第269回『推定無罪』(1990年)

全員、罪人。

img_20250923-134734.jpg
『推定無罪』
(Presumed Innocent)

1990年:アメリカ
監督:アラン・J・パクラ


 主席検事補ラスティ(ハリソン・フォード)は、ある日、同僚の女性検事補キャロライン(グレタ・スカッキ)が何者かに殺害されたことを突然知らされる。

 犯人は強姦殺人を装っていたが、どうやら近しい間柄にある者の犯行らしきことが現場の状況から推測されている。ラスティは馴染みの間柄の刑事と共に捜査を開始するが、実は妻子持ちのラスティはキャロラインと不倫関係にあり、最近、キャロラインの方から一方的に関係を解消されていた。つまりはラスティが捨てられた形だ。

 そんな状況下で捜査を進めれば進めるほど、ラスティにとって不都合な状況証拠ばかり揃ってしまう。そして最悪なことに、事件とラスティを結ぶ物的証拠まで出てきてしまったことから状況は一転、ラスティ自身がこの殺人事件の容疑者として逮捕され、裁判にかけられることになってしまう。「若く美しい愛人に捨てられた中年男が、復縁を迫って断られた末の逆上による犯行」という見事なまでに分かりやすい犯罪の筋書きの上に立たされてしまったラスティ。

 しかし断じて自身の無実を訴える彼は、敏腕弁護士を雇い徹底抗戦の構えに出るが、事件の真相に近付けば近付くほど、関係者たちの闇と悪徳の底なし沼に引きずり込まれてゆき、最後は誰一人として救われぬ地獄の底に叩きつけられることになってしまう。

 硬質で骨太なサスペンスと法廷劇の中に、「正義とは何か?」「悪とは何か?」「法とは何か?」「罪とは何か?」「罰とは何か?」といった普遍的かつ重厚な問いの要素が綿密に織り込まれた傑作である。『パララックス・ビュー』(1974年)や『大統領の陰謀』(1976年)を撮ったアラン・J・パクラ監督らしい、硬派かつヘヴィで切れ味の鋭いタッチが冴え渡っている。

 出世欲のために社会的地位を持った男たちと見境なしに肉体関係を結ぶ女と、この一人の女のエゴイズムを軸にして、複数の人間たちの悪徳や欲望がズルズルと引きずり出されてゆく地獄絵図を展開させながら、真犯人を追うサスペンス犯罪劇としても、硬質でスリリングな法廷劇としても実に素晴らしい仕上がりだ。派手さや笑いのユーモアは一切排除されているが、硬質な娯楽映画の傑作とでも言えばよいか(いわゆる「イヤミス」と呼ばれるたぐいの作品として傑出したものだろう)。

 法曹界の内々での醜い政治的駆け引きや、主人公と妻の間のギスギスピリピリとした「暗黒夫婦映画」的要素、決して平等や正義に直結してはいない「巧く使いこなすべき道具」としてシビアに描かれる法律というシステムの欺瞞性など、あらゆる陰鬱で残酷な要素を張り詰めた冷酷な空気の中に淡々と敷き詰めてゆき、事件の真相(真犯人)に行き着くラストでは、全ての救いを突き放すような絶対零度の地獄の底に叩きつけられる。

 本作で特に面白いと思うのは、劇中で悪徳や欲望に染まり、時には犯罪に手を出す羽目に陥る主要キャラたちが、皆尽く凶悪犯罪者ではなく、むしろ法的には犯罪を裁く側の立場にある人間である、という点だ。どんな人間にも後ろめたい過去や欲望はあり、時には心優しき善良な人間が殺意を持つこともある。しかしそれらは平素は各々の裡に秘められ、抑制された状態にある。

 ところがそこに一滴の毒のような存在が混入した瞬間、善良なる人々の理性などいとも容易に崩れ去ってしまう。本作の主要キャラにおいては、本格的な悪人というのは出てこない。しかしそれが結果的に、「全員、罪人」とでも呼べるような最悪の状況に行き着くこととなる。

 社会の表面上においては、法的手続きの終結と共に事件も終結という運びになるが、その事件の渦中にある人間たちの人生には、悪徳や罪は死ぬまでベッタリと張り付いたままなのだ。

 

(2025年9月23日)

プロフィール

プロフィール画像
ニックネーム
わがままコブラ
性別
生年月日
1984年5月2日
QRコード
携帯用QRコード
アクセス数
ページビュー数