第231回『間違えられた男』

ヒッチコック流ハードボイルド

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『間違えられた男』
(The Wrong Man)
1956年:アメリカ
監督:アルフレッド・ヒッチコック


 『岩窟の野獣』(1939年)も、「ヒッチコックらしさ」からは大幅にかけ離れた要素を持つ異色のヒッチコック作品であるが、本作『間違えられた男』は、それよりもさらに異色の「ヒッチコックらしくない」ヒッチコック作品と言えるかもしれない。

 まず冒頭、本編に入る前に逆光のシルエット姿でヒッチコック本人が現れ、「これは実話を元にした作品で、これまでの自分のサスペンス作品とは違った現実的な恐怖を扱っている」というようなことを前口上として強調する。この時点で既に他のヒッチコック作品とはかなり異質だ。

 ニューヨークのナイトクラブ専属の楽隊でベーシストを担当している主人公マニー(ヘンリー・フォンダ)が、たまたま連続強盗犯に顔が似ていたことから誤認逮捕され、不運が重なってあれよあれよという間に冤罪のまま裁判にかけられ人生が狂っていく……という内容。マニーはナイトクラブのミュージシャンではあるが、派手さは一切なく、酒もやらず、たまに競馬を嗜むくらいの、信心深く慎ましい典型的な「オネストマン」だ。多少の借金などはあり、余裕のある暮らしぶりとは言えぬが、妻と二人の子供に囲まれ幸せに暮らしている。

 そんな何の罪もない真面目な好人物が、偶然、連続強盗犯に顔や背格好が似ていたことから通報されてしまい、身の潔白も証明出来ぬまま、警察署までの任意同行、尋問、留置所、拘置所、保釈を経ての裁判……と為す術もなく連続強盗犯に仕立て上げられてしまう。マニーは何とも運の悪い男で、顔や背格好だけでなく筆跡まで強盗犯のものに似ていたり、また強盗事件当日の彼のアリバイの証人となる人物が既に死んでいたりと、とにかく悪い方、悪い方へと事が運んでしまう。

 そしてついには妻のローズ(ヴェラ・マイルズ)が、夫の冤罪事件での重圧に耐え切れずに精神を病み、「向こう側の世界(月の裏側のような闇の世界)」から帰って来れなくなってしまう。抵抗する術もなくあれよあれよと強盗犯に仕立て上げられてしまう主人公視点の恐怖もさることながら、彼の妻がどんどん狂っていくその不条理な展開には、胃がヒリつくような恐怖を覚える。

 ローズが狂い始めるきっかけこそ夫の冤罪事件には違いないが、しかしそれ以前から、一見幸せそうに見える家庭生活の中で、彼女が生活苦への不安や夫への何気ない不満などを心の奥底に無自覚的に蓄積させており、それが冤罪事件の過剰なストレスを発端に一気に発露したように捉えることも出来、そういう点も含めてどこまでも救いのない話である。

 ヒッチコック自身が前口上で強調しているように、実話ベースの作品だからか、本作は終始淡々とした乾いたドキュメント・タッチが徹底されており、ヒッチコックお得意のサスペンス的な仕掛けやスリラー的な畳み掛けもほぼ皆無に等しく、また、ロマンスやユーモア、シニカルな会話の応酬といった従来のヒッチコック作品によく見られる要素もほとんど排除されている。

 四角四面のかなり固めで落ち着いた画作りが為され(二ヵ所ほど、ヒッチコックらしいエキセントリックなカメラワークを用いたカットがあるが)、エモーショナルな演出などもほとんどなく、話の内容のその不条理さ非情さも相まって、ある意味でヒッチコック流のハードボイルド作品とも言える仕上がりとなっている。

 私が「ヒッチコックらしい」と定義する作品は、例えば『三十九夜』(1935年)や『裏窓』(1954年)といった作品であるが、そこを軸に「ヒッチコックらしくない」と思うのが、先にも挙げた『岩窟の野獣』やこの『間違えられた男』だ。「ヒッチコックらしい」作品が素晴らしいのはもちろんだが、ヒッチコックの巨匠としての凄さは、たとえ「らしくない」作品においても、「らしい」作品に負けず劣らずの傑作を生み出せるその職人的な的確さを有した手腕にある。

 『岩窟の野獣』も『間違えられた男』も、そうと知らずに見たら、まずヒッチコック作品だとは気付かないのではないかと思えるほど「らしくない」作品だが、しかしながら、『岩窟の野獣』は潜入捜査もののバイオレンス・アクションとして、『間違えられた男』は平凡な男が強盗に間違われ奈落の底に落ちていく(ある種の)ハードボイルド作品として、やはり圧倒的に面白いのである。

 私としてはむしろこの「らしくない」作品(ヒッチコックがそのお得意の手法を尽く封印した状態で生み出した作品)の方が、「らしい」作品よりも驚かされる。

 「らしくない」作品においてもその手腕の鋭さを発揮出来る、ヒッチコックの映画職人としての技術力の高さに、ただただ敬服するのみである。

 

(2023年3月25日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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