後承諾の形で使者を派遣してきたのだ。
しかもマドラスはパルディア城を放置して、川を渡るつもりのようだった。
これはもはや拍子抜けするほどの勝利の連続に完全に酔ったマドラス=ハイケイリーの独断専行だった。
「馬鹿が………パルディアの騎士に背後を取られたらどうするつもりなのだ!」
激怒しても、平常心を失わなかったオルティアはマドラスを呼び戻す使者を派遣しなかった。
使者を派遣しても、もはや間に合わないと言うタイミングで、マドラスは使者を送ってきたのだ。
「我々はパルディアの軍が動けぬよう牽制する。全軍、南下せよ」
不本意ながらも、オルティアはマドラスの背後をパルディア軍が襲えぬよう、牽制する役目を自ら買って出たのだ。
情報にはフロレシア帝国軍の兵力は含まれていなかった。
しかし、スタルナス帝国によるパルディア王国侵攻から援軍の出現までの期間が短すぎる事から、オルティアは援軍はせいぜいが国境に配備されている一個師団程度と見て取った。
それならば兵力で勝るマドラスが抑えこめるはずだ。
しかし、時間が経てば経つほどフロレシア帝国軍は増強され、戦況は苦しくなるばかりと予想された。そこでオルティアは軍法違反を起こしたマドラスの処罰を後回しにして、パルディア城を早めに陥落させる事を決めたのだ。
それまでの緩やかな進軍から一転、彼の率いる三万の軍勢は怒涛の勢いで進軍を開始した。
スタルナス帝国マドラス=ハイケイリーの率いる一万五千とフロレシア帝国レッセフェルト=イングラムの七千五百が対峙した場所は、パルディア王国北東部に広がる沃野だった。
見晴らしの良い平原において、両軍は対峙した。
相手が自分の率いる部隊の半数ほどでしかないと知って、マドラスは頬をにやけさせた。
(これで軍功を立てれば、或いは中央に返り咲くことも出来るやも)
元々中央の武官だった彼だが、瑣末な派閥問題の責任を擦り付けられ、辺境の警備隊司令に左遷されていたのだ。今回の戦いは辺境で腐っていた彼にとってもはや人生最後の機会かもしれない。
ここでフロレシア帝国軍を駆逐し、パルディア王国制圧に貢献したとなれば中央に返り咲く好機も生まれようという物だ。
「フロレシアの連中を一人残さず討ち取れ!全軍、突撃!」
マドラスの命令に従って、騎馬隊が飛び出した。
その後を槍隊が追い、その後を弓隊が駆ける。
馬の蹄と歩兵の軍靴に踏み躙られ、濃厚な草の香りが平原に満ちる。
砂埃を蹴立てながら突き進んでくる敵をじっと見つめながら、レッセフェルト=イングラムは眠たそうに半眼に閉じた眼を自分の右側に居る伝令兵に向けた。
「サンチェの部隊はどうなってる?」
「現在移動中です」
「よし。こっちの部隊が三分の二になってるのを気付かれないよう、全力で戦え」
全力で戦えなどと言いながら、己は全くやる気もなさそうに蜂蜜色の髪をかき回しながら、彼は両手剣の柄を握り締めた。
五千のフロレシア軍に、三千のスタルナス騎馬隊が突っ込み、その突撃力で強引にフロレシア側の陣形を崩していく。
片鎌槍を縦横に振り回しつつ、マドラス=ハイケイリーは騎馬隊の先頭を突き進んでいた。
出世の野心に心を焦がしながらも、指揮官先頭の武人としての心得まで忘れたわけではないマドラスだった。
しかし、それが彼の寿命を短くした。
川原の葦を薙ぎ払うかのように直進していた彼の前に、突然白刃が煌いたのだ。
「―――むっ!?」
慌てて馬を竿立ちにさせる。斬撃は馬の前足を切り離した。
激痛に激しく暴れ、どうっと倒れる馬の背から飛び降り、マドラスは血走った目で今の斬撃を放った相手を探した。
その視界に場違いなほどにのんびりと剣を構える蜂蜜色の髪をした青年の姿が飛び込んできた。
「今のは貴様か!」
「ふわぁ………何がだ?」
「俺の馬を斬ったのは貴様かと聞いておる!」
どこか茫洋とした表情を浮かべていた男の顔に、精悍な笑みが浮かぶ。
「俺が斬ろうとしたのはあんただよ。見たところ、それなりの地位に居るみたいだが?」
「俺はマドラス=ハイケイリー!スタルナス帝国南部方面軍先鋒隊司令だ!」
「ほう。ってことは今俺が戦ってる連中の総大将って事か」
「貴様のような青二才にかかずらっておる暇は無いわ!そこを退け!」
吼え、槍を突き出す。その一撃を男は軽く笑いながら、横に跳んで避けた。
すぐさま薙ぎ払うも、剣で弾かれる。
片手で扱える剣よりも重いが、両手剣の利点はその重い斬撃にある。
