第47回『ワイルドバンチ』

時代遅れの死に花咲かすぜ!!


『ワイルドバンチ』
(The Wild Bunch)
1969年:アメリカ
監督:サム・ペキンパー


 老いぼれた悪党たちの「滅びの美学」を、銃弾の嵐と血の豪雨で彩ったウルトラ・バイオレンス人生劇場『ワイルドバンチ』。何を隠そう、私の絶対的オールタイムベスト作品である。

 二十世紀初頭、今やすっかり時代遅れとなった昔かたぎの悪党パイク(ウィリアム・ホールデン)率いるアウトロー集団が、引退前の「最後の大仕事」に選んだのは鉄道会社の事務所襲撃。狙うは輸送中の「銀」。もはやこのような荒々しい仕事が、今の時代にそぐわないことは分かっている。だから最後に一発大きく当てて、後は静かな余生を送りたい。そんな儚き夢を実現するため、老いぼれた悪党たちはさっそく仕事に取り掛かる。

 大胆にも白昼堂々、鉄道会社の事務所に押し入り、手慣れたチームワークで首尾よく「ブツ」を手に入れるパイクたち。あとはこの場からおさらばするだけだ。上手いこと逃げ切れば夢の隠居生活が待っている。ところが、向かいの建物の屋上には鉄道会社が雇った賞金稼ぎたち(無罪放免を餌に集められた凶悪な囚人ばかり)が、銃を手に手に待ち構えていた。

 しかもこの凶悪な賞金稼ぎの集団を率いるのは、かつてパイクの盟友だったソーントン(ロバート・ライアン)。彼はその昔、パイクと共に行動していた時に一人逃げ遅れて追手に捕まり、その過酷な刑務所暮らしから抜け出すために、今は泣く泣く鉄道会社の手先となっているのだ。かつての盟友とあって、ソーントンはパイクの考えていることを先読みできる唯一の人物。パイク率いる一味の討伐にはもってこいのハンターというわけである。

 かつての仲間を討ち取れば晴れて自由の身だが、ソーントンはパイクのことを憎んではおらず、できればまたパイクと行動を共にしたいと思っているような節さえある。しかしパイクを殺(と)らにゃ死ぬまで過酷なムショ暮らしが待っている。何とも酷な「法と人情の板挟み」である。

 強盗団と賞金稼ぎたちの一触即発の緊張状態が続く中、とうとう火蓋が切って落とされ、強盗団も賞金稼ぎたちも互いに盲滅法撃ちまくる。飛び散る血しぶき、砕け散る弾丸。さながら戦争並みの大銃撃戦が繰り広げられ、その場に居合わせた一般市民にも大量の銃弾が雨あられのごとく降り注ぐ。悲鳴と怒号、銃声が入り乱れ、昼下がりの町はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。

 激しい銃撃戦自体、アメリカ映画ではことさら珍しいものでもないが、しかし一般市民が(老若男女関係なく)巻き添えになる惨状をここまで直球に描いた作品は、当時はもちろんのこと、今の時代でさえ、ほとんどお目にかかれないのではなかろうか(例外は戦争映画くらいのものだろう)。

 さすがに子供が撃ち殺されるシーンはないものの、何の罪もない婦人や老人たちが、(時には強盗団の盾にされながら)次から次へと撃ち殺されてゆく様は何度見ても強烈だ。オープニングからいきなりこのド派手な血祭り騒ぎである。平凡な昼下がりの町は一瞬にして死屍累々の地獄と化す。

 どうにかこのピンチを切り抜けたパイクたちだったが、しかしながら生き残ったのはパイクを含め、たったの六人。ベテランのダッチ(アーネスト・ボーグナイン)、血の気ばかり多いテクター(ベン・ジョンソン)とライル(ウォーレン・オーツ)のゴーチ兄弟、メキシコ人のエンジェル(ジェイミー・サンチェス)、そして馬の見張りで襲撃の現場には居合わせなかった最古参のサイクス(エドモンド・オブライエン)。

 しかも多くの犠牲を払ってまで手に入れた「ブツ」の袋を開けてみれば、そこにはなんと「銀」の代わりにただのワッシャーがわんさと詰め込まれているではないか。「銀」の輸送という情報は完全に鉄道側の罠だったのだ。「最後の大仕事」のはずがこのありさま。笑うに笑えぬ骨折り損の草臥れ儲け。これは一体全体どうしたことか。これから一体どうすればいいのか……。

 しかし捨てる神あれば拾う神ありで、パイクたちは逃亡先のメキシコで、反政府活動の急先鋒パンチョ・ビラとの闘いに苦戦している政府軍のマパッチ将軍(エミリオ・フェルナンデス)から、アメリカの軍用列車を襲って、その積み荷である大量の武器を奪ってほしいとの依頼を受ける。マパッチはパンチョ・ビラとの闘いのために、どうしても大量の武器が必要なのだ。

 これは渡りに船だと、パイクたちはこの大掛かりな列車強盗を、今度こそ本当の「最後の大仕事」として決行することに決める。しかし自分の生まれ育った村の人々が実は反政府側であるエンジェルだけが、どうしてもこの仕事には乗れないと言い張るが、奪った武器の一部をエンジェルの村に渡すことを条件に、どうにかこうにか一致団結。そしていつものチームワークで見事にこの大掛かりな列車強盗を成功させ、先回りしていたソーントンの追撃からも何とか逃げ延びる。

 こうして、全ては成功したかに思えたが、反政府側であるエンジェルの村へ武器の一部を渡したことをマパッチに知られ、そのことでエンジェルは捉えられ、オモチャのようになぶりものにされてしまう。エンジェルを助けようにも相手は軍隊。たかが数人のアウトローに勝ち目はない。

 しかし仲間がなぶりものにされているのを、このまま指をくわえて黙って見ていられようか。老いぼれた悪党にも、老いぼれた悪党なりの矜持というものがある。

 「Let's go/行くぞ」

 「Why not?/もちろんだ」

 覚悟を決めた男たちに余分な言葉は必要ない。

 パイクたちはたった四人でマパッチ将軍率いる軍隊相手に壮絶な殴り込みをかける。このラストはオープニングの血みどろ祭りをはるかに上回る大銃撃戦が展開される。ここには善悪もなけりゃ慈悲もない。あるのはただただ愚直な男の矜持のみ。四人の老いぼれた悪党が、数百人の軍隊相手に、これでもか、これでもか、とひたすら弾倉の中身をぶちまける。

 女子供老人さえも区別なく、人間という人間が鈴生りになって撃ち殺されてゆく狂気の殺戮大パノラマ。ただただ愚直な男の矜持が、銃弾となって激しく飛び交い、血の豪雨を休みなく降らせ続ける。映画史上、最も壮絶で最も激しい銃撃戦。最も残虐で最も美しい大殺戮。

 本当にまぁここまで老若男女区別なく大量に殺されまくる映画もないと思うが、しかしまた同時に、ここまで老若男女(延いては善も悪も)区別なく美しく描かれている映画もない。

 そういう意味で、ペキンパー作品は「無差別的」と言えるほどのヒューマニズムに満ちている、と言えるのではなかろうか。暴力表現に満ちてはいるが、しかし決して人間そのものを憎悪しているわけではない。人間を生かすも殺すも真正面から実直に描いている、というだけのことだ。

 『駅馬車』(1939年)を頂点とする正統派西部劇に引導を渡した、まさに「最後の西部劇」と呼ぶに相応しい一本。滅びゆく西部の男たちの悲哀と矜持を血みどろのバイオレンスで彩った、究極の「男の散り際」映画である。

 

(2012年8月7日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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