第43回『ブレードランナー』

レプリカントに学ぶ「太く短い人生」


『ブレードランナー』
(Blade Runner)
1982年:アメリカ
監督:リドリー・スコット


 この映画自体、さほどややこしいものではないと思うが、しかし何だかややこしい印象が付いて回るのは、やはりいくつかのバージョン違いが存在するせいだろう。

 私は無精者なので、全てのバージョンをじっくり見比べるなんてなことは、とてもじゃないが出来そうにない。本作には思い入れの強いコアなファンの方も多いと思うので、私のような門外漢があれこれ書くのは恐縮至極なのだが、とりあえずは付け焼刃の知識の範囲内で書けることを。

 今現在(2012年6月現在)、廉価版DVDなどで一般的に鑑賞出来るバージョンは主に4種。

 ①『アメリカ劇場公開版』(1982年)
 ②『インターナショナル・バージョン(完全版)』(1982年)
 ③『ディレクターズ・カット(最終版)』(1992年)
 ④『ファイナル・カット』(2007年)

 現行版のDVDでは、①~③は『ブレードランナー/クロニクル』(1枚組)、④は『ブレードランナー/ファイナル・カット』(1枚組)という廉価版でそれぞれ鑑賞可。

 もう一種、劇場公開前のリサーチ試写に用いられた『粗編集版(ワークプリント版)』(1982年)もあるが、これは25周年記念の5枚組BOXに収録されている。


 



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『ブレードランナー/クロニクル』(1枚組)

 ……本編3バージョンを収録……

 ・『アメリカ劇場公開版』(1982年)
 ・『インターナショナル・バージョン(完全版)』(1982年)
 ・『ディレクターズ・カット(最終版)』(1992年)

 



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『ブレードランナー/ファイナル・カット』(1枚組)

 ・『ファイナル・カット』(2007年)のみ収録

 



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『製作25周年記念 アルティメット・コレクターズ・エディション』(5枚組)

 ……本編5バージョン + メイキング他を収録……

 ・『粗編集版(ワークプリント版)』(1982年)
 ・『アメリカ劇場公開版』(1982年)
 ・『インターナショナル・バージョン(完全版)』(1982年)
 ・『ディレクターズ・カット(最終版)』(1992年)
 ・『ファイナル・カット』(2007年)
 ・『デンジャラス・デイズ:メイキング・オブ・ブレードランナー』(2007年)
   他メイキング映像、インタビュー音源など

 




 まずは1982年の①『アメリカ劇場公開版』だが、これは公開前に『粗編集版(ワークプリント版)』によるリサーチ試写を行ったところ、内容が「暗い」「分かりづらい」など観客の反応があまり良くなかったことから、「一般受け」するように編集し直されて(主人公の説明的なモノローグと、ハッピーエンドなエピローグを追加して)公開されたものらしく、監督が本来意図していたものとはずいぶん違った仕上がりになってしまった(そうせざるを得なかった)ようである。

 これを一応の「オリジナル」と呼べなくもないが、しかしながら監督の考えていた「オリジナル」とはかなり異なった内容になってしまったのは確かだ。

 この最初の劇場公開版は、アメリカ国外で公開される際に、それまでカットされていた残酷シーンなどを復活させた②『インターナショナル・バージョン(完全版)』となった。

 そして1992年には監督自身が本腰を入れて再編集した③『ディレクターズ・カット(最終版)』が作られ、2007年には最新のデジタル技術を駆使して、細部に渡り修正・補修が施され、さらには不自然なシーンを削除すると同時に、『粗編集版(ワークプリント版)』や『ディレクターズ・カット(最終版)』でのみ見られたシーンなどを復活させた、④『ファイナル・カット』が作られた。

 監督としては、この『ファイナル・カット』こそが真の「完成形」ということになるのだろうが、私はどうもオリジナルにやたらと手を入れ過ぎるのはいかがなものかと思ってしまうので、『ディレクターズ・カット(最終版)』あたりがやはり妥当かなぁと考えている。

 確かに、この『ディレクターズ・カット(最終版)』の時点でも、技術不足による粗や編集面における矛盾点、明らかな単純ミスなどが目立つが、しかしそれはそれでご愛嬌というか、そういうオリジナルな短所もまた味わいだと思えばよいのではなかろうか(あくまで好みの問題だが)。

 というわけで、特にこれといって強いこだわりは無いのだが(というか全バージョンを見ているわけではないので、何も偉そうなことは言えないのだが)、今回はとりあえず『ディレクターズ・カット(最終版)』を見ての私的な感想ということで悪しからず。