「俺の名前は聞いてくれないのか?」
「雑兵に興味は無い!」
距離を開けると見せかけての一撃。
「雑兵とはひどい言われようだなぁ」
しかし男はそんなフェイントお見通しとばかりに一撃を払い、逆に踏み込んでくる。
横払いの一撃は、しかし紙一重の所で後ろに下がったマドラスには届かなかった。
その時、さらなる喚声の声が上がった。スタルナス帝国の槍隊が騎馬隊の突撃で陣形を乱され、乱戦模様を呈するフロレシア帝国軍の只中に飛び込んできたのだ。
勢いはスタルナス側に傾いている。
騎馬に撹乱され、槍隊に包囲され、弓兵は盛んに矢を射掛けてくる。
「ふははははっ!!貴様らもこれで終わりだな!」
「何の事だ?」
哄笑をあげるマドラスを馬鹿にするような惚けた態度で聞き返す男。
「うぬっ………そのへらず口二度と叩けぬようにしてやる!」
「ああ、だめだめ。そんな陳腐な表現じゃモテないぞ」
渾身の力を込めて振るう一撃を軽くいなされ、マドラスが前のめりに倒れ掛かる。
その顔面に、男の拳が叩きつけられた。
「ぐあっ!」
鼻の骨が粉砕される快音に続き、生暖かな液体がだらりと垂れた。
「ぐっ―――貴様!」
殴られて尻餅を付いた格好で、無様に鼻血を垂らすマドラスを見て、男の顔に笑みが浮かぶ。
その手が鎧の腰の部分に結わえ付けられている皮袋へと伸び、中から角笛を取り出した。
「何をするつもりだ!」
「何だろうな?」
空惚けた返答を返し、笛を吹く。
戦場に甲高い笛の音が木霊する。
何事かとスタルナス兵達が空を見上げた次の瞬間、弓隊の周りの平原が一斉に揺れ、二千人以上の兵が立ち上がった。
身を伏せて匍匐前進で前進していた、フロレシア帝国の一個連隊だ。
いきなり包囲され、大混乱に陥った弓兵は慌てて弓を捨てて剣を抜いたが、近接戦に劣る弓兵達が飢えた狼のように飛び掛ってくるフロレシア兵に適うはずも無く、次々に血を撒き散らしながら地に伏していく。
小波のように動揺がスタルナス全軍に広がっていき、同時に今まで押されていたフロレシア軍が息を吹き返す。
弓隊を壊滅させたサンチェの部隊が戦場に突入し、戦況は一気に変わった。
押されていたフロレシア兵が逆襲に転じ、次々とスタルナス兵が打ち倒されていく。
「なっ―――」
その情勢の激変に付いて行けず、マドラスはただ目を白黒させて蜂蜜色の髪を持つ男を見つめるのみ。
その青年は角笛を元のように皮袋に仕舞うと、無邪気とすら言える笑みを浮かべて見せた。
「所謂所の、伏兵って奴」
「お、おまえは………一体」
「ん?雑兵には興味なかったんじゃないのか?」
「ふ、伏兵に合図を出すなどたかが雑兵ではあるまい!貴様、何者だ!」
「まあ、雑兵だなんて一度も俺は言ってないしな。俺の名はレッセフェルト=イングラム。フロレシア帝国軍第四軍第十六歩兵師団長兼ニヘンベルグ砦守備隊長ってのが俺の肩書き。んで、この戦場に居る連中は俺の部下って訳だ」
自分が相手にしているのが雑兵どころか司令官だと言うことを知って、マドラスは槍の柄を握る拳にさらなる力を込めた。
戦況は芳しくない。
それどころか、もはや敗れ去ろうとしているのはスタルナスの方なのだ。
総司令官であるオルティアに意見を尋ねもせず、命令を受けもせずに独断専行を取った上、自軍の半数でしかない敵に惨敗したとなれば中央に返り咲くどころか軍法会議ものだ。
下手をすれば軍からの追放もありえる。
だが、この状況を一発で覆す方法が目の前でへらへら笑っている。
指揮官であるこのレッセフェルトと言う気障ったらしい名前の青年さえ討ち取ってしまえば、勢いは再びスタルナスに引き戻される。
「うおおおおぉぉぉぉっ!!」
渾身の力を込め、マドラスは一歩踏み込み、レッセフェルトの胸の当たりを狙って槍を繰り出した。
槍は見事に、レッセフェルトの胸に突き立った。
と言うよりも青年はへらへら笑ったまま、避けようともしなかったのだ。
「ごふっ………」
今まで笑みをこびりつかせていた口から血を吐き、青年の体がかすかに震える。
その様を見て、マドラスの顔に笑みと余裕が戻ってきた。
「己の戦術が成功した事で有頂天になっていたか?………所詮は若造と言う事か」
「―――誰が、有頂天になってたんだって?」
「なっ………」
平然と顔をあげるレッセフェルトを見て、マドラスの表情が歓喜から驚愕へと変貌した。
槍は確かに青年の胸に突き立っている。
ならば、なぜ―――?
