第62回『大阪最強伝説 喧嘩の花道』

喧嘩バカ一代 ~人生どつきどつかれ~

img_20231228-105819.jpg
『大阪最強伝説 喧嘩の花道』
1996年:日本
監督:三池崇史


 本作は、スポーツ・ジャーナリスト二宮清純によるノンフィクション作品を原作としており、「浪速のロッキー」こと赤井秀和と、日本の総合格闘技の立役者でもあるレスラー前田日明をモデルにした二人の主人公を中心に、やり場のない衝動を喧嘩で爆発させることしか出来ない若者たちの、血と涙と笑いにまみれた青春ドラマが繰り広げられる。

 1970年代、大阪。喧嘩がめっぽう強いということで地元では名の知れた高校生、玉井カズヨシ(矢部亨祐)と浜田タケシ(北村康/現:北村一輝)は、どちらも最強の相手を求め、喧嘩に明け暮れる日々を送っていた。そしてそんな二人がとうとう対決する日がやってくるのだが、カズヨシがタケシの学校に殴り込みをかけると、肝心のタケシはまだ登校しておらず、その話を聞きつけたタケシが今度はカズヨシの実家に駆けつけるのだが、カズヨシの祖母に「カズヨシは死んだ」と嘘をつかれ、簡単にあしらわれてしまう。こうして、最強の男を決める「世紀の対決」はすれ違いのまま終わってしまい、運命のいたずらか、その後も二人はすれ違い続ける。

 そして時は流れて90年代。日本バンタム級チャンピオンになったカズヨシと、プロレス界で格闘王と呼ばれるようになったタケシの異種格闘技戦(完全ノー・ルールのデスマッチ)が実現されることになった。誰もが待ち望んだ(そして誰よりも本人たちが待ち望んだ)因縁の対決が、最高の舞台で行われようとしているのである。果たして喧嘩の女神はどちらに微笑むのか!?

 とまぁ、何ともスケールの大きな喧嘩物語なのだが、本作は一見、痛快無比なドタバタ系ヤンキー映画のようでありながら、その実はかなりシビアな重さを持った人間ドラマでもあるのだ。

 登場人物たちの家庭環境は一様に悪く、親らしい親はあまり出て来ない。本作に登場する不良少年たちは、ダチとつるんでいる時には見せない暗い顔を、皆それぞれに持っているのである。しかしそんな環境下にあっても、どうにかこうにか踏ん張って生きている彼らのバイタリティー、その純粋な美しさというものを、一般的な善悪を超えたところで本作は描いている。

 三池作品には敵・味方の区別はあっても、はっきりした善悪の境界線というものは基本的にはない。弱肉強食然とした残酷な血が流れはするものの、その残酷で過酷な現実の中で、必死にあがきながら生きようとする人間たちの優しさや弱さといったものを、三池作品は至極実直に描いている。

 サム・ペキンパーの映画なんかもまさにそうだが、暴力的な表現がやたらと多いものの、しかしながら人間性を完全に突き放すということはしていないのである。スクリーンは常に血まみれであっても、そこには必ず人間臭い温かみがある。

 もちろん暴力そのものに良いことなんて一つもないが、しかし人間が生きていく上で、この暴力というものを完全に捨て去ることが出来ないのは紛れもない事実で、その愚かな人間を悪として裁くのではなく、そのまま愚かな存在として受け入れる(つまりは善悪の向こう側で表現する)ことが、ペキンパー映画や三池映画にとっての嘘偽りないヒューマニズムと言えるのではなかろうか。

 本作は、全体的にコメディー要素の強い痛快無比なスポ根的青春グラフィティーと言って差し支えないのだが、しかしそこからもう一歩踏み込んだ、登場人物たちの心で泣いているシビアな部分もしっかりと描いているので、単純にスッキリ爽快で終わることなく、見る者の心根に独特の引っ掛かりを残す作品となっている。

 本作で特に印象深かったのは、とことん憎んでいた自分の父親が死に、その父親の骨を、幼い妹とたった二人きりで拾うタケシが、「なんやよう分からんけどムシャクシャするわ」と言って骨拾いの箸を投げ捨て、さっさと火葬場を後にしてしまうシーン。憎んでいた父親に対する哀しみとも怒りとも虚しさともつかない「なんやよう分からん」タケシの胸中が、引きで撮られた画の中に見事に集約された名シーンだ。

 状況は違えど、本作に登場する若者たちは皆それぞれに、この「なんやよう分からんムシャクシャした」わだかまりのようなものを胸中にかかえている。そしてその胸中のわだかまりを、ダチの前では簡単に見せたりしないあたりが、本作の青春映画としてのリアリティーと言えるだろうか。

 

(2013年1月21日)

プロフィール

プロフィール画像
ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
QRコード
携帯用QRコード
アクセス数
ページビュー数