第45回『オアシス』(2002年)

泥沼のオアシス


『オアシス』
(오아시스)
2002年:韓国
監督:イ・チャンドン


 泥沼の底でもがき苦しみながら生きる男と女の魂の交感を、抜き身の刃を突き立てるような鋭利さと、カーテンの隙間からそっと差し込む淡い陽光のような優しさで描き切った純愛ドラマ。

 主人公のジョンドゥ(ソル・ギョング)は、暴行、強姦未遂、轢き逃げの前科三犯。最近、轢き逃げでの刑期を終え、娑婆に戻って来た。

 兄の紹介で出前持ちの仕事に就くが、終始落ち着きがなく集中力もない彼は、簡単な仕事もロクに出来ず、おまけに社会的な責任感も欠落しているので、周りの人間に迷惑ばかりかけている(特に劇中では触れられていないが、ジョンドゥには軽度の知的障害があるように見える)。家族にも疎んぜられ、一般社会に自分の居所を見つけられないでいるジョンドゥ。

 ある日、彼は何を思ったか、彼が服役するきっかけとなった轢き逃げ死亡事故の被害者の遺族の元を訪れ、お詫びの品を渡そうとするが、被害者の息子に「今さら何をしに来たんだ!」と追い返される。当然と言えば当然の反応だ。仕方なく来た道を戻るジョンドゥだったが、彼は先ほど目にした被害者家族の娘コンジュ(ムン・ソリ)のことが気になっていた。

 コンジュは重度の脳性麻痺で、一人で出歩くことはおろか、自炊をして生活することもままならない。コンジュの兄夫婦はそんな彼女の名義で障害者用の瀟洒なマンションを借り、悠々自適な新婚生活を送っている。兄夫婦の「お荷物」であるコンジュは古いアパートに一人取り残され、ほとんど社会との接触もなく、座敷牢のような薄暗い部屋で孤独な毎日を送っている。兄夫婦は時折顔を見せるだけで、あとは古いアパートの隣人夫婦にカネを渡し、コンジュの面倒を見てもらっている。

 ある日、ジョンドゥは一人きりでいるコンジュの元を訪れる。頭のおかしい犯罪者にしか見えないジョンドゥに怯えるコンジュ。ジョンドゥはコンジュに「純粋に異性として気に入った」ということを伝え、ムラムラきたのか、ほとんど強姦まがいの蛮行に及ぶ。あまりの恐ろしさに失神するコンジュ。焦ったジョンドゥはコンジュを置き去りにしてその場から逃げ去る……。何とも酷いありさまだが、しかしこれがこの主人公二人の恋愛劇の発端となる。

 その後、自身の蛮行を素直に詫びたジョンドゥは頻繁にコンジュの元を訪れ、自分一人では歩くことも出来ないコンジュを街に連れ出し、二人で食事やドライブを楽しむ。最初こそ酷い仕打ちを受けはしたが、コンジュは重度の障害がある自分のことを一人の女として、延いては一人の人間として見てくれるジョンドゥに次第に惹かれてゆく。

 傍から見れば異端の二人だが、二人の世界においてはジョンドゥもコンジュも何変わりない、ごくごく当たり前の成人の男と女なのである。

 しかし浮世の仮借ない現実は、二人の幸せをそっと見守っていてくれるほど慈悲深くはなかった。冷遇的な現実社会を尻目に、完全なる二人の世界を築き上げたジョンドゥとコンジュだったが、コンジュがジョンドゥを一人の男として迎え入れることを決心した時、浮世の仮借ない現実が、この相思相愛の二人を無情にも引き裂いてしまうこととなる。

 社会的な言葉(一般にはそれを「常識」と呼ぶことも多い)を有しないこの主人公たちを理解出来る第三者は、結局、最後まで現れない。本作においては、この主人公二人の気持ちや考えは本人たちにしか通じない。それを客観的に説明したりするような狂言回しも出てこない。

 本作が描いているのは、「差別はいけない」だとか「皆で助け合おう」だとかいったような、表層的なヒューマニズムの押し売りではない。ジョンドゥやコンジュのような、ある種の社会的異端である人間を絶対的に受け付けない社会的意識というものが、いつの時代にも必ず存在し、そしてそういった表社会から隔絶された人間にとって、果たして愛は本当の救いになり得るのか? というような問題意識で、監督のイ・チャンドンはこの物語を紡いでいるのではなかろうか。

 今の時代、障害を持った人間を描くとなると、どうしたって腫れ物に触るような描き方になってしまうことが多い。この障害という言葉自体、差別的な響きに聞こえてしまわないかどうか、神経をすり減らしながら口にしなければならないような気がしてしまう。

 障害を持った人間にだって色々なキャラがあって当たり前なんだ、というごく当然なこの事実を直球に描くことが、どうしたって躊躇われてしまうような社会的意識が重く圧し掛かってくる。

 穏やかで明るい性格の人間もいれば、根性のひん曲った嫌味な人間だっている。スマートな人間がいれば、スケベ根性丸出しな人間もいる。慈悲深い人間もいれば、人を平気で殺す人間だっている。馬鹿正直な人間がいれば、何かと小狡い
人間だっている。そういった実に当たり前な人間の描き方が、健常者(この言葉は好きになれぬが)の世界においては許されるが、それがひとたび障害者という枠にはめられた人間たちの話になってくると、急にタブーの匂いが付きまとうようになる。このような社会的意識がなくならない限り、本作にもタブーの匂いが付きまとい続けるだろう。

 しかし21世紀のこのご時世に、タブーなんてものをポーーーンと軽く蹴りあげてしまうような力強さが、現代韓国映画には確かに息衝いている。人間は人間的であるからこそ美しいのだし、また同時に人間的であるがゆえに醜いのである。何を善とし何を悪とするのかではなく、表面的な社会常識や一般論をかなぐり捨てた領域でも懸命に生きている人間がいる、ということを真摯に描いている本作は、人間ドラマというものにおける一つの指標たるべき存在だと言えよう。

 

(2012年7月21日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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