「くっ………頑丈な奴め!………ならばその首、刎ね飛ばしてくれる!」
吼えて槍を引き寄せたマドラスはさらなる驚愕に目を瞠った。
槍の穂先が変形していたのだ。まるでとてつもなく硬い鉄板を貫こうとした時のように。
とん、と己の胸に親指を当て、レッセフェルトが笑う。
「俺は体内に流体金属を飼ってるのさ。俺の意思で守りたい所にこの流体金属を集める事で致命傷を防ぐ事が出来るって寸法だ」
だが、皮膚の表層にまでは浸透させる事が出来ないため、多少の傷はつく。
しかし、内臓にまで達する事は無いのだ。
「この流体金属を操る技術は俺が生まれ育った村に伝わっていた秘術。珍しいもんだぜ」
「己………!」
完全に使い物にならなくなってしまっている槍を捨て、マドラスは腰の太刀を抜いた。
「さて、じゃあそろそろ勝負をつけさせてもらうぜ」
まるで息詰まるようなこの勝負を楽しんでいるかのように、レッセフェルトが両手剣を肩の上に担ぐようにして構えた。
振り下ろしの一撃に全体重を預け、渾身の一撃を放つ構えだ。
両手剣は重く、もし全体重を預けた一撃を回避されれば二撃には時間が掛かる。
マドラスも片手で扱うには大きな太刀だが、それでも両手剣よりは身軽だ。
「金属で身を守るならば………金属をも貫いてみせる」
「やってみな」
二人は同時に一歩を踏み出し、跳んだ。
「うおおおおおっ!!」
「はあああああっ!!」
二つの影が空中で交錯し、離れた。
二人同時に着地する。
片方が地面に片膝をついて肩を抑えた。
蜂蜜色の髪が揺れる。苦痛に顔を歪めて、レッセフェルトは背後を振り返った。
その先で、袈裟懸けに肩から腹までを切り裂かれたマドラスがゆっくりと崩れ落ちる。
「へへっ………なかなかやるじゃねぇか」
両手剣を支えに何とか立ち上がると、レッセフェルトは高々と声を張り上げた。
「スタルナスの将、マドラス=ハイケイリー、このレッセフェルト=イングラムが討ち取ったりっ!!」
この言葉を聞いたスタルナス軍は崩壊した。
戦線を放棄し、スタルナス軍が制圧しているラーマヤーナ川の対岸へと一斉に走る。
レッセフェルト軍はこれを追撃し、平原からラーマヤーナ川までは文字通りスタルナス兵の死骸で埋まった。川の手前で追撃戦を取りやめ、レッセフェルト軍は川に沿って南下し始めた。
パルディア城に篭るパルディア軍と合流する為に。
そのフロレシア軍の先頭に、蜂蜜色の髪を棚引かせながら進む、眠たそうな青年武将が居た。
「妖将オルティア=フリンシュ、どんな男だと思います?師団長」
第三歩兵連隊長のサンチェ=ポルトフが訊いて来る。わざわざそれを訊く為に先頭に出てきたのだろう。
どちらかと言えば太めだが、先程の戦闘での伏兵の指揮振りからもそれなりの武将である事がわかる。
レッセフェルトはそんな部下を一瞥して、特に考える事も無く答えた。
「女にモテるんじゃないか?」
3 パルディア城、陥落
「パルディア城の尖塔に《死神と鎌》の旗が見えます!」
斥候の齎した報告は南下するスタルナス軍を驚愕させるに十分な物だった。
パルディア城まで後十キロ程と言う地点で、斥候からのその報告は齎された。
驚愕を隠し切れぬままにその距離を駆け抜けた三万のスタルナス帝国南部方面軍の視界に、雄大なラーマヤーナ川の水面を天然の堀とした勇壮なるパルディア城の姿が目に映った。
武王ジーク=パルディアスの元、正義と秩序、仁義と武を重んじ、立身出世や堕落を卑しむ清廉の騎士団によって統治されてきたパルディア王国の王城の尖塔にはその国風を如実に現した朱地に金字の《剣と盾》の国旗ではなく、不気味な雰囲気を発散する《死神と鎌》の国旗が風になびいていた。
「…………」
その光景を黙って見つめるオルティアの脳裏に、帝都を発つ前のキエフの言葉が蘇る。
『敵よりも注意を要する存在は、パルディア王国南部から侵攻する予定になっているルーナ帝国軍だ。陛下は盲目的に信じておいでだが、連中が同盟を守るかどうかは未知数だ。最悪、おまえが必死に戦って城に辿り着いてみればそこにはルーナ帝国の《死神と鎌》が翻っているかもしれん』
そう危惧するキエフに対し、自分はなんと答えたか?