 


 

 ※本文を書いた後日に、『ファイナル・カット』、次いで『粗編集版(ワークプリント版)』を鑑賞し、その骨子が『ディレクターズ・カット(最終版)』とほとんど同じだということが分かった。

 つまり、監督が本来意図していた内容は『粗編集版(ワークプリント版)』の時点で既に完成されており、『ディレクターズ・カット(最終版)』と『ファイナル・カット』においても、その本来意図していた内容は大きく変更・手直しはされていない。あくまで映像や音声における技術的な問題や、プロット上の小さな矛盾の「修正・補修」が為されたという解釈で間違いないように思う。

 『ファイナル・カット』と『粗編集版(ワークプリント版)』に関する細かな感想は、それぞれ追記①・追記②として文末に載せたので、興味のある方はそちらをご参照下さい。
 

 




 物語の舞台は荒廃した未来都市、ロサンゼルス。陰鬱な高層ビルが林立し、酸性雨が降りしきるディストピアの万華鏡と化した街には、洋の東西の垣根を越えた、無国籍でアナーキーな空気が充満している。高層ビルの巨大ヴィジョンには「強力わかもと」のコマーシャル映像が流され、サイバーパンクな格好をした街の住人たちが、街角の屋台で「うどん」や「すし」を食べている。

 人種も言語も資本もごちゃ混ぜ。まさに二十世紀都市文明の残骸で出来上がったような、浪費社会の掃き溜めである。

 この混沌とした頽廃都市に暮らす主人公デッカード(ハリソン・フォード)は、警察の特捜必殺仕事人「ブレードランナー」を長年務めてきた。地球外植民地での重労働用に作られた人造人間「レプリカント」が、人間に反乱を起こして植民地を脱走し、地球へと侵入してきた時に、その侵入者たちを見つけ出して抹殺するのが彼の仕事だ。

 人造人間といっても、最新のバイオテクノロジーによって生み出された彼らレプリカントを本物の人間と見分けることは容易ではなく、しかも彼らは人間と同じように「感情」を持つことが出来る。つまりブレードランナーの仕事は「人間狩り」そのものなのだ。

 長年に渡り、この血生臭い仕事に従事してきたデッカードの心はすっかり底冷えし、彼はこの頽廃都市の陰鬱さにシンクロしたような孤独な生活を送っている。

 そしてそんなデッカードに、今回またもやレプリ抹殺指令が下る。

 「嫌だね、俺はもうブレードランナーは辞めたんだ」とごねるデッカードだったが、結局は上司の命(というよりは国家権力)に逆らえず、嫌々ながらこの仕事を引き受けることに。

 今回抹殺すべき相手は「ネクサス6型」と呼ばれる最新型のレプリカント4名。彼らは宇宙船を乗っ取り、乗組員全員を殺害。そして地球へと侵入したのだ。「ネクサス6型」は身体能力に秀で、彼らの開発者である天才、タイレル博士に匹敵するほどの明晰な頭脳を持ち合わせている。しかもリーダー格のレプリカント、ロイ・バティー(ルトガー・ハウアー)は「戦闘用」ときている。この手強い相手を始末出来るのは、ベテランのデッカードしかいないというわけだ。

 嫌々ながらもデッカードは標的のレプリカントを一人また一人と仕留めてゆく。ネクサス6型は男型も女型も力が強く、どの相手にも肉弾戦では苦戦を強いられ簡単に殴り倒されてしまうデッカードだが、彼のベテラン・ブレードランナーとしての本当の強みは、何よりもその「非情さ」にある。

 上司から「ワンマン・スローターハウス(歩く屠殺場)」と呼ばれるデッカードは、自身が従事する仕事にうんざりしつつも、狙った獲物は容赦なく撃ち殺す。相手が「男」であろうが「女」であろうが、それがレプリカントであれば何のためらいもなく抹殺するのだ。

 映画を見る限りでは、デッカードが何かレプリカントに対する個人的な恨みを抱いているようには見えないし、まして彼が「使命感」のようなものを持って仕事に臨んでいるとは到底思えない(事実、彼はいつも嫌々仕事をこなしている)。

 私の『ブレラン』初体験は小学生の頃で、たしか深夜のテレビ放送で見たのだと思うが、今でも鮮明に憶えているのは、デッカードが丸腰で逃げる女レプリカントを背後から撃ち殺すあの何ともショッキングなシーンだ。当時は「レプリカント」が何なのかもよく分からずに見ていたので、一生懸命逃げる裸同然の女の背中に、刑事らしき男が何発もの銃弾をブチ込むこのシーンを見た時は、何だかずいぶん厭ぁ~なものを見せられてしまったなぁ、と思った記憶がある。

