第224回『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』

必要最小限の要素から引き出す最大限の面白さ

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『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』
(Invasion of the Body Snatchers)
1956年:アメリカ
監督:ドン・シーゲル


 徹底的に無駄なく切り詰めた必要最小限の要素で、抜群に面白い娯楽映画を作ることが出来る凄腕の職人監督としてのドン・シーゲルの腕前に度々唸らされてきたが、本作『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』もまさにそんな一本だ。

 ある田舎町に住む医師マイルズの回想で話が進行するスリラー仕立てのシンプルな侵略SFで、映像は常にこの主人公に密着し、寄り道などせずに起承転結の最短ルートをテキパキと進む。町の住人たちが自分の家族や近しい人物を「以前とはどこか違う。<あれ>は別人に違いない」などと言い出す事案が多数発生する。最初は何らかの精神不安が原因の集団ヒステリーではないかと思われたが、マイルズが知人の家で「謎の死体」(どこから現れたのか分からないが、どことなくその知人に似ていて指紋がない)に遭遇したことから、人知を超えた異変がこの町に起こり始めていることを覚り、独自の調査を進めるうちに、それが宇宙からの侵略であることに気付き始める……。

 1956年当時にどの程度の新鮮味やリアリティーがあったかは分からないが、現代の映画好きであれば、SFに特化したマニアでなくとも何十回何百回と見聞きしてきたような古典的な内容である。しかしながら、私が今まで見てきたどんな侵略SFよりも面白いとすら思える、恐るべき傑作だ。どこまでもタイトで無駄のない話運び、スタイリッシュに引き締まった画作りと編集の見事さ、派手さはないのにスリリングな緊張感を最後まで崩さない演出力、どれを取っても本当に素晴らしい。

 小さな町で起こる不可解な兆候に主人公が気付く導入部からグイグイ引き込まれ、侵略SFなのに特殊撮影は一切使わずに、必要最小限のアクションと会話劇だけで見事に危機的状況を作り出す。徹底して無駄なカットがなく、一つのカットは必ず次のカットにスムーズに連動し、会話シーンなどにも全く停滞を感じさせない。全てのアクションや会話は「次の出来事」へと導くために配され、寄り道やダレ場も一切なく、ラストへと向かってスリリングかつスピーディーに突き進む。

 SF的な小道具は「謎の死体」と「謎の繭」だけ。『地球最後の男』(1964年)と同じく、後のジョージ・A・ロメロのモダン・ゾンビ映画へと繋がるルーツ的作品の一つに数えられるのではないかと思われるが、侵略者に乗っ取られた人間の特殊メイクなども一切ないにも関わらず、人類がジワジワと侵略されつつある状況の、そのスケール感あるSF的恐怖を見事スクリーンに映し出している。

 ある意味、ほとんど会話劇だけでSF的状況を作り出しているとも言え、派手なアクションもなく、また、乗っ取られた人間たちが「宇宙人らしい」何かをハッキリと見せるわけでもない(身体的特徴の変化なども一切ない)。侵略された者は「人間的な感情がなくなる」という特徴は幾度となく台詞で説明されるが、そこで全くの無表情に演出するなどの大仰さ、わざとらしさがないのもまた絶妙な匙加減の演出力だ。低予算SF映画として、神懸った完成度だと言っても過言ではない。

 必要最小限の要素から最大限の面白さを引き出すことを徹底し、それを見事に作品に結実させているのが、ドン・シーゲルという監督の偉大さではなかろうか。本作『ボディ・スナッチャー』の2年後の作品『殺人走査線』(1958年)や、あるいはまた、最晩年の作品『アルカトラズからの脱出』(1979年)に至っても、そのストイックな職人的作品作りを徹底し、見事成功させている。

 『マンハッタン無宿』(1969年)、『白い肌の異常な夜』(1971年)、『ダーティハリー』(1971年)といったシーゲルの代表作の主演を務め、後にハリウッドを代表する大監督にもなるクリント・イーストウッドも、その作風の巧みさ器用さから察するに、シーゲルの影響をかなり受けているのではなかろうか。ちなみに、本作『ボディ・スナッチャー』で助監督を務めたのは若き日のサム・ペキンパーで、本作の共同脚本も書き、劇中にも端役でチラっと出演している。

 

(2023年2月10日)

プロフィール

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わがままコブラ
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1984年5月2日
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