第272回『爆弾』(2025年)

世の善性を焼き尽くそうとする爆弾

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『爆弾』
2025年:日本
監督:永井 聡


 酔って酒屋の自販機を破壊し、さらに店主を殴って逮捕された中年男が警察署に連行される。男は自らを「スズキ・タゴサク」と名乗り、唐突に東京都内にいくつも爆弾が仕掛けられていることをほのめかし始める。スズキの予告した時刻に実際に爆発が起こったため、交渉術に長けた刑事二名が警視庁から送り込まれ、スズキの取り調べを行うことに。スズキはとぼけたふりをしながらも、巧みな話術による心理戦を刑事たちに仕掛け、謎解きゲームのような感覚で刑事たちを翻弄しながら、やがて東京中をパニックに陥れる大規模な連続爆破事件を展開させてゆく。

 取調室内での刑事たちと謎の爆弾魔による舌戦・心理戦・神経戦をメインに、爆弾探しや爆弾魔の正体を探る捜査に奔走する現場の刑事や警官たちの姿もスリリングに描き出す傑作サスペンスだ。謎解きの仕掛けや主要キャラたちの人間関係も複雑に入り組んでおり、事件の背景として盛り込まれる情報量も多く、何よりスリリングな会話劇としての台詞量が膨大なのだが、それらを的確な映像捌きで淀みなくスピーディーに転がしていく構成・編集・カメラワークなどが見事で、冗長さや停滞感を一切感じさせず、常に起伏ある緊張感と面白さを保ちながら、最後まで全く飽きさせない。

 スズキ・タゴサクという、現代の醜悪なルサンチマンの集合体のような怪物が話の中心となるが、そこに対峙する警察側の人間たちも決して純粋な正義漢としては描かれておらず、皆それぞれに鬱屈とした憎悪や欲望、ルサンチマン的傾向や後ろ暗い過去などを抱えており、スズキは人々のそういう闇の部分を言葉巧みに抉り出し、自身が住む「世の中の全てに失望した荒涼とした世界」に引きずり込もうとする。スズキにとって他者との命を懸けた犯罪ゲームは、相手を負かすための勝負というより、相手から自身と同じ醜悪さ邪悪さを引き出すための、いわば呪いの儀式のようなものだ。

 特に刑事の類家と等々力は、劇中の犯罪者ではない立場にあるメインキャラの中では、ある意味、最もスズキに近いルサンチマン的失望感を世の中や他の人々に対して抱いている人物と言えるかもしれない。スズキにとってこの二人は「獲物」というよりは「自分と同じ視点から世を見て欲しい仲間(になれそうな相手)」として、自身の住む荒涼とした世界に引き込みたがっているように思える(一方、同じ刑事であっても、清宮や伊勢はスズキにとっての「獲物」という印象が強い)。

 劇中の連続爆破事件の直接的な元凶と言えるような、あるベテラン刑事の病癖に関する過去のスキャンダル騒動が描かれるが、これこそまさに法や理性や道徳の「こちら側」と「あちら側」の境界線の曖昧さ、一人の人間の中に厳格な正義と醜悪な欲望が当たり前のように同居する、という点を描いた重要なエピソードで、それを「気持ちは分からなくもない」と擁護せざるを得なかった等々力の苦悩は、スズキのいる「あちら側」の世界ではなく、あくまで「こちら側」に留まろうとする類家の自制的自己認識(スズキに対する「お前とは違う」という意志の表明)とも複雑に連動してくる。

 スズキの「お前らも俺と似た者どうしではないか?」という投げかけに「否」を突きつける類家と等々力の姿は、マイケル・マン版『レッド・ドラゴン(刑事グラハム/凍りついた欲望)』(1986年)における、殺人鬼ハンニバル・レクターに対する刑事グレアムの姿勢に物凄く似ている。自身の内奥に巣食う闇を恐れているグレアムを、完全な闇の世界に引き込もうとするレクターに対し、やはりグレアムも「否」を突きつけるのだが、その際、グレアムが「頭の良さではあんたに到底敵わないが、あんたには狂っているというハンデがある」と言い放つのが印象的だ。

 つまるところ、『爆弾』もマイケル・マン版『レッド・ドラゴン』も、自身の内奥にある闇を自覚しながらも、どうにか光の側に踏み止まろうとする人間の姿を描いた作品と言えるだろう。

 善悪の境界線など果てしなく曖昧であるからこそ、自身の内奥に巣食うネガティブな要素や醜悪さ残酷さを自覚しつつ、しかし完全にそちら側に振り切れてしまわないように踏み止まる意志が人間には必要であり、『爆弾』の類家と等々力、そしてマイケル・マン版『レッド・ドラゴン』のグレアムは、その意志をどうにか貫こうとする。その意志を貫けなくなったとき、彼らもまた、スズキ・タゴサクやハンニバル・レクターのような怪物が住む、荒涼とした闇の世界の住人となるのだ。


