第33回『ファイト・クラブ』

電波系フィストファック・ムーヴィー


『ファイト・クラブ』
(Fight Club)
1999年:アメリカ
監督:デヴィッド・フィンチャー


 最初に見たときは「そうでもないなぁ」くらいの感想しか持てなかったような作品でも、何度か見ているうちに段々と好きになっていくことが間々ある。面白いことには、そういう後からじわじわとくるタイプの作品の方が、第一印象が良かった作品よりも、後々自分の中で外せない一本になることが多いような気がする。パッと思いつくものだと、『ブレードランナー』(1982年)や『シティ・オブ・ゴッド』(2002年)、そして今回ご紹介する『ファイト・クラブ』といった作品が、私の中ではまさに後からじわじわきた映画作品で、やはりいずれも今現在は外せない一本になっている。

 そういう作品は得てして10代の頃に初めて見たものが多く、つまりは当時の無知な自分よりは、今現在の自分の方が少しばかりマシな理解力を持っている、ということになるのだろう。

 が、それ以上に、普遍的な人間生活に対する実感みたいなものが、ハタチを過ぎてからの方がより重みを持って自分にのしかかってくるので、映画の中に描かれるその人間生活における普遍的テーマを身をもって感じることが出来るようになった、ということが、先に挙げた理解力云々という表面的な事柄よりも、もっと根本的な部分での大きな原因になっているのではないかと思う。

 「人間生活における普遍的テーマ」というのは、要は学生であれ勤め人であれ専業主婦であれスポーツ選手であれ芸術家であれ政治家であれ
医者であれ犯罪者であれ、その他諸々、大方の人間が日常という名のルーティンワークの中で生きている……という程度の意味である。人それぞれに平凡な日常があり、忙しい人は忙しい人なりに、暇な人は暇な人なりに、はたまた金持ちは金持ちなりに、貧乏人は貧乏人なりに、各々の日常を生きている。環境的な違いはあれど、根っこの部分では皆似たようなつまらないことで頭を悩ませていたりするものだ。

 芸術や表現といった世界においても、その根っこの部分で扱われているのは、常にこういった意味での普遍性ではなかろうか。

 今回ご紹介する『ファイト・クラブ』の主人公も、現代的な大量消費社会のどこにでもいる名無しの権兵衛の一人である。平凡な会社員である主人公の<僕>(エドワード・ノートン)は、そこそこの高給取りで、高層マンションに住み、ブランドものの服と北欧デザインの家具に囲まれた、物質的には何不自由ない生活を送っている。しかし彼には、重度の不眠症という悩みがあった。

 <僕>は精神科医にこの苦しみから逃れるために睡眠薬でも何でも処方してくれと泣きつくが、精神科医は「あんたの悩みなんて大したことはない。世の中にはもっと苦しんでいる人たちがたくさんいる。癌患者の集いにでも参加してみたらどうだ?」と軽くあしらわれる。<僕>は藁にもすがる思いで癌患者の集いに患者と偽って参加し、そこで彼ら癌患者たちの本物の苦しみに触れ、彼らと共にそれを分かち合い、彼らと共にオイオイ泣き腫らす。するとこれが効果てきめん。数年越しの不眠症が嘘のように改善し、赤子のようにスヤスヤと眠れるようになった。

 これに味をしめた<僕>は、次から次へとこの手の重病患者たちの集い(いわゆる自助グループ)に患者を装って参加し、アフターファイブの大半をこの集いへの参加に費やし始める。彼は来る日も来る日も重病患者たちと胸を貸し合い、あっちでオイオイ、こっちでオイオイ泣き腫らす。不眠症は治ったが、今度は完全な自助グループ中毒になったというわけだ。こうして、すっかり心の平穏(かなり自己欺瞞的なものだが)を取り戻した<僕>であったが、あるとき、自分と同じように自助グループの集いをハシゴしているマーラ(ヘレナ・ボナム=カーター)という女の存在に気付く。