『もしそんな舐めた事しやがったら、皆殺しにしてやりますよ』
(まさか本当にこうなるとは、な………)
武王ジーク=パルディアスと言えばその猛勇振りはラスカーナ大陸中に鳴り響いている。
若き頃はスタルナス帝国やフロレシア帝国とも互角以上に渡り合い、幾多の猛者をその剣の錆にした猛将として武勇を鳴らし、年老いて戦線を離れてからはその巧みな外交術を以てスタルナス帝国、フロレシア帝国など強大国の間で絶妙なバランス感覚を見せ、緩衝地帯としてパルディア王国の存在を安泰たらしめてきた名君。
勇将の元に弱卒なしと言われる通り、彼の率いるパルディア騎士団は一騎当千の誉れ高い六人の騎士によって統率され、その一糸乱れぬ統率振りはもはや伝説的な域に達しているとすら言われている。
無論、兵力で格段の差のあるスタルナス帝国やフロレシア帝国に攻められれば抗する事は出来なかっただろう。だがそこは巧妙な外交で凌いでいたのだ。
その外交力の裏付けとなっていたのが精強な騎士団である事は言うまでもない。
(しかし、それにしてもこれほどの短時日で………)
しかも城の周りにはそれほど争った後も無く、まるで無血開城したかのような有様だった。
城門は開かれ、衛兵と思しき者が対岸のスタルナス軍を見つめている。
「一万だけで対岸へ渡る。二万は臨戦態勢で待機」
オルティアはそう命じ、馬を川縁に用意されていた船に乗り入れさせた。
彼の命令はルーナ帝国を信用していない事を如実に示す物であった。
もし、ルーナ帝国軍がオルティアに危害を加えれば、それはすぐさまスタルナス軍による報復行動へと繋がる。川を渡るオルティア達を見て、先の衛兵が城内に入っていった。
城門が閉じられ、城壁の上にルーナ帝国兵が現れて矢を射掛けてくる様を夢想しながら、オルティアは船を進ませた。
いっそのことそうしてくれた方がありがたい。
信用できない味方よりも、はっきりと敵だと認識できる方がどれほど気が楽か。
敵であるならば話は単純だ。叩き潰せばよいのだから。
しかし、門が閉じられる事も、城壁の上にルーナ帝国兵が姿を現すことも、矢を射掛けられる事も無く、オルティアと一万のスタルナス兵はラーマヤーナ川を渡り終えた。
城を目前にしたオルティアは隊列を止め、百名余りの兵だけを連れて城門を潜った。
城門の内側の光景に、オルティアは思わず吐き気を覚えた。
そこには数千人の人間が居た。
腕の無い者、片足の無い者はまだしも、肩から腹まで袈裟懸けに切り下ろされている者や腹を引き裂かれて腸を露出させている者など、明らかに致命傷を負っている者までいる。
一言で言うならば、彼らは生きている。いや、生きているように見えた。
とても生きてなどいられない程の致命傷を負いながらも、彼らは動いている。それは事実だ。
もっともそれが生きていると言う表現に相応しいかどうかは微妙だったが。
皆血の気の失せた青白い顔色をして、働いている。どうやら墓穴を掘っている様だ。
「彼らの着ている服………ありゃあ、パルディア騎士団の甲冑だ」
兵の誰かが呟く。
その場に居る生きている亡者とでも言うしか無い者たちは皆、パルディアの騎士達だったのだ。
「よくぞおいで下さいました」
出迎える声に視線を向ければ、一人の青年が立っていた。
こちらも生気の感じられない青白い顔をしていたが、外傷等は無く、着ている服もパルディアの騎士達とは異なっていた。
額に不思議な紋様を刻んだ青年の体からは気配が全く感じられない。
ただし生者にも見えないのは、その何も映していない虚無の瞳のせいだろう。
その青年に、オルティアは説明を求めるように声をあげた。
「これはどうしたことだ?彼らは―――」
「我が主人がお待ちしております故、案内いたします」
オルティアの質問を遮って、青年は踵を返して城内へと歩いていく。
「どうやら、こりゃ主人とやらに聞くしかないみたいですね」
「ああ」
部下の言葉に頷き、青年の後を追いながら、オルティアは薄気味悪そうに周りのパルディアの騎士達を見回した。
全員が、穴を掘っている。
つまりは、彼らと同じ数だけ、墓穴が出来ると言う訳だ。
脳裏に浮かびそうになった不快な妄想を振り払い、オルティアは気を引き締め、青年の後を追った。
城外とは異なり、城内には争った後があった。
明らかに死亡したであろう程の血が壁一面に飛び散り、切断された体の一部が転がっているのに、死体その物は一体も存在しない。
実に異様な光景であった。
「死体はどこへ行ったんだ?」
「外で自分の墓掘ってるんじゃないか?」
一人の兵の疑問に、別の兵が冗談めかして答える。
しかしその兵の顔色も思わしくはなく、誰も彼の冗談に笑う者は居なかった。
いや、それを冗談として笑い飛ばせる者など一人もいなかったのだ。
やがて彼らが通されたのは、謁見の間だった。
しかし、誰も居ない。
「―――どうぞ、玉座へ」
虚無の瞳で、空ろな口調で、青年が言う。
「いや、遠慮しておこう。私は軍人だ。王ではない」
オルティアが答えると、青年は一礼し、
「只今、主人を呼んで参ります」
とだけ答えて、謁見の間を出て行ってしまった。
謁見の間は武を重んじ、華美を疎んじるパルディアの国風そのままに、質実剛健だった。
