第28回『その男、凶暴につき』

天才たけしの挑戦状

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『その男、凶暴につき』
1989年:日本
監督:北野 武


 私が意識的に映画を見始めた中学生の時分(90年代末頃)、テレビで見るビートたけしのイメージは、「喋らない大物司会者」といった感じだった。ツービート全盛期の頃の雄姿はもちろんのこと、お笑い以外での多才ぶりも全然知らなかったその頃の私には、テレビの向こうでほとんど黙って座っているだけのこのおじさんが、どうして大物扱いされているのか不思議でならなかった。

 ちょうどその頃、『HANA-BI』(1998年)がヴェネツィア国際映画祭でグランプリを取った後だったので、既にレンタルされていたその作品を見てみることにした。

 「あの喋らないおじさんは、一体どんな映画を撮るんだろう?」

 おじさんは案の定、映画の中でも全然喋らなかったが、しかしテレビでは決して見ることの出来ない、たけしの表現者としての感性に初めて触れ、「あぁ、これだからこの人は大物なんだな」と子供ながらに納得したことを憶えている。

 映画の出来がどうこうといったことは当時の私には関係なく、独特の間で紡がれていくストイックな暴力と笑いの連続に、当時見ていた他の映画とは異質な何かを感じ、その後色々と北野映画を見るようになった(というより、たけしという存在そのものに惹かれるようになった)。

 とはいえ、私は純粋な北野映画ファンではないし、全作品を見たわけでもないので、あまり知ったようなことは言えないのだが、全くの個人的な好き嫌い(恣意的な感覚)で言わせてもらうと、今まで見た中では、デビュー作の『その男、凶暴につき』(1989年)と、続く2作目の『3−4×10月』(1990年)が、最もたけしらしい作品だと思っている。

 「たけしらしい」だなんて言うと語弊があるかもしれないが、『ソナチネ』(1993年)以前のまだスタイルの確立されていないこの時期の作品の方が、いわゆる初期衝動的なものがあって、たけしという異才の本質的な部分が剥き出しになっているように思うのである(『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年)は未見なので何とも言えないが)。

 どちらの作品もかなり荒削りであるので、『ソナチネ』以降の作品群に比べれば、当然、映画作品としての技術的な完成度は劣るのだが、その分、計算やテクニックでは出せない味わい深さというものを、この2作品は持っている。

 どちらかと言えば私は『3−4×10月』の方が好きなので、本当はそちらをご紹介しようと思ったのだが、最近、内田裕也主演・滝田洋二郎監督の『コミック雑誌なんかいらない!』(1986年)という作品の中で、多量の返り血を浴びながら暴れまわるたけしを見て、「あぁ、やっぱりこの人が出てくると画面が引き締まるなぁ」と改めて感心させられたということもあって、たけしが脇役にまわった『3−4~』よりも、完全なる主役で見せ場も多い『その男~』を今回はご紹介したい。

 本作は、一言で言ってしまえばいわゆる暴力刑事もののハードボイルド作品である。『Violent Cop』というシンプル過ぎる英題そのまんまの内容だ。

 たけし扮する暴力刑事・我妻は、麻薬売買に絡んだ殺人事件の捜査中、懇意にしている先輩刑事・岩城(平泉成)がヤクの横流しをしていることを突き止める。そしてその直後、岩城は口封じのために自殺に見せかけて殺される。殺しを命じたのは麻薬売買にからむ実業家・仁藤(岸部一徳)。実行したのは冷酷な殺し屋・清弘(白竜)。

 我妻は仁藤や清弘を捕まえるために、ほとんど犯罪に近いような掟破りの捜査を強行するが、そのことが新任の警察署長の逆鱗に触れ、警察をクビにされてしまう。

 もはや全くの無防備な一般市民になった我妻は、殺し屋・清弘に命をつけ狙われるが、大人しく殺されるようなタマではない。我妻は岩城を殺した悪党どもを自らの手で血祭りに上げるべく、密売人から手に入れた拳銃を片手に、最後の殺し合いに臨む……。

 とまぁ、以上のあらすじだけを聞く限りは、凡百のハードボイルド作品といったところだが、天才たけしはこの使い古されたプロットに、どこまでもストイックかつ容赦のない暴力と、狂気すれすれの笑いをブチ込んだ。そしてそれらを独自の間でもって紡いでゆき、実に不思議な味わいを持った非映画的映画作品を作り上げたのである。

 普通、シリアスな暴力映画における笑いというものは、いわゆる緊張と緩和の落差によって生み出されるものだが、北野映画においては、緊張の中に唐突に笑いをブチ込んでくる。暴力自体も唐突でタイミングを読めないが、笑いもまた暴力と同じように突発的でなかなかタイミングが読めない。というより、暴力と笑いがほぼ同線上に(シームレスに)描かれていると言っても過言ではない。しかしそれでいて無駄な肉付けは一切なく、話の起承転結に沿って物語は淡々と進行してゆく。