 <僕>は自分と同じように重病患者を装って集いに参加するこの女のことが気にかかり(つまりは自分が行っている自己欺瞞的な行為を客観的に見せられたので)、集いに参加しても泣くことが出来なくなってしまう。そしてあっという間に重度の不眠症に逆戻りする。<僕>は苦肉の策としてマーラとは別の曜日のグループに参加するように手を打つが、再発した不眠症は悪化するばかりだ。

 そんなある日、<僕>は出張先の飛行機の機内で、タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)という男に出会う。自家製石鹸の製造と販売を行っているというこの男は、どこか普通と違うユーモアがあり、少し危険な匂いがする。<僕>のような凡人とは全く違う、独特の魅力を持っている。世の中には面白い男がいるものだと思いつつ帰宅すると、なんと高層マンションの<僕>の部屋がガス爆発で真っ黒焦げになっている。自慢の北欧家具も木端微塵に吹き飛んだ。この出張帰りのとんだ災難を前に、ただ愕然とすることしか出来ない<僕>。

 今晩泊まるところもない。はてさて、これからどーしたものか……と色々悩んだあげく、<僕>は飛行機で知り合ったあの不思議な男、タイラーに連絡する。二人は街外れのバーで落ち合い、<僕>の災難について話し合う。自慢の北欧家具やオーディオが全てパアになってしまったことにひどく落ち込んでいる<僕>に対して、タイラーは「お前は物に支配されている」と言い放つ。そしてバーを出た後、駐車場でタイラーが<僕>に向かって突飛なことを言い始める。

 「俺を殴ってくれ」

 「えっ?」

 「力いっぱい、俺を殴ってくれ」

 最初は何言ってんだと取り合わない<僕>だったが、この不思議な魅力を持った男は、どうやら本気で自分を殴れと言っているらしい。<僕>は何だか訳の分からないままタイラーを殴りつける。そしてタイラーからもお返しの一発。今までに味わったことのないリアルな痛み。何だかよく分からないが、言葉には出来ない生の実感、生きている歓びが腹の底から突き上げてくる。

 「もう一回やってくれ」

 まるで無邪気な少年たちのように殴り合うタイラーと<僕>。この日を境に、場末の廃屋でタイラーと<僕>の共同生活が始まる。北欧家具もブランド服もテレビも要らない生活。そして土曜の夜に繰り返すバーの駐車場での殴り合い。<僕>は生まれて初めて、本当の充実した生活を手に入れた。もはや高い家賃も会社の上司も恐くない。殴り合っているときの充実感以外は何も要らない。

 しばらくすると、この二人の殴り合いを見物していた酔っ払いたちが、我も我もと殴り合いに参加し始める。そのほとんどが昼間はしがないホワイトカラーやブルーカラーとしての生活を送っている男たちだ。職場では何の役にも立たない男でも、社会的地位も名誉も関係ないただの殴り合いでは、相手をコテンパンにぶちのめすことが出来る。

 堅苦しい制約や重圧に屈して生きているルーティンワークの奴隷たちが、ここでは全てを解放し、拳ひとつで生きている歓びを味わうことが出来るのだ。そしてこの参加者たちの数は次第に増えてゆき、殴り合いの場所をバーの地下に移した本格的な「ファイト・クラブ」が発足される。

 夜な夜な集まっては、生の歓喜を味わうために殴り合う男たち。彼らのファイトに勝ち負けは関係ない。生の肉と肉とがぶつかり合うことで、彼らの魂は解放される。それは社会的な地位や名誉が微塵も入り込む余地のないピュアな世界。病める物質社会から解き放たれた純粋観念のみが神々しく輝き、それが血と汗になって飛び散る絶対不可侵の聖なる領域。

 この街外れのバーで始まった「ファイト・クラブ」という現象は瞬く間に飛び火し、今やアメリカ全土にまで拡がろうとしていた。つまりは、タイラーという男の観念がひとりでに自己増殖をし始めたのである。まだまだアンダーグラウンドな存在ではあるが、ある種の社会現象にまで発展してしまったというわけだ。がしかし、これはあくまで脱社会的な「自己破壊」行為であって、いくら規模が大きいといっても、つまるところは内輪の活動でしかない。

 相手が「参った」と言うまで血まみれになって殴り合うという過激な活動内容ではあるが、それも傍から見れば<僕>が以前ハマっていた自助グループと同じようなものなのだ。ところが、この破壊行為がいつしか「自己」ではなく「社会」そのものに向けられるようになっていく。

