第222回『ドッペルゲンガー』(2002年)

「理想の自分」との闘い

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『ドッペルゲンガー』
2002年:日本
監督:黒沢 清


 本作はタイトルそのままに、「ドッペルゲンガー」(自分そっくりのもう一人の自分を、自身や第三者が目撃する怪現象)をストレートに描いた作品である。

 黒沢作品の特徴の一つとして、幽霊の姿をハッキリと見せることへのこだわりが強くあるように思うが、本作においても、主人公の分身であるドッペルゲンガーを謎めいた存在として出し惜しみすることなく、明確な意志を持った一人のキャラクターとしてハッキリと登場させる。

 医療機器メーカーに勤める技術者の早崎(役所広司)は、人の脳波を読み取って稼働させる介護用人体(アームの付いた電動車椅子)の開発を進めているが、長年の研究の成果を出せずに完全にスランプ状態に陥っている。自信家で傲慢で気が短く、自身の研究の行き詰まりへの焦燥と怒りを同僚や部下にぶつけながら、同時に自分自身をも追い詰め、その精神をどんどん疲弊させていく。

 ある日、早崎の前に彼そっくりのドッペルゲンガーが現れ、早崎の生活に土足でズカズカと踏み込んで来る。このドッペルゲンガーは厳密に言えば早崎とは別人格だが、早崎の裡にある欲望や本音を、理性や道徳や社会的建前なしで、何ら躊躇せずにどんどん実行に移していく。

 ドッペルゲンガーの傍若無人な振る舞いに早崎は激しく憤るが、皮肉にもこの傍若無人な振る舞いのおかげで、何かと社会的な制約の多かった会社をクビになり、自分のやりたいように研究を進められる環境を手に入れることになる。さらには、研究のための資金や情報や助手の調達まで、このドッペルゲンガーが嬉々として請け負ってくれさえする。

 早崎は自身のドッペルゲンガーと相互依存的な関係性になりながらも、依然としてドッペルゲンガーの存在を忌み嫌い、その傍若無人さに憤るが、しかし早崎自身も次第にその地金が出始め、いつしかドッペルゲンガーの人格との境界線も曖昧になっていく。

 ホラー的要素よりはブラック・コメディー的な要素が強く、ラストにはカラッとした爽やかさすら感じさせ、元より変わった作風の多い黒沢作品の中でも、かなり風変わりなバランス感覚の上に成り立っている心地良い怪作である。しかし完全に軽妙洒脱なコメディーにしているわけでもなく、要所要所で唐突に挿入される暴力描写には、『CURE』(1997年)や『蜘蛛の瞳』(1998年)といった作品で見せるのと同じような、黒沢作品らしい乾いた寒々しさでゾッとさせるものがある。

 主演の役所広司は一人二役でベテラン俳優らしい見事な演じ分けを披露しているが、助演の永作博美とユースケ・サンタマリアの起用が思った以上に功を奏しており、作品全体のカラッとした爽やかさを生み出しているのは、この二人のキャスティングが大きかったのではないかと思える。

 自身の裡に宿る「歪んだ理想像」との対決(自身の「邪悪な欲望」と対峙しそれを乗り越える過程)を描いている点は、『ファイト・クラブ』(1999年)に通底するテーマ性を感じさせる。

 永作博美演じる人物の弟も自身のドッペルゲンガーに出会うのだが、その弟が直後に自殺してしまった理由は、自分の完璧過ぎる理想像に出会ったことで、自身の限界をハッキリと痛感させられ、虚無に陥ってしまったからではないか、というような見解を姉が淡々と語るシーンがけっこう重い。大きな成功を掴めぬ才なき人間が、「何者にもなれない自分」を受け入れた状態で生きて行くことの難しさを考えさせられる。そしてそれゆえに、ラストで「自ら社会的成功を捨てる」主人公の選択にも(爽やかな明日への希望を感じさせる描き方ながらも)、相応の重みが伴ってくる。

 本作は、「理性や道徳や社会的建前に逡巡することなく、大胆かつ器用に立ち回れる自分」という本当の自分とは違う「歪んだ理想像」としてのドッペルゲンガーが現れ、自身の不甲斐なさを痛感させられる(何者にもなれない自身への虚無感を抱かされる)恐怖を描く、という意味では、ある種のサイコ・ホラー作品とも言えるかもしれない。「自分とは何か」「自分とどう向き合うか」「自分の生き方をどう定めていくか」……人間にとって「自分」というやつほど厄介で恐ろしい存在はいないのである。自分を見失い、自分が自分でいられなくなったとき、「歪んだ理想像」としてのもう一人の自分が、心の闇の向こう側から不気味な笑顔でやって来るのだ。

 

(2022年12月19日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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