第256回『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』

空っぽな人生の空っぽな結末

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『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』
(Joker:Folie a Deux

2024年:アメリカ
監督:トッド・フィリップス


 冴えない男が悪のカリスマに覚醒するまでを描いたピカレスク映画『ジョーカー』(2019年)の後日譚だが、主人公の妄想と現実の境目が消失する「悪の覚醒」が描かれた前作のラストの、あの劇的な高揚感に冷や水を浴びせるような内容ということもあってか、ネットで事前に流れて来た前評判はかなり悪く、「一体、何を見せられているんだ?」ぐらいの酷評も目立った。

 本作は大まかに言ってしまえば、「冴えない主人公のアーサーは死ぬまで冴えないアーサーのままだし、そもそもジョーカーという悪のカリスマなど、どこにも存在しないのだ」という作り手側の強固な主張を、140分近い長尺で繰り返し念を押しながら説いていくような内容なのだ。

 ジョーカーという悪のカリスマのダークな魅力(というより、その存在自体)を一切否定する形で話が進められていくので、特に前作のピカレスクな高揚感を是としたファン層からすれば、「そりゃないよ」という落胆や怒りを覚えるのは無理もないことだろう。

 また、シンプルなピカレスク的サイコ・スリラーのような作り(つまりはダークな娯楽的犯罪映画として非常に分かりやすい作り)であった前作に対し、今作では「監獄もの」「ミュージカル」「法廷劇」という三種の映画的ジャンルを終始あっちへこっちへ行き来する形で、その各種フォーマットが一本の作品の中で上手く連動しておらず(チグハグに乖離している状態で)、さらに前作のような劇的(ショッキング)な殺人シーンや暴動シーンもほぼ皆無なので、その地味さや辛気臭さが作品の規模に見合っておらず、単純に「カネをかけた娯楽映画」としての出来はかなり悪い。

 とはいえ、事前に見聞きしていた評判があまりに悪かったので、自然とこちらの期待値のハードルも下がっていたのか、いざ見てみれば「そんなにボロクソ言われるほどか?」という感じで、私としては予想していたよりは遥かに楽しめる内容であった。

 前作で五人の人間を殺し(実はもう一人殺しているのだが)、刑務所の閉鎖病棟のようなところに収監された主人公アーサー(ホアキン・フェニックス)は、獄中生活ではすっかり牙の抜けた無害な存在となっていた。おとなしい模範囚のため、比較的自由度の高い合唱教室のようなレクリエーションの場へ連れて行かれたアーサーは、そこで本作のヒロインとなるリー(レディー・ガガ)と出逢い、自分のことを深く理解してくれると感じた彼女と恋に落ちる。リーは実はジョーカーの信奉者で、アーサーの中に眠るジョーカーを再び目覚めさせたがっていた。すっかりしおらしくなっていたアーサーも、彼女の希求に応えるように再びジョーカーを「演じ」始めるが……。

 前作のピカレスクな娯楽映画としての盛り上がりを求めれば、ここから狂った二人が脱獄して暴れまわる『拳銃魔』(1950年)や『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(1994年)のような展開を期待するのが当然だろうが、本作はそういった娯楽的欲求を冷たくバッサリ切り捨てる。

 本作の展開の主軸はあくまでアーサーの地味な獄中生活と、そして彼が起こした殺人事件の裁判の行方を追う法廷劇である。言うなれば、観客はひたすらアーサーが獄中と法廷を行き来する様を見せられることになる(娯楽的高揚感が完全に破棄された状態と言える)。リーとの出逢いによって再びジョーカーを「演じ」始めたアーサーだったが、彼の中にはもう犯行当時の爆発的な憎悪や狂気性は残っておらず、本作はひたすら「アーサーはアーサーでしかない」という乾いた現実(つまりは悪のカリスマ、ジョーカーという存在の否定)を、念を押すようにしつこく提示し続ける。

