第32回『グラン・トリノ』

至高の「男の散り際」映画


『グラン・トリノ』
(Gran Torino)
2008年:アメリカ
監督:クリント・イーストウッド


 マカロニ・ウェスタンや『ダーティハリー』(1971年)といった作品では散々見てきたイーストウッドだが、すごいファンかと言うとそうでもなく、特に監督作は片手で数えられるほどしか見ていないような気がする。しかしそんな門外漢の私ですら、本作は「イーストウッドが演るから意味がある」というか「イーストウッドじゃなかったら意味がない」作品だとすら思える一本だ。

 もちろん他のベテラン俳優でも一作品として成り立ちはするだろうが、暴力と非暴力の狭間で激しく揺れ動く男を演じる上での説得力に関しては、やはりクリント・“ダーティハリー”・イーストウッドだからこそ持ち得る重みというものがあるのではなかろうか。

 イーストウッド演じる主人公ウォルトはデトロイト在住のポーランド系アメリカ人。彼は組立工としてフォードに50年間勤め上げ、朝鮮戦争では「米食い虫」のアジア人を殺しまくった英雄である。まさに古き良き超大国アメリカを象徴するような男なのだ。

 しかしそんな彼も、今や最愛の妻に先立たれた孤独な老人でしかない。しかも画に描いたようなガンコ爺なので、子や孫たちには煙たがられている。おまけに「黒」も「黄色」も大嫌いという徹底的な人種差別主義者ときているので、自動車産業の衰退後に黒人やメキシコ人やアジア人ばかりが住むようになったこの土地で、彼は完全な孤立状態だ。

 フォードに50年も勤めながら育ててやった息子は今やトヨタのセールスマン。孫は鼻やらヘソやらにピアスをしている。町の教会では、そんな孫と大して変わらない若造が司教を務め、偉そうに説教を垂れている。そして何より胸クソが悪いのは隣近所のアジア人ども……。

 「ここは本当にアメリカなのか? あの強かったアメリカ、輝いていたアメリカ、俺たちの超大国アメリカはどこへ行っちまったっていうんだ?」

 こんなタイプのアメリカ人をイーストウッドが演じるというのは、ある意味自虐的なセルフ・パロディーのようでもあり、また同時に、これまで自分が演じてきたヒーロー像に対する複雑なアンチテーゼのようでもある。

 政治的に右か左か、民族主義者か否か、保守派かリベラルか、などといった単純なカテゴライズでは成り立たない、実にややこしい「アメリカン・スピリット」を体現し得るのは、やはりイーストウッドの存在ありきということになろう。これが例えばチャールズ・ブロンソンやジェームズ・コバーンではダメなのであって、やはりイーストウッドありきの作品としか言いようがない。

 そんなイーストウッド演じる人間嫌いのガンコ爺ウォルトにも、唯一心休まるひとときがある。それはピカピカに磨き上げた愛車、'72年型グラン・トリノをビール片手に眺めるときだ。男性性の極致と言えるようなたくましい「肉体美」を誇るこの車は、まさにウォルトの分身であり、同時に古き良き超大国アメリカの象徴でもある。

 ある晩、このウォルトの命であるグラン・トリノを盗もうとする輩が現れる。その輩というのは、最近、隣に越してきたモン族(ラオスの山岳民族)の一家の息子、タオであった。ウォルトはこの不逞な輩をライフルで撃退する。命辛々逃げ帰ったタオだが、実は彼は不良の従兄にそそのかされ、泣く泣くこの車泥棒をはたらいたのだ。

 聡明で勝気な姉とは打って変わって、タオはいつもうつむいている気弱な少年なのである。本当は悪事なんかとは無縁の性格なのだが、不良の従兄はしつこく彼をその道へ引きずり込もうとする。

 ある日、この従兄は車泥棒に失敗したタオに再度それを強要するが、タオは「もう絶対にイヤだ」とこれを拒否する。もちろん事が丸く収まるはずもなく、従兄の率いる不良グループはタオばかりか止めに入った彼の家族や近所の住人たちにも暴力を振るい始める。と、この騒動に気付いたウォルトがライフル片手に不良グループに凄みを利かせる。