 この「初体験」はよほど私の心に食い込んだのか、私にとって『ブレラン』と言えば、今もってこの「丸腰の女銃殺シーン」が真っ先に思い浮かぶ。

 血まみれで横たわる女レプリカントの死体を、デッカードはうんざりした表情で見下ろす。おそらく彼はレプリカントを狩る度に、重たい自己嫌悪に苛まれるのだろう。こんなことを長年続けている彼の表情からは、人間らしさというものがあまり感じられない。

 この映画を見ていていちばん面白いと思うのは、デッカードをはじめとする人間たちは皆どこか「非人間的」であり、生きることに執着しているようには見えない(つまりは惰性で生きているようにしか見えない)のだが、対するレプリカントたちは、実際の人間たち以上に人間らしくありたいと願っているように見えるところだ。この映画においては、仲間の死を深く悲しみ、同時に敵に対する怒りをあらわにし、そして何より生きることに執着し、生きることの意味を追求しようとしているのは、常に人間たちではなくレプリカントたちの方なのである。

 「デッカードは実はレプリカントである」という説を強く主張する本作のファンは多いようで、実際、監督のリドリー・スコットもこの説を推しているようだが(主演のハリソン・フォードやルトガー・ハウアーはこの考えに否定的だそうだ)、私はそれよりもむしろ、この「人間」対「レプリカント」の人間性における逆転現象として、デッカードの「非人間的」な部分と、レプリカントたちの「人間以上に人間臭い」部分を対比させて見た方が、単純に面白いような気がする。

 確かに、デッカードがレプリカントではないかと思わせるような点はいくつかある。

 デッカードの家のピアノに写真が多く飾られていたり(レプリカントは人間のように自然な思い出を有していないので写真への執着がある)、レイチェルが「あなたは検査(レプリカントかどうかを判断するヴォイト・カンプフ・テスト)を受けたことがあるの?」とデッカードに訊くシーン(デッカードは何も答えはない)があったり、デッカードの脳裏を一瞬だけよぎったユニコーンの姿をガフが折り紙で作っていたり(デッカードの記憶もレイチェルと同じく移植されたものではないか? という疑問を抱かせる)……といった点
がそうだが、私個人としては、やはり先述した理由から、特に「デッカード=レプリカント説」を掘り下げよう(支持しよう)とは思っていない。

 本作におけるキャラクター面での白眉はやはり、ルトガー・ハウアー演じるレプリカント、ロイ・バティーの存在であろう。哲学的な死生観を持ち、ただの奴隷であることを拒否した彼は、自由を求めて地球までやって来た。そして自分の仲間たちを殺した冷血漢デッカードに、実に「人間的」な肉弾戦でもって、「死の恐怖」というものを味わわせようとする。

 当のデッカードも、このロイ・バティーとの肉弾戦で味わった「死の恐怖」(とその後のロイの慈悲深い対応)によって、やっと人間らしさを取り戻したかのように見える(レプリカントであるヒロイン、レイチェルとの恋愛関係によって得る「他者への共感」も、デッカードが人間性を取り戻す要因の一つになっていることは間違いないが、少なくとも、レイチェルと男女の仲になった時点ではまだ、デッカードは人でなし稼業であるブレードランナーの仕事を放棄しようとはしていない)。

 たった4年という寿命を運命づけられたレプリカントの無常観を背負いながらも、ロイ・バティーは惰性で生きるデッカードに対して、「お前ら人間には信じられないものを、俺はこの目で見て来た」と言う。「オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラ……そういう思い出もやがて消え去る……雨と共に流れ落ちる涙のように……」。儚く短い「作り物」の人生でも、ロイ・バティーにとっては、死んだように惰性で生きる人間よりも遙かに充実した、生の歓喜に満ち溢れた人生だった、とそう言いたかったのかもしれない。

 ここまで来るともはや「人間かレプリカントか」といった問題を突き抜け、「どんな境遇に生まれつこうとも、自分の生き方ひとつで人生を変えることが出来る」という、何とも胸を打つ普遍的なメッセージにたどり着く。そしてそんなロイの人生観・死生観に心を打たれたのか、デッカードもまた自身の運命に逆らい、自らの手でレイチェルとの新たな人生を切り開こうと決意する(同じブレードランナーであるガフの粋な親切心も、大いにデッカードの背中を押すことになる)。