 そんな状況下で、アーサーはただ孤独に自身の妄想の中に生きることしか出来ない。彼のこの妄想がミュージカル・パートとなっているが、これ自体もハッキリと「アーサーの妄想ですよ」というドライなエクスキューズが前提として為されているので、前作にあった「現実と妄想の境目が消失していくような狂気的な盛り上がり」は一切ない。アーサーの主観的妄想が外界に膨張してゆく危険な盛り上がりを描いたのが前作であるならば、その続編である本作は、外界からの冷めた視点で、常に客観的にアーサーという一人の冴えない男の精神分析的解剖が描かれる。

 ジョーカーとはアーサーの中に眠る悪魔的人格ではなく、冴えない男が一時的に暴走して起こした事件に呼応した、一部の大衆によって創り上げられた共同幻想でしかない、ということをひたすらこの映画は説いていく。そして終盤ではなんと、アーサー自身に「ジョーカーなんてどこにもいないんだ」と言わせる徹底ぶりである。本作のヒロイン的立ち位置にいるリーもまた、そんなジョーカー幻想に魅せられた俗っぽい大衆の一人でしかなく、「アーサーはジョーカーではなかった」という客観的事実を前にした途端、ガッカリした寂しそうな顔でアーサーの元から去ってゆく。

 リーがアーサーに対して覚える失望感・喪失感は、つまるところ、何者にもなれない自分自身の空っぽな人生に対する失望感・喪失感でもある。アーサーのジョーカーとしてのカリスマ性に便乗して自らも何者かになろうとしたが、結局、アーサー自身にその身の丈を超えるようなカリスマ性など微塵もなかったことが判明してしまえば、アーサーのような不幸な身の上ですらない(貧乏人でも無学でも狂人でも犯罪者でもない)リーに残された道は、ごく凡庸に生きていくことだけだ。

 おそらくリーの今後の人生には、殺人や自殺よりも恐ろしい、無気力で退屈で虚無的な終わりなき日常が待ち受けているように思える。アーサー事件もジョーカー・ムーヴメントも世間からすっかり忘れ去られる頃、親が用意した見合い結婚でもして、死ぬほど平凡で穏やかな家庭生活を送りながら、結局、何者にもなれぬまま年老いてゆくリーの姿が容易に想像し得る(歌が上手いのも、実は彼女の才能ではなく、彼女自身やアーサーの妄想の中でだけかもしれない)。

 そしてラストは、「アーサーよりジョーカー向きな人間なんていくらでもいる」とでもいうような冷めた皮肉で、アーサーという冴えない男の「空っぽな人生の空っぽな結末」が描かれ、実に呆気ない幕引きとなる。完全にドライに突き放すというよりは、まだどこかダメ人間への同情的余地が残されている感じがあり、そこは詰めが甘いなと思うが、ジョーカーが共同幻想でしかない、という視点でのある種の「継承」が描かれる皮肉っぽさは、私としてはかなり好きな終わり方である。

 本作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、まさに人生の虚無を描く映画だ。「退屈で空っぽで何もない自分のこの人生が、果たして死ぬまで続くのか?」というような普遍的虚無に陥った人間の心情を描いた作品で、アーサーもリーも、そして劇中でジョーカー幻想に夢中になった一部の大衆も、何者にもなれない現実の我々自身の写し鏡であると言える。

 そんなものを見せられて素直に楽しめる客もあまりいないだろうとは思うが、しかしこのような人生の虚無もまた、創作物における普遍的テーマの一つであることは間違いない。

 「才あるなら今すぐ何者でもなくなってみろ」と逆説的に歌ったのは友川カズキだが、何者にもなれぬ己の人生を受け入れながら生きて行くことは、我々凡人の多くにとっては実際にキツいものだ。人間とはどうしても何者かになりたい欲求を捨て切れぬ憐れな生き物だからである。

 人生の普遍的虚無を淡々と描いた作品という意味では、本作『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』は、映画としての出来は決して良いとは思えないながらも、私としては嫌いになれない作品だと言える。それはちょうど私自身が中年期に入った年齢だから、ということも大きいだろう。人間、中年期ともなれば、この手の普遍的虚無への実感が自然と増してくるものなのだ。

 

(2024年10月15日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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