昔話

2015年2月22日 19時48分34秒 (Sun)

全盛の頃

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鋸産業が全盛の頃
三条市の所得番付1番は、鋸鍛冶でした。
電動鋸も替刃鋸もない時代ですから、鋸の値段は大工手間の3日分でした。
高くても泊りがけで買い求めにくる職人がいました。
今でいう半導体産業のようなものだったでしょう。
週1回、材料会社から鉄道コンテナで鋸の材料が運ばれてきました。
三条市では、鋸産業振興会というのがあって、約250業者からなっていました。
私の住む脇野町でも鋸業者が60軒ほどありました。
他にも会津や茅野市や土佐、三木市などが産地としてありました。
鋸産業の衰退は、林業にチェーンソーが導入されたころから始まりました。
このころから目立て用のやすりが売れなくなったと
やすりの製造会社の社長ががこぼしていました。
やすりの製造会社もかつては燕市に40軒ほどありました。
今では、2~3軒に激減しました。
つまりそれだけ鋸の目立てをする人が居なくなったということです。
脇野町では、林業関係の鋸は、あまり作っておらず影響はあまりありませんでした。
大工の使う両刃鋸は、戦後の住宅ブームに乗って、どんどん売れ続けていました。
昭和58年の7月の組合全体の生産枚数が2万5千枚に達しました。
これが頂点でした。
35年で私だけが作れるだけの枚数になりました。
月10枚です。
いくら良い物でも10枚では、生活できません。
ほんとうにどん底でした。
世はバブルで景気がいいのに鍛冶屋の転廃業が続くので、町のいい茶飲み話になっていたようです。
人の不幸は蜜の味。
「鍛冶屋は景気がいい時、町中の飲み屋をはしごして、酒ばっかり飲んでいたせいでダメになったがいや」「勤めに行くのに朝家を出たら、鍛冶屋に『おめえ弁当持っていくら稼いでくるがいや』と馬鹿にされもんだが」
私が高校の頃、父は校長先生の3倍の収入がありました。
隣町のノミ、鉋の産地与板でも税務署にあげられる業者が続出していました。
家庭零細企業でも300万500万と設備投資を毎年する業者が何軒もありました。

鋸が刃物の中で一番高価だった時代でした。
 

2015年2月13日 20時54分22秒 (Fri)

泣き寝入り

介護の記事を読んでくださってありがとうございました。

気分を変えて昔話です。


15年前、刃物研ぎの御用聞きで、父が農村を廻っていました。
農家は、敷地が広いので家が引っ込んでいるところが多く
道路に自転車を止めて
御用聞きにいって自転車にもどると
籠に入れていた商品の鎌がみんな無くなっていました。
盗まれたのです。
こんな田舎にも悪い人間がいるものだと
儲けにきてるのに
かえって損して馬鹿を見たと
父は、がっかりして帰ってきました。
泣き寝入り。

そのことを三条の同業者にこぼしたら、
「当たり前じゃないか、車だって鍵をかけなければ盗まれる」
といわれました。

自分の考えは甘い
人は信用してはいけない
と思いました。

イベントでは
スワダの爪切り(当時¥5000)を3度万引きされたことがあります。
どうもこの人間が盗ったということがわかるのですが、その瞬間を見ていないので黙っていました。
これも泣き寝入り。

父は、農家周りの時、犬にお尻を噛まれて「痛い痛い」と半べそをかきながら帰ってきたこともあります。
農家は複数の玄関があるので、ウロウロしているうちに噛まれてしまったそうです。
そこの家の人に「おめさん こんなところから入るから噛まれたんだ」と、いわれたそうです。
治療費の心配もしてもらえず、ここでも泣き寝入り。


私は、次の父の言葉を聞いて
ここまでへりくだらなければならないのかと思ったことがあります。
「刃物研ぎありませんか?」
といういい方は、まだこちらが偉ぶっている言い方です。
「刃物研ぎさせてもらえないでしょうか?」

父のおかげでお得意様ができて
私は、「刃物研ぎさせてもらえないでしょうか?」
と言ったことは一度もありません。
当時の父は、本当に本当に低姿勢を貫いていました。

この儲からなくても
泣き寝入りを重ねて得た
わずかな稼ぎが、鋸を続ける足しになって

今の私があるのです。

なので
どんなにつらくても
最後まで見なくてはなあと
自分に言い聞かせています。

2015年2月6日 22時35分26秒 (Fri)

