第51回『ゴーン・ベイビー・ゴーン』

善意と善意の殺し合い

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『ゴーン・ベイビー・ゴーン』
(Gone Baby Gone)
2007年:アメリカ
監督:ベン・アフレック


 ベン・アフレックの監督デビュー作。監督2作目の『ザ・タウン』(2010年)の出来の良さにもずいぶん驚かされたが、監督デビュー作にあたる本作も、これまたすこぶる秀逸な作品でさらに驚かされた。やはり映画監督としての手腕はかなりのレベルだ。

 技術的な面での手堅さや確実さもさることながら、見る者に作り手側の心がしっかり伝わるような映画作りを心掛けている印象が強く、地味な作品ながらも、わずか監督1作目にして自身のヒューマニスティックなカラーがはっきりと表れている。

 生来的に持っているクセやアクや感情的な迸りが、独自のカラーとして無意識的に出てしまうのはよくあることだが、自身の考えや想いといったようなものを、観客に対して意識的に分かりやすく、そして何より押し付けがましく(説教臭く)ならないように提示していくことは、実際かなり困難な作業だろう。ベン・アフレックが監督として素晴らしいのは、こういった困難な作業を手を抜かずに丁寧に行っているところだ。

 ベン・アフレック自身、本作についてのインタビューで、「監督として自分の思いを表現することが出来た。それを言葉で簡潔に表現できれば映画は不要だ」というようなことを語っているから、やはり自身の映画監督としてのスタンスをよく心得ているのだと思う。

 舞台は『ザ・タウン』と同じくボストン(監督の出身地なので、よほど愛着があるのだろう)。主人公のパトリック(演じるは監督の実弟ケイシー・アフレック)はこの街で生まれ育ち、今はその地元に密着した人脈の広さを活かして、公私に渡るパートナーであるアンジー(ミシェル・モナハン)と共に探偵業を営んでいる。

 ある日、4歳の少女アマンダが誘拐される事件が発生し、少女の伯父夫婦から捜索への協力を求められるパトリック。事件発生からすでに3日が経過し、マスコミの報道も過熱している。誘拐事件は初めてなので、最初は依頼を断ろうとするパトリックとアンジーだったが、結局はこの依頼を受けることに。そして地元の刑事2人と協力して捜査へ乗り出す。

 まずはアマンダの母ヘリーン(エイミー・ライアン)に話を訊こうとするが、ヘリーンはテレビカメラの前でこそ立派な「悲劇の母」を演じているものの、フタを開けてみれば酒好きクスリ好き男好きの典型的なアバズレ女。娘への育児放棄ともとれる行動を過去に何度も行っており、今回も、実の娘が誘拐されたというのに、警察にもパトリックたちにも非協力的で、誰がどう見ても「母親失格」と言わざるを得ない。

 そんな状況下で、パトリックたちは麻薬がらみの筋から、ある1人の容疑者にたどり着くが、真相を探るうちに、事件は思いもよらぬ方向へ二転三転し、パトリックたちはこの街の醜い暗部に、延いてはアメリカ社会全体に巣食う歪んだ「病巣」に直面することになる。

 リアリズム重視のハードボイルド探偵ものだが、原作者のデニス・ルヘイン(ベン・アフレックと同じボストン出身)は、カウンセラーとして幼児虐待の現状に向き合っていた時期があり、その時の経験が大きく原作に反映されているようで、「自身の生活環境を選択できない幼い子供たちの幸せを、大人たちは一体どのようにして守っていくべきなのか、あるいはまた、どのようにしてその責任を負っていくべきなのか」というシビアな問題意識が、映画の方の通奏低音にもなっている。

 主人公のパトリックは若い割には案外と古風な道徳観・倫理観の持ち主で、ごくごく一般的な「正しさ」というものを基準に生きているように見える。しかし浮世の仮借ない現実の下では、その「正しさ」が本当に人を救うことにつながるのか、という煩悶に絶えず彼自身を追い込むことになる。

 つまり、彼自身、己の信ずる「正しさ」について、信じきることが出来ないのだ。だから、警察にも犯罪者にもならずに(なれずに)、探偵という実に曖昧な(善を肯定しきれず、同時にまた悪を否定しきれない)ポジションで生きているのではなかろうか。彼は警察にも犯罪者にも友人が多い。そしてそれゆえに彼の探偵業も成り立っているのだ(パトリックにも「ヤンチャな過去」があったということを、麻薬ディーラーである友人との会話から窺い知ることが出来る)。

 そういう意味では、本作には本質的・根源的な悪と呼べるような立ち位置の人間は出て来ない(もちろん、サスペンス的な展開を盛り上げるための悪役は出てくるが)。

 「正しさ」と「正しさ」の相克が生まれた時に、そのどちらの「正しさ」に目をつぶるのか、という駆け引きから、無惨にも人が殺されてゆくといった感がある。はなから「殺してやろう」という意志の下に行われる殺人は、本作には基本的に出て来ないように思われる。

 ややネタバレになるが、最後の最後、パトリックは己の「正しさ」を押し通したことにより、今まで大切にしてきた多くのものを失うことになる(原作の日本語版では、多重的な意味を持つ原題『ゴーン・ベイビー・ゴーン』を『愛しき者はすべて去りゆく』と訳している)。

 そして彼のその「正しさ」によって、一見救われたかのように思える人たちもいるのだが、しかしながらその人たちにとって、それが本当の「救い」であったかどうかは、結局のところ誰にも分からない。パトリック自身、自分の行いが本当に正しかったのか、ということについては、おそらく死ぬまで答えを導き出すことは出来ないだろう。

 かように、どんよりと重たい余韻を残す作品であるが、この「余韻の残し方」はすこぶる上手い。もちろんバッド・エンドかハッピー・エンドかなんていう簡単な話ではなく、アメリカ社会に巣食う「病巣」のシビアな惨状を描きながらも、ベン・アフレック独特のヒューマニスティックなやわらかい眼差しが、作品全体を包み込んでいる。

 主人公パトリックの前には、「絶望的」な現実が果てしなく拡がっているが、しかしそれでも彼は煩悶をくり返しながら、己の信ずる「正しさ」の下に生きていくのではなかろうか。彼の信ずる「正しさ」は、そのまま彼にとっての足枷である。そしてその足枷を引きずったまま、彼は今後も生きてゆかねばならないのだ。

 『ザ・タウン』のラストに若干の「甘さ」が残るように思えたのは、おそらくこの1作目のラストとはまた少し違った方向へ、作品のベクトルを向けたかったのではなかろうか。

 どことなく『スリーパーズ』(1996年)や『アメリカン・ヒストリーX』(1998年)と似たような印象を受けるが、『ザ・タウン』同様、シビアな現実問題に向き合いながらも、しっかりとした娯楽映画として仕上がっているので、そういう意味ではあまり社会派というレッテルを貼らなくとも楽しめる作品だと思う。

 

(2012年8月26日)

プロフィール

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わがままコブラ
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1984年5月2日
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