 「俺の庭へ一歩も入るな、この米食い虫ども」

 このアブナイ爺さんのマジな目に恐れおののいた不良グループは、すごすごと引き下がる。ウォルトはただ自分の庭がアジア人たちに踏み荒らされるのが気に入らなくて不良たちを追い払ったのだが、結果、タオの家族を救うことにつながった。そして次の日から、近所のアジア人たちがウォルトに感謝の品を捧げるようになる。

 ウォルトは当初このアジア人たちの好意を拒むが、聡明なタオの姉との会話をきっかけに、彼らに対して徐々に心を開いてゆく。実の家族に老人ホームへ厄介払いされそうになっていたウォルトは、このアジア人たちの温かさに自身の孤独を癒されたのだ。

 そしていつも内気で気弱な少年タオを気にかけたウォルトは、彼を一人前の男にすべく、日曜大工や庭仕事を通して働くことの意義をタオに教え込む。最初は頼りなかったタオも、徐々に責任感のあるイイ顔になっていく。また、ウォルトは仕事ばかりでなく、女の口説き方や相手にナメられないための男らしい会話術(これがかなり笑える)も同時にタオに叩き込む。

 こうして、自分に自信を持てるようになったタオは、ウォルトに紹介してもらった建設現場で実直に働き始める。タオのこの見事な成長ぶりに、ウォルトも誇らしい気持ちで満たされる。

 しかしこのすっかり充実した生活を送るタオの前に、またもや不良グループが現れ、今度はタオの顔に根性焼きを入れるというむごい仕打ちを加える。これを聞いたウォルトは怒りを抑えきれず、不良グループの一人をボコボコに叩きのめして銃を突きつけ、もう二度とタオに手を出さないよう警告するのだが、この暴力の行使が最悪の結果を招くことになる。

 不良たちは報復としてタオの家をマシンガンでハチの巣にし、さらにはタオの姉を強姦する。暴力に対して暴力で立ち向かった末のこの最悪の結果に、ウォルトは愕然とし、激しい自己嫌悪に陥る。

 「これではあの忌まわしい戦争と同じではないか……」

 朝鮮戦争の英雄であるウォルトは、実はこの戦争における自身の殺人行為を激しく悔いており、そのことで何十年も苦しみ続けてきたのだ。戦争の英雄が戦争そのものに悪夢を見ていたのである。家族を傷つけられたタオは堪らず「あいつらを皆殺しにしてやる!!」と怒り狂うが、ウォルトは「落ち着いて考えろ」と彼を諭す。

 そして最後にウォルトがとった手段は、非暴力によって暴力に立ち向かうというものであった。

 自身の死期が近づいていることを悟った老ウォルトの、この見事なまでの散り際は、アウトローな正義を貫いてきた男の総決算に相応しい誠実さと美しさを持っている。年老いたダーティハリーは、最後の最後で銃を持たなかったのだ。これは、映画監督としてのイーストウッドが、役者としてのイーストウッドを葬るために設けた最高の花道である。

 先述したように、私は特別イーストウッド・ファンというわけではないのだが、しかしこの散り際の見事さには「よくぞやってくれました!!」とそう叫ばずにはいられない。正直ここまで自分の立ち位置というものをよく理解し、そしてそれを客観的に捉えている人だとは思わなかった。

 今回この『グラン・トリノ』を見て、役者としても監督としても、自分の中でのイーストウッド像はずいぶん変わったように思う。

 しかしまぁ、それにしても、である。荒野や戦場や犯罪都市で、いつだって拳銃片手に孤高に戦い抜いてきた無敵のアウトローが、最後の最後の決闘には丸腰で挑んだというのは何んともかっこよ過ぎる話ではないか。「カタキを叩きのめすだけが能じゃないぜ」とでも言われているようだ。死合に負けて勝負に勝つ……これぞ至高の「男の散り際」映画である。

 

(2012年2月14日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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