第76回『競輪上人行状記』

神も仏も御意見無用!!

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『競輪上人行状記』
1963年:日本
監督:西村昭五郎



 「しかしだよ、誰の子か分からん種を腹に宿して……」

 「誰の子か分からんって、おめぇ気がつかなかったのか?」

 「えっ?」

 「情けねぇやつだなぁ。それでよく一丁前の教師面していられるな。あの娘の相手は親父だよ」

 「そんなバカな……たとえ義理にも娘なんだぞ」

 「おう、義理だもん、なおさらだよ。本当の娘にだって手ぇ出すやついるんだから」

 「………」

 「貧しいんだなぁ、つまり」

 「いくら貧しいからって、そんなデタラメ許されるもんじゃ……」

 「お前にゃ分からねぇんだよ、本当の貧乏ってもんがな。お前の考えてるようなセンチなもんじゃねぇ。もっとこう肌に突き刺さる痛みだ。こいつが続き過ぎると人間てやつは慢性化しちまって、だんだん抵抗力がなくなってくる。恐いのは、そこまで追い詰められていながら、自分ではそれに気がつかねぇってことなんだ」


 上記は教え子の妊娠に気付いた二人の中学教師による会話。

 片田舎の農道でノロノロと自転車をこぎながら話しているのだが、なんとまぁ恐ろしい内容であることか。映画が始まってわずか15分程度で既にこのヘヴィさ。喜劇としての要素も強いが、同時に見る者のはらわたにズシンと響く一本である。

 以前、『小沢昭一 ~芸能者的こころ~』というムック本を読んだ際に本作のことを知り、ずっと見たい見たいと思っていたのだが、その後しばらくして小沢昭一が亡くなり、池袋の新文芸坐で氏の追悼特集をやった時に初めて本作を見た。

 その時は『大当り百発百中』(1961年)という作品との二本立てで、その『大当り』の方も面白かったのだが、やはり衝撃的だったのは『競輪上人』。先述した中学教師の会話のシーンあたりから本作の作品世界にグイグイ引き込まれ、あとは最後の最後まで圧倒されっ放しだった。

 本作は後に日活ロマンポルノで活躍する西村昭五郎の監督デビュー作で、大西信行という脚本家・劇作家と今村昌平の二人が脚本を担当している。原作は作家・スポーツ評論家にして浄土宗の僧侶でもある寺内大吉の小説『競輪上人随聞記』。私は原作は未読なので、原作の内容がどの程度映画に反映されているのかは分からないが、本作には全体的に今村作品のテイスト、特に『にっぽん昆虫記』(1963年)のような重喜劇のテイストが色濃く表れているように思う。

 小沢昭一演じる主人公の春道(しゅんどう)は、生真面目だがどこか自分の人生に迷っている中学教師。葬式商売で口を糊する「葬式坊主」になるのが嫌で、実家の寺を飛び出して教師になったのだが、後継ぎである兄が死んでしまったことで、一時的に実家へ戻ることに。

 春道の実家は経営難のボロ寺で、一般の葬式と並行して飼い犬の供養と埋葬を請け負いながら、その屍肉を近所の焼き鳥屋に横流しするという何ともバチ当たりな寺である。そんなバチ当たりな貧乏寺ゆえ、近所の人々からは陰で「犬寺」と蔑称されている。この寺の住職である春道の父(加藤 嘉)は、春道がなかなか坊主になる決心をしないので、勝手に春道の辞表を勤め先の学校へ送り、無理やり教師を辞職させてしまう。このことで、もともと良くなかった親子の仲はさらに悪化。

 春道はヤケを起こし、檀家たちから集めた本堂の再建資金に手をつけ、ちょうどハマり始めていた競輪で全てスッてしまう。挙句、かねてより好意を抱いていた兄嫁(南田洋子)を手篭めにしようとするが、あえなく失敗。さらに自暴自棄になる春道。そんな折、春道の父が急逝する。

 本堂の再建資金に手をつけたことを責めなかったばかりか、最後は「お前の好きなようにやれ」という遺言まで残して死んでいった父の寛大さに心を入れ替えた春道は、とうとう出家を決意し、あれほど嫌がっていた実家の寺を継ぐことに。

 もともと生真面目であった春道が後継ぎになったことで、全ては順風満帆に行くかと思われたが、兄嫁に真剣にプロポーズをした春道に、これまた地獄のような真実が待ち受けていた。なんと兄嫁の子は春道の兄の子ではなく、「父の子」だというのである。つまりは、子を産める体ではなかった春道の兄に代わって、父が後継ぎを「仕込む」べく、夜な夜な兄嫁を抱いていたのだ。このことを聞かされた春道は怒り狂い、兄嫁を寺から追い出すと共に、またもやギャンブル生活に逆戻り。そして今まで以上に競輪にのめり込み、とうとう実家の寺を借金のカタに取られてしまう。こうして、堕ちるところまで堕ちた春道は、文字通り全財産をつぎ込んで、最後の大勝負に出るのだった……。