 タイラーは「ファイト・クラブ」のメンバーから有志を募り、「スペース・モンキーズ」というテロ集団を結成。そして「騒乱計画」(プロジェクト・メイヘム)なる破壊工作を立案し、これを遂行する。「騒乱計画」は人命を奪うことを目的としてはいないが、しかし爆発物を使った行き過ぎた破壊活動であることに違いはない。この行き過ぎた破壊活動は当然ながら「社会」を完全に敵に回し、とうとう活動中にメンバーの一人が警官に撃たれ死亡するという惨事を招いてしまう。

 <僕>はこの行き過ぎた破壊活動を今すぐやめるべきだとタイラーに抗議するが、タイラーは「多少の犠牲はやむを得ない」と聞く耳を持とうとしない。そしてとうとう、この「騒乱計画」は、街に立ち並ぶ金融会社の高層ビルを全て爆破し、大規模な金融パニックを引き起こそうという本格的なテロ計画にまで発展する。一体、このタイラーという男は何者なのか? この常軌を逸したテロ計画を阻止する手立てはあるのか? そして<僕>の運命はどうなってしまうのか? 物語はこの後、さらに思いもよらぬ展開を見せながら、壮絶なラストに向かって一気呵成に突っ走る。
 
 本作は一人の男が自分の弱さを乗り越えるまでを描いた実にオーソドックスな成長物語なのだが、そこに様々な社会的要素(そしてその問題提起)が毒っ気たっぷりのブラック・ユーモアと共に組み込まれ、タイラー・ダーデンという危険だが実に魅力的なカリスマと、ごくごく一般的な社会に生きる凡庸な大衆の見事なまでのサンプルである名無しの<僕>とを対比させながら、「この病める現代社会(物質至上主義の社会)で自分はどう在るべきか」という問いを投げかけてくる。

 本作を初めて見たのは中学生の頃だったと思うが、ごくごく平凡なルーティンワークに盲目的に従事し、仕事帰りの一杯がささやかな楽しみ……みたいな紋切り型の大人に自分がなるなんて夢にも思わなかったその頃の私には、この映画の<僕>を見ても何一つしっくりくるものがなく、「タイラー・ダーデンなんてただのマッチョ野郎じゃん」ぐらいにしか思えなかった。

 しかし実際に自分が先述したような紋切り型のさえない大人になってしまった今は、エドワード・ノートン演じる<僕>が、どうしてタイラー・ダーデンのような男に魅了されるのかがよく分かるし、それ以上に、目的意識のないルーティンワークに盲目的に従事している<僕>の姿が、どうしても自分とダブって見えてしまうのである。

 「宣伝文句に煽られて、要りもしない服や車を買わされている」

 「歴史の狭間で、生きる目標が何もない」

 「自身の人間性を主張しないやつは、腐敗していく有機物でしかない」

 これらタイラー・ダーデンの言葉を前にすると、どうしたって自分という人間が後ろめたくなってくる。10代の頃の私にとっては、こんなものはただの台詞でしかなかったが、今現在の私にとっては、無目的に生きるルーティンワーカーとしての自分の実情に、当てはまり過ぎるくらい当てはまるリアルな苦言ばかりだ。

 しかしこの映画が素晴らしいのは、現代社会に対する警鐘だとかアンチテーゼだけで終わることなく、「ひとりの人間としてどう生きるべきか」という、これ以上はないくらいに真っ当な普遍的テーマにしっかりと帰結するところだ(理想であったはずのタイラーとの対峙が、そのまま<僕>が弱い自分を乗り越え自律性を獲得する儀式となる)。

 「僕を信じろ。これからは全てが良くなる」……ラストでこの台詞を言うときのエドワード・ノートンの表情は、何度見てもグッときてしまう。本作は間違いなくブラッド・ピットのベストワークの一つだと思うが、しかしながらエドワード・ノートンも負けず劣らずイイ仕事をしている。こういう「人間の弱さ」を表現するのが巧い役者は大好きだ。

 

(2012年2月20日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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