第61回『ブルース・ハープ』

男は黙って片想い

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『ブルース・ハープ』
1998年:日本
監督:三池崇史

 

 端的に言うと、本作は男×男で寅さん的な「叶わぬ恋」を描いた作品だ。そしてそこにドンパチ、裏切り、青春、陰謀、破滅、ロックンロール、親子愛、兄弟仁義、夢、希望、挫折、エトセトラ、エトセトラ……といった、実に映画的なベタ要素を善悪の彼岸からブチ込んでくる。三池作品には便宜的な「敵」「味方」の違いはあれど、「善人」「悪人」のはっきりした区別というものがない。この独自の「無差別」感覚が、いわば三池作品独自のヒューマニズムと言える。

 池内博之演じるハーフの青年が、ひょんなことから田辺誠一演じる同年輩の若いヤクザを助けたことから、二人の奇妙な友情が始まる。ハーフの青年は特に目的もなく生きているが、幼い頃から吹いているブルース・ハープの腕が音楽プロデューサーの目にとまり、大きなチャンスがめぐってくる。一方、若いヤクザは極道の世界で登りつめるためなら手段を選ばず、今は自分の親分の暗殺を計画し、その後釜を己のものにすべく立ち回っている。

 全く別々の世界で、全く別々のチャンスをつかもうとしている二人の若者。彼らは別の世界に生きながらも、互いの生きざまを認め合っている。しかしそんな二人の運命の歯車が、仮借ない現実の中で徐々に狂ってゆくことになる。

 ヤクザ映画としても青春映画としてもベタベタな内容なのだが、しかし本作のミソは、田辺誠一演じるヤクザが同性愛者で、しかも池内博之演じるハーフの青年に片想いしているという点。ハーフの青年は全くのノン気で、ヤクザが自分に恋心を抱いているなんてことには全く気付いていない(おまけに青年には、彼のことを心から理解してくれる女の恋人がいる)。

 本作における同性愛者のヤクザ者の、全く吐露することの出来ない恋情の哀しさは、まさに寅さん的な岡惚れの哀しさだ。マドンナが異性ではないというだけの話で、根っこにある「男はつらいよ」という心情は同じものである。

 映画の中盤、ヤクザがハーフの青年に向かって、冗談っぽく「俺のこと好きか?」と訊くシーンがある。一瞬戸惑ったハーフの青年は、「え? ……あ、あぁ、好きだよ」と答えるが、これはもちろん「Love」ではなく男どうしの友情としての「Like」を言っているのだ。そしてそのハーフの青年の言葉に対して、ヤクザが誰にも聞こえないような小さな声で「そうじゃねぇんだよ……」とぼそっとつぶやく。これはなかなかの名シーンだ。

 また、三池映画には多いが、本作も映像と音楽の絡ませ方が素晴らしい。PV的な映像編集の巧みさもさることながら、時折ぽろっと出てくる登場人物たちの儚げな姿に、これまたどことなく儚げな音楽を絡ませたりして、それはストーリーの本筋にはあまり関係のないシーンである場合も少なくないが、このセリフのない一見無意味にも思えるシーンが、説明的なセリフ以上に、その登場人物たちの語られることのない背景や心情を間接的に巧く表現し得ている。

 本作のオープニングで、まだ幼い頃の主人公が、母親からの愛を得られない淋しさを紛らわすために、薄暗い路地裏で独りしゃがみこんでブルース・ハープを吹くシーンなどは、セリフでは語られることのない主人公の物悲しい心情が、スクリーンを通してひしひしと伝わってくる。

 三池映画というと、どうしても派手な暴力やグロのイメージが強いが、一つひとつのシーンには、力強い中にもかなり繊細な「人間の弱さ」が描かれている。それゆえに、単なる色モノ、ゲテモノに堕ちることなく、世界の映画ファンの心を魅了し続けているに違いない。本作などは、むしろ三池ファンでない人にこそ見てもらいたい作品である。

 

(2013年1月10日)

プロフィール

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わがままコブラ
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1984年5月2日
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