 私は映画版を先に見てから原作小説を読んだのだが、本作はかなり原作に忠実に映画化されているようである。とはいえ、原作は文庫版で500ページほどある分量の物語なので、当然ながら一般的な娯楽映画としての尺にするために、「改変」よりは「省略」を徹底しているという印象だ。

 具体的には、本作のメインとなる会話劇の台詞をかなり削っており(それでも映画版の台詞量も膨大ではあるが)、事件の直接的な関係者とは全く別の少女の視点(爆破事件に巻き込まれはするが、警察や犯罪者たちの世界からはいちばん遠い存在としての視点)から語られるエピソードも丸々削られ、また、細かなサブキャラなども削られていて、事件に直接的に絡む言動は、極力メインキャラたちに集約させる形で担わせるようにしている(要は原作小説でサブキャラの台詞や行動だったものが、映画版ではメインキャラの台詞や行動として描かれていたりするわけである)。

 さらには、細かな場面を前後させて(配置を入れ替えて)いる箇所もいくつか見受けられるが、これも入り組んだ話の交通整理としてよく機能しており、原作小説よりも映画版の方が、話の流れ(道筋)がより分かりやすくなっている印象を受ける(原作の骨子は崩さぬようにしているが)。

 本作はとにかく原作からの「省略」(「取捨選択」と「情報整理」)が抜群に巧いのだ。物語の肝や旨味になる要素はそのままに、原作の良さを最大限活かす配慮をキープした状態で、よりタイトにブラッシュアップされた台詞群や展開のスピーディーさ、話の転がりの良さに舌を巻く。「活字原作の忠実な映像化」という点においては、本作は見事な最適解を示してみせたと言えるだろう。

 原作小説では各キャラの心の内の声をモノローグとしてどんどん盛り込んでいるが、それは活字媒体だからこそ可能な肉声の台詞との併用であって、映像作品でそれをそのままやってしまうと、当然ながら不自然さが際立ってしまう。映画版ではそこを全て目線移動とその交わり(目配せ)、表情の変化、身体的リアクションの機微などで代替的に表現する形で、細かくカットを割って(寄りと引きの丁寧な使い分けで)、かなり巧妙に演出している。

 これはまた同時に、密室劇メインの画が続いても停滞感を覚えさせない利点にも繋がっている。活字表現から映像表現への見事なトランスレーションが、意識的に為されたことの証左であろう。「小説」と「映画」の形式的差異への配慮が的確なのだ。

 また、取調室のマジックミラーや採光用の窓の窓枠、あるいはトイレの鏡の枠を使った(画面内の「フレーム」をメタ的に意識させることによる)「誰もが囚われ人に見える感覚」を覚えさせるような演出も細かく用いており、これも映像作品ならではの演出として物凄く良い(劇中に登場する「人といふ人のこころに一人づつ囚人がゐてうめくかなしさ」という啄木の短歌にも繋がる)。

 映画のラスト、トイレの洗面器で顔を洗い終えた類家のその直後の足取りを、反転した鏡の中の方にカメラが追従していく、というある種の騙し絵やトリック・アートのような映像演出をさり気なくやっていて実に見事なのだが、スズキと対等に渡り合ったように思える類家でさえも、まるでスズキが生み出した迷宮の中に永遠に囚われてしまったかのような、そんな不穏さを覚えさせる名シーンだ(これも活字媒体の原作にはない、映像媒体ならではの独自性を活かした演出と言える)。

 本作は閉塞的な取調室内でのシーンが多い(長い)ので、スズキが囚われ人なのか刑事たちが囚われ人なのか、あるいはどちらもそうなのか、よく分からなくなるような瞬間が、本作を見ていると度々訪れる。映画の終盤、類家とスズキの二人以外の背景が真っ暗に暗転する凝った演出があり、ここなどはまさに世から隔絶された二人の囚われ人がやり取りしているような錯覚に陥る。

 そして「いつどこで爆発するか分からない最後の爆弾」に怯えながら生きることになる人々も、現代的な閉塞感の中で生きる囚われ人の姿そのものと言えるかもしれない。「この世は一つの大きな監獄であり、誰一人として開放的な自由を謳歌することなど出来ないのだ」と不気味な薄ら笑いを浮かべながら宣言する、スズキ・タゴサクの厭さに満ちた得意顔が思い浮かぶようである。

 

(2025年11月9日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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