大理石の床に絨緞も布かず、壁際には無数の甲冑が並び、壁には剣が架けられている。
すべて装飾用ではなく、実戦用だった。その謁見の間にも無数の血の跡があったが、やはり死体は一体も見当たらなかった。濃い血の匂いが鼻を突く。
待たされていた時間は十分ほどだったろうか。
玉座の脇にある扉が開き、先ほどの青年を従えた金髪赤目の妖艶な美女が姿を現した。
胸元を大きく開いた甲冑姿で、首からは首飾りを下げている。
「お待ちしていましたわ、オルティア=フリンシュ閣下」
男の心を蕩かす様な妖艶な微笑を浮かべて、オルティアの前まで進み出た女が一礼する。
「噂は聞いている。貴殿がミト=ヴァレンツェ殿か?」
「はい。この者はわたくしの従者で、シュタイン=オールドリークと申します」
「…………」
ミトに紹介され、青年が一礼する。
「表でパルディアの騎士達を見かけたが?彼らが掘っている穴は何のためだ?」
「彼ら自身の、墓穴ですわ―――死者は弔うもの。死者を使役するわたくしも、その程度の心は持ち合わせています」
(死者を使役する、死兵師団………か。おぞましい限りだな)
出来ればこのような女と話しなどしたくないが、そう言うわけにもいかない。
「堅城と謳われたこのパルディア城をこうもあっさり落城させるとは、感嘆の極み。差し支えなければどのような手管で落としたか、御教え願いたいが」
「よろしいですとも。スタルナス帝国は我らがルーナ帝国の同胞。隠し立てする必要もありませんから」
ミトは妖しくも幻惑するような笑みで、説明を始めた。
なんと彼女はシュタイン=オールドリークとたった二人でこの城を落としたと言うのだ。
まず彼女達は白旗を掲げて城門を守る衛兵に軍使だと名乗った。
騎士としての道徳を重んじる武王ジーク=パルディアスは二人を謁見し、そしてミト=ヴァレンツェとシュタイン=オールドリークはその場で武王を殺害し、近衛兵を殺害し、死者を使役して城内のすべての騎士を殺戮したと言うのだ。
騎士として真正面から戦う事を是とするパルディアの騎士達にとって、この詭計は予想も出来なかっただろう。城外に争いの後が無かったのも当然のことで、パルディア城は内側から全滅させられたのだ。
「それで………武王は?」
「穴を掘っていますよ」
ミトが平然と答えるのに、オルティアははっきりと機嫌を損ねた。
ミトはそれを見抜き、艶やかな微笑を深くする。
「御気分を害されましたか?」
「戦場に情けは無用。詭計を行うなとは言わぬ。むしろ騙された武王こそ間抜けだったのだろう。だが、敵に対し礼儀を失するような態度を取るべきではないと心得る。死者を使役するなどその者の尊厳を冒涜するに等しい行為。迎合する事は出来ん」
「閣下ならばそのように仰ると思いましたわ。しかし、今は戦乱の時代、国を強くし、国民を豊かにする、富国強兵の為ならば多少倫理を曲げるのも背に腹は代えられぬ、それが小国であった我らルーナ帝国の結論ですわ。それを完全に否定なされるのはスタルナス帝国が大国故。そうではありませんか?」
「むぅ………」
この問題で対立しても、仕方のない事だった。所詮は他国の事、これ以上は国際問題を引き起こしかねないと考え直して、オルティアは話題を変えることにした。
「今回のパルディア遠征は我らスタルナス帝国の作戦。ルーナ帝国はそれに協力すると言う形であったはずだが、この城はどうなされるのか?」
「―――と、申しますと?」
「ルーナ帝国がこのまま領有するのか、それともスタルナス帝国に引き渡すのか、はたまた共同統治とするのか、と言う事だ」
「それはわたくしの権限を越える問題ですわね。我らが皇帝陛下とスタルナス帝国皇帝陛下との間で話し合われるのが妥当だと考えますが」
「ならばその結論が出るまで、我らスタルナス帝国軍もこの城に駐留したいが、異存は?」
「ありませんわ」
「ならば、尖塔にスタルナス帝国の《黒十字の紋章》も掲げさせてもらおう」
「御自由に」
薄い笑みを浮かべて頭を下げるミトの後頭部を見下ろし、オルティアは城外で待っている一万、さらには対岸で待っている二万に城内に入るよう伝令を部下に命じた。
パルディア王国は滅亡し、その王城には《黒十字の紋章》と《死神と鎌》の国旗が並んで川からの風を受けて翻った。
城下町の人々は昨日までの平穏な生活が突如として崩れた事に愕然としていた。
国境線を破られたと聞いたときも、武王と彼が率いるパルディア騎士団が居る限り、パルディア王国は安泰だと彼らは信じていたのだ。だと言うのに、城はたった数時間で落ちてしまったのである。
しかもたった一組の男女によって。
マドラス=ハイケイリーの率いるスタルナス帝国軍先鋒隊を駆逐し、ラーマヤーナ川を南下していたレッセフェルト=イングラム率いるフロレシア帝国軍はパルディア城まで残り二十キロと言う位置にまで達していた。その時、前路偵察に出していた者達が戻ってきた。
そして、彼らに伴われて、傷だらけの騎士達がレッセフェルトに面会を求めてきたのだった。
レッセフェルトはとりあえず進軍を休止して、部隊に大休止を命じると、その者達と面会した。
面会を求めてきたのは栗色の髪をした美貌の女騎士を始めとする七名で、女騎士を除く六名は誉れ高き六騎士と呼ばれるパルディア騎士団の中核を成す者達だった。
そして、彼らに護衛されるかのようにレッセフェルト=イングラムの前に現れた美貌の女騎士こそ武王ジーク=パルディアスの一人娘にして、次期女王だったレイシア=パルディアスだった。
細身の体に甲冑を纏い、切れ長の瞳をしたレイシアはさすが武を重んじるパルディア王家の血を引くだけあって、その物腰は凛々しく、その美貌と相俟って実に凛冽たる風格を醸していた。
「―――それで、その次期女王殿下がどうしてこんな所に?」
嫌な予感がぷんぷんする中、レッセフェルトが問う。
レイシアはさすがに一瞬目を伏せたものの、すぐに毅然と面を上げ、
「パルディア城は既に陥落いたしました。父も、戦死しました」
「っ…武王が?」
予感はしていた。だが、レイシアの口から事実を告げられると衝撃はやはり大きかった。
「老いていたとは言え、正攻法ならばそれなりに戦えましたでしょう」
「なるほど、詭計によって落された訳ですか」
(それを恨むのは筋違いって気もするが………)
自称女の味方、レッセフェルトは優しげな眼差しをレイシアに向けて、
「それで、殿下は俺に何を求められる?」
「フロレシア帝国への亡命とラインハルト帝への拝謁の手続きを」
「なるほど、パルディア王国再興の協力を仰ぎたい、と」
「いかにも」
「生き残った騎士はあんたらだけなのか?」
「…………」
「姫様に対し、なんたる口の聞きよう、侮辱ならば斬るぞ」
「まあまあ、悪気がある訳でなし、それに我々は協力を仰ぐ身」
「左様。自重してくだされ」
「むむぅ………」
六騎士達の会話はさておいて。
レッセフェルトは蜂蜜色の髪をかき混ぜながら、
「ああ………今陛下ってルーガに居ないんだよ」
「では、いずこへ?」
「ルシタニア連合王国」
「ならば参りましょう。たとえ地の果てでも。それが我が祖国の再興に繋がるのならば」
瞳に強い意思の光を込めて、レイシアが言う。
すぐにでも取って返して戦いたいであろうに、ここで自重するのは彼女にとって大きな葛藤だろう。その苦痛を察して、レッセフェルトは髪を掻き混ぜていた手で己の胸板を叩いて見せた。
「不肖このレッセフェルト=イングラムが姫君の御案内役を勤めさせていただこう」
「かたじけない、礼を申す」
「そうと決まれば、軍を返す。正直に言ってしまえば、これだけの兵力で敵と戦うのはしんどいんだ。スタルナス帝国の先鋒隊は撃破したとは言え、まだオルティアの三万は無傷だし、その他にもルーナ帝国の部隊も居るだろうし、な。王女を奉ずるとなればフロレシアの体面も保たれる。つまりは俺も親父に叱られずに済むって訳だ」
苦笑と共に告げ、レッセフェルトは全軍反転の号令を掛けたのだった。
生来怠け者の彼にとって、これ以上進まなくてもいいのは朗報であるに違いない。
4 父との誓いを胸に
帝国暦三三二年八月十二日。
スタルナス帝国・ルーナ帝国の連合軍によるパルディア王国制圧戦はパルディア王国の王城陥落によって、終息した。
パルディア王国の国民にとって希望そのものであった武王ジーク=パルディアスが戦死し、軍事力のすべてと言っても良い七千のパルディア王国騎士団も全滅した。
小さな砦の守備隊や町などの警備隊などの中にはさらに抵抗しようとする者もあったが、僅か数百の兵力で強大なスタルナス帝国軍に抗する術があろうはずもなく。
パルディア城の尖塔に《死神と鎌》の国旗が翻ってから三日経った現在ではもはや抵抗は僅かなゲリラ戦術以外には見られないようになり、パルディア王国は完全にスタルナス帝国とルーナ帝国によって分割支配されている状態となった。
レイシア=パルディアスと誉れ高き六騎士を伴ったレッセフェルト軍は辺境の砦ニヘンベルグに引き返し、追撃を受ける事もなく、無事に到着していた。
それからもう二日が経っている。
与えられた客室の一つに篭り、レイシアはベッドに腰掛けていた。
甲冑ではなく、部屋着であったが、手の届く範囲に剣を置いている所が、彼女が亡国の姫君であると同時に騎士である事を物語っていた。
昼間は曇天だったが、夜になって吹きはじめた風によって吹き払われ、今は冴え冴えとした月光が窓から明かりを消された室内に侵入して、照らしている。
ベッドに腰掛け、膝を抱えて、両膝の間に顔を埋めて、レイシアは先ほどから微動だにしていなかった。
厳しかった父、優しかった母、剣術の稽古を付けてくれた剣術指南役の老騎士、共に走り回った仲間達、暖かだった町の人々や騎士団の騎士達。
そのずべてが、失われた。
軍使として城内に入り込んだ、一組の男女によって。
自分に剣を向けてくるかつての仲間達。
斬っても斬っても立ち上がり、斬られた仲間はまた別の仲間を襲う。
恐怖の輪廻。絶望の循環。
味方はどんどん殺され、味方が死ねば死ぬほど敵が増えていく、恐怖。
腸を引きずりながら仲間に切りかかる騎士達の姿は醜く、吐き気を催さずには居られなかった。
六騎士に周りを固められて城を脱出した時には、心底安堵した。
地獄から助け出された気分だった。
(お父様………)
常に武人としての、騎士としての正義を重んじ、娘にもそれを強要した厳しい父。
国民に名君と親しまれ、騎士達には武王として尊敬されていた。
老いても尚、体力の衰えを感じさせぬ筋骨隆々たる、堂々の体躯を誇り、日々鍛錬を怠らなかった。
鋼のような父。
その父をあの金色の髪と赤い瞳を持つ女剣士はただ一刀の下に切り伏せた。
遠い海の向こうの異国より時折入ってくる竜の皮で作られた鎧を着込んだ父を、女は何の躊躇もなく切り倒した。
すぐそばに居たレイシアにとって、まさにそれは信じられない光景だった。
竜の皮の鎧も、鋼の体躯も、あの女の前では全くの無力だった。
その場に百名近く居た近衛騎士達が一斉に襲い掛かり、レイシアはその混乱に紛れて謁見の間を抜け出し、騎士を集めて謁見の間に舞い戻った。
しかしその時には、近衛騎士はすべてあの女の僕と化していた。
女の命令で、かつての仲間に襲い掛かる近衛騎士たち。
彼らと剣を交える事に戸惑いと困惑を隠しきれない騎士達が、戸惑いも困惑もなく斬撃を繰り出してくる近衛騎士たちに勝てるはずもなかった。
訳も分からず、無我夢中で戦っている間に、レイシアは敵に包囲されていた。
傷から血を滴らせながら、それでも剣を振るってくるかつての同胞の姿に、レイシアは戦慄を覚えた。
一瞬ではあったが体が硬直し、隙が生まれた。亡者達がその隙を逃すはずも無い。
一斉に、十人近くの敵が剣を繰り出してきた。
その時、一人の騎士がレイシアの前に立ちはだかり、敵の斬撃をすべて己の身で受け止めた。
「じ、爺っ!」
レイシアに剣技を教えた、剣術指南役の老騎士は口の端に笑みをこびりつかせて、涙の滲んだ眼にレイシアの姿を映した。
「生き、延びてくだされ………姫、様……」
「爺っ!」
「わしの手に………かかるような事は………しなさるな」
「爺ぃっ!!」
絶命した老騎士は、老いを感じさせぬ動きでレイシアに向って剣を振るってきた。
その一撃をレイシアは泣きながら跳ね除け、その胴を蹴って駆け出した。
無我夢中で謁見の間から逃げ出し、六騎士と合流し、城からも逃げ出したのだ。
安全だと思える場所まで逃れてから振り向いた時、既に城の尖塔には《死神と鎌》のルーナ帝国国旗が揺らめいていた。
(お母様………)
娘を娘としてではなく、騎士として、武人として育てねばならなかった彼女は自ずから鎖帷子を作ってくれた。
その鎖帷子が何度レイシアの身を守った事か。
優しい微笑を浮かべつつも、常に寂しそうに一人佇んでいた母。
その母も、やはり殺されてしまったのだろうか?
自分だけ生き延びて………本当に良かったのだろうか?
こんこん。
どんどん自分を追い詰めていく彼女を現実に引き戻すかのように、扉がノックされた。
既に深夜とも言うべき時刻なのに、そのノックは彼女が起きている事を確信しているかのような無遠慮な叩き方だった。
「―――誰?」
「誰だと思う?」
「…………」
わからなかったのではない。
わかったからこその、沈黙であった。
「だんまりってのはひどいんじゃないか?」
「何の用?………昨日も斬ると言われていたでしょう」
「ああ、あの六騎士の人ね。あんたモテモテだな」
六騎士に脅された事など全く気にしていない口ぶりで言って来る。
レイシアはふう、と嘆息を漏らして、
「もう普通は寝ている時刻よ」
「その時刻に起きているあんたも、普通じゃねえって訳だ」
「………。そうね」
答えながらも、視線は既に窓に向いている。月は蒼白く輝き、その輝きは実に美しかった。
「ザルカに送っていた使者が帰ってきた」
「早かったのね」
「急がせたからな。あんたをルーガまで護送する役目は俺が勤める事になった」
「そう。………まずはザルカに行くのかしら?」
「いや、ザルカに行くよりもここから直接行った方が近いんでな」
「それで?今から出発しようとでも言うのかしら?」
視線は月に向けたまま、皮肉気な口調で言ってしまう。
自分はこんなに皮肉屋ではなかったはずだが。
それとも人は余りにも鮮烈な体験―――例えば、母国の滅亡―――に遭うとそれっきり物事を素直に捉えることが出来なくなるのだろうか。
だが、そんな彼女の皮肉に対し、男は全く気にした風もなく答えて来る。
「まさか。こんな時間に出かけるなんて真っ平ごめんだ。だがまあ、傷心の姫君は早く知りたいかと思ってな」
「傷心の姫君?………誰が」
鼻で笑おうとして、出来なかった。
「傷心の騎士様か?………それとも、傷心の次期女王………いや、傷心の元王女か」
「…………」
「怒ったのか?なら謝るよ。それはともかく、あんたも他の騎士も無理し過ぎだ。早く御国を再興したいって言う気持ちはわかるが、七人とも三日連続で徹夜されたんじゃこっちもたまらねえ。騎士ってのがどんだけタフなのか知らないが、ルーガに行く途中で倒れられれば余計な時間を食う事になる。それが嫌だったら、明日はゆっくり寝てもらう」
「………。嫌だと言ったら?」
「ルーガへの案内はしない。別に迷うような道程じゃないんだからな」
「ならば必要ない。私達は明日、ここを発つ。世話になった」
「おいおい」
初めて男の声に、困惑の色が混じった。
それを聞いてかすかな愉悦を感じている自分に、レイシアは心の底から自己嫌悪した。
視線を月から未だに閉じられたままの扉へ、そしてその向こう側で困ったように蜂蜜色の髪を掻き混ぜているであろう青年へと向ける。
「済まない、別に困らせる気はない………明日はゆっくり休ませてもらう」
「そりゃ良かった。多分俺はあんたらをルシタニアまで送らなくちゃならないだろうからな。今のままじゃルシタニアどころかルーガにだって辿り着けやしない」
「それで―――用はそれだけ?」
「ん?それだけだけど………ああ、一人で寝るのが寂しいってんなら添い寝してやるが」
「構わないが、私は寝癖が悪い」
「多少寝癖が悪くてもあんたみたいな美人の隣で眠れるんなら俺は大歓迎だがな」
「私はどうも夜中に抜き身の剣を振り回す癖があるようなのだ。朝になったら膾切りになっているかもしれないが、それでも良ければ私は構わないぞ」
「あー………とりあえず、遠慮しとく」
「賢明な判断だ」
「さっきよりも大分声が明るくなってきたな、これなら寝られるだろう。じゃあな」
「待て、レッセフェルト」
「………ん?」
去ろうとしていたのだろう、やや大きな声で呼び止めたレイシアの声に、気配が扉の前まで戻ってくる。
簡単な言葉であるはずの一言。それが今は無性に難しく感じられた。
だがそれでも、言わねばならないと思った。だから、勇気を振り絞って、レイシアは顔を真っ赤にしながら口を開いた。もし扉一枚を隔てていなければ、言えなかったであろうその言葉を。
「その、なんだ………ありがとう」
「なんだって?」
「だから、礼を言う」
「何を?」
「何をって………その、いろいろと、だ」
「だったらお礼の仕方ってもんがあるだろ」
「お礼の仕方?」
「ほっぺにちゅーとか」
「…………」
「ははは、冗談だ冗談。ま、礼を言うのは、パルディア王国を再興してからにしてくれ」
「………ああ」
「それともう一つ」
「なんだ?」
「俺の事はレッセと呼んでくれて構わんぞ」
「それは良かった。舌を噛みそうだったのだ」
「はは、よく言われる。……じゃあな、おやすみ」
今度こそ、レッセフェルトの気配は遠ざかって行った。
抱えていた膝を伸ばし、心持ち緩んだ口元から、今度はなんの気負いもなく言葉が零れた。
「―――ありがとう、レッセ」
そして彼女は、三日ぶりにゆっくりと眠る事が出来たのだった。
そこはニヘンベルグの砦内にある客室の一室。
時刻は深更。
ちょうどレッセフェルトがレイシアの部屋を訪れている頃の事である。
窓のカーテンを閉めて月光を遮り、テーブルの上に置いた一脚の燭台の光だけを頼りにして、むさくるしい男達が額を突き合せてなにやら密談していた。
「わしはもはや我慢がならん!」
「そうだ、あの若造はどうしてああも馴れ馴れしく姫様に近寄るのか!」
「それを申すのなら姫様も姫様だ。あのような若造と親しげに言葉を交わすとは」
「我ら六騎士こそが姫様を守るべき存在なのだ」
「左様。あのような若造に姫様を渡すわけにはいかん」
「姫様の純潔は我々六騎士がこの命に賭けても守ろうではないか」
「その通りだ!我らはパルディア王国を再興すると言う大きな目標に向かって一丸となって進まねばならぬ」
「姫様の心を惑わす者の存在は実に好ましくない」
「かといって、帝都までの案内役は必要であろう」
「しかし、その案内人があの若造である必要はあるまい」
「そもそも何ゆえにあの若者が案内役を勤めるのだ?聞けばあ奴はこの砦の守備隊長と聞く。我が祖国を併合したスタルナス帝国とルーナ帝国の連合軍がいつフロレシア帝国に侵攻して来るかも分からぬこの時期に砦を留守にするなど不可解としか言いようがあるまい」
「下心が丸見えじゃ。さしずめ、姫様に取り入ってゆくゆくはパルディア王国の国王の座でも狙っておるのであろう」
「もしくはルーナ帝国軍に恐れをなし、口実を見つけて帝都に逃れようと言う算段やも知れぬぞ」
「明日の朝一番にでも姫様に申し上げて案内人を変えていただこうではないか」
「左様、その通りでござるな。あのような何処の馬の骨ともわからぬ者に国王を名乗られるは国家の恥辱」
「いかにも、あの者を姫様にこれ以上近づけてはならん」
「我ら六騎士、身命を賭して姫様を守る事をここに誓わん」
「おう!」
「パルディア王国の誇りにかけて」
「騎士の正義に誓って」
「我らが姫君を若造より守り抜く」
「そのためならば火の中水の中!」
薄暗い部屋の中、暑苦しい男達の密談は、明け方近くまで続いたそうな………。
翌朝。
睡眠不足で目の下に隈を作って食堂に現れた六人の騎士達はそこに展開されている光景を見て、表情を驚愕に歪めた。彼らの姫君、レイシアと共にレッセフェルトが朝食を摂っていたのだ。
六人の存在に気付いたレイシアは、昨夜までとは全く異なる吹っ切れた表情で、六人に席を勧めた。しぶしぶと座る六人に対し、レイシアは決意を込めた口調で切り出した。
「私は必ず祖国を復興させて見せる。その為ならば誰の力でも借りる。異存はないな?」
六人の騎士は顔を見合わせ、ゆっくりと頷いた。彼女の気迫に頷かざるを得なかったのだ。
蜂蜜色の髪の青年は興味深そうに、そんな七人を見つめていた。