第277回『シラート』

地獄の橋を無心で渡れ

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『シラート』(Sirāt)
2025年:スペイン、フランス
監督:オリベル・ラシェ


 タイトルにもなっている「シラート」とはアラビア語で「道」を意味し、イスラム教の終末論においては「審判の日に地獄の上に架かる、髪の毛よりも細く剣よりも鋭い一本の橋」を意味するそうで、これは本作の冒頭、テロップで簡易的に説明される。つまりはこの橋を渡り切って天国に行ける者と、足を滑らせて地獄へ堕ちる者に分かれる、というような解釈でよいのだろうか。

 事前情報からは「風変わりな作品」「難解な作品」「アート色の濃い作品」と思わされる印象が強かったが、いざ見てみれば驚くほどシンプルに切り詰められた地獄のロード・ムーヴィーで、冒頭のタイトル解説をはじめ、説明的なところはむしろかなり親切設計な(さほど取っ付きにくさや難解さを感じない)、手堅く作り込まれた骨太な(スリラー主体の)ジャンル映画であった。

 失踪した娘の行方を追って、砂漠のレイヴ・パーティーを訪れた父と幼い息子。レイヴ会場で娘の情報を訊き回る親子は、男女数人の親切なレイヴァー・グループに出会い、「この会場で娘の姿は見ていないが、また別の場所でも砂漠のレイヴ・パーティーがあり、もしかしたらそこに娘がいるかもしれない」との情報を得る。こうして、次なるレイヴ・パーティーを目指す、親子とレイヴァーたちの「旅は道連れ世は情け」なロード・ムーヴィーが始まる。

 序盤は牧歌的とすら言える淡々としたロード・ムーヴィーが展開され、ここで、親子とレイヴァーたちの距離感が少しずつ縮まってゆく様を描く、ある種の人情ものと言える「凪」の穏やかさのドラマが続く。この序盤の「人情ものロード・ムーヴィー」としての作りも、奇を衒わずに自然な流れで描かれていて非常に良い。失踪した娘を探す父の不安感もありながら、それでもいたずらに悲壮感を煽るような描き方はせず、旅慣れぬ親子を何だかんだと親切にアシストしてくれるレイヴァーたちとの触れ合いを、エモーショナルな演出を抑えながら淡々と描いてゆく。そしてこの「凪」の穏やかさと人情ものとしての微笑ましさが、中盤で一気に地獄へと変わる。

 中盤、ある事情からコースを変え、一行は険しい山道へと入って行く。この山道での断崖絶壁を行く画作りやレイヴァーたちの乗るトラックの造形などから、おそらく本作にはウィリアム・フリードキン監督によるリメイク版『恐怖の報酬』(1977年)へのオマージュがあるように思われるが、ヴィジュアル面だけでなく、極限状態で生身の人間に降りかかる(不条理なまでの)突発的な暴力性や悲劇性の描き方も、どこかフリードキン版『恐怖の報酬』に通底しているように思われる。この険しい断崖絶壁を行く中盤で、大きな転換点となる、あるとんでもない悲劇が主人公たちに襲いかかり、それまでの牧歌的であった雰囲気がガラリと変わって、ひたすら地獄の道を突き進む、胃のヒリつくような緊張感と不安感と絶望感が充満した骨太なスリラーへと変貌する。

 この中盤での信じられぬ悲劇に打ちひしがれた主人公たちは、そのまま為す術なく非情の地獄と化した砂漠をひた走り、物語の終盤へ差しかかる頃、皆で心の傷を分かち合ってトランス状態で踊る、という実に映画的な泣きのヒーリング・シーンへと至るのだが(こういう演出も奇抜ではなく、むしろベタな人情ドラマ的演出として巧いなと思う)、しかし安易に「音楽は傷付いた心を癒せる」みたいな方向に持っていくわけではなく、ここでさらに主人公たちの傷口に硫酸を流し込むような、とんでもない地獄の展開をポンと放り込んでくる。そしてここから、「そりゃないぜ!」としか言いようのない極限状態のデス・ゲーム的展開になり、死の緊張感と絶望感のメーターを最大限に振り切った、血も涙もない地獄旅の怒涛のクライマックスへと雪崩れ込んでゆく。

 この怒涛のクライマックスにおいて、冒頭で説明された「地獄の上に架かる、髪の毛よりも細く剣よりも鋭い一本の橋」をまさに主人公たちが渡れるかどうかが、イニシエーション的な本作最大の見せ場(ある意味での「アクション」)として描かれる。無慈悲に生死を分かつ極限状態での、「一体どういう理屈だ?(生死を分かつ分水嶺はどこなんだ?)」「分からん」という会話が本作の全てと思えるほど、この短い台詞のやり取りの場面で不意に激しく感動させられた。

 本作は登場人物に誰一人として悪人がいないのが肝で、つまりは、その者個人の慈悲や善行や徳を積んだ過去に一切関係なく、不幸や苦難が不条理で機械的な暴力装置のように不意に襲いかかってくる様が容赦なく描破されている。生身の人間がその暴力的な極限の地獄を前にしたとき、思考も感情も経験則も一切関係なく、ただただ無心に真っ直ぐ突き進むしかない(目に見えぬ剣のように鋭い橋を躊躇せず渡り切るしかない)。しかもその先に救いが待っているかは誰にも分からない。全くもって無慈悲な「見る前に跳べ」の実践を強いられるのがこの世の地獄なのだ。

 生死を分かつ危険を冒したからといって生き残れるとは限らず、また生き残ったとしてもその先に救いがあるかも分からず、生きている限りは極限の選択を無慈悲に迫られる可能性は誰にでもある……という何とも恐ろしく何とも骨太なヘヴィ・パンチを喰らわされる傑作だ。

 土地勘の全くない場所で主人公たちが不条理な圧倒的暴力に曝される、というところで、本作は『荒野の千鳥足』(1971年)、『脱出』(1972年)、『悪魔のいけにえ』(1974年)、そして先述したフリードキン版『恐怖の報酬』などの系譜に連なるドライな暴力映画という印象が強い。また、荒野(砂漠)という場で起こる不条理で突発的な暴力性が、ロード・ムーヴィーという形式を用いて描かれている点においては、『奪還者』(2014年)にもどことなく似ていると思わされた。

 ただ本作『シラート』においては、その不条理な暴力が人間から発せられるものではなく(間接的には紛争などの背景も絡んではくるが)、つまりは憎悪を向けるべき「悪」「敵」という対象が不在なので(主人公たちにも悪人と呼べる者はおらず、また、完全に間違った選択や悪い選択をしているとも思えないので)、不条理さの度合という点では段違いの凄みがある。しかしその底なしの不条理さの中に追いやられ身も心もズタズタにされようとも、死ぬまでは自分の足で真っ直ぐ前に歩を進め続けるしかない、というある種の力強いバイタリティーを指し示す映画であることも確かだ。

 畢竟、生きることにも死ぬことにも意味などないのかもしれぬが、それでも我々は生きている限りは前に進み続ける生き物であり、思考からも感情からも経験則からも解き放たれた無心のトランス状態で前進することが出来たとき、我々人間はもはや暴力も不条理も死の恐怖も突き抜けた存在になれるのかもしれない。本作『シラート』のラスト、極限の苦難を前にした主人公が見せる一切迷いのない「歩み」と「導き」は、まさにその可能性を示していると言えるのではなかろうか。

 

(2026年6月8日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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