第278回『オブセッション 災愛』

骨まで愛され地獄に堕ちる

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『オブセッション 災愛』
(Obsession

2025年:アメリカ
監督:カリー・バーカー


 三池崇史の『オーディション』(1999年)をもしロマン・ポランスキーが撮ったら、あるいはロブ・ライナーの『ミザリー』(1990年)をもしウディ・アレンが撮ったら、という映画マニアの妄想を具現化したような逸品。ジャンル的にはスリラーやホラーの領域であるが、正味は増村保造や今村昌平の匂いさえ漂う、不条理なまでに暴走する愛欲の果てを描いた重喜劇だ。

 気弱で自分に自信を持てない青年ベア(マイケル・ジョンストン)は、快活な女友達ニッキー(インデ・ナヴァレッテ)に密かに想いを寄せているが、彼女に告白する勇気をどうしても出せないでいた。ニッキーの方もベアに対してまんざらでもなさそうだし、思い切って踏み込めば付き合えそうなチャンスはあるのだが、どうしても友達付き合いの一線を踏み越える決心がつかない。

 そんな折、子供だましのような「おまじないグッズ」を手に入れたベアは、ほとんど冗談で「ニッキーが自分のことを愛してくれますように」との願いを込めてみる。するとこれが強烈な効果を発揮してしまう。呆気ないほどトントン拍子に事が運び、ニッキーから猛烈なアタックをかけられ、願っていた以上の激しい愛情を(ほとんど一方的に)注ぎ込まれるベア。これにはさすがに喜びよりも不安や戸惑いの方が上回ってしまう。ニッキーの愛情表現は次第に暴力性を帯び、歪んだ奇行も目立ち始める。そしてこの奇行や暴力的言動が加速度的にエスカレートしていき、彼女の逸脱行為はやがてベアとその周囲の人々を巻き込みながら、地獄の惨劇へと発展してゆく。

 ジャンル的仕掛けや演出はサイコ・スリラー/サイコ・ホラーで、事の発端となる「おまじないグッズ」の効果・効能には超常的なオカルト要素もあるが、そこはあくまでガジェットとして用いているだけで、その面での謎解きやゲーム的展開はなく、特に深く掘り下げられてはいない。話の主軸はほとんどワンシチュエーション的と言える「男と女の恋愛狂騒曲」に集約される。

 言ってしまえば、うら若き男女の色恋のゴタゴタが雪だるま式に悪化していく様を見せられるだけの、恐ろしいほど愚直な破滅譚であるが、本作の最も素晴らしい点は、たった一組の男女が特定の空間(あるときは恋人の部屋、あるときはレストラン、あるときは車内、あるときはホームパーティーが開かれている友人宅)にいるだけで、観客を一瞬たりとも安心させない緊張と恐怖の渦の中へ引きずり込むその演出力だ。精神性や社会的関係性に拠った暴力や恐怖というよりは、もっと生理的・神経的な即物性に拠った暴力や恐怖をストレートに見せるのが非常に巧い作品である。この点に関しては、ウィリアム・フリードキンの『BUG/バグ』(2006年)を思わせる。

 静謐や薄闇の中でのタメ(ピンと張りつめた緊張感と恐怖感をジワジワと引っ張る状態)から唐突なジャンプスケアをズドンッ! と噛ますタイミングが絶妙で、恐怖演出としてはほとんど原始的ですらあるが、ここを的確に捌ける演出力は、スリラーやホラーの作り手として最も重要な手腕と言えるかもしれない。ニッキーの感情の極端な変化や理解不能な奇行、突発的な金切り声での絶叫や暴力の噴出といったシンプルな神経戦が、巧みなジャンプスケア演出と連動して作品全体の質を底上げしており、狂った女の凶行(その一挙手一投足)がそのまま作品の「顔」になっている。

 ラストのあの底意地の悪いオチを鑑みれば、当人の知らぬ間に「恋の呪い」をかけられ狂わされてしまったニッキーは、ただただ気の毒な被害者と言えるが、しかしながら、彼女が作家志望で恋愛小説を書いており、
常に実生活でも恋をしていないと(自分の中に愛がない状態/愛を感じられない状態だと)執筆が進まない、というようなことまで口にしている(序盤でベアと二人きりのときにそのようなことを言うシーンがある)点を踏まえると、外圧的な呪いによって引き出された彼女の暴力的で酷く病んでいるような奇行の原動力・行動原理は、元々彼女自身の内奥に潜んでいた「恋愛観」が具現化・肥大化した(果てに狂気性を帯びてしまった)ものであるとも考えられる。

 ベアが望んだのはあくまでニッキーが彼を強く愛することであって、その「愛し方」まではおそらく願い事に含まれていない(そもそも、世の大半のまともな人間は、好きな相手から自分が苦しめられるような愛され方をしたい、などと望んだりはしないだろう)。

 愛するという行為の中に、相手を自分の思いどおりにしたいという、常にイニシアチブを自分側に引き寄せようとする加害性・暴力性が、おそらくベアにもニッキーにも似たような性分として元々内包されていたように思える(当人たちにその自覚はないだろうが)。

 ベアが無思慮に仕掛けてしまった「恋の呪い」(ニッキーを自分のモノにしたいという欲望の露悪的具現化)によって、先述したような加害性・暴力性がニッキーの中で化け物のように増幅されてしまい、結果、その加害性・暴力性のぶつけ合いにベアが負ける(完膚なきまでに叩きのめされる)。しかしそれ自体も、ニッキーが自ら望んだことではないので、誰一人幸せになる者がいない、血にまみれた凄惨な絶望だけが最後に残されることとなる。全くもって救いのない幕切れだ。

 語弊を承知で言えば、本作は人の不幸を純粋な見世物にすることを恐れていない(余分なドラマ性やテーマ性でそれを誤魔化していない)。そしてそこが何より感心させられる点である。

 オリヴェル・ラシェの『シラート』(2025年)もそうであったが、本作『オブセッション 災愛』にも明確に悪党と呼べる人間は出て来ない。両作とも登場人物たちに情け容赦ない災難が降りかかる話だが、凡庸な善人と呼べそうな「普通の人々」しか登場しない。ゆえに悪党が因果応報で裁かれてスカッとするような展開は微塵もない。ただただ「普通の人々」が悲惨な目に遭う。

 主要キャラたちにそれなりの欲望や間違った選択はあるものの、それはごく一般的に誰もが心当たりのあるレベルの他愛ないものである。しかしその結果、予想を遥かに上回る不幸や惨劇が彼らに襲いかかり、それを自業自得や因果応報と呼ぶにはさすがに気の毒と思えるほどだが、それでも我々のありふれた隣人である「普通の人々」は情け容赦なく地獄の底へと突き落とされる。

 この血みどろで痛々しい苦難、不条理、即物的な残酷さこそが純然たる見世物となる。本作『オブセッション 災愛』は、まさにその見世物性を追求し、若い男女の恋愛劇における地獄の底を見事に創出してみせた傑作だ。悲しいほどにドス黒い笑いが、いつまでも見る者の心にへばりつく。

 

(2026年7月22日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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