第80回『プッシャー3』

ストレス社会をどう生きる?

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『プッシャー3』
(I'm the Angel of Death:Pusher 3)
2005年:デンマーク
監督:ニコラス・ウィンディング・レフン


 一作目では、ある若手プッシャー(ヤクの売人)の「破滅」を、続く二作目では、また別の若手プッシャーの「再生」を、それぞれ違った趣向で描いてきた本シリーズだが、その最終作にあたる本作では、ベテラン・プッシャーの「出口のない日常」が、前二作とはまた違った趣向で描かれる。

 今回の主人公は、前二作にも登場した、若手プッシャーたちの元締め的な存在のミロ(ズラッコ・ブリッチ)。彼は長年この裏社会で生きてきたベテランだが、しかしそんな彼とて「大物」と言うには程遠く、つまるところはいくらでも代えの利く歯車の一部に過ぎない。

 若手の売人たちはいつだって彼の足元を見ようとするし、少しでも気を抜けば社会のどん底まで一気に転げ落ちてしまいかねない、という彼の立場自体、実質的には三下の若手プッシャーたちが置かれている状況とそう大差ないのである。むしろ取引の内容(捌くドラッグの量や価格)が大きい分、若手以上に大きなリスクを背負っていると言えるかもしれない。

 そんな彼は今日も朝から多忙だ。ヤクを捌く本業はもちろんのこと、愛する娘の25歳の誕生日パーティーの準備にも奔走し、その合間に「ミイラ取りがミイラになる」がごとく手を出してしまったドラッグを断つために、ヤクの元締めでありながら断酒・断ヤクの誓いを立てる自助グループの集いにも通っている(なんちゅー皮肉や)。ミロはその集いで「ドラッグのない生活」の素晴らしさを語るが(なんちゅー皮肉や)、しかし日頃のストレスは募る一方。

 ヤクの取引では大きなトラブルに見舞われた挙句、自分の子供くらいの年の三下プッシャーたちに完全に「老いぼれ」扱いされ、実の娘は娘で、彼女の誕生日パーティーのために必死になって奔走するミロに対して、感謝をするどころかワガママ言いたい放題。そんな娘の婚約者もまた礼儀知らずのトーシロのプッシャーだったりするからたまらない。

 さらに最悪なことには、忙しいミロの手となり足となるはずの手下たちが、ミロが作った料理にあたって全員ダウン……。ミロは自分の料理に多大なる自信を持っているが、実際その腕はかなり悪い。しかも今回は生焼けを食わせたばっかりに、手下たちが皆、上からゲーゲー、下からピーピー状態になってしまったのだ。

 「どいつもこいつも使えねぇし、生意気な野郎ばっかりだ!!」

 これだけあくせく働きながら、何もかもが上手くいかないことに苛立つミロ。

 「貧乏ヒマなし」と言うが、ミロのように「そこそこの成功」を手に入れてしまった人間も、それはそれでやっぱり忙しいことに変わりはない。今のこの「そこそこリッチ」な生活を維持するためには、これまで以上にあくせく働くしかないというわけである。まるで中小企業の社長のような多忙極まりないストレス生活を送る中で、ただただイライラだけが募ってゆき、そしてとうとう断っていたドラッグにも手を伸ばしてしまう。

 この最悪の状況下で、彼は勢い余って生意気な三下のチンピラ二人を殺してしまう。こりゃあマズイことになった。手下どもは全く使えない野郎ばかりだし、一体全体どうすりゃいいんだ?

 困り果てたミロは、かつて彼の右腕であったラドヴァン(スラッコ・ラボヴィック)に助けを求める。既に裏社会からはきっぱり足を洗い、かねてからの夢であったレストランを営んでいるラドヴァンは、最初はミロの頼みを断ろうとするが、結局は昔のよしみということで、「今回だけ」ミロに手を貸してくれると言う。ラドヴァンは一作目ではミロの右腕として登場するが(その時に確かに「いずれは引退してレストラン経営をしたい」と語っている)、考えてみると、最低最悪な人間しか出てこないこの『プッシャー』シリーズにおいて、唯一彼のみが、自身の本分を全うするタイプの「デキる男」として描かれている。

 どんなに血生臭い状況になっても冷静沈着、常に今すべき最善策を考え、即座にそれを実行に移す。仕事のためには非情な手段も厭わないが、その根っこの部分においては、人に対する思いやりもきちんと持っている男なのだ。事実今回も、堅気になった自分には何の得もない(それどころか完全な面倒事でしかない)ミロの頼みごとに、昔のよしみというだけで手を貸すのである。

 そしてかつては、相手の膝をナイフで「皿が見えるまで」えぐり続けたというその生粋の裏職人気質を、今回久々に披露するラドヴァン。シンプルかつスピーディーな拷問で若手プッシャーの口を割らせ、今回の取引に関するトラブルの原因をつきとめ、さらにはミロが勢い余って殺してしまったチンピラ二人の仏を実に手際よく処理してみせる(この仏の解体に関しては、手を貸すどころかほとんどラドヴァン一人で片付けている)。

 やっていること自体は底なしにえげつない犯罪行為に違いないのだが、しかしながら仁義に厚い「デキる男」という観点から見れば、このラドヴァンほど尊敬に値する人間もいないのではないかと思えてくる(少なくとも本シリーズにおいては)。

 こうして、ラドヴァンの大活躍もあって、どうにかこうにか最悪の一日を乗り切ったミロ。朝方、ボロボロの状態で我が家に帰り着き、妻が死んで以来、男手一つで育ててきた愛娘の淹れてくれたコーヒーを飲みながら、自分の働きで手に入れた夢のマイホームをぼんやりと眺める。

 庭に出れば今はもう使われていないプールが。かつてはここで妻と娘と三人で幸せに水遊びをしていたに違いない。「結局、俺はこの生活を守るために働いているのか」……おそらくそんなことをぼんやりと考えているであろうミロの疲れ切った姿を映しながら、この映画は静かに幕を閉じる。

 前二作では、どちらも若い主人公が「破滅」あるいは最悪な状況からの「再生」する様を激しいタッチで描いていたが、本作においてはまず主人公が若手ではなくベテランであり、しかもその主人公の大きなターニング・ポイントを描くのではなく、そこに描かれるのはあくまで(これからも続いてゆくであろう)「出口のない日常」である。これは本当に意外だった。

 『プッシャー』シリーズは三作ともそれぞれに違った趣向で楽しませてくれるが、その最終作にこういったタイプの題材を持ってくるとは、なかなか先を読ませない監督だなと感心させられた。

 

(2013年6月10日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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