第255回『悪魔と夜ふかし』

テレビ司会者と悪魔のブルース

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『悪魔と夜ふかし』
(Late Night with the Devil)
2023年:オーストラリア
監督:コリン・ケアンズ、キャメロン・ケアンズ


 仕事も上手く行かず、若くして妻にも先立たれ、今やすっかり落ち目となった深夜テレビ番組の司会者ジャック(デヴィッド・ダストマルチャン)。彼は、ハロウィンの夜の特番でオカルト特集を組み、その目玉ゲストとして悪魔に憑かれているという少女をスタジオに招いて、番組の視聴率向上と自らのテレビマンとしての起死回生を画策していた。ところが、この少女に本物の悪魔が取り憑いていたことから、深夜のテレビスタジオは恐怖を超えた阿鼻叫喚の地獄と化す。

 かなり変化球的な捻った作品かと思いきや、正味は至極シンプルというかストレートな悪魔譚で、そこに「深夜のテレビ特番の生放送」というケレン味たっぷりの舞台を用意し、小ぶりな規模の密室劇ながら、これが予想を遥かに上回る面白さだった。1977年のニューヨークのハロウィンの夜に起こった、テレビ放送での大惨事が収められたテープが発見された……という体の、いわゆるファウンド・フッテージもののフェイク・ドキュメンタリー作品で、特に日本の心霊ドキュメンタリー系の作品を好むファン層には、取っ付きやすいというか馴染みやすい作風と言えるだろう。

 まず本編に入る前に、1970年代当時のアメリカ社会の殺伐・混沌とした時代背景や、そこから派生したオカルティズムや悪魔崇拝などについて、また、本作の主人公であるジャックの素性や経歴、そして1977年のハロウィン特番へと至る経緯など、事前に必要な情報が丁寧に説明される。

 この前説的な導入部を設ける作りも、劇映画的ではなくフェイク・ドキュメンタリー然としていて、やはり日本の心霊ドキュメンタリー好きにはけっこう馴染み深いものがある。この導入部で面白いのは、ジャックがかつてオカルティックな社交クラブに属していたらしいという業界の噂についても触れられている点で、これが終盤の盛り上がりへと繋がる重要な伏線となっている。

 そして本編の番組放送パートだが、かつて子供の頃に見ていた心霊番組やオカルト系の討論番組のような、あの懐かしい「胡散臭さ」が見事に凝縮され、丁寧に再現されており(私が見ていたのは70年代のアメリカの番組ではなく90年代の日本の番組だが)、トップバッターのゲストである(いかにも胡散臭い)霊媒師や、そういった種の人間を尽く偽物だと切り捨てる懐疑派の論客マジシャンなど、「深夜のテレビ特番」という設定が大きく活かされたケレン味全開で飽きさせない。

 とはいえ、あくまで1970年代終盤の「そんなに面白くはない落ち目の深夜番組」という体の演出なので、もしかしてこのダラダラした「昔のテレビ番組の再現」が延々続くのか? と若干心配になりかける頃、トップバッターの霊媒師の身におかしなことが起こり始め、そこからはしっかりとこちらの神経をすり減らすような不穏なホラー映画へとスライドしてゆく。

 ホラー映画的な不穏さとそのエスカレーションを丁寧に積み重ねていく中で、ついに真打の悪魔に憑かれた少女が登場し、それが「本物」であったことから、テレビ的デモンストレーションが一気に阿鼻叫喚の地獄絵図と化してしまう。終盤のこのメチャクチャな振り切りと、実は悪魔と全く無縁ではなかったジャックの地獄への転落劇が重なって、これが心底面白い。導入から破滅的ラストまでをタイトな90分台の尺で駆け抜ける、まさに理想の娯楽的オカルト・ホラー作品だ。

 唯一悪手と思えるのは、番組がCMに入る度に、バックステージでの主人公やプロデューサーやスタッフたちの会話を、複数のカメラ(メイキング撮影班?)が捉えている、というシーンが繰り返し挟み込まれる点。これがどしても劇映画的な「神の視点」での画作りに見えてしまうので、あくまでファウンド・フッテージもののフェイク・ドキュメンタリーという体で作られている本作において、このバックステージでのくだりは悪いノイズになってしまっているように思える。

 そもそもなぜ、他人には聞かれたくないであろうオフレコな会話をカメラに撮られている、という状況を主人公たちがほとんど気にしないのか、という点もいちいちノイズになってしまう。せめて、主人公たちがカメラマンに向かって「こんなところは撮るな」と言うリアクションなどを細かく挟んでいれば、まだフェイク・ドキュメンタリーとしての体裁が保たれたかもしれない。

 番組の本番中にも主要キャラたちはけっこう本音を吐き出すので、舞台(テレビ収録現場)の表と裏での落差があまり感じられないし、また、主人公についての細かな情報は既に冒頭の説明パートでしっかりやっているので、わざわざ楽屋裏のやり取りで主人公の情報を補足する必要性も薄い。表に顔を見せないプロデューサーの存在を見せる意義などはあるかもしれないが、そこを削っても十二分に成立する。もしあのように楽屋裏まで見せるのであれば、最初から完全な劇映画としての「神の視点」で全編撮るべきだったように思える。その方が全体的なバランスは良かっただろう。

 一部そのような不満点はあるものの、本作はフェイク・ドキュメンタリーとしてズバ抜けた(もはや反則に近い)離れ技も見せてくれる。それは懐疑派の論客マジシャンがスタジオ内で披露する催眠術のシーンだ。これは、目の前で起こる悪魔憑きの超常現象は全て集団催眠による幻覚だ、という持論をマジシャン自身が得意の催眠術を用いて実証してみせようとするくだりで、ここでスタジオ内の人間だけでなく、「カメラの向こう側にいる視聴者」(つまりは映画を見ている我々観客自身)も催眠術にかかってしまう……という状況をかなり強引に創出してみせる。

 ほとんど荒唐無稽に近いメタ演出だが、「これぞ映画のマジック!」と賞賛したくなる離れ技で、フェイク・ドキュメンタリーという嘘の入れ子構造のような状況下で、そこからさらに第四の壁を超える、という虚実皮膜論的な大胆な実践に驚嘆させられる。まるでオーソン・ウェルズの『フェイク』(1973年)やビリー・ワイルダーの『悲愁』(1978年)のような映画的虚実皮膜論の実践だ。そしてそんな反則に近い大仕掛けまで披露した末に、ラストは大残酷娯楽劇として一気呵成にスパークしながら、全てをズドン! と地獄の底に突き落として終わる。

 近年では、ジョー・ベゴスの『ブリス』(2019年)やリチャード・スタンリーの『カラー・アウト・オブ・スペース −遭遇−
』(2019年)を見たときと同じ満足度を本作にも覚えた。シリアスな作風を前提としながらも、そこから荒唐無稽なケレンに大胆に突き抜けることを恐れぬ作品は、常に私の心を魅了する。誰が何と言おうと、映画はこの世で最も美しい見世物をやれる大衆娯楽だと思っているが、『悪魔と夜ふかし』もまた、そのことを改めて強く感じさせてくれる一本だ。
 

(2024年10月7日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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