 創造主を殺したロイ・バティーは、果たして古典的な「悪」であろうか。それとも、「神は死んだ」と宣言する運命への反抗者、絶対的な自由と自律性を追求する実存主義的な哲学者であろうか。ノワール色の濃いハードボイルドSFとしての渋いドラマにシビレつつ、最後の最後は「自分らしく生きるとはどういうことか?」という普遍的な問いが、いつまでも胸の奥に響く一本である。

 

(2012年6月13日)



 



追記①

  後日、『ファイナル・カット』も見てみた。

 『ディレクターズ・カット(最終版)』とかなり違ったものになっているのかと思いきや、内容はほぼ『ディレクターズ・カット(最終版)』そのまま。映像が格段にクリアになっており、編集面やセリフ面で感じられたちょっとした矛盾点や違和感も解消されていた。

 わざわざ『ファイナル・カット』なんて名前を付ける必要があったのか? なんて思ってしまうほどに、『ディレクターズ・カット(最終版)』の時点でのオリジナリティーを尊重した仕上がりになっている(実際、よほどのファンでなければ、映像がクリアになっている部分以外は、どこをどう改善したのかほとんど分からないだろう)。

 難点があるとすれば、映像がクリアになり過ぎているため(つまり全体的にかなり明るい印象になっているため)、あの独特の陰鬱なノワール感が弱まっているような気がしないでもないが、まぁこれはあくまで私個人の感覚的な意見に過ぎないので、これから『ブレラン』を初めて見るという人には、まずこの『ファイナル・カット』をオススメするのが妥当だろうと思う。

 



追記②

 25周年BOXに収録された『粗編集版(ワークプリント版)』も見てみたが、私が見た限りでは、やはり基本的な流れは『ディレクターズ・カット(最終版)』とほぼ同じと言ってよいと思う。

 ユニコーンの夢のシーンの是非や、デッカードがレプリカントであるか否かなどといった細かな話はとりあえず置いておくとして、ごくごく大雑把に言ってしまうと、やはり'82年の『アメリカ劇場公開版』の内容(特にデッカードのモノローグと、取って付けたような無理やりなハッピー・エンド)が、監督が本来意図していたものと大きく違うものであったことだけは確かなようだ。

 つまり、『粗編集版(ワークプリント版)』の時点ですでに、『ディレクターズ・カット(最終版)』と『ファイナル・カット』に見られるものと同じ本作の骨子が、しっかりと出来上がっていたと言って間違いないように思う。で、そうなってくるとやはり、SF映画としての技術的な面や、プロット上での細かな辻褄合わせみたいな部分を手直ししたいという監督の意図を組み込んだ『ファイナル・カット』を、事実上の「完成形」として見るのが正しいのではなかろうか。

 前にも書いたが、これから『ブレラン』を初めて見るという人は、まず『ファイナル・カット』を見て、それから興味があれば、それぞれの別バージョンを見比べてみるのが妥当かと思う。

 



追記③

 『粗編集版(ワークプリント版)』から『アメリカ劇場公開版』へと至る流れについての雑感をもう少し。先にも書いたように、『粗編集版(ワークプリント版)』と後の『ディレクターズ・カット(最終版)』『ファイナル・カット』の大まかな流れ(骨子)はほぼ同じ。

 数ヶ所、細かなカットの長短が違ったりBGMや音響効果が色々と違う(これは本格的な編集前なので、仮に付けたBGMや音響も多いのだろう)。ユニコーンの夢のシーンはなし。ロイが死んだ直後にだけデッカードの説明的なモノローグが入る。

 『アメリカ劇場公開版』での数ヶ所のモノローグとハッピーエンドなエピローグは監督の本意ではないようだが、この『粗編集版(ワークプリント版)』を試写で見せられて難色を示す関係者が多いのも分かる。もともと重苦しく終始暗いし、派手なアクションもない。

 粗編集なので当然、カット割りやBGMも後の公開版よりは作り込まれておらず、
ヴァンゲリスによるBGMもまだ一部で、既存のものなのか若干古臭い感じのBGMが多数用いられていて、そのせいもあって終盤が全然盛り上がらないので、余計に重たく感じる。これを見せられた関係者たちから、あの明るいエピローグを所望されるのも分からんではない。

 やはり『ディレクターズ・カット(最終版)』と『ファイナル・カット』で細かな(マニアでないとほとんど気付かないような)ブラッシュアップを重ねたことで、監督が意図していたことの完成形にまで至ったのだと思う。

 


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わがままコブラ
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1984年5月2日
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