第254回『Chime』(2023年)

ダークサイドに振り切った黒沢清スタイルの極致

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『Chime』
2023年:日本
監督:黒沢 清


 平凡な日々を送る料理教室の講師・松岡(吉岡睦雄)は、ある日、生徒の一人から「頭の中でチャイムが鳴っている」「自分の脳の半分は機械と入れ替えられている」などと訳の分からないことを打ち明けられ、それ以降、彼の何気ない日常に殺伐とした亀裂が生じ始める。

 本作は、『CURE』(1997年)、『蛇の道』(1998年)、『蜘蛛の瞳』(1998年)、『降霊』(1999年)、『回路』(2000年)、『叫』(2007年)、『贖罪』(2012年)、『クリーピー/偽りの隣人』(2016年)といった系譜に連なる、いわば黒沢作品におけるダークサイドに振り切った傑作であり、短編以上長編未満といった長さの45分という尺の中に、先述した過去の黒沢作品においても描かれてきた、あの独特の「恐さ」「厭さ」「虚無さ」が見事に凝縮されている。

 分かりやすいストーリー展開や明確な起承転結もなく、また、何かを結論付けるようなオチなどもないため、劇中で起こっていることの意味はほとんど分からないが、やはり45分という尺の長さが絶妙で、不可解な不条理劇の連続でありながらも、ダレ場のない疾走感とキレの良さで最後まで飽きさせない。この不可解な不条理劇に終始するスタイルで、もし90分~2時間という長編の尺で撮っていたら、さすがにここまでタイトに引き締まった仕上がりにはならなかったかもしれない。

 逆に、もし20分~30分程度の短編の尺であったとしても、それはそれで、どこか小ぢんまりし過ぎて、物足りなさを覚えたのではないか? とも思えてくる。この40分以上60分未満という領域の尺の妙味は、映画というフォーマットに用いる尺としての新たな可能性を感じる。

 本作は料理教室の生徒の狂った妄言から始まる不穏な不条理劇だが、その生徒だけが狂っているわけではなく、主人公の松岡含め、他の生徒や彼の妻子までもがどこか狂ったような言動を見せ、全く先の読めない展開から突発的な殺人や幽霊譚にまで突き抜けてゆく。

 人が狂うことに大した理由などなく、もしかしたらほとんどの人間は生まれたときから既に狂っているのではないか? とまで思わされるような恐さと厭さが本作にはある。

 そんなどこまでも不穏で不可解で狂った不条理劇であるが、中年期の主人公視点で見れば、ある種のミドルエイジ・クライシスものとも言え、「黒沢清スタイルのミドルエイジ・クライシス映画」という観点でなら、むしろ非常にシンプルな作品とすら思える(過去作では『CURE』、『蜘蛛の瞳』、『ドッペルゲンガー』(2002年)などにミドルエイジ・クライシス的な要素が強い)。

 主人公の松岡は妻子とマイホームで暮らす、ごく平凡な中年男だが、料理の腕にはかなりの自信があるようで、しかしながらどこか空虚で将来的なヴィジョンもまるでないように見える。

 フレンチ・レストランでの面接の際、何かと尊大な態度で自らの料理への自信とこだわりを饒舌に語り尽くすが、いざ「この店の料理をどうしていきたいか(店のために何が出来るか)」という将来的な具体案を問われると、一方的な自分語りに終始していたときの勢いとは打って変わり、お茶を濁すばかりで、明確な返答をすることが一切出来なくなってしまう。

 松岡は、人一倍料理に対するこだわりや独自の考えを持っているようで、実は恐ろしく空っぽの人間なのだ。料理を生業としているのも、たまたまそれが人並み以上に出来る社会的手段(技術)だったから、というような薄い動機しかないのではないか? と思わされる。

 料理教室の生徒たちとのやり取りでも、レストランの面接でのやり取りでも、松岡は自分以外の人間(つまりは他者=社会)にはほとんど興味がなさそうに見える。相手側からの質問などに対しては、常に気のない返事か中身のない(その場を取り繕うだけの)空疎な会話しか出来ず、饒舌になるのは一方的な自分語りに徹するときだけ、というような印象が強い。