 突発的な暴力と笑いが混淆しているのに、作品全体にゴチャゴチャした感じは全くない。むしろ虚無的と言えるほどにスッキリしている。プロとしての映画製作経験のない、一芸人による映画監督デビュー作として、本作はよくぞここまでのオリジナリティーを持ち得たものである。

 全編、血と暴力にまみれてはいるが、台詞を含め、その演出にはほとんど無駄がない。完全なる引き算の美学だ。映画的なお決まりから逸脱しているのは間違いないが、その逸らし具合が絶妙なのである。決して「映画的文法の破壊」などというハッタリで映画そのものをダメにしてはいない。

 例えば、ガサ入れで逃げた男を追うシーンに、ごく一般的な昼下がりの住宅街を選ぶあたりも、実にたけしらしい逸らしの妙を感じさせる。刑事ものでは大概、この手のチェイスシーンは大都会のど真ん中か繁華街の路地裏なんかが相場だが、この作品ではそれがごくごく普通のどこにでもある住宅街なのである。干した布団を布団たたきでパンパンはたいているおばちゃんのすぐ脇を、金属バットを持った返り血まみれの凶悪犯と、それを追う刑事が走り抜ける。

 この絶妙なミスマッチ感覚こそが、いわばたけし流のリアリズムなのだ。しかもチェイスシーンなのにスピード感を演出したりすることはなく、どこか間延びしていて、白昼夢的な雰囲気さえ漂う。そしてそこにもやはり突発的な暴力と笑いが介在する。

 ヘタウマと言ってしまえばそれまでだが、明らかにこういった何とも形容しがたい独特のトーンを意識的に作ろうとしている。映画的文法を破壊するのではなく、その軸をちょっとズラすのである。これをあまりシュール過ぎる演出にしてしまったのでは、見ているこちらは興ざめしてしまうが、天才たけしはこの現実と非現実のギリギリのラインを見つけるのがすこぶる巧い。これは演出力云々というよりも、皮膚感覚的な領域の問題ではなかろうか。

 たけしというフィルターを通すことで、何でもない日常の風景が、白昼夢的・非現実的なものに見えてくるのだ。しかもテクニックとしては時折スローモーションを用いる程度で、非現実的に見せるための作為的な演出はほとんど用いていないと言っていい(気怠い
ジャズを対位法的なBGMとして用いているのが、唯一作為的といえば作為的か)。


 そして、北野映画の極めつけは、なんといってもやはり笑いだろう。突発的な暴力と共に映画の随所にブチ込まれるそれらの笑いこそ、オーソドックスな芸を愛し、同時にレニー・ブルースのような猛毒の異端を愛する芸人たけしの真骨頂だ。

 例えば、ガサ入れに向かう車中のシーン。新人刑事が生真面目に拳銃の弾を確かめていると、たけし扮する我妻がいたずらっぽく「撃ち合いになるかもしれないよ」と脅かす。

 するとそれにもう一人の刑事が乗っかる。

 「我妻さん、この前のガサ入れの時、近所の子供に当てちゃって始末書を書かされたんですよね」

 「だってあれ、子供狙ったんだもん」

 全編、あくまでシリアスな暴力映画なのだが、しかし随所にこんな会話を挟み込んでくるのだからたまらない。ツービートの毒ガス漫才そのまんまだ。この毒の効き過ぎた笑いこそが、北野作品における醍醐味の一つでもある。

 たけし独自のこの暴力と笑いの狂気的な混淆ぶりは、2作目の『3−4×10月』においてさらに爆発し、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか、ますます分からなくなってくる。映画としての技術的な完成度は低いかもしれないが、『ソナチネ』以降の完成された北野映画にはない剥き出しの魅力が、この最初期2作では味わうことが出来る。

 今でこそ、北野映画に影響を受け、似たような作風を目指す映画監督も多いだろうが、1989年当時に、このようなトーンの映画を撮っていたのは、おそらく北野 武ただ一人だろう(少なくとも日本の映画界においては)。もちろんそれは、映画製作におけるノウハウをまだよく知らなかった結果ということもあろうが、しかし本職のお笑いの世界でも、常に先の先を行くような冒険者として突っ走ってきた天才である。「笑えるもんなら笑ってみろ」「批評出来るもんなら批評してみろ」くらいの気概で、初監督という大役に臨んでいたのではなかろうか。

 本作の根本にあるのは紛れもない暴力であり笑いであり、また同時に不条理であり狂気でもある。それらの要素が垣根を越えて、くんずほぐれつ絡み合う。

 映画を破壊こそしていないが、ありきたりな刑事もの、ありきたりな暴力映画、ありきたりな人間ドラマであることを頑なに拒否している。そしてそのありきたりでない映画の行き着く先には、人間にとって最も普遍的な「死」という概念が見えてくる。本作に限らず、北野映画にとっては、生きざまよりも死にざまの方がより重要な存在であるように思われる。「生きることよりも、まず死の方向から物事を考えてみろ」とでも言われているようだ。これは文学的な逆説か、はたまた底意地の悪い挑戦状か……。天才たけしは、やはり一筋縄ではいかない男なのだ。

 

(2011年10月10日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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