 全体的にかなりドロドロとした人間の暗部と嫌らしい恥部を見せつけるのだが、それをギリギリのラインで笑いに昇華している。まさに重喜劇と呼ぶに相応しい逸品だ。

 もちろんゲラゲラ笑えるような代物ではないのだが、しかしながら、本作におけるズシリと重たいこの笑いは、善も悪も通り越した人間のバイタリティーそのものに対する讃歌であり、また同時に、神や仏の名を騙ってカネ儲けをする人間どもの醜態を、鋭利なリアリズムで描き切る上での程よい緩衝材にもなっている。この手の特殊な業界の利権がらみのネタに、真正面からシリアスに斬り込むのはそれなりの危険を伴うだろうから、ブラックかつ攻撃的であるとはいえ、やはりその緩衝材としての笑いの効能は馬鹿に出来ない。

 しかしまぁ「坊主丸儲け」とはよく言ったものだが、宗教とカネ、あるいは信仰と私欲の関係性をここまでストレートに暴いてみせた映画作品には、そうお目にかかれるものではない。生臭坊主ばかりでなく、「こんだけ暑い天気が続けば仏にゃあ不自由しねぇよ」と言って実に悪そうな笑顔を見せる葬儀屋(加藤 武)もこれまたあくどくてイイ。その葬儀屋と春道が連れだって入り浸るノミ屋が、表向きは不動産屋をやっているという設定もなかなか面白い。

 本作はこの手のウィットに富んだ黒い笑いに満ちているが(春道が行きずりの女(渡辺美佐子)に無理やり心中相手にされて殺されそうになる場面なんかは、そんな黒い笑いの最たるものだろう)、しかしながら、登場人物たちを完全なる悪としては描いていないし、また、冷たく突き放すようなこともしていない。登場人物たちは皆、世俗の汚れた汗や垢にまみれてはいるが、彼らのその図々しいまでのバイタリティーを、人間そのものの生の美しさとして描いているのだ。

 人間社会の底辺で、「神も仏も御意見無用!!」と言わんばかりに、がめつくしぶとく生き抜いている人間たちのその哀しくも滑稽な剥き出しの生きざまを、真正面から(同じ目線の高さから)肯定的に描いているのである。この独特のヒューマニズムに、やはり今村作品と同じ匂いを感じる。

 個人的に最も気に入っているシーンは、最後の大勝負の後に全てに落とし前をつけた春道が、(冒頭の会話にあった)あくどい義父から引き取った元教え子の娘(伊藤アイコ)と二人で、これから当てのない旅に出るという汽車の中で、何とも仲睦まじく駅弁を頬張るシーン。このシーンでの二人の笑顔には、思わずウルッとくるものがある。二人とも世俗の汚れた汗や垢にまみれてはいるが、しかしそれでもへこたれることなく、「今日という日を力強く生き抜いて行こう」という姿勢がスクリーンを通してひしひしと伝わってくる。

 そして最後の最後、全てを吹っ切った春道が、元教え子の娘をパートナーに、地方の競輪場で坊主姿で説法をしながら予想屋をやっている(つまりは「競輪上人」として身を立てている)という、素晴らし過ぎる再出発を見せてこの映画は幕を閉じる。このラストには本当に心が震える。これ以上見事な「転んでもただでは起きない」再出発が他にあろうか。

 「俺たちの体の中には、煩悩というものがこびりついている!! 断ち切ろうと思ったって断ち切れるもんじゃあない!! だから汚い体のまま、汚れた体のまま阿弥陀様におすがりしろ!!」

 なんとまぁアナーキーにして純粋な説法であろうか。

 予想屋としての客呼びの口上が、そのまま人間の業を全肯定する(世に蔓延る自己欺瞞的な戒律や常識に対するアンチテーゼとしての)説法になっているのだ。

 春道のこの説法は、『ポセイドン・アドベンチャー』(1972年)における若き不良牧師(演じるはジーン・ハックマン)の反骨的な説教演説を思い出させる。また、神や仏の名を利用してカネ儲けをする宗教屋の世界を赤裸々に描いた作品としては、『エルマー・ガントリー/魅せられた男』(1960年)と併せてお薦めしたい一本だ。

 人に救いをもたらすのが宗教や信仰心ならば、人を地獄に突き落とすのもまた宗教や信仰心である。何がしかにすがっていなくては生きていけない我々人間の哀しい性を、本作『競輪上人行状記』を介して改めて思い知らされた。

 

(2013年5月11日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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