 自宅で妻子と食卓を囲む際も、息子に対して「部活は続けているのか?」といった何気ない会話を試みるものの、それも一方的な空疎なものでしかなく(つまりは形骸化した「家庭的な会話」を上滑り的に発しているだけで)、そこから家族の団欒的なコミュニケーションへと繋がることもなく、主人公と妻と息子がひとつ屋根の下でバラバラに存在しているだけ、というような荒涼とした家庭内の雰囲気が伝わってくる。そしてこの妻も息子も、やはりどこか狂っているのだ。

 一見すると淡々と平穏に生きているように見える松岡も、自身と他者(妻子含む)とのズレの中で、人知れず(おそらく自覚すらなく)ストレスをどんどん溜め込み、同時に心の内は常に空っぽで、本心では立派なフレンチ・レストランのシェフになりたいと思っているが、それも自身の至らなさゆえに叶わず、未だに小ぢんまりとした料理教室の講師の身に留まっている。彼はまさにミドルエイジ・クライシス真っ只中の状態にあると言え、その彼が狂いながら暴走すると共に、彼の周りの人間も環境もそれに呼応するかのように狂い、歪んでゆく。

 劇中で交わされる会話の尽くに「厭さ」が充満していて、犯罪映画や幽霊譚としての「恐さ」もイヤというほど味わわされ、それらが全て底なしの体温のない「虚無さ」の中で展開される。ダークサイドな黒沢清スタイルの冷酷に尖った旨味が、これでもかと贅沢に凝縮された本作だが、しかしそれでいて鈍重さ、冗長さ、あるいは無駄に盛り過ぎている印象が一切なく、不可解な不条理劇でありながらも、劇中では常に「起こるべきことだけが起きている」という必然性を感じさせ、最初から最後まで隙がなく、ビシッとタイトに切り詰められた仕上がりになっている。

 全体的に短めな尺の中で、ワンカット長回しで撮っているシーンがいくつか際立っているが、これが尽く「無駄をなくす(省略する)ためのワンカット長回し」という印象で、特に犯罪映画ではよく見る死体を埋めるシーンで、まさかあのような省略と移動をワンカットの流れで見せてしまうとは驚いた。本来ならば見せるべき死体を埋める作業の画を丸々省略し、その後の見せずともよい移動の画を長回しで見せるのだが、これが見事に端的でスッキリした印象をシーン全体に与えている。

 さらに驚いたのは、黒沢作品らしい演出として、過去作でも度々「幽霊の姿をハッキリと見せる」というポリシーを貫いている印象が強かったが、今作ではその真逆の演出を極めてシンプルな手法で端的に見せており、これがまた絶妙に恐ろしいシーンになっているのだ。そしてこれもまた先述したワンカット長回しと同じく、「省略の巧さ」が映像的面白さに直結しているようなアイディアの勝利と言えるシーンで、ベテラン監督の論理的に冴え渡ったテクニックを感じさせる。

 実を言うとセルフ・リメイク版『蛇の道』(2024年)は、自分としては非常に物足りなく感じたのだが、それはダークサイドな黒沢清スタイルを過度に期待してしまったからで(98年版『蛇の道』はまさにそのダークサイドな魅力に満ちた作品だった)、その過度な期待がまさか同年の『Chime』という全く別角度の作品で満たされようとは思わなかった。

 もちろん、黒沢作品の魅力も多面的であるので(ダークなものばかりがメインではないので)、単に私が映画に求める要素がどこまでもダークなものに偏っているというだけの話なのだが、少なくとも私と同じように、「恐さ」「厭さ」「虚無さ」に振り切った黒沢作品を好きだというタイプの人には、本作『Chime』はこれぞまさにという一本なので、激しくお薦めしたい。

 

(2024年8月5日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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