ケーキ

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今日は娘の誕生日でした。
子供達が家を離れるまで、お金をかけずに手間をかける、暇はかけない(夫婦で貧乏暇なし)
で、手作りのケーキを用意していました。甘党の夫は、子供が食べきれず残す分もペロリと食べていました。子供たちの成長とともに食べる分が少なくなり、「無理して食べなくてもいいぞ、お父さんが食べてやる」と、親らしからぬ情けないことを言っては、子供たちのひんしゅくを買っていたものです。


今日は、お店で買ってきたケーキを4人で美味しく頂きました。








 

2015年1月23日 21時10分17秒 (Fri)

 昔話


鋸が全く売れなくなった時、
従業員を解雇することになりました。
送別会を家で行いました。
乾杯の挨拶で
父が一言
「敗軍の将、兵を語らず」
その翌日、
二人きりになった工場で、父と決めたことがあります。
仕事をすればするほど赤字が出るので、5時に仕事を止めること
でも二人とも
貧乏性のため守れませんでした。
ので赤字は膨らむ一方。

そこで、人生初の就職活動をしてみることにしました。
27歳

面接の後、
「今回はご縁がありませんでした。」の文書と粗品が送られてきました。
学歴も経験も取り柄もないので、やっぱり鋸を作っていくしかないなと悟りました。
人生最初で最後の就活と面接になりました。

金は無い
鋸は売れない
彼女はいない

俺はどうしたらいいのか
教えてくれと両親にくってかかりました。

父は、
「一緒に土方に出るか」
その後、父は原点に戻って
鋸を持って東京の小売店巡りをはじめました。
母は、
「私だって、どうやっていいかわからない」
働いたことのない母は、その後、ただただ金を使わないように使わないように
するだけでした。
私は、イベントに出ることにしました。
吉田祭
植木市があったので枝切り鋸が売れると思ったのです。
露天商の人たちが珍しがって寄ってきただけで、全く売れませんでした。
でも外に出ることで、出店先が増えていきました。
当時の唯一の楽しみは、消防団活動の後の一杯(ただ酒)でした。




PS
弟子入り志願の人に会って・・・

面接をする側のような経験をして思ったこと
この人は、私と気が合って気持ちよく一緒に仕事ができるか
それだけです。

学歴や経験、容姿は重要ではない
ということがこの年になってわかりました。


           (聞き書き)

2015年1月5日 23時41分23秒 (Mon)

波瀾万丈

父の生い立ち

生みの母
大酒飲みの夫に愛想を尽かして
3歳の父を残して離婚。

継母
優しい人でしたが身体が弱く
6歳の父を遺して他界。

2番目の継母
頭が弱く金銭感覚が全くなく
呉服屋に借金ばかりして
父に苦労を掛けました。

戦時中。東京で再婚した母が、疎開で近くの料理屋に身を寄せていました。
親戚の人が父に
「あめやに会いに言っては駄目だぞ」
と言ってきかせました。
でも父は会いに行ったそうです。

後年、酒がはいるとよくその話をしていました。
「親子の名乗りなんかしなければ良かった」とも話していました。
どういうことか聴いていませんが、いつも父の話が始まると、私は悲しくなりました。涙を見せるのが恥ずかしくて席を立ったものです。

祖父(父の父)、2番目の継母、腹違いの弟妹
という家族構成の中で
祖父が48歳で脳梗塞で半身不随の身体になりました。
父が22歳、弟が11歳、妹が6歳の時です。
大黒柱に父がならざるを得なかったのでした。

親戚に借金をして
何とか生活し

高度経済成長が追い風になり
41歳の時に
300坪の土地を購入し
従業員を雇えるほどになったのでした。

父をよく知る人は
「町の苦労人三羽烏」
と言っていました。

その後、
鋸産業の衰退
身内の借金の後始末
町の噂になりました。


そして、今は
徘徊で噂になっています。

波瀾万丈の父の若いころの苦労を知っている私は、
最後まで面倒を見なくてはと
自分に言い聞かせております。

    (聞き書き)

 

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新潟県長岡市在住の鋸職人・東賢一郎
3代目中